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剣とお玉と花緑青の鍵 - タテ書き小説ネット

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剣とお玉と花緑青の鍵 - タテ書き小説ネット
剣とお玉と花緑青の鍵
小泉クロ
!18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません!
タテ書き小説ネット[R18指定] Byナイトランタン
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂﹁ムーンライトノ
ベルズ﹂﹁ミッドナイトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小
説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は当社に無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範囲を超え
る形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致します。小
説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
剣とお玉と花緑青の鍵
︻Nコード︼
N8381BY
︻作者名︼
小泉クロ
︻あらすじ︼
気付けば異世界の森で立ちつくしていた彼女は、魔物に殺されか
けたところを精悍な騎士に救われた。その美丈夫に見初められ、い
や、少なくとも善意で保護してくれたなら美談だったのだろうが、
三十代目前の平凡女性にそんな奇跡は起こらなかった。町に連れて
行くだけの対価として要求されたのは、彼女の身体︵その場︶。そ
こから始まる、枯れかけのアラサー女性と、月に数夜だけ別人格に
乗っ取られる堅物騎士との不器用な共同生活。
1
01. 終電の導き
﹁⋮⋮え﹂
ぼけっと、枝の合間から覗く満月を見上げ、宮前 伶は茫然自失
となった。
耳には終電から解放される勤め人達の声も、電車の音も、終電の
アナウンスも入ってこない。痛いくらいの静寂の中、酔いが一気に
醒めた彼女に認識できるのは、自分が今﹃森﹄としか表現しようの
ない空間にいることのみ。
この目で見ているものが信じられず、伶は大口を開けたまま辺り
を見回した。
月に照らされてかろうじて分かるのは、自分を囲む高さの違う大
きな木々に、不思議な形の繁み、足首まで達する草地。どこにも街
灯やネオンなど見当たらず、自分がいたはずの駅など見る影もない。
︵ど、ど、ど、どういうこと? 私は今さっき電車を降りたところ
で⋮⋮︶
彼女は飲み会の二次会をどうにか抜け出し、終電で自宅の最寄り
駅まで帰ってきたところだった。電車から降りた瞬間に立ちくらみ
がして、思わずその場にしゃがみ込んで目を瞑り、眩暈がマシにな
るのを待っただけ。冬の冷たい空気ではなく、やけに生暖かい風に
頬を撫でられたのを切っ掛けに目を開ければ、そこには現在の光景
が広がっていた。
﹁いや、おかしいでしょ⋮⋮。目を開けたらそこは森の中だったっ
て、無理あるわー⋮⋮﹂
2
しかしどんなに眼前の現実を否定したくとも、頭は冴えているし、
この木々や土の香り、風に葉や枝が擦れ合う音が偽物には思えない。
頬をつねれば当然痛いし、目も耳も鼻も、生暖かい風に触れられる
肌も、全てが目の前の光景を肯定していた。
﹁森って、なんで⋮⋮?﹂
唇が引き攣り、笑いたくもないのに表情筋は勝手に口元を不気味
な笑みの形に変え、乾いた声を吐き出した。数秒か数分後か、そう
して軽く状況を受け入れきれずにいた彼女だったが、急にこみ上げ
てきた吐き気に口元を押さえてその場に膝をついた。
﹁ぅ、え⋮⋮っ、ふ、ぁ﹂
大地に四つん這いになり、手元の草を握りしめる。しばらく嗅い
でいない青臭さが鼻をつき、吐瀉感を余計に増長させた。それでも
出てくるものは唾液のみで全く気分は良くならず、涙の滲んだ視界
に移る青草を睨みながら、何とか呼吸を落ち着けた。
此処で泣き喚いても、とてもではないが事態が好転するとは彼女
には思えない。では次にすべきは何か。
伶はやけ気味に目元をコートで拭うと、近くに落ちていた木の枝
を拾ってよろよろと立ち上がった。
﹁あれ⋮⋮バッグ⋮⋮﹂
今まで気付かなかったが、彼女が長年愛用する牛革のショルダー
バッグは見当たらない。立ちくらみがした時に、握りしめたままプ
ラットフォームに手をついた記憶はあるが、この場に見慣れた黒い
バッグはない。大きくため息をついた。飲み屋ではきっとコートを
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預けるかフックにかけるかするからと、普段コートのポケットに入
れている音楽プレーヤーや定期券、携帯電話は全てバッグの中に移
したのだ。つまり、彼女は完全に着の身着のままということになる。
﹁食べ物とか、飲み物がないのはつらいなあ⋮⋮﹂
金銭よりもまず飲食物。それが何より彼女の性格を表している。
しかし、いつまでもこの場にいたって仕方がない。此処が何処なの
かは皆目見当もつかないが、ひとまず月に向かって歩くとする。理
由は簡単で、このたった一つの光源に背を向けたくないからだ。彼
女はもう二、三度、周りに何も落ちていないことを確認すると、足
をぎこちなく動かし始めた。
* * *
﹁⋮⋮暑い﹂
体内時計で十数分歩いた頃か、伶は木の幹を枝でガリガリと傷つ
けながら、思い切り顔を顰めて呟いた。
生暖かいとは思っていたが、歩き出せば気温の高さは無視できな
いほどになってくる。汗をかくほどではないが、運動していれば冷
え性の彼女とて汗ばんでくる程度には暖かい。
彼女は先月買ったばかりのコートを脱ぎ、腕に抱えた。夜の森で
ハイキングなどする予定などなかったから、コートを脱げば出てく
るのは、腰を軽く紐で結わくタイプの長袖のワンピースだ。寒さに
耐えかねて、最近は通勤だけロングブーツにしていたのが、唯一の
幸運だろう。そうでなければ今頃、伸び放題の草にストッキングは
ボロボロ、ヒールのしっかりした靴は大地を耕していたはずだ。
4
ブーツ通勤を採用した数日前の自分を賛美したところで、彼女は
苦笑した。
﹁本当に幸運なら、こんなことになってないのにね﹂
未だに頭は現実を拒否したがっているが、社会をここまで生き抜
いてきた人間なら、アクシデントに我を忘れて良いことなどないと
分かっている。泣いたり悲観に暮れるのは、せめて民家の一つでも
見つけてからだ。
だからこそ、彼女は森で迷う事のないよう、木に目印をつけなが
ら歩いていた。
ガリガリと生木を傷つけることに多少の罪悪感を抱きながらも、
何とか一目で分かる傷を幹に付け終えた伶は、幾度ついたとも知れ
ぬため息をついた。
﹁あれ?﹂
そしてふと、自分が今しるしを付けたばかりの木の幹の裏側に、
別の﹃痕﹄があることに気が付いた。
二十センチ程にはなる直線状の傷が何重にもなって、彼女の目線
よりやや下につけられている。彼女が必死に抉ってもたった数ミリ
にしかならなかったのに対し、これは数センチほどにもなる。
﹁う、嘘でしょ⋮⋮?﹂
囁くような小声が、やけに辺りに響いたように感じた。
彼女よりも遥かに力が強く、彼女と同じかそれ以上に大きな、爪
を持つ生物。
︵熊って爪痕残すんだっけ? 樹皮を剥ぐのは何だったっけ? マ
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ーキングって求愛だっけ、縄張りの主張だっけ?︶
今考える必要のない疑問まで浮かび、伶は軽い恐慌状態になりか
けたが、もしこれが本当に縄張りを主張するものなら、彼女はこの
巨大生物の﹃家﹄を荒らしていることになる。
音を立てて唾を飲み込み、彼女は足を一歩後ろにずらした。
その時、不意に視界が暗くなった。
﹁な︱︱﹂
三十年近く生きてきて一度も働かなかった第六感がようやく重い
腰を上げたのか、伶は考えるよりも前に木の裏側に飛びのいた。
直後、耳を塞ぎたくなるような音を立て、彼女の真横で木の一部
が﹃爆ぜた﹄。
﹁え⋮⋮﹂
正確には爆発霧散というわけではないのだが、伶にはそうとしか
感じられなかった。突如として轟音が響き、次の瞬間には彼女が先
ほどまで立っていた側の幹の一部が抉れ、今や直径二十センチ程の
半月型の切り抜きが出来てしまっているのだ。
目を見開く彼女の視界が再度暗くなったと思ったら、数メートル
先に、とてつもなく大きな﹃物﹄が落下した。
﹁う、そ﹂
月に照らされて着地したのは、四足の獣。
虎を思わせる巨大な身体に、逆立つ黒交じりの茶毛。彼女を威嚇
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するように剥き出しになった牙は薄汚れて唾液を滴らせ、木の一部
と思われる塊を咥えていた。しかしその体長二メートルはあろうか
というその巨躯よりも彼女を震え上がらせたのは、夜の闇の中でも
爛々と輝く、黄金色の﹃三対﹄の瞳だった。
黒い鼻先の上に並んだ六つ目は、全てが妖しく光り、彼女を敵と
して睨みあげている。
彼女の知る中に、六つの目を持つ生物など存在しない。
奇形かと疑うまでもなく、彼女は本能でこれが彼女の知りうる生
物ではないことを認識した。それほどに、その獣は彼女が見たどん
な生物よりも禍々しく、そして妖しげな美しさを感じさせた。
どれほどお互いに睨みあっていたのか。
彼女が見つめる前で獣はふるりと太い尾を震わせると、彼女を睨
み付けたまま首を横に向けた。
﹁!﹂
恐怖を感じた彼女の身体が僅かに震え、横に大きくぐらつく。
そしてほぼ同時に、大きく抉れた幹を抜け、巨大な塊が凄まじい
勢いで彼女の真横を飛びぬけていった。思わずそれが何か振り返ろ
うとしたが、その何かが木々の枝を砕く音に我に返り、逃げ出す体
勢を整える。
﹁ひっ!﹂
彼女がその場から離れようとした時には、真横に獣が迫っていた。
咄嗟に木を間に挟むように動けば、彼女に喰らいつこうとしてい
た獣の口が、至近距離で噛みあわされて大きな音を立てた。獣は即
座に彼女の方に向きを変え、避けた彼女を追いかける。伶が必死に
身体を横に滑らせると、獣の牙は再度肉を食むことなく音を鳴らす。
7
﹁グガゥアッ!﹂
それに腹を立てたのか、獣は大きく咆哮すると、口を大きく開け
て真正面から彼女を捕らえようと飛び掛かった。
﹁っ!﹂
しかし当然太い木を間に挟んでいた獣の牙は、幹が彼女に代わっ
て受け止める。伶は次の襲撃に備えるべく瞬きもせずに獣を見つめ
たが、メキメキと大きな音を立て、幹に噛みついた獣はその場で暴
れている。
︵牙が、抜けないの?︶
何とも間抜けなと思わなくもなかったが、これは好機と見るべき
だろう。
彼女は唇を噛みしめ両手を握りこむと、その場を駆け出した。こ
の辺りは木々が密集しているから、何とかこの間に獣の目から逃れ
ることが出来るかもしれない。そう願って必死に走った。
しかし、彼女が数十メートルも走らぬうちに、後ろで木が倒れる
ような大きな音が鳴り響く。
︵もう!?︶
後ろは振り向けない。
そんな暇があるなら少しでも遠くへ逃げなくてはいけない。
伶は小さく呼吸を繰り返し、とにかく足を動かした。
すぐ近くで、木の枝か何かが折れる音がする。それは否応なくど
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んどん彼女に迫って来ており、獣の速度を思わせた。
︵やだ、やだ! 死にたくない、死にたくない、死にたくない!︶
涙が溢れ、歯がカタカタと不定で鳴り始める。
﹁誰か⋮⋮っ、誰か⋮⋮!﹂
気付けば、獣が迫りくる音をかき消すように、彼女は叫んでいた。
﹁助けて! お願い⋮⋮、誰か、助け、て!﹂
並び立つ木々の間に入り、木を背に回すようにジグザグに走る。
彼女のすぐ右後ろにあった木に獣が飛び掛かり、若木は負荷に耐え
きれず倒れる。
慌てて伶は方向をずらし、倒木に巻き込まれないように左に避け
たが、今度は左方の木が、轟音と共に前方へ傾げた。
﹁いや、やだ、こんなの、やだあ⋮⋮っ!﹂
自分でも何を叫んでいるのか分からないまま、伶はただ口から悲
鳴を上げながら、かけ続けた。獣は遊んでいるのか、彼女に直接攻
撃するわけでもなく、彼女を追い詰めるように周囲をただひたすら
破壊していく。
そのうち、幾度目かの倒木を避けそこなった彼女の肩を、太い枝
がかすめた。
﹁いっ!﹂
腕を千切られるような、凄まじい衝撃だった。
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少し掠っただけなのに、身体全体が打ち付けられたような衝撃を
上から受け、彼女は思わず大地に倒れ込んだ。
慌てて両手で踏ん張って身体を起こしつつ背後を振り返ると、見
開かれた彼女に目に、獣の顔が飛び込んでくる。咄嗟に横に転がれ
ば、真横で︱︱それこそ、獣の息遣いを感じる程間近で、獣の顎が
噛みあわされた。
こちらにすぐさま向けられた獣の顔は、まるで彼女の恐怖を愉し
み、嗤っているように見えた。
﹁いやあっ!﹂
ゆっくりと口を開け迫ってくる獣に、彼女は視界を塞ぐようにコ
ートを叩きつけた。
﹁グアァガウッ!﹂
好物を目前で奪われたような、苛立ちに満ちた唸りを上げ、獣は
頭を振って暴れ出す。
伶はその隙に身体を起こすと、つんのめるように再び駆け出した。
だが、今度はすぐに距離を詰められてしまう。
獣は、先ほどまでとは異なり、低い唸り声を上げながら迫ってき
た。状況も悪く、今や彼女は木々の密集地帯を抜け、広場とも呼べ
る空間に抜け出ていた。
どうしようか、そんな恐怖に思考を埋め尽くされた彼女の視界が
一瞬暗くなり、気付けば目の前に獣が着地していた。
慌てて足を止めるも、そんな急には止まれない。方向を変えて逃
れようとした彼女に、獣がその巨躯を以って体当たりした。
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﹁︱︱っ!﹂
横っ腹を突然襲う衝撃に彼女は息を飲み、そのまま文字通り吹き
飛ばされ、人形のように地面に身体を叩き付けられて転がった。
﹁あ、う⋮⋮﹂
身体を襲う痛みより、息が出来ない苦しさが上だ。それでも何と
か立ち上がろうとする彼女の眼前に、獣の太い足が現れる。
﹁あ⋮⋮﹂
顔を上げれば、月を背負った六つ目の獣が、嬉しそうに全ての目
を細めながら口を開くところだった。
︵食べられ︱︱︶
彼女の視界が、涙で覆われて水中のように大きく歪んだ。
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02. 取引
﹁グギャウッ!﹂
しかし、彼女を獣の牙が襲うことはなかった。
絶望に目を閉じることさえ出来ない彼女の目の前で、突然獣が苦
痛の叫びを上げた。
﹁え⋮⋮﹂
のた打ち回る獣の背に、先ほどまではなかった、白く輝く大きな
﹃杭﹄が突き刺さっていた。何が起きたのか把握できていない伶の
耳に、誰かの声が響く。
﹁今のうちに下がれ!﹂
﹁!﹂
こちらへ向かってくる重い何かの足音と共に、もう一本、﹃杭﹄
が獣の背に突き刺さる。獣は今度こそ、近くにいる彼女など忘れた
ように暴れ出した。
巻き込まれそうになった彼女は、必死に両手で体を起こし、脇目
も振らず乱立する木々に向かって駆け出した。
﹁ギャウグウッ!﹂
﹁シェン・ロヴァイ!﹂
背後から、低い不思議な響きを持った声と、獣の咆哮が聞こえた
が、今の彼女に振り向く余裕などなく、手近な繁みになだれ込むま
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でひたすら足を動かした。
﹁はぁ、はぁ、ぁ⋮⋮う、げほっ、は⋮⋮っ﹂
倒れ込むように繁みの後ろに隠れ、息を整える。馬に似た鳴き声、
獣の唸り、彼女には理解できない男性的な低音。それらにどんな注
意も今は払うことが出来なかった。
どうにか息が落ち着き、伶は初めて顔を上げた。上半身を起こし、
繁みの隙間から彼女が逃げてきた方向に目を凝らす。
﹁︱︱﹂
垣間見えたのは、何本もの﹃杭﹄を背から生やした獣と、それに
向かう白馬に跨った男性。
月が照らす森の広場で、甲冑を着た男性は獣の攻撃を何度も躱し、
二メートルもあろうかという巨大な槍で獣を威嚇する。数秒、数十
秒⋮⋮どれほど見た頃か、言葉を失って目を奪われていた伶の前で、
男性は一際鋭く腕を突き出すと、獣の首に槍を突き立てた。
獣は痙攣するように何度か身体を震わせると、やがてぴくりとも
動かなくなった。
﹁⋮⋮﹂
あれだけ彼女を追いまわした獣が動かなくなっても、彼女はしば
らくその場を離れられなかった。男性が助けてくれたことも、今あ
あして獣が地に伏していることも、現実なのだろうか。彼女の脳は、
まだこの状況を整理しきれていなかった。
すべてが、霧がかかったようにおぼろげなのだ。
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そうして呆然としているうちに、甲冑を着た男性は馬から降り、
獣の横にしゃがみ込んで生死確認のような動作を取る。獣が死んで
いると確信したのか、彼がその場で立ち上がると、あの長大な槍が
その手から掻き消えた。
そして、男性はきょろきょろと顔を左右に動かした。
まるで誰かを探すような動きに、伶は我に返った。
慌てて繁みの後ろから身を表すと、男性はそのまま馬を引いて彼
女に近づいてくる。
﹁︱︱大丈夫か?﹂
至近距離で男性の姿を目にした伶は、間抜けなことに、口を開け
たまま固まってしまった。
あの獣はなんだとか、槍はどうしたとか、そもそも何故甲冑なん
てとか、そんな疑問は一気に掻き消える。
少しはねた亜麻色の短髪、こちらを見つめる緑とも青とも表現で
きない鋭い瞳、すっきりとした鼻梁に、警戒を解いていないのか引
き結ばれた口元。使いこまれた白色の甲冑は広い肩によく合い、腰
はどうなってるのと問いたくなるほど高い。
二メートル近くはあるのではないかというその長身の男性は、一
言で表すなら精悍で、そして文句なしの美形だった。
﹁おい﹂
怪訝そうに眉を寄せた彼から零れる声は、お腹に響くと言いたい
ほど低く力強い。
全く面食いでないどころか、﹁イケメンは好まぬ!﹂と普段から
豪語する伶であっても、思わず見とれる鋭利な美しさが男性にはあ
った。そこに甘さはないが、鍛え抜かれた刀剣のような、息を飲む
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美しさ。
しかし男に大きな手で肩を掴まれたことで、さすがに彼女も我に
返る。
﹁あ、は、はい、大丈夫です! 助けて下さって、本当にありがと
うございます!﹂
勢いよく頭を下げると、男が大きく息をつくのが分かった。
いらぬ心配をかけてしまったのだろうか。彼女が申し訳なさそう
に顔を上げると、男性の力強い瞳と視線がかち合った。
彼は切れ長の目を僅かに細めると、彼女の身体に視線を送る。
恐らくは三十代かそこらの年上の男性︱︱しかも外国人だ︱︱に
じっとりと見つめられ、居心地が悪くなって身じろげば、男性が口
を開いた。
﹁⋮⋮大きな怪我はなさそうだな﹂
事実、彼女の身体には擦り傷はあっても、目立った怪我はない。
きっと打ち身が酷くて明日辺りは悶絶することになるのだろうが、
今は極度の緊張から解放された直後の為か、不気味なほど痛みを感
じなかった。
﹁はい、おかげさまで。本っ当に⋮⋮助かりました﹂
安心しきって、彼女は大きく表情を緩ませ、男性に微笑みかけた。
きっと何度も転んだから、土や葉っぱが付いたりと酷い姿をしてい
るんだろうが、構わなかった。この男性なら、彼女をこの状況から
救い出してくれるはず、そんな希望で胸がいっぱいだったのだ。
﹁魔物討伐は騎士の職務だ。気にするな﹂
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﹁それでも⋮⋮それでも貴方は命の恩人です。ありがとうございま
した!﹂
一瞬﹁騎士?﹂という耳慣れぬ言葉が違和感となって脳裏に浮か
びあがったが、今はそんなの問題じゃないとばかりに、伶は再び深
く頭を下げる。
男性はまだ状態を確かめるように彼女を見つめると、﹁そうか﹂
と呟き、一度きつく目を閉じてから首を振った。
﹁この森には魔物が出る。お前の事情は知らんが、気を付けろよ﹂
﹁え﹂
彼はそう言うと、さっさと馬の状態を確認してその背に乗ってし
まった。
当然、焦ったのは伶だ。
﹁ま、待ってください!﹂
﹁何だ﹂
男性は眉をきつく寄せ、彼女を先ほど以上の高みから見下ろした。
﹁お、置い⋮⋮連れて行ってくれないんですか!?﹂
どう考えてもこの場を立ち去ろうとしている男性に、伶は叫ぶよ
うに尋ねた。
彼は彼女を数秒無言で睨み付けたかと思うと、険しい顔のまま口
を開く。
﹁俺は今、最高に具合が良くない上、いち早く都に戻れって言われ
ている。お前を連れて行く利点がない﹂
16
﹁り、利点って⋮⋮!﹂
伶は言葉を失った。
助けてもらったのは事実だ。だが救世主に思えた男性は、今さっ
さとこの場を後にしようとしている。
此処で置いて行かれるわけにはいかない。伶は一気に冷めた頭で、
必死に男性を引き留めようとする。
﹁き、騎士なんですよね? 騎士って困ってる人を助けるのがお仕
事なんじゃないんですか!?﹂
彼女がそう言い募ると、男は目を細め、表情を緩めずにあっさり
と首を縦に振った。
﹁じゃあ︱︱﹂
﹁だが、俺は違う。お前を乗せればトルカ︱︱この馬の足は当然遅
れる。さっきも言った通り、俺は早急に都に戻る用事があるし、思
わず魔物で憂さ晴らしするほど気分が悪い﹂
﹁う、うさばらし⋮⋮﹂
さすがに唖然とした。
まさか彼女を助けてくれたと思っていたら︱︱魔物討伐は騎士の
職務だって言ったじゃないか︱︱実は憂さ晴らしだっただなんて。
しかし硬直したのも一瞬だけ。ここで引いたらこの男は本気で彼
女を見捨てるに違いない。
案の定馬の手綱を持つ手を動かそうとした男性の足に、伶は両手
を当てて言葉を重ねた。
﹁でも︱︱っ。お願いです、ここに置いて行かないでください⋮⋮
!﹂
17
力の限り男性の脛当てに包まれた筋肉質な足を掴み、見捨てられ
てたまるかと彼を睨み付ける。
そんな彼女に、男性は顔をさらに顰めた。
﹁お前を助けても、俺に利点はないし、害にしかならん﹂
﹁そ、それでも⋮⋮とは言わないですけど⋮⋮でも﹂
社会人をそこそこやっていれば、純粋な善意がいかに稀有か、身
をもって知っている。しかし、此処が何処で、相手がどんな人間か
知らぬ以上、彼女に何が出来るか分からない。第一、彼女にはこの
身一つしかない。
﹁なら、話は終わりだな﹂
﹁ま、待って! 確かに私は何も持ってないし、足手まといになり
ますけど⋮⋮!﹂
相手が﹁そうだろうな﹂とでも言いたげなため息をついた。
この男が騎士だなんて、実は騎士とは冷血漢の同意語だったのだ
ろうか。
﹁でも、お願いします! 私に出来ることなら何でもしますから、
だから⋮⋮助けて⋮⋮っ﹂
最後は、明確な言葉にならなかった。
悔しい。
涙がこみ上げてきて喉を締め付け、男を掴む手からすら力が抜け
ていく。
知らない場所。
18
知らない獣。
知らない人。
何もない彼女には、これ以上打つ手がないのだ。
﹁⋮⋮﹂
無言で俯いたまま泣くのを堪える彼女を、男は無言で見下ろして
いた。
きっと顔を上げれば、あの迷惑そうな表情が見えるのだろう。⋮
⋮伶は、打ちひしがれたように男の足から手を離した。唇をきつく
噛んで、乱暴に涙を拭う。ここで泣きださない意地は、彼女の手元
にある数少ない持ちものだった。
︵⋮⋮ひとりで、どうにかすればいいんでしょ、どうにかすれば!︶
顔を上げないまま一歩下がった彼女の後頭部を、突然静電気をひ
どくしたような痛みが襲う。
﹁いたっ!﹂
思わず頭を押さえて顔を上げれば、男の人差し指が目に留まる。
何をしたんだと噛みつく前に、男が小さく呟く。
﹁反発はなし、か﹂
﹁?﹂
今度は彼女がしかめっ面をして男を睨み付ければ、男はそれをし
ばらく見つめてから、口角を上げた。
忌々しいほどの色気を含んだその微笑は、どう考えても碌なもの
19
ではないのに、伶はつい抗議を上げようとしていた口を閉ざした。
男は彼女を再び見下ろすと、どこか愉悦を滲ませて言葉を放った。
﹁一つだけあるな、お前を助ける利点が﹂
﹁え?﹂
突然の心変わりに、伶は安堵より警戒する。
案の定、男が次に発した言葉は、彼女の予感が外れていなかった
と証明した。
﹁お前の、身体﹂
﹁!?﹂
男は、獲物を定めるように目を細めて薄く笑ったまま、彼女の胸
から腰を指さした。
﹁此処で俺に抱かれるなら、都までは連れて行ってやってもいい。
そこから後は知らんが、な﹂
﹁な、な、な、な⋮⋮っ﹂
伶は、完全に言葉を失った。
何を言われているのか分からないほど子供ではないし、真っ赤に
なるほど純粋でもない。
︵抱くって、利点って、気分悪いとか、用事があるとか⋮⋮っ︶
それでも彼女は、今言われた言葉と男、そして彼女が結びつかず、
思考が一気に霧散した。
﹁ぐ、具合悪いって⋮⋮!﹂
20
結果的に放った第一声がこれだったのは、自分でも非常に情けな
く思った。
﹁だからだ﹂
﹁は?﹂
﹁俺の事情を話す気はないが、女を抱けば不調は大分治まる﹂
﹁はあ?﹂
何それと、彼女は叫びたかった。どんな都合のいい体調不良だと、
思い切り問い詰めたかった。
しかし男は軽く肩を竦めると、森の奥を見つめた。
﹁別に俺は構わないがな。⋮⋮お前が、馬ですら都から一日はかか
るこの森で、魔物や大型獣の糧になろうと﹂
﹁!?﹂
男に釣られて森の奥を見る彼女には、木々以外何も映らない。し
かし、その陰にさっきのような﹃獣﹄や、そうでなくとも熊とかが
いたら?
そもそも彼女は、どちらに行けば﹃都﹄とやらに行けるのかも、
登山靴でもないこのブーツでどれくらい歩けば辿りつけるのかも、
その間どうやって飢えを凌げばいいのかも分からない。
険しい表情で悩む彼女の前に、男が馬から降りて佇んだ。
男は伶の左頬に片手を添えると、耳を挟んで上を︱︱彼の方を向
かせた。
彼女を嗤っているに違いないと思った彼は、意外なほど真剣な表
情で彼女を見つめている。
深緑。深海の青。吸い込まれるような深い色。
21
月明かりの下ではそのどちらとも言えない不思議な色合いの瞳が、
彼女の瞳を真っ直ぐ見据える。対して自分の瞳はきっと、不安そう
に揺れているのだろう。
﹁︱︱名は?﹂
﹁⋮⋮宮前⋮⋮れい・みやまえ﹂
その瞳に促されるまま、相手が日本人でないことを思いだして伶
は名前を反転させ、ゆっくりと男に告げた。
彼は口内で転がすように数回彼女の名を呟くと、花緑青色の瞳を
細めて、口を開いた。
﹁レイ﹂
先ほどまでの恐怖も怒りも何処へ行ったのか、伶は、自分でも分
からないくらい素直に男の声に耳を傾けていた。男は大きな身体を
少し屈めると、彼女の耳に唇がつきそうになるほど顔を寄せて、囁
いた。
﹁︱︱選べ﹂
誘うような男の低い声に、伶は無意識に唇を噛み眉を寄せる。
自力で人を探すか、この見ず知らずの男に身体を開くか。
彼女の状況を顧みればきっと答えは一つなのだろうが、意地や乙
女心や倫理がそれを曇らせる。
誰だって、好きでもない男に抱かれたくない。いや、快楽主義の
方々には、身体は別と言う人もいるだろうが、伶には無理だった。
どう考えたって隙だらけの姿を見せるのに、どう受け取っても綺麗
じゃない部分だって見せるのに、どんなにだって⋮⋮近くにいくの
に、何の感情も持たない相手には、無理だ。
22
でも、伶には、先ほどの男の目が焼き付いていた。何かは分から
ないけれど、強い感情の秘められた瞳。
︵⋮⋮もっと︶
もっと見たいと、思ってしまう瞳だった。
﹁︱︱分かった﹂
たっぷりの時間を取ってから、伶は口を開いた。
﹁⋮⋮助けて﹂
言ったと同時に、伶は彼女の頭を支える男の大きな手に気が付い
た。 23
03. 取引開始 ※︵前書き︶
相当量の性描写が含まれています。ご注意くださいませ。
24
03. 取引開始 ※
︵ういやあああ⋮⋮っ︶
男の吐息だけ右耳に感じていた伶だったが、次の瞬間何を思った
のか、男が彼女の耳を口に含んだ。
思わず腰が引けそうになった伶の背を、男がきつく抱きしめる。
身体のぬくもりではなく、硬質な甲冑に胸が当たる形になり、正直
痛いし苦しい。だからこそ、屈んでいる男の肩から顔を覗かせ、未
だ混乱から抜けきらぬ頭をすっきりさせようとしているのに、肝心
の男は彼女の耳たぶを食み、舌で転がし、耳の輪郭を舌でなぞって
いる。しかも男の右手は、彼女の左頬や耳、顎の辺りを物言いたげ
に撫でては、男の無骨な厚い手のひらの感覚を彼女に伝えてくる。
当然ながら、伶は冷静になることなど出来ずに、浅い呼吸を繰り返
すだけだった。行き場のない手が甲冑に当たり、事態の異常さを彼
女に思い返させた。
﹁ひ、っ、ちょ⋮⋮とぉっ﹂
執拗に彼女の耳を弄る男に、たまらず彼女は声を上げた。男が僅
かに身じろぎし、間違いなく意図的に音を立てて耳元に口づけた。
﹁何﹂
﹁ほんとに、此処で⋮⋮ひあっ﹂
セリフの途中で首元に吸い付かれ、思わず伶は声を上げた。
﹁︱︱今にも頭と内臓が破裂しそうな状態なんだ、早ければ早い程
25
有難い﹂
どんな状態だと、若干青くなった彼女だったが、舌が喉を這い、
手が慈しむように頬や頭を撫でる度に、何も考えられなくなってい
く。男の僅かな動きにさえ反応する自分に、何だか自分だけ余裕を
なくしているようで、非常に歯がゆいというか、彼女は居たたまれ
なかった。嫌悪感や恐怖感ならいざしらず、男に与えられる刺激を
どうにか逃がそうと、伶は所在なさげに手を動かし、気付けば甲冑
の襟ぐりを掴んでいた。
﹁ああ﹂
指先を甲冑にひっかけるような形になった伶に、男は何か思い出
したように呟くと、ゆっくりと身体を離した。
ようやく一息ついた彼女の目の前で、男は腕に手をやると、腕当
てを固定していた革ベルトを外す。男は全身ではなく、胴と両腕し
か鎧をまとってはいないが、腕だけでも肩、二の腕、腕と三つのパ
ーツを大地に落とした。長袖の上からでも十分、誇示するためでは
ない引き締まった太い腕が予想できる両腕を動かし、今度は甲冑を
固定している脇腹の金具を動かす。不思議なことに、鉄製ではない
のか、あまり金属の擦れ合う音がしない。しかし重さはあるのか、
男が胴当てを落とすときには、漬物石を落としたような鈍い音が立
った。
︵うわおー⋮⋮︶
自分の置かれた状況を忘れ、伶は心の中で大げさに声を出した。
鎧を脱いだ男の身体は、恐らくは鎧がつけやすいように細身の服
に包まれており、服の上からでもその鍛え抜かれた身体を歴然だっ
た。鋼のようなとはこのことに違いないと、そんなことを伶は考え
26
た。
男は地面に転がった自分の装備を一瞥すると、彼女の視線に気付
いたのか、横目で彼女を見やった。切れ長の瞳は意地悪そうに細め
られ、唇を片方だけ引き上げる。
﹁っ﹂
その流し目の威力に、伶は無意識に足を後ろに下げた。
が、すぐにその場に転がっていた太い枯れ木に引っかかり、後ろ
に倒れ込んでしまった。
﹁わ!?﹂
衝撃に備えて反射的に目を瞑った伶だったが、何故か背も尻も痛
くはならない。というより、がっちりホールドされている感覚があ
る。
﹁⋮⋮危なっかしいな﹂
間近で響いた声に目を開ければ、数センチ離れた場所に、呆れた
ような表情の男がいた。どうやら完全に倒れ込む前に、男が抱き留
めてくれたらしい。
︵意外に優しい⋮⋮?︶
しかし、そんな彼女がぼうっと男の顔を見つめていると、彼は意
地の悪そうな笑みを浮かべて口を開いた。
﹁だが、協力的で助かる﹂
﹁はい?﹂
27
何が︱︱そう問う前に、男によって伶は完全にその場に押し倒さ
れた。かさりと、深い草地が耳元で音を立て、肌をくすぐる。片膝
を立てた男の身体と、左腕に挟まれる形で大地に転がされ、月光を
反射して輝く男の細い髪が目に留まった。
﹁いや、ちょっと待っ︱︱﹂
抗議の声と共に上半身を起こそうと後ろ手をつけば、眼前︱︱そ
れこそ、相手の息吹を感じる程の正面に、男の整った顔がある。今
どちらかが少しでも動けば、間違いなく唇が当たる位置。男の熱や
存在を感じて、伶は言葉を切った。男が口を開けば、熱い吐息が彼
女の唇にかかる。
﹁︱︱待たない﹂
男が顔を僅かに傾けて寄って来たとき、伶はキスされるのだと思
った。何故か目を閉じてしまった彼女だったが、男の少し荒れた唇
は、彼女のそれとは重ならなかった。
唇の少し横に口付けは落とされ、次は頬、瞼、額と上がっていき、
最後は喉元に噛みつかれる。啄ばむように唇で食まれて、こそばゆ
さと共に感じる何かが、確実に彼女の中に降り積もっていく。
﹁ん⋮⋮っ﹂
相変わらず彼の方は無言で、舌を顎のラインを描くように滑らせ、
何度も首を食んでは、軽く吸う。彼に触れられた部分が、熱を持っ
たように熱い。
薄く目を開ければ、少し硬質な細い亜麻色の髪が、視界に広がっ
ている。何故だか触れたくなって、片手で彼の頭に触れれば、案の
28
定硬めの髪に指が沈み込んだ。それでも倒せば多少滑らかな髪質を
楽しむように頭を撫でれば、男は舌を僅かに覗かせたまま顔を上げ、
また、唇のすぐ近くに口づけを落とした。
肌を啄ばむように口付けながら、男の無骨な腕が彼女の肩に触れ、
服の中に指を滑り込ませる。
﹁ひ、ぁ﹂
男のごつごつとした長い指が、鎖骨を撫で、襟口をはだけさせて
剥き出しの肩に触れる。
彼女が昨年、中々の金額で購入したワンピースは、前で合わせる
形になった柔軟な素材で、ジッパーもボタンもない。流線を描くデ
ザインと、紐だけが僅かな拘束だった。
だから、男の手を阻むことなく、易々とシックなレースで飾られ
たキャミソールを晒すことになっている。
喉元を彷徨っていた唇は、手を追う様に喉から鎖骨を通り、肩へ
と次々に口づけを落としていった。舌で、唇で、彼女の肌を味わっ
ていた男だが、なだらかに隆起する胸元で視線を止め、薄く笑った。
﹁そそる飾りだな﹂
男は獰猛な獣のように低く哂うと、レースに紛れる飾りリボンの
端を咥え、はらりと解く。あくまで飾りリボンだから、それだけで
服が脱げたりするわけではないのに、まるでこれから隅々まで食べ
つくされるようで、背筋がぞくりとした。そのせいなのか、後ろ手
で体重を支える上半身がふらりと震える。
﹁⋮⋮この体勢じゃ辛いか。悪い﹂
﹁え︱︱ぎゃあっ!﹂
29
男は言うが早いか、彼女の脇に手を挟み、まるで幼子に対するよ
うに軽々と伶を持ち上げた。そのまま彼女を後ろ向きにさせると、
包み込むように後ろから抱きすくめ、そのまま後方へ倒れた。
﹁ひっ﹂
男のたくましい両腕で包まれてはいても、突然身体を後ろに倒さ
れれば恐ろしい。小さく悲鳴を上げた彼女だったが、男は苦も無く
彼女を抱きしめたまま、大きく傾いた身体を戻し大地に胡坐をかい
た。
どくどくどく、と五月蠅く早まる鼓動のまま伶が固まっていると、
右肩に男の顎が乗る。一瞬だけ頬をこすり合わせるように二人の肌
が触れ合うと、彼女の頬に熱い吐息がかかった。
﹁︱︱レイ﹂
﹁!﹂
耳元で、かすれた声が彼女の名を呼ぶ。
飛び跳ねた伶の耳を男は食むと、慣れた手つきでワンピースをは
だけさせ、腰まで下ろした。生暖かいとはいえ、キャミソール一枚
になった彼女は、びくりと身体を震わせる。そんな彼女を温めるよ
うに男は再び両腕を回すと、服から手を差し入れて、彼女の腹を撫
でた。
﹁ぁ⋮⋮う、ふぅ﹂
肩に口づけを落としながら、男のごつごつとした右手は彼女の素
肌を彷徨い、左手はいつのまにか太ももを撫でている。腿に置かれ
た手はあくまで肌を滑っているだけなのに全身を痺れさせ、もう一
方の手は意図をもって彼女の胸を下からすくい、優しく大きな手で
30
包みこんだ。
無骨なはずのその手は、やわやわと弾力を愉しむように揉みしだ
くと、ブラのカップ部分を下げて直接触れだした。まるで何かを確
かめるように親指の腹で頂を数回転がし、痛いくらい屹立した先端
をクッションに押し込む。
﹁んっ、や、ぁっ﹂
﹁︱︱﹂
彼女の嬌声に反応するように男は彼女の首や肩を甘噛みし、指先
で胸の蕾を細かく弾き、捻り、こね回した。男から送られる吐息は
熱く、ますます彼女を駆り立てる。太ももに置かれた手はもはや熱
く潤んだ中心の近くを撫でまわし、スカートを腰まで引き上げてい
た。
﹁あっ、ぅく、ん⋮⋮っ﹂
﹁レ、イ﹂
そんな風に、名前を呼ばないでほしい。
熱い吐息に交じり、かすれた男の低音は、切なそうに︱︱まるで
﹃ただ居合わせただけの女﹄ではなく、彼女自身を求めているよう
な響きを持っているように、伶に誤解させる。
右手は反対側の胸へと移り、既に硬くなっている頂を指で挟んだ
まま、乱暴にも思える力で揉みまわした。じっとりと湿り気を帯び
た手と、先ほどよりも性急な動きは、彼自身の心情を表しているの
だろうか。如実に、彼女の臀部に主張する男の強張りを、彼女は感
じた。
﹁︱︱いいか﹂
31
何が、とは聞かない。
伶は自分が真っ赤になっているのを自覚しつつ、頷いた。
男は即座に彼女を持ち上げると、何故か数歩歩いてから、彼女を
横たえた。
そこには既に何かの布が敷かれており、先ほどと違って草が彼女
をくすぐることはない。男があらかじめ用意してくれていたのだろ
うか。そう疑問が浮かんだ直後に、男が覆いかぶさって来た。
月の光が遮られ、反射的に伶は布から正面へと視線を動かした。
﹁︱︱﹂
男と、目が合う。
非常に男性的でありながら、粗雑さを感じさせない顔は間違いな
く美形だと思っていた。しかし、その整った顔すら、その瞳を見た
後では霞んでしまう。 深い群青と深緑の交じった瞳。
それが今、強烈な欲望の光を宿して、彼女を見つめていた。
彼女は間違いなく、﹃ただ居合わせただけの女﹄だ。
しかし同時にこの男は、余裕をなくすほど、自分をひたすらに求
めている。
︱︱そう、はっきりと分かった。
恐怖か、それとも悦びか、彼女の身体が震えた。
それを合図にするように、男は彼女の額に口づけると、キャミソ
ールを捲り上げて、剥き出しになった丘の頂を口に含んだ。吸われ
て、ねっとりと舌で転がされて、甘噛みされる。その全てが、彼女
の身体に甘い痺れをもたらした。
﹁ん、く、ぁあ⋮⋮っ﹂
32
手を当てて声が出ないように努めるも、その成果は全くない。男
の舌にいいように翻弄されて、伶はただ息を漏らすだけだった。
そして、男の手が熱く潤んだ秘部へと伸ばされる。
﹁ひ、ぁあっ﹂
薄い下着とストッキングの上からでも間違いなく分かるくらい、
そこはすでに潤っていた。
男の太い指が、亀裂を撫でるように上下に動くだけで、中心から
とろりと蜜が溢れてくる。
﹁嬉しい反応をしてくれるな﹂
﹁言わない、で⋮⋮っ﹂
愉悦と、興奮を確かに滲ませる男の声は、彼女に今まで以上の羞
恥をもたらした。
﹁可愛いと言っているんだが﹂
﹁何が︱︱ぁ、んん!﹂
くすりと笑いながら、男は彼女のストッキングと下着に両手をか
けると、彼女の腰を持ち上げて一気に膝まで下ろした。外気に下半
身が晒され、伶は心もとなくなって逸らしていた視線を男に戻す。
男は、獲物を前にした野生の獣のように爛々と瞳を輝かせながら、
口角を僅かに上げて彼女を見下ろしている。 男から感じる熱気と
色気で、伶はくらくらした。
そんな彼女の片足を男は持ち上げると、一瞬眉を寄せたものの、
すぐにブーツのチャックを下ろして脱がせ、その足から下着類を抜
き取った。完全に男に花園が晒されることになり、伶は慌てて両手
33
で隠そうとした。
だが、先に男の片手に両腕を掴まれ、頭上に縫い付けられる。
﹁勿体ない﹂
﹁そんなこ︱︱ん、ぁ!﹂
不敵に至近距離で笑ったまま彼女を見下ろす男は、彼女の両足の
間に陣取ったまま、秘所へと手を伸ばした。既に濡れそぼった花弁
は男の指に広げられ、くちゅくちゅと音を立てる。
男に触れられたと同時に、堪えきれない快楽の波を彼女は感じた。
無意識に、ぎゅっと体内が収縮する。そんな彼女をほぐすように、
蜜口を撫で、花弁を掻き分け、男は彼女の羞恥に染まった顔を愉し
みながら、わざと音を大きくする。
﹁やめ、や、ぁ、ぁあ⋮⋮っ﹂
嬌声を上げる彼女に、男は笑みを深めると、つんと硬くなった花
園の上の肉芽を弾いた。
﹁ぁあ!﹂
一際大きな痺れがもたらされ、伶は堪らず声を上げた。
﹁こっちは違う意見のようだな﹂
男の指が、肉芽を軽く潰し、転がしては前後にこすりあげ、伶は
あられもない声を零す。中から溢れだす蜜に誘われて、男はさらに
指を﹃奥﹄へと進めた。
﹁ぁ、やんん、く、んっ﹂
34
男の指は太くてきつかったが、手のひらで肉芽を刺激されながら
では、花芯も閉じてはいられなかった。指は器用に彼女の中を動き
回り、伶の声が一際違った反応を見せた部分を執拗になぶった。彼
女の中に降り積もった快感はもう堪えられないほど高くなっており、
次々と加えられる刺激はもはや逃しようがない。
﹁一度、いっておくといい﹂
男は甘く囁くと、彼女の耳元を音を立てて吸い上げ、手の動きを
速めた。
﹁あ、ゃ、あっ、ぁああ︱︱っ!﹂
抵抗もむなしく、すぐに彼女は全身を震わせて、快感を弾けさせ
た。
伶が達すると、男は彼女の中から指を抜き、上体を起こした。そ
して、彼女を横目で見つめながら蜜の滴る指を舐め上げる。
﹁口に甘いな、お前のものは﹂
伶は全身に力が入らないながらも、肌を朱に染め上げる。
妖艶な雰囲気を漂わせながら指を咥える彼は、壮絶なまでの色気
を放っていた。
﹁︱︱さて﹂
男は真っ赤になった彼女の睨んでいる前で下衣を緩めると、再び
伶に覆いかぶさる。彼女の下腹を慈しむように撫で、そのまま再度
指を花芯へと滑り込ませた。
35
﹁ん⋮⋮っ﹂
一度達して鈍くなっているとはいえ、華奢ではない男の指に侵入
され、伶は蜜壺を引き締めた。
﹁大人しく愛撫されてろ﹂
男は苦笑のような、困ったような微笑を浮かべると、膣をかき混
ぜるように指を動かす。
﹁は、ぁ⋮⋮んん﹂
ゆるゆると動かされた蜜壺は少しずつ広げられ、男の指がもう一
本入ってきた。二本をばらばらに動かされて、伶はひくひくと中を
引き攣らせる。しかしそれは逆に、入り込もうと隙を伺っていた三
本目の指を誘い込むだけに終わる。
﹁ぅ、ぁ、ああ⋮⋮っ﹂
凪いでいたはずの感覚が、再び急浮上させられていく。ざらざら
とした内壁を引っかかれ、強く撫でられ、空いた手は彼女の胸を弄
り続ける。強制的に高められてい快感に、すぐに彼女は先ほどと同
様か、それ以上に高い声で啼き始めていた。
そこで不意に、男の手が引き抜かれる。
突然止んだ刺激に、伶はぼうっとして男を見上げた。
﹁︱︱そんな顔で見るな﹂
男は辛そうに眉を寄せ、緩慢な動きで下衣を緩めた。先ほどから
36
しっかり存在を主張していた男の怒張を認識せずに済んだのは、伶
には幸運なことだったに違いない。
男は服からそれを取り出すと、ひくひくと彼を淫らに誘う蜜口に
擦り付けた。
﹁え︱︱﹂
その、予想以上にしっかりとした男の分身に彼女が声を零したの
も束の間、男は彼女の足を押さえると、体重をかけて一気に彼女へ
と自らの楔を穿った。
﹁ぁ、ああああっ!﹂
考えてみれば、この巨躯の一部なのだから、可愛らしいわけがな
い。
伶は、自分に埋め込まれた男のあまりの大きさに、息を詰まらせ
た。ほぐされたとはいえ、男の太い陽根に埋め尽くされた彼女の花
芯は悲鳴を上げている。
﹁い、いたいぃ⋮⋮ばかぁ⋮⋮っ﹂
まさか齢三十近くにして、こんな痛みを味わうとは思わなかった。
情けなさか痛みのせいか、伶の瞳に涙が滲む。
﹁︱︱わ、るい﹂
辛そうな低音に伶が視線を向ければ、彼女に覆いかぶさった男が、
顔を歪ませて口元を引き結んで目を瞑っていた。浅く息を繰り返し、
それでも全く動こうとしない男に、伶は思わず手を伸ばした。
頬に手を当てれば、男が薄く目を開ける。
37
﹁⋮⋮大、丈夫?﹂
問えば、男は数瞬考えたあと、﹁ああ﹂と声を漏らした。
その様子はとても大丈夫とは思えず、伶の胸に罪悪感を生む。
抱かせろと言う提案はめちゃくちゃだったが、男はここまで無理
やり我を通そうとはしていない。全て彼女の反応を確かめ、本気で
拒絶していないことを認めてから進んできた。
︵⋮⋮別に取引みたいなものなんだし、もっと乱暴にだって出来る
のに︶
彼女を抱くことでいつ﹃不調﹄が緩和するのかは分からないが、
きっとこの瞬間だって、彼は苦しんでいるはずなのだ。激痛と、そ
して動き出したいと言う衝動に。
彼女はそれだけ考え、両腕を男の首に回した。
﹁︱︱レイ?﹂
男は今度は目を確かに開き、その深く灼熱を宿した瞳で彼女を見
つめる。
伶は何故だか笑いたくなって、男に微笑みかけながら腕に力を込
めた。
﹁いいよ⋮⋮私はもう、大丈夫だから﹂
そう告げると、男は一度何か言いたそうに口を開けてから、何も
言わずに閉じた。再度瞑ってから目を細めて、たった一言だけ呟く。
﹁そうか﹂
38
そして、律動を開始する。
﹁ぃ、あ、あっ、ああんっ!﹂
﹁︱︱っ﹂
彼女の中いっぱいに埋め込まれた杭を引き抜かれ、再び身体を突
き上げられるように押し込まれ、想像以上の衝撃に伶は飲み込まれ
た。男の一部は余すところなく彼女の中を擦り、引っ掻き、乱して
いく。凶暴な︱︱しかし確実に快感を含んだ強い波に押し流されな
いよう、伶は男にしがみついた。
﹁レ、イ⋮⋮っ﹂
荒い息を漏らす男の口から彼女の名前が零れ、何故か伶は泣きた
くなった。
自分でも訳がわからない。でもただ、この男に抱かれてゆさぶら
れて、胸が痛んだ。
男は彼女に体重をかけないようにはしていても、二人の肌は至る
所が擦れ合わされていた。胸も、腹も、今だ敏感に尖る肉芽も、全
てが揺すられるたびに刺激され、男の楔の圧迫感が生む苦しみ以上
に、彼女を快感へと追い詰めていく。
﹁あ、んんっ、ひ、あ、あう⋮⋮っ﹂
男は頻繁に彼女を突きあげる角度を変え、その必要もないのに彼
女に快感をもたらそうとしているようだった。そのためか、あっと
いう間に彼女は高みへと押し上げられていく。思わず男に爪を立て
てしまったが、男はそんなこと気にも留めず、彼女を揺すり続ける。
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﹁だめ、や⋮⋮ぁあっ、も、うっ﹂
彼女の嬌声を聞いてか男は律動を速めると、彼女をかき寄せた。
絶え間なく送られる刺激に伶は埋め尽くされ、声を上げて彼女は
頂へと上り詰めた。
﹁︱︱く、ぁ﹂
快楽に痙攣する内襞のせいか、男も彼女の後を追う様に一際強く
彼女を二度突くと、自らの怒張を引き抜いて手を滑らせた。そのま
ま、彼女の腹に熱い飛沫が飛び散る。
あとは、彼女の上に倒れ込んだ男も、男の重みを全身に感じる彼
女も、お互いの鼓動を感じたまま呼吸を整えていた。
しばらくあとで、男は彼女を抱きしめたまま転がり、自分の上に
伶を横たえた。
伶の人生で目の当たりにしたことがない程、鍛えられた逞しい身
体の上で内心彼女がドギマギしていると、男がぽつりと呟いた。
﹁お前、﹃魔力なし﹄か?﹂
﹁え?﹂
何を問われたのかが分からず首を傾げる伶に、男は考えるように
眉を寄せた。
﹁魔力。⋮⋮そうだな、魔術は使えるか﹂
この男は何を言っているのだろうか。伶は目をまん丸くして、首
40
を振った。男はそれで納得したのか、﹁だからなのか﹂と呟いてい
る。伶にはなにが﹃だから﹄なのかさっぱりだったが、追及しても
意味はなさそうなので放置することにした。
﹁そういえば、体調は?﹂
そもそもが﹃不調﹄を治す為に抱かれたのに、この瞬間まで伶の
頭から抜け落ちていた。男は目を瞑って数瞬沈黙した後、低い声で
言葉を発する。
﹁予想以上に、良好だ﹂
﹁ホント? それなら良かった⋮⋮﹂
別に彼との取引自体には関係のないことなのだが、とりあえず無
駄な行為でなかったと分かって、彼女は安堵した。しかし男は何か
が引っかかるのか、僅かに眉を寄せたままだ。
﹁︱︱ただ、まだ完璧ではないからな﹂
﹁え、ひゃあっ!﹂
男が言葉を返した直後、彼の手が彼女の背と尻を撫で、指はさら
に不埒な動きを見せていた。
﹁ちょ、ま︱︱﹂
まさか二回戦!? と顔を青くする彼女の下で、男が妖しい笑み
を浮かべた。
﹁や、やだあああっ!﹂
41
彼女の絶叫は聞きとめられることなく、森の闇の中へと消えてい
った。
︱︱結局もう一度男に付き合うことになった彼女は、行為の最中
で意識が途絶えるのを感じた。
42
04. 都へと
ゆらゆらと、緩慢に身体が揺れる。
意識が浮上していく中、伶は車中にいるような揺れを感じた。
︵︱︱なんか、気持ちいい︶
一定のリズムで揺れる彼女の身体は、毛布で包まれたように暖か
く、倦怠感もあって伶は再び意識を沈めそうになった。気持ちいい、
気持ちいいが、もし次が降りる駅なら早く起きなきゃ。そんなこと
を彼女は考え、僅かに身じろいだ。
﹁起きたのか﹂
﹁⋮⋮え?﹂
だから、頭上から降ってきた低い声に、間抜けな声を上げてしま
った。
目をぱちりと開ければ、視界に広がるのは電車の中でも、車の中
でもない、森の中。鼻をくすぐる深い森の香りと、肌を撫でる温か
な風。彼女を包むのは硬めの布、柔らかくもない硬い腕と熱い身体。
﹁!?﹂
自分の置かれた状況が思い出した伶は、がばりと姿勢を正し、後
ろを振り向こうとした。だがその動きはすぐに、腰に巻きついた太
い腕に抑え込まれる。
﹁おい、暴れるな﹂
43
﹁ぎゃあっ!﹂
耳元で囁かれた深みのある声に、伶は可愛らしくない悲鳴を上げ
た。そしてその声の持ち主が誰であるかを思いだし、同時に自分た
ちが何をしたのかまで鮮明に思い出して、羞恥に全身が熱くなる。
彼女は咄嗟に逃れようとしたが、後ろの男は余計に腕に力を込めて
拘束を強めた。
﹁︱︱それ以上暴れるなら、容赦なく落とすぞ﹂
男の脅しに反論しようと思わず口を開いたが、﹃落とす﹄という
言葉に首を傾げる。そういえば、と伶は此処で初めて、自分の状況
を再確認する。
﹁うえ!?﹂
彼女は森の広場で男に抱き付かれているのではなかった。
白い馬の上で、馬の首と男の広い身体に挟まれ、背を預ける形で
乗馬中だったのだ。先ほどから揺れているなあとは思っていたが、
まさか馬上とは彼女は思いもしなかった。
﹁な、なんで⋮⋮﹂
その疑問を口に出す彼女を、男は腕に力を入れて自分に密着させ、
体勢を直させる。男の身体と、まるでアトラクションの安全バーの
如く緩まない腕に挟まれ、伶の姿勢は馬上だというのに不自然なく
らい安定した。それに満足したのか、男は軽く息を吐いて口を開く。
﹁気をやったようだから、勝手に連れ出させてもらった。夜の森は
危険だ﹂
44
﹁はあ、なるほど。ありがとうございます﹂
﹁⋮⋮﹂
会釈してから顔を上げて男を振り向けば、男は眉を僅かに寄せて
奇妙なものを見るような視線を彼女に向けてきた。
﹁どうかしました?﹂
﹁いや⋮⋮感謝されるとは思わなかった﹂
﹁だって、約束通り置いて行かなかったじゃないですか﹂
彼女がそう言えば、男は表情を変えることなく彼女の瞳を見据え
た。
﹁︱︱それが、取引だからな﹂
そう言って、男は彼女から視線を逸らし、周囲を警戒するように
鋭い視線を投げかける。彼女もつられて周囲を見るが、相変わらず
植物しか目に映らない。あんな﹃獣﹄を軽々と倒せるくらいなのだ
から、彼の眼は彼女に見えない何かでも捉えることが出来るのかも
しれない。伶は首をもとに戻し、揺れる馬の毛を見つめる。
彼女を少し硬質な布ごと抱きしめる男は、何も言わない。何も聞
かない。
﹁⋮⋮﹂
無言が続く中、色々後回しにしていた諸々を彼女は思い出した。
見たことない植物の生える森。冬のはずなのに春のような気温。
男の人種。甲冑。馬。
現代ではありえない﹃獣﹄に、突如それに突き刺さった﹃杭﹄、
消えた男の﹃槍﹄。
45
さらには、男が聞いてきた﹃魔力﹄に﹃魔術﹄という言葉。
それでいて、何故か通じる二人の言語。
分からないことだらけで、何から尋ねればいいのかすら見当もつ
かない。
︵やっぱり、まずは此処がどこなのかってことかしら︶
もしここが日本のどこかなら、交番とかで電話を借りて、家族や
友人に連絡が出来る。しかし、彼女はそんな自分の考えに激しい違
和感を覚えた。
︵此処は⋮⋮日本、なの?︶
彼女の願いはそうだ。しかし、現状の全てがそれを否定する。此
処が海外のどこかならまだいい。だが、ここは本当に、彼女の知っ
ている場所なのだろうか。
伶は彼女をミノムシのように包む布の中、両手を握りしめた。
男の口から、予想外の︱︱しかしある意味予想通りの答えが返っ
てきたら、彼女は冷静でいられるだろうか。
︵わかんない︶
男はあくまで、彼女を﹃都﹄とやらに連れて行ってくれるだけ。
その後は、保護してくれるわけではない。だからここから先は、全
て彼女が最良を選択していかなければならないのだ。
︵その為にも情報が欲しいところだけど、でも︶
そんな事を問えば、相手に逆に﹃そんなことも知らないのか﹄と
聞かれるに違いない。そうなれば困るのは彼女だ。例えば﹃いきな
46
りあの森にいた﹄と返したらどうなるか。
︵私だったら、絶対そんな人と関わりたくない︶
どう考えても頭がおかしい人だ。少なくとも、そんなこと言われ
た時点で、彼女は相手を信用できなくなる。となると、この男にも
同じ反応をされる可能性が高い。そもそも、彼女はこんな時間に、
着の身着のままで、﹃魔物﹄とやらが出る森に一人でいたのだ。既
に警戒されているかもしれない。
しかも相手は騎士で、彼女の騎士に対する考えが間違っていない
のなら、彼は治安を守る人間だ。そんな不審人物を、﹃都﹄︱︱自
分が護るべき町に入れるだろうか。
︵い、言えない言えない!︶
自分の想像に真っ青になって、伶は身体をぶるりと震わせた。少
なくとも町に出るまで、男にこの場所について聞くのは無しだ。彼
の反応が恐過ぎる。
︵じ、実は都に連れて行くとか言って、刑務所に入れられるんじゃ
あ⋮⋮︶
伶はそんな想像して、全身の血の気が引く思いがした。投獄され
るかもしれないという事実に、伶はさらに身を縮こませる。
﹁⋮⋮寒いか?﹂
そんな彼女に、男が声をかけた。
男を仰ぎ見れば、彼は先ほどまで周囲に向けていた鋭い視線を彼
女に注いでいる。実は既に不審人物だと考えられているかもしれな
47
い、そんな恐怖に、伶はただ首を左右にぶんぶんと振ることしかで
きなかった。
その様子を見て男がどう感じたのか彼女には分からないが、彼は
彼女から視線を外すと、大きく息をついた。それに、彼女はますま
す身体を小さくする。
﹁⋮⋮悪い﹂
﹁へ?﹂
ばつが悪そうに謝罪を口にした男に、伶はきょとんとした目を向
けた。謝られる理由が分からない。やはり、取引とか言っておきな
がら投獄するからだろうか。
﹁服は大体直したんだが、あの高級そうな靴下は破いちまった﹂
﹁はい?﹂
突然言われ、伶は首を傾げた。
︵靴下?︶
しばらく考え、ようやく彼女は自分がストッキングを穿いていな
いことに気が付いた。ワンピースの前合わせ部分は多少乱れている
が問題はなく、ブーツもある。しかし、下半身は下着しか身に付け
ていない。
気付いて、伶は真っ赤になった。
行為の最中に気を失って、気付けば馬上だったのだ。男が服を正
したのは間違いない。しかも何だか、言いたくない中心部分を拭わ
れたような感覚もある。そうでなければ、男の精を身体にかけられ
たことだし、彼女のそこだってもっと︱︱。
48
︵ひ、ひぃいいいい⋮⋮っ︶
伶は自分を包む布を引き上げ、顔をすっぽり覆った。見ず知らず
の男に身体を清めさせ、服を着せられただなんて、羞恥刑以外の何
物でもない。身体中が恥ずかしさで燃えるように熱かった。
︵いや、でも、ここで恥ずかしがったら後になっても悶々といなき
ゃいけない。ここは大人らしく、対応せねば⋮⋮!︶
伶は布から顔をそっと上げ、掻き消えるような声で男に告げた。
﹁い、え⋮⋮その、お気になさらず。あ、ありがとう、ございみゃ
︱︱﹂
噛んだ。
︵ぎやああああっ!︶
心の中は大炎上だ。まさに動揺していると自白したようなもの。
伶はさらに混乱し、大きな声で誤魔化すように続けた。
﹁あ、あはは。こ、こちらこそすみません⋮⋮っ、後始末何てさせ
てしまって! いやー、やっぱりあんな獣に追われて緊張していた
っていうか、疲れてたっていうか!﹂
乾いた笑いしか漏れてこないが、伶はその場を取り繕おうと必死
だった。
すると、彼女に絡む男の腕に力が篭った。何だか息を吐く音も聞
こえる。それが嘲笑の吐息でないことを彼女は祈った。
49
﹁無理させたのは俺だ。ついがっついた﹂
﹁い、いえいえそんな!﹂
顔が抜けそうな程、伶は大げさに首を左右に振り、否定する。そ
の様子に、男が今度は紛れようもなく笑い出した。声は出ていない
が、密着した状態では間違い様がない。男がさらにウエスト部分を
抱き寄せ、伶はどう反応していいのか分からなかった。
ほどなくして男の動きが小さくなり、背中の揺れも大分治まって
きた。
その頃には伶も﹁なんでこいつこんな笑ってんだ﹂と若干ふてぐ
され気味になっており、彼女の腰に回された腕をぺちんと叩いた。
﹁そんなに笑うなんて失礼ですよ﹂
その迫力のない苦言を聞いて、男は再度声なく笑う。さすがに先
ほどのような馬鹿笑いではないが、多少はぶり返したらしい。伶は
そんな彼の様子に、肩を竦める外なかった。
︵人のツボって分かんない︶
ようやく彼の笑いが治まった後、男はそれでも僅かに愉快そうな
響きを低音に滲ませて、彼女に言った。
﹁悪かったな﹂
絶対悪いとは思っていないに違いないが、伶はここが大人力の見
せどころとばかりに、﹁気にしてません﹂と呟いた。若干不機嫌そ
うな声にはなったが、そこは諦める。
50
﹁⋮⋮身体は、何ともないか﹂
﹁?﹂
そして静かに問われた言葉に、伶は男を見上げる。男は目だけ彼
女に向け、先を続けた。
﹁細かい傷と、あとは打ち身が数か所あった。念のため処置はした
が、痛み出すかもしれん﹂
言われた言葉に、伶は布を引き下げて自分の姿を見た。太ももや
腕の数か所に、何やら湿布らしきもの。そして、左肩︱︱倒木が当
たった部分︱︱には包帯が巻かれ、ミントに近い香りがする。ここ
までじっくり自分を観察していなかったが、彼が応急処置までして
くれたらしい。
﹁︱︱﹂
伶は、予想外の出来事に言葉を失った。
これは、刑務所に引き渡す人間にすることだろうか。
彼女たちの﹃取引﹄には治療など含まれていないし、投獄するな
ら当然治療の必要などない。彼女は自分の身体から視線を外し、男
を仰ぎ見た。
静かな瞳が、彼女を見下ろしている。
伶は、先ほどまでのささくれ立った心や恐怖心が、ゆっくりと溶
けていくのに気が付いた。
﹁大丈夫、です﹂
そう呟いて、今度ははっきりと男を見て笑う。
51
﹁ありがとうございます﹂
男はその言葉を聞くと、何の反応も示さないまま、再び進行方向
へ視線を戻してしまった。だが、伶は気にしない。
多分だが、この男は悪い人間ではなさそうだ。彼女を抱いている
最中といい、この治療といい、彼女を騙そうとしているにしては丁
重すぎる。伶は、男が彼女を投獄するかもしれないという意見は捨
てることにした。
﹁⋮⋮お名前、伺ってもいいですか?﹂
気付けば、そう尋ねていた。
変な質問は相手を警戒させるだけだと思っているが、名前くらい
はいいのではないだろうか。
二人の間にはしばらく沈黙が落ちたが、最終的に男は口を開いた。
﹁シエル・ハルナード﹂
シエル。
何処の国とも判断しがたい名前だが、男にはよく似合ってると伶
は思った。
﹁シエル・ハルナードさん︱︱ありがとうございました﹂
頭を軽く下げながらもう一度言えば、男はため息のような息をつ
く。
﹁気にするな﹂
その声は若干柔らかいような気がしたが、その後ですぐに男︱︱
52
シエルは付け加える。
﹁だが、俺を頼るなよ。お前に会っても俺は知らぬ存ぜぬで通すか
らな﹂
しっかり刺された釘に、伶は先ほどまでの穏やかな気持ちが少し
萎むのを感じる。だが、そもそもそういう取引だったのだから、文
句は言えない。
﹁⋮⋮分かってますよ。そういう約束ですからね﹂
﹁︱︱ならいい﹂
シエルはそう言うと、左腕一本で彼女を持ち上げるように引き寄
せて、彼女の少し崩れた姿勢を整えた。
﹁大丈夫そうなら、日の出前に都に着けるよう、少し馬を飛ばす。
慣れない奴は舌を噛むから、咥えとけ﹂
彼は彼女を包む布を少し持ち上げ、彼女の口元に持っていった。
伶はそれを噛むことにやや躊躇したが、シエルは引く気はないらし
かった。大人しく彼女がそれに噛みつくと、シエルは再び彼女の腰
をしっかりと固定する。
﹁行くぞ﹂
シエルが真剣な口調でそう言うと、彼は右腕で手綱を思い切り引
っ張った。直後馬がいななき、彼女はジェットコースターの出発時
のような急加速に襲われる。
﹁んー、んむんんー!?﹂
53
バイクに若干の上下運動を加えたような振動に、伶は叫びたくな
った。しかし口を開ければ振動ですぐに歯が噛みあわされ、何もし
ゃべらない方がいいと判断する。
︵ぜ、絶対これ、馬のスピードじゃないいいいっ!︶
ぐんぐんと道なき道を進む馬に目が開けていられなくなり、伶は
周囲の観察をあっさりと諦める。自分は地蔵になるのだと大人しく
シエルに身を預け、目的地に着くまで、ただ馬から落とされないこ
とだけを祈った。
54
05. 都へと ︵2︶
慣れと言うのは恐ろしい。伶はしみじみとそう思った。
馬としてはあり得ない速度を出して駆ける白馬の上、最初は落ち
たくない一心で頭を冴えさせようと頑張っていた⋮⋮つもりだった。
しかし、意外なほど小さな揺れと、彼女が落ちる可能性など欠片も
与えないほどに押さえられた腰、甲冑で硬いけれど彼女の背中を護
るシエルの存在は、彼女を油断させるに充分だった。現代っ子の大
半に漏れずドライアイだった伶は、バイク並みの速度で進む馬上の
風に目を開けていられなかったのだから、脳を起こしておく刺激も
ない。
案の定、気付けばシエルに﹁起きろ﹂と肩を揺すられていたのだ
った。
﹁すみませんすみませんすみません﹂
いつの間にか普通のペースになっていた馬の上で、伶はあまりの
情けなさに一瞬で覚醒し、念仏のごとく謝罪を口にした。
﹁気にするな。下手に緊張されるより余程楽だ﹂
確かに、乗馬の体勢の取り方など知らない伶が変に動いて負担を
かけるよりも、荷物のように無抵抗な方が彼にとっては良かったか
もしれない。しかし、居たたまれない気持ちはなくならない。
﹁うう⋮⋮重ね重ねご迷惑をおかけしております﹂
55
消え入るような声で言うと、彼女は身体を縮めて布に顔を隠した。
そんな彼女の頭をシエルは一度くしゃりと撫でると、半ば無理矢
理に布を引き下げる。
﹁いいからそんなことより、見てみろ﹂
布を引っ張ろうとしたが、彼の掴む布は全く動いてくれず、伶は
諦めてシエルの指差す前方に視線を向けた。そしてすぐに、目と口
を大きく開けることになった。
﹁う、わぁ⋮⋮っ!﹂
白み始めた空の下、いつの間にか彼女たちは森を抜けていた。
目の前に文字通り広がるのは、緑豊かな草原と荒野の混じった平
地と、奥に輝く鮮やかな水面。そして、巨大な水門のごとき石壁と
門に守られた、水の都だった。
﹁すごい⋮⋮﹂
伶は何もかも忘れて、言葉を漏らす。
これが湖なのか海なのかはわからないが、都は出島になっている
らしく、陸に面した一方とその近くのみを高い壁で囲んでいる。だ
から、その都に斜め方向から向かう彼女は、都の一部をしっかりと
眺めることができた。
整然と並ぶ高さの揃った家々、白い煙を吐き出すとんがり屋根の
塔、所々に顔を覗かせる緑に、都と水面の境界線を描く白い柵の遊
歩道。あそこに見えるパラソルは、喫茶店か公園か。大部分を白い
壁と煉瓦色の屋根で統一しているらしい都は、おとぎ話から抜け出
たように可愛らしく、優美だった。
56
﹁凄い⋮⋮可愛い、カッコいい、素晴らしいです⋮⋮!﹂
伶はあまりの興奮に身を乗りだし、何度も都と水面を見比べては
可愛いを連呼して、シエルの右腕をぺちぺちと叩いた。
﹁すっごい素敵ですね、シエル・ハルナードさん!﹂
目を輝かせている彼女は、ちゃんと貴方も見ているかとばかりに
幾度も都と彼の顔を見やる伶に、彼が苦笑していることにも気付か
なかった。
トルワール
﹁バルナ湖の恵みを受け、築城年数600年を迎える真珠城に代表
される水の都だ﹂
﹁600年!?﹂
ひえー、と妙な声を上げたまま、伶は都から目を離せなかった。
都︱︱王都の規模、街並み、立地、どれをとっても伶の目には珍し
く、眺めていると胸が高鳴る。お城も見たいが、あいにくと奥まっ
たところにあるらしく、此処からでは尖塔の屋根くらいしか見えな
い。街並みだってもっと近くで見たいけれど、近づいてしまえばき
っと細部しか見えないだろう。
﹁ロマリエ︱︱800年在り続ける、この国の王都だな﹂
﹁﹃王都﹄⋮⋮﹂
騎士である為か、シエルの声には、僅かに誇らしげな響きが混じ
っているような気がした。
︵凄く綺麗。なのに︱︱︶
57
伶は、先ほどまでの興奮が冷めていくのを感じた。
バルナ湖。王都ロマリエ。一度も聞いたことがない地名。
これほどに見事な景観を持ち、築城年数600年の城まである都
市の名前を、彼女は一度たりとも耳にしたことがない。その上、こ
の国の人間である彼とは言葉が通じるのだ。日本語が通じて、西洋
風の名前を持ち、剣や馬が今なお使われている国。そんな場所、あ
り得るのだろうか。
﹃都﹄に入るまではと先送りにしてきた疑問が、ここでまた彼女
の心の中で存在を主張し始める。
﹁︱︱レイ﹂
﹁!﹂
いつの間にか俯いていた彼女に、シエルが突然声をかけた。思わ
ずびくりと身体を跳ねさせた伶だったが、彼は特に理由を尋ねるこ
となく、先を続けた。
﹁王都は初めてか?﹂
考え込んでいてはいけない。まだ、町に入っていない。ここで放
り出されては、何のために彼女は︱︱。
伶は疑問を押し込むように一度きつく目を瞑ると、口元だけでも
笑みを作って顔を上げた。
﹁はい、初めてです﹂
﹁⋮⋮そうか。なら、一つ言っておく﹂
﹁?﹂
シエルは手綱を握りながらも指を一本立て、手前から奥へと指先
を動かした。
58
﹁王都の構造は、簡単に言うなら奥へ行くほど身分や財のある者が
住む区域になる。外壁近くは貧しく、中心より手前辺りには職人街
と一般住宅域、そこから各種施設を挟んで有力商家や貴族屋敷のあ
る区域へと続いていく。最奥は城壁に仕切られた王城となるが、一
般人の立ち入りは禁止だ﹂
伶は頭の中で、貧富のグラデーション構造なのだろうとイメージ
した。ある意味分かりやすい。
﹁あくまで大ざっぱに言えばの話だが、そう覚えておいて問題ない。
そうやって都はある程度住み分けがされているから、お前も︱︱﹂
シエルが不意に言葉を止め、口を閉じた。
どうかしたのだろうかと振り向けば、シエルは進行方向を見つめ
ていた顔を彼女の方へと向け、静かなのに、どこか射抜くような視
線を彼女に注ぐ。その見透かされるような眼差しに居心地の悪さを
感じ、伶は無意識に姿勢を正した。
︵ここでついに、職務質問⋮⋮?︶
まだ都に入っていない以上、彼女には聞かれても答えられること
がない。変な返答をしてこれ以上警戒されたくなかった。だから、
努めて明るい口調で﹁どうかしました?﹂と営業スマイルを見せて
誤魔化そうとしたが、上手くいっている気がしなかった。
胃が痛くなりそうな沈黙の後、しかし彼は、そんな彼女の様子を
無言で見つめただけで、視線を外した。
﹁︱︱いや。⋮⋮もうすぐ外門に到着する。さすがにその周辺は治
安が悪いから避けるが、職人街に入ればそこでお別れだ﹂
59
淡々とした口調で彼は告げた。
あくまで、彼とした取引は﹃都へ連れて行くこと﹄のみ。やはり
その先は助けてくれないらしい。何かの弾みにいつもそれを忘れそ
うになり、伶は自分の手の甲を見えないようにつねった。それでい
いのだからと、彼女はあの話を受けたのに、つい都合のいい方へ流
されそうになる自分が情けない。
伶は迷いを払う様に首を左右に振り、シエルを見上げた。
﹁はい、此処までどうも有難うございました﹂
自分に、彼の助けは此処までだと自覚させる為、伶はわざと大き
く口角を上げて笑みを向けた。
︵確かに私は何も持ってないけど、言葉が通じるだけ有難いと思わ
なきゃ。笑う門に福来たる。後のことはまずその王都とやらに入っ
てからよ︶
伶はどうしても嫌な方向に考えがちな自分を脳内で引っぱたき、
姿勢を正して前を向いた。睨むように王都を見やり、負けないから
と心の中で呟く。
﹁⋮⋮レイ、お前は﹂
頭上で、シエルが何かを呟いた。
低い、掠れるような声だった。
やっぱり何か聞きたいことがあるのだろうかと、伶は多少緊張し
て続きを待つ。
だが、いつまで経ってもシエルは続きを口にしない。
60
﹁シエル・ハルナードさん?﹂
一瞬そのままスルーしようかと思ったが、ままよとばかりに伶は
聞き返した。
やはり、返事はない。
︵別に用があったわけじゃなかったのかしら。⋮⋮その方が助かる
けど︶
こっそりと安堵の息を漏らした時、伶の背中に重みがかかった。
﹁え?﹂
シエルが彼女に体重をかけているらしく、非常に重い。そもそも
巨躯なシエルに甲冑が加わり、とてもではないが不安定な馬上で彼
女が耐えきれる重量ではない。馬の頭に倒れ込みそうな程前傾姿勢
になってしまい、今にも落馬しそうだった。
﹁シ、シエル・ハルナードさん! おも、いです⋮っ﹂
しかし彼から返事はなく、背中にかかる負荷も変わらない。馬の
首を必死に押して耐えているうちに、シエルの頭が彼女の肩に乗っ
かった。何の冗談だと彼を見たが、体勢のせいで頭のてっぺんしか
見えない。頭を思い切り叩いてやろうかと思ったが、今突き出して
いる手を離せば、確実に落馬する。
﹁ちょっと⋮⋮っ、悪い冗談はやめて下さい!﹂
相変わらず返事はなく、彼の体重分を支える腕はぷるぷると震え
てくる。まずいと思ったのも束の間、彼の巨体に引きずられるよう
61
に、身体がぐらついた。
﹁シ、シエ︱︱シエルさん! シエルさん!!﹂
﹁︱︱ぅ﹂
落馬の恐怖で泣きそうになりながら大声を出せば、耳元で呻くよ
うな声が聞こえた。
﹁な︱︱!?﹂
直後、慌てたようなシエルの声がし、彼は伶を抱く腕に力を込め
て、彼女ごと体勢を立て直した。
﹁トルカ!﹂
続けて彼は馬の名を叫ぶと、手綱を引いて馬の歩みを止めさせる。
馬は大人しく主の指示に従い、十数秒後には完全に足を止めた。
馬は止まったものの、伶の心臓は未だ興奮状態から覚めてくれな
い。伶は胸を押さえ、荒い息を整えようと深呼吸を繰り返した。
﹁シエルさん! さっきのは一体何︱︱﹂
仰ぎ見て文句を言ってやろうとした伶だったが、彼は非常に険し
い顔何かを考え込んでいるようだった。
﹁早過ぎる⋮⋮淀みが解消され過ぎたのか⋮⋮いや、そんな﹂
ぶつぶつと呟く彼には、伶の声など聞こえていなそうだった。
﹁⋮⋮シエルさん?﹂
62
それでも声をかけてみれば、三度目でようやく彼が彼女の方を向
いた。シエルは思い切り眉を寄せて、額に手を当てている。
﹁悪い、怖がらせたな﹂
苦しそうな顔でそう言われては、伶とて怒りをぶつけるのは気が
引ける。どうやら悪戯とかではなかったようだしと、首を振った。
﹁大丈夫ですか? もしかして、また具合が悪くなったんじゃ﹂
伶が問えば、今度はシエルが首を振る。
﹁いや、そっちは問題ない。むしろ回復しすぎたのがまずい﹂
﹁え?﹂
﹁︱︱こっちの話だ﹂
彼女の追及をあっさりと切ると、彼は馬上に座り直し、伶の腰に
回す腕に再度力を入れる。
﹁すまんが、急ぐ。噛まないように気を付けろ﹂
﹁え、ちょ︱︱ひいいいいっ!﹂
言うが早いか、シエルは馬を急発進させた。突然のことに全く心
の準備をしていなかった伶は、振動と加速の負荷で悲鳴を上げる。
が、すぐに舌を噛んだので、慌てて布を持ち上げて口に咥えた。
63
06. そして不法侵入へ
そして、まだ遠くに見えていたはずの王都の前まで、二人はあっ
さりとやって来た。
目の前には、巨大な壁がそびえ立っている。
伶はそのあまりの高さに、さすがに普通の速度になった馬の上で、
大きく口を開けたまま壁を見上げていた。
どうやら﹃壁﹄は、壁と言うより非常に長さのある建物と言った
方が正確のようだ。万里の長城のように奥行きが割とあり、﹃壁﹄
の上は屋上や道のように歩けるようになっている。
﹁⋮⋮おっきい﹂
この外壁には巨大な門が幾つか作られており、見える範囲には二
か所存在した。片方は入口、もう片方は出口扱いとなっているらし
い。扉が開き大口を開けている入口には、続々と人や馬車、荷車な
どが列をなして向かい、遠くに見える別門からは逆に人々が出てき
ている。
順番で門を通ることが出来るらしく、入口に繋がる街道には、ま
だ早朝だというのに長蛇の列が出来ていた。騎士であるシエルには
別ルートがあったらしく、彼は並ぶ人々の横を堂々と馬で駆け、あ
っさりと門前まで来てしまった。
﹁手続きをしてくるから、少し待ってろ﹂
シエルはそう彼女に告げると、壁の内部︱︱入り口となる、七メ
ートル程のトンネル部分に設置された扉の中に消えてしまった。
一人馬上で取り残されては、彼女としてもやることがない。だか
64
ら、少し離れた場所を通り過ぎていく人々を観察していた。
︵⋮⋮中世ヨーロッパ?︶
伶が抱いた正直な感想が、﹃まるで中世の欧州のよう﹄だ。
綿か何かで出来た素朴な上下を着た人々、足首まですっぽり覆う
ローブのような物を来た人、アルプスにいそうな白エプロン付きの
ドレスを着た少女や、仕立ての良いチュニックに下衣、革のブーツ
をはき弓を持った人、そして全身に鎧を身に付け、どうみても斧に
しか見えない物を肩に担いだ髭の男性など。現実離れした光景が、
そこには広がっていた。
﹁洋画のエキストラとかじゃ⋮⋮ないよね﹂
彼女と馬は壁の外側にいる為、トンネルの先を見ることは出来な
い。だから、まだ王都がどんな場所で、どんな人々で溢れているの
か分からないのだ。
それでも、伶は自分が場違いであると痛烈なまでに自覚した。
彼女のブーツのようなチャックがついた物は誰も身に付けていな
いし、貴金属も滅多に見かけない。そもそも女性は膝下か足首丈の
スカートが主流のようだし、化粧っ気もあまりない。
どこからどう見ても、彼女一人が異端だった。
︵まさか︶
聞いたことのない土地。見たことのない服装。いるはずのない﹃
獣﹄と、それを当然のものとしている人々。
此処は、まさか。
伶は、嫌な予感に身をただ竦ませた。
65
そんな時、シエルとよく似た甲冑と槍を身につけた青年がトンネ
ルから出てきた。
彼は伶の存在に気が付くと、一瞬目を見開いてから、敬礼のよう
な動作を彼女にして、列の方へと駆けて行った。
﹁?﹂
わけが分からず青年の後姿をしばらく眺めた伶だったが、ふと彼
の背についた朱色のマントに目がいった。
︵シエルさんと何かが違うと思ったけど、マントか︶
シエルはマントを身に付けていない。些細な違いだが、ふと外壁
を見上げれば、監視の騎士達もしっかりマントらしき物を身に付け
ていた。
︵シエルさんは、つけなくていいのかしら︶
少し強めに吹き出した風から逃れようと、自分を包む布を持ち上
げ、伶は﹁あれ?﹂と思った。
青年や他の騎士達と同じ、朱色の布。
﹁⋮⋮﹂
嫌な予感がした。
﹁待たせた﹂
丁度良いタイミングで、シエルが戻ってきた。何だか表情が硬く、
目が険しい。背後にいたからよく見えなかったけれど、実はずっと
66
こんな表情を浮かべていたのかもしれない。伶は、彼が突如気を失
ったようになって落馬しかけた時のことを思い出した。
﹁本当に、体調は大丈夫ですか?﹂
﹁あ? ああ、体調は問題ない﹂
シエルは目頭を数度押さえると、頭を振る。その様子は正直大丈
夫とも思えなかったが、本人がそう言うなら、手の出しようがない。
まあいいかと伶は会話を切ろうとし、そこで﹁あ﹂と思い出した。
自分を包む朱色の布を持ち上げ、彼に問う。
﹁シ、シエルさん! こ、これってもしかしてマント、ですか?﹂
﹁そうだが?﹂
ひらりと彼女の後ろに乗ったシエルは、あっさりと肯定する。伶
は、顔面蒼白になった。
﹁す、すみません⋮⋮! 私これ、噛んだり、だ、唾液とかつけち
ゃって⋮⋮!﹂
そんな大事なものだとは知らず、彼女はこのマントを何度も噛ん
だし、毛布代わりにしたし、記憶に間違いがなければ、﹃あの時﹄
下に敷いたのだって。
一人で慌てていると、シエルは動じることなく﹁気にする必要な
い﹂と言い、マントを外そうとする彼女を押しとどめて馬の手綱を
引いた。馬が動きだし、シエルは彼女の腰に手を回して引き寄せる。
﹁そんなことより、悪いが限界が近い。飛ばすぞ﹂
﹁ちょ︱︱﹂
67
何がと言う前に、馬はまたもあの高速で駆けだした。
さすがに彼女も学んだらしく、大人しく悲鳴も上げずに布︱︱マ
ントの端っこを噛ませてもらう。
しかし目が開けていられないせいで、トンネルを抜けた先に広が
っているはずの王都の街並みは、拝むことが出来なかった。
︱︱その後、どれくらい駆けただろうか。
幾つか曲がり角を通ったのは覚えているが、此処がどこで、何処
に向かっているかも分からない。
確か中心部の近くにある職人街でお別れと言っていたが、そこに
行くんだろうかと、伶は馬に揺られながら考えていた。
そして、発進と同様に馬は唐突に速度を緩め、足を止めた。
恐る恐る目を開ければ、そこには一軒の家。
白い壁、煉瓦の屋根は、周りにある他の家々と似通っていた。違
う事と言えば、何故か納屋のような建物が併設されている事だろう
か。柵で囲まれたその家は辺りの家よりは広めだが、納屋が必要な
程広いかと言われれば、微妙なところだ。
﹁此処は⋮⋮﹂
そう呟けば、先に馬から降りていたシエルが答えを返す。
﹁俺の家﹂
﹁へ?﹂
なんで職人街でなくそんな所に、と思うよりも前に、シエルは彼
女の脇腹を掴むと問答無用で馬から下ろした。その場に彼女を立た
せ、マントを剥ぐ。現状を把握しきれずにされるがままになってい
68
る伶の前で、彼は馬の背に手を伸ばすと、馬具に括りつけてあった
背負い袋を取り外した。
彼はその袋の中に手を入れ、宝石のついた金属板を取り出す。
何をするのかと見ていると、シエルはどこか覚束ない足取りで門
まで歩くと、その宝石を門扉の取っ手部分に合わせた。すると、宝
石は一瞬だけ発光し、カチリとどこからか音が聞こえる。
彼はそのまま取っ手に手をかけると、難なく扉を押し開け、馬を
敷地内へと誘導した。
︵あれって、もしかして鍵?︶
凄い物を見たとばかりに目を見開いていると、シエルが頭を押さ
えて小さく呻いた。やっぱり体調が良くないのではと少し心配にな
り、伶は彼の背を軽く叩く。
﹁シエルさん﹂
伶の呼びかけに彼は半目のような表情で振り返り、彼女の頭を一
度くしゃりと乱暴に撫でた。
﹁⋮⋮ここまでだ﹂
そう言うと、シエルは馬に続いて門をくぐり、門扉を閉めようと
手を伸ばす。
伶はそこでハッとし、慌てて彼に近寄った。
﹁シエルさん!﹂
﹁何、だ﹂
顔を上げたシエルは、非常に機嫌の悪そうな顔をしていた。その
69
精悍な顔を顰め、額を押さえている。返事も、どことなく掠れてい
たような気がした。
﹁あの、此処まで本当にありがとうございました﹂
﹁⋮⋮そういう⋮⋮話だった、からな﹂
彼は今にも立ち去りたそうにしているが、伶も一つだけは聞いて
おかなくてはならない。
﹁それで最後に一つだけ。此処って、王都のどの︱︱﹂
どの辺りか、そう聞こうとした時、シエルが突然彼女の方へ倒れ
込んできた。
﹁シエルさん!?﹂
どうにか彼を受け止めることは出来たものの、二メートル近い男
性に倒れ込まれればさすがに辛い。彼の背中を軽く叩いたが、反応
がない。
馬上で突然倒れ込んできたときと同じ状況に、シエルは彼を起こ
そうと声を上げる。
﹁シエルさん、シエルさん!﹂
伶は、彼の重みで上半身がぷるぷると震えているのを自覚しなが
ら、彼の名前を呼び続けた。
しかし先ほどと異なり、名前を呼んでも、身体を叩いても、シエ
ルが起き上がる気配はない。
﹁病気? いやでも、体調は悪くないって⋮⋮でもこんなの正常じ
70
ゃないし⋮⋮っ﹂
伶が一人でどうしようか悩んでいると、耳元で微かな息遣いが聞
こえてきた。
それはどう考えても、寝息にしか思えない、安らかな音。
﹁⋮⋮え、寝てる?﹂
がっくりと、力が抜けるかと彼女は思った。
心配してたのに突然寝るってどういうことだと思ったが、睡眠障
害持ちの知人が同じ症状で悩まされてたなと思い出す。場所を問わ
ず、前触れもなしに突然寝てしまうのだとか。
どうしようと彼女は迷ったが、路上に放置は出来ないし、ここが
どの辺りなのかも聞きたい。彼女にもたれかかるように眠る男性を
見て、伶はため息をついた。いい加減腰が痛い。
﹁⋮⋮仕方ない﹂
伶は渾身の力を使ってシエルをどうにか敷地内に移動させると、
門を内側から閉めた。そのまま庭で待つか、玄関ポーチで待つかを
悩んだ後、白馬がストレッチでもするかのように庭を歩くのを見て
考えを改めた。彼はともかく、彼女は何かの弾みで蹴られそうで怖
い。
﹁正直良心が痛むけど⋮⋮背に腹は代えられないわ﹂
シエルの手に握られた金属板を手に取ると、試しに玄関扉の取っ
手に当ててみた。予想が当たっていたのか、宝石が放つ一瞬の光が
収まってからドアノブを回すと、すんなり扉は内側に開いた。
これで完全に不法侵入だ。騎士であるシエルが起きたら、彼女の
71
事情おかまいなしに逮捕されるかもしれない。
﹁それはやだな⋮⋮はぁ⋮⋮﹂
伶は深くため息をつき、馬に蹴られる前にと、シエルの巨体を引
きずりながら家の中へと入って行った。
鉄で補強された木の扉を押し開けば、中は意外にも落ち着いた雰
囲気だった。
白壁は僅かに黄みがかり、床は濃い色の木材が敷き詰められてい
る。玄関の敷かれた朱色のマットは薄汚れているが、みすぼらしく
はない。玄関横の観葉植物に似た鉢植えがかなり元気ない様子なの
が、唯一残念なところだろうか。
とりあえず腕力的にも限界の為シエルを床に寝かせ、誰かがいる
ことを願って伶は声を発した。
﹁あの⋮⋮すみませーん!﹂
しかし、しばらく待ってみたが誰からも返事はない。
﹁すみませーん、どなたか、いらっしゃいませんかー?﹂
数度叫ぶように呼びかけたが、返事どころか物音ひとつしない。
伶はどうしたものかと悩んだが、床に転がる美丈夫を見て、ため
息をついた。
ブーツを脱ぎ、床に足をつける。素足がぺたりと床につき、そう
いえばストッキングはなくなったんだ思い出し、憂鬱度に拍車をか
ける。
﹁お邪魔します﹂
72
念のためもう一度大きな声で言うが、案の定返事はない。伶は覚
悟を決めて、室内へと足を進めた。
入ってすぐの左手には、向かい合わせになった二脚のソファと合
間に置かれたローテーブル。右手は広い空きスペースになっている
けれど、何故か片隅に低めのキッチンテーブルと椅子が二脚置かれ
ていた。左手奥は部屋があるのかすぐ壁に当たり、右手奥はキッチ
ンになっているようだ。
中央のやや右寄りには、仕切り代わりなのか長さ三メートルほど
の低い収納棚が置かれていたが、何故か殆ど何も置かれていない。
とりあえずその中央を抜けると、二メートル弱ほど幅がある通路
があり、そこを奥へと進む。左側には扉が二つ、右側奥には上と下
に続く階段があった。奥のT字型の通路には、右と左に扉が一つず
つあり、左の通路行き止まりには裏口と思われる扉が見える。
ひとまず全ての扉をノックしてみたが、何の物音も返事も聞こえ
ない。
﹁⋮⋮気が引けるけど﹂
少しの迷いを見せた後、伶は階段を上って二階へと向かった。
天窓のついた明るい階段を上った先では、階段を囲むように広い
廊下が取られている。
まず正面は壁に当たり、広い壁に三つの扉。
右手側はしっくいのような白壁ではなく、年月を感じさせる重厚
な木材でできた壁になっており、カントリー調の大きな両開きの扉
がついていた。扉にはめ込まれたガラスから奥を見れば、広大なテ
ラスになっており、丸テーブルと、ビーチにあるような木製の寝椅
子が二脚置かれている。
階段の奥︱︱階段から見れば左側︱︱は、小さな団らん室のよう
73
な空間になっていた。一階にあった物と同じ低めの収納棚で廊下と
一応区切られ、そのすぐ裏側には三人掛けほどのソファ、床には絨
毯、階段の壁とぴったり合わせるように本棚が置かれ、小さな観葉
植物で飾られている。ソファから見て正面の壁には畳二枚分ほどの
ステンドグラスがはめ込まれ、淡い色合いの光を室内に運んでいた。
﹁すご⋮⋮﹂
正直、あの無骨そうな騎士からは連想できないほど、細やかな造
りの家だと彼女は思った。
︵ご家族の趣味とかかしら︶
しかし、恐らくは早朝であるのに、未だ誰にも出くわさない。
その団らんスペースの奥にある扉を含めて、二階には四つの部屋
があるようだったが、そのどれを叩いても返事はおろか、物音や気
配も一切しなかった。
﹁それに⋮⋮なんか埃っぽいんだよね﹂
ここまで来た感想として、家は散らかったところが何もない。
だが同時に、生活感もない。
伶は来た道を戻り、一階へと再び降りて行った。
﹁とりあえず留守みたいだけど⋮⋮どうしよう﹂
玄関に倒れたままのシエルは起きた気配なく、相変わらず同じ場
所でうつぶせになっている。
彼をソファにでも寝かせてやりたいが、彼女一人であの体格の男
性を持ち上げるのは一苦労だし、かと言って助けてくれそうな人は
74
いない。さすがに扉を開けて一室一室確認するほど図々しくはなれ
ず、伶は彼を見下ろしてため息をついた。
よく見れば、彼女が引きずったせいで、整った顔には土汚れと葉
っぱがついてしまっている。
﹁⋮⋮水でもかければ起きるかしら﹂
少しだけ鬼畜なことを考えたが、一応の﹃恩人﹄にそれはないだ
ろうと首を振る。しかし綺麗な布くらいは必要かもしれないと、伶
は目についたキッチンへと足を向けた。
玄関を背後にキッチンを見ると、右手側は作業台と洗い場、コン
ロらしきものが設置された調理台になり、顔の高さには広い窓が設
置されて光を誘う。左側は白い縦長の棚と収納棚になっており、各
種食器や、何かが入った袋が数点置かれていた。
白い棚を開けると、冷蔵庫のように冷たかったが、中には塗り薬
らしき瓶が二つある以外、何も入っていなかった。
一方、ガラス扉で閉じられた収納棚はやはりがらんとしていたが、
三枚ほど白のハンドタオルが置かれていた。新品同様に汚れは見当
たらないため、これを一枚拝借することにする。
水に濡らそうと思って、伶は止まった。
﹁これ、どうなってるの?﹂
バルブ
洗い場に蛇口はついているが、捻るべき栓がついていない。ただ
の管だけだ。つるりとした銀色の管には小さな青色の鉱物が埋め込
まれていたが、そこに触っても何も出てこない。
元栓とか閉めているのだろうかと、作業台の下の扉を片っ端から
開けてみたが、そこには水道管のようなものはあっても、栓の一つ
もついていなかった。鍋が一つだけ置かれたその収納を閉め、伶は
水を諦めた。
75
﹁しっかし⋮⋮これはキッチン使ってないな﹂
彼女がこの調理台で見つけたのは、包丁一本と鍋一つだけで、調
味料も塩と黒胡椒らしき物の二つだけ。うっすらと埃すら漂う台所
を見て、伶は幾度と知れぬため息をついた。キッチン探索を止め、
タオルを片手にシエルの元へ戻る。
﹁⋮⋮綺麗な顔﹂
ごしごしと汚れを拭いても、シエルは身動きどころかぴくりとも
しなかった。髪についた汚れを取っても、辛そうだからと鎧を外そ
うとしても、彼は一ミリの反応すら見せない。なお、甲冑を固定す
るベルトはきつすぎて緩ませることすら出来なかった。
﹁よっぽど疲れてるのかしら。いや、それにしたって、ねえ﹂
少しだけつんつんと頬を突きながら、伶は彼を観察する。
確かに、顔色は悪くない。頬がこけているわけでもないし、怪我
をしているわけでもない。そもそも、怪我人だったなら、彼女に昨
夜のようなことを出来るわけがない。
しかし、突然寝入るなんてやはりおかしい。
﹁病気の可能性もあるし、やっぱりこんな所じゃ可哀相だよね﹂
床は硬いし、何より靴箱がないと言う事は、ここは室内でも土足
が可能なのだろう。彼女ならそんな床で寝たくない。
伶は﹁よし﹂と呟くと、彼の両腕を掴んで、ガリガリと鎧が床を
ひっかく音を聞きながらゆっくりとソファ前まで移動させた。
76
しかし、ソファに乗せようとした時点で、伶は困ってしまった。
﹁重、いいいっ﹂
眠った人間を持ち上げるのがここまで大変だと彼女は思わなかっ
た。
何度か試みたのだが、足を乗せてから上半身にするにせよ、上半
身から乗せるにせよ、重すぎて上手く乗せられないのだ。彼女は非
力な方ではないが、それでもこの体格差は厳しかった。
荒い息を吐きながら、彼女は頭を捻る。
残る手段としては、彼の下に潜り込んで四つん這いくらいまで身
体を起こし、身体を捻ってソファに転がすくらいだろう。
﹁負けて、たまるかー⋮⋮っ!﹂
誰と戦っているのか分からないまま、伶は少なくとも小一時間を
かけ、何とか彼をソファに転がした。
﹁きっつー⋮⋮﹂
倒れ込むようにソファの足元に腰を下ろし、伶は肩で息をつく。
全身汗だくになっており、何度も二人分の体重を支えた腕は筋肉
の引き攣りを感じていた。お腹も痛ければ、腰も痛い。甲冑が擦れ
た腕や背中、うなじはひりひりする。
︵なんであんな必死になってたんだろ⋮⋮︶
ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながら、ソファに頭を預け、未だ
何の反応も見せない男を見やる。
シエルは変わらず、よく耳をそばだてなければ分からないほど静
77
かな寝息を立てて眠っている。彼女よりも年上だと思われる精悍な
顔は、今は穏やかな表情を帯びており、どこか幼くも見えた。
﹁⋮⋮まあ、いいか﹂
伶は誰にともなく呟くと、少しだけと思いながら、目を閉じた。
︱︱まさか、次に目を開けた時、剣先を突き付けられるとも知ら
ずに。
78
07. シエル・ハルナード ︵1︶
ふと、どこかで足音が聞こえた。
誰かが、木の床の上を歩き回っている。まるで一定の場所をぐる
ぐると回り続けるように、足音は遠ざかっては近づき、近づいては
離れて行った。
︵静かにしてよ⋮⋮︶
ゆっくり寝かせてくれとばかりに少しでも音を小さくしようと、
伶は目を瞑ったまま首を反対側へと向けた。
と同時に、何か硬い物で額を打つ。
﹁い、いった⋮⋮っ﹂
痛みに額を擦りながら目を開ければ、ソファの肘掛が目に入る。
肘掛は丸い木材で縁取られているから、そこに額をぶつけたのだろ
う。
︵でもなんで肘掛?︶
そう思いながら顔を正面に向ければ、やけに尖った金属の先︱︱
剣先がお出迎えしていた。
﹁ひっ!﹂
思わず息を飲み、少しでもその鋭い切っ先から距離を取ろうと動
いたが、彼女の背後にソファがあり身動きが取れない。自分は今床
79
に座っているらしい。
そこでようやく、自分が何故そんな姿勢でいるのかを思い出す。
少しでも頭を反らせて剣の先から奥へと目を移せば、案の定、剣
を手にした男性が彼女を睨み付けていた。
シエルだった。
甲冑の類は身に付けておらず、昨夜見た薄手の上下だけだったが、
間違いなく彼だ。
﹁お、おはようございます⋮⋮﹂
咄嗟に出てきたのはそんな間抜けな言葉で、やけに剣呑な光を目
に宿す彼も、眉をぴくりと動かした。
しかし、剣を突き付けたまま彼は言葉を発する。
﹁︱︱おはようございます﹂
何の感情も伴わない平坦な声と、冷たい、彼女を何とも思わない
ような視線が、彼女を貫く。
︵なんか怒って⋮⋮いやまあ、確かに不法侵入したのは私だけど、
いきなりなんだってこんな⋮⋮︶
彼女がどうやって状況を説明しようか悩んでいると、先にシエル
が口を開いた。
﹁貴女は、誰ですか﹂
﹁はい?﹂
伶は、目を瞬かせた。
80
シエルの言った言葉が、理解できなかった。
﹁す、すみません⋮⋮。もう一度言ってくれますか?﹂
彼女が間抜けにもそう言えば、シエルは特に何の変化も見せずに、
同じ言葉を繰り返した。
﹁誰って⋮⋮伶です。れい・みやまえ。昨日一緒にいたじゃないで
すか﹂
正確には昨晩と今朝なのだが、まだ完全に混乱から抜け切ってい
ない伶は、思わずそう答えた。
﹁昨日?﹂
シエルが、僅かに眉を寄せる。
彼女としては、何故このような反応をされるのか分からない。此
処まで︱︱少なくとも、この家の前まで彼女を連れてきたのは彼な
のに。不法侵入を咎められるならまだしも、何故名前を尋ねられる
のか。
︵それともまさか、これが逮捕の正確な手順とか? 被告には黙秘
権がある、みたいな決まり文句?︶
勝手に想像し、伶は恐ろしくなった。
不法侵入のことどうにか無しにしてもらうには、どうしたらいい
だろうか。伶は考えて、ひきつった笑みを浮かべてみる。
﹁ここまで連れてきてくれましたよね? そこで突然のしかかって
くるから、ビックリしたんですよー﹂
81
まるでHAHAHAとでも脳内変換されそうな胡散臭さだったが、
言われたシエルは、一瞬で固まったような表情になった。瞬きもせ
ず、先ほどの無表情とも言えそうな表情から一転、目を見開いて彼
女を見ている。
︵美形は驚いても美形ってか︶
別に嘘を言ったわけではないが、ちょっとからかってみようとし
た伶は、相手の意外な反応に逆に驚かされた。
昨晩あんなことをしておいて、この程度の言い回しがダメなわけ
はないだろうが、これ以上地雷を踏んでたまるかと伶は考えを巡ら
せる。
しかし、凶器を目の前に突き付けられては何も浮かんでこず、僅
かに身じろげば、足元で何かが音を立てた。視線だけでそれを追え
ば、この家の鍵とも言える、金属板だった。
︵ここで﹃鍵、勝手に借りましたんで﹄とか言ったら、怒るかな。
怒られるのは仕方ないけど、ぶっすりいかれるのは嫌だな︶
あまりしたくない仮定に、伶は冷や汗をかいた。
かと言って、いつまでも人様の自宅の鍵を放置しておくのも気が
引ける。当たり障りなく鍵を返すにはどうすべきか。
伶はゆっくりと手を上げると、﹃鍵﹄を指さし、もう一度笑顔を
浮かべる。
﹁あ、あの⋮⋮この鍵も、ありがとうございました﹂
とりあえず、嘘は言わずに御礼だけ言うと、シエルは瞬きをして
から﹁鍵﹂と呟いて、視線を彼女から鍵へと動かした。まるで呆然
82
としているようにも見えるが、きっと気のせいだろうと彼女は判断
する。
シエルはその後しばらく鍵を眺めたかと思うと、眉間に少しだけ
皺を寄せて、伶に尋ねた。
﹁︱︱私は昨日、王都にはいなかったのですが﹂
一瞬﹃私﹄って、丁寧語ってどういうことだと伶は突っ込みそう
になったが、変わらず突き付けられている剣が恐くて、余計なこと
は言わないことにした。
﹁知ってますよ。一緒に戻って来たじゃないですか﹂
﹁⋮⋮貴女は馬に乗れるのですか﹂
﹁いいえ、乗れません。⋮⋮ご存じですよね?﹂
やけに長い沈黙の後に加えられた質問に、伶は首を傾げる。
先ほどから、彼は何を言っているんだろうか出会ってからここま
で、殆ど離れずに一緒にいたのだから、彼女が馬に乗れないことな
ど知っているだろうに。昨日の夜から今までの記憶が消え去ってで
もいるんだろうか。まさか酔っぱらい⋮⋮と伶は一瞬考えたが、あ
んなアクティブな酔っぱらいはいないだろうと、その考えを振り払
った。
︵きっと疲れ過ぎてて、記憶が少しごちゃごちゃになってるんでし
ょ、多分︶
そう思えば、何だか相手が可哀相になってきた。
彼女は途中で何度か眠ってしまって時間の経過が不明だが、相手
は不眠不休でここまで連れて来てくれたのだ。彼女を片手で押さえ、
もう一方では馬を操りだなんて、彼女がエノキ程度の体重しかなか
83
ったとしても相当な負担だろう。
ここは改めてお礼を言っておこうと、彼女は思った。
﹁だから⋮⋮本当に助かりました。移動中ずっと腕で支えて頂いた
ばかりか、マントまで貸して頂いて。昨夜の事はともかく、感謝し
てもしきれない位です。本当に、ありがとうございました﹂
ということを、彼女なりに労わるような笑顔で言った。
なのに、相手は失礼なことに、徐々に顔面を青くし、絶望的な表
情を浮かべたのだ。
彼女の笑顔が気色悪いとでも言いたいのか。
少しだけムッとした彼女だったが、相手が突然剣を収め、その場
に崩れ落ちたことでそんな気持ちも掻き消えてしまった。
ぽかんとする彼女の前で、シエルは床に片膝を立ち、深く頭を下
げる。
突然のことに伶は口を開けたまま、彼の後頭部を見て﹁あ、まだ
葉っぱついてた﹂と全く別の事を考えてしまった。
﹁申し訳ありません!﹂
﹁え﹂
頭を下げたまま叫びだした彼に圧倒され、伶は我に返った。
﹁騎士として護るべき相手に剣を向けたばかりか、女性に対し破廉
恥極まりない行いを︱︱﹂
﹁破廉恥!?﹂
悔恨を心底にじませた声で謝罪され、何のことか分からずに呆然
としていた伶だったが、その途中の言葉に思わず声を上げてしまっ
84
た。
﹁こうなってしまっては私に騎士たる資格はありません。すぐさま
城に剣を返上し、騎士団に出頭しようと思います﹂
﹁ちょ、え、はい?﹂
﹁勿論、貴女に対してはいかなる償いをも厭わない覚悟です﹂
﹁いや、だから﹂
﹁しかしこれ以上加害者に関わりたくないということであれば、代
理人を用意しますの︱︱﹂
﹁待って、待ってください!!﹂
あまりの事に、彼が何を言っているのか正確には理解できなかっ
たが、このままではマズイと感じ、伶は彼の顔を両手で挟んで無理
やり顔を上げさせた。
シエルはその無骨な顔を自己への嫌悪で歪め、昨晩あれだけ色香
を振りまいていた口元は、これ以上ないほどに固く引き締められて
いた。
彼女が嗜虐趣味の人間だったら即1GBくらい激写しているだろ
うが、あいにく彼女は違う。彼の表情がやけに胸を差し、彼女を冷
静にさせた。
﹁あの、間違いなく私たちの間には誤解があると思うんです﹂
﹁⋮⋮誤解?﹂
﹁はい。ですから、少しお話しませんか?﹂
彼の両頬を掴んだまま静かに言うと、彼は痛いくらい真っ直ぐに
彼女に視線を注いできた。まるで彼女の真意を探っているようだが、
伶とて引く気はない。ここで引いたら、間違いなく彼は宣言通り存
はなろくしょう
在しない罪で自首しそうだった。
負けじと彼の花緑青色の瞳を睨み付けていると、シエルの表情が
85
少し和らいだ︱︱まだ眉間にはしっかりと皺が刻まれてはいるが。
﹁︱︱分かりました。それが貴女の希望でしたら﹂
﹁希望です﹂
しっかりと念を押して彼の顔を離すと、シエルはすぐに元の通り
床に目を落とした。
立ち上がらないとでも言う気だろうかと、彼を促そうと思った伶
だったが、息と共に埃まで一緒に吸い込んだらしく盛大にむせた。
﹁大丈夫ですか!?﹂
﹁だい、げほっ、です、ごほっ﹂
シエルが慌てて彼女に声をかけてきたが、満足に返事も出来ない。
すると彼はその場で立ち上がると、﹁少々お待ちください﹂と彼
女に告げ、家を出て行った。
埃でむせただけだから、当然しばらくして落ち着いたのだが、彼
は戻ってこない。そう言えば昨晩から水分を取っていないのだから、
喉が乾燥してもおかしくないなと、彼が出て行った扉を見つめて思
った。
とりあえず床に座っているのもおかしいし、ソファに腰かけさせ
てもらうことにする。
﹁⋮⋮どこ行ったんだろう﹂
ぼけっと玄関の扉を見つめていると、シエルが入ってきた。彼は
そのままキッチンに消えていく。
何だろうと後を追いかけると、彼は丁度壁側の食器棚からマグを
取り出すところだった。
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﹁すみません⋮⋮調理はしないもので、何もありませんが﹂
﹁あ、いえ、お構いなく﹂
彼は彼女に言うと、マグを二つ持って調理台の方へ向かう。
シエルが、あのつるんとした水道管の青水晶に触れると、蛇口か
ら勢いよく水が出てきた。
︵え、お水さっき出なかったのに︶
目を丸くする彼女の前で彼は水をたっぷりと注ぐと、くるりと振
り返った。水は彼が手を離した瞬間に止まったので、あの青水晶が
センサーにでもなっているのかもしれない。
﹁あちらにどうぞ﹂
シエルに促され、伶は再度ソファに腰かけた。ついでに鍵を拾い、
コーヒーテーブルの上に置く。彼の方もマグの一つを彼女の前に置
き、一瞬だけ躊躇した後、向かい側のソファに腰を掛けた。
なお、恐ろしい程にシエルの姿勢が良いため、思わず伶もならっ
て姿勢を正した。何故か二人して目を合わせたまま奇妙な沈黙が続
いたが、やがてシエルが先に口を開いた。
﹁それで⋮⋮私の考えに誤解があるとのことですが﹂
シエルは真剣そのものの表情で、伶を見つめた。深緑と空色を混
ぜたような瞳は何処までも深く、この人の前で嘘をつける人間など
いるのだろうかと伶はそんなことを考えた。
昨日の彼は妖しい色気を備えていたけれど、今改めて彼を見ると、
そこにあるのは清廉とした何かだ。
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︵まるで別人みたい。何も憶えてないような口ぶりだし︶
彼女は一口水に口を付けて、こくりと頷く。
﹁私は、昨日シエルさんと都の外で出会って、此処まで連れて来て
頂きました。お家のところで急に倒れられたので室内まで運ばせて
頂いて、つい私もうとうとと﹂
嘘ではないが、大分端折って話す伶を、シエルは口を挟むでもな
く見つめている。
﹁︱︱このことは、こちらに辿り着くまでずっと一緒だったシエル
さんもご存じだと思いますけど﹂
これに対する反応で、伶はシエルにどこまで話すか決めようと思
っていた。
彼が憶えていないと言うのなら、出来るだけ昨夜の事はなかった
ことにしたいし、憶えているならさっさとこの家の位置を聞いて立
ち去らなければいけない。
シエルの反応は、予想と違っていた。
彼は俯くと、固く握りしめた自分の拳を数十秒ほど見つめ、聞こ
える程大きなため息をついた。
顔を上げた彼は非常に険しい顔をしており、口を開けてはまた閉
じるといった動きを数度繰り返す。四度目に口を開けた時、ようや
く彼は声を発した。
﹁これからお話しする内容は、内密にお願いします﹂
﹁⋮⋮はい﹂
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伶は両手の中にあるマグを握りしめ、ゆっくり頷いた。
﹁率直に言えば、私に昨日の昼以降の記憶は一切ありません﹂
彼女を真っ直ぐに見つめて言われた言葉に、伶は目を丸くした。
﹁私は⋮⋮少々持病がありまして、月に数日︱︱いえ、昼までは記
憶がありますから、数夜と言うべきでしょう。とにかく月に数夜ほ
ど、記憶が抜け落ちる事があるのです。大体は極度の体調不良と共
に起きますから、いつもは休暇を要請して切り抜けていました﹂
そう言えば最初に会った時のシエルは、﹃最高に具合が悪い﹄と
言っていたなと伶は思い出す。
﹁今回も予兆は感じていましたが、どうしても今日中に王都に帰還
する必要があり、早めに出張先の隣町を出なければならなかったの
です。準備を整え、宿を出ようとしたところまでは憶えているので
すが⋮⋮その後は、この家で目覚めるまで何も憶えていません﹂
最後は吐き出すように呟いたシエルは、彼女から視線を逸らすよ
うに自分の手元に目を向ける。
﹁記憶がないまでも、いつもは通常通り行動しているらしいのです。
ですからさほど深く事態を考えていませんでした。しかし今回は︱
︱﹂
彼の苦痛に満ちた表情には、偽りなど感じられない。自分の症状
を心底憎々しく思う様子が、膝の上で白くなるほどに握られた手や、
平時よりも低い声、きつく寄せられた眉から伝わってくる。
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︵記憶がなくなるなんて、そりゃ恐いよね⋮⋮︶
彼の痛々しい様子に、伶は同情の念を禁じえなかった。
﹁まさか、貴女のようなか弱い女性を暴行するなど⋮⋮っ﹂
シエルは唸るような声でそう叫ぶと、自分の膝に拳を叩きつけた。
だが伶は、そんな彼を気にしていなかった。
﹁⋮⋮暴行?﹂
彼女がオウムのようにその単語を繰り返すと、シエルは深く俯い
た。心の底から自分の行いを恥じているようだ。
﹁い、いやいやいや、何ですか暴行って。私、暴行されてませんよ﹂
確かに﹃行為﹄自体はあったことだが、彼女は自分でそれを選択
したのだから、あれを﹃暴行﹄と呼んで彼に責任を押し付ける気は
ない。そもそも、彼には彼女を助ける義理などなかったのだから。
彼女の言葉にシエルは顔を上げたが、その目は明らかに信じてい
ない。
﹁何故庇うのです。貴女は先ほど私にのしかかられたと﹂
﹁いえ、確かにのしかかられはしましたけど、倒れ込まれただけで
す。暴行じゃありません!﹂
この人はどれだか彼女を性犯罪の被害者にしたいのだろうかと、
伶は苦々しく思った。
﹁では、﹃昨夜の事﹄とは何のことでしょうか?﹂
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シエルに突っ込まれ、伶は一瞬考え込む。そしてそれが、先ほど
彼女が言った﹃昨夜の事はともかくありがとう﹄というセリフだと
言う事に気が付いた。昨夜とは勿論二人の取引のことなのだが、そ
れを言えば間違いなく話し合いは開始点まで戻る。
ちらりと見れば、シエルはどんな表情の変化も見逃さんとばかり
に彼女を見つめていた。
﹁⋮⋮シエルさんが、私の靴下を破いたんです。勿論わざとじゃな
いんですけど、お気に入りの靴下だったので少し根に持ちました、
すみません﹂
それで誤魔化そうと思った。
だが彼女がそう言うや否や、シエルが無言でソファから立ち上が
った。立てかけてあった剣を手に取り、玄関へ向かう。
﹁シエルさん?﹂
﹁やはり私に剣は必要ないようです。何があったのかは憶えていま
せんが、婦女子の靴下に触れるなど不埒行為以外の何物でもありま
せん﹂
﹁ちょ、違います、気にしてません!﹂
咄嗟にシエルの腕を掴んで引き留めようとしたのだが、体格差に
加えて鍛え方も半端ではないシエルは、彼女を引きずったまま進ん
でいく。このまま外に出れば、﹃この﹄シエルは間違いなく騎士を
辞め、やってもいない性犯罪︱︱靴下を破いただけで犯罪になる場
合だが︱︱を自首しに行きそうだった。
どうにかして引き留めなければと、腕に力を込めながら伶は必死
に考えた。
シエルが、玄関のドアノブに手をかける。
91
その時、自分の頭の中で悪魔が囁いたように伶は感じた。
92
08. シエル・ハルナード ︵2︶
平時ならば、絶対に伶はこんな事言わなかっただろう。
しかし頼るもののない現状、彼女は自分を取り巻く現実を考えざ
るを得なかった。利己的で、打算的。お母さんお父さん、ご先祖様
方ごめんなさい、だ。
﹁シ、シエルさんが捕まったら、誰が私にお給料を払うんですか!﹂
虚実を叫んだ直後、シエルがぴたりと立ち止まった。
﹁⋮⋮給金?﹂
腕を伶に掴まれたまま、シエルが首だけで振り向き、彼女を見下
ろしている。
自分は今まさに、犯罪者になろうとしているのだと、彼女は彼の
目を見てつばを飲み込んだ。
﹁︱︱家政婦として雇ってくださる約束だったんです﹂
言ってしまった。伶は彼の視線から逃れるように俯いた。
このままこの家を出て行っても、彼女には行くところがない。手
持ちがない。常識も王都のことも分からない。下手したら、明日の
朝には売られているか冷たくなって路地に転がっているかもしれな
いのだ。
もう少しだけ、この人に助けてもらえたらと、そう思ってしまっ
93
た。
︱︱それがどれだけ身勝手な願いか、自覚してはいたけれど。
﹁誰もいないと家が傷むし、体調も最近あまり良くないからって。
だから此処まで連れて来てもらったんです﹂
﹁︱︱﹂
シエルは、何も言わない。
しかし彼女は、彼が彼女の言葉に対して半信半疑であることがよ
く分かっていた。真実でないのだから当たり前なのだが、彼女だっ
て文字通りの死活問題なのだから、今更後には引けなかった。少し
でも彼女の言が外れていただけでばれるような、浅はかな嘘であっ
たけれど、自分の身を護る精一杯の武器だった。
顔を上げ、彼に対し、縋るような視線を送る。
沈黙が、やけに長く重く感じた。
﹁⋮⋮確かに、家の事を見てくれる人を探してはいましたが﹂
﹁!﹂
シエルが、ドアノブから手を離した。
﹁それに今日、ここ数年で一番体調が良いことも事実です。これは
貴女が昨日何かして下さったおかげでしょうか﹂
さすがにそれは違うと首を振ったが、昨晩彼が言った﹃女を抱け
ば不調は治まる﹄という言葉を思いだし、顔が真っ赤になるのは止
められなかった。シエルが彼女を見下ろしている視線を感じ、伶は
ますます赤くなる。
その反応をどう受け取ったのか、シエルは彼女の方を身体ごと振
り向いた。とりあえず、今すぐに出ていくという事はなさそうだ。
94
﹁確かに昨夜の私は、貴女に鍵を預ける程、貴女を信用していたよ
うですね﹂
︵そ、それは誤解です︶
どうやら彼女が鍵を持っていたことをそう解釈したらしい。あん
な﹃獣﹄ですら倒してしまうシエルから彼女がカギを奪い取ること
など出来ないから、そう考えてもおかしくはない。
﹁⋮⋮しかし、妙齢の女性と同宿というのはさすがに問題がある気
がします﹂
﹁同宿?﹂
眉間にしわを寄せ、考え込むように顎に手を当てる彼に、伶は首
を傾げた。彼女はあわよくば家政婦︱︱そのくらいしか、ここで出
来そうなことが咄嗟に浮かばなかった︱︱として雇ってもらえれば
と思ったが、住み込みとは言っていない。
﹁ああ、貴女はエルメの町から来たんでしたね。この王都では、家
政婦は家守を兼任します。乳母同様に住み込みが基本です﹂
ナニー
北米に留学した友人が、住み込みで乳母だかベビーシッターだか
をしていたと言っていたが、この国もそういった住み込みの仕事が
普通にあるのかもしれない。
家政婦が家の管理人に料理の準備を加えたものだと仮定するなら、
その業務は一日がかり。住み込みになるのもおかしくはない。
﹁ええと⋮⋮では、通いではダメでしょうか? どこかで勝手に宿
を見つけますので﹂
﹁家守の仕事は早朝から戸締りまでです。貴女のような女性に夜道
95
を歩かせるのは了承しかねます。私が送っていければいいのですが、
あいにく夜勤も多いものですから﹂
彼女としては、予想以上の幸運によって目の前にぶら下がってい
る職を逃すまいと提案したのだが、あっさりと却下されてしまった。
﹁あ、そうです。いっそ納屋でもお借りできないでしょうか?﹂
﹁⋮⋮いえ、それはさすがに﹂
彼女がこのチャンスを逃して堪るかとばかりに畳み掛けると、さ
すがにシエルは苦笑を浮かべた。まあ、深い知り合いでもない人間
が自分の家の納屋に住んでいるなんて気味が悪いかもしれない。深
い知人でも嫌だろうが。
﹁しかし取り付けた約束を反故にするのも、騎士の精神に反します。
貴女を王都まで連れてきたのも私ですし、どうしたものか⋮⋮﹂
彼は呟くと、うーむと悩み始めた。その姿に、伶のなけなしの良
心がズキズキと痛む。
︵⋮⋮我ながら、よくこんな嘘ついたなあ。緊急時には本性が出る
っていうけど、ここまで利己的だったとは我ながら軽くショックだ
わ。⋮⋮いや、ここまできたらそれで通さなきゃいけないけど︶
これがどんな結果に終わるにしろ、彼には後で精一杯お礼をしよ
うと伶は思った。
﹁︱︱ああ、そうです。別の家を紹介するのではいかがでしょうか。
知り合いに当たれば誰か見つけられると思います﹂
﹁他のお家⋮⋮﹂
96
よく考えてみたら、彼女は別に彼の元で働く必要はない。彼女が
こんな嘘をついたのは、衣食住︱︱住は考慮外だったが︱︱を安定
させるためで、誰かを紹介してもらえば、とりあえずの職は確保で
きるうえ、彼にかける迷惑も最小限で済む。
そうですね、伶はそう返事をしようとした。
しかし、はたと思いつく。
︵⋮⋮昨日のこと、本当に憶えてないの?︶
彼の様子から嘘をついているようには見えない。だが、記憶がな
かった間の事を思い出さないとも限らない。思い出したなら彼は彼
女の言った事が真実でないと分かるし、そうなれば嘘をついた理由
を探ろうとするだろう。
別に彼女自身に探られてマズイことはないし、町にはもう辿り着
いたのだから、ひとまずの危険はないと思いたい。
何故森にいたのかは彼女にだって分からないのだから、聞かれれ
ば正直に答えるだけだ。騎士である彼があっさり彼女を都に入れた
のだから、スパイを警戒するような情勢でもないのだろう。
︵大丈夫、だよね?︶
昨日彼が言った事、今日言われた事を一つも漏らさず思い出し、
このまま嘘がばれても問題ないかを判断しようとする。
出会いの事、取引の事、都に入ってからの事、剣を突き付けられ
か?﹄
てからの事。全てを振り返り、多分大丈夫だろうと、頷こうとした。
魔力なし
そんな時だ。
﹃お前、
97
昨夜の彼の言葉が、急に脳裏によみがえってきた。
何故そんなことを思い出したのかは分からない。彼女なりに随時
状況を整理してきた中で、消化できずに引っかかっていたことだか
らかもしれない。
﹁あの﹂
﹁何ですか﹂
昨夜とは全く口調の異なる﹃同じ男性﹄が、彼女を見下ろす。
﹁⋮⋮﹃魔力なし﹄でも、大丈夫ですか﹂
正確には自分自身が﹃魔力なし﹄とやらなのかは分からないが、
聞いておくだけ聞いておこうと思った。特に深い理由があったわけ
ではなかったのだが、シエルをはそれを聞いた後、軽く目を見開い
てから軽く眉間に皺を寄せた。
﹁問題はありませんが⋮⋮﹂
彼の口調は重い。
﹃魔力なし﹄とは、何かの障害なのだろうか。伶は少しだけ嫌な
予感がした。
シエルは緊張する彼女を見ながら、口を開く。
ディーダ
﹁失礼を承知で言います。⋮⋮正直なところ、﹃魔力なし﹄を雇う
家は多くはないでしょう﹂
シエルは顔を僅かに顰めながら、腕を組んで続けた。
ディーダ
﹁勿論これは唾棄すべき風潮ではありますが、﹃魔力なし﹄が過小
98
評価されている事実は否定できません。多くの人々は自分たちにあ
るものがないというだけで、どこか能力不足に思えてしまうのでし
ょう﹂
彼は若干の嫌悪感を滲ませながら、そう言った。
先ほどから話していて、清廉潔白が好きそうな性格だとは思って
いたけれど、やはりそうらしい。
︵﹃魔力なし﹄が少数ってことは、﹃魔力あり﹄が大半ってこと。
で、﹃魔力なし﹄︱︱ディーダ?︱︱には他の人が出来ることが出
来ないわけだから、少々見下されているってことでいいのかな︶
差別とまではいかなくても、少しでも能力が高い人間を雇いたく
なるのは雇用主として当然だと彼女は思う。だからこそ、日本にだ
ディーダ
って受験や就職試験があるわけだ。
正直なところ、未だ﹃魔力なし﹄が何であるか分かっていない伶
には憤慨のしようがないのだが、彼の反応からして、彼女は就職に
当たり相当なハンデがあると思っていいだろう。
﹁そうですか⋮⋮﹂
かなり伶は落ち込んだ。
この場所の常識も分からない上に、手持ちには何もなく、さらに
こんなハンデまでつくとは、前途多難を更に険しくしたような状況
にいるらしい。
そんな彼女に、シエルは若干慌てたような声を上げた。
ディーダ
﹁ああ、勿論暮らしていくうえでは﹃魔力なし﹄であろうとなかろ
うと問題はないのです。王都は広い上に暮らす人々も多種多様です。
他の町のように、雇用以外で他者と区別されることはありませんか
99
ら﹂
つまり他の町では、生活面でも色々問題があるということだろう。
ますます彼女は気が重くなる思いがした。これでは彼が就職先を探
してくれるという話も希望が持てない。一文無しでどう生きていけ
ばいいと言うのか。
思い切り彼女が肩を落としたのが分かったのか、シエルが益々焦
る気配が感じられた。組んだ腕をはなし、片手を上げては下ろすを
繰り返している。
﹁⋮⋮すみません﹂
しばらくして、シエルがそう言った。
彼を見上げれば、シエルは罪悪感を抱いているような表情をして
いた。
﹁え。いえそんな、シエルさんが謝るようなことじゃありませんよ。
気になさらないでください﹂
そう言って身体の前で手を振っても、彼は表情を崩しはしなかっ
た。
彼が悪いわけでもないのに、本当に正義感の強い人なんだと、改
めて伶は思った。
︵これは完全に、昨日のシエルさんとは別人だわ︶
今の彼なら、昨夜の状況下で彼女にあんな提案をすることはまず
ないだろう。ただ同時に、こんな怪しい人間をこうやって連れて来
てくれたかも疑問だが。
彼女はこの瞬間、きっぱりと昨夜の彼を目の前の彼と同一視する
100
ことは止めようと思った。別人格くらいに捉えておいた方が、彼女
としても混乱せずに済む。
﹁︱︱レイさんと、おっしゃいましたか﹂
﹁え? あ、はい。れい・みやまえと申します﹂
突然名前を確認されたことに伶は驚いたが、大人しく彼の問いを
肯定する。
彼はしばし言い淀んだ後、彼女の目を見てはっきりと告げた。
﹁⋮⋮分かりました。貴女をこの家で雇わせて頂こうと思います﹂
﹁!﹂
彼はそう言い切ると、部屋の片隅に置いてあった背負い袋に手を
入れ、小さな棒状の物を持ってきた。
﹁その代り、これを﹂
シエルが彼女に手渡したものは、長さ三十センチほどの楕円状の
木棒だった。
﹁これは?﹂
彼女がそう問えば、シエルはその両端を手に取って、右手を横へ
ずらした。
すると木の棒の一部がスライドし、中に収まっていた輝きが姿を
現す。一言で言うなら、それは懐剣、小さな刃物だった。
﹁け、剣!?﹂
101
ナイフ
彼女がそう叫べば、彼は今や抜き身になった懐剣を再び木棒︱︱
鞘に収め、彼女に手渡す。確かな重みが加わり、彼女はそれをしっ
かり握りながら剣と彼を交互に見た。
﹁身の危険を感じた時は、遠慮なくこれをお使いください。勿論、
誰が︱︱私が相手でも、です﹂
﹁ええ!?﹂
シエルはどこまでも真剣な表情で彼女を見つめ、﹁いいですか﹂
と念を押してくる。
ちょっとこの人育てた人間連れてこいと、伶は思った。
彼女よりも年上︱︱三十代半ばくらいだろうか︱︱にも関わらず、
この潔癖さは何なのだろうか。確かに見ず知らずの男女が同居とい
うのは少し問題があるかもしれないが、だからと言って相手に武器
まで渡して身を守らせるという発想が出てくるのはどうなのだろう
か。
伶は少しだけ頭が痛くなった。
﹁さて⋮⋮して頂く仕事の話に移りたいところですが、申し訳ない
ことにこの後出かけなければいけないのです﹂
﹁あ、そう言えばその為に戻ってらっしゃったんですもんね。時間
を使わせてしまってすみません﹂
﹁元はと言えば全てこちらの責任です。むしろ体調はいつもより良
いですから、全く問題ありません﹂
彼女が謝ると、シエルは爽やかな微笑を浮かべて首を振った。し
かし彼は﹁ですが﹂と後に続ける。
﹁⋮⋮本当にレイさんはこれでよろしいのですか? 例え何があっ
たとしても私が貴女に破廉恥な行いをしたというのは変わらない事
102
実︱︱﹂
﹁問題ありません希望通りですありがとうございます!﹂
再び破廉恥論議が始まる前に、伶は彼の言葉を被る勢いで否定し
た。
﹁本当に靴下の件はやむにやまれぬ事情があったんです。シエルさ
んは悪くありませんし、事が大きくなると恥ずかしいです﹂
彼は真剣そのものだが、一般的に考えれば﹃馬鹿らしい﹄の一言
に尽きる出来事だ。それを辞表騒ぎにまで荒げるなんて、当事者と
しては罰ゲーム以外の何物でもない。
伶が懇願するように彼を見れば、シエルは少しだけ納得しない表
情を見せながらも、﹁貴女がそうおっしゃるのなら﹂と一応引く姿
勢を見せた。
﹁では申し訳ありませんが、私は騎士団の方へ顔を出してきます。
鍵は一つしかありませんから、夕方にはここにいて下さると助かり
ます﹂
﹁あ、はい。分かりました﹂
﹁家の中は基本的に何処を見て頂いても構いません。二階の一部屋
は私が使っていますが、残りはご自由にお使いください。あとは︱
︱﹂
シエルは﹁そうだ﹂と呟くと、背負い袋の中から手のひらサイズ
の革小物を取り出した。それをどうぞと手渡し、ソファに立てかけ
てあった剣を掴む。
﹁シエルさん、これは?﹂
103
割と重みのある革小物は、まるで二つ折りの財布に見えた。
﹁財布です﹂
﹁そうでしょうね⋮⋮って、え?﹂
首を傾げる彼女を尻目に、シエルは背負い袋の口をきつく縛ると
剣とは反対の手で持ち上げた。
﹁当面の生活費分には充分な額が入っているはずです。この家には
何もありませんから、レイさんさえよろしければ今日はそちらで間
に合わせてもらえればと﹂
﹁え、いえ、お財布そのままなんて受け取れませんよ! 第一、初
対面みたいな人間にお財布を預けるなんて不用心です!﹂
彼の豪胆すぎる行動に目を剥いた伶がそう捲し立てると、シエル
は見事な微笑を浮かべて明言した。
﹁︱︱見る目はあるつもりです。それでは、留守を宜しく頼みます﹂
﹁シ、シエルさん!﹂
シエルは軽く笑い声を漏らしながら玄関まで歩いて行くと、扉を
開けて出て行ってしまった。
呆然と閉ざされた扉を見守っていた伶だったが、すぐにハッと我
に返って扉を開ける。丁度シエルが、門扉の外に白馬を連れ出すと
ころだった。
﹁シエルさん!﹂
﹁まだ何か?﹂
門のところまで駆け寄り声をかける。
104
まだ何かあるのかと純粋に尋ねている様子の彼に、伶は呆れたよ
うな大口を開け、そして閉じた。時間がないと言っていたことだし、
言いたいことは今は飲み込んでおく。
﹁︱︱いってらっしゃい﹂
彼女がそう言うと、シエルは一瞬目を軽く見開いてから、口角を
上げた。
﹁いってきます﹂
そして彼は軽やかに白馬に跨ると、馬の手綱を軽く引き街の中へ
と消えて行った。
残された彼女は、やけに存在感を主張する財布を片手に、扉を閉
めて家の中へと戻って行った。
105
08. シエル・ハルナード ︵2︶︵後書き︶
ここで一応、長すぎる序章は終了です。
次は閑話としてシエル視点を挟んでから、二人の共同生活に入れれ
ばと思います。
なお、お気に入り登録、評価をして頂いた皆様、本っ当に有難うご
ざいます!
ポイント数その他諸々を見て、ほうじ茶を零すほど感激しました。
日本茶最強。
106
08.5 騎士の独白
シエル・ハルナードは王都の街路を駆けていた。
朝食の時間帯に出歩いている人間は少なく、馬車も比較的数が少
ない方だ。それでも王都を走る主道の一つは、閑散と言える程空い
てはいない。行き交う馬車や荷車の合間や横を馬で駆けぬけ、シエ
ルは目的地である騎士団本営に向かった。
﹁﹃いってきます﹄、か⋮⋮﹂
誰にともなく、彼は呟く。
騎士団寮を出てから三年、誰に言ったことも言われたこともない
言葉に、彼は﹃家政婦﹄となった女性を思い返した。
︵⋮⋮随分と身綺麗な女性だったな︶
この辺りでは珍しい黒髪に、一目で上質と分かるドレス︱︱これ
は少し短すぎるのではないかと彼は思う︱︱に、平民には珍しい宝
石のついた首飾り。玄関で何故か脱がれていた滑らかな革靴は、彼
が見たことのない装飾具が付いており、あれならば膝丈の革靴でも
随分と着脱がしやすそうだった。
どう考えても、裕福な家か身分のある家の娘に違いないと彼は思
った。
だからこそ、そんな女性が家の中にいて、シエルは心底驚いたの
だった。
107
今朝、窓から朝日が燦然と入ってくるのに伴い、彼は意識を浮上
させた。
始めに天井が目に入り、またソファで寝てしまったのかと眉をひ
そめ、自分が部分鎧を着たままであることに更に顔を顰めた。
一度だけあくびをして上半身を起こした後の驚きは、人生で最大
だったかもしれない。
見知らぬ女性が、ソファ︱︱彼の足元側︱︱に頭を預けて眠って
いたのだ。声を出さなかった自分を褒めてもよいのではないだろう
かとシエルは思った。
︵魔物には動じずとも、あれは無理だ︶
あの時の衝撃を思いだし、彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮
かべた。
それから彼女が起きるまでずっと一階で監視していたが、特に彼
女は不審な動きを見せず、完全に彼の徒労で終わったことも、自分
の情けなさに拍車をかけている。
﹁⋮⋮全く憶えていない﹂
彼女が起床するまで、幾度も昨日の事を思い出そうとしたが、何
の実も結ばなかった。だが彼女の言を信じるなら、彼は彼女とエル
メの町で出会い、雇用を約束してわざわざ王都まで連れて来たこと
になる。 普段の自分なら絶対にしないだろうが、記憶をなくしている間の
﹃自分﹄には確証が持てない。彼女が此処にいるのは事実だし、鍵
を渡したのも事実なのだろう。となると、やはり彼が連れて来たに
違いない。
︵エルメと王都の距離は、トルカの最高速度で約一日。森を通れば
108
半日強だ、おかしくはない︶
シエルは自己嫌悪に陥った。
自分の腕を見て、ため息をつく。
︵彼女は私がずっと支えていたと言っていた。つまり私は、出会っ
て間もない女性を半日以上、この腕の中に閉じ込めていたことにな
る︶
恐ろしい、騎士にあるまじき行為だと思った。
彼女は止めたが、やはり自分は騎士の剣を返上すべきなのではな
いかと、激しい嫌悪感に襲われる。
︵⋮⋮レイ・ミヤマエ、さん︶
だが、変わった名の彼女が見せた心底困ったような顔を思い出し、
シエルは自然と苦笑した。
彼の出頭を必死に止めた彼女は、眠っている姿からは想像できな
いほど生命に満ち溢れ、若々しく見えた。
彼に丁寧な礼を述べる姿や、彼が辞意を述べた時の冷静な物言い、
財布を預けた彼をたしなめる姿には人として好感を抱いたし、だか
らこそ余計に、何故彼女のような女性が、家政婦になるためだけに
のこのこ王都へついて来たのかと疑問を抱いた。
ディー
彼女のような女性なら、働き口や⋮⋮その、嫁ぎ口にも困ること
はないだろう、と。
ディーダ
﹁﹃魔力なし﹄か⋮⋮﹂
ディーダ
しかし、﹃魔力なし﹄であるなら話は別だ。
ダ
王都はともかく、エルメのような大きくない町ならば、﹃魔力な
109
し﹄は差別の対象になる。仕事で魔術が使えなくては有事の際に不
便だし、伴侶にするとしても子供にその特質が受け継がれては困る
からだ。それはこの国だけでなく殆どの場所に通じる風潮で、魔力
がないという一点は、かなり重い短所になりえるのだ。
彼女が別天地を求めて、騎士とは言えほぼ初対面の男について来
ディーダ
たのも、分からない話ではなかった。
それ程、﹃魔力なし﹄に対する偏見は軽いものではない。
﹃そうですか⋮⋮﹄
ディーダ
彼が﹃魔力なし﹄は雇われづらいと話した時、彼女はただでさえ
小さな身体を更に小さくし、消え入るような声で呟いた。
きっとこれまで何度も経験してきたのだろう。彼女はこの不条理
を、そのたった一言で受け入れた。
彼女の様子を思い出し自然と眉間に力の入る彼だったが、いつの
間にか目的地に到着しており、首を軽く振って頭を切り替えた。
* * *
エルメの町で調べた内容を執務室でまとめていると、ノックの音
が聞こえた。
﹁団長、報告書仕上がりましたよー﹂
﹁ご苦労、クラウ。だが入室は返答の後にと何度言えば分かる﹂
﹁えー、俺と団長の仲じゃないですか∼﹂
シエルは慣れ親しんだ補佐官のクラウを見て、ため息をついた。
彼より頭一つ分小さなクラウは、数年前から第一騎士団の団長で
110
あるシエルの団長補佐を務めている。一応は貴族の子息であるのに
驕ったところのない、珍しい男だった。
ふわふわとした栗毛頭にいつも飄々とした表情を浮かべるクラウ
は、つかみどころがなく不真面目に見られがちだが、シエルは彼が
軽薄な人間でない事を知っている。⋮⋮二十六にもなって落ち着き
がなさ過ぎるのはどうかと思うけれど。
入室の件にしても、何度注意しても無駄なのだが、それでもシエ
ルは一言言わずにはいられなかった。
へへーっと笑うクラウは、案の定全く堪えていない様子でシエル
に近づき、報告書を机上に置いた。
﹁あ、それ﹃例の事件﹄の報告書ですか?﹂
シエルがまとめていた報告書を覗き見て、クラウが尋ねる。
﹁ああ。わざわざエルメまで出向いたが、あまり収穫はなかった。
だんちょー
季節外れの花火の話題がせいぜいだ﹂
﹁うわ、そりゃお疲れ様です、団長﹂
﹁折角、総団長が休暇を装ってまで派遣してくれたというのに情け
ないな﹂
報告書を進めるペンを一度置き、シエルは一息ついた。
今回エルメの町に出かけたのは、表ざたに出来ないとある事件の
調査をする為だった。本当に期日ギリギリまで調査したのだが、残
念ながら有力な手がかりも証言も得られず、シエルとしては悔いの
残る結果に終わってしまった。
﹁あー、ロロムの爺さんなら気にしないんじゃないですか?﹂
﹁ロロム﹃総団長﹄。身内だからと言って爺さんは止めろ﹂
﹁気にしない、気にしない。団長ってば相変わらずお堅いなあ﹂
111
目の前でクラウは手をひらひらさせながら笑う。
﹁どうせ爺さんは、調査にかこつけて団長に骨休みさせたかっただ
けですもん。初めから期待してませんって﹂
﹁⋮⋮そんなわけないだろう﹂
ひょうきん
立派な白髭を生やした御年六十のロロム総団長は、このクラウの
伯父だ。いつも笑顔を絶やさない剽軽な翁は、クラウ同様腹が読め
ない性格で、唐突におかしなことを始めることも多い。
﹁いやいや、だってちょっと前に﹃ハルナードはまた連勤記録を更
新しとるじゃないか。うちが悪徳雇用主として訴えられたらどうす
る﹄ってぼやいてましたもん、ロロム爺﹂
﹁⋮⋮何故総団長が私の休暇状況を知っているんだ﹂
﹁だって俺が話しましたか︱︱あぶなっ! 団長、ペン先投げつけ
ないで下さいよ! 俺刺されるかと思った!﹂
ペンの先についた金具を抜いてクラウに投げつけたシエルだった
が、クラウはあっさりとそれを避け、ペン先は奥の壁へと突き刺さ
った。だてに十年以上騎士団に在籍していないようだ。
シエルはそんな部下の様子を一瞥すると、大きく肩で息をついた。
︵おかげで私が今どんな状況に陥ったか︶
家で待っているだろうレイの姿を自然と思い浮かべ、シエルは換
えのペン先をペン軸に取り付ける。
︵恐らくは、悪い女性ではないだろう。受け答えは落ち着いている
し、団長である私を狙ったなら意識がない時にどうとでも出来る︶
112
しかし彼女は、シエルが寝入っている時に何もしなかったどころ
か、相当な重量であった彼をわざわざソファまで移動させてくれた。
女性が運ぶにはかなり無理のある体格をしていることは自覚してい
るから、彼女がよほど苦労して彼を運んであろうことも想像に難く
ない。お人よしなのだろう。
短剣を渡された時の驚き方や、剣を突き付けられての第一声が﹁
おはよう﹂といった、少し変わったところのある女性ではあるが、
とシエルは心の中で苦笑して付け加える。
︵⋮⋮多々不審な点があるのは否めないが、悪意は薄そうだし無理
に聞きだすこともないだろう。﹃例の事件﹄を抱えている今、無用
な騒ぎを起こしたくない︶
彼がペンをインク壺に浸してから試し書きをしていると、クラウ
が天井を見上げながらにへらと笑った。
﹁でもいいなぁ、花火。俺も見たかったな。団長、今度花火やりま
せん?﹂
細身とはいえ二十六の男に目を輝かされても、シエルは欠片も嬉
しくはない。
﹁︱︱お前の机に乗ってる書類を全部片付けたらな﹂
﹁ええ、そんなの一年はかかるじゃないですかー﹂
﹁⋮⋮そうか、一体どうやってそこまで溜めたのか、まず説明して
もらおうか﹂
﹁やべっ﹂
シエルが逃げようとする補佐官の頭をがっちりと掴んだところで、
113
団長執務室の扉が大きな音を立てて開いた。
﹁おいシエル!!﹂
入ってきたのは、長身のシエルよりも更に巨大な男だった。
針金のような赤茶の短髪に、傷があちこちについた筋肉隆々の大
男︱︱第二騎士団の団長、セダ・バアグだった。
﹁お邪魔します﹂
セダの後ろからひょこりと顔を出したのは、ヨルトという優男だ。
彼は薄紫色の長い髪を一つに結わき、薄水色のローブにエンダ木の
杖という、一目で魔術師と分かる服装をしている。年齢不詳のヨル
トは、魔術師団である第三騎士団を率いる長だ。
どかどかとセダがやって来るのに合わせ、ヨルトも何が楽しいの
か、普段から柔和な顔をますます綻ばせてシエルの前までやって来
た。
友人二人がやって来たことで、シエルはクラウを掴む手を離し、
椅子に座り直す。
﹁お、バアグ団長、ヨルト団長、おはよーございます﹂
﹁よう﹂
﹁おはようございます、クラウ﹂
二人は既に部屋にいたクラウに挨拶すると、即座にシエルに視線
を戻した。
﹁二人が揃って来るとは珍しいな﹂
114
シエルは素直にそう思った。
団長だけあって二人はシエル同様多忙であり、朝から彼の執務室
を訪ねる余裕などないはずだ。
だが、ヨルトはどこまでもニコニコとシエルを見ているし、セダ
もにやにやと気色の悪い笑みを浮かべている。
シエルが不審そうに顔を顰めれば、セダが口を開いた。
﹁おい聞いたぞシエル。⋮⋮女が出来たって?﹂
良い
笑顔でシエルを見たが、
セダの言葉に、シエルは本気で呆然とした。
﹁え、ホントですか団長!?﹂
クラウが玩具でも見つけたような
彼にはまるで心当たりがない。
助けを求めるようにヨルトに視線を送ったが、彼は笑顔を崩さず
ニコニコしているだけだった。
﹁何処からそんな根も葉もない噂を﹂
シエルが心底理解できないと言った様子で言うと、セダがにたー
っと笑みを深めた。
﹁ほーう、根も葉もない? 根も葉もないだって、シエル・ハルナ
ード?﹂
﹁顔が極悪だぞ、セダ・バアグ﹂
目を細めるシエルに、セダは身体を乗り出して机に手を置いた。
至近距離で睨みあいを始めた二人に、ヨルトが口を挟む。
115
﹁今朝方、外門巡視の騎士が、貴方を見かけたそうです。貴方のマ
ントに身を包んだ女性を馬上に乗せてね﹂
その一言に、シエルは憶えはないが予想はついた。
﹁彼女の腰にしっかりと腕を回して、街の中に消えて行ったそうで
すよ﹂
一言一言区切る様に畳み掛けるヨルトに、セダが続く。
ようま
﹁で、俺の隊の奴も今朝、規則以上の速度で馬を走らせる馬鹿を見
つけた。妖馬が相手だったせいで追いつけはしなかったが、その馬
鹿に心当たりがあった。聴取の為にそいつの家に向かうと、なんと
!﹂
セダは人の悪い笑みを浮かべながら、演技がかった仕草で肩を竦
める。シエルが盛大な皺を眉間に寄せていると、クラウが代わりに
身を乗り出した。
﹁なんと⋮⋮何ですか、バアグ団長! 続き、続き!﹂
﹁その馬鹿が、か弱い女性とあっつーく抱擁を交わしていたんだと
よ。俺に似て慈愛に満ち溢れるその騎士は、何も言わずにそっと立
ち去ったと。⋮⋮その﹃馬鹿﹄に心当たりはないか、シエル・ハル
ナード?﹂
﹁⋮⋮﹂
シエルは、額に手を当てたまま何も言えなくなった。
憶えていない。
憶えていないからこそ、否定も出来ない。むしろ、事実である可
能性の方が遥かに高いだけに、余計なことは言いたくなかった。
116
だが、そこで黙っている補佐官ではなかった。
だんちょー
﹁ええええ!? まさかそれ、団長なんですか!? ひでえ、俺何
も聞いてないですよ!﹂
﹁クラウ﹂
﹁冷たい、冷たいです、団長⋮⋮俺たちに隠し事は存在しないって
信じてたのに⋮⋮!﹂
﹁クラウ﹂
シエルは泣きまねを始めるクラウの肩を万力のような力で締め付
けると、微笑を浮かべて口を開いた。
﹁気色が悪い﹂
﹁うう、俺の心がズバッと斬られたぁ⋮⋮﹂
クラウを黙らせることには成功したが、二人の悪友が目の前でに
やにや笑いを浮かべて彼の返答を待っている。
﹁⋮⋮彼女は、そんなんじゃない﹂
﹁へえ、﹃彼女﹄ときたか﹂
﹁確かに⋮⋮そういった事実があった可能性はあるが、お前が想像
しているような関係じゃない﹂
﹁ほう、俺がどんな想像してるのか、分かってんのか?﹂
﹁⋮⋮セダ﹂
﹁何だ、シエル﹂
どう考えても事態を面白がっているセダに、シエルは一瞬執務机
でもひっくり返してやろうかと思った。
それを察知したのか、ヨルトが一歩後ろに下がって言葉を発した。
117
﹁まあまあ、セダ。そう無暗につついてはシエルが怒りますよ﹂
ヨルトに言われ、セダが大げさに肩を竦める。
﹁いやー、だってなあ。シエルだぜ? 堅物の代名詞、シエル・ハ
ルナード第一騎士団長殿に女が出来たなんて、これをからかわずに
何を笑うってんだよ﹂
﹁それもそうですけれど。ああ、私たちはあくまで、友人としてお
祝いを述べに来たんですよ﹂
﹁⋮⋮﹂
悪友のセリフに、シエルは疲労感に襲われた。
シエルは誰にも、記憶の欠乏症状を話していない。だから、事情
を説明することは出来ない。大きくため息をついて、シエルは自分
を呪った。
﹁⋮⋮ちなみに、その噂はどこまで広がっている?﹂
笑顔で即答した。
シエルが問えば、ヨルトとセダは顔を見合わせ、そしてとても
良い
﹁騎士全団﹂
﹁⋮⋮﹂
シエルは完全に言葉を失った。
そんな彼の様子を悪友二人と補佐官一人は笑い、ヨルトがさらに
続ける。
﹁今はどこも﹃例の事件﹄のせいでピリピリしていますから。明る
い話題が欲しいんですよ﹂
118
自分がその話題になりたくはない。
シエルは頭を抱えた。
119
09. 割り切ること
目が痛い。彼女はそう思った。
シエルが出ていってから、伶は飲み会の新人のごとく水を一気飲
みし、早速家の中を探検してみた。
玄関から時計回りに、一階には、応接セットが置いてあるリビン
グ、大きな書斎、物置部屋、T字の通路を挟んで洗面所と風呂場、
トイレ、客室、そして階段の手前にキッチンがある。
二階には計四部屋がL字型に配置されており、テラス側から客室、
収納部屋、シエルの私室、また客室となる。家を長方形と見なすな
ら、Lの右上の空きスペースに、階段と、あのステンドグラスを望
む休憩スペースが入るのだろう。
探検は、正直面白かった。
二階から始めて、ステンドグラスを眺めたり、テラスの寝椅子に
横たわってぼーっと青空を見たり。一階も含め、客室は一通り見た
だけでスルーしたけれど、風呂場や洗面所、トイレは、キッチンの
蛇口同様謎の技術によって水が流れるので何だかワクワクした。ト
イレが水洗、ペーパー付き。ここ最重要。
地下も少し覗いて見たけれど、こちらは階段を降りた先にある扉
に鍵がかかっていたので、未確認のままだ。
そして、書斎。
彼女が住んでいたワンルームが三つかそれ以上入りそうなその部
屋は、扉の正面にある窓の周辺を除き、壁中が背の高い本棚で埋め
られていた。窓の前には頑丈そうなマホガニー色の机が配置されて
おり、机上に置かれたインク壺やペン、定規、使用用途も方法も分
からない謎の円筒など、目を引く物が多数見つかった。
120
だが問題だったのは、部屋の片隅に立てかけられていた一本の紙
筒だった。
広げてみれば、それがこの周辺の地図なのだろうと分かる。中心
部に描かれた地形が、この﹃王都ロマリエ﹄にそっくりだったのだ。
伶には、莫大な量の書名も、地図に書かれた地名も読むことが出
来ない。
しかし、これが地図だと分かれば、自ずと知れることもある。
﹁⋮⋮日本じゃ、ない﹂
正確には、日本どころか彼女の知るどの国でもない。
恐らくは﹃世界﹄、もしくは世界の一部にしろ描かれたその地図
は、彼女の知る世界地図とはあまりにもかけ離れていた。薄く色の
塗られた地図で、この﹃世界﹄に氷雪地帯や海、高原や高山、そし
て火山まであるのが理解できる。だが、それらは一つたりとも彼女
の知識と合致しなかった。
﹁どこ、ここ⋮⋮﹂
一度認識してしまえば、ここが彼女の知る世界ではないという証
拠は次々と浮かび上がる。
見たこともない、﹃魔物﹄と呼ばれた獣。
何故か言葉の通じる、甲冑に身を包んだ騎士。
彼が使った、映画の中に出てくる魔法のような﹃魔術﹄。
聞いたことのない地名に、見たことのない文化。家の調度品一つ
とっても、彼女が知る物とは微妙に違う。
シエルが乗っていた白馬だって、彼女の常識以上の速度で駆ける
ことが出来たし、その割には異常なほど振動がなかった。
121
それらを﹃知って﹄、伶は泣きながら崩れ落ちた。
何故彼女がこんな場所にいるのか。どうやったら帰れるのか。そ
もそも彼女は帰れるのか。
その三つの疑問がぐるぐると頭の中を回り、涙をこぼすくらいし
か動くことが出来なかった。
︱︱しかし、永遠に泣き続けることは出来ない。
三十分も泣けば目は痛いし、喉も痛い。床に座り込んだ膝だって
痛むし、トイレにだって行きたくなる。
伶はぼうっとしつつも立ち上がり、洗面所へと向かった。
大理石のような石をくり抜き削られて作られたような洗面台は、
つるりとしていて美しく、蛇口についた青水晶を触れば水が流れ出
る。
冷たい水で顔を洗い、壁のフックにかけられたタオルで顔を拭く。
洗面台の上に埋め込まれた鏡を見ると、化粧が完全に落ちた、疲
れ切った女の顔が映り込んだ。
﹁⋮⋮ぶさいく﹂
思わず自分でも嫌になるほど、覇気がない。
泣いたせいで瞼は腫れているし、アイシャドウは完全に落ちてい
る。ウォータープルーフのファンデーションとマスカラはかろうじ
て残っているが、眉毛は微妙。目を背けたくなるような、凄惨な姿
だった。
そんな自分に、伶はため息をつく。
ひとしきり水分を出し切ったせいで、何だか感情が抜け落ちたよ
うな浮遊感があった。
ぐうっと、腹が鳴る。
﹁お腹減ったな⋮⋮﹂
122
考えてみれば、飲み会を抜けてから何も食べていない。
太陽の上り具合からして、今はお昼近く。半日以上何も食べてい
ないことになる。一旦気付いてしまうと、空腹は耐え難いもののよ
うに感じられ、伶は腹を押さえた。
︵⋮⋮結局、悲劇のヒロインばりに泣き叫んだところで、状況が良
くなることはないんだよね︶
唯一の頼みはシエルだが、彼が戻ってくるのは夕方だ。何を聞く
にしても今は待つ以外出来ない。
︵でも、それで変人扱いされたらどうしよう︶
シエルは彼女の唯一の情報源だが、文字通り﹃唯一﹄なのだ。彼
に変人扱いされれば、彼女の生活は一気に底なし沼に沈む。変人扱
いで収まればまだしも、もし彼女が彼のタブーに、いや、騎士とし
て看過できない何かに触れたらどうなるか。
︵⋮⋮この世界って、魔女狩りとかないよね?︶
魔術が存在するのだから、ないと思いたいところだが、彼女の世
界だって奇跡は﹃あり﹄でも魔法や呪いは﹃なし﹄なのだ。この世
界を何も知らない彼女に、何が異端になるか推測するのは不可能だ
った。
﹁︱︱シエルさんに聞くのは最終手段にしよう。急がば回れ、地道
に情報を集める方が無難だわ﹂
彼女は何も知らない。だったら、知ればいい。
123
そうと決まれば、まずは地盤固めだ。伶は自分がここに居座るこ
とを許された理由を思い出し、頬を叩いた。
髪の毛を手櫛で整え、目の周りの腫れがマシになる様にマッサー
ジする。消えかけた眉は誤魔化せるように、前髪を少し動かした。
﹁よし、頑張れ、宮前 伶。結婚もせずに一人で生き抜いてきた意
地を見せるのよ﹂
怨念のようなやる気を発し、伶はもう一度頬を叩いて頭を振り、
洗面所を後にした。
* * *
伶は、広場をきょろきょろと見回していた。
片手には、客室のサイドテーブルにかかっていた布を結んで作っ
た、風呂敷バッグ。盗まれると怖いので、シエルから預かったお金
の半分は家に置いてきており、財布自体は鍵と共に両手で握りしめ
ている。
家を出た直後は心底困ったが、家の前であたふたしていたら、シ
エルの物に似た甲冑を来た騎士が声をかけてくれた。彼女が王都に
来たばかりである事、食材の買える場所に行きたい事を告げると、
騎士は親切にも馬を降りて彼女に付き添ってくれた。
道のりは意外にも短く、二十分少し歩いた頃には小さな公園に辿
り着いた。
その公園︱︱広場には様々な露店が出ており、野菜や軽食、お菓
子を販売する屋台や、楽器を演奏する人々で溢れていた。
騎士にお礼を言って別れ、伶は今、おのぼりさんよろしく周囲の
124
観察を楽しんでいる最中だ。
﹁すごっ﹂
活気にあふれる広場は、行き交う人々や店の呼びかけ、あちこち
で奏でられる楽器や歌の音で満ちている。どんな物か想像もできな
い色々な香りも混ざり合い、伶は落ち着きなく首を動かした。
シートの上で売られている野菜は、謎の赤いほうれんそう、ピン
ク色の大根、しょうがに似た物や、レタスのような葉物など多種多
様。売り子のおばさんが、じゃがいものような丸い物体を指さし、
﹃ポッテ﹄の新物と叫んでいた。
露店では、黄色に白、ピンクにオレンジのチーズを量り売りする
店や、何が何やさっぱり分からない三十種類の香辛料を売る店、定
番の肉や魚の燻製や、籠に入った青い鶏やその卵を売る店など、食
材系の店も多い。
勿論、出来立てのパン︱︱パンは﹃パニーナ﹄と言うらしい︱︱
やサンドウィッチ、熱々のスープを出す店や、大きな鉄板で謎肉を
焼いて出す店、色々な種類の串焼きや揚げたてのドーナツもどきを
売る店など、惣菜系もある。
︵バターロールサイズのパンが一つ15ロッカ、食パンみたいのが
三十センチ一斤で130ロッカ⋮⋮うん、分からん︶
人々が此処で使っている硬貨は、結構多い。
じろじろと露店のやり取りを観察した結果、5、10、50ロッ
カはアルミに似た軽い銀色硬貨、100、200、500ロッカは
十円玉くらいの重さの赤色硬貨、1000、2000ロッカは五百
円大の青色硬貨だった。
ちなみに五千ロッカは金色、一万ロッカは中心が金色で外円が銀
色の二重円だが、露店で使う人は滅多にいないようで、受け取った
125
店主はしばらく硬貨のチェックをしていた。
︵⋮⋮シエルさんのお財布の中身、殆どが金と二重円なんですけど︶
家を出る前にチェックした限りでは、そうだった。かろうじて青
が数枚あったような気がする。それがどの程度の価値に当たるのか
まだ分からないが、決して少なくないことだけは理解した。
︵まあ、そもそも家政婦雇うぐらいだしなあ。深く考えるのは止め
よう︶
伶は居心地が悪くなりそうな推測を打ち切り、現実的な腹具合の
心配に戻った。
家の管理人プラス料理人として雇われたのだから、その本業は全
うしなくてはいけない。今日の夕食はそのお披露目だ。気合を入れ
なくては、シエルに﹃何故料理が出来ない料理人をわざわざ連れて
来たんだ﹄という疑問を抱かせてしまう。
︵私、そんなに料理上手ってわけじゃないんだけどな⋮⋮︶
料理は出来る。
だがそれが見栄え良く、なおかつ凄く美味しいかと言われると、
何とも言えない。その程度の腕前だった。
﹁いや、でも、この世界の調味料とかが性に合うかもしれないし﹂
伶は暗い気持ちを頭を振って脳から追いやると、この世界の食べ
物を知るために露店めぐりを再開した。
そして十五分後、彼女は麺をもりもりと食べながら、目の前にい
126
る一本角の牛を見つめていた。
横を見れば、黙々と麺を打ち、窯で茹でるおじさん達が汗を滲ま
せて働いている。
中年男性は相棒が打った平麺を釜茹でし、豪快にぶつ切りされた
各種野菜を煮込んだ、ホワイトシチューのようなスープに加える。
隣のお店で、焦げ目がつくまでとろりと焼かれたチーズをそのスー
プの上に乗せて蓋をし、最後にバジルに似た芳香を放つ赤い香草を
散らして完成だ。薄い陶器に入れて伶に渡されたそれは、お値段な
んと400ロッカ。高いかどうかは分からないが、伶は満足だった。
スープに入っている、八百屋の露店で見た﹃ポッテ﹄はやはりじ
ゃがいもに近い味だが、食感は里芋に近い。スープだけでも美味し
いが、乗せられたチーズを平麺に絡めて濃厚な味を楽しむも良し、
柔らかいが噛み応えのある謎の肉や、その味が染みわたったほくほ
く野菜を味わうも良し。気分的には大満足だ。
目の前の牛もどきがこの白色の出所らしいので、やはりこの生き
物は牛なのだろう。明らかに﹁メェエ∼﹂と鳴いているように聞こ
えるけれど。
今日の夕食はこのスープを参考にしようかなと、伶は思った。
﹁え、お酒は売ってないんですか?﹂
そして材料を買い回っていると、香辛料屋の店主にそんなことを
言われた。
ここ
﹁そうなのよ。王都は人が多いでしょ。自然と酔っ払いも多いし、
そんな人達に広場や公道を荒らされても困るじゃない? だからお
酒類は酒場でしか手に入らないのよー﹂
モゥイ
砂糖とハーブミックス、王都で人気らしい甘めのカレー粉に似た
香辛料の三瓶を受け取りながら、伶は困った。あの一角牛は煮込み
127
料理にうってつけだが、酒での臭み消しが必須らしい。
既に両手にはサラダとバケットサンド、例のスープに必要な材料
を買い込んでおり、後は酒だけなのに非常に困る展開だ。
﹁ちなみに酒場って、此処から一番近い所だとどの辺りでしょうか
?﹂
伶がそう尋ねると、店主の女性は﹁そうねぇ﹂と数秒考え込んだ
後、シエルの家の方角を指さした。
﹁確かこっちに一つあるはずよ。通りに面した壁が全部木で出来て
るから、見逃さないと思うわ﹂
店主の言葉に、伶はその店の前を通ってきたことを思い出す。看
板もメニュー表も出ていなかったが、恐らくはそこのことだろう。
﹁分かりました、行ってみます﹂
﹁酒場は変な人もたまにいるから気を付けてね。あ、これ一つおま
け﹂
﹁うわ、可愛い! ありがとうございます、また寄らせて頂きます﹂
ハートの形をした瓶の飾り蓋をもらい、彼女は店主にお礼を言っ
てその場を後にした。
* * *
殆どが白壁で作られている家々の中で、木の壁というのは非常に
目立った。
128
その酒場は交差点の角に出来ており、隣の煉瓦造りの建物はどう
やら宿屋らしかった。
酒場と宿屋。基本に忠実な組み合わせだな、と伶は思った。
看板がないせいで少し立ち寄るのを躊躇した伶だったが、近付い
てみれば中からそこそこの喧騒が聞こえてくる。何もないと思って
いた壁には、一部ブラインドのように傾斜がついており、換気口に
なっているようだ。中が覗けはしないが、グラスの音や人々の話し
声が聞こえてくるので、恐らくここが酒場で間違いないだろう。
それでも、少しドキドキしながら扉を押すと、中からむっとした
熱い空気が飛び出してくる。
﹁︱︱わお﹂
思わず謎の声を漏らしてしまうくらい、伶は目を見開いた。
中はまるで洞窟のように、石の壁、石の床、石の天井で出来てい
た。照明は黒いランプの中で灯る黄色の光だけで薄暗く、あちこち
に置かれた樽や木の机や椅子が、様々な影を作っていた。
それでも店内は、呑み仲間が分からない程暗くはない上、各テー
ブルの上には小さなティーライトキャンドルが置かれている。煉瓦
色と白石の内装は意外にも可愛らしくさえ見え、伶はたちまちこの
店を好きになった。
程よい暗さは何だか安心するし、プライバシーは保たれる。此処
で呑むのは、何だか内緒話をしているようで楽しいだろうなあと、
伶は感じた。
実際、時間帯のせいで客数は多くないが、皆が皆楽しそうにグラ
スを交わしている。
﹁いらっしゃい﹂
笑みを浮かべて左右を見回していると、店の中から声がかかった。
129
入ってすぐ右は一メートルくらい壁になっているが、その先は横
にカウンターが広がっている。頭上には木の張りが伸び、そこにグ
ラスが逆さまに飾られていた。
そのカウンターから、髪をオールバックにして一つに纏めた女性
が顔を出している。
白銀の髪を持つ背の高い女性は、恐らく年の頃三十前後。少しき
つそうな顔つきの割に、優しそうな微笑みが印象的な美人だ。
﹁こんにちは﹂
伶が女性の傍まで行って声をかけると、女性は磨いていたグラス
をカウンターに置いて笑みを深めた。
﹁こんにちは。こちらは初めて?﹂
﹁はい、引っ越してきたばかりで。⋮⋮素敵なお店ですね﹂
﹁あら、ありがとう。店主も喜ぶわ﹂
そう言って綺麗な紅色の唇で笑う女性は、同性の伶から見ても美
しかった。
﹁料理に使えそうなお酒って、置いてありますか?﹂
﹁勿論。肉料理に合う赤、魚料理に最適な白、少し香りでは劣るけ
れど隠し味には最適の緑とあるけれど﹂
﹁緑!?﹂
思わず伶は声を上げた。赤と白は分かるが、酒で緑と言われると
は全く予想していなかった。
そんな彼女の様子に、女性がくすくすと笑う。
﹁王都以外では珍しいかもしれないわね。綺麗な緑色のお酒だけど、
130
熱が加わると無色になるの。肉にも魚にも合うけれど、あまり味が
残らないところは少し残念かしら﹂
聞いてみると、日本の料理酒に近いような気もする。使い勝手は
良さそうだし、何より見てみたい。
﹁じゃあ、緑でお願いします﹂
﹁分かったわ。取って来るから少し待っていて﹂
店員の女性はそう告げ、カウンターの奥に向かって歩いて行った。
伶が両手の荷物を通行の邪魔にならない辺りの床に置き、その間
きょろきょろと店内を見回していると、店の奥から人がやって来る。
身長170少しのその中年男性は、昼を少し過ぎた時間だと言う
のに既に赤ら顔をしていて、酒の匂いを漂わせている。彼があまり
に近くに来たせいで、伶は口を閉じて、道を譲ろうとカウンターに
身体を寄せた。
だが男は伶のすぐ横まで止まると、露骨な視線を彼女の全身に送
ってくる。
﹁⋮⋮何でしょうか?﹂
伶が警戒しつつも、一応笑顔で尋ねると、男は下卑た笑みを浮か
べて彼女の肩を掴んだ。
﹁可愛らしい御嬢さん、今日一晩、どうだい?﹂
一瞬脳が思考を停止した後、すぐに内容を理解して伶は顔を顰め
る。二日連続で似たセリフを言われるとは、呪われているのだろう
か。美人でもないし化粧だってほぼ落ちている。この男は酔い過ぎ
て樽だってセクシー美女に見えるに違いないと伶は思った。
131
﹁用事があるので、無理です﹂
﹁おいおい、田舎出の娼婦のくせにお高くしてんなよ﹂
﹁はあ?﹂
酒臭い男に言われた言葉が理解できず、伶は思わず野太い声でそ
う返した。
﹁そんな短い服で誘っといて、それはないんじゃねえの?﹂
男は彼女の反応を気にも留めず、ストッキングがないせいで剥き
出しになった彼女の膝に手を伸ばす。
﹁やめ︱︱﹂
近付いてくる男に、伶が反射的に両手を突き出したところで、突
然店の扉が開いた。
扉を開けたまま、目を丸くして男と伶を見比べているのは、ゆっ
たりとした薄水色の長いフード付きワンピース︱︱雨合羽を布製に
したようなもの︱︱を纏った女性だった。薄紫色の長い睫毛で飾ら
れた目を驚きに見開いて、二人を見ている。
﹁ええと⋮⋮そういう性的趣向ですか? 屋外で愉しむ的な?﹂
﹁違います、痴漢!﹂
プレイ
存外に低めの声を発して、伶の置かれた状況を性的趣向と言った
女性に、伶は大声で否定した。
﹁つまり合意ではないと。では、お止めなさい、みっともない﹂
132
伶の否定を受け、ふんわりとした笑顔でフードを被った女性は男
に言い放った。
当の男はけなされて逆上するかと思いきや、先ほど以上にモザイ
クをかけたくなる笑みを浮かべて、女性に近寄って行く。
﹁なんだ、だったらアンタが相手してくれるってか? いいねえ﹂
男は伶から離れふらふらと女性に近寄って行くが、女性は顔を不
愉快そうに顰めただけで逃げたり叫んだりはせず、その場に佇んで
いる。
どうしよう。
伶は猫背で歩く男の後ろ姿と、冷めたような表情で動こうとしな
い女性を見比べて迷う。
どうして彼女は動かないだろう。どうして逃げないだろう。そう
思っていても、女性は一向に動く気配がない。その間にも酔っ払い
の男が彼女を掴もうとして。
﹁︱︱っ、やめなさいよ、この変態⋮⋮!﹂
気付いたら、伶は男の股間を背後から蹴り上げていた。
﹁︱︱!!﹂
男が、言葉にならない声を上げて蹲る。
伶の心臓は自分の行動に恐ろしいくらい早鐘を打っていて、息を
荒げながら男を見下ろしていた。だがすぐに自分の仕出かしたこと
を認識すると、弱気な表情を浮かべて顔を上げる。
そこでは、女性が何度も目を瞬かせながら伶を見つめていた。
﹁て、てめえ⋮⋮っ!﹂
133
男が、唸るような声を上げながら身じろいだことで伶はハッとし、
女性の手を掴んで外に逃げようとした。
しかし意外なことに、伶の力でも女性はぴくりとも動かず、逆に
伶の手を握りしめた。女性の向こう側では、男が射殺すような目で
二人を睨み付けながら、立ち上がろうとしていた。
﹁に、逃げましょうよ!﹂
﹁大丈夫ですよ﹂
思い切り腕に力を入れて女性を動かそうとする伶に、女性は花が
綻ぶような笑顔を見せた。
女性が店内に顔を向けると同時に、酔っ払いの男が狂ったような
形相で女性に殴り掛かった。女性は表情を少しも動かさずにそれを
待ち構えると、彼女の顔に男の拳が触れる寸前で、蠅を振り払うよ
うに右手で男の腕を横から弾いた。突然身体を左に振られた男は体
勢を崩し、彼女に倒れ込む。
しかし女性は軽く男をかわすと、男の後頭部に思い切り手刀を打
ち込んだ︱︱と、伶は思った。
だが実際には、女性が手刀を喰らわせたと思った瞬間、バヂッと
いう鈍い音と共に辺りを閃光が埋め尽くした。
﹁な⋮⋮﹂
チカチカする目を擦りながら、何とかマシになってきた時に伶が
見たものは、口から泡を吹いて倒れる男と、それをにこやかに見下
ろす女性の姿だった。
伶が何も言えずにいると、女性が振り返って首を傾かせる。
﹁大丈夫ですか?﹂
134
﹁え、あ、はい、大丈夫ですけど。⋮⋮あなたは大丈夫、ですか?﹂
﹁ええ。ご心配頂き、ありがとうございます﹂
色々言いたいことはあったが、晴れやかに笑う女性を前に、伶は
大人しく口を閉ざした。
﹁ヨルト様! 一体何の騒ぎですか!?﹂
すると店の奥から、先ほどカウンターにいた美人が慌てて駆け寄
ってきた。形相を変えて二人の前で止まった美人に、ヨルトと呼ば
れた女性は﹁ふふ﹂と笑いかける。
﹁こちらの女性が痴漢に絡まれていたので、共に撃退しただけです﹂
﹁え?﹂
﹁痴漢!?﹂
ヨルトの放ったセリフに虚を突かれた伶が変な声を上げると、店
員の女性が伶の両手を思い切り掴んで口を開いた。
﹁店内で痴漢だなんて⋮⋮っ、すみません、本当にごめんなさい!﹂
﹁え、いえ、私は大丈夫なので⋮⋮﹂
いきなり至近距離で謝られ、伶はただ首を横に振った。店員の女
性はそれでも気が済まないとばかりにずっと謝罪を口にしており、
伶としては非常に居たたまれなくなる。
そんな二人の様子を、ヨルトは微笑ましそうな目で見てから、男
の襟首を掴んで持ち上げた。決して小さくはない男を、ヨルトは平
然と片手で引きずって店から出て行こうとする。
﹁あ⋮⋮えっと、ヨルトさん!﹂
135
両手を店員に掴まれたままの伶がヨルトを呼び止めると、ヨルト
は男を掴んだまま振り向いた。
﹁あの、助けて下さってありがとうございました﹂
店員に掴まれたままなので伶がその場で頭を下げると、ヨルトは
軽く目を瞬かせてから、ふうわりと笑った。そのまま、胸に片手を
当て、優雅な動作で上半身を倒す。
﹁こちらこそ、騎士団にご協力頂き感謝致します﹂
顔を上げたヨルトは、思い出したように﹁あと﹂と付け加えると、
悪戯を思いついた子供のような笑みを伶に向けた。
﹁私の方も、助けて頂いてありがとうございました﹂
そして後は振り返らず、気を失った酔っ払いの男を片手で引きず
ったまま立ち去って行った。
伶の方はと言うと、そんなヨルトの後姿を、まだ事態を把握しき
れない状態のまま見送り、謝罪する店員を宥めなければならなかっ
た。
その後、店員にお詫びだと渡された緑色の酒を買い物袋に加えて、
帰路に着いた。﹃騎士団﹄という単語を口にした女性について考え
ながら。
︵⋮⋮シエルさん、あの人の事知ってるかしら︶
彼が帰ってきたら、あの怪力癒し系美人について尋ねてみようか
と思った。
136
137
10. 家とあなた
帰宅後、伶はまずキッチンの掃除を始めた。
もっとも、キッチンは全く使われていないし洗剤もないから、水
拭き程度しかしていない。
次にソファの置かれたリビングと廊下を軽く掃き︱︱さすがに箒
は一本だけだが物置部屋にしまわれていた︱︱テーブルを拭く。窓
も気になりはしたが、シエルの帰宅は夕方だし、と明日に回すこと
にする。
浴室やトイレはさすがに使われているだけあって埃などは溜まっ
ておらず、トイレの便座は拭き、浴室は浴槽だけ磨いた。
その後は、ひたすら調理である。
調味料を少量舐め、買ってきた野菜︱︱基本的に全て生でも食べ
られるとのこと︱︱を一口ずつ味見する。気分はウサギだった。大
体の野菜は見た目通りか、少なくとも日本の食べ物に近い味がした
パニ
が、ズッキーニに似た食べ物は南瓜並みに甘いゴーヤみたいな味が
して、伶は次は買うまいと思った。
ーナ
夕食は、サラダに例のホワイトシチューもどき、バゲット型のパ
ンに燻製肉とレタスもどき、自家製ピクルスを挟んだものにする予
定なので、あまり難しくはない。初日くらいは許してほしい。
サラダはシエルの帰宅少し前に作ればいいし、燻製肉は切り落と
キャディッシュ
しの物を買ってきた。ピクルスはベトナム風に、ピンク色の大根と
|にんじんの味をした大根、玉ねぎを甘酢液に漬けておく。これは
コリメ
彼の好みで普通の野菜に置き換えてもいいと思っていた。漬物代わ
モゥイ
りの箸休めにもなるし。
一角牛の近くの露店で、﹃だし玉﹄なる物を売っていたので、コ
138
ンソメの代わりに投入すればシチューは多分大丈夫だろう。
コンロは少しだけ使うのに苦戦した。
調理台には蚊取り線香を連想させる渦巻き型の電熱線が三個ある
だけで、側面に点火スイッチがない。どうしたものかと唸っている
と、透明な水晶が各電熱線の前に埋め込まれていることを発見した。
恐る恐る伶が触れると、ただの装飾かと思っていたそのうちの一つ
だけ徐々に赤く光り、同時に電熱線が熱を持った。
他の二つが動かないのは後でシエルに確認しなければいけないが、
ひとまずは加熱調理が可能になった。
そうやって早めに料理を終え、伶はシエルの帰りを待っていた。
部屋が夕焼けの赤で染まり始める頃、シエルが姿を現した。
何だか疲れているような表情を浮かべているが、やはり体調が万
全ではないのだろうか。そんな心配をしながら、伶は玄関の扉を開
けた彼に駆け寄る。
﹁おかえりなさい、シエルさん﹂
﹁! あ、はい。只今戻りました﹂
シエルは一瞬驚いたような顔をした後、ばつが悪そうな微笑みを
浮かべた。
彼は出て行ったとき同様、紺色の上下を着ていたが、腰にはこげ
茶色のベルトが巻かれ、そこに大ぶりの剣を差していた。
︵⋮⋮よく考えてみたら、﹃剣と魔法﹄の世界なんだよね、ここ︶
剣をじっと伶が見つめていると、シエルが﹁気になりますか﹂と
尋ねた。
139
﹁あ、すみません。見慣れないもので、つい﹂
﹁エルメは確か正規の兵がいませんでしたね。比べると、王都は余
程物々しく感じるでしょう﹂
そう言われても、彼女は隣町だとか言うエルメの町など、何一つ
知らない。誤魔化すように﹁あはは﹂と笑って、伶はとりあえず今
日の成果を報告することにする。
﹁えっと、掃除は今すぐ使う所だけで申し訳ないんですが、軽く済
ませてあります。お夕食の準備はあと一品で終わりなんですけど、
お風呂の入れ方は分からなくて、準備が出来ませんでした。⋮⋮す
みません﹂
彼女が最後は尻つぼみになって言い切ると、シエルは無言で彼女
の顔を注視する。
︵何だろう、﹃家政婦失格だ!﹄とか言われるのかな︶
よく考えれば、もっと掃除も出来たかもしれないし、お風呂も入
れられたかもしれない。首になる恐怖に少し身を強張らせていると、
シエルが軽く首を横に振る。
﹁いえ、まさかいきなりそこまでして頂けると思わず、驚きました。
今日くらいはゆっくりして頂きたかったのですが⋮⋮こちらの配慮
が足りず、申し訳ありません﹂
その眉を少しだけ寄せた表情は何かを気に病んでいるようで、そ
んな気を遣わせた伶こそ﹁すみません﹂と再度謝りたくなった。し
かし実際に謝罪を口出すより前に、シエルが一転、穏やかな微笑み
140
を浮かべて続ける。
﹁貴女こそお疲れでしょうに、ここまでして頂きありがとうござい
ます。とても助かりました﹂
そう言われて、伶は緊張していた肩から力を抜いた。
その様子にシエルは軽く温かな息を漏らすと、暗い部屋に気が付
いたのか、天井にぶら下がっている飾り気のあまりない、しかし繊
細な彫り物がなされた五連のシャンデリアに手を伸ばした。彼が照
明に手を触れると、それだけで部屋に薄く黄色がかった光が灯る。
︵はー⋮⋮何でもワンタッチ。意外に便利だな﹃剣と魔法﹄の世界︶
伶がぼうっと光を放つ照明を見上げていると、シエルが家の奥へ
と手招きする。
﹁夕食には少し早いと思いますので、よろしければ中の説明をさせ
てください﹂
﹁あ、はい、お願いします!﹂
ぎせき
シエルはそうして家の中の各種道具の使い方を説明してくれた。
基本的には﹃技石﹄と呼ばれる水晶に触れれば、中に溜まった魔
力をエネルギー源として熱や光を発生させるらしい。つまり、技石
とは電池代わり。電力の代わりに魔力を使ってこの世界は発展して
きたのだろう。
﹁水に関しては、井戸から予め使用する分の水を専用の樽に汲み上
げておく必要があります。これは中々力が要りますから、私が朝の
うちに済ませておきましょう﹂
﹁え、いえいえやります。大丈夫です。これでも力は結構あるんで
141
すよ﹂
浴室の給湯装置︱︱水をくみ上げる技石と温める技石が付いてい
る︱︱の説明を受けながら、伶が力こぶを作って二の腕をパンッと
叩きつつそう言えば、シエルは彼女の腕をしばし見た後微笑んだ。
﹁それは頼もしい。ですがこれも鍛錬になりますから、させてもら
える方が助かります﹂
約二日分の疲労を見せない眩しい微笑みでそう言われては、伶と
しても引き下がらざるを得ない。
﹁じゃあ⋮⋮お願いします。でも、やり方だけは教えて頂いても良
いですか?﹂
﹁勿論です。トルカにも紹介しなければいけないと思っていました
から、少し外に出ましょうか﹂
一瞬﹁トルカ?﹂と思った伶だったが、そう言えば昨夜の﹃シエ
ル﹄があの白馬を差してそう呼んでいたことを思い出す。
泥払いのマットが敷かれた裏口から庭へ出てみれば、一つだけ小
さなランプが付けられた納屋へとシエルが彼女を導いた。
﹁トルカ﹂
トルカ
彼がそう言うと、馬具を外された白馬が、もしゃもしゃと草を食
む作業を止めて顔を上げる。優雅な動作で柵の上から顔を出すと、
シエルの前で少し顔を下げる。撫でやすいように取られたトルカの
姿勢に、シエルは自然な流れで愛馬の鼻先に手を滑らせる。
﹁レイさん、これはトルカ、私の相棒です。トルカ、今日からここ
142
で働いて下さるレイさんだ﹂
伶が日本人の習い性で反射的に頭を下げると、トルカはじっと彼
女の顔を感情の見えない黒い瞳で見つめた後、ブルルと息を吐いて
納屋の奥へと戻ってしまった。
﹁ええと⋮⋮嫌われたんでしょうか?﹂
再び草を食む作業に戻った白馬を見て肩を落とせば︱︱動物に嫌
われると何故結構なショックを受けるのか︱︱シエルが苦笑を浮か
べながらフォローする。
﹁トルカは警戒心が強いんです。十年来の付き合いがある私の同僚
にも、同じ態度を取りますよ﹂
﹁そ、そうですか。⋮⋮良い相棒なんですね﹂
彼女がそう言うと、シエルは一瞬きょとんとしてから、本当に嬉
しそうな笑顔を見せた。
﹁︱︱はい、自慢の相棒です﹂
思わず胸を押さえそうになった伶に、シエルは優しい笑顔で﹃相
棒﹄を眺めながらそう言い切った。
今朝、彼女に突き付けた剣を下ろしてからのシエルは、ずっと彼
女に対し年長者に相応しい紳士的、悪く言うなら事務的な態度を見
せていたが、今の彼は心の底からの笑みを浮かべているように感じ
られた。
︵ここまで美形な人の純粋な笑顔って、太陽を直接見るようなもん
だわ⋮⋮荒れた心がすんごい痛む︶
143
薄目になりながらそんなことを伶が考えていると、シエルが﹁こ
ちらが井戸になります﹂と納屋の後方へ歩いていく。
慌ててついて行けば、家の壁に寄り添うように、ワインセラーで
見るような巨大な樽が置かれていた。その横には二本ほど太い筒が
立てかけられている。目を少し前へと向ければ、両手で持ち手を上
下させる手押しポンプ付きの井戸があった。
何でも技石で済ませてしまうのに、水の汲み上げは手動なんだな
と伶は不思議に思ったが、それがこの世界の常識であった場合を恐
れて尋ねはしなかった。
﹁樽に水を入れる場合は、この筒を組み立てて両者を繋げます。今
は四分の一ほど入っていますが、一日分なら二人でも半分ほど汲め
ば十分です﹂
﹁なるほど、結構たっぷり入るんですね﹂
シエルが樽の蓋を持ち上げてくれたので、伶はつま先立ちで中を
覗き込みながら呟いた。たとえ半分だとしても、これほど大きな樽
に水を溜めるのは中々の重労働だろう。シエルがかって出てくれて
助かったかもしれない。
その後は冷えると困るからと二人で室内に戻り、シエルが浴室の
準備をしてくれている間に食事の準備を終わらせることにした。
﹁⋮⋮机、休みの日にでも購入してきます﹂
ダイニングテーブルのような物はないため、ソファの間にあるコ
ーヒーテーブルに食事を並べていると、シエルがぼそりと呟いた。
彼女はともかく、彼のように身体の大きい男性が、身を乗り出しな
がらローテーブルに向かう姿は﹃辛そう﹄の一言に尽きる。
144
︵ちょっと可愛いけど︶
大型犬が待てをしている姿を連想して、にやっと声なく笑った伶
だったが、ふと今まではどうしていたのかと疑問に思い、彼の前に
サラダを取り分けながら口を開いた。
﹁今まではこれで問題なかったんですよね? でしたらこのままで
も私は構いませんけど⋮⋮﹂
﹁いえ、正直なところ、今までは寝に帰って来るだけでしたので、
不便さに気付いていませんでした﹂
﹁え? こんな素敵なお家なのにですか?﹂
酸味のある果物の果汁を混ぜたオイルと胡椒のドレッシングを振
りつつ、伶は首を傾げた。こんな立派な一戸建てを首都に持ってお
きながら、各部屋の調度品のなさや埃の溜まり具合はそういうこと
かと納得もしたけれど。
シエルは、彼が買ってきた果汁飲料をこの家にあるたった二つの
マグに注ぎながら、彼女の疑問に答える。
﹁以前は騎士団寮に住んでいたんです。ですが上司に﹃立場に見合
った場所に住め。上で働く人間がそんな質素極まりない生活をして
ると下で働く奴らの勤労意欲が削がれる﹄と言われまして⋮⋮。丁
度家を手放す知人もいましたから、此処に越してきました﹂
﹁ああ、どうりでシエルさんの体格には合わない、椅子とか机とか
置いてあると思いました﹂
﹁整理するのが面倒で、家具類は前の住人が残していった物を殆ど
動かしていませんから﹂
綺麗に整えられている割に生活感のない家だと思っていたが、ど
うやら調度品の類は全て引き継いだ物で、彼自身の物と言うのは少
145
ないのだろう。部屋には持ち主の性格が表れるが、モデルルームの
ようにこの家にはそれが感じられなかった。本人が関わっていない
のだから、当然だ。
﹁でも、食事はどのように?﹂
﹁街や騎士団寮の食堂で済ませていました。健康に悪いと医者には
散々説教されましたよ﹂
ふむふむと頷きながら伶は食事を全て二人の間に並び終え、彼女
がソファの手前に腰を下ろしたのを合図に食事が始まる。
彼女は﹁いただきます﹂と呟き、シエルは目を閉じて軽く片手を
胸に当ててから、カトラリーに手を伸ばす。
﹁口に合わなかったら言ってくださいね。ご指摘いただいた方が、
次回から直せますから﹂
伶がそう言うと、シエルは生真面目にもまず全ての品に一口ずつ
手を伸ばし、しっかり咀嚼してから﹁美味しいです。ありがとうご
ざいます﹂と微笑んだ。
伶はそんな彼に、真面目だなあと思いながら笑い返した。
しばらく彼女にとっては意外にも苦にならない沈黙の中で、二人
は食事を続けていたのだが、途中で彼は自分の目線よりもかなり下
にある食卓を見つめながら、言葉を発した。
﹁やはり、何か用意します﹂
﹁? ⋮⋮ああ、机のことですか?﹂
伶が言葉を足せば、シエルは重々しく頷いた。
誰がどう見ても、ガタイの良い男性が高さ五十センチにも満たな
いテーブルに屈みこんでいたら、苦笑い以外の表情は浮かべられな
146
いに違いない。にやけてしまう彼女に対し、シエルは真面目な表情
を崩さない。
﹁たまに寄る友人達にも﹃この家は明るい洞穴だ﹄﹃持ち腐れだ﹄
と文句を言われていましたから、丁度良い機会です。自分のみだと
どうしても面倒になりますが、レイさんのこともあると思えば重い
腰も上がるというものです﹂
名案だと言うように深く頷く彼の様子に、伶は遠慮しようとした
口を一度閉じて、笑みを作る。
﹁ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、何か必要になった
らお願いしますね﹂
﹁はい、いつでもどうぞ﹂
満足そうに頷くシエルを見つつ、伶はくすりと笑みをこぼした。
それに気付いたシエルが、どうしたのかと目で尋ねてくる。
﹁シエルさんも、面倒だとか思うんですね﹂
まだ、この﹃シエル﹄と交わした言葉はとても少なく、もう一方
の彼と共にした時間の方が長い。だが、ここまで会話から、彼がと
ても生真面目でお堅い人間だと言うのは分かったつもりだ。だから
こそ、億劫だとか面倒といった言葉は彼と結びつかなかった。
カミソリ
﹁常日頃ですよ。掃除や髭剃り、書類仕事⋮⋮誰かが替わってくれ
ないかといつも思います﹂
﹁髭剃りはさすがに無理ですよね。他人に凶器を持って近寄られた
ら、私なら引っぱたきます﹂
147
シュッとビンタの形で素振りをすると、シエルが真面目な表情を
少し崩して口角を上げた。
﹁朝は、貴女を避けた方が良さそうですね﹂
﹁そうしてください。叩くのは枕だけで十分ですから﹂
全く知らない人に起床時の話をする。改めてこの不思議な状況を
思い、伶は奇妙な感覚に襲われた。
非現実的。それでもこれが彼女の現実。
変な食材と調味料を使い、よく分からない装置で作った名も知ら
ぬ料理。それらが急に遠くに見え、本当にこれは私の現実なのかと
伶はぼうっと目の前に置かれた白いパンを見る。
﹁︱︱レイさん?﹂
﹁っ﹂
彼女の様子をおかしく思ったのか、シエルが声に僅かな強張りを
滲ませて彼女の名を呼んだ。
﹁あ⋮⋮すみません。少しぼうっとしてしまいました﹂
﹁大丈夫ですか? やはり疲れが溜まっているのでは﹂
シエルが声に心配そうな響きを混ぜて彼女を見つめてくるので、
伶は慌てて首を振った。
﹁平気です。ただちょっと⋮⋮﹂
どう答えるのが一番なのか伶には思い浮かばず、結局最適解を求
める努力を放棄した。
148
﹁シエルさんが家具とかを見に行くなら、買い物について行きたい
なと思っただけです﹂
軽く言った伶だったが、今度はシエルが急に沈黙し、はてと首を
傾げた。ただの会話の切れ目であれば彼女も流すだけなのだが、相
手は眉を僅かに寄せている。
﹁買い物、ですか﹂
﹁? 何か、不都合でも︱︱あ、勿論荷物持ちでも何でもしますよ﹂
伶の﹃荷物持ち﹄という言葉を聞くと、シエルは一瞬呆けた表情
を見せた後に苦笑を浮かべる。
﹁女性にそんなことはさせられません。ただ⋮⋮﹂
シエルは一旦そこで言葉を切ると、やけに真剣な表情で付け加え
た。まるでキリッという効果音が背景に見えそうな程、その眼差し
は鋭かった。
﹁︱︱女性と二人きりで出かけるというのは、騎士としてどうなの
かと﹂
またかよ、と伶は思った。
無駄に凛々しい、目の前の美丈夫に見つめられながらも、開いた
口が塞がらなかった。
︵今時、中学生でもそんなこと疑問に思わないでしょ⋮⋮武士とか
何かですか、この人は。ああ、騎士か︶
彼女からしてみれば時代錯誤とも言える考えに、伶は正直呆れて
149
しまった。だが、もしかしたらこの世界では常識なのかもしれない。
日本だって男女七歳にして、が﹃常識﹄だった時代もあったのだ。
﹁ええと、騎士の方にはそうした規則があるんですか? 夫婦でも
ないのに一緒に歩くなんてけしからんとか、そういう類のものが?﹂
﹁いえ、そういうわけではありません﹂
︵ですよね︶
市場には、普通に若い男女が歩いている姿も見かけたし、道案内
をしてくれた男性騎士も、伶を伴うことに必要以上の遠慮は見せな
かった。
しかしシエルの方は、真剣に葛藤︱︱と言うほど深刻でもないが
︱︱しているようだ。
ここまで悩まれると、ただの思いつきですとも言い出しづらい。
だが何か新たな検討材料を投下しなければ、彼は一晩中悩んでいる
かもしれない。
﹁あの、やっぱり一人で見てきますので、お気になさらず﹂
﹁家具屋が開くのは夕方からです。そんな時間に女性を一人で歩か
せるわけにはいきません﹂
﹁⋮⋮じゃあ、ついて行ってもいいですか?﹂
﹁しかし恋人でもない女性と二人というのはやはり﹂
完全に堂々巡りになっている。
ここで諦めてもいいのだが、それでもいつかは家具や調度品が欲
しいと思うこともあるだろう。何より気になるし、シエルの身体に
合わせた家具など買われたら、間違いなく伶は椅子とか高すぎてか
かとが床に着かなさそうだ。ここは何とか一緒について行きたいと
ころ。
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︵でも、頑固そうだしなぁ⋮⋮︶
伶はこっそりと大きなため息をつくと、中身の大分減ったシエル
のマグに果汁飲料を注ぎ足しながら言う。
﹁︱︱シエルさんは、騎士のお仕事中でも女性と二人で歩いたりし
ないんですか?﹂
伶は今日通りすがりの若い騎士に道案内をしてもらったことを話
した。するとシエルは、平然とした表情で答えを返す。
﹁勿論しますよ。﹃民を助くこと以って騎士となす﹄が我々の理念
ですから﹂
﹁では、お仕事中だと思えば問題ないのでは?﹂
伶が空になった瓶を抱えていると、シエルが疑問符を浮かべたよ
うな表情で口を開いた。
﹁貴女と出かけるのは仕事ではありませんから﹂
﹁いや、例えばそう考えればという話で﹂
﹁貴女との時間は、個人的なことです。仕事は関係ありません﹂
﹁⋮⋮﹂
あまりにも融通の利かない男を相手に、伶は本気でキーッと叫び
たくなった。大体、言い方が何だか卑怯だ。深読みし放題で何だか
反論しづらいではないか。三十代一歩手前の枯れっぷりを舐めるな
と言いたかった。
﹁⋮⋮分かりました。じゃあ子供で。女だと思わなければいいんで
す。子供だと思ってください﹂
151
投げやりにそう言ってみれば、相手は怪訝そうな表情を浮かべて
言い返す。
﹁貴女のように女性らしい女性を前に、どうやって子供と見ろと﹂
﹁っ!﹂
自分でも、一瞬で顔に熱が集まったのが分かった。
そんな彼女に対して、シエルは﹁レイさん? 顔が﹂と追い打ち
をかけてくる。
伶は無言でその場に立ち上がると、飲み物の入っていた空き瓶を
抱えて台所へと足早に向かった。
︵︱︱分かった。絶対この人、無意識に女同士の争いを作り出すタ
イプだ⋮⋮!︶
美形からの素直な賛辞。
誤解する女性を作りまくる、職場ではやりにくい事この上ないタ
イプであり、彼女が非常に苦手とするタイプだった。
もっと若かったり美人だったりすれば、賛辞を素直に受け入れら
れるのだろう。しかし、それが出来ないからこそ、彼氏なしのおひ
とりさま大満喫生活を送っていたのだ。くすぐったくて、顔が熱い。
食後にと買っておいた果物に力の限り包丁を叩き付け、伶は心を
無にしようと努力した。
﹁大丈夫ですか?﹂
ソファの前まで戻り、音を立ててマンゴー大のメロン系果物を置
くと、伶は﹁大丈夫です﹂と再度腰かける。一度謎の咳払いをして
から、彼女は口を開く。
152
﹁では、私がシエルさんについて行くのではなくて、シエルさんが
私について来てくれませんか? まだこの辺りのこと何も分かりま
せんし、市場で﹃変な人も多い﹄って言われたので一人だと少し不
安なんです。護衛して頂けると、大変助かるんですが⋮⋮﹂
捲し立てるように言い切ってシエルを見ると、彼はしばらく飲み
物を片手に考え込むと、﹁そういうことでしたら﹂とついに折れた。
﹁明日⋮⋮いえ、明後日に時間を作ります。出来るだけ早く帰宅す
るよう心がけますので﹂
彼にそう言われたが、彼女は突然疲労感に襲われた。
たかが一緒に買い物に行く約束を取り付けるだけで、どうしてこ
こまで疲れなければいけないのだろうか。
︵お堅いとか、そんなレベルじゃない⋮⋮。超合金レベルだ、この
人︶
綺麗な所作でメロンもどきを食べる男性の指を見ながら、本当に
この人が自分に触れたのだろうかと、疑わしい気持ちになった。そ
う考えると、彼に出会ってから彼女は動揺し続けで、対して彼は殆
ど動揺していない。
そう思うとなんだか目の前の美丈夫が小憎たらしく思えてくる。
あっという間に食べ終え、マグに口をつける相手をじっとりと睨
み付けながら、伶は自分の剥き出しになった膝を視界に入れてふと
思い出した。
﹁︱︱ところでシエルさん、私って田舎出の娼婦みたいですか?﹂
153
言った瞬間、ゴブッと飲み物を吹き出して、シエルが盛大にむせ
始めた。背中を丸めて、止まらない咳を続けている。
なんだどうしたと思い、擦ってもいいのかと中腰になる伶の前で、
シエルはどうに咳を収めると、だん、と音を立ててマグを机に置い
た。その目はなんだか据わっている。
﹁誰が、そんなことを?﹂
﹁誰って⋮⋮﹂
彼の表情は一見穏やかだが、明らかに怒りの色が浮かんでいる。
何故彼が怒っているのかは不明だが、ずっと平然としていた彼が
感情を大きく乱すのを見て、彼女は微笑んだ。
﹁内緒です﹂
にへらーと笑って、伶は綺麗に平らげられた食器類を片すべく立
ち上がった。
﹁レイさん? レイさん⋮⋮っ、誰ですか、そんな失礼なことを吐
いた輩は!?﹂
彼女の背中に向かって声を荒げる彼に、少し胸がスッとした彼女
だった。
154
11. 服を選んで事情聴取
翌朝、血の気が引く思いで目が覚めた伶は、直後少し埃っぽいベ
ッドを飛び降りた。
廊下へと繋がる扉へ駆け寄り、ふと自分がタオル一枚で寝ていた
ことに気がついて、慌ててベッドサイドの小さなテーブルにかけて
いた服を身に纏う。この服が今や三日目に突入したという耐え難い
状況も忘れ、伶は扉を開けると階段を転がりかねない速さで階下へ
向かった。
﹁や、やっぱり遅かった⋮⋮!﹂
ダイニングに雇用主の姿はない。
部屋の片隅にある棚に、彼の甲冑はなかった。耳を澄ませても家
から自分以外の物音は聞こえず、この家には彼女しかいないことが
分かる。
﹁寝坊した⋮⋮﹂
がくり、と伶はソファの肘掛けに座り込む。
太陽の位置的にそこまで遅い時間ではないのだろうが、寝坊は寝
坊。自己嫌悪に気が重くなる。
社会人生活長しと言えど、彼女は今まで純粋な寝坊で遅刻したこ
とはない。それは週に五日の生活リズムを何年と続けたおかげと自
負していたが、この瞬間にそれは、人類の偉大なる発明品、目覚ま
し時計を三つも使っていたおかげだったと証明された。彼女の部屋
に目覚まし時計はなかったのだから、この新たな生活でいつも通り
起きられるわけがなかった。
155
﹁ああぁ⋮⋮首になったらどうしよう。と言うか本気でごめんなさ
いシエルさん﹂
朝食の準備を忘れた自己嫌悪で肩を落とす伶だったが、そこで初
めてコーヒーテーブルの上に紙袋と小さな紙が置かれていることに
気が付く。ソファから離れてそれを手に取ると、小さな紙はメモだ
と分かった。彼女はこの世界の文字を読めないため、その内容を推
し測ることは出来ないが、メモを残した主はシエルだろうと見当が
つく。
解雇通知だったらどうしよう、と一瞬胃がきりりと痛んだが、も
う一方の紙袋の中身を見てそれを忘れた。
﹁良い匂い﹂
紙袋の中には、茶色の油紙で包まれた円筒状の物が一本入ってい
る。少しだけ甘みの効いたスパイスの香りと肉が焦げた匂い。まだ
僅かに温かいそれを手に取り油紙を剥くと、ナンに似た厚手の白い
生地に包まれた彩り豊かな野菜と焦げ目のついた肉、そこにかかっ
た蜂蜜色のソースが顔を覗かせた。伶はそれが、昨日広場で見かけ
たラップサンドだと思い当たる。
﹁すっごい美味しそうだけど、これはシエルさんが私に買ってきて
くれたのか、それとも自分に買っただけなのか⋮⋮﹂
メモにはこのラップサンドが残された理由が書かれているのだろ
うが、彼女には読めない。どうしようかと悩んだ結果、リビングの
角に置かれたゴミ箱を覗くと、同じ油紙が捨ててあった。おそらく
シエルが食べたもう一方の物なのだろう。
昨夜、昼食は騎士団で食べると言っていたことを考えれば、これ
156
は彼女に残されたものと推測できる。もしシエルが弁当代わりに買
ったものだったら、有り合わせで何か代替品を用意して許してもら
おう。伶はそこまで考えれ、ラップサンドを口にする。
﹁うまっ﹂
思わず言ってしまう程、肉汁の染み込んだ生地や新鮮な野菜、牛
肉のような食感をした肉は美味しかった。謎の肉は見た目は牛肉だ
が、味は鶏もも。厚手に切ったそれに軽く焦げ目を付け、ピリリと
僅かに辛味がついた甘酢ソースで絡めた具は、もっちりとした生地
によくあっていた。
おそらくは寝坊してしまった彼女の為に、わざわざシエルが買っ
てきてくれたラップサンドは、彼女の空っぽの胃と落ち込んだ心に
よく染み渡った。同時に彼の気遣いは、情けなさに染まった心に突
き刺さったけれど。
朝食を食べきった伶は午前中に掃除と昼食の準備を済ませ、シエ
ルの帰宅を待った。
しかし遠くから昼時を報せる鐘の音が響いてしばらく経っても、
彼は姿を見せなかった。どうやらあのラップサンドは昼用の取り置
きではなかったようだ。
少しだけ安堵の息をつき、伶は気を取り直す為に両腕を動かして
深呼吸する。
彼は昨日中に鍵を用意したらしいので、帰宅をただ待つ必要はな
い。夕食の準備と彼女自身の為、伶は外出することに決めた。
なお、この世界は、基本的に十日毎に給料が支払われるらしい。
色々必要な物もあるだろうから、とどう考えても多すぎる必要経費
と初給をシエルに渡された伶は、その一部をタオルで包んで風呂敷
バッグに入れ、家を出た。
157
* * *
パンツだ、パンツ!
だった。
王都を歩きつつ、彼女の頭は今、それ一色
着の身着のまま三日目突入。
いくら下着類は寝る前に水洗いして今朝乾いたとはいえ、気分は
決して良くない。下着は最優先で手に入れたいところだが、欲を言
うなら下着だけでなく、安物で良いから数着は服も欲しい。
﹁昨日みたいなおじさんに絡まれても嫌だし﹂
王都と呼ばれるだけあり、昨日一日だけ過ごした彼女でも、ここ
で暮らす人々が中々おしゃれな服装をしていることに気が付いた。
色も形も合わせ方も多種多様で、見ている分にはとても興味深い。
しかしそれでも、膝丈スカートはこの世界的にアウトらしかった。
ちなみに昨夜、シエルに彼女のスカート丈がどうかを聞いてみた
が、彼は露骨に視線を外しながら﹁女性の服装の特定部位について
言及するのは憚られます﹂と返答した。フォローがなかったことを
考えると、やはり好ましくはないのだろう。なお当然の如く、何処
で婦人服が買えるかは聞けていない。
︵シエルさんの口から、女性向けの服屋の場所が流暢に出てきても
反応に困るけどさ︶
洋服店の場所に関しては、広場で可愛い服を着た売り子さんに﹁
その服すっごく可愛いですねー。どこで買いました?﹂と尋ねて既
に情報を入手済みだ。ちなみに社会人の礼儀として、その売り子か
らは手作り洗濯石鹸を購入しておいた。
158
︵本当は化粧品だって欲しいけど、服でいくら使うか分からないし、
今は節約しなきゃ︶
そして良い香りのする石鹸のみを風呂敷バッグに入れた彼女は、
現在広場から南に向かって歩いている。
石畳で作られた道は研磨されているのか、それとも流れた歳月に
よるものか、存外に滑らかで歩きやすく、童話に出てきそうな家々
を見るのも楽しくて、足取りは軽かった。
きょろきょろと辺りを見回しながら歩いていると、いつの間にか
道幅は広く、喧騒は大きくなっている。いつの間に、と伶が少し先
に見えている大きな通りへ駆けて行くと、そこには四車線ほどの幅
をもつ道路が伸びていた。
﹁おおー!﹂
目を見開いて立ち止まる彼女の前を、馬車や、馬と牛の中間のよ
うな獣に引かれた車、荷車が通り過ぎていく。通りを歩く人々も遥
かに多く、歩道が道路の両脇に設けられている。歩道には所々街路
樹が植えられ、道に面する家々は看板を掲げ、四階建てほどの大き
な建物もそこそこ見える。
﹁メイン通りなのかな?﹂
思わず独り言を呟いてしまうほどに周囲は活気に溢れ、人々の喧
騒で賑わっている。
テンションも高めに通りを歩いていると、人々の流れが一方に偏
っているのに気が付いた。その流れに乗る様に移動すれば、やがて
建物で両サイドを塞がれていた視界が一気に開ける。
159
﹁すご⋮⋮!﹂
目の前は広大な円状の空間になっており、彼女が通ってきた道を
含めて計六本の広い道路が円状道路に加わっている。
中央部分は同じく円状の公園になっており、芝生が植えられたそ
こは、ベンチや露店、それらを楽しむ人々で賑わっていた。しかし
何と言っても最も伶の目を引いたのは、中心部にある、彼女が見た
こともない程巨大な噴水だ。周囲に佇む演奏者や詩人の音楽に合わ
せて噴水は豊かな水を宙に躍らせており、日の光を受けて小さな虹
を生んでいる。
まるで祭りのような賑わいに、伶は目を輝かせて近づこうとした。
﹁い、いや、駄目だ、誘惑されてる場合じゃない。今日はなんとし
てでも服を手に入れなきゃいけないんだから﹂
彼女は煩悩を振り払うように頭を振ると、来た道を引き返して目
当ての服屋へと向かった。
辿り着いた場所は、シエルの自宅へ続く道から大通りに出て、右
手に曲がった辺りだ。辺りにはとんがり屋根の建物が多く、まるで
職人街のような様相を呈している。そのうちの一軒、ダイヤ型の飾
り窓が取り付けられた木製の扉には、可愛らしいリボンのマークが
刻まれていた。
ドアノブに手をかけて押し開けば、低いカウベルの音が店内に響
く。
﹁いらっしゃいませー!﹂
店内から元気よく叫ばれた声は、若い女性のものだ。
白い長そでのワンピースを着たマネキンや、色彩豊かなリボンが
160
何十枚とかけられたハンガー、宝石箱のように愛らしい下着が収め
られた抽斗つきの棚や、綺麗に畳まれた服の並ぶテーブルが置かれ
た店内は、静かでどこかアンティークショップを思わせた。
﹁こちらは初めてですか?﹂
奥から現れたのは、薄茶の髪をポニーテールにした二十代半ばの
女性だ。伶の膝辺りを一瞬見たように感じたが、特別な反応もなく
笑顔を浮かべる。着物のような前合わせのドレスを身にまとった女
性はとても若々しく、落ち着いた声は店の様子とよくマッチしてい
た。
﹁はい。広場⋮⋮ええと、石鹸売りの女の子の服がとっても可愛か
ったので、こちらを教えて頂いたんです﹂
﹁ああ、リントちゃんですね! ようこそ、当店﹃魔法の包み布﹄
へ。日用品から仕事着まで、幅広く取り揃えています。今日はどん
なお品をお探しですか?﹂
にっこりと笑う女性は化粧をしていなくても可愛らしく、それが
この店の服や小物にも表れていた。飾られている物は日本でもカジ
ュアルで着れそうなシンプルな服が多いが、所々にレースがふんだ
んに使われた豪奢なものもあるし、細身のシャツもある。
﹁ええと、普段使いのものを数着探しているんですけど⋮⋮﹂
伶は通常、お店の人と話すよりもじっくり自分で見回る方が好き
だ。しかしこの異世界では、どんなコーディネートをすればいいの
か、そもそも何がいけないのかも分からない。店員のオススメに従
う方が無難だろうと彼女は判断した。
161
﹁そうですか。では、この季節だとやっぱりこの辺りですね。腰布
は春らしくこの色とかが人気ですけど、小物で雰囲気を変えるのも
︱︱﹂
そんな店員の言葉にいつも以上の注意を払いながら、伶は結局数
日分の衣類を購入した。
こちらはSやMといったサイズは特になく、MとLの中間くらい
の衣類を腰布やベルト、飾り紐等で調整するらしい。
婦人服の基本形はワンピースかスカートだが、それらにもプリー
ツが入っていたり、パフ袖になっていたり、紐や刺繍、レースやフ
リルで飾りがしてあったりと、デザインは多種多様。
伶は三着のシンプルなワンピースと、半袖シャツを三枚、ベルト
代わりに使う腰布を二枚と、絹らしき靴下を三枚入手した。意外に
安上がりだった為、夜用にハイウェストの白い長そでワンピースも
加える。
ちなみに念願の下着は、少しタイトなカボチャパンツ︱︱ミニド
ロワーズと、鳩尾辺りで紐を結んで胸を押し上げる、チューブトッ
プのような﹃胸当て﹄だった。
早速その場で、今着ているワンピースから購入した物に着替えさ
せてもらい、他の購入物は無地の紙袋に入れた。初回で、かつ大量
に買い物をしたためか、店員からハンカチを二枚貰えたのもありが
たい。
これで初任給の半分を使ってしまったから、これからは節約しな
ければ。彼女はそう思いつつもほくほく顔で店を出て、足取りも軽
く道を進んだ。
﹁真っ直ぐ帰るべきだけど︱︱﹂
大通りを歩き、帰宅に使う道との交差点で、伶は立ち止まった。
このまま大通りを進めば、先ほどの公園広場に出る。左に曲がれ
162
ば、シエルの家と広場だ。ここまでの移動距離と買い物で使った時
間を考えれば、夕方まで一、二時間といったところだろう。
﹁うーん⋮⋮﹂
通行の邪魔にならないように街路樹の近くで佇みながら、伶は悩
んだ。このまま帰って、夕食の準備をすべきか、それともあと少し
だけ観光してから良い気分で帰宅するか。
﹁⋮⋮確か、露店で食材売ってるところもあったし﹂
そんなセリフを免罪符に、伶は足を真っ直ぐ公園広場に向けて動
かし始めた。
やがて見えてくるは大噴水で、先ほどと変わらず公園広場は賑わ
っていた。
最初は噴水ばかりに目が行っていたが、視線をずらせば、正面遥
か先にはうっすらと尖塔を纏う城の影があり、左方には丸型ドーム
を頂点に抱く六階建てほどの巨大な建物、右手にはパルテノン神殿
を連想させる石柱が並び立つ建造物が目に入った。どちらにも多く
の人々が吸い込まれていくため、公共施設か何かなのだろう、と伶
は当たりを付ける。
巨大な建造物に、小さな露店。看板を掲げる店に、建物の出窓か
らつる草を伸ばす植物たち。
それだけたくさんの物があるというのに、殆どが同系色で作られ
た建物と自然は調和され、街並みには統一感があった。同時にどこ
か重厚な、古い書物の匂いがしてきそうな古臭さも感じられ、この
都の歴史を思う。
︵結構好きな雰囲気かも、この町︶
163
道を渡り、公園広場の露店のすぐ近くまで来て、伶はどこから見
ようかと足を止めた。
﹁さあ、皆さまご覧あれ!﹂
辺りを見回していた伶の耳に、そんな声が飛び込んできた。
大噴水を囲む石垣部分に、一人の男性が立っている。彼は蛍光グ
リーンの派手な衣装に、風切羽がついた茶色の帽子を目深に被って
おり、愉快そうに笑う口元しかこちらからでは見ることが出来ない。
それでも、そのしっかりとした骨格からは、性別が男性だと判断で
きた。
﹁魔術でも幻でもない、奇術をお見せ致しましょう!﹂
そう言って男が両手を叩くと、次の瞬間にその手には、先ほどま
でなかった花束が握られている。
﹁手品?﹂
剣と魔法の世界でも、手品があるものなんだなと、伶は感心した
ように男の動きを見つめる。
彼女と同様に興味を引かれた人間が、次から次へと男の周りに集
まっていき、あっという間に人だかりができた。彼女も釣られるよ
うに近付けば、男は花束を握り潰し、直径十五センチほどの水晶玉
を作り出す。それにあわせて、観客から感嘆の息や囃し声が上がっ
た。
︵⋮⋮どうも、こういうのってついタネを探してしまうと言うか︶
164
男の手が水晶から果物、果物から風船、風船から再び花束へと姿
を変えていくにもかかわらず、伶はついタネ探しとばかりに男の腕
以外を観察していた。いつもはトリックを純粋に楽しむことの多い
彼女も、魔術のある世界で手品があることを不思議に感じ、タネ探
しに夢中になる。
ふと、男の動きで髪が掻き乱され、耳元が露わになった。
﹁兎?﹂
男の耳元に、まるで円の中に兎を一筆で描いたような赤い印があ
った。
ウサギの横顔をシンプルにしたようなその図に目を奪われている
と、男が手に掴んだ花束を大きく振り上げる。わっ、という一際大
きな声に反応して男の手を見ると、そこには一メートルを越す長さ
の木の棒が握られていた。棍棒を長細くした見た目の棒の先には、
青色の宝石がはめ込まれ、太陽の光を反射している。
反射された光が刺すように伶の目に当たり、彼女は眩しさから目
を細めた。
﹁なに︱︱﹂
光を遮ろうと、手を頭上に掲げた時だった。
観客たちを見下ろす男が、棒を片手に早口で何か呟いたかと思う
と、辺り一面に巨大な光の輪が現れた。魔法陣を連想させる不可思
議な円は、薄く発光したまま中空に留まり、伶を含んだ観客を囲む
ように展開する。
﹁!﹂
咄嗟にその宙に描かれた円から出ようとした伶だったが、それよ
165
りも早くに男が叫ぶ。
﹁ご覧いただいた皆様に、ささやかな贈り物を!﹂
男の楽しげな叫びに合わせ、円が一気に発光し、光の柱を作り上
げた。視界を純白が埋め尽くす中、静電気が立つのに似たバチバチ
という音が耳に飛び込んでくる。
﹁ひっ!﹂
恐怖と眩しさで目を瞑り耳を塞ぐ伶にさえ、辺りが悲鳴で覆われ
るのが分かった。大きくなる破裂音に身構えていると、ちくりとし
た痛みがうなじを襲う。痛みに首元を押さえて蹲っていると、視界
が徐々に暗くなっていくのを感じた。
やがて静寂が辺りを包み、伶は恐る恐る目を開ける。
そこには、彼女と同じように蹲る者、腰を抜かす者、彼女たちを
離れた場所で見つめる者達がいた。
﹁い、ない⋮⋮?﹂
あの奇術師はどこにいったと目で追えば、そこにあの男の姿はな
い。
残されたのは、光の柱が消え去った後に死屍累々の姿を晒す彼女
たちと、遠巻きに彼女たちを観察する人々のざわめきだけ。
︵誰も助けようとかしないわけ?︶
首を擦りながらそんな不満を抱いた彼女だったが、実際彼女たち
に殆ど被害はない。せいぜい首元が痛んだくらいだが、それも既に
痛みとして感じない程度だ。伶は自分の身体を手で擦ったり異常が
166
ないかを確認したが、特に問題は見つからなかった。
同じように我に返った観客たちが、次々と身体を起こしだす。ふ
らふらとその場を離れだす人間が出始めた頃、辺りに馬の駆け寄っ
てくる音が響いた。
その足音の大きさに伶が振り返れば、馬に乗った甲冑姿の男性が
六人、広場に到着したところだった。
﹁はいはい皆さん、ちょっと待ってくださーい﹂
先頭に立って彼女たちに近づいてきたのは、伶より少し若いくら
いのふわふわとした栗毛の髪を持つ若い男性だ。
﹁俺は第一騎士団所属のクラウ・リッドです。これから第一騎士団
が事情聴取を行いますんで、皆さん申し訳ないんですけど、少し此
処で待機してくださいねー。あ、何か痛みとかあれば救護班もいる
んで、遠慮なく言ってください﹂
彼はへらりと笑った顔でそう告げると、他の五人に簡単な指示を
出してから近くの老人に声をかけた。
どうやらクラウ・リッドと名乗った彼は、若そうに見えて中年男
性を含んだ他の五人よりも立場が上らしい。人は見かけによらない
ものだ、と伶は彼を目で追いながら思った。
︵随分来るのが早かったけど、定期巡回とかしてるのかしら︶
彼女とて昨日、巡回中の騎士に道案内をしてもらったわけだから、
ありえない話ではない。もしかしたら、こんな軽いテロ活動は、そ
こそこあるものなのかもしれない。伶は一人でそう納得した。
六人の騎士のうち、三人は観客へ、残り三人はそれ以外の人々に
話を聞いているが、集まった観客の数は二十いるかいないかだ。そ
167
こまで時間が経たないうちに、伶の番が回ってきた。
﹁こんにちは、お姉さん。災難だったねえ﹂
﹁は、はあ﹂
クラウ・リッドはそう言って笑うと、ペンを握って何やら手元の
メモに書き記す。
騎士と言うとシエルのイメージしかない彼女からして見れば、目
の前の騎士は一回り小さく見える。それでも恐らくは170センチ
半ばはあるだろう青年を見上げ、伶は曖昧な答えを返した。
まさか異世界生活三日目にして、事情聴取を受ける羽目になると
は思ってもいなかったのだから、動揺するのも仕方がなかった。
﹁で、他の人にも聞いてるんだけど、何があったか話してもらえま
す?﹂
﹁えっと⋮⋮奇術だとかをお披露目してる男の人が棒を振り回して、
宙に細かい模様の書かれた円が出ました。あとはその円が眩しくて
目を開けてられなかったので、よく分かりません﹂
﹁ふむふむ、大体他の人と一緒だね﹂
彼はペンを滑らせてメモ書きに文字を加えていくが、ふと顔を上
げて首を傾げる。
﹁身体が痛んだっていう人もいたけど、お姉さんはどう? 気分悪
いとかない?﹂
無意識に伶は首元を押さえながら、首を振る。
﹁ちくっとした程度で、今は問題ありません﹂
﹁そっか。怪我がないなら何よりだね﹂
168
彼は飄々とした見た目に反し、真剣な眼差しでノートに次々と文
を書き加えていく。やはりこの若さで部下持ちなだけあり、有能な
のかもしれない、と伶は彼の手元を感心したように見つめながら思
った。
﹁最後に一つだけ。その男ってのがどんな風体だったか教えて下さ
い﹂
﹁どんな、ですか﹂
伶は思い出そうとするように空を見上げ、しばし考える。男の姿
を思い出そうとしても、目に浮かぶのはやけに鮮やかな蛍光グリー
ンの服だけで、肝心の中身は酷くおぼろげだ。
﹁明るい緑色の上下を着た男性だと思いますけど、羽のついた茶色
の帽子を深くかぶっていたので、顔までは⋮⋮﹂
﹁うーん⋮⋮他の皆も手元しか見てなかったって言うし、仕方ない
仕方ない﹂
にこりと笑う青年に、伶も釣られて微笑み、そこでふと思い出す。
﹁そう言えば、ここに変な印が﹂
﹁印?﹂
耳元を指しながら伶がそう言うと、青年は怪訝そうな表情で聞き
返す。
﹁赤い円の中に、動物みたいな模様の描かれた印です﹂
﹁⋮⋮それ、どんな図だったが描けます?﹂
169
急に眉間に皺を寄せて言い募る青年に、伶は目を瞬かせる。ペン
を差し出されても、彼女にあの図を再現するのは不可能だ。
﹁いえ、それはさすがに。見本と比べるくらいは出来ますけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
伶が言えば、青年は険しい表情のままに考え込む姿勢を取り、無
言になった。
そしてたっぷり一分は待った頃か、青年が表情もそのままに顔を
上げて伶を見つめる。
﹁申し訳ないんですけど、お姉さんちょっと騎士団まで来てもらえ
ますか?﹂
﹁え﹂
﹁カーク!﹂
目を丸くする彼女をよそ目に、青年は少し離れた場所にいる他の
騎士に声をかけると、さっさと﹁此処は任せた﹂と言って彼女を先
導し始める。
﹁あ、あの私﹂
﹁ちょっと上の人にも話を聞かせたいだけなんで、すぐ終わります
よー﹂
﹁いえ、私は︱︱ぎゃあっ!?﹂
彼女が戸惑っていると、青年はさっさと彼女の腰を掴み上げ、自
分の馬に横向けに乗せた。突然馬上に乗せられた彼女が状況把握に
戸惑っていると、彼は彼女の後ろに跨り、両手で手綱を引き寄せた。
馬は主の命令に嘶き、一度身体を震わせると、躊躇なく駆け出し
た。
170
﹁ま、待って⋮⋮!﹂
﹁はいはい、すぐ着きますんで、ちょっと我慢してくださいね﹂
彼女の抗議はあっさりと却下され、青年は手綱を握る手に力を込
めた。馬はさらに速度を上げ、伶は振り下ろされてたまるかとばか
りに馬の首にしがみつく。
︵シエルさんの馬と全然違う⋮⋮! って言うか、何で私連行され
てるの!?︶
彼女の疑問に答える気は、少なくとも後ろの騎士にはなさそうだ
った。
171
12. 聴取と友
伶を乗せた馬は、公園広場から放射線状に伸びる道のうち、最も
広い中央を選んで駆けて行く。
彼女を同乗させた騎士は、シエルのように彼女をがっちり掴んで
くれるでもなく、手綱を両手で握りしめ馬を操っていた。馬が僅か
に体勢を傾けるたび、落とされそうな恐怖が彼女を襲う。
そんな落馬の恐怖に怯えること十分弱。
伶は巨大な石壁で守られた、砦を思わせる施設の前に到着した。
石壁の切れ目に建てられた二本の塔は物見を兼ねているのか、円
塔の上には武装した騎士と、頭までフードを被った人間が厳しい視
線を通行人に注いでいる。
入ってすぐの部分は草の生えない剥き出しの大地になっており、
右手と左手の奥に砦らしき石造りの建物が建っている。この道から
砦の間には厩舎や木人形が置かれた広場もあり、騎士やその見習い
と思われる男性と、数は少ないが女性の姿も見られた。
どうやらここが、騎士団本部らしい。
だが、彼女はいかつい騎士や凛々しい女性騎士よりも、正面の光
景に目を奪われていた。
﹁うわぁ⋮⋮っ﹂
物見塔の間を馬で抜けていけば、今辿ってきた道はさらに先へと
続き、複数人の物々しい見張りが立つ門を通って巨大な橋へと通じ
ていた。
172
そしてその橋の先には、白鳥を思わせる白亜の城が湖に悠然と築
かれている。
優美な姿を湖面に晒す城は、不思議な虹を周囲に纏い、どこか幻
めいていた。
﹁凄い⋮⋮﹂
都がある半島部分に入る外壁部分、この騎士団本部の入り口、城
へと至る橋の前、計三か所の見張りを越えてようやく到達できる城
は、さすがというべき雄大さ。
﹁あはは、お姉さんは本部に来るの初めてです? そこまで感動さ
れると嬉しいな﹂
彼女の背後にいるクラウ・リッドは、伶の様子を見てけたけたと
笑った。﹁もっと見させてあげたいですけど﹂と付け加えた後、彼
は馬を操り右手側の砦へと向かった。
金属らしき扉の前で彼女を馬から下ろし、近くにいた見習いの少
年に馬を預けると、伶を砦の中へと誘導する。
砦の内部は意外にも明るい。
入ってすぐは広大な円状の空間だった。タペストリーや鎧や剣や
らが壁際に並び、吹き抜けの天井から注ぐ光が石壁の硬質さを和ら
げている。
壁のあちこちにはシエルの家同様、動力不明の照明が付けられ、
窓がなくとも廊下を明るくしていた。
﹁こっちにどうぞ、お姉さん﹂
クラウ・リッドは彼女を左手の廊下へと導くと、一度だけ右に曲
173
がった廊下の先で足を止める。
木製の扉を開かれれば、そこは小さな部屋だ。
窓はなく、調度品は中央に置かれた木製の机と椅子が二脚、そし
て部屋の片隅にある机と椅子のみ。
︵これってもしかして⋮⋮取調室ってやつなんじゃ⋮⋮︶
彼女が刑事ドラマでよく見る流れを想像して顔を青くしていると、
クラウ・リッドが声をかけた。
﹁あー、ごめんごめん。別にお姉さんを疑ってるとかじゃなくて、
応接室なんて洒落たものがないだけなんです。今、上官を呼んでく
るんで、座って待っててもらえますか?﹂
﹁は、はあ⋮⋮﹂
それ以外、何と言えと。
伶は釈然としないまま、扉を閉めて姿を消す騎士を見送った。
﹁座って、って言われてもなあ﹂
一人残された伶は、三脚の椅子を見比べてため息をつく。
壁に向かって置かれた部屋隅の机か、このいかにもな中央の机、
どちらの前に腰かけるべきか。壁に向かってぼうっとするのもあれ
だが、中央の机も机で、ドラマなどで見かける被疑者席と刑事席の
どちらに座るか、それも悩む。
結局伶は、立ったまま待つことにした。
意外にも、扉が開かれたのは数分後。恐らくは経っても五分ほど
だろう。
174
﹁お待たせしました、お姉さん﹂
相変わらず締まりのない表情で、クラウ・リッドが現れた。
﹁︱︱その呼び方はなんだ、クラウ﹂
そして彼に続いて、低い張りのある声をした長身の男性が入って
くる。
見比べてみれば、クラウ・リッド︱︱クラウとは僅かに異なるデ
ザインの鎧を身に纏った男性は、クラウよりも頭一つ分近く背が高
く、体格も良い。
整った顔立ちなのに、クラウの﹃お姉さん﹄呼びが気に障ったら
しく眉間に皺を寄せている。
折角の精悍な顔つきが台無し︱︱いや、むしろ凛々しさは増して
いるかもしれない。伶はそう思った。
男性はクラウを睨みながらも室内に入ってくると、彼女に一礼す
る。
﹁態々足を運んで頂き、感謝いたします。私は第一騎士団団長、シ
エル︱︱﹂
頭を上げた男性︱︱シエルが、彼女を認識して口上を止めた。
整った顔を、驚きに染めて、シエルは口を開けたまま彼女を見つ
めている。昨夜ぶりに会う雇用主を見て取り、伶はぎこちなく片手
を上げた。
﹁こ、こんにちは﹂
伶は、それだけ言った。
一応平然を装ってはいるが、上官とやらでシエルが出てくるなど
175
全く想像していなかった為、彼女だって度肝を抜かれた気分だった。
伶は頬を引き攣らせながらも笑みを浮かべ、口を引き結んだまま
目を見開くシエルを見つめる。
︵まさか上官がシエルさんとか⋮⋮というか﹃団長﹄って言った?
それっても物凄く偉い︱︱じゃなくて、どう反応していいものか︶
そんな疑問に思考を埋め尽くされ、混乱を極めた彼女は、考える
のを止めてシエルに丸投げすることにした。変なことを言うよりか
は、黙ってシエルに合わせた方が無難だろう。当のシエルは石のよ
うに固まってはいるが。
しかしそんな二人の様子を見て、クラウが首を傾げる。
﹁あれ、もしかして団長のお知り合いですか?﹂
その声に我に返ったのか、シエルは一度何かを言いたそうに口を
開けたが、すぐに閉じて身体を起こした。
﹁⋮⋮レイさん、どうぞそちらにおかけ下さい﹂
﹁は、はい﹂
自宅とは事なり、シエルの声は硬く平坦で、そこにどんな感情も
見出せない。
定規でも入れたように真っ直ぐな姿勢や顎を引いて前を見据える
姿から、彼が凛とした雰囲気を持つ男性だとは思っていたが、今の
シエルは研鑽されたような硬質さがある。
︵⋮⋮やっぱり、﹃同じ人﹄なんだ︶
彼に魔獣から助けられ声をかけられた時、彼女はシエルを刀のよ
176
うだと思った。
シエルは彼女にとても気を遣ってくれていたから、そんな最初の
印象は薄らいできていたが、今こうして向かい合う彼からは、当初
と同様の威圧感を感じる。伶を見る目は鋭く、少し息苦しい。
伶は自分を落ち着かせるようにつばを飲み込むと、部屋の奥側に
ある椅子に浅く腰かけた。
それを見届けると、シエルは彼女の正面に座り、クラウはその横
に立った。クラウの手には、荒めの紙束が二冊とペンが握られてい
る。
﹁︱︱では、先に起きた出来事に関して、貴女が憶えていることを
可能な限り詳細にご説明願います﹂
真っ直ぐに彼女を見据えるシエルの鋭い視線に少し身じろぎなが
らも、伶はクラウに話した内容と同じことを繰り返した。
クラウは手元の紙束にペンを走らせており、供述書の作成、もし
くはその下書きを行っている。
シエルの方は特に表情も変えずに伶の話に耳を傾けていたが、ク
ラウ同様、﹃奇術師﹄の首のついていた印の供述になると顔を険し
くした。
﹁クラウ﹂
﹁はい、団長﹂
シエルがクラウの名を呼ぶと、クラウは持っていた紙束の一つを
机の上に置いた。そのまま数枚ページをめくると、家紋を思わせる
様々な文様が描かれた一覧を広げる。カラー印刷なのか手書きなの
かは不明だが、精密な着色の成された文様はどこか可愛らしい。
177
﹁こちらの中から、貴女が見た物と同じ、もしくは近い物を教えて
頂きたい﹂
﹁は、はい、分かりました﹂
シエルに言われた通り、伶は一覧を眺め、そこに記憶の中の兎を
連想させる印がないことを確認すると、ページをめくる。しばらく
室内には紙を捲る音だけが響いていた。
五枚ほどページを送ったところで、伶は一点を指さす。
﹁これ⋮⋮だと思います。色はもっと鮮やかな赤でしたけど﹂
記憶を頼りにそう言い顔を上げれば、先ほど以上に険しい表情の
シエルとクラウが目に入った。﹁間違いありませんか﹂と確認され、
恐る恐る頷く。すると真剣な表情をしていた二人の騎士は顔を見合
わせ口を開く。
﹁クラウ、第二と第三の四名に招集を﹂
﹁場所はいつもの所で?﹂
﹁ああ。それと、エリスがいたら声をかけておいてくれ﹂
﹁了解です。あ、最後に一つだけ﹂
シエルと話していたクラウは、ペンを片手に顔を伶の方に向けた。
﹁念のため、住所を聞いてもいいですか?﹂
言われた言葉に、伶は固まった。住所なんて知らないし、そもそ
もシエルと同じ家に住んでいると教えていいのかも分からない。ど
うしようかとシエルを仰ぎ見れば、彼は伶とクラウの中間を見つめ
ている。
178
﹁あ、下心があるとかじゃなくて、何かあった時の為に聴取を取っ
た人全員に聞いてるんで﹂
クラウが続けてきても伶が言い淀んでいると、クラウは不思議そ
うに小首を傾げた。
クラウは何かを言おうと口を開いたが、実際に言葉を発するより
も早く、シエルが彼の持つペンと紙束をひったくる。シエルは無言
のままさらさらとペンを動かすと、すぐにその二点をクラウに押し
付けた。
﹁団長?﹂
目を瞬かせていたクラウだったが、渡された紙を見て目を見張っ
た。
﹁え? だんちょ、え、えええ!?﹂
﹁クラウ、黙れ﹂
﹁いや、だってこれ、団長と住所が同︱︱﹂
﹁クラウ﹂
後方にいるクラウの方を振り返ったため、シエルの表情は伶には
見えなかった。
﹁他言すれば、分かるな﹂
﹁り、了解であります、団長!﹂
クラウは引き攣った笑みを顔に張り付けると、シエルに向かって
敬礼した。そのまま伶に視線を動かすと、クラウはにやーっと笑み
を深め、元気よく﹁では、失礼します!﹂と言い切って部屋を出て
行った。その素早さはさながら竜巻のよう。彼が立ち去った部屋に
179
は、痛いくらいの静寂が落ちた。
静まり返った部屋の中、伶は正面に座るシエルと二人で残される。
話しかけていいのか、黙ってた方がいいのか伶には分からず、家
では問題のなかった静寂が居心地悪く感じられた。
伶がそんな風に戦々恐々としていると、シエルが俯いて大きくた
め息をついた。
﹁シエルさん⋮⋮?﹂
迷惑をかけてしまっただろうかと、不安を抱きながらシエルに声
をかければ、彼は僅かに眉を寄せつつ伶を見やる。
﹁お怪我はありませんか?﹂
﹁え? あ、大丈夫です。全く問題ありません﹂
じっと彼女を注視するシエルの視線に居心地悪く思いながらも、
伶は否定するように首を振る。シエルはそれを受け数秒ほど彼女を
見つめていたが、不意に息を吐き視線を和らげて肩の力を抜いた。
﹁⋮⋮驚きました。まさかレイさんが目撃者だとは思いもしません
でしたから﹂
﹁ええと、何かすみません﹂
何に対して謝っているのか自分でも分からないまま謝罪を口にす
ると、シエルが僅かに苦笑を浮かべる。
﹁いえ、責めているわけではなくて⋮⋮もし誤解させたようでした
ら、こちらこそ申し訳ありません﹂
180
綺麗に下げられる亜麻色の頭を眺めていた彼女だったが、再度謝
ろうと口を開け、再び閉じた。謝り過ぎても失礼だろう。そして別
の事を思い出し、謝罪の代わりに口にする。
﹁シエルさんは、団長⋮⋮なんですね﹂
﹁はい。未熟ながらも第一騎士団の団長を務めています。先ほどの
男は補佐官のクラウです。度々欠礼するところのある奴ですが、何
かしませんでしたか﹂
飄々とした青年を思い浮かべ、随分とシエルは砕けた口調だった
なと知らずに口角を上げる。
﹁⋮⋮あいつ、何をやらかしました?﹂
伶の様子を勘違いしたのか、シエルが声を更に低くして尋ねてき
た。その口調は、部下が何かしでかしたと確信しているようだ。慌
てて首を振り、誤解を解く。
﹁何もされてませんから、お気になさらず﹂
﹁そうですか? もし何かありましたら言ってください。しめてお
きますから﹂
さらりと言われた言葉に頬を引き攣らせながらも、伶は﹁その際
はお願いします﹂とだけ伝えた。
シエルは承ったとばかりに頷くと﹁さて﹂と呟き、椅子から立ち
上がる。
﹁申し訳ないんですが、今からレイさんが話して下さった事件の捜
査会議に出てきます﹂
181
若干すまなそうな表情を浮かべるシエルに、伶も立ち上がる。
﹁お疲れ様です。少しでもお役に立てたのならいいんですけど﹂
彼に近寄って彼女がそう言えば、シエルは安心させるように口角
を僅かに上げた。
﹁充分助かりました。女性騎士を此処に呼びましたので、念のため
魔術検診を受けて下さい﹂
魔術検診が何を指すのか伶には分からなかったが、文脈からして
健康診断のようなものだと推測する。恐らくはあの﹃奇術師﹄に何
かされていないかの確認ということだろう。
﹁本当に何ともありませんから、そこまで気を遣って頂かなくても﹂
﹁いえ、何かあってからでは遅いですから﹂
彼女の遠慮じみた発言をきっぱり断ち切ってから、シエルは綺麗
に一礼し、背を向けた。そして扉に手をかけたところで一度振り返
り、付け加える。
﹁貴女が無事で、安心しました﹂
シエルは彼女を見下ろし、目を細めた。
それを受けて伶が目を見開いている間に、シエルは扉を開け廊下
へと姿を消す。
残された伶は、閉められた扉が再度開くまで、その場から何故か
動けなかった。
182
* * *
﹁失礼します﹂
小さなノックの後、綺麗な声と共に扉が開く。
廊下のざわざわとした音と合わせて、どこかジャスミンに似た香
りが部屋に入ってきた。
﹁第一団長より指示を受けてまいりました、エリス・ノランと申し
ます﹂
入ってきたのは、白銀の髪を後ろで一括りにした背の高い女性で、
シエルやクラウと異なり防具を身に付けていなかった。その手には
銀色のお盆と茶器が乗っかっている。
彼女は部屋にいる伶を見ると、緑色の目を瞬かせた。
﹁あら、貴女は⋮⋮﹂
伶も入ってきた女性︱︱エリスに気が付くと、軽く会釈する。
﹁団長から言われて来たんですが⋮⋮不思議な縁もあるものですね﹂
﹁はい、その節はお世話になりました﹂
そう微笑みながら手の持ったお盆を机に置いたのは、先日出向い
た酒場でカウンターにいた女性だ。以前と同様の一糸乱れぬ服装だ
が、腰には革ベルトが巻かれ、細身の長剣と数本の短剣がぶら下が
っている。
﹁騎士の方だったんですね﹂
183
﹁ええ、第一騎士団に所属しています。あの酒場には職務の一環で
置かせて頂いてるので、騎士団外では内密にお願いしますね﹂
口元に人差し指を置いた女性は艶やかな笑顔を浮かべ、冷たくも
感じられる美貌を綻ばせた。伶が見惚れるように頷くと、エリスは
そのまま笑みを深めて着席を促す。
﹁さ、シノ茶がいい具合に出た頃です。お好みで砂糖もどうぞ﹂
伶は部屋に広がるジャスミンに似た香りにほうっと息をついたが、
着席をしばし躊躇する。
﹁どうしました?﹂
首を傾げて尋ねるエリスに、伶は少しだけ躊躇ってから口を開い
た。
﹁実はまだ仕事が終わっていないんです。帰って夕食の支度もしな
いといけませんし、出来るだけ早く戻りたいんですが⋮⋮﹂
﹁あら﹂
伶の言葉に、エリスは困ったような笑みを浮かべた。
﹁ハルナード団長が貴女を送っていくからと、それまで此処でお待
ち頂くよう言付けられているんです。必要であれば職場には騎士団
から一筆書きますし、しばらくお待ち頂けませんか?﹂
﹁シ⋮⋮団長さんが、ですか﹂
雇用主がそう言っているなら伶に文句はないのだが、夕食の食材
はどうしようと無意識に眉間に皺を寄せる。
184
﹁ええ。珍しいんですよ、団長自ら言い出すなんて。うちの団長っ
て、どこかしら女性を避けているところがありますから﹂
愉快そうに、エリスが笑う。
伶もシエルの言動を思い返し、確かにあの古臭い考えは女性を避
けているともとれるだろうと納得する。
﹁そういうわけですから、まずはお茶でもどうぞ。実はこれも、団
長が﹃茶でも差し入れを﹄とおっしゃったからなんですよ﹂
ふふ、と笑うエリスに、伶は目を瞬かせた。随分とシエルに気を
遣わせてしまったらしい。公私混同に取られなければいいんだけど、
と伶は少しだけ心配になった。後でお礼を言わなくてはいけないだ
ろうと伶は心に刻む。
﹁それでは折角ですし、ごちそうになります﹂
雇用主の許可もあるしと、伶は改めて椅子に腰かける。目の前で
はエリスがにこにこと笑みを浮かべてカップにお茶を注いでいる。
ジャスミンを少し甘めにしたような香りがふわりと立ち上った。
﹁はい、お待たせしました﹂
﹁ありがとうございます。⋮⋮良い香りですね﹂
﹁シノの花には鎮静効果もありますから。お気に召したようで、何
よりです﹂
紅茶色の茶は僅かに口に甘く、立ち上る香りは強すぎずに高ぶっ
た精神を落ち着かせてくれるようだった。深く息を吐くと、伶は彼
女を微笑ましく見つめるエリスに気が付く。
185
﹁あの、以前のように話してくださって構いませんよ﹂
﹁あら、そうですか? ふふ、ではお言葉に甘えて﹂
整った顔を笑みに綻ばせて自分も茶を含むエリスに、伶は何がそ
んなに楽しいのだろうと疑問を抱いた。そんな伶の疑問を察したの
か、エリスが少し恥ずかしそうに横を向く。
﹁ごめんなさい。同年代の女性と話すことなんて殆どないから、浮
かれてしまって﹂
﹁そう、なんですか?﹂
﹁ええ。女性騎士はそもそも数える程しか在籍していないし、私は
週の半分を酒場で過ごしているから余計にね。だから、仕事とはい
え同性とお茶が出来て嬉しいわ﹂
そんなことを色素の薄い美人に言われて喜ばない人間がいるだろ
うか。伶は気恥ずかしそうに微笑むエリスを見て、内心悶えまくっ
た。奇声を発しないように気を付けながら、伶はだらしない笑顔を
浮かべて﹁私もです﹂と告げた。
﹁この町に来てから間もないので、エリスさんのような方にお会い
できて嬉しいです。お店の方にもまた伺ってもいいですか?﹂
﹁勿論。毎日いるわけではないけれど、待ってるわ。ええと﹂
﹁れい、です。エリスさん﹂
﹁呼び捨てにして。皆そう呼ぶから。代わりに私も⋮⋮レイ、って
呼んでいいかしら﹂
頬を僅かに染めて、伺う様な視線を向けられた伶は、思わず﹁ぐ
ふっ﹂と呻いた。女子力の高さという名の攻撃は同性にすら効くら
しい。伶はひたすら頷いた。
186
それから二人は伶の購入した緑の酒や、カクテル、おつまみに至
るまで取りとめのない話を続けた。初対面のようなものなのに、話
は面白いくらいに弾み、気付けば大分時間が経っていた。
途中で魔術検診を挟んだが、伶はその場で立っていただけで、あ
とはエリスが何かを呟きながら伶の身体全体に手をかざして終わっ
た。時間にして三十分もかからなかっただろう。エリスはカルテの
ような紙に何かを記入していたが、文字の読めない伶にはそれが何
かは分からない。
しばらくして扉がノックされる頃には、二人は随分と打ち解けて
いた。
異世界生活を始めて数日。
伶はここで初めて、友人と呼べる相手を得た。
187
13. 荷馬車が揺れる
茶を何度か新しくし、添えられた小菓子も食べ終わり、それでも
談笑していた二人の声をノックが遮る。
﹁どうぞ﹂
エリスが若干くつろいでいた姿勢を正し、ドアの向こうに呼びか
ける。
ゆっくりと扉が開き、ドアの向こうからクラウがひょっこりと顔
を覗かせた。
﹁⋮⋮女の子二人の癒し空間、美味しいです﹂
うっとりという形容が似合いそうな笑みを浮かべて、クラウが呟
いた。
﹁リッド補佐官、気色悪いです﹂
﹁えー、エリスさんひどい﹂
エリスが凍てつく視線を投げかける。先ほどまで談笑していた女
性と同一人物とは思えない冷たい視線に、伶の方がぎょっとしたが、
当のクラウは全く気にしていないようだった。
﹁お待たせしちゃってすみません。会議がなんとか終わったんで、
レイさんを呼びに来ました﹂
﹁えっと、わざわざありがとうございます﹂
188
伶はお茶を一気に口に流し込み、使っていたカップをお盆の上に
乗せる。菓子くずが落ちていないかざっと確認し、特に目立ったも
のはなかったのでその場に立ち上がる。
﹁エリスさん、長い時間ありがとう﹂
﹁いいの、気にしないで。私も楽しかったから﹂
冷たい表情から一転、ゆるやかに微笑むエリスに、伶も眼福だと
微笑み返す。
﹁お店に顔見せに行くね﹂
これからもよろしくとの意味も含めて片手を差し出すと、エリス
はその手を見て数回目を瞬かせた後、そっと彼女の手を握った。す
らりとした体躯から想像できないほど、剣のせいなのか硬くしっか
りとした掌が合わさる。騎士という職業は伶には想像もつかないけ
れど、エリスが鍛錬を重ねてきたことが伝わる感触だった。
﹁ええ、また会いましょう﹂
優しく目を細めて彼女を見るエリスに、伶も頷く。
手を離して、廊下で待つクラウの元へ駆け寄ると、扉を閉める前
に一度振り返りエリスに手を振った。
﹁お待たせしました﹂
扉を閉めてからクラウに向き直れば、彼はにこにこと彼女を見つ
めている。
﹁何でしょう?﹂
189
﹁いーえ﹂
尋ねても笑顔を崩さないクラウに、伶は首を傾げた。彼はそのま
ま歩き出し、もやもやとした気分のまま伶は後に続く。
来た時と同じ道を逆に辿り、二人は屋外へと出た。 窓も時計もないため、どの程度時間が経ったかは分からなかった
が、既に空は茜色を過ぎようとしていた。
迫るような巨大な壁に囲まれ、文字でしか認識したことのない﹃
砦﹄を背に、甲冑や剣を身に付け、馬と共に生きる人々が視界を横
切る。
街中よりも強烈に、伶は自分がいかに場違いなのかを思い知った。
﹁レイさん﹂
ふとかけられた声に、伶は視線をクラウに戻す。
先ほどまでと比べ、ゆっくりと並び立つように歩きながら、クラ
ウは笑う。口元は相変わらずへらりとしているのに、その目は何処
か真剣に見えた。
﹁エリス女史と仲良くしてあげて下さいね﹂
﹁エリスさんと?﹂
何故彼がそんなことを言うか分からずに、女性騎士の名前を繰り
返せば、クラウは表情を変えないまま前方に顔を向けた。
クラウは﹁んーと、初対面の人に言う事でもないんですけど﹂と
前置きしてから、口を開く。
﹁エリスさんは腕の立つ良い騎士なんですけど、ちょっと肩に力が
入り過ぎなんですよね。まあ、むっさい男共に囲まれてりゃ、仕方
ないのかもしれないんですけど﹂
190
﹁そういえば、殆ど男性しか見かけませんね﹂
伶は砦前の広場を見やり、呟く。現在ぱっと視界に入る騎士は全
員が男性で、女性の姿はない。
﹁行くとこに行けばいるんですけど、エリスさんの近くにはいない
ですねー。でも、女の子にしか話せないこともあるでしょ。だから、
たまに話してあげて下さい﹂
彼女の方を見て、﹁ね?﹂と小首を傾げる彼を、伶は無言で見つ
めた。彼が何か言いたそうに口を開く前に、言葉を零す。
﹁︱︱今のは、聞かなかったことにさせて下さい﹂
﹁え?﹂
クラウが、彼女の返事を聞いて立ち止まった。
﹁だって、それじゃまるで、クラウ・リッドさんに言われたからエ
リスさんに会うみたいでしょう。エリスさんは、腕にしがみついて
﹃お友達になって下さい﹄って言いたくなるほど素敵な人です。今
度、一緒に飲むんですよ﹂
一瞬﹁第一、母親じゃあるまいし﹂と付け加えたくなったが、そ
れはさすがに失礼だと言葉を飲み込んだ。純粋にエリスを心配して
のクラウの発言なのだろうから。
﹁あー⋮⋮﹂
クラウは、伶の言葉を聞いて気まずそうに額に手を当てた。
191
﹁そうですね、今のはお二人に対して失礼でした。すみません﹂
以前シエルが見せたのと同様、綺麗に頭を下げるクラウに、伶は
慌てて付け足す。
﹁い、いえ、聞かなかったことに謝罪とか必要ありませんよ﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
少ししてから、クラウは恥ずかしそうに顔を上げた。﹁あ、俺の
事は親しくクラウって呼んでくださいね﹂と場を和ませるように軽
く言う彼に、伶は安堵の息を漏らした。誰かに頭を下げられるとい
うのは、あまり良いものではないと彼女は思う。
団長の補佐官というのがどれくらいの地位なのかは不明だが、恐
らくエリスはクラウの部下になるのだろう。ということは、クラウ
は上司として部下を心配しただけなのだ。
もう少しフォローを入れた方がいいかと彼女は思ったが、クラウ
の後ろに人影が見えたため、そちらに視線を向けた。
﹁⋮⋮で、お前はまた何をしでかした?﹂
﹁うげっ﹂
地を這う様な低い声で話しかけたのは、シエルだ。
日本人女性として平均程度の身長である伶からしてみれば、クラ
ウも決して小柄ではない。しかし、彼よりもさらに体格の良いシエ
ルと比べれば、多少華奢に見えてしまう。腕を組み、目を細めてク
ラウを見下ろすシエルの表情のせいで、さらにクラウが小さく見え
た。
﹁な、何もしてませんよ。団長、嫌だなー﹂
﹁何もしていないのに、お前は頭を下げるのか?﹂
192
一歩前に足を踏み出すシエルに対し、一歩を足を下げるクラウ。
クラウの笑顔は引き攣っている。気の毒だなと思う前に、伶はシ
エルを珍しいものを見るようにまじまじと眺めてしまった。
︵凄く真面目で丁寧な人だと思ってたけど、職場では結構砕けてる
んだ︶
新鮮だ。思わず笑みを浮かべる。
しかし、逃げようとしたクラウが後ろ襟をシエルに掴まれて﹁ぎ
ゃー!﹂と声を上げたことで、我に返った。
﹁あの、シエルさん﹂
凄味のある雰囲気を纏ってクラウを掴んでいたシエルが、伶の声
で彼女の方を見る。その顔は怒りも呆れもない普段通りのままだっ
たが、クラウがもがいても全く手が緩むことはない。そのギャップ
が恐ろしいと伶は思った。
﹁私たちはただ、少し話をしていただけですよ﹂
だんちょー
﹁ほう、﹃話﹄を﹂
﹁やめて団長! 締まる、首締まってる!﹂
首を押さえるクラウに、伶は思わずシエルの服を引っ張った。し
かし、シエルの腕はそれでもびくともしない。
﹁クラウさんは、良い上司なんだなって話をしてただけですから!﹂
﹁⋮⋮それは、どの世界のコレの話でしょうか﹂
﹁ひどっ! 酷いです団長!﹂
193
しかし伶の言葉に虚を突かれたのか、シエルの手から僅かに力が
抜けたらしい。その隙を見逃さず、クラウが脱兎のごとくシエルか
ら距離を取った。
﹁クラウ﹂
﹁俺の待遇が酷いです、もっと優しさを! こうなったらバアグ団
長とヨルト団長にレイさんのこと話してやり︱︱ません!﹂
シエルに向かって叫んでいたクラウだったが、途中で顔を白くし
て激しく首を振りつつ後ずさりした。そのまま﹁団長の馬鹿ー!﹂
とこぼしながら砦の方へと駆けて行った。
シエルは、それを聞きながら呆れたようにため息をつく。
﹁お騒がせ致しました﹂
﹁えっと⋮⋮本当にクラウさんは何もしていませんよ⋮⋮?﹂
﹁もししていたら、逃がしていません﹂
一応部下を信じていたらしいシエルは、小さく呟いた。やけに恐
ろしい声音をしていたような気もするが、そこは流すことにする。
﹁レイさん、随分お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした﹂
﹁いいえ、おかげさまでお友達も出来て、私としては嬉しい限りで
す﹂
伶が心底そう思って言えば、シエルは﹁それなら良かったのです
が﹂と微笑んだ。
シエルは彼女の持つ荷物を自然に手から抜き取ると、ゆっくりと
歩き出す。伶は慌ててそれを追いかけた。
﹁シエルさん、色々お気遣い頂いてありがとうございます﹂
194
斜め前を歩くシエルにそう声をかけると、彼は顔を向けて﹁いえ﹂
と言った。
﹁レイさんには貴重な証言を頂いたばかりか、私の都合で遅くまで
残らせてしまいましたから﹂
そこまで言うと、彼は一旦足を止め、伶をじっと見つめる。
﹁エリスからは、魔術検診で特に異常は見つからなかったと聞いて
いますが⋮⋮その後体調はいかがですか?﹂
﹁いたって平常通りです。ご心配おかけしました﹂
﹁そうですか﹂
シエルは安堵したように息を吐くと、再び歩き出す。
まだ出会って数日なのに、随分と心配してくれたらしい。多くの
部下を束ねる人というのは、こういうものなのだろうかと伶はぼん
やり思った。
︵今気付いたけど、騎士の人たちがちらちらシエルさんのこと見て
るし︶
彼らの顔には、嫌悪感も畏怖も軽んじるものも感じ取られず、シ
エルが彼らにどのように思われているのかが垣間見えた。
背筋を伸ばし、顎を引いて歩くシエルは、こうして同じ家に帰る
という珍妙な状況がなければ近寄りがたいものに感じただろう。
︵つくづく、不思議なご縁︶
伶は小さく息を吐いた。
195
そしてシエルに連れられ、二人は厩舎と石壁の間にある木の陰に
やって来た。
そこには先日見たシエルの愛馬︱︱トルカがおり、彼だか彼女だ
かは平素よりも興奮しているように落ち着きがない。
何故かと思えば、トルカには箱型の車、リアカーにしか見えない
物が繋がれており、トルカはそれを気に食わないとで言うように足
を踏み鳴らしている。
﹁シエルさん、それは一体⋮⋮?﹂
大きさとしては八十センチ四方ほどだろうか。木箱の角を金属で
補強した二輪のそれは、田園風景の中に紛れてもおかしくなさそう
な見栄えをしており、美しい姿の白馬には全く似合っていない。
中にクッションが二つほど置かれているのに気付き、伶は何だか
嫌な予感がした。
﹁レイさんに乗って頂こうかと思いまして、用意しました﹂
﹁ドナドナか!﹂
反射的に、伶は突っ込んだ。
三十路をのーせーてー、とでも歌えばいいのかと伶は頭が痛くな
りそうだった。シエルが何故これを以って、さも名案とばかりの顔
をしていられるのかが分からない。
﹁いけませんでしたか?﹂
心底不思議そうに彼女を見下ろすシエルに、伶は疲労感を滲ませ
て口を開く。
196
﹁いや、これはさすがにおかしいと思うんですが⋮⋮。すっごく目
立つと思いますよ﹂
みすぼらしいリアカーに若くもない女を乗せて、街を疾走する白
馬の騎士。何ともシュール。
﹁⋮⋮そう、ですね。それはちょっと﹂
彼女が一緒に住んでいるという事をクラウに口止めするくらいだ
から、人目を避けたいに違いないとの彼女の読みは当たっていたら
しい。シエルが考え込むような体勢を取る。
﹁では、一人用の車でも借りてきましょう。申請が必要なので少し
時間はかかりますが、おそらく問題ないでしょう﹂
一人用の人力車のようなものだろうかと、伶は考える。
そんな彼女の少し先、シエルの横で、トルカが﹁ふざけるな﹂と
でも言いたそうに身じろぐ。どうやら、荷物を引かされるのは辛抱
たまらないらしい。
馬具とリアカーの立てるガチャガチャとした音が響き、トルカは
荒く息を吐き出している。しかもトルカは何故か主人でなく伶を睨
み付けており、このままでは後ろ足で蹴り殺されかねないと彼女は
思った。
﹁そんな手間をおかけするわけにはいきませんし、以前のように一
緒に乗せては頂けませんか?﹂
﹁以前、ですか﹂
そういえば﹃このシエル﹄には覚えがないかもしれないと思った
が、すぐ近くにいる巨大な荒ぶる馬を前に、後には引けない。眉を
197
寄せるシエルに、必死の視線を送る。
﹁女性と密着するというのはどうかと﹂
予想してましたと、伶はがくりと肩を落とす。
最初は、この頑なさは騎士の特性かと思ったが、クラウは何の躊
躇もなく彼女を相乗りさせた為、やはりシエルだけなのだと思い直
した。こと女性との距離に関して、彼は非常に頑固だ。
﹁じゃあ、一人で帰ります﹂
﹁事件に巻き込まれたばかりで何を言うんですか﹂
シエルは即座に却下した。
どう言いくるめるかと伶が考えていると、シエルが来た道の方へ
身体の向きを変える。
﹁やはり車を借りてきます。申し訳ありませんが、レイさんは少し
だけ此処でお待ちを﹂
間の抜けた顔で﹁え﹂と口を開く伶の横をシエルが通り過ぎると
同時に、トルカが前足を持ち上げて大きくいなないた。感情の読め
ない瞳が、伶に呪う苛烈さで向けられる。
今にも突進してきそうな白馬に、伶は青ざめた。
︵やばい、殺される︶
本能的にそう感じた。
この馬にこれ以上リアカーだか車だかを押し付けては、その予想
が真実になりかねない。
198
﹁し⋮⋮シエルさんごめんなさい!﹂
﹁レイさん!?﹂
伶は、咄嗟にその場から逃げ出した。
後ろからシエルが彼女を呼ぶ声と、それを遮るようなトルカの嘶
き声が聞こえてきたが、脇目も振らずに駆ける。
砦の入口のいる門番らしき騎士に﹁お疲れ様ですさようなら!﹂
と片手を上げ、走り抜けた。
とはいえ、長距離を走れるほどの体力は彼女にはなかった。
ぜえぜえと息も絶え絶えにペースを落として歩くこと数分、背後
から石畳を駆ける馬の足音が聞こえてくる。
﹁レイさん!﹂
振り向けば、案の定馬に乗ったシエルが近づいてきた。
しっかりリアカー装備は外してきたようで、トルカは先ほどまで
の荒ぶりはどこへやら、すまし顔で︱︱馬にそう言っていいのかは
分からないが︱︱足を止めた。
﹁どうしたんです、急に一人で駆け出すなど⋮⋮! 貴女は今日事
件に巻き込まれたことをお忘れですか﹂
きつく眉を寄せて馬上から見下ろすシエルに、伶は大人しく頭を
下げた。
﹁す、すみません。急に走り出さなければ全身が痒くなる持病が﹂
久々の中距離走で五月蠅い程に脈動する胸を押さえ、伶はさらり
199
と息と虚言を吐いた。 シエルは当然のごとく眉間の皺を深めて口を引き結んだが、大人
気なかったのは理解しているので伶は黙って冷ややかな視線に耐え
た。
﹁⋮⋮分かりました、もういいです﹂
大きなため息が聞こえ、伶は顔を上げた。
怒っているかと思いきや、シエルはどこか困ったような表情を浮
かべている。彼は軽々とトルカから降りると、伶の前に着地した。
しばし彼女を無言で見下ろす。
じりじりとした沈黙が伶には重く感じられた。
﹁︱︱レイさんは、よく分かりません﹂
ぽつりと、シエルが呟く。
﹁じ、自覚はあります。本当にすみません﹂
伶が謝ると、シエルは首を振った。
﹁しっかりしているようで、時折突拍子もない行動を取る。予想が
出来なくて、見ていて怖くなります﹂
﹁ご迷惑をおかけして、面目もございません⋮⋮﹂
ただでさえ衣食住で迷惑をかけているのにと、伶は消え入りたく
なった。
俯いて、気恥ずかしさと申し訳なさに縮こまる。 顔が燃えそうに熱くなるのに耐えていると、シエルの手が視界に
200
入った。
﹁失礼します﹂
﹁なに︱︱わあ!?﹂
シエルに腰を掴まれ、持ち上げられる。
急なことに伶が動けずにいると、彼は彼女をトルカの上に乗せ、
自分は手綱を握った。シエルが歩き出すのに合わせて、トルカも足
を進める。
﹁シエルさん?﹂
ゆっくりと歩くトルカの背の上で、伶はシエルに背中に向かって
声をかける。普段は見えない彼の亜麻色の頭が、沈みゆく日の光を
受けて輝いている。
しばらく無言で歩いてから、再度シエルから言葉が流れてきた。
﹁︱︱ご自分の安全を考えて下さい。こちらとしても肝を冷やされ
ます﹂
﹁う、はい、申し訳ありません⋮⋮﹂
胃がきゅっと縮むのを感じながら、伶はトルカの頭に目をやって
気を紛らわせようと無駄な努力をする。
﹁⋮⋮ですが、迷惑だとは思ってはいません﹂
小さく呟かれた言葉に、伶は目を瞬かせた。
﹁確かに色々な意味で驚かされはしますが、自分の精進不足が分か
って良い機会です﹂
201
﹁え、いやその﹂
シエルはそこで初めて伶に顔を向け、仕方がないとでも言いたそ
うな苦い笑みを浮かべる。
﹁貴女に遠慮などされぬよう、私が精進すれば済むことですから﹂
﹁シエルさん⋮⋮﹂
﹁ですが、この状況下で先ほどのような行動はしないと約束して下
さい﹂
顔を険しくして﹁さすがに二度目は怒ります﹂と念を押すシエル
に、伶は力が抜けたように微笑み、口角を上げた。
﹁はい、約束します﹂
伶の言葉を聞いて、シエルは再び前を向いた。もう彼女からシエ
ルの表情を伺うことは出来ないけれど、きっと呆れているか、ため
息でもつきたいような顔をしているのだろう。
彼の優しさに、伶も前を向き声もなく苦笑する。
何だかんだと面倒見の良い人なのだなと、伶は思った。
しばらく進み、人気のない通りに入ってから、散々﹁一緒に乗っ
て下さい﹂とごねる伶にシエルが折れた。馬上にも聞こえる程大き
なため息をつき、﹁仕事の一環だと思うことにします﹂と言ったシ
エルは、頭を押さえていた。
彼が度々訪れるという料理屋で数品買って家に戻り、昼に用意し
たありあわせの物で汁物を付け足すだけの簡単な夕食を共にする。
変な事件に巻き込まれても、結局彼女の一日は、平凡と思えるも
のに帰着した。
202
203
14. 外出
意識を失うように寝入った伶だったが、翌朝はかろうじてシエル
の少し後に起きることが出来た。
トルカ
シエルが何度も﹁トルカ、静かに!﹂と抑えた声で注意しても、
庭で嘶き続けてくれた馬のおかげである。
︵あの馬、下手しなくとも私より頭良い気がする︶
微妙に釈然としない思いを抱えつつも、伶は新品の服に着替え、
開けっ放しだった窓を閉めてから一階へ降りて行った。
﹁そういえば、先日言った事を憶えていらっしゃいますか?﹂
食卓を囲みながら、シエルがそんな風に話を切り出した。
ちなみに今朝のメニューは、惣菜クレープ二種だ。具材は昨日の
残りのバーベキューチキンもどきと、ソーセージエッグに野菜。そ
れらを硬めに焼いた厚めの生地で包んだものになる。ちなみにオニ
オンスープ付き。玉ねぎを小判型につぶしたような、平ねぎという
野菜は、玉ねぎよりも早く甘みが出てくれて大変助かる、と満足そ
うに伶はスープを口にした。
﹁先日と言うと⋮⋮﹂
次々とシエルの口の中へ消えていく料理を眺めながら、伶は彼の
言葉を反芻する。
しかし、かきこんでいるわけでもないのに、凄まじい速度で消費
されていくクレープを見ていると、いまいち考えがまとまらない。
204
彼女の視線に気が付いたのか、シエルが食事の手を止めた。
﹁家具の件です﹂
﹁ああ!﹂
正直なところ、昨日の出来事のせいですっかり忘れていた。言わ
れてみれば、確かに今日の夕方、家具を見に行く約束をしていたは
ずだ。あれだけ押し問答を繰り返してこぎつけた約束だというのに、
頭から抜け落ちるとは何たる不覚。伶は若干項垂れたが、茶を口に
含んで持ち直した。
﹁今日の夕方に出かけるって件ですよね﹂
﹁はい。申し訳ないのですが、昨日起きた事件のために予定が変更
になるかもしれません﹂
すまなそうに言うシエルに、伶は大きく首を振った。
﹁謝らないでください、シエルさん。元々、私が無理を言って連れ
て行ってもらうことになったんですから、取り止めになっても問題
ないです。どうぞ遠慮なく、お仕事を優先させて下さい﹂
生真面目なシエルの事だから、キャンセルするのに気が咎めてい
るかもしれないと思い、伶は努めて明るく告げた。だが、彼女の努
力に反してシエルは怪訝そうな顔をしている。
﹁いえ、単に少し遅くなるかもしれないというだけですが﹂
﹁え⋮⋮仕事が大変だからやめにするんじゃないんですか?﹂
﹁報告を待つ必要はありますが、残業する程ではありません。第一、
一度交わした約束は反故にしませんよ﹂
205
当然とばかりに、シエルは真顔で言い切った。
そこまで一つ一つに真剣で、疲れたりしないのだろうかと伶は少
し心配になる。実際、こんな得体の知れない女につけこまれている
わけだから、やはり疲れているのではないだろうか。
そんな要らぬ心配を心に抱きつつ、シエルが出ていくのを見送っ
た。
* * *
時間まで、伶は昨日出来なかった買い出しや掃除を終わらせ、夕
食の下拵えを済ませた。家事を仕事にする身としては、夕食前と後、
どっちに出かけるのかが非常に気になるのだが、そこは事前に打ち
合わせるのを忘れたのだから仕方がない。
万一、外出後に夕食にする場合に備えて、スコーンを作っておく。
もしシエルが空腹なら、それを摘まんでもらえばいい。もし要らな
いのなら、彼女の明日の昼食になるだけだ。
そんな風に慌ただしい時間を過ごしていると、部屋が暗くなり始
めた頃にシエルが戻ってくる。
彼が玄関で甲冑を外して手を洗いに行っている間に、茶とジャム
を添えたスコーンをテーブルに置いておくと、それを見てシエルが
微笑んだ。
﹁小腹が減っていたので、助かります﹂
彼がソファに腰かけたのを見て、彼女も正面に座る。同じくお茶
を口にし、相変わらずの速度で綺麗に消えていく食べ物を眺めた。
206
﹁そういえば、今日はどの辺りに出かけるんですか?﹂
ずっと疑問に思っていたことを口に出せば、シエルが答える。
﹁職人街まで足を運ぼうと思っています。あの辺りでは隔日で見本
市が開かれていますし、この時間帯から開き始める店も多いですか
ら﹂
見本市と聞いて、伶は目を輝かせた。道の駅や露店、朝市や青果
市。市場という言葉が持つ魔力は凄まじいと彼女は思う。職人街に
は行った事がないので、そちらも今からどんな場所なのかと期待に
胸を膨らませた。
﹁それは楽しみです。でも、遠いんじゃないですか?﹂
職人街は都の入り口周辺にある。
昨日騎士団の本部から送ってもらった時に気付いたのだが、意外
にもこの家は王城に近い。豪勢な、それこそハリウッド映画とかで
見かけるような豪邸の間を抜け、ようやく家々が小ぶりになってき
た辺りを少し行った所に、シエルの家はある。間違いなく、王都の
中心よりも王城寄りだ。
﹁そうですね。徒歩ではやや遠いので、乗合馬車を使おうと思いま
す﹂
乗合馬車。
一応定義は知っていても、正直伶にはどんなものか想像もつかな
い。ここで乗合馬車ってなんですかと尋ねて、それがポピュラーな
乗り物だった場合、シエルに不信感を持たれるのは恐ろしい。さも
知っている風を装って、伶は﹁そうですか﹂と頷いた。
207
あっという間にシエルは間食を終え、着替えの為に二階へ行った。
伶は食器を洗い、自分の荷物を取って来る。その後すぐに、シエル
が階下へやって来た。
普段見ているような、鎧下に着るゆったり目の服ではなく、彼の
体躯によく合った簡素な服装をしている。Vネックの上着に黒の下
衣というシンプルな服装なのに、おしゃれに見えるとはどういうこ
とだ。腰に帯びた剣にプラス補正機能とかついているのか、と伶は
思った。
﹁お待たせしました﹂
小さな微笑みを唇に乗せて、シエルが彼女を見下ろす。
長身に、姿勢の良さと凛々しさが加わって、何だか眩しい。すっ
ぴんで隣に立つのが心底つらくなってくるので、他に向ける鋭い視
線を、知人用の若干柔らかなものに変えてこちらを見ないでほしい。
伶は無意識に視線を逸らした。
﹁い、いえ。よろしくお願いします﹂
家を共に出て、玄関の扉と門に鍵をかけて通りに出る。
いつもの広場に向かう道とは別の道をしばらく進むと、少し幅の
広い道にぶつかった。通りの向こう側には大邸宅がいくつも見え、
まるでその道が境界線かのように、はっきりと階級の違いを伝えて
いる。
交差点から視線を右手にずらせば、田舎のバス停を思わせる、屋
根とベンチだけの停留所があった。
﹁わ、素敵⋮⋮!﹂
208
ただ、停留所に置かれているベンチは、プラスチックのみすぼら
しい物ではない。彫り細工が背もたれに施された木製の長椅子は、
磨き抜かれて艶があり、シダに似たデザインの肘掛部分は曲線が優
美に見える。
﹁これは﹃エノメ工房﹄の物ですね。見本市に出店しているか探し
てみましょうか﹂
シエルが、背板の中心に彫られた店名プレートらしき物を指さし
ながら言う。どうやらこの椅子は、店の宣伝を兼ねて提供された品
のようだ。
こんな上等な品が見られるのならと、これから向かう見本市への
期待が余計に高まった。
﹁レイさん、来たようですよ﹂
長椅子を後ろから見たり肘掛を撫でてみたりしている伶に、シエ
ルが苦笑しながら声をかけた。
椅子から顔を上げて通りを見れば、三頭の馬に引かれた馬車が向
かって来るところだった。シエルの隣に並び立つと同時に、馬たち
が目の前で止まる。
﹁おっきい⋮⋮!﹂
伶が思わず叫んでしまうほどに、その馬車は大きかった。
車部分が二階建てになっており、窓付きの一階部分の後方に入口
がある。車の後ろに設けられた段差を、二段上がって扉に入れば一
階。そのまま隣の階段を登れば、屋根のない二階へ行ける。二階の
柵から下がるチューリップ型のランプも美しかった。
209
﹁これは王都の名物でもある青馬車です。速度はさほど出ませんが、
乗り心地と二階からの景観は中々のものですよ﹂
﹁へー、格好いいですねえ﹂
一人でうっとりと馬車を眺めている伶に、シエルが微笑みながら
説明した。白い車体にターコイズブルーの模様が這う姿は、確かに
青馬車と呼ばれるのも納得の見栄えだった。
伶が見惚れていると、上から小さな籠が垂らされる。
何かと見上げれば、一階の屋根に腰かけるように、御者席があっ
た。そこから顔を覗かせる中年男性が、棒の先に取り付けた籠を差
し出している。
﹁二人分です﹂
シエルは御者にそう言うと、小銭をかごの中に入れる。御者はそ
れを引き上げて金額を確認すると、右手を動かした。
﹁さあレイさん、乗りましょうか﹂
﹁え?﹂
歩き出すシエルに続くと、馬車の扉が一階も二階も開いていた。
﹁好きな方へどうぞ﹂
﹁いいんですか?﹂
片手を馬車へと広げるシエルを伶が仰ぎ見れば、彼は促すように
頷いた。
﹁では、遠慮なく。ありがとうございます、シエルさん!﹂
210
宣言通り、伶は逸る思いに突き動かされるように狭い階段を上り、
二階へ向かった。
二階部分は、電車の内部に似ている。向かい合うように置かれた、
八人掛けの長椅子が二脚。中央には掴まる為の手すりが縦に三本あ
り、それらもまた手すりで横に繋がれている。
既に乗客が七人ほどいたため、一番スペースのある右手手前を選
んで腰を掛けた。
後からやってきたシエルが下半分だけの扉を閉めれば、ゆっくり
と馬車は進み出す。
﹁シエルさん、こっちです、こっち﹂
隣の席をぽんぽんと叩きながら、伶は彼に手を振った。
シエルは一瞬彼女の前で立ち止まり、座るかどうかを悩んでいる
様子だったが、彼女があまりにも興奮状態で席を叩き続けるのに負
け、大人しく隣に座った。当然、密着しないように手のひら一つ分
間隔を空けている。
だが、伶は気にしなかった。
クッションのしっかりした椅子は座り心地よく、ゆっくりと流れ
ていく街の景観は目新しい。彼女はシエルに声をかけられるまで、
飽きもせずに周りを眺めていた。
﹁そろそろ降りますよ﹂
﹁え、もうですか?﹂
彼女が反射的にそう言えば、シエルは苦笑しながら﹁はい、残念
ながら﹂と返した。
立ち上がったシエルが手すりにぶら下げられた鐘の紐を引くと、
カランコロンと音が響く。
211
︵あれが、降りますって合図なのかな?︶
興味深く鐘と御者を見やっていると、車内の女性たちがちらちら
と視線を動かしていることに今更ながら気が付いた。
︵⋮⋮ああ、そっか︶
四人いる女性達の視線は、手すりに手を置き、遠くに目を向けて
いるシエルに注がれている。彼が車内の方を見ていないのをよいこ
とに、彼女らは堂々と熱い視線を送っていた。
そういえば、シエルを街中で見かけるのはこれが初めてだと伶は
気が付く。だから、彼が女性に注目される類の男性だと言う事をす
っかり失念していた。
︵確かに、格好いいもんなぁ︶
引き締まった長身に、隙の見当たらない鋭い視線、精悍な顔立ち。
凛とし過ぎていて、強面ではないのに気軽に声をかけるのは躊躇わ
れるが、美形なのは間違いない。
︵その上、真面目で面倒見もいいしね。まあ、お堅すぎるのはどう
かと思うけど、浮気性よりかは遥かにマシだし︶
シエルの横顔を見ていると、とてもではないがあんな出会い方を
したのだとは信じられなくなる。たまに彼女は、あれは夢だったの
ではないかと思うほどだ。
しかし、それでも確かに、彼女はあの瞳が違う色に染まることを
知っている。
﹁どうかしましたか?﹂
212
﹁え﹂
じっと見ていたせいか、シエルが伶に問いかける。直後、あから
さまな敵意が彼女に向けられた。
同じ顔でも全く違う感情で彼女を見つめるシエルに、伶の顔が赤
くなる。一体自分は何を思い出しているのか。まるで彼の優しさを
穢しているようで、伶は恥ずかしくなった。
﹁い、いえ。そろそろ止まる頃かなと思いまして﹂
﹁そうですね、もう着いても良い⋮⋮ああ、到着したようです﹂
馬車は、高い建物に挟まれた広場の前で止まった。
彼女がよく行く広場の二倍ほどの広さを持つそこには、大小様々
なテントや、シートを敷いただけの露店がひしめき合い、夕方だと
いうのに賑わっている。
完全に馬車が動かなくなったと同時に、勝手に扉が開いた。
﹁レイさん、行きましょう﹂
シエルは彼女が立ち上がったのを見届けると先に階段を下り始め、
伶は慌てて追いかけた。シエルはすでに車を降りていて、彼女が落
ちても平気なように降り口で伶を待っている。
︵なんだかんだ言って、車道側は歩かせないし、荷物は持ってくれ
るし、こうやって気を遣ってくれるし、エスコート慣れしてるよね︶
シエルに礼を言って、ステップを下りる。二人と入れ違いになる
ように四人ほど乗客が乗り込むと、馬車は去っていった。
正直、まだ乗っていたいような心地よさだったが、恐らく帰りも
利用するはずだ。
213
なお、馬車の運賃をシエルに返そうとしたら、﹁必要経費です﹂
と流された。今度食費に足しておこうと彼女は心にとめておく。
今はそれより、見本市である。
﹁シエルさん、これは何の見本市なんですか?﹂
﹁工芸品が主ですね。見本を此処で展示して注文を受け、昼間は各
工房で製作するんです。大きな物は自宅まで配送してくれますし、
店舗に取りに行くことも可能ですよ﹂
言われてみれば、確かに殆どのブースが基本の形と、装飾のデザ
インを合わせて展示していた。王都ともなれば地価も高いのだろう
し、完成品を展示して売るスペースは殆どないのかもしれない。
﹁配送もしてくれるなんて、便利ですねえ。そういえば、シエルさ
んは本日何を?﹂
﹁食卓用の机と、椅子を⋮⋮四脚です﹂
そして二人は、露店の間を抜けていく。あれが良い、これは華美
過ぎる、いやそれは⋮⋮などと意見を交わしながら、様々な見本を
見て行った。シエルはあまりデザインなど気にしなそうに見えたが、
意外にもしっかりと意見を出している。
結局二人が製作を頼むことにしたのは、停留所のベンチを作った
工房だった。
デザインを選んで、椅子や机の高さを相談する。シエルに合わせ
れば伶には高く、伶に合わせればシエルにとって低すぎる。伶に合
わせた椅子と机に座ったシエルは、非常に不便そうに見えた。シエ
ルは彼女に合わせると言ったが、買うのはシエルだし、あそこは彼
の家だ。家主に合わせるべきだと主張し続けたら、彼が先に折れた。
意外にも、シエルは押しに弱い。伶は押し負けて少し肩を落とす
シエルを見ながら、そう結論づけた。
214
発注を終え、そろそろ帰ろうかと言う頃、小物を売っている露店
の前で伶が声を上げた。
﹁あれ? まさかこれって⋮⋮﹂
﹁ああ、時計ですね。仕掛け時計とは珍しい﹂
カウンターの上に並べられているのは、まさに大小異なる時計だ
った。この世界に家庭用の時計はないと思っていた伶は、懐かしい
文字盤を見て驚いた。もっとも、書かれた文字は読めないのだが、
時計など時刻を示す点さえあれば、使用するには充分だ。
︵大小合わせて点が二十四個ってことは、この世界も二十四時間な
んだ︶
伶は安堵の息を漏らした。さすがに一日が二十時間だったり、三
十時間だったりすれば、身体にどんな影響があるのか想像もできな
い。
﹁そういえば、レイさんの部屋には時計がありませんでしたね﹂
﹁え? あ、はい。出来れば良いのがあったら買いたいです﹂
シエルが、置時計の一つを持ち上げながら呟いたので、伶も肯定
する。
するとそれを聞きつけた売り子の男性が、すかさず商品の一つを
手にシエルの目の前に移動してきた。
﹁これなんて、女性には最高だと思いますよ﹂
花冠がモチーフになっているらしいその木製の時計は、文字盤の
215
周りを立体的な花々の彫刻で飾り立てられ、軸部分は絡み合った蔦
になっていた。花冠の下には小さな鐘が二つ、クリスマスリースの
ように付いており、好きな時刻で鳴らすことが出来るのだと店員が
自慢そうに説明する。
その目覚まし時計は、確かに可愛らしい。可愛らしいが、値段は
可愛らしくないのを伶はしっかり発見した。
﹁ふむ⋮⋮確かに、中々﹂
﹁ふむじゃないですよ、シエルさん。こっちなんてどう思いますか
?﹂
伶は実用的そのものの、四角い時計を指さした。花冠の時計より
も値段が五分の一で済むから、伶でも買える。
﹁好みではありませんか?﹂
しかしシエルは、彼女の発言をさらりと流して、花冠の時計を伶
に向けた。
﹁いや、可愛いですし、好みですけど⋮⋮﹂
予算が、とごにょごにょ口の中で呟いていると、シエルがあっさ
りと﹁ではこれで﹂と売り子に時計を渡した。
﹁え、シエルさん、待ってください!﹂
店子はにこにこ顔で受け取ると、時計を包み始めた。
﹁シ、シエルさん⋮⋮!﹂
216
袖を引けば、シエルが不思議そうに伶を見下ろす。
﹁レイさん、どうかしましたか?﹂
﹁どうかしたじゃなくてですね、その、今手持ちが⋮⋮﹂
お金がないから買えないのだと言外に伝えれば、シエルが﹁ああ﹂
と合点がいったように呟いた。
﹁私が持ちますので、遠慮は無用です﹂
﹁いやいやいや、シエルさんに出して頂く理由がありません﹂
ここで、﹁え、本当ですか? ありがとうございます!﹂と上目
遣いでも出来れば良かったのだろうが、伶は何の理由もなく奢って
もらう行為に落ち着かなくなる。魔性の女と揶揄される友人に、そ
の辺りに経験値の低さが出てるとか何とか言われたが、そんなこと
ないと伶は思いたかった。
﹁では、就職祝いということで。美味しい食事を頂いていますから
ね﹂
﹁いや、でも⋮⋮!﹂
彼女の制止も気にかけず、シエルは値段をちらりと確認すると、
財布から二重円の硬貨を店員に差し出した。つり銭を受け取るシエ
ルの隣でわたわたしていると、シエルは彼女を見下ろし口角を上げ
た。
何故、その笑みに妙な迫力を感じるのだろうか。伶は無意識に一
歩足を後ろに下げた。
﹁それに、住環境を整えることは、雇用主としての責任ですよ﹂
﹁︱︱う﹂
217
そう有無を言わせぬ微笑で言われては、これ以上渋るのも大人気
ないようで気が引ける。
﹁⋮⋮ありがとうございます、シエルさん。凄く、嬉しいです﹂
﹁どういたしまして﹂
彼女が小さく礼を言えば、シエルは目を細めてさらりと受け止め
た。慣れているのか知らないが、非常に自然な対応だ。
︵運賃も押し切られたし、何だかんだで私も扱いやすいと思われて
るのかしら︶
正直に言えば、あの時計は非常に伶の好みだった。値段が他の時
計の五倍以上するのでなければ、自分で買っていたに違いない。も
しかしたら、安い時計で当面は我慢し、次の給料で買いに来るかも
しれない程度にツボをついていた。
買ってもらった手前、慎ましやかに受け取ろうとしていた伶だっ
たが、思わず頬が緩む。
気付けばにんまりと時計が包装されていく様子を見ており、私気
持ち悪い、と慌てて伶は頬を押さえた。それでも、にんまりするの
は抑えられなかったけれど。
誰かに何かを贈られたという事実も、彼女のにやけ具合に拍車を
かけていた。それが好みの品なら喜びもひとしおだ。
﹁レイさん﹂
かけられた声に、にたーっとした表情を引き締めて伶はシエルの
方を振り返った。
シエルは、拳で口元を半分隠しながら、彼女から微妙に視線を外
218
している。それはどう見ても、笑いを隠そうとしているようだった
が、当然のごとく隠せていない。
もしかして間抜け面をずっと見られていたのだろうかと思うと、
伶は穴を掘ってでも入りたくなった。気を遣ってあからさまに笑お
うとしない彼の優しさが、むしろ痛い。
﹁笑ってもいいですよ⋮⋮﹂
﹁い、いえ。微笑ましいなと思いまして﹂
伶は何のフォローにもなっていないと思ったが、あえて突っ込む
のは止めておいた。シエルに悪意がないのは間違いない。
﹁私は馬車の乗車券を買ってきますから、もう少し此処で待ってい
て頂けますか?﹂
いつもよりも若干大きめの微笑みで、シエルが問いかけた。
﹁はい。お待ちしてます﹂
シエルは﹁ありがとうございます﹂と言うと、停留所の方へ歩い
て行った。
乗車券なんか必要だっけと疑問に思ったが、周囲の店を見て、こ
れも気遣いだったのかもしれないと気付いた。時計店の隣では櫛や
鏡が売られており、その向かいの店には刷毛や化粧用のブラシ、化
粧品まで置いてある。彼女が気兼ねなく見回れるよう、シエルは時
間をくれたのかもしれない。
﹁⋮⋮シエルさん、凄いな﹂
219
騎士団の団長職の凄さは彼女にはまだ理解しがたいものだが、ク
ラウにしろシエルにしろ、相手の心情を察することが出来るという
のは、素直に得難い能力だと思う。管理職についているのも頷ける。
尊敬すべき上司というのは、きっと彼のような人を指すのだろう
と、伶はシエルが消えた先を見ながら思った。
﹁︱︱見習わなきゃ﹂
嫌味でもなく、押し付けがましくもないシエルの思いやりに、伶
はゆるい笑みを唇に乗せた。
︱︱経緯はあれでも、共に暮らすのが彼で本当に良かった。伶は
自然と、そんな思いを抱いていた。
︵シエル・ハルナードさん︶
何故自分がこんなところに、という不満はずっと心の底で燻ぶっ
ていた。
シエルはそんな彼女に、出会って間もないというのに、いつも細
かいところまで気を配ってくれた。
だからそんなことに気を取られるよりも、帰るその瞬間まで、シ
エルに出来るだけの恩を返そう。
伶は日の落ちた空を見上げて、そう心に決めた。
﹁頑張ろう﹂
今までとは少し違う意味合いで、伶は呟く。
彼女は折角シエルが作ってくれた時間を無駄にすまいと、店に足
を向けた。
220
﹁う、うわあああっ!﹂
しかし、温かな気持ちに満たされていた時間は、すぐに誰かの悲
鳴で打ち砕かれた。
221
15. 帰宅
﹁な、なに⋮⋮?﹂
購入した櫛と眉墨、パウダーを入れた紙袋を片手に、伶は辺りを
見回した。近くにいる人々も同様に、何があったのかと声の主を探
している。
すぐにそれは、別の女性の悲鳴によって塗り替えられた。
声が上がった方向へ顔を向けた一瞬後には、悲鳴は次々と伝播し
ていくように大きくなっていき、必死の形相を浮かべた人々が伶の
いる方へと逃げてくる。
﹁え? どういうこと?﹂
あまりにも恐ろしい表情を浮かべ、立ち止まることなく駆け抜け
ていく人々に唖然としながら、伶は声を零した。逃げ惑う人々の声
は入り乱れて意味をなさず、何が起きたのか判断が出来ない。
ここは周囲に流されて自分も動きべきなのか、それともシエルと
の約束通り留まるべきなのか。伶は決めあぐねていた。
人々の波が収まりかけ、彼女と同様に困惑の表情を浮かべている
人々は、今や閑散とした広場の奥へと視線を向けて固まった。
広場の奥に、白毛の大型犬がいる。
﹁なに、あれ﹂
ただし、その﹃犬﹄は三本の雄々しく揺れる尾と、三対の赤く輝
く瞳を持っていた。
222
伶の脳裏に、この世界にやってきた日に彼女を襲った﹃獣﹄の姿
が蘇る。明らかに異なる部位を持っているのにもかかわらず、この
﹃犬﹄はあの魔獣を連想させた。
ぽたりぽたりと、裂けるように開いた口からは唾液が漏れ、とて
もではないが正気とは思えない。ソレはやけに長過ぎる紫色の舌を
出し唾液を滴らせたまま、鼻先を宙に向け何かを探すように顔を左
右に振っていた。
﹁ま、魔物だああっ!﹂
誰かが叫んだのを皮切りに、伶の周囲にまだ残っていた人々も我
先にと駆け出した。露店の奥から出てくる人々や、荷物を両手いっ
ぱいに抱えたままぶつかってくる人々に飲まれ、この世界では小柄
に属する伶は身動きが思うように取れなくなる。
倒れてしまえば、比喩でなく踏みつぶされてしまうであろう状況
に、彼女は必死で足を踏みしめ人間の奔流に耐えた。
荷物を抱きかかえ、ただ倒れないようにとだけ縮こまっていた伶
は、いつの間にか自分が人々の最後尾になっていたことにも気が付
かなかった。
急にぶつかってくる人間がいなくなったことを疑問に思い、伶は
そろりと周りに顔を向ける。
﹁え⋮⋮﹂
隣には誰もおらず、少し離れた先に人々の背中が見える。
置いて行かれる。
伶は顔面を蒼白にして、他の人を追いかけようと思った。
しかし何を思ってか、彼女は駆け出す前に後ろを振り返った。
223
﹁︱︱﹂
魔物の六つある赤い目が、彼女を捉えたように感じた。
全身の毛が逆立つような怖気に襲われた伶は、前に出した足を石
畳に引っかけ、転びそうになる。前を向いて逃げなくてはいけない
のに、目を逸らした瞬間に襲いかかられそうな気がして、満足に顔
も動かすことが出来ない。
魔物は何を考えているのか、身動き一つ取らずに、ただ彼女の様
子を窺っている。
︵逃げなきゃ!︶
なのに、手元できつく握りつぶした紙袋が音を立てても、伶は弱
々しくしか動くことが出来なかった。
音に気を引かれたのか、魔物が太い足を一歩、また一歩と前に出
し始める。だが、相変わらず魔物は果敢に襲いかかるでもなく、散
歩でもしているようなゆっくりさで歩いている。その余裕が、逆に
伶をますます混乱に陥らせた。
﹁う、わあっ!﹂
誰かに倒されたらしき椅子の背もたれ部分に足を引っかけ、伶は
身体を横にして石畳に倒れ込む。クッション性の全くない地面に身
体を打ち付け、伶は右半身を襲う痛みに顔を顰めた。じくじくとし
た痛みに腕を見れば、すりむけた皮膚から僅かに血が滲んでいる。
﹁グァゥウウッ!﹂
血の匂いに誘発されたのか、突如魔物は大きな唸り声を上げ、彼
224
女に向かって駆け出した。
口の皮を捲り上げて突進してくる魔物はどう考えても友好的には
見えず、伶は震えながらも全力で起き上がる。獣が足を体勢を低く
して飛ぶような姿勢を見せたの目の端にとらえ、伶は逃げるのには
遅すぎると感じた。
魔物は地面を蹴り上げると、彼女に上から飛び掛かる。
伶は、鋭い爪が届く前に転がっている椅子を掴むと、椅子を横か
ら回すように無我夢中で振るった。
頑丈な椅子の背板が獣の横っ面を叩いたが、それで勢いのついた
魔物を吹き飛ばせるわけもなく、獣は椅子を巻き込んで彼女のすぐ
隣に着地する。
牙を剥き出しにしてこちらを喰らいかかる魔物に、伶は咄嗟に椅
子を引き上げ、脚部を口に押し込めた。
﹁ウガゥウッ﹂
口の中に脚を刺し込まれた獣は悲鳴を上げ、伶はその隙に露店の
カウンター裏へと逃げ込んだ。
魔物はベキベキという大きな音と共に椅子を噛み砕き、他の人々
には目もくれず彼女を睨み付ける。
﹁な、なんでこんなのばっかり⋮⋮!﹂
初日といい、今といい、何故こんな目に遭わなければいけないの
か。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。伶は泣きそ
うになりながらも、武器になりそうなものを探して辺りを見回す。
良さそうなものが見つかる前に、魔物が再び体勢を低くし、彼女
に襲いかかろうと石畳を蹴った。
225
﹁っ!﹂
伶は、咄嗟に露店のカウンターに隠れるようにしゃがみ込む。
﹁ギャゥンッ!﹂
どこに衝撃がくるかと怯えていた伶の耳に、獣の甲高い鳴き声が
響いてきた。
魔物が襲ってくる気配はない。
不安になってカウンターからしずしずと顔だけのぞかせると、伶
の目の前を誰かが駆け抜けていく。彼の進行方向に目をやれば、先
ほどまで目の前にいたはずの魔獣が随分と遠くに飛ばされており、
若干ぎこちない動きで起き上がるところだった。
﹁シエルさん!﹂
走って行く彼︱︱シエルの左腕には朱色の光が纏わりつくように
灯っており、獣のもとへ辿り着く直前に大きく勢いを増した。彼が
下からすくい上げるように左腕を振ると、光は彼の腕を離れて炎へ
と転じ、魔物へと飛んでいく。
自分を包むほど大きな火炎の塊に対し、獣は着弾する前に横へ飛
び退いた。
そこへ、シエルは両手に握りしめた剣を思い切り振り下ろす。
﹁ひ︱︱﹂
音もなく、犬に似た魔物の首が切り落とされるのを見て、伶は思
わず声を上げた。獣の四肢は、時間差を感じさせるようにゆっくり
と崩れおち、頭の横に倒れる。じわりと広がっていく紫色の血を見
226
て、それが本当にただの獣ではないのだと伶に思い知らせた。
シエルはこちらに背を向けたまま、獣を静かに見下ろしている。
辺りは先ほどよりも静かにはなっていたが、まだ大きなざわめき
に支配されていた。誰も、彼女やシエルに近づいてこようとはしな
い。
伶はばくばくと音を立てる胸を押さえながら、露店の後ろから姿
を現した。
森の時と異なり、今は、シエルに殺された魔物の死体が彼の足元
に転がっている。
近づくのは、非常に躊躇われた。
︵⋮⋮いや、でも、助けてもらっといて何様ってもんよね︶
伶は自分を奮い立たせるように首を振ると、シエルの方に近づい
て行った。
彼の一メートル程手前までやってくれば、そこは魔獣の血の臭い
が漂っていた。色は違っても、香りは人間と一緒なんだなと、そん
なことを伶は考えた。
﹁シエル、さん﹂
シエルの後ろ姿に声をかければ、ゆっくりとシエルがこちらを振
り返る。
﹁レイさん、ご無事ですか?﹂
表情も何も変えず、シエルは平素と同じように見える。ただ、血
227
の滴る剣と、血のはねた白い上着だけが非日常的。
少しだけそんなシエルを恐れなかったかと言われれば嘘になるが、
それでも感謝の気持ちはより大きい。
﹁はい、おかげさまで。シエルさんこそ、無事で︱︱﹂
特に怪我をした様子もないシエルに、伶が安堵の息を漏らした時、
視界の端で何かが動いた。
胴から切り離され、転がっていたはずの魔獣の頭部が動き、閉じ
かかっていた六つの目が爛々と輝いている。
その頭が何をする気なのかに思い当たって、伶は叫んだ。
﹁シエルさん、危ない!﹂
そして、彼女はシエルに向かって躊躇なく体当たりを仕掛ける。
彼女の指がシエルに触れるのと、魔獣の頭が襲いかかろうと地面
を離れるのは、ほぼ同時だった。
﹁うわっ!?﹂
だが、シエルに身体ごとぶつかって魔獣の攻撃から逃れようとし
た彼女は、シエルの片腕で抱きとめられる。彼は片腕で彼女を自分
に押し付けると、そのまま横にずれ、脇をかすめた魔獣の頭に剣を
振り下ろした。
がりっ、と剣が何かに食い込む嫌な音が聞こえたが、シエルの胸
に身体を固定されている伶は、その音の原因を確かめることは出来
なかった。
硬い身体に顔を押し付けられ、どくどくというシエルの心臓の音
が聞こえてくる。魔物の死体も、血を纏ったシエルのどこか恐ろし
い姿も、頭からかき消える。抱きすくめられているという状況を理
228
解して、伶は引いていた血の気が一気に戻ってくるのを感じた。
﹁シ、シエルさん﹂
離してほしいと訴えれば、シエルはその体勢のまま身体の向きを
変え、彼女の両肩に手を置いて身を離した。
ようやく一息ついた伶が彼を見上げれば、シエルは伶が今まで見
たなかで一番機嫌の悪そうな表情を浮かべている。
﹁︱︱無茶はしないと、約束したと思いますが﹂
伶の両肩に置かれたシエルの手に、痛いくらい力が入る。
﹁え、いや、だって⋮⋮シエルさんが危ないと思って﹂
伶がしどろもどろにそう言えば、シエルは眉の皺を更に深めて、
地を這う様な低く淡々とした声を響かせた。
﹁私は騎士です。腕を失い腹に穴が開こうとも、人々を守る義務が
あります。貴女に自分を守らせるなど、あってはならない﹂
﹁そんなの⋮⋮。二人とも無事な方がいいじゃないですか﹂
﹁それは結果論です。貴女は剣が扱えますか? 魔術は? 自衛の
手段すらない人間が出てきても、事態が好転することなど滅多にあ
りません﹂
言葉の外ではっきりと、邪魔でしかないのだから大人しくしてい
ろという意味を込めるシエルに、伶は唇を噛みしめた。
きっとシエルは、別にチート的な能力があるわけでも、身体能力
が優れているわけでもない伶が怪我をしないようにと、注意してく
れているのだろう。
229
それは分かるのだ。分かるのだが。伶は拳を強く握ると、キッと
シエルをねめつけた。
﹁確かに、シエルさんのおっしゃることは正しいです﹂
﹁⋮⋮でしたら、もう二度と︱︱﹂
﹁でも!﹂
シエルの言葉を遮って、伶は声高に続ける。
﹁確かにシエルさんにとっては、私なんて赤子ほどに弱い存在なん
でしょうけど、でも私は赤ん坊じゃないんです。確かに私は剣も魔
術も使えません。非力だと自分でも分かっています。それでも私に
だって、出来る事くらいあります!﹂
伶は状況も忘れ、ただ叫んだ。
﹁脆弱だひ弱だって分かってたって、自分に出来る範囲でシエルさ
んを守ろうとしたっていいじゃないですか⋮⋮!﹂
こんなに大きな声を出すことなんて、もう随分と長いことなかっ
た。
感情的になる自分が恥ずかしい反面、どうしても我慢できなかっ
たのだ。人々を守るのが騎士の仕事だからって、その騎士が自分の
代わりに傷つくのをただ眺めていろなんて、無理な話ではないか。
伶がシエルを睨み付ければ、彼はただ目を見開いて、彼女を見下
ろしていた。
﹁⋮⋮﹂
230
どれほど経った頃か。
あまりにも呆然自失といった様子で彼女を見つめてくるシエルに、
伶は怪訝な表情を浮かべて彼の名を呼んだ。
﹁シエルさん?﹂
﹁︱︱っ﹂
その声にハッとしたように、シエルは口を開けた。
直後、彼の顔が耳まで真っ赤に染まる。
﹁⋮⋮え?﹂
何故ここでシエルが真っ赤になるのか全く分からず、伶は思わず
目つきも悪くじろじろと彼を見つめてしまった。
﹁あ︱︱﹂
それに気付いたシエルは、彼女の肩から外した手を顔に当て、伶
の視線から逃れるように顔を背ける。もっとも、彼の耳は今も赤く
染まったままである。
﹁すみません、そう⋮⋮ですよね。そう、でした﹂
﹁シエルさん?﹂
あまりに様子のおかしいシエルに伶が首を傾げれば、シエルは何
事がもごもごと口の中で呟いている。
﹁⋮⋮シエルさん、大丈夫ですか?﹂
いつもの凛々しい姿とは一転、一気に挙動不審になったシエルに、
231
伶もさすがに心配になって声をかけた。彼はそれを片手の指の隙間
から見てとめると、深く息をついた。
﹁大丈夫です﹂
いつもよりも張りのない声はとても大丈夫そうではなかったが、
手を外して口を引き結ぶと、シエルは伶を真っ直ぐに見据えた。
﹁私は、ただ︱︱﹂
﹁ハルナード団長!﹂
シエルの言葉は、闖入者の声で遮られた。
声の主を見てみれば、騎士の格好をした男性が一人、シエルに向
かって駆け寄ってくるところだった。
﹁大変遅くなり申し訳ございません! 巡視兵三名、只今到着いた
しました!﹂
シエルに向かって敬礼する騎士の後ろから、他にも二名の騎士が
こちらへ駆けてくる。
シエルは彼らを見ると、顔を真剣なものに変えて向き直った。
﹁︱︱二名は現場の保全、一名は目撃者各位に状況説明を行い事情
聴取の準備に取りかかれ。私は本部への連絡と救援要請を行う。魔
術索法の結果魔物は一体のみであり、それは既に無力化が済んでい
る。以上、質問は﹂
﹁ありません!﹂
﹁ならば即刻取りかかれ﹂
﹁はっ!﹂
232
彼らは寸分違わぬ敬礼を行うと、勢いよく駆けて行った。
シエルと騎士たちのあまりに軍人めいた態度に、伶はぽかんと口
を開けて去っていく騎士たちを目で追ってしまった。
﹁レイさん﹂
﹁はっ﹂
ただびくりとした拍子に口から零れただけなのだが、部下と同じ
ような返事を口にした伶に、シエルが苦笑いを浮かべる。
﹁申し訳ありませんが、私はこれから騎士団に戻らなければなりま
せん。暗い中レイさんを残すことは勿論すべきではないのですが⋮
⋮﹂
﹁分かってます。一人で戻れますから、シエルさんは心置きなくお
仕事に専念してください﹂
いつものシエルなら、ここで﹃一人で残すなど﹄やら何やら言い
そうだが、彼は大人しく頷いた。彼女に小さな銀の板を渡して、口
を開く。
﹁三番停留所から、往路で使った停留所まで戻れます。これを見せ
ればそのまま乗れますから、充分注意してお戻りください﹂
﹁はい、ありがとうございます、シエルさん﹂
シエルは彼女を返事を確認すると、顔を引き締めて視線を上げた。
立ち去ろうとするシエルを、伶は一度だけ呼びとめる。
﹁シエルさん﹂
﹁はい?﹂
233
顔を向けたシエルの頬に一筋ついていた魔物の血を、伶は自分の
袖で拭い取ると、微笑みかける。
﹁気を付けて。⋮⋮いってらっしゃい﹂
シエルは一瞬目を見開いたが、唇を軽く噛んでから口を開いた。
﹁行って、きます﹂
そして今度は止まることなく、その場から立ち去った。
それから十人ほど騎士が到着し、軽い事情聴取が終わったのが一
時間くらい経った後。
伶はどうにか乗合馬車を使って家に帰り、残っていたスコーンを
口に放り込んだ。
シエルがいつ帰って来ても良いように、食事の準備だけはしてい
たが、彼はその晩姿を現さなかった。
無事だろうか。怪我はしていないだろうか。
そんなことを考えながら、伶は、何とか壊れずにいてくれた花冠
の時計を何度も確認した。
結局シエルは、二日後の夜になるまで帰ってこなかった。
234
16. 彼女は自覚する
﹁ただいま、戻りました﹂
見本市に魔物が現れた翌々日の夜、日付をまたぐまであと数分と
いった頃に、シエルが玄関の扉を開けて現れた。
彼のいつも生気に満ちた顔はどこか土気色をしており、少しはね
た髪はすっかり落ち着いてしまっている。目の下にはうっすらと隈
らしきものも見え、彼が疲れ切っているのは明らかだった。
伶は本日手に入れた、小さな子供用の書き取り練習帳︵カバー付︶
をコーヒーテーブルの上に置き、立ち上がった。
﹁おかえりなさい、シエルさん。怪我とか、ありませんか?﹂
甲冑を外すシエルに、伶は小走りで駆け寄っていくとそう声をか
けた。
シエルは手慣れた動作で装備を外しながら、伶に目をやって口を
開いた。
﹁おかげさまで、切り傷一つありませんよ﹂
彼女を安心させるようにほのかな笑みを浮かべるシエルに、伶は
安堵の息をこぼした。それでもまだどこか心配で、甲冑を部屋の隅
にある台座に置くシエルの姿を眺めた。
そんな彼女の視線が露骨すぎたのか、振り返ったシエルは、僅か
に眉間に力を入れている。
﹁︱︱随分と遅い時間ですが、もしかして待っていて下さったんで
235
すか?﹂
﹁え、いえ、はい、いや﹂
大人しく肯定するのは押し付けがましいし、かと言って遅くまで
起きていた理由も思いつかないしと、伶は煮え切らない返事をした。
それを聞いたシエルが、入っていた力を抜いて口の端を僅かに上げ
る。
﹁どちらですか﹂
シエルの笑みを含んだ声に、伶も息を吐いて力を抜く。答えを更
に求めている様子ではなかったので、伶はあえて流すことにした。
﹁お茶とか、果汁水とか、何か飲みますか?﹂
﹁⋮⋮ああ、何か美味そうな香りがするなと思っていましたが、白
蜜茶でしたか﹂
シエルがローテーブルに置かれた彼女のカップを見て、呟いた。
昨日市場に行った時に、茶葉専門店の売り子から教えてもらった
レシピで、簡単に言えばミルクティーだ。くせのない茶葉に、わず
かにバニラのような香りがする糖蜜を加えて、牛乳と一緒に煮る。
安眠効果が特徴の、ありふれた家庭の味らしい。
﹁同じもので良ければ、すぐに出来ますけど⋮⋮甘いですよ?﹂
﹁問題ありません。さすがに甘過ぎると厳しいですが、甘味自体は
嫌いではありませんから。特に疲れた時には最適です﹂
疲労のせいか、どこかぼうっとした様子でシエルは微笑んだ。ふ
にゃりとでも副詞を付けるべきか悩むほどに、今の彼は普段よりも
少しだけ感情表現豊かだ。
236
﹁じゃあ、すぐに用意しますね﹂
﹁では、私は少し顔を洗ってきます﹂
きびきびと歩いている印象のシエルだが、今はこれまた珍しく、
若干足取りが覚束ない。
﹁本当にお疲れね⋮⋮﹂
彼を後姿を見送って、伶はリクエストされた白蜜茶を用意すべく
キッチンへと向かった。
顔どころか何故か髪まで半分ほど濡れているシエルが姿を現した
のは、伶がカップを片手に居間へ戻ってきたのと同じ頃。
﹁熱いので気を付けて下さいね﹂
﹁ありがとうございます。⋮⋮ああ、生き返るな﹂
倒れ込むようにソファに沈み込んだシエルが、茶を一口含んでか
ら、ほう、と息を吐いた。
伶は内心、シエルが丁寧語を欠くとは珍しいなと、そんなことで
驚いていた。
シエルはそのまま目を瞑り、茶を口に入れる度に小さく息をつい
ていた。その姿はまさに疲労困憊といった様子で、伶は何も言わず
に向かいに座ると、彼の沈黙を見守る。
まさか寝入っているのではと心配になってきた伶がそわそわし始
める辺りで、シエルが目を開けた。帰宅直後と比べると大分血の気
が顔に戻っており、疲労の色は濃いものの、今すぐ倒れそうではな
くなっている。
237
﹁お疲れ様です、シエルさん﹂
﹁いいえ。こちらこそ、レイさんにはご迷惑をおかけしました﹂
迷惑とはなんのことだろうと首を傾げていると、シエルが続ける。
﹁家まで送ることが出来ませんでしたから。本当なら、レイさんの
安全を確保したうえで場を離れるべきだったと反省しています﹂
﹁そんな⋮⋮緊急時にそこまでして頂けませんよ。シエルさんには
もっと重要なお仕事があるのに、そんな我侭言えるわけありません。
というか、思いもしません﹂
さすがに生死を問われる状況で見捨てられるのは困るが、今回は
街中で危機も去った後だ。あれ以上引きとめるのは、間違いなく被
害者役に酔ってる人間だけだろう。
彼女の言葉に、シエルは何と返していいのか分からないと言うよ
うな、困った表情を浮かべた。そんな彼に、伶は更に言葉を重ねる。
﹁改めて、助けて頂いてありがとうございます。あと、心配して下
さったのに生意気言ったりして、すみませんでした。言い過ぎまし
た﹂
カップを持ち上げていた手を膝の上にのせ、伶はきゅっと眉を寄
せる。
﹁いえ、私の方こそ言い過ぎたと思っていますので、謝らないでく
ださい﹂
﹁︱︱では、お互い様ってことでいいですか?﹂
焦ったようにフォローするシエルに、伶はわざとおどけた様子で
切り返した。シエルはそれを受けて、空気が重くなるのを避けたこ
238
とが分かったのか、﹁はい﹂と苦笑するとカップの茶を口に含んだ。
シエルが再び身体の力を抜いたのを見て、伶はおかわりを取って
くるべく、彼に一声かけてキッチンへ向かった。そしてミルクパン
を片手に戻ってくると、シエルのカップに茶を注ぎ足す。
﹁そういえば﹂
こぽこぽと注がれる茶を見つめながら、シエルが口を開いた。
﹁トルカの世話をありがとうございました﹂
﹁⋮⋮怒っていませんでした?﹂
怒るのは、当然トルカだ。
あの事件の晩、家に帰った伶を出迎えたのはシエルの愛馬である
トルカだった。門の奥に佇んだ白馬の姿は、正直その場で踵を返し
たくなるほど、威圧感に満ちていた。
恐る恐る門を開ければ、鼻先で納屋へと追い立てられ、空になっ
た水桶の前まで連れて行かれた。乾草の方は余裕を持って置かれて
いたが、水だけは鮮度もあるし無理だったのだろう。
噛みつかれてはたまらないと、慌てて伶が桶を使って井戸から水
を汲んでいるところに、シエルの部下であるクラウが登場したとい
うわけだ。
トルカは水も満足に飲まないままクラウに馬具を付けて引っ張ら
れ、不機嫌そうに鼻を鳴らすと、クラウすら振り切って街の中へ消
えて行った。
呆然とする彼女に、クラウが﹁いつものことだから﹂と笑って告
げたのだ。
﹁大丈夫でしたよ。まあ、厩舎に入った瞬間に水桶に顔を突っ込ん
239
でいましたが﹂
その様子が簡単に想像でき、伶は引き攣った笑顔を浮かべた。
﹁凄いですよね、トルカ。頭が良いと言うか、人間みたいと言うか﹂
﹁トルカは妖馬ですから、普通の動物よりも賢いんです。その分、
あまり愛想はありませんが﹂
愛想がないどころではない気がしたが、どこか自慢そうに言う飼
い主の前で指摘することでもないだろうと、伶は言葉を飲み込んだ。
﹁仲が良いんですね、お二人は﹂
馬を含んで二人というのは間違いかもしれないが、伶はトルカな
らそれでもありな気がした。
﹁長い付き合いなので。仕事で随分と無理をさせていますよ﹂
﹁⋮⋮お仕事、目処が付きそうですか?﹂
団長が二日も家に帰って来られないというのが普通なのか、伶に
は判断できないが、シエルが非常に疲れ切っているのは明らかだ。
伶が尋ねれば、シエルは視線を手元のカップに下ろした。
﹁そうですね⋮⋮詳しくは話せませんが、全力を注いでいるところ
でしょうか﹂
その言い方に、状況は芳しくないのかもしれないと伶は思ったが、
口にはしなかった。
﹁何か出来ることがあったら言ってくださいね。料理を豪華にする
240
とか、掃除に力を入れるとか、そんなことしか出来ませんけど﹂
自分の台詞ながら情けなくなり、伶はカップに入った茶を一気に
飲み干した。
﹁疲れて帰ってきて、温かい食事で迎えてもらえるというのが、こ
れ程有難いと思った事はありません﹂
彼は﹁ありがとうございます﹂と付け足すと、労わるような笑み
を見せた。
不意打ちの笑みに、伶はぎくしゃくと立ち上がると、手を洗って
きますと洗面所に向かった。
美形の笑顔って恐ろしいと思いながら、冷静になろうと歯を磨き
終えた伶が戻ってくると、シエルが食器を手に立ち上がったところ
だった。
﹁あ、すみません。洗っちゃいますね﹂
伶は彼に駆け寄ると、慌ててシエルの手から食器をひったくる。
何故かそのままの姿勢のシエルを、彼女は廊下へと促す。
﹁シエルさんはもうお休みになってください。お風呂も準備出来て
ますから、お使いになれますよ﹂
そう告げて、伶はさっさと台所へ移動した。
洗い物と言っても、残っているのはカップとミルクパン程度の為、
彼女はさっさと済ませてタオルで手を拭った。
ダイニングまで戻ってくると、まだシエルがそこに立っていた。
241
﹁シエルさん?﹂
﹁⋮⋮二階までは、送ろうかと思いまして﹂
伶は、言われた言葉に目を瞬かせた。シエル自身も、間抜けな事
を言ったと自覚しているのだろう。僅かに耳が赤らんでいる。
﹁真面目だなあ、シエルさんは。先日の代わりですか?﹂
伶はくすくすと笑いながら、頭一つ分以上高くにある彼の顔を見
上げた。シエルは視線を逸らしているが、そんな様子が何だか可愛
らしいと彼女は笑みを深めた。
﹁それでは、お願いしますね、騎士様。ありがとうございます﹂
﹁︱︱はい﹂
僅かに表情を緩めて、シエルは律儀に彼女の後ろについた。
堪えることのできない笑みを浮かべながら、伶は階段へと足を向
ける。
︵優しいと言うか、真面目すぎると言うか。おかしなひと︶
階段を上りきったところで伶は後ろを振り返り、シエルに笑顔で
声をかけた。
﹁ではシエルさん、おやすみなさい﹂
﹁はい、良い夢を﹂
シエルの言葉を聞きながら彼女は向きを変え、自分の部屋の方へ
と足を踏み出す。
242
﹁⋮⋮レイさん﹂
しかし、部屋に下がろうとした彼女の背中に、シエルが声をかけ
る。
静かな彼の声は、無駄な音のない夜の空気の中で、響くように感
じられた。
伶が振り返れば、彼は真っ直ぐに彼女を見つめている。しかしす
ぐに何か言うでもなく、口は引き結んだままだ。まるでこれから言
う事を躊躇うかのように、彼には珍しく視線がさまよう。
彼の真剣な様子に伶は笑みを消すと、彼の言葉を待った。
しばらくの沈黙の後、シエルは躊躇いがちに口を開いた。
﹁︱︱私は無意識の内に、周りは全て守るべきものと思っていまし
た。地位を得て、力を身に付け、他者は自分よりも弱いのだと、い
つからか思い上がっていたのです﹂
小さく、呟くように囁かれた言葉でも、喧騒のない空間では掻き
消えることはなかった。
夜の暗がりの中、シエルの表情は分からない。
﹁それを正してくださったのは、レイさん、貴女だ﹂
予想もしていなかった言葉に、伶は目を見開いた。
その時、雲が晴れたのか、窓ガラスを通した淡い月の光が廊下に
差しこんだ。薄明りを背に、シエルが顔を上げて表情を見せる。
﹁貴女に怒鳴られて、自分の驕りに気付きました。剣の腕や魔力だ
けが強さではないのに、言われるまでそんな単純なことも忘れてい
243
た﹂
指摘されて羞恥で消え入りたくなるほどに、とシエルは自嘲めい
た笑みを浮かべた。
何か言わなければと口を開く伶に、シエルは唇の端を持ち上げた
まま、首を振る。
シエルはゆっくりと彼女の方へ歩んでくると、手を伸ばせば届く
という距離で足を止めた。
夜闇で彼の姿は常より捉えにくいというのに、何故だか彼の表情
は鮮明に伝わってくる。苦笑いから微笑へ。柔らかく彼女を見下ろ
す彼の眼差しに、伶はその場で縫いとめられる。
﹁私は、二度と貴女の﹃強さ﹄を忘れない﹂
シエルは、一歩前に足を踏み出し片膝をつくと、伶の手を取った。
﹁その身一つで、私を守って下さった貴女に感謝を。そして︱︱貴
女を、尊敬します﹂
長い睫毛に飾られた目を伏せて、シエルが彼女の指先に口付ける。
触れるだけの接触なのに、まるで全感覚がそこに集中したかのよ
うに、彼の唇の熱さと柔らかさが伝わってきた。
顔を上げたシエルが、彼女を視線で絡み取るように眼差しを注ぎ、
目を細め口角を上げる。
彼の言葉がなかったのなら、その表情は慈愛や労わりに似ている
と思ったかもしれない。しかし、そうじゃないと伶は感じた。
彼の深海のような瞳には、確かな敬意と、まるで崇めるような強
烈な想いがある。
244
伶は、言葉を失った。
こんな目を、彼女は知らない。
学生生活を普通に終え、会社で働き、幾つかの失敗と成功を重ね
た。褒められたこともあるし、怒鳴られたこともある。面と向かっ
てではなく陰で失敗の文句を言われたこともある。そんな些細な事
柄は、彼女と同年代の人々には多かれ少なかれ起きているだろう。
そんな良くも悪くも凡庸な人生の中で、彼女はこんな目を向けら
れたことはなかった。こんな目で見てくる人を、彼女は知らない。
恋情でないのは分かっている。
シエルの眼差しにあるのは、人として︱︱一人の人間から人間に
対する、純粋なる崇敬の念。
とろりと熱した蜜のような視線に、肌が粟立つ。
初めて向けられるその未経験の感情に、伶は頭のどこかが焼き切
れるのを感じた。
﹁い、いいえ! そんなことないです、買いかぶり過ぎです⋮⋮っ﹂
素直に受け止めることも、かわすように逸らすことも出来ない眼
差しに、伶はひたすら首を振って、シエルから自分の手を引っ込め
た。
無性にこそばゆくて、恥ずかしい。顔が徐々に熱くなってくる。
そんな彼女を見て、シエルは破顔した。引き締まった顔が緩み、
じんわりと目を細めて自然と笑みを浮かべる。鋭さを消した、年の
頃には似合わないどこか幼い顔。
﹁はは、顔が赤い﹂
﹁︱︱っ!﹂
彼女の真っ赤になった顔を見て、シエルが笑って指摘した。
245
ひと
凛々しい顔も、険しい顔も、困ったような微笑も見てきた。整っ
た精悍な顔つきの男性だと思っていた。
でも今暗がりで彼女を見上げるシエルの顔には、屈託のない笑顔
が浮かび、悪戯をしかけた少年のようなあどけなさを見せている。
なのに視線だけは苛烈なまでに、彼女に注がれていた。
予想していない、シエルの素の感情と視線。
︱︱もう駄目だと、彼女は思った。
﹁お、おやすみなさい!﹂
くっくと笑う彼の声を尻目に、伶は俯いたまま言い切ると、逃げ
出すように自分の部屋に向かって駆け出した。家の中で移動距離な
どたかが知れているのに、走らずにはいられなかった。
部屋に戻り、扉を閉める。
そのまま伶は、扉にもたれるように崩れ落ちた。浅い呼吸の合間
に、伶は言葉を零す。
﹁や、やめてよ⋮⋮﹂
顔が熱い。鼓動が早い。
シエルの表情が、眼差しが、口付けられた感覚が、彼女の頭にこ
びりついている。
﹁嘘でしょ⋮⋮﹂
自分の顔を手で覆い、伶は呟いた。
どくどくと音を立てる心臓は、未だ速度を変えることはない。振
り払おうと首を振っても、シエルの無防備な表情が彼女の脳裏から
消えることはない。
246
唇を噛み、眼を閉じる。
鮮烈に、彼の低い声と鮮やかな笑顔、そして触れられた指先の熱
が蘇ってきた。
向けられる崇敬の想いに、伶はこれ以上ないくらい照れ、大した
こともしていないのにと恥じ入った。しかし同時に、にやける顔を
抑えられないほど嬉しかった。
この世界に来て︱︱いや、日本で働いているときだって、自分の
代わりなんて幾らでもいると思っていた。いなくなったって、誰か
が簡単に埋められる役だと思っていた。
だから、彼女をしっかりと見据え、まるで尊い存在だと、此処に
いていいのだと言ってくれるような視線に、思考回路が焼き切れる
ような歓喜に襲われた。
かお
そんな中で浮かべられた、シエルの剥き出しの表情。
慇懃無礼というわけではないが、今までのシエルは伶に対して、
優しくも確実に線引きをしていた。遠慮なのか警戒なのかは定かで
はないが、確かに張り巡らされていたそれが解かれたのだと、眩し
い程に鮮やかな笑顔は告げていた。
どこかあどけない笑顔と、耳に残る低い声。
強い感情を含んだ彼の視線と声が、伶の歓喜を一瞬で別の想いに
すり替えた。
︵今まで、なんとも、なかったのに︶
精悍な顔で見つめられても、丁寧に扱われても、力強い腕で支え
られて守られても、彼女が感謝や尊敬以上の想いを抱くことはなか
った。
247
胸を締め付けるような痺れと熱を感じながら、伶は熱くなったま
まの顔を両手で覆う。
鼓動は未だ静まらない。
手の合間から、伶は深く息を漏らした。
﹁⋮⋮っ﹂
︱︱落ちてしまった、彼女は自覚した。
248
17. 闇の中の好奇心 ︵※︶
しばらく後、我に返ったら自分の舞い上がり具合に酷く狼狽して
しまい、伶は頭を抱えながらベッドに向かった。
絵に描いたような騎士然としたシエルの態度を思い返し、私はそ
んな柄じゃないのにと恥ずかしくなる。
それでも、パジャマ代わりに使っているシンプルなワンピースの
うち、胸元の編み込み紐が可愛らしい物を選んでしまったのは、久
々に乙女心が潤ってしまった反動だろうか。伶は照れ隠しのように
部屋着を一気に脱ぎ落とすと、新品のワンピースに袖を通す。
まだとくとくと、普段よりも速いリズムで刻む鼓動を誤魔化すよ
うに、彼女はベッドに丸くなって布団を被った。
しかし、彼女に眠りは中々訪れてくれなかった。
妙に目が冴え、どんなに寝返りを打っても一向に眠気が襲ってこ
ない。目を閉じていればいつかは眠くなると瞼を合わせていても、
頭には様々な映像が勝手に浮かんでくる。二匹の魔物やシエルの姿、
クラウやエリスといった騎士団の人々に、いつも行く市場の売り子
たち。広場に満ちるバグパイプに似た楽器の音色や詩人の歌声、悲
鳴までもが重なって頭に響き、脈は早まり身体は熱を持った。
﹁⋮⋮駄目だわ、こりゃ﹂
じっとりと汗ばんだ身体を起こして、伶は目を開けた。とてもで
はないが、このまま眠れるとは思えなかった。
ベッドから抜け出し、ルームシューズの編み靴に足を滑らせる。
窓の外に目を向ければ、外は変わらず暗く、星が天に輝いていた。
249
大きな音を立てないように扉を開け、伶は廊下へ出る。一瞬バル
コニーにでも行こうかと考えたが、疲れているシエルを万一起こし
たら嫌だなと、彼女は階下へと足を向けた。
︵当たり前だけど、暗い︶
一階の廊下には、窓がない。二階部分から階段を通って注ぐ光の
量などたかが知れており、居間や裏口の窓からも離れた中央の廊下
は、この家の中で一番暗かった。この数日でどうにか間取りに慣れ
たとはいえ、伶にとってこの家は、未だ仮屋の域を出ていない。暗
がりを歩く心許なさから、伶は手すりを強く握りしめた。
︵一階に下りてきたのは失敗だったかしら︶
この先に進むか否か、伶は立ち止まって考える。
そもそも、特に何か理由があって一階に来たわけではないのだか
ら、この先に進む必要はない。朝食の仕込みは既にシエルの帰宅前
に済ませてあるし、居間全体を照らす照明をつけるのもどこか躊躇
われる。裏口から外に出て風に当たるのも、トルカに見咎められて
声でも出されたら、シエルを起こさないという配慮は無に帰してし
まう。
︵んー、やっぱり部屋で大人しくしてようかな︶
その前に水でも飲もうと、一階廊下に足をつけた伶の耳が小さな
音を捉えた。
カチャリ、と金属が立てる音はとても小さかったが、無駄の音の
一切しない空間では何に阻まれることなく伶まで届いた。
不思議に思い、伶は音の出所を確かめようと首を回す。
250
﹁?﹂
音は、下から聞こえてきたように思う。
だが、既に此処は一階だ。その下などあるはずが︱︱そこで、伶
ははたと気が付いた。
︵地下?︶
二階へと繋がる階段の横には、地下へと繋がる階段がある。もっ
とも、その地下への道はすぐに一枚の扉によって遮られ、その先に
何があるのか伶は知らない。
夜中。暗闇。地下室。不審な音。
これらの単語に浪漫を感じるべきか、恐怖を抱くべきか。常の伶
ならば即座に踵を返すことにしたかもしれないが、今の彼女は眠り
たくても眠れず、時間をつぶすことが唯一やるべきことだった。結
果、彼女は息を殺したまま、たった一度しか下りたことのない地下
へ続く階段へと足を踏み出す。
最下段へ辿り着くと、二階からわずかに注がれていた光も殆ど届
かない。持ち運びのできる灯りでもあれば良かったのかもしれない
が、こんな﹃探検﹄をする気など数十秒前までの伶にはなかったし、
そもそもこの家にそんな物があるのかすら分からない。一段と深く
なった闇の中、伶は眼前にある扉に目をやった。
︵⋮⋮開いてる︶
以前訪れた時にはしっかりと鍵のかかっていた扉が、今は僅かに
開いている。初日以来一度も地下を確認していないため、この扉が
いつから開いていたのか、伶には分からない。
前より開いていたのならいいが、もし今この扉が誰かに開かれ、
251
中に侵入者でもいたならば。
不法侵入の可能性に、伶の心臓がどくりと強く脈動する。
︵どうしよう。シエルさんを呼んだ方がいいのか⋮⋮。でも勘違い
だったら睡眠の邪魔になっちゃうし、鼠とかの可能性だってあるし︶
伶はしばし逡巡した後、恐る恐る扉に手をかけた。
中の様子を確かめてからでも遅くはないだろうと判断し、扉を押
す。蝶番にはしっかりと油が差してあるのか、扉は音もなく奥へと
開いていった。
地下室は、一階までとは異なり、春先の気温の中でもひんやりと
冷えている。もはや光はなく、完全な闇ばかりが室内に広がってい
た。とてもではないが、誰かが灯りもなしに行動できる状態ではな
い。
﹁だ、誰か⋮⋮いるの?﹂
掻き消えるような小声で問いかけても、中からは何の返事も物音
もない。
暗くて何も見えない以上、中に入っても無駄かと思った彼女の視
スイッチ
界で、何かが光った。彼女の目線よりやや上に灯る緑色の淡い光は、
居間にある照明の技石によく似ている。入口から二メートルほどの
場所にあることも含め、恐らくはこの部屋の天井照明なのだろう。
︵確認してからでも平気かな︶
伶は唾液を飲み込むと、一歩足を前に出した。
極力音を立てないように、息を殺して光の前まで来た伶は、技石
に触れようと片手を上に伸ばす。
252
︱︱背後に熱を感じたのと、口を大きな手で押さえられたのは同
時だった。
﹁んぐ︱︱っ!?﹂
咄嗟のことに声を出すよりも早く、背後から伸びた腕によって伶
は完全に拘束された。宙に伸ばした右腕ごと囲むように、闖入者の
腕は彼女の口を押え、彼女の胴を抱え込むように回した腕は、伶の
左腕をも閉じ込める。背後には岩のように硬く熱い身体が逃走を防
いでおり、その力強さは身動きすら許してくれなかった。
﹁んん、んー!﹂
突然の襲撃に、伶はただひたすら混乱した。
音がした時点で誰かがいるかもしれない可能性があったのに、家
の中、さらにたかが暗闇の中の数歩と楽観視したつけが回ってきた。
︵どうしよう、こ、殺される!?︶
右腕だけ上げた間抜けな状態の中、伶は全身から血の気が引き、
小さく震えるのを感じ取った。家主に見つかった泥棒が取る行動な
ど限られており、逃走か迎撃くらいしかない。逃げずに彼女を拘束
したことから、この人物の選択は明らかだった。
﹁んー! んぐ、む⋮⋮!﹂
大きな声を出そうとする彼女に、拘束する力が強まる。侵入者の
腕が右のわき腹に食い込み、ただでさえ浅くなっていた呼吸を更に
苦しくさせた。
253
どうなってしまうのだろうか。シエルは気付いてくれるだろうか。
もし無理なら、彼にせめて警告だけでも出来ないか。
そんな考えがぐるぐると回り、彼女の身体を益々硬くさせる。
﹁っ!?﹂
完全に侵入者に抱きすくめられた状態の伶は、彼女を拘束する腕
の動きに息を飲んだ。
侵入者︱︱体格の良さや筋肉質さから男だろう︱︱の左腕の先が
ゆっくりと下へと動き、伶のわき腹から太ももへと移動する。腿に
触れられ、伶の全身の毛がぞわりと逆立った。
硬い男の指は躊躇なく肌をひっかくように這い、薄いワンピース
をたくし上げていく。
﹁んんーっ!﹂
どんどんと晒されていく太ももに、伶は抗議の声を上げたが、男
の指が止まる気配はない。どんなに身じろいでも、男の拘束が緩む
気配もなく、伶は先ほどまでとは別の恐怖に襲われた。
太ももの付け根まで捲られたワンピースの裾を男は掴むと、一気
に鳩尾あたりまで引き上げる。男の肘までは殆ど動かないせいで、
相変わらず彼女の両腕は自由が効かない。にも拘わらず、今や彼女
の身体は地下室の冷たい空気に晒され、これから何が起きるのかを、
容易に連想させた。
︵い、やだ⋮⋮!︶
がんじがらめにされた状態のまま、男の節ばった手が、剥き出し
になった腹部を撫でる。まるで何かを確かめるようにゆっくりと、
脇腹から下腹へ、そしてまた鳩尾へと大きな手が這っていく。小指
254
がへそを撫で、親指が胸下の切り替え部分をなぞった。
男の指が切り替え部分の下を通り、柔らかな乳房の縁をつつくと、
伶は身震いした。ワンピースの胸下切り替えは、ゴムのような素材
で軽く絞ってあるだけであり、男の侵入を防げるようなものではな
い。眠るときまでブラのような拘束をされたくないという彼女の希
望が、ここで仇になった。
﹁っ! んぐ、むうー!﹂
がっちりと塞がれている口では何も言葉に出来ないが、それでも
彼女は抵抗した。
だが、そんな細やかな抵抗など意に介せず、男は切り返し部分を
強引に持ち上げて胸部へと手を伸ばす。
﹁んぅっ!﹂
大きな硬い手が、乳房をすくい上げるように包み込んだかと思え
ば、そのクッションをつぶしながら二の腕の方まで指を伸ばした。
二の腕を軽く撫で、脇をくすぐり、再び胸の前まで戻ってきて双丘
をこねた。その動きはまるでボディチェックでもしているかのよう
で、愛撫とは言い難いものだったが、最後に親指の腹でじっとりと
胸の先端を嬲っていった。
彼女にこれ以上ないほど密着している男の身体は、決して性的な
興奮を見せていないことが分かるのに、耳元にかかる吐息は熱く、
少しかさついた唇が彼女の耳の縁に当たった。
男の手は、始まった時と同様にあっさりと胸元を離れ、再度腹部
へと収まる。先ほどよりも湿気を帯びた男の手は、張り付くように
彼女の腹を押さえた。
﹁⋮⋮っ﹂
255
伶は、浅く荒い呼吸を続ける。何が起きているのか、これから何
をされるのか、様々な推測が頭を巡り、消えていく。身体は男の拘
束と恐怖で動かないままだし、彼女の口を覆う男の手も決して離れ
ない。何かしなければいけないのに、何をすればいいのか分からな
くて、伶は目元が熱くなるのを感じた。
しばらく彼女の腹に置かれていた男の手が、ふいに動きを再開す
る。
﹁っ!?﹂
男の指先が、先ほどは触れなかった下着の縁に触れている。混乱
する頭に冷水をかけられたかの如く、一瞬でどこかぼうっとしかけ
ていた伶の意識が引き戻された。
男の手は彼女の右わき腹まで移動すると、遠慮なく下着の中に侵
入した。下着をずり下ろすように、大きな熱い手が脇腹の下から腿
へ向かって側面を這う。下着は右半分だけ付け根の辺りまで下げら
れ、そこから男は下着を前に広げる形で手を左へ移動させる。男は
極力肌に触れないような動きで手をずらしたが、伸縮性の殆どない
下着の中では、そんな距離を取ることなど出来ない。男の手のひら
が繁みを撫で、恥丘に僅かに触れる。今や彼女の下着は、前半分だ
け足の付け根まで下ろされていた。
﹁むぐ、んん!﹂
ひやりと下腹を撫でる地下の風に促されるように、即座に逃げよ
うと伶は身体を動かした。しかし、男の左腕が再度彼女の腹に回さ
れ、背後にある硬い身体に固定される。
そしてここで初めて、彼女の口を押える男の手が外された。
256
﹁は、ぁ⋮⋮っ﹂
呼吸が一気に楽になり、伶は何よりも先に大きく空気を吸い込ん
だ。
だが、そんな呼吸もすぐに止まった。
﹁な︱︱﹂
伶を左腕で拘束したまま、男の右腕が彼女の腰に伸び、中途半端
にぶら下がっていた下着を一気に臀部の下まで引き下ろした。下半
身が完全に晒され、伶は言葉を失う。
彼女の様子に構うことなく、男の右腕が晒された臀部を撫で、尻
の側面をなぞり、太ももの付け根へと伸ばされた。
﹁や⋮⋮っ!﹂
伶は血の気の引いた身体を奮い立たせ、自由になった右腕一本に
あらん限りの力を籠めて男の右腕を押した。
だが彼女の抵抗などまるで意味を成さぬとばかりに、男はそのま
ま手を動かして彼女の繁みに触れる。太く節ばった指が柔毛を掻き
分け、秘丘に沈む。潤っていない花園を無理やり進むように、男の
指は花びらを掻き分けて彼女の中心へと辿りついた。
彼女の上半身を這っていた時は、男の動きはどこか性的な意図を
欠いていた。しかしこの状態では、そんなことも最早考えられない。
がくがくと、この先を予想して彼女の身体が小刻みに震える。
﹁い、や﹂
自分の物かと疑うほど、掠れた声が喉から漏れた。
257
男の指が鉤のように立てられ、膣の入り口に添えられる。伶が何
か言うよりも早く、男の指先は強引に花芯へと侵入した。
﹁い︱︱っ﹂
たかが数センチ程とはいえ、濡れていないそこを無理やりこじ開
けられ、ひりりとした痛みが走る。思わず上げた声に、男の動きが
一瞬止まったように思えたが、それも束の間、指を奥へ進ませよう
と男の手に力が入った。
﹁や、だぁ⋮⋮! やめ、たすけ、て︱︱﹂
無意識の言葉だったが、その先は続かなかった。
誰に助けを求めればいいのだろう。誰に一番助けて欲しいのだろ
う。
家族は此処にはおらず、親しい人間もここにはいない。まだこの
世界に来てから十日も経っておらず、自分の為に不審者に立ち向か
ってくれる人間なんているのだろうか。森で魔物に襲われた時、彼
女は事実その﹃誰か﹄を口にすることは出来なかったのに。
そんな迷いは確かに存在しているのに、伶の口は勝手に言葉を重
ねた。
﹁助けて、シエル、さん⋮⋮っ!﹂
必死に男の手をどかそうと力を入れながら、震える声でそう叫ん
でいた。
﹁︱︱﹂
258
不意に男の手が、石になったかのように動かなくなった。
その隙とばかりにあらん限りの力を込めて男の腕を押したが、依
然彼女を離してはくれない。だが、これ以上指を進めようともしな
かった。
﹁な、に⋮⋮?﹂
突然止まった男に対し、伶はそれだけ引き絞るように口にした。
直後、耳に吐息がかかるのを感じたと同時に、男の指が彼女の内
側から抜き取られる。男はそのまま手を下へと動かすと、伶の下着
を引き上げ元に戻した。捲られていたワンピースの裾も零れ落ち、
伶はただ男に抱きすくめられる形に戻った。
﹁なんで⋮⋮﹂
始まりと同じく突然終わった行為に、伶は思わず呟いた。
男は自分を掴んでいる伶の右腕を振りほどくと、逆に彼女の手首
を掴み、再度動きを封じた。
彼女の混乱はもはや収拾のつかないほどに大きくなっていたが、
そんな彼女の耳に低い声が滑り込んでくる。
﹁︱︱何故、此処に﹂
背後から呟かれた声に、伶は全身を硬直させた。
彼女を暗闇で襲って、今もなお拘束を緩めない男。囁かれた声は
硬かったが、全身に染み入るような低音は聞き間違える筈がない。
伶は、信じられない思いで口を開いた。
259
18. 二人の都合
﹁シエル、さん﹂
硬い身体に伶を押し付けて拘束する男は、確かにこの家の主だっ
た。
伶が安堵するように詰めていた息を吐き出すと、嗅ぎ慣れた石鹸
の香りが鼻孔をくすぐった。触れ合う部分から伝わる熱と彼の存在
に、伶は無意識の内に力を抜く。先ほどまで感じていた恐怖も行為
の理由も何一つ解決していないのに、馬鹿げた反応だと自嘲する余
裕すら彼女にはない。
だが、それに反比例するように、シエルの腕には力が入った。
増した圧力に、伶は思わず口を開く。
﹁シエルさん、何﹂
﹁何故、この部屋に﹂
彼女の言葉を、温度のないシエルの声が遮った。それは有無を言
わせぬ迫力を含んだ音で、伶はシエルに寄り掛かっていた身を知ら
ずの内に正す。
﹁何故って⋮⋮寝付けないので時間でも潰そうかと思ったら、物音
がしたので⋮⋮﹂
それ以外説明のしようがない。この部屋に入ってはいけなかった
のかと困惑する伶に、シエルの低い声が先を続けた。
﹁それは︱︱﹃家政婦﹄としての仕事だから?﹂
260
﹁え?﹂
耳元で囁かれた突然の問いに、伶は間抜けな声を上げた。一瞬彼
の問いが理解できず首を傾げた伶だったが、何か違和感を覚えて暗
闇を見据えた。
耳に響く、シエルの低い声。
僅かに笑うような音を含んだその声は、愉快と言うよりもどこか
︱︱嘲笑めいたものを感じさせた。
﹁レイさん﹂
吐息すら耳にかかる距離で呟かれた彼女の名前に、伶は何故か不
気味なものを感じた。艶めいた、彼女をなだめるようでいて身体を
震わせる響き。
おかしい。
何かが、違う。
︵シエルさんはもっと⋮⋮︶
何が違うとは言えないのに、僅か数語の台詞に含まれた違和感は、
高まる心音と共に増幅していく。
﹁シエル、さん⋮⋮?﹂
か細いながらも彼の名を吐き出した伶に、後ろの男は応えない。
此処はシエルの家で、声も確かにシエルのものだ。暗闇で彼の顔
は見えないが、後ろの人物から漂ってくる石鹸の香りは、以前から
この家に置かれている彼のもの。
︵シエルさんのはずなのに、何か︱︱︶
261
その時、伶の頭に月夜の光景が蘇った。
﹁あなた、まさか﹂
シエルでいて、シエルでない。
荒唐無稽な考えだが、彼女には心当たりがある。
伶が絞り出すように紡いだ言葉に、﹃シエル﹄の腕がぴくりと動
いた。そして、沈黙が闇に広がる。
﹁︱︱へえ、よく気付いたな﹂
くつくつと哂う声が、吐息が、彼女の耳を撫でた。同時に、彼女
の腕から手が離され、腰の前で両手を合わせる形に変わる。
﹁まさか、俺を見もせずにバレるとは思わなかった﹂
﹁や、やっぱり、あの時の︱︱ひい!?﹂
愉快そうに紡がれる﹃シエル﹄の言葉に伶が慌てていると、おも
むろに耳たぶに何か濡れたものが触れた。そのままぱくりと咥えら
れ、おそらくは舌先で転がされる。
突然の感覚に伶は暴れ、自由になった両手の先が宙をかいた。
﹁っ﹂
スイッチ
その拍子に、天井照明の技石に触れたらしく、古い豆電球よりも
弱い薄明りが地下室に満ちた。闇に慣れ始めていた瞳が突然の光に
驚いて痛み、伶は反射的に目を瞑る。
しかし、何を思ったのか後ろの男が再度彼女の耳たぶを食んだせ
いで、僅かだけ戻りかけていた冷静さが霧散した。舌先で耳の縁を
262
辿られ、伶の背中をぞくりと妙な感覚が走る。ぴちゃりと直に耳に
響く音が、更に伶を追い詰めた。
﹁ちょっと、やめ、やめてよ!﹂
彼女が抗議の悲鳴を上げれば、哂う音と共に彼の顔が離れる気配
がする。
どう考えても彼女をからかって遊んでいる男の様子に、先ほどま
でなされていた行為を思い出す。痛かったし、恐ろしかった。伶は
腹が立って、思い切り彼の足を踏みつけた。
だが、意外なことに男は痛がる様子も、避ける様子もなく、身動
き一つ取ることはなかった。
突然足先を踏みつぶされたら、誰だって多少なりともリアクショ
ンを取るものだと思ったが、この男はそうではないらしい。何故か
彼女の方が気まずくなり、そろりと彼の上から足をどけた。先ほど
までよりも緩くなった拘束のもと、伶が訝しげに男を振り返ってみ
る。
そこにいたのは、数時間前に別れたばかりのシエルと同じ姿。だ
がそれでも、彼の与える印象は僅かに異なる。
彼は、伶に取引を持ちかけこの生活の始まりを作った、﹃シエル﹄
だった。
そのシエルは、一切苛立ちも苦痛も見せぬ表情で彼女を見下ろし
ている。
魔性めいた笑みが消え、あまりに感情を覗かせない、整っている
がゆえに人形めいた表情に、伶は一瞬で感情の昂ぶりが冷めていく
感覚を味わった。
﹁⋮⋮レイ・ミヤマエ﹂
263
彼の口から静かにもたらされた自分のフルネームに、何故か伶の
心臓がどくりと跳ねる。からかうような響きを持っていた声は、今
はどんな方向にも揺れていない。
﹁︱︱お前は、何者だ﹂
感情の読めない瞳が細まり、有無を言わさぬ圧力を伴って彼女に
注がれる。
伶は思わず息を飲んだ。先ほどまでの鬱々とした気分も、どこか
へ消え、崖っぷちに立たされているような極限の感覚だけが残る。
﹁私、は﹂
静寂に耐えきれず口から数語だけ滑り落ちたが、その先が続かな
い。
伶は首を正面に戻し、足元を見つめた。
︵この質問の意図は、どういうことだろう。どう答えればいいんだ
ろう︶
正直、伶にはこのシエルがどういう意味で﹃何者﹄と尋ねたのか
見当もつかない。
適当に誤魔化すことが出来るかもしれないし、答えずに有耶無耶
にすることも出来るかもしれない。確か彼は、夜だけ記憶がなくな
ると話していたから、このまま時間を稼げば切り抜けられる可能性
が高い。そうすれば、今まで通り﹃シエル﹄と一緒にいられるだろ
う。
264
︵でも︶
伶は両手を胸の前で握りしめ、数時間前にシエルに触れられた指
に視線を落とした。
彼女を、敬意をもって見つめる瞳と言葉が、鮮明に蘇る。それに
動かされた、自分の気持ちだってある。
ここで逃げることは、つまりあの瞳を騙すということで。
きゅっと、胸が痛んだ。
ごくりと、唾液を飲み込む音がやけに大きく感じられる。
﹁私が⋮⋮例えば、この世界の人間じゃないって言ったら、どう、
します?﹂
かろうじて答えられた言葉は、自分のことなのに﹁そう言えば友
人が﹂と置き換えて話す臆病さに満ちていた。シエルと視線を合わ
せられないまま、伶は言葉を続ける。
﹁街中にいたはずなのに、気付いたら着の身着のままで森にいて、
変な生き物に追いかけられて。魔物も魔術も知らないし、文化も言
葉も何もかも違う。そんな人間が、あのまま一人で生きていけるな
んて思えなかった。だから﹂
例え話で始めたはずが、結局自分のこととして話している矛盾に
も気付かず、伶は一度言葉を切り深く息を吐いた。
そっと顔を上げると、ぎこちなく首を回してシエルを見やる。
﹁﹃シエルさん﹄が何も憶えていないことにつけこんだ。許してと
は言えないけど、でも⋮⋮ごめんなさい﹂
265
何の感情も浮かんでいないシエルの瞳が、静かに彼女を見下ろす。
彼は相変わらず、彼女の荒唐無稽な話を聞いても何の反応も見せな
かった。
そのあまりの平坦さに伶は居たたまれなくなり、瞳を逸らしたく
なった。
それでも、今はそうすべきでないと感じ、逃げ出したい衝動を抑
えこんで彼を見つめる。
どのくらいそうしていたのか。彼女の体感的には、数十分にも感
じられた。ただ彼女を見下ろしていたシエルが、急にきつく眉を顰
めて、ため息をついた。
﹁⋮⋮間諜でも賊でもなく、普通の娘に見えたかと思えば、そうく
るか﹂
﹁シエル、さん?﹂
彼女に両腕を回しつつも、虚空を見上げて息を吐く彼に伶は声を
かけた。彼は険しい表情を崩さないまま視線を天井から彼女に戻す
と、若干視線を彷徨わせる。
﹁⋮⋮痛んだか﹂
﹁え?﹂
一瞬彼が何に対して謝罪しているのか分からなかったが、彼の視
線が身体にふと注がれたのを見て、先ほどの無遠慮な行為のことだ
と思い当たった。
﹁そりゃあ⋮⋮というか、なんであんなこと﹂
﹁女性の間諜は、体内に何か仕込むことが多いからな﹂
266
つまりあれは、文字通りボディチェックだったらしい。だからっ
て秘所に一体何を仕込めるんだと言いたい伶だったが、シエルの妙
に顰められた顔を見て、口を噤んだ。どうやら実際、過去に何かあ
ったらしいと察する。
それで納得して堪るか、こっちは強姦されるかと思ったし、最悪
殺されるとまで思った、と文句を言いそうになった伶だったが、口
を開いたところで固まった。
目の前のシエルは、彼女がエルメの町で雇われた家政婦でないこ
と、夜の森に着の身着のままで転がっていたことを知っている。
身元不詳の不審人物が、王都の防衛機構の権力者宅に嘘をついて
潜入。
誰から見たって、怪しいことこの上ない。特にシエルの立場なら、
彼女を見過ごすことなど出来ないだろう。むしろ問答無用で騎士団
に突き出されなかっただけマシとも言える。
あの行為は最低だと思うけれど、彼女にだって警戒される理由が
あり、詐欺罪だってある。
﹁⋮⋮それで、私の疑いは晴れたんですか?﹂
あの行為に言及するのは止め、別の話題を振る。彼の言葉からし
て、多少なりともスパイ疑惑があったらしいし、異世界云々も含め
て彼の考えを確認したかった。
﹁触れた限り、お前は戦闘向けに鍛えられていない。魔力もなく、
警戒慣れもしていない。家を漁った気配もないし、一般人だという
のは分かった。異世界というのは信じ難いが︱︱﹂
そこで初めて、シエルが彼女の身体に回していた腕を離した。先
267
ほどからいい加減振り返る体勢が苦しかったこともあり、伶は少し
距離を置いて彼を正面から見つめる。
シエルは顔を顰めた状態のまま、小さく息を吐いた。
﹁召喚術がある以上、否定は出来ないな。そもそも魔物の領域であ
るあの森で、お前みたいな一般人があれほど長く生きていた方が信
じ難い。それこそ、召喚されてその場に突然現れたのでもない限り
不可能だ﹂
﹁召、喚?﹂
召喚術。文学上の意味合いで良いのなら、誰かが誰かを呼ぶ術だ。
初めて伶の頭に、彼女の状況を作り出した元凶がいる可能性が思い
浮かんだ。
﹁それって、私が誰かに呼ばれたかもしれないってことですか? 一体、誰が⋮⋮!﹂
﹁さあな。召喚術は禁術だ。使用どころか研究も禁じられているし、
召喚された生き物も即時排除が基本とされている﹂
彼の言葉に、伶は胃が縮み上がる感覚に襲われた。
﹁え、わ、私⋮⋮﹂
排除。
それはつまり、処刑ということではないか。
一気に血の気を引かせ、無意識にシエルから後ずさりをした彼女
の頭に、シエルが手を乗せた。
﹁数日の付き合いとはいえ、お前が害ある人間でないのは分かった。
殺す気はないが、妙な真似はするなよ。まあ、しようと思っても無
268
理だろうが﹂
無理とはどういう意味でと疑問が浮かびはしたものの、伶は夢中
で首が痛くなるくらい頷いた。見逃してくれるらしい彼に、感謝で
いっぱいになる。
そんな現金な様子の彼女を見て、彼が苦笑を浮かべた。その表情
は昼間のシエルと全く同じで、伶の胸を突く。
﹁ただ﹂
シエルは、首を振り過ぎて乱れた彼女の前髪を手で払いながら、
小さく続けた。
﹁昼の﹃俺﹄には、異世界人だってことは言うな﹂
﹁昼の⋮⋮シエルさんに?﹂
予期せぬ忠告を受け、伶はきょとんと目を瞬かせる。むしろ、昼
間の彼の方が親身になってくれそうだが、と首を傾げた。
いまいち反応の悪い彼女に、シエルが鋭い視線を送る。あまりに
も真剣な様子に、伶は思わず背筋を伸ばした。
﹁忠告、いや、宣言だな。言うな。言えば︱︱殺されるぞ﹂
﹁殺さ⋮⋮!?﹂
伶は彼の言葉に目を見張った。昼のシエルと、殺すという単語が
結びつかない。それでも脳裏に、魔物の首を落とし、血濡れた﹃シ
エル﹄の姿が浮かび上がる。
﹁な、何でですか、そんなの﹂
﹁ぐ⋮⋮っ﹂
269
伶が更なる疑問で詰め寄る前に、シエルが唐突に表情を変えて苦
痛の声を漏らした。
﹁シエルさん!? 大丈夫、ですか﹂
叫んでから慌てて声を潜め、シエルに近寄る。自分の頭を片手で
押さえるように俯いた彼の顔は、薄明りの中でも分かるほど青ざめ
ており、うっすらと脂汗まで浮かんでいる。しかし彼は近寄った彼
女を手で制し、精彩に欠けた動きで身を翻した。
﹁︱︱悪い、用事が出来た。お前は部屋に戻ってもう休め﹂
﹁え、シエルさん⋮⋮!﹂
シエルはそのまま地下室から出て行こうと扉の方へ足を踏み出し、
彼女の声に反応はしない。
何故いきなり、そう思った彼女は、はたと気付いた。
︵そういえば、記憶の欠如は体調不良と共に起きるって︶
彼が平然としていたから忘れていたが、昼のシエルはそう言い、
このシエルは出会った時に﹃頭と内臓が破裂しそう﹄だとか言って
いた。それが本当なら、今も同じ状態なのではないかと思い当たる。
﹁シエルさん待って、もしかして身体が﹂
﹁いいから、気にするな。すぐに治る﹂
﹁すぐに治るって、そんな顔色じゃありませんよ⋮⋮!﹂
しかしシエルは止まることなく階段に向かって行く。
伶も慌てて彼を追いかけるが、引きとめたとしてもここまで具合
270
の悪い人に何が出来るのかと考え、足を止めかけた。だが意外にも
すぐに、答えに思い当たる。
︵そう言えば、女性を抱けば云々って前⋮⋮。じゃあ、治療法って︶
伶はぎくりと身体を強張らせる。
シエルは﹃用事﹄が出来たと告げた。それはつまり、協力者に心
当たりがあるということではないだろうか。階段を上る彼の背を追
いかけながら、伶は呆然と思った。
︵恋人、とか︶
自分の考えに、伶は頭を殴られたような衝撃を受けた。
今まで全く考えていなかったが、美形で騎士団長、堅物だが生真
面目で思慮深いなどという人間に、恋人がいないということがある
だろうか。しかし非常時とは言え、少なくとも普段のシエルは、恋
人がいるのに他の女を抱くようなタイプには見えないし、と伶は頭
を抱えた。
﹁シエル、さん﹂
そして階段を上りきった所で彼にかけた声は、自分でも情けなく
思うほど弱々しかった。その声がよほど無様だったのか、苦痛に顔
を顰めたシエルが振り返る。
伶は蒼白な彼の様子を見て、何をぐちぐちと引きとめていたのか
と自分を殴りたくなった。女は度胸、玉砕上等と心の中で唱え、ど
うせ朝になれば彼は憶えていないと自分を鼓舞する。
﹁特別な方がいらっしゃるんですよね? その⋮⋮お相手として﹂
﹁⋮⋮いないが、それがどうした﹂
271
﹁それじゃ、どうやって⋮⋮﹂
﹁さあな。酒場でも、花街でも、お前には無関係だろう﹂
﹁それは︱︱﹂
嫌だ。
反射的に、伶は思った。
シエルが言ったのは、街で適当に女性を見つけるという意味だろ
う。確かに今のどこか色めいた彼なら、喜んでついて行く女性くら
い簡単に見つかるかもしれない。それくらい、彼は見た目と声だけ
でも充分目立つひとだ。このシエルが他の女性を抱いても、それは
昼のシエルとは別だと思えばいい。実際に昼になれば、﹃彼﹄はき
っと憶えていない。
︵でも、そんなの︶
身勝手なことに、伶は想像しただけで胸に何かがつかえる思いが
した。
気付けば、玄関の方へ向かおうとするシエルの袖を掴んで、引き
とめていた。
﹁まだ何︱︱﹂
﹁私が、相手になります。お相手します﹂
﹁は!?﹂
シエルが急に振り向き、露骨に顔を怒らせて彼女を睨み付けた。
そしてその自らの声量に再度小さく痛みの声を上げている。
口が勝手に滑っただけだったのだが、彼の様子を見て伶は腹を括
った。
﹁ほら、そんなに具合が悪いのに、移動出来るわけないじゃないで
272
すか﹂
﹁馬鹿、言うな⋮⋮っ。お前は、何言ってるのか分かってんのか﹂
シエルの口調は厳しく、心底腹立たしく思っている様子が伝わっ
てくる。初日には自分から﹃取引﹄を持ち掛けてきたくせに、おか
しな反応だと伶は思う。
﹁分かってます、充分正気です。シエルさんだって、近場で済むな
ら悪くない話でしょう?﹂
﹁︱︱お前、は⋮⋮っ!﹂
﹁っ!﹂
シエルが、彼女を射殺さんばかりの勢いで睨みつけ、両肩を掴ん
だ。恐らくは普段しているであろう手加減も忘れているせいで、握
られている部分が酷く痛む。
﹁冗談でも、二度と言うな﹂
獰猛さを無理やり抑え込んだ瞳が、彼女を睨む。その視線に負け
そうになったが、伶は唇を噛んで気を引き締めた。
﹁冗談じゃ、ないです⋮⋮! 大体、最初の晩はそんなこと気にし
てなかったでしょう﹂
﹁あの時と今じゃ状況が違うだろうが! ︱︱言っただろう、お前
には﹂
シエルが険しい表情で彼女を睨み付けながら、それでも瞳を僅か
に激情で揺らせて、続きを絞り出した。
﹁お前には︱︱⋮⋮感謝と敬意を、と﹂
273
﹁!?﹂
切なげに顔を歪めて告げた彼に、伶は息を飲んだ。
﹁そんな相手を⋮⋮使うようなことさせるな、阿呆﹂
シエルはそこまで言い切ると、口をきつく引き結んで目を逸らし、
彼女の肩から手を離した。
伶は、このシエルと昼間のシエル、二人を別の人間のようだと思
っていた。昼間のシエルと今の彼では性格が違い過ぎて、多重人格
の例にあるように、別の人間が一つの身体に同居しているようなも
のだと勝手に感じていたのだ。
︵でも、違った?︶
少なくとも彼女に対し、どちらのシエルも確かな敬意を抱いてく
れている。恐れ多くて、分不相応で、それでも堪らなく嬉しく思っ
た感情を、﹃シエル﹄だけでなく﹃彼﹄もが、彼女にくれたのだ。
彼は、不審人物だと分かっていても彼女を受け入れ、排除すべき
異界の人間だというのに見逃してくれた。
伶は唇を噛みしめ、湧き上がってくる思いを胸に、決意を固めた。
彼をしっかりと見つめ、口を開く。
﹁じゃあ、私がシエルさんを頂きます﹂
伶は正面から思い切り彼に抱き付き、背中に両手を回して密着す
る。
274
﹁︱︱貴方をください、シエルさん﹂
ぎゅっと両腕に力を込めて告げれば、よく鍛えられた大きな身体
が、彼女の腕の中でびくりと動くのが分かった。
無理やり引きはがされるかと思ったがそんなこともなく、彼から
は長らく反応がなかった。
沈黙に耐えかねた頃、伶はそろりと顔を上げた。
﹁︱︱﹂
シエルが、呆けたように口を僅かに開け、彼女を見下ろしていた。
目を見開いた表情は、今だけ痛みを忘れているようだった。
その様子を視界に捉え、伶は自然と口角を上げる。
﹁まあ、シエルさんが私相手に勃つならですけどね﹂
貞淑さなどかなぐり捨てて、わざと露骨な言葉を使えば、ようや
くシエルがくしゃりと顔を歪めた。
﹁⋮⋮何て言葉使ってんだ﹂
困惑と呆れと苦笑の入り混じった複雑な表情で、シエルが彼女の
頭を後ろに撫でる。小さく、吐息に混じって彼は言葉を零した。
﹁本当に、分からない奴だよ、お前は﹂
彼は観念したように薄く笑うと、そっと伶の前髪を掻き分け、額
に口付けを落とした。そして彼女に表情を見せないまま顔を下げ、
うなじにきつく吸いつく。
275
﹁っ﹂
ちゅうと高い音が響き、ちくりとした鈍い刺激が落とされる。次
いで熱い吐息が首筋にかかり、彼女の全身の肌が粟立った。
シエルが声なく笑う音が耳元に響き、強い力で抱きしめられる。
彼の顔が首元に埋まり、唇が啄ばむように肌を食んだ。
﹁!﹂
そうしているうち、これ以上ない程に密着した身体の間で、伶は
違和感を覚えた。
﹁︱︱答えなんて、分かりきってるだろうに﹂
愉快そうに、艶と欲を滲ませた低い声が、伶に囁く。
伶は自分で仕掛けておきながら、羞恥で顔が熱くなった。間違い
ようもなく、彼女の腹に彼の欲が突き付けられている。
先ほど、彼女の全身を弄っていた時はぴくりとも反応しなかった
のに、おかしな話ではある。あれは義務で、これは自発的な行動だ
からかと考えて、どこか嬉しく感じてしまう自分も充分おかしいと
彼女は思った。
﹁さて﹂
﹁わあ!?﹂
突然シエルは彼女の腰を両手で掴むと、自分に抱き付く彼女の腕
を強引に引きはがした。彼女の尻の下に片腕を差し入れ抱きかかえ
ると、そのまま動き出す。
﹁うわ、シエルさん、やめ、やめて⋮⋮っ﹂
276
重いのにマジ勘弁と伶が抗議しても、彼は一切腕の力を緩めない。
﹁階段が狭いから上まではこれで我慢しとけ。その先はちゃんと横
抱きにしてやるから﹂
﹁いや、違う、そういう意味じゃないから!﹂
シエルは彼女の叫びを笑うだけで聞き流し、伶を抱っこ状態で抱
えたまま二階へ向かった。
277
19. 微睡 ※
宣言通り、シエルは二階の廊下に出るなり彼女を横抱きにして、
そのまま自分の部屋へ伶を誘った。
夜の主寝室は月の光で薄明るく、掃除の時に見た昼の様子とは全
く異なっていて、何故か妙に緊張する。
室内に入った彼は長い足で扉を後ろ蹴りし、大きな音を立てて扉
を閉めた。壊れてないかと心配しながら肩越しに扉を見つめていた
伶を、シエルはベッドに下ろす。扉に見せた粗雑さの千分の一すら
ない慎重な手つきに、むしろ伶は驚かされた。
シエルは彼女から手を離すと、そのまま自分の服に手をかける。
目の前で恥ずかしげもなく晒されていく逞しい裸体に、伶は体育座
り状態のまま目が逸らせなくなった。 ﹁︱︱ご期待に沿えそうか?﹂
﹁っ!﹂
彼の割れた腹筋や背中の筋、きゅっと上がった臀部を食い入るよ
うに見ていた伶に、シエルが意地悪く微笑みながら声をかける。ボ
クサーパンツに似た少しゆったりめの下着一枚だけ纏った引き締ま
った肢体に、思わず涎が出ていないか口元を手で押さえつつ、伶は
慌てて目を逸らした。
﹁レイ﹂
呼び捨てにされる、自分の名前。甘さと強さを含んだその音に、
伶の身体がぞくりと反応する。そして顎に手を当てられ、指だけで
彼の方へ顔を向けさせられた。
278
合わせられた彼の瞳は、初日と同様の強烈な欲で濡れている。思
わず息を飲んだ伶に、シエルは僅かに口角を上げた。
﹁あれだけ煽っておいて、今更止まると思うなよ﹂
獲物を定めたように目を細め、深緑と青の混じった瞳を揺らし若
干の嗜虐性を滲ませた笑みを浮かべる彼は、思わず胸を押さえたく
なるほどの色気を放っていた。
伶はベッドの上からどぎまぎと彼を見つめながら、無言で何度も
首を振る。
シエルはそれを見てくつりと笑うと、彼女のすぐ目の前まで来て
上半身を倒した。彼の両手がベッドの上に置かれると、マットレス
がそこだけ沈み、伶の身体が僅かに揺れる。彼女のすぐ目の前に、
上体を屈めたシエルの顔があった。
﹁シ、エルさん﹂
柔らかそうな睫毛から、不思議な色合いの瞳まで、目を逸らせな
いほどの近さで彼女の前にある。互いの熱すら感じる中、シエルが
囁いた。
﹁最後に一度だけ言っておく。もし嫌だと感じたら、どんな状況で
も本気で抵抗しろ﹂
シエルは彼女の耳に手をかけ自分の顔を近づけると、唇が触れそ
うな距離で続ける。
﹁そうでないなら⋮⋮離す気はない﹂
至近距離で、シエルの花緑青色の瞳と視線がかち合った。ぎらぎ
279
らと欲に濡れるそれが、引き返せるのはここまでだと明確に告げて
いる。緊張で強張った自分の顔をその中に見つけて、伶は往生際が
悪いと笑いたくなった。
﹁抵抗なんて、し、ません。⋮⋮私が頂くんですって、言ったでし
ょう?﹂
こんな状態でも選択肢を残してくれた彼に伶は言い切り、自分の
決意を再度固めた。彼の瞳を見つめながら微笑み、首に腕を回す。
シエルは目を数回瞬かせると、ふと、獰猛さを消した穏やかな目
で彼女を見やった。
しかしそれも一瞬で、彼はすぐに目を細めた妖しい笑みを浮かべ、
﹁良い覚悟だ﹂と呟いた。
彼は身を乗り出すと、彼女の唇と自分のものを僅かに触れさせ、
ちうと高い音を立てて唇の端を吸った。逃がすまいとでもするよう
に両手でしっかりと彼女の頭を抱き込みながら、瞼、こめかみ、耳
元、首筋へと唇を落としていく。そして首元に顔を埋めたところで、
彼女をゆっくりと押し倒した。
﹁んん⋮⋮﹂
喉を幾度も強く吸われながら、シエルの手が彼女の膝から太もも
へ滑り、ワンピースの裾を捲り上げる。腹を撫で、脇腹へまわり、
もう一度尻へと移動したかと思えば、身体の下に敷かれたワンピー
スを引っ張り上げた。
首に、彼の熱い吐息がかかり、軽く歯を立てて噛みつかれる。痛
みは全くないが、肌を擦られくすぐったい。
﹁︱︱余裕がありそうだな﹂
280
思わずくすりと息を漏らした彼女に、シエルが顔を上げ呟いた。
一目で﹁しまった﹂と思わずにはいられないほど、彼の目は嫌な意
味で爛々と輝いている。
﹁そんなこ︱︱ぅ、ぁっ!﹂
慌てて誤魔化そうとした彼女の胸をシエルが手で包み、両手の指
先を頂きに沈め引っ掻いた。ちりりとした強い刺激が急に走り、伶
は身体を震わせる。そのまま彼は、頂きに爪を立てたまま、指を回
した。与えられる刺激に乳首がぷっくりと尖り始めるが、彼の指が
邪魔で柔らかなクッションに沈む。シエルは愉しげにその蕾をこり
こりと指先で転がしては、二本の指で挟んで捻った。
﹁ひ、ぁ、ゃ⋮⋮っ﹂
﹁美味そうだ﹂
彼は呟くと、ワンピースの紐を口で解いてはだけさせ、双丘を眼
前に晒した。そして片手でなおも蕾を摘まんだまま、反対側の頂き
に喰らいつく。
﹁ぁ、ん、くぅ⋮⋮!﹂
きつく吸い上げ、舌で転がし、歯で挟んでは角度を変えて乳房ご
と喰らいつく。間違いなく意図的に立てられる水音が、伶の羞恥を
余計に誘った。だがそんなことに気も払えないほど、彼は指と唇で
しつこく果実を嬲った。
指の腹や爪、舌や唇が代わる代わる彼女の胸の蕾を弄る度、伶の
身体を逃しきれない痺れが走る。そのせいで下腹に力が入り、両足
を擦り合わせていることを、自分でも否定できないほど自覚してい
た。
281
そこで不意に、シエルの顔が胸から離れる。彼女の耳元に唇を寄
せ、耳たぶを口に咥えた。そして、指を彼女の下着の中に差し入れ
る。
﹁や、あっ﹂
彼の指が足の付け根に伸びた直後、くちゅりと、自分の身体が立
てる確かな音が聞こえた。彼女の秘所は既に蜜で溢れており、彼の
指を奥へと誘う。彼は回すように花弁を撫でつけながら、彼女の耳
元に熱を含んだ低い声で囁いた。
﹁協力的で助かる﹂
﹁だ、め⋮⋮ぁ⋮⋮っ﹂
彼の長い指が秘丘に沿って滑り、蜜を花園全体へと広げていく。
数本の指で秘裂をなぞられ、肉芽が擦られて快感を生み出した。両
足に力を入れて閉じようとしても、それは却って彼の動きを固定す
るだけで、何の助けにもならない。
﹁素直にねだれ﹂
﹁んん、違⋮⋮ぅんっ!﹂
彼の手が再び乳房に沈み、全体を揉みしだきながら指先で乳首を
転がす。同時に、反対の手が彼女の蜜口を撫で、何の抵抗もなさな
い膣の中へと滑り込んだ。胸から与えられる刺激に蜜壺が締まり、
彼の指の動きをより鮮明に彼女に伝える。抜き差しされる指は内壁
を探るように擦り、蜜を次々と溢れさせた。
﹁ぁ、ぅ、はぁ⋮⋮﹂
﹁良い音を奏でるな、お前は﹂
282
快感に意識を塗りつぶされようとしている彼女に、シエルが囁い
た。耳を食み、音を立てて頬を吸い、耳孔に舌を差し入れながら、
彼女の﹃口﹄から漏れる音を愉しんでいた。
シエルは伶に見えないように微笑むと、彼女の横に寝ころんで身
体を密着させ、伶の背に片腕を回す。そして背中から回したその手
で再び乳房を揉みしだき、片手は依然花園を責めたてる。蜜壺には
今や、複数の指が侵入していた。
﹁レイ﹂
彼が彼女の名を呼べば、伶はぽうっとした表情で彼を仰ぎ見た。
その上気した顔にシエルはぞくりとしたものを感じながら、唇の端
に口付けた。
蜜壺をほぐすように動かしていた指を一度抜くと、中指だけ再度
差し入れる。そして手のひらを強く下腹に押し付け、肉芽を潰すよ
うに擦り上げながら手を前後させた。
﹁は、あっ、や、んんっ﹂
添い寝でもされているような姿勢のまま、指で内襞を引っかかれ
ながら尖った秘豆を強く嬲られ、反対の手で乳首を弾かれる。頭が
甘い責め苦に何も考えられなくなりそうなのに、耳のすぐそばをち
ゅうと吸われる音と感触だけは鮮烈だった。
﹁シエル、さん。シエル、さ⋮⋮あっ﹂
腹の奥に、快感ばかり降り積もっていき、伶は堪らず自分のもの
とは違う硬い身体にすり寄った。
そこで不意に、シエルの動きが止まる。
283
﹁え⋮⋮﹂
急に愛撫を止められ、伶は呆然と彼を見た。
険しい表情のシエルは彼女の中から指を抜き、背に差し入れてい
た腕も引くと身を離す。
何かしてしまったかという不安が顔に出ていたのか、シエルは苦
笑を浮かべて彼女の額に一度口付けを落とすと、ベッドサイドテー
ブルの引き出しを開けて背を向けた。何かを取り出したかと思うと
陰でごそごそと動き、唐突に下着を脱いで全裸になる。
引き締まった臀部を見て、伶はごくりと喉を鳴らした。
シエルはそんな助平親父じみた視線に気づかないまま振り返ると、
彼女の服に手をかける。
﹁悪いが、色々と限界だ﹂
小さく呟くと、彼は強引に彼女のワンピースを頭から引き抜いた。
そのまま下着にも手をかけ、彼女の身体からはぎ取る。
伶は反射的に身体を隠そうとしたが、それよりも早くシエルが足
の間に割り込み、彼の巨躯と同じく雄々しく高ぶった分身を蜜口に
当てた。
﹁シエルさ︱︱ぁあ⋮⋮っ﹂
制止したかったのか自分でも分からないまま彼の名を呼ぼうとし
たが、その途中で硬い陽根が沈んでくる感覚に伶はとらわれた。充
分に潤っているとはいえ体格差もあり、彼のものは抵抗なく受け入
れるには大ぶり過ぎた。身体の内側をこじ開けられ、奥へ奥へと突
き進んでくる男根の圧迫感で、伶は息を漏らす。やがて、ここまで
入れるのかという場所まで先端が沈むと、シエルが止まった。
284
﹁大丈夫か⋮⋮?﹂
彼女に尋ねるシエルの顔は顰められているが、隠しようのない気
遣いが浮かんでいる。
そこで伶は、何故二人がこうしているのか、迂闊にも忘れかけて
いた状況を思い出す。
今も痛みが全身を巡っている証拠に、シエルの肌はじっとりと湿
り気を帯び、表情は険しい。なのに、シエルは全く事を急ごうとは
しなかった。丹念に彼女の身体に準備をさせ、心を問う。
伶は、例え性格が違っていても、芯の部分は結局損な人なんだな
と微笑んだ。
﹁⋮⋮別の意味で、大丈夫じゃないです﹂
からかうようにそう言えば、シエルは数度目を瞬かせた後で、に
やりと唇の端を上げた。彼女に覆いかぶさり、額を当てる。
﹁︱︱そうか。甘いおねだりに感謝しよう﹂
シエルが彼女の脇の下から両腕を背に差し入れて抱き寄せると、
二人の身体が余すところなく重なる。巨躯に覆いかぶさられ、かな
り気を遣ってくれているのだろうが、確かな重みが彼女に圧し掛か
った。それに思わず息を漏らした瞬間、内部に突き刺さった彼の杭
が、最奥を小突いた。
﹁ぁ、ああ⋮⋮、う、ゃあ⋮⋮っ﹂﹂
シエルはわざと腰を擦り付けるように前後させ、彼女の反応を確
かめる。彼の動きに合わせて肌が擦れ、肉芽を刺激されて痺れが走
285
る。うっすらと開いた目で彼の顔を見れば、彼は鼻先が触れ合う距
離でこちらを見つめ返した。目を細め、眉には皺が寄っているのに、
今は痛みよりも快感に耐えているように見える。その艶めいた表情
に、伶は思わず下腹に力を入れた。
﹁っ﹂
直後シエルが一層眉を寄せて息を漏らし、伶を睨んだ。鼻をつけ、
唇を僅かにすり合わせて、囁く。
﹁⋮⋮お気に召したようで、何より、だ⋮⋮っ﹂
より強く、速く、彼女の中を抉るようにシエルは動く。彼が腰を
打ち付けるたびに重なり合う肌が擦れ、硬い身体に潰される乳房や
肉芽が快感を生んだ。
﹁ぁ、んんっ、ふ、ぁ!﹂
ちゅくちゅくと部屋に響く水音が余計に現状を教え、伶をより高
みに向けてかり立てた。
﹁シエルさん、シエル、さん﹂
﹁レ、イ﹂
お互いが名を呼びながら、どちらともなく身体を強く擦りつけ、
次々と生まれる快感を貪欲に求めた。そしてもはや堪えきれないほ
ど痺れが積もると、伶は彼にしがみついて高く啼いた。
﹁ぁ、シ、エルさん、ゃ、あああ︱︱っ!﹂
﹁ぅ、く⋮⋮っ﹂
286
さっと視界が白で埋まり、快楽の波が弾けた。
一際強くシエルの猛りが彼女の内側を引っ掻いて突き刺し、やが
て最奥で震える。熱い吐息が耳にかかると同時に、彼は数度彼女に
己を突き立てると、強く抱きしめた。
﹁⋮⋮﹂
お互いの吐息だけが響く時間を、しばらく過ごす。
伶は呼吸が落ち着くと、自分がどれだけ相手に縋っていたかに羞
恥を覚え、腕を離した。
シエルもそれを受け、彼女の唇の端に口付けると身体を起こした。
﹁ぅ、ん⋮⋮っ﹂
ずるりと、彼女に埋め込まれていた楔が抜ける感覚に、伶が息を
漏らす。
シエルがその様子を非常に複雑な表情で見つめていたが、彼は何
も言わなかった。
離れていった熱を寂しく思いながら、伶は彼に声をかける。
﹁体調⋮⋮よくなりました?﹂
そもそも、それが目的だ。だから尋ねたのに、彼はさも今思い出
したとでも言わんばかりの表情を見せてから、神妙な顔して頷いた。
今更繕っても遅い。
﹁ああ。⋮⋮助かった﹂
﹁いえ、﹂
287
お気になさらずと続けようとして、それも事務的で嫌だなと思い
とどまったが、代わりに何と言えばいいのか思いつかない。伶は結
局何も言わぬまま口を閉じた。
そんな複雑な胸中の彼女の前で、シエルはベッドに腰を掛けて足
を下ろすと、何やらもぞもぞと動いている。何だろうと彼の広い背
中から身を乗り出して見ると、シエルは丁度自分の局部から何かを
外しているところだった。
﹁それは⋮⋮?﹂
若干気まずく思いながらも、好奇心を抑えきれずに尋ねれば、シ
エルは平然と﹁避妊具﹂と答えた。
﹁え? 避妊具⋮⋮付けてたんですか?﹂
思わず彼のご立派なモノから剥がされる透明な膜を眺めながら言
えば、シエルは彼女を止めることなく頷いた。
﹁当然だ。最初の時は状況的に魔術だけで済ませたが、避妊は最低
限の礼儀だろう﹂
伶は彼の憮然とした表情を見て、目を瞬かせる。基本的に彼だっ
てシエルなのだろうから礼節云々は別に良い。気になったのは別の
事だ。コンドームのようでいてゲル状に柔らかいその避妊具を丸め、
シエルは屑籠に放り投げた。
﹁魔術って⋮⋮﹂
﹁結界術の応用だな。魔力の膜で﹃身﹄を覆って、体液を封じ込め
る。密封性が高すぎる上に消耗が激しいから、使用はごく短時間に
288
限られるし身体にも悪いが﹂
マニュキュアや絆創膏みたいなものだろうかと勝手に納得しかけ
たが、別の疑問が生じた。
﹁結界って、そんなことに使えるんですか?﹂
﹁⋮⋮魔術や剣すら弾けるのに、体液が防げないわけないだろう﹂
そりゃそうだと、今度こそ伶は納得した。まさかそんな気遣いを
あの時されていたとは全く気付かなかったが、伶はその気配りに安
堵し、感謝した。
﹁気になるか?﹂
彼女がそんな感謝を抱いてぼうっとしていたところ、シエルが声
をかけてきた。避妊具の捨てられたゴミ箱に視線を向けていたのが
誤解されたらしい。シエルは引き出しから直径三センチほどの青色
の玉を取り出し、手のひらに乗せた。
﹁これは?﹂
﹁避妊具﹂
伶は興味を引かれてシエルの方ににじり寄ると、その避妊具を見
つめる。
グミを大きくしたような、弾力のある青色の玉には半分ほど紐が
張り付けられており、まるで小さな水風船のようだった。シエルは
玉を手に取ると、紐を表面から剥がすように引っ張る。
﹁わ、零れる零れる!﹂
289
紐が剥がされた断面からは、粘度の高い青色の液体がぷっくりと
溢れだしてきて、伶は一人で慌てた。
シエルは喉の奥でそれを笑い、玉からゆっくりと溢れだすそれを、
性器の先端に当てた。そして何を思ったのか、彼女の手を掴んで自
分の手に添えさせると、徐々に杭に沿って手を滑らせる。
﹁おおー﹂
男根を握らされて伶は声を上げそうになったが、避妊具の玉が手
の動きに合わせて伸びていき、薄い膜となって彼の竿に貼られてい
く様子を見て、そのタイミングを失った。途中から彼の手が外され、
伶のものだけになっても、彼女は好奇心から手を離さなかった。
﹁すごい、面白い﹂
うわうわと呟きながら、伶は餅のように伸びていく青色の液を滑
らせる。根元近くまで覆った所で、シエルが液体を包んでいた外装
部分を剥がした。すると、青色だった物は徐々に色を変えていき、
やがて半透明になる。その変化が面白くて思わず指を這わせると、
表面は僅かにぬるりとしていた。ぴったりと芯にくっつく様子は、
まるでジェルコーティングのようだ。
﹁どうなってるの、これ。不思議、さすが剣と魔法の世界!﹂
﹁⋮⋮っ、レイ﹂
つい新種の玩具を見るように、擦ったりつついたりしていたのが
悪かったのだろう。シエルが軽く息を漏らすと同時に、指の下で﹃
モノ﹄が硬さを増し、持ち上がってくる。
﹁あ﹂
290
何故かすっぽり頭から抜け落ちていたが、これはシエルの身体の
一部だった。
今や臨戦態勢に入ってしまった、控えめとは決して言えない彼の
分身から無理やり目を離し、顔を上げた。
﹁レイ﹂
にこりと微笑むシエルと思い切り目が合い、伶は引き攣った笑み
を浮かべた。
彼は目を細めて彼女を見やると、ぐいと伶の身体を引き寄せた。
﹁自己責任って知ってるか﹂
﹁い、いや私は⋮⋮っ﹂
剥き出しの背中をつっと撫でられ背を反らしたところに、片手で
乳房を覆われる。
﹁ぁ、シエルさん、待って⋮⋮っ﹂
﹁断る﹂
シエルは彼女の首筋に口付けると、舌先を鎖骨へと滑らせ、そし
て赤く色づく蕾を咥えた。歯で乳首を甘噛みされ、未だ官能の余韻
から抜け切れていない身体はすぐに反応する。
﹁あ、ぅん、んっ﹂
﹁口も⋮⋮こちらのように素直になればいいものを﹂
﹁だっ、て⋮⋮あ、くぅ﹂
ちゅうと何度も蕾を吸っては離し、舌で押し転がしてはまた咥え
291
ながら、シエルはそう言って笑った。
一方的にやられるのが何だか悔しくて、彼の猛々しく起き上がっ
た男根に手を伸ばしたのは単なる出来心。なのに、それに触れた瞬
間、シエルが息を飲んで動きを止めた。
﹁レ、イ⋮⋮﹂
その身に沿って手を滑らせれば、シエルが熱い息を漏らして唇を
噛んだ。眉を寄せ、長い睫毛に覆われた目を伏せる姿は、どんな美
女も霞むほど、艶美だった。
つい調子に乗り、伶は陽根を握り、緩急をつけて竿を上下に擦る。
その度に切なげに動かされる表情を見て、伶は思った。
︵うわ、これはやばい︶
堪らなく愉しい。今まで知らなかった嗜虐心が若干頭をもたげた
ところで、シエルが彼女の手を掴んだ。
﹁レイ﹂
口は笑っているのに、目は全く笑っていない。剣呑な光を宿して、
彼女を正面から見据え﹃笑った﹄。
﹁わっ!?﹂
シエルは彼女の腰を両手で掴むと強引に持ち上げ、自分の膝の上
に伶を跨がせた。彼女の、再び蜜を零し始めた秘所に、シエルの男
根の先が当たる。剛直の先端は花弁を掻き分けて蜜口に探し当てる
と、僅かにその身を蜜壺に沈める。
292
﹁あ、だめ、シエルさ︱︱ぁあ!﹂
﹁っ、ぁ⋮⋮っ﹂
そして、腰を押さえられたまま身体を落とされ、一気に楔が彼女
の奥まで穿たれた。文字通り杭が刺さるように、シエルの陽根は彼
女の最奥まで侵入し、壁に先端を押し付けている。子宮の入り口を
押される感覚に、伶は言い知れない恐怖と快感を覚えた。
未体験の感覚に腰が引けると、シエルは背中に腕を回して自分に
彼女を密着させた。腹も胸も、頬だって彼にぴったりとくっつく。
シエルは自分に向けられた彼女の耳を唇で咥えると、舌を耳孔に差
し入れた。頬に、こめかみに、口付けが落とされる。
﹁レイ⋮⋮﹂
﹁ぁ、ぅん⋮⋮っ﹂
ひくりと口づけに反応するたび下腹部に力が入り、内襞がシエル
に絡んで、彼がそれに刺激されて彼女を小突く。そんなループをし
ばらく繰り返す頃には、二人はお互いに抱き合って、一つになろう
でもするかのように腕に力を込めていた。
指で敏感な部分を弄られたりするわけでもないのに、身体を擦れ
つけ合うだけで、おかしくなるほど気持ちよくなれるのだと、伶は
初めて知った。
シエルの目に自分の顔が映っているのが、面映ゆい反面嬉しい。
とろりと微笑む伶に、シエルの舌が唇を舐め、下唇を自分のそれ
で挟んだ。口付けとは言えないのに、まるでキスしているように感
じる。ねだるように目を閉じれば、彼はそれを数回繰り返した。
﹁レイ⋮⋮そろそろ、いいか﹂
293
体格差のせいで、彼の上に乗ってもなお若干見下ろされる伶は、
シエルの言葉に頷いた。きゅっと膣を締め上げれば、シエルが息を
漏らす。
そしてシエルは、彼女の身体を揺らし、下から突きはじめた。
﹁ぁっ、やっ、ぁああ﹂
中全体を引っ掻かれ、奥へ奥へと言うように突き上げられ、伶は
訳が分からなくなりそうだった。快感を逃がしたくて身を離そうと
しても、シエルがきつく彼女を抱きしめてくる為、それも叶わない。
彼に突き動かされ、伶は甘い悲鳴を上げるしかなかった。
﹁シエル、さん、シエル、さ、シ、エル⋮⋮っ﹂
﹁は、レイ⋮⋮、レ、イ⋮⋮っ﹂
身体を擦りつけ合って二人は互いの名を呼び、ただ高みに向かっ
て相手を貪った。
最終的にシエルが彼女を突き上げる速度を速め、二人は相手にし
がみ付くようにして達した。
そのままの体勢で、呼吸を整える事数分。
伶は疲れから彼の肩に頭を乗せて、目を瞑っていた。背中を撫で
まどろみ
るシエルの動きに、眠気は一層助長される。
何故か、彼と身体を重ねた後はいつも微睡に落ちそうになる。不
思議と触れ合う部分が温かく感じられ、陽だまりに横になっている
ようなぽかぽかとした気持ち良さ。単に事後の疲れなんだろうけど
それでも、と彼女は不思議に思った。
294
﹁レイ﹂
小さく、シエルが彼女の名を呼んだ。沈んでいきそうな心地よさ
の中から、意識を浮上させる。顔を上げれば、シエルの深緑と群青
が混ざる瞳と視線がかち合った。
﹁シエル、さん?﹂
どこかはっきりとしない彼女の表情を見て、シエルが苦笑いを浮
かべて額の上に唇を落とす。
前回は途中で意識を失ってしまったから気付かなかったが、この
男は抱いた後には何だか甘めになるんだなと、伶はぼやーっと思っ
た。
﹁二、三回が限度だな⋮⋮﹂
﹁え?﹂
﹁いや、こちらの話だ﹂
頭の上でシエルが何か呟いたが、彼は自己完結したらしく先を続
けようとはしなかった。その代り、話題を変えて話し始める。
﹁先ほど、召喚術と言ったのを憶えているか?﹂
﹁召喚⋮⋮うん﹂
眠気に引きずられそうになる頭を動かし、伶が頷くと、彼女の背
中と後頭部に手をやりながらシエルが続けた。
﹁お前が本当に召喚されたんだとしたら、お前を帰せるのは召喚し
た本人だけだ。だが、召喚術は禁術。変に嗅ぎ回れば、お前の方が
警戒される﹂
295
﹁⋮⋮大人しくしてろってこと?﹂
﹁今だけな。しばらくすれば、微力だが手助けが出来るはずだ﹂
﹁⋮⋮﹂
シエルに言われたことを、靄のかかったような頭で伶は考えた。
彼の言葉は理に適っているが、それは彼の言葉が真実であるという
前提があってのことだ。
﹁信じろと言うのも無理があるだろうが、出来れば我慢して欲しい﹂
伶は眉間に皺を寄せて考え込んだ。彼女は勿論、可能な限り早く
元の世界に戻りたかった。家族や友人の心配もだが、職を失いたく
もない。自分が万一病院で昏睡状態だった場合は、医療費とかの問
題さえある。しかし、と伶は口を開いた。
﹁一つ、聞いていい?﹂
﹁答えられる範囲なら﹂
顔を彼の肩に埋めたまま、伶は最も気にかかっていたことを尋ね
た。
﹁あなたは、シエルさん⋮⋮でいいんだよね?﹂
彼の話を信じるか否か。それは結局、彼が﹃シエル﹄であると信
じるかということ。
彼女の背をさすり髪をすくこの男は、悪人ではないと彼女は思っ
ている。だが、言葉一つ全て信じるには交わした言葉、時間が少な
い。どうして昼のシエルは何も憶えていないのとか、どうしてこの
彼が出てくるのとか、逆にどうしたら彼から昼のシエルに戻るのと
か、疑問は尽きない。それでも、今にも眠りに尽きそうな状態で聞
296
いておきたいのは、この一点だ。
﹁︱︱ああ。お前の知るシエルは﹃一人﹄しかいない。俺が出てく
るのは、特殊な条件下でのみだ﹂
﹁条件?﹂
﹁⋮⋮それは話せない。昼の俺が知らないことをお前が知ってたら
怪しいだろう。上手く誤魔化せるとは思えないしな、お前﹂
よく彼女の事を分かってるなと、伶は暢気に思った。確かに、何
かの拍子で口を滑らしそうで怖いし、そうなったら誤魔化せる自信
は彼女にはない。
﹁︱︱分かった。ひとまず、大人しくしてる。シエルさんなら、信
じても後悔しないから﹂
それこそ自己責任。彼女が言い切れば、シエルは彼女を押さえる
腕に力を込め、伶をより強くかき抱いた。
少し痛いくらいに胸に抱かれ、触れ合う裸の肌から熱が伝わって
きて、彼女の眠気を深める。これはもう起きているのは無理かもし
れないと、伶は思った。
﹁⋮⋮シエルさん、最後に一つ﹂
﹁何だ﹂
言葉は簡素だが、どこか彼の声音は柔らかい。そんな風に感じる
のは、眠りの甘い夢が既に頭を侵食しているからだろうか。
﹁︱︱次に貴方が現れたら、教えて。黙って、他の所に行かないで﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁従う必要はないけど、でも⋮⋮お願い﹂
297
伶は彼の背に回した腕に力を込めて、囁いた。
知らない間に、シエルが他の女性をこの腕に抱くなんて嫌だと、
ぬくもり包まれた今、余計に思った。
返事がないまましばらく経ち、伶が意識を保つのも限界という頃、
シエルは彼女の耳の脇に口付ける。そして直接耳孔に注ぐように、
呟いた。
﹁︱︱分かった、お前に誓おう﹂
安堵で、伶の身体から今度こそ力が抜ける。﹁ありがとう﹂と言
えたかは、彼女には分からなかった。
298
PDF小説ネット発足にあたって
http://novel18.syosetu.com/n8381by/
剣とお玉と花緑青の鍵
2016年7月8日22時33分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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