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パルミラ遺跡

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パルミラ遺跡
文 化 で読み解く当時の社会
パルミラ遺跡
解説
っしょに
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録
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だ
付 覧く
ご
人類の遺産パルミラ遺跡が破壊される
京都大学特定教授 泉 拓良
写真:富田義夫/アフロ
2015年5月,世界じゅうのマスメディアがいっ
砂漠の真ん中にあるオアシスがなぜこのように
せいに世界遺産シリア・パルミラ遺跡と町がISIL
繁栄したのかは,その時代的背景と地理的な位置
(イスラム国)に占拠されたと報じた。世界遺産
によって説明される。今から約2000年前の旧大陸
にかかわる大々的な報道は,2001年のタリバーン
を概観すると,中国では漢帝国,インド西北部に
によるアフガニスタン・バーミアーンの石仏爆破
はクシャーナ朝,西アジアにはパルティア王国,
事件以来であった。
地中海にはローマ帝国があって,陸海の交通路に
ISILに利用され,世界じゅうが注目したパルミラ
よって結ばれ交流していた。この交易路のメソポ
遺跡とはどんな遺跡なのか。1980年に世界遺産に
タミアと地中海を結ぶルートの難所,シリア砂漠
登録された,その基準が手がかりとなる。登録の
の真ん中にあったのがパルミラのオアシスであっ
際の主たる基準は,
「人類の創造的才能を表現する
た。東西を結ぶ隊商都市として栄えた証拠として,
傑作であること」であった。UNESCOによれば,
中国製の絹織物が発掘されたことは有名である。
壮麗なパルミラ遺跡は,ローマ支配下
(1~3世紀)
上の写真はパルミラのほぼ中央,列柱道路の南
のオアシス隊商都市として,最も美しい都市であり,
にあるローマ式の野外劇場である。正面には王宮
その列柱道路は芸術的発展を示しているとする。
風の円柱で装飾された出入り口があり,その前に
パルミラ(古代名タドモル)は,紀元前2000年
劇を演じる舞台,下には半円形の演奏席が配され
紀からメソポタミアやトルコの遺跡で出土した碑
ている。観客席は13段11列あり,1500人以上が入
文にその名が登場する。その当時から砂漠のオア
場可能だっただろう。野外劇場に接して元老院議
シス都市であったのだろう。紀元前3~1世紀に
事堂跡があり,さらに南側に方形のアゴラ(広場な
なると,文献だけでなくベル神殿と周辺の町なみ
いし取引所)がある。その内側に設けられた柱廊の
が発掘で確認できる。紀元1世紀には下の写真に
柱には,隊商引率者や元老院議員の彫像がかざら
あるベル神殿をはじめとする重要な建物が建設さ
れ碑文が刻まれていた。この地域こそパルミラの
れるが,最近まで見ることのできた壮麗な隊商都
中心街であった。
市は,紀元3世紀に完成した姿である。
ベル神殿(北東から):破壊され現存せず(筆者撮影)
パルミラは,紀元1世紀にはローマ帝国シリア
属州に服属したと思われるが,ハドリアヌス帝の
パルミラ訪問を経て,自治市になり,ローマ帝国
下での平和と繁栄を享受した。
ISILは,野外劇場をその象徴する役割を利用し
て公開処刑場とし,処刑のようすを動画で公開し
た。さらに,当時の東方社会で最も重要な宗教施
設であった西アジア式のベル神殿(左の写真)や,
高い芸術性を評価された列柱道路の記念門を次々
と爆破した。人類の創造的才能を表現する傑作で
あるこれらの遺構が破壊されることは,人類に
とって大きな損失である。
12│世界史のしおり 2016①
授業
活用例
パルミラの繁栄は「ローマの平和」とともに
─“シリア砂漠の真珠”パルミラの栄光と挫折─
世界史学習の醍醐味の一つは,
「世紀の世界」
元福岡県立東筑高校 今林常美
んでつくった貫頭衣断片のカラー写真─を示し,
を1枚の歴史地図のもとに大きく展望できること
これらが配布した遺跡図に記された“墓の谷”の有
にある。その試みを2世紀を例に行ってみたい。
力者の地下墓や塔墓から,遺体を包む布として出
そこで今回取りあげるパルミラが最も栄えた2世
土したことを紹介し,その歴史的意義を考えさせ
紀の地図(
『明解世界史図説エスカリエ 八訂版』
る。このあと,貝紫染の糸や布はフェニキア人以来
p.8〜9)を生徒に開かせ,西のローマ帝国と東
の地中海東岸の特産物であり,当然漢代の絹織物
の後漢,その間に存在するインドのクシャーナ朝
は中国からなんらかの交易ルートで運ばれてきた
やイランのパルティア王国などを確認することで
ものであることを指摘する。織物などの出土物は
授業を開始する。さらに長安から出発してローマ
ときに歴史を熱く語ってくれるものである。
にいたるまでの各種交易ルートをたどり,パルミ
メソポタミアと地中海を結ぶ最短ルートに位置
ラというオアシス都市を図中から探し出すように
し,ローマとパルティアとの緩衝地帯としての有
指示する。
このあと,
今回の野外劇場の写真を見せ
利さをうまく活用しながら,補助部隊も出して
て,なぜこのような施設がパルミラにあったのか,
ローマに協力することで交易の利益を拡大してき
その理由を地理的位置も配慮して考えさせる。こ
たパルミラにとって,大きな転機となったのが
の都市がローマ支配下のオアシス隊商都市であっ
224年のササン朝ペルシアの登場とローマにおけ
たことに生徒が気づけば,
「ISIL」による破壊前
る軍人皇帝時代の到来であった。生徒にはローマ
のパルミラ遺跡図を配布して,まず野外劇場を,
史授業で使った,あのササン朝の岩壁レリーフ写
さらに西の列柱道路,東の記念門やベル神殿を確
真をここで呈示したい。馬上の皇帝がシャープー
認し,これらの建造物が古代ユーラシア内陸交易
ル1世であることを口にするだけで,このレリー
ネットワークの結節点としてにぎわったパルミラ
フがかの有名な「エデッサの戦い」を描いたもの
の繁栄の軌跡であることを説明する。同時に野外
であることを即答してくれるだろう。ローマに
劇場近くの取引所跡から1881年に発見された2世
とって260年の“エデッサ・ショック”は大きかっ
紀の関税法碑文を紹介し,パルミラが交易品にか
た。皇帝ウァレリアヌスが捕虜になったという知
けた関税収入によってうるおい,キャラバンの宿
らせは,ローマ帝国にかかわるすべての勢力にさ
泊や飲食はすべて無料のまさに隊商都市であった,
まざまな影響を及ぼし,これをチャンスとばかり
と伝えられていることを強調しておきたい。
に皇帝に名乗りを上げる者も少なくなかった。そ
パルミラに世界史授業でアプローチするには次
のようななかで,敢然と傭兵軍をひきいてシャー
の二つの方法が考えられる。一つはローマ帝国と
プール1世のペルシア軍に立ち向かっていったの
後漢という当時の二大国をユーラシアの両端にお
がパルミラの指導者で「東方司令官」となったオ
いて展開された東西交渉史の視点からその繁栄を
ダイナトゥスである。267年,彼と長男が暗殺さ
あぶり出すという方法であり,もう一つはあくま
れるというパルミラの危機を迅速に収拾し,自分
でローマ帝国史の文脈のなかでパルミラの歴史を
の連れ子を夫の後継者にして実権をにぎったのが
とらえていこうという方法である。とくに後者に
オダイナトゥスの2度目の妻で有力部族長の娘で
ついては,
「3世紀の危機」
を迎えた軍人皇帝時代
あったゼノビアである。彼女はパルミラの独立め
のパルミラの動きに,この都市の地理的・歴史的・
ざして,エジプトや小アジアにも軍を進め,軍事
文化的特性が表れているとして研究者の関心を集
支配を行ったが,272年にローマ皇帝アウレリア
めている。
まずは前者の視点から,
生徒に2枚の拡
ヌスに敗れ,ローマに連行されたと伝えられてい
大した織物写真─1枚は漢代の中国製絹織物,も
る。翌年,パルミラもその反乱鎮圧を理由にロー
う1枚は麻地に貝紫染の羊毛糸を花弁様に織り込
マ軍に破壊された。
世界史のしおり 2016①│13
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