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オホーツク交流圏の史的形成過程 - 国立大学法人 北海道教育大学
オホーツク交流圏の史的形成過程 オホーツク交流圏の史的形成過程 ─ ロシアの進出後のオホーツク交流圏と日本 ─ 宮 正 勝 (北海道教育大学釧路校社会科教育研究室) ─ ─ になる。 はじめに 列島は南北に長く連なり,その距離は東京から日本列 北海道は,南北に長い日本列島の中で固有の境域を持 島最北端の稚内までにほぼ匹敵する。千島列島が視野に 倍に広がるこ つ地域である。グローバリゼーションが進行する中で北 入ってくれば,私たちの空間認識は, 海道とオホーツク交流圏の関わりは強まりつつあり,冷 とになるのである。しかし,千島列島が日本人の視野に 戦体制の崩壊によりそれは加速している。ところが,冷 入ったのは極めて新しく,その実態に対する関心も理解 戦体制の下でオホーツク海域の歴史の扱いは社会科教育 も極めて乏しいという現状がある。 の中で大きく後退してしまったまま戻っていない。北海 道の歴史学習・地域学習において,オホーツク交流圏の 歴史を積極的に扱うことは, 世紀の北海道の在り方を 考えた場合極めて重要である。将来的には,世界史,北 千島列島の帰属は, 年にロシアと日本の間に千島 樺太交換条約が締結されて,一応の決着がつき,千島列 年 島は日本の領土ということになった。その翌年, 月の太政官布告により,新たに日本領となったクリル 郡に区分 東アジア史,日本史を一体化したオホーツク交流圏の歴 諸島は,ウルップ,シムシル,シュムシュの 史が整理され,補助教材が作られて行く必要があろう。 されて千島に編入されている。千島列島のうち,北部千 本稿は,ロシアが同海域に進出する 世紀以後の史的変 島は僻遠,寒冷の地としてほとんど返り見られず,中部 遷を つの時期に分けて整理したものである。オホーツ 千島は農林省の管轄下におかれて,幾つかの毛皮獣飼育 ク交流圏を考える場合,それ以前のアイヌなど狩猟・漁 場が作られ,一般の移住は許されなかった。 労・採集民の交流が大きな比重を占めるが,紙幅の関係 にウルップ島,マトゥア(松輪)島,オネコタン島,シャ で今回は取り上げないことにした。 本稿のような叙述を, シコタン島, ウシシル島などに飼育場が設けられていた。 小・中・高のそれぞれの段階で,副教材に加工して行く 南部の国後島,エトロフ島では移住が行われ, には両島に約 ことが,今後必要な課題となる。 北海道,特に道東と密接な関係を持っているにもかか わらず,日本人一般の視野から消え去ってしまった千島 列島は,壮大な広がりをもっている。北海道の最北,知 人から 年まで 年代 人の定住が見られ,夏の漁 期になると数千人の季節労働者が集結したという。 千島列島の開発は順調には進まなかった。 その状況は, 昭和 年 月に東京の帝国ホテルに於いて,北海道庁と キロ 北海道協会の共同主催で,千島北洋開発期成招待会が開 の小島からなる千島列島 かれたことからも理解される。この会議は,千島列島に (クリル諸島)が連なり,太平洋とオホーツク海を区切っ ついて十分な知識をもっていない東京の要人たちに千島 床半島からカムチャッカ半島にかけて,延々 メートルの距離に の大島と ているのである。司馬遼太郎は, オホーツク街道 と 開発の必要性をアピールする啓蒙的な会だったので,そ いう著作の中で,オホーツク海を大きな湖になぞらえて こでなされた講演は,余り千島についての知識をもたな いるが,千島列島は,太平洋という大洋からオホーツク い人たちを対象とするものであった。いまや,千島列島 海を隔てる垣根の役割を果たしている。島々の総面積は に対するイメージをなくしてしまった私たちが千島列島 平方キロメートルで,最大の島エトロフ島の面積 の概要を知り,イメージ化する上で,その座で行われた は約 平方キロメートルで,東京都の面積の約 倍 講演は役にたつ。 宮 そこで,千島北洋開発期成招待会紀要 にもとづいて, 正 勝 き継いで行くのか,樺太の天然ガスの採掘などにより弾 千島列島の簡単なイメージを描き出してみることにす みがかかるであろう開発とどのように折り合いをつけて る。まず,東武は, 千島列島の歴史的考察 いくのか,などについて大きなスケールで考えていく必 という講 演で,(千島列島の)中南部諸島即ち国後,色丹,択捉 の 島には,約 万 ・ 要がある。 千人ばかり居住して居ります が,中部千島は南は得撫島から温禰古丹に至る大小十数 島が,ラッコ,オットセイの保護と,養狐事業区として 第 章 漂流民デンベイとオホーツク海域への ロシアの進出 封鎖され,全然天与の宝庫が放棄されて居るのでありま ロシア人がオホーツク交流圏に進出したのは, す。北千島と称するものは,幌延,占守,阿頼度,志規 林諸島であります と,大まかな概況を述べている。 のことであった。それから また長くなるが,北海道庁の河港課長の中村廉次が 行った 千島概況 という講演の内容を抜粋しながら紹 介してみると,次のようになる。 アはベーリング海におけるラッコ猟に主眼をおいてお 千島列島は,いかなる所かと申しますと,根室の沖 海里の間にある大小 称であります。その面積は約 番大きいのはエトロフ島の 年代までが,ロシア進出 後のオホーツク交流圏の第 期になる。この時期,ロシ り,オホーツク海域は従属的な海域とみなされていた。 にある国後島を始めとして,カムチャッカ半島のロパト カ岬の手前まで,約 世紀 タイガの毛皮を求めるロシア人は, 世紀末にシベリ アからカムチャッカ半島に至った。 世紀末から 世紀 の島の総 初頭にかけて行われたロシア人のカムチャッカ半島征服 方里でありまして,一 の過程で,アトラーソフはカムチャッカ西岸のイチャ川 方里で,鳥取県位の大き さであります。次は北にあるパラムシル島の 方里で, 河畔のイテリメン部落に捕らえられていた デンベイ という名の日本人の船乗りを取り戻した。 年に廻米 香川県,大阪府よりは少し大きい島であります。その次 船で江戸に向かう途中で暴風にあってカムチャッカ南岸 は国後,ウルップ両島で何れも約 方里,それからオン に漂着した大坂出身の商人,伝兵衛であった。仲間は, ネコタン,占守島,新知島でありまして,その他の島は 全て死に絶えてしまい,彼一人だけ生き残っていたので 皆 方里以下の小さい島であります。地勢は占守島を除 ある。 いた外は,何れも山嶽重疊という状態であります。 伝兵衛は,ヤクーツクからモスクワに護送され, 気候については,北海道と比較してそれほど寒くはな 年 月 日,プレオブラジェンスコエ村で皇帝ピヨート く,冬は札幌,小樽,夏は釧路のような気候であるとし ル 世に謁見し,日本の事情を説明した。かねてオラン て,次のように述べている。 ダ人などから 千島といえば寒かろうという考えは,直ちに頭に浮 金銀島 , 銀の島 の伝説を伝聞してい たピヨートル 世は,伝兵衛の日本の金や銀に対する話 かぶところでしょうが,事実は大変な違いであります。 に心引かれた。伝兵衛の話には,金,銀に関する話の断 (エトロフ島の)沙那測候所の観測によりますと,沙那 片が伺われたのである。 度を示す 伝兵衛は,自分の船が商品を金貨,銀貨と交換するた ことはないのであります。また農林省の養狐場の調査に めに江戸に赴いたこと,金貨は都と江戸で鋳造されてい よりますと,中部千島の新知島で零下 度,海軍の調査 ること,日本では金・銀・銅・鉄などの偶像を崇拝する によりますと,北の占守島で零下 度内外という記録が こと,中国人に金銀を売り渡していること,皇帝,長老 寒いということになって居ります。これを北海道旭川市 の家,最高の神殿は金張りになっていること,貨幣にウ 或いは帯広市の零下 度内外というのと比べると,非常 バン(大判)とコヴァーヌイ(小判)という金貨がある な暖気と申さねばなりません。ちょうど札幌,小樽のよ こと,を話した。また,千島列島で先住民は伝兵衛の一 で一番寒くても零下 度内外でありまして, うな状態であります。また夏は最高温度が沙那では , 新知島では 内外 (華氏 度内外) 占守島で 度(華氏 度 (約華氏 度 度 分) , 度)という記録が出ております。 行から重さ約 プード(約 キロ)の小形金貨が詰まっ た つの箱を取り上げたというのである。 ピヨートル 世は,オランダ人から東アジアの北方海 北海道本土では釧路とよく似ています。要するに千島の 域,日本などの情報を得ていたためにデンベイの黄金情 気候は,夏は釧路のようで,冬は札幌,小樽のようなも 報に強い関心を抱くようになった。ポルトガル人ジャ のであるということになります。 ン・ダ・ガマ,スペイン人ヴィスカイノ,オランダ人フ とかくオホーツク交流圏に関しては 北方四島の返還 リース,などの航海の結果,日本の東北海域には,金銀 にのみ注意が向けられがちだが,私たちはオホーツク海 島,銀の島,ステートラント(択捉島),カンパニラン という 交流の海 をどのように創るのか,千島,樺太, ト(ウルップ島) ガマランド,エゾ島などがあるとさ カムチャッカなどに囲まれた自然の宝庫をどのように引 れたが,実際のところは分からなかったのである。つま オホーツク交流圏の史的形成過程 り,霧に閉ざされた不明確な海域だったのである。 年 もしかしたら,毛皮以上に価値がある大量の黄金,銀 が得られるかも知れないと,ピヨートルが考えるのも無 らカムチャッカ半島の西岸ボリシェレックを経て,陸路 年 と海路に分れて移動を続け, 月,やっとのこと の実像を で探検隊はニジニ・カムチャックに着いた。サンクト・ つきとめなければならない。ピヨートル 世は,早速同 ペテルブルクを出発してから実に 年以上の歳月が費や 理はなかった。辺境の先の海に浮かぶ 月,ヤクーツクの長官に対して 年 日本 月にやっとのことでオホーツク港に達した。そこか 人の部隊をカム されたのである。探検隊はニジニ・カムチャックで約 チャダール砦に派遣し,先住民をロシア臣民にしてヤサ カ月の歳月を費やし,全長 クを課すこと,日本へのルートの探索,日本の軍事状況 探検船,聖ガブリエル号を建造した。 の把握,日本の商品の種類,日本人が望むロシア商品の 月 日,ベーリングと フィート( メートル)の 人の乗組員は, 年分の食 調査,通商関係の樹立を申しつけた。その後 年間,千 料を積み込んだ聖ガブリエル号に乗ってカムチャッカ川 島列島沿岸海域に対する一連の探検隊の派遣がなされる の河口から航海に乗り出し北東に航海した。 しかし,ベー ことになる。千島列島は,日本に至るルートの入り口と リングは,アジアの海岸線が北緯 度 して位置づけられたのである。 リカ大陸と陸続きになっていないことを確認したのみで また,より詳しい日本情報を引き出すために,伝兵衛 にロシア語の読み書きを教え, 同時にロシア人の子供 , 人に日本語の読み書きを教えるように命ぜられた。 年にサンクト・ペテルブルクが建設されたが,ピ ヨートル 世は勅令で翌々年に同市に日本語学習所を設 立している。ピヨートル 世の日本に対する強い関心が 分以南ではアメ あった。彼が,探検から戻った時,すでにピヨートル 世は世を去っており,時代はエカテリーナ 世の時代に 移っていた。 年になると,ベーリングを隊長,チリコフを副官 とする 人余りからなる大規模な探検隊が再度組織さ れた。ベーリングの 度目の探検である。探検の目的は, 伺える。伝兵衛は日本の漂民を教師としてロシア人に日 アメリカ大陸の海岸の発見と北アメリカへの航路の開 本語を伝授したが,それを果たした後に帰国を許すとさ 発,領土の拡大,港の確保,金銀などの獲得が目的であっ れていた約束は守られず,伝兵衛はギリシア正教徒とな た。この時の探検事業は大規模,かつ体系的であった。 副官の 人シュパンベルグは,千島列島の地図の作製 り,名前もガヴリエルと改めてロシアで没した。 シベリアの東には,オホーツク海とベーリング海とい と日本への航路の探査が命じられた。更には北極海の航 う未知の海が広がっていた。シベリアと北アメリカ大陸 行の可能性の調査,シベリアの少数民族の学術調査も含 に囲まれた約 万平方キロの海域がベーリング海であ る。アラスカのユーコン川などが流れ込むベーリング海 は,ベーリング海峡で北極海とつながり,霧の発生が多 く,冬は北緯 度位まで氷結し,その南でも流氷が多く て航行は不能であった。この闇に閉ざされた海域の探検 に強い興味を持ったのがロシア皇帝ピヨートル 世だっ まれていた。学術探検隊の 員であった ンニコフは, 人で全長 キロのカムチャッカの海岸 キロ以上を踏破し,膨大な情報をロシア 線と内陸部 にもたらした。 千島列島を調査し,日本への航路を探索する任務を 負ったシュパンベルグは, メートルの帆船を建造し, た。 歳のクラシェ 年 月に メートルと 隻の帆船を率いて千島列島 ピヨートル 世は,アジアとアメリカとの結び付きの を南下した。そのうち 隻は根室付近までの南下を果た 年,死の 週間前にピヨー した。しかし,冬が迫ってきたのでカムチャッカ半島の 解明を求めたのである。 トル 世は,北極海経由で中国,インドとの貿易ルート の開発を目ざし,そのためには先ずシベリアと北アメリ カが陸続きであるか否かを調べることが必要であるとし ボリシェレックに戻り越冬した。 翌年 月 日,シュパンベルグの艦隊はニジニ・カム チャックを出港して千島列島沿いに南下し, 月 日に 年間ロシア海軍に勤務していたデンマーク人ビテ は牡鹿半島先端の網地島の沖 キロに停泊し,日本人漁 ウス・ヨナッセン・ベーリングに探検隊の組織を命じ 民と出会い,訪れた仙台藩の役人,千葉勘七郎を船上に て, 隻の帆 招いて交歓している。急報を受けた,仙台藩主伊達重宗 船を建造し,北の陸地を航行して,この大陸がアメリカ は,この出来事を江戸の老中,本多中務忠重に届け,ロ と接する場所を探し,その地域の地図を作成することが シア人から得た物品の鑑定を長崎奉行に依頼した。鑑定 任務づけられていた。 を行ったオランダ商館長フィッセルは,銀貨は た。探検隊には,カムチャッカで 人の隊員,馬車 隻あるいは 台分の大砲,弾丸,帆布,索具, 錨,鎖,釘など現地で調達できない品物とともに 年 に首都サンクト・ペテルブルグを出発したベーリングは キロの泥濘の道を踏破し, ヤクーツクを経由し, むすこ うびや(ロシア)国 のものであり,紙札はトランプで あると確認した。シュパンベルグが入手した小判,銅銭, 紅白の反物,黄色い羽織りは,サンクト・ペテルブルグ に送られた。 宮 他方,千島列島の航行中に霧ではぐれてしまった 隻 は千葉県の外房天津村沖の停泊し,乗員が食料の補給の ために上陸している。こうしたロシア艦の来航は, 元 文の黒船 と言われる。 正 勝 なる露米会社の代表レザーノフが長崎に乗り込むが,目 的を果たすことができなかった。 ロシアの毛皮商人が先住民アリュート人を使役して盛 んにラッコ猟を行っていた時期に,アリューシャン列島 ラッコ のアムチトカ島に漂着してラッコ猟の毛皮商人に救われ の海 であることをい明らかにした。それが,金鉱の開 たのが,伊勢国若松村出身で白子(しろこ,現在の鈴鹿 他方,ベーリングの航海は,ベーリング海が 発を目指す ゴールド・ラッシュ ならぬ, 柔らかい 市)の船頭,大黒屋光大夫だった。 年 月,紀伊藩 黄金 と呼ばれたラッコの狩猟ラッシュにつながった。 の回米などを積んで江戸に向け出港した商人彦兵衛の持 ラッコ受難の時代が始まったのである。 ち船,神昌丸は,駿河湾で 勢山の崩るるごとき 激し ラッコは,森の中に潜むクロテンなどとは異なり,海 い暴風にあって帆柱も舵も奪われ, カ月大海を漂った 頭から 後,アリューシャン列島のアムチトカ島にたどり着いた 草が繁茂する海域に数 頭位が群れをなし て生活していた。荒れた海を除けば,非常に狩猟しやす のである。 人が救助されたが, 年間のアムチトカ島 く,うまく群れにぶつかれば一挙に大量の毛皮を手にす での厳しい生活で 人が世を去り,生き延びたのは船長 ることができたのである。まさに 濡れ手で粟 である。 の光大夫以下 人だけだった。 カムチャッカ半島などのロシア人の猟師,毛皮商人たち この当時,アリューシャン列島でのラッコ猟は,乱獲 は,海域世界に今までみられなかった高価な毛皮が存在 により資源が枯渇し,狩猟の中心をアラスカ湾に移そう 年,イルクーツクの毛皮商人グレゴ することを知ると,莫大な利益をもたらすラッコの毛皮 としていた。 に先を争って群がった。イギリス人,アメリカ人,スペ リー・シェリホフは自ら イン人も,ラッコの毛皮に群がり,次々と北太平洋の猟 の占領と競争者の排除に乗り出し, 年にはアラスカ半 場に参入していった。コマンドル諸島からアリューシャ 島の南のコディアック島に前線基地を設け,アリュー ン列島,アラスカ沿岸,そして千島列島というように, シャン列島からアラスカ,北アメリカの太平洋沿岸に ラッコの凄惨な殺戮が続いた。その結果, 世紀には数 ラッコ猟の猟場を移している。 彼は行く行くは, カリフォ 十万頭はいたであろうと推測されていた北太平洋のラッ ルニアにまで狩猟地を広げるつもりであった。 コは,急速にその数を減らしていった。 年に日英米 露の カ国の間でラッコ・オットセイ国際保護条約が締 結された時点では,北太平洋のラッコは, の群, 光大夫一行は, 人の猟師を率いてアラスカ 年に 人のロシア人とともにアム チトカ島を経ってニジニ・カムチャックで越冬し, 年の夏にオホーツク港に渡った。当時のシベリアを代表 頭位にまで激減していた。ラッコは,絶滅寸前だったの する港であったオホーツクについて,光大夫は, 此地 である。 は東南諸方海舶(かいはく)輻湊(ふくそう)の埠頭(ふ 年にイギリスのキャプテン・クックが北太平洋を 世の命を受けたラ・ペ 又此所に船匠(せんしょう,ふなだいく)多し。光大夫 ルーズが日本海から宗谷海峡を通りオホーツク海に至る 等を護送(みおくり)の舶(ふね)も此地にて造り,帰 探検し, 年にフランスのルイ なば)にて頗(すこぶ)る繁盛(はんせい)の地なり。 航海を行うと,エカテリナ 世は雇いいれたイギリス人 国の節も此処より開洋(しゅっぱん)せしとぞ。按るに ビリングスに命じてカムチャッカからアリューシャン列 ゼヲガラヒに云,ヲコツコイは其地極て広く,其府城(ふ 世は,清帝国 じょう)は北極五十九度の地にあり。カムシヤツカ其他 とはキャフタで毛皮貿易を行うのみで陸上での南下は行 東南の諸島へ渡る船は皆此地より開帆(しゅっぱん)す わず,アリューシャン列島など北太平洋海域での勢力拡 るなり。其舶(ふね)も皆此地の船匠(せんしょう)の 大と千島列島への南下,日本との交易ルートの開発をめ 造る処なりとぞ と,記している。 島に至る海域を探検させた。エカテリナ 光大夫の一行は,オホーツクからヤクーツクを経て, ざした。 年 第 章 食料供給基地として注目された日本 大黒屋光大夫とラックスマン 年代から ク交流圏の第 年までがロシア進出以後のオホーツ 期である。この時期にはロシアのラッコ 月 日にイルクーツクについた。イルクーツク の東シベリア総督に,日本への帰国を嘆願するためで あった。イルクーツクは, シベリアのペテルブルグ としばしば呼ばれるシベリアの中心都市であり,シベリ アの毛皮商人の事務所,モスクワやサンクト・ペテルブ ルグの豪商の連絡事務所が設けられており, 対モンゴル, 年以降は,日本語の研 猟が軌道に乗ったにもかかわらずシベリアを越えての食 中国貿易の拠点でもあった。 料補給は困難を極め,切実に日本からの食料供給が求め 究もなされるようになっていた。 られた時期である。この時期,ついにラッコ猟の中心に イルクーツクにおいて,光大夫は,ウダからアムール オホーツク交流圏の史的形成過程 川河口に出て,サハリン,蝦夷,クリル諸島,日本を訪 上の歳月が費やされた。特に れる計画を建てていたキリル・グリゴリェヴィッチ・ 対中国貿易独占が停止され,キャフタでの毛皮貿易は私 ラックスマンと知り合った。ラックスマンは,フィンラ 的に行われるようになると,清帝国における毛皮の需要 ンド人の動植物学者,化学者であり,ペテルブルク大学 が極めて高かったこともあって,キャフタでの毛皮貿易 の教授を経て,当時はイルクーツクでシベリアの動植物 は, の研究をしながらガラス工場を経営していた。ラックス 陸送するために,キャフタに毛皮を送るには時間がかか マンは,光大夫から得た日本の手書き地図を, サンクト・ りすぎ,市場規模も広東には及ばなかった。 年代から 年,ロシア政府による 年代まで,隆盛を極めた。しかし ペテルブルグの科学アカデミーに送付する一方で,政府 ラッコの毛皮が十分にはけきれなく滞貨が残るという の要人に自分の息子を団長とする対日使節団の派遣も建 状況を改善するには,ロシアの船舶を使ってアリュー 言した。日本は毛皮に対する潜在的な市場であり,何よ シャン列島と広東の間の航路を開いて直接交易を開始 りも食料,日用品などの補給基地として重要であった。 し,有利な条件で広東で毛皮を売却すること,更にペテ 年 月エカテリナ 世の命により,光大夫など ルスブルグとオランダ植民地の中心であるジャワ島のバ 人はラックスマンとともにサンクト・ペテルブルグにの ぼり,歓待を受けた。同年 月 日,エカテリナ 世は ラックスマンのプランを受け入れて,日本との通商関係 樹立のための使節団の派遣をピーリ総督に命じた。 年 年 月にイルクーツクに戻った。 月,探検隊の隊長であるラックスマンの息子, 歳の陸軍中尉アダム・ラックスマンをはじめ 人のメ 世 ンバーがオホーツク港に集結し,乗船のエカテリナ 要とする物資をアジアの市場から調達することを図らね ばならなかった。 月 にエカテリナ 世への謁見を果たした光大夫の一行は, モスクワ経由で タビア,さらにはインドとの交易も開始し,ロシアが必 年 月,露米会社本店は,皇帝アレクサンドル 世に請願し,北太平洋沿岸の会社領に世界一周の探検隊 を派遣して, 造船など会社の経営に必要な諸物資を届け, 会社が行う対日貿易,対中貿易,対東南アジア・インド 貿易などの通商活動を支援し,ウルップ島を拠点に対日 貿易を促進したい旨の要望を出し,国立貸付銀行から 号には,毛皮,ガラス器,ラシャなどの交易品が積み込 万ルーブルの資金の貸し付けと,探検のための食料,人 まれた。残留を希望した 人を除く光大夫ら 人も乗船 材の提供を求めた。皇帝は,即日,この要請を承認した。 月 日にオホーツク港 会社の植民地の全権,クルゼンシュタインに代えて世界 年 した。 エカテリナ 世号は, 年 月,皇帝はレザーノフを侍従長の名目で露米 を出港し,エトロフ島,国後島の間の海峡を抜けて, 一周の探検隊長,対日使節団長に任命した。ナデジュダ 月 号とネヴァ号の 日に根室の港に入った。松前藩との折衝で,一行は 陸上に設けられた宿舎で 年 月 カ月の越冬生活を送った。 日,ラックスマンと光大夫などの一行は, 幕府の役人が待つ松前に入った。エカテリナ 世号は松 前藩の船で箱館に入港し,そこから陸路,松前に入った を長崎に送り,ネヴァ号はアリューシャン列島に向かっ 年の冬にアラスカ湾のカディアク島で落ち合 た後, 年の春に広州に赴いて交易を行い帰国するとい い, う予定が組まれた。 年 のである。幕府は,老中松平定信の指導下に,光大夫を 引き取り,国書は受理せず,長崎以外では外国との交渉, 隻のうちナデジダ号は使節レザーノフ 月 日,首都サンクト・ペテルブルグの西方 キロのフィンランド湾の軍港クロンシュタットを出帆 交易は一切許されていないという国法を盾に,通商など した両艦は,大西洋を横断してアメリカ大陸南端のホー の希望がある場合は長崎に出向かせる方針をとった。そ ン岬を越えて太平洋にはいった。 両艦はサンドイッチ(ハ こで,ラックスマンは,キリシタン禁止令を遵守するこ ワイ)諸島まで行をともにした後別れ,レザーノフが率 とを条件に,船 隻の長崎寄港と乗組員の上陸を認める いるナデジュダ号は交易を求めて日本に向かい,ネヴァ という徳川将軍の信牌(入港許可証)を受理することに 号はそのまま北アメリカのカディアク島に直航すること なった。ラックスマン一行はエカテリナ 年 月 世号に乗り, 日にオホーツク港に戻った。 になった。ナデジュダ号は, 年 月 日カムチャッ カ半島のペトロパヴロフスクに入港して 年のキャフタ条約締結後,バイカル湖南方のア 年 し, 月 カ月を費や 日に長崎港に入港した。 ムール川に臨む国境の町キャフタが,ロシアと清の貿易 地に指定され,盛んに毛皮取引が行われていた。ロシア 世界に注目され始めるオホーツク海域とレザーノフ の露米会社はシベリアからイルクーツクに毛皮を集め, の訪日 キャフタ(シベリア中部,ブリヤート自治共和国の都市, ロシア人は,アリューシャン列島からアラスカに至る 貿易が許されていた唯一の国境の町)の市場に向けて陸 海域でラッコ猟を盛んに行なったのみならず,ラッコの 年以 毛皮を求め居住民のアイヌにヤサク(毛皮税)を課しな 送し,販売するので,ラッコの毛皮が売れるまで 宮 正 勝 がら,千島列島の南下を続けた。ロシア人は,千島列島 至りロシア人の居住を確認した。幕府は, 御試(おた を北のシュムシュ(占守)島 ホロムシリ(幌筵)島の めし)交易 と称して,東蝦夷地で近江商人が独占して 順で 島, いた長崎俵物の買い入れを行い, かなりの収益をあげた。 島と名付けながら南下し, 年にはラッ コが多数棲息するウルップ島(別名を臘虎[ラッコ]島 また,西蝦夷地隊は樺太においてアムール川流域との山 という)まで南下した。 丹交易の調査を行った。 こうしたロシア人の南下と蝦夷地への接近は, 赤蝦 年に東北地方の冷害や浅間山の噴火で天明の大飢 夷 の出現として松前藩に報じられた。しかし,松前藩 饉が起こると, は,転封を恐れて幕府には報告しなかった。当時,蝦夷 老中に就任した。定信は海防に意を注ぎ,蝦夷地調査は, 地(現在の北海道)を領地としていたのは松前藩であっ 中断された。しかし,蝦夷地での交易の利が厚いことを たが,蝦夷地では米ができなかったために,藩士(場所 知った幕府は, 御救(おすくい)交易 持)に 場所 を与えた。藩士は,それを豪商(請負人) イヌとの交易を行った。その過程で,場所請負人に虐待 に請け負わせた。 蝦夷介抱 されるアイヌの実情が理解されるようになってきた。 という名目で,年間の漁 年に意次は失脚し,翌年に松平定信が の名の下にア 獲収入の見込みをつけ,請負人は藩主に運上金を収めて この時期,松前藩では藩主の道広の奢侈な生活により 場所を請け負った。各場所には,支配人のいる運上屋, 藩財政が悪化し,家老蛎崎佐土一派が特定の商人と結び 番人のいる番屋が置かれ,アイヌを使役して各種の海産 付くことで財政難に拍車がかかっていた。 借金のかたに, 物を集めさせ,米,酒,たばこ,雑貨などと交換した。 藩主直轄であったエトモ,アッケシ,キイタップ,クナ 集められた海産物は松前,箱館に集まってきた各地の商 シリ,ソウヤなどの場所の運営が商人に請負わされた。 人に売りさばかれた。松前藩の蝦夷地支配は,海産物中 年に飛騨屋久兵衛が請負っていた国後のアイヌが 心であり,ロシアが重視していた海獣はあまり視野に 乙名マメキリに率いられて蜂起し,次いで目梨(根室付 入っていなかったのである。 近)のアイヌが呼応して蜂起し, つの地域の運上屋, 年,ウルップ島に居住していたロシア人数十人が 番屋,船などを襲い, 人が殺害される事件(クナシリ・ 隻の船に分乗し,国後の酋長ツキノエに案内されて, メナシの蜂起)が起こった。その理由は,蝦夷地が本土 根室近くのノッカマプに至り,通商を求めた。松前藩が と東アジア交易圏の中に組み込まれ,多数の和人を投入 年に厚岸に至っ してアイヌを大量に使役し,大型の網を使った鱒漁,締 た。松前藩は,厚岸でロシア人の要求を拒絶している。 粕,魚油の生産が盛んになり,アイヌの狩猟・採集社会 ただ,松前藩はその事実の幕府への報告を怠ったために, が維持できなくなったことにあった。 蜂起したアイヌは, 手間取っているうちに,ロシア人は翌 年には, アッケシのイコトイ,ノッカマフのションコ,クナシリ ロシア人は樺太(サハリン)にも上陸した。日本人は既 のツキノエなどに説得されて松前藩の鎮撫隊との戦いは に, 世紀初頭に樺太の南端部を訪れていた。 回避され, 人のアイヌが和人殺害のかどで処刑される 後に幕府から嫌疑を受けることになった。 年になると,フランス国王ルイ 世の命を受けた フランス人ラ・ペルーズが日本海から宗谷海峡を通過し てオホーツク海に入る航海を行い(そのために宗谷海峡 ことで収束した。 幕府は,その後東蝦夷地を仮直轄地となし,北辺防備 を重視した。 年,近藤重蔵は,日本で強まった対露 年 警戒心を背景にして組織された蝦夷地巡検隊に加わって と 年にはプロビデンス号に乗ったイギリス人のブロー 最上徳内とともに国後島を経由して択捉島に渡り,その は,国際的にはラ・ペルーズ海峡と呼ばれる), トンが, 回にわたりエトモ(室蘭)を訪れた。海洋世 地に 大日本恵土呂府(えとろふ) と書いた標柱を打 年幕府は,伊能忠敬に命じて 界で唯一空白地帯として残された, 日本列島の北辺海域, ち立てた。その翌年の 北太平洋への探検熱が高まってきたのである。その後, 東蝦夷地の海岸線を測量させ,後に間宮林蔵に西蝦夷地 年に前述したようにエカテリナ 世の命を受けて の海岸線を実測させた。両者は,後に幕府天文方,高橋 ラックスマンが漂流民の光大夫を率いて根室を訪れて通 景保により合わされて,ほぼ現在の北海道の地図と同様 商を求めたが,幕府により拒絶されている。それ以降, の精度の高い 蝦夷国測量図 年( 日本では北方のロシアに対する警戒心が強まった。 他方,幕府でもロシア(赤蝦夷)の蝦夷地接近と蝦夷 地開拓の有望性を論じた工藤兵助の 赤蝦夷風説考 どに影響を受けた老中田沼意次( は,蝦夷地の実情を調査するために からの探検・調査隊を派遣した。 な 年に老中となる) 年に東西 方向 年,最上徳内を隊 員とする東蝦夷地隊は,国後,エトロフ,ウルップ島に が作成された。幕府は, 年まで)に東蝦夷地を幕府の直轄地として, 東北地方の諸藩に警備させ, 年になると,八王子千 人同心を蝦夷地に駐屯させ,主な港や場所の警備を強化 した。近藤重蔵は, 年に蝦夷地と内地の交易に従事 していた箱館の商人,高田屋嘉兵衛に択捉航路を調査さ せ,択捉島に の漁場を開設させた。 そうした中で,ロシアではパーヴェル 世が謀殺され オホーツク交流圏の史的形成過程 て,アレクサンドル 世( )が新しい皇帝と 年にロシアの商務大臣ルミャンツェ して即位した。 フは, 対日通商に関する覚書 第 章 緊迫から秩序の画定へと動いたオホー ツク海域 を皇帝アレクサンドル アニワ湾とエトロフ島での衝突 世に提出し,日本ではキリスト教の信仰禁止,ポルト ガル人の海外追放の後,バタヴィアのオランダ人のみが 対日貿易を独占していること,ラックスマンが根室を訪 れ,(大黒屋光大夫など)日本人 人を送還したことな 第 期は,レザーノフの命を受けた海軍士官フヴォス トフとダヴィドフが樺太のアニワ湾,エトロフ島の番屋 を襲撃させた 年から 年に日露和親条約が締結さ どをあげ,海を挟んで日本と接するロシアが通商上の優 れるまでの約半世紀間で,オホーツク海域が緊張に包ま 位をもっていることを指摘し,国際情勢に詳しく,貿易 れた時期であった。最大の危機は に明るい使節を日本に送る必要性を説いた。また,使節 ニン幽囚事件であったが,危機は現場の判断で何とか回 は,ロシアの正しい認識を日本の支配層に伝え,友好関 避され日露和親条約の締結にまで至ったのである。しか 係を樹立すること,ロシア植民地であるアラスカから広 し,和親条約は日本とロシアの間の縣案を棚上げにした 州,マニラに商品をもたらし,中国,フィリピンその他 曖昧な内容であった。 年に起きたゴロー の国々との貿易の可能性を明らかにすることを説いた。 この時期,ラッコ猟に取り組む露米会社の命運は,一 閣僚委員会は,そうした商務大臣の覚書を承認した。日 に食料問題にかかっていた。広大なシベリアを経由する 本へ派遣される使節としてはレザーノフが選ばれ,使節 食料補給が困難を極めたためである。 そのために,レザー はかってのラックスマンに習い,イルクーツクから呼び ノフは日本との交易が不可欠であることを再度認識させ 寄せられた 人の漂着日本人のうち,津大夫,儀兵衛, られた。クリル諸島(千島列島)を日本との接点として, 人を日本に送り返し,それに付随する 改めて重視することになったのである。長崎の通詞たち 左平,太十郎の かたちで通商交渉することとされた。 年 月 は,彼が長崎を離れる前に老中が変われば,日露貿易が 日,ナジェジダ号はペトロパヴロフスク 月 開かれる可能性があることを示唆していた。 日,多数の警備船に取り囲まれな そこでレザーノフは,江戸幕府の頑なな姿勢を,外か がら長崎湾に入った。幕府側は,長崎港内に異国船を同 らショックを与えることで崩せないかと考えたのであ 港を出港して, 日間ナジェジダ る。幕府の判断を直接変えられない以上,辺境地域から 号を港外に停泊させた後,やっと港内での投錨を許し, 糸口を探るしか方法がない。レザーノフは,千島列島を 人以上の武士が警備船に乗ってものものしくナジェ 日本との通商場とし,食料を確保するために,樺太のア ジダ号を取り巻いた。レザーノフに対する将軍家斉の回 ニワ湾,エトロフ島にある日本の植民地を攻撃するとい 答は,こうだった。 うショック療法を選択した。レザーノフは,北の辺境で 時に停泊させることはできないとして 日本の国境を警備するためにとられている対外政策の なされるロシア側の攻撃に対して日本は対処できず,傲 原理がロシア 国のために変更されることはない。ロシ 慢な日本もきっと通商関係を求めてくるであろうと,楽 アとの交易は一見有利のように見えるが,日本は役にた 観的に考えていた。しかし,その背後には日本から食料 たない外国品を受け取り,自国にとり有用な必需品と貴 などを得られなければ,露米会社の経営が難しくなると 金属を失うだけである。通商拡大は,日本の良俗,秩序 いう危機意識があったのである。食料不足による露米会 を混乱させる恐れがある。通商は行わず,国書もロシア 社の危機を目のあたりにしたレザーノフは,日本を動か 皇帝の贈り物も受理しない。ロシア側が要求した江戸参 すには実力行使しかないという内容の書簡を皇帝アレク 府,日本沿岸の航行,長崎市内の遊覧,出島のオランダ サンドル 世に送り,まだ皇帝の裁可がなされない 商館の訪問なども,全て断った。今後,遭難してロシア 年 に入った日本人もオランダ船で送還されることにする。 本件に着手致しますことにつきましては,私を御処罰く ロシア人は,食料と薪水をうけとり,ただちに長崎を出 ださい と述べ,自分のアイデアを行動に移した。 港し,二度と日本沿岸に近づいてはならないとしたので ある。 ナジェージダ号は,日本列島を北上して宗谷海峡(ラ 月 日,アレクサンドル 世に, 詔勅を仰がずに レザーノフは,アラスカのアルハンゲリスクで,露米 会社に勤務する海軍士官, ニコライ・フヴォストフ中尉, ガブリール・ダヴィドフ少尉に樺太・クリルの日本基地 年 月 日,フヴォスト ペルーズ海峡)に入り,アイヌが居住する宗谷場所に入 を攻撃することを命じた。 り,その後,樺太のアニワ湾などを経て,カムチャッカ フが指揮するユノナ号(アメリカから購入, 半島のペトロパヴロフスクに戻った。 ダヴィドフが指揮するアヴォス号(新造)は,ノヴァ・ アルハンゲリスクを出港した。 月 トン), 日,ユノナ号は樺 太のクシュンコタン(古春古丹,アニワ湾の大泊)の松 宮 前藩の番所を襲撃し,米 余俵,酒数樽,煙草,木綿 人を捕虜とした。 などを略奪し,番屋や蔵を焼き払い 正 勝 なった。まさに,レザーノフの行為は裏目に出たのであ る。 月 日付けで 幕府にしてみれば,外交政策の大前提を崩してロシア フヴォストフに,なるべく早くアラスカに戻ること,で と交渉するわけにはいかない。柔軟性に欠ける硬直した きれば樺太のアニワ湾に出向き日本基地の様子を探るこ システムは,自己の論理で問題の解決を図るしかなかっ と,露米会社の利益を第一にすることという指令を与え た。世界が見えない世論はもっと硬直していた。当時の て,サンクト・ペテルスブルグへの帰路についてしまっ 代表的知識人の一人であった中井履軒は,もしヲロシア た。フヴォストフは,自分の任務に変更はないものと判 の船が来たら断固,大銃で撃壌するだけである。ヲロシ 断した。 アが近海に出没するのも,ただ我が国の穀物を貧ろうと 著しく健康を害していたレザーノフは, 年 月,ユノナ号とアヴォス号はエトロフ島を襲 撃し,ナイボ(内浦)の番屋や蔵を焼き払い, 人の日 本人を捕虜とした。次いで同島のシャナ(沙那)にあっ するためであり,それを与えなければまた来ることもな くなるであろうと,述べている。 年に警護体制を強化するために樺太,国 幕府は, た幕府の会所を攻撃した。会所を警護していた南部藩, 後島,エトロフ島を松前藩に上地させ,幕府の直轄地と 人はロシア側の大砲,銃の攻撃に耐え切 した。幕府は,樺太の警護は会津藩,津軽藩,エトロフ 津軽藩士 れずに陣屋を捨てて逃げ出し,約 人が捕虜となった。 その後, 再度クシュ そのうち 人は樺太沖で釈放された。 島は南部藩,津軽藩が警備を担当し, 月 日にはロシ ア船打ち払い令が出された。蝦夷地警護を命じられた東 ンコタンの松前藩の番所を焼き払い,日本船に対する攻 北諸藩の人的,財政的犠牲は著しいものがあった。 撃を繰り返した後,利尻島に上陸して,停泊していた 年に斜里で越冬した津軽藩士 隻の船の積み荷を奪い,番所を焼き払った。この一連の き残った者はわずかに 人に過ぎなかったという。 襲撃事件が,フヴォストフ大尉事件である。レザーノフ つの襲撃事件の間の は, 年 月 日,サンクト・ 人のうち,越冬して生 蝦夷地全域を直轄地にすると,幕府は日本の勢力範囲 を確定する必要を認めた。北方の状態が不明確な樺太の 年に間宮林蔵と松田伝十郎を樺太の西 ペテルスブルグに戻る途中で,シベリアのクラスノヤル 調査を始め, スクで,長崎での交渉の失敗と露米会社の前途に悩みな 海岸に派遣した。 間宮林蔵は がら 年間の生涯を閉じた。 てアムール川下流の清のデレンに至った。その過程で, レザーノフの命を忠実に実行した 人の海軍士官は, 年, アイヌの皮船にのっ 樺太が半島ではなく孤立した島であり,海峡(間宮海峡) 帰港後,オホーツク長官に探検の内容の報告を怠ったた により大陸と隔てられていることが明らかになった。ロ めに反逆罪で逮捕され,その後軍事裁判にかけられたが, シアの探検家ゲンナージ・ネヴェリスコイがそれを追認 フィンランド戦争が始まり参戦したために処置はなされ するのは, ず, 年のことである。 年,夜半に吊り橋があがっているネヴァ川を渡 ろうとして溺死した。露米会社本部は,両名が行った探 ゴローニン幽囚と高田屋嘉兵衛 検は会社に損害をもたらしただけであり,会社とは無関 日本が千島,樺太を,自国の北の辺境として視圏に組 係であると主張して,会社が負うべき責任を回避した。 み入れた時期に,ロシアも探検事業を拡大しようとして ロシア船による樺太・エトロフ島襲撃事件の情報は, いた。 年にワシリー・ミハイロビッチ・ゴローニン 年になってやっと幕府に届けられた。驚いた幕府は 少佐( )は,ロシア製のスループ型砲艦ディ 危機意識を強め,急遽,仙台藩,秋田藩に出兵を命じ, アナ号に乗り, ロシアとしては 回目の世界周航に出た。 余人を松前に派遣することに 北太平洋のロシア領植民地の調査・測量,オホーツク港 なった。日本国内では,長崎から追い払ったレザーノフ への軍需品の輸送が目的だった。ゴローニンは地方貴族 の報復行為ではないかという噂が広まっていた。 内向 出身だったが,孤児となりクロンシュタットの海軍兵学 若年寄堀田正敦以下 きの国 日本に,大国ロシアへの恐怖心が広がった。幕 校に入学した。ゴローニンは成績優秀であり,後に彼の 府を初めとし,日本ではその行為がレザーノフの個人的 副官となるリコルドなど 判断でなされたものであるなどとは,知る由もなく,ロ し,イギリス艦隊に乗り込み対仏戦争に参戦して,大尉 シアの報復行為と見なされた。国際紛争の原因の一つに となった。彼も,副官のリコルドも広い視野をもってい コミュニケーション不足がある。それぞれの当事者が互 たのである。 いに虚像を描いて,自分の論理で相手を一方的に理解し, 人とともにイギリスに留学 サンクト・ペテルブルグ付近の軍港クロンシュタット 行動に出るのである。日本では対露恐怖症が広まった。 を出帆したディアナ号は,ロンドン南方のポーツマスに それまでロシア人は, 赤人 と呼ばれ 寄港し,南アメリカの最南端のホーン岬を経由して太平 ていたが,襲撃事件以後は 赤鬼 とも呼ばれるように 洋に抜けよとしたが暴風雨に先を阻まれ,喜望岬経由に とか 赤蝦夷 オホーツク交流圏の史的形成過程 予定を変更して,ケープタウンに入港した。ところが, し,自ら千島列島海域での日露の緊張関係を解きほぐす 当時はナポレオン戦争の時期でありイギリスとロシアが 仕事を買ってでた。リコルドに問題解決の方向を示唆し 対立関係にあったために 年余り抑留され, 年後にカ たのである。 ムチャッカに着いた。予定が大幅に遅れたのである。ゴ ディアナ号は,嘉兵衛などを捕らえたまま,一時ペト ローニンは,北アメリカ西岸からオホーツク海にいたる ロパヴロフスク港に帰着したが,そこで嘉兵衛は問題を 海域の学術調査に従事することになった。 解決するには,イルクーツク総督の名で,かってなされ 年 月,航海の途上で食料と飲料水を補給する必 た フヴォストフ事件 が,私怨からなされたものであ 要に迫られたディアナ号は国後島南西端の泊港に停泊 り,ロシア政府の預かり知らぬところであるという書簡 人が上陸した。当時,国後島には をしたため,日本政府に罪を詫びるべきである。そうす し,ゴローニンなど 人の兵がいたが,歓待するふりをして 約 人の水夫, 人の士官, 人の通訳を引き連れたゴローニンを突然 捕縛した。ゴローニンらは,厚岸を経て箱館に送られ, 年 れば,ゴローニン一行は釈放されるであろうと熱心に説 いた。 リコルドはその申し出を了解し,オホーツク長官に申 カ月間松前で幽閉されることになった。ゴローニ し出て,イルクーツク総督から,フヴォストフなどの暴 ダヴィドフ事件の 挙についての説明書,ゴローニンなどの釈放請求書を取 ンの幽囚は,いわば,フヴォストフ り寄せた。ペトロパヴロスクでは 人の日本人水夫が病 報復であった。 ディアナ号の副艦長ピヨートル・リコルドはゴローニ ンに代わって艦長となったが広い視野をもった聡明な士 死し,嘉兵衛も一時著しく体調を崩した。 年,リコルド,嘉兵衛を乗せたディアナ号はカム 日後に国後島についた。嘉兵衛は 官であり,冷静に事態に対処した。彼は,最初カムチャッ チャッカを出港し, カに漂着した日本人商人と引き換えにゴローニンを返還 積極的に日露の仲介役を買って出て松前奉行所と連絡を させようと国後島に赴いたが,現地の役人はゴローニン とり,フヴォストフ事件が当時のロシア政府の意志とは などの捕虜は殺害されたと答え,交渉に応じようとしな 全く無関係であったという証明書をロシア側が提出すれ かった。彼らには,権限が与えられておらずやっかいな ば嘉兵衛と引き替えにゴローニン一行を釈放するという ことにはかかわりたくなかったのである。いつの時代に 落としどころ が決まった。高田屋嘉兵衛を国後島に も,どこにでも見られる現象である。そこでリコルドは, 残したディアナ号は,一時オホーツク港に帰帆して証明 日本人を捕らえて正確な事情を確認しようと考えた。 書を受け取り,国後島に引き返した。その後,ディアナ ちょうどその時に,淡路出身の商人で,近藤重蔵に推挙 号は箱館に航行し,嘉兵衛と引き換えにゴローニン一行 されて択捉島に多くの漁場を開き,択捉島と蝦夷地を結 の引き取りに成功した。 ぶ商業で活躍していた高田屋嘉兵衛の観世丸が択捉島に ゴロウニンは 年 月, 年ぶりにサンクト・ペテ ルブルグに帰着した。帰国後,彼が著した著作は, 日 いた。 嘉兵衛が乗った観世丸は,箱館に帰帆する途中でリコ ルドに拿捕された。高田屋嘉兵衛は,ゴローニンの状況 本幽囚記 として翻訳されているが,幽囚されていた過 程,好意的な日本人論が記されている。 人の水夫とともにリコルドの捕虜と このゴロウニン捕囚事件は,紛争解決に現場感覚が極 なった。ここで,今度は豪胆な商人,高田屋嘉兵衛が状 めて重要な働きを示していることで,興味深い。長崎に 況を転換するキー・パーソンになる。現実の世の中で, おける,遠山金四郎の固陋ともいうべき,硬直した官僚 数多くの実体験を積み,生活の中で豊かな識見と判断力 的対応とは対称的である。現地での柔らかな対応が,日 を身につけた どっしり した人物はいつの時代にもい 露関係を緩和させるのに大きな役割を果たしたのであ るものだが,高田屋嘉兵衛は,まさにそうした人物だっ る。嘉兵衛は,択捉島,国後島で商売を行う商人であり, た。歴史とは面白いもので,必ず特定の人物に時代の推 千島列島,ロシア人についてのかなりの理解をもってい 移が委ねられることになる。その人物の質で,社会の動 て,偏見がなかった。他方で,幕府の考え方も良く理解 きが大きく左右されていくのである。早稲田大学の基を していたのである。 を説明し,自ら 築いた大隈重信は,慶応義塾大学の基を築いた福沢諭吉 とともに,優れた識見を有する学者であり,開国大勢史 という大著を著しているが,その中で高田屋嘉兵衛の活 使節プチャーチンの派遣と日露和親条約の締結 レザーノフが仕組んだフヴォストフ ダヴィドフ事 躍を詳しく,感動的に叙述している。後に司馬遼太郎は, 件,ゴロウニンの幽囚事件は,オホーツク海域での日露 菜の花の沖 という小説で嘉兵衛の生涯を描いている。 両国の国境問題の存在を両国政府に気づかせた。 幕府が, 蝦夷地と国後島, 択捉島の交易で利益を得ていた彼は, 外国の存在を強く意識する事件となったのである。それ 日本とロシアの間に生起した難しい問題の性格を察知 まで,北海道,千島列島,樺太,カムチャッカ半島には 宮 正 勝 広大な領域にわたり狩猟・漁労・採集民の世界が存在し とは陸続きではなく,島であることを明らかにした。そ 続けてきたが,日本,ロシアはそれぞれのシステムの中 の結果,ペトロパブロフスクから冬には氷結してしまう に広大な土地,資源,先住民を取り込む道を追及し始め オホーツク海北部を通ってアムール川河口に至るのでは た。しかし,両国にとってオホーツク海域はあくまでも なく,通年凍ることのない間宮(ダッタン)海峡を通過 辺境の地としてとらえられており,ゴロウニン幽囚事件 して河口に至ることが可能になった。ただし,間宮海峡 の解決で一応の秩序が回復したことから, 年以降約 年間にわたって表面的には平穏な時期が続くことに なった。 た。ネヴェルスコイは, フィートと限られてい 年にアムール川河口にニコ ライスヴスクを建て,一帯の海域を支配下に収めた。そ ロシア側にしてみれば,この時期は国の命運をかけて ナポレオン戦争に奔走し,ウィーン体制期には,東地中 海を巡り は浅い海であるため,喫水線が 次にわたるトルコーエジプト戦争に介入し, こから,ロシアの樺太に対する関心が急速に強まること になった。 年,ネヴェルスコイは,日本人が居住す るタマリを占領した。ネヴェルスコイは,日本人が漁業, イギリス,フランスとの間に黒海,東地中海の覇権を競 交易の拠点とするタマリ,アニワ湾に注目し,この地を い合った時代であった。そのために,シベリアに力を割 ロシアが占領すれば,同地での漁業,交易に強く依存す くことができなかった。北太平洋でラッコ猟を進めてい る松前の打撃は大きく,ロシアとの通商を求めてくるに た露米会社も,ベーリング海域でのラッコの激減に対応 違いないと考えた。捕鯨のためにオホーツク海に進出し して,カリフォルニア,ハワイの方面に進出の方向を求 てきたアメリカ船が,この地の情報をアメリカに伝え, めており,オホーツク海域はローカルな地域と見なされ もしアメリカがタマリ,アニワ湾を占領すれば,アメリ ていたのである。 カは樺太,及び日本に対して強い影響力を行使するよう 年にニコライ 世が即位したのを期に,憲法の制 になるであろうと通告した。樺太は石炭も豊富であり, 定などを救める自由主義的な貴族・士官によるデカブリ その点でも魅力的な条件を備えているというのである。 ストの乱が起こり,乱に荷担した多くの青年貴族が西シ かくして,新たな競争相手として北太平洋海域に登場 ベリアに流刑され,ロシアの支配階級にシベリアへの関 したアメリカの動向に, ロシアは神経をとがらせた。 心が高まった。 年 他方,合衆国も鯨油を求めて日本近海を北上,オホー 月,東シベリア総督ムラビヨフは,コンスタンティ ン大公宛の書簡で,近々アメリカが日本に武装蒸気船の ツク海域に多数の捕鯨船を派遣し,小笠原に補給基地を 船団をおくる予定であるという情報を伝えている。 他方, 設けるだけでなく,日本の開国を求めるようになってき 南シナ海の海域では,イギリスの勢力が東アジア世界に ていた。鯨油は,ヨーロッパ,アメリカ合衆国などで急 進出するためのネットワークを整えつつあった。自由貿 激な成長を遂げる都市の街灯用の油として需要が急増し 易を掲げてアヘン戦争( ていたのである。当時の捕鯨業の中心はオホーツク海を は, ベンガル湾のカルカッタ, マラッカ海峡のシンガポー 含む北太平洋であり,ロシアもカムチャッカ半島の新し ル,広州湾の香港という動脈を作り,上海などの い可能性を模索するようになった。しかし,他方でネル 港により,東アジア世界の中心部に至っていた。東アジ チンスク条約で清帝国に阻止されていたアムール川流域 ア世界に,大きな変動の嵐が迫っていたのである。 への進出が急務となった。これは,従来の毛皮の獲得を 年 月 )に勝利したイギリス 日,ロシア皇帝ニコライ 港開 世は海軍中将 軸に進められて来たロシアの一連の動きとは異なる傾向 エウフニー・ヴァシリエヴィッチ・プチャーチンを全権 性をもっていた。 大使とする使節団を日本に派遣することを決定した。使 ニコライ 世は, 年にムラビヨフを東シベリア総 節団の使命は,日露国境の決定,対日通商条約の締結, 督に任じた。現地の状況を調査したムラビヨフは,東シ アヘン戦争後の南京条約による清帝国の開港場へのロシ ベリアを開発するには,アムール川の上流のみならず下 アの参入,東アジア・北太平洋の情報収集,各国捕鯨団 流一帯も支配下に入れ,アムール川の水路を利用するこ の状況調査などであった。 とが必要であると判断した。翌年,ムラビヨフは東シベ プチャーチンは,アヘン戦争による清帝国開国がなさ リア総督府があったイルクーツクからカムチャッカ半島 れた直後に,東アジア情勢の変動に対応する必要性をニ のペトロパブロフスクに旅し,その湾が極めて良好であ コライ 世に進言するなど,国際情勢,特に東アジア情 ると判断して,海軍の拠点をオホーツクからペトロパブ 勢に通じた敏腕家であった。 ロシアがキャフタ条約 ( ロフスクに移した。 年)以来,キャフタで行ってきた陸上貿易は,南京条約 他方,ロシア政府の命を受けたネヴェルスコイは, による上海など 港の開港で壊滅的な打撃を受けること 年,ペトロパブロフスクから樺太の北端を経由してア が明白だったのである。船でヨーロッパから運ばれてく ムール川河口に至り,付近を探検した結果,樺太が大陸 る安価な商品に,ロシア商人は対抗できない。ロシアと オホーツク交流圏の史的形成過程 しては,東アジアにおける新しい戦略を立て直す必要が た時に江戸からの大官がついていない時には,予定通り あった。かって使節として訪日したレザーノフが,新鮮 江戸に回航すると言い残して,クリミア戦争の詳しい情 な食料品の確保を望む露米会社の利益を第一に考え通商 報を得るために を最重要課題としていたのに対して,プチャーチンが日 国境画定 本との を最重要課題としたのは,そのため 月 日,長崎から上海に向かい, 月 日に慌ただしく長崎に戻った。 対露応接掛の大目付筒井肥前守政憲らが長崎についた 月 日 であった。露米会社はラッコ資源が枯渇して余命いくば のは,その数日後であった。日露会談は翌年の くもない状態であり,最早,食料の確保問題は,主要な まで 回にわたって開かれ,日本側が多事多端であるた 外交問題の座を降りていた。 めに回答の数年間延期,国境を千島列島では,択捉島と それよりも,イギリス,フランス,アメリカの進出で ウルップ島の間,樺太では北緯 度線を主張したのに対 東アジア情勢が緊迫しており,ロシアは東アジア世界に し,ロシア側は択捉島の折半,樺太の日本側領土をアニ 確固とした地位を築いておかなければならない。 それは, ワ湾沿岸に限定し,即時,大坂・箱館を開港して通商関 東シベリアの開発のためにも必要だった。長大なシベリ 係を結ぶこと,領事裁判権,最恵国待遇,を求めた。プ アの 川の道 をつないで,東シベリアに膨大な物資を チャーチンは,非公式の会合で,ロシアはカムチャッカ 供給することは不可能であり,東シベリアは自力で確固 など北の漁場に多くの漁業資源をもっているが,残念な とした経済的基盤を築かなければならなかったのであ ことに塩がない。貴国が塩を提供してくれれば,多くの る。 塩魚を提供できると述べたという。 短い期間に時代は大きく変化してしまったのである。 両者の主張が食い違っていたため交渉は容易に妥協点 ロシアにとって,将来予測されるアメリカのオホーツク に達せず,樺太の国境問題については,双方から人員を 海,北太平洋への進出に対抗できるような,有利な条件 派遣して実地調査の上で確定すること,日本が第三国と で日本との国境を確定することが,緊急課題になった。 通商条約を締結した場合,ロシアにも同一の条件で応じ ロシアは,同時に東シベリア開発の生命線であるアムー ること,で一応の決着をみた。 ル川流域で,帝国との国境をどのように変更し得るかを 月 年 月 日に長崎を出港した後, ロシア艦隊を解散し,自身はパルラダ号に乗り,琉球, 模索していた。 年 プチャーチンは, 日,プチャーチンは大砲 門を備えた大 フィリピン視察の航海に出た。琉球に立ち寄った後,マ 型フリゲート艦パルラダ号( 檣,船長 メートル, ニラ寄港中に, 月 日にペリーが日本全権との間に日 名) に乗り, クロンシュタッ 米修好条約が締結したとの情報を得ると,プチャーチン メートル,乗組員 船幅 ト港を出港した。しかし,パルラダ号は 年に進水し た老朽艦であった。イギリスのポーツマス港に入港して は済州島でヴォストーク号, メンシコフ公号と落ち合い, 年 月 日に再度,長崎に入港し,筒井,川路の両 船体を修理した後,パルラダ号は喜望峰を巡り, バタヴィ 使節に書簡を送り, 月下旬に樺太で国境画定の両国委 ア,シンガポール,香港に寄港した。 員の会合を開催することを提案した。日本側は,この提 翌 月 日,小笠原諸島の父島の二見港で,パルラダ 案を受けて目付,勘定吟味役を樺太のクシュンコタンに 号はヴォストーク号,オリヴツァ号,メンシコフ公号と 送ったがロシア側の役人はやってこず,委員会は開催さ 落ち合い, 月 月 日に 隻の僚船と共に長崎に入港し, 日,ロシア帝国国書を提出した。その カ月前に, れなかった。ロシア艦隊は,クリミア戦争の敵国である イギリス,フランス艦隊に攻撃されることを恐れたので 年 月にプチャーチンは艦隊を解散し,クロ アメリカ合衆国の提督ペリーが率いる艦隊が浦賀に入港 ある。 していた。 ンシュタットからホーン岬を経由し箱館に回航してきた 幕府は,浦賀と長崎にアメリカとロシアの使節を迎え, 困難な外交問題を抱えた。両国の使節は,ともにオホー 新鋭の帆走軍艦ディアナ号( トン)に移った。 プチャーチンは,対日交渉を継続することが必要であ 年 月 日,ディアナ号に乗って箱館 ツク海,北太平洋に進出する中で,日本という島国に強 ると判断し, い利害関係を見いだした国であった。北の海域から日本 に入った。プチャーチンは,イギリス,フランスとの開 を 開国 させようとする波動が起こってきたのである。 戦で樺太に赴けなかったことを詫び,交渉のために大坂 折からヨーロッパでは, クリミア戦争が勃発していた。 に赴くことを告げ,やがて大坂湾に投錨した。ディアナ プチャーチンは,上海に派遣していた輸送艦がクリミア 号が 隻だけで大坂湾に来航したのは,イギリス,フラ 戦争勃発の情報をもたらすと,早急に交渉を進める必要 ンス艦隊の攻撃をさけるためとも,他の艦船をペトロパ を判断し,江戸に回航する旨を告げた。慌てた長崎奉行 ウロウスクの防備に当てる必要があったためとも見なさ は,江戸から 人の大官が長崎に向かっているが,いつ れている。 到着するか分からないと主張した。 プチャーチンは, 戻っ 幕府は,大坂が開港場でないことからディアナ号に下 宮 田回航を求めた。ディアナ号は 月 日に下田に入港し た。幕府は, 人の使節を派遣し 年 月 回にわたる交渉の後, 正 勝 アメリカ合衆国のモンロー宣言により,北アメリカ大 陸への南下を阻まれた露米会社は,ラッコの猟場を求め 日(現在の北方領土の日)に日露和親下田 てまだラッコの棲息が多いクルリ諸島(千島列島)へと 条約が結ばれることになった。国境問題については,千 転じていった。 ロシアにとって, クルリ諸島が高価なラッ 島列島では,択捉島とウルップ島の間に国境線を引き, コの毛皮を獲得する場として,大きな意味をもつように 樺太については国境を設けず,従来通りとすることが決 なったのである。 定された。通商問題では,ロシア船のために箱館,下田, ロシアの極東総督となった海軍大佐ムラヴィヨフも, 長崎を開港することになった。樺太を両国雑居の地とす ロシアの勢力をアムール川とシベリアの方向に向け直す る暫定性をもった決定は, 日露両国の競争的植民を招き, べきであると提言した。 日露両国間の難しい懸案事項として明治政府に引き継が ル川の両岸を海軍少佐ネヴェルスコイに探検させてい れることになった。 る。ネヴェルスコイは, この時期,日露両国の係争の地となった千島列島もサ 年,ムラヴィヨフは,アムー 年に間宮海峡を通過した。 間宮林蔵が海峡を発見した 年も後のことである。 年 ハリン(樺太)も,両国の辺境の地であり,資源略奪的 にはアムール川の河畔に拠点を築いた。後のニコライエ に利用されるのみであった。例えば,北千島ではロシア フスクである。 人は,シムシル島,ウルップ島でアリュート人を使って ロシアは,アロー戦争を利用して,その間にアムール ラッコなど海獣の狩猟を行うのみであり,居住するクリ 川流域で,集落や軍事駐屯地をつくるなどの既成事実を 人前後であった。 南千島でも, 択捉島では楢原, ル人も 国後島では藤野という場所請負人が漁場として独占して おり,秋月俊幸氏の論文 れば,択捉アイヌは, 人, 年に 年の 戸, は 戸, 戸, 人が, 千島列島の領有と経営 年 人, 年に 戸, 年に 戸, 人, 年のアイグン条約でアムール川以北の領 年の北京条約で,清帝国と英仏の間 を斡旋した代償として,ウスリー江と日本海の間に広が る広大な沿海州を中国から獲得した。ロシアは沿海州の 人と激減し,国後島でも, 人に激減している。色丹島では, 人いたアイヌが, によ 積み重ね, 土を割譲させ, 南端のピヨートル大帝湾にウラジオストークという港を 年に つくり,新たに日本海への進出を策した。 世紀末に 年に根室場所に全員移住させ られ,定住アイヌはいなくなっていた。 年,ロシアにとり既に経済的価値を失っていたア ラスカは, 万ドル( 万ルーブル)という安値で アメリカ合衆国に売却されることになった。オホーツク 海域の千島列島を除く,ベーリング海域の植民地の大部 第 章 アムール川流域と樺太に重点を置き, 千島列島を放棄したロシア ロシアの転換点となった 第 期は 年代 年の日露和親条約の締結から 分をアメリカに売却したのである。 年 月 日,シト カでアラスカの引き渡しがなされ,大部分のロシア人は アラスカを去った。その翌年,日本では明治維新の変革 が起こっている。日本も北海道の開拓を本格化させ,オ 年の千 島・樺太交換条約の締結に至る時期である。ロシアは, ホーツク海域における国境の画定を求めるようになっ た。 年代にアロー戦争を利用して清帝国からアムール川 千島・樺太交換条約は何故締結されたのか 流域,沿海州を獲得して,大きくオホーツク海域での戦 第 略を修正した。ラッコ猟に見切りをつけたロシアは, 期は, 年の千島・樺太交換条約締結後で,日 年にアラスカをアメリカ合衆国に売却してベーリング海 本の千島列島とロシアの樺太というように国境が基本的 域から撤収し,同時に千島列島からアムール川流域,樺 に確定され,オホーツク海域が 太の開拓に重点を転換したのである。 時期であった。日露戦争後のポーツマス条約で日本が樺 世に入ると,各国の毛皮商人の乱獲でアラスカ湾, 大勢力圏に分けられた 太の南部を手に入れるが,基本的な住み分けは変わって 年ヤルタ秘密協定により,ソ連が アメリカ大陸西岸のラッコ,ビーバー,アザラシ,オッ いない。その後, トセイ,クロテン,オコジョなども,急速に数を減少さ 樺太南部,千島列島,歯舞諸島,色丹島に進出して戦後 せていき,露米会社の収益も長期に渡って減少していっ の第 期となるが, た。露米会社が危機に陥る中で,ロシア政府は, 年 に布告を出し,ベーリング海峡から北緯 度に至る間の アメリカ沿岸での他国の商業,捕鯨,漁業,その他のす べての産業活動を禁止し,外国船の来航も禁止したが, 英・米の抗議で失敗に終わった。 年代にソ連が崩壊し,冷戦が終 わりを告げる中で,オホーツク交流圏は新たな次元に入 ろうとしている。 年の日露和親条約の締結, 年のアイグン条約, 年の北京条約によるロシアのアムール川流域,沿海州 の獲得, 年の露米会社の解散, 年のロシア領ア オホーツク交流圏の史的形成過程 ラスカのアメリカへの売却は,ロシアの北太平洋の海域 らアムール川左岸,沿海州を奪い,樺太は戦略的に重要 世界からの後退を物語るものとなった。クロテン,ラッ な位置を占めるようになっており,他方で毛皮貿易は衰 コと続いてきた毛皮貿易は,露米会社の解散で大きく後 えていた。北千島のラッコ猟は,アメリカ人,イギリス 退し,ラッコがほとんど絶滅した北太平洋海域は,金鉱 人などの密猟が盛んでロシア人の独占状況は崩れてい 石が採掘できなくなった金鉱山のように打ち捨てられた た。 のである。ロシアは,海から陸に視点を転じ,弱体化し 年,オホーツク海で捕鯨に従事したアメリカ人キ た清帝国の領土を蚕食してアムール川流域から沿海州へ ムバレーは,多数のラッコを狩猟し,横浜に寄港した。 と勢力を南下させる方向に転じたのである。そのような その情報を日本で得たイギリス人の鉄道技師 年代以降ロシアは千島列島に価値を 観点に立って, ノーは,自らピッチェルバー号という ス トン程度の船 置かず,間宮海峡を隔ててアムール川河口と向かい合う を設えてラッコの密猟に乗りだし, 大きな儲けをあげた。 樺太を重視する政策に転じた。 彼の体験談 千島列島黎明記 (大久保義昭他訳)は, 日露和親条約が締結されて 年後の 年 月,東シ ベリア総督ムラビヨフが 隻の軍艦を率いて品川に入港 年から 年までの 年の ら ムラビヨフは,ロシアが清からアムール川流域一帯を割 日本船は であるから全島を割譲せよと幕府に迫った。対応に苦慮 した幕府は,北緯 度線を境界とするオランダ版の世界 年から 年間,外国船のラッコの捕獲数は 頭で, 計 年が多く年間 外国船は,約 頭を越え,この 年か 頭, 年間に 頭を捕獲している。そうであるとする ならば,樺太・千島交換条約が締結された時期に,ラッ 頭以下になっており,ロシアが魅 コの捕獲数は年間 て譲らなかった。 力を感じなくなっていたのが分る。 月 頭 頭である。 全体を通して見ると, 地図を示し,それが国際的に認められた境界であるとし 年 万 頭)と記している。 (そのうち日本船は, したのも,そうしたロシアの方針を示す出来事だった。 譲されたことを告げ,樺太はアムール川に付属するもの 年間のラッコ捕獲数を, 日に輸送船マンジュール号は, 東のボ スポラス海峡 を通り,沿海州の天然の良港ゾロトイ・ オホーツク交流圏における日露の住み分け ローグ(金角湾)に入り,哨所を建設した。後の軍港ウ カムチャッカ半島とシュムシュ島の間のロパトカ岬の ラジオストーク(浦塩)である。ロシアは,中国との交 海峡が両国の国境となり,他方で樺太全島はロシアの領 易を求めて東アジアの海のネットワークを重視するよう 土となり,ラペルーズ(宗谷)海峡が日露両国の国境と になる。日本海が,東シベリアを自立させるためのロシ なった。この時,ロシア領の北千島には, アの重要なルートになったのである。 ヌと 人のアリュート人がいたが,条約付録では このようななかで,日本では 年,大政奉還により 人のアイ 年の 猶予期間を設け, 従来の政府への帰属を望む者は移住し, 明治政府が成立した。ロシアは,この年に日本での通商 現地に留まる者は日本の臣民とみなされると規定されて フィリッペウスを領事代理と いた。当時,ラッコ猟のためにシムシル島とウルップ島 して長崎に送り込んだ。しかし,工業生産力,海運力に にいたアリュート人は,露米会社がアラスカから移住さ 拡大を図り大商人の 遅れをとったロシアの貿易は振るわなかった。 箱館,横浜,長崎,神戸に入港した外国船 年に, 隻中ロシ ア船は 隻に過ぎない。 せた人々であり,ロシアに移住した。かくて,ロシア人 のラッコ猟は,約 年でピリオドを打ったのである。 他方樺太は流刑植民地として, 急速な開発が目指された。 年 月,箱館府を改組して開拓使を この条約は,日本では樺太をロシアに譲る渡す屈辱的 置き, 月には北海道,樺太の新名称を定めた。翌年, 条約として非難され,ロシアでは太平洋への出口が塞が 北海道開拓使,樺太開拓使事務となった黒田清隆は,北 れオホーツク海に閉じ込められたという懸念が残った。 海道の産業開発による国力の充実を第一に考え,久春古 チェホフが サハリン島 明治政府は, 丹の公議所を廃し樺太支庁が設けられた 太放棄論 を中央政府に提出した。翌 年に, 樺 年になると,黒 で記しているように,中千島 を譲るだけでよかったのではないかという声も強かった のである。和田春樹氏は, 年代に日本の朝鮮半島へ 田清隆と親しく,北海道開拓中判官の地位についていた の進出の動きが強まると,ロシアは朝鮮海峡が日本のコ 榎本武揚が海軍中将に特進し,黒田の推薦により特命全 ントロール下に入れば,ロシア艦船の太平洋への出入り 権公使となり,サンクト・ペテルブルグに駐在すること が不安になるという懸念が強まったことを指摘してい になった。 る。そうであるとするならば, 日露両国は朝鮮半島を別々 榎本は,ロシア外務省と交渉を進めて 年に樺太・ の視点からとらえて, 安全保障を考えていたことになる。 千島交換条約に調印し,東京で条約付録が定められた後, しかし,千島樺太交換条約の結果,ラッコなど海獣が豊 条約の批准がなされた。当時のロシアは,既に清帝国か 富なウルップ島からシュムシュ島に至る北千島の島々は 宮 正 勝 日本の支配下に入り,オホーツク海域における両国関係 日本当局の政策は,常に前後矛盾を帯びていた。ラッ の基本的構図ができあがって,緊張は一時的に緩和され コ猟の場合においても,彼らはその価値や程度や可能性 ることになった。 を,外国人が開発するまで何も知らなかったが,それが 樺太は,全島がロシアの支配下に入り,日本移民とア わかると外国人の助力を伴う実務的な方法を採用せず 人は,北海道に移 に,彼らの知識の良いところだけ取り上げ,ラッコと象 住した。ロシアは,樺太をウラジオストックの海軍提督 の区別もつかない役人たちを派遣し,自身で経営しよう の管轄下に置き,ムルイニ岬で南北に分け,南部はコル とした。さらに彼らは,これを開拓使の独占事業にして, サコフ(大泊),北部はズーエを拠点に統治した。 自国民にもこれを開放しなかった。 この政策は ニワ湾一帯に居住していたアイヌ 年には,ハバロフスクの軍務知事に移管された。 年 治 年(明 年),帝国水産会社が設立されるまで続き,中部や 以降,ロシアは樺太への流刑植民を実施し,コルサコフ, 北部千島の無人島や岩礁にオットセイの棲息地(また外 ズーエ,アレクサンドロスク,ルイコフ,デルピンスコ 国人によって)が発見された時,再び外国人が有利な提 エ,オーノルの カ所に監獄を設け, 万人以 案を持って,当局に接近したにもかかわらず,同じ政策 上を移住させ,開墾,道路建設などの強制労働を課し, が依然として持続された。このため外国船にほとんど, 刑期が終われば樺太で農業に従事すること,アムール川 もしくは何も残っていないところまでとりつくされる結 流域で商業などに従事することが認められた。 その結果, 果を招いた。その時,日本人は突然向きを変え,自国民 年には,樺太に居住するロシア人は 年間に 万 人を数 に船を仕立て,事業に乗り出すよう全力をあげて激励し えるに至った。しかし,樺太は寒冷地であり,頻発する 始め,年間トン当たり一 円程度の補助金を出すまでに 飢饉が人々を苦しめた。 資源豊かな漁業についてみても, なった。これは今でも続けられており,三 移住したロシア人は漁業に従事した経験がなく,資本も 本船がおもにオットセイ猟に従事しながら,ベーリング 乏しかったために,条約前に行われていたように日本人 海のプリビロフ諸島にまで進出し操業している ,と記 の出稼ぎに委ねられた。しかし,日本人は設備,日用品, している。 隻以上の日 労働者まで全てを持ち込み,漁獲された魚は持ち帰って 年まで,日本政府は適切な措置をとることができ しまったため,住民の生活向上には役立たなかった。移 ず,千島列島のラッコは,ほぼ絶滅状態に陥った。日本 民の約 分の が政府の扶助を得なければ生活できない 政府は,北千島を北海道と同様に開拓使,或いは政府主 状態だったとされる。そうした状態のため,刑期を終え 導で開発しようとしたが,なす術もなかったのである。 た流刑囚の大部分は,アムール川流域に移住することを 高岡直吉の 望んだ。 年, 年の大赦で刑期を終えた者がサンク 北千島調査奉文 によると, 年,千島 全島に居住していた人口は,国後島,択捉島に集中し, 人で,そのうち約半数の 人はアイヌで ト・ペテルブルグ,モスクワ以外に自由に居住すること わずかに が許されると,多くは樺太を後にしたという。結局,樺 あった。アイヌ以外の人々の多くは,漁業に従事する 出 太は流刑植民地から脱することはできなかったのであ 稼ぎ であったとされる。ウルップ島にも漁場が開かれ る。 たが,漁期に 全千島列島は 年までの 年間,日本の支配下にお 数人の漁夫が送られ,漁期が終わると , 人の番人が残されるのみであった。 かれた。しかし,ラッコなど海獣の狩猟はほとんど行っ 年に創設された大日本帝国水産会社は,ウルップ てこず,もっぱらサケ,マスなどの漁場,交易の場とし 島以北のラッコ,オットセイなどの狩猟の独占権を獲得 てのみ千島列島をみてきた日本人は,東京から稚内に至 し密猟を取り締まったが,同海域には る距離に延びる長大な列島をどのように利用できるの 置されていなかったため実をあげることができなかっ 年 か,十分に思い至ることはできなかった。開拓使は 隻の警備艇も配 た。 毎に中・北千島に官船を派遣して,クリル・アイヌから 千島を視察した内閣書記官金子堅太郎は, 海獣の多 毛皮を集め,エトロフ・アイヌに海獣の狩猟をさせてき く棲息するありて,数十年来外国人争って,彼島に輻輳 年クリル・アイヌを全て色丹島に移住させて するにあらずや。然るに独り警備の忽がせなるのみなら たが, しまい,ウルップ島以北は空島の状態となった。 ず,諸島皆無人の実況なるが故に,外国殊に露国の船舶 そうした状況下で,バンクーバーなどを拠点にした 常に此の近海に往来し,密猟をなし,或いは上陸して薪 数トン程度の多くの小船を操ってイギリス人,アメリカ 水を採り,甚だしきに至っては小屋を掛け越年するもの 人によるラッコなどの海獣の密猟が半ば公然と行われ あるに至る た。 隻位の船がエトロフ島付近を拠点にして,ラッコ いるにもかかわらず,千島が無人の状況で放置されてい ることを指摘している。北千島は,日本では 無用の地 猟を行っていたという。 海獣の密猟者だったスノーは, 千島列島黎明期 と,ロシア船などが輻輳し密猟がなされて で, とみなされてきたのである。このようにオホーツク海域 オホーツク交流圏の史的形成過程 の日ロ両国の勢力配置は, 世紀末に一応の決着をみた。 アムール川流域と沿海州,樺太の開発により東シベリ しっかりと記述していく必要がある。本稿は,そのため の基礎的作業である。 アを自立させようと考えたロシアはアムール川流域と樺 太への植民に重点を置くが,開拓は遅々として進まな かった。そこで,ロシアにとっては中国の東北地方を縦 断して,租借した遼東半島の旅順, 大連に至るネットワー 参考文献 アイヌ・モシリの自治区を取り戻す会編 リ な課題となった。他方,日本は北海道の開拓に重点を注 の水書房 秋月俊幸 ぎ,千島列島にまでは手が回らなかった。 日本の千島列島の開拓が軌道に乗るのは,根室,釧路 の開発が一段落ついた 年前後のことであるが,日中 戦争,太平洋戦争が目前に迫っていた。そのように考え 日露関係とサハリン島 御茶 幕末明治初年の領土 千島列島の領有と経営 ( 岩波講座 ポロンスキー 阿部幹雄 近代日 )岩波書店 本と植民地 榎本武揚他訳 北千島冒険紀行 コンドラフ 直面する重要な課題と言える。 交渉 問題 筑摩書房 秋月俊幸 ると,オホーツク交流圏は未成熟であり,冷戦後のこれ から本格的に作り上げることが必要であり,われわれが アイヌ・モシ アイヌ民族から見た 北方領土返還 クの構築を果たし,東アジア市場と結び付くことが大き 千島誌 山と渓谷社 金光不二夫他訳 ベーリング大陸の謎 現代教養文庫 アンリ・トロワイヤ 工藤庸子訳 おわりに 大帝ピヨートル 中公文庫 現在,冷戦が終結し 北方領土 問題が日本とロシア の懸案になっているが,ロシアの国家形成の特異性,豊 ウィリアム・ラフリン ヘンリ訳 アリュート民族 六興出版 かな自然を背景とするオホーツク交流圏(環オホーツク 植田 世界)の形成過程に対する理解は不十分である。 生の 上村英明 自然 が今なほ極めて豊富に残されている環オホーツク ウォルター・マクドゥーガル 世界,北太平洋世界を人類的視野に立って創造的に検討 することが,日・露・中・米・カナダなどに求められて 極北の海洋民 界 樹 コサックのロシア 中央公論社 北の海の交易者たち 同文館 加藤祐三監修 太平洋世 上 共同通信社 大熊良一 増補版 幕末北方関係史考 近藤出版社 いる。元来,狩猟・漁労に従事する狩猟・採集民が生活 していた生活圏に住んでいる環オホーツク海域,環北太 平洋海域の住民が, 日露のビザなし交流 に見られる ように積極的な地域交流の積み重ねにより,自然と共生 しながら真の意味での 交流圏 , 地域世界 をつくり あげていくことが大切である。特に,オホーツク海域に おいては,経済開発だけではなく,自然環境の保全,自 大南勝彦 ペテルブルクからの黒船 プリェートニェヴァ 角川書店 城田俊訳 ハザール謎の帝 国 新潮社 オークニ 原子林二郎訳 カムチャッカ植民政策史 ヴィソーコフ他 カムチャッカの歴史 大阪屋号書店 板橋政樹訳 サハリンの歴史 北海道撮影社 然の再生産能力の維持が大切になる。 オホーツク交流圏の 世紀像を描き出すためには,現 在に連なるオホーツク交流圏の形成・変容過程に対する ベルグ 小場有米訳 ング探検 竜吟社 カムチャッカ発見とベーリ 昭和 認識の共有が前提になる。そこで,当面の作業として, 大隈重信 開国大勢史 早稲田大学出版部 ロシアがカムチャッカ半島,ベーリング海,オホーツク 鹿能辰雄 北方風土記 擇捉島地名探索行 海に進出した 世紀末から 昭和 みやま書房 年までのオホーツク海域 の歩みを,ロシアのラッコ猟の変遷,日露関係の推移に 北海道開拓記念館 蝦夷地のころ 北海道開拓記念館 より 期に分け,ロシアの動きを中心に概括してみた。 でも盲点になってい 海保嶺夫 エゾの歴史 るオホーツク海域の近・現代史であるが,オホーツク海 亀井高孝 大黒屋光大夫 域の歴史を 辺境の歴史 桂川甫周 北槎聞略 歴史 として,しっかりと位置づけることが必要になる。 加藤九祚 シベリアの歴史 特に日露関係の新たな構築, 世紀のオホーツク交流圏 神谷敏郎 人魚の博物誌 思索社 の形成を目指す道北,道東地域では,地域学習の副読本 川又一英 イヴァン雷帝 ロシアという謎 高等学校の 日本史 , 世界史 とするのではなく 交流圏の に北海道の歴史のみならず,オホーツク交流圏の歩みを 講談社選書 吉川弘文館 岩波文庫 紀伊国屋新書 新潮選書 宮 菅能(王秀)一 ラッコの悲劇 筑摩書房 菊地勇夫 アイヌ民族と日本 朝日選書 菊地勇夫 エトロフ島 つくられた国境 吉川弘文館 正 勝 土肥恒之 ピヨートル大帝とその時代 長見義三 色丹島記 平岡雅英 日露交渉史話 ファインベルク 木崎良平 漂流民とロシア 中公新書 桐原光明 関熊太郎伝 曉印書館 クルーゼンシュテルン 青地盈訳 幕末日露関係史研究 小坂洋右 流亡 新宿書房 筑摩書房 小川政邦 ロシアと日本 その交流の 歴史 新時代社 ブルース・バートン 奉仕日本紀行 教育 出版センター 郡山良光 中公新書 日本の 別所二郎蔵 わが北千島記 別所夫二編 回想の北千島 境界 青木書店 講談社 北海道出版企画センター 国書刊行会 日露に追われた北千島アイヌ 北海道 ボリス・スラヴィンスキー 加藤幸廣訳 日ソ戦争への 道 共同通信社 新聞社 ゴロウニン 井上満訳 日本幽囚記 上・中・下 岩波 マヴロージン 石黒寛訳 ロシア民族の起源 群像社 文庫 コンスタンチン・ポポフ 河野常吉他 芹川嘉久子訳 ソビエト東洋 上巻 イスクラ 学者がみた日本 北千島調査報文 真鍋重忠 復刻版 北海道出版企画 洋文庫 宮崎信之他 センター 北方四島 榊原正文編著 のアイヌ語地名ノート 北 武四郎千島日誌 北海道出版企画セン ジェームス・フォーシス 原書房 昭和 海の哺乳類 その過去・現在・未来 サイ 北方史入門 日本人とロシア人の大探検史 伝統と現代社 森本和男訳 和田一雄他 シベリア先住民 の歴史 彩流社 司馬遼太郎 司馬遼太郎 志水速雄 和田春樹 開国 ロシアについて 北方の原形 オホーツク街道 文藝春秋 朝日新聞社 日本人のロシア・コンプレックス 中公新書 昭和 ジョン・チャノン他 外川継男監訳 地図で読む世界の ロシア 河出書房新社 ステン・ベルクマン 加納一郎訳 千島紀行 スレブロドリスキー 岡田安彦訳 こはく 朝日文庫 その魅力の 秘密 新読書社 チューネル・ ・タクサフ他 熊野谷葉子訳 アイヌ 民族の歴史と文化 明石書店 高倉新一郎 明 田中清輔編 北海道拓殖史 日本とロシア 柏葉書院 紀伊国屋新書 千島北洋開発期成招待会紀要 北海道協会 (非売品) 田保橋潔 増訂近代日本外交史 テッサ・モーリス 刀江書院 大川正彦訳 辺境から眺める アイ ヌが経験する近代 みすず書房 寺沢孝毅 北千島の自然誌 ドナルド・キーン 公論社 昭和 鰭脚類 芳賀徹訳 丸善ブックス 日本人の西洋発見 中央 アシカ・アザラシの自然史 東京 大学出版会 日露国境交渉 日本放送出版協会 成 和田春樹 高野 平凡社 東 レザーノフ 大島幹雄訳 日本滞在日記 岩波文庫 ター 佐藤快和 海と船と人の博物史百科 歴史 吉川弘文館 ベニョフスキー航海記 エンティスト社 吉田武三 海道出版企画センター 榊原正文編著 日露関係史 水口志計夫・沼田次郎編訳 北方領土問題 朝日選書 平