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題:一致の美しさ 聖書:詩篇 133 篇 序論 私たちは、今、リック・ウォーレン
WIJC140907 題:一致の美しさ 聖書:詩篇 133 篇 序論 ● 私たちは、今、リック・ウォーレンの「人生を導く5つの目的」 (Purpose Driven Life)をご一緒に学んでいるが、 数週間前から「第2の目的」 : 「あなたは神の家族となるために造られた」の部分に入った。 ● 「家族」において最も大切なことは「交わり」である。 1. 家族の幸せは、お金でもないし、大きな家に住むことでもないし、美味しい物を食べることでもない。家族旅 行でさえない。 (1) 「家族の幸せをお金や、大きな家や、ご馳走を食べることだ、旅行だ、・・・」と思って、一生懸命努力し ているのは「親」だけだと気がつくことがある。 (2) それでも子供が小さいうちは、まだ親はその錯覚に生きることができる。子供が喜んでいてくれるように 思えるからである。ところが、 ・・・ (3) 子供がティーンエージャーの頃になると、段々とそれが親の独りよがりであることがハッキリしてくる。 2. 家族にとって一番魅力的なことは、お金でもないし、高級な食事でもないし、贅沢な旅行でもない。それは暖 かい交わりである。 3. だから聖書は言う。 「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」(箴言 15:17)と。 4. 「教会が神の家族である」という時も同じである。教会にとって一番大切なことのひとつは「交わり」である。 (1) 初代の教会が、成長し、拡大していくのには易しいとは言えない、むしろ困難な状況の中で、あのように 強く、輝いて成長していった理由のひとつは、彼らがもった教会の「交わり」にあった。 (2) 私たちは、この「交わり」について 2 週間前の日曜日、使徒の働き 2 章 42 節を中心にして学んだ。 ●「交わり」は、お茶を飲んで自分の話しや世間話をすることから始まるかもしれない。しかし、 ● 聖書の言う「交わり」は、それ以上のことを意味している。それは、協力して何かをすることであり、 共に助け合って生きること、運命共同体、家族として生きることである、等々のことを学んだ。 ● 更に、それは、英訳の"The" Fellowship の定冠詞が意味するように、特別な「クリスチャン」として の交わりである。それゆえ、そこに集まってくる人々が、聖書を知り、聖書に生きる人、祈り、祈り合 う人、聖餐の記念するイエスさまの十字架をいつも原点として生きる人であることが必要である。 ● 初代のクリスチャンたちは、英語で They devoted themselves to the fellowship とあるように、その ような交わりを、他のいかなる交わりにもまして、一番大切なものとして、彼らの人生と生活の中で、 最優先においたこと、そのために大きな犠牲を払ってでも、それを守り続けたことなどを学んだ。 5. 今回の東海岸日本語教会合同ファミリーキャンプでもそれを感じた。素晴らしいクリスチャンの交わりの時で 性格や、生活や、教会の違い、 その他あらゆる違いを超えて、主にあるクリスチャンの交わりは素晴らしかった。しかし、それは、参加された 方々一人一人の経済的、時間的、その他、様々な犠牲の元に実現した交わりであった。 ●今日は、この交わりについて、更に一歩踏み込んだポイントを学びたい。それは「一致」についてである。 1. リック・ウォーレン(RW)は、Purpose Driven Life (PDL)の Day 21 の冒頭の部分で、「一致は交わりの核心で あった。久しぶりの人も、初めて会う人もたくさんいる。しかし、誰と会っても、 す」と言っている。 修養会でも、開会礼拝でメッセージを取り次がれた中島先生がそのことを強調された。こ の東海岸の日本人諸教会の中に、この修養会の中に、一致があるようにと熱く語られた。 3. 「一致」するという努力と事実なくして、真の交わりはない。 ● 「一致」の重要性については、 1.最初に読んだ詩篇 133 篇が、まずそれを美しく表現している。 2. 今回の東海岸の合同 楽 姿 描 (1)1 節には、「一つになって生きている」がゆえに、幸せで しそうな人々の が かれている。 終 終 様 永遠の命の祝福を命じら れた」とある。即ち、神様の祝福のあるところに一致があり、一致のあるところに神様の祝福があるのである。 2.また、一致の重要性については、これ以上強力な証拠はないと言えるのが、イエスさまの十字架にかけられる前 の晩、あの弟子たちとの最後の晩餐の後に祈られた祈りでる。 (1) その中で、イエスさまが繰り返して祈られたこと、父なる神様への切々たる最後の締めくくりの願いとして 捧げられた祈りが、弟子たちの間、クリスチャン同士の間に「一致」があるようにということであった。 (2) 即ち、イエス様は、ヨハネ 17 章 11、21、22、23 節にあるように 4 回にも亘って、そのことを熱心に繰り返 (2)そして、最 節である 3 節の わりには、神 は、そのような一致のあるところに「 し祈られたのである。 後 触 パ ロ 重 性 コ ト へ 第一の手紙 12 章、ピリピ人への手紙 1 章 27-28 節で語っている。 4.「一致」することが重要なのは、そもそも「一致」とは先述のイエスさまのお祈りの中にあったように、神の本質的 ご性質から出たものである。 、即ち、三位一体の本質であった。それは、延いては愛の本質である。 (1) イエスさまは先のヨハネ 17 章の祈りの中で繰り返し言われた。「私(イエス様)とあなた(父なる神様)とが一つ であるように」、或いは「私たち(イエス様と父なる神様)が一つであるように」と。 (2) 即ち、三位の神様がいつも一体であり、一致しているように、弟子たちが一つになることを祈られたのであ る。「一致」は「三位」の神ご自身の本質的性質である。 (3) そして、それゆえ、それは、愛の本質的性質である。愛とは、愛し合う者たちが、最早二つではなく、一つ 3. にも れるが、 ウ もまた、教会生活、クリスチャン生活の中での一致の 要 について、 リン 人 の になることである。 土台にして、教会の交わりの核心である一致とは何か、どのようにそれは生まれ、育まれ るのかについてご一緒に考えたい。 ● 今日は、それらのことを 本論 Ⅰ.一致が私たちに与える祝福 A.一致するとき、私たちは美しくなる 1.それがまさに詩篇 133 篇の描いている交わりの美しさである。 2.それは、人々が求めている、人々が見たいと願う美しさである。 3.美しさの反対は英語で言うと Ugly (醜い)だが、子供たちが一番見たくない Ugly な姿は何か? 親の争っ ている姿である。彼らは、そのような姿を見るとションボリしてしまう。 4.逆に、両親が、また人々が、一致している姿は、「朝露」が私たちにそうするように、子供たちの心を、ま た人々の心を慰め、癒し、リフレッシュす美しさと力がある。 B.一致するとき、私たちは強くなる: 1.ピリピ1章27-28節でパウロは言う。「ピリピの教会の人たちよ。あなた方が霊と思いを一つにして戦 うとき、その姿と事実は、あなたを強くし、あなた方の反対者たちの脅威とさえなるのだ」と。 2.アフリカ大陸は動物の世界であるが、その中には、強い動物もいるし、弱い動物もいる。シマウマは、お そらく弱い動物の一つであろう。角や牙や鋭い爪があるわけでもない。足が速いと言っても、ライオンや ヒョウのような足の速い獰猛な野獣も一杯いる。彼らに狙われたら一溜まりもない。あっという間に餌食 になってしまう。その彼らが自らの身を守る手段は、「一致」にある。彼らは、常に群れで生きる。そして 野獣に襲われるや、即座に頭を中心にして円陣を作り、後ろ足で外に向かって一斉に蹴り出すそうである。 その凄まじさに獰猛な野獣たちさえも恐れをなして何もできないそうである。ここで鍵は一斉にみなでや ることである。しかし、時々、怖くなって一頭だけがそこから逃げ出そうとする。そうなった瞬間、そこ ず 獣 残 円陣のシマウマも、逃げ出したシマウマもみな餌食になって しまうそうである。一致を失ったからである。一致は力であり、敵(サタン)に対して脅威となる。 Ⅱ.次に、聖書の言う「一致」は何でないか? 一致に関する誤解について短く触れたい。 A.多くの人は、「一致」と言うと、外見的、皮相的な一致をイメージする。 1.即ち、それは、英語で言うと Conformity であり、ユニフォーム(制服)を着たような外面的一致である。 2.そのような一致は、ある宗教団体がするように、同じような服装をし、同じような社会生活をし、まるで 洗脳されたように、同じような考え方・思想をもつ人、同じようなタイプの人になることである。 3.それは聖書の言う一致ではない。イエス様が、弟子たちの一致を祈られたとき、ペテロがトマスのように なること、ヨハネがマタイのようになること、ヤコブがアンデレのようになることを願ったのではない。 (1)彼らは、それぞれみな違った人格と性格、タイプの持ち主であった。 (2)神様はみなそれぞれに違った性格、違った特色をもってお造りになったのである。 (3)それゆえ、ペテロはペテロ、ヨハネはヨハネ、トマスはトマス、マタイはマタイ、アンデレはアンデレ、 からすかさ 野 が入ってきて、 っている そのままでいるべきなのである。同じような人になる必要はないのである。 ぞ 違 B.この課題を考えるために、もう一度コリント人へ第一の手紙 12 章を見たい。特に 12-14 節。パウロはそこで: 1.まず、「体は一つである」と確認している。ここに「一つの体」としての「一致」への招きがある。 2.しかし、彼は更に言う。その一つの体には、多くの違った部位、器官があると。即ち、 (1)その部位、器官は、足、手、鼻、口、耳と言うように、皆それぞれに特色、役割、機能、様相が違う。 (2)それらは違っていて良いのだ。違っていなければならないのだ。どれも必要だし、目は耳にはなれない し、耳も目にはなれない、と。 3.即ち、私たちは、違ったままで、一つになれるのだと聖書(パウロ)は言う。 Ⅲ.それでは、聖書の言う「一致」とは何か? A.同じ神に造られた被造物、神の家族としての一致である。 1.もう一度、PDL の最初の部分で言われていたことを思い出したい。それは、「すべては神から始まる」と言 う事実とメッセージである。ここに私たちが「一致」して生きる根本的理由と基礎がある。 (1)私たちが一致して生きるのは、私たちが神の家族だからである。私たちが神の家族だという事実が余り にも言葉の世界、修辞の世界、単なる文学的表現のことになり過ぎて、真剣に受け取られていない。 (2)すべては神から始まった。私たちがここにいるのは、神様が私たちを造られたからである。神様はこの 世界の人々をご自分を「父」とする一つの大きな神の家族として造られたのである。 2.なぜ、私たちは一致しなければならないのか? それは、私たちが神の家族だからである。 (1)それは、私にとって、私の地上の家族にとって、●便利だからでも、●都合が良いからでも、●何か得 すること(メリット)があるからでも、人情的に気の合う人がいて、そうしたいからでもない。 (2)それは、私たちが、実は地上の家族より強いつなぎで引き合わせられている「神の家族」だからである。 ●これが、クリスチャンたちが、互いに「兄弟姉妹」と呼び合う理由である。 ●熱心なクリスチャンである米国の有名な宇宙飛行士が言った。「私の人生においての優先順位は、第一 に神様、第二に家族、第三に仕事である」。 ●ところが、多くの人々が、神様より地上の家族が先に来てしまっているのではないか? 第一に地上 の家族、第二に神様となっていないか? 地上の家族のための神様になっていないか? 神の家族の一 致、交わりを優先することの大切さを再認識するべきではないか? ●今回の東海岸の合同キャンプでも主講師のチョウ先生は、第一サムエル 2 章から、特に 29 節の「あな (4)それが聖書の言う一致ではない。その意味では人はみなそれ れ うべきなのである。 息子たちを重んじて」という神様の祭司エリへの言葉を中心に「今日のクリスチャ ン達の問題の一つは神の言葉に従うより自分の子供への情的な愛を優先していることだ」と強調された。 B.同じイエス様の十字架によって救われた者同士としての一致である。 1.私たちは、みな「罪」という同じ道を歩いてきた。それは、神に従わず、神に信頼せず、神を第一としない 人生であった。それを悔い改めてイエス様の十字架を通して神様の元に立ち返った。 2.そして、私たちクリスチャンは、みな、イエス様が、十字架で私たちの罪の刑罰を受けるために、ご自身 の命を捧げ、呪われてくださったことにより救われるという同じ経験をもっている。 3.そのことによって、私たちはみな過去の罪責から救われ、今のときに神様と共に生きることの祝福を経験 し、未来には永遠の世界で生きる希望を頂いた。 4.このような大いなる救いを頂いた私たちの人生の目的はみな同じである。それは、このお方のために生き たは私よりも自分の ることである。 パ ロ コ ト へ 二 手紙 5:13-15 でこのように言う。「・・・・」と。 (2)たくさんの人たちがこの点で間違っている。救われる前と救われた後の生き方、生きる目的がまったく 変わっていない人が多すぎるのではないか?! (3)一部の熱心なクリスチャンがキリストのために生きるのではない。キリストの救いにあずかった全員で ある。かつては自分と家族のために生きていたが、今はキリストのために生きるようになったのである。 5.ここにクリスチャンの「一致」とは何かのもう一つの答えがある。それは、「人生の目的における一致」であ る。クリスチャンとは、キリストのために生きるという共通の目的において一致するのである。 6.文化的、性格的違いからくる思想や意見は違うかもしれない。しかし、何のために生きているかについて は全員がキリストのために生きていることで一致しているのがクリスチャンである。 (1) ウ は リン 人 の第 の 結論: 冒頭で言う:「教会の一致を守るのは、あなたの仕事です」と。 ● そして、彼は同章で、次の6つの提案をしている:(1)お互いの違いにではなく、共通点に注目すること、(2)現実的 な期待をもつこと(理想論に走らない。完璧な教会はない)、(3)批判するのではなく、励ますこと、(4)噂話に耳を貸 さないこと、(5)神の方法で争いを解決すること(マタイ 18:15-17、①まず本人とだけ話す②次に、他の信者 1-2 名を証人として本人と話す③教会全体にこの問題を持っていく)、(6)あなたの牧師や指導者たちを支えること ● 初代クリスチャンたちはどのようにして、一致を保ち、また育んだのか? ここでは二つのポイントに絞りたい。 1.それは、まず熱心な「祈り」であった。 (1)使徒の働き 1 章 14 節「みな心を合わせ、祈りに専念していた」とある。 ● RW は Day 21 の (2)ここには、先々週学んだ 2 章 42 節で They (continually) devoted themselves to the prayer と訳されている 動 (3)兄弟姉妹たちが共に集まり、しかも熱心に、継続して祈る祈りから「一致」は始まり、培養されるのである。 2.もう一つはご聖霊の力である。 (1)初代教会の始まりを記した「使徒の働き」の中に脈々と流れる聖霊の力強いお働きを否定する人はいない。だ から、それは「使徒行伝」ではなく、「聖霊行伝」とまで言われる。 (2)使徒たちは、この聖霊に満たされるまで、イエス様のもとで 3 年も共に過ごし訓練を受けながらも「一致」す ることができなかった(物理的に共にはいたが、心と霊は別々、離れ離れであった)。 (3)真に一致するためには、ご聖霊の力が必要である。今日の問題の一つは、このご聖霊の力の欠如である。 ●東海岸の合同キャンプで語られた例話の引用:仮設の電力と本設の電力の違い ●仮設電力;自分の力で生きるクリスチャン生涯 本設の電力:聖霊の力で生きる 同じ 詞が使われている。