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ゴヒレヴァントおよび北メツボタミアにおける 土器使用の普及をめ ぐって

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ゴヒレヴァントおよび北メツボタミアにおける 土器使用の普及をめ ぐって
北レヴァントおよび北メソポタミアにおける土器使用の普及をめぐって
113
北レヴァントおよび北メソポタミアにおける
土器使用の普及をめぐって
小 高 敬 寛
1.はじめに
近東では煎7千年紀後半u〕に土器が登場し、前6千年紀には広い地域に普及することが知られ
ている。この土器新石器時代と呼ばれる時代以後、土器は我々が目にすることのできる遺物の主
体を占め、編年や考古学的文化の指標として大いに利用できるようになる。
しかし、土器の出現よりはるかに遡る時代から、可塑性をもつ原材料としての粘土の利用は世
界各地で観察されている。近東も例外ではなく、約13,000年前のナトゥーフ期には定住性の高ま
りとともに粘土利用が活発化し、先土器新石器時代には焼成披術や混和材の利用といった、土器
製作に必要な技術的基盤はすでに整えられていた[Schmandt−Besserat1974.1977a,1977b]。例
えば、イランのザグロス山脈に位置するガンジ・ダレ遺跡のD層(先土器新石器時代B中期)で
は、スサを混和した日乾レンガ造りの建築、作りつけの土製貯蔵施設、あるいは未焼成と考えら
れる土製容器など、多彩な粘土の利用がみられる[Smith1990]。また、土偶をはじめとする焼成
土製品は多くの遺跡で知られており[e.g.Voigt1985;Kozlowski ed.ユ990]、南レヴァントのアイ
ン・ガザル遺跡などにいたっては、「先土器」新石器時代に年代づけられるにもかかわらず、意図
的に焼成されたと考えられる土器も出土している[Rollefsonθ‘α1.1992]。
したがって、近東では土器新石器時代にいたる前から、技術的には土器製作が可能な状態にあっ
た。しかし実際には、土器新石器時代になるまで土器はほとんどつくられず、少なくとも遺物の
中で大きな部分を占めることはない。おそらく、人々は土器を特に必要としなかったから製作し
なかったのであろう。逆にいえば、土器新石器時代には土器を必要とする要因が現われたに違い
ない。
そこで、本稿では各地で出土している初期の土器について概観し、その用途に関する言説をま
とめることで、土器使用の普及の要因を考える上で必要な前提を示してみたい。ただし、今回の
扱う地域は、ある程度まとまった資料のある北レヴァントおよび北メソポタミア=1]に限る。
2.北レヴァントおよぴ北メソポタミアにおける初期の土器
近東における土器の出現についてまとめたルミエールとピコの論考[Le Miさre and Picon1998]
によると、土器の普及には三つの段階があるとされる(図1)。
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図1 ルミエールとピコによる初期の土器の地理的分布
(Le Miさre and Picon1998:Figs.4−6をもとに作成)
対象地域において、その第一の段階に位置づけられるのが、いずれも北西シリアに位置するテ
ル・エル・ケルク遺跡とラス・シャムラ遺跡から出土した土器である。テル・エル・ケルク遺跡
は1号丘、2号丘、アイン・エル・ケルクの三つのテルからなるが、そのうちの2号丘の6層で「ケ
ルク土器」と呼ばれるレヴァント最古の土器が出土したとされる(図2:2−4)[Tsunekiand
Miyake1996]。一方のラス・シャムラ遺跡では、土器の出現するVB層で暗色磨研土器に共伴し
て「軟質土器poterie friable」が出土した(図2:1)[Contenson1992:149]。ルミエールらが第
一段階に位置づけているのはケルク土器ではなく軟質土器の方であり、テル・エル・ケルク遺跡
でも同様の土器を確認しているという。軟質土器はレヴァント最古とされていたアムークA期の
アセンブリッジに先行すると予想され、ケルク土器よりも「プリミテイヴ」な様相をもつと考え
ている。しかし、この段階とされる土器は今回の対象地域以外では中央アナトリアのチャタル・
フユック遺跡やザグロスのテペ・グーラン遺跡といった遠隔地にのみ想定されており、相互に編
年関係を検証するのは難しいというのが現状であろう。
それに比べ、第二段階とされているものは資料数が急激に増加する[Le Miさre and Picon1998:
Fig.5]。前の段階では北レヴァントのみに分布していた土器が、この段階ではユーフラテス、バ
リフ、シンジャールといった北メソポタミア地域でみられるようになる。
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北レヴァントおよぴ北メソポタミアにおける土器使用の普及をめぐって
なかでも、綿密な分布調査が実施されたユーフラテス川中・上流域やバリフ川流域での類例は
顕著である。ルミエールらは第二段階の土器が出土した遺跡として、ユーフラテスではテル・ハ
ルーラ、クマルテペ、シュリュク・メヴキ、グリテイッレをあげており、私見では、発表当時に
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図2
ルミエールとピコによる初期の土器の変遷(LemiさreandPicon1998をもとに作成)
1 ラス・シャムラ(Contenson1992)、2−11テル・エル・ケルク(Tsuneki and M−
yake1996)、12−21 テル・ハルーラ(Faura and Le Miさre1999)、22−38テル・コ
サック・シャマリ(FauraandLemiさre1999)、39−46ウム・ダバギーヤ(Kirkbride
1972)
116
未報告であったアカルチャイ・テペ[Arimuraθ‘α1.2000]もこれに加わると考える。また、バ
リフではギュルジュテペ、テル・アスワド、テル・ダミシュリヤ1、テル・サピ・アビヤドII、
テル・ブレイラト、テル・ムンバテをあげている。これらの遺跡で出土している最古の土器は、
おおむねスサが大量に混和された胎土で、器面は軽いミガキによって調整されることが多く、装
飾はほとんどみられない[cf.Beile−Bohnθエα1.1998;Akkermans1989;Nieuwenhuyse2001;
Cope1and1979]。器形は無頸壷あるいは鉢形で頸部を持つことはなく、把手が多くみられる(図
2:14−17)。ただし、テル・ハルーラ、クマルテペ、アカルチャイ・テペといった遺跡では、スサ
を混和せず、方解石などの小礫を混和した一群の土器一3〕が知られている(図2:13−15)[Faura
and Le Miさre1999;Roodenbergθエα1.1984;Arimuraθ‘α1.2000]。この土器は、アカルチャイ・テ
ペ遺跡の概報でスサ混和の土器より早い段階に位置づけられ、テル・ハルーラ遺跡でも古い段階
において多く出土している[Arimuraθ一α1.2000;LeMiさreandPicon1998:18;FauraandLeMiさre
1999:283]。
一方、ハブールを越えて束方に位置する、シンジャール山麓のギニグ遺跡やテル・マグザリヤ
遺跡でも第二段階とされる土器が出土している。これらは、スサを多量に混和した胎土をもち、
表面は粗いナデによって調整され、外面に赤色スリップがかけられる場合がある。装飾はみられ
ない[Campbel1and Baird1990:68−72;Bader1989]。ルミエールらは、第二段階として決定する
には資料が少なすぎるものの、土器製作技術の地域的拠点を示唆できるとしている[LeMiさreand
Picon1998:13]o
なお、西方のレヴァントのテル・エル・ケルク遣跡2号丘やラス・シャムラ遺跡でも、第一段
階に続いて第二段階の土器の存在が想定されている(図2:2−11)。
第三段階は土器製作技術が一般化する段階とされ、北レヴァントおよび北メソポタミア全域で
土器がみつかっている。遺跡をあげると数隈りないが、ルミエールらは土器製作技術にもとづい
て、これらを大きく三つの地域に区分している。
北キリキアのシリア地域は、多くは器壁が内反し、しばしば把手を持ち、刻文や貼付文などで
装飾される土器を特徴とする。この地域はユーフラテス川を境にして束西に細分することが可能
で、西側はいわゆる暗色磨研土器、東側はスサが混和された土器(図2:22−38)を主体とする。
北メソポタミア地域は、明色系の色調、スサの混和、器壁の屈曲、貼付文の多用などを特徴とす
る、いわゆる原ハッスーナ土器主体の地域である(図2:39−46)。そして、更にザグロス地域が
区分されており、明色系の色調、スサの混和、頸部をもつ器形の欠如、彩文の多用などを特徴と
する。ただし、この地域であげられている遺跡は少なく、今回の対象地域に限るとジャルモ遺跡
のみである。
以上、ルミエールとピコの見解にしたがって、近東の初期の土器について概観した。しかし、
未だに不明確で検討を要する点は残されている。そこで、私なりに考えるいくつかの留意点を提
北レヴァントおよぴ北メソポタミアにおける土器使用の普及をめぐって
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示しておきたい。
まず、ルミエールらの段階区分では第一段階と第二段階との区分が問題になるであろう。第一
段階とされている北西シリアの土器と、第二段階で現われるユーフラテスやバリフの土器は、型
式学的にも層位学的にも編年関係を検証するのが難しい。北西シリアでは新石器時代を通じて暗
色磨研系の土器川が主体であるのに対し、ユーフラテス以束は基本的にスサが混和された土器と
いう、まったく様相の異なる土器が主体を占めるからである。また、第三段階では各地で暗色磨
研土器の出土が知られているが[e.g.LeMiさreandPicon1987;Baderθ‘αL1994]、第二段階のユー
フラテス以東ではあまりみられない。したがって、第一段階と第二段階が時期的に一部重複して
いても菌且歯吾はないのである。特に、テル・ハルーラ遺跡、クマルテペ遺跡、アカルチャイ・テペ
遺跡で出土している小礫が混和された土器は、層位学的事実からその可能性が高いように思われ
る。
次に、第二段階に位置づけられる遺跡分布は偏りがあることに注意したい。先述のように、こ
の段階の類例は、綿密な踏査が実施されたユーフラテス川中・上流域やバリフ川流域には数多く
みつかっているが、ハブール川流域やイラク国内といったところではほとんど知られていない。
つまり、調査密度によって、ある程度は分布に偏りが出てしまっていることを想定しなければな
らないであろう。実際、近年に発掘調査が始められたハプール川流域のテル・セクル・アル・ア
ヘイマル遺跡では、第二段階に比定される原ハッスーナ土器に先行する未知の土器がみつかった
[Nishiaki2001]。その詳しい内容は本報告を待たねばならないが、こうした事例は今後の調査の
進展によって増加する可能性があり、第二段階をユーフラテスやバリフに顕著な段階とみなすこ
とは今のところ危険である。
第]段階と第二段階の間の時期差には決め手となる証拠がないこと、そして第二段階の類例は
広範に分布する可能性があること、の2点をふまえると、近東における土器使用の普及は、きわ
めて短期間のうちに広範囲で起こった現象とも考えられる。もしこれが正しいとするならば、我々
は同じような、つまり短期間のうちに広範囲において想定しうる、土器の需要を生み出した要囚
を明らかにせねばならない。
3.初期の土器の用途
なぜ土器製作を開始したのかという疑問は、土器を何に使ったのかという問題に直結する。ふ
つう土器の機能は、貯蔵、調理、運搬、供膳、祭祀というように分類されるが、形態や使用痕な
ど、我々が観察しうる属性からそれを特定するのは容易ではない。
管見によれば、これまで近東における初期の土器の機能を論じた研究は意外にも少ないが、日
本の研究者の間では貯蔵用とされることが多かった[e.g.松本1996;小泉1997]。しかしこの背景
には、日本の近東考古学がイラクやイランにおける発掘調査を中心に進展してきたため、近束最
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古の土器が一般に原ハッスーナ土器と考えられがちであった経緯があろう。原ハッスーナ土器は
貯蔵に適した大型の土器が多く、筆者もその主たる用途として貯蔵を考えている[小高2000]。
しかし、シリアやトルコ国内での調査が進展した昨今では、初期の土器の用途を多元的に捉え
る傾向が看取できる。たとえば、バデルは第三段階のキュル・テペ遺跡出土土器の一部を調理用
容器cooking vesselsと報告している[Bader1993:Fig.4.3.]。また、ムーアは精製土器を供膳用、
粗製土器を貯蔵用、無頸壷などの多くを調理用と想定している[Moore1995:47−48]。日本の研
究者では、常木晃が「現在出土している本格的土器に煮炊きをした明確な証拠は観察されないた
め、今のところ、西アジアでは貯蔵や運搬を主な目的に土器が発明された、と考えておくことに
しよう。」[常木1997:75]という慎重な見解を述べている。
いずれにせよ、上述の意見の多くは調査報告や概説菩の一部で簡潔に示されたものにすぎない。
詳細な検討を加えた例としては、ここでもやはりルミエールとピコの研究[Le Miさre and Picon
1994.1998]をあげる必要があろう。
彼女らは土器を調理用として使用可能か否かという点から分析した。したがって、調理用に使
える土器であっても、単なる容器として使用された可能性を切り捨てているわけではない。しか
し、調理用に使う場合は然るべき耐熱性が必要であることを指摘し、その対処方法として混和材
の利用をあげている。なかでも小礫の混和を重視し、テル・ハルーラ遺跡などユーフラテスでみ
られる方解石などを混和した土器をはじめ、バリフ川流域でも調理用に使うことができる土器が
存在することを述べた。また、暗色磨研土器も調理用として使用できるとしている。
しかし、第一段階から調理用には使えない土器が存在すること、加えて、二次焼成痕が稀であ
ることや、特にバリフ以東では初現期に調理用土器がないことも指摘した。一方で、貯蔵用とし
てはサイズが小さいことなどを考慮し、結論として、ある特定の機能の想定は避けている。
これらの言説をふまえると、やはり初期の土器の用途をただ一つに絞り込むのは不可能なよう
に思われる。以前、筆者は西方では運搬、東方では貯蔵を主な目的として土器製作が開始された
のではないか、という見通しを示したことがある[小高2000]。現在でもその意見を放棄したわ
けではないが、地域によって主眼とする機能に差異があるようでは、土器使用の普及の同時性を
説明したことにはならない。
それでは、いかに土器使用が普及する要因を考えるべきなのか。ここで、年代的にはやや遅れ
る南レヴァントの例をあげておきたい。この地域の土器新石器時代に関する近年の論考では、土
器の実用的な面よりむしろ象徴的な面を重視する意見がみられる[Orre1leandGopher2000]。今
回の対象地域では、特に最初期の土器に装飾のみられる例がほとん・どないが、のちの彩文土器の
広範で急速な普及などを考慮すれば、示唆に富む視点かもしれない。
北レヴァントおよぴ北メソポタミアにおける土器使用の普及をめぐって
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4.むすぴにかえて
以上、初期の土器とその用途について概観してきた。あらゆる初現論において宿命的なことと
もいえるが、やはり土器の普及について決定的な理由をあげるのは難しい。しかし、それでも我々
は追究を続け、杜会的・文化的なコンテクストに位置づけていく努力を怠ってはならないだろう。
土器が広範に普及する時期の背景には、定住農耕杜会の完成と大規模な牧畜、もしくは遊牧の
開始が一般にあげられている[e.g.Moore1995;Le Miさre and Picon1998]。一方で、先土器新石
器時代からの連続した堆積をもつ遺跡において、土器の出現する層位で他に大きな変化がないの
も事実である[Le Miさre and Picon1998:22]。したがって、極めて短期間の文化変化と土器の普
及が対応するというわけではなさそうだ。しかし、定住農耕社会の完成や遊牧祉会の出現という
社会上の変化は、ナトゥーフ期から連綿と続く、定住化、農耕の導入、家畜飼養の開始といった
ような一連の発展の到達点ともいえる。土器の普及はそれら一連の発展の最終段階に位置づける
ことができ、定住農耕社会の完成と無関係であるようには思えない。その関係性を具体的かつ明
瞭に説明していくことが今後の課題である。
本稿を草すにあたって、常木晃先生、三宅裕先生をはじめ筑波大学シリア考古学調査団の方々、
マリー・ルミエール先生、西秋良宏先生には多くの有益なご助言をいただいた。また、藤本強先
生、小泉龍人先生には日頃よりご指導いただいている。末筆ながら記して深謝申し上げたい。な
お、本稿は平成13年度笹川科学研究助成による研究成果の一部を含む。
註
(1〕本稿で記した略年代は、未較正の放射性炭素年代による年代概にもとづ㍍
(2)現在の同名で示すとシリア北部、トルコ南東部、イラク北部の範閉である。
(3〕 いわゆる‘s6rienoire’あるいは‘blackseries’と呼ばれる一群の土絆などである。
(4)鵬色磨研土器の伽型とされるケルク土器を含めて「鵬ω享書研系の土器」と表現した。
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