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日 蘇比較経済史の一考察
285 日 蘇 比 較 経 済 史 の0考 ア ン ダ ー ソ ン ・ コ1ノ ヅ ジ の 同 級 生,ダ 察 イ ア ー と山 尾 庸 三 AViewontheComparativeSocio-EconomicHistorybetween ScotlandandJapan antheclass-matesofAndersonCollege,H.DyerandY.Yamao 北 政 巳 MasamiKita 工 は じめ に 1グ 皿 Nダ ラス ゴ ウ大 学 イ ア ー と 山尾 庸 三 V結 び 「ア ソ ダ ー ソ ン 大 学 」 商 人,ま 1.は じ め に イ ギ リ ス は 産 業 革 命 の 「古 典 」 例 を 世 界 に 実 証 し た.そ の 産 業 革 命 の 原 動 力 た る 「動 力 革 命 」 は ワ ッ ト(J.Watt)発 の 普 及 で あ り,ま 明 の蒸 気 機 関 た ス ミス(A.Smith)の r国 富 論 』(TheWealthofNations)の に 大 英 帝 国 「第 二 の 都 市 」(Sec- ondCity)と 呼 ば れ,ヴ 徴 した ィク ト リア 時 代 を 象 「産 業 の 都 」 グ ラ ス ゴ ウ に 関 連 す る 人 々 が 多 か っ た こ とに 驚 くば か り で あ る2),そ れ ら を 代 弁 す る 人 物 に グ ラ ス ゴ ウ大 学 卒 業, 25歳 の 若 さ で 来 日 し た 工 部 大 学 校 都 倹(pri一 思想 ギ リス は 「七 っ の 海 」 に 君 こ の ス ミス と ワ ッ トの 関 係 は,前 「道 徳 哲 学 」 教 授,後 ッ ト と グ ラ ス ゴ ウ 大 学 の 関 係 に つ い て は, C.Williamson,McYnoyialsoftheLineage, EarlyLife,EducationandDevelopmentof 臨 す る 大 帝 国 を 創 りあ げ る に 至 っ た. ス ゴ ウ大 学 コッ ト ラ ン ド人,殊 1)ワ に も 支 え ら れ,イ た 「お 雇 い 外 国 人 」 に も,ス theGeniusofJaynesWatt.Constable.Edi- 者がグラ 者が 同大学 数 学 器 具 製 作 の 「職 人 」 で あ り,「階 級 」を 越 nburgh1856,J.P.Muirhead.TheOrigin andProgressoftheMecdZanicalInventions ofJaynesWatt.3vols.,JohnMurray.London1854の 他,RobertoC.Howie,"James WattandGlasgowUniverstiy"inA.Kent え た 協 業 で あ り,産 業 革 命 の 開 始 を 「象 徴 」 し て い た と も い え よ う1).そ の 後,数 多 くの ス コ ッ ト ラ ン ド人 が イ ン グ ラ ン ドに も 南 下 し ed.,AnEighteenthCenturyLecticreshipin Cheanistry.BssaysandBicentenaryAddressesrelatingtotheChemistryDepartmentof GlasgowUnivexstiy.Jackson.Son&Company.Glasgow.LXXXIIpp133-139.ま 「イ ギ リス 産 業 革 命 」 を 遂 行 し,ま ヅ パ 大 陸,ア 移 民,出 メ リ カ,ア 稼 ぎ に 出 立 し,各 ジ ア,ア たヨーロ フ リカ へ も 国 ・各 地 の 「工 業 化 」 に も 貢 献 す る こ と に な る. 事 実,幕 末 ・明 治 維 新 に 我 国 に や っ て き た た 同 書 に 収 録 され て い る グ ラス ゴウ大 学 化 学 講 座 の 教 授 陣 の 経 歴 を み れ ぽ,ア ン ダ ー ソ ン ・ コ レ ッ ジ, エ デ ィ ソ バ ラ 大 学,ユ ニバ ー シテ ィ ・コ レッ ジ (ロ ン ド ン)等 2)拙 稿 の 関 係 が 良 く 分 る. 「日 蘇 比 較 経 済 史 一 明 治 維 新 と ス コ ッ ト ラ ソ ド人 一 」(r創 大10周 年10月 発 刊)を 年 記 念 論 集 』 所 収.1980 参 照 さ れ た い. 創 価 経 済 論 集 :. ncipal)と な っ た ヘ ン リ ー ・ダ ィ ァ(H.Dy- er,1848∼1918年)が Vol.XNo.2: み た い5). い る3>. また 我 国 青 年 の 中 に も極 東 に 張 り め ぐ ら 皿.グ ラス ゴ ウ大学 さ れ て い た ス コ ヅ ト ラ ン ド人 コ ネ ク シ ョ ン (Scottishconnection)を ラ ン ド,グ 経 由 して ス コ ッ ト ラ ス ゴ ウ に 一 早 く到 来 し た 人 物 が い た.そ れ が 山 尾 庸 三 で あ る.伊 野 村,遠 藤 ら と共 に 密 出 国 し て1863年 ギ リス へ 到 着,前 藤,井 上, 秋にイ 二 者 が 「下 関 戦 争 」 の 危 機 を 知 っ て 帰 国 し た 後,後 二 者 達 と共 に 「新 日 ス コ ヅ ト ラ ソ ドの 科 学 技 術 史 を19世 紀 の 前 半 か ら辿 る と,先 nant)が ず テ ナ ン ト(CharlesTen- 当 時 で は 世 界 最 大 の化 学 工 場 を グ ラ ス ゴ ウ の セ ン ト ・ ロ ロ ヅ ク ス(St.Rollox) に 設 立 し た.ま た マ ッ キ ン ト ッ シ ュ(Cha- rlesMacintosh)は,染 料 ・防 水 技 術 を 改 良 本 」 の 「建 設 者 」 を 夢 み っ っ イ ギ リ ス で の 技 し た ・ さ ら に ヤ ン グ(∫amesYoung)が 術 修 得 に 励 ん だ.山 石 油 尾 は1866年 の秋 頃 に ロ ン 工 業 の パ イオ ニ ア と して 登 場 した 輝 や か しい ドン か ら グ ラ ス ゴ ウ に 移 り,明 治 維 新 の成 功 歴 史 が あ る6). を 聞 い て 帰 国 す る ま で の 間,グ 活 し,見 ラ ス ゴ ウで生 聞 を 広 め た. 山 尾 は 新 日 本 の 工 業 化 を 推 進 す る た め,グ ラス ゴ ウ の ア ン ダ ー ソ ン ・コ レ ッジ で の 体 験 を も と に 工 学 寮(の 作 成 し た.そ ち の 工 部 大 学 校)草 し て1872年 案を 秋盟 友伊藤博 文工 部 大 臣 が 岩 倉 具 視 使 節 副 使 と し て 洋 行,グ ラス ゴ ウ に て ダ イ ア ー 以 下 の 教 授 を 採 用 し た .そ の ダ イ ア ー が1873年6月,我 国 に 到 来 し 自身 機 械 工 業 で は カ ー コ ー ル デ ィ(Kirkaldy) 生 れ の ク ッ ク(JamesCook)が,ワ ッ ト蒸 気 機 関 特 許 の 失 効 を 待 っ て,蒸 気 機 関 を西 イ ン ド輸 出 用 に 製 造 し た.彼 も 関 与 し た 他,ネ は また 綿 工 場 設 立 に ィ ピ ア造 船 所 の海 事 機 関 も Blackie&Son.1904pp2-3 5)J.Muir,JohnAnderson,PioneerofTechnicalEducationandtheCollegehefounded. JohnSmith&Son.Glasgow1950.A.H. Sexton,TheFiYStTechnicalCollege,asketch oftheHistoryof"theAndersonian"and の 草 案 を 提 出 し た 時,受 理 し た 山 尾 に 会 い, 奇 遇 に も ア ン ダ ー ソ ン ・コ レ ッ ジ の 夜 学 の 級 theInstitutionsdescendedfromit.17961894,Chapman&Hall,London1894.が 考 に な る.な 友 と分 り驚 い た エ ピ ソ ー ドを 生 ん だ4). こ の 両 者 の 紐 は,私 の 主 張 す る 日蘇 比 較 経 済 史 研 究 の 一 っ の 象 徴 で も あ る,そ こで 本 稿 (Strathclyde.ア ラス ゴ ウで の 両者 の 生 活 時 代 を ア ン ダ ー ソ ン ・コ レ ヅ ジ の 沿 革 を 中 心 に 展 開 し て トラ ス ト ク ラ イ ド ン ダ ー ソ ソ ・コ レ ッ ジ を 合 併 し て 設 立 さ れ た グ ラ ス ゴ ウ 市 の)大 学 の資 料 室 な ら び に 同 大 学 名 誉 教 授(S.G.E.Lythe)に 大 変 お 世 話 に な っ た. 6)チ で は,グ 参 お 本 研 究 に は ス ャ ー ル ズ の 父 ジ ョ ウ ジ(GeorgeMacin- tosh)は,防 水 雨 ガ ッ パ の 創 作 で 有 名 で あ る. こ れ ら 化 学 工 業 の 創 始 者 に つ い て は,Alexan・ derFleck,TheIndustrialDevelopmentof ScotlandintheCullen-BlackperiodinA. 3)ヘ は,拙 ン リー ・ダ イ ア ー の 著 作 ・思 想 に つ い て 稿 「日蘇 比 較 経 済 史.一 ア ー 研 究1,II」(r創 同4号 所 収)の 他,同 ヘ ソ リ ー ・ダ イ 価 経 済 論 集 』9巻2号s 「ヘ ン リ ー ・ ダ イ ア ー と Kent,opcif.,pp.107-123;H.Hamilton,The .lndustrial.RevoluitoninScotland,Oxford UnivPress1932pp103-05:J.U.Nef.The RiseoftheBritishCoalIndustry.Routledge 日本 一 彼 の 日本 観 を 中 心 と し て 一 」(『 創 大 ア ジ London1932vol1,pp19-23に ア 研 究 』 創 刊 号,1980年 ヤ ソ グ に つ い て は,拙 所 収)を 4)H.Dyer,DAINIPPON,TheBritainof theEast,AStudyinNationalEvolution. 参 照 され た い 関 す る 一 考 察 」(r創 20(88頁)参 詳 し い.な 稿 価 経 済 論 集 』6巻4号)注 照 さ れ た い. お 「イ ギ リ ス 北 海 油 田 に March1981北 政巳 製 造 し た.そ 日蘇 比較 経 済 史 の 一 考 察 し て 彼 の 工 場 は,グ ジ か ら 分 岐 し た か た ち で グ ラ ス ゴ ウ商 業 短 大 ラス ゴ ウ の 工 業 技 術 伝 播 セ ン タ ー とな っ た. (GlasgowCommercialCollege)が ネ ィ ピ ア 造 船 所 の 創 始 者(DavidNapier) は,技 ド(Lancefield)工 っ た.ロ き は,イ (Govan)造 ム,マ ラ ソ ス フ ィー ル 船 業 に 専 念 して ゴバ ン 船 所 を1840年 に 作 り,以 論,同 じ よ うな動 ン グ ラ ソ ドの 工 業 中 心 地 バ ー ミ ソ ガ ン チ ェ ス タ ー に も 波 及 し た.し の 規 模 と設 備 ・内 容 か ら み て,グ 場 を 譲 っ て ロ ン ドソ に 下 パ ー トは,造 生 れ, 商 業 教 育 を 普 及 さ せ た.勿 術 者 で あ っ て も企 業 者 的 才 能 に 欠 け, 従 兄 弟(RobertNapier)に 28ブ 降70年 か しそ ラス ゴ ウの 工 業 教 育 が 遙 か に 凌 い で い た. そ れ を 象 徴 し た の が1840年 の グ ラ ス ゴ ウ大 代 の 後 半 ま で 「ク ラ イ ド造 船 工 業 の 父 」(Fa- 学 土 木 ・機 械 工 学 科(Civi1Engineering therofClydeShipbuilding)と andMechanics)講 同時 代 人 か 座 の 開 設 で あ る9),そ の 年 ヴ ィ ク ト リア女 王 は青 年 技 術 教 育 の 必 要 性 ら 讃 え ら れ た7). 若 き 機 械 工 が 従 弟 修 業 の か た わ ら通 う夜 学 に 二 種 あ っ た.一 方 は ア ン ダ ー ソ ン ・コ レ ッ と公 共 へ の 有 用 性 を 考 慮 し て,土 木 ・機 械 工 学 講 座 を グ ラ ス ゴ ウ大 学 に 欽 定 し,ゴ ウ ドソ ジ の1800年 に 開 始 さ れ た 技 能 学 習 学 級 と,他 (LewisD.B.Gordon)を 方 は1823年 に 設 置 さ れ た よ り実 用 的 な 機 械 工 勿 論 大 学 内部 に お い て もそ の 科 目が 大 学 教 育 -協会(Mechanics'Institution ,ロ 一 年 先 駆 す る 世 界 最 初 の 組 織)の ソ ドソ に 夜 学 で あ 教 授 に 任 命 し た. に ふ さ わ し く な い とす る 保 守 的 見 解 も強 か っ た が,未 だ 首 相 に は な って い な か っ た が ピ ー 頃 に は充 分 に 整 備 さ ル 卿(sir.RobertPee1)の れ,「 産 業 の 都 」の 技 術 教 育 セ ソ タ ー に 成 長 し ッ ト百 年 祭(1836年)直 た8).ま に 女 王 の 申 し 出 を 受 諾 さ せ,同 っ た.双 方 と も1840年 た1845年 に は ア ン ダ ー ソ ン ・コ レ ッ 示 唆 に よ り,ワ 後 の グ ラ ス ゴ ウ大 学 講 座が設置 さ れ た10). 7)ネ ィ ピ ア(7.R.Napier)の 生 涯 に つ い て は, 息 子(JamesNapier)のi綴 当 時 ゴ ウ ドソ 教 授 は 若 冠25歳 の土木 技師 で っ たLifeofRo- BertNapier,WilliamBlackwood8LSons. Edinburgh&LondonMCMIV.に そ の 中 で ソ(ケ 詳 し い. ル ビ ン 卿 の 父)数 … … ま た ラ ンキ ン教授 199)と co窺"② 翻oプ 「ネ ィ ピ ア は グ ラ ス ゴ ウ 大 学 の ト ム ソ あ る.ラ 学 教 授 の クラ ス に 学 び とは 親 友 で あ ンキ ンが プ ロペ ラ の 「速 度 」に つ い て 研 究 し,そ っ た 」(p. 「型 」 と の 実 験 デ ー タを ネ ィ ピ ア 造 船 所 で 採 用 し た.H.B.Sutherland. α彪theガ 伽Century,ofTI2eUn- iversityofGlasgow,TheUniversityGlasgow.1951.p.22に 9)グ ing)講 詳 し い, ラ ス ゴ ウ 大 学 土 木 工 学(CivilEngineer座 に つ い て は,C.A.Oakley.History ofaFaculty,EngineerillgatGlasgowUniv 1973が 大 変 参 考 に な る。 な お ロ ン ドソの ユ ニパ Rankine,HisLifeandTimes,Rankine ー シ テ ィ ・ コ レ ッ ジ に は 同 講 座 は1850年 CentenaryLecture,TheInstitutionofCivil され ア ソ ダー ソ ソ ・コ レ ヅジか ら移 った ケ ネ デ Engineers,London1972.p.9 8)当 ィ(A.B.W・Kennedy)が 時 の ア ン ダ ー ソ ン ・コ Street,機 レ 械 工 協 会 も 隣 接 し て い た.そ 者 はJohnStreet(1877年),後 (1861年)に 移 っ た.し 10)こ ッ ジ はGeorge の後 前 教 授 に 就 任 し た. れ は グ ラ ス ゴ ウ 大 学 に と っ て9番 講 座 で 当 時 で は 最 高 額 の 年 額 当 さ れ る こ と に な っ た.大 者 はBathStreet か し 双 方 と も 駅 近 く £275が 法 律 家 マ レ イ(D.Murray)の1喰"40ゴ 経 過 に つ い て は.J.Coutt,.AHistoryof Hamilton,TheFive-HundredYearBookto ァsof 大 学 に 配 の金 は 土 木 工 学 講 座 よ り も も っ と有 為 な 他 の 方 途 に kley.Ihid.,p,5ま 他,1.R。 目の欽 定 学 当 局 で は,そ の 中 心 街 で 徒 歩 数 分 の と こ ろ に あ っ た.ア ン ダ ー ソン ・コ レ ッジ につ い て 著 名 な グ ラス ゴ ウ の theOldCollegeofGlasgow1927の に 設 置 使 わ れ る べ き で あ る と 考}て た,こ い た.C.A.Oakの 間 の大 学 内 の 討 議 GlasgowUniversity.1451-1901.J.Maclehose &Sons.Glasgow1901pp.440-450に 詳 し い. 創 価 経 済 論 集 .. あ っ た.彼 は エ デ ィ ン バ ラ 大 学 に 学 び,そ の が あ り,ま 助 手 をっ と ーもあ り 後 一 時 ブ ラ ン ネ ル(1.Brunel)の め,Rン ド ン の 鉱 山 学 校(SchoolofMines) に 学 ん だ 後11),グ Hill,Junior)と Vol.XNo.2' た 大 学 内 部 の 保 守 派 の プ レ ッシ ャ ,早 くか ら辞 意 を 表 明 し て い た.し か し 彼 の6年 ラ ス ゴ ウ に 戻 り,ヒ ル(L. 後(1846年)に 物 理学 教授 にな っ た トム ソ ン(SirWilliamThomson,の 土 木 工 事 会 社 を 始 め て い た. のLordKelvin)に 励 ま さ れ,ま ち、 た助手 の ラ し か し教 授 に 任 命 さ れ た 時 も ク ラ イ ドサ イ ド ン キ ソ(WilliamJ.M.Rankine)に 助け ら 地 域 界 隈 で 未 だ 名 声 を博 す に は 至 っ て い なか れて は他 の っ た.ま 同 僚 リデ ル(CharlesLiddell)と た ゴ ウ ドン と ヒル は鉄 道 ブ ー ム期 の 「土 木 工 学 」 確 立 に 励 ん だ14).彼 組 ん で,イ グ ラ ス ゴ ウ諸 施 設 を 作 り12),ま た 水 源 を 調 査 ン グ ラ ソ ドの い くっ か の 鉄 道 工 事 ,鉄 し カ ト リ ヌ 湖(LochKatrine)か も 手 が け た.ま た 「鉄 ロ ー プ 」 の 考 案 者 と し て も 著 名 で,そ の 論 文 はIz2stituteofCiviZ ら グ ラス ゴ ウ に 水 道 を 引 く こ と を 提 案 し た13>. ゴ ウ ド ン 教 授 は15年 間 在 職 し た が ,受 生 数 は 未 だ 少 な く,彼 11)こ 講学 自 身 も ビジ ネ ス に 関 心 の 鉱 山 学 校 は,1851年 に再 編 さ れ て 王 立 鉱 山 学 校(RoyalSchoolofMines)と な る.私 engineersに 橋工 事 発 表 さ れ て い る. ラ ン キ ン は 数 物 理 学 者(Mathematical physicist)で,ゴ で あ り,大 ウ ドソ よ りも ア カ デ ミ ッ ク 学 内 部 で も ケル ビ ソ卿 に つ い て 保 が 調 べ た とこ ろ で は こ の学 校 か ら は 明 治 初期 の 守 派 を 論 破 し て お 雇 い 外 国 人R・W.ATKINSON(1867-8在 学),W.GOWLAND(1868-70)E.F.MON. DY(1868-71),E.DIVERS(185ユ ー53) た 他 方 で は べ ァ ー ド(W.Baird),、 ,E.D- ILLON(1868-72),J.MILNE(1871-72)等 我 国 へ や っ て く る.地g麟 が θ70ん45so`毎 ≠65碗4 01dStudentsofthe:RoyalCollegeofC'hemistyv,ScienceandSchoolofMines ,HAZ・ な っ て い る .資 ダン ロ ッ ィ ク ソ ン(W .Dixon), ホ ウ ル ズ ワ ー ス(H。Houldsworth)等 の 鉄 工 に は 彼 ら と共 に InstituteofEngineers(andShipbuilders) 在 はImperialCollegeofTech- nology,Londonと プ(H・DunloP),デ 業 者 と も 親 密 で あ り,1857年 ELL,Watson&Viney.Gree&LaneMDCCCXCVI.現 「科 学 」 の 立 場 を 高 め た.ま 料 の閲覧 の inScotlandを 設 立,自 つ か ら 初 代 会 長 とな 際 に は 同 大 資 料 室 の ピ ン グ リ ィ(Pingree)女 っ た.ラ 史 に お 世 話 に な っ た. 12)ス コ ッ トラ ン ドの 鉄 道 ブ ー ム に つ い て は 拙 稿 「19世 紀 ス コ ッ トラ ン ドの 製 鉄 ・鉄 道 企 業 の 一一 研 究 」(『大 阪 大 経 済 学 』20巻2号)9-19頁 照 さ れ た い.ラ ソ キ ソ は1848年 を つ と め,1855年 参 頃 か らそ の 助 手 頃 か ら彼 が ゴ ウ ド ン の 授 業 を 代 行 す る.Sir.J.B,Henderson,1施oσz`07% 五∼ απんガ 多zθ,ノ1η0多rα ♂ガo刃.Jackson ,、Vylieand Co.Glasgowユ932p,8 13)実 1e)で ン キ ン は,ア と 博 ン ド ン ・ユ ニ バ ー シ テ ィ ・ コ レ ッ ジ 化 学 教 授 を経 て 造 幣 局 長 Graham)と ィ ル(J.M.Gaラ ン キ ン教 授 の 教 え 子 で あ っ た .彼 W・S・Murphy.Captainsof乃 厩z6勤,,W Murphy.Glasgowユ901PP .67-69に に な っ た 15)そ し て グ レ ア ム がUniversityCollege.Lon「化 学 」 教 授 か ら 造 幣 局 長 A.Barr,"W.J.MacquornRankine"aG'ente- 。S. naryAddy-ess,GlasgowPhilosophicalSociety.volLI.1920-22.p181し 止 され る.興 て い た ウ ィ リ ア ム ソ ン(A.Williamson,伊 En薯illee「ingclars皿 〔水 利 工 学 〕(No を 学 ん だ 記 録 が あ る.彼 水 道 工 事(1899-1905年)を は な い と 思}る. グ ラス ゴ ウ 大 学 で が 帰 国 後,神 .1756) 戸 の六 甲 指 揮 し た の も偶 然 で した か しそ の席 は廃 ウ公 共 部 門 の中 心 者 の一 人 とし て収 録 され て い た 佐 野 藤 次 郎 は1893-94年 に 栄 転 の 空 席 に ラ ン キ ン が 応 募 し た. は, 味 深 い の は 我 国 の 水 利 工 学 の権 威 とな っ ラス ゴ ウ 14)C.A.Oakley.op.cit.,pp5-8 (1855年)時,そ グ ラス ゴ グ レ ア ム(T. は 従 兄 弟 で あ り15),グ uonの 際 の 工 事 を し た の は ,ゲ ン ダ ー ソ ソ ・コ レ ッ ジ 「実 験 化 学 」 教 授(1849年)に 博 文 を 下 宿 さ せ て い た こ と で 有 名)が も つ こ と に な る.な 任ぜ られ 藤 双 方 を 受 お ウ ィ リア ム ソ ン を 後 継 す る の も ア ン ダ ー ソ ン ・コ レ ッ ジ と グ ラ ス ゴ ウ 大 学 出 身 の ラ ム ゼ イ(W.Ramsay)-1904年 ベ ル 化 学 賞 授 賞 者 一 で あ っ た .' ノ ー March1981北 政 巳:臼 蘇 比 較 経 済 史 の 一 考 察 高 校 か ら エ デ ィ ン バ ラ 大 学 に 学 び,そ イ ル ラ ン ド鉄 道 工 事 に 参 画 し,ケ の後 ア ル ビ ン卿 の a89 舶 所 を 辞 め,ラ ン ドル フ(Charle$Randolf> と共 に フ ェ ア フ ィル ド(Fairfield)造 船所 を 研 究 を 手 伝 う と と も に ゴ ウ ド ン教 授 の 講 義 代 設 立 し た.彼 は ク ラ イ ドサ イ ドで は 「ワ ッ ト以 行 を 務 め た.彼 来 の 秀 れ た 機 械 技 師 」と評 判 を と っ て い た19). (1872年 は1843年 末)約80本 か ら 亡 くな る ま で に の 学 術 論 文 を 発 表 し,「 工 ラ ソ キ ン は 「糖 尿 病 」 で あ っ た と い わ れ, 学 科 学 の 父 」(TheFatherofEngineering 働 き 盛 り の52歳 で 死 亡 し た 。 こ の ラ ン キ ソ の Science)と 講 座 を 継 承 し た の は,ケ 呼 ば れ る程 の 多 大 な 影 響 を 与 え た16). ラ ン キ ン は,1855年 教 授 に な るや 否 や 張 し,ユ860年 に ゴ ウ ドンを 後 継 し て 「工 学 」 の 学 術 的 地 位 を 主 初 め に は エ ソ ジ ニ ア リソ グ の 学 位(DegreelnEngineering)授 与 を大学 に 訴 え た 、 こ れ は 先 ず1862年 て,工 に若 干 の成 功 を み ム ス(JamesTh◎mson).で あ る.し ウ ィ リ ア ム(ケ 華 や か な経 歴 に 比 し て,兄 ル ビ ン 卿)の 度 の 成 立 を み たi7>.そ み に 専 念 し た 鋤. X87◎ 年 に ドイ ツ が フ ラ ン ス を 破 っ た 頃 か ら,ド イ ツ が 工 業 技 術 上 の イ ギ リス の ラ イ バ に世界資 本主 義 の 成 熟 期 を 迎 え た イ ギ リ ス に あ っ て,グ ラス 後 大 学 内 部 で 先 輩 格 の ケ ル ビ ン 卿 の 「物 理 」 ゴ ウ 市 は,ユ 汽関 (NaturalPhilosophy)学 車 製 造 と ク ラ イ ド流 域 の 造 船 業 で 国 内,国 守 派 と争 い,1872年 Science)学 の か し弟 ジ ェ イ ム ス は 地 味 な 性 格 で研 究 の ル と し て 映 り始 め て い た.特 学 資 格 証 明 書(certificateinE且gin・ eeringScience)制 ル ビ ン卿 の 兄 ジ ニ イ 科 と同 調 し て,保 に 工 学 圭(Bache1鍵 ◎f 位 を 認 め さ せ る こ と に 成 功 し たX8). ラ ン キ ン の 最 も 親 密 な 友 は エ ル ダ ー(John Elder)で,彼 16)グ は ネ ィ ピ ア(R.Napier)造 ル と呼 ば れ て い る,彼 を讃 え につ いて は 先 掲 の 諸 論 文 の 他,K.R.Hutchison,W.J. 砿RankineandtheRiseof7セ7規04卿 α廊 ・ 外 れ に っ い て グ ラス ゴ ウ大 学 土 木 ・機 械 工 学 科 の 歴 史 に はrラ ンキ ン と ケ ル ビ ン卿 が グ ラ ス ゴ ウ大 学 を 世 界 中 の 造 船 し て数 十 年 に わ た り輝 や か せ た 」 と讃 え て い る,ま 造 船 学 は,1880年 た に 同 講 座 科 目 に 付 設 さ れ, っ い で エ ル ダ ー 夫 人 の 寄 贈 に よ っ て1883年 は 講 座(JohnElderchair)と cs(D.Fhil.thesis。Oxford.1976)のBiographicalsketchの の 関 心 を 集 め た.そ 業 の 中 心 学 校(1餓dingschQol)と ラ ス ゴ ウ 大 学 土 木 工 学 部 ビ ル は,彼 て ラ ン キ ンsビ ー ル ソ ン家(Neilsons)の な り,初 に 代教 部 分(pp104-123>,SirR. V.Southzvell,W.」.M.Rankine.ACornme・ morativeLecture,Proceedingsoft12eInsti一 忽!60プCiuil湯 19)ラ ぞ9掬8673Part1.May.1956 が 参 考 に な る. 17)こ 学(初 級 と 上 級),② 技 能 に 応 じ て1な 学 期,(4>地 械 学2学 ゑ 雌 跡OZROf,johnEZdey, oodandSons.EdinburghandLondon,MD- の 証 明 書 を 取 得 す る に は,二 席 し,(1)数 ソキ ンが Engl簸eerand>hipbuilder.WilliamBlackw- い し2学 質 ・鉱 山 学1学 学期 以上 に出 物 理 学(生 徒 の 期 聞),③ 期,㈲ CCCLXXIを 無 機 化 学1 土 木 工 学 ・機 期 問 の 出席 に よ る試 験 結 果 とい うか な も,そ 2① 書 い た.皮 肉 な こ と に,彼 の 三 ヵ 月 後 に 死 去 し た. 従 来 我 国 で は 全 く知 ら れ て い な か っ た 事 実 で あ る.逆 に 云 えば ケル ビン卿 兄 弟 の グ ラス ゴ ウ 大学 が如何に我 羅留学生に多大 な影響を与え た り厳 し い も の で あ っ た.C.A.Oakley,op.C2t. か の 評 価 が 必 要 で あ る.兄 P.11 Thomson1822∼92年)は,グ 18)そ の 際,学 録 が あ る.(君 生代表が大学 当局に交渉 に来た記 砿 瞬 霧60∫ 14th・Sept・1871)恐 ひ短 御 グ麟 ツCauyt. ら く ラ ンキ ン の愛 弟 子 の ダ イ ア ー 自 身 で あ っ た と思 わ れ る. 自身 ジ ニ イ ム ス(James ラス ゴ ウ大 学 卒 業(/812年),QueensCollege.Belfastの 木 工 学 教 授(187-'73年)を 土 経 て 就 任,「 渦 巻 タ ー ビ ン 」 の 権 威 で あ っ た.1889年 し,Arc無ba1δBariが 教 授 とな る. 水 力 に 引退 Vol.XNo.2 創 価 経 済 論 集 Zqo 授 に エ ル ガ ー(F.Elgar)が 名 な 牧 師 の 子 に 生 ま れ,ス 任 命 さ れ た21). ling)に 皿.「 ア ン ダ ー ソ ン 大 学 」 育 ち,グ ラ ス ゴ ウ 大 学 に 学 ん だ. 1745年 の ジ ャ コ バ イ トの 際 の 時 は,そ 防 禦 に 従 事 し た23).そ グ ラス ゴ ウ大 学 物 理 学 教 授 ア ン ダ ー ソ ン (JohnAnderson,1726∼1796年)の っ て,ス 遺 贈 に よ コ ッ トラ ン ド青 年 技 術 教 育 の 振 興 の た め に,ア ン ダ ー ソ ン ・ コ レ ヅ ジ(Anderson College)が 設 立 さ れ た22).彼 (tutor)と ル ガ ー は,王 でグ ラ ス ゴ ウ大 学 東 洋 言 語(OrientalLanguage) へ 教 授 に 任 命 さ れ た.フ 年 に は,自 ラ ン ス 語 ・イ タ リア し て1757 つ か ら 希 望 し て 物 理 学(Natura1 授 に 移 籍 した.こ の決定 をめ 立 造 船 学 校(RoyalSchoolof ぐ り,ま た 大 学 内 部 で の行 政 に つ い て 独 自 の NavalArchitectureandMarineEngineering) を 卒 業(1864年),海 軍 工 廠 に 勤 め,我 の 代 理 人 で もあ った edKCB.M,P.,彼 リィー 国 政 府 立 場,主 張 を 展 開 し た こ とが 残 さ れ て い る24). ド 〔Sir.E.J.Re・ は 明 治 初 期 の 東 郷 以 下 の9 人 の 日 本 人 学 生 の 海 軍 短 大 の 入 学 を 世 話 し た. G.Fox.op.CZt,,P.262〕,の 年),ハ の後 フ ラ ン ス へ 教 師 語 ・英 語 も講 義 し た と い わ れ る.そ の 経 歴 は,著 の城 の し て 学 生 を 引 率 し,帰 国 後28歳 philosophy)教 21)エ タ ー リ ン グ(Stir一 彼 は,FellowoftheRoyalSocietiesof LondonandofEdinburgh(F.R.Sと 第 一 秘 書(1874 ル の ア ー ル 造 船 所(Earl'sShipbuilding 略 す),FellowoftheAntiquarianSocietyof &EngineeringCo)のgenaralmanagerを 勤 め,ロ は,日 ン ドンで海 事 技 師 を 本 政 府 の 要 請 で1879年 国 を 廻 っ て 帰 国,海 し て Scotland,MemberoftheNaturalHistory い た.彼 に 来 日,ま た 中 SocietyofLondon等 の 要 職 を つ と め た り, 軍 技 術 顧 問 と な っ て い た. ワ ッ トとは 彼 の 兄 が 同 級 で あ った こ とも あ り ObituaryNoticesofFrancisElger.L.L.D. F.R.S.ProceedingsoftheInstituteofNaval ArchitectureFeb.1909.な Leeの 編 集 親 類 づ き あ い を し た と い わ れ,ま おSirSidney し たDictionaryofNα'勿 ηα! Bゴ09γ α2り ぬy.SecondSupplementp.615セ 満 場 一 致 でJohnEldder講 あ る.し ウ商 人 が ダ バ コ貿 易 の 挫 折(ア た グラス ゴ メ リカ独 立 戦 こを ま 座 に 選 ば れ た と か しGlasgowUnivCourtMinutes 争 の ゆ え に)に 陥 った 時 に,炭 抗 や 鉄 工 業 へ の 進 出,さ らに 極 東 へ の貿 易 転 換 を 示 唆 し, (1VoteofBusinessforMeetingoftheCourt. 21st.Dec1883)に は,彼 共 にH.Dyer も 応 募 し た と 載 っ て い る.そ 筆 の3書 し て そ れ ゆ え大 学 内部 よ りも グ ラス ゴ ウ市 民 の た 彼 は エ ル ガ し た 時(1886年)に,再 ー が 辞 職 び 応 募 し た 書 簡(14th, 16thand17th,Aug,1886)が が,ラ い わ れ る. ダ イ ア ー直 簡(Sth,13thand20th,Dec,1883) の 応 募 書 類 が あ る.ま よ る と 市 民 の商 工 業 ア ドバ イ ザ ー と して活 躍 した と 以 外 にW.W.J. Miller,W,L.Still,Dr.Billeと あ る.そ れ に gozv1451-1951の っ た る.つ ま り教 育 熱 心 で 市 民 に も人 気 が あ っ た 反 ンキ ン教 授 か ら グ ラ ス ゴ ウ 大 で 充 分 学 べ 面,協 調 を 欠 き 他 言 に は あ ま り耳 を 傾 ず,よ 「自 分 は 王 立 造 船 学 校 へ 行 き た か る と云 わ れ て残 と あ る.し り,師 の助 言 で 日本 へ 行 った」 か し そ の 講 座 はP.Jenkinsが 継 承 ン ダ ー ソ ン 教 授 は,設 で 論 議 を か も し た と あ る.こ た 僅 か な 基 金 も,裁 く の コ レ ッジに 遺 贈 し 判 で 争 って 勝 利 した 金 で あ っ た こ と は 有 名 で あ る. し た. 22)ア 中 で 「人 物 描 写 」 を 入 れ て い 立 に対 して遺 書 の 中 「良 心 の 正 義 を 確 信 せ よ 」 「私 は,神 と 自 由 snessofright","IreverenceGod,freedom て は,マ 24)ア 言 葉 を 贈 っ た.彼 に つ い レ イ(D.Murray)がMencoiyofthe OldCollogeOfGlasgow,1927の ク ッ ッ がHistoryO∫tlaeUniversityOゾGlas一 London1978に 詳 し く 「叛 乱 」 の 模 様 が 綴 られ て い る. と 知 識 を 敬 愛 す る 」("Firmintheconsciou- andknowledge")の 23)K.Tomasson,Battleoftlae45,Batsford, 中 で,ま た ダ ム ・ス ミス は,既 に 『国 富 論 』 で 著 名 と な っ て い た.彼 は ア ン ダ ー ソ ソの物 理 学 教 授 へ の承認投票 を 「認 め た か っ た が 手 続 が 正 し く な い 」 と の 理 由 で 拒 否 し た.J.Muir,⑳Clt., p3 March1981北 政 巳 表1ア agi 日 蘇 比 較 経 済 史 の 一・ 考察 表1ヘ ン ダ ー ソ ン ・コ レ ッ ジ と グ ラ ス ゴ ウ 機 械 工 協会 の 沿 革 1760年JohnAnderson,グ 授 彼 の 死 去,遺 ア ン ダ ー ソン 会 の 承 認 を 得 てAndersonInstitution倉1 WilliamEuing(1865-1868) 設.ガ Dr.lamesYoungF.R.S.,(1868-1877) ー ネ ッ ト(Garnett)博 士 を代表 に 任 命 機 械 工 協 会 の校 長 DavidMore(1862-1866) 建 物 を購 入 1799年RoyalInstitutionと し て 創 立,ガ ッ ト博 士 を 初 代 教 授 に 選 ぶ.同 son'sMedicalSchoo1開 1804年 ウ ー ル(Ure)博 1819年 植 物 学(Botany)講 1823年 機 械 工 教 室 を 中 心 に,グ 物 理 学 年Ander- 始.バ A.S,HerscheilF.R.S.,(1866-1872) GeorgeForbes(1872-1880) 設 士 を任命 化 学 数 学(Mathematics)講 数 学 座 の設 置 calChenistry) Dr.PerkinF.R.S.,(1870-1871) ユ828年CollegeをGeorgeSt.,へ 移転 ー ソ ン 大 学(Anderson'sUniversity)と し て 授 業 開 始.医 ア ソダ 間 に 人 気 の あ っ た 彼 は,成 講 座開設 化 学(Chemistry)と Philosphy)講 Graham)実 education)に 物 理 学(Natural 座 の 分 離.グ レ ア ム(T。 人 教 育(adult も 力 を 注 い だ.ま た ア メ リカ 人 フ ラ ソ ク リ ソ(B.Franklin)が グ ラ ス ゴ 験 化 学 研 究 所 を 開設 機 械 工 協 会 がHanoverSt.,へ ウ滞 在(1771年)時 移 転.法 医 学(MedicalJurisprudence)講 座 の設 置 医 学 理 論(TheoryofMedecine)講 に 彼 を 招 き,大 学 の 階 段 に 「 最 初 の 電 灯 」 を 敷 設 した こ とで も有 名 で 座 あ る25). 開設 ア レ ソ ・グ レ ソ 学 校(AllanGlen'sSchool)創 彼 は,そ 立 1861年 機 械 工 協 会 がBathSt.,へ 1870年 技 術 化 学 ヤ ン グ 講 座(Youngchairof TechnicalChemistry)設 移転 の遺 書に 「市 民 大 学 」 と し て の ア ン ダ ー ソ ン 大 学(Anderson'sUniversity)構 想 を 綴 り,81名 置 1871年 技 術 学校 発 起 を 企 画 す る委 員 会 開 設 1875年 応 用 機 械(ApPliedMechanics)講 の 管 財 人,4学 部(Arts, Medecine.Law.Theology)と36人 の 教 授 座開 (市 民 構 成)を 列 記 し,彼 は 「 伝 統 的 大 学 」で 設 1877年AndersonCollegeと 改 名,技 (織 物 業 部 門)開 ユ880年 G.Bischof(1871--1875) 学(PracticeofMede- cine,MateriaMefica,andMidwifery) 1843年 教 授(Mathematics) 技 術 化 学 ヤ ン グ 講 座(YoungChairofTechnic- 建 物 を 売 却 し,GeorgeSt., の 建 物 を購 入 ユ840年 Dr.T.E.Thorpo(1870-1874) ラ ス ゴ ウ機 械 工 Dr.AlexanderLaing(186-1881) 1827年JohnSt.,の 1831年 教 授(Chemistry) Dr.FrederickPenny(1839-1870) 座 を設 置 創立 18sa年 教 授(Natunalphilosphy) G.CareyFosterF.R.S.,(186?-186b) ーベ ッ ク 協 会(GlasgowMechanics'Institution) 1825年 W.MontgomerieNeilson(1866-1874) ーネ (Birkbeck)博 士を任命 機 械 工 教 室(Mechanicsclass)開 :11年 術 短 大 設 機 械 工 協 会 が 技 術 学 校(TechnicalSchool)と は な く,技 能 修 得 ・教 養 機 関 として の 「市 民 大 学 」 を願 望 し た.彼 は 「女 性 のた め の物 理 再編 そ れ を 工 芸 短 大(CollegeofScience andArts)と 1886年 ・コ レ ッ ジ の 学 長 WalterCrumF.R.S.,(1848--1865) 志 に も とづ き グ ラ ス ゴ ウ 市 1798年JohnSt.,の 1881年 ・ダ イ ア ー と 山 尾 庸 三 の 学 ん 「ア ン ダ ー ソ ン 大 学 」 の 教 授 陣 (在 職 年 間) ラ ス ゴ ウ 大 学Natu・ ralPhilosophy教 1796年 ン リー だ 頃 の 改名 諸 機i関 を 合 併 し,グ 25)Ibid.,p.13フ ラ ス ゴ ウ西 部 ス コ ッ ト ラ ン ド技 術 短 大(TheGlasgowand ラ ン ク リ ンは エ デ ィ ンバ ラ 大 学 に 留 学 した こ と もあ ン ドの 知 識 りア メ リ カ と ス コ ッ トラ ・ 教 育 交 流 の 推 進 者 で あ っ た.拙 WestofScotlandTechnicalCollege)の 「ス コ ッ ト ラ ン ド と ア メ リ カ 」(A.Hook,Scotl- 創 立 andandAmerica,AStudyofCulturalRelations.1750-1835Blackie.GlasgowandLondonl975,r創 価 経 済 論 集 』8巻2号)64頁 評 Vol.XNo.2 創 価 経 済 論 集 292 学 講 座 」 の 必 要 性 も 提 唱 し て お り,事 実1796- ま た1823年 に,同 コ レ ッ ジ の 化 学 ・物 理 学 97年 の 設 立 第 一 年 に,そ のAndersonCollege 教 授 の バ ー ベ ッ ク(G.Birkbeck)博 に 出 席 し た972名 っ て 「労 働 者 は 自 分 達 の 実 践 す る 諸 技 術 の 原 の うち半 分 が 女 性 で あ った と い わ れ る26). 理 を 教 え ら れ る べ き で あ る 」 との 考}に こ の 市 民 大 学 は,ア ン ダ ー ソソ の遺 書 に基 く募 金 に よ っ て 諸 実 験 器 具,美 を も ち,グ 書館 設 立 さ れ た.そ 人,企 業 家) ScieneandArts"と に よ っ て 運 営 さ れ る こ と に な っ た.変 遷 は表 工 に 詳 し い が 簡 略 に の べ る と,1796-1827年 St.,),っ そ の 後1828-1877年 名 前 を 替 え た が,1886 方 の機 字 どお り産 業 の 都 グ ラ ス ゴ ウ の 「市 民 養 成 」 機 関 と な り,ま 移 っ た. の 間 最 盛 期 を 迎},中 に"Collegeof 年 ま で 別 個 の 組 織 と し て 活 動 し た.双 り,文 初 ジ ョ ウ ジ 街(George い で ジ ョ ン 街(JohnSt.,)に の 後1881年 関 と も中 心 街 の駅 か ら徒 歩 数 分 の とこ ろ に あ ま で は ア ン ダ ー ソ ン協 会(Anderson'sInst呼 ぼ れ,当 立 っ て 機 械 工 協 会(Mechanics'Institution)が 術 館,図 ラ ス ゴ ウ 市 の 名 士(商 itution)と 士1rよ 心 た進 学 を 望 む 者 に は グ ラ ス ゴ ウ大 学 予 備 校 の よ うな 役 割 を 果 し た. また 「ア ン ダ ー ソ ソ ・コ レ ッ ジ 」 の 教 授 陣 の 校 は 「ア ン ダ ー ソ ン 大 学 」(Anderson'sUniv- 多 く が 同 時 に 「機 械 工 協 会 」 の 夜 学 で 教 鞭 を ersity)と ど っ た. た.そ 呼 ば れ て 数 多 くの 熟 練 工 を養 成 し こ に 学 ぶ 人hは 誇 りを も っ て 「ア ン ダ ー ソ ニ ァ ン 」(Andersonian)と だ.1877年 自身 を 呼 ん に は 議 会 法 の 適 用 を み て 「ア ソ ダ ー ソ ン 短 大 」(AndersonCollege)と っ い でX886年 に は,グ な り, ラ ス ゴ ウ ・ス コ ッ ト ラ そ こ で 「ア ン ダ ー ソ ン 大 学 」 の 輩 出 し た 産 業 革 命 後 期 の 群 像 を み て み た い.1860年 入 る と,建 物 ・設 備 の 大 幅 な 拡 充 を み て 本 格 的 な 技 術 者 養 成 機 関 に 発 展 し た28). そ の 最 大 の 貢 献 者 は ク ラ ム(W.Crum,J. ソ ド西 部 短 大(GlasgowandWestofScot1- P.,F.R.S.,)で1848-65年 andTechnicalCollege)に dent)を 吸収合併 さ れ た27). 26)つ 代 〉,r っ と め,世 の 問 校 長(presi界 に雄 飛 した卒 業 生 を 中 心 に グ ラ ス ゴ ウ 地 理 学 会(GlaugowGeolo一 ま り市 民 の 側 で も 大 学 を 無 縁 の も の と看 倣 15pp48-54.ま た 設 立 の 審 議 に つ い て は,サ ン デ ィ マ ン の 証 言Mr.D.Sanaemanexamin- す 傾 向 も 強 く,「 グ ラ ス ゴ ウ の 機 械 工 の 間 で は 一様 に ,大 学 教 育 に 無 智 な 者 の 方 が か え っ て 最 ed.,GlasgowTechicalCollege.Educational も 成 功 す る 」 と の 逆 説 的 な 考 え 方 も支 配 的 で あ Endowment(Scotland)Coノ%7フ2ゴ35∫o麗1886pp っ た.彼 338-345に 詳 し い.設 立 後 の概 況 を ダ イ ア ーが `TheGlasgowandWestofScotlandTechn- は 大 学 内 と 同 じ く市 民 に 対 し て も,認 識 を 変 え さ せ る た め 熱 弁 を ふ る っ た.」.Muir, 0ff.cit.,p.24 27)こ icalCoilebeintheEducationalNews,Oct の 総 合 短 大 に つ い て は,ダ イアー 自 身 が 20.1888PP736-7に 載 せ た.ま TechnicalEducation,withSpecialI2eferen- NotesuponTheHistoYyandCbyectsofthe cetotheRequirementsGfGlasgowandthe College.TheGlasgowandWestofScotland WestofScotland,ProceedingsoftheGlasgow PhilosophicalSociety(以 下,P.G。P.Sと す)volユ5!884,pp18-47に TechnicalCollege,1905が 略 構 想 発 表 し た. そ れ に つ い て ア ラ ン ・ グ レ ン 学 校(AllanGlensSchool)の 校 長 デ ィ ク ソ ソが コ メ ソ トを 与 え 基 本 的 趣 旨 に 賛 成 し て い る.E.M.Dixon.Dis・ cussiononMr.Dyer'spaper.P.G.P.S.vol たJ.Sinclair 参 考 に な る. 28)A.H.Sexton,TheFirstTechnicalCollege 1796-1894.Chapman&HallLondon1894に は,同 コ レ ッ ジ と機 械 工 協 会 の 二 つ う ま く ま と め て 記 述 し て い る.な の 流 れ ラ イ ド大 学 所 蔵 のAndersonCollegeCα11劒 dersの 他CourtMinutesを を お ス トラ ス ク 参 考 に し た. 一 March1981北 政 巳:日 蘇 比 較 経 済 史 の一 考 察 gicalSociety)を 創 立 した 他,約40年 間にわ た っ て ア ン ダ ー ソ ニア ンの福 祉 に 心 血 を 注 い だ と い わ れ る29).彼 は グ ラス ゴ ウ大 学 数 学 教 授 トム ソ ン(J.Thomson)の 従 兄 弟 で,彼 娘 マ ー ガ レ ヅ ト(Margaret)は 子 ウ ィ リア ム(ケ の トム ソ ン の 息 ル ビ ソ卿)に 嫁 つ い だ.ウ 293 と に な る. っ い で ク ラ ム の 親 類 筋 で 保 険 ブ ロ ー カ,一の ユ ィ ン グ(W.Euing)が1865-68年 長 と な り,建 物 の 増 築,音 の 間 校 楽 講 座 の 設 置,付 属 施 設 の 拡 充 に 貢 献 し た. そ の 後1868-88年 の 間,先 述 の ヤ ソ グ博 士 ィ リア ム の 兄 ジ ェ イ ム ス も ラ ンキ ンを 継 い で が 校 長 と な り実 験 室 教 育 に 尽 力 し,そ グ ラ ス ゴ ウ 大 土 木 工 学 教 授 とな っ た が,両 学 」 に ヤ ン グ 化 学 技 術 講 座(YoungChairof 人 共 少 年 時 代 ア ソ ダ ー ソ ン ・コ レ ッ ジ に 学 ん だ. TechnicalChemestry)を そ の 他 の ち エ デ ィ ソバ ラ 大 学 化 学 教 授 と な っ は,医 た プ レ イ フ ェ ァ 卿(Lord.LyonPlayfair, リ ア 期 の イ ギ リス 学 術 界 に 輝 く人 材 を 輩 出 1893年 に はknightに 叙 せ ら れ た)30)や 著名 し,さ 貝曽っ た.そ の 「大 の頃 に 学 ・化 学 ・科 学 全 般 の 分 野 で ヴ ィ ク ト らに そ こに 学 ん だ 青 年 達 は 世 界 の各 地 な 探 険 家 ・宣 教 師 リ ビ ソ グ ス トソ(D.r.1V1- に 「工 業 化 の 旗 手 」 と し て 進 出 し て い っ た の ngston)3i),石 油 工 業 の 創 始 者 とな っ た ヤ ン で あ る32). グ(J.Young)が 同 コ レ ッジ に 学 ん で い た こ 教 授 陣 を み る と 「物 理 学 」 で は,写 真 技 術 の パ イ オ ニ ア で 人 気 を 集 め た テ イ ラ ー(Johll 29)ク ラ ム 家 は,西 業(紡 績,織 て い た.し イ ソ ド ・ア メ リ カ 貿 易 と 綿 工 布,染 色)で Taylor,1846-62年 在 職M.D.,),1866年 に 成 功 した 祖 先 を も っ か し ウ ォ ル タ ー ・ ク ラ ム は,捺 染 ・ t.TniversityCollege.Londonの 実 験 物 理 学 教 授(Experimentalphysics)な らび に学 長 染 色 ・漂 白 等 の 仕 上 げ 工 程 の 専 業 化 を 計 り,成 功 し た,ま た 彼 は数 多 くの 有 力 な グ ラス ゴ ウ市 民 と も親 族 関 係 に あ る 名 士 で あ った. と な っ た フ ォ ス タ ー(G.C.Foster,1862-66 J.O.Mitchell,"TwoOldGlasgo≪Firms, WilliamConnal&CoandTheCrumsof 年 在 職,B.A.,L.L.D.,D.Sc.,F.R.S.,F. Thornliebank."inGlasgowπ6γ α」 ゴ,11.Oct 1893 30)彼 は イ ン ドのMeerutの ス コ ッ ト ラ ン ド人 病 院 長 の 息 子 に 生 ま れ(1818年),StAndrew 大 学 卒 業 後,ア ソ ダ ー ソ ン ・コ レ ッ ジ の グ レ ア ム 教 授 の も と で 学 び(1834-37年),そ の後大陸 に 渡 っ て研 究 ソ(Thompson)化 egeofChemistryの 31)リ C.S.,),著 名 な 天 文 学 者 の 次 男 でRン RoyalschoolofMineを ウ に 戻 り,さ ドンの 卒 業 し て グ ラ ス ゴ ら に の ち にUniversityof DurhamCollegeofScience.NewCastle・ 帰 国 後 ス コ ッ ト ラ ソ ドの トム ソ upon-Tyneの 学 工 場 に 勤 務RoyalColl- 教 授 と な っ た ハ ー シ ェ ル(A. 教 授 とな っ た(1843年). ビ ソ グ ス ト ン は ア ソ ダ ー ソ ソ ・コ レ ッ ジ で 医 学,グ ラ ス ゴ ウ 大 学 で 古 典 と 神 学 を 学 習 し た. 32)拙 評 「海 を 渡 っ た ス コ ッ ト ラ ン ド人 」(G, Donadlson.TheScotsOves-seas.RobertHale 彼 は 中 国 へ ゆ き た か っ た が,ア ヘ ン戦 争 の勃 発 で 断 念 し,ア フ リ カ に 関 心 を 向 け る.有 名 な 宣 lLondon1966.r創 教 師 モ フ ァ ッ ト(R.Moffat)の Dr,W.G.Blaikie,ThePersonalLifeof 92頁.我 国 に つ い て は 拙 稿 前 掲 「日蘇 比 較 経 済 史 一 明 治 維 新 と ス コ ッ トラ ン ド人 」(『創 大 David五 動 〃z8廓oπ,London1888に ま た ダ イ ア ー 自 身 も,自 与rた 娘 と結 婚 し た. 人 に グ レ ア ム,リ 詳 し い. 己 の 人 生 観 に影 響 を ビ ン グ ス ト ン,ヤ ソグ 価 経 済 論 集 』第2巻2号),85- 10周 年 記 念 論 集 』)を参 照 さ れ た い,今 後 の課 題 と し て 「お 雇 い 外 国 人 」 が 帰 国 後 出 版 し た 書 籍 の 研 究 が 必 要 で あ る.例 え ぽ メ イ バ ァは1866年 を 挙 げ て い る.H.dyer,introductoryAddress ontheTrainingand`WorkofEngineersin た 記 録 を 回 顧 し て い る.SamMavor,漉 に 日 本 海 軍 のjunniorengineerと theirwideraspects.GlasgowTec/a;zicalCo- ofPeopleandPlaces.WilliamHodge&Co. llegeX905pp4-5 London1940,Pp4,231,239 し て訪 旧 し 塀zo舵s ・94創 価 S.Hershe1.1866-72年 経 論 集,Vol.XNo.2 一 プ(Sir 在 職BA.,M.A., D・C・L,F.RS.,),ナ 済 イ ア ガ ラ の滝 に 最 初 の .ThomasThorpe.C.B.,Ph.D., D.Sc.,L.L.D.,F.R.S.,)34),海 流 調 査 で 著 名 水 力 発 電 所 を 作 っ た フ ォ ー ブ ス(G.Forbes, な デ ィ ト マ(W.Dittmar.1874-92年 1872-80年 ph.D.,L.L.D.,F.R.S.,)等 在 職,B.A.,M.A.,L.L.D.,F.R. S.,)33>,検 流 計 や 検 圧 計 を 発 明 し電 気 工 学 に 貢 献 し た プ ラ イ ス(J.Blyth1580-1906年 在 職M.A.,L.LD.,ER.S.E.,)が い た. ま た 「化 学 」 で は1829年 学 講 師,翌 年 に 「機 械 工 協 会 」 化 り,イ ギ リ ス 初 の 化 学 の 公 教 育 実 験 室(public 立 を は じ め,の sityCollege,Londonの 局 長(1855年)と 1830-37年 幣 在 職M.A.,F.R.S.,),ア Dり),っ バ 授(1839年), な った グ 在 職M . い で グ レ ア ム の 推 薦 で 任 命 され グ ラ ・Penny.1839-70年 在 職,Ph ち にYorkshireCollege,Leedsの に ア ニ リ ン染 料 を 発 見 .L.D., F.R.S.,),っ あ った い で 燃 料 研 究 で 著 名 で 在 職 教 壇 に立 っ て講 義 し た. ,バ ー ベ ッ ク 博 士 の提 唱 に よ る職 工 の た め に 開 か れ た 学 習 所 chanics)講 用 機 械(AppliedMe- 座 が1875年 に 設 置 さ れ,ロ 年 ま で 在 職)が 初 代 教 授 に 任 命 さ れ た.ま ヤ ン グ は こ の講 座 の 講 義 に 基 金 を 贈 り 援 助 し た.こ 教 授(1874 だ 人 々 の 中 に は,そ の講 座 に 学 ん の 他 に 地 質 学 者 著 名 で あ っ た ク ロ ル(J.Croll.Geological 教 授(1885年),政 SurveyofScotland.1867年 Londonの 研 究 所 所 長(1894年)と な っ た ソ S.,)が の 父 はSt.Andrews大 たEdwandForbesで 彼 は マ ン 島 に 生 ま れ,エ い た. あ っ た(1854年 死 亡), デ ィ ンバ ラ大 卒 で王 立 ソバ ー, 創 立(1839年)者 の一 人 で あ っ た.Scotsynas222Nov,1854.ジ ジ は,1890年 行 ぎ,ナ た.ま egeofMedicalSchoo1の 名 前 で 創 立 され 幾 多 の 人 材 を 輩 出 し,グ , ラ ス ゴ ウ大 学 の 教 授 に 昇 格 す る 人 も 多 か っ た.っ ま りア ン ダ ー ソ ョ ウ に ケ ル ビ ン卿 と一 緒 に ア メ リ カ に イ ア ガ ラ 滝 よ り水 力 発 電 装 置 を 考 案 し た 彼 は 若 き 頃 に 来 日 し,約 一年 間滞在 し vor,(注)ユ1の volxix.,pp60-61 ・年 に 就 任 し た.彼 兄)が ア ン ダ ー ソ ン ・コ レ ッ ジ に 通 っ た 当 時 を 追 憶 し て い る.JamesMavor,My 我 国 の 地 形 を 歩 い て 探 査 し た とあ る.D.N.B. 34):・ にAnderson'sCol1. 学 の学 長 に もな っ 鉱 山 学 校 の 教 授,F.R.S.,(1845年)メ BritishAssociationの と し て ,L.L.D.,F.R. ま た 医 学 部 門 は1886年 33)彼 た 「地 質 学 」(geology)の .D.,),の のSognersetHouse. ウデ ン (Wm.T.Bowden.B.Sc.,A.R.S.M.,1904 年),RoyalCollegeofScience,Londonの 府 し て ン(Sir.WilliamPerkin,Ph.D.,L と し て 出 発 し た35>.応 ス ゴ ウ市 の 化 学 諸 工 業 の 顧 問 を っ とめ た ペ ニ ー(F 「実 験 化 学 」 教 エ ソ ジ ニ ア リ ン グ ・コ ー ス は な っ た グ レ ァ ム(T.Graham. レ ゴ リ ィ(W.Gregory.1837-39年 授 に は,1856年 D.Sc.,F.R.S.,r.1.C.,)が 教 授(1837年),造 エ デ ィ ン バ ラ 大 学 教 授(1844年)に 年 に 設 置 され た ヤ ン グ寄 贈 の た1870 ミ イ ル ズ(EJ.Mills1875-1901年 ち にUniver- デ ィ ー ソ のKillg'sCollege教 が い た.ま 「コ ー ル タ ー ル 染 料 の 父 」 と い わ れ た パ ー キ 「ア ン ダ ー ソ ソ 大 学 」 教 授 と な laboratory)創 在 職 WindowsontheStreetoLftheWoYld .voll J・M・Dent&Sons.London&Toront,PP48 の 前 任 者 は(つ ま り山 尾 の 通 っ て い た 頃)Dr.MacadamSteven. sonで エ デ ィ ンバ ラ か ら 通 っ て い た .の ちに カ ナ ダ へ 渡 り ト ロ ン ト大 学 経 済 学 教 授 とな り ロ シ ア 経 済 史 の 権 威 と な っ た メ イ バ ァ(JamesMa一 57,262,280 35)バ ー ベ ッ ク 博 士 は,そ の後 ロ ン ドンに行 き , LondonMechanics'Institution(1824年2 月20日,開 設 の 辞)の Sexton,obi,cit.,p26 理 事 長 と な る 。A.H . March1981北 295 政 巳:日 蘇 比 較 経 済 史 の一 考 察 ン ・コ レ ッジ そ れ 自 体 と し て グ ラ ス ゴ ウ 大 学 の 「教 授 養 成 所 」 の よ うな 存 在 と な り,保 守 son)の 世 話 で ロ ソ ドソ 大 学 ユ ニ バ ー シ テ ィ ・コ レ ッ ジ の ウ ィ イ ア ム ソ ン(A.W.Willi- 的 な 大 学 教 育 の 変 革 のi推 力 と し て 機 能 す る. amson)の 勿 論,他 伊 藤 と井 上 の 両 名 が 方 で は 全 イ ギ リス の 技 術 教 育,特 に 工 学 ・化 学 教 育 の 発 展 に も 貢 献 し た. 本 来 の 設 立 要 旨 に あ っ た グ ラ ス ゴ ウ 「市 民 教 育 機 関 」 と し て も,商 向 上 に 貢 献 し,そ 工 業者 の技能 教育 の こ に 学 ん だ 造 船 ・鉄 道 ・機 械 製 造 の 熟 練 工 は,同 市 を 起 点 とす る ス コ ッ 知 遇 を 得 て,同 校 に 入 学 し た37>. 「下 関 戦 争 」 の 危 機 を 知 り,渡 英 僅 か 半 年 あ ま りの 元 治 元 年(1864) の3月 中 旬 急 ぎ 帰 国 の 途 に っ い た.彼 は,そ の 後 も三 人 の 長 州藩 の リー ダ ー とし て勉 強 を 続 け た38). 記 録 で は 山 尾 は 慶 応2年(1866)ロ ソ ドン トラ ン ド人 コ ネ ク シ ョ ソ の 「道 」 を 通 りア メ を 去 っ て ス コ ッ ト ラ ソ ド 「造 船 局 」 へ 入 り, リ カ,ヨ 工 業 技 術 を 学 び,維 カ,極 ーRッ パ,オ ー ス トラ リア,ア フ リ 新 後 の 明 治2年(1868> の 初 春 に 帰 朝 し た と あ る39). 東 に 渡 り活 躍 す る こ とに な る. 山 尾 の 徒 弟 修 業 を した ネ ィ ピ ア 造 船 所 は, Iv.山 コ メ ッ ト(Comet,1811年)号 尾 庸 三 とダ イ ア ー のボ イ ラーを 作 っ た ネ ィ ピ ア(DavidNapier)の 山 尾 庸 三(1837∼1917年)は,山 口の 周 防 小 郡 に 生 れ 播 校 で 教 育 を 受 け た 後 に各 地 を遊 37)彼 は 東 イ ン ド会 社 の 書 記 で あ っ た 父 を も ち, ス コ ッ トラ ン ド人 で 同 大 学 長 キ イ(T.H.Key) 博 士 の 娘 婿 で あ っ た.彼 学 し,諸 (1861)に 術 調 所 で 英 学 を 生 ん だ.文 久 元 年 は 幕 史 北 岡 健 三 郎 に 随 行 し,函 館奉 行 の所 属 船 亀 田丸 に乗 っ て ロシ アの ニ コ ラ イ 長 州 藩 の 尊 撰 急 進 論 の 旗 手 と し て,翌 して 年 には は1849年 な り,グ 坂 玄 瑞 ら と御 楯 組 を 結 成 し 品 川 御 殿 山 の英 国公 使 館 を 焼 打 す る ほ どの過 激 派 で あ っ た.藩 主 の命 で 横 浜 へ 銃 器 の購 入 に ゆ (chemistry)講 座 も 兼 ね た.彼 CollegeFacultyofScienceの っ た.彼 の 際 海 軍 強 化 の 洋 行 計 画 を た て,文 3年(1863),伊 藤 俊 輔(博 文),井 久 上 聞 多 バ ー シ テ ィ ・コ レ ッ ジ の 歴 史 を 飾 HistoryofUniversityCottege.London.p51, に密 航 村 弥 吉(井 上 勝),遠 藤 謹 助 ら と共 そ の 年 の 秋 ロ ン ド ン に 到 着 し た36)。 ジ ャ ー デ ィ ン ・マ セ ソ ン(Jardine&Math- sityCollegepp3-8に 38)野 讃 え て い る. 村 は 同 コ レ ッ ジ で 鉄 道 技 術 と鉱 山 学 を 学 び の 社 長 マ セ ソ ソ(H.Mathe一 帰 国,翌2年10月 造幣頭 兼 鉱 山 正 と し て 新 政 府 に 出 仕 し 明 治4年8月 鉄 道 頭 に 任 ぜ ら れ 我 国 鉄 道 の 創 業 に 尽 力 し た.工 道 局 長 を 経 て,明 道 庁 長 官 と な り,子 治 ユ8年 に 初 代 の 鉄 爵 井 上 勝 と な る.明 8月 で 死 去(68歳).遠 治43年 藤 は 学力不足 を 理 由に 慶i応2年(1866)帰 朝,明 治2年 商 大 佑 に 補 さ れ,明 治4年 に造 幣 権 頭 に 転 じ た.明 esonCo.,)社 コ レ ッジに 学 ん だ (1876-81年)桜 井 錠 二 がFellowsDinner.30・ April1937.UniversityofLondon,Univer- 部 大 輔,鉄 (馨),野 は1870年 の 設立や 外国 と が 井 上 と伊 藤 を 自 宅 に 泊 め た とあ る. 明 治 元 年(1867)8月 き,そ 授 と レア ム が 造 幣 局 長 に 栄 転 した 後 は 化 学 ま た 彼 の 功 績 に つ い て は,同 高 杉 晋 作,久 に 同 コ レヅ ジ 「実 験 化 学 」(PracticalChemistry)教 の 交 流 でxニ エ フ ス ク に 行 き,「 世 界 」 を 学 ん だ.そ 従 兄弟 ネ 治7年 大 蔵 大 丞,同 経 て 明 治14年 新 政 府 よ り通 書 記 官,関 に 造 幣 局 長 に 就 任 し た.明 税局長 を 治26年 に 病 没 し た. 36)渡 辺 修 二 郎 「幕 府 時 代 及 び 明 治 初 年 の 洋 行= 留 学 生 」(r新 旧 時 代 』1920年4月 号),林 竹 二 「幕 末 の 海 外 留 学 生一 そ の一,日 本 人 の 足 跡 を た ず ね て」(r日 米 フ ォ ー ラ ム』10巻1号)に 詳 しい. 39)帰 国 後 一 時(同 年2日),山 と し て 造 船 学 を 担 当 した 後,11月 仕 し た.葉 賀七三 男 に新 政 府 に 出 「工 部 の 精 神 と山 尾 庸 三 」 (r自 然 』 第35巻10号,1980年10月 参 照. 口藩 海 軍 方 助 役 、 刊)94-97頁 創 価 経 済 論 集 z96 イ ピ ァ(RabertNapier)が engineerin畠)を 海 事 機 関(marine Val.XN'a.2 他,CunaYdSteamshipCo.,PacificMail ビ ジ ネ ス と し て 設 立 し た.そ SteamsxpCo,,NewZealandShippinglCo., の 時 の マ ネ ジ ャ ー が エ ル ダ ー(DavidEider) ChinaZineoftheScottishOrientalSもeam一 で,そ shipC◎.,の の 息 子 ジ 灘 ン(」OhnElder)が の 徒 弟 修 行 の の ち,先 そ こで 述 の ラ ン ドル フ と共 に パ ー トナ ー を 組 み 「複 合 エ ン ジ ン」(Compo・ andengine)を 発 明 し,1863年 ル ド(Fairfield)造 船 所 を 殼 立 し た40}.そ そ れ ゆ え 山 尾 が ネ ィ ピ ア造 般 所 で働 い た 頃 は,ま に フ凱ア フ ィ こ 民 間 商 船 隊 の船 舶 を建 造 ー した42>. さ に ピ ィア ス の 全 盛 期 で あ っ たrと な る. ま た 注 目 す べ き 記 事 が あ る.グ に ダ イ ァ ー の 親 方 カ ー クが 働 い て い た と い う ヘ ラ ル ド 紙 に,ヒ 関 係 と な る. adHo薦e)に ネ ィ ピ ア 造 船 所 に は,1863年 に28歳 の ピ ィ つ い て,ブ に ダ グ ラ ス 街 か ら そ の 地 へ 移 り住 (ChathamI)ockyand)か ら 入 社 し,ネ む こ とに な っ た.そ 者(GeneralMa簸ager)と 責任 な り,政 船 舶 を 多 く 手 が け た.そ 武 装 甲(arm◎ 建 造fま の 国 へ 造 船 業 の勉 強 に 来 た 最 初 の 目本 人 の サ ム ラ イ の 安 寧(well-being)に 責 れゆ え我 国の資料 に 任 を も っ こ とに な っ た 」 とあ る43).こ のブラ は,ク ウ ン 氏 の 実 家 は 貿 易 を 営 ん で い た44).ま 42)我 国 も 日 本 郵 船 がKUMANOMARU(19磁 年,X655rン)を -1960Appendix た フ ラ ン ス のComgagnieGeneral のPerire,Ville・ 注 文 建 造 し た.Fairfield1860 .我 る た め に は,今 一'. 国 とのつ な が りを 解 明 す 後 ス コ ッ ト ラ ン ド造 船 会 社 の 建 造 リ ス ト を 照 合 す る 必 要 が あ る.山 ris号 ゴ ウ に い た 時 代 で は,グ を デ ザ イ ン し た こ とで 有 名 で あ る. こ と や,ラ 1878年 に は 会 社 の 全 権 を 握 り数 多 くの 軍 艦 の ン キ ソ教 授 も 関 係 し て い (ScotsatG罫ee黛 ◎ck,7鐙oC6㌶ ρ∂詔4肋9(塀 フ ェ ア フ ィ ル ド造 船 所 に つ い て は,諏 夢 畷8躍 づE耀 ♂- neeYingWOYks,HistoryoftheCompany: 難s:andDescription oftheWorks,London.1909等 と, 勧7狛sOfSFI22 が 注 昌 さ れ る.つ 43)G∼ αs9ρ躍 旋 44){列 え 々まPast(7fficeZ)iyectory1869-70.p80 ま プα1{メ1,March1929 に は,Br。Wn&C◎,曲 の社 史 が 参 考 三p.・ 圭nsunancebro- kers,steamandsailingpacketagents,broleersforthesale,purchaseandcharterof に な る. 41)同 こ り 他 の 日 本 人 徒 弟 が 入 っ た 可 能 性 も あ る. 鋤 多6露 づ麟9翻 review◎fitsPr◎d鷲c伽 た げ660fEngineeringLondon. 19G6i!,34-40,71)等 zs6a-z96a,McCor墓uodale&CoGlasgow 196◎:勤8Fairfields厩 尾 の グ ラス リー ノ ッ クの ス 捻 ッ ツ 社 が ジ ャ ー デ ィ ソ ・マ セ ソ ン 社 と も 親 、 しか った 1869年 に は エ ル ダ ー 社 の パ ー トナ ー に な り, 4① た コ ラ イ ドで 最 初 の 縫r・clad)船,i.Pninceを Trans-atlantique社 わ ら ず,こ し て政 府 の反 対 に もか か 府 注文 の 「山 尾 が 造 船 局 に 入 っ た 」 と記 録 さ れ た の で は な い だ ろ うか41).彼 墓eG. が 投 稿 しi「 私 の 父ColinBrown は,1866年 ・'&Son)の ラ ウ ソ(Goγ Brown)氏 海 軍 チ ャタ ム工 廠 ア 父 子 会 社(R◎Bert.・ ラス ゴウ ・ ル ヘ ッ ド ・ハ ウ ス(H搬he・ ア ス(WilliamPearce)が ィピ に 造 船 所 の ゴ バ ン で1865年 ma号(Ow益 ヨ ッ トOtentosa- streamandsailingvessels;marine,direand α ◎fMessYS.R◎5S,Barberaid Co.Yokohama185ト ン)を 建 造(前 ≠oη げ 魏6Co噸 あ る.注 文 主 と の 関 係 を 考 え て,日 lifeinsuranceagents;agentsfeteFrench, 掲 のHis- 魏 ツ.TableVI}し た記録 が 本 人の 「徒 弟 」 を 引 き う け た こ と も考 え ら れ る 。 震 た1874 年,同 造 船 所 でMEIJ工MARU(日 1000ト ン)を 本 政 府, 建 造 し た(」.Napier,obi.6鉱, Appendixπp262)記 録 が あ る.山 に 関 連 し た と し て も不 思 議 で は な い. 尾が注文 China,japan,SanFranciscoandSouthAmericaSteamPackets;agentsfartheBrifishandAustralianSteamNavigationCo(L td)51BuchananStと 載 っ て い る. ま たGlasgowHerald,8,March1913に, HonararyconsulforJapanatGlasgow.A. R.Brotivnの 死 亡 記 事 が あ る.彼 家 の 一 員 で あ り,p&0会 は,ブ 社 に 入 ラ ウ ソ り 日本 へ 行 March1981北 政 巳:日 297 蘇 比 較 経 済 史 の一 考 察 一 リ ン ・ ブ ラ ウ ン(1818∼96年)氏 は,ア ヘ ン リ ー ・ダ イ ァ ー(HenryDyer)は,グ ソ ダ ー ソ ン ・コ レ ッ ジ の ユ ィ ン グ 記 念 音 楽 講 師 ラ ス ゴ ウ 市 郊 外 の ボ ス ウ ェル(Bothwe11)に (EuingLectureronMusic)で 生 ま れ,幼 も あ っ た45>. 彼 の 一 族 は グ ラ ス ゴ ウ の 名 士 で あ り,彼 に 従 兄 弟 のGeorgeBrownは 造 船(Naval Architecture),JohnBrownは を っ と め て い た46).っ 以外 数 学 の講 師 ま り,山 尾庸三 は クラ イ ドサ イ ドの ネ ィ ピ ア 造 船 所 で 働 き,夕 方は ア ン ・ダ ー ソ ン ・ コ レ ッ ジ の 夜 学 に 学 び,ブ ウ ン宅 に 下 宿 し て い た こ とに な る.そ ラ して 明 少 の 頃 を シ ョ ッ ツ(Shotts)で 過 ご した 後,市 中 心 の ク ラ ソ ス ト ン ヒ ル(Cra- nstonhill)の エ イ トキ ン(J.Aitken&Co) 工 場 で カ ー ク(A.Kirk)氏 の徒 弟 とし て働 く か た わ ら ア ン ダ ー ソ ソ ・コ1/ッ ジ の 夜 学 に 学 ん だ.こ の カ ー ク は,ネ ィ ピア造 船 所 で徒 弟 修 行 の 後 ロ ン ド ン に 下 り著 名 な モ ゥ ズ リ ィ (Messrs.Maudslay。Son&Field)社 で海 治 維 新 後 の新 生 日本 の工 業 化 の プ ロ グ ラ ム を 事 技 師 と し て 活 躍,グ 企 画 し っ っ 帰 国,や グ 博 士 の パ ラ フ ィ ソ 油 製 造 工 場 の 助 手,っ が て 新 政 府 か ら民 部 権 大 丞兼 大蔵権 大丞 に任 ー じ ら れ る.盟 友伊 藤博文 ラス ゴ ウに 戻 って ヤ ソ い で フ ェ ア フ ィル ド造 船 所 の 設 計 技 師,さ らに と共 に 「工 部 学 校 建 設 の 建 議 」 を 提 出 し て い ネ ィ ピ ア 造 船 所 に 移 り 「最 初 の 大 西 洋 横 断 の る.と 鋼 鉄 船 」Parisian号(1881年)を す る と山 尾 の 草 案 の 中 に イ ギ リス 殊 に ス コ ッ ト ラ ソ ド,さ ら に グ ラ ス ゴ ウ,ア ソダ ー ソ ソ ・コ レ ッジ で の 自身 の体 験 か らの 案 件 が 盛 られ て い た と し て も 何 の 不 思 議 で は な か 物 で あ る48). ダ イ ア ー は ア ソ ダ ー ソ ソ ・ コ レ ッ ジ の 後, 20歳(ユ868)の た.そ っ た, そ し て岩 倉 使 節 団 の 副 使 に 入 っ た工 部 大 臣 伊 藤 博 文 が1872年 秋 グ ラ ス ゴ ウ に,マ セソソ 氏 を 介 して 工 部 学 校 教 師 の 契 約 に 来 る こ とに 時 グ ラス ゴ ウ大 学 に 入 学 し れ 故 山 尾 と 出 会 っ た の は1866-68年 間 で あ っ た こ とに な る.ま を 調 べ る と1868-&9年 よ る 審 査)で2番,同 学(実 な る の で あ る47). 建 造 した 人 た ダ イ ア ー の成 績 数 学 上 級(学 時 日 本 郵 船 のmanagingdirectorに も な った 人 で あ る.PublicRecordOffice(旨 ド ン)に もPo802/325vo14,6に ン 数 多 く の書 簡 が 残 っ て い る.つ ま り,彼 の 世 話 で 山 尾 が コ ー リ ン ・ブ ラ ウ ン 宅 に 下 宿 す る よ う に な っ た の 45)彼 は 特 に 教 会 音 楽 に 貢 献 し た.H・G・Farmer, 理 験 と筆 記)で2番,1869-70年 1870-71年 番,土 に は土 門 で 最 優 秀, に は 自 然 科 学 の 地 質 学 上 級 で3 木 工 学 ・機 械 学 で 筆 記 試 験1番 ー カ ー 賞(Walkerprize) で 最 優 秀,1871-72年 で は な い だ ろ うか. 生 投票 に 筆 記 試 験3番,物 木 工 学 ・機 械 学 で 筆 記 試 験B部 き,一 の ,筆 でウォ 記 実 技A部 門 は 実験物 理研究 奨励 の ア ー ノ ッ ト賞(Arnotprize)授 賞,数 学 上 AHistoryofMusicinScotland.Hinrichsen 級 で1番,1872-73年 editionLondon1933.pp359,378,395 46)Glasgoz{ア 〈 隻11Zθ∫'ofScotlandCollebeCa- に は ワ ヅ ト(J.Watt) 記 念 賞 を 授 賞 し て い る49).こ llender1887-88,RobertAnderson.Glasgow の 時 の物 理 学 教 1887P・12 47)伊 藤 博 文 の グ ラ ス ゴ ウ に 来 た 記 録 は,1872年 10月10日 一13日(旧 特 命 全 権 大 使r米 暦9月7日 一10日)で 欧 回 覧 実 記 』(久 米 邦 武 編, 岩 波 文 庫33-141-2)188-207頁,(注)252399 頁)に あ る. も伊 藤 副 使 の 別 行 動 が あ る 48)johnShield,Clyde-Built,ahistoryofShipbuildingonthLCIyde,Maclellan1947pp・ 51,52 49)グ ラ ス ゴ ウ 大 学Callender(1868-73年)よ 作 成. り 298創 価 授 は ケ ル ビ ソ 卿 で あ り,土 木 ・機 械 工 学 教 授 は ラ ン キ ン 教 授 で あ っ た.興 イ ア ー は1871-72年 の 問,工 経 済 論 集VoX.XNo.2 定 の コ レ ヅジ の都 倹(principa1)の 話 を受け た52>,彼 は そ の著 『大 日本 』 の 中 で 「 岩 倉使 味 深 い の は,ダ 学 技 能 証 朗 書 飾 団 の 伊 藤 博 文 か ら,日 本 が 西 欺 技 術 を導 入 (CertificateofProficiencyinEngineer- す る に 際 して 実 践 す るに 必 要 な諸 工 場 を 企 画 ingScience)を し,ま た 管 轄 で き うる人 材 を 養 成 す るた め の 中 にrネ 取 得 し た が15名 の 同 窓 生 の コ レ ッジ 設 立 の 意 図 を 知 り,自 身 が 今 ま で に ピ ア 造 船 所 の 息 子 ネ ィ ピ ァ(Robert Napier)と 共 に ス ミ ス(WiiliamSmith,Yo・ kohamajapan)と 研 究 して きた ヨmヅ い う名 前 が あ る.つ ま リ ダ イ ア ー は 同 級 生 の ス ミス か ら既 に 日本 に っ い て 聞 き 学 ん で い た こ と も考}ら れ る.ま た パ 大 陸 ・ア メ リカ の 工 学 水 準 も参 考 に,見 知 らぬ 国 目本 で 実 地 して み た くな った 」 とのべ て い る. 興 味 あ る点 は,ダ イ ア ー が 如 何 に して諸 外 横 浜 に い た 人 物 が グ ラス ゴ ウ大 学 で 工 学 技 能 国 の技 術 教 育 を 知 りえ た の で あ ろ うか,彼 証 明 書(C.E.,)を 身 に 外 国 へ行 った 経 験 は な い,ラ 取 りに 来 て い る こ と 自 体, 自 ンキ ン教 授 グ ラ ス ゴ ウが 日本 の 同 時 期 の 工 学 技 術 に影 響 自身 に も海 外 研 究 生 活 の体 験 は な い.し か し を 与 え て い た こ との一 っ の例 証 で は な か った ラ ンキ ン の従 兄 弟 で 当 時 ア ン ダ ー ソ ン ・コ レ ろ うか50). ヅジ で教 え て い た グ レ ア ムや 前 述 の諸 教 授 陣 そ し て ラ ン キ ン教 授 や ケ ル ビ ン卿 が 工 学 士 (B.Sc.,)を 大 学 学 位 と し て グ ラ ス ゴ ウ大 学 に 設 置 し た 時,最 ed)の 初 に 授 与 さ れ た(conferr- は ダ イ ア ー の 他3名 で あ っ た.ま の 多 くは,鞍 一 ロ ッパ 大 陸 に ひ ん ば ん に 技 術 指 導 に 行 って い た し逆 に 外 国 人 の研 究 者 も訪 問 して き たYと が 分 る,ま た 同 数 レ ッジ の ス た彼 タ ー ジン グ(Skirling)図 書館 に は当時最新 は 後 に グ ラ ス ゴ ウ大 学 か ら 工 学 博 士(D.Sc,, の技 術 情 報 が 集 め られ て い た こ とが 知 られ て 1890年)を い る53). 得 た が そ れ も ス コ ッ トラ ン ドで 最 彼 の 弁 に よれ ば,1873年4月 初 の 人 物 で あ っ た51)、 ダ イ ア ー は1872年 サ ザ ソ プ トソ の 学 業 修 了 に あ た り,恩 師 の 土 木 ・機 械 工 学 教 授 ラ ン キ ン と 目 本 政 府 52)従 来,伊 藤 が 糧 ン ド ソ(1872年7月1娼)に て,マ セ ソ ン氏 に 人 選 を 依 頼 した と され て き の 工 部 省(PublicWork§Department)ロ た.岩 倉 使 節 団 は 前 撮 到 着 し,そ ン ドン 代 理 人 マ セ ソ ン 氏 か ら,東 学(前 掲 岩 波 文 庫45頁 京 に設立 予 Stevenson)が 取 得X877年 グ レFイ(T,Gray),1878年 に は そ の後 来 日 した に は ケル ピ ソ 卿 の 兄 ジェイムス を 継 いで 土木 工 学教 授 (fi年)パ と な る ア ー(Archibald8arr),グ ラス ゴ ウ教 育 短 大(GlasgowTutorialCollege)学 と な っ た 他,日 同 大 資 料 室 所 蔵Nθ Eη9珈 認 γ 伽9に 51>グ 口 直 作 も い た. ≠6∫{ゾc8ガ 騨 偲 ㍑oヅCavil よ る. ラス ゴ ウ の 週 刊 紙 ベ イ ジ ィ VolLXXXIV,No21.66.22April.1914,pp. 1-3)に 長 ミ 講 ア ヘ ッ ド(R.F.1Vluirhead}の 本 人 留 学 生 増 田 礼 作,谷 詳 し く載 っ い る. 〈Thebailie. ら み て,僅 か2ヵ ッ フ で は な い と 推 さ れ る.と イ ア ー の 前 年 に.ス テ ィ ー ブ ン ソ ン(R. の 日は 市 内見 て い る.私 が 主 張 し た い の は 集 め ら れ た 「優 秀 な 教 師 陣 」(劉稿 に て 発 表)か 50)ダ 以 降)し 前 か ら伊 藤,山 月間の急造 ス衣 す る と,か な り以 尾 の ラ イ ン で 練 られ,そ の意 を 受 け た マ セ ソ ン,ラ あ っ た こ と に な る.そ ンキ ソ教 授 の側 で の 人 選 が こ に ケ ル ビ ン卿 の 人 脈 が 生 か さ れ て い る こ と が 浮 彫 りに さ れ て く る.ま た ラ ン キ ン 教 授 は1872年12月 に 死 去,ダ 等 の 教 師 団 の 出 濁 は1873年4月 53)も で あ る. し ダイ ア ーが 大 陸 教 育 事 情 を ん だ とす れ ぽ,彼 よ り4歳 イア ー 「人 」 か ら 学 年 上 の ラ ム ゼ イ(Sir W.Ramsay)で あ ろ う.グ ラ ス ゴ ウ ・ア カ デ ミ ー ,同 大 学 を 卒 業 し 大 陸 の チ ェ ー ビ ソ ゲ ソ 大 か ら戻 りAssistan,t"Young°'Laboratoryof'f'echnicalChemistry(1872-74年)を 勤 め て た. March1981北 政 巳:日 蘇比較経済 史 の一考察 (Southampton)を 出 発 して 日 本 に 向 っ た. 引 率 は 伊 藤 の 秘 書 林 で あ っ た.船 ッ ジ 」 草 案 を ま とめ,そ 案 を 修 正 し て,ダ 上 で 「コ レ れ を 山 尾 に提 出 し原 イ ア ー 案 を も とに 「工 部 大 299 ア ソ ダ ー ソ ソ ・ コ レ ッジ か ら グ ラ ス ゴ ウ大 学 を 卒 業 し て 来 日 し た ダ イ ア ー で あ り,ま たそ の コ ネ ク シ ョ ソを 逆 に 通 って イ ギ リ ス に 渡 り,ロ ン ドソ か ら グ ラ ス ゴ ウ へ 行 き 造 船 所 徒 学 校 」(lmperialCollegeofEngineering) 弟 と し て ア ン ダ ー ソ ン ・コ レ ヅ ジ に 学 ん だ 山 が 実 現 さ れ る こ と に な る.勿 尾 が 他 方 の 代 表 と い え よ う. 論そ の過程 に は 伊 藤 ・山 尾 等 の 長 州 藩 出 身 者 の 工 部 省 へ の バ ッ ク ・ア ヅ プ が 存 在 し た. 両 国 ス コ ッ トラ ン ド(イ ギ リス)と 日本 は 地 理 的 状 況 以 外 に もi類似 し た 面 を も っ て い 彼 が グ ラ ス ゴ ウ大 学 に 残 し た 資 料 の 中 に, る.ス コ ッ トラ ン ドは ク ラ ン(族 閥,clan) 工 部 大 学 校 都 倹 に推 薦 され た 経 過 を示 した 彼 制 度 に よ る 地 縁 ・血 縁 社 会 で あ り,「 姓 」を 聞 自 身 の 私 出 版 に よ る 『都 倹 推 せ ん 状 』(Selec- け ば 出 身 地 と 歴 史 的 背 景 が 分 る ほ ど で あ る. tionsfromTestimonialsontheOccasion ま た イ ン グ ラ ソ ドに 「劣 等 」 「被 抑 圧 」 感 を ofhisappointmentasprincipaloftheI- 味 わ い っ っ 産 業 革 命 を 遂 行 し,イ mperialCollegeofEngineeringTOKIO 「後 進 地 域 」 か ら JAPAN.Feb,1873)が の 経 歴,グ あ る.そ れ に は,彼 ラ ス ゴ ウ大 学 各 教 授 か らの彼 の学 「先 進 地 域 」 へ と成 長 ・転 換 さ せ た ス コ ッ トラ ン ド社 会 の 歴 史 は,山 尾 や そ の 後 に 続 く 日 本 人 留 学 生 の 心 に 強 く訴 え か け る も の が あ っ た の で は な か ろ うか55), 習 評 価 が 収 録 さ れ て い る. ま た ス コ ッ ト ラ ン ド人 も,東 に,工 び V.結 ギ リス の 洋 の 日本 の 中 業 的 に は未 発 達 で あ っ て も高 い 文 化 水 準 を 見 い 出 し 「東 洋 の イ ギ リス 」 の 未 来 を 期 1860年 代 か ら80年 代 に か け て の グ ラ ス ゴ ウ は,ヴ ィ ク ト リア 大 英 帝 国 を 象 徴 す る 「産 業 の 都 」 と し て 栄 え た.グ swegian)は,ロ ラ ス ゴ ウ 市 民(Gla・ ソ ド ン は 「政 治 ・金 融 の 待 し,通 商 利 益 以 外 の 同 情 と期 待 を よ せ た と し て も 何 ら 不 思 議 で は な か っ た.例 え ぽ::1 年 の グ ラ ス ゴ ウ 市 の 職 業 記 録 にJapaneseが 七 店 載 っ て い る.こ れ はChinaが 陶器 な ら 都 」,エ デ ィ ン バ ラ は 「芸 術 ・文 化 の 都 」,グ ばJapaneseは ラ ス ゴ ウ は 「産 業 ・技 術 の 都 」 と し て の 自 負 塗 器 専 門 店 が あ っ た こ と を 示 し て い る.ま 心 を も っ て い た. 『宝 島 』 を 書 い た 著 名 な 小 説 家 ス テ ィ ー ブ ン そ し て グ ラ ス ゴ ウ は,ア パ 大 陸,ア フ リ カ,極 ら せ て い た.そ ョ ン を 通 し て,数 メ リ カ,ヨ ー ロッ 東 へ 通 商 網 を 張 りめ ぐ の ス コ ッ ト ラ ン ド人 コ ネ ク シ 多 くのお 雇 い外 国 人 が 幕 末 ・維 新 期 の 我 国 に や っ て き た5A).そ の代表が 54)拙 稿 「日蘇 比 較 経 済 史 一 明治 維 新 とス コ ッ トラ ソ ド人一 」(r創 価 大 学10周 年 記 念 論 集 』 1980年)参 照 され た い. 塗 器 を 意 味 した こ と か ら,当 時 ソ ン(R.L.Stevenson)が,エ た デ ィ ソ バ ラ の1 実 家 に 灯 台 技 術 を 学 び に 来 て い た 日本 人 青 年 か ら 「吉 田 松 陰 」 の 話 を 聞 い て,r吉 郎 』 を 書 い た 話 や,昨 田寅 次 今 我 国 で も ブ ー ムを 呼 ん で い る グ ラス ゴ ウ の生 ん だ 偉 大 な ヴ ィク ト 55)グ ラ ス ゴ ウ大 学 資 料 室 倉 庫 に て1880-1914年 の 間 日本 人 留 学 生 約50名 の資 料 を発 見 した.ま た 夏 目漱 石 も1901年 に来 学 して い る. 3・・ 創 価 経 済 論 集Vo1.XNo.2 リ ア 期 美 術 デ ザ イ ソ 家 マ ッキ ン ト ッ シ ュ(C. 育 に 加 え て,ド R.Nrackintiosh)が え,イ 我 国 の 文 化 に 深 く傾 注 し て い た こ と も,両 国 の当時文 化的交流 の一端 を 物 語 っ て い る の で は な か ろ うか56). そ れ で は 何 故 我 国 で,ま で,こ の よ うな紐 が 忘 れ され て い った の か が 問 題 とな ろ う.明 ギ リス(ス 治 維 新 の 際 の 天 皇r五 力条 コ ッ ト ラ ン ド)主 義を一層 消 し去 っ て ゆ く こ と に な っ た の で は な い だ ろ うか.事 た ス コ ッ トラ ン ド イ ツ を モ デ ル とし て 置 き か 実,我 国 の 事 典 類 を 見 て も 「工 部 大 学 校 」 教 師 や 当 時 の イ ギ リス 人 が 我 国 で の 工 業 化 に 貢 献 し な が ら,ま た 後 に母 国 で も傑 出 した 人 物 とな っ た に も か か わ ら ず,著 し く記 御 誓 文 』 の 「知 識 を 広 く世 界 に 求 め て … … 」 録 が 残 さ れ ず,ま の 勅 語 を 背 景 に し て,我 不 思 議 さ が そ の 「歴 史 の 屈 折 」 を 物 語 っ て い 遂 行 さ れ た.し 国 の工 業 化 プ ラ ソ は か し工 業 化 の プ ロセ ス で 生 じ た 我 国 の 近 代 化 問 題 に 遭 遇 し て一 一っ ま り自 由 民 権 運 動 一,為 政 者 は イ ギ リス ニ 院 議 会 た 評 価 さ れ て い な い こ との る. そ の 後 山尾 庸 三 は工 部 大 丞 を 歴 任 し,明 工 部大輔 な ど 治13年(1880)2月 に は工 部 卿 制 を 外 形 と し て 約 束 し な が ら も実 施 段 階 に は に 昇 任 し て 子 爵 を 授 け られ た.さ 明 白 に ドイ ツ社 会 を モ デ ル とす る 方 向 転 換 を 議 官 ・同 副 議 長 ・宮 中 顧 問 官 ・法 制 局 長 官 ・ 示 し た.ま 有 栖 川 宮 別 当 兼 北 白 川 宮 別 当 ・臨 時 建 築 局 総 た 普 仏 戦 争(1871年)の ドイ ツ 勝 利 の 影 響 が 大 で あ っ た. 裁 兼 務 な ど を 経 て 明 治31年(1898)辞 っ ま りそ の 昔 イ ギ リ ス(ス コ ッ ト ラ ン ド) モ デ ル に 傾 注 して我 国工 業 化 の プ ロ グ ラ ム を 作 成 した 伊 藤 博 文 自 身 も,国 mッ 会 開 設 のた め ヨ パ 大 陸 調 査 の 旅 の 中 で,政 府 内 の時勢 に 同 調 し て 政 治 は ドイ ツ 流 に 近 代 化 を 計 る こ とに 決 め た の で あ る.そ して 彼 の顧 問 として ドイ ツ 人 学 者 モ ー ゼ(AlbertMosse,伊 博 文 の 法 律 顧 問,外 務 省 顧 問1886-90年 リ ィェ ズ(Ludwig.Riess,東 ユ887年 に 招 か れ る.1902年 ゲ ン(Karl.Rathgen,東 授1882-90年 滞 在)等 らに参 事 院 藤 滞 在), 大歴史 学教授 ま で 滞 在),ラ ス 大 法 律 ・政 治 学 教 の 影 響 下 に,そ れ以前 そ の 後 は 文 墨 を 楽 し ん で 余 生 を 送 り,大 年(1917)12月 他 方 ダ ィ ア ー は,明 に 辞 職 し,ス る.彼 治15年(1882)6月 コ ッ ト ラ ン ドの グ ラ ス ゴ ウ に 戻 の 日 本 に 居 た10年 間 は 真 に 歴 史 の 変 革 期 で あ っ た.っ ま り新 生 日本 の 著 し い 工 業 化 と ヴ ィ ク ト リ ア 後 期 の 衰 退 を 迎}た が,彼 イ ギ リス に は 明 白 な対 比 として 映 った に ちが い な い. 個 人 的 は 家 族 的 理 由 か ら 帰 国 し た とい わ れ る ダ イ ア ー は57),グ ラ ス ゴ ウ で 顧 問 技 師(C- onsultingengineer)と して 労 使 問 題 の 調 停 を っ とめ,1886年 56)マ ッキ ン トッシ ュの 関 与 したGlasgowScho010fArtsは 市 内 の 中 心 街 の 丘 の上 に あ る. コ レ ッ ジ を 中 心 に 合 併,設 した 記 録 もあ る.T.Howarth,CharlesRennieMackintoshandtheModernMovement, RoutledgeandKeganPaulLtd;1952.pp223 -225 正6 に81歳 の 高 齢 を も っ て 没 し た 。 に 始 め て い た 日本 人 に よ る 日本 語 で の 大 学 教 図 書 室 や ア トリエ,有 名 な ク ラ ンス トン喫 茶 店 (CranstonTeaRoom)も 日本 芸 術 の 影 響 とい わ れ る.そ の 学 校 のHornelとHenryが 来日 職 し, 教 育 法下 に ア ン ダ ー ソ ン ・ 立 された グラス ゴ ウ ・ス コ ヅ トラ ン ド西 部 技 術 短 大(Glasgow andWestofScotilandTechnicalCollege) 57)ダ イ ア ー の帰 国 につ い て は,子 供 の教 育(拙 稿 前 掲 『帰 国後 の ダ イ ア ー 』50頁)問 題 と グ ラ ス ゴ ウ大 学 造 船 学 教 授 へ の 志 願 が あ った と思 わ れ る. March1981北 政 巳:日 蘇比較経 済史 の一考察 の 創 立 に 貢 献 し,終 身 総 裁 とな っ た.そ の他 30r る(1918年)頃 に は,日 本 は ア ジ ア の一 大 強 グ ラ ス ゴ ウ は ス コ ッ トラ ン ド西 部 農 業 短 大 国 とな り,イ (GlasgowandWestofScotlandAgricul- 脅 や か す に 至 っ て い た.そ turalCollege)総 っ,ま 裁,グ ラ ス ゴ ウ教 育 委 員 会 (GlasgowSchoolBoard.1914年 以 来,そ の 議 長)で も 活 躍 した.一 面 華 や か に 映 りもす る が,そ れ ら の 要 職 も 社 会 的 活 動 に す ぎ ず, りっ コ ッ ト ラ ソ ドに お け る 彼 に 対 す る 風 当 りを 感 じ っ つ,ダ イ ア ー に は 寂 しい 晩 年 で あ っ た の で は な か ろ うか58). (昭 和55年10月20日 受付 創 価 大 学 助 教 授) れゆえ 58)彼 彼 の 日 本 観 は 「郷 愁 」 を こ め て 高 ま り,ま そ の 後 の 日本 の 工 業 発 展 は,彼 の動 き を 知 た 日 本 に お け る ドイ ツ 人 学 者 に よ る 教 育 変 革,ス 本 職 に お い て は 彼 が 日本 で 達 成 し た 程 の 「立 場 」 を 与 え ら れ る こ と は な か っ た.そ ギ リス資 本 主 義 を ア ジ ア市 場 で た に 自身 の 工 業 の思想につ いては 「ヘ ン リ ー ・ダ イ ア ー と 日 本 」(『 創 大 ア ジ ア 研 究 所 』 創 刊 号1979年)を 参 照 さ れ た い.彼 の 「工 業 進 化 論 』(坪 谷 訳 TheEvolutionoflndustry.Macmillan.Lon- 教 育 理 念 の 実 証 を 一 層 深 く 信 じ さ せ,「 東 洋 don1895)は の イ ギ リス 」 研 究 に っ い て の 著 作 を 発 表 す る を 評 価 し て お り,我 こ と に 専 心 した. っ た の で あ る. し か し皮 肉 に も20世 紀 に 入 り,彼 の 亡 くな 市 民 社 会 運 動 ・労 働 者 の 組 合 活 動 国 で 訳 書 は 発 禁 と さ れ た. つ ま り我 国 の 歴 史 の 流 れ か ら も 彼 は 外 さ れ て い