Comments
Description
Transcript
582KB - 京都精華大学
京都精華大学紀要 第四十号 ― 185 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色 ――原作に描かれていない場面を中心に―― 岡 田 彰 仁 OKADA Akihito 1. はじめに 2. 志賀直哉原作「赤西蠣太」について 3. 伊丹万作の経歴とその時代の映画状況 4. 脚色として、映画としての「赤西蠣太」 (1) “名詞の羅列”の持つ意味 (2) 白猫と人物表現 (3) 描けなかった蠣太の恋 (4) 文語と口語にみる時代劇の近代化 5. 終わりに 1. はじめに 昭和初期には小説を基にした映画製作が流行し、それらは文芸映画と呼ばれ大衆から人気を 博した。それは日本映画のみならず、アメリカ映画でもその状況を垣間見る事が出来る。 例えば昭和 9 年 (1934 年 )10 月発行の「映画評論」に「映画と文学の交流」と題してこう書 かれている。 「最も日本に関係の深いアメリカ映画界を取り上げて見るに、 宮廷物が流行に後れ、 女王物が忘れられ、時代物が横行した後、古典文学を漁って、その作品の映画化に黄金時代の 1 花が開こうとしている」 とあり、さらに「そのヒントなり原作なりを文学作品 ( 小説・戯曲等 ) 1 に依らなかったものが幾つあったろう」 と書かれている。 この年のアメリカでは、ユナイテッド社のロバート・ルイス・スチーブンソン原作の「宝島」 、 2 ワーナー社のチャールズ・ディケンズ原作の「二都物語」 、RKO 社 はアレクサンドル・デュ マ原作の「三銃士」などが次々と製作され日本で上映されている。 日本においても映画のオリジナルストーリーが不足し出すと、映画製作の眼は大衆文芸に注 がれ映画化されている。文芸作品が選ばれる理由として前出の「映画評論」によれば、 「大衆 ― 186 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に 文芸の映画化は、その普遍性を映画の興行価値に結び付けようとするところから出ている」事 は間違いないのであるが、小説を映画化しうる作品には、登場人物の多様さと物語の複雑さ、 そして内容が映像表現を連想させるもので、かつロマンチシズムを併せ持った物語である事な 3 どが挙げられている。またそれが文芸映画製作の選別基準となっている 。 「赤西蠣太」が製作された昭和 11 年 (1936 年 ) はサイレントからトーキーへの転換期で、トー キー映画製作が本格化した事もあり、登場人物の多種多様さやロマンチシズム的傾向の文芸作 品が選ばれ、映画化されていくのは当然であったろう。 しかし、同年に文芸映画の流行にのらず溝口健二は、 「浪華悲歌」 「祇園の姉妹」を立て続け にオリジナルストーリー映画を原作し、監督としての才覚を現したのだが、 「映画作家 伊丹 万作」を著した冨士田元彦によると「この年、一気に開花した文芸映画の時代は、 「土」( 内田 吐夢 ) と「暖流」( 吉村公三郎 ) に代表される 14 年までつづき、まさしく、戦前における日本 4 映画の黄金時代に重なり、映画史上の大きなピークを形作っているのである。 」 と述べている 様に、この年には内田吐夢の「人生劇場」( 原作 - 尾崎士郎 )、島津保次郎の「家族会議」( 原 作 - 横光利一 )、そして、稲垣浩が「大菩薩峠」( 原作 - 中里介山 ) を監督している。 次々と文芸作品が映画化されている中で、伊丹万作は千恵蔵映画プロダクションによる志賀 直哉原作の「赤西蠣太」を脚色し監督するのだが、 「赤西蠣太」について伊丹万作は同年 7 月 号の「映画之友」に「蠣太先生」と題して、 「志賀先生の「赤西蠣太」を読んだのは 14、5 年 も前の事で、正直な話、ごく最近まで、あれが映画になろうとは自分でも考えつかなかった… ( 中略 )…それで、古本屋から「日本文学全集」中の「志賀直哉篇」を買ってきて、読み返して きたが、映画化の見当は容易につかなかった。それで、 「赤西」はいい加減にしておいて、あ 5 らためて他の多くの志賀先生の作品を読み返した。 」 と言っているように、直ぐに「赤西蠣太」 像を思い描く事は出来なかった。 また伊丹万作は文芸映画制作についてこうも語っている、 「近ごろ純文芸の映画が流行して いる。私も流行の波に乗って「赤西蠣太」を作ったわけであるが、それは半政策的に流行を利 用しただけであって、実はそんな流行にあまり関心はしていない。純文芸映画と言うと一見い かにも純粋な感じを受けるが、実はこれは錯覚なのであって、頭に文芸などと言う字のくっつ く映画は映画として不純なのである。映画が映画として純粋であるためには純映画的映画であ ることが必要であって、よけいな肩書はつかないほうがよい。私は「赤西蠣太」をやるに際し ても、自分の気持ちに肩書はつけなかった。志賀先生の「赤西蠣太」の筋と主題を映画の素材 として頂戴したまでであって、今まで私が作ってきた映画とは別な、文芸映画というものを特 6 小説「赤西蠣太」とは別の「赤 に作ろうという気持ちは全然なかった。 」 と語っているように、 西蠣太」を映画で創り上げようとした。しかし、原作の「赤西蠣太」から逸脱して独自の赤西 京都精華大学紀要 第四十号 ― 187 ― 蠣太像を創れば、それは「赤西蠣太」で無くなってしまう。では、伊丹万作は純映画的映画と して、どのように「赤西蠣太」を描こうとしたのだろうか。 志賀直哉は映画「赤西蠣太」を観て「なかなかいいものだと思った…( 中略 )…東京その他の 7 友達等も誉めてくれたので自分は嬉しく思った」と伊丹万作著作の「影画雑記」 の序文に寄 せているように、小説から映像が想像できなかったにもかかわらず、一応の成果が出た形となっ たが、公開された年の昭和 11 年 (1936 年 ) の「映画評論」12 月号に辻久一が発表した「伊丹 8 「 「赤西蠣太」では、伊丹氏は、全然文等にしばられず、志賀氏の「蠣太」が、 万作論」 の中で、 伊丹氏の中に投影したものを忠実に自己流に映画的に組み立てたのである」と述べているのだ が、では実際に伊丹万作はどう自己流に映画的に組み立てたのか、それを小説から映像になっ ていく製作過程を取り上げて考察を試みたい。 2. 志賀直哉原作「赤西蠣太」について 志賀直哉は 1910 年 ( 明治 43 年 ) 頃にそれまで中心だった自然主義文学に代わって、台頭し 9 てきた武者小路実篤と並ぶ白樺派 の中心人物である。 白樺派は同人雑誌『白樺』に参加する文学家、美術家たちの総称で、主に学習院の同窓生で あった。そして白樺派は人道主義、個人主義を根差した理想主義的傾向を謳った大正文学で、 明治、大正と日本近代文学の中心となっていった。 「赤西蠣太」は大正 6 年 (1917 年 ) に発行された「新小説」9 月号に「赤西蠣太の恋」と題し て発表され。その後、大正 7 年 (1918 年 )1 月に新潮社より刊行された作品集「夜の光」に、現 10 行の「赤西蠣太」 に改題されている。 粗筋は江戸時代前期に伊達氏の仙台藩で起こった、伊達騒動を題材に書かれた講談、錦城齋 11 典山「伊達騒動 蒲倉仁兵衛」 を元に作られた創作物語である。伊達騒動とは寛文事件と呼 ばれ、仙台藩の実権を掌握しようと企む伊達兵部が、怨恨の仲だった伊達宗重を失脚させよう と謀略を企んでいる最中、伊達兵部の甥・伊達宗倫と伊達安芸との間で領地問題が起こり、そ れがもとで刃傷事件にまで発展し、結局この騒動の首謀者とされた伊達兵部が土佐国に流刑さ れるという事で決着するという伊達家のお家騒動話である。 志賀直哉原作の「赤西蠣太」は刃傷事件が起こる前の伊達兵部が、伊達安芸を失脚させよう と謀略を企んでいる頃、赤西蠣太は伊達安芸派である片倉景長から送り込まれた間者という設 定で話が展開していく。 物語は二年近く秘密裏に伊達兵部の謀略を探っていた蠣太は、溜まった報告書を片倉景長に 届けるためには、伊達兵部の屋敷から出ていかなければならない。しかし、人知れず出ていけ ― 188 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に ば怪しまれる。そこで同じ間者の銀鮫鱒次郎と話し合った結果、屋敷内で美しいと評判の腰元・ 小江に艶書を渡すが、蠣太が小江にふられて、恋が実らず傷心のまま屋敷を後にする、という 計画をたてた。こうすれば、居なくなっても怪しまれないだろうと考えたのだった。また蠣太 と銀鮫鱒次郎は、この計画にはかなりの自信と勝算があった。それは蠣太の容姿は醜男で、話 し方も変な訛があって、いくらもの好きでもまさかこんな醜男に恋心を忍ばせる筈はないと、 そう考えていたのだ。当然、小江の返事はなかなか来ない。待ちくたびれた蠣太は、もう一度、 小江に気遣うような文面の艶書を書き、わざと廊下に落して小江が拾うのを待った。 その一時間後、手紙が無くなっているのを確認した後、廊下でばったりと小江に出会う。そ して小江から手紙を渡され、その晩自分の部屋でその手紙を読んだ。小江からの返事は全く予 想外で、最後に「私は心から嬉しく思いあげております」と書いてあり、蠣太はますます帰れ なくなった。そして、自分にはお役目があると自分に言い聞かせるのだが、小江の心をもてあ そんだ事を悔やんだ。 翌朝、老女・蝦夷菊に呼ばれ部屋に向かう。蝦夷菊は蠣太の前に手紙を差し出す。その手紙 は蠣太が廊下に落したもので、小江には渡らず、蝦夷菊に拾われていたのだった。蝦夷菊に諭 すように叱られる蠣太。一言も言い返さず部屋を引きさがっていく。蠣太の心の中では、伊達 兵部は悪人だが、ここにいる人達は良い人ばかりで、いくらお役目とはいえ少し淋しい気持ち で一杯だった。その晩、天井裏に隠していた報告書を肌身に付けて、この機会に屋敷を抜け出 して行く。 思わぬ告白をされた小江と、お役目とはいえ女ごころを持て遊んだ蠣太の内面が描かれてい る物語である。 志賀直哉が発表した作品は自身の体験を基にした私小説を発表するなど、志賀独特のリアリ ズムが評価されていたのであるが、 「赤西蠣太」は志賀直哉が発表した作品の中では、唯一ユー モラスに書かれた歴史小説であるとして再評価されている。 12 「同時 しかし、平成 20 年に発表された論文「志賀直哉「赤西蠣太」のリアリティ」 には、 代的には「ストーリィテラア」の「面白」さが認められている一方で、 「只面白い話と云う丈で、 格別の工夫は凝らしていない」 、 「志賀氏の作品の中では」 「少し落ち着きはしないか」 、 「かう した道徳的反省を強ゆる真実な恋の力を何故もっと描かなかったのか」 、さらに「疑いもなく 失敗の作」とまで低い評価を下されている。 」と述べられている。 志賀独特のリアリズム的な描写を待ち望んでいた批評家にとっては、ユーモラスに描かれた 13 「伊 「赤西蠣太」は「疑いもなく失敗の作」だったのであろう。志賀直哉もまた「創作余談」 で、 達騒動の講談を読んでゐて想ひついた」が「徳川時代の小説の知識から、その時代らしく書く つもりでいたが、私にはそれがハンディキャップになりうまくいかなかった」ので、 「人物の 京都精華大学紀要 第四十号 ― 189 ― 名も分からなくなり」 「いい加減に作り、書き方も前にそれで失敗したから殊更さういう事を 無視した書き方をして見た。 」と言っている様に、凡そ今までの自身の作風とはかけ離れた全 く新しい別の作品に仕上げようとした様子がうかがえる。 その姿勢は赤西蠣太と小江の人物設定に現れている。 「創作余談」によると「講談ではこの 小説の小江が觸れれば落ちるといふ若いおんどん風の女になってゐて、下等な感じで滑稽に使 われてゐたが、私は若し此女が実は賢い女で赤西蠣太が真面目な人物である事を本統に見抜い てゐたらばといふ假定をして、其處に主題を取って書いた。 」と語っているように、小説「赤 西蠣太」の小江は下等なおんどん風ではなく、賢く清純な雰囲気を併せ持った感じに描かれて いる。 それは映画でも同じ印象で伊丹万作は登場させている。 3. 伊丹万作の経歴とその時代の映画状況 伊丹万作は明治 33 年 (1900 年 )1 月 2 日に愛媛県で生まれ、本名は池内義豊。 明治 39 年、6 歳の頃に兵庫県神戸市に移り松山第三尋常小学校に入学。この頃から西洋物 の活動写真に興味を持ち始める。また絵が好きで、絶えず勉強よりも絵を描く事の方に熱中し 14 ていた少年時代であった。 明治 45 年、12 歳の時、 「愛媛県立松山中学校に入学。在学中、美術と文学を愛好し、2 年生 のときから生徒の中の同好の有志による回覧雑誌「楽天」に参加、口絵式挿絵式の絵や、(中略 ) …毎月自分が実見した活動写真の中で気に入ったもののストーリーを、連続した齣絵で再現叙 述した説明入りの活動絵話を発表し、一期下にいた伊藤大輔 15 とともに「楽天」の黄金時代 を形成」した。 伊丹万作は同中学校を卒業後、約半年間、両親の都合で樺太の真岡に移り、その後、上京す る。東京での仕事は伯父の紹介で鉄道院に奉職し、その間に活動写真を頻繁に観て、映画への 興味が削がれない環境であった。 しかし大正 7 年、19 歳の時、鉄道院を退職し本格的に幼少時代から熱中していた、絵の勉 強を独学で行い、小説や漫画雑誌などの挿絵の仕事を開始する。21 歳の時に「池内愚美」の 名前を使い始め、この頃から松竹キネマの俳優学校の研究生として上京してきた伊藤大輔と同 居する。 この頃、伊丹万作と伊藤大輔は邦画洋画を問わずしきりに映画を観て歩き、好きな俳優は日 本人俳優では無く、アメリカ人俳優のフランク・キーナンだった。この年に公開されたフラン 16 ク・キーナンの出演作品は「弗対弗」( 原題 Dollar for Dollar) でフランク・キーナン自ら監督 ― 190 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に も手掛けており、ストーリー展開でシリアルな中にも少し喜劇要素が入った作品であった。 「映画大観」によると大正 10 年は、 「欧米の名作が可成り多数に紹介せられた年である。我 が国に初めて獨逸から表現派映画が輸入せられた。 「カリガリ博士」がそれである。日本にお 17 ける表現派勃興の濫觴をなしたものこそこの映画である。 」 と記述されている通り、この年 は外国映画の優秀作品 24 作品 18 が輸入され、これ以後も「欧米の名作」が多数我が国で上映 されている。 伊丹万作と伊藤大輔が欧米映画を好んで観ていたとすれば、以後の映画製作に何らかの影響 があったと考えても異論はないであろう。 そして昭和 2 年 (1927 年 )28 歳のとき、日活大将軍撮影所時代劇部監督だった伊藤大輔を頼っ て京都に行き、伊藤家の食客となり、伊藤大輔の勧めでシナリオ「花火」 、ついで「伊達主水」 「草鞋」を執筆し、翌昭和 3 年 5 月、片岡千恵蔵プロダクションの創立とともに伊藤氏の推薦で、 シナリオライター兼監督として入社、ただちに千恵蔵プロ第一回作品「天下太平記」のシナリ 19 オを脱稿、4 ヶ月のちの秋には「仇討流転」(「草鞋」改題 ) を監督した。 そして、 「赤西蠣太」を制作する昭和 11 年 (1936 年 ) までに脚色 9 本、脚本 14 本を執筆し、 その内の 17 本の作品を監督 ( 共同監督を含む ) している。 4. 脚色として、映画としての「赤西蠣太」 (1) “名詞の羅列”の持つ意味 伊丹万作全集に収められている「文芸作品映画化の問題について」の中で、 「文芸作品は、 それを読んだ人の数だけの違った幻影を一つずつ読んだ人に与える事ができる。 」が「映画の 20 場合は何万人見ても一つの映画からは同じ一つの現象を知覚するだけである。 」 と述べてい る。さらに映画の本質に関しても「映画の最も著しい本質的特色は何かということを明らかに しておく必要がある。それは言うまでもなくその「表現形式の具体性」であると私は考えてい る。 」と言うように、文芸作品から映画化する場合、創り手側の“幻影”を具体的に映像化す るが、それが万人に共通する“幻影”ではないと断言している。そして“幻影”を具体的に映 像化するためには「視覚的、聴覚的に現実世界の実際現象に最も酷似した」表現形式を用いな くてはならないと語っている。 つまり、映画「赤西蠣太」の“幻影”とは伊丹万作の思い描いた“幻影”であり、その“幻 影”をいかに映像化するのか、そこに伊丹万作の演出の持ち味が生かされるところである。 では、小説「赤西蠣太」から受ける“幻影”をどのように具体化し、演出しようとしたのか を、映像化されていく過程から見てみよう。 京都精華大学紀要 第四十号 ― 191 ― 小説の最初には、 「昔、仙臺坂の伊達兵部の屋敷に未だ新米の家来で赤西蠣太といふ侍があった。三十四五だ と云ふが、老けて居て四十以上に誰の眼にも見えた。容貌は所謂醜男の方で言葉にも変な訛が あって野暮臭い何處までも田舎侍らしい侍だった。言葉訛は仙臺と異なっていたから、秋田邊 21 だろうと人は思って居たが實は雲州松江の生まれだと云ふ事だ。 」 と赤西蠣太の人物紹介か ら始まり、さらに酒や女遊びをするわけでもなく、菓子好きで行燈相手に将棋をするのが趣味 だったと書かれている。 脚色 22 の S ♯ 1 では、 1 (F・I) 雨 ○傘の俯瞰 ( 二つ。) ○屋根に、 ○土に、 ○瓦 ( 竹に雀の紋。) ○門の扉 ( 竹に雀の紋。) (W つて ) S・T「麻布仙台坂。伊達兵部邸」 ○子猫が一匹、雨の中から出てくる。 ○門の下でうろうろしていたがやがて扉の隙間をくぐって門内へ姿を消す。 ○傘の俯瞰 ( ふたたび。) 2 さむらいが二人話しながら帰ってくる。 「今度となりへ来た新参者はずいぶん変わっているなァ」 「そうそう、きやつ何とか言ったな。赤石か。いや違うな」 「赤西だ。赤西蠣太」 「かきた? かきたとはどう書くんだ」 「虫扁の、つまり、蠣舟のかきに、タは太い」 などと、小説には登場しない赤西蠣太と同役人の浅利と角又が、本人の噂話をしながら雨の 中帰ってくるところから始まる。 ― 192 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に その後のシーンに、 3 小門のところに来る 「おい門番、浅利に角又だ」 中で 「はい。今おあけいたします」 ○二人 「きやつ今頃は行燈と将棋を差しているんだ」 「え?行燈と」 「うむ、見せてやる」 4 赤西、自分の長屋の一室で 行燈を向こうに据えて将棋盤にむかっている。 ときどき傍に置いた将棋の譜本を見ては駒を動かしている。 ♯ と、この S 4 で赤西蠣太が登場し当時、看板役者だった片岡千恵蔵が醜男に扮して、行燈 相手に噂通り将棋を差している場面が映し出される。 原作の本文中には最後まで雨の場面は出てこなかったのだが、伊丹万作はトップシーンから 雨を降らし、また原作には登場しない白猫と、役人の浅利と角又を出した。浅利と角又に関し ては物語の案内役としての役割だと考えれば、納得のいく登場の仕方である。しかし、白猫に 関してはそうはいかない。原作に“動物好きである”などと書かれていれば、白猫を登場させ ることによって蠣太の性格の説明にもなるが、そういう性格描写は書かれていない。ではなぜ 白猫を登場させたのだろうか。 ♯ 白猫については後ほど「白猫と人物表現」の項で述べるとして、まず雨を降らした S 1 か ら伊丹万作の“幻影”を考察していこう。 ♯ 撮影する対象物の名詞ごとに区切られている。これは一つずつのカッ S 1 のト書きであるが、 トを意味している。また雨を強調し、雨の中徐々に大きく映し出される伊達兵部家の家紋を印 象付ける為に、このような簡潔な名詞の文章を使用したのであろう。 つまり雨が降っている中で伊達騒動の中心となる屋敷の家紋が、重々しくまた怪しげに迫っ てくるという描写をするために、ト書きにあえて撮影する対象物だけに限って名詞を羅列した のだ。 23 しかしこの表現は「分割されたカットの構成はトーキー的でない」と「映画創造」 で青井 京都精華大学紀要 第四十号 ― 193 ― 保吉 ( 北川鉄夫 ) が批判している。確かにサイレント映画時代が終わり、本格的なトーキー映 画時代が始まろうとしていた頃に製作されただけあって、脚色の構成に無声映画の作風を色濃 く残していると受け取られても仕方がない。 「赤西蠣太」は伊丹万作にとって共同監督、共同 脚色を含めると「忠臣蔵」 「忠治売り出す」 「気まぐれ冠者」に次ぐトーキー第 4 作目にあたる。 「赤西蠣太」が製作される 5 年前に日本初となるトーキー映画「マダムと女房」が製作され、 それ以後は無声からトーキーへの移行が始まり、昭和 11 年 (1936 年 ) になると日本映画は本格 的にトーキー映画の全盛を迎えるのである。確かに台詞が無い時代の脚本と、在る時代の脚本 の書き方とでは人物表現の描きが変わってくるだろう。 伊丹万作が執筆したサイレント映画と、トーキー映画の脚色 ( 脚本 ) の“幻影”に差異はあ るのだろうか。 伊丹万作はトーキー映画に関してこう述べている「ただ単に私の予想として言うならば、そ もそもトーキーというものが、その本来の性質として多分にむずかしさを持っているとは、私 は考えていない。 「音を使用することを得ず」という過酷な法律から映画が解放された―その 結果がトーキーであるというふうに私は考えたい。トーキーというものは何も今までの映画に 24 余分のものが加わったわけではない。 」 と述べ、さらに、このような考え方は実際には通用 しないかも知れないと言いつつも、現在でのトーキー映画製造は至難の術であるが「それは機 械的不備、もしくは技術的未完成などがおもなる原因をなすところの困難であって、必ずしも 25 本質的なものではない。 」 と断言している。 この言葉をそのまま解釈すると、伊丹万作のサイレント映画とトーキー映画の“幻影”に差 異はないと言う事になる。従って青井保吉 ( 北川鉄夫 ) が批判した「分割されたカットの構成 26 はトーキー的でない」 と言う記述は、伊丹万作がトーキー映画を製作する本質的な“幻影” 部分において当てはまらないと言う事が言えるだろう。 また今村太平は伊丹万作の批評で「文章を極度に簡潔化する事から、氏のシナリオにしばし 27 ば名詞の羅列があらわれる。しかもそれは情景、雰囲気をまざまざとイメージさせる」 と指 摘している。今村太平によれば分割されたカット、つまり名詞の羅列が映像をイメージさせる と肯定している。 では、今村太平が述べた「しばしば名詞の羅列があらわれる。 」であるが、確かにト書きに 状況描写を足していたならば、一つのカットの尺が長くなり、物語の導入部分が間延びするよ うになってしまう。傘の俯瞰カットから、移動で撮影された伊達兵部邸の家紋の異様さを出す には、このカットの前に複数の“名詞”やト書きが在り過ぎても、その効果は薄れていくだろ う。 映画では異様なイメージを出す為に原作にはない雨を降らせ、雨に打ちつけられる真黒な瓦 ― 194 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に に照らし出された伊達兵部邸の家紋を移動で大きく映し出している。 文芸作品を映像化する場合、まず何を説明し、どこから始めるのかが物語の導入部分におい て重要である。なぜならば最初から物語を説明し出すと、上映時間が長くなり、時間内に収ま らないからである。だからこそ映画は全体的な“視点”が必要になり、不必要なものを削除し ていかなくてはならないのである。 伊丹万作は取っ掛かり無くスムーズに物語へ導入する為に、雨を降らしさらに時刻は夜間を 選んでいる。つまり爽快感が出そうな晴天の昼間を選ばずに、今にも寝静まりそうな夜間を選 び、そこに雨を降らせる事によって画面から怪しげな雰囲気を出そうとしているのである。ま た映画の最初のカットである「雨を受ける樹木の枝」は、木の幹と雨で揺らいでいる枝が陰で 黒く、次の「土に打ち付ける雨」のカットも影が多い。これはカメラから逆光にライトを照ら す事により、画面から暗部を多くする事によって異様さを創り出しているのだ。また夜のシー ンから導入する事によって、蠣太が夜更けまで行燈相手に将棋を差しているという人物紹介に も役立っている。そして、 雨の中迷い込んで来た白猫と蠣太が出会うシーンに違和感なく繋がっ ていくのである。 この“異様”さを創り出す構成方法が、これから伊達兵部邸で起こる事件に期待感を持たせ ている。また伊達兵部邸だとただ判ればいいと言うのであれば、正門のカットに T「麻布仙台 坂。伊達兵部邸」を出せばいい。しかし、これは情報として理解できるが、映像から受ける“異 様”なイメージは無い。 つまり伊丹万作は雨を使用し、そして時刻を夜に設定する事により、伊達騒動を主に描いて いない物語の「赤西蠣太」に、首謀者の一人である伊達兵部の悪役性を紹介し、現在進行形で 起こっている謀略を観客に“感じ”させているのである。 ♯ S 1 の冒頭のト書きには「○傘の俯瞰 ( 二つ。)」とあるが、実際の映画ではこのカットは 3番目に編集されている。また脚色の2番目のカットである「○屋根に、 」が映画では「雨を 受ける樹木の枝」に変更され、最初のカットに編集されている。伊丹万作はなぜ脚色の2番目 のカットである「○屋根に、 」を「雨を受ける樹木の枝」に変更し、 また冒頭の「○傘の俯瞰 ( 二 つ。)」を3番目にしたのだろうか。 まず脚色の2番目のカットである「○屋根に、 」の場合は、4番目のカットの「○瓦 ( 竹に 雀の紋。)」とが同じような被写体で在る事が原因であろう。つまり、伊達兵部の屋根の家紋 が引き立たなくなるので、 「○屋根に、 」を変更し「雨を受ける樹木の枝」を新たに撮影したの であろう。 そして、脚色の「○傘の俯瞰 ( 二つ。)」を3番目にした理由は、それは映画の中で使用され ている音楽の選曲によるものだと考える。 「赤西蠣太」のタイトルそしてスタッフ、配役と続 京都精華大学紀要 第四十号 ― 195 ― くバックにはテーマ音楽なるものが流れ、O・L の後、雨が降っているカットが続く。その O・ L からバックに流れだす音楽はショパンの「雨だれ」である。 映画音楽に関して伊丹万作は「一般の観察によると映画は音楽が入っていよいよ効果的にな るものとされているらしいが、我々の経験によると、現在の日本では音楽がくわわって効果を 増す場合が四割、効果を滅殺される場合六割くらいに見ておいて大過がない。だから音楽を吹 き込む前に試写してみて十分鑑賞に堪え得る写真を作っておかないと大変なことになる。ここ は音楽が入るから、もっと見られるようになるだろうという考え方は制作態度としてもイー 28 ジィ・ゴーイングだし、実際問題としても必ず誤算が生じる。 」 と述べており、脚色段階で は音楽を「吹き込む」事を考えず、撮影し編集した映像を見た上で、 「○傘の俯瞰 ( 二つ。)」 を後に回し、ショパンの「雨だれ」を選曲したと推測できる。 つまりこの曲のメロディーだと「○傘の俯瞰 ( 二つ。)」の様な動的なカットを最初に持って くるよりは、雨の中の情景を最初にする方が、映像と音のイメージが一致してくる。この雰囲 気を保ちつつ、後に続く「○傘の俯瞰 ( 二つ。)」から「○瓦 ( 竹に雀の紋。)」へ移って行く。 これは「雨だれ」のメロディーと映像に異様な雰囲気が漂う伊達兵部邸のイメージが、新たに “対照的な効果”となって現れてくるのだ。 ♯ ♯ 「雨だれ」は S 1 で終わるのだが、そのイメージは後に続く S 2 の浅利と角又の蠣太の噂 ♯ 話から、S 4 に登場する醜男蠣太の容姿までを“対照的な効果”として特に感じさせる音楽 効果である。 “名詞の羅列”から具体化された映像は、伊丹万作独特の演出で、魅力ある“幻想”を生み だしたのだ。 (2) 白猫と人物表現 ♯ 白猫もまた、先ほど述べたように原作には登場していない。白猫は S 1 で早々に登場させ、 雨降りの中、伊達兵部邸に迷い込んで来るという設定にしている。白猫はその後、物語にはあ まり絡んでこないのだが、さしずめ蠣太の性格描写に一役かっているは事実である。 映画の中で、天井裏の鼠が騒いで将棋に集中できない蠣太は、猫の鳴き声を真似て、 「ニァ アオ」や「グワオー」などと言うが、一向に収まる気配はない。 部屋の外では浅利が庭に迷い込んだ白猫が鳴き声を立てるので、その白猫を右隣の角又の長 屋に入れる。一方、ふとんに入ろうとしていた角又。白猫の鳴き声がうるさくて寝られない。 たまりかねた角又は白猫を右隣の長屋に入れる。その長屋には蠣太が住んでいる。蠣太は白猫 の鳴き声が聞こえたので、部屋から出ていくが、丁度、白猫はまた角又の長屋に戻ってくる。 角又がやっと寝ようと思ったところに、また白猫の声。角又、鳴き声のする方へ出て行く。 ― 196 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に 脚色では、その後白猫がどうなるのか見てみよう、 15 おもて ○おもてでは猫がまたもや右の方へ移動である。 赤西の長屋の前までくると、中から出てきた赤西とばったり顔を合わして、角又、てれ る。猫をぶらさげたまま 「どうもよく降りますな」 赤西 「どうもよく降りますな」 ○角又 「時に行燈との勝負はいかがでした」 赤西 「行燈?ああ、あれですか。いや、どうも」 ○角又 「明日にでも、お暇ならいかがです、一手」 赤西 「それは願ってもないことで、さっそく教えて頂きましょう」 ○角又 「しからば、ごめん!」 行こうとする。 赤西 「ああいや、しばらく」 ○角又、立ち止まる 「何か――」 赤西 「その猫――」 ○角又、手の猫を見る。 赤西 「拙者にいただけませんか」 ○角又 「これを?さあさあ、どうぞお持ちください。なかなかいい猫でござるよ一見頭脳明晰 の顔をしている。しかしまあ、ほかの人でないからさしあげましょう」 京都精華大学紀要 第四十号 ― 197 ― (WIPE) ♯ 白猫は結局、蠣太に引き取られることになり、次の S 16 では鍋の残り汁を白猫に与えてい る蠣太の姿が描かれている。蠣太にとっては天井裏のネズミ対策に引き取った訳だか、その後 は蠣太の膝の上に白猫を乗せながら角又と将棋を差しているなど、白猫をかわいがる様子が描 かれ、小説にはない人物像が創られている。 そして、次に白猫が出てくるシーンは、蠣太が伊達兵部邸で同じ間者の青鮫鱒次郎と出会い、 小波 ( 小説では小江 ) が初めてご奉公に来て、伊達騒動の首謀者の一人原田甲斐 ( 片岡千恵蔵 ♯ の一人二役 ) が伊達兵部邸で、蠣太以下の新参侍に連判状を書かせたあとの S 41 でこう描か れている。 41 長屋 ○赤西蠣太、ふとんを敷いて寝ている。 猫がもう親猫になっている。 せんぶりを一服のむ。 声「赤西氏、御在宅かな」 赤西、無言。 声 「赤西氏、赤西氏」 赤西 「はァ」 声「どうかなされたか」 ○赤西 「少々腹痛で、ふせっております」 ○声 「腹痛?」 障子をあけて角又が顔を出す。 「それはいかんな、ひどく痛むようなら医者を呼びましょうか」 ○赤西 「なに、それにはおよびますまい。いつもの伝でじきになおりましょう」 蠣太の人物説明で原作には将棋の他に、 「酒は飲まない代わりに菓子は食った。底の浅い函 ― 198 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に を幾つも重ねた上を真田紐で結んだ荷を担いで来る菓子屋が彼の居合わせた処に来て無駄足を する事は決してなかった」とあり、さらに「胃腸病者であった。 」蠣太は、千振を服用してい 29 たので「部屋にはいつも千振の臭いが漂ってゐた。 」 と書かれている通り、脚色でも変更は なく、千振を煎じて飲んでいる様子が描かれている。 ♯ ♯ S 41 の白猫は、子猫から親猫に成長したという時間経過の説明を O・L で見せた後、S 85 ♯ で小波からの返事の手紙を読む時と、S 88 で蠣太が夜逃げをする時に猫を抱きあげ、のどを 擦る程度しか出てこない。 やはり、原作には無い猫を登場させたのは、単なる蠣太の性格設定と人物紹介だけだったの だろうか。 米田儀一は「しゃがみこんで菓子屋とやり取りをしている蠣太の肩の上に、白猫が、 《ひょっ と》蠣太の肩に乗るという《実にいい》場面が巧みに演出されていると、北川冬彦の「伊丹万 30 作と白猫」に伝えられている。 」 と言っているが、現存している「赤西蠣太」にはその場面 ♯ が欠落しており、今は観る事が出来ない。また菓子屋とやり取りをしている S 19 にも白猫が 蠣太の肩に乗るというト書きはなく、 「赤西蠣太」の脚色全体を通してもそのような描きはど こにも見当たらない。これは明らかに撮影時の監督・伊丹万作としての演出によるものだと言 える。 さらに北川冬彦の「純粋映画記」には、 「白猫は北川が伊丹万作に誘われて入ったある料亭 で飼われていた白猫」であった事と、試写を観た後、白猫が肩に乗ったシーンを観て「どうし てあんなにうまくやれたのか、と訊ねて見ると「猫といふ奴は強情でせう、一つ所にゐる奴を わざと別のところへ持って行くと元のところへ、きっと帰りますね。一度そんな事があり、こ れやいけると思ひ、赤西の肩の上へのせて置いて、そこから降ろして下へ置くと、果して、あ んな風に元へ戻ったのです。 」と彼は答えた 31 と回想している。 そのカットが今は観れないのが残念であるが、北川はさらに「それはこの男の内面の性格を 32 象徴化したようなところがあり、仲々考へたものだなと感心した」 とも語っている。 確かに何時も行燈相手に将棋を差していた蠣太が、天井裏のネズミがきっかけで白猫に心を 通じ合うようになっていくという、性格の内面部分が時間の経過とともに推測できる。 しかし蠣太の性格の内面を象徴化するとはいえ、お菓子を見て嬉しくなり、白猫も呼応して 蠣太の肩に飛び乗るという、ユーモラスな描写をしたかっただけで白猫を使用したとは考えに くい。 伊丹万作は動物好きだったと言われてはいたが、それだけで動物を登場させたとも思えない。 では何故、白猫を登場させたのだろうか。 伊丹万作は猫に対して、格別の思いがあったと伊藤大輔は「万作と猫と繪と私」の中でこう 京都精華大学紀要 第四十号 ― 199 ― 述べている、 「伊丹が頼ってきた当時の私の家にはナナと呼ぶ牝猫がいた。…( 中略 )…伊丹はた。 其の頃の伊丹は彼自身の言葉を借りれば「窮乏の極、失意落胆の心身を身グルミ抛げ込んで」 来たのであって、満身これ創痍の状態だったので、なまじひに物言わぬ家畜の方が彼の話し相 手として自然の情愛を感應していったものと思う。遂に「猫に愛情を感じない人間は芸術家と 33 しての情操に缺くるところありと断言して憚らないネ」と」 伊丹の食客だった頃を語ってい る。 さらに伊丹万作は昭和 5 年 (1930 年 ) に結婚して京都の巨椋ノ池に新居に移る時もナナの仔 を貰い受け、どこに引っ越しても猫は伊丹の家族の一員であったと伊藤大輔は回想している。 34 「赤西蠣太」が製作される昭和 11 年 (1936 年 ) 頃も、猫と家族同様に暮らしていたのである。 思わぬきっかけで猫好きになった伊丹万作だが、白猫を使用した一番の理由は伊達兵部邸の 新参者だった蠣太の心情と、食客で伊藤大輔の家に住んだ頃の自分と重ね合わせたのではない かと考える。 つまり挿絵の仕事も、商売もうまくいかず「窮乏の極」で「失意落胆の心身」のまま伊藤大 輔の食客となった自分に、一番身近に感じたのが猫であった。その猫と話し相手のように接す る事により気持ちが徐々に救われた事を、屋敷に来て間もない蠣太が、いつも行燈相手に将棋 を差していた状況と重ね合わせて白猫を登場させたのであろう。 確かに白猫が蠣太の肩に乗るという演出をしたのも、北川冬彦が指摘したようにお菓子を見 た蠣太の内面を表す様にひょっと肩に乗らせたとも受け取れる。 しかし、それだけではなく蠣太と白猫が出会ってから、蠣太と同じ様な食事をして、家族同 然の様に暮らしているうち、白猫が蠣太に対して愛情を現すという内面の描写を時間経過の説 明とともに、大好物の菓子を選んでいるシーンに、あえて肩に乗らせるという演出をしたので あろうと考える。 つまり、伊丹万作が家族同然であるかの如く接していた様に、同じく蠣太が白猫に注ぎ込ん だ愛情の経過を印象付けるとともに、白猫も蠣太に対して愛情を現すという内面的な表現をこ のカットで描いたのである。 蠣太は物語の終盤に、猫を置いて報告書を身に付け、伊達兵部邸を抜け出すのであるが、伊 ♯ 丹万作は蠣太の性格が表れる「S 91 蠣太の部屋」を書いた。 91 蠣太の部屋 ○蠣太の部屋の将棋盤の上、鰹節二本 紙でくるんで「猫をよろしく」と書いてある。 並べて――書置、 「沖の石殿」 ― 200 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に 白猫と暮らしていたのであるが、いずれはこの屋敷から出て行かなければならない立場であ る事を思いながら、蠣太は伊達兵部の謀略を探るという使命があった。そして、書置をして出 て行くのであるが、原作にない白猫を登場させているので、白猫と一緒に伊達兵部邸を抜け出 す事も出来る筈である。しかし、伊丹万作は家族同然だった白猫を置いて蠣太だけを屋敷から 抜け出させている。 何故、白猫と一緒に抜け出さなかったのか。 もし一緒に屋敷から出て行ってしまうと、間者としての蠣太が薄れてしまう。蠣太にとって 伊達家一大事の時に、城主片倉小十郎に万が一齟齬を生じさせる訳にはいかない。伊丹万作は お役目を全うしようとする直向な蠣太の姿を描いたのである。 その直向な姿がラストに小波の家を訪ねる、純朴な蠣太へと繋がって行くのである。 原作に登場しない白猫を出したのは伊丹万作の人間味から滲み出てくる個性であり、演出で ある。また原作にはない新しい赤西蠣太像を創り上げた事に成功している。 (3) 描けなかった蠣太の恋 青鮫鱒次郎の発案で醜男の蠣太が屋敷内で美人と評判の小波に艶書を渡すが、なかなか返事 が来ない、業を煮やした青鮫がもう一度艶書を書いて、小波に渡すことを勧める。蠣太は言わ れるがまま艶書を書き、廊下に落すのだが、小説では蠣太自ら「もう一つ艶書を書いて、気の 35 毒だが、それを何処かに落して置いてやろうと考えた。 」 と書かれており、蠣太がもう一度 艶書を書き、廊下に落すのである。 小説の蠣太はあまり情に流されない、間者としての使命感が強い人物像で描かれているのに 対し、映画では鮫島にもう一度艶書を書くように言われるくらい、少し人間味のある罪悪感を 持った蠣太像で描かれている。 なぜ伊丹万作は少し人間味のある罪悪感を持った蠣太を描いたのだろうか。それは小波の恋 を印象深く実らせる為ではないかと考える。 なかなか返事が来なかった小波からの手紙には「私に求めておりましたものが、ただ若い美 しいおさむらいたちの間には無くて、あなた様の御心の中に在るということに、今やっと気が ついたのでございます。それで私は今、生まれてからこのかたまだ味わった事のないような歓 36 びにひたっております。 」 と書かれており、蠣太に好意を持っている事が告げられている。 小説でも同じく小江の告白が描かれている。そして、手紙を読んだ後「蠣太の顔は赤くなっ た。彼は自分の胸の動悸を聴いた。彼は小時ボンヤリして了った。これをまともに信じていい か、どうか迷ひさえした。彼は彼の胸に新しくできた―それは五分前まではなかった。 」と蠣 太の心の内が描かれている。 京都精華大学紀要 第四十号 ― 201 ― 映画では蠣太が手紙を貰ったあと、部屋で手紙を拡げて読むところで、小波の声と顔から容 姿へと変わっていく姿が多重露光でダブらせ、蠣太の胸の“動悸”を表現している。脚色では、 手紙を読んだ後、こう描かれている。 85 蠣太の長屋 …中略… ○小波の姿が消える。 蠣太、ぽかんとしているが、やがて溜息を一つつく。 不器用な手つきで頭を掻き、顔をなでる。とたんに思い出す。 ○行燈のそばへ落した手紙。 ○蠣太、えらいことをしたという顔になる。 すると今度は天井を思い出す。 ○埃にまみれた密書。 ○蠣太、こわい顔になり腕を組む。腕を解くと手紙をもしやぐり、火をつけて 焼き始める。 (F・O) このシーンの後半は間者であることを忘れず、大義があることをまず実行しなくてはならな い蠣太が描かれている。その蠣太に、多重露光で見せる事によって小波の声と姿を蠣太の心に 印象づけようとしたのだ。 蠣太にとって小波は自分の大義を達成させる為に利用したつもりだったが、予期せぬ手紙に よって蠣太の「胸に新しくできた」動悸 38 を感じたのである。 この映画はこのシーンに至るまで間者蠣太側の視点 39 で描かれ、伊達騒動を隠密に探り、 蠣太の人物像を出しながら進行して行くのだが、多重露光によって初めて蠣太以外の人物が印 象づけられるのである。 40 多重露光のカットは蠣太と小波とも Fix ではなく、蠣太のカットは手紙のアップから移動 し、手紙を読む蠣太を入れ込んでいる。 一方、小波のカットはクローズアップからミディアムまでズームバックしている。この小波 が印象付けられる多重露光のカットを佐藤忠男は「腰元小波がラヴ・レターの返事を、現代の 41 42 BG みたいな明朗率直な態度で述べるイメージ」 だと評価する程、この動きのある両カット ― 202 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に が多重露光によって重なり、小波の清廉な胸の内がより大きく助長され、蠣太に、そして観客 に印象付けられていくのである。 しかし、このシーンに関して北川冬彦は、 「蠣太が小波の手紙を読むところを、伊丹は「失 敗した」とつよく云ってゐた。衣笠氏 43 は、もちろんそうだと云ふやうに、 「観客の眼は、女 の方に向くからね」と云ってゐた。成程それはそうだが、そんなに失敗したとは私にはどうも 44 うけとれなかった。 」 と「純粋映画記」に書いている。 手紙を読み上げる小波を大きく見せる事によって、自ずと「観客の眼は、女の方に向」き、 蠣太の視点で観ていた観客に強く印象付けるシーンであるにもかかわらず、伊丹万作と衣笠貞 之助は「失敗した」と語っている。 一体どこが「失敗した」のだろうか? その失敗の原因は、蠣太と小波との二人の関係の結末に隠されているのではないかと考える。 では二人の関係の結末がどう小説に描かれているのか見てみよう、 「最後に蠣太と小江との 恋がどうなったか書けるといいが、昔の事で今は調べられない。それはわからず了いである。 」 45 と書かれ、二人の恋がどうなったかは分からず終わってしまう。 脚色ではどのように終わっているのか、ラストシーンの少し前から見てみよう。 110 (F・I) 舟宿 ○「入舟屋」鯖右衛門の看板。 111 娘の部屋 ○乳母が小波ことお半の部屋へ来て、 「お嬢様。赤西様とおっしゃるお客様が見えておられますから、ちょい と御座敷までおいでくださるようにとだんな様が」 お半 「え、赤西様?」 乳母 ○お半、見る見る元気が出る 「まァ、わたし、こんな風で、どうしよう」 と鏡を持ち出しながら 「手伝っておくれ!ばあや、ほら着物のね。一番上の引き出しからタン スを出して、いえいえ、違うのよ。あわてちやだめよ」 (WIPE) 京都精華大学紀要 第四十号 ― 203 ― 112 客間 ○老爺と赤西と乳母と娘、赤西と娘は部屋の端と端で一番遠い。 老爺 「今日はどうか一つごゆつくりなさっていただきとうぞんじます」 赤西 「いや、今日はそうゆつくりもしていられません」 ○老爺が消える。 乳母 「今日は、ぜひごゆつくりとお遊びを願います」 赤西 「いや、あまりゆつくりもできないのです」 ○乳母が消える。 娘が 「今日はごゆつくりなさつていただきとうございます」 赤西 「そうゆつくりはできないのですが」 ○行燈がついている。 娘 「まだ、早うございますから―」 「さァ、あんまりゆつくりはできないのだが―」 ○二人、じつと座っている。 (F・O) 原作の「それはわからず了いである。 」で終わっているのに対し、脚色では間者としてお役 目が終わった蠣太が、わざわざ小波の家を訪ね、日が暮れ行燈が灯るまで長居している様子が 描かれている。 映画のラストは、蠣太の心の中に芽生えた“動悸”を思い起こさせる感じで終わっている。 また映画では「蠣太の来訪を知って小波がいそいそと身支度を始めるところ」に「ベートー ベンの八番のシンフォニーのアレグレット・スケルツァンド」がバックに流れ、コミカルな雰 ♯ 46 囲気を醸し出している。また S 112 の「ラストの場面にはワグナーの結婚行進曲を」 入れ、 音楽で蠣太と小波の今後の関係をイメージさせている。 ― 204 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に このラストを今村太平は「時代劇には珍しい気品と余韻とユーモアをたたえたラストだ」と 評しているが、このラストの演出では、物語の展開を重視したあげく強引にハッピーエンドに 持ちこむ為に、蠣太が小波を訪ねるような感じにも受け取れる。つまり蠣太の行動が少し唐突 ♯ 過ぎるのである。この唐突感を和らげ、なくすにはやはり伊丹万作が指摘した「S 85 蠣太 の長屋」の「観客の眼は、女の方に向くからね」と述べた「失敗」であろう。 多重露光で映し出された小波の手紙の後、蠣太はもし誰かに見られては困ると思い手紙を燃 やすのであるが、その演出だと観客の眼が小波に向き、印象深く小波の恋心が受け取れるので 映画での描き方のほうがいいのである。 なぜならば、もし小波が書いた恋文を誰かに見られたら小波に迷惑がかかり、せっかくのご 奉公がお役御免となるかもしれない。それを危惧した蠣太はあえて手紙を燃やした、と言う内 面描写の行動を描くのならば、なおさら小波の印象が強い方が好都合である。それは手紙を燃 やす行為に、小波の恋心を守ろうとする蠣太の気持ちが印象深く受け取れるからである。 ではなぜ「観客の眼は、女の方に向く」のがいけないのか、それは小波の恋心を多重露光で 映し出すという手法を使用して描いたにもかかわらず、 画面から小波の恋心を受けた蠣太の“動 悸”が分かる描写がないからである。つまり、思いがけない返事を貰った蠣太の、小波に対し て好意を感じ始めた恋心を現す内面の人物描写が無いのである。 その蠣太の人物描写があれば、小波の家を訪ねる事が自然に受け入れられ、ラストがより引 ♯ き立つのではないかと考える。蠣太の人物像にもう一つの表情を与えるその伏線を「S 85 蠣太の長屋」で描き、それをラストシーンで小波が受けて終わる。 伊丹万作が「失敗した」と後悔した部分は、そこではなかったかと考えるのである。 またこの二人の関係の結末と、次の項で述べる伊達騒動のクライマックスと言うべき原田甲 斐と伊達安芸との刃傷場面が原作には描かれていない、映画と明らかに違う二つのシーンであ る。 「いずれも志賀直哉が書かなかった部分で、伊丹万作の演出として、ことに注目されると 48 ころである。 」 と言われるように伊丹万作が映画「赤西蠣太」の為に創りだした“幻想”で ある。 昭和 13 年 (1938 年 ) に発表した「時代映画の演技について」に、 「現代映画はリアリズムを 基調とし、時代映画はロマンチシズムを基調とする方がよいと思う。もちろんその反対の場合 49 もあり得る」 としながらも、時代劇にロマンチシズムを求めたのも、その中に映画には限界 がある内面の心理描写を、時代劇と言う枠の中で表現したかったのだろうと思う。 (4) 文語と口語にみる時代劇の近代化 京都精華大学紀要 第四十号 ― 205 ― 原作と明らかに違うもう一つのシーンが、伊達家の陰謀を謀る伊達兵部の一味の原田甲斐が、 幕府審問所で伊達安芸を切りつける刃傷場面である。この刃傷場面が原作には無く、 「間もな く所謂伊達騒動が起こったが、長いゴタゴタの結果、原田甲斐一味の負けになった事は人の知 50 る通りである。 」 とだけ書かれており、映画のような立ち廻りは描かれていない。この場面 を伊丹万作は敢えて歌舞伎調で描き、映像的解釈を加えている。 今村太平によると、 「甲斐を始め、伊達安芸や正岡はものものしい文語調で描かれ、蠣太は 口語調で動いている。この二つの時代の様式の、一つの構成を形作るやうな対決の中にも、我々 は日本映画の時代劇と現代劇との対立を見るであろう。それはただ、時代劇の旧い様式に絶え 51 52 「伊丹万作の思想」 では「こ ず悩まされている作家によって自覚されたもので」 あると評し、 の唯一の動的場面は、ことさら歌舞伎風に演出され、それにつづくラストシーンの静的日常的 場面に対照される。このコントラストは見事だが、ここに歌舞伎の世界を否定した近代主義者 伊丹万作の思想が躍如としている。 」と言い、さらに「伊丹万作は剣戟を否定し、演技と場面 を日常化し、その興味を外面的な活劇から、人間の思想と心理と言う内面の世界に向ける事に よって時代劇を近代化した。 」と述べている。 # 今村太平が「文語の世界」と指摘している様に、 「S 34 玄関」で駕籠から原田甲斐が降り て伊達兵部邸の廊下を歩く場面で、蠣太たちが廊下に正座しているところを原田甲斐の目線で 移動撮影し、そのバックに歌舞伎を思わせる黒御簾音楽が流れ、台詞においても歌舞伎「実録 先代萩」そのままの台詞 53 を語らしている。 「赤西蠣太」の登場人物の中で、伊丹万作は原田 甲斐に対し歌舞伎調で演出している。 さらに原田甲斐は蠣太が屋敷から抜け出した理由を聞きいた後、すぐさま間者と察知し、蠣 太と青鮫に向け刺客を送るのだが、その際にも原田甲斐は口語調で演出されている。 文語の世界と、口語の世界を対決させようとして、ラスト付近に原田甲斐の立ち回りのシー ンを入れ、さらにその次のシーンでは蠣太が小波を訪ねるシーンを入れている。確かにそれは、 文語の世界と口語の世界を対立させ、口語の世界を押し広げてユーモアのあるラストで締めく 54 くっている。従って今村太平が言った「時代劇と現代劇との対立」と指摘する事はできよう。 ♯ では原作にはない刃傷の立ち廻りの S 109 を見てみよう。 109 (F・I) 審問所 ( 音楽の爆発 ) T「寛文十一年三月二十七日」 このタイトルがパラリと落ちると、 ○画面衝立の一部。 パッと血しぶきがかかる。( カメラ後退。) ― 206 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に 原田甲斐が衝立を小楯に小刀を振り上げ、 伊達安芸が扇子を前に突き出して左手を畳についてからだを支えている。 ○進む甲斐、上半身。 ○俯瞰の混乱。 ○俯瞰の混乱。 ○足の混乱。 ○退る安芸。 ○大きな襖がバタバタとと締め切られる。 大きな杉戸が締め切られる。 ○上下が右往左往。 ○甲斐と安芸の闘争。 ○襖のむこう。( アオる。) ○戸のむこうで騒ぐさむらいたち。( 俯瞰 ) ○掻き分けて進む外記。( 移動 ) ○廊下の一隅から出て行く柴田外記。 ○甲斐と安芸。 外記が甲斐を抱える。 甲斐、外記を引きずる。 ○起き上がる安芸。 ○甲斐、安芸を斃す。 ○外記、抜討ちに甲斐を斬る。 ○甲斐、血潮に染みながら再び立つ。 ○外記も傷つきながら再び一刀を加える。 ○甲斐、衝立に摑まる。手だけ残って、姿、むこうに消える。続いて手も消える。 (F・O) 55 この映画の元になった「先代萩」であるが、 このシーンは特に歌舞伎「伽蘿先代萩」 の「刃 傷の場」と共通するところがある。例えば舞台でも映画と同じ「雲龍の墨絵」の衝立が置かれ、 原田甲斐に相当する仁木弾正の衣装が白のじばん、素網を着用している。また立ち廻りの動き も、人形浄瑠璃を思わせるような簡潔的な動きである。 この状況から考えれば文語の世界と口語の世界との対決と考えられても不思議ではないが、 台詞が一切出てこないのに文語の世界と言いきれるのだろうか。またバックに流れる音楽は歌 京都精華大学紀要 第四十号 ― 207 ― 舞伎調とは言い切れない。原田甲斐が登場した場面と比べても明らかに受ける印象が違うのだ。 つまり、この刃傷の立ち廻りは文語の世界とは程遠い感じがしてならない。 伊丹万作は映画のヤマ場に、何故中途半端な文語の世界を持ち込んだのだろうか。 それは伊丹万作が昭和 7 年 (1932 年 ) に脚本・監督した「国士無双」と通じるところがある のではないかと考える。 「国士無双」は権威を否定した喜劇映画であるが、 「赤西蠣太」は当時、 新しい時代劇が制作されつつあった中で、過去の時代劇であった“文語世界の様式”を取り入 れた“様式主義的傾向”を示唆した諷刺的なシーンであったのだろうと考える。つまり、ユー モア感のある原作「赤西蠣太」を、さらに風刺的喜劇映画として制作したのだ。 伊丹万作はそれまでの作品にユーモア感のある雰囲気を盛り込んで来た。それは昭和 11 年 56 (1936 年 ) に発表した「ルネ・クレール私見」 の中で発表した言葉に集約されている。 「ルネ・クレールの作品にはパリ下町ものの系列と諷刺ものの系列との二種ある事は万人の ひとしく認めるところである。そして、それらの表現形式は下町ものの場合は比較的リアリズ ムの色彩を帯び、諷刺ものの場合は比較的象徴主義ないし様式主義的傾向を示すものと大体き まっているようである。 」と述べているように、青年期に喜劇の西洋映画を好んでいた伊丹万 作にとって、諷刺的な喜劇作品を生むルネ・クレールから受けた影響は皆無とは言えないであ ろう。 また文語の世界と口語の世界の対決が、時代劇の近代化につながっているとは思えない。な ぜなら口語を使った時点で近代化しているからだ。また今村太平は「伊丹氏の剣戟否定はその 57 一貫した平和思想にもとづいている」 と言い、冨士田元彦は「伊丹は、潔癖な性格のせいも 58 あるが、殺伐な殺しあいを画面に見せるのをきらった。 」 と述べているのだが、原作に描か れていない刃傷騒動のシーンをわざわざ創っている事自体、剣戟を否定しているとは思えない。 # 例えば「S 37 奥殿」で連判状に「謀反だ」と言って署名を拒否した興津を部屋から連れ去 り、別の部屋で興津を殺す場面で絶叫だけが聞こえる演出も、映画の省略法を用いているが、 原作に描かれていない“殺し”の場面を創っている。 青鮫が蠣太の天井裏の報告書をばらされまいと警戒して按摩安甲を殺す場面では、蔵の陰に 隠れて青鮫の抜刀する気合が聞こえたと同時に、安甲の鼻歌が聞こえなくなる。これも殺す場 面を映さずに観客のイメージに訴える“殺し”の省略法の演出であるが、原作には安甲が殺さ れる場面は「それから二三日した朝だった。仙䑓坂を下り切った所に按摩安甲の斬り殺された 死骸が横たわってゐた。それは首筋を背後から只一太刀でやった傷だった。 」と書かれており、 殺す場面はない。伊丹万作は原作のイメージを壊さず映像化したに過ぎない事が分かる。 # # 「S 109 審問所」の刃傷の立ち廻りは映画だけの創作 「S 37 奥殿」の連判状のシーンと、 されたシーンになるが、ラストより前に殺し合いの場面を見せると、ラストの立ち廻りで原田 ― 208 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に 甲斐が白刃に倒れて行く姿が印象に残らない事もあり、この映画のユーモア感を損ねない為に、 平和主義と言う事ではなく敢えて殺伐とした描写を避けたのだろう。またシーンの最後に屏風 の後ろから原田甲斐が柴田外記に斬りつけられるのだが、斬りつける所は屏風に隠れて映って いない。しかし、 その後原田甲斐が柴田外記に脇差を振り上げ斬りつける所は確実に画面に映っ ているのである。この事から「伊丹氏の剣戟否定はその一貫した平和思想にもとづいている」 60 とは言えないであろう。 さらに「文語の世界と、口語の世界を対決させ、時代劇を近代化した」と言う事であるが、 61 、 歌舞伎「天衣紛上野初花」 同年に公開された山中貞雄の「河内山宗俊」 も講談「天保六花撰」 を元に脚色された作品である。 「河内山宗俊」はユーモアの中に淡い人情を出した悲劇物語で あるが、文語の世界は無く“マゲをつけた現代劇”と称されるくらい、侍言葉を除いては口語 調で描いている。 従って「赤西蠣太」を用いて「時代劇を近代化した」と評するのは、いささか無理があろう。 昭和 6 年 (1931 年 ) の映画評論に「 「女と海賊」 「萩寺心中」 「雁の群」等の一群の時代劇は、 忍術物、武勇物、侠客物など従来の所謂舊劇を清算して了った。單に形式ばかりでなく、内容 62 「赤西蠣太」が作られる以前には、既 に於いて、可也の新味をくわえた。 」 と書かれており、 に時代劇に変化があり、昭和 11 年 (1936 年 ) に文芸映画の流行とともに、さらに時代劇にも変 化が起こりつつあった最中に製作された「赤西蠣太」と考えるのが自然だと思う。 5. 終わりに 63 「伊丹万作の映画的基調は淡いニヒリズムを帯びた明朗性」 だと評された伊丹万作は「赤 西蠣太」以降、昭和 18 年 (1943 年 ) の「無法松の一生」を脚色するまで 7 年間の間、たった 4 本しか制作していない。病床だったせいもあるが、 「赤西蠣太」以降、時代劇を製作していな い事を考えると、非常に残念である。 昭和 21 年 9 月 21 日に 47 歳で亡くなるまで監督した作品は 26 篇 ( うち 2 篇は共同監督 )、 執筆した脚本 ( 脚色 ) は 30 篇を超える。また「赤西蠣太」 「気まぐれ冠者」 「巨人伝」 「国士無双」 のたった 4 篇が不完全な状態で現存するのみである。しかし、作品の評論やシナリオ、そして 数多くの文章が現存する事により、氏の映画芸術に触れる事が出来るので、脚本 ( 脚色 )、監 督としての“幻影”を今後さらに明らかにしていきたい。 京都精華大学紀要 第四十号 ― 209 ― 注 1 『映画評論』映画評論社、昭和 9 年 10 月号、 「映画と文学の交流」pp.34 ∼ 35。 2 『RKO 社』当時はアメリカのワーナー社、パラマウント社、フォックス社と並ぶビッグ 5 と呼ば れた映画会社であった。現在は RKO の子会社が名前を復活させ存続させている。 3 『映画評論』映画評論社、昭和 9 年 10 月号、 「映画と文学の交流」pp.46 ∼ 47。 4 『映画作家 伊丹万作』冨士田元彦著、筑摩書房、昭和 60 年 11 月 5 日発行、初版 pp.112 ∼ 113。 5 『伊丹万作全集 2』筑摩書房、昭和 57 年 6 月 25 日発行、第三版 pp.240 ∼ 241。 6 同上、pp.242 ∼ 243。 7 『影画雑記』伊丹万作著、第一藝文社、昭和 12 年 12 月 20 日発行、初版 pp.4 ∼ 6。 8 『映画作家 伊丹万作』冨士田元彦著、筑摩書房、昭和 60 年 11 月 5 日発行、初版 pp.113。 9 1910 年 ( 明治 43 年 ) 刊行の『白樺』を中心に活動。参加者の多くは上流階級出身者である。主に 人道、個人、理想主義を謳った作品が多い。 10 本稿の原作は改造社刊の『志賀直哉全集』昭和 6 年 6 月 15 日発行を引用する。 11 同上、p408。 12 『志賀直哉「赤西蠣太」のリアリティ』髙根沢紀子、立教女学院短期大学紀要 41、2009 年。 13 『志賀直哉全集』志賀直哉著、改造社、昭和 6 年 6 月 15 日発行、p.408。 14 『伊丹万作』米田義一著、武蔵野書房、昭和 60 年 12 月 12 日発行、初版 p.294 ∼ ※以下の伊丹万作の経歴は「年譜」による。 15 伊藤大輔 ( 映画監督 ) 伊丹万作より一年後輩で、同じ中学であった。 16 『キネマ旬報別冊 日本映画作品大鑑 3』キネマ旬報社 p.103 「弗対弗」 ( 原題 Dollar for Dollar) 2 月 11 日封切。 17 『映画大観』活動写真研究会編、春草堂、大正 13 年発行、初版 pp.98 ∼ 99。 18 『映画大観』によると「三銃士」 「奇傑ゾロ」 「カリガリ博士」 「カラマゾフ兄弟」など。 19 『伊丹万作』p.301。 20 同上、pp.26 ∼ 27。 21 『志賀直哉全集』p.49。 22 『伊丹万作全集 3』筑摩書房、昭和 57 年 7 月 25 日発行、第三版 p.231。 23 『映画作家 伊丹万作』冨士田元彦著、筑摩書房、昭和 60 年 11 月 5 日発行、初版 p.115。 24 『伊丹万作全集 1』筑摩書房、昭和 57 年 5 月 25 日発行、第三版 pp.34。 25 同上、p.34。 26 『映画作家 伊丹万作』p.115。 27 『伊丹万作のシナリオ - その技法と思想 ( Ⅰ )』シナリオ作家協会、昭和 37 年 2 月号発行。 ― 210 ― 「赤西蠣太」にみる伊丹万作の表現の特色―原作に描かれていない場面を中心に 28 『伊丹万作全集 2』p.34。 29 『志賀直哉全集』p.49。 30 『伊丹万作』p.7。 31 『純粋映画記』北川冬彦著、第一藝文社、昭和 11 年 10 月 25 日発行、初版 pp.149 ∼ 151。 32 同上、p.151。 33 『映画展望 伊丹万作追悼』第二巻第一号、三帆書房、昭和 22 年 1 月 20 日発行、pp.15 ∼ 16。 34 同上、p.16。 35 『志賀直哉全集』p.54。 36 『伊丹万作全集 3』p.266。 37 『志賀直哉全集』p.54。 38 同上、p.54。 39 この場合の『視点』は伊達家に謀反を企てる伊達兵部家を内偵している間者蠣太側の『視点』で あり、物語の進行上における『語り口』でもある。 40 Fix〈フィックス〉意味:固定 撮影用語。 41 BG〈 business + girl( ビジネスガール )〉和製語。 42 『映画「赤西蠣太」 』佐藤忠男、伊丹万作全集月報 2、昭和 36 年 8 月発行、p.6。 43 衣笠貞之助 ( 映画監督 )。 44 『純粋映画記』p.166。 45 『志賀直哉全集』p.55。 46 『伊丹万作』p.9・p.15。 47 同上、p.9。 48 『映画作家 伊丹万作』p.137。 49 『伊丹万作全集 1』p.100。 50 『志賀直哉全集』p.55。 51 『映画作家 伊丹万作』p.125。 52 『伊丹万作の思想 - 主としてそのシナリオから』今村太平、文学 vol.30、岩波書店、昭和 37 年 6 月 10 日発行 p.595。 53 同上、p.596。 54 同上、p.595。 55 『伽蘿先代萩』歌舞伎、及び人形浄瑠璃の演目。 56 『伊丹万作全集 2』pp.367 ∼ 372。 57 『伊丹万作の思想 - 主としてそのシナリオから』p.592。 京都精華大学紀要 第四十号 58 『映画作家 伊丹万作』p.128。 59 『志賀直哉全集』p.50。 60 『伊丹万作の思想̶主としてそのシナリオから』p.592。 61 『河内山宗俊』原作・監督 - 山中貞雄、脚色 - 三村伸太郎、出演 - 河原崎長十郎、原節子 昭和 11 年度作品。 62 『映画評論』映画評論社、昭和 6 年 9 月号「日本映画芸術史」p.64。 63 『映画評論』映画評論社、昭和 8 年 1 月号「稲垣浩と伊丹万作」p.27。 ― 211 ―