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第三編 ベトナムの日系企業における人づくりの現状 第 1 章 金型製造産業

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第三編 ベトナムの日系企業における人づくりの現状 第 1 章 金型製造産業
第三編
ベトナムの日系企業における人づくりの現状
第1章
金型製造産業
1.はじめに
協伸工業は、東京都港区に本社を構え、埼玉県川越市、栃木県宇都宮市、青森県五所
川原市に工場を有し、タブ端子やそれを高速マウンターで実装できるようにテーピング
した表面実装端子、端子を電極にした端子台、更にボビン成形、巻き線、外装までをイ
ンライン製造するソレノイドコイル等を製造している。製造にはプレス加工と樹脂成形
加工プロセスが必須であり、それに要する金型も内製するメーカーである。
近年高まり続ける国際化の時代の要請に応えるべく、進出先として中国を始めアジア
諸国を調査の上、フィリピンに進出することに決めていた。そこへ主力銀行が主催する
ベトナム投資視察団への参加を勧められ、念のためオーナーが出かけて一度でベトナム
の虜になり、フィリピン計画を反故にして進出を決めた。心変わりの最大の要因はベト
ナムの、夜も女性が外出できる治安の良さであった。そこで、1995 年ホーチミン輸出加
工区に独資で進出し、プレス加工と樹脂成形事業を展開することとなった。
筆者は、そのベトナム子会社に日本人の現地代表者として約 4 年間奉職し、ベトナム
人のポテンシャルを活かして事業の拡大に努めてきた。その航跡をお伝えすることで現
地の人材の強み、更にその有効活用の方向性を伝えられればと思う。
筆者は、前後 2 回にわたるアメリカ駐在中に定年を迎えた。そのまま年金生活入りする
には元気すぎるような気がしたので、次なる仕事を探した。幸いベトナムでの仕事のオ
ファーに接した。協伸ベトナムは創業 7 年、初代の日本人現地責任者は交替の期を迎え
ていた。親会社の社員の中にはベトナムまで赴任を希望する者はいないので初代に続き、
次も外部調達ということであった。実を言うと、以前日本から赴任したのに 1 カ月しか
持たなかった人がいたのだそうで、先進国のアメリカ帰りの筆者なら、半年も持てば良
い方との下馬評であった。それが 4 年近くの任期を全うしようとは、周囲の期待を裏切
って申し訳なかったが、それほどベトナムは住みやすく魅力に富んだところであるとい
うことであろう。40 年近く過ごした初めの会社は化学会社であった。それが全く畑違い
のプレス・樹脂成型事業、それも後には金型を自製したり、親会社もやっていないメッ
キにまで手を染めるようになったのだから、ベトナムは大変な可能性を秘めた国である
ということだ。
(協伸ベトナム第1工場玄関)
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2.日本の進出先としてのベトナム
投資先としてのベトナムの評価
ベトナムは共産党一党独裁体制ながら市場経済を志向することにより、近年ではアジ
アでは中国に次ぐ高度経済成長を遂げ、現状ではまだ世界の最貧国の域を脱しきれては
いないものの、2020 年には工業国の仲間入りを果たそうとしている。
その目標実現を可能にする条件である、資本、労働力、技術のうち現在持ち合わせて
いるものは労働力だけで、残りの資本と技術の蓄積が出来ていないので、国を挙げて外
資導入を図っているところである。そのためには税を中心とした投資優遇策を用意し、
外資の言い分にもよく耳を貸している。
投資先としてのベトナムの評価はほぼ固まっている。その優位性として挙げられるの
は政治的、社会的安定であり(協伸のオーナーはこのカントリーリスクの低さを第一に挙
げた)、ハイポテンシャルで低廉な労働力、アセアン諸国の中に占める地政学的優位性、
高い経済成長力、通貨の安定性、投資優遇策、良好な対日感情といったところである。
一方、留意点としては、不透明で整合性を欠く政策運営、インフラの未整備、裾野産
業の未成熟、管理者・熟練労働者の不足、土地所有の不可、国際慣行への未適用等が挙
げられている。
DNA の共鳴する国
全ての条件を満たした国というところへは、世界中の国が進出してきて競争が激化し、
事業はしやすくとも過当競争ゆえに収益的には厳しくなることは避けられない。ベトナ
ムへの投資はその高いポテンシャルのゆえに、その強みを最大限に活かし、欠点は自ら
の努力で補う覚悟で進出すれば十分なリターンが得られるところである。
ただ、こちらがいかにその気になっても、ホストカントリーが日本とまったく波長の
合わない国であれば、せっかくの努力も水泡に帰することになるであろうが、幸いにし
てベトナム人は日本人と波長の合うことで知られている。お互いにモンゴル系で 8 割以
上の子供に蒙古斑が現れるのも共通している。
(同じアジア人でも蒙古斑の出現率が 5%
以下、10%以下の民族もいる)全体的に痩せ型であるが、顔や姿かたちは日本人に似て
いる。実際、私がアメリカ在住中にベトナム人に同胞と間違えられてベトナム語で挨拶
され、反対に日本に来たベトナム人研修生が日本語で話しかけられたりしている。
考え方も近い。1999 年の宗教センサスによると仏教徒は人口のわずか 9%に過ぎない
が(ベトナムは信仰の自由を謳っているが、本来共産主義は宗教を認めないせいか、調
査では 80%が無宗教と回答、実際ベトナム人従業員の宗教の欄にはクリスチャン以外は
none(無し)と記載されているのに驚きもした)、実生活では大乗仏教の生活様式が顕
著である(日本のベトナム案内書には大体仏教徒が 80%と書いてある)。家庭や店に仏
が祭られ花が供えられ線香もたかれている。
朝早くから挙行される派手な葬列のために、朝の通勤時に交通渋滞に巻き込まれるこ
とも一再ならずある。お寺で鳥を買って、すぐその場で自然に放し功徳を積む「放生(ほ
うじょう)」と言う習慣も未だ健在である(日本では明治時代にすたれた)。また、かっ
て同じ儒教の影響を受けた日本の美徳でもあった「年寄りを敬い、知識習得を尊ぶ国民
性」は、今日我々の方が学ぶ必要があるほどである。
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教育に熱心で、外来の優れた技術を進んで摂取する。勤勉で向学心に富み、器用で、
協調性があり、凝り性(筆者はこれを日越互恵にかけて 5K と呼んでいた)といったベ
トナム人の特質は、日本の戦後の復興期に外国人を感心させた日本人の形質を思い起こ
させる。ベトナムは我々と多くの良い肉体的・精神的 DNA を共有し、親日的である世
界でも唯一の国であると言っても過言ではない。
意外に古い日本とベトナムの関り
日本は古くからベトナムとの関りを持っている。 天の原ふりさけ見れば、春日なる、
三笠の山にいでし月かも
という望郷の歌で知られた阿倍仲麻呂は、中国の科挙の試験
に合格し、唐の地方長官としてハノイに赴任していたことがある。
仲麻呂は中国人官吏としてのいわば間接的官吏であるが、直接的にも、仲麻呂在越の
10 年程前の 752 年に、当時ベトナムの中部を支配していたチャンパ国から奈良東大寺
の大仏開眼供養会に林邑楽(りんゆうがく)を奉納し、日本の雅楽の源流の一翼を担っ
ていると言う。
また、ベトナム中部の都市ホイアンには、日本人町が築かれ、今も日本橋と言う橋が
残っている。又、更に沖縄には想夫恋と言う夫婦愛を謳った歌があるそうであるが、こ
れと同じ歌が、ベトナム最後の王朝の首府フエに存在すると言う。歌詞も曲も全く同じ、
唯一の違いは、日本語で歌われるかベトナム語で歌われるかであると聞く。
日本を尊敬するベトナム人
ベトナム人は日本人に対し親近感を抱き尊敬してくれてさえいる。日本が日露戦争で
勝利した頃、ベトナムからフランスの植民地支配を脱するための軍事支援を求める動き
があった。日本は軍事支援を断り、代わって人材育成の支援をしたという。
(これがいわ
ゆる、東遊運動(日本に学べ)である)また日本が大東亜共栄圏樹立とやらでベトナム
に進駐したおりには、あの植民地の宗主国フランスを戦闘らしい戦闘もせず駆逐して大
変尊敬された。その日本は現地で米を調達し、そのせいでベトナム人が 2 百万人も餓死
したと歴史の教科書で教えられるそうであるが、どこかの国々と違いベトナム人に「だ
からこれ位してくれて当然だ。」とか「だから日本人はけしからん。」と詰め寄られたと
言う話は聞かない。
心の深層は計り知れないものの、極めて穏やかな人たちであると言えよう。第二次大
戦後、ベトナムがフランスの植民地支配から独立を果たすに当たり、日本は正史には決
して載らない貢献をしたと聞き及ぶ。つまり、先の大戦に敗れた在越日本軍が武装解除
されるに当たり、日本の武器弾薬は連合軍に差し出したが、フランス軍からの戦利品は
ベトナムへ引き渡したと言うのである。また、日本の将兵の中には、日本が新型爆弾(原
爆)などで灰燼に帰したことを知って帰国する希望も持てずに現地に残り、ベトナム人
に武器の使い方、兵員の訓練の仕方、軍事作戦の立て方を指導した者もいたと言われて
いる。そのせいもあってベトナムはフランス軍との戦闘に勝利することが出来た。
更に、戦後の日本の驚異的な経済復興は、かのロンドンエコノミストも「ライジング
サン、ジャパン」の特集記事を組み、大いに賞賛してくれたほどであったが、ベトナム
も日本の経済成長に憧憬の念を抱き、日本に学びたいとしている。
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ベトナムは 1978 年カンボジアを侵攻して世界から経済制裁を受けて困窮した。
その苦しい時代に唯一のスポンサーとして支えてくれたソ連が 1991 年に崩壊したた
め疲弊しきっていたベトナムに、1992 年世界に先駆けて政府開発援助(ODA)を再開した
のは日本である。ベトナム政府はそれが今日の経済成長の出発点になったと日本を高く
評価していると言う。
日本の ODA は援助供与国の中で、国としては常に最大である(地域としては EU の
方が上回ることもある)。その成果が大いに発揮されたのが SARS(重症急性呼吸器症候
群)への対応であった。どこかの国が、事実を隠蔽して流行を広げ国際的に非難を受け
たのに反して、ベトナムは WHO(世界保健機関)の賞賛を受けるほどの早期終息を実
現した。
なぜならば、日本の ODA で建設されたハノイのバクマイ病院に患者を集中隔離して
流行を押さえ込み、日本が伝授した感染症対策のノウハウを十二分に駆使したからであ
る。
そのほか、ハノイやホーチミンの国際空港、道路、橋、港湾と言ったインフラ整備に
日本の ODA が貢献し、感謝されている。
3.ベトナムでの工場生産
ベトナム人労働者 日越対等
ベトナム人は優秀である。それは、フランスの植民地時代フランス政府の中級・下級
官吏として東南アジアの他のフランス植民地に派遣されていた事実を見ても明らかであ
る。
今後日本は急速に高齢化と人口減少に見舞われ、これまでの経済力を維持し、望むら
くは、成長を継続していくためには、このような海外の高いポテンシャルを活用してい
くほかは無い。この点でベトナムは格好なパートナーであると思料する。
事実、どのベトナム投資案内書を見ても、ベトナム人ワーカーは若く、優秀で向学心
に富み、目が良くて器用であり、定着率が良くて賃金は低廉であると記されている。
しかし、さるベトナム投資セミナーで、ベトナム在勤 11 年の経歴を有する大企業駐
在員のベトナム人評価は「モラルはなきに等しい。ルールは守れない。言われたことし
かやらない。応用力無し。約束は守らない。時間の観念なし。原材料の横流し、横領が
横行。
何事も他人のせいにする、、、」と大変厳しいものであった。筆者の体験とは随分異なる
気がするがこういった側面があることも事実であろう。参考になればと敢えて引用させ
てもらった。このほかにもグローバルスタンダードに不慣れなあまり、彼我の慣習の違
いに驚かされることがあるのも否めないが、ルールに無知であることと、無能であるこ
ととは別であり、きちんと教育すればポテンシャルを現実の力に引き出すことが出来る。
ベトナムの日系企業の中には、ベトナム人をさす時に
ヤツラは、、 と言って憚らな
い人が結構いて驚く。このような会社は、勤勉で安い働き手としかベトナム人を見てい
ないので、ポテンシャルを活かす教育とか、それを活用して業務を改善し会社を強くし
て行こうとかには思い至らないようである。人間として日越対等の視点に立ち、彼らの
ポテンシャルを素直に認める。立派な原石を手段を尽くして磨き宝石にする、更に宝石
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に育ったらそれにふさわしい処遇をする覚悟で当たれば、ベトナムは宝の山に満ちてい
る。
共創か協創か
シャープの町田前社長が素材メーカー等との協創が日本の強みであると話した(日経
新聞 2006 年 2 月)。筆者は、同じようなコンセプトで共創と言う言葉を使うようにして
いた。
中小企業が大企業と共同で新しい物を作り上げた時、協力すると言うと、強者に奉仕
させられるイメージが拭いきれないので、売り買い対等というコンセプトから、敢えて
辞書にも載っていない共創と言う言葉を使用した。
これは、日越対等、売り買い対等を強く意識して使った言葉である。
内なる共創 :日本の親会社から技術移転を受けると言わずに、この言葉を使う。
赴任して驚いたのは、製造について質問すると、「それについては教わっていない」、
「分からない。」と言う答えが頻繁に返ってきた。
「そんな馬鹿な。」と思われることがし
ばしばだった。つまり教わった条件、状況から一寸外れると、確かに厳密に言えば具体
的に対処法を習っていないわけで、「出来ない」、「聞いていない。」と言うのも嘘ではな
いことになる。技術移転、技術導入と言うと、あくまで受身になり、自分で工夫すると
言う心構えにならないようである。優秀なベトナム人に主体性を持って技術の習得、改
善に努めてもらうには、親会社からの技術指導は単にノウハウ(具体的にどうしたら出来
るか)ではなく、なぜそうするのが良いのか(ノウホワイ)を教えてもらい、日々の製造
実践の中で遭遇する事象に対処できるようにした。つまり、親からはあくまで技術のコ
アーである、ノウ
ホワイをキチンと学び取り、ベトナムの諸条件に合わせた操業方法を確立するという
意味を込めている。ベトナム人の主体性を鼓舞する考えを込めたのである。
一方、顧客と共に新しい技術製品を作ることは
究極の共創
と言うことにした。こ
れは顧客との間で双方のエクスパティーズ(専門知識・技術)を上手くかみ合わせて、
顧客のニーズに対応することである。ここにも売り買い対等と言う矜持があるのはもち
ろんであるが、こうして共創の上に作り上げた製品は、そうやすやすと顧客が内製を始
めたり、第三者に転注することも無くなるに違いないと言う打算が働いていることも事
実である。
顧客からの新製品製作の打診には、これまで作った経験が無くとも積極的に入札に参
加することにした。他社が出来ることが出来なくては、ビジョンに掲げた世界企業にな
れないとの強い思いが突き動かすのである。私が、
「時間をいただければ何とか仕上げて
見せます。今足りない要素技術は買って来てでもやります。」と言う側で、なまじ日本語
の出来るベトナム人工場長が「そんなのデキナイヨ。」と後ろから鉄砲を撃つ。「やりも
しない内に出来ないとどうして分かるのか。やったことが無いと言いなさい。それなら
正しい。」と何度か注意するうちに、「それはまだやったコトが無い、がやってみたい。」
と発言するようになった。こうして新しいことにチャレンジを重ねていくうちに、親も
手がけたことが無いような金型も作れるようになってきた。
進取の気性を活かせるには、裏付けとなる知識・技術力の涵養が肝心である。その基
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礎知識レベルを上げ応用力を強化するため、親会社のエンジニアによる OJT はもとより、
社外セミナーへの参加、ホーチミン工科大学教授陣による社内での生産管理等の研修、
奨学金を出しての夜間大学への通学、語学研修、他社の見学、リーダーの部下の教育、
AOTS の補助金制度を利用した日本での研修等、考えられる手段は全て尽くした。
インターン制度とトップテン「親切は他人の為ならず」
ベトナムは教育に熱心な国である。中学までが義務教育、しかし貧乏国のこととて教
育までなかなかお金が回らない。日本の戦後がそうであったように、校舎が足りないせ
いで,授業は午前と午後に同じ校舎を使って行われることがあるほどである。後に、ア
ジアの大学ロボット・コンテストで優勝したホーチミン工科大学もその例外ではない。
ある日、新聞に同大工学部の設備が古くてベトナム戦争が終わった 1975 年以前に購入
した設備を使って授業をしている。従って、卒業して会社に入っても直ぐには最新の機
械操作は不慣れで役に立たないといった内容の記事が掲載されていた。当社は中小企業
のゆえに、世界最新鋭の設備を備えているわけではないが、大学の 30 年前の古めかしい
設備よりはましと思われるので、会社の設備を使ってインターン制度を実施することを
大学に提案した。直ちに工学部長が 10 名ほどの教職員を連れて見学に来て、気に入っ
てくれインターン制度が始まった。
それからしばらくして、日本で開催された第 1 回アジア太平洋大学ロボット・コンテ
ストで同大学が優勝し超エリート校としての名声を得ると、多くの会社が奨学金制度を
設けたりして、大学との連携を深めていった。しかし、われわれは連携が早かったため、
工学部のパンフレットの提携先の欄には他の大会社を差し置いて最初に当社の名前を載
せてくれ、工学部学生の 1 番から 10 番までを推薦してくれる事になった。文字通り他
人への親切はわが身に返ってきた訳である。ただし中小企業の身、そんなに沢山雇える
はずも無く、他の企業にもお裾分けをし、感謝されている。
4.ベトナムでの金型作り
金型王国計画(KINGDOM プロジェクト)
親会社は、標準サイズの金型を作るのに 40 日掛かるという事になっていた。しかし
単純に計算してみると半分で出来ても不思議ではないと思われる。そこで、キャノン社
に売り込みに行った時、発注後 3 週間で納品できると言った所、それを聞いた親会社に
叱られた。
親会社からは、金型は先ず作ってから色々調整して仕上げていくと言う物だと教わっ
た。更にどんな順番で作るのかが、又、難しいのだとも。
金型(それもプレス型)の設計には想像力・創造力が必要である。その想像力・創造
力も無からいきなり生み出される物ではない。色々な工夫も過去の事例や経験を巧みに
組み合わせて形作られていく物がほとんどである。過去のデータの記憶や活用、更に、
デザインルールの適用は、うまく使えば人間よりコンピューターの方がはるかに優れて
いる。この特色を活かしてデザインすれば、独創的な型作りはムリとしても、誤りの無
い、従って作り直しのチャンスが少ない型作りが出来るはずである。事実、金型製作時
間の 3∼4 割の時間が最後の微調整を含む修正作業に費やされている。しかし、はじめ
40
からキチンとしたデザインに基づいて、機械による正確な仕上げをするならば、調整の
時間は限りなくゼロに近づくはずである。
素人の筆者には金型作りこそ IT と CAD/CAM、NC マシーンの活用でドラスチックに
速く、正確に出来るのではと思われた。すなわち、過去のデータを最大限に利用して金
型設計・製作モデルを構築することで対応できると考えたのである。データの蓄積のな
い取っ掛かりの頃は、各デザインの要素ごとに実績値の二点間は単純内挿することで、
まず要素技術のモジュール毎のモデルを作る。どういう順序で作るかは、コンピュータ
ーの最も得意とするシミュレーションで最適解に近い近似値が得られるはずである。こ
れで作った物を始めのうちは修正も必要であろうが、その仕上がりの実績値をモデルに
取り込んでリファインを重ねていけば、データベースの充実とモデルの精度向上により、
最後の最後に人手が係わるであろうフィニシング・タッチを除けば、金型も自動設計・
自動製作で大幅な時短とコスト削減が計れると考えられる。
1 週間の目標設定は無謀であると言う向きもあろうが、当時の日経新聞に新宿のイン
クス社が試作金型を 10 日間で仕上げることを謳い、業容を幾何級数的に伸ばしている
と言う記事が掲載されていた。従って、後発で出る以上もっと時間短縮を図る必要を感
じて一週間と設定した。実を言うと、金型製作モデルを構築するにはデータ(実績数値)
が必要であるが、ベトナムでは金型を作り始めたばかりでありデータの蓄積がない、ま
た、日本の親会社にもデータの集積がなかった、そこで、同社にデータベースを分譲し
てもらえないか尋ねたことがある。当然のことながら、データベースは販売しない。た
だし、プログラム開発は実施してあげても良いという返事。モデル構築こそがこのプロ
ジェクトの命であるので、今度は此方が譲れない。おまけに、先方のプログラム開発フ
ィーは目の玉の出るように高かった。先方からは、
「お宅(=当社)のアプローチが正鵠
を得ているので自分で出来るはずだ。」と励まされて?完全自前主義にした次第である。
そこで、インターン制度でなじみになったホーチミン工科大学と金型を速く作るため
の産学協同プロジェクトを立ち上げた。その名前を KINGDOM プロジェクトとした。
私の計算では、全ての条件が整えば、160mm のプレス標準型は3日ほどで出来るはず
である。
3週間と言っただけで叱られるのであるから、3日と言えば気違い扱いされかねない。
そこで目標は1週間とした。ベトナムは 19 世紀半ばにフランスの植民地になる前は、
中部のフエに首府がある王国であった。つまり、ベトナムに金型の王国を作ろうと言う
意気込みである。
実際は、Kyoshin INtegrated Global Design Optimization & Manufacturing System
の頭文字をとったアクロニム(頭字語)である。ただし、相手は国立大学であり、私企業
の 名 前 を 冠 す る の も 憚 ら れ る の で 、 先 方 に は 、 同 じ KINGDOM で も Kanagata
INtegrated Global Design Optimization & Manufacturing System と言って、二枚舌
を使ってある。
工学部に 5 台のワークステーションを寄付し、学生を募った所、40 数名の応募があっ
た。
コンピューター1 台に 2 名が適切なサイズであるので、途中止める人も考慮して 12
人の学生を選んだ。工学部に限らず、IT 学部やロボコンチームの学生もいた。その中に、
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たった一人女子学生がいたが、彼女を除き全員が卒業したら協伸ベトナムに入りたいと
言っていた。彼女は見るからに聡明な学生であったが、卒業後は、大学院へ進学し、大
学教授になりたいとのことであった。男女平等のベトナムでも、実業界では差別があり
女性が昇進するのは難しいことを反映しているのではとも思われた。男女平等といいな
がら、労働法に定める定年は男性 60 歳に対して、女性は 55 歳。男性による家庭内暴力
を体験する女性は 40%に達しているという調査もある。現実は女性に厳しい社会という
面もあるようである。
大学に金型を教える先生は居ないので、会社の金型セクションのリーダーを非常勤講
師として大学に提供した。国立大学には金が無いので、講師料が支給されるわけではな
い。
そこで、プロジェクト決定時、そのリーダーに講師料の支給を伝えた所、要らないと
断られた。愈々プロジェクトが開始される月の初めに再度昇給を伝えたら、又、断られ
た。
実際の給与支給日は月末なので、一方的に職務給の 20%アップ(=30 万ドン=20 ド
ル、因みにホ−チミン市の地元企業の最低賃金は当時 29 万ドン、2006 年 10 月からは
45 万ドンへアップ、外資系企業の当時の最低賃金は 62 万ドン、2006 年 2 月からは 87
万ドン)を支給したら今度は黙って受け取ってくれた。
しばらく経って彼から「自分には他所の会社からこんなオファーが来ている。」と 5
割以上も高い金額の誘いを見せてくれた。人間は金だけで働くのではないと言うことを、
このホーチミン工科大学を優秀な成績で卒業し、マイクロソフトのコンピューターカレ
ッジを首席で卒業した男が教えてくれた一コマであった。
(プレス工場
協伸ベトナム第1工場内部)
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(金型工場
協伸ベトナナム第1工場内部)
(鍍金工場
協伸ベトナム第2工場内部)
四方一両得
親子間で最初に開発したノウハウは、日越間でシェアー(共通に使用)しようというの
が内なる共創である。ベトナムで ISO9001(製造品質)、 ISO 14001(環境品質)、SA 8000
(社会責任)、ISO 9000/TS 16949(自動車関連事業の品質マネジメントシステムで ISO
9001 より厳しい規格)の認証を B 社から取得してきた。
日本の親会社では 600 社と取引しているが、これまで何とかこれらを取得しないで凌
いできていた。しかし、環境問題への対応が厳しく要求される中で、ついに ISO 14001
(環境)を取得しないのなら取引停止すると通告する顧客が現れたので流石に親もこの
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取得を決意することになった。
そこで共創の精神に則り、ベトナムの子会社が親会社の ISO 14001 取得を指導するこ
とになった。一方、認証会社はロンドンに本拠を置く世界的に有名な B 社であり、当然
日本にも事務所があるが、日本の監査費用が高いのが難点である。
幸いなことに、そこの日本事務所のライセンス条件には、B 社ジャパンとして認証す
る場合は日本人しか監査できないと書いてある。それでは「B 社ジャパンでなく B 社本
部の認証を貰うのならばどの国籍の人が日本で監査しても良い理屈になるが?」と確認
した所、「その通り。」と言うことである。そこで、ベトナム人監査人に日本で監査する
気持ちがあるか照会した所、
「やりたい。」と言う。これで困るのは B 社ジャパンである、
自分の庭が汚されることになる訳であるから。
「ベトナム人監査人は日本の環境法に明るくないので手伝う。」とのご親切な申し出に
接した。それでは費用が嵩んで困る、何しろ、日本人のエントリーレベルの監査人のフ
ィーが、一番高いベトナム人監査人の何倍もするからである。この申し出に対しては、
「親会社の所在する地域の環境法は、県庁とか市役所の環境保全課が詳しいのでそこか
らのインプット・アシストを貰うことにする。」から結構であると丁重にお断りした。
B 社本部は、その役人たちに監査補助資格があるか保証を求めてきた。親会社の工場
のある 3 つの市の環境保全課に電話をすると、「何で貴方に名前を名乗らなければなら
ないのか!?」から始まり、監査は英語で行われることもあって、
「協伸に迷惑をかけて
はいけないから。」と逃げ回る(聞くと、英文のパンフレットも用意して無いとの事であ
った。空洞化・空洞化と騒ぎながらも、開いた穴を海外から企業を招致して埋めようと
いう発想がないということである。日本はまだまだ余裕があるということか)。そこを何
とか説得して、大学の専攻、入庁後の担当した仕事等を聞き出した。さすが日本の官庁、
大学で環境関連の科目を履修し、環境問題に携わってきた立派な役人揃いである。無事
英国本部の資格審査も通り、地元役人の協力で無事認証を取ることが出来た。
お陰で、このプロジェクトに関与した全ての人が喜ぶ結果に終わった。
先ず第一に、ベトナム人従業員が喜んだ、
「親を教えた」と。第二は、B 社ベトナム人
監査人が喜んだ、「先進国で監査した」と。三番目は、当初逃げ回ったお役人が喜んだ、
「良い勉強になった」と。最後に最も得をしたのは親会社である。ベトナム人の監査人
は、日本人ほど細かくないので時間が短くて済み、かつ、単価も安いので監査費用は桁
違いの安さであった(取得後年一回のフォローアップ監査、三年毎の認証の更新を考え
ると莫大なセービングになる)。大岡越前の三方一両損に倣って、これを四方一両得と言
うことにした。
B 社からは、かかるインターナショナルな試みはベトナムで初めてであると(通常は
先進国から発展途上国の子会社に出向く)、特別表彰をしてくれ、立派なプラック(記念
の額)を贈ってくれた。これはお金を出して取得した国際認証状の額の列の真ん中に燦
然と輝いている。
その後、親会社は ISO 9001 の認証を取得した。この場合は、地方官庁の役人が絡ま
ないので、正に三方一両得になる。
ついでながら、ベトナム人従業員を、深絞り技術の習得のため日本に派遣したが、技
術指導の見返りに受け容れ企業の ISO 9001 取得支援をこの方式でやることにした。受
44
け容れ企業の社長とは 4 時間にわたって話し合い、最後の頃には、「ベトナム人に自分
の技術を指導するのは、自分の社会的使命です。技術料は要りません。」とまで言ってく
れたのであるが、只貰いはいやなので、三方一両得とクロスライセンスと言う格好にし
た次第である。
5.WTO 加盟のインパクト
2007 年 1 月ベトナムは 10 年来の夢が叶い WTO への正式加盟を果たすことが出来た。
この加盟に伴うプラスのインパクトは輸出市場の拡大、輸入原材料のコストダウン、
経済成長の加速、国内市場の拡大等が考えられる。しかし、加盟条件の一つである輸出
奨励措置の廃止のインパクトをどう凌いでいくかはベトナム進出の三種の神器(独資、
外資系工業団地、輸出加工)を信じて進出した企業にとって大きな課題である。現に、
アパレル産業への優遇措置は加盟と同時に廃止され、残りの産業も 5 年間の猶予期限が
切れる 2012 年 1 月には廃止されることになる。
2006 年 7 月に施行された統一企業法以前の外国投資法に基づいて進出した企業にと
っては、外資法で保障された進出後の不利な政策条件変更への補償を勝ち取る交渉はこ
れから始まるところである。
何れにせよ海外では日本人の 3S(スマイル、サイレント、スリープ)を脱却して
自己の権利を守らなくてはならない。諺に、「沈黙は『金』、雄弁は『銀』」と言うの
があるが、海外ではむしろ「沈黙は『禁』、雄弁は『義務』」ですらある。
一方、WTO 加盟に伴い、諸外国からのベトナム投資が活発化しており、外資への開
放分野が増えるに従い、この増勢は当面やむことはないと思われる。日本企業は先進国
の中で、海外出向者に対する待遇が国内に比べてよくないことは有名である。
一方、欧米の企業は手厚い待遇をしないと従業員が海外勤務に応じない傾向があるの
で、海外勤務者の経費は高くなる。かつ、コスト管理が厳しいので、本国からの派遣者
の数を抑え、出来るだけ優秀な現地人を登用して収益を上げようとする。こうした背景
で、現地人に対して日本の企業から見ると破格の待遇をして人材を集めることとなる。
こういった情勢の変化を良く織り込んで優秀な人材の確保に努めないと、せっかく手間
とコストをかけて育成した人材を外国企業にさらわれることになりかねない。かかる人
材の流動化対策としては、単に給与を上げればよいといったものではなく、長期安定雇
用、人材教育といった日本企業の持つ強みを良く理解してもらう努力はもちろんのこと、
中小企業であっても、会社の目標と経営理念を明示し、現地人材の昇進限界(現地人は
どんなに頑張っても部長にはなれないと言った、文書には書いていないが実感されるい
わゆるグラスシーリング)を高めたり廃止して、現地従業員に将来の希望が持て誇るに
足る会社経営をする必要があろう。
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