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発展と責任の同時進行

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発展と責任の同時進行
村田製作所本社(5/27)担当:北京理工大学
発展と責任の同時進行
――株式会社村田製作所本社を見学して
北京理工大学:劉璇 藺娜 林思雯 朴成浩 李園 陸波
見学日時:2008年5月27日
見学場所:株式会社村田製作所本社
村田製作所の紹介
株式会社村田製作所は1944年10月の創業である。2007年3月31日の統計によれば、資本金693億7,600万
円、総従業員数29,392人、本社従業者数5,832人である。現在、東京、大阪、シンガポールで株式上場し
ている。村田製作所の主な製品にはセラミックコンデンサ、セラミックフィルタ、セラミック発振子、
表面波フィルタ、多層デバイスなどがある。
目下、村田製作所の電子デバイスはカーナビゲーション・システムに代表される自動車電子分野、エ
ネルギー・環境分野、バイオ認証システムを中心とするバイオ関連分野など、日常生活に広く応用され
ている。
村田製作所は材料から製品までの一貫生産体制を構築し、技術的ブレークスルーを原点にその技術を
急速にバーチカル・インテグレーションに結集させている。マーケティングにおいても「市場」・「製
品」・「技術」が三位一体となり、集団としての三次元化効果を十分発揮し、連動G効果による経営を
実現している。
また、村田製作所は本業以外にも文化芸術・スポーツなどの各種活動を積極的に推進しているほか、
環境保護の視点から環境負荷の大きい製造方法は採用しないようにしている。
村田製作所の産業特徴
村田製作所は主にセラミックスを原料に各種仕様の電子デバイスを製造しているが、中でもコンデン
サ分野の製品が多い。携帯電話やテレビなど多くの電子製品には数百から千個以上のコンデンサが使わ
れているが、おそらく、全ての携帯電話やテレビに村田製作所製の素子が使われているはずだ。同社の
社是は以下の通り。即ち、「技術を練磨し、科学的管理を実践し、独自の製品を供給して、文化の発展
に貢献し、信用の蓄積に努め、会社の発展と協力者の共栄を図り、これをよろこび、感謝する人々とと
もに運営する」。
村田はそのイノベーション思考によって同業他社とは異なる方向に発展し、セラミックスの特性を活
かした独自の製品を開発している。企業管理の面では、信用を基本とし、製品品質を追求し、材料・設
備・工程などの各方面から生産性を向上させ、同業他社との差別化を図り、設備も自前で造り、占有技
術を開発し、高度な繁栄を目指している。また、ユーザー対応では、需要に従って市場の方針を決定
し、需要のある場所に工場を設けるようにしている。なお、村田の従業員は毎日就業前に社是を唱和し
てその企業文化を徹底させているが、こうしたことからも会社の発展がその文化の発展と密接に関連し
ていることが分かる。
村田のイノベーション志向、科学的な管理理念、独特の企業文化から学ぶところは非常に多い。熾烈
な競争に勝ち抜くためには、自己イノベーションのほかにも、会社の各レベルで科学的な管理と経営を
– 16 –
行い、企業文化を深め、良好な企業文化によって会社の発展を促進していくことが求められる。村田は
部品メーカーとして消費者と直接対面することはないが、小さな部品が村田製作所という会社を大きく
したという事実が、小さな事が事の成敗を決定するということを十分に証明している。成功者の多くも
小さな事から始めているのであり、「河海は細流を択ばず(訳注:大きい川というのは最初から大きい
のではなく、いろいろな小さな川を合わせて、その結果大河になる)」の精神は学ぶに値する。
村田製作所のCSR
<産業分野に対する責任>
技術・設備・規模・市場シェアの全てにおいて、村田製作所が製造する電子デバイスはどれも先進的
な優位性と重要な地位を占めている。技術寡占または産業のバーチカルな延伸によって企業に膨大な収
益がもたらされるが、村田製作所は関連企業に対し責任を持つという観点から、その収益性を放棄して
基礎産業に徹し、「無名の英雄」となることに甘んじている。これは日本企業の一つの典型であり、中国
企業が学ぶべき側面であるように思われる。また、同社は信頼性の高い品質でユーザーのニーズを満た
し、商品開発では、その開発初期段階から完成品メーカーをサポートしている。なお、品質管理面では
「良い機器は良い部品と良い設計から、良い部品は良い材料と良い工程から作られる」という考え方の
もと、「デミングサークル」という理念を導入し、「企画設計」、「製造」、「販売」、「調査・サー
ビス」の一連のサイクルの中で製品品質の改善を図り、全方位・全サイクル・全寿命期間の品質保証を
実現している。
<環境に対する責任>
村田製作所の環境面の方針は人類社会の真の豊かさの実現であり、そのための材料と製品を開発し、
生産活動を展開し、世界に向けて製品を提供していくというものである。この目標を真に実現するため
に、同社はグループ全体で環境に配慮した経営体制を推進し、整備された環境マネジメント機構を確立
している。さらに経営陣によって打ち出される環境に関するビジョンと方針及び各部門の活動を全従業
員に徹底させるために、環境教育専門の研修を開設している。なお、村田製作所の2006年度の環境関連
活動経費は40億円ほどになるが、この点からも同社がいかに環境保護を重視しているかが見てとれる。
今回の村田製作所の見学を通じて、私たちは「事業規模に合った、ますます増大する“責任”を果たすこ
とによって更なる発展を遂げる」という言葉の意味を体得したように思う。村田製作所の技術と製品が
世界の隅々、生活のさまざまな場面で、豊かな社会の実現のために貢献していくことを希望すると同時
に、中国企業も同社の優れた経験を参考に新たな道を歩み始めることを願う。
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JA遠州中央園芸流通センター、静岡県農林技術研究所(5/28)担当:北京理工大学
「農」は国の礎、「学」は力なり
JA遠州中央園芸流通センター、静岡県農林技術研究所を見学して
北京理工大学:陸波 朴成浩 李園 劉璇 林思雯 藺娜
見学日時:2008年5月28日
見学場所:JA遠州中央園芸流通センター、静岡県農林技術研究所
耕地面積は少ないが、日本の農産品の品質は非常に高い。日本がどのように自国の農業を発展させて
きたのかを知りたいと思った。
今回の見学では、普段本や雑誌では知ることのできないことが学べて視野を広げることができた。以
下に二つの見学先で学んだことを記したい。
1.JA遠州中央園芸流通センター
JA遠州中央園芸流通センターは静岡県磐田市の豊かな自然に恵まれた場所にあった。視界いっぱいに
広がる緑を楽しんでいるうちに目的地に到着した。センターの職員が代表団を温かく迎え入れ、センタ
ーについて詳細な説明をしてくれたほか、質問に一つ一つ丁寧に答えてくれた。
JA全農の下に県単位の経済連と化学肥料会社があり、さらにこの2つの組織の下に各地の地方組織があ
る。私たちが見学したJA遠州中央園芸流通センターはその地方組織のひとつである。同センターの主な
業務は、農家のほ場の土壌中に含まれる微量元素を測定し、その結果に基づき農家に対し自分の土壌に
適した施肥設計や農作物の栽培を促すことである。また、同センターでは組合員農家のつくった作物の
販売業務も請け負っている。こうした一連のサービスを提供することで、土壌の利用価値を最大限活か
すことを目指している。
土壌実験室では花き栽培に適した土壌の分析を行っていた。土壌サンプルは域内の農家が提供したも
のである。分析員は全員化学肥料会社の職員で、肥料のユーザーである農家に対し無料で土壌診断を行
っているが、これは一種のアフターサービスとも言える。農家が最大の利益をあげられるようにできる
限りのサポートをして、農家との信頼関係を強めているのだ。土壌診断は土壌酸度、カリ、燐酸、有機
物など合計7項目についての分析を行う。診断結果は化学肥料会社から農協に渡され、農協が土壌改良プ
ランを作成するが、このプランはあくまでも参考であって、それを採用するかどうかは農家自身が決め
る。とは言え、大多数の農家が採用しているとのことだ。収穫期には、組合員農家が共同で作物を流通
センターに運び、センターでそれらの作物に簡単な加工処理や包装を施してからスーパーや野菜販売業
者と連絡を取って販路を確保するシステムになっているが、農家にとっては面倒な手間がだいぶ省ける
ので、1万円の組合費を払ってでも組合員になりたいという農家が多い。また、流通センターは国の他の
組織とも連携して農家の利益を最大限守るために力を尽くしている。農家は上述のような農産品の包装
や品種改良によって、少なからぬ収益をあげており、その暮らし向きも比較的豊かである。
一方、中国の農家の現状はと言うと、農作物の収量も品質もあまり高いとは言えない。その原因の一
つに、農家が科学的な方法で土地の栄養状態を知り、合理的な土地利用を行っていないという点が挙げ
られる。また、販路開拓の面でも農産品の包装や価格設定、市場参入などさまざまなネックがあり、
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一般農家にとってはこれらの問題を解決するのが難しいという状況がある。科学的な市場のしくみをあ
まり理解しておらず、そうした意識もまだ希薄である。さらに最近では、農村で農業を行う人の数が減
り、農村人口の多くが経済成長の著しい都会に出稼ぎに出てしまい、真の意味での農業従事者が減少傾
向にあり、食料不足がますます深刻化している。
中国にも流通センターのような組織が必要だと思う。こうした科学的組織の最も重要な点は、科学的
手法で農家を指導し、営農の各段階で市場ニーズを反映していけるようにすることである。こうするこ
とで農家の利益が保証され、国民の衣食問題が最大限解決されることになる。
2.静岡県農林技術研究所
おそらく他の団員も同じような印象をもったことと思うが、日本ではどこに行っても青々とよく茂っ
た樹木を目にすることができる。そこで一つの疑問が浮かぶ。「日本の樹木には病害虫がいないのだろう
か?」。今回、静岡県農林技術研究所の病虫害防除所を見学して初めて分かったのだが、日本には病害虫
がいないのではなく、その防除が的確に行われており、日本の天敵寄生蜂を用いた防除技術は世界でも
最先端レベルにあるという。もちろん同研究所では他にも栽培技術、生産環境、新品種の開発、森林資
源の利用等さまざまな分野の研究が行われており、静岡県のみならず全国でも有数の農業開発・指導の
ための拠点となっている。
また、同研究所には静岡県立農林大学校が併設されており、学生は授業で農業に関する知識を学ぶと
同時に、研究所での実践を通して新品種の開発やその普及過程を体験することができる。見学では、日
本の最先端技術、世界的にも最高レベルという温室(ハウス)を見ることができた。この種のハウス栽
培はコストが非常に高くつくが、温度と湿度が半自動制御になっていて人手が大幅に節約できる。ハウ
ス内の土壌は全て研究員が調製し、蒸気で丁寧に消毒してあるため、そこで育てられた作物の栄養価は
高い。その品質の高さと複雑な生産技術によって市場価格が高くなるが、それでも消費者には人気があ
る。現在、同研究所では高度に機械化・自動化された設備を備え、高品質な作物を開発しているが、研
究員は今後の目標として生産コストを下げ、同技術をより多くの一般農家に普及させていきたいとして
いる。
中国のハウス栽培はまだ完全に人力に頼っている状況で、効率が低く、時間の浪費も見られる。中国
でも同研究所で見たような進んだ生産技術を導入する必要があると思うが、もちろん導入するに当たっ
ては、機能的には同じであってもコストのより低い技術を自力で開発して、中国の農業の機械化を推し
進めていくようにしなければならない。
中国は農業大国であり、人口の2/3を占める農民が耕作によって生活の糧を得ているが、今回の見学に
よって、中国の農業は日本のそれにはるかに及ばないことが分かった。中国では、農家の基本的利益は
国によって守られてはいるが、農家にとっては農作物の販売が依然最も大きな課題として存在する。中
国が真の先進国になるためには、まず食料不足の問題を解決する必要がある。それには日本の農業を積
極的に学び、自国の農業を力強く発展させていくべきだと考える。
今回の日本滞在では、中国と日本の状況を比べることで、さまざまな中国の後れた点に気づかされ
た。中国の未来は私たちが担うわけだが、こうした後れた点を補い、強化していくために多くのことを
学び、祖国の発展に貢献していきたいと思う。
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旭化成ケミカルズ株式会社富士工場(5/28)担当:清華大学
化学と環境
清華大学学生代表
1.見学日時:5月28日(水) 14:00-17:00
2.見学場所:旭化成ケミカルズ株式会社富士工場
3.見学概要
旭化成株式会社は1931年の創立で、70余年の歴史の中で安定の中にもイノベーション精神と活気に溢
れる総合グループへと成長を果たした。グループは化学と材料科学をベースに分野の異なるコア企業6社
からなる。具体的には繊維・化学品・住宅・建材・エレクトロニクス・医療分野で市場に広く革新的ソ
リューションを提供している。現在、グループは23,000名余りの従業員を擁し、販売総額は1兆6,000億
円、製品は広く東アジア・東南アジア・北米・ヨーロッパで販売されている。「スピード経営と自主自
立経営」という企業理念のもとで顧客と従業員を尊重し、地球の環境保護に尽力することをその経営指
針としている。
5月28日、第3回中国大学生代表団の重要な見学先である旭化成ケミカルズ株式会社を見学した。同社
は主にアクリルニトリル・スチレンモノマーやナイロン・ポリウレタン・フィルム等の機能性材料の原
料を生産していた。マイクローザという最新の排水ろ化システムを例に世界のトップレベルの科学技術
についての紹介があった。マイクローザとは一種の中空糸状の膜である。膜の孔径は大小さまざまな仕
様(0.001~01um)があり、細菌・たんぱく質・小分子等の大きさの異なる不純物をろ過することがで
きる。この先進的水浄化処理材料はエレクトロニクス・発電・自動車・食品・環境などの分野で幅広く
応用されている。
図1.マイクローザ
4.知っていますか?
主にマイクローザと呼ばれる旭化成の汚水処理システムを見学した。水处理の原理は非常に簡単で、
篩によるろ過というように理解することができる。たくさんの小さな孔のあいた膜が孔を通過できない
物質を除去していく。つまり、孔径より小さい物質は膜を通過して反対側に達するが、孔径より大きい
物質は膜を通過することができずに除去されていくという原理である。このような分離方法であれば、
水中の胞子などの他の方法では分離しにくい物質も分離することができる。このろ過システムで使われ
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ている膜が、即ち旭化成が独自に開発した中空糸状のろ過膜である。
この種の中空糸状ろ過膜を使ったろ過方式には内圧式と外圧式の2種類がある。2種類のろ過方式の原
理は実は同じものである。いずれも中空糸状ろ過膜を空洞の筒状のものに巻き、内圧式ろ過の場合はろ
過する原液を円筒の内部に流し、円筒膜の外部がきれいな水になり、外圧式ろ過の場合はろ過する原液
を円筒の外部に流し円筒膜内部をろ過したきれいな水が流れるようにする。
2種のろ過方式を下図に示す。
写真2 マイクローザの原理
一定時間使用すると、ろ過できなかった物質が膜表面に蓄積するので、定期的に水か空気で膜表面に
蓄積した物質を除去して、膜のろ過効果を高いレベルに維持すると同時に膜の寿命を延ばす必要があ
る。
上述のろ過原理は非常にシンプルなもので、工業分野ではごく普通に応用されているものだが、旭化
成が開発したこの膜は、以下のような理由で世界的にも先端技術と呼ばれている。①膜の孔径が非常に
均一である。高倍数の電子顕微鏡で膜の内側、外側、中間部分を見ると孔径がほぼ同じであることが分
かる。②膜の寿命が7~10年と、耐久性に優れている。③膜が非常に薄く、円筒が非常に細いので、同
体積の場合は膜面積がより大きくなりろ過効果が上がる。
5.感想
李婷:「材料」を専攻している。授業が多くて大変だ。薄膜関連の授業もある。今回、旭化成ケミカル
ズ株式会社を見学した際に、薄膜材料のマイクローザという言葉を聞いたと時は、一人で興奮してしま
った。具体的に原理や製造法についても紹介してもらったが、あまりよく分からなかったので、これか
ら専攻分野を一生懸命勉強し、どうしてそうなるのかをきちんと理解しなければと思った。最後の質疑
応答で、仲間の一人が旭化成のマイクローザは世界の数ある水処理膜の中でどのように認められていく
ようになったのかという質問をした。専門家の回答は「先進的な材料」というものだった。これも企業
秘密のひとつなのだと思う。今回の見学では、それまでの教室の中だけの学習から生産実践の一端を垣
間見ることができ、自分の専攻に対する興味も刺激され、有意義な見学であった。
高丹妮:旭化成の工場見学を楽しみにしていた。自分の専攻とも関係があるので、同社の発展プロセ
スと研究内容に大変興味があったが、今、見学の中で最も印象的に思い出されることと言えば、自分に
も仲間を助ける力があることに気づかされた点である。日本に着いたばかりの頃は言葉が解らず、いつ
も仲間の助けを必要とし、人に面倒をかけることが多くて情けない思いをしていたが、今日の旭化成の
技術説明では、自分の専門知識を活かして通訳を助けたり、膜を用いた汚水処理の原理をできるだけ簡
単に仲間――特に文系の仲間に説明したりすることができたのだ。日本語が解らず、何の役にも立たな
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いように思えてならなかった自分も、機会さえ与えられれば人の役に立てるのだ。なんと幸せなことだ
ろう。
なお、旭化成の見学では、日本の先端技術のすばらしさを痛感した。この汚水処理の原理は非常にシ
ンプルで、簡単に思いつきそうなものだが、この原理を実際の生産に応用するとなると、解決しなけれ
ばならない問題が山のようにある。ろ過膜の製造方法、どんな接着材を使えばいいか、配管設計、洗浄
方法等々。原理を実践に移す時には、どうしてもこうした問題を解決しなければならず、まさにこれこ
そがある発想を実践・普及させる際の成否を決める決定的要因となる。旭化成はまさにこうした一連の
問題を解決し、汚水処理薄膜業界で大きな成功を収めることができた。清華大学に学ぶ学生が大事にし
ている言葉、「行動は言葉に勝る」という言葉を思い出した。発想しても、それを行動に移さなければ
進歩はなく、最終的な成功もありえないのだと思った。
王洪建:今日、旭化成ケミカルズ株式会社富士工場を見学した。見学する前はこうした化学工場は深
刻な環境汚染を引き起こしているに違いないと思っていたが、自分の考えが間違っていたことに気づい
た。旭化成は環境保護に積極的に取り組み、環境保護という理念を一貫して実行していた。翻って中国
の現状はどうだろう。中国の工場は全く周囲の環境のことを置き去りにしている感があるが、これは非
常に恐ろしいことだと思う。中国の現状がこうであるのは、客観的な環境ゆえなのかもしれない。つま
り、先進国では、大企業の多くがすでに巨額の資本を持ち、それを環境面に投入できる余裕があるが、
今の中国は、ほとんどの企業が資本の基本蓄積の段階にあり、企業の収益性を下げる環境には関心がな
い。また、先進国では国民の環境意識も高く、環境を破壊するような企業は大衆の支持が得られないば
かりか、場合によっては住民の反対に遭うことさえあり、こうしたことが環境破壊企業の発展を制約し
ているという側面がある。こうした日本の状況に比べると、中国はまだ環境意識が極めて希薄で、汚染
してしまってから対策を講じるということがいまだに横行している。先進国もやはりそうした道のりを
経て今日の発展を手にして来たのであるから、こうした考えは悲観的過ぎると言えるかもしれないが、
中国においても環境汚染を未然に防ぐ方法は必ずあり、環境保護が重視されるようになることを心から
願っている。
写真3 旭化成富士工場の前で清華大学の学生と記念写真
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アサヒビール神奈川工場(5/29)担当:天津大学
アサヒビール:自然に融けこみ、顧客とともに
天津大学
私たちを乗せた車が神奈川県に入ると、遠くの雲の向こうに真っ白な雪を抱いた富士山が見えた。ま
ぶしい陽射しの中を白い雲のかたまりが浮かんでいた。どこまでが雲で、どこからが山なのか分からな
かった。
アサヒビール神奈川工場の50mほど手前のところで、太陽に輝く「Asahi」の大きな青いロゴが目に飛び
込んできた。工場は丘陵地帯にあるため、玄関からは工場全体を見渡すことができた。手入れのいきと
どいた樹木や花々の間に広々とした道路が見える。左側の丘には木が植えられ、芝生が広がっている。
正面には工場建屋が続いている。階段状にデザインされた池にさざなみが立っている。のどかな雰囲気
の中で工場全体が自然に融けこみ、まるでリゾート地のような感じがして本当に気持ちよかった。
待合室で待っていると、きれいな女性説明員と数名のスタッフが案内のためにやって来た。まず3階へ
案内された。エスカレーターの両側には創業から今日までのアサヒビールのすべての商標やラベルが展
示されていたが、そのほとんどが初めて見るものだった。外国人見学者用にそれぞれ日本語、英語、中
国語と韓国語の説明パネルが用意され、映像資料もマルチランゲージ対応になっていた。
説明員の話によると、アサヒビールの歴史は110年前に遡ることができ、常にビールブランド上位3位
の地位を維持し、日本で唯一年間販売量1億箱を超えるブランドだということだ。また、1987年に「アサ
ヒスーパードライ」が超辛口ビールとして初めて市場投入されたときには、国内外で大きなセンセーショ
ンを巻き起こし、2000年のビール国際ランキングでは4位を獲得している。
ビールの製造工程についても見学した。原材料選びから発酵、最後の瓶詰めまでのすべての工程がコン
ピュータ制御で行われており、生産ラインで働く作業員は工場全体でわずか80名、高度な自動化と現代
化が実現されていた。また、アサヒビールの環境対策、例えば廃棄物の再利用や風力発電、工場の緑化
施設などについての紹介もあった。実物、模型、映像、音声などのツールをふんだんに使ったデモンス
トレーションが印象に残った。
大きな工場の周りに緑が溢れる様は、まさに現代化と大自然との有機的な結合の典型のように思え
た。フロンではなく液化窒素を使った冷却法からも、環境への配慮や社会に対する責任感が見て取れ
る。また、味・高生産量・環境を同時に追求する同社の取り組みからも、利益の拡大と品質向上が環境
保護と相補完し合う関係にあることが分かった。
1986年からアサヒビールの本格的な研究開発が始まった。消費者はビールを味ではなく、ブランドで
飲んでいるというそれまでの発想を改め、「消費者はビールの味がわかる」を合言葉に市場調査を行っ
た。約5000人を対象とする大規模な市場調査(試飲などを含む)の結果、次世代が求めるビールの味は
「コク」と「キレ」であるという結論が導き出され、1986年2月には「アサヒ新生」が上市され、アサヒ
の売り上げは前年比113%の伸びとなり、同業他社を制した。その後も模索を重ね、ついに「スーパード
ライ」をヒットさせるに至った。
アサヒビール株式会社は「品質への飽くなき探求」をモットーに、一粒の麦、一滴の水からホップに
至るまで厳格な基準で原材料を管理している。精選された酵母を用い、最先端の技術と設備によって各
工程を厳しくチェックすることで新鮮なビールの味が保たれ、それがキレ味となる。アサヒは独自の配
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合法で辛口特級酵母発酵技術を開発し、苦味の少ないコクのある辛口ビールを誕生させた。その銀色の
高貴な感じのするパッケージデザインも効いている。
アサヒビール株式会社はスーパードライを全世界で生産している。すでにカナダ・アメリカ・イギリ
スなどの国々で生産拠点を持ち、1994年以来、北京・煙台・杭州・深セン・泉州の5社のビールメーカ
ーと合弁企業を立ち上げている。また、1999年には伊藤忠商事と住金物産とともに青島ビールとタイア
ップし、5237万ドルで深セン青島ビール朝日有限公司を設立し、中国国内最大の瓶ビール生産ラインを
建設している。こうしたことからも、アサヒグループは世界市場、特に中国市場に注目し、その開拓に
注力していることが見て取れる。
見学の最後はビールの試飲だった。お酒の苦手な女性には同社のソフトドリンクが用意されていた
が、せっかく工場に来たというのに、作りたてのビールを飲まないというのは何とももったいない話で
ある。なぜなら試飲コーナーのビールが世界で一番新鮮なビールだからだ。用意されたおつまみを食べ
ながら外の景色を眺め、最後に冷たいビールで喉を潤した。
アサヒビールグループは最高の品質とサービスによって顧客の満足を追求し、世界中の人々の健康と
豊かな社会の実現に貢献している。こうした経営理念のもとで、アサヒはこれからも活力溢れる企業で
あり続けるだろう。
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氷川丸&日本郵船博物館(5/29)担当:中国政法大学
氷川丸&日本郵船博物館見学記
中国政法大学:余韻 宋志清 黄月瑩
1.見学日時:2008年5月29日午後
2.見学場所:横浜市中区山下町山下公園地先、横浜市中区海岸通3-9
3.見学の概要 Ⅰ.「氷川丸とともに」
1.見学の概要
氷川丸は日本とアメリカの間を行き来していた豪華客船で、全長163.3m、排水量11,622トンであ
る。この船は戦前・戦後の二つの時代をまたぎ太平洋を238回横断し、「太平洋の女王」と愛称されて
いた。今は歴史の表舞台から退き、船舶博物館として横浜市山下公園傍の海岸に常時停泊している。
氷川丸に乗りこみ、船長から船の歴史を聞き、幼稚園や読書室、一等船室、二等船室、機関室などを
見学した。きれいに修復されたさまざまな陳列品は、見る人にこの船の黄金時代に思いを馳せ、各国の
旅客とともに迎えた船出の日を思い出させる。
2.知っていますか?
氷川丸は歴史上いくつの役割を演じてきたか?
答:3つ
①豪華客船
「太平洋の女王」
氷川丸は1929年に建造され、同年9月にシアトルへの処女航海を行った。乗組員の上質なサービスと
船内レストラン、優美なアール・デコ調の装飾がまたたく間に評判となり、チャールズ・チャプリンな
どの多くの著名人がそれに乗って日本を訪れている。
また、氷川丸は単に娯楽のためのものではなく、日本郵船(NYK)の他の船舶ともに多くのユダヤ
人をナチスによる虐殺の運命から救っている。ゾラフ・バルハフティク(Zorach Warhaftig)の著した
『Refugee and Survivor, Rescue Attempts during the Holocaust(日本語訳:日本に来たユダヤ難民)』
という本に、彼本人の避難経路が言及されているが、彼とその家族は1941年6月、横浜港からこの氷川
丸に乗り込みバンクーバーを目指した。彼は氷川丸の船上での日々を「素晴らしい夏休みだった。まる
で戦争が我々のまえから突然消えてしまったかのようだ」と記している。
②病院船とその後の屈辱の歴史
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1941年からの第二次大戦中は、氷川丸は幸い艦船として徴用される運命からは逃れられたが、病院船
にさせられた。その外観は全身真っ白に塗られ、船体の両側にはそれぞれ二つの赤十字のマークと命の
象徴である緑のラインが描かれた。第二次大戦中、計3万人の兵士の救護に当たった。
1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を決定した。このクラスの豪華客船は第二次大戦中にすべ
て破壊されていたため、氷川丸だけが唯一の大戦生き残りとしてアメリカ政府に徴用され、米国側の人
員輸送のために日米間を往来した。また、「食糧輸送船」としての役割を担わされることもあった。
1954年には上述のような屈辱の歴史に終止符が打たれ、氷川丸は旅をする一般人を乗せるという本来
の役割を取り戻し、以前の航路を以前と同じように航海するようになった。
③博物館
しかし時代は氷川丸にとって残酷なものだった。航空事業の発展と生活のリズムが加速されるにつれ
て、遠洋航路の需要が減り続け、氷川丸の業積も日増しに悪化し、1960年についに運航が停止されるこ
とになった。
ところが、それが氷川丸にとっては新たな始まりとなった。氷川丸は横浜市によってユースホステル
と船舶博物館という全く新しい役割を与えられることになった。その後の経営不振などにより存続が危
ぶまれた時期もあったが、NYK社によって始められた「歴史的客船を救え」というキャンペーンによっ
て多くの募金が寄せられた。人々はこの美しい客船を失ってはならないことに気がついたのだ。氷川丸
は単に日本の1930年代の造船レベルを表しているというだけでなく、それ以上に永遠の平和を願う人々
の気持ちの象徴なのだ。
3.感想
横浜で最初に行ったのは山下公園だった。この公園は関東大
震災の時に焼けてなくなったが、その後に再建され、きれいに
木や花が一面に植えられていた。ちょうど下校時間だったの
で、女子高生や小学生が三々五々楽しそうに散歩していた。
仮に山下公園を天災から生き残ったものの象徴とするなら
ば、横浜市は第二次大戦という人災から幸運にも免れた唯一の
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豪華客船というまたとないパートナーを手にしたとも言えよう。氷川丸は港の片隅に静かに停泊し、ま
るでそこで訪れる遊覧客を迎えながら、静かに自らの一生を振り返っているように見えた。
ひとたび氷川丸に足を踏み入れると、そこはまさにタイムトンネルを抜けた後にたどり着いた1930年
代の世界であった。精巧に織られた絨毯には模様が編みこまれ、テーブルには花が飾られ、図書館の書
棚にはブリタニカ百科事典の初版本が並んでいた。ガラス越しに当時の一等客室と二等船室の中の様子
を見て、当時の乗船客がその部屋に泊まって未知の世界に旅立って行く時の気持ちがどんなであったか
を想像してみた。
船内サービスという点では、当時の氷川丸のそれは間違いな
く上質であったことが、例えば客室のベッドに置かれた枕カバ
ーが毎日客室を整えるスタッフによってヨットや孔雀などの
さまざまな形に折られていたということからも知ることができ
る。乗船客が自分の部屋に戻り、それを見つけた時は、思わず
会心の笑みを漏らしたことだろう。
平和が破られ、戦争が始まっても、氷川丸は人々に幸福を届
けるという自らの初心を忘れなかった。傷病者の救出に向かう
時にも、乗組員たちは医薬品のほかにたくさんの果物を積みこんだという。これらの果物は当時の傷病
者の大きな慰めになったに違いない。
最後に、船長が見学ルートの終点で私たちを待っていてくれ
た。私が日本語で「この船はほんとうに数奇な運命をたどった船
だということがよく分かりました」と話しかけると、船長はとて
もうれしそうに微笑み、出口の所に掲げられた氷川丸のモットー
「remain a ship ever loved by passengers(お客様に常に愛され
る船に)」を指し示した。
このような信念を持ち続けたこと、そしてこの船を救おうとい
う人々の心が、氷川丸をして戦争の混乱と危険を乗り越えさせ、歴史の証人としたのだと思う。豊かで
華やかな過去であれ、戦火にまみれた過去であれ、氷川丸は自らの体験を以って平和とはもともとかく
も素晴らしいものだというメッセージを世界の人々に送り続けているのだ。
Ⅱ.日本郵船博物館見学記
1.日本郵船株式会社の歴史
日本郵船歴史博物館は今回の日本訪問では初めての人文科学系博物館で、野崎「飛鳥」元船長(館長
代理)が日本郵船株式会社の発展と関連づけて歴史の講義をしてくれた。ベテラン船長が冒頭に言った
「歴史をきちんと把握してこそ未来を創造することができる」という言葉が印象的だったが、それはこ
の博物館創設の趣旨だとも言える。
1853年にペリー艦隊が日本に開国を迫った時、日本には旧式の帆船しかなく、蒸汽船と対抗するには
全くの力不足で、日本政府は開国をせざるを得なかった。外国の船会社によって日本の海運業が独占さ
れていた時期もあったが、それは日本にとって相当苦痛であったに違いない。政府出資による「回漕会
社」(日本郵船の前身)は敗戦の間際に命を受け、困難に立ち向かったが、同社は低価格戦略で競合相
手を制して横浜‐上海航路を押さえ、日本の国際貿易の盟主になっていった。日本政府は市場競争を導
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入するために、別の海運会社を支援することにしたが、激烈な価格競争によって両社とも破産の危機に
瀕するようになってしまった。日本政府はこの局面を打開するために、1885年ついに両社を合併して
NYK(日本郵船会社)とし、過当競争を回避し、規模化と効率化を目指した。その後、国内紡績業の急
速な発展と大きな原料需要の後押しもあり、NYKは1937年までにヨーロッパ・アジア・オセアニア・北
米への多くの航路を開設し、一躍世界一流の海運会社になった。ところが、第二次大戦がNYKにとって
は全くの厄災となった。会社の船の多くが軍に徴用され、日本が降伏した時には、NYKは合計185隻の
船と5312名の船員を失い、まさにどん底状態であった。ところが、NYKは奇跡の復活をとげることにな
る。朝鮮戦争を機に1951年と1952年には元の航路を次々に復活させていった。1955年以降は、日本経
済の高度成長につれてNYKは第二の春を迎えることになる。一方で規模の拡大を図ると同時に、ユーザ
ーの需要に合わせて特殊貨物専用船舶を建造し、先進技術を海運事業に導入し、世界経済を牽引してい
った。例えば日本で初めて建造された大型コンテナ船は経済的かつ便利、しかもそのスピーディーな輸
送方式がユーザーに歓迎された。また、NYKは広くさまざまな措置を講じて財務の多元化を進め、効果
的に円高リスクを防止してその世界的競争力を維持し、コスト削減と同時にユーザーの利益を高めてい
った。
2.感想 ①日本郵船博物館は歴史とその保存を重視している。
博物館は第二次大戦中に失われた会社保有の船の写真をすべて陳列し、さらに地図を配して各船舶が
沈没したり、行方不明になったりした場所と時間がすべて分かるようになっていた。さらに玄関ロビー
に置かれた戦争犠牲者たちの銅像からは、日本郵船のその発展の歴史と同時に死者への思いが感じられ
た。まさにこうした精神があったからこそ、日本郵船は戦後わずかな時間で再建を果たし、国際航路を
復活させることができたのだと思う。
日本郵船の隆盛と衰退は実は日本近代史の縮図であり、それは日本人の強靭さと服従、忍耐と忠誠、
さらには素晴らしい技術とユーザーを第一に考える理念を反映したものだと言える。中国は日本の長所
を学ぶだけでなく、中国の現在が日本の過去に非常に似ているということをしっかり認識する必要があ
る。私たちは極端な民族主義を警戒し、「上り調子のときこそ頭を低く」という中国人らしさを保ち、
冷静かつ誠実に、友好的に強国への道を歩まなければならない。
②日本郵船株式会社のエネルギー輸送と安全重視。
博物館の展示品を見ると、日本郵船の保有する船はそれぞれの用途によってさまざまに建造されてい
ることが分かる。例えば原油を運ぶタンカーはわずか22人で操縦でき、二重構造になっているので衝
突しても漏れにくくなっている。液化天然ガスは汚染が少ないかわりに危険性が高いため、輸送時には
非常な注意を払っている。しかも船長の紹介によれば、同社の各船舶では毎週一回防災訓練を行ってお
り、毎週違う内容で訓練が行われるので、1ヶ月でほとんど全ての災害訓練ができるという。なお、野崎
船長が船長を努めた10年間、彼の船は無事故だったという。
3.付注
郵船博物館内は撮影禁止だったために写真資料がない。
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