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インドネシアの分離独立運動 - J

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インドネシアの分離独立運動 - J
インドネシアの分離独立運動
アチェとパプアの事例
井上 治
はじめに
近い将来にインドネシアから分離独立する地域があるとしたら、それはアチェかパプ
アであろう(1)。その懸念はすでにインドネシアの中央政府も抱いており、2000 ─ 2004 年
までの国家開発計画では、アチェおよびパプアで高まっている中央政府への不満を早急
かつ適切に解消することが、国家の最優先課題の一つとされている(2)。
そこで本稿では、まずアチェおよびパプアにおける分離独立運動の発生とその拡大要
因を考察したい。その中で重点を置くのは、インドネシアの中でアチェとパプアに特異
性があるとしたら何か、つまりインドネシアの他の地域ではなく、アチェとパプアで分
離独立運動が激化した理由は何かを解明することである。
アチェやパプアの分離独立運動の発生要因としてしばしば指摘されるものに、中央と
地方の財政分配の不均衡問題やトランスミグラシ政策の問題などがある(3)。確かにそれ
らは否定できない要素ではある。アチェもパプアも天然資源が豊富であり、中央政府に
よる「富の搾取」への不満は高い。また、トランスミグラシ政策でジャワ島やマドゥラ
島などから集団移住してきた新住民との摩擦や軋轢も多い。だが、こうした問題は、実
はアチェやパプアに限らず、インドネシアの多くの地方が等しく抱えている問題と言え
る。仮に天然資源の豊富な地域で分離独立要求が高まるとしたなら、アチェやパプアだ
けでなく、インドネシア有数の石油産出地であるリアウや東カリマンタンでも同規模の
分離独立運動が展開されるはずだし、トランスミグラシ政策によるジャワ人やマドゥラ
人などの大規模移住が問題なら、スマトラ島南部のランプンのように最も古くから移住
者の受け入れ地域とされていた所で真っ先に分離独立を求める声があがるはずである。
アチェやパプアの分離独立要求が、果たしてこうした他地域にも見られる問題を主因
として生じたものであるのか、それともそれぞれに極めて特殊な歴史的背景と現状から
生じたものであるのかを見極めることは、インドネシアという国の今後の行方を予測す
る上でも極めて重要だと思われる。なぜなら、もしアチェやパプアの分離独立要求の発
生要因にさほどの特異性が見られず、中央政府に対する不満の多くが他地域と共通する
ものであるのなら、アチェやパプアのような分離独立要求は早晩各地に広がり、やがて
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アジア研究 Vol. 47, No. 4, October 2001
インドネシアという国そのものが解体へ向かう可能性があるだろう。一方、アチェやパ
プアの分離独立運動が明らかにそれぞれの極めて特殊な歴史的背景と現状から生じたも
のであるならば、たとえアチェやパプアが将来分離独立という事態をむかえたとしても、
他地域がそうした動きに追随する可能性は極めて低く、したがってインドネシアという
国自体の存続は揺るがないであろうからである。
アチェとパプアにおける分離独立運動がどこまで特殊なものと言えるかどうかを解明
することで、インドネシアという国自体の存続の可能性を予測することが、本稿の最終
的なねらいである。
1.アチェの分離独立運動
アチェにおいて分離独立運動が発生、拡大した極めて特殊な要因として指摘できるの
は、主に次のような点であろう。
第 1 は、アチェにイスラム法に基づく自治社会を建設するための闘争の歴史である。
その歴史は、オランダの侵略に対する抵抗戦争にまで溯る。17 世紀初めにバタビア(現
在のジャカルタ)を拠点としてオランダ東インド会社(VOC)が現在のインドネシア領域
の支配を開始した頃、スマトラ島の西北端を本拠とするアチェ王国 ( Kerajaan Aceh
Darussalam)はイスカンダル・ムダ王(Sultan Iskandar Muda)の下、スマトラ東西両海岸
地方を版図に加えるばかりかマレー半島諸国の一部をも属国にするほどの最盛期にあっ
た。13 世紀に現在のインドネシア領域で最初にイスラム教を受容したアチェは、14 世紀
には東南アジア各地にイスラム教を広める先進的な王国となり、ヨーロッパ人がアジア
各地を訪れ始める 15 世紀頃にはすでに中国の明朝と通商関係を結ぶなど、完全な主権を
確立していた(4)。アチェの主権はヨーロッパ諸国にも尊重されていた。例えば、1599 年
にオランダの一部隊がアチェに攻撃を仕掛けて逆に身柄を拘束された際には、オランダ
王国が正式にアチェの国王に謝罪状を送った。アチェで囚人として刑に服していたオラ
ンダ兵達は、アチェ王国のオランダ大使トゥンク・アブドゥル・ハミッド(Tengku Abdul
Hamid)に連れられ、オランダ本国へ引き渡された(5)。1603 年にはアチェとイギリスと
の間で「マラッカ海峡における安全保障ならびに関税と通商規則」に関する条約が結ば
れた。同条約は 1819 年にも更新された。同様に、1824 年の英蘭条約によって今日のイ
ンドネシアのほぼ全域がオランダの勢力範囲とされた際にも、アチェはいわば例外とさ
れ、イギリスとオランダ両国共にスマトラにおけるアチェの地位を侵害せぬ旨が謳われ
ていたのだった(6)。そのアチェがオランダと直接戦火を交えるのは、19 世紀後半になっ
てからである。
英蘭条約でスマトラを勢力範囲としたオランダは、その後次第にアチェ王国の勢力圏
にも干渉を始めた。1858 年、オランダは中部スマトラのシアック王国と条約を結び、同
インドネシアの分離独立運動─アチェとパプアの事例
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地を保護国とした。さらに、スマトラ東海岸のデリ王国とも独占貿易条約を締結し、同
国とアチェ王国との政治的関係を断たせた。アチェ王国側は戦艦を巡回させてオランダ
のこうした動きに警告を発したが、オランダの領土的野心は止まることを知らなかった。
1873 年 3 月 26 日、蘭印総督はジャワ人のスモ・ウィディジョ(Sumo Widigdjo)を派
遣してアチェ国王マフムッド・シャ(Sultan Mahmud Syah)に対し、次のような最後通牒
を伝令させた(7)。(1)アチェは無条件降伏せよ。(2)アチェ国旗を降ろしてオランダ国旗
を掲揚せよ。(3)マラッカ海峡における海賊行為を停止せよ。(4)アチェ国王の保護下に
オスマントルコ帝国との外交関係を断て。
あるスマトラの一部をオランダに割譲せよ。
(5)
これらの要求をアチェ国王は完全に拒否した。かくして 1873 年 4 月 4 日、オランダとア
チェとの間でいつ果てるとも知れない戦争が始まった。
4 月に撃退されたオランダ軍は、同年 12 月 24 日、スイスやフランスの数千人に上る囚
人やジャワ・マドゥラ・スンダ・マルクなど蘭印各地からの傭兵をかき集め、再びアチ
ェを攻撃した。この再侵略でアチェは王都を奪われる。しかしながら、それは決してオ
ランダによるアチェの征服を意味しはしなかった。アチェではその後もすさまじい抵抗
運動(resistance)が展開されるのである。
オランダに対する抵抗運動を指導したのは、トゥンク・チ・ディ・ティロ・ムハマッ
ド・サマン(Tengku Tjhik di Tiro Muhammad Saman)らイスラム教のウラマ達であった(8)。
ウラマ達は、オランダの支配への抵抗運動をイスラム教徒の聖戦と位置づけ、自らゲリ
ラ戦の指揮官となった。ウラマ達の指揮するゲリラ部隊には、社会階層や男女の別なく
多くのアチェ人が加わった。そうしたアチェの抵抗運動は、20 世紀初頭に相次いで有力
指導者を失いながらも決して消滅することなく、1942 年、すなわち日本軍の侵攻を前に
オランダがアチェから撤退するまで続いた(9)。1873 年 4 月 6 日から 1914 年までだけでも
戦闘によるアチェとオランダ双方の犠牲者数は、アチェ側 7 万人以上、オランダ側約 3
万 7,500 人、さらに双方合わせた負傷者数はおよそ 50 万人に上ると言われる(10)。
日本軍の侵攻はアチェでは当初、歓迎をもって迎えられた。なぜならそれ以前からす
でにマラッカの藤原機関が全アチェ・ウラマ同盟(PUSA)と極秘に連絡をとり、日本は
オランダの植民地支配からインドネシアが解放されたあかつきにはインドネシアの独立
を認め、特にアチェに関しては封建制度を廃してイスラム教地域とし、民生向上にも努
める約束をしていたからである。しかしながらその後、日本軍がこの約束を反故にして
行政機関の長にはウラマではなくウレーバラン(領主層)を登用したこと、さらに住民に
対する扱いが過酷で、しばしばイスラム教も軽視されたことから、アチェ住民とりわけ
ウラマ達は大きく失望し、やがて各地で抗日運動を指導するようになった(11)。
日本敗戦の 2 日後の 1945 年 8 月 17 日にインドネシアは独立を宣言するが、それは事実
上、オランダからの独立戦争への突入をも意味した。インドネシア側は再侵略を試みる
オランダの二度にわたる大規模な軍事行動、すなわち 47 年の第一次警察行動と 48 年の
第二次警察行動の前に苦戦し、やがてそのほぼ全域の占領をオランダに許すことになる。
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最後までオランダの再侵略を許さなかった地域、それはアチェだけであった。
確かにアチェ住民はインドネシアの独立宣言を自らのものとして受け止めた。だがそ
の受け止め方は、インドネシアの他の地域とはいささか異なっていた。アチェ住民にと
ってインドネシアの独立宣言は、「これまで悲願だったアチェの地でのイスラム法施行の
(12)
。それゆえアチェ人の聖戦意識
日がついに訪れたという感慨に満ちたものであった」
はこれまで以上に燃え上がり、再侵略を試みたオランダは二度とこの地に足を踏み入れ
ることができなかったのである。
オランダの第二次警察行動でスカルノとハッタの正副大統領の身柄を拘束されたイン
ドネシア側は、シャフルディン・プラウィラヌガラ厚生相を首班としてスマトラのブキ
ティンギにインドネシア共和国臨時政府を組織した。しかし、そのブキティンギも次第
に危険となったため、シャフルディン・プラウィラヌガラは唯一残されたインドネシア
側の完全支配地域アチェに避難した。アチェに迎え入れられたシャフルディン・プラウ
ィラヌガラは、そこでトゥンク・ムハマッド・ダウド・ブレエ(Tgk. Muhammad Daud
Beureu-eh)らアチェ社会の指導者達から一つの要求を提示された。それは、かつてスカ
ルノがダウド・ブレエに口頭で約束した自治権を持ったアチェ州を直ちに発足させるこ
とであった(13)。1948 年にアチェを訪れた際にスカルノ大統領は、アチェ=ランカット=
タナ・カロ地区の軍事知事で PUSA 総議長でもあるダウド・ブレエの求めに応じ、確か
にアチェをイスラム法に基づく自治区とすることを約束していた(14)。シャフルディン・
プラウィラヌガラは彼らの求めに応じた。こうして 49 年 12 月 17 日、インドネシア共和
国の中で実体を備えた最初の州として、アチェ州は誕生した(15)。
しかしながら、このアチェ州はわずか 8 ヵ月足らずで廃止された。そしてこのことが、
後のアチェの分離独立運動を引き起こす大きな原因の一つになった。1949 年 12 月 27 日、
オランダの主権は正式にインドネシア連邦共和国へと委譲された。そしてその後、連邦
の各構成国が次々とインドネシア共和国に編入することで、50 年 8 月 15 日には連邦制が
正式に解消となり、単一のインドネシア共和国が成立する。その過程の 50 年 7 月 20 日、
インドネシア連邦共和国とインドネシア共和国との間で、単一のインドネシア共和国樹
立後は、全土を 10 州に分割することで合意がなされた(16)。スマトラ島に割り当てられた
のは 3 州であった。かくして同年 8 月 14 日、アチェ州は廃止され、北スマトラ州へと編
入されることとなった(17)。
この決定に対するアチェ社会の反発はすさまじかった。アチェ州議会は 8 月 12 日、ア
チェ州が解散させられた場合には今後一切の公職を辞すとの宣言を満場一致で採択した。
アチェの公務員もまた、すべての職務を放棄する姿勢を示した。さらに同年 12 月 23 日
に開催された PUSA 総会では、アチェの自治権獲得に向けた闘争とその要求が中央政府
により満たされなかった場合の、独立をも視野に入れた今後の対応策が激しく議論され
た。
しかし中央政府はアチェの北スマトラ州への編入を強行した。それはなぜだろうか。
インドネシアの分離独立運動─アチェとパプアの事例
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表向きの理由は、インドネシア連邦共和国を解散して単一のインドネシア共和国を発足
させる段階で、すでにスマトラは北・中・南の 3 州に分割することが決定されていたと
いうことに尽きる。だが実際には中央の政治を担う各政党のそれぞれの思惑がアチェ州
の存続を妨げたと言える。アチェ州の存続に明確に反対の意思を表明したのは、インド
ネシア国民党(PNI)・インドネシア共産党(PKI)・インドネシア社会党(PSI)・ムルバ党
(MURBA)などの非イスラム系の諸政党である。当然ながらこれらの政党は、イスラム
法に基づく自治を求めるアチェ州では支持基盤を固められようはずもなく、アチェが独
自の州となることを拒否したのであった。だが、アチェ住民が期待を寄せたイスラム系
の政党すなわちマシュミ(MASYUMI)やインドネシア・イスラム同盟党(PSII)もまた
違った思惑からアチェ州の存続をあまり積極的には支援しなかった。イスラム系の政党
は北スマトラ州からアチェが抜けることで北スマトラ州における自党の支持率ならびに
影響力が低下することを恐れたのであった(18)。こうしてイスラム法に基づく自治どころ
か単独の州としての地位も失ったアチェは、以後、分離独立運動へと傾斜していくので
ある。
以上のようなアチェの歴史をインドネシアの他地域と比べた場合、その特異な点は、
次のようなことであろう。すなわち、ウラマに指導されたアチェ住民のオランダの侵略
ならびに再侵略に対する激しい抵抗運動の原動力となったのは、アチェにイスラム法に
基づく自治社会を実現するという目標であり、したがってアチェがインドネシアの独立
の際にその一部となる道を選んだのも、そのことによって当初の目標が達成されると確
信していたからに他ならないということである。
さて、第 2 のアチェの特異性は、その歴史に裏付けされたアチェ民族 (Bangsa Aceh)
としてのナショナリズムである。これに関して、 T ・モハマッド・リザール ( T. Moh.
Rizal)は次のように述べている。
「アチェの住民は彼ら自身を、インドネシアの独立宣言がスカルノとハッタによって
行われる前から独立していたアチェ民族と呼ぶ。もしインドネシアに加わっていな
ければ、彼らはすでに民族として独立していたと思っている。言い換えるなら、ア
チェの独立は 1945 年 8 月 17 日の(インドネシアの─引用者注)独立宣言と関わりは
ないというのがアチェの旧エリートの持論であり、若い世代はそれをアチェ独立運
(19)
。
動(GAM)を通じて再び現実のものとすることを試みている」
ただ彼によれば、アチェ民族はムラユ諸族(rumpun Melayu)の中の一つとしてインド
ネシアの他のムラユ諸族に兄弟感情は抱いている。そしてそのことがインドネシアの独
立に加わるナショナリズムを促したというのである(20)。
もっとも、分離独立派はインドネシア・ナショナリズムと呼ばれるものの存在自体を
強く否定している。例えば、アチェ・イスラム共和国(RIA)護教戦線の理論家アブ・ジ
ハッド ( Abu Jihad ) は、インドネシアという名はただ単に西洋人が蘭印の別名として
「インドの島々」の意味で古代ギリシャ語の ÒIndosÓ と ÒNesosÓ をつなぎあわせただけに
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過ぎないのに、それを民族名や国名として誇りを持って受け入れ、自ら民族主義者や民
族英雄を名乗り、ジャワを中心に民族覚醒運動と呼ばれる運動を展開した人々がいると
いうのは全く奇妙であり、恥ずかしく、かつ嘆かわしい、としたうえで、インドネシア
と呼ばれるものの虚構性を次のように指摘している。
「1928 年 10 月 28 日の『青年の誓い』と呼ばれるものにおいて、彼らは一つの民族
Indos Nesos、一つの国家 Indos Nesos、一つの言語 Indos Nesos を誓った。しかし
ながら、Indos Nesos あるいは Indonesia と呼ばれる民族も国家も言語もそれまで全
(21)
。
く存在したことはなく、それは何の歴史も遺産も継承していないのである」
また、通常 GAM と呼ばれるアチェ最大の独立派武装勢力アチェ・スマトラ国民解放
戦線(ASNLF)の最高指導者トゥンク・ハッサン・モハマッド・ディ・ティロ (Tengku
Hasan M. di Tiro: 通称ハッサン・ティロ)も、その国土の広さと民族の多様性からヨーロッ
パとインドネシアを比較し、ヨーロッパ・ナショナリズムというものが存在しないよう
にインドネシア・ナショナリズムというものも存在しないと、次のように論じている。
「世界地図の上でインドネシアという名で呼ばれているところは、広さはほぼヨーロ
ッパに等しく、横幅はモスクワからリスボンまで、縦はローマからオスロまでに匹
敵し、そこにヨーロッパと同じように、様々な民族・言語・文化を持った 1 億 6,000
万人以上 ( 1985 年当時─引用者注) の住民が住んでいる。ゆえに、今日、一つの
『ヨーロッパ・ナショナリズム』があると語ることが全くもって馬鹿げているように、
一つの『インドネシア・ナショナリズム』の存在を語ることも全く馬鹿げているの
である。今日ではすでに西側の新聞や自らを『利口』だと思い込んでいる人々によ
ってプロパガンダがなされているが、彼らは全くムラユ世界の歴史や文化、地政学
(22)
。
を理解していないのである」
このように、アチェの少なくとも分離独立支持者達は、自らの歴史や文化の特異性を
強く意識したアチェ・ナショナリズムを有している。その要諦は、アチェはインドネシ
アの独立前からその一部であったわけではなく、インドネシアの独立時にそれと共同す
る道を選んだに過ぎないという歴史認識にあると言えそうである。
第 3 のアチェの特異性は、分離独立派に武装勢力があるために、国軍や警察など中央
の治安部隊がそのせん滅を名目に、一般住民に対しても徹底的なシンパの洗い出しを行
い、その結果、住民の人権が長期にわたって著しく侵害されたということである。
アチェにおける分離独立派の武装蜂起は、これまで三度にわたって表面化している。
第 1 期は、1940 年代末から 60 年代初めにかけて発生したダルル・イスラム(DI)運動や
インドネシア共和国革命政府(PRRI)事件と関わって、アチェの住民がトゥンク・ムハ
マッド・ダウド・ブレエの指揮の下、インドネシア・イスラム国アチェ構成国 (Negara
Bahagian Aceh/Negara Islam Indonesia)やアチェ・イスラム共和国(Republik Islam Atjeh)
の樹立を宣言して闘争を繰り広げた時期である(23)。53 年以来 9 年間におよぶアチェの反
乱は、62 年にダウド・ブレエがこの内戦の中央政府側の責任者であるアチェ第 1 軍管区
インドネシアの分離独立運動─アチェとパプアの事例
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M・ヤシン(M. Jasin)大佐の和解案を受け入れたことで、とりあえず終止符を打った。
戦争責任者決定(Keputusan Penguasa Perang)として発せられたその和解案は、次の 2 項
目からなった。第 1 項、国家の法規則に配慮しつつアチェ特別地方のイスラム信徒に対
しては、イスラム法が整然とかつ適切に適用される。第 2 項、上記第 1 項が意味し意図
するところの実施規則は、すべてアチェ特別地方政府に委ねられる(24)。だが、この決定
は、結果的に反故にされた。
第 2 期は、ダルル・イスラム運動当時、ニューヨークでインドネシア・イスラム国の
国連大使兼アメリカ大使を自称していたハッサン・ティロがアチェに帰国し、ダウド・
ブレエの支持を得て、スマトラ・アチェ国( Negara Aceh Sumatera ) の独立を宣言する
1976 年 12 月 4 日から、ハッサン・ティロを含む独立派武装勢力の指導層の多くが国外脱
出あるいは中央政府軍に鎮圧され、事態が小休止する 83 年までである。ハッサン・ティ
ロはこの闘争を国際世論に支持され得る民族自決のための闘争であるとして、学生や青
年層のアチェ・ナショナリズムを煽ったが、中央政府は住民に依然多大な影響力を持つ
ダウド・ブレエを 78 年 5 月にジャカルタに隔離して一気に武力鎮圧を進めた。ハッサ
ン・ティロは 79 年 3 月、外国の支持と武器の援助を求めて国外に脱出した(25)。
第 3 期は、スウェーデンに居を移したハッサン・ティロの指示の下、北アフリカのリ
ビアで軍事教育を受けたアチェ人青年達が再びアチェに戻って武装闘争を展開、それを
潰滅するためインドネシア政府軍が大規模な軍事作戦を行って、アチェ住民の人権が著
しく侵害された 1989 年末から現在までである(26)。インドネシア政府は 89 年から 98 年 8
月 7 日にかけてアチェを軍事作戦地域(DOM)に指定し、大規模な部隊を導入して戦闘
ならびに情報作戦を繰り広げた。90 年 7 月には、それまで 6,000 人であったアチェの政
府治安部隊が 1 万 2,000 人に増員された(27)。だが、この軍事作戦は分離独立派武装勢力
を潰滅するどころか、逆にアチェ住民の分離独立要求を一層高めさせる結果となった。
なぜなら、分離独立派武装勢力と一般住民との切り離しを狙った政府治安部隊の徹底的
な分離独立派の洗い出しや、非人道的な手法による一般住民への脅迫が、中央政府や政
府軍に対するアチェ住民の憎悪や復讐心に火をつけたからである。
政府軍側がこの時期に行った非人道的な行動には、次のようなものがある(28)。アチェ
分離独立運動のメンバーであると告発された者の処刑を青年会館やイスラム寺院・村役
場・広場など公共の場で行う。住民にはその処刑に立ち会い直視することを義務づける。
処刑した死体を路上や公共の場に放置する。たとえタバコ 1 本でもアチェ分離独立運動
に援助を与えた者は処刑すると言って脅す。住民を村役場に集合させて家宅捜索を行う。
疑わしき者を誘拐する。 1 人でも政府軍の命令に背く者がいれば、その村の全住民に強
制労働を科す。情報を与えぬ者を拷問する。疑わしき者の財産を奪い、家を焼き払う。
疑わしき女性に対して性的辱めや強姦をする。政府軍の指示に背いた人物への拷問や虐
待を近隣住民に命じる。至る所で銃撃を行う。
軍事作戦地域に指定されていた 10 年間にアチェ住民が受けた被害は、民間のアチェ人
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権監視フォーラム (Forum Peduli HAM Aceh)の調べによると、処刑された者/犠牲者
1,321 人、行方不明者 1,958 人、拷問 3,430 件、強姦 128 件、放火 597 件(29)。また、政府
の国家人権委員会真相究明委員会の調べでは、死者 781 人、行方不明者 163 人、虐待を
受けた者 368 人、未亡人となった者 3,000 人、孤児となった子供 1 万 5,000 人から 2 万人、
強姦された者 102 人、放火された建物 102 件であった(30)。
こうした政府治安部隊によるアチェ住民への著しい人権侵害の事実がすでに明白とな
っているにもかかわらず、インドネシア政府は今日まで、そうした人権侵害事件の責任
者を法的に裁けないままである。こうした現状も、アチェ住民が中央政府への不信感を
一層増幅させ、分離独立要求を高めさせた大きな要因と言えよう。
2.パプアの分離独立運動
アチェと同様、パプアの分離独立運動にもまた、インドネシアの他地域には見られな
いいくつかの特殊な発生および拡大要因がある。
第 1 は、20 世紀初頭のインドネシア・ナショナリズムの勃興とその成長過程にパプア
の住民はほとんど関わりを持たず、従って、1945 年 8 月 17 日のインドネシアの独立宣言
への関心も極めて低かったということである。
歴史的には、確かにパプアは 15 世紀半ば頃からモルッカ諸島を本拠とするティドレ王
国の版図にあったと言われる。だが、それは西北部のワイゲオ島やビアク島などのごく
一部に限られていた(31)。1828 年以来、オランダが蘭印の一部としてパプアの実効支配に
取り組むが、これによってパプア人とパプア人以外のインドネシア人との交流が活発化
することもなかった。強いて言えば、19 世紀末以降、北スラウェシやマルクからのキリ
スト教使節団が布教と教育を目的に来訪したことと、20 世紀初頭に蘭印の政治犯が流刑
されてきたことが挙げられよう(32)。しかし、キリスト教の布教はオランダ政府が援助し
ていたことからも明らかなように、親オランダ感情の育成には役立ちこそすれインドネ
シア人としての民族意識を何らパプア人にもたらしはしなかったし、また、多くの社会
主義者や民族主義者がジャワなどから流刑されてきたと言っても、彼らはディグール川
の上流 500 キロメートルの密林を切り開いた「タナ・メラ」(Tanah Merah)と呼ばれる土
地に隔離されていたのであり、しかも彼らはそこで、パプア人に政治的影響を与えるど
ころか、いつパプア人に襲われるかと脅えつつ暮らしていたのであった(33)。
その後の日本軍による蘭印占領は、パプア人とそれ以外のインドネシア人をある意味
で接近させもし、また切り離しもした。接近させた要素としては、日本軍がパプアの労
働力不足を補うためにジャワなどから大量の労務者を送り込んだことと、パプアをいち
早く日本軍から奪回したオランダが日本軍の侵攻で不足した蘭印民政府の人材を補うた
めにパプア人にも軍事・行政教育を施し始めたことがあげられる。1942 年 4 月にジャヤ
インドネシアの分離独立運動─アチェとパプアの事例
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プラへ侵攻した日本軍は、瞬く間にメラウケを除くパプアのほぼ全域を掌中にした。そ
して、パプアの開発や軍事需要を満たすため多数の労務者をジャワやスラウェシから徴
用した(34)。だが、それも長くは続かず、1944 年 4 月以降の連合軍の猛反攻で、その年の
うちにパプアは再びオランダの支配下となる。パプア以外の旧蘭印一帯を依然日本軍に
占領されていたオランダは、植民地行政の人材不足を補うため、直ちに警察学校と官吏
養成校(bestuurschool)を設立し、パプア人の教育に取り掛かった。44 年の設立から 49
年までの間に約 400 人のパプア人がそこで教育を受けた。蘭印民政府の官吏となった彼
らは、最初のパプア人政治エリートと言われる(35)。
さて、こうした日本軍の占領と敗北に絡み、パプアではパプア人とそれ以外のインド
ネシア人との間でかなりの接触があり、さらにまたパプア人政治エリートの一部には蘭
印としての一体感から次第にインドネシア・ナショナリズムも生じてきたものと思われ
る(36)。だが、一方においてパプアにおける日本軍のいち早い敗北は、パプア人とそれ以
外のインドネシア人とを決定的に引き離す作用をも及ぼした。なぜなら、インドネシア
は日本の敗戦とオランダの再侵略の間隙を縫って 1945 年 8 月 17 日に独立を宣言するわ
けだが、パプアに限ってはすでにその 1 年も前から再びオランダの支配下にあり、従っ
て、パプア人はインドネシアの独立準備に関わったこともなければ、独立を宣言したイ
ンドネシアにパプアが含まれると認識することも、ごく一部の政治エリートを除いてほ
とんどなかったからである。さらにまた、パプア人以外のインドネシア人の側もパプア
人に対し、共にインドネシア・ナショナリズムを抱く同胞であるという意識を明確に持
っていたわけではなかった。
日本軍政末期の 1945 年 7 月 11 日に行われたインドネシア独立準備調査会大会議では、
新生国家インドネシアの誕生に向け、その領域にパプアを含めるか否かが、パプア人の
参加なきまま、激しく議論された。パプアを含めることに最も強く反対したのは、パプ
アに流刑された経験を持つ後の初代副大統領ハッタであった。その理由は、パプアをも
領域とすればインドネシアが帝国主義国家であるかのごとき印象を国際社会に与えかね
ないこと、パプア民族(bangsa Papua)はメラネシア民族(bangsa Melanesia)であり様々
な混血からなるインドネシア民族(bangsa Indonesia)とは民族学的にも異なること、パプ
ア民族にも独立する権利があり彼ら自身が自らの将来を決定すべきであること、インド
ネシア民族は独立から数十年間はパプア民族を教育できるほどの力を持ち得ないこと、
当初の蘭印以外の領土については自ら要求すべきでなく「大日本」の決定に委ねればよ
いこと、などであった(37)。だが、こうしたハッタの見解は多数派意見とはならず、結局
この日の票決では、後の初代大統領スカルノが「パプアの人々が何を欲しているかはわ
からない」としながらも全面的に支持した当初からの蘭印にマラヤ・北ボルネオ・パプ
ア・ポルトガル領ティモールおよび周辺の島々をもってインドネシアとするという案が、
投票総数 66 票の過半数を上回る 39 票を得て幕を閉じたのだった(38)。
独立宣言から 6 日後の 1945 年 8 月 23 日、インドネシアの初代大統領スカルノはラジオ
12
アジア研究 Vol. 47, No. 4, October 2001
(39)
演説で次のように国民に呼びかけた。
「サバンからメラウケまでの我が民族の皆さん」
。
サバンはインドネシアの西端に当たるウェ島の港町、メラウケはインドネシアの東端つ
まり今日のパプア・ニューギニアとの国境付近の町である。こうしてパプアの領有権が
インドネシアとオランダとの間で争われ始めるのである。
以上のことから、インドネシアの独立以前においては、パプア人とそれ以外のインド
ネシア人との接触・交流は極めて希薄であり、そのためパプアにおいてインドネシア・
ナショナリズムが芽生えたことはほとんどなく、またパプア人以外のインドネシア人も
そのことを十分に認識していたと言える。
第 2 のパプアの特異性は、独立準備調査会でのハッタの見解にも見られるように、パ
プア人とパプア人以外のインドネシア人とでは、人種的に異なるということである。大
雑把に言うと、パプア人はネグロイドあるいはメラネシア人種と呼ばれるのに対し、パ
プア人以外のインドネシア人はモンゴロイドあるいはマレー人種と呼ばれる。両者の違
いはまた、「パプア」の語源が縮れ毛を意味するムラユ語の「プアプア」(pua-pua)であ
ることや、セネガルなどアフリカ諸国のいくつかが黒人連帯の立場から、またバヌアツ
などの南太平洋諸国の一部がメラネシア人種としての同胞意識からパプア独立運動を支
持したことからも明らかであろう。
だが問題は、人種が違うということそれ自体ではない。パプアの置かれた特異な立場
は、こうした人種の違いによって、これまで様々な差別や偏見を他のインドネシア人か
ら受けてきたということである。そもそもパプアをインドネシアの国土に含めるかどう
かの激論が交わされたインドネシア独立準備調査会の会議の席上からして、後のインド
ネシア初代大統領スカルノは「パプアの人々はまだ政治をわからない」と公然と語り、
パプア人に見解を求めることなくパプアをインドネシア領と一方的に定めることを正当
化していたのであった。1969 年にパプアが西イリアン州として正式にインドネシアに併
合された後は、著しい文化的違いを無視した強制的な同化政策が展開された。例えば、
軍の特殊任務として行われたコテカ作戦(Operasi Koteka)では、パプア人にコテカを外
して洋服を着るよう強要し、拒否する者は殺害した(40)。また、サゴ椰子を主食とするパ
プア人の米食への転換政策も強行された(41)。さらに 1980 年代には、当時のイザク・ヒン
ドム(Izac Hindom)州知事がパプア人の人種的特徴の一つである縮れ毛を醜いものと見
做し、「より美しい新世代を誕生させる」ために、ジャワ人などの移住者との混血を奨励
したのであった(42)。こうして明らかに人種的差別あるいは文化的偏見を受けてきたこと
もインドネシアの中でパプアの置かれた特異な状況の一つと言えよう。
第 3 の特異性は、パプアの施政権がオランダから国連仲裁委員会(UNTEA)を経てイ
ンドネシアに移管される 1963 年 5 月 1 日までの間に、パプアでは独立を指向したパプ
ア・ナショナリズムが明確に高まっていたことである。オランダからの植民地解放闘争
を初期において主導したのは、46 年 11 月 29 日にシラス・パレパレ(Silas Parepare)を党
首に結党されたイリアン・インドネシア独立党(PKII)であった(43)。親インドネシア派
インドネシアの分離独立運動─アチェとパプアの事例
13
の同党は、当初、反白人を喧伝し、多くのパプア人の支持を得た。だが、シラス・パレ
パレらの目指す路線がインドネシアの支援を得てのパプアの独立ではなく、インドネシ
アとの合併に過ぎないことが次第に明らかになると、ジョン・アリクス(John Ariks)や
ロデウィック・マンダチャン(Lodewijk Mandacan)ら有力指導者が次々に同党とたもと
を分かち、完全独立を目指す新党結成へと走った。さらに、オランダによって同党が解
散させられた 60 年以降も党の地下活動を指導し、63 年にパプアの施政権がインドネシア
へ移管されると同時に初代州知事に任命されたエリセル・ヤン・ボナイ ( Elieser Jan
Bonay)も、その後、パプア独立運動に身を投じた。彼はパプアにおいて民族自決権が直
ちに行使されるよう国連に要請したため、わずか 1 年足らずでインドネシア政府により
知事を解任されたのだった(44)。
国際世論への配慮とインドネシアへの牽制からオランダが進めた非植民地化政策もま
た、パプア・ナショナリズムを大きく覚醒させた。オランダは 1960 年 11 月、ニューギ
ニア議会(Nieuw Guinea Raad)開設のための総選挙を許可した。定数 28 議席中、直接選
挙で争われる 16 議席の獲得をめざし、パプア国民党(Parna)・パプア独立党(PPM)・パ
プア国民戦線(FNP)あるいはニューギニア人党(PONG)など、パプア・ナショナリズ
ムを明確にアピールした政党が次々と名乗りをあげた。そうして 61 年 2 月に総選挙が実
施され、4 月 5 日には正式に議会が設立された。ニューギニア議会の開設で高まったパプ
ア・ナショナリズムは、すぐさま独立要求運動へと発展した。だが、ニューギニア議会
には独立を決定する権限は与えられていなかった。そこでニューギニア議会の議員が中
心となり、61 年 10 月、独立問題を審議するためのパプア国民委員会 (Komite Nasional
Papua)が組織された。直ちに開かれた 80 名の委員からなる大会議で採択された主な 4 項
(2)民族名をパプア民族とする。
( 3)
目は、次の通りである。
(1)国名を西パプアとする。
民族旗の図柄を「明けの明星」(Bintang Kejora)とする。(4)民族歌を「我が地パプア」
(Hai Tanahku Papua)とする。その後、同委員会の要求した民族旗の掲揚が、オランダの
許容の下、12 月 1 日に行われた。それに立ち会ったオランダ人のフリッツ・ヘルカンプ
(Frits Velkamp)は、当時の印象を次のように述懐している。
「式典の最中、私は何を言って良いのかわからず、少し後ろに立っていた。私とは違
って、他の列席者とりわけ民族主義にあふれる演説を行っている若者たちは、西イ
リアンの独立を喜びをもって受け止めていた。少なくともオランダ政府の対応が多
(45)
。
くのパプア人に強いナショナリズムを覚醒させたのは明らかだった」
こうした事実から、テイス・ H ・エルアイ (Theys H. Eluay )パプア会議常任幹部会
(Presidium Dewan Papua)議長やパプア・ニューギニアに亡命しているモセス・ウェロー
(Moses Weror)パプア独立組織革命会議(Dewan Revolusi OPM)議長ら分離独立派は現在
も、パプアはすでに 1961 年 12 月 1 日の段階で独立しているという立場をとっている。
60 年代初めにパプア・ナショナリズムがすでに成熟期にあったのは、ほぼ間違いのない
ことである。
14
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第 4 の特異性は、すでにこれほどまでにパプア・ナショナリズムが高まっていたにも
かかわらず、パプアの帰属問題を解決するための「ニューヨーク協定」締結までの過程
にパプア人は全く関与を許されず、しかも、その「ニューヨーク協定」で認められた民
族自決権すなわちパプアの帰属を住民自身が選択する住民投票も一人一票の形式で実施
されなかったことへのパプア人の不満である。
1962 年 8 月 15 日、オランダとインドネシアの双方はニューヨークの国連本部で「ニュ
ーヨーク協定」に調印した。同協定の骨子は、(1)パプア(当時、西イリアン)の施政権は
UNTEA の暫定的統治の後、63 年 5 月 1 日以降にインドネシアへ移管される、(2)パプア
の民族自決権の行使は 69 年末までに完了する、(3)国連事務総長は、民族自決行為の実
施ならびにその結果について国連総会に報告する、の三つであった。
この協定でパプアをめぐる二国間の紛争は解決へと向かった。しかし、パプア人の間
には、当事者の一部であるはずのパプア人が全く協定締結の過程に参画できなかったこ
とに、不安と戸惑いが残った。「ニューヨーク協定」の翌月、ニューギニア議会の議員ら
90 人のパプア人政治エリートは「国民会議」(Kongres Nasional)を開催し、事態への対処
を協議した。そして彼らは、国連とインドネシア政府に協力する代わりに、UNTEA に
対し、パプアの「国旗」と「国歌」を尊重することと、UNTEA の施政が終了する 1963
年のうちに総選挙を行うこと、を要求する決議を行った(46)。だが、その要求が受け入れ
られることはなかった。
ところで、この時のパプア人政治エリートの行動を、親オランダ的なものと見るのは誤
りである。むしろパプア人政治エリートは「ニューヨーク協定」をオランダの裏切りと
見ていた(47)。そしてまた、インドネシアへの併合も恐れていた。つまり、この行動は親
オランダでも親インドネシアでもない純粋なるパプア・ナショナリズムの現れであった。
1963 年 5 月 1 日、パプアの施政権は UNTEA からインドネシア政府に移管された。そ
して、69 年 7 月 14 日から 8 月 2 日にかけて、「ニューヨーク協定」に定められたパプア
の帰属を決定するための住民投票(Pepera)が実施された。だが、それは住民による直接
投票ではなく、インドネシア政府の組織した 1,025 名の「民族自決協議会」(DMP)委員
による「話し合い」(musyawarah)の上での「全員一致」(mufakat)という手法であった。
しかも、その 1,025 名の委員でさえ一ヵ所に招集されたのではなく、各県ごとに日時を
変えて、インドネシアへの統合支持の承認が取り付けられていったのであった。
インドネシア政府による政治工作を警戒したパプア人達は、すでに 1969 年 2 月 12 日
には国連事務総長の特使としてジャヤプラを訪問したボリビアのオルティス・サンス
(Fernando Ortiz-Sanz)国連大使に、
「ニューヨーク協定」に基づく直接住民投票の実施や
オランダとの約束に基づく独立、さらにはインドネシアの治安当局による不当な拘束や
人権侵害などを訴えるデモを行い請願書を手渡していた。しかし、オルティス・サンス
特使は、国連事務総長に伝えると言うにとどまり、結果的に何ら対応策はとらなかった。
パプア人社会の恐れていたことは現実となった。インドネシア政府はアリ・ムルトポ
インドネシアの分離独立運動─アチェとパプアの事例
15
(Ali Murtopo)指揮下の特殊作戦(Opsus)を通じて、事前に DMP 委員の支持を取り付け
るために、金品の供与、ジャワへの観光や女性の供応さらに銃を突きつけての脅迫など、
あらゆる手段を尽くしたのである(48)。パプア人社会の信託なき DMP の決定に基づき、
1969 年 8 月 2 日、パプアのインドネシアへの帰属が正式に確定された(49)。
このように、パプア分離独立派には、パプア人はそもそも「ニューヨーク協定」の締
結に関わっておらず、しかもその「ニューヨーク協定」に定められた民族自決権さえい
まだかつて正当に行使する機会を与えられていないという不満が根強いのである。
第 5 の特異性は、パプア分離独立派武装勢力の活動が絶えないことから、あるいは多
分に人種的な差別意識から、インドネシアが施政権を握ってから今日まで、政府治安部
隊による著しい人権侵害や蛮行が頻発しているということである。
例えば、パプアのインドネシアへの帰属が正式に決まった翌年の 1970 年にパプアを軍
管区とするチェンデラワシ師団長に就任したアクブ・ザイナル(Acub Zainal)准将は、後
に次のように述懐している。
「我が共和国は恥を知らない。イメージは本当に悪い。当時、我が共和国は確かに厳
しい時だった。チョコレートも砂糖もビールもなく、あるのはイリアンだけだった
(50)
。
から、すべて取ってきた。私自身も一緒になってカーペットを取ってきた」
略奪ばかりではない。DMP の直前にそれを阻止しようと地元のパプア人警官が反乱を
起こし、さらにインドネシアに併合後も活発な分離独立派武装勢力の活動が続いたパニ
アイでは 1970 年代に政府治安部隊によって、肛門に焼けた鉄の棒を突き刺す、性器を切
断する、少女を強姦する、家々を破壊するといったにわかには信じがたい蛮行が住民に
対して行われた(51)。メエ族(suku Mee)の集落は空軍による空爆さえ受けた。こうした
非人道的な扱いを受け、80 年代にパプア人の分離独立闘争にさらに火が付くと、政府治
安部隊は武器商人を装ったスパイを分離独立派武装勢力の指揮官に接近させた。その後、
1 億ルピアの現金を携え武器の引き渡し場所へと向かった約 1,000 人のパプア人のうちの
多くが消息不明となった(52)。
パプアでは芸術家や文化人も著しい活動の困難を強いられている。パプア文化をアピ
ールするだけで、政府治安当局者にパプア・ナショナリズムの扇動者との嫌疑をかけら
れるからである。1984 年 4 月、チェンデラワシ大学民族博物館長アーノルド・クレメン
ス(Arnold Clemens AP, BA)が射殺された。警察の留置場から意図的に脱走させて射殺す
るという政治犯殺害のための常套手段にはまったのだった(53)。
パプア選出の国会議員ルカス・カレル・デゲイ (Lukas Karel Degey)は、パプア人の
99. 9 % は独立を望んでいる、と述べている(54)。そうした印象は、パプア人に限らずとも、
パプアに住んだり関わったりした経験のある者なら、大抵は抱くものである。パプアに
駐留する政府治安部隊とて、その例外ではないだろう。「軍人の多くは、楽しんで引き金
を引いているわけではなく、恐怖と不気味さから自ずと過剰反応を起こし、怪しげな行
(55)
。ユヌス・アディチョ
動を見ると敵と思ったり身の危険を感じて射撃するのである」
16
アジア研究 Vol. 47, No. 4, October 2001
ンドロ(Dr. George Junus Aditjondro)のこの指摘は、パプアの置かれた特異な人権状況を
非常に適切に表現していると言えるであろう。
おわりに
1999 年 5 月、インドネシア政府は「地方行政法」および「中央・地方財政均衡法」を
相次いで公布した(56)。これによって、地方の権限は拡大され、天然資源の豊富な地方は
大幅な財源の増加も見込めるようになった。だが、これによってアチェやパプアの分離
独立運動が鎮まることはまったくなかった。その理由は、以上のように、アチェやパプ
アにおける分離独立運動の発生・拡大要因の中には、他の地域が中央に抱く不満とは異
質な点がいくつもあるからだと思われる。
1999 年 6 月 7 日、インドネシアでは 55 年の第 1 回総選挙以来、ほぼ 45 年ぶりの民主
的な総選挙が実施された。だが、アチェでは、自ら選挙人登録に訪れた者の数は、全有
権者の 9 % 程度にしかすぎなかった(57)。すでにアチェ社会は国政への参加意欲さえ失っ
ていた。その一方で、アチェで急速に高まったのは、民意を明確に中央に示すための分
離独立を選択肢に含めた住民投票の実施要求であった。99 年 2 月に学生グループや青年
組織など 104 団体の代表が設立宣言を行った「アチェ住民投票情報センター」(SIRA)の
活動は瞬く間にアチェ人の支持を集めた。同年 4 月にはイスラム信徒の「タリバン会議」
(Kongres Thaliban)が、9 月には「アチェ・ダヤ・ウラマ会」
(HUDA)のウラマ達が、同
じく住民投票要求を中央政府に突きつけた。そうして 11 月 8 日には、150 万人とも 200
万人とも言われる住民によって会場周辺が埋め尽くされた「住民投票のためのアチェ住
民会議」がバンダ・アチェのイスラム大寺院で開催されたのである。
一方、パプアでは、1999 年 2 月 26 日、トム・ベアナル(Tom Beanal)を団長とするパ
プア各県からの 100 人の代表団(Tim100)が大統領宮殿を訪れ、当時のハビビ大統領に、
61 年 12 月 1 日の時点でパプアはすでに独立していたと認めるよう求めた。総選挙に関し
ては、パプアにおいても選挙人登録者数は伸びず、総選挙委員会(KPU)は 5 月 4 日、急
遽、パプアにおける選挙人登録期間を 5 月 15 日までに延期して選挙人集めに奔走したの
だった(58)。99 年 12 月 1 日のパプア「独立記念日」には、パプアの主要都市のほぼすべて
でパプア「国旗」が掲揚された。そして同年 12 月 16 日には、カイワイ(T. N. Kaiway)
州議会議長を代表とするパプアの地方議員や有力者からなる代表団が国会を訪れ、次の
7 項目からなる要求を行った(59)。(1)2 月 26 日の 100 人のパプア代表団とハビビ大統領と
の国内会談の延長として、国際社会レベルでの会談を行うこと。(2)パプア人の全政治犯
を釈放すること。(3)パプアの独立問題を県議会や州議会で話し合うことを認めること。
(4)パプアからすべての治安部隊を撤退させること。(5)1961 年から 99 年までにパプア
「西パプア」(Papua Barat)の国名と「ポー
で発生した人権侵害事件を捜査すること。(6)
インドネシアの分離独立運動─アチェとパプアの事例
17
ト・ヌンバイ」(Port Numbai =現・ジャヤプラ)の首都名を認めること。(7)国連旗・イン
ドネシア国旗・西パプア国旗の下で、2000 年 5 月までにパプアのすべての問題を解決す
ること。
1999 年 10 月に大統領に就任したアブドゥルラフマン・ワヒッドは、こうしたアチェ
とパプアの要求を真摯に受け止め、自ら積極的に動いた。アチェに関しては、住民投票
の要求に理解を示したほか、独立派武装勢力(GAM)とは停戦協定を結び、さらにアチ
ェの人権侵害事件の黒幕としてユスフ・ムハラム(Yusuf Muharam)警察大佐を名指しで
非難した(60)。パプアに関しては、パプアへの州名変更や民族旗の使用を認めたほか、計
64 人のパプア人政治犯や未決囚を恩赦ならびに保釈、パプア会議常任幹部会議長のテイ
ス・ H ・エルアイとは個人的な信頼関係を構築し、そのうえパプアの大量殺戮事件に関
わった人物として、プラボウォ(Prabowo)元陸軍中将をも非難した(61)。
だが、こうした大統領の積極的な動きも、議会や治安当局、そればかりか閣内からさ
え抵抗を受け、さしたる成果を挙げ得なかった。アチェについては、住民投票は同様の
要求が各地に広がる恐れがあるとして、閣僚の間からさえ強い反対が出た(62)。また、停
戦協定中も GAM と政府治安部隊の戦闘は絶えなかった。さらに大統領が黒幕と名指し
したユスフ・ムハラムが裁判に付されることもなかった。パプアについては、州名の変
更が国会で問題とされ、民族旗を掲揚したパプア人を治安部隊が銃撃する事件も発生し
た。さらに警察は、分離独立運動を煽ったとしてテイス・ H ・エルアイの身柄を拘束し
た。大統領は重ねて彼の釈放を要請したが、警察はそれに応じようとはしなかった。一
方、大統領が告発したプラボウォが大量殺戮事件の容疑者として取り調べを受けること
もなかった。
アチェおよびパプアの問題を良く理解し、その解決に精力を傾けていたアブドゥルラ
フマン・ワヒッド大統領は、2001 年 7 月 23 日、国民協議会決定により、事実上、解任さ
れた。議会や治安当局を掌握できぬままに進めた独断専行型の民主化政策が仇になった
と言える。ワヒッド大統領が解任に追い込まれたことで、アチェやパプアの問題解決は
また遠のいた。歯止めを失った中央政府が再び分離独立主義者の検挙や分離独立派武装
勢力の武力制圧に動き出す可能性は高い。
ワヒッド政権の最後の置き土産は、2001 年 7 月 19 日に国会を通過した「アチェ・ダル
ッサラーム国州法」であった。同法は、アチェの特別な自治権を定めたもので、その内
容だけでなく名称においても、あくまでアチェをインドネシアの 1 州(provinsi)としな
がらもアチェ語で「国」を意味する ÒNanggroeÓ という語も挿入することで、現段階で
中央政府が行い得る最大限の譲歩を示す形となった(63)。パプアに対しても同様の法律を
制定するための作業が、現在国会で進行中である。
「アチェ・ダルッサラーム国州法」ならびに早晩制定されるであろう「パプア特別自治
法」が、今後、どれほど効果的に運用され住民の心をつかむかは、まだ定かではない。
だが、アチェやパプアの分離独立要求がすでにここまで高まっている以上、この法律へ
18
アジア研究 Vol. 47, No. 4, October 2001
の判定の機会を地元住民に与えることなくして、問題を清算することは困難であろう。
もはや妨げようのないインドネシアの民主化要求の流れからしても、住民投票を中央政
府が拒否し続けることは難しいと思われる。また、いずれ中央政府が住民投票に踏み切
り、その結果、アチェやパプアの住民が同法律の「受入拒否」すなわちあくまで独立と
いう判断を下したとしても、それによってインドネシアの他地域が動揺し、インドネシ
アの国自体が崩壊へと向かう可能性は低いであろう。なぜならインドネシアの他地域に
は、アチェやパプアほどに特異な歴史的背景も中央による深刻な人権侵害の現状も見ら
れないからである。
(注)
(1) アチェはインドネシアの西端、スマトラ島の西北端に位置する特別州。面積 5 万 5,390 平方キロメートル。
人口 401 万 865 人(2000 年)。パプアはインドネシアの東端、ニューギニアの西半分とその周辺の島からなる
州。面積 42 万 1,981 平方キロメートル。人口 211 万 2,756 人(2000 年)。今なおイリアンジャヤとも呼ばれる。
同州を東部・中部・西部に 3 分割する法律(1999 年法律第 45 号)はすでに国会(DPR)を通過しているが、
地元住民の反対に遭い、2001 年 7 月現在、まだ正式施行には至っていない。1999 年 12 月 31 日、同地を訪れ
たアブドゥルラフマン・ワヒッド大統領は地元住民の要望に応え、州名をイリアンジャヤからパプアに改める
ことを認めた。
(2) Undang-Undang Republik Indonesia Nomor 25 Tahun 2000 Tentang Program Pembangunan Nasional
(PROPENAS)Tahun 2000 ─ 2004.(2000 ─ 2004 年の国家開発計画に関するインドネシア共和国法律 2000 年
第 25 号)。同法第 2 章「国家開発の優先課題」で「アチェ特別地域およびイリアンジャヤでは、中央政府の政
策に対する不満はさらに激しく、早急かつ適切なる改善策を直ちにとる必要がある」としたうえで、さらに第
9 章「地方自治」で、アチェおよびイリアンジャヤを特別自治地域とすること、治安部隊などによる人権侵害
事件を公正に裁くこと等を定めている。
(3) トランスミグラシ(transmigrasi)政策は、基本的には人口過密なジャワ島・マドゥラ島・バリ島・ロンボ
ック島の住民をその他の島へと移住させる国家政策。その歴史は古く、オランダ植民地時代にすでに行われて
いた。かつては集団農業移住が主だったが、近年では企業進出に伴う産業移民も多い。地元住民と移住民との
間では、土地や雇用の場をめぐる争いが各地で頻発している。
( 4 ) H. Ismail Hasan Matareum S. H., ÒPelaksanaan Hukum Islam Untuk Peningkatan Kemaslahatan
Masyarakat Dan Kejayaan Islam,Ó in Drs. H. M. Kaoy Syah & Lukman Hakiem, Keistimewaan Aceh Dalam
Lintasan Sejarah(Jakarta, 2000), pp. 1 ─ 2; Yusra Habib Abdul Ghani, Mengapa Sumatera Menggugat
(Jakarta, 2000), p. 23.
(5) Yusra Habib Abdul Ghani, ibid., p. 27.
(6) Ibid., p. 29.
(7) Ibid., p. 32.
(8) ウラマ(ulama)は、イスラム教義についての専門家。イスラム法学者。イスラム社会においては知識人と
して大きな影響力を持つ。
( 9 ) アチェにおける大規模な戦闘は 1904 年を最後とするが、その後も例えば 1925 ─ 27 年のバコンガン
(Bakongan)の反乱や 1933 年のロン(Lhong)の反乱など、アチェ住民によるオランダの支配への抵抗運動
は続いた。また、日本軍の侵攻が近づいた 1942 年初頭には、マラッカの藤原機関と連携をとった全アチェ・
ウラマ同盟(PUSA)の指導の下、オランダ人官吏へのテロやサボタージュがアチェ各地で繰り広げられた。
日本軍がアチェに侵攻した時、すでにオランダ人の姿はなかった。See, M. Nur El Ibrahimy, Peranan Tgk.
Muhammad Daud Beureu-eh dalam Pergolakan Aceh(Jakarta, 2001), pp. 31 ─ 33.
(10) Otto Syamsuddin Ishak, Dari Maaf ke Panik Aceh ─ Sebuah Sketsa Sosiologi-Politik 1(Jakarta, 2000)
,
x iv, quoting from Al Chaidar, Gerakan Aceh Merdeka, Jihad Rakyat Aceh Mewujudkan Negara Islam
(Madani Press, 1999), p. 1.
( 11 ) もっとも、日本はアチェに宗教裁判所を設置するなど、PUSA 側の要望に応えた面もあった。 See, M.
Nur El Ibrahimy, op. cit., pp. 41 ─ 42.
(12) Ibid., p. 43.
(13) Ibid., p. 58.
(14) スカルノはダウド・ブレエとの会談で、次のようにアチェの将来を約束した。「アチェ地域には将来、イ
スラム法に基づき自治を行う権利が与えられるであろう。また私は、アチェの人々がその土地で将来本当にイ
インドネシアの分離独立運動─アチェとパプアの事例
19
スラム法を施行できるように、私の影響力を行使するつもりである」。See, ibid., p. 78.
(15) アチェ州の設置は、インドネシア共和国首相代理シャフルディン・プラウィラヌガラの署名で、1949 年
政府規則第 8 号(Peraturan Perdana Menteri Pengganti Peraturan Pemerintah No. 8/Des/WKPM/49)として発
令された。なお、独立宣言直後の 45 年 8 月 19 日のインドネシア独立準備委員会(PPKI)では、インドネシア
共和国の地方行政区域をスマトラ・西部ジャワ・中部ジャワ・東部ジャワ・カリマンタン・スラウェシ・小ス
ンダ・マルクの 8 州に分けることが決められていたが、実際に地方行政が機能する前に各地はオランダに再侵
略されており、したがって、地方政府としての骨格を整え、その機能と役割を果たしたのはアチェ州が最初と
言える。
(16) 1950 年政府規則第 21 号に基づき、インドネシア共和国は、北スマトラ・中スマトラ・南スマトラ・西部
ジャワ・中部ジャワ・東部ジャワ・カリマンタン・スラウェシ・マルク・小スンダの 10 州に分割された。
(17) アチェ州の廃止と北スマトラ州への編入は、インドネシア共和国政府代表代理アサート(Assaat)の署名
で、1950 年法律第 5 号(Peraturan Pemerintah Pengganti Undang-Undang Nomor 5 Tahun 1950)として発令
された。
(18) M. Nur El Ibrahimy, op. cit., p. 69.
(19 ) T. Moh. Rizal, ÒTinjauan Kasus Pergolakan Daerah, Kasus Aceh,Ó in UNSIA No. 42/XXIII/1/2000
(Yogyakarta, 2000), p. 421. T ・モハマッド・リザールはアチェ政治評論家。
(20) Ibid.
(21) Abu Jihad, Pemikiran-Pemikiran Politik Hasan Tiro dalam Gerakan Aceh Merdeka (Titian Ilmu Insani,
2000), p. 110. アブ・ジハッドは、アチェ・イスラム共和国(RIA)護教戦線議長トゥンク・ファウジ・ハス
ビ・グドン(Tgk. Fauzi Hasbi Geudong)のペン・ネームとも言われる。
(22) Dr. Tengku Hasan M. di Tiro, ÒNasionalisme Indonesia: Makalah dalam Seminar Dunia Islam di London,Ó
in Yusra Habib Abdul Ghani, op. cit., p. 43. 通常 GAM(Gerakan Aceh Merdeka =アチェ独立運動)と呼ばれ
るのは、このハッサン・ティロを最高指導者とする勢力で、英語名としては ASNLF ( Acheh Sumatra
Nasional Liberation Front)あるいは NLFAS(Nasional Liberation Front of Acheh Sumatra)が用いられてい
る。ハッサン・ティロの GAM とトゥンク・ファウジ・ハスビ・グドンを議長とする RIA 護教戦線とは、
1977 年を境に敵対関係にある。ハッサン・ティロがそれまでの宗教闘争(アチェにイスラム法に基づく社会
を実現するための闘争)という理論を離れ、アチェ独立運動を民族解放闘争(ジャワ人の植民地支配からのア
チェの解放)と位置づけ始めたからである。その理由は、アチェ独立運動への支援を広く国際世論に求めたた
めと言われる。
(23) ダルル・イスラム(DI)運動はインドネシア・イスラム国(Negara Islam Indonesia)の樹立を目指した
運動で、インドネシア・イスラム軍(TII)を中核とした各地の反乱は 1948 年から 65 年まで続いた。一方、
インドネシア共和国革命政府(PRRI)は 58 年 2 月 15 日に中央政府に対する反乱派がスマトラのブキティンギ
に樹立した政府で、60 年にはシャフルディン・プラウィラヌガラを大統領にインドネシア統一共和国(RPI)
の樹立を宣言したが、1 年余りで中央政府に鎮圧された。この時期のアチェの動きは、次の通りである。49 年
に西部ジャワでカルトスウィルヨ(Kartosuwiryo)がインドネシア・イスラム国の樹立を宣言したのを受け、
トゥンク・ムハマッド・ダウド・ブレエはアチェおよびその周辺地域の知事として 53 年 9 月 21 日、アチェが
その一部となることを宣言。その後、カルトスウィルヨ指揮下のダルル・イスラム運動が中央政府の前に劣勢
となると、ダウド・ブレエはカルトスウィルヨの反対を押し切り 55 年 9 月 21 日、インドネシア・イスラム国
アチェ構成国(NBA / NII)の樹立を宣言。アチェ構成国は 60 年 2 月 8 日、シャフルディン・プラウィラヌ
ガラを大統領とするインドネシア統一共和国に合流。だが、そのインドネシア統一共和国もわずか 15 ヵ月で
中央政府に鎮圧されたため、ダウド・ブレエは 61 年 8 月 15 日、アチェ・イスラム共和国(RIA)の独立を宣
言する。
( 24 ) Keputusan Penguasa Perang No. KPTS / PEPERDA ─ 061 / 3 / 1962 tentang Kebidjaksanaan
Pelaksanaan Unsur-Unsur Sjari’ at Agama Islam Bagi Pemeluk ─ Pemeluknja Di Daerah Istimewa Atjeh
selaku Penguasa Perang Daerah Untuk Daerah Istimewa Atjeh. 中央政府はすでにこれ以前の 1959 年にアチェ
を宗教・慣習・教育の面で幅広い自治権を持つ特別地方( Daerah Istimewa )とする首相決定( Keputusan
Perdana Menteri RI No. 1 / Misi / 1959)で事態の打開を試みたが、ダウド・ブレエ側はこれを受け入れなか
った。理由は、たとえ「特別地方」に指定されたとしても、アチェは地方行政基本法( Undang-Undang
Pokok Pemerintahan Daerah No. 1 Tahun 1957)の適用を免れたわけではなく、したがってイスラム法の適用
が認められない限り、アチェの特別な地位はなんら現実のものとはなりえないと判断したからである。 See,
M. Nur El Ibrahimy, op. cit., p. 219.
(25) 1950 年代前半までコロンビア大学留学生兼インドネシア国連代表事務所職員だったハッサン・ティロは、
ダルル・イスラム運動に合流してインドネシア・イスラム国の国連兼アメリカ大使を自称したため、インドネ
シア政府によってパスポートを剥奪されていたが、74 年にインドネシア入国が許可された。便宜を図ったのは、
当時のアチェ人のアメリカ駐在インドネシア大使シャリフ・タイブ(Syarif Tayib)である。また、アチェに
20
アジア研究 Vol. 47, No. 4, October 2001
戻ったハッサン・ティロは、外国で成功したアチェ人として、州知事・州議会議長をはじめとするアチェの有
力者たちからも熱烈な歓迎と便宜供与を得た。 See, Dr. M. Isa Sulaiman, Aceh Merdeka ─ Ideologi,
Kepemimpinan dan Gerakan(Jakarta, 2000), p. 18.
(26) ハッサン・ティロはリビアの最高指導者カダフィ大佐の支持を得て世界解放運動フォーラムの政治部長に
就任。1986 年以来、リビアでアチェ独立運動軍(AGAM)の軍事訓練を行う。その数は 400 人程度と見られ
る。See, ibid., p. 56.
(27) Isma Sawitri, Amran Zamzami, B. Wiwoho, Simak dan Selamatkan Aceh(Jakarta, 1999), p. 43.
(28) Dyah Rahmany P., Rumoh Geudong ─ Tanda Luka Orang Aceh(Jakarta, 2001), pp. 20 ─ 21. なお、ア
チェ住民の証言に関しては、この他、 Otto Syamsuddin Ishak, ed., Suara dari Aceh ─ Identifikasi
Kebutuhan dan Keinginan Rakayat Aceh (Jakarta, 2001 )や Fikar W. Eda S. Satya Dharma, ed., Aceh
Menggugat ─ Sepuluh Tahun Rakyat Aceh Di Bawah Tekanan Militer(Jakarta, 1999)が参考になる。
(29) Fikar W. Eda S. Satya Dharma, ed., op. cit., p. 15.
(30) Ibid.
(31) Decki Natalis Pigay BIK, Evolusi Nasionalisme Dan Sejarah Konflik Politik Di Papua(Jakarta, 2000)
,
pp. 103 ─ 107.
(32) オランダ人によるキリスト教プロテスタントの布教は、すでに 1855 年には始まっていた。パプアにおけ
るキリスト教プロテスタント信徒数は 1935 年に 5 万人以上、カトリック信徒数は 33 年に約 7,100 人であった。
一方、29 年までにタナ・メラに流刑された政治犯は約 1,400 人であったが、彼らは家族の同伴が認められてい
たため、その収容地の居住者は約 5,000 人に達した。Ibid., pp. 120 ─ 127.
(33) H. W. Bachtiar, ÒSejarah Irian Jaya,Ó in Koentjaraningrat, ed., Irian Jaya ─ Membangun Masyarakat
Majemuk(Jakarta, 1993), p. 59.
(34) マノクワリだけでも 1,700 人のジャワ人が労務者として送り込まれたが、終戦後に飢餓状態でも生き残っ
ていたのは 217 人だけであった。See, ibid., p. 69. quoting from Walker, M. A., ÒWorld War II,Ó in Walter
Yust, ed., 10 Eventful Years(Chicago, 1947).
(35) John RG Djopari, Pemberontakan Organisasi Papua Merdeka(Jakarta, 1993), p. 30.
(36) インドネシアの独立宣言から 2 週間後の 1945 年 8 月 31 日、パプア人政治エリートの一部、すなわちいず
れも後にインドネシア政府から「国家英雄」の称号を授けられたフランス・カイセポ(Frans Kaisiepo)、マル
セン・インディ(Marthen Indey)、シラス・パレパレ(Silas Parepare)らは、インドネシアの独立を祝って国
旗の掲揚と国歌の斉唱を行った。
(37) Prof. Mr. Hadji Muhammad Yamin, Naskah Persiapan Undang-Undang Dasar 1945 Djilid Pertama
(Jajasan Prapantja, 1959)
, pp. 201 ─ 214.
(38) Ibid.
(39) H. W. Bachtiar, op. cit., p. 72. quoting from Raliby, O., Documenta Historica, I(Jakarta, 1953).
(40) コテカはウリ科の植物の実から作った男性器を覆う道具。パプア内陸部のパニアイ、プンチャック・ジャ
ヤ、ジャヤウィジャヤなどの地方で用いられている。See, Decki Natalis Pigay BIK, op. cit., p. 272.
(41) Dr. George Junus Aditjondoro, Cahaya Bintang Kejora ─ Papua Barat dalam Kajian Sejarah, Budaya,
Ekonomi, dan Hak Asasi Manusia(Jakarta, 2000), p. 39.
(42) Mari‘l Otten, Transmigrasi: Indonesia Resettlement Policy 1965 ─ 1985(Copenhagen, 1986), p. 169.
quoting from Tapol Bulletin, November 1983:3, Kompas, 26 Oktober 1982.
(43) シラス・パレパレに多大な政治的影響を与えイリアン・インドネシア独立党の結党を促したのは、当時オ
ランダによりパプアのセルイ(Serui)に隔離されていたインドネシアの民族主義者ラトゥランギ(DR. G. S.
S. J. Ratulangie)である。
(44) John RG Djopari, op. cit., p. 32.
(45) Frits Veldkamp, ÒEksperimen Demokrasi di Ujung Hari,Ó Pim Schoorl, ed., Belanda Di Irian Jaya ─
Amtenar di Masa Penuh Gejolak 1945 ─ 1962(Jakarta, 2001), pp. 532 ─ 533.
(46) John RG Djopari, op. cit., p. 39.
(47) Ibid.
(48) Decki Natalis Pigay BIK, op. cit., p. 280.
(49) パプアにおける DMP の結果は、第 24 回国連総会で報告された。アフリカおよびカリブ海の計 15 ヵ国は、
公正な民族自決行為とは言えないとして、その承認を拒否した。その結果、国連は、再度住民投票を行うべき
であるとの結論でこの問題を打ち切ったが、当時のインドネシア外相アダム・マリクは資金不足を理由にこれ
を拒否した。See, ibid., p. 282.
(50) Ibid., p. 284. quoting from Hendrowinoto, Nurinwa Ki S., et al., Acuh Zainal I Love The Army(Jakarta,
1998), p. 76.
(51) Ibid., pp. 343 ─ 345.
インドネシアの分離独立運動─アチェとパプアの事例
21
(52) Ibid., pp. 346 ─ 347. quoting from Drs. Decki Zonggonau & Drs. Ruben Edwai, Laporan Kronologis
Sejarah Pelanggaran HAM di Kabupaten Paniai-Pegunungan Tengah(Irian Jaya, 1999), p. 35.
(53) Dr. George Junus Aditjondro, op. cit., p. 147.
(54) Tuhana Taufiq Andrianto, Mengapa Papua Bergolak?(Yogyakarta, 2001), p. 147. quoting from Media
Indonesia, 22 Mei 2000.
(55) Dr. George Junus Aditjondro, op. cit., p. 170. ユヌス・アディチョンドロは、1982 年から 87 年までパプア
で社会開発活動に取り組んだ社会学者。
(56)「地方行政に関するインドネシア共和国法律 1999 年第 22 号」(Undang-Undang Nomor 22 Tahun 1999
Tentang Pemerintahan Daerah)と「中央および地方政府間の財政均衡に関するインドネシア共和国法律 1999
年第 25 号」。
(57) そのためアチェでは、急遽、職員が各戸を訪問して選挙人登録をする方式に切り替えられた。
(58) 最終的には有権者の 50. 73 % が選挙人登録を行った。
(59) Candra Gautama, ed., Memoria Passionis di Papua ─ Kondisi Hak Asasi Manusia dan Gerakan
Aspirasi Merdeka: Gambaran 1999(Jakarta, 2001), p. 61.
(60) Forum Keadilan, 14 Mei 2000.
(61) Media Indonesia, 10 Mei 2000; Kompas, 10 Mei 2000.
(62) 例えば、スシロ・バンバン・ユドヨノ(Susilo Bambang Yudhoyono)政治社会治安部門調整相は、住民
投票要求が他地域にも広がることを恐れ、分離独立問題は当該地域の住民の意思のみで決せられる問題ではな
く、全国民の意思に基づいて決せられねばならない問題であるとした。 See, Susilo Bambang Yudhoyono,
Aceh Perlu Keadilan, Kesejahteraan Dan Keamanan(Jakarta, 2001), p. 14.
( 63 ) 正式な法律名は、「アチェ・ダルッサラーム国州としてのアチェ特別州の特別自治に関する法律」
(Undang-Undang tentang Otonomi Khusus Provinsi Daerah Istimewa Aceh sebagai Provinsi Nanggroe Aceh
Darussalam)。主な内容は次の通り。・象徴としての国家元首(Wali Nanggroe)を置く。・州知事/副知事、
県知事/副県知事、市長/副市長は直接選挙で選出する。・警察職務はインドネシア共和国警察の一部である
アチェ・ダルッサラーム国州地方警察によって行われる。・アチェ・ダルッサラーム国州におけるインドネシ
ア共和国警察の中下級警察官の選考はアチェ・ダルッサラーム国州地方警察が行う。・国家司法システムの一
部としてアチェ・ダルッサラーム国州のイスラム裁判はいかなる影響からも自由なイスラム裁判所で行われ
る。・向こう 8 年間のアチェからの石油・天然ガス歳入の 70 % はアチェ・ダルッサラーム国州に配分される。
See, Kompas, 20 Juli 2001.
(いのうえ・おさむ 社団法人国際情勢研究会/拓殖大学政経学部)
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アジア研究 Vol. 47, No. 4, October 2001
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