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漢宣帝の祥端における政治学
中谷, 由一
Editor(s)
Citation
Issue Date
URL
人間文化学研究集録. 2002, 11, p.53-64
2002-03-31
http://hdl.handle.net/10466/11728
Rights
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/
漢宣帝の祥瑞における政治学
部 谷 由 一・
はじめに
古代社会では自然の力ほど人間生活を左右したものはない。中国では,天においては自然現象
を虹蜆・祥雲・田光などに神秘化し,地においては鳳風・龍・麟麟・大禾などの想像上の動植物
を創出した。やがて人々は,君主が聖徳によって万民を統治したとき,天は吉兆となる現象を出
現させ君主を祝福・賛美すると考えるに至った。「鳳鳥至らず,河は図を出さず,写れ巳んぬる
かな」(『論語』子官海)とあるのも,祥瑞思想に基づく一例である。
周知のように,祥瑞思想が盛んになるのは前漢中期以後のことである。董仲斜は儒教の国学化
によって君主権の絶対化を図る一方で,災害異変が君主の行動を戒めるという「天謎説」によっ
て君主専制の抑制を意図した*’。この災異思想と祥瑞思想とは表裏一体である。すなわち出陣思
想は地震・旱魑・蜆・日食などの災害異変を天が下した為政者への謎責と考えるのに対して,祥
瑞思想は現実社会の安寧に天が祥瑞を下して為政者を祝福しているとする。弾琴も例外ではなく,
しば
「蓋し,災異は天地の戒めなり」(『漢書』宣帝紀)*2と,災異を畏れる一方で,「婁しば嘉瑞を蒙
り,菰に福福を獲たり」(同上)と,祥瑞の降臨を歓喜した。
「宣帝紀」に祥瑞の記録が頻出することはすでに多くの研究者によって指摘されるところであ
り,宣帝期に祥瑞が増加したのは断雲の権威を強化するためであったとする研究報告もある*3。
また,宣帝以外では祥瑞によって賜面した事例は数例に過ぎないのに対し,宣帝期には十一回に
のぼり,これが宣帝期における祥瑞の特徴となっていることも既知の事実である網。ただ,この
特徴について従前の研究では,「賜爵と祥瑞との関係には思想的事情以外にも何か別の理由があ
るのかも知れぬ」と疑問を提出するにとどまっている索5。祥瑞が賜爵と同時にあらわれたことの
意味には注目しなかったため,未だ宣帝期の祥瑞と賜爵の関係は解明されていない。このように,
漢代の祥瑞思想は思想史上の意義のみ考察されてきたきらいがある。
ところで,宣帝は前漢では特異な皇帝であった。宣帝は「灰随に断りて至尊に登る。閏閻に興
り,民事の出題を知る」(争訟伝)と,民間より皇帝となったために民衆の苦難を知っていたと
くる
いう。また,「三輔を周遍し,常に蓮勺の歯中に困しむ」(宣帝紀)と,彼自身が三輔を周遊して
困窮したこともあり,当時の世情に通じていたとも言われる。これは宣帝の政策を考える上で無
みのり
視できないことである。「蓋し聞く,農は興徳の本なり,今,歳登らず,已に使者を遣わし困乏
に振貸す」(同上)とは,民間で育った宣帝が農作物の収穫を配慮しながら農業政策を行ったこ
とを表す好例である。
農業政策を重視した宣帝が祥瑞を政治政策と結びつけたことに,どのような意味があるのだろ
うか。それを考察するには祥瑞記事とともに現れた社会・経済記事の検証が不可欠である。よっ
一53一
て賜爵をはじめとする祥瑞とともに記載された政策を分析することが,宣帝期に祥瑞が頻発した
ことを解明する糸口となろう。宣帝時代の祥瑞と政治の問題を明らかにすることは,三代の政治
思想と現実政治との関わりを解明することにほかならない。以下,宣帝時代に頻発する祥瑞の真
相を究明したい。
1.元康以降の祥瑞と士爵
元平元年(前74),昭帝は二十一才の若さで早世した。亡帝の後継者には,その摂政であった
窪光が,武帝の曽孫である劉病已を民間より擁立し即位させた。これが宣帝である。雀光は十干
即位後も引き続き摂政に任ぜられ政治の実権を掌握していた。地塁二年(前68),霊光は亮下し
たが,霊光一族はいずれも政治の要職にあった。ところが,宣帝は震光の死を好機として親政を
開始し,霊氏一族を重要なポストから排除しその権力を剥奪した。権力を奪われた霊氏は,地節
四年(前66),クーデターを謀ったが未遂に終わり,ここに二上は諌滅された。
親政以後,宣帝は常々「庶民の其の田里に安んじて歎息愁恨の心を亡くす所以は,政平訴理な
ればなり。我と此れを共にする者は,其れ唯だ良二千石か」(循吏伝)と言っていたとある。こ
れは地方長官に重点をおき,循吏・酷吏の官僚を用いて優れた者を抜擢するという宣帝の人事を
よく伝えている。この言が示すように,窪氏撃滅以後の聖帝の時代は優れた地方官を輩出した時
代であった零6。また対外的にも,零丁は母体創始以来の仇敵であった旬奴の二十邪曲干を心服さ
かがや
せ来朝させている。班固が「功は祖宗に光き,業は後嗣に垂れ,中興と謂うべし」(宣帝紀賛)
と,宣帝を内外に治績を挙げた中興の英主と称える所以である。
さて,下表はこのような治績を残した宣帝の元平元年から黄龍元年までの二十六年間に,祥瑞
と賜爵が同一記事にあるものを「宣帝紀」から抽出したものである。睡中の○はその年に祥瑞を
理由とした賜爵があることを示している*7。
表1
元平元年
本始元年
鳳皇
○
神学元年
神爵など
神降二年
輔導・甘露
本門二年
神爵三年
本館三年
神爵四年
本始四年
鳳皇
○
甘露・鶯鳳・三二など
○
出歯元年
鳳追
五鳳二年
地節元年
地節二年
○
五鳳三年
山皇
五鳳四年
地節四年
甘露元年
黄龍
甘露二年
鳳皇・甘露・黄龍など
○
甘露三年
鳳皇
○
元康元年
鳳皇・甘露・神爵
元康二年
神爵
元康三年
神妙
元康四年
鳳皇・甘露・玄稜など
〇一〇一〇一〇
地節三旧
一54一
甘露四年
黄龍元年
表によれば,震光が摂政をしていた元平元年より地節二年までの七年間,祥瑞の記録はわずか
三例のみで,しかも祥瑞によって賜爵されているのは本島元年の一例のみである。ところが,一
見してわかるように元康元年を境に祥瑞記録が増加するだけでなく,元年から四年まで連年に及
んで賜爵している。
実は地誌四年は霊氏一族の反乱があった年で,祥瑞記事が増加する傾向を示すが,それは窪氏
一コ口滅亡と一致する。そして神爵年間以後も多く祥瑞によって賜爵されているが,元康年間ほ
ど多くはないこともわかる。そこで,そのことを明らかにするために,以下,元康年間の「宣帝
紀」における祥瑞記事を引用し,元康年間の祥瑞における賜爵政策を検討する。
元康元年(前65)
さ き
三月,詔して曰く,「漁者に縁鍛i,泰山・陳留に集う。、甘露,未央宮に降る。朕,未だ先
帝の高高を章らかにし,百姓を協寧し,天を承け地に順い,四時を調序すること能わず。嘉
瑞を言直し,弦に祉福を賜わり,夙夜就競として,驕色有る靡く,内省匪解し,永く極むる
まこと
こと岡きを惟う。書に言わざるか。『鳳風,来儀せば,庶サ,允に譜す』(『尚書』益穫篇)
と。其れ天下の徒を赦し,勤事の吏の中二千石以下,六百石に至るまでに爵を賜い,中郎の
吏より五大夫に至るまで,佐史以上は二級,民は一級,女子には百戸ごとに牛酒,鰹寡孤独・
三老・孝・弟・力田は吊を加賜す。振貸する所,収むる勿かれ」と。
元康二年(前64)
三月,三二』・賛霜降旧するを以て,天下の吏に賜うには爵二級,民は一級,女子は百戸ご
とに牛酒,鰹寡孤独の高年は吊。
元康三年(前63)
三年春,鱒爵,高しば泰山に集うを以て,諸侯王・丞相・将軍・烈侯・二千石に金を賜い,
郎中言は吊,各おの差有り。天下の吏に賜うには爵二級,民は一級,女子には百戸ごとに牛
酒,鰹寡孤独の高年は吊。
元康四年(前62)
三月,詔して曰く,「乃者に禅出猟彩iなるもの,万を以て数え,長楽・未央・北宮・高寝・
甘泉の泰山の殿中及び上林苑に集う。朕の不逮にして徳厚に寡きも,寵しば嘉祥を獲るは,
朕の任に非ず。其れ天下の吏に賜うには爵二級,民は一級,女子には百戸ごとに牛酒。三老・
孝・弟・力田に吊を加浸するに人ごとに二匹,幽幽孤独は各おの一匹」と。
記事を概観して,まず気づくのは,元年・四年では詔が引用されているが,二年・三年にはそ
れがないこと,元年と四年では「念者」と以前の祥瑞が詔の中に引用されていること,その祥瑞
は「二二」・「甘露」・「神爵」の三者が多いことなどである。これらの祥瑞は宣帝期では,元
一55一
号として用いられており,宣帝がいかに祥瑞を重要視していたかが窺える。また,この四年間で
は爵位は官吏に二級,民に一級が賜与されている。さらに,志和に付随して「女子には百戸ごと
に牛酒」・「録寡孤独の高年は吊」の賜物があった。これら四年間の記事における共通点から,
これらの政策が憧民政策という点で政治的目的が同じであったことがわかる。
祥瑞記事のうち,詔が引用されている元年と四年では祥瑞に対する宣帝の意識が反映されてい
る。注目すべきは祥瑞に対する宣帝の姿勢である。元康元年の詔では,「夙夜就競として,驕色
有る靡く,内省匪解し,永く噛むること岡きを惟う」と謙抑な態度を示している。同様に四年の
詔にも「下しば嘉祥を獲るは,朕の任に非ず」とあり,祥瑞がもたらした恩徳は宣帝自身に過分
であると謙遜している。
祥瑞の出現は一般的に慶事であり,祥瑞の出現は天が統治者に与えた祝福である。しかし,宣
帝はそれを自らの徳の宣伝に利用することなく(詔文上のため儀礼的・形式的なものではある
が),詔において天から宣帝が身に余る恩恵を受けたと表示することにより祥瑞を賜爵の理由と
した。宣帝は唱導を行う慶事として祥瑞を活用したのである。ここに,祥瑞は爵位*8を天からの
祝福として吏民に分与するための正当な理由となっている。
ではなぜ,元康年間においては,毎年賜爵を行ったのであろうか。その理由として,地節年間
に流民(都市に居住しない流浪の民)が郡国内へ帰還したことを賜爵の契機としたと考えられ
る。
地節三年(前67),「今,膠東の相成,労来して怠らず,流民自ら嘉するもの八万壷口。治底面
の致有り」(王成算)と,構成は流民八万詠口が自ら申告してその郡県の民となったことを報告
している。当時すでに王成の報告を疑問視する声もあった串9。しかし,たとえ八万の流民が誇大
な数値であったとしても,少なくとも膠東郡に相当数の流民がおり,彼等が郡国に帰着したであ
ろうことは間違いない。ましてや全国におけるその数は推して知るべきであろう。流民が帰着す
れば当然郷里内に居住する。賜爵は里内に居住する民を対象としていたから,郡国に帰着した流
民は爵位を受けることができた。元康年間の賜爵は,郡国に帰着した民に爵位を与える政策だっ
たのである。
また,同じく地節三年に宣帝は「流民の還帰する者は,公田を仮し,種・食を貸し,且つ算訳
すること勿かれ」(宣帝紀)と,郡国に帰還した流民に公田を貸与し,種籾を心し,また税金を
治めさせなかった。これは流民に生活手段を得さしめた流民・貧民対策であった。
しかし,霧光の存命中には,公田を貸与する政策は行われなかった。「今,丞相事を用い,県
官締れを信じ,尽く大酒軍の時の法令を変易す。公田を以て貧民に賦与し,大将軍の過失を発揚
す」(霊光伝)は,宣帝が霊光の法律を変え,公田を貧民に貸与したことに対して不満を述べた
ものである。ここでは凝血が宣帝の政策に抵抗を感じていたこと,つまり,流民に公田を与える
ことは霊氏の政策ではなかったことが窺える。宣帝と霊氏の流民政策における相違は明らかであ
る。
興野一族が政治の中枢にあった地節年間までには,祥瑞を理由とした賜爵の機会は一度しかな
かった。祥瑞と賜爵についても両者の考えが相違していた。しかし,鉄面一族と宣帝の対立はそ
一56一
の諌滅により解消され,宣帝は独自の政策を執ることができた。その手始めが元康年間の詔令で
ある。
祥瑞を理由とした賜爵は,民衆に対して有効な手段であったに違いない。爵が与えられたこと
によって,郷里内で有爵者・無爵者の差を埋めることができ,民に宣帝の名望が伝わることが期
待されるからである。宣帝は元康元年の詔において,「鳳鳳,来儀せば,庶サ,允に譜す」*’o
(『尚書』心匠)の一節を引用し,台風が現れて容儀を正せば,百官の顧たちもまことに和らぐと
述べている。宣帝がこれを引用した意図は,祥瑞が降臨することによって,人々が和気あいあい
とすることにあった。そして人々を実際に和合させる手段が,詔にある「女子百戸牛酒」である。
それは民に百戸を単位として牛肉と酒を振る舞うことで,人々がこの「牛酒」を好んだことは想
像に難くない*n。これがあった元康年間の四年間全ての詔令は,ただ祥瑞が現れたという慶事を
宣言して賜評しただけではない。民心を向上するために祥瑞・賜爵と「牛酒」などの賜物との相
乗効果を期待した政策であった。それはまさに旧臣の生い立ちに裏打ちされたものであるといえ
る。
2.穀価と祥瑞
現代であれば,我々は詳細な統計により収穫の変化をたどることができる。しかし,中国古代
では「認れ陰陽の感,物類相応し,万事尽く然り」(食貨志)と,陰陽の変動はすべての物に影
響を与えるとし,「幽艶は,陰陽の運なり,人力に非ず」(『塩画論』水国篇)と,穀物の豊作・
不作にも陰陽思想を結びつけて考えた。穀物の収穫は好調となるときもあれば不調となる時もあ
る。人々は収穫高の多寡を陰陽の二元論によって理解した*’2。
この陰陽思想は祥瑞思想の思想的基盤となっている。董仲紆は雪渓に献策して,「陰陽出して風
みの
雨時あり,群生和して万民殖え,五穀勃りて明木茂り,天地の間,潤沢を被りて大いに豊美し,
四海の内,盛徳を聞きて皆な僚臣し,諸福の物,致すべきの祥,畢く至らざる莫し」(董仲紆伝)
と,陰陽が調和すれば五穀が豊穣し,自然状態がよくなることにより祥瑞が現れるとした。豊作
の時には君主の徳が陰陽を調和したことにより,祥瑞があらわれると人々には解釈されたとして
も不思議ではない。
さて,前節では,流民が地節年間に郡国へ帰還した事実を示した。流民の帰還を促したことに
は人々の生活に密接に結びつく穀物の収穫の影響が大きかった。「食貨志」に「昭帝の時に至り,
ひら
流民梢く還り,田野益ます開き,頗る蓄積有り」とあるように,亡帝後期より流民が田野を開拓
し,穀物の蓄積があったことが知られる。すなわち,宣帝期は昭帝後期の情況を受けて,収穫が
安定していたと予想される。そこで,塩海期の祥瑞と穀物の収穫高の関係によって,経済状況と
祥瑞の関わりを見てみたい。
みのり
このごろ年,豊かなり。穀,石ごとに五銭。(宣帝紀,元康四年)
この記事は,元康四年(前62)は豊作で穀物の価格が一石五銭になったという記録である。穀
一57一
物価格は高騰時・下落時にしばしば「本紀」に記載される。宣帝の後を受けた元応の一時期,飢
餓の状態における非常時に穀物価格が三百銭であったとの記録もあるホ13。前漢時代における穀物
の標準価格を確定することは容易ではないが,前漢初期の穀物価格は低くとも豊作時をおよそ十
銭,平常時を三十銭とし,元帝・成帝期における平常時の穀物価格は「百銭を下廻っていた」と
される棚。すると,元康四年の「石ごとに五銭」はいかに暴落していたかがわかる。換言すれば,
元康四年に穀物価格が五銭であったとはそれだけ穀物が豊作で余剰していたということである。
そして,翌年,宣帝は神爵元年(前61)三月,宣帝が河東に行幸し,白土(土地の神)を祀っ
た時に次の詔を発した。
まつ
三月,河東に行幸し,韓土を郊る。詔して曰く,「朕,宗廟を承け,戦戦栗栗として万事を統ぶ
ることを惟うも,未だ細細18齢ならず.乃ち元康四年,・蕪蛾ジ綱に:纐,…鈎編
りて集い,金蔑元茎‘,函徳殿の銅池中に産し,九真,…奇轍を献じ,南郡,白滋・}威漁を
獲て宝と為す。朕の不明,珍物に震え,筋躬斎精し,祈るに百姓の為にす。東のかた大河を
煉り,天気清静にして、神魚,河に舞う。万歳宮に幸し,:響爵,翔集す。朕の不徳,任ずる
こと能わざるを催る。其れ五年を以て神璽元年と為せ。天下の盛事の吏に賜うこと爵二級,
民は一級,女子は百戸ごとに三岳,鰹寡孤独の高年は吊。振貸する所の物,収むる勿かれ。
よ
行きて過ぎる所は,田租を出す母かれ」と。(宣帝紀,神曲元年)
これは元康年間に祥瑞が多かったことを理由に神爵と改元した時の詔である。一見してわかる
ように,神垣元年に賜回する根拠となった祥瑞の多くは,実際には神爵元年のものよりも元康四
年のものが多い。もちろん,元康三年,神道四年,甘露二年などのように,祥瑞を翌年に宣言す
ることは必ずしも珍しくない。従って宣帝が元康四年の祥瑞を翌神爵元年に宣言したことは特異
な例ではないだろう。しかし,この神爵元年の詔には,元康年間に記録されている祥瑞のみなら
ず更に新たな祥瑞が付加されていることは特筆される。「嘉穀亡母」,「金芝九茎」,「奇獣」,「白
虎・威鳳」,「神魚」がそれである。
さて,神爵元年の詔にある祥瑞のうち特に注目されるのは,「嘉総藻稜,郡国に降る」である。
これは穀物を神秘化した祥瑞とするのが一般的な解釈である。この「嘉穀密密」とは,「宣帝紀」
神爵元年服慶注引く「玄稜,黒粟なり」とあり,珍しい黒い籾殻のついた穀物の意味と解される。
また,『芸文類集」巻八十五引く『古今注」には「宣帝元康四年,黒黍雨る」とあって壌15,この
黒黍も黒粟と同様に黒い穀物と考えられる。詔の「降る」は,『古今注」の「淘る」と同じく,
郡国に雨の如く降ったという意味となる。つまり文字通り解釈するならば,「嘉穀玄稜,郡国に
降る」は,郡国に珍しい黒い穀物が天より降ってきた祥瑞という意味になろう。
そもそも穀物が天より降ってくるなどというようなことは現実にはほとんどありえない。この
祥瑞は現実のある状況一豊作を神秘化するものではなかったか。すなわち,「穀,石ごとに五銭」
となったほどの豊作を,「嘉穀玄稜,郡国に降る」として神秘化したものと考えられる。神爵元
年の詔において,宣帝が元康四年の豊作をつとに意識していたことは,この祥瑞を詔文内で最初
一58一
に述べたことからもわかる。そこで,詔において宣帝は豊作を祥瑞として宣言したのであろう。
ところが,現実には宣帝は穀物の豊作を手放しで喜ぶわけにはいかない。「宣帝即位し,(中略)
百姓安土(堵)し,歳り戯しば豊穣す。穀,石ごと五銭に至り,農人利少なし」(食貨志)とあ
るように,宣帝期は時折豊作に恵まれたが,穀物が余剰したために価格があまりにも下落して農
民の利益を損ねた*’6。「宣帝紀」に記載される穀物価格が五銭であることから,農民の利益が減
少したというのは元康四年のことである。かつて九年前の本始四年(前70)に「農は興徳の本な
り」と唱えた宣帝にとって,穀物価格の下落による農民利益の損失は,憂慮すべき社会問題であ
った。
そこで宣帝は農民を救済しようと,豊穣を祥瑞と宣言し,賜爵をはじめとする政策を行う理由
としたのであろう。穀物の価格が下落すれば農民の利益が少なくなることは明らかである。更に
翌神爵元年,前帝は,「振貸する所の物,収む勿かれ。行きて過ぎる所は,田租を収む母かれ」
と,賜爵と共に政府より貸し付けた物の延貸や田租の免除を実施したのである。
五穀の豊穣は大いに歓迎すべき状態なのであるが,しかし,生産過剰が穀物価格の下落を引き
起こし農民の利益を損なうという結果をもたらした。宣帝は農民が利益を損じたため生活上の負
担を軽減し,さらに豊作を祥瑞として宣言することによって民の生活不安を取り除こうとしたの
である。
要するに,「嘉穀玄稜,郡国に降る」は,当時の農業生産が良好である状況を印象づけるため
であり,為政者が民のために政策を行う好材料として採用したのである。これには政策の宣伝効
果もあったろう。この元康四年は飢謹の時期とは違い,人々の社会不安はまだ低かったと考えら
れる。宣帝はこの穀価下落で農民の利益が減少し生業に対する意欲が下降することを懸念して,
元康四年の豊作を「嘉穀玄稜,郡国に降る」の祥瑞と宣言した。このことにより,翌神爵元年の
免税措置は正当な政策として意味を持った。農民の不安を解消するために祥瑞を宣言した宣帝の
政治姿勢が,神爵元年の詔に表れていたと言えよう。
3.晶晶の勧農政策と祥瑞
ところで,吊出期に「虚言」が頻出したことについて,幅広は「案ずるに宣帝は武帝の兵を用
うる労擾の後に当り,昭帝以来民に休息を与え,天下和楽す」(『廿二史筍記』両漢多軸風)と,
武帝の戦乱の後を受けて昭帝時代から民を休ませたことに一因があると言う。宣帝時代には前時
代の状況を受けて勧農政策が行われた*’7。その効果は前節に見たように穀物価格が下落するほど
の豊作に表れている。
さて,民に対するいかなる施策が祥瑞を発生せしめるのであろうか。次に挙げるのは,頴川郡
内がよく統治されたことにより祥瑞が現れたという報告である。
郵亭長官をして皆な鶏・豚を蓄し,以て鰹寡貧窮の者を謄わしむ。(中略)及び耕桑に務め,
殖財を節用し,種樹を蓄養し,穀を馬に食ましむるを去る。(中略)覇,外寛暗明なるを以て
吏民の心を得,戸口歳ごとに増し,治,天下第一と為る。(中略)前後八年,郡中底いよ治ま
一59一
る。是の時,1麟、……・騨…癖::,干しば郡国に集い,頴川尤も多し。(黄覇伝)
黄覇は頴川郡に二度派遣され,二度とも郡の統治に高い実績を挙げたことで知られる「循吏」
の代表である串18。黄覇が行った勧農政策とは,郵亭の郷官に鶏・豚を飼わせて録寡貧窮を援助し,
また農耕を奨励し支出を節約し,種籾や樹木を蓄えさせ,馬に穀物を与えることを禁止するなど,
極めて具体的なものであった。黄昏の勧農政策は功を奏し人心を得て,人口は年を重ねるごとに
増加し,治績が天下第一となったといわれる。
このころ,「鳳皇・神爵」が郡国各地に集い,頴川郡は最もその数が多かった。そこで,「(神
爵四年)夏四月,頴川の太守黄覇,治行の尤だ異なるを以て中二千石に潰す。爵関内侯・黄金百
斤を賜う。及び頴川の吏民の行義有る者,爵,人ごとに二級,力田には一級,貞婦鬼女には吊」
(宣帝紀,神町四年)と,宣帝は早早と頴川郡の民に爵位を賞与したのである。
「黄覇伝」にある「是の時,網子・神爵,数しば郡国に集い,頴川尤も多し」とは頴川郡の官
吏が中央に報告したものであろう。この地に祥瑞が最も多かったことは,黄覇が行った具体的な
勧農政策は功を奏して収穫が向上し,それにつれて民生が安定し人口も増加したため,頴川郡は
豊かな土地になったことを言うのである。すなわち,このような様相を呈していれば仮に黄覇が
祥瑞を宣言したとしても,人々は祥瑞を受け入れることができただろう。換言すれば,吏民に経
済的安定とともに精神的安寧があったと言うことにほかならない。つまり,頴川郡では農業生産
による民生の向上によって人々に祥瑞を受け入れる気分が形成されたと見ることができる。
ところが,五鳳年間を境に黄覇に大きな変化が見られる。「黄覇伝」で,彼は「五鳳三年(前
55),丙吉に代わりて丞相と為り,建成侯に封ぜられ」ている。かつては「外寛内明なるを以て
吏民の心を得,丞相と為るに及び,戸口歳ごとに増し,治,天下第一と為る」と称えられた黄覇
であったが,その後「覇,材民を縛むるに長ぜしも,丞相と為り,綱紀号令を総ぶるに及び,風
采,丙(吉)・魏(相)・干定国に及ばず,功名は郡を傷むるより損す」(同上)とあるように,
丞相となってからは郡統治時代ほどの治績を挙げることにはならなかった。その結果,「京兆サ
張敵の舎の日雀,丞相府に飛罪す。覇以て神国と為し,議して以聞せんと欲す」(同上)と,鵬
雀を神爵が出現した祥瑞として自ら宣帝に上奏しようとしたにもかかわらず祥瑞としては認めら
れず,黄覇は官吏の嘲笑を受けることとなった串’9。黄覇が五鳳年間に行った治績は,神爵年間の
ように祥瑞が受容されるほどの吏民の支持を得られなかった。このことは,祥瑞が山並の支持な
くして容認されないことを意味するにほかならない。
農業経済が順調であった宣帝期において,「黄覇伝」に見たように,為政者が生活を安定させ
ることと,「吏民の心を得」るという人々の支持を得られていることとが,祥瑞を受容する社会
気分を促進させたに違いない。宣帝期の祥瑞は吏民の支持があり生活不安が少なかったからこそ,
政策として成功したのである。
趙翼は,「二帝,本より符瑞を喜び,臣下,遂にその事を附会する無きを得んや」(『廿二番筍
記』両漢多鳳風)と,臣下が為政者の歓心を得るために祥瑞などをこじつけたのであろうとして
いる。趙翼の価値観では,祥瑞はあくまで非現実な事象として考えられた。しかしながら,宣帝
一60一
が行ったように,祥瑞に賜爵や「牛酒」や租税の減免などの付加価値をつけ,祥瑞が天からの恩
恵を民に分かつこととしてそれらの爵位や賜物が与えられれば,祥瑞の出現は現実的な価値と結
びつき,民間においても祥瑞を吉事として,天より授かった恩恵と認識しただろう。
おわりに
宣帝期に祥瑞の発生する条件を形成していたのは,まず宣帝期は農業生産が順調だったことで
ある。それは民の生活を安定させ,地節年間に見られたように郡国内に居住しない流民が郡国に
帰還することを可能にさせた。また,人々に精神的余裕をもたらし,為政者が祥瑞を宣言しても
それが受容できるほど民心を高揚させていた。
ただ,農業生産の安定は逆に新たな社会上の問題を発生させた。ひとつの問題には,流民が帰
還したことにより民には有爵者・無爵者の身分差が生じたことである。この問題の対策として宣
帝は詔によって,祥瑞という慶事を全国に宣言し賜爵を行った。賜爵には爵位身分の格差を平均
化する目的があり,その理由づけに祥瑞を用いた。さらに人々の歓心を集めた「女子百戸牛酒」
や税の減免,鰹寡孤独に絹を与えたことは,物質的な恩恵を与えるという一種の福祉事業として
機能した。
今ひとつの問題は,穀物の余剰によって穀物価格が元康四年に大幅に下落したことにより,農
民の利益が少なくなったことである。この対策として宣帝は,元康四年の豊作を「嘉穀町彫」の
祥瑞として宣言し,賜杯とともに税の免除を行い,人々の生活上の負担を軽減させた。祥瑞の宣
言は豊作がもたらした社会の高揚した雰囲気を損ねることなくそれを持続させたのである。
宣帝期に祥瑞が発生したことには,黄覇に代表される郡国の太守による農業政策の振興が大き
く寄与した。彼等が農業生産を加速させ,民生の安定を持続させた。これによって民が為政者を
支持することとなり,祥瑞を受け入れる気分を醸成させたといえる。
宣画期において祥瑞は決して非現実的なものとして解釈されたのではない。賜爵と軍事や吊な
どの賜物も祥瑞と共にあることで政治的効果がより高められた。それには,宣帝期の社会風潮が
祥瑞の存在を容認できる状態にあったからである。祥瑞は社会の良好な状態の象徴であるから,
官にあっては,社会・経済の良好な時期に必要な政治政策を行うための動機に用いられ,民にあ
っては,数々の物質的恩恵を授かることにより,吉事として認識されるに至ったのである。
このように,宣帝期の祥瑞は経済状況の良好な状態を基調として現れたものであった。災異思
想は自然災害による損害や社会の不平不満の責任を君主に負わせることによって,災害時に君主
に対して必要な措置を要求する消極的な思考であった。対して祥瑞思想には,経済状態の好調・
豊穣による人々の精神的余裕を活用して,祥瑞を政策の理由とすることにより,為政者が能動的
に施策を行おうとする姿勢が窺える。宣帝にとって祥瑞は社会の安定を持続させる政治学として
機能していたのである。
註
*1災異思想の研究史については,釜田啓市「前漢災異説研究史」,『中国研究集刊」25号,1999
一61一
年を参照。
ホ2以下,特に出典を記さないものは全て『漢書」のものとする。
寧3松島隆裕「前漢後期における祥瑞の一考察一『漢書』宣帝紀を中心に一」,『倫理思想研究』
2号,1977年,82頁を参照。祥瑞の研究は災異思想の研究とともに研究されてきた。詳しくは,
出石誠彦『支那神話伝説の研究』,中央公論社,1943年,安居香山『緯書と中国の神秘思想』,
平河出版社,1988年,串田久治『中国古代の「謡」と「予言」』,証文社,1998年を参照。
*4 二二の研究については,西嶋定生『中国古代帝国の形成と構造』,東京大学出版会,1961年,
籾山明「爵制論の再検討」『新しい歴史学のために』178号,1985年,楠山修作「女子百戸牛酒
について」,『中国史論集」,朋友書店,2001年を参照。
零5 栗原朋信「両漢時代の官民爵について」上,『史観』,22・23号,1940年を参照。
拳6 内藤湖南『支那上古史』,内藤湖南全集10,筑摩書房,1969年,208・9頁。西嶋定生『秦漢
帝国』,講談社学術文庫,332∼336頁。
ヤ 祥瑞による賜爵回数の十一回のうち一回は,神爵四年の記事と重複するため省略した。神爵
四年には祥瑞を理由とする影野が二度ある。この記事について,詳しくは第三節を参照。
*8 二代において爵位を民衆に与えたことは『漢書』に散見し,その制度は「百官公卿表」に記
載されている。漢代の爵制度は一種の身分制であり,その爵位は二十等ある。二十等爵のうち,
第八級の二乗までが民衆が受けることのできた「民爵」であり,それ以上は官吏が受けること
のできた「官爵」であった。詳しくは前掲注4論文を参照。
寧9 「前の二二の相成,偽りて自ら増加し,以て顕賞を蒙る,是の後,俗吏,虚名を為すもの多
しと云う」(循吏伝)と,ある者は王成が流民八万余丁を治めて功績があったことは,実は偽
って流民の数を増加して報告したものであるといい,官吏の中には虚偽の報告で名を挙げた者
も多かったようである。
*lO顔師古の注には,「奏楽の和,鳳皇,その容儀を以て来下し,百獣,弔い率いて舞踏す」と
あり,九二(九つの籍の楽章)がすべて終わり,鳳鳳が雌雄二匹そろって威儀を正し,また
「庶サ允に譜す」を「回れ乃ち衆官の長,信に皆な和輯す。故に神人交暢す」として「庶サ」
を「衆と官の長」,つまり百官の長としている。顔師古によれば,鳳風が飛来することによっ
て,百官の長たちが本当に和らぎ安堵したという意味になろう。
ホll前掲注4楠山論文を参照。
索12影山剛「漢代の経済観について」和田博:士古希記念東洋史論叢編纂委員会『和田博士古希記
念東洋史論叢』,講i談社,1961年を参照。
療13二二即位,天下大水,関東郡十一尤甚。二年,斉地飢,穀石三百余,民多餓死,瑛邪郡人相
食。(食貨志)
ホ14前漢の穀価については佐藤武敏「前漢の穀価」,『人文研究」18−3号,1967年に詳しい。また,
西田保「二代の漕運と常平倉の設置」池内宏編『池内博士還暦記念論叢」所収,座右宝刊行会,
1940年目同611頁を参照。
癖15また『芸文類集」巻八十五注引く『古今注」に,「地節三年,黒粟雨る」とあり,同「宣帝
一62一
元康四年南陽に豆雨る」とある。
*16漢代の田租はおよそ収穫の三十分の一であった。宣帝時代の算賦は一算百二十銭であり,及
び口賦は二十銭である。穀物価格の下落は農民に負荷となっただろう。
ホ17 「循吏伝」を参照。
*18然自漢興,言治民吏,以霧為首。(黄覇伝)
*19時京兆サ張敵舎鵬雀飛集丞相府,霧以為神雀,議欲以聞。敬奏覇日,(中略)長吏守丞対時,
臣敵舎有鵬雀飛止丞相府屋上,丞相以下見者数百人。辺吏多知鵬雀者,問之,皆陽不知。丞相
図議上奏日,臣問上計長吏守丞以興化条,皇天報下神雀。後知従臣傲舎来,乃止。郡国吏窟笑
丞相仁厚有知略,微信奇怪也。(中略)天子嘉納傲言,召上計吏,使侍中臨筋如倣指意。覇甚
悪。(黄覇伝)
一63一
西双宣帝的祥瑞声生与政治
Yuichi NAKATANI
中国古人相信祥瑞友生是君主被祝福的吉兆。在《汲弔》中,宣帝在位吋,与西汲其他皇帝相
比,有美祥瑞友生。与賜爵的記載最多。祥瑞与賜爵遠西介泥載了表明祥瑞不但与政治有美,而
且眼当吋経済也有根大美系。
宣帝元康年向,因祥瑞序生賜爵是宣帝力了稔定那些不断増加的元爵位人伯的身分。
祥瑞銀谷物生序有美。比如元康囚年,因力谷物半焼辻倹格下降,衣人減少了利益。干是宣帝
以ヰ1焼力祥瑞,実施了減税的政治措施。
没有人民的安定的活,祥瑞不会友生。当吋穎川郡守黄覇,使幼表政策成功,安定了人民的生
活。干是杁此郡佳出了祥瑞友生的扱告。遠件事情証明了由人民的安定而友生祥瑞。 祥瑞美系干
民生与政治。
遠祥, 以祥瑞力政治名目,宣帝把祥瑞思想尋入了政治。実昇思想是,昇常実害警告君主要嫉
正政治,反之,祥瑞思想是以衣並鑑済良好的状恣力祥瑞而実行政治.
一64一
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