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朔太郎の片恋一大正三年 「日言己」 をめぐって

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朔太郎の片恋一大正三年 「日言己」 をめぐって
愛知教育大学研究報告、44(人文科学編)、pp.77
90、February、1995
朔太郎の片恋一大正三年「日記」をめぐって
渡
辺
和
靖
Kazuyasu WATANABE
(哲学教室)
序章
「みちゆき」の女
「習作集第八巻」と題された,黒のクロス表紙のノートが残されている。長い放浪の旅
から悄然として故郷前橋に帰り着いて二ヶ月ほどした,大正二年四月に書き始められたも
のであるが,大正二年二月の日付を持つ作品も収められている。帰郷して以来書き散らし
た詩作品のなかから気に入ったものを選んで記入したものであるが,さらにそのなかから
選びだした自信作数篇は,改めて原稿用紙に清書してすでに北原白秋のもとへ郵送して
あった。
送られてきた無名詩人の作品を,白秋は,ただちに採用した。『未欒』大正二年五月号を
飾った「みちゆき」以下六篇がそれである。明治三十七年以来,すでに九篇の詩作品を世
に送りだしていた朔太郎ではあったが,名実ともに詩人として出発したのはこのときで
あった。
これ以後も,朔太郎は,ひきつづいて作品を送りつづけた。『未欒』は五月号をもって廃
刊となり,白秋の紹介で,それらの作品は,すこしおくれて前田夕暮の主宰する雑誌『創
作』に掲載された。これらの作品は,第一詩集『月に吠える』(大正六年二月刊)には収録され
ず,大正?四年八月に出版された第四詩集『純情小曲集』に,「愛憐詩篇」の総題を付して
収められた。
「愛憐詩篇」では「夜汽車」と改題された「みちゆき」は,人妻との夜汽車の逃避行を,
つぎのように描写している。
ありやけのうすらあかりは\硝子戸に指のあとつめたく\ほの白みゆく山の端は\み
づがねのごとくにしめやかなれども\まだ旅人のねむりさめやらねば\つかれたる電
灯のためいきばかりこちたしや\あまたるきニスのにほひも\そこはかとなきはまき
たばこの煙さへ\夜汽車にてあれたる舌には侘しきを\いかぽかり人妻は身にひきつ
めて嘆くらむ\まだ山科は過ぎずや\空気まくらの口金をゆるめて\そつと息をぬい
てみる女ごヽろ\ふと二人悲しさに身をすりよせ\しのヽめ近き汽車の窓より外を眺
むれば\ところもしらぬ山里に\さも白くさきて居たるをだまきの花
「みちゆき」に登場する人妻については,はやくから,モデルがあったのではないか,
それは朔太郎が少年時代に思いを寄せた少女ではないか,それは朔太郎の手紙や作品にし
ばしば見えるエレナと呼ばれる女性ではないか,という疑問が提出されていた。この問題
に最初に明確な回答を与えたのは,昭和三十七年に発表された,久保忠夫氏の「朔太郎の
-
恋-エレナといへる女性についてー」という論文であった(1)。
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久保氏は,「作品からただちにそのやうな事実をひき出すことは早計であらう」としなが
らも,遺族に配慮して仮名ではあったが,朔太郎の妹ワカの親友で,前橋中学校時代に朔
太郎とも交際のあった,馬場ナ力(伸子)を紹介し,「「愛憐詩篇」は,その人妻との恋の順
調に進んでゐるころから破局にいたるまでの過程に成立したものなのである」と結論づけ
ている。
「みちゆき」に歌われた「人妻」をエレナ=馬場ナカと結びつけて,二人のあいだに当
時何らかの関係があったとする見解は,その関係をどの程度のものとするかについては多
少異論があるものの,これ以後ほぼ定説となった(2)。渋谷国忠は,昭和四十一年に発表され
た「詩人登場まで」において,さきの久保氏の指摘をふまえて,エレナと呼ばれる恋人の
存在に言及し,「みちゆき」で歌われた「人妻との旅行なども,実際にあったことという可
能性が相当にある」と述べている(3)。最近では,大岡信氏が。
人妻との夜汽車の「みちゆき」は,作者のまったき空想旅行だったのか,それとも少
しは現実の裏付けがあるのか。
と問題提起をしたうえで,渋谷のさきの論を引いて,「この詩にしっとりとゆきわたってい
るしめやかな人肌のぬくみ,けだるさ,物憂さの現実感は認めざるを得まい」と結論して
しlる(4)。
朔太郎が,ある人妻と夜汽車による逃避行を決行するほどの関係にあったという,こう
した見解は,この時期の作品を解読するうえで,大きな影響を与えることとなった。例え
ば,大正三年の十一月から十二月にかけて制作された「浄罪詩篇」と呼ばれる一連の作品
に歌われた「罪」とは,朔太郎にとってこの時期,いったい何であったのかという,よく
知られた疑問について,赤城毅氏は,それはたんに,人妻と密通していた朔太郎が,刑法
百八十三条に規定された姦通罪を恐れていたに過ぎないと断定している。
〈つみとが〉だの〈罪びと〉だの<懺悔〉だの<祈り〉だのいう言葉が多用されたに
もかかわらず,浄罪詩篇と呼ばれる詩篇のどれひとつとして〈懺悔〉の痛みを読むも
のに伝えてくれないのは,彼の意識が宗教上の堕罪観とは無縁のもので,その<懺悔〉
は彼の意識が旧刑法の蜘蛛の糸にがんじがらめにからめとられたところからの発想で
あったことを物語っている(5)。
このような解釈を許すほどに,朔太郎と人妻との不倫の関係は,いわば年譜上の事実と
して承認されるに至っている。もちろん,少数ながら,エレナをめぐるストーリーが朔太
郎による創作に過ぎないと主張する論者もいないわけではない。しかし,そういう人々も,
その立場をこの時期の朔太郎の作品と生活の全体にわたって,説得的に展開することに成
功していない。
その根拠はおいおい明らかにしていくこととして,筆者は,「みちゆき」に歌われた人妻
との夜汽車の逃避行を含めて,朔太郎の語るエレナの物語は,すべて,朔太郎が自ら紡ぎ
だしたフィクションに過ぎないと主張するものである。朔太郎と少年時代の思い人エレナ
とのあいだには,大正二年から三年にかけての時期,そしてそれ以後も,不倫の関係どこ
ろか,一,二度何かの機会に同席するようなことがあった以外は,ほとんど何の関係もな
かった,それは,朔太郎の側の一方的な片想いに過ぎなかった。久保氏の論文にならって,
-
本稿を「朔太郎の片恋」と名づける所以である。
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朔太郎の片恋一大正三年[日記]をめぐって
第一章
遊郭の女?
朔太郎は,一月一日から二月六日まで記入された,大正三年版『博文館常用日記』を残
している。これは,朔太郎が残した唯一の日記でもある。一月四日,五日,十四日,十五
日の四日分の記載がなく,合計三十三日分の記述がなされている。
この日記は,朔太郎とエレナの関係を考察するうえで,きわめて重要な資料である。
N子に手紙をかく。わが熱は甚だ冷たし。(一月十日)
音楽会の件につきS子,S氏等に通信を発す。(一月二十三日)
SN子より返信来る。何たる冷淡何たる侮辱ぞや。彼の意のあるところ殆んど解すべ
からざるもその心冷えたるは推するに足る。/一枚の白紙は何の意ぞ。或は之を火にか
ざし或は水にひたせるも白紙は依然として白紙なりき。/余は既にこのたはむれに飽
きたり。危険を冒してまでかかる児戯をつづくる必要何処にありや。恋にあらざる恋,
又無益なる芝居を試むる愚をなす勿れ。彼何者ぞ。/これを機会として二度彼と通信を
なすことをやめん。少なくとも彼より求めて来るまで余は彼を忘れん。(一月二十四日)
S子はたうとう来なかった。若いハイカラな美男子になれなれしく話かけられた。あ
とできけば佐藤といふドクトルであった。私は妙な忌はしい気分に襲はれた。(一月二十
五日)
これらの記事で,N子,S子,SN子などと呼ばれているのが,エレナ=佐藤(旧姓馬場)
ナカであることは,いうまでもない。S氏あるいは「佐藤というドクトル」は,もちろん,
エレナの夫君佐藤清である。これらの記述から,朔太郎が,エレナに手紙を書き,エレナ
から拒絶の意志を伝える白紙の返書を受けとったこと,朔太郎が,エレナ夫妻に音楽会へ
の招待状を発送し,音楽会当日,単身であらわれたエレナの夫君に声をかけられたことな
どの事実を読みとることができる。
この時期,朔太郎はエレナと,どのような関係にあったのだろう?「日記」の記述から
すると,二人は,とうてい密会するような関係にあったとは思われない。むしろ,朔太郎
が,一方的にエレナにコンタクトをとろうとして拒絶されているように見える。
その日記の大正三年一月二十日の項に,不可解な記事がある。
Circleに行った。今夜はZwei
mal である。そのMadcheiiの私の心を牽くことは先
夜にもいやました。涙は頬につたはつた。/恋でもない,同情でもない,勿論単なる哀
憐の心でもない。かうした一種のなつかしみは私にとって何より尊い詩境の楽である。
漂泊者の群は明日はこの地を去るのである。小女子よ,おん身の上に幸あれ。/「アヱ・
マリヤ,彼女の上に祝福を垂れ給へ」
この記事には,多くの謎が含まれている。
「Cricle」とは,いったい,なにか?「Zwei
mal」とは,いったい,何か二度目だとい
うのか?「Madchen」とは,いったい,だれか?
しかるに,この記述については,これまで,かならずしも充分な検討がなされてこなかっ
たように思われる。というよりも,すでに解決済みの問題として,放置されてきたように
思われる。 というのも,この「日記」をはじめて紹介した渋谷国忠が,一月二十日のこの
記事に,「遊郭に行って」という頭註をほどこし,それが現在に至るまで影響を及ぼしてい
-
ると考えられるからである(6)。
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嶋岡晨氏は,この記事にふれ,「:丈中のMadchenは遊郭の女である。遊郭にかよって性
欲を解消しつつ,「詩境」をそこに見出だ十朔太郎」と論じている(7)。この推定には根拠が
示されていないが,渋谷国忠の指摘に示唆されたものと思われる。
しかし,「Circle」が遊郭を意味し,「Madchen」が遊郭の女を意味十るというのは,本当
だろうか?
たしかに,朔太郎は,この時期,遊郭にかよっている。同じ日記の,一月二十五日の,
夜はたうとうFEMMEに行った。つぶれたやうな顔のFが来た。しかし私は強ひて
享楽した。幾度もキスをした。愚かしいことではあるがあながちに無意味な浪費でも
ないと思ふ。
という記事,そして,二月五日の「夜はK.
十ヒトのFRAUがきた。
T.
K.へ行った。醜いといふよりは妙なゲ
BETRINKEN……」という記事が,ともに遊郭にかかおるもの
であることは明白である。
これらの記事において朔太郎が,遊郭の女を「FEMME」とか「FRAU」などと呼んで
いることから,おそらく,渋谷は,一月二十日の記事に見える「Madchen」を遊郭の女と
推定したものと思われる。しかし,ここで注意しなければならないのは,これら遊郭にか
かわる二つの記事から見て,朔太郎は,遊郭の女に嫌悪を感じていても,けっして「なつ
かしみ」や「詩境」を感じてはいないということである。朔太郎は,自らの行為について,
むしろ,はげしい後悔にさいなまれている。登楼の翌日,二月六日の記事に「Letzte
の記憶がしばしば繰り返されることは死よりも苦痛である」とある。つまり,これらの記
事と,さきの一月二十日の記事とを比べてみると,そこに,女性にたい十る態度において,
明白なトーンの違いが看取されるのである。
また,一月二十五日の記事には,「夜はたうとうFEMMEに行った」とある。これは,
この時期,朔太郎が,比較的長い間,自らに登楼を禁じていたことを示十ものであろう。
それからわずか五日前の一月二十日の記事を遊郭にかかわるものと十るならば,この「だ
うとう」という言集は理解しがたいものとなる。一月十七日の記事に「わが意志の弱きこ
と憐れむにたへたり。臆病と御人好しは吾が性来の病癖なり。我れは如何にしてもこの二
病に打克たざるべからず」とあり,同じく,一月十八日の記事に,『中央公論』所載の谷崎
潤一郎の十説を読んだ感想として「三ヶ月以上Wに接しないことは若い男にとって生理的
に不可能であるといよ谷崎の言集が痛切に思はれる」とあるのは,禁欲中の朔太郎の発言
と解十ることができる。
と十れば,当然,少なくとも一月十七日から二十五日までの間,
朔太郎は登楼していないという結論になろう。
以上のことからして,一月二十日の記事が遊郭にかかわるものであり,「Madchen」が遊
郭の女であるという推定は,きわめて十合理な判断であるということになろう。
第二章
「Madchen」とはだれか?
一月二十日の記事に見える「Circle」とは,最後の一行「アゴ・マリ十,彼女の上に祝福
を垂れ給へ」という祈りの言葉から見て,キリスト教にかかわるものと考えられる。おそ
らく,それは,教会での集会であったと思われる。つまり,朔太郎は,この日,教会の集
会に出席して,そこで[Madchen]と出会ったのである。
-
「Madchen」とは,なにものか?
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Nacht
朔太郎の片恋一一大正三年「日記」をめぐって
手がかりは,二つある。
第一は,「恋でもない,同情でもない,勿論単なる哀憐の心でもない。かうした一種のな
つかしみ」という表記にかかわっている。ここで朔太郎は,その女性にたいする自己の感
情を,普通の恋愛関係とは異なるものであるという認識を示している。この言い方は,い
ずれもエレナとかかおる二つの記事と共通している。
まず,久保氏がさきの論文で,「月蝕皆既」との関連でとりあげた,「ノート
一」に見
える,
ゆうべ久しぶりでエレナに逢った。エレナとは彼女が浸礼聖号だ。二人で月蝕を見て
居た。もう僕と彼女との間には恋はない。併し恋以上の不可思議な愛がある。それは
深く考へるときは戦慄すべきものだ。僕はいそいで別れた。部屋へかへつてからまつ
さをになってふるへて居た。
という記述である(8)。ここで朔太郎は,エレナとのあいだには普通の恋愛関係はないけれど
も,それ以上の不可思議な愛かおるといっている。
つぎに,さきに引いた「日記」の一月二十四日の記事で,エレナから白紙の返事を受け
取った後,「恋にあらざる恋,又無益なる芝居を試むる愚をなす勿れ」と決意する部分であ
る。ここでも,朔太郎は,エレナとの関係を,普通の恋とは異なる恋と表現している。
いすれの場合も,朔太郎は,エレナとの関係が普通の恋愛関係とは異なるものであると
いう認識を示しているが,これは,一月二十日の記事における「Madchen」にたいする「恋
でもない,同情でもない,勿論単なる哀憐の心でもない。かうした一種のなつかしみ」と
いう認識と共通している。このことから,「Madchen」はエレナを指す言葉であることが暗
示されよう。
ちなみに,この「恋以上の不可思議な愛」とか「恋にあらざる恋」といった表現は,従
来,朔太郎とエレナとの関係が,たんなる男女の肉体的関係をはるかに超越した神聖な精
神的関係であることを意味するもののように理解されているようである。しかし,さきの
使い方から見て,これらは,たんなる一方的な関係=片想いにたいする朔太郎なりの表現
であったと解すべきであろう。
手がかりの第二は,「漂泊者の群は明日はこの地を去るのである」という表記である。こ
こで朔太郎は,「Madchen」にたいして自らを「漂泊者」になぞらえている。このことに関
連して,い?れもエレナとかかわる二つの記事において,朔太郎が,自らを漂泊者とする
認識を示していることは注目に値する。
まず,「二月の海」につぎの三つの例をひろうことができる。
疲れたる漂泊者のする様に私は例の砂山に寝ころんで海を眺めた。
五年まへの夏,希望に輝く瞳を以て此処の松林の中から大洋の荘厳を祝した紅顔の少
年は頽唐の骸骨となって長い漂泊の旅から帰って来た。
翌る朝,私は飄然として其処を立った。どこまでも静をいとうて動を愛する私は生れ
なからに漂泊の運命をもって居るのではあるまいか。
「二月の海」が,エレナの思い出をたどる旅の記録であることを考えれば,「漂泊者」あ
るいは「漂泊」という言集が,朔太郎にとって,エレナにたいする自らの位置を示すもの
であったことは間違いない。
-
つぎに,明治四十五年六月二十二日付の萩原栄次宛書簡に以下のように記されている。
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罪人のように,私は都を逃れてこヽの海に漂泊して来ました,怪しきまでに痛々しい
神経の刺激は私に海へ行けと命じました,
この旅も,また,エレナを偲ぶ旅であった。その旅を,朔太郎は,「漂泊」と呼んでいる
のである。
以上二つの記事から,朔太郎が,「漂泊者」あるいは「漂泊」という言葉を,エレナとの
関係において使用していることが知られる。つまり,朔太郎は,エレナにたいして,自ら
を「漂泊者」つまり一定の場所に留まらない存在として位置づけていたのである。こうし
た,「二月の海」や栄次宛書簡において示されたような,エレナにたいする認識のあり方は,
一月二十日の記事における「漂泊者の群は明日はこの地を去るのである」という「Madchen」にたいする語りかけと共通している。このことから,「Madchen」はエレナを指す言
集であることが暗示されよう。
ちなみに,こうした位置の取り方は,おそらく,エレナが結婚して人妻になったという
事情とかかわっていたと思われる。つまり,朔太郎は,エレナの結婚によって,自らをエ
レすにたいして漂泊者とでも位置づけるしかないところに追い込まれたのである。
以上の考察からして,「Madchen」=少女と呼びかけられた女性がエレナを指しているこ
とは明白であるように思われる。すでに人妻となった二十六歳の女性を「Madchen」と呼
ぶのは少し異様な感じもするが,朔太郎にとって,エレナがつねに少年時代の記憶にある
少女と結びついていることを考えあわせれば,それも納得されよう。
この,かなり明白な事実が,これまでなぜ看過されてきたか?「Madchen」を遊郭の女
とするような誤った見解が,なぜ流布するに至ったか?
それは,この時期朔太郎がエレ
ナと不倫の関係にあったとする神話のせいである。人妻と密会を重ねる朔太郎に,それ以
外に心をときめかせるような女性がいるはずもないし,また,いてはならないとする先入
観が,冷静な判断を妨げたのである。まして,それが「Madchen」とか「小女子」とか呼
ばれているとすれば,遊郭の女とでも辻褄をあわせるしか方法がなかったであろう。
第三章
クリスマス・コンサート
ところで,朔太郎とエレナが再会することになった,「Circle」つまり教会の集会とは,
いったい,何であったのか?
この時期,エレナと教会を結びつけるものがあるとすれば,それは,彼女が大正三年五
月十七日に,高崎ハリストス正教会において受洗しエレナという洗礼名を授けられている
という事実以外には考えられない。エレナが,いつ頃からロシア正教の信仰を受け容れる
ようになったか明らかではないが,洗礼の時期から推測して,少なくとも大正三年一月に
は教会に所属していたことは疑いないだろう。
日本ハリストス正教会は,ロシア正教の流れをくむ。牛丸康夫氏の『日本正教史』によ
れば,「日本への正教布教の第一歩は文久元年,ニコライ師の渡来から始まり」,明治四十
五年七月の時点で「正教会聖堂,会堂,講義祈祷所の数二百六十六ヶ所,信徒総数三万三
千三百七十七人」を数えたという(9)。
朔太郎が愛読した『カラマゾフの兄弟』には,[奇蹟を否定したる新教徒の愚や及ぶべか
らす]というプロテスタントを批判する朔太郎自身の書き込みがあり,また「吾等は汝の
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事業を変へて奇蹟と神秘と権威との上に宗教を置いた」という部分に,「カトリック教の真
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理」という書き込みが見える(10)。朔太郎のドストエフスキーヘの関心のうちには,エレナ
の属するロシア正教(朔太郎はこれをカトリックと同一視しているが)への関心があったことが推
測される。
エレナと教会との関係はそれとして,朔太郎と教会の関係はどうであったのか?
で大きく浮びあかってくるのは,前橋ハリスト正教会で聖歌隊の指導をしていた,大沼竹
太郎の存在である。久保忠夫氏の紹介するところによれば,大沼はニコライ神学校聖歌学
校の出身で,前橋には,ハリストス正教会の[詠隊教師]として赴任してきたという(11)。
一月一日の記事に,「今年はまだInstrumentの方も勉強しようと思ふ」という決意が述
べられているように,「日記」には,朔太郎が,この時期,マンドリンに熱中したことが記
録されているが,そのマンドリンの指導者が大沼竹太郎であった。「日記」には,大沼の名
前がしばしば登場する。
夜は上州新報の新年会に招待されたのでそれを口実として大沼氏への御供は御免蒙つ
た。(一月二日)
午後大沼氏ににすめられ中川小学校の同窓会にマンドリンを出演す。(一月三日)
夜大沼氏にさそはれ正教会のクリスマスに出演す。(一月七日)
夜大沼方にゆき合奏す。ヴアイオリンを教はる。ト月八日)
大沼氏とドナウヴェレンを合奏S。(一月十一日)
大沼氏とドナウヴェレンを合奏す。(一月十八日)
夜大沼氏に行く。(一月ニト一口)
夜美々しい新室に一人で坐って居るのがたまらなくなって大沼氏をつれてきた。(一月
二十七日)
夜大沼氏と部屋に語る。(二月一日)
のち朔太郎は,大正三年八月十七日付の『上毛新聞』に「大沼竹太郎を送る言葉」とい
う小文を寄せて,「私の,唯一の伴奏者であり,同時に合奏者であり,そして又唯一の教師
であった」大沼が前橋を去ることを惜しみ,「恋びとのやうに懐かしいと言はれた,この第
二の故郷を,すげなく追はれてゆく芸術家の心,中年の音楽家の心を私はよく察すること
が出来る」と書き,最後に「立秋」と題する詩を掲げている。
朔太郎とエレナが不倫の関係にあったという神話を否定する立場からすれば,大沼の存
在はきわめて重要な意味をもっている。もし朔太郎がエレナと直接接触するルートを持っ
ていなかったとすれば,いったい,エレナにかんする様々な情報をどのようにして手に入
れていたのであろうか?
この時期,朔太郎にとって,大沼は,たんにマンドリンの先生というばかりではなく,
エレナにつながる窓口という意味をもっていたのではあるまいか。朔太郎は,エレナにか
んする情報を,少年時代の幼なじみという名日で,大沼からいろいろと聞きだしていたの
ではないだろうか?
朔太郎が佐藤O日姓馬場)ナカをエレナと呼ぶことになるきっかけと
なった,大正三年五月のエレナの受洗の事実なども,大沼によって朔太郎に伝えられたと
いう可能性がたかい。
一月七日の記事に,
夜大沼氏にさそはれて正教会のクリスマスに出演す。曲はクリケット・パレード。如
-
何なる故か音程甚だ悪しく中途にやむ。/心ざま卑しく品下れる人々のみだりがまし
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ここ
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きたはむれを見て心悲しみにたへがたし。我が彼等の中にあるは茨の中に白百合の咲
けるが如し。彼等の群を逃れ出でばや。
とある。この記事から,この日,前橋ハリストス正教会でクリスマス・コンサートが開催
されたこと,そして,大沼の誘いで,朔太郎がそれに出演したことが知られる。このこと
は,一月二十五日に高崎でもよおされた音楽会の性格を考えるヒントとなる。
一月七日に前橋で開催された音楽会と,一月二十五日に高崎で開催された音楽会は,まっ
たく無関係のものではあるまい。朔太郎は,いずれも大沼との関係から,それらの音楽会
に出演することになったものと考えられる。大沼は,前橋ハリストス正教会の聖歌隊だけ
でなく,高崎ハリストス正教会の聖歌隊の指導をも担当していたと推測されるからである。
一月二十五日の音楽会は,高崎ハリストス正教会で開催された,一と月おくれのクリス
マス・コンサートであったにちがいない。朔太郎は,高崎の場合と同様,大沼の誘いでこ
の音楽会に出演することになったのである。
一月二?日は,演奏会を五日後にひかえて,高崎ハリストス正教会で最終的な打ち合わ
せの会が開かれ,朔太郎は出演者の一人として,これに出席したと考えられる。「Circle」
とは,まさしく,その集会を指すものとして朔太郎が使用した言葉であった。翌二十一日
の記事に「二十五日高崎に於ける演奏会の準備として終日マンドリンを練習する」とある。
これは,前の日に聞かれた集会がもたらした興奮の余韻のようなものであったろう。
「Circleに行った。今夜はZwei
mal である。そのMadchenの私の心を牽くことは先
夜にもいやました」という一月二十日の記事は,高崎ハリストス正教会で聞かれた,一月
二十五日の音楽会準備の打ち合わせ会に出席した朔太郎が,教会の側の役員の一人として
出席した,今は人妻となった,少年時代の思い出の少女エレナに会ったことを記したもの
であると解読することができる。
もちろん,それは,ただたんに同席したというにとどまり,直接言葉を交わすというよ
うな性質のものではなかったであろう。それでも,その出会いは,久しくそのことを夢見
ていた朔太郎に,かぎりない「詩境の楽」と「なつかしみ」を残したのであった。
ここで,朔太郎が,なぜ,高崎ハリストス正教会での集会を,「Circle」という秘密めか
した呼び名で表記しているのか,という問題に考察を加えておきたい。これは,朔太郎が,
一月二十五日の高崎での音楽会について,明確な場所の言及を避けているという事実と密
接に結びついている。
朔太郎は,マンドリンの演奏会の会場について,「中川小学校の同窓会にマンドリンを出
演す」(一月三日)「正教会のクリスマスに出演す」(一月七日)などと,かなりはっきりと演奏
会の行われた会場について記述している。ところが,一月二十五日の高崎での音楽会につ
いては,「高崎の時の試演といふ意味であつたから格別気にもかからない」「一月三日汀二?
五日高崎に於ける演奏会の準備として終日マンドリンを練習す」(一月二十一日汀十二時十五
分の汽車で高崎へ行く)(一月二十五日)など,「高崎」という以外,まるで言及を恐れている
かのように,具体的な会場の場所についてはまったくふれられていない。
おそらく,朔太郎にとって,一月二?日の集会の会場,そして一月二十五日の音楽会の
会場を明確に記述することは,ただちにある秘密の暴露につながると感じられたのにちが
いない。すなわち,それは,少年時代の思い人にして今は人妻となったエレナのかよう高
-
崎ハリストス正教会!
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-
朔太郎の片恋一大正三年「日記」をめぐって
第四章
一度目の出会い
朔太郎は,一月二十日の記事のなかで,これは,「Zwei
mal」二度目であったと書いて
いる。つまり,朔太郎は,これ以前に,エレナに一度会っているということになる。「その
Madchenの私の心を牽くことは先夜にもいやました」というのは,一度目の出会いについ
て語ったものである。その一度目の出会いがいつのことなのか,「日記」には記されていな
い。しかし,二度目の出会いが高崎ハリストス正教会での一月二十五日の音楽会について
の打ち合わせ会であるとすれば,それは,おそらく大正二年の十二月の来に聞かれた最初
の打ち合わせ会でのことであったと考えられる。
一月三日の記事に,つぎのように記述されている。
午後大沼氏にすすめられて中川小学校の同窓会にマンドリンを出演す。曲はドナウ・
ワルツで自分では相応に弾けたつもりであるけれ共伴奏のオルガンがしばしば失敗す
るので好結果を得なかった。然し高崎の時の試演といふ意味であつたから格別気にも
かからない。
ここに「高崎の時」とあるのが,一月二十五日の高崎での音楽会を指していることは間
違いあるまい。 とすれば,高崎ハリストス正教会での音楽会は,かなり早くから,少なく
とも一月三日以前から計画されていたということになる。その音楽会についての最初の打
ち合わせ会は,正月三ヶ日をはさんだ,大正二年十二月の末にもたれたであろうことは容
易に推定することができる。朔太郎とエレナの第一の出会いがその時であったと考えるこ
とは充分に合理的である。
「日記」冒頭の,大正三年一月一日の記事に,
何となく気分のいい年始である。たしかに今年は期待に報いられると思ふ。自分は第
一にロマンチックを欲して居る。矢張FEMMEが自分の感情の主格になって居ると
いふのは嬉しいことである。
とあり,朔太郎が大正三年の元旦を気分良く迎えたことが記述されているが,この気分の
背景に,「FEMME」つまりある女性の存在があったことを,ここで朔太郎はほのめかして
いる。その「ロマンチック」な気分は,昨年未に再会を果たしたエレナによってもたらさ
れたものではなかったか。同じ一月一日の記事に,マンドリンを練習しようという決意が
語られていることはすでに見たが,その決意は一月二十五日の演奏会へ向けての朔太郎の
感情のたかぶりを示Sものではなかったか。
ここで朔太郎は,「ロマンチック」という言葉を使っているが,この言葉は,大正二年四
月に制作された自選自筆の短歌集『ソライロノハナ』冒頭の「自叙伝」において,明星派
の恋歌に酔いしれた,一人の少女に激しい思いを捧げた,前橋中学校時代を形容するのに
しばしば用いたものであった。一月九日の記事に「わが空想のローマンスはいつの日に実
現さるべきか」とあるのを見れば,それまでにも朔太郎が何度か「空想」したものである
ことが知られる。そして,エレナヘの期待が虚しく砕け散るとともに,「ロマンチック」の
夢が失われたことを自覚し,朔太郎は,はやくも,旅立ちを思うのである。
朔太郎がこの時期エレナと密会していたという根拠のない神話を無視するとすれば,朔
太郎は,大正二年の十二月未のその日,高崎ハリストス正教会で聞かれた音楽会準備の打
-
ち合わせ会の席上で,人妻となったエレナにはじめて再会したのである。訣別して以来,
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明治四十四年二月,同四十五年六月,そして大正二年五月と,毎年のように再会を望みな
がらもついに果たすことのなかったその人に,朔太郎は,ようやく,まがりなりにも再会
することができたのである。
長い放浪の旅から故郷前橋に帰りついた大正二年二月以来,その年未に至るまで,朔太
郎がエレナと再会したという証拠は一つもない。「あづまやの籐椅子によりて二人何を語ら
む」「よきひとの側へにありて何を語らむ」と,恋人との語らいを歌う「緑蔭」という作品
が,『創作』大正二年九月号に発表されていることを知らないわけではない。また,この作
品が,朔太郎とエレナの再会を描写したものであるとする解釈があることを知らないわけ
ではない。しかし,要点だけを述べるなら,「緑蔭」は,けっして,現実の出会いを基にし
て制作されたものではない。
「習作集第八巻」に記載された,この作品の原稿の未尾には,「(二十四,五,一九一三)」
という日付が見える。大正二年五月二十四日といえば,朔太郎がエレナを訪ねて鎌倉の海
に遊び空しく帰郷して十日後のことである。この鎌倉行を契機として,朔太郎は多くの作
品を制作するが,その中には,エレナに会えない悲しみを媒介として,「言葉なくふたりさ
しより/涙ぐましき露台の椅子にうち向ふ」と,恋人との交歓を虚構のうちに大胆に歌い
あげた,「(一九一三,五,鎌倉ニテ)」の日付をもつ「歓魚夜曲」のような作品も含まれて
いる。「緑蔭」は,その上うな作品として読むべきであろう。
朔太郎は,大晦日も近い大正二年十二月未のある日,高崎ハリストス正教会における音
楽会の最初の打ち合わせ会で,エレナと再会した。それは,朔太郎の人生にとって,きわ
めて重大な事件として意識されたはずである。r博文館当用日記』が購入され執筆されはじ
められるようになった動機自体が,このエレナとの最初の出会いにあったと推測される。
この日記には,エレナに手紙を書きト月十日),エレナ夫妻に宛ててマンドリンの演奏会
の招待状を発送しト月二十三日),エレナから拒絶の意志を示す白紙の返書を受け取リト
月二十四日),音楽会当日エレすが現れなかったことを悲しむ(一月二十五日)など,朔太郎の
内部でエレナヘの感情がにわかにたかまりを見せたことが記述されている。前年未にエレ
ナと再会した朔太郎は,さっそく手紙でエレナにアプローチを試み,さらに高崎で開催さ
れる音楽会に招待したが,いずれも拒絶され,やがてエレナとの関係が絶たれるとともに,
朔太郎は日記への関心を急速に失い,二月六日をもって,この日記帳は放棄されることに
なる。
記事から見るかぎり,朔太郎は,中川小学校や前橋ハリストス正教会における音楽会に
は,それほど乗り気だったとは思えない。これにたいして,「然し高崎の時の試演といふ意
味であつたから格別気にもかからない」とか「二十五日高崎に於ける演奏会の準備として
終日マンドリンを練習す」といった記述から,朔太郎が一月二十五日の高崎での音楽会に
大きな期待をかけていたことがわかる。また,一月十一日と十八日の記事に「大沼氏とド
ナウヴェレンを合奏す」とあるが,それは,二十五日の演奏会で朔太郎が独奏した曲であっ
た。この時期の朔太郎の生活のすべてが,引き絞られた弓矢のように,一月二十五日の高
崎での音楽会に向かって収斂していった様子を見てとることができる。一月二十三日には,
エレナ夫妻に招待状を発送する。エレナに自分の演奏を聴いてもらうことだけが,朔太郎
の願いであった。音楽会当日の「日記」は。
待って居た日がきた。
しかし色々な不吉な前兆から此の日の演奏の思はしくないこと
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朔太郎の片恋一大正三年「日記」をめぐって
を予期された。十二時十五分の汽車で高崎へ行く。
と書きだされている。朔太郎の期待の大きさと,同時にそれにともなう不安の大きさとが
伝わってくる。
しかし,「S子はたうとう来なかった」。朔太郎の願いは,空しく砕けた。その夜,朔太
郎は久しぶりで登楼した。「夜はたうとうFEMMEに行った」。二つの「たうとう」とい
う言集のうちに,待ち望んだ期待が裏切られた朔太郎の悲しみが伝わってくる。朔太郎が
自らに課していた禁欲が,まさしく,昨年未に再会したエレナのための決意であったこと
が知られる。
一月二十五日に至るまでの朔太郎の音楽にたいするのめり込み方は異様である。そして,
二十五日以後の音楽熱の急激な冷却も,また,異様である。一月二十六日の記事。
虚偽の生活である。すべては空虚である。/愚かなる懺悔の念は私をして例の小出を逍
遥させた。/何といふ不愉快な生活であらう。自ら偽って生きて居るよりは真の充実に
向つて死を選ぶのがまさつて居る。
「例の小出」とは,朔太郎が,少年時代にしばしばさまよった,利根川の河原の松林で
ある。「利根川のほとり」では,「きのふまた身を投げんと思ひて/利根川のほとりをさま
よひしが」と歌っている。二月四日の記事。
此頃まるでMUSICに対する興味を失った。すべてのものに対する興奮と愛執を失つ
た。今尚残って居るのはSEXと旅行の憧憬だけである。/失なはれたローマンスをた
づねて寂しい巡礼がして見たい。
あれほど熱中していた音楽に,まったく興味を失ったという。「ローマンス」は失われた。
二月五日に再び登楼。そして,二月六日,朔太郎は,この『博物館当用日記』自体を放棄
するに至る。
朔太郎にとって,音楽が,一月二十五日の演奏会が,そして,この日記帳そのものが,
エレナのためだけに存在していたということがわかる。しかし,すべては,失われてしまっ
た。かすかに結ばれたかに見えたエレナとの絆も,あえかな二度の出会いを残しただけで,
朔太郎の手から遠くかなたへと離れていってしまった。
終章
詩作品から
この時期,朔太郎は,詩作の面で,しばらくの間,スランプ状態にあった。『創作』大正
二年十二月号に「晩秋哀語」「からたちの垣根」「街道」の三篇を発表したのち,翌三年三
月十四日の『上毛新聞』に「春の来る頃」を掲載するまで,およそ三ヶ月間,まったく作
品を公表していない。「日記」にも「今の我には詩想全く涸れたり。春にもならば二度新ら
しき詩を得べきか」(一月二十三日)とある。
「習作集第九巻」を参照すれば,「からたちの垣根」と「街道」は,ともに「(一九一三,
一〇,二〇)」の日付があり,大正二年十月中に制作されたものであることがわかる。「習
作集第九巻」の配列を見ると,この後に,「晩秋」と題する十二首の短歌,「雪解けの朝」,
無題の三行詩と並び,つづいて,「春の来る頃」の新聞切り抜きが貼付されている。
短歌「晩秋」は,内容と配置からして,大正二年十月未に制作されたものと推定できる
から,短歌「晩秋」と[春の来る頃]の新聞切り抜きとの間に配列された二つの作品は,
大正二年末から大正三年三月までの間に制作されたということになる。大正二年の暮れに
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エレナと再会を果たし,翌三年一月二十日に二度目の出会いを実現したとすれば,その感
激と興奮が,何らかの形で朔太郎の作品のうちに表現されていると考えられる。その上う
な観点から,この二作品を検討してみたい。
その考察に入る前に,予備的な作業として,「からたちの垣根」と「街道」について,少
しふれておきたい。まず「からたちの垣根」を引く。
からたちの垣根の中に/女のはしやぐ声のする/夕餉の葱のにほひする/灯ともしご
ろ/からたちの垣根を過ぐる佗しさよ。
この作品から,『白虹』明治三十七年十二月号に発表された「君が家」という,少年時代
の作品を連想するのは,きわめて自然である。そして,朔太郎自身も,そうした効果を意
識的にねらって,この時期にこの作品を制作発表したものと推測されるのである。つぎに,
[君が家]の初連と第五運を引く。
あヽ恋人の家なれば/幾度そこを行ききづり/空しくかへるたそがれの/雲つれなき
を恨みんや/ダあヽ空しくて往来づり/狂者に似たるふりは知るも/からたちの垣深
うして/君がうれいのとヽ'きあへず。
からたちの垣根にさえぎられて,恋人の家のまわりを,ただうろうろするばかりである
という「君が家」の作意は,「からたちの垣根」のうちに,そのまま再現されている。この
時期に,このような作品を制作し発表した朔太郎の意図は,いったい,どのあたりにあっ
たのか?
大正二年の十月前後,何かの機会に,おそらく大沼竹太郎を通じて,朔太郎は,エレナ
が鎌倉での転地療養をきりあげて,高崎の婚家にもどったという情報を耳にしたものと思
われる。これを知って,朔太郎は,いてもたってもいられなかったはずである。何の理由
もなく高崎まで出かけることには憚りがあったであろう。朔太郎は,前橋のナ力の実家の
あたりをそれとなく歩き回ったものと思われる。あるいは,朔太郎は高崎まで足をのばし
エレナの婚家の周囲をうろつき回ったのでもあろうか。朔太郎は,大正三年の九月と十一
月に高崎のエレナの婚家の付近を徘徊したことが知られている。それとも,病気療養を終
えたエレナは,一時的にでも,前橋の実家に帰っていたのかも知れない。そのような状況
と,少年時代への回想とを重ねあわせたものが,「からたちの垣根」という作品であると解
読することができる。さらに推測すれば,思い込みの激しい朔太郎である,この作品を通
して,エレナにたいして,暗号による通信文を発したと自分では考えていたのかもしれな
し1.
つぎに「街道」を見る。「習作集第九巻」では,「偶成」と題された作品である。
俥にゆられつヽ/夕ぐれ時の街道を/新町街道を急ぐ女よ/真赤な夕日は山の上/白
粉のゑりがさむしかろ/今宵/おん身の上に幸あれかし
この作品が,「からたちの垣根」と同時に制作されたことを考えあわせれば,ここに歌わ
れた女と,その女にたいする「おん身の上に幸あれかし」という呼びかけが,帰郷したエ
レナをイメージしたものであることはほぼ明白であろう。この呼びかけは,大正三年一月
二十日の「日記」に見える,「小女子よ,おん身の上に幸あれ」という言葉と,はっきりと
した対応を見せている。
これ以後,朔太郎がスランプに陥ったのは,目の前に出現した現実のエレナのことで頭
-
がいっぱいになり,詩作どころではなくなったということであろうか。
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朔太郎の片恋-一一大正三年「日記」をめぐって
これだけの予備考察をふまえて,つぎに,「雪解けの朝」と無題の三行詩の検討に移りた
い。ます,[雪解けの朝]を考察する。
安らけくあれよ/揺籠の中に育ちつヽ/よはひもはや年ごろとなりにけり/このよき
日の朝あけに/さやさやと臥床の中に林檎はむ/わがものごころ知りておぼへしは/
処女まりやに祀るうた/それもあながちにはあらねども/かくも哀しく/いとほしき
わが身のうへは/しんとして絶えず流るヽ/雪どけの朝のこヽろなり/安らけくあれ
よ,わが身。
この作品は,「よはひ」「よき日」などの言集から,元旦の朝の思いを歌ったものである
ことが推定される。ここでとくに注意されるのは,「処女まりやに祀るうた」という部分で
ある。これは,教会を連想させるばかりでなく,一月二十日の「日記」に見える,「ア・
マリヤ,彼女の上に祝福を垂れ給へ」という部分と照応している。
すでに考察したように,大正三年一月一日の段階で,エレナとの再会を果たし,高崎ハ
リストス正教会での音楽会への出演が決定していたとすれば,朔太郎が期待に胸をふくら
ませて正月を迎えたことは,容易に推測することができよう。
「習作集第九巻」で,この作品をはさむ前後の作品が,例えば「からたちの垣根」のす
ぐ前に配置された,「晩秋」が,
あヽ秋も暮れ行く/このまヽに/故郷にて朽つる我にてはよもあらじ/草の根をかみ
つヽ行くも/のどの渇きをこらへんためぞ
と歌い,「春の来る頃」が,
ひとり木立にかくれつヽ,/母もにくしや,/父もにくしやとこそ唄ふなる。
と歌っているように,いずれも,いささか寂しいトーンを帯び,故郷への怒りに満たされ
ているのに比べて,「雪解けの朝」の少し浮き立つような調子はきわだっている。この明る
くはずむような調子は,一月一日の「日記」の記事に[何となく気分のいい年始である]
とあるのと共通している。
また,この作品において,「わがものごころ知りておぼへしは」とか「かくも哀しく/い
とほしきわが身のうへは」など,少年時代の回想に彩られた初期「愛憐詩篇」の作品と共
通の甘やかなトーンを響かせているのは,「愛憐詩篇」の原点に少年時代の思い人エレナが
位置していたことを考えれば,その背景にあるものを想像することは容易であろう(12)。
もう一つの無題の三行詩は,つぎのように歌う。
しだいたかぶり/おしろいの光る小鼻より/きみはちかづく
これは,高崎ハリストス正教会における音楽会の打ち合わせ会でエレナと同席したとき
の朔太郎のこころの高ぶりを表現したものと解することができる。さきの「街道」では,
「白粉のゑりがさむしかろ」と歌われた女性は「女よ」と呼びかけられていたが,ここで
は「きみ」と,より親しげに呼びかけられているのは,朔太郎が,対象となっている女性
との距離が,より近くなったと感じていることを示すものであろう。
しかし,その関係が
突然断ち切られることによって,この作品は,未完成のまま放置されることになったので
あろう。
註
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出『東北学院大学論集(一般教育)』昭和37年2月。『萩原朔太郎論
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上』所収,平成元年6月,塙書房。
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(2)馬場ナカについて,磯田光一は,その後の研究をふまえて,つぎのように要約している。「明治二十三
年六月十九日に前橋の生薬屋“伊勢屋"に生まれた馬場仲子は,朔太郎の妹わか(ワカ)とともに前橋の
共愛学園に進み,明治三十九年に卒業,その後明治四十二年,朔太郎の高校時代に高崎の医師・佐藤清と
結婚した。のちに二子をもうけたが,そのころ朔太郎は中学時代の彼女への情熱を再燃させ,それが朔太
郎の作品に投影されたのである。やがて結核を病んだ仲子は,転地療養などをつづけるうちに,大正六年
五月五日に,二十八歳で世を去ったのである。その洗礼名がエレすであって,朔太郎は彼女をエレナと呼
んでいたのである。」(「夜汽車の窓
萩原朔太郎(四)」『群像』昭和60年10月)エレナという呼称は,
大正3年の受洗以後のものであるが,本稿では,便宜上,それ以前にもこれを使用することとする。
(3)『萩原朔太郎論』所収,昭和46年4月,思潮社。
(4)『萩原朔太郎』昭和56年9月,筑摩書房。
(5)『題のない歌一朔太郎考』昭和56年6月,檸檬社。
(6)「若き朔太郎の日記」『本の手帖』昭和40年3月。前掲『萩原朔太郎論』所収。
(7)『伝記萩原朔太郎
(8)「ノート
上』昭和55年9月,春秋社。
ー」に見える朔太郎のメモが,エレナと密会したことを意味しないということについては,
拙稿「萩原朔太郎-「愛憐詩篇」から「浄罪詩篇」へ」(『愛知教育大学研究報告(人文科学)』平成2年
2月)を参照されたい。
(9)昭和53年5月,日本ハリストス正教会教団主教庁。
(10)前橋市立図書館所蔵。三浦関造訳,大正3年10月,金尾文淵堂。
(11)「萩原朔太郎と音楽一大沼竹太郎のことー」『東北学院大学論集(一般教育)』昭和58年10月。前掲『萩
原朔太郎論
上丿所収。
(12)[愛憐詩篇]に回想のモチーフが隠されていることについては,拙稿「仮構された少年時代--一萩原朔
太郎一萩原朔太郎「愛憐詩篇」の形成」(『文芸研究』平成元年9月)を参照されたい。
〔イ寸記〕筑摩書房版『萩原朔太郎全集』全十五巻及び萩原隆『若き日の萩原朔太郎』(昭和54年6月,筑摩
書房)を底本とした。引用文中で新字体のある漢字はそれに改めた。初出形を尊重した。誤字を一部訂正
した。
-
呼成6年9月12日受理)
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