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6章 摂関政治と院政 1 藤原氏の台頭と他氏排斥
本科 / Z Study サポート / 日本史 見本 6章 RNA5C2-Z1J1-01 摂関政治と院政 学習時間のめやす 40分 すが わらの みち ざね 学問の神様として北野天満宮に祀られている菅 原 道真は,藤原氏によって この章で 学ぶこと 排除された貴族の1人である。藤原氏の栄華の陰には,彼のように陰謀によっ て陥れられた,数々のライバルたちの存在があった。今回は藤原氏による摂関 政治の展開から,院政までの流れを確認しよう。 1 藤原氏の台頭と他氏排斥 1 藤原北家の台頭 ⑴ 藤原冬嗣の台頭 奈良時代から隆盛を誇った藤原式家は,藤原 薬子・仲成を最後に衰退し,代わって嵯峨天皇 の信任を得,薬子の変に際し蔵人頭に任命され た,藤原冬嗣の北家が勢力を伸ばした。冬嗣は にょう ご 娘を天皇の 女 御 とし,その子を天皇につけて ▼藤原氏と皇室の系図(その1)(太字は天皇) 藤原冬嗣 順子 仁明 明子 文徳 光孝 基経(良房養子) 清和 がいせき 外祖父となり,外戚の地位を確立した。 ➡当時,子は妻の実家で育てられたため,外戚と 忠平 時平 陽成 なることは権力を握る上で非常に重要であった。 宇多 右の系図で,藤原氏を外戚に持つ天皇に○を付 良房 醍醐 けよう。 実頼 ⑵ 藤原良房の時代 よしふさ じょう わ 冬嗣の子藤原良房は842年, 承 和の変に際し とものこわみね はやなり 伴 健岑・橘逸勢らを排斥した。また,85柒年に 太政大臣となり,さらに翌年外孫の清和天皇が 村上 朱雀 兼家 兼通 円融 冷泉 よし お きの とよ き 即位すると,事実上,臣下初の摂政となった。866年の①応天門の変では,伴善男・紀豊城ら を排斥して正式に摂政に就任した。 ⑶ 藤原基経の時代 もと つね 良房の養子であった藤原基 経 は,光孝天皇を擁立し,実質上の関白に就任した。88柒年に あ こう ふん ぎ ひろ み ②阿衡の紛議が起こると,翌年橘広相が処分されて,基経は正式に関白となった。 臣下で最初の摂政➡藤原良房(実質-858年/正式-866年) 関白➡藤原基経(実質-884年/正式-887年) ⑷ 藤原時平の時代 う だ だい ご 光孝天皇の後の宇多天皇は,藤原氏と外戚関係になく,基経の死後親政を行い,次の醍醐天 だ ざいのごんの 皇も親政を行った。基経の子藤原時平は,宇多・醍醐両天皇に重用された菅原道真を大 宰 権 そち 帥に左遷し,排斥したものの,摂政・関白になることができなかった。 ⑸ 藤原実頼の時代 ただひら さねより れいぜい 藤原忠平の子藤原実頼は,右大臣・左大臣を経て,冷泉天皇の時に関白となると,969年に あん な たかあきら ③安和の変で源高 明 を排斥した後は摂政となった。以後11世紀後半まで摂政・関白はほぼ常 置となり,摂関の地位を独占した藤原氏による摂関政治が続いた。 50 RNA5C2-Z1J1-02 ▼藤原氏の他氏排斥・示威事件 810年 薬子の変(×藤原薬子ら) 藤原冬嗣 888年 阿衡の紛議(×橘広相) 藤原基経 842年 承和の変(×伴健岑ら) 藤原良房 901年 菅原道真の左遷 藤原時平 866年 応天門の変(×伴善男ら) 藤原良房 969年 安和の変(×源高明) 藤原実頼 2 延喜・天暦の治 藤原氏の他氏排斥が進む中,藤原氏と外戚関係を持たず,天皇親政を実施した天皇もいた。 これらの天皇は律令体制の再建をめざした。 ⑵ 宇多天皇 かんぴょう 宇多天皇による親政は891年に始まり,寛 平 の治と呼ばれた。関白藤原基経の死後,菅原道 ざんげん 真を重用し,藤原氏の勢力を抑えた。しかし道真は,醍醐天皇の時,藤原時平の讒言により大 宰府へ左遷された。 ⑶ 醍醐天皇 えん ぎ 9世紀末~10世紀前半の醍醐天皇の親政は,延喜の治と呼ばれる。醍醐天皇は902年に④延 喜の荘園整理令を発し,また班田も励行した。しかし,当時すでに12年に1班であった班田の ようぜい 実施は,記録に残るものはこの年が最後となった。また,清和・陽成・光孝天皇の時代を扱っ へんさん きのつらゆき た正史『日本三代実録』の編纂(901)や,八代集(8つの勅撰和歌集)の最初で紀貫之らの 編の『古今和歌集』の勅撰(905), 『延喜格式』の制定を行った。 ⑷ 村上天皇 てんりゃく 10世紀半ばに行われた村上天皇の親政が天 暦 の治である。951年に八代集の2番目『後撰和 したごう けんげんたいほう 歌集』を源 順 らに編纂させ,皇朝十二銭の最後乾元大宝の鋳造(958)を実施した。 ①応天門の変 866(貞観8)年,朝堂院南面の応天 だい な ごん 年,天皇が詔の起草者橘広相の非を詫び,決着した。 ため ひら 門が炎上した。大 納 言 伴善男は,これを左大臣源 ③安和の変 969(安和2)年,左大臣源高明が為平 信 の放火として讒言し,その失脚をねらったが失 親王(冷泉天皇の弟)の擁立を企てたとして源満仲 敗,伊豆国に流された。この事件は,院政期の絵巻 に密告され,藤原実頼は源高明を大宰府に左遷した。 まこと ばん 物「伴大納言絵巻」にも描かれた。 ②阿衡の紛議 藤原基経を関白に任ずる宇多天皇の詔 この事件で藤原氏の他氏排斥は完了した。 ④延喜の荘園整理令 902(延喜2)年,醍醐天皇が いんぐうおう の「阿衡の任に任ず」という文言を,基経は「阿衡」 出した最初の荘園整理令で,勅旨田の禁止,院宮王 は名誉職で職掌を伴わないとし政務を放棄した。翌 臣家による山川藪沢の占有禁止がその内容であった。 しん け 51 さんせんそうたく 摂関政治と院政 6章 ⑴ 天皇親政 RNA5C2-Z1J1-03 2 荘園制度と武士の台頭 1 班田制の崩壊 ⑴ 初期荘園 8~9世紀には,王臣家や寺社が自ら開発した自墾地系荘園,買収した既墾地系荘園などの 墾田地系荘園が急激に増加した。これらの初期荘園は付近の農民の賃租により経営されたが, 浮浪・逃亡などの増加により衰退していった。 ⑵ 地方支配の転換 10世紀初頭,政府は課税の対象を人から土地へと転換し,国司に中央への納税を請け負わせ, こく が 一国の支配を任せるようになった。国司の支配下に置かれた公領(国衙領)は,次第に国司の 私物と化した。 ⑶ 名主の登場 かん もつ ぞう やく 国司は有力農民に田地の耕作を請け負わせ,官物・臨時雑役を納入させた。徴税対象とな みょう た と る田地を 名 (名田)といい,請負人の名が付けられた。また,請け負う農民は田堵と呼ばれ, みょうしゅ だいみょう のち 名 主に成長した。とくに勢力の大きい田堵は大 名 田堵と呼ばれた。 2 寄進地系荘園の発達 ⑴ 寄進地系荘園の発生 10世紀以降,地方の①開発領主たちは,農民や田地を強力に支配するようになった。彼らは 国司の課税・収奪を免れるため,荘園として有力な貴族・寺社などに土地を寄進し,自らは現 地の荘官となった。こうした荘園を寄進地系荘園と呼ぶ。 ⑵ 荘園の特権 だ じょうかん 荘園の中には,不輸の権と呼ばれる租税免除の特権を得るものもあり,太 政 官符や民部省 かんしょう ふ しょう こくめんのしょう 符により不輸の権を得た荘園を官 省 符 荘 ,国司免判により不輸の権を得た荘園を国 免 荘 と 呼んだ。さらに,検田使など国司の使者の立ち入りを拒否できる不入の権もあった。 ⑶ 寄進地系荘園の仕組み りょう け 寄進を受けた領主を 領 家,さらに,その荘園を上級の天皇家・摂関家などに寄進した場合, ほんじょ その上級領主を本家と呼んだ。そして両者のうち実質的な支配権を持つ者を本所と呼んだ。 ▼寄進地系荘園と公領 寄 進 荘 園(10世紀∼) 荘官(預所・下司など) 保 護 貴族・社寺 寄 進 保 護 (領家) 本所 上級貴族・社寺 (本家) 開発領主 国 衙 国 司 朝 廷 公領(11世紀∼) 目代 在庁官人 ⑷ 荘園整理令の発布 郡司・郷司・保司 官物・臨時雑役 (年貢・公事・夫役) 名田 かんとく 1045年の後冷泉天皇による寛徳の荘園整理令など,政府は荘園整理令を何度か発布したが, けん けい 効果はあまりなかった。しかし,1069年,後三条天皇は記録荘園券契所(記録所)を設置し, えんきゅう ②延 久 の荘園整理令を断行した。この整理令は摂関家の荘園にも及んだ。 52 RNA5C2-Z1J1-04 3 地方武士の台頭 ⑴ 武士団の形成 力を蓄えた豪族・有力農民の中には,関東地方を中心に,武装して治安維持や勢力拡大に乗 いえの こ り出す者が現れた。彼らは一族( 家 子)や従者(郎党)を率いて武士団を形成した。武士団 とうりょう は次第に統合され,貴族や大豪族出身の武家の棟 梁 に率いられるようになった。 摂関政治と院政 6章 つねもと ⑵ 承平・天慶の乱 123 武家の棟梁 清和源氏(祖:源経基) たかもち 桓武平氏(祖:平高望) ▼主な武士団と武士の反乱 まさ かど 939~40年,平高望の孫平将 門 が関 前九年の役 後三年の役 東で反乱を起こし,939~41年には海 すみとも 賊の棟梁である藤原純友が瀬戸内海で 反乱を起こした。この2つの乱を合わ じょうへい 多田源氏 刀伊の入寇 てんぎょう せて③ 承 平・天 慶 の乱という。 平将門の乱 ⑶ 平忠常の乱 平高望の曾孫平忠常は房総地方を占 拠,1028年に政府に対して反乱を起こ 河内源氏 したが,源頼信に平定された(平忠常 藤原純友の乱 の乱)。 ⑷ 前九年の役 あ べの より とき 平忠常の乱 伊勢平氏 さだ とう 奥州では,1051年に土豪安 倍 頼 時・貞 任 が国司に対して反乱を起こしたが,1062年,源頼 よしいえ 義・義家に鎮圧された(前九年の役) 。 ⑸ 後三年の役 きよ 1083年,奥州の清原氏で内紛が起こると,源義家はこれに介入し,108柒年に清原(藤原)清 ひら 衡を助けて清原氏を滅ぼした(後三年の役)。この時,義家は私財を投じて武士に恩賞を与え て武家の棟梁として信望を集めた。 ➡上の地図中の「刀伊の入寇」では,九州の武士団が活躍した。武士の勢力が全国に拡大していることを 確認しよう。 ①開発領主 私力で土地を開墾した在地領主層。本来 とした。 大名田堵や地方豪族であった者が多い。平安時代中 ③承平・天慶の乱 平将門の乱と藤原純友の乱の総称。 期以降は寄進を行い荘官・名主となって,実質的な 将門の乱は,下総国猿島(茨城県)を根拠とする平 支配権を保持した。 将門が一時関東を支配したが,平貞盛・藤原秀郷ら しもうさ さ しま さだもり い よ ②延久の荘園整理令 1045(寛徳2)年以後の新たな ひでさと ひ ぶりしま に鎮圧されたもの。純友の乱は,伊予国日振島(愛 荘園や,それ以前のものでも券契(証拠書類)不明 媛県)を根拠とする藤原純友が大宰府などを襲撃し, の荘園や国司の務めを妨げる荘園は認めない,など 源経基・小野好古らに鎮圧されたものである。 よしふる 53 RNA5C2-Z1J1-05 3 摂関政治と国風文化 1 藤原道長・頼通の時代 ⑴ 氏の長者をめぐる争い 他氏排斥後,摂関家(藤原北家)で うじ (太字は天皇) 実頼 ちょう じゃ 兼家 兼通 道長 道兼 かねいえ 朱雀 の争いが起こった。10世紀後半には藤原 村上 は,氏 の 長 者 の地位をめぐって内部で かねみち ▼藤原氏と皇室の系図(その2) これちか 道隆 冷泉 父・甥の争いなどが相次いだ。 円融 兼通・兼家の兄弟,藤原道長・伊周の叔 ⑵ 藤原道長 995年,道長が氏の長者となると,内 伊周 隆家 定子 教通 頼通 彰子 子 威子 嬉子 や皇太子妃にし,後一条・後朱雀・後冷 花山 一条 す ざく 三条 ちゅう ぐう 紛は収まった。道長は4人の娘を 中 宮 泉天皇の外祖父として,摂政・太政大臣 い し き けん し 後三条 後冷泉 師実 しょう し ➡右の系図で,道長の娘(彰 子・姸 子・ 後一条 ほうじょう じ た。また晩年には法 成 寺を建立した。 後朱雀 の地位に就き,藤原氏の全盛期を現出し し 威 子・嬉 子 )とその子に当たる天皇に ○をつけよう。 ⑶ 藤原頼通 よりみち 道長の子の藤原頼通も50年余りにわたって摂政・関白を務め,摂関政治は安定期を迎えた。 2 対外関係 ⑴ 遣唐使の廃止 8世紀後半以降の唐は衰退の一途をたどり,渡海の危険性も高かったことから,894年,菅 原道真の建議により,遣唐使は廃止された。 ⑵ 東アジア情勢の変化 そう 90柒年に唐は滅亡し,のち宋が成立した。宋と日本は正式な国交は開かなかったが,私貿易 こう らい きっ たん は行われた。朝鮮半島は10世紀前半に興った高麗により統一された。渤海は926年に契丹(の りょう じょしん と い ちの 遼 )に滅ぼされたが,その後遼の支配下にあった女真族により①刀伊の入寇が起こった。 3 地方政治の乱れ ⑴ 売官売位の風潮 ゆだ 1国の支配を委ねられた国司の地位は次第に徴税請負人と化し,利権視された。そのため, じょうごう ちょうにん 金銭で官職を得る 成 功や,成功などにより同一官職に再任される 重 任が盛んに行われた。 ⑵ 遙任の登場 もくだい ようにん 国司の中には,自らは任国に赴任せず,現地の国衙へ目代を派遣する遙任となる者も現れた。 国衙の組織が整備されると,目代の下で在庁官人と呼ばれる役人が実務を行った。 ⑶ 受領の横暴 ず りょう 自ら任国に赴任した国司の最上席者は受 領 と呼ばれた。受領の中には巨利を得ようと強引 お わりのくにぐん じ ひゃくしょうらの げ な支配を行い,②尾 張 国郡司 百 姓 等解(988)に見られるように,農民に訴えられる者もい た。 54 RNA5C2-Z1J1-06 4 国風文化(藤原文化) ⑴ 特色 遣唐使廃止後,中国文化の影響を消化して日本的な国風文化が形成された。藤原氏の摂関政 治全盛期に当たり,文化の担い手は貴族である。 ⑵ かな文字の誕生 国風文化では,かな文字が発達し,日本人独特の感情を伝える物語文学・日記文学が隆盛と ⑶ 文学 きんとう 和歌・漢詩文では,初の勅撰和歌集である『古今和歌集』や,藤原公任編の『和漢朗詠集』 い せ う つ ぼ が生まれた。物語文学では『竹取物語』(作者未詳)をはじめ, 『伊勢物語』『宇津保物語』(と もに作者未詳) ・ 『源氏物語』(紫式部)などがある。日記文学は紀貫之の『土佐日記』に始ま かげろう みちつな さらしな たかすえ むすめ いずみ り, 『蜻蛉日記』(藤原道綱の母) ・『更級日記』(菅原孝標の 女 ) ・『和泉式部日記』 (和泉式部) などが書かれた。随筆では『枕草子』 (清少納言)が傑作として名高い。 ⑷ 浄土教 まっぽう 10世紀以降,③末法思想の流行を背景に,阿弥陀仏にすがり,念仏を唱えて極楽往生を願う くう や げんしん 浄土教が発達した。10世紀半ばには空也が京都で布教活動を展開し,源信が『往生要集』 (985) で極楽往生の教えを説いた。 ⑸ 浄土教美術 よししげのやすたね びょうどういんほうおうどう 『日本往生極楽記』(慶 滋 保胤)などの往生伝が盛んに書かれ, 平 等院鳳凰堂(1053年に藤 ほうかい じ じょうちょう 原頼通が建立)・法界寺阿弥陀堂などの阿弥陀堂も多数作られた。仏像では 定 朝 の手に成る らいごう 「平等院鳳凰堂阿弥陀如来像」 (寄木造)や,定朝様式の「法界寺阿弥陀如来像」がある。来迎 ず しょうじゅ 図も盛んに描かれ, 「高野山 聖 衆来迎図」 「平等院鳳凰堂扉絵」などが残されている。 ⑹ 貴族の日常 貴族の日常でも国風化は進んだ。貴族 ▼寝殿造 西の対屋 しん でん づくり の住む寝 殿 造 の屋敷では,屛風や障子に やまと え こ せの かな おか そく たい が知られる。服装は,男性は衣冠・束帯・ かりぎぬ じゅう に ひとえ こ うちき 釣殿 はかま 小 袿 ・ 袴 が中心であった。 ⑺ 書道 廊 廊 中門 東門 のうし 直衣・狩衣,女性は女房装束( 十 二 単 ) ・ 寝殿 中門 い かん 西門 大 和絵 が描かれた。大和絵では巨 勢 金 岡 東の対屋 みち 書道でも日本風の和様が発達し,小野道 かぜ すけまさ 風( 『秋萩帖』)・藤原佐理(『離洛帖』 ) ・藤 ゆきなり さんせき 原行成の3人の名手が三跡と呼ばれた。 ①刀伊の入寇 1019(寛仁3)年,沿海州地方の女真 族(刀伊)が対馬・壱岐・北九州沿岸に来襲,大宰 職処分となった。 しょう ぼう ③末法思想 仏法の教えでは仏滅後1000年を 正 法, ぞうぼう 権帥の藤原隆家らが撃退した。 続く1000年を像法,その後1万年を仏法の衰える末 ②尾張国郡司百姓等解 988(永延2)年,尾張国 法とし,1052(永承7)年が末法初年であるとされ もと なが (愛知県)の郡司・農民らが,国司の藤原元命の悪 た。 政を31カ条にまとめ,その罷免を訴えた。元命は停 55 6章 摂関政治と院政 なった。また,女性の書き手を数多く生んだ。 RNA5C2-Z1J1-07 4 院政の時代 1 院政の時代 ⑴ 後三条天皇の時代 おおえのまさふさ 時の摂政・関白を外戚に持たない後三条天皇は,摂関家の力を抑え,学者大江匡房らを登用 し,天皇親政を行い,延久の荘園整理令の発布などを行った。 ⑵ 院政の成立 続く白河天皇は1086年に堀河天皇へ譲位し,上皇となり院政を開始した。上皇(または法 いんのちょう いんの ご しょ くだしぶみ 皇)は 院 庁 での政務を執り, 院 御所を北面の武士に警護させた。院庁が発する院庁 下 文や いんぜん 上皇の命を伝える院宣は,国政に大きな影響力を持つようになった。また,上皇や法皇の側近 は院の近臣と呼ばれ,この時期勢力を伸ばした。 院の財政基盤➡寄進された荘園, ①知行国の制度(②院分国の制度) ⑶ 上皇と信仰 あつ くま の もうで こう や もうで ろくしょう じ 上皇は仏教への信仰も篤く,熊野 詣 ・高野 詣 を行い,③六 勝 寺を建立した。 ごう そ また,興福寺・延暦寺など大寺院の僧兵(武装した下級僧侶)は,しばしば朝廷に強訴し, 実力で要求を貫徹しようとした。 ⑷ 保元の乱 す とく ただ みち より なが ため 1156年,後白河天皇と崇徳上皇,関白藤原忠通と左大臣藤原頼長が対立,崇徳上皇は源為 よし ただ まさ よし とも 義・平忠正らの武士を用いて天皇方と戦ったが,源義朝や平清盛が加勢した後白河天皇方の ほうげん 勝利に終わった(保元の乱) 。武力による貴族間の紛争の解決は,武士の中央進出の契機とも なった。 ▼保元の乱での対立 ○ 後白河天皇方 × 崇徳上皇方 後白河天皇(弟) 藤原忠通(兄) 源義朝(兄) [天皇家] [藤原氏] [源氏] 崇徳上皇(兄) 藤原頼長(弟) 平清盛(甥) [平氏] 源為義(父) ・為朝(弟) ⑸ 平治の乱 平忠正(叔父) へい じ 1159年,今度は源氏と平氏が対立,院の近臣であった藤原氏と結びついて平治の乱が起こっ た。その結果,勝利した平氏が政権へ近づいた。 ▼平治の乱での対立 ○ 藤原通憲(信西) [平氏] 平清盛 藤原信頼 [源氏] 源義朝 [藤原氏(院の近臣)] × 56 RNA5C2-Z1J1-08 2 院政期の文化 ⑴ 特色 平安時代末期,武士らの台頭は貴族文化にも影響を与え,新しい文化が生まれた。さらに文 化は地方へと波及し,武士や庶民を担い手とする文化も生まれた。 ⑵ 歴史物語 えい が この頃には,摂関時代の歴史を振り返る歴史物語が生まれ, 『栄花物語』(赤染衛門か?) ・ おおかがみ ためつね 藤原氏の栄華を描いた歴史物語 『栄花物語』 :藤原道長の栄華を讃美⇔『大鏡』:摂関政治に批判的 ⑶ 説話文学・軍記物語 こんじゃく 武士・庶民の活動を描く説話文学・軍記物語も数多く書かれた。説話文学には『今 昔 物語 む つ わ き 集』(源隆国編か?),軍記物語には前九年の役を描いた『陸奥話記』(作者未詳)や平将門の しょうもん き 乱を描いた『 将 門記』(作者未詳)などがある。 ⑷ 歌謡 いまよう でんがく 平安時代末期には,④今様と呼ばれる歌謡や,田植祭の神事から生まれた田楽などが貴族の りょうじん ひ しょう さい ば ら 間で流行した。後白河法皇は『 梁 塵秘 抄 』を編纂し,今様・催馬楽(古代の歌謡)の集成・ 分類を行った。 ⑸ 美術 この時代の絵画では絵巻物が盛んとなった。 「源氏物語絵巻」(作者未詳)や応天門の変を描 と き わ みつなが し ぎ さん ちょうじゅう ぎ が と いた「伴大納言絵巻」 (常磐光長)のほか, 「信貴山縁起絵巻」(作者未詳) ,「 鳥 獣 戯画」(鳥 ば そうじょうかくゆう 羽僧 正 覚猷か?)が有名である。 ⑹ 地方文化の発展 ちゅうそん じ 阿弥陀堂建築は地方にも普及し,奥州藤原氏が建立した 中 尊寺金色堂(岩手県)をはじめ, ふ き じ おおどう しらみず いつくしま 富貴寺大堂(大分県),白水阿弥陀堂(福島県)などが建てられた。また,絵画では 厳 島神社 (広島県)に「平家納経」が残されている。 ①知行国の制度 国の支配権を貴族や寺社に与え,そ ③六勝寺 白河天皇以後の院政期に,皇室の発願によ の国からの収入を得させる制度。これを得た知行国 り京都の岡崎に建立された法 勝 寺・尊勝寺・最勝 主は,国司の長官である守の推薦権を持った。 寺・円勝寺・ 成 勝 寺・延勝寺の「勝」の字の付く ほっ しょう じ かみ じょうしょう ②院分国の制度 院や女院が特定の国の国守を推挙し, その国からの収入を得る制度。 6つの寺院の総称。 ④今様 平安時代末期に庶民・貴族の間に流行した 七五調の歌謡。 57 6章 摂関政治と院政 『大 鏡 』(作者未詳) ・ 『今鏡』 (藤原為経か?)が書かれた。