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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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中東の権力構造--19世紀から21世紀のモロッコを事例と
して
中川, 恵
經濟論叢 (2005), 176(3): 384-403
2005-09
https://doi.org/10.14989/66316
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
経済論叢 (
京都大学)第 1
76巻第 3号 ,2
005年 9月
中 東 の 権 力 構 造
-
1
9世紀か ら21
世紀 のモ ロ ッコを事例 と して-
中
は
じ め
川
恵
に
日本 にお ける中東地域- の関心 は,石油危機,米国同時多発 テロ,続 くアフ
ガニスタン空爆, イラク戟争 な どメデ ィアが注 目す るよ うな出来事 が起 こるた
びに高 ま りを見せた。周知 の通 り,資源 に恵 まれていない 日本 は原油 の約 9割,
天然 ガスの約 2割 をサ ウジア ラ ビア, UAE, カ ター ルをは じめ とす る中東諸
国か ら輸 入 してお り,少 な くとも安全保 障上 この地域が 日本 に とって持つ重要
性 に大 きな変動 はないが,関心 の高 ま りは一定 していない。
その理 由 はさまざまで あ るが,特 に欧米諸 国 と遠 い
,「砂漠」「酷暑 」「戦争
ばか りしてい る地域」 な どのマ イナス ・イメー ジが先行 し, これ まで あ ま り観
光旅行 の対象 とされて こなか った地域で あ り,一般 に 「な じみが薄い」 とい う
のが,おそ ら く最大 の理 由であ ろ う。
2
0
01
年 9月1
1日の米 国同時多発 テロは,ハ リウ ッ ド映画 さなが らの衝 撃 的な
映像が テ レビで生 中継 された こ とも手伝 って, 日本での中東地域 - の関心 を刺
激す るの に十分で あ った。 その後, イラクへ の 自衛 隊派遣 をめ ぐる議論が テ レ
ビや新 聞 な どの メデ ィアを連 日に ぎわす よ うにな り, 日本 中い た る ところ に
「テロ警戒 中」 の看板 を 目にす るよ うにな った。 なん とな く不穏 な方 向 に世界
がすす んで ゆ く,その遠景 として中東地域が意識 され るよ うにな った。
東南 アジアか ら中東, 中央 アジアを横 断 して北 アフ リカに広が る地域 を ブ ッ
シュ政権 は 「
不安定 の弧 」と名付 け, この地域 の民主化 こそが世界 の安定 につ
中東の権力構造
(
3
85
) 1
0
9
なが るとい う議論 を展 開 している。歴史的に米国外交政策の大 きなひとつの柱
が世界 の民主化であ り, イラク戦争 もその一環であ る。
しか し,文化,宗教や価値観の大 きく異 なるイス ラーム圏にアメ リカのい う
「
民主主義」は果た して根付 くのであろ うか。 また当該地域 にはそ もそ も 「
民
主主義」が存在 しなか ったのであろ うか。
イス ラーム世界 の伝統的な合意形成 の方法 として,「シュー ラ-」がある。
,
「
協議」 「
相談」な どを意味す るアラビア語で あ り, 『クルアー ン』 の第4
2章
(
「
相談章 」
) 第3
8
節の 「
互いの 間で シュー ラーを旨とし」 と第 3章 (
「イムラー
)第1
5
9節の 「
諸事 にわた って彼 らと相談せ よ」 を出典 としている。 こ
ン家章 」
の概念 はイスラーム世界 における民主主義 の根拠 とされる。
普通選挙 をへて選ばれた代表が国政を司 る制度 を民主主義制度 とす るな らば,
王制であれ共和制であれ世襲で国の長が決 まってゆ く体制 は民主主義的ではな
い。 しか し自らの宗教 ・政治思想の中で国政か ら日常生活の諸事 について も協
議 を重ねて物事 をすすめてゆ く重要性 を説 く文化圏の人々に対 して,一段上か
らの民主主義談義 はあま り説得力 を持つ よ うには思 えない。
本論文ではアフリカ北西端 に位置す るモ ロ ッコ王国の近現代 を事例 として と
りあげ,その権力構造の分析 を試みたい。 イスラーム世界全体か ら見れば西端
に位置す るモロ ッコは,2
003年 カサ ブランカでのテロには見舞われた ものの,
「
不安定」な中東地域 にあ って比較的安定 した政治情勢 を維持 している国であ
6
31
年か ら現在 に至 るまで アラウイ一朝
る。 い くつ もの王朝の交代 を経た後,1
が支配を している王国である。 本文では歴代王朝 の正当性 の根拠の変遷 を概略
したのち,独立後の 「
近代化」を担 った国王たちの権力基盤の変容 について論
じる。
なお,1
91
2年か ら1
95
6年 にいたるフランス とスペ インによる保護領期 は,形
式的にはアラウイ一朝 は継続 していた ものの,実権 は保護領政府にあったため
本論文では議論の対象 としていない。
1
1
0 (
3
8
6
)
第1
7
6巻
第 3号
11
9
1
2
年以前のモロ ッコ王制の正当性の基盤 :
「
アサ ビーヤ国家」か ら 「シャラフ国家」へ
イ ドリース朝か ら現在のアラウイ一朝 までモロ ッコを統治 した歴代諸王朝は,
その権力基盤か ら大 きく二つ に分類す ることがで きる。 諸部族の連合であるア
'
as
a
bi
ya) に基盤 をおいた王朝群 と,君主が預言者 ムハ ンマ ドの子
サ ビーヤ (
s
ha
r
i
f
) であることに基盤 をおいた王朝群
孫であること,つ ま りシャリー フ (
である。前者の権力基盤 をアサ ビズム,後者のそれを 「シャリーフイズム」 と
ここで は呼ぶ。時代が下 るにつれ て,王朝 の権力基盤 はアサ ビズムか らシャ
リーフイズムへ と移行 した。
アサ ビーヤが政治的組織の形成 に最 も重要な要素であ ったアサ ビズムの時期
は, イブン ・ハル ドゥー ンが 『
歴史序説』 の考察対象 として取 り上げた時期で
あった。 イブン ・ハル ドゥー ン自身は1
4世紀 に生 きた人で,当時のモロ ッコの
1
2
69-1
465年)で,彼が研究対象 として取 り上 げたのは,
王朝 はマ リー ン朝 (
1
05
6-11
47年), ム ワ ッヒ ド朝
それ以前 の王朝 の時代,つ ま りムラー ビ ト朝 (
(
1
1
30-1
26
9年)の時期である。
シャラフ,つ ま りシャリーフであることを王朝の正当性の最重要基盤 とした
1
5
491
6
59年) とアラウイ-朝 (
1
65
9年-)で あ る。 し
のは,サーデ イ一朝 (
たが ってマ リー ン朝 は転換期 にあた る。
マ リー ン朝が 「シャラフイゼ-シ ョン」を推進 したのは,内外 の対抗勢力 を
抑 える必要か らである。 マ リー ン朝成立か ら約40年後に現在 のアルジェリア東
1
23
6-1
55
0年)が誕生 した。
部のテ ィ リムサー ンにザイヤー ン朝 (
Ⅰ
Ⅰ 西欧列強による保護領化前のマフザン1
)
体制
1
9世紀末のムー レイ ・ハサ ンの時代 は,1
83
0年 フランスによるアルジェリア
1
) マ フザ ン (
Ma
khz
a
n) は元来 「
穀物 な どの貯蔵庫」 を表す語であ るが,伝統 的にモロ ッコ政
府 を指す用語 として現在 に至 るまで使用 されている
。
(
3
87
) 1
1
1
中東の権力構造
侵攻 ,1
844年対仏 イス リー戦争,1
859年対西 テ トワン戦争 とい う三つの対外的
な危機 と,畢魅,疫病,飢鐘な ど多 くの自然災害に見舞われ, さらに外国商人
の介入 によって経 済 は不安定化 した。 ア リーム2)はこの危機 的状況 に直面 して
君主の政策 を批判 し,商人たちは経済の不安定 さを利用 して西欧列強の庇護民
(
マハ ミ-ユー ン) とな り,税金の支払いを拒否 してス イーバ
となる部族が増
3)
えた。
前述 したよ うにモ ロ ッコの君主は権力基盤 としてのアサ ビーヤへの依存度を
低下 させた後,サーデ イ一朝以降の君主は, シャリーフとい うイデオロギーに
正当性の基盤 を置 き,政治 とい う場の核 として存在す るために,君主の権威に
,
い くつ もの側面 を持たせた。「シャリー フ」,「
バ ラカ (
聖性) の所有者」 「ウ
,
ラマ-」 「ア-ヤー ン (
町の有力者)」,バ イア (
忠誠の誓い) の儀式 によって
Ami
raトMumi
ni
n:信徒 の指揮
承認 され る 「ア ミー ル ・アル ・ムー ミニー ン (
者)」 とい った諸側面である。 機能 として分類すれば,軍隊の長 としての 「ス
ル タン」,宗教的な長 として 「ア ミール ・アル ・ムー ミニー ン」,そ して政治的
な長である。
いずれの機 能 を前面 に出す のかは,状況 によって異 なった。ただ,「ア ミー
ル ・アル ・ムー ミニー ン」としての機能は,宗教的な権威であ り,モ ロ ッコの
場合 「シャリーフ」,つ ま り預言者ムハ ンマ ドの子孫であるとい うことに大 きく
依拠 した ものであ るため,他の二機能に比 して大 きな ものであ った といえよう。
これ ら三つの機能 を図にす ると次のようになる。
君主は,様 々な形態の 「
象徴交換」を行 うことで,マフザ ン,軍隊,宗教的
な場 のそれぞれ を管理 した。マフザ ンについては,大部族の支持基盤 を もつ二
大家族 を交互 に大臣な どの要職 に任命 し,部族 と直接接触す るカーイ ド (
一般
的には 「
指導者」を意味す る語であるが, ここでは行政的に任命 された長) に
2
) モ ロ ッコ方言 の アラビア語で イスラームの学者 ・宗教指導者層 を意味す る 「ウラマ -」 の複数
形。正則 ア ラビア語で は 「ア- リム」 となる。
3
) 「不服従」 の意O モ ロ ッコ史で は不服従 の部族 を 「ビラー ド ・ス イーバ (
不服従 の地)
」 と総称
す る。
第1
7
6巻
11
2 (
388)
第 3号
L
/
・
〟
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・
ーj ア ムーさニーン
修好の瀞 者ノ
77サンの長 (
I)
i
ス ルタン (
軍隊と税金)
大臣
i
ア-ミル/カーイド
j
ア-ミン
l
軍隊
「十 二⊥
シャリーフ/アリーム/
1
宮廷
ザ-ウイヤ
ハ-ジブ
か-イド・
メシュワール
近衛兵
近衛兵
クッタープ/部族/ア-ミル/アミーン/
カーイド/アリーム/シャリーフ
注 :斜体字 は
同
」
一人物 を示す。つ ま り 「ア ミー ル ・アルムー ミニー ン 「マ フザ ンの長
」「スルタ
ン」 は,一人の君主が もつ機能的側面 を示す称号O
は,任地の部族か らすでに信認 を得てい る人物 を可能な限 り任命 した。軍隊に
ついては,その核 となる部分 を部族的基盤 を持たず,君主に対 して反旗 を翻 し
に くい君主直属 の軍 と,免税の特権 を与 えた特定の部族か らなる部族軍で構成
した。そ して宗教的な場 は,ア リームおよび他 の多 くの シャリーフらによって
その正 当性 を支 え られ,マ ラブ- とのバ ラカの 「
交換 」によってザ- ウイヤ
(
ス-フィー教団の修道場)の持つ 「
権力」 を統制 した。
最後の宗教的な場 について少 し付 け加 えてお きたい。 アリームは議論されて
いる問題 についてシ ャリ-ア (
イスラーム法) に照 らした解決策 を提示す ると
い う法的行為 として ファ トワ (
法的意見) を出す とい う宗教 的な機能,そ して
君主が アリームに助言を求め,それに答 えるとい う政治宗教 的な機能がある。
アリームが与 えた助言は,君主 にその採用 の可否が委ね られているのだが,
アリームが フ ァ トワのなかで政治的意見 を述べ,君主 との間に対立が生まれ る
こともしば しばであ った。
シャリーフに関 しては,税金の徴収やハルカ (
軍事遠征) の実施,部族 間対
中東の権力構造
(
3
8
9
) 1
1
3
立の解消な ど諸問題 の解決のために,君主 は しば しばシャリーフの集団を利用
1
7921
822年)や ムー レイ ・ハサ ン
した。例 えば, ムー レイ ・スライマ- ン (
(
1
873-1
89
4年) らはワ ッザ- ン地方 のシャリー フのなかの長を連れて行 った。
これは軍事遠征 によ り強い正当性 を与 えるための ものであ った。
君主 とマ ラブ- (
聖者) の関係 に関 しては,君主は部族,ザ-ウイヤ,シ ャ
リーフ,マ ラブ-の墓 を訪問 した際 (
マ ラブ-の墓 を訪問 した場合 は,その墓
を管理 している,多 くの場合 はその聖者 の子孫 たちか ら),ヘデ ィーヤ (
贈り
物) を受 け取 った。
ムーセム (
マ ラブ-の祭 り) にい くとき,人々はマラブ- と関係 を持つ家族
にヘデ ィーヤを持参す るが,君主 も同様で, フ アースのムー レイ ・イ ドリース
などの有名 なマ ラブ一に対 してヘデ ィーヤを持参す る。
これはマ ラブ-か らいわゆるバ ラカ (
聖性) を受 け取 るためである。 君主が
ヘデ ィーヤを与 えることは,君主はバ ラカを受 け取 るが,同時に各地方 に点在
す る有力な聖者,聖人たちの もつ潜在 的な 「
暴力」 を制御す る機能を果た して
いる4)。
またマラブ-は,地域の部族間紛争や家族間の もめごとなどで 「
調停役」 を
果たす ことが しば しばである。 君主 自身,何 らかの紛争 に際 しては 「
調停 」を
おこな うが,地域の事情 に精通 し住民の信頼 を得ているマ ラブ-の力 を借 りず
には,その役割 を果たす ことが難 しい。
ウオー ターベ リー5)に代表 され る従来のマ フザ ン研究で は,マ フザ ンは部族
を暴力で支配す る 「
暴力装置」 ととらえられて きた。 しか しその とらえかたで
は社会か ら国家- とい う側面が見落 とされてお り,実際には,以上述べたよう
権力」 を
に,君主は社会 と様 々な 「
象徴交換」をお こない,社会に潜在的な 「
管理 していた といえよう。
また20世紀初頭 に西 欧列強の脅威が迫 った とき,1
9
0
4年 ときの君主 ムー レ
4
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第1
76巻
1
1
4 (
39
0
)
第 3号
イ ・アブ ドゥル ・アズ ィ-ズは各地 に代表を選出 して都 に集 まって くれ るよう
書簡 を出 した。書簡では危機的な社会情勢が説明されたのち,最後の部分 は次
のようになっている。
「
--そ して今,部族 の人々が信頼 して財政,宗教,社会的な権益 を任せ ら
れ,我 々の もとに派遣 し,国中の有能な ものたちが集まって協議す る会議 に出
席で きる者を指名す るため,すべての部族 に手紙 を書かざるを得 ない緊急事態
が発生 した。 この会議 は,特 に公 の秩序 に関す る事項 について適切でない判断
を避 け,協議 によってよ り公正で正 しい判断が とれ るよう, また協議 によって
皆が満足 し疑問を解消す るようにす るための ものである。
以上の事情 によって,我 々の この書簡を受領 した ときは,信頼がおけ宗教 に
詳 しく,あなた方の名において発言す ることを許される最良の代表 を選出 して
いただ きたい」
6
)
。
2
名の代表者たち と協議 を重
ムー レイ ・アブ ドゥル ・アズ ィ-ズは選ばれた4
ねた。 これは 「マジュリス ・ア-ヤー ン」 と通称 され るもので,モロ ッコ近代
史上初の代議機関 とされ る事例であ り,冒頭で述べた 「シュー ラ-」の一例 と
して紹介 してお きたい。
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ ムハンマ ド五世 :「
調停役」 としての王制
1
95
6年独立 を達成 したモロ ッコ最初の国王は, ムハ ンマ ド五位であった。彼
はアラウイ一朝第1
5
代君主 として1
92
7年 11月1
8日に即位 したが,政治の実権 を
回復 したのは,モロ ッコ独立後である。
彼 は王制の 「
調停役」としての役割 を強調 した国王であ った。保護領政府統
治下のモロ ッコで,独立運動 に とってムハ ンマ ド五世の王位 回復 は 「
独立の象
徴」であった。保護領政府 に対す る抵抗 スロー ガン "
Tha
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aa
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Ma
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i
kwaa
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-
Sha
'
b(
王 と国民 の革命)"7
)
にみ られ るよ うに亡命 中の王が王位に復帰するこ
6
) ラバ ト王立文書館蔵写本。
7
) モロッコでは,7月1
0日は,Tawr
a
ta
LMa
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i
kwaas
Sha'
bの 日と呼ばれ る祝 日である。
中東 の権力構造
(
3
91
) 1
1
5
とが,モロ ッコの独立を意味 した。
そのため,実際 に国王 としての実権が 回復 した後 も,独立運動,特 にイス
テ イクラール党 (
独立党) と 「同一視」 されやすか った。従 ってムハ ンマ ド五
世はモロ ッコ社会のあらゆるセクターか らの支持 を得 るためには,すべての党
に対 して適度の距離 を保つだけでな く,対立す る点を創出す ること,少な くと
もイステ イクラール党内に敵対的な複数の集団をつ くりだす ことが,必要で
Move
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) と FDI
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)
。大衆運動 (
一憲政擁護前線)の創出によって国王が必要
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とした対立の構図が実現 しだ )
。
「
調停者」 としての国王を支えたのは,独立後 に創設された軍 と警察の,国
王-の絶対的忠誠であ り,さらに省庁 と軍の大臣 ・長官や高級官僚の人事権が
首相ではな く,国王が一手に握 った ことが国王の権力強化 に貢献 した。
省庁のうちで,国王権力の強化 に最 も直接的に関与 したのは内務省である。
1
9
5
6
年 3月20日発令の勅令で,
「カーイ ド及び知事の任命,昇進,辞職,降格,
懲戒,転勤 はすべて勅令 によって発令 されることとす る」 と定め,内務省の官
僚および内務省管轄の役人の人事 は国王がおこなった o
)
。
さらに内務省の活動 を支えたのは,軍である1
1
)
。軍の活動 は,内務省 と連動
して行われ,内務省 の地方役人は,その地に駐屯す る軍の分団を治安維持のた
めに発動 させ ることがで きだ 2
)
。軍の果たすべ き役割は,防衛や治安維持だけ
にとどまらず,中央官僚や地方役人 として行政 に参加す ることも含 まれてい
だ3
)
。軍の編成実務の責任者は皇太子,そ して国王が軍人事 に関す る最終的裁
量権 を持 っている1
4
)
。
8
)
9
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1
0
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2
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3
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97
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9
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1
9
70
]p.2
89.
1
1
6 (
39
2
)
第1
7
6巻
第 3号
王制 に とって潜在的な脅威であるイスラーム運動 を監視す ることも重要な内
務省 の職務である。 この監視 は,内務省が宗教省や 「
公的なイスラーム」を代
表す るウラマ-協会 と協力 しておこなった1
5
)
。
立 憲 君 主 制 - の準 備 段 階 と して, モ ロ ッコ国 家 諮 問 会 議 (
LeCons
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oc
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n)が1
9
5
6年 8月 3日の勅令 によって設立 された
が, この会議 は三年間 しか続かなか った。
保護領化 され る以前の時代か ら,モロ ッコ王制 と社会の様 々な集団 との関係
は一方的で はな く,利益や象徴 を交換す る関係 にあった。社会はバ イヤによっ
て宗教的に も政治的に もスルタンを長 として承認 し,少な くとも理論上 は社会
はスルタンを廃位す ることも可能であった。2
0世紀初頭のムー レイ ・アブ ドゥ
1
8
9
41
9
0
8年) の廃 位 と続 くムー レイ ・ア ブ ドゥル ・ハ
ル ・ア ズ ィ- ズ (
フィー ド (
1
9
0
81
91
2年)-のバ イアは, ス)
i
,タンに対す る承認 と廃位 の権利
が発動 された好事例であ った。
また有力なス-フィー教団であるカ ッターニー教 団を創設 した カ ッターニー
一族や独立運動の事実上の指導者 ア ッラー)
i
,・ファース イーの方が ムハ ンマ ド
五世 よ りも大 きな宗教的な影響力 を有 していたが, ムハ ンマ ド五世は 「ア ミー
ル ・アル ・ムー ミニー ン」の称号 を破棄す ることはなか った1
6
)
。独立の可視的
な象徴 となった ことで,彼 は世俗 と聖の両方 を,つ ま り保護領統治以前か ら有
していた 「ア ミール ・アル ・ムー ミニー ン」 と独立後の近代的な意味での国家
の長 とい う二つの機能を体現す ることとなった。
Ⅰ
Ⅴ 憲法改正 と権 力の分配
モロ ッコの政治的場 を構成す る諸集団の間の 「
調停役 」 としての役割 を推進
す ることで,聖 ・俗両方の最高権威者 としての国王権力の強大化 を進めた。 ム
ハ ンマ ド五世 の後 を継いだハサ ン二世 (
1
9
61
1
9
9
9年) は,憲法改正 とい う法
1
5) Le
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2000] pp.1
2
0-1
21
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1
9
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4]p.2
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e3
6)
▲
中東の権力構造
(
3
9
3
) 1
1
7
的手段 を利用 した,権力の巧みな分配によって,国王権力の強化をはか った。
独立後 のモ ロ ッコ最初 の憲法 は1
962年 に制定 された。1
962年 のアブ ドゥッ
ラー ・イプラヒ-ム内閣解散後 に誕生 した この憲法では,「
権力分立」とはほ
ど遠 く,国王の手 にあ らゆ る権力が集 中 していた。憲法の条文 をみ ると,モ
ロ ッコは民主社会的王制 (
第 1条)であ り,憲法にかなった方法で設立された
機関を通 して行使 される主権を有す るのは国民である (
第 2条) と明記されて
いる。 しか し,閣僚の人事権を有す るのは国王 (
第2
4条)であった。
国王は 「ア ミール ・アル ・ムー ミニー ン」,国民の最高代表者,国家統合の
象徴,国家の存在 と継続の守護者であった。 また信仰の擁護者であ り,憲法尊
重の守護者で もあった。国王は市民 ・共同体 ・組織の権利 と自由を守る責任を
有 し,国家独立を守 り,国土防衛の保障者 (
第1
9条)で もあった。 しか し,緊
急事態の際,介入す る権利が国王 に保障されていた (
第35条)。 どのような状
況が 「
非常事態」であるのか,いつ までが 「
非常事態」なのかを判断す るのは
,
憲法体制を正常 に再び機能させ るために (
第35条)
」国王は,辛
国王であ り 「
965
年,ハサ
実上無期限に無制限の権力を発動す ることが可能であった。実際1
,
ン二世は 「このまま空虚な議論 を続 けさせれば,モロ ッコの民主主義,倫理
7
)
。
的価値観,創造への意志が失われて しまう」ことを理由に,議会を停止 した1
1
962年憲法では,議会は二院制 と定め られた (
第36条)。下院議員は普通選
挙で,上院議員は農商工会議所や労働組合が選出 した (
第4車45条)。新法が国
王 によって発布 される前には,議会の承認か国民投票による承認が必要 とされ
(
第26,62,73,75条),立法権 は,憲法上 は議会に属 していたのだが,実際は
国王が 「
助言」す ることが度々であった。 この憲法の文言では,国王の手に行
政権 を委ね,国王の立法権は制限されていた。 しか し,立法権 に関 して も 「
助
言」 とい う形で,国王が大 きな影響力を有 していたのである。
1
97
0年の憲法改正によって,国王権力はさらに強化された。首相の行政権が
例外 的な場合 に制限され, しか も国王 のイニシアティブによるもの とされた
1
7
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39
4)
第1
76巻
第 3号
(
第62条)。 この改正で,国王の行政権が強化された。 また二院制が一院制に改
6条)。野党 はこのような改正 を拒否 し,1
971年に発生 したウフ
め られた (
第3
キール将軍が首謀者 とされるクーデターはこの憲法改正への不信 を象徴する事
件であっだ
。 ウフキール将軍はハサ ン二世の乗 る飛行機 を襲撃 した首謀者 と
8
)
。
され,後 に 「自殺」 した とされ る 「
反乱 を企てた,あるいは反乱 を起 こす可
9
80
年代サハ ラ問題で功績を挙 げた
能性のある」者の最期の近似例 としては,1
アフマ ド・ドゥリー ミ-将軍が卓越 した人気を得 るようになった後,不可解 な
自動車事故で亡 くなった事件がある。 ドゥリー ミ-将軍の事件以後,軍の司令
官級の人物は,国王の ライバルとなる程 に個人的に賞賛をうけることは事実上
タブー となっだ
0
9
)
1
9
72年,二度 目の憲法改正が行われた。 この改正では 「
1
96
2年憲法 と1
97
0年
憲法 に定 め られた中間的な ところ」20)に議会 を位 置づ けた。一院制 の ままで
あったが,選挙方法を二種類 とりいれて (3分の 1の議員を直接選挙で,3分
の 2の議員 を間接選挙で選出),二院制放棄を補完す るもの とした2㌔
行政権 は国王 と政府 に与えられていたが,国王は立法案や政府計画について
「
新 しい解釈」 を要求す ることが可能であ り (
第66条), この国王の要求 を政
府が拒否す ることは認め られていなか った (
第67条)0
首相を含む閣僚全員の人事権 を国王が振 っていることか らも,議会が国王に
コン トロールされる機関であったことは明白である。 さらに内閣不信任案の提
出に必要な議員数は,1
96
2年憲法では総議員の1
0分の 1であったのが 1
972年憲
第75条)。 この改正で,政党が政府 の政策
法では 4分の 1に引 き上げ られた (
に対 して不信任案を提出す ることはほぼ不可能 となった。
前述 したように,省庁のなかで も内務省は王制の番人 とで もい うべ き存在で
1
8) Gho
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1
988〕p.57.
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45.
20) Gho
21
) この割合 は同年逆 に,つ ま り 3分 の 2の議 員 を直凝選挙で , 3分 の 1の議 員 を間接選挙で選 出
す ることに変更 された。
中東の権力構造
(
3
95
) 1
1
9
あったが,特 にその役割が強調 されるようになったのは,1
9
7
9
年 イ ドリース ・
バス リーが内務大臣に就任 してか らである。 首相は頻繁 に交代 し,様々な政党
9
9
9年 に現国王ムハ ンマ ド六世に
の出身者が就任 したのに対 して,バスリ可 ま1
よって解任 され るまで20年間にわたって内相の職にあ り,サハラ問題など,必
ず しも内務省の管轄ではない重要な政策決定にも関わ った2
2
)
。
1
9
9
2
年の改正では,国王が任命 した首相 による他 の閣僚人事の提案を受 けて,
国王が任命す るよう変更 され (
第2
4条) 1
9
9
3年の内閣組 閣に際 して ラムラー
ニー新首相 に国王が実際に閣僚 リス トの提 出を求めた。ただ この内閣の閣僚に
は国会議員 はまった く含 まれておらず,主権者であるはずの国民の意思が 「
憲
法で定め られた諸機関 (
第 2条)」の代表的機関である国会 を通 じて政策に反
映されるような状況 とは程遠か った。
また 「
非常事態 において も国会は解散 されない」 と明記 された (
第35条)。
しか し, この憲法改正によ り新たに設置された憲法評議会の議長,首相,国会
議長に諮 ったのち,非常事態を宣言 し,あ らゆる必要な措置 を国王 自身が とる
権限は何 ら制限されていない。
1
9
9
6年,一院制を二院制に変更す るための憲法改正が国民投票で承認された。
1
9
9
7年 1
1月の選挙 に続 いて,USFP (
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人民諸勢力社会主義連合)党首 アブ ドゥルラフマ- ン ・アルユースフィー
の首相任命は,左翼に権力を分配することで,近い将来の皇太子 (
現国王ムハ ン
マ ド六世)-の王位継承を円滑 にす る布石の一つであった とも考えられよう2
3
)
。
四度に渡 った憲法改正の うち最初の二度の改正によって,行政 ・立法両方の
権限を国王 に集中させた うえで,後の二度の改正で憲法評議会の設置や非常事
態での国会維持 とい う 「
譲歩」,二院制の復活をおこない,そ して長年国王 と
敵対 関係 にあ った左翼政党党首 を首相 に任命 して,国王権力の維持 に 「
有益
な」形で権力分配をおこなった といえよう。
2
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)
第1
7
6巻
第 3号
Ⅴ 宗教的正当性の強化
1
97080年代, 中東地域で は,共産主義運動 の衰退 と,1
9
79年 のイラン ・イ
スラーム革命 に象徴 され るように政治的イスラームの復興現象が現れ始めた。
その現象 に対処す るため,中東地域の政治体制 は宗教 的言説を強調す ることに
なった。 サ ウ ジ ア ラ ビアで は, 国 王 の称 号 を 「ジャ ラー ラ トゥル マ リ ク
(
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,・ハ ラメ イ ン (
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n:二聖地 の守護者)」 へ と変更 した。1973年 の十月戦争 中,エ ジプ
トのサーダー ト大統領 は,ムス リム同胞団の正当性 を 「
吸収 」 し消滅させ るこ
とを狙 って,
「ライ-スルムー ミン (
Ra
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Mu
mi
n:篤信 の大統領)」 とい う称号 を使
用 した。モロ ッコのハサ ン二世が 「ア ミール ・アル ・ムー ミニー ン」 としての
98
0年代 であ る。 宗教 的な場で は
宗教 的正当性 を積極的 に活用 し始 めたの も1
「ア ミール ・アル ・ムー ミニー ン」 として,外交の場では 「
近代 的な国王 」 と
して 自己を演出 した。
モロ ッコのスルタンや国王は歴史的に 「ア ミール ・アル ・ムー ミニー ン」の
称号 を有 してきた。 しか し,独立以後 これを王制の政治的存在理由 として特 に
強調 し始めたのは,1
9
80年代 に入 ってか らであ る。1
9
71
年 と1
9
72年の二回,モ
9
73年 アフ
ロ ッコ王制は,未遂 に終わ った もののクーデ ターの対象 となった。1
9
79年のイスラーム革命 によってイラン王制 も同
ガニスタンの王制が転覆 し,1
様 の末路 をた どった。ハサ ン二世はイランの シャーが犯 した最大 の過ち として,
イスフ ァハー ンのモスクとい う宗教的な場で シャーは妃 に ミニスカー トで赴 く
ことを許 し, シャー 自身 シャンペ ングラスを片手 に しているところがテ レビの
ニ ュースで放映され るな どの,宗教的挑発 を挙 げてい る2
㌔ 1
9
79年ハサ ン二世
980年 ホメイこの見解
はイランか ら追放 された シャーをモ ロ ッコに迎 え,翌 1
をイス ラームの信仰 に反す る ものであ るとい うフ ァ トワを ウラマ一に出 させ
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中東の権力構造
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)
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ハサ ン二世モスクの建設場所 としてカサブランカが選ばれたの も偶然で はな
い。 カサ ブランカは1
9
80年代 に食糧暴動が起 こ り,モロ ッコで最 も失業率 の高
い地域であ る。1
9
88年 7月建設が始 まった とき,ハサ ン二世は 「ア ッラーの御
名が呼ばれ るモスクを建設す るものに,い と高 き御方は天国での場をお与 えに
なる」 とい うハデ ィースを引用 して,国民 にこのモスク建設に参加す るよう呼
びか けた2
6
)
。
また毎年 ラマ ダー ン月には,毎夜宮廷で イスラーム地域の様 々な国か らウラ
マ-が,「ア ミー ル ・ア)
i
,・ムー ミニー ン」であ るハサ ン二世の前で講義 をす
。「ドゥルース ・ハサニーヤ
る
(
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)
」とよばれ る この宗教学 の
講義 はテ レビ中継 され る。 毎年の このテ レビ放映は,モロ ッコ国王の宗教 的権
威 を国民 に喚起す るための絶好 の機会を提供 してい る。
宗教的な点で王制の正当性を強調す る最大の目的は,王制の潜在的脅威であ
るイスラーム運動-の対抗である。1
972年の憲法改正で,長男以外の男子 も皇
0条)。 ウラマ-たちが宗教的
太子 として国王が任命で きるよ うになった (
第2
見地か ら皇太子任命 を承認す るが,理論的には国王の選択 を拒否す ることも可
能である。 また皇太子が国王 となったのち も,廃位す ることは可能である。 実
際にはまずあ り得 る状況で はないが,理論上のことであって もそのような余地
をウラマ-たちに与 えたの も, イスラーム運動-の対応 を視野 に入れての こと
)
。 さ らにハサ ン二世は,政府 の正当性 を強化す るため,合法化 された
である27
唯 一 ゐ ィ ス ラー ム運 動 系 の 政 党 「
統 一 と改 革 党 (
Ha
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」に閣僚 として参加す るよ う呼 びか けたが,党の方で この申 し出を拒
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)
否 した28)。
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第1
7
6巻
第 3号
ⅤⅠ 挑戦 :経済的発展 と 「
民主化」
1
999年 7月23日,ハサ ン二世の崩御 によ り皇太子が ムハ ンマ ド六世 として36
歳で即位 した。軍のコーデ ィネー ターであった皇太子時代,大衆 は概ね彼 に親
しみやすい印象 を抱 いていた。
ムハ ンマ ド六世が強調 しようとした国王像 は 「リベ ラルな改革者」であ る。
ス ピーチで,「
立憲君主制 を堅持 し,複数政党制, 自由経済,地方分権化,法
の支配,人権尊重,個人の 自由を推進す る」 と明言 した。 また 「
父ハサ ン二世
のすすめて きた教育改革計画 と連動 させて雇用 問題 の改善 に尽 くす」 ど,千
ロ ッコで最 も深刻 な社会問題 の一つで あ る失 業問題 に も言及 した2
9
)
。 このス
ピーチは,ハサ ン二世即位時の ものに比較す るとはるかに具体性がある。 ハサ
ン二世のスピーチでは, イスラームの擁護 と領土保全 についての国王の決意が
述べ られた後,国民の義務 についてのみ言及されている。当時の諸社会問題の
)
。
解決 などはまった く触れ られ ることはなか った30
政治面では,バス リーに代わ ってアブマ ド・ミダー ウイ- 31
)
が内務大臣に任
命 された。バス リーの内相退任 を世論は非常 に歓迎 した32
)
。実際,前述 したよ
9
79年か ら20年 間内相 を務め,モ ロ ッコの 「
治安維持」 に大 き
うにバスリーは1
な影響力をふ るった人物であ り, この退任 はモロ ッコの政治展 開を民主化 の方
2
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9
71
年財務省 に入省.ムハ ンマ ド五世大学,
31
) アフマ ド・ミダーウイーは法学博士号の取得後 ,1
国立行政学院,内務省幹部養成研修所で行政学を教 える。1
993-1
9
9
7年彼 は警視総監 (
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中東 の権力構造
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2
3
向 に ひ きよせ る契機 となろ う。
モ ロ ッコ王制 を今後揺 るが しかね ないほ どの国民 の不 満 を生 む可能性 が最 も
高 い問題 は, ムハ ンマ ド六位が あ えて ス ピーチで も言 及 した失 業 問題で あ ろ う。
都市部 で はす で に2
0%を こえてい る3
3
)
。 ハサ ン二世 の死 の直前 ,1
999年 7月初
め に も, ラバ トで大学 を卒業 して失 業 してい る若者 た ちが職 を求 めて抗議行動
をお こ した。大学 あ るい は大学 院 を卒業 したが職 の ない者 た ちがすで に結 成 し
ていた 「
高学歴失業者組合 (
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」
は非合 法 で あ ったが, この ラバ トで の抗議 デモ は直接 的 には内務省3
4
)
を, 間接
的 に王制 に圧力 を与 え るこ ととな り, ハサ ン二 世 は遅 ま きなが ら,失業 問題 を
領土 問題 に次 いで重要視 す る こ とにな った35)。
前 述 した よ うにハサ ン二世 は, イス ラー ム運動 - の対抗 を視 野 に入れ,王制
の宗教 的正 当性 として 「ア ミー ル ・アル ・ムー ミニー ン」 と しての側面 の強調
につ とめ た。 ムハ ンマ ド六 世 もラマ ダー ン期 間 中 の 「ドゥルー ス ・ハ サ ニー
ヤ」 を継承 す るな ど,宗教 的指 導者 と して 自己 を演 出す る場 はハサ ン二世 の と
き と同様 に維持 してい る。 しか し, イス ラー ム運動 が社 会 的弱者 の救 済 を担 う
限 り, 「ア ミー ル ・アル ・ムー ミニー ン」 で あ る こ とを強調 す るだ けで は,有
効 な イス ラー ム運動対策 とはな り得 ない。 ハサ ン二世 の宗教 的正 当性 の強調 と
992年 の憲法
い う策 の裏面 は内務省 と警察 に よる 「
治安維持 」で あ り,すで に1
改正で 国際社 会 を意識 して 「
人権 の擁護」 が前 文 に掲 げ られ た よ うに,人権 問
題 を無視 で きる時代 は過 ぎた。 ムハ ンマ ド六世 は社 会 的弱者救 済,具体 的 には
まず失業 問題 の解決 を図 る ことな しには, イス ラー ム運動 が王制 の宗教 的正 当
性 を脅かす存在 で あ り続 けるだ ろ う。 即位後す ぐの ス ピーチで 国王 自ら述べ た
よ うに,社 会 ・経済分野で 国民 に満足 を与 え うる 「リベ ラルな改革者 」とい う
3
3
) 1
9
99年 の失業率 は都市部で2
2.
0%,農村部で 5.
4%,全体で は 1
3.
9%で あ った (
モロ ッコ国立
統計局,Ma
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第1
7
6巻
第 3号
新たなる正当性 を確立す ることがムハ ンマ ド六世の今後の課題 となろ う。
VI
I イスラーム主義の挑戦
イスラーム運動 は, ムハ ンマ ド六世の改革に とって障害 となる可能性 のある
公 正 と慈 善 の集 冒
存 在 で あ る。 モ ロ ッコ最 大 の イス ラー ム運 動 で あ る 「
(
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Ad
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)
」の指導者 アブ ドゥッサ ラーム ・ヤース イー ンは,
モロ ッコの大衆が イスラームの教 えに忠実 にな り,徳を備 えた指導者 を戴 くこ
とがで きれば,モロ ッコの諸問題 は解決 され ると考 えている。
彼 は欧米流 の 「
民主主義」や 「
近代化 」 には批判的で,同時に国内の社会的
不正義や汚職,政治的腐敗 について, ムハ ンマ ド六世の父,ハサ ン二世 に対 し
て公 開書簡 を送 っで 6
)
自宅軟禁 となるな ど体制批判 を繰 り返 している。 ただ,
ヤース イー ンにとって,指導者一人の手 に権力が集中 していて も,その指導者
が宗教的倫理 を尊重 している限 り,その存在 は受容で きるものである。
欧米流の 「
近代化」 については,「『
近代化』のイスラーム化」を目指 してい
る。 ムス リムはイスラームの倫理的枠組み と社会秩序を維持す る限 りにおいて,
欧米の科学技術や思想 を借 りることがで きる, とヤース イー ンは考 えてい る。
宗教 を私的空 間に限定 し,公 的空 間で は法 の支配 を強化 しようとす る近代
化 ・民主化推進 に対す るこのようなイスラーム運動 の抵抗 は,ムハ ンマ ド六世
が,保護領化 され る以前のモロ ッコに比べればかな り形式的になった とはいえ,
預言者ムハ ンマ ドの子孫であるシャリー フとしての側面,そ して 「
信徒 の指揮
者」としての側面 といった宗教的正当性 を維持 している限 りは,王制 に とって
決定的な脅威 とはな り得 ないだろ う。
モロ ッコでは新たに国王が即位す ると,バ イアの儀式がおこなわれ る。ただ
かつてはモロ ッコ各地の共同体 の代表者たち,宗教学者,有力者たちがバ イア
をお こなったが,現在では多 くが政府高官,政府 に雇われている宗教学者たち,
官僚,宮廷 に勤めてい る人々で,彼 らと国王 との関係 は平等で はないため,
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かつてのように君主 に対す る要求を盛 り込む余地が ほ とん どな く,バ イヤは儀
礼的な もの となる。 このような原則 と現実の落差 に, イスラーム運動が存在す
る場が生まれ る。 しか し共同体 の成員 と代表者 は ともに良いムス リムで,常に
共同体の利益 を考 えて行動す るとい った イスラーム運動の考 える政治的代表の
概念 もまたユー トピア的である点で,現実 との落差があることは否定で きない
だろ う。
むすびにかえて
ムハ ンマ ド六枚が即位 してか ら六年が経過 した。その間, これまでのモロ ッ
コ政府内での汚職や弾圧 な どについて積極的に摘発 をおこない,モロ ッコのメ
デ ィアは大 きく報 じ歓迎 した。 またモロ ッコ史上で は初めて 自らの妃 の姿 を公
に し,最近 は国内だけではな く,愛知万博訪問な ども含め妃単独での海外公務
も増 えている。
現在,英国な どの西欧諸国の立憲君主制 とはかな り内容が異なるが,中莱諸
国のなかでモロ ッコとヨルダンのみが憲法 と国会 を伴 った 「
立憲君主制」 を有
している。 本文 中論 じたように,モ ロ ッコの場合,独立後 ムハ ンマ ド五世が,
保護領期以前か ら君主たちが依拠 して きた宗教 的権威 を基盤 に,王制 を諸政治
勢力の 「
調停役 」として位置づ けることで国王の権力強化 をはか った。続 くハ
サ ン二世は憲法改正 によって,国王-権力を集中させたのち,漸次的に諸政治
勢力へ権力 を分配 し王制の安定化 をはか った。 この安定化のプロセスは,王制
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年代
に とって 「
潜在的脅威」であるイスラーム運動-の対抗策 としての,1
なかばか ら宗教的正当性 の強調 と並行 してすすむ こととなった。
その結果,中東地域で共和制 を採用す る諸国 と比較 して,モロ ッコは 「
安定
した」社会 を維持 している。 しか し識字率 は依然国民の 6割程度 にとどま り,
失業問題 は深刻である。 経済 ・社会面での満足感が生 まれ る状況をつ くりだせ
るか否か, とい う点が,今後社会が王制に正当性 を認める交換材料 となるだろ
う。
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6巻
第 3号
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