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々を - 東京歯科大学同窓会

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々を - 東京歯科大学同窓会
知弘
省
雄造
1
)
原
氏氏
氏
ら
せ
。第 三 回 十 月 二 十 四 日
患者 心 理 を 生 か し た 経 営 の 計 画 化
講師母校教援
隆
i
n
ム
vf
、
。第 四 回 十 月 三 十 一 日
鋳 造 用 合 金 の 作 り 方 (作り方の実際を実施します。)
講師母校教授金
東京歯科大学同窓会事業部
申込先
、 五OO円
各回金二
講 習 料
定員
第一 、 三回は二O 名 、 第二、四回は一O 名
間
午前十時より午後四時まで
時
0
@ 乙 の 講 習 会 は 、臨 林 上 す ぐ に 役 立 つ 乙 と を 目 的 と す る も の で す
. 第 七 十 一 回 同窓 会 総 会 (予 告)
十 一 月 七 日 (日) 午 前 十 時 か ら 母 校 第 一 教 室 で 開 催 さ れ る 乙 と に な り ま
し た。
、
午前中は 、総 会 の 行 事 が あ り 、 午 後 一 時 か ら 、 つ ぎ の と お り 新 し い 試
みの﹁シンポジウム﹂が行われます。
﹁明 日 か ら の 診療 に 役 立 つ 立 体 シ ン ポ ジ ウム ﹂
け 診 療 計 画 ( ト リ │ メント ・プ ラ ン ニング)、ω X線 撮 影 と 診 断 、
同除痛 、 伺 切 削 、 回 度 合
以上は 、現下 の歯科医療上、欠くべからざる重要問題であり、 これらの一つ
一つについ て口 腔外科、保存、補穣、矯正 、小児歯科、X線の各専門の立場か
ら最新の在り方を述べて下さるととになっ ております。
なお 、演者には 、 母校の各科における新進気鋭の助教授諸氏をお願いしまし
た
。 詳細は 次号でお知らせします。
- 第 一 六 七 回 東 京 歯 科 大 学 学 会 日 時 十 一 月 六 日 (土 )
・母 校 入 試 問 題 集 を 本 部 で お 取 り つ ぎ し ま す。
皆
也
氏
当選後の問題について
口
矢
O第 一 回 十 月 十 日
、
歯 科 助 手 の 教 育 実 務 (書類の扱い方、 助手の実務などを倣利助手の方々ω
ためにお話します。﹀
講師東京都
-日曜セミナー
お
O第 二 回 十 月 十 七 日
歯 科 医 に 必 要 な 内 科 診 断学 (血圧のはかり方、及び 、 簡単な諸織査につい
て、歯科に関連するものをとりあげる予定です。)
講師母校教授鈴
助教疫和
中
l~'
,
竹
参議院選 挙
﹂
ん
﹂
。
407
先般の参議院議員選挙で全歯科界の要望に応えてわが同窓鹿島
俊雄君が約五十一万票の大量得票により当選の栄誉を荷われまし
た事は御同慶の至りでとざいます。
深夜の放送で当確が報ぜられた時の感激は全同窓が等しく味わ
れた ζとと思います。当選は誰もが予想していたことではありま
すが 、眼前に当確の文字が映し出された時の気持は関係者以外 に
は恐らく判らないのではないかと思われます。
きて 、乙の感激と喜びを何等かの形で現し度いと思うのは人間
として自然の感情であります。当然のお礼とか祝賀会などが考え
られるのでありますが、非情な法律は ζれを禁じております。
選挙は公職選挙法によって行なわれるもので、乙の法律の枠か
ら逸脱することはできません。若し違反すれば、忽ち選挙違反と
して罰せられることになります。仮りにもそのような事態が生じ
た時には多数の人々に迷惑をかけることになり、不名誉乙の上も
なく、折角の当選も後味の悪いものを遺すこととなりますので、
私共は事前においても、期間中においても細心の注意を払って参
りました。事後においてもまた然りであります。
そ乙で公職選挙法の規定を掲げて御参考に供します。
公職選挙法第一七八条(選挙期日後の挨拶行為の制限﹀
何人も選挙期日後におい て、当選または落選に関し選挙人に挨
拶する目的を以て左に掲げる行為をする乙とができない。
て選挙人に対して戸別訪問をすること。
二、自筆の信書及び当選または落選に関する祝辞、見舞等の答礼
のためにする信書を除く外、文書 、図書を頒布しまたは掲示す
。
三、新聞紙または雑誌を利用する ζと
四、第一五一条の四に掲げる放送設備を利用して放送すること。
五、当選祝賀会その他の集会を開催する乙と。
六、自動車を連ねまたは隊伍を組んで往来する等によって気勢を
張る行為をするとと。
七
、 当選に関する答礼のため当選人の氏名または政党その他の政
治団体の名称を云いあるくこと。
今回の選挙に際し全国三万余の歯科医師の挺身努力 、就中同窓
の涙ぐましいまでの御健斗は 肝に銘じておりますが 、如何ともす
ることができません。
乙の事情御諒承の上、今後の御支援を賜り度く伏 して 懇願申上
げる次第でございます。
出木
氏
回
木
昭和 4
0年
8月 1
0日
/
々を&
合弁~, ~tλ~ 的各省:
b
わる
山旧 敦子(大山) 小 鹿栄一(茨滅)
武 山けん(中野)
︹基礎︺
(I )
三名
伊藤正雄(宮城)問中界治(八丈)
天野文枝(日川市)
済回宣彦(熊本﹀
︹保存︺(小児 歯 科 ) 九 名
安保正定︿台東)椎貝正子(山梨
﹀
柏瀬昌世︿栃木)石 川東一(新潟)
鹿野清三郎(千葉﹀佐牟旧歌子(北﹀
山田敦子(大田﹀小鹿栄一(茨城)
武田隆一(神奈川)
︹口腔 外 科 ︺ 十 名
菅野哲司(江戸 川)由良竹三(江戸川)
高峰昭紀(大出)笠井敏子(大川)
V支部長交替
短
六月 十 二 日
六 月 十三 日
-11It--
Ethi- -d
i
-
二
ノ fl
J
、
.
七月十三円
七月十阿日
,
41
ロ
=
一
-
理事 、宝田理事
千葉県支部総会大井
副会長 、山 本理事 ・
理事
山崎理事
北 海道連合総会波辺
帯広支部同窓会渡辺
理事
理事
北 見支部同窓会渡辺
板橋区支部総会 川丸
会長 、杉 山学長
栃木県交部総会大弁
副会長 、鈴木助教授
ω
逝去会員
謹ん で左 の方々 の御冥福を心から
お祈 り致し ます。
u
-m 大阪府
奥谷床太 郎お山上守三郎ω ・5 ・U 福島県
小見 晃 蔵ω ・4 ・
お 新潟県
野沢釣 m
m -H-U 栃木県
塚木栄春
・6 ・5 富山県
織凶笠太郎
ω ・7 ・U 岐阜県
7-m神奈川県
大 村 一 男ω ・
七月十八円
理事
神 奈川 県支部総会楠
理事
石川県支部総会古川木
中島願締
葛飾区支部長
中村正尾
文京区支部長
空知支部長
成田武雄
v役員出張
六 月 三 日 島根県支部総会高木
日
音
日
︹基礎 ︺ (E)
五名
亀谷博昭(墨田)江川郁夫(埼玉)
本
七月十二日
月
江川郁夫(埼玉)楠 旧 遁(新潟)
笹本允明(静岡)瀬高良一(新潟)
西垣正光 (
茨城)岡田一郎(栃木)
︹
術科に関述する臨床医学︺
ー名
h 夫(滋釘)
半川 晴
安井留男(練馬)
細 山 約(新潟) 大国間英次(千葉)
P
市川病院で 臨床講義を つける受講者
,
じ
矯正 、基 礎I (口腔衛生、組織 、
解剖 、生化学 、生 理 、衛生) 、放射
線 、基礎E (病 理 、微生物 、薬理 、
法劇学 、理工﹀ 、歯科医療管理 、保
歯槽膿漏) 、保存E (
存I (
小児 歯
利) 、補綴(ポ 1 セレソ) 、口 腔外
利 、歯科に関連する臨床医学(市 川
病院)など 卜利 口 の広範囲にわたっ
て、それぞれ三 日間
ω講習を七月十
二日より 二│ 八けまで〆行なった。
一お知
本年は前りでω消習会開催ω
らせが遅れたのと 、ババω川窓会七
関口副注目(埼玉)渡辺 陥司(中央)
下村一登(港)箕間定問(神奈川)
︹放射線 ︺
問名
佐藤正目次(福島)樹瀬真消(神奈川 )
木村霊茂子(目黒)関根正行(港)
︹保存︺(歯僧膿漏)十一名
山本糧三(千代田﹀柳沼彦忠(江戸 川)
鈴木丈信(神奈川)根木智宝(中央)
中村時総(滋加は) 関根正行(港 )
気資元晶体(静岡) 山口一予(長崎 )
大坪正住(栃木) 箕山一応附(仰奈川)
歯槽膿漏講習会に出席して
臨床医の日常最も多く逝過して治
癒しがたいといわれている樹間際漏
を点する共に 、ゆき届いた 川窓会の
方々の御世話 、とりわけ会長'
Uから
の修了証苦手渡しに深かく感涙し 、
先輩諸先牛の指導に敬意と感謝をい
たします。
自の前に,コ ールドマン 、 シュル l
ゲル 、 コ1 エンの姿を浮べながら 、
懇切丁寧に指導される大学側の諸先
生の進止併せる業総先夫に精院の敬意
人間関係を強く打川して其心から診
療できる歯憎膿漏ω治 療 法 に つ い
て、歯科医師ωリパイパルが来たよ
うに感じられます。
恵
卜周年祝賀行京、上︼
川ω参柏市院選挙
などω行事がつづいたためか例年に
比 べて各科円とも受講希望おが少な
三宅康夫(岡 山)松井松次(板橋)
松旧力夫(山形)大浪,美一止(山形)
西川住介(福品) 竹田 真二(山形)
山崎 智 ( 世 田谷)
︹歯科医療管理 ︺
十七名
星井博(札幌)沖良和(埼玉)
名取義道(荒川)鹿野泊三郎(千葉﹀
斎藤武彦(千葉)根木卓光(茨城)
大 川袈二(群馬)字悌淳(小平)
石田秋二郎(島根)手鹿一止(福井)
についての講習会に出席する機会を
彦
く、全体で八十九名で多い利口でも
十七名であった。しかし 、災技をと
もなう講習会として、一利H三十な
いし五十名で受講するよりも 、受講
者にとっては講師の諸先生に直政指
導をうけることができ 、例年の講習
会よりも実績が上ったとの芦も聞か
ばれた一回もあっ
れ
、 非常によろ ζJ
た
。
各科目の受講終了者には旧丸会長
より一人一人に講習修了証書が手渡
ー
召
習
、 その向学心に対する労をねぎ
され
らつた。
柳
コ
講
各科Uの 受 講 者 は 次 の 通 り で あ
る
。
篠原健一(武蔵野)北 村和夫(占森)
得た ζとは 、私とし ては非常に幸で
柳 川 昭(千葉)小森忠三(港)
あったと思います。今年は講習の機
吉 永弥生(神奈川 )一一階堂胤平(位田 構も新らしく 、温かい思いやりで多
谷)井口敏包(武蔵野)
忙な臨床医ができるだけわかりやす
︹補綴 ︺
卜一名
く広く枇界の学界の模様を知る乙と
菅原壮一郎(岩手)椎貝賢一(山梨)
ができるよう 、また膿漏治療に関す
荻 原 弘 ( 絡 岡 ) 星 井 博 ( 北 海 道 ) る意欲を湾立たせるためのはからい
五十嵐敏一二(山形)高峰附紀(大 山)
と努力が見られました。
横矢重彦(高知)竹 山貞一(山形)
最近の保険行政のゆき,つまりによ
塚崎直敏(大田)牛 久保喜一(八王子) り破壊された患者のぶ粉、と協力との
〉
1
(敬称時受付順)
︹矯正︺九名
井上良和(調布 )深沢一祐(的岡)
山本澄江(台東)根本松次(板橋)
V
白~
~-
渡 辺正信(世間行)山秀総(白山
、.;
;
写;
2
候補
過日開催された専門課程臨時教授
会において、満場一致の推薦によ
り、とのたび、日本学術会ぷ第七別
した。
会員選挙に立候補することになりま
杉山不ニ学長
山
不
ζの選挙の意義と使命とを
拶を申述、べます。
願い申上げます。右、立候補のご挨
御理解を賜わりますよう、併せてお
ことを切にお願いいたしますととも
に、同窓会員各位にもまた、十分な
さらに御認識のうえ、御協力あらん
しては、
たしたい所存であります。
全国の同窓有権者各位におかれま
向上に貢献するため、微力を傾注い
歯学の発展を通じてわが国の学問の
挙 の 目 的と趣旨とを十分に心得て、
このうえは、日本学術会議会員選
拶
日本学術会議の会員選挙は、世界
にその類例を見ないものであり、乙
の理想的な遂行は、科学者の高度な
ζの点に深く思いを
道徳心の上に立つてのみ可能であ
。
われわれは、
40
杉山学長、 立候補に際しての抱負
山
杉山学長は 、 日 本 学 術 会 議 第 七 期 会 員 選 挙 の 立 候 補 に あ た り 、
つぎの通り 、 抱負を公表された。
第 七 部 全 国 区歯 学
第七部全国区
日本学術会議第七期会員選挙 ハ
福島秀策
大井市
山丸将士
斎 勝 久 、 韓併上喜久男 、
渡辺悌、高達、
伊勝秀三郎
松宮誠一
北村勝街、米沢和一
西四朗、鈴木芳太郎、鈴
木龍太、 O 松宮誠一、田
熊庄三郎、 O 米沢和一、
高添一郎、 O 田村俊吉、
堤環二、金竹哲也、相
三衛、高橋重雄、上田喜
一、西村正雄、O竹内光
春、鈴木和男、 O関根永
滋、木村吉太郎、石川達
也、佐藤徹一郎、 町田幸 一学外委員
雄、O 長尾喜景、 高橋庄
(昭和四十年八月十日発令)
歯学 ﹀ 推 薦 候 補 杉 山 不 二 選 挙 対 策 本 部 機 構
幹事長
幹事
学内 委 只
見明治、坂田三弥、葛一
(O印ト委員)
O上条薙彦、O 松井隆弘一
学外の東歯大学会評議員
と同窓会支部長
士
ロ
二郎、中久 喜 喬、大森清
弘
、 O北村勝衛、鵜養
弘、羽賀通夫、関根弘、
O山本義茂、大内英男、
瀬端正之、 O 三崎紗郎、
金井良維、岩野孝、 O
加藤倉一二、(代理川島
康)O高木圭二郎、渡辺
冨士夫、鈴木弘造、和田
知雄、坂本英次、中島哲
夫、 加 藤 繁 次 、 野 口 好
之、神野て大野虎之
進、緒方鍾、大城一
郎
、 O木下隆治、河合貞
日本学術会議の主要な任務は 、 科学者の意志を代表して 、 これを政治行政の面に反
映させることにあります。
わ た く し は 、 国 の 内 外 を 問 わ ず 、 広 く 視 野 を ひ ろ げ 、官 公 私 立 大 学 の 別 な く 、 科 学
教育の充実、研究施設の強化拡充および海外との学術交流の促進について最善の努力
を払い 、 かっ 、 わが国の研究態勢が 、 各 専 門 学 術 分 野 の 緊 密 な 連 携 を 保 ち な が ら 強 化
推進するよう 、 全力を尽したいと存じます。
とくに 、歯学に関しては、
付次代を担う若い研究者らが誇りを以て研究に没頭できるよう、物心両面からの援
助の方途を大いに強化すること。
∞ 若 い 商 科 医 療 担 当 者 ら に 熱 情 を 持 た せ る ような社会保険制度の改革を行うこと。
同大学の教育ならびに研究設備に対する国庫の助成をさらに拡大すること。
制 研 究 者 の 海 外 派 遣 、諸外国よりの特殊研究設備および資材の購入をさらに活発に
行うこと。
以上の実現について 、 本会議を通じ 、 地 道 な が ら も 真 剣 に 取 り く み た い 所 存 で あ り
ます。
不
杉
日本 学 術 会 議 会 員 選 挙 に 出 馬 決 定
今秋十一月に行なわれる日本学術
会議第七期会只 の選挙に際し 、杉山
不二学長は、先般聞かれた母校専門
課程臨時教授会の席上で、満場一致
を以て推薦され、第七部歯学の会円以
選挙に出馬される乙とが決定した。
日本学術会議は、わが国科 学者の
内外に対する代表機関であり、そ の
会員は、三年ごとに行なわれる選挙
によって選ばれることは、周知のと
おりである。
杉山学長は、 ζ の会議を通じて歯
学の発展と、ひいてはわが国学問の
向上に貢献すべく、あらたな決意を
杉
挨
いたし、選挙にあたっては、科学者
として の良 心に恥じないよう行動す
べき ζとを新たに誓いたい。
全国の同窓有権者は申すまでもな
く、全会員各位におかれては、右の
主回目達成に向って、十分にと協力あ
らん乙とを切望してやまないしだい
である。
なお、歯学会員の定員二名に対
して、杉山学長のほか、日大歯学
部鈴木勝学長および大阪歯大白数
美 輝雄学長が立候補されている。
部
の
いだかれており、われわれもまた、
学長の卓見と才能とに ζれらを深く
与問長長
.
.
.
L
.
.
期待するしだいである。
3
参顧次本
.
l
L
学監就任
なりました。
職を仰せつけ
られる乙とに
六月一日付を
もって大学院
研究科長の重
ζのたび、
の 一途を進み、現在すでに五十一名
の段階を研究しております。
せん。私はよい学長、よい副学長、
さて仕事は一人でできるものとは
思いません。 皆 さんのと協力がなく
ては、とてもできる乙とではありま
偉大な福島先生を戴き直接と指導を
頂けます乙とは 、私にとって乙 の上
もない仕合せな ζとであり、また他
に教職員諸氏同窓の方との御協力も
惜しみなく頂けるものと信じており
ますので、何卒よろしく御原い申し
あげます。
私は偉大な尚子監になる ζとは望む
べくもありませんが、せめて自分な
りのベ 1 スで、大学の発展、大学の
和のため地味にやって行きたいと思
います。
完備した教授障によって斯界のトッ
プレベルにあり、また運営面は 、至
達至能の理事長はじめ理事各位の絶
大な御努力によって、年々着実な発
展の一途にあります。
弘は、 ζの際 、 母校研究前の主軸
となる大学院研究科の賢一任者とし
加藤教授
欧米視察のため出張
母校市川病
院副院長 、歯
科部長の加藤
倉主教授は、
母校の命によ
り刊界ω街学
の現状を視察のため、八月 ご十八日
(土)午後十時半、羽目先北極回り
で出発される。同教授は欧米十二カ
国のオ lラルメデシンを中心に視察
され、十二月二十円出川同ω予定で
ある。
帰国の御挨拶
﹁かなえ ﹂ のようなもので 、教育、
研究および運営という三本の脚の上
に平衡して立ちながら発展すべきも
授および次代科長北村教授の並々な
らぬ御尽斧によるものであります。
私は 、平素から 、私立 の大学は、
に従事して参りましたが、この度任
期を終了し、七月十六円帰閑致しま
した。
去年同月より、デン γ l p王立歯
科大学解剖学教室において、客員研
究者として、品凶の電子顕微鏡的研究
病 理 学 教 室 倉橋和啓
のであり、もし乙れ ら一一一脚のうち一
つでも平衡を失すると 、そ の大学は
本来のあるべき姿から遠のいていく
ζとになると考えている一人であり
松宮
大学院研究科長就任ご挨拶
す。何をするにも始めが大切という
ととを心得て、一生懸命にスタート
いう乙とが分りかけてきた次第で、
その責任の重大きを痛感しておりま
事柄に当らねばならない役である
乙とが、また下手をす ると大学内の
皆さん、ならびに同 窓の皆さんに御
迷惑をかける ζとになってしまうと
は何をするも
のぞと﹂よく質問されますが、それ
は自分でも分らない程なのだから無
理もないと思います。乙の頃学監と
は大学の番頭さん役で、いろいろな
職を頂いて恐
縮しておりま
す。﹁尚子監と
で学監という
六月一日付
ー晴
わが大学院研究科は、昭和三十三
年四月に発足していらい、年々発展
衛
乙の問、大治なく泌させて頂いた
のみならず 、北欧随 一の文字通りの
平和の理想嫌ですぐれた研究者につ
いて、多くのことを学び得玄したこ
とを、きわめて幸せに思いますと同時
に、これは一重に皆同僚のと厚意とと
誠
幸いにも、母校の教育面は、充実
て、上記の二面におくれる ζとのな
いよう、使命の達成に遜進したいと
深く念願しております。
学長はじめ 、大 学院研究科委員各
位は申すまでもなく、全教職員諸氏
の絶大な御支援 、御鞭援を切望して
やみません
激励の賜と感謝致しております。
微力ながら今後とも一層の努力を
致す所存でありますのでよろしくお
願い申し上げます。
田熊助教授帰国さる
唯一の日本入学者として招帥附さ
れ、去る六月九日ロンドンに向け出
発された病理学教室田熊庄三郎助
教授は世界の代表的歯学者のみを招
待して行なわれた第三回国際歯科基
礎医学会において﹁象牙質管用基質
の構造と発生 ﹂と題する講演を行な
い、参加者に多大の感銘と反響を与
え、大成功を収めた。その後、米国
の国立衛生研究所 (
N I H)内の歯
科研究所で一カ月間研究にあたら
れ、七月二二日からトロントで聞か
れた国際歯科医学会 (IADR) に
人事
山席の後、七月三十一日午後八時一
五分、元気に帰国された。
﹀
︿
新任
助手岩柳義之(放射線)グ
助手秦霞哉(市病内科﹀八、
非常勤講師佐藤敏治(理工)グ
助教綬大城一郎(市病耳鼻酬明喉科
部長)七、一
よ
拶
ます。
校
勝
J
母
北
村
〉
ー
、
挨
の歯学博士を生むにいたりました。
乙れは 、 ひとえに初代科長渡辺前教
コ
〉
副手採用(五、一 )
(副
ー住井俊夫(司E)、河合輝'W側
物)高橋詩士口、大沢一博、堺清
i
リ 、ハ村上圭、 河 村 秀 明 、 凶 器 掛
j
(
補綴﹀ 、浅野燕之、林善紀、市之
川二 美子 、村田有弘、鈴木義隆、
笹本和子、山口勝康(保存)、永井
善紀、大井基道、大月核子、後藤
澗、菅波啓(口院外科﹀、大沢晋、
沖光博、小林千恵子(矯正)、上杉
光永(放射線)、県信哉、小林博、
稲垣一臣(市病歯科)、
。渡辺富士夫教綬市川病院勤務
辞職
(
六 、十七 )
凶
、 三O
助 教 佼 川 村 八 郎 (口外 )
助教授 NM什宍ハ補綴)五 、 三一
(神奈川術科大 学教授就任のため)
病理)六、一五
助 教 授 鈴 木 鍾 美(
(山右手医大教授就任のため)
助教授平原政太郎(市病)六、三O
助教授佐藤敏治(理工)七、三一
講師堺妬之(市病歯科)四、三O
講 師 斎 藤 篤 ( 保 存 ) 六 、 三O
助手北川守山(市病歯科﹀
四、三O
助 手 志 水 透 ( 口 外 ) 四 、 三O
助手品田敬義(微生物)四 、 三O
助手麻生美智子(保存)五、一一一一
助手太田是男(補綴)五、一一一一
四、二八
四、二八
四、 二八
(岩手医大歯科に転出﹀
助 手 原 口 動 一 ( 保 存 ) 六 、 三O
専攻生採用
山本啓介 (
薬理
﹀
五、 一二
五、 一二
五、 二一
六、ム九
川又正義(薬理﹀
小林則夫 (薬理)
奥山宏(補綴)
尾上峰(組織﹀
信太顕宗(刷版漏)
問中界治(衛生)
4
四月=日 ハ高雄)
十時病院を出 発、呉 基 生、 羅 水
欽、呂潜寛、院長成氏等同行、旗山
神社の丘 に上りパナナ畠を眺観。次
いで拝東 の簡金鍾氏 宅 を訪問。呂消
ロ
湾
訪
に乗る、一路羽田に向って飛び午後
宴、陳漢周、張慶祥、張令嬢、藍培
台北)
四月四日 (
洪棟係、張巣眠(張深鋸 氏次弟)、 旗、楊彰仁、周金波、張明季、張深
、そ の夜は中美大館
錦氏と卓を閤 hu
張宝文、董銀漢、陳錫鈴、呉仁祐、
底に泊る。
同夫人、石泰三 、何啓生、周汝川、
台北﹀
同夫人 、慈賞添(上平氏同級)、張 四月 六日 (
張深錦 、張慶祥、陳漢周氏等と共
深鏡同夫人、張 春輝同夫人等多数の
見送りを受け台中駅を出発、 公 会 に基隆市内を一問問、陳漢周氏宅に落
長、何啓生氏同索、張崇眠張発文、 っき御令夫人に挨拶して台北に向っ
た。 台 北 大 学 を 参 観 、 奈 内 科 部 長
蔓銀漢、陳鍋全、張深錆氏同行。
(慶大医卒)に面会、 ついで郎氏宅
正午台北駅に到着。多数の出迎えを
に赴きJ A Lがス トのため C P Aに
受け郎昌麟氏宅に荷物を預け台北医
学院、慈光寺等を見学。慈光寺に於 切り換えるためサスに行きアンパサ
ダ 1ホテルにて郭太洋、郭太消、張
いて楊玉規、郎昌麟、張済時、卜茂
、 河原田実(九大医学部)、張処 阿在、何棟契氏等の招待に預る。張
。
源
、
祥、王国輝 、頼光燥氏等と共に精定 深錦 、張慶祥氏等同席 食後国防大
学K行き内部を見る 。 三時頃頼光燥
料理を戴く。
氏宅を訪門。六時半から場玉慢会長
午後台湾大学医学部歯科教室にて
の招宴あり(昔の軍司令官官舎)、
大井講演、引続き関根教授の講演が
あり午後六時終了 、大平洋大飯屈に 連袋東(台湾中央政府内務部長(内
務大臣)﹀注岳喬(内政部参事兼主任
2 - 秘書﹀周百錬(台北前市長﹀陳忠波
l'
E
=
ロ
一 (台湾省牙医師公会総幹事﹀郎昌
の
麟、張深鏡他に日大、 日歯各一名同
大井清そ
一 席し鄭重なもてなしであった。招宴
後、張深縮、間以祥喜、奈信塗同令夫
人令媛、呉伝改、王国輝、張震中、
謝治木、張慶祥、森光娘、古里混生諸
氏が頼光換氏宅に集り大平洋飯庖に
宿を決めて下さる、一同宿に集り帰
国の荷作りに十一時間割まで手伝って
下されおそくまで歓訟した。二時三
十分に漸く床についた 。
四月七日 (帰国)
離台の目、午前中張慶祥夫人の案
内で同窓一同と共にショ yピングに
行く 、十二時半台北同窓一岡、台南
より察滑漢その他張捷喜 、張普氏却一寸
が参加お別れの昼食をなす。午後二
時宿に帰り飛行場へ創く、同窓一同
の他、揚玉混会長、 郎昌麟、殺光娘
夫人、張慶祥夫人その佐多数の方々
のお見送りを受け午後四時五分発の
κ
て同窓会主催の招宴があり五十名の
出席があった。その夜は北技台湾電
力寮(温泉郷)に案内を受け宿泊し
た
。
頼光崎駅 、張処祥、玉 木 桐、 王 国
輝、張緩中、謝消木氏等同宿。
四月五日 (基隆)
北援を出発し張慶祥氏宅を訪問、
同夫人及び玉木桐氏と共K指南堂、
烏来壁濠等を見物。烏来では特に周
志明︿郷長)、陳仁敏(中山医専卒)
氏等に御厄介になり山の人の踊りな
どに興じた。
張慶祥氏宅に帰り令嬢のピアノ等
を聴き頼光燥氏宅にて夫人、 子供に
会い再び張慶祥氏宅に至り張深嬬 、
張慶祥同令娘と共に基隆へ行く。午
後六時陳漠周氏宅 っき令夫人孫さ
ん等に会う 、そ の 夜 小 上 海 に て 招
問
寛君が帰り、筒、院若 等と錫霊園昇へ
向った 。途中恒春国立公園、熱帯樹
木園を見物、台湾最南端である鎗輔晶
画併に到着した 。総統像が南を見て筆
えていたのは印像的であウた。高尾
に帰る途中院長成 氏 のお宅を訪問し
た。夜同窓会の招宴が致美済大飯庖
同夫人、院 長成、
で聞か れ
、呉基生 、
呂清寛、羅水欽、 街 金 鍾、 務 潜 光
(会長)代理陳彰武(日歯)、謝瑞
昌、持美(東洋女﹀、郭 久代(東洋
女)、 張春輝、許国維︿九州﹀等が
同席された。招宴後、羅水欽氏宅を
訪問。十時おわかれしてホテル豪華
飯底に帰った。
四月三日 (台中)
呉基生、呂消覚、許国雄(九州)、
張春輝、院長成、謝
簡金鍾、羅水欽 、
瑞昌氏等に見送られ高尾駅を出発。
特
_
r
.
.
:
.
.
.
社総明院長及び令夫人同索、張春輝
中に向う。張深館、
氏に附添われム口
石泰之、張宗、何会長、呉仁祐、洪
棟様、熊銀漢、陳鍋鈴会長氏等に出
迎えられ 、台中駅に到着。直ちに張
中啓市長の招待会場市長舎に赴き、
蒸其欣(台湾省警務専門委員兼台中
連絡官﹀呉行金(眼科、 ムロ中伝師会
理事長)何啓生(歯科 医師会長﹀ 初
恵徳(衛生局長)張深鋸石泰之氏等
培席。それより張深鋳氏宅を経て白
雲大飯庖につき中山医専で 、大井 、
関根教授はそ れぞれ講演(張春輝氏
通訳)次で周汝 川董事長の招宴に分
席、周董事長間夫人、石 泰三 、何啓
生、洪棟棟、呉仁祐、張深錦、張春
輝、病理教授等と同席、歓談後張深
鋸氏宅に赴き、陳鍋鐙、張宗文等各
氏を混えて歓談しホテルへ帰った 。
κ
六時四十二分無事羽田着、東京は寒
いので閉口した。
おめりに
恩えぴ忙 しく 、 楽 し い 旅 で あ っ
た、台湾に在住せられる同窓は四十
九名 であるが台東省在住 の 周 少 華
(二十七年)林輝記(三十二年﹀の
両君にお会いする機会がなかったの
は残念であったが 、そ の他四 十 六名
の方々には全部お会いすることが出
来皆様から一方ならぬ御歓待を得た
乙とは感激に耐えない。乙乙に謹ん
で御礼を申上げます。
なお 、私共が訪台した機会に台湾
に同窓会支部を結成することがきま
り、張深鏡氏が支部長をし て下さる
との話がまとまった。楊歯科医師会
長から伺ったと乙ろによると台湾は
一千万の人口があり、医科医師ハ正
規)が六一八名、助手的存在の人が
一八O名 位 い で あ り 、 他 に 鋭 牙 師
(いわゆるもぐり)が二OOO名も
おり、歯科医師法の制定がないので
非常 困 っ て い る と の こ と で あ っ
た。一般大衆の衛生思想向上のため
に努力されているようであったが仲
々の大事業のようであった 、歯科教
育機関としては 、国立台湾大学医学
院牙医学系、国防医学院 、私立台北
医学院、私 立高称医学院の五校は六
年制で 、私立中 山医専は四年制であ
る。五年制大学の学生は、きわめて少
なく一一一一一O名程度、中山医専には
一学年百数十名在学と聞いた。教育
設備その他にはまだ相当の整備が必
要であるとも聞いた。今後台湾の 歯
科界の発展のためには先づ教育機関
が整備充実されなくてははならない
だろう。今後日本としては ζの方面
に向って大いに協力してあげる必要
もあろうかとも思われる。(完)
目
報
つ
-
V福島支部
天候不順にて冷害があや
ぶまれてる。今日。五月二
十三日は近頃には珍らしい
初夏の目ざしと若葉が自に
しみる白隠日でした。乙の
度新産都市づくに旺盛な県
の中央 、郡山市の鈴伊根館
に三十九年度総会を開催い
たしました。母校から大井
教授来るの報と年に一度の
再会を期待する同窓 、 そし
て同級は会のふんいきをも
りたてた乙とは言をまつま
でもありません。定刻一時
通り、二次会は大井先生を廻み磐梯
熱海の一力旅館ぇ、乙こは磐梯山麓
ひなびた景賞地、こ ζに先生に一泊
をお願いしてとどこうりなく本県支
部総会のスケジュールを終りまし
た。最後に速く東北の地にお出いた
だきました大井先生に対し会員総意
により感謝の意を表します。
(笠間記)
V和 歌 山 県 支 部
今年も早や海山の季節となりまし
た。いかがお過しでせうか。
当支部では年一回の支部大会をさ
る七月十日、午後五時より当地 、奥
新和歌浦の新装なった観潮楼にて開
催。先づ明楽(佐)支部長の挨拶に
み,
,
初まり、伊藤幹事長より会務、行事
予定等について報告ならびに説明が
あり河本幹事より会計報告の後、協
議事項として今秋の近畿連合同窓会
について、役員の構成、業務分担等
について長時間に亘り打合せを行い
ました 。委員長は別楽支部長に、副
委員長は市川宗光氏に、委員には市
中在住会員全員が当ることに決定。
港湾海岸美日本第一位の紀淡海
峡、奥新和歌浦の夕陽を眺め乍ら懇
釈会に移り、支部大会を閉会しまし
南条準之介、保富力 、保富稔雄 、真
砂圭介、井口岳久(井口記)
V栃 木 県 支 部
O定時総会
去る四月十一日(日)宇都宮市 、
鳥貞において、定時総会を開催。庶
務、会計報告を承認し続いて支部長
以下役員の任期満了に伴い 、改選の
議事に入る。時恰も参議院選挙の前
哨戦は展開されているし 、斯も時点
においては老練にして統卒力のある
現閉山崎支部長より他に適任者なく C
迷惑ながら留任をお願し度いと異口
同音の熱望もだし難くと承諾を得、
その他役員は支部長一任と決定。
一栃木県歯科医師政治連盟の再発
広大なる庭園 、老樹のあいまより
思川の清流を望見 、静寂な絶好な会
場、乙の日の設営にと高配を頂いた
石川越夫君その他地区会員のと厚情
を万謝。定刻一時開会。黒崎支部長
の挨拶。鹿島先生のと当選を喜ぶ。
然しながら医療保険の重大なる危機
に直面して今後﹁勝って兜の緒をし
め﹂勝利に酔う乙となく更に一層の
協力を切望。一同唯諾の全国平均一
六、四O、本県三O 、五一でも前回よ
りやや低下した。油断大敵である。
﹁敵を知り己を知れば百戦勝つ﹂孫
子の兵法ならずとも自戒自重すべき
もの 。議事に入り、会則の一部改正
(副会長二名に改む)可決。続いて
後任支部役只は小滝君等数名の詮衝
委員により、支部長に岡田正信君 、
副支部長に黒崎弘毅君 、栗原正三君
を選出 。向会計年度を一月一日より
十二月三十一日までと改正承認可決
して一切の議事終る 。 ご多忙中特に
御臨席を頂いた、大井先生より母校
の現況など天文学的な数字をあげて
赤裸々なと報告、学債について一
席、学校経営の苦喪を披歴きる。と
同時に入学志願についての心構え 、
同窓会名簿苦心の編集など承って当
局の心痛も洞察。続いて鈴木先生の
講演﹁法歯学教室の開設は世界中何
れの固にも無く東歯大を以て鴨矢と
す﹂に感嘆する 。 スライドの説明に
好奇心もあり、食 い 入 る よ う に 拝
聴 、歯と犯罪の斯くも関連せるもの
かなと今夏の如く職賓の重過大なる
を覚ゆ。
愈々別席の大広間の懇親会だ。来
賓を中心にして母校の発展と鹿島先
生のと当選 祝 いと会員の健康を祈つ
コ
には出席者三十八名 、武藤
実支部長の挨拶につづいて
会務報告決算予算は誠にス
ムース。役員改選の件は現
状維持でそのまま次年度え
移行。その他の協議事項で
は ζのたぴ参議院議員立候
補の鹿島氏に対する同窓と
しての対策の協議に終始し
活発な意見の開陳があり。
こんとんとした現医療界と
しては是が非でも当選さす
べきが玉口々同窓の義務であ
り、 これに対する後援会費
として母校からの割あてな
今秋の近畿連合同窓会には近畿の
会員の皆様に全員参加していただき
たく、あらためて御連絡申上げま
〉
足 一を強力に推進するよう当院に働
きかける 。全員総力をあげて鹿島候
補の当選を期し、小異を捨てて ζの
際大同団結する乙とを誓い懇親の宴
に移る。鳥貞自慢の料理と料亭主人
の歓待による歌舞音曲に枕惚として
歓談。 七月下旬鹿島先生の当選、祝
賀を兼ねて臨時総会を小山地区に開
くことを約し陶然として散会。
(牟田健作記)
O臨時総会
七月十八日(日)香り高く味に誇
りを持つ小山恩 川 の 鮎 狩 の シ ー ズ
ン、青葉の城山から清慌を和らかに
渡り来る川風涼しき恩水涯で 、臨時
総会を聞く。母校愛に燃ゆる四十三
名の同窓会員は続々と定刻に参集。
来賓として母校より同窓会副会長大
井清先生、講師として﹁歯と犯罪﹂
の講演に法医学助教授鈴木和夫先生
を迎えいともなごやかに慶大に催さ
れた。
〉
す。
(出席者)支部長明楽佐一郎 、幹
事長伊東正朔、会計幹事河本実、明
楽光三郎、明楽浩、市川宗光、真砂
己義、坂本製松、前田秀夫、恩賀国
吾良、土阪良春、福本智、畑晃 、
〉
らぴ本会としての活動資、源
を合算して会長一人あて千
円の担出が万場一致可決決
定を見ました乙とも同窓な
らではの感を深くしまし
た。次で懇親会も定刻 。 乙
れもことの外和気いやが上
に倍加した ζともいつもの
〉
ごき
支部の
、
ー
ー
て乾杯。小山市の一流どころの美妓
のサービスもよし小山民謡の踊りも
あでやか。自慢の思川の若鮎に舌鼓
を打ち一同いとなごやかな歓談しば
し、本番の隠し芸 、のど自慢とス テ
ージ の 交 代 も い そ が し 。 有 益 な 講
演、一日の行楽気分心身の疲れも洗
い流され、同じ涜水に扶す同志の宴
はいつつきるともなく和気あいあい
裡に散会。
終りに 、新支部長より就任の挨拶
﹁今後一層の和親協力を希い 、微力
浅学非才なるもと支援によってと期
待に添うよう努力献身する﹂旨の乙
とばを追記する。(牟田健作記)
出席者(順不同)
椎只敏夫 、築瀬六朗 、篠原誠二 、栗
原正三 、栂石武則、天沼龍雄 、岡田
正倍、白井良夫、岡田治清 、岡田一
郎、神山登、松島左門 、宮島一郎 、
池上武正、黒崎博 、黒崎弘毅 、岡本
英
中
山 、菊地貞造、村上晋三 、村上栄
一、森下昭十三、牟田健作 、及川真
二、小滝鐙三男 、宮原昇吾 、栢瀬田自
世、落合雅雄、長井大 、石川越夫 、
石川融 、小川進 、複 本 滋 、 宮 川 保
範、石川正治 、伊沢八郎、三田保 、
大坪正住、柳田浩司、川崎幸次郎 、
平山浄二 、園田春男 、中江千万紀 、
小平正夫
V滋 賀 県 支 部
ロングランの梅雨を真夏の太陽が
カラリと打ち上げさせた七月二十五
日、山は青く 、水は清い湖北 の長、浜
市で地元同窓の御尽力により、料亭
﹁鮒留﹂で同窓会支部総会が開催さ
れた。
先ず藤原鎮総支部長制 より種 々報
、
一
一
支 部 の つ ごき
ω
告が行はれたが 、先に本支
部名誉会員に母校松宮教授
を推薦したが、今回更に本
県歯界の大長老で同窓の大
先譲住井亀太 郎 先 生 (明治
但年卒)を第二号名誉会員
に推薦することに決定、万
場一致で可決された。老い
て益々 盛んな 先生 の真執精
進の姿は吾々後輩へ の何物
にも代へ難い良、主教訓とな
るであろう。佐藤健司会計
(本県歯副会長岡)より健
全黒字財政の報告があり 、
つづいて、長 坂健一県歯政
連合長 より今般の参議院
選挙の報告があり、 あの暗
い近北地区ム lドの中で 、
会員一人当り得票率では全
国ベス トテンに入る健斗を
示した本県同 窓会の底 力を
改めて認識させられた。し
かもケチな学関根性をサラ
リと忘れて、 今後も歯科医
政のた めに一層 遜進せんと
公言される同氏の心意気 、
今回の奮迅の敢斗ぶりは爪
の垢でもせんじて飲ました
い人もあるので はな かろう
か。また 、本支部が誇る木
曜会(研究会)も 、今秋よ
りは抄読会を重点実施する
乙とになり老いも若きも勉
強にハッスルしていただく
ζとになり、その第一回を
担当される彦根地区では曽
我太開中晶治制金 子宏伺君
がその準備のため﹁花の生
涯
﹂ 城下に 奔走することに
なった。っ.ついて懇親会に入るや 、
平素よりおとなしい高井弘同君ゃ 、
公私共に多 忙 の藤居 正太郎帥佐藤守
伺君らをさしおいて、石田博之帥平
川光矢帥岡野徳一郎伺君等が平素刻
苦精励の自慢のノドを 、小唄 、長唄
などと称して披露万場の喝さいを浴
びたが 、彼等の同期生新をは今後当
秋田県仙北郡六郷町訪問記
新
今を去る 2
0年前の昭和 2
0年初頭,大東亜戦も末期的様相を
塁し,本土空襲は織烈化 し,母校屋上にも焼夷弾が落下する
等,東京は既に勉学に いそしむ土地ではなくなっていた。
同年 1月,入試の難関を突破した百数十名の入学式も乙の
状況下では遅延し,それぞれの郷里の工場等で兵器生産に勤
労奉仕をし乍ら待機していた。そこへ秋田に疎開する,入学
式は 5月中旬(?)とするとの指示がきたのである。初めて
耳にする 土地とて家内一同で地図を拡げ,想いを透か六郷へ
馳せたも のである 。
出発当日は晴天に恵まれ,父親と共に出発した。八百津の
田
Jをでて 10分後 K木炭パスは故障,一列車遅れて高山線古井
駅から乗車する。富山のホ ームに降りると,その屋根も駅舎
もそして街も前夜の爆撃で焼かれ,未T
ご余燈がくすぶってい
今日の六郷行きは,偶然にもライオンズクラフ・の会合が六
郷町で聞かれる ζ とになったので,実現する乙とができたの
である。
5月23日,秋田 に着いた当時松井隆弘教授のゲ ート ル論で
話題を提供した秋田魁新聞はこ の地で発行されているときく。
秋田で 1泊
, 2
0
年後の今 日父子揃って無事疎開先を訪問でき
ることを先づもってビ ールで乾杯, ささやかな前夜祭とする。
8時 3
4分秋田発, 1
0
時0
3分飯詰着。駅舎及び附近の民家は昔
日のままの面影を残しており,疎開学生逮が郷里から着くで
あろうフ トン,身の廻り 品を求めて,また帰郷の際切符入手
の為頻繁に通った当時を偲ばせ暫く感無量であった。 l台の
六郷行きパスのでた後の広場は閑散としており,盛んに慢影
してまわるわれわれを物珍らしそうに眺め,遂に は何の取材
ですかど聞かれる始末であ った。
飯誌からで愈々六郷町 t
乙入る 。先づチャータ {ナイ トの会
場に赴く。式場で秋田ライオンズクラプの荒巻広政先生にお
主主いできた。東歯先輩であり,疎開当時秋田県歯科医師会長
として御世話になったお方でもある 。
乙分宿し,
疎開学生は善応寺,永泉寺,大連寺及び信光寺l
善応寺に本部が設けら れ且つそ の 2
00畳敷の本堂が教室とな
っていた。
入学式は六郷町小学校の講堂を借りて校長代理の故安井学
官
分の問 、会合の度に悩まされる乙と
であろう予め御同情申しあげてお
く(許されよ﹀、芦刈輝雄制 、藤居
克二刷、森島英治制計 寸の三同期生
一
附
は傍の中島良三川開発生を刺戟せんと
企ててか終始 、新人 の青春を幅敬す
る話題に熱中 、支部今後の逗ましい
バイタリティを誇示するか のようで
あった 。斯 く してその強 い同結と 家
族的親睦を益々にかめ 、今後 の研讃
精進を誓い 、 またの合う日を約して
和気あいあいの内に散会した。
(まもる記)
V文京支部
O総 会 開 催
-i
4fM
r
z
-f
昭和三十九 年 度 同 窓 会 文 京 支
部部総会が五月 二十六日 (
木)本郷
J32
﹁かね乙﹂で行はわれた 。出席会員
向,
F
三十三名。
w s二 町
本年は役員改選の年であり、次の
、 日目
:
新役員が決定した 。
ハハリハ
支部長、中村正尾、副支部長蓮見
博、河 江力男 、幹事、坂井和雄、 -MOMV
佐竹貞 夫、今 関広信、秋山博
・v
一円台搭 A 八
の諸先生 方。
山
本席に は本部より田丸同窓会長、 一
大学より杉山新 学長 、山本教授、来 た b
vw 円
賓として元教授山内義雄先生の御出 , - A 必討仁
1
1- 山
山
席を得、一 同、新学長の下における 一
、 乙
大学の弥栄、同窓会 の 一層 の発展を
願い 、 極 め て感会に終 了し た。
斉藤(季)記
-
戦時学年疎開先
田
義
昌
〈いとし会会員〕
監によって行われた。答辞は岩・手の岩淵重きが読んだ筈である。
建物は当時のままであった。五十嵐校長自ら親しく御案内を
賜わった。 同校は昨年 1
1月2
2日創立 9
0
周年記念式典を行って
いる 。 その際発行された学校沿革概要に,われわれの入学式
挙行記録が洩れていたので,追加分をお願いしておいた。
善!ぷ寺教室で最初に受けた講義は ,関山 さんの補体結合主
0
年前の建物で改築もさし
応であ ったと記憶する 。善応寺は 2
ておら ず,また法上も健在で親類のものを迎へるかのように
歓待してくれた。 そして夜の更けるのも忘れて,昔話に花を
咲かせた。過ぎてみれば苦しい経験も楽しい思い出となる。
特に法上は榎本,斎藤,山本,関山諸先生の消息を懐しく質
問され,往時の模機をこと細かに記憶してくれてお り訪問し
た意義を一層盛りあげてくれた。本部のあ った部屋は 今向当
時を偲ぱせ,いかめしく 見えた のは不思議である 。戦後熱田
君が訪問したのに次いで私が 2番目の訪問者らしい。
さてわれわれが寝起きした永泉寺の樹木,建物も往時のま
まで,毎朝洗顔と洗口をした小川の涜れも永い年月の経過を
忘れたかのように静かな 日射しをうけてきらきら涜れていた。
深夜青森の空襲の際, 今は亡 き老師が「学生さん起きよ」と
激し く連打した慶長 6年製の太鼓は今もそのままの位置にお
0名乃至1
5名の学生が扇桃腺アンギーナ や
かれておる。 常時 1
栄養失調陸下痢等で病臥してお り,比較的健康なものでも立
ち上ると目まいがするものが殆んどで,配給米だけでは腹が
誠 って,空襲警報位では誰 も起きょうとするものがなか った。
X君等かなり威勢のいいグル ープがいたが,彼等は鼠の泣き
声をまね乍ら仏前のお供物を日暮れと共 K失敬していた連中
であ ったように記憶している。なお青森空襲といえば,山本
教授が北海道に渡り仕入れたビ ー ト大根の種子が青森港で灰
とな った乙とを知るも のは少ない ようである 。当時学生の食
糧確保のため六郷に借地して畑作をやる計画であったと法 上
から聞いた話である。腹が滅ると気も荒くなるうちはまだよ
いが,無気力となることも必然である 。多数の学生の食事の
やりくりをした教授連もさぞ心痛だったに違いなかろう。寺
本君が帰郷の際寺に置き忘れたハンガーは今向保管されてお
り,左甚五郎の智思院の忘れ傘ではないが,当時を 偲ばせ る
一つである。 (
1
1頁,中段へつづく〉
ル﹂において春期懇親会を聞いた。
昭和四十年六月二十三、四日房総
半島鴨川町松原海岸﹁グランドホテ
四時半集合という通知に一名の遅刻
集まるもの来賓を合せて四十名午後
たいと念願した次第である。テ ーブ
ル久ピ lチと女性のスカー トは短い
会員
五十嵐庭治 、 入 江 槌 赤 、 井 上 真 、
当日左記各位から金品の御寄贈を
古座谷 の重 症 に 対 し て は 弔 意 見 舞
夜大会を聞く、柏瀬 、
堺 、小川 三君
の死去に然稿。近くは岩鶴の計報、
くて残念でも南は山口の松田君夫 婦
北は北海道も北端か ら 荒 尾 勲君の特
す
。
江川三郎、上回貞三、小山田 喜久治
霧 の高原標高は 低 い 、 ど が 韓 度 の関
係か内地の高原の様だ。
記)
島 、稲川、鈴木貞、大 谷 、斎藤亮 、
荒尾 、谷は単独でした。
〆園、
者もなく遠くは姫路市から塩見寿二
君、埼玉県から中村久吉君、江川三
得意の十八番芸が鉱出し、 やが て
山 の幸 、海のギの御座放天ぷらの揚
小 野 富 太 郎 、 大 橋 忠 、 大多 和 彦 吾 、 をする事を決めた。残念ながら年に
は勝てず御互い一層健康には留意し
大村太子 二、大 塚 豊 美 、阿部常士口、
霞 泰 、栗原宗作、小林 儀 三 郎、佐 々 ようと談じ合う。来年は南九州と 決
木重ヱ門、佐瀬蔀、榊原勇吉、桜井 まる的場君頼む。
支筋湖へ着いたが濃 察で視界狭く
方がよいといわれるから誇々申し上 添うした滋に芳名を列記して深甚な 別参加が(この仁はご 存 知 ない方が
多い と思いますが一ヶ年間同クラ ス 残念、乙乙で千歳からの空路組 、さ
げませんと仲間ぴ大井副学長は酒脱な る謝意を表します。
東京歯科大学、東歯大同窓会、成 の九州男児)同勢男女合せ て四十 二 らに奥 地 へ 向 う 組 、 陸 路 内 地べ向う
口調をも って歓待を謝し、その返礼
として 福島先生と共に房総の海の釣 富治男氏、中久喜八十氏、小山近由 名、定刻貸切パスにて先づ市内見物 組と来年を約してさ らば さらば 。
、
松野 、斎藤両君の半ヶ年に亘る周
果を直ちに各位の食膳に添えてある 氏大村太子 二氏 、大塚豊 美氏 原田 に出発、ガイド 嬢の案内などうわの
進氏 、佐 瀬 蔀 氏 ( 三 輪 源 七 記 ) 空積る話で持ちきりであった。
到な準備の結果に依る大成功一同と
から賞味して欲しいと述べられた。
出席者(敬略称五十 音順)
松一野君の新居に立寄り冷いものを 共に深く感謝を申し 上げる 。
右終って愈開宴上田貞三君の音頭
頂き定山渓へ急ぐ 、ホ テルは七 階 に
参 加者は 五味 、藤 井 、赤祖父、中
来賓
によって一同乾杯してお互の健康を
杉山不 二、福島秀策、 大 井 清
宿泊。
島 、 平 山 、 長 沼 、 浜 野 、松 元 、 石 原
祝した 。
上原、梅原、松田、横田 、木村、大
金以上夫人同伴 、 沢 井 、 吉 川 、 大
に都塵を洗い緩談に時を移して定刻
郎君、阿部常土口君、宇都宮市祭 瀬 真
策君と馳せつけて 全
日
以到着 。 大 浴 場
る頃は座興も高調に達し一同の顔は
朗であった 。 時は移って大塚副会長
からわ れ等の東遊会は(現在会員数
六時ともなれば大方は光頭銀髪を燐
ぴかせてホテル自慢の漁師料理万祝
一
一
一 一
名)毎々末広りの盛大を迎え
ることは誠氏特異な存在で最後の二
谷
会
造りを飾った食卓に四人一組となっ
て着席、母 校から杉山、福島 、大 井
三先生のと臨席もあって気勢大いに
上る。
校新旧学長並びに大井副学長の御臨
幹事地挽鐙雄君の司会によってま
ず井上会長から開会 の挨拶に 加 え 母
席を謝し且福 品先生が学長御在任中
の功績を称え杉山学長 、大 井 副 学 長
に対しては多く の期待と希望を寄せ
始
君
庖は大繁盛。
入ると出るのも面倒 、 ホテル内の売
昨晩の続きで話に花が咲き尽きる所
を知らず 、ホテルが 広すぎて部屋に
文殊廷での前夜祭。浅野若の 肝煎 り
で、仲 々のもてなし。文字通り山海
ス会の特徴で 、そ の晩は天ノ 橋立 の
年令の 仲間だけれど 、少 くとも卒業
当時に若返った句調にな るのがクラ
の気持ちになる。 殆ど選歴をすぎた
と云はれ、ああそうか:・:・と云ふ様
な 始 末 。 話 し 出 せ ば 、 普通りの若者
うしてもわからない。僕はOOだよ
人になるまで滅びることなく愉快な 善 蔵、 鹿野清三郎、 塩 見寿二 、田口
翌日は中 山峠越え、パ ス路 の側 の
会を持ち続けたいと閉会 の挨拶を述 直 道、竹内末松 、地挽鐙 雄 、寺本定 山 あいに無造 作に 水芭蕉の群生を見
次 郎、 中村久吉、中鶴明一郎、西田 る、峠の茶屋に 出ると前方にエゾ 富
べた。
年 一回 は必ず 地 方 の級友を中心に
明けて二十四日 、 朝食の膳に着き 甚 て 原 田 進 、 真 栄 田 義 光 、 三 輪 源 士羊蹄山が見事小憩後山を 下 るとキ 総会を開催し 、今 年 は 舞 鶴の浅野誠
一献傾げながら恒例の自己紹介を行 七、宮下清、八杉和一 、 山口敬蔵、
モ別に近くアスパラ畑が左右に聞け 君のお骨折りで天ノ橋立から域崎へ
った中に異彩を放つのは西国甚一君 築 瀬 真 策、渡部重徳、 三浦敬二
る馬鈴墓畑も 混 って北海道らしい景 との事になった 。五 月二十一日正午
向、左 記八名の逝去会員に対し厳 観が続く。やが て洞爺湖に到着。
(千葉県姉ケ崎町は)歯科医師免許
天ノ橋立駅集合で東から西から 、北
状は棚上げして漁業組合長として活 粛に黙薦を捧げ御冥福を祈った。
湖畔に 下り東岸を廻る につ れて赤 から南から 、来るわ来るわ総計六十
井上幸次郎君、 関 口 竹広君、 三沢 褐色の山肌の昭和新山を眺め 、洞爺 三名(内夫人同伴二十二名)七十七
喜 久 雄 君、 市川鈎男君、 船坂伝士口君 湖ホテルで昼食をとりオロフレ峠を 才 の喜の寿を迎えて向、目安錫たる松
高 津 弐 君、中野明一郎君、 大 島 郁 勿 越え登別温泉ホテルに着く。夕食は 尾君をはじめ 、卒業後はじめてと云
ふ、実に品川七年ぶりの人もいる。ど
本歯研K Kの社長だが免状は尊重し
て八 重洲 口に国際歯科を開設してい
る。右をみても左を見ても崎町々たる
実力者揃 いである ζとは誠に心強い
東遊会は母校の施策には全面的に協 躍中であり他に原 田進君は一世印刷
力を惜しまぬも のであると述べ又会 K K社長、佐々木重一ヱ門若は 交詞社
員榊原勇士口氏が今回叙勲の栄誉を荷 社員、大塚登美君は御承知の通り日
いたるを称え、乙 の乙とは取りも直
さず東遊会の誇りである旨をつけ加
えた。これに対し杉山学長は起って
福島先生の後をついで 学長の重責を
更
会
引 き 受 け た が 、 引き 受 け た 以 上 は 全
力を尽してその責務を果したいと強
3
次第である。かくて和やかに朝食を
最終日は太平洋岸を真すぐ 北上、
終り閉会更に 、 附近の探勝や友人訪
本年は札幌の松野、小樽の斎藤両 今日は漸く北海道らしい 気温 、持っ
問に夫均一夜を分って帰路に着いた。
君のお世話で南北海道観光が決行さ て来たシャツ 、セー タ ーを着て 丁度
因に ζの会場の設営其他に千葉県 れました 。六 月 二十一日午前十時札 良い、途中はアイヌ部落を径て苫小
在住会員の方々、特に小椋義一
男君 、 幌駅前集合一年ぶり何十年ぶり等々 牧に入る 。 ご承知 の様に日 本一 の紙
佐瀬蔀 君 の 御 尽 力 に 深 謝 い た し ま で大にぎわい然し 今年は事故者が多 の町原木の置場が続く 、左 へ入って
会
遊
の原因ともなるから清新の気を入れ
成
東
調し 定敷各位の御支援を乞う旨 を 述
べ福島先生は今回の退任は全く健康
上の理由によるも ので 、沈 滞 は 腐 敗
壬
4
与
スコ
ヨZ だ よ り
フ
ク
フ
-
│昭
和
九
伍
年 会
駅のビヤホールで乾杯し、明日の健
が幹事を引受けてくれ安芸の宮島か
台)、
黒田正智君(千葉﹀、 長 谷川重作
君(埼玉)萩沼護郎君(茨城)等沢山
ありますが略させて頂き終りに地元
幹事としての浅野君に衷心より感謝
を致します。街来年は岡山の大月君
康を祈り、固い握手をかわし、各方
面への帰路についた。
その後左の諸君より楽しかった更
始会に来年も健康で是非参加する旨
の来信があった、松尾雅雄君(荻市)
佐々木高義君(秋田)、湯浅義人君(島
根)、三宅重吉君、梅津義男君(仙
に就寝。
の珍味に舌鼓をうち、愉快で愉快で
仲々寝られないのに 明日を思い無理
ら山陰地方への予定是非本年以上の
盛会を祈ってやまない。(千野記 )
味を満喫する事が出来た。途中河口
湖、山中湖を巡りもと来た甲州街道 らぬ得意の表芸が次ぎ次ぎと披露さ
を経て人草共に無事東京え帰着する れ て 八 時 過 ぎ 和 気 あ い あ い の 盛 会 な
ことが出来、先づは上々の首尾と云 うちに、次の三十五周年を約束して
閉会した。想十五日は朝食後現地で
ったところであった。
解散して、各自上京、同窓会の催し
出席会員左記の通り
穂 積 御 夫 妻 、 武 藤 、 池 田 、 藤 林 、 難 に合流した。なお、鹿鳴会々報三十
波、渋谷、飯島譲、永田、中川、田 周 年 記 念 号 を 十 一 月 頃 発 行 の 予 定
中 、 及 川 、 藤 本 、 水 橋 、 笠 原 、 竹 で、中村、木村の外遊記は本号に報
告される。当日の出席者(敬称略)
淵、薬師寺、増田、小山、石 井、新
宅、荒井、上川、樋口、大津
(大津記)
高橋茂、佐藤 、市之川
、 高橋(八)、
岩沼、松崎(剛)、北(正﹀、神戸夫
妻、山口(正)、清水(義)、恩 賀、 広田
(弘﹀、浅野、伴 、鈴木(義﹀、制浪 、
河村、土屋、市川(潔) 、望月、竹
村、平野、茂木、脇屋、山町、森
去 る 五 月 十 四 日 、 静 岡 県 熱 海 温 田、藤尾 、高木 (圭)、桑名、小野、
泉 、新道旅館において 、鹿鳴会は 三 岡本、阿保、笠井、松本(正 ) 、伊
丹、田 中(宏)、増田、大 沢 、木村
十周年記念祝賀会を開催しました。
(木村記)
折柄、東京歯科大学同窓会七十周年
記念の祝賀行事が行なわれ、当日は
ー 昭和十年卒 ー
会
他の斡旋にわざわざ同行してくれた
事等、浅野君の人徳と云ふか努力
に、一向感謝したものだった。向一
年間、待ちこがれたクラス会も京都
ら 五 時 す ぎ 目 的 地 え 全 車 安 着 す る ζ その前夜祭に当りましたが、地方か
橋立の﹁股望き﹂を実演。たしかに
とが出来た。級友中川君はと ζの土 らの会員を迎えて四十名の多数参加
立派な景色だとほめていた。それよ
地っ子で昭伍会で成功者の一人に数 を え た 。 神 戸 明 夫 妻 を は じ め 、 中
り汽車で城ノ崎温泉へと向い、三木
えられている。彼は石和町の名士で には卒業後はじめての四国の松崎剛
監ホテルに落ちつく。六時よりいよ
五 い人遠から 見ると年寄の冷水に もあり今度の旅行は万事中川君のお 君、長崎 の山口正義君、和歌山の恩
いよ更始会総会。開会に先だち、昨
年の南紀に於ける Fラス会には元気 み え る か も 知 れ な い が 、 我 々 昭 伍 力におんぶした様な格好になり一同 賀国王口由民君 、大 阪の広田弘君等の珍
な顔を見せてくれた、級友似鳥君の 会が初めてドライブによる 一泊旅行 心から感謝し、且恐縮した次第であ 客もいた。午後 二時頃全員集合、プ
死去された事に対し深甚の弔意を表 を挙〆什しに。出発前保険金がどうの る。一タ餐を共にし晶自にかえり大い ロ グ ラ ム に よ り 幹 事 長 挨 拶 、 次 い
ドライバー の運転技術の下馬評等窓 に呑んで駁いだ後とんとんとわき出 で、中村、木村の外遊報告がある予
し黙祷をささげた。
定であったが、中村保夫君が欠席の
万年幹事、塙、山本、清水三君に 口のいい合をしながら五月十五日正 る温泉で疲れをいやし寝についた。
よる会務報告の後は、飲む程に酔ふ 午本学前を一路の無事を念じながら 翌朝中 川君の案内で御坂峠えと向っ ため、三時から約 一時間半、私の独
程に、妻君同伴だった事等、すっか 出発。折か ら全国父通安全週間の行 た。峠は 丁度若葉のみどり、つつじ 演会になってしまった。中村君の豊
り忘れて、完全に品川七年前に若返っ われている甲州街道を山梨県石和町 の赤、山吹の黄色、満開の桜それに 富 な 土 産 話 を 伺 え な か っ た 乙 と は
へと向つ仁。ドラ イブを 楽しみなが
﹁富士の 自営一ことかの有名な大観の 期待して来られた会員諸兄には申訳
て踊り出す始末であった。
絵を見る様なすばらしい富士の景色 けなか った。乙の後は 祝賀宴会場に
それにもまして、浅野君の御尽力
で舞鶴からわざわざロ 1 タリアンの
で、峠のドライプウェイがカーブす 席 を 移 し て 、 改 め て 卒 業 後 の 三 十 年
御夫人方十名余の方が泊りがけで応
る毎に変化するそのおもひきの移り を お 互 い に 語 り 合 い 、 自 己 紹 介 を 兼
変りは誠に美しく、ドライブの醍醐 ね て 旧 懐 談 に 花 を 咲 か せ た 。 酷 い が
回って輿酎はともなれば、隠し芸な
援に来られ民謡数曲を踊られた事、
或は地元の駅長さんが、乗車、その
に
鳴
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翌日は絶好の天気。遊覧船にて成
相山の観音様に参拝。山上より天ノ
9
鹿
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ス
ク
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の十一名と 、 同 大 学 に 御 在 職 中 で
院大学歯学部に在学中の七星会二世
催された。乙のクラス会には愛知学
去る五月一一一十円名古屋の賀城園で開
愛知県在住の七星会のクラス会が
親子クラス会開催
七
会
昭和十一年卒
星
﹁親子二代﹂にわたり、教えられま
た現在教えられつつある恩師近藤三
郎先生をお招きした。写真の通り刺
子組が八組揃い共に飲み 、食い 、語
り合う等愉しい一タを、越した。一子﹂
j
十六会話兄お元京に谷地でそれぞ
れ心小彪としてと活躍のことと思い
昭 和 卜九年卒
た近勝先生の御意のノドを聞かせて
ます。
の隠し去に﹁親﹂が口をみはり、ま
頂く等お互に健在で本当によい二枇
をもったものだと八組の親子はもと
hバlrAH湾 草 ﹁
降、 泊
J 一でねむわ
より 、五 名 の 級 友 も 痛 感 し た 。 最 後 れたクラス会は 一
-十六名山席し 、 児
に近藤先生の音頭で﹁七星会と七星
玉有
ω司会で楽しく一タを過しまし
会二世﹂の万才が叫ばれ 、 さ ら に
上げます。
卒業以米母校で活躍されて ﹂られ
た、 川村八郎、鈴木鉱夫同教疫が伺
v
た。 そω折 、 木 村、 佐除問若から金
一封ωご寄附がありここにお礼申し
﹁近藤先生﹂の万才を三唱し来群ω
再会を約して散会した。
米年は我々も卒業三十川年を迎え
る乙ととなります。去る五バ十れ川
して筏ω片山一撃な研究生活を期待して
いたのですが残念です。 次のクラス
会 は い と し 会 に 多 角 C以力をいた ず
に
きました彼の慰労会ぞ兼ねて行ない
たいと思 っております。なお今年は
│月り u
校耐利以大会の則問小に開
'
f
ωc
(鈴木義政記)
催する予定ですりで多数の皆川開
参集をお待ちしています。
昭和二十五年卒 1
ω
ω
昨年山第 卜 h川ω総 会 は 飯 坂 瓶 泉
に長尾党中をお M
m
-きして出依し主し
時期は昭和四十一年五月第三日曜
十六会にとくに関係の深か った 高
津弐先生が先頃亡くなられました。
は開業され 、 鈴木君は抗手医大口 駅
病
別
化ω主任教師ーとして咲転されま
す。両討ω前 途 を 祈 り ま す。
六日(土)に行なう予定です。 次ωれ
尽力で宇奈月視泉景雲聞にて卜バ│
て本年は富山の内凶若(旧 山崎)
ω
つあります。︿
日を中心として一泊旅行を企阿しつ
なりました。
f
n迄に内助の功の多
(
三島記 )
心よりと冥福をお祈りいたします 。
会
一
昭和三十一年卒l-
川級生の今井治(東以女医大助教
授)はコロンポ計州の技術援助のた
め、 外務省よりの要請でイγドネシ
ャ、 ガチヤマハラ大学医学部口貯外
利客円以教授として 二年間の予定で 6
u
月 れ 白羽田を出発し赴任しました。
、 山の 上 ホテルでの壮行会には
泊
多数ωc山席 を い た に き 、 、さらに多
額ωお銭別をいたピき以くれ礼申し
古
川 引 ぷ)
上げます。明細については近くこ加
山 い た し ま す。
い米自以泣県在住行で C クラスタ食会
た。 東北地方的初 クラス会 ため
迫チ会飢で開催しまし
北町仰道ω村上君、弘前 の渡 辺 計 等 初 を 6バ ロ 日一
。
めてクラス九五に 山腐 す る ぷ 兄 も あ り た 予科時代の主任州教援をこ耕作
、
盛会でした 。 大同川村 U
始 め 術 品 山形両 し 山発前の今井討をはじめ 名川
山
は
、
県 在 住 の 諸 兄 に は 大 変 御 世 話 に な 席 し 相官竹ニュ ー フェイス 5名 の 特
り、誌上よりお礼申し上げます。 さ 別参加たどあり楽しく一タを過しま
した 。 (
岡川一ぷ)
かった奥さんを御同伴の上是非とも
は黒部の景観を一週する .
フランとり
ことです。 詳 細 は 追 ってと通知致し
参加されるよう今から御準備下さ
(写れ説明)第一列右より、浅岡 、
クラス会は十一月十同日 (け)に伊
香保でやる予定で 、 地元 の星野、田
ますがふる ってこ参加卜さい 。 日
以
近
のゴルフプ l ムに会員の諸兄にも色
部引、守谷 、 山 下ω阿ちに準備を進
級友 、 井 卜 県 議 ( 千 葉 県 ) り後 援
川 和 -一
十四年卒
藤先生、伊藤 、潜 水 、 藤 城 、 第 二 列
々腕自慢や道具自慢が多数いること
ルフ同好者のためにゴルフ大会を開
めてもらっております。怒川にはゴ
績を残し 、 三 月 末 け で 辺 職 さ れ ま し
た 。 級 友 と し て は 、 やがては教授と
報お願い致します。(大友記)
りません。こ存知の方は大友一巡と一
しております。
ります。詳細は正式決定後に直妓御
連絡申し上げ玄すが 、 ふる司て御山
乙うとその方の準備もお願いしてあ
h
加藤孝一 引
山
)
で参加希望の方は早急に大山若また
(幹事
席 下 さ る こ と を 幹 事 一同大いに期待
欠席でした。
馬、 加藤、 山 本 、 井 上 、 姫 野 ( 五 分C協か下3 い。 クラス会からと云 は大友へ申し込んで下さい 。 人 数 が
、長尾(三年﹀
うより時間利界から一人でも多く の代 集 り 次 第 計 附 し 各 自 に 連 絡 致 し ま
今)
釈と子が一列目と二列目に並んで 議土ω山 る こ と ぞ 期 待 す る こ と の 切 す。 大体第一回は九月中に行ないた
います。よく似ていませんか。制岡野 なるもりがあります 。
いと思います。最後に級友の治見初
森本助教授は多くり貴重な研究業 雄(現性片山)君の近況現住所が判
君、重久君、 長尾君は所用のために
第 三 列 右 よ り、 重久(五年)加賀 、 夫 足させる予定ですωでその節には何
右より浅岡(五年)、岡本(四年)、大
と思いますが 、 今 度 五 十 鈴 杯 を も う
岡本、大西、神田 、穂積(二年)、近
会
弓E
ついでこり'度予校を去られる ことに
なり、淋しく感じられ主す 。 川村世れ
会
期
和! 喜
の通り愛知県の会員で﹁卒業三十周
鈴
会
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東京におけるクラス会の席上で要望
十
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けコンベを行ないたいと思いますの
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年記念クラス会﹂を引受けることに
玉
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と
西(五年)、神田(三年)、穂積 、伊藤 会結成については 、昨 年ω総 会 で 決
(三年)、清水(二年)、藤城(一年﹀ 、 定しましたが政局の動きによ って発
い
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4合
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胤川、 東 京 歯
議は 、 同 窓 会
本学法人評
て、偉徳を讃え、
科 医 師 会 は 歯 科 医 師 会 葬 の 礼 をもっ
支部長などの要臓を燃任された。
資 性 温 厚 に し て 人 望 篤 く、 地 元 歯
長、 町 会 顧 問、 東 京 歯 科 大 学 同 窓 会
井
科医 師 会 代 議
川 二十 八 日 の 葬
員である同氏
窓 会 長、 け 本 歯 科 似 師 会、 地 元 区 会
幹 部 理 事、 そ の 他 多 数 の 会 葬 が あ っ
一
儀 当 日 は 、 福 仏 学一
長はじめ 、 田丸同
後
巾 の と 乙 ろ 、 木 年 二月 二十 一 日 h1
て盛大に葬儀を終えた。
なお 、 後 継 者 と し て 惇 保 博 士 ( 二
は 旧 臓刷 頭 部
に
o h川
男 ) 及 び 暢 夫 氏 ( 三 男、 東 歯 昭 三 十
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iの唐怪林,橋の向い側の水車小屋等やは
であった。橋の手 A
り,現場の日蔭には残雲が見られるといった奥羽山脈の一隅
(
記)
0名にすぎ
であり ,落伍するもの多く作業 K従事したもの約 1
なか司た。配給米だけでは無理からぬ話である。
温厚,誠実な人絡者として町民の信望を集めておら れた そう
なお疎開 l
こ当って終始御位話願った東歯先輩鷹噴先生は ,
のタ カ 子 様 で 他 に 嫁 し 、 お 孫 さ ん は
た 。 御 子 様 は 長 女 の ウ タ 子 様、 次 女
らかにしました。と苦労様でし
'
A の美事な団結と 、熱 意 を 天 下 に 明
今 同 の 参 議 院 選 挙 で は 、︿7禄 同 窓
昭二卒の広瀬清君は去る四月四日
ウ タ 子 様 に 一 人、 タ カ 子 様 に 二 人 計
三人との乙と。広瀬五郎様はタカ子
-戦 後 二 十 年 。 新 川世相より思い山の
島
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としては三十九孫円である。広瀬君
心 筋梗 塞 の た め 急 逝 し た 。 更 生 会 員
は卒業以来朝鮮の道立病院に永いこ
(
昭 十 三 )。抜歯に関する 著 書 も あ
配しておられる。どうしてこんなに
さると大変助かります。
誌の場合は 、下 回 字 分 を あ け て 下
ようお願いします。なお 、四 百 字
が 、 是 非 原 稿 用 紙 を 使 って 卜 さる
・寄 稿 が 多 く な っ て 辞 ん で い ま す
した。御了承下さい。
残念ながら割愛させていたどきま
記を戴きました。数葉の写真を添
え て あ り ま し た が 、紙 面 の 都 合 で
り、 実 行 型 の 稀 に み る 篤 学 の 人 で あ
あっけなく急逝したものか 、 学 生 時
代机を向うしていた友人であってみ
医院の処置(譲渡方)について 、 心
った。私は久しく会っていないの
ると 、一 入感慨の深いものがある。
には持比、寺ノ h
活の状i
兄が細かに記されていたとゅう。乙れを
読んてお4討の父坊は胸を打たれるものがあったのか,単身六
領期間ではあったが六郷時代は私の人生の 1コマに強烈な
い。水道的に復帰ー後, アッベで選らぬ人とな .
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の H記
合掌。喜びも悲しみも幾歳月 ,本年のいとし会 l
乙は当時 の先
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からの臨床に役立たせるのがネラ
3 て お き 、実 際 を 勉 強 し 、 そ の 日
イです。ふるってC参加下さい。
。学 校 就 職 係 か ら
只 今 学 校 に は 、 官 庁、 会 社、
込みがきています。住宅を与へ
診 療 所 等 か ら 約 五OOの 求 人 申
て週一一問 、 大 学 に 通 わ せ る と こ
タイムのと乙ろとか条件は種々
ろ、 週 一 川 午 後 三 時 間 の パ ー ト
係々です。
アルバ イト し た い 方、 勤 め を
変へたい方等就職については一
応学校の方にご 相談 下 さ い 。 ぁ
心た万のと希些に添えるよう努
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腫 揚 の た め、 順天堂病院に入院加療
惜しみても余りある人材である。同
三 時 三 十 分、 遂 に 逝 去 さ れ た
氏は、 日 本 歯 利 保 師 会 理 事、 東 歯 大
卒)がカを合せて開業を続けられて
お り、 四男泰右対も現在、東歯大一一一
年に在学中である。
り昔のままにそうである。宿舎から 山 まで 片道 2呈半の行程
(
雑)
様 の 御 主人 で 東 京 映 附 録 影 所 に 勤 め
てお ら れ るが 、 故 人 が 残 さ れ た 歯 科
と勤め 、 努 ら 京 城 大 学 歯 科 の 生 田 博
士 の 下 で 抜 歯 槽 の 研 究 を 行 い、論文
κ提 出 し て 学 位 を 獲 た
で、くわしい乙とは分らないが、終戦
そのうち必ず会えると思っていたの
を京都大学
の前に 引 上 げ 、 岐 阜 県 本 巣 郡北 方 町
印象を摘えつけたが.他の級友にも恐らくそうであったらし
力しています。
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一
同窓会副会長、東歯大父兄会長、東
京 府 歯 科 医 師 会代 議 員、 板 橋 区 歯 科
医師 会 長 、 練 馬 区 学 校 歯 科 医 会 会
長、 地 元 の 小 学 校 保 護 者 会 長 、 町 会
終戦が間 近に迫って乙とも 知 らず,冬ごもりの準備に入る
。
であるが,数年前悩溢血で突如fth,界された ζ とは惜しま れ る
-----・=------一=・=
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-事 業 部 の ご 日 講 習 会 ﹂は 、 ﹁日
隠セ ミナ ー﹂ と 改 名 し て 十 月 よ り
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非膜度 が薄く,前装歯に賞用されます。
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ジシジパノレ プ ラ ウ ン ・ ・
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歯髄保護 と同時に 永久合着裏装に好適
ライトイエロー・ .
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衛
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4つの色調で広範囲な用途
隆
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北 方 て 四 四 八 に歯科を開業した。
わしたいものである。
む
村
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:
n,寺の加護援に子息の名前を載せてくれと懇願,
郷の地を訪
J
松
北
だが 、 そ れ も 笠 し く な っ た 。 淘 に 浅
念、 惜しいことをした。
婦 の 手 伝 い で 歯科医 院 を 経 営 し て い
生方,善j
ぶ寺の i
t上 さん達を招待して心ゆくまで酒を汲みか
教
授
広 瀬清 君 を 悼 む
雄物川の交琉丸子川にかかる橋を越えてさらに奥に 山道 を辿
(
集)
市
)
1
鶴
男
氏
を
悼
数 年 前 奥 さ ん を 亡 く し、 そ の 後 家 政
1
1
よって命日にはお経を唱へているとの悲話を法上から聞いた。
j
:
J
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ネオ製薬工業株式会社
東京 ・渋谷
第 l歩として,黒森 1
1
1に蕗とりに 1
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1かけた乙とがある。 山は
(
縞I
i寄 :稿 :
現住所、住居番地│一
更、訂
中村鉄男
寺門乙
土口沢清忠
渡辺正之
岡田充弘
田山俊
寺門有
恩田稔彦
梶原福司
ー二三
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m兵庫県尼ケ崎市武庫
川町 二│四三厚生会
武庫川病院
加茨城県常陸太田市上
河合
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編集兼発行人渡辺富士
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