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妙楽寺ヒシロ遺跡発掘概要
妙楽寺ヒシロ遺跡発掘概要 豊岡市出土文化財管理センター 宮村良雄 中村由美 はじめに 妙楽寺ヒシロ遺跡の現地発掘調査は終了したが、整理作業はまだ着手したばかりであり、 遺跡の本格的な評価はこれからの大きな課題であね、今回は現場での印象を述べて遺跡の 紹介としたい。 発掘調査は、豊岡市教育委員会出土文化財管理センターが実施した。調査期間は、後述 するように山城の調査を予定しており比較的短期間を予定していたが、中世墓の存在が明 らかになり、予定より大幅に延長した。平成15年4月1日に調査着手し、同12月22日に終 了した。しかし調査体制は途中からの補強はできず、スタッフには大変な苦労をかけた。 本調査の契機は、市街地の中心部にある丘陵上(通称神武山)の上水道配水池の老朽化 に伴う新配水池築造工事に先立つ発掘調査である。調査原因となったタンクは、現在市内 にある配水池のなかで最も早くに建設され老朽化が進み市街地中心部に位置するなどその 重要性は極めて高く、早期の新配水池の建設を必要としていた。施設の性格上多くの候補 地は望めず、市教育委員会と市水道事業所は協議を重ねてきたが、調査地が最終的に選定 された。調査地はしっかりとした平坦部であり、調査以前から寺院ないし山城跡に関係す る遺構が存在することは確実視されていた場所である。 調査の概要 立地と外形 妙楽寺ヒシロ遺跡は、JR山陰本線豊岡駅南約1.3㎞の豊岡盆地西側に所在す る南から北に連なる丘陵上に位置する。遺跡は、付近最高所でも標高71mと比較的低い丘 陵主尾根稜線から、盆地側南東方向にのびた枝尾根稜線部分の妙楽寺字ヒシロに所在する。 標高40∼45mに立地し、東および南東に円山川その支流出石川との合流点とそれらの河川 が形成した豊岡盆地の平野部の一部を見下ろし盆地東側の丘陵に市内でも重要な山城のい くつかが見渡せる。兵庫県立但馬文教府のある主尾根稜線から本調査地が立地する枝尾根 を含めて北側に広がる丘陵上は中世の山城の曲輪ないし寺跡遺構の存在が考えられる平坦 部が広く分布する。調査地の南1.1㎞の市内九日市上町は但馬守護山名氏の居館跡の推定 地が所在する。(註1)丘陵は途中から東に折れその先端部(神武山)に但馬豊岡城が織 豊期に造られ現在の豊岡市の基礎となる城下町が形成された。 調査地がある妙楽寺の丘陵は、但馬文教府建設に伴う一連の工事中に出土した多量の密 教法具や石造物、妙楽寺裏山散策道整備中に発見された経筒など寺院伽藍を含めた大規模 な仏教遺跡が所在することが知られていた。(註2)しかしその後詳しい調査がされるこ となく、遺跡全体の詳しい様相は明らかにならないまま今日に至った。昨年3月本センタ ーと豊岡公民館共催の歴史講演会で、城郭研究家西尾孝昌氏によって妙楽寺の丘陵の中世 から戦国期にかけた大規模な中世城郭の縄張り図と中世寺院から城郭への変遷の問題が提 起された。 また本調査地の南に続く主尾根稜線上には、鉄製武器類を含む多くの鉄製品が出土した 妙楽寺墳墓群、前方後円墳見手山1号墳はじめとする古墳群と豊岡市域のなかでも重要な 古代の遺跡が所在する。 調査区画 調査地は、妙楽寺遺跡群のなかでは長軸37m・短軸20m、標高45mの比較的規 模のしっかりした曲輪とそれに付属する長軸20m・短軸5m、標高43mの小規模な曲輪の ひとつと考えていた。 平坦部北西端は、以前の道路工事で平坦部から上につながっていく地形(切岸)も含め て切断破壊され、完全に旧地形をとどめない。しかし、道路をはさんで高い側に建つ但馬 文教府の宿泊棟は、本平坦部に連続する平坦部(曲輪)のひとつに建てられている。さら に平坦部から南東に下る稜線部分には数段からなる平坦部が続く。 今回調査に先立つ事前踏査によると、調査区下方に五輪塔の集積一箇所を確認していた が調査区内に石造物を確認することができず、基本的には山城の曲輪のひとつとして認識 し、中世墓地群としての認識はなかった。 調査の過程で中世墓の存在が明らかになった時点で周辺をやや詳しく踏査した結果、調 査区が所在する枝尾根の裾から主尾根稜線部まで石造物が分布することが明らかになっ た。また、隣接する枝尾根も含めて点在する現在の墓地のなかに、中世石造物が存在する ことなども合わせて明らかになってきた。すなわち、今回の中世墓の調査が、詳しい全体 の状況は不明ながら大規模な中世墓地群中のごく狭い範囲(220㎡)に限られることなど が明らかになってきた。にもかかわらず調査例としては石造物・主体部数など当地方では 最多なものとなった。 調査は、平坦部の尾根主軸上にベルトを設定し、それに直交するベルト2本を設定した。 こうして平坦部を6区画に、テラスを2区画にわけそれぞれA∼H区とした。そしてD・ E区からつながる斜面部テラスをI・J区として調査区全体を10区画に区分し、調査整理 上の便宜を図ることにした。なお各名称については今後の整理調査で変更する予定である。 平坦部掘立柱建物 平坦部では北西区画H区のみが一段低い平坦部で、残りは同一の平坦 面を形成し、地形的に大きな変化は認められなかった。平坦部では、掘立柱建物6棟以上 が検出された。掘立柱建物は、南東寄りの1棟をのぞく残り5棟は調査区北ないし北西の A・H区に集中する。北よりの5棟の建物と残り1棟は建物主軸を異にし、斜面部の土層 の観察などから時期差があるものと考える。 平坦部両斜面部側の土層および尾根主軸方向の土層から、比較的規模の大きい造成工事 を行っている状況が確認される。平坦部端から斜面部にかけて旧表土の上に厚い盛土層が 確認された。その旧表土は平坦部では確認されないことから造成は旧地形を削平し、その 土を斜面部に盛り、平坦部を拡張したものと認識できる。南東寄りB・C区の掘立柱建物 はこの造成工事に対応するものと推測される。 北西側で検出された5棟は、尾根主軸をはさんで一段低くカットした平坦部に建てられ る。北西H区は調査前に周辺に比べ一段低くなっていたが、北側A区は他の区画とレベル 的に同一面を形成しており、盛土を除去して初めて地山を一段低くカットして造成された 平坦部の存在が明らかになった。斜面部で確認された土層にみるように、本平坦部は最終 造成時に盛土によって全体の同一レベル面に整形されており、北側のA区平坦部では比較 的しっかりした掘立柱建物が少なくとも3棟以上(4間以上×2間以上・4間×2間以 上・2間以上×2間以上)が検出された。H区の掘立柱建物2棟は、規模も小さく柱のと おりも悪い(1間四方・3間×1間)。 D区 テラスD・E区は、調査前の地形観察では尾根に主軸に対して直交する規模の小さ い平坦部で、尾根主軸の南側には最近まで使われていたであろうと思われる平坦部を分け る山道が通っていたが、調査前には同一の連続する平坦部と認識できる状況であった。 D区は、調査の結果三段からなる平坦部であることが明らかになった。上段および中段 とも地山をカットしており、帯状の平坦部が確認された。上段部は旧地形に沿うように緩 やかにカーブした帯状を示し、中段は上段と比較すると幅広の状況を呈し、南端は山道で 破壊されはっきりせず、また下段は平坦部としての明瞭な地形変化は確認できなかった。 調査範囲の制限もあり、これより下方の地形との連続の状況については未確認ではあるな ど不確実な要素もあるが、石造物や火葬骨の出土状況から帯状の墓に造られたことは確実 である。堆積土・盛土などで平坦部を造成していたものを調査では確認できずに飛ばして いる可能性も残る。 D区からI区を除くと、五輪塔・宝篋印塔・石仏の大部分が出土した。特に石仏の多く は原位置を保つか移動してもわずかと思われる。五輪塔(宝篋印塔含む)で原位置を保つ ものはごくわずかである。 上段は尾根主軸近くに区画墓を造り、その北側に川原石を敷き詰めた集石墓を造る。区 画墓は山石や玄武岩で方形に区画し、そのなかに扁平な河原石を敷き詰め中央に地輪が原 位置を保っているものと思われる。 集石墓の北端には土壙墓が造られる。D区の土壙墓はこの一例のみである。土壙墓の墓 壙内から五輪塔・宝篋印塔が出土した。上段のテラスからI区のテラスにとレベルは若干 下がるものの続くものと思われる。上段の高い側には排水のためのものと考えられる溝が 掘られている。区画墓の高い側には、石仏6体が立てられる。石仏は倒れるものもあるが 多くが原位置を保っており、区画墓や集石墓の存在を意識して造営しているのは確実であ る。ただ石仏と区画墓・集石墓の関係は同時に造られたのではなく、石仏は区画墓の背後 の溝が埋まってから立てられたようである。山道による破壊を受けているため詳細は明ら かでないが、溝の状況から上段テラスは南側E区に伸びていたものと推測される。 E区では溝の高い側にやはりテラスを造り、後述する火葬墓のための空間としている。 上段の区画墓は位置・遺構・石仏などの諸要素から判断して本調査区だけの範囲に限るな らば造墓活動の契機になったと思われる。ただし区画墓の中心に据えられた地輪の下から は特に下部構造を思わせる遺構は検出されなかった。区画の外側敷石中で陶製小壺を使っ た蔵骨器が出土した。集石の北端川原石の下から、玄武岩で造られた小石室の上に底を欠 いた陶製壺を置く遺構が検出された。小石室壺のなかからは後で落ち込んだ土師器小皿の 破片や空風輪が出土したが、底からは特に遺物の出土は確認されなかった。 上段での火葬骨の出土は、集石の下も含めてさらに北に続くテラス部分で検出された。 今後の検討を必要とするが、五輪塔や玄武岩との関連が確実な例はない。前述した土壙の すぐそばで火葬骨の出土はあるものの上面での出土はなく、墓壙内からの石造物の出土な ど土壙墓が火葬墓に後出することは確実である。 火葬骨のうち良好な状態で検出されたものは、円形の土壙の中央に円柱状に検出される。 曲物などに入れられて埋納されていたと思われる。多くの火葬骨の周りの埋土が地山であ ったが、D53主体は埋土に多くの炭と鉄釘8点が含まれ火葬場から運ばれたものと考えら れる。 中段は、南側もやはり山道による破壊を受けているためはっきりしない部分もあるが、 地山をカットして造成されたテラスである。上段に比べると南北方向長は短くなる。径数 ㎝の比較的小さい河原石を、厚さ20数㎝に盛った方形集石遺構が最初に検出された。この 集石遺構の下から方形区画をもつ集石墓が検出されており、明らかに先行する墓を壊す形 で造られている。ただ、この集石に伴う下部構造については現段階でははっきりしない。 中段では、集石の下層から検出されたものを含めて2基の区画墓と、現状では区画が確 認できない集石墓が確認された。そして中段からも火葬骨が多数検出された。石造物との 関係は現在検討中である。中段でも五輪塔・宝篋印塔がたくさん出土したが、基本的に石 仏の出土が確認されていないという相違点がある。 下段については、その両端について調査では確認できていない。また調査区の制限もあ り下方側の状況も不明である。ただ高い側も含めて上段・中段で確認されたような地山を カットした明瞭なテラス地形は確認できなかった。火葬骨の出土範囲も上段・中段ほどは っきりした境をもたない印象を受ける。また石造物と火葬骨の関係も、よりはっきりしな いように思われる。ただ上段と中段との間に明らかに火葬骨が検出されない空間が存在し たように、中段と下段の間にもやはり火葬骨が検出されない範囲が存在する。下段で出土 した石仏の中央の6体は原位置を保ち、また北端の4体は若干移動した程度と考えられる。 D区の主な遺構・遺物は、集石墓(区画墓3基を含む)・火葬墓54基(陶製蔵骨器1基 を含む 集石墓の下部構造を含む)・土壙墓1基・小石室(陶製壺)1基・越前焼甕1 基・五輪塔100点 宝篋印塔9点 石仏20体(台座1点)・石造物2点という状況である。 E区 E区は尾根主軸の南ないし南西の区画である。E区の北端から約3分の1付近で火 葬墓と土壙墓が混在する。火葬墓と土壙墓が切りあい関係が確認されたのは1例のみであ り、その先後関係ははっきりしていない。ただし火葬骨が土壙墓の周辺で検出されること はあっても、土壙墓の上面で検出される例はなく、土壙墓内で出土する骨はごく微量で混 入の状況を示していることから、E区の北側で認められるこの状況は、土壙墓が火葬墓を 壊して造られていることを示しているものと考えることができそうである。土壙墓と火葬 墓が混在する部分を除くと、J区も含めた南側に土壙墓群とD区も含めた北側には火葬墓 群とにはっきりと墓の様相が分かれる。 E区土壙墓内からの遺物の出土は少ない。E16−2主体で銅銭出土、E9・E15・E 16−3主体で土師器小皿が出土し、E15主体からは3枚出土である。E10・11主体では鉄 釘が出土。 E区では五輪塔・宝篋印塔の出土は多くない。土壙墓上や墓壙内で出土するものとして、 E13主体墓壙上で地輪(逆位)が、E18主体墓壙内(上?)で火輪・水輪が、E15主体墓 壙上で水輪が、墓壙内で空風輪・火輪・地輪の例があった。E12主体では墓壙上に若干落 ち込んだ状態で玄武岩2個が出土している。 E区北端で、D区上段テラスからのびる溝の高い側で火葬墓が良好な状態で検出された。 E19主体は備前焼壺を蔵骨器に、そして壺の外にも火葬骨を置く。E20主体は墓壙にちょ うど収まるように地輪が正位で出土し、火葬墓の上部構造である可能性が高い。蔵骨器の 北側では火葬骨を土壙の中央に円柱状に埋納した状態で数基がまとまって検出された。E 区の遺構は、火葬墓17基・土壙墓18基である。 I区 I区はD区上段テラスから連続する帯状テラスである。調査の都合上ごく狭い範囲 に限定し、また急斜面途中であることなどから十分な遺構検出はできなかった。いずれに しても本来急斜面の高い側をカットして造成された狭い帯状のテラス地形であったと思わ れる。この区画でも火葬墓4基と土壙墓3基が検出された。火葬骨と地形的連続性からI 区はD区の拡張部分と捉えられそうである。土壙3基は墓造りの変化のなかで古い火葬墓 を壊して造られ可能性が高い。E区同様に火葬骨が土壙墓の上面で検出されることも切り あう状況も検出されなかった。 土壙墓I1主体は、墓壙肩から墓壙内に倒れこむように完形の五輪塔が出土した。周辺 にも五輪塔や玄武岩が出土した。また北西の端から石仏1体が出土した。石仏は、尾根主 軸を挟んでJ区石仏と対称の位置関係にあり、墓域端を区画するような意義付けがあるか もしれない。円形土壙に円形の木棺(桶?)の痕跡と玄武岩3個の棺台が検出され、鉄釘 が出土した。 土壙I2主体は、I3主体と切りあう。墓壙上で五輪塔多数が検出された。出土レベル から本来墓壙内のものと判断される。墓壙底からは陶器製碗・鉄釘・有機質の物質が出土 した。鉄釘の位置から木棺が存在した可能性が高い。土壙I3主体は、I2主体同様に墓 壙上から五輪塔・玄武岩が出土した。やはり本来墓壙内であったと思われる。墓壙内から は鉄釘・銅銭が出土した。木棺であったと思われる。 I区の主な遺構遺物は、火葬墓4基・土壙3基・五輪塔 29点(完形1基)・宝篋印塔1 点・石仏2体である。 J区 J区は、墓壙規模の小さいものが少なくなく、主体部の状況などから独立した区画 でなくE区に連続する墓域であり、E区から拡張された墓域と捉えられる。J区西端から 石仏が正位の状態で出土し、原位置を保つものと思われる。 J3主体は、墓壙上面から少し低いレベルで山石を含む五輪塔・石仏が出土した。出土 状況から墓壙上に置かれていたものが墓壙内に落ち込んだものと推測される。墓壙底から 銅銭・鉄釘が出土した。木棺と思われるが、釘は1点と不確実である。 J4主体は、墓壙上で地輪3点が出土した。墓壙上に置かれていた可能性がある。地輪 3点のうち1点は逆位、もう1点は破片である。J4・6主体の墓壙内から、土師器小皿 各2枚が出土し、J4主体墓壙底で漆膜(漆椀?)が検出された。 異常のように、J区の遺構は火葬墓0基・土壙墓7基である。 H区 H区平坦部では、掘立柱建物以外にも火葬跡・土壙墓が検出された。火葬跡は、掘 立柱建物の南側の同じ場所で位置を若干ずらして軸を変えて造り直されており、先に造ら れた火葬跡からは若干の炭とごくわずかな骨片と鉄釘が出土した。後に造られた火葬跡は 比較的良好な状態で検出され、底に山石が置かれた状態で検出された。底で炭骨片や鉄釘 が出土した。両火葬跡の壁は受熱により赤変しており、山石も同様に受熱により赤変して いた。山石は、棺台であると同時に火が燃えやすくするためのものであろう。火葬跡内部 は基本的には片付けられているが、そのまま墓として使われたとは考えにくい。 火葬跡から斜面よりの平坦部西端で、土壙墓1基が検出された。土壙墓は、J3主体同 様に墓壙内で五輪塔・玄武岩山石が二段の状態で出土した。墓壙底から漆膜が出土した。 まとめにかえて 調査で明らかになった事実を整理して、現時点でのまとめにかえたい。 火葬骨と土壙墓が切り合う関係は1例のみで、それも先後関係は明らかでない状況があ る。火葬骨が土壙上で検出される事例はない。火葬骨の規模は土壙墓に比べて小さく、E 区東端は火葬墓と土壙墓の分布が重なる状況がありながら、火葬骨が土壙墓上で検出され る例がなかった。このことは、火葬墓と土壙墓の先後関係を示している可能性が考えられ る。すなわち土壙墓が火葬墓を壊している可能性が高い。土壙墓内で出土する骨は、小片 で量もごく微量である。混入と思われる。土壙底でまとまった量の骨が出土する例はない。 土壙墓と火葬墓の関係については、E区南側部分とJ区でまったく火葬骨が検出されな いことなどから、造墓活動における画期が存在すると理解したい。また土壙内に石造物を 入れる例が少なくなく、土壙墓群のなかにもそれなりの画期が存在する可能性がある。D 区中段の集石墓も先行する集石墓の上に造られており画期の一つであろう。ただそれらの 意味の検討については今後の課題である。 火葬骨はすべてについて精査できたわけではないが、精査できたいくつかは検出面で円 形土壙の中央でやはり円形の径20㎝前後の範囲で火葬骨がまとまって出土している。検出 された骨は基本的に円柱状に出土すると判断され、土壙に直接埋納されるのではなく曲物 等の容器に入れられたものと思われる。ただし火葬骨のなかには比較的大きい範囲25×30 ㎝で出土するものもあり、一様ではない。火葬骨と土壙の間の埋土については基本的に地 山の土を使うが、D53主体のように埋土に多くの炭が含まれ釘8点出土したようなケース は火葬場所からの持ち込みであろう。 D区を中心に出土した五輪塔や玄武岩に対しては、火葬骨の埋納土壙を下部構造とする ものが対応するのか否かについては現在整理中である。宝篋印塔については、本来の位置 についてはまったく明らかにできなかった。 以上のような状況からヒシロ遺跡における造墓状況を復元すると、14世紀終わりないし 15世紀の初めにD区上段に区画墓・集石墓が造られ、続いて中段の区画墓・集石墓が造ら れた。下段も含めて多くの火葬骨が埋納され、五輪塔が建てられた。火葬墓群に次いで土 壙墓群が造営され始めるが、原則的に火葬墓群を避けている。土壙墓は、全体的に副葬品 が少ない。J3主体出土の石仏から考え、土壙内に石造物を入れる例が土壙墓のなかでも 新しくなる可能性がある。 最後に、ここではいちいちご芳名は記載しないが、石造物研究会会員・兵庫県教育委員 会埋蔵文化財調査事務所職員の皆さんをはじめとする多くの研究者に現地でご指導いただ いたこと、また関連資料の紹介だけでなくわざわざ送ってご教示いただいたことを記して 御礼にかえさせていただきたい。浅学な筆者らがとりあえず中世墓群の調査を終えること ができたのは、これらのご指導があればこそである。今後の室内整理作業へのご指導もお 願いして筆をおきたい。 註 註1 『豊岡市史 上巻』 (1981,3 豊岡市史編集委員会) 註2 『但馬・妙楽寺遺跡群』(「豊岡市文化財調査報告5」1975,3 豊岡市教育委員会) 14∼16主体 H1 19∼2030∼36 火葬場跡 1∼5上面 1∼5主体下面 調査区全体図1/200 D区完成 D区1/200貼込済