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Title Author(s) 法と人間の本性 海原, 裕昭 Editor(s) Citation Issue Date URL 人間科学論集. 1984, 16, p.1-46 1984-12-20 http://hdl.handle.net/10466/10867 Rights http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/ 1 法と人間の本性 海 原 裕 昭 1人間の社交性と平和の法 人間の幸福は,人間存在の基本的な目的であると理解されてきた。とはい え,それは,心の問題であると指摘されることがある。しかし,何よりも人間存 在を疎外する戦争や専制などが抑止された社会環境において生存することがで きない限り,人間として幸福であることはできないと考えられる。ところが, 人聞社会では,逆にこれらの人間悪と社会悪がしばしば推進されてきた。けれ ども,その問題状況を解決するために,同時に人類の不断の努力が継続されて きたのである。この一環として法理論の分野においても,人間社会の問題点を 克服する法原理と法制度が追求されている。人間の本性から導き出される法と 国家の一般理論を構成することによってとくに戦争と専制の課題を解決するこ とを志向した近世自然法論は,その一里塚であった。それにしても,現代の時 点において具体的にいかなる意義と問題性を残している法理論であるかを確認 する必要がある。 最初に,戦争に対する平和の法規範を探求したH・グロティウス (Hugo (1) Grotius,1583−1645)の法理論について論及しなければならない。彼は,こと (1)グロティウスが生誕して400年になる1983年に,オランダでは国家行事としてその 記念式典と国際法シンポジウムが開催され,彼の遺産が再評価されている。くわしく は,松隈清「グロチュース生誕四〇〇年祭」(r国際法外交雑誌」83巻1号,1984年4月) 129ページ以下参照。その前後にわが国でも国際法基礎理論研究会会員による『戦争と 平和の法』の研究(r法律時報』54巻11号一56巻12号,1982年11月一84年11月)をはじ めとする諸論文が発表されている。 2 人間科学論集16号 に1618年から48年まで強行された三十年戦争の残忍さと惨禍を目撃し,野蛮族 さえ恥じると慨嘆した放縦な戦争を抑制する法規範を構成することを意図し た。そして,戦争に関する有効な共通の法が諸民族の間に存在することを指摘 したうえ,国家主権が自然の原理に基づく法(自然法)と万民の同意に基づく法 (万民法)によって拘束されることを主張した。それは,現代世界においてもなお 固執されている勢力均衡論が流行し,国際戦争がくりかえされていた時期に展 開された。その結果,彼は,マキアベリ流の欺隔政策に致命的打撃を与え,ウ (2) エストファリアの平和を可能にしたことをとくに評価されているほどである。 さて,グロティウスは,何よりも戦争と平和の問題を解決する鍵として人間 の本性であると理解される社交性に注目している。彼によると,人間は,同類 の人間とともに平和な共同生活を送るという社交的欲求をもっている。それゆ えに,人間も本性によって自己の利益だけを求めるように促されるというよう な一般論を是認することはできない,と批判される。というのは,幼児のうち に他入に対して善い行為をするという性向が現われ,成人も現に社交的欲求を もって同じような行為をすることを知っているからであり,またあらゆる動物 (3) のなかでも人間だけが社交的欲求の手段として言語をもっているからである。 その帰結として,このような入間の自然的本性から本来の意味における法 (」π5),すなわちいわゆる自然法が導き出されるのである。 グロティウスは,人間の知性と一致する性向である社交性の保護に法源が存 在することを主張している。そして,この人間の自然法に属する準則を提示 し,他人のものを欲しないこと,他入のものを所持し,またはそれから利得し たときは返還すること,契約を履行すること,過失によって加えた損害を賠償 (2)C£G.W. Rattigan,“Hugo Grotius,”0剛ノ翻∫50ゾ’乃6珂!07」4,1968, p.182. (3)H.Grotius, D8ノ鷹B6〃盛α6 P嬬,1625, W. Whewelrs ed., prolegomena 6,7. 原著について,グローチウス『戦争と平和の法 全三巻』一又正雄訳,酒井書店,1972 年;グローチウス「戦争と平和の法について」(r西洋法制史料選皿』)阿南成一訳,創文 社,1979年,89ページ以下参照。 法と人間の本性 3 (4) すること,犯罪に値する刑罰を人々に認めることである,と列挙している。こ れら自然法の五原則は,人間の平和な共同生活の保持を目的とする基礎規範と して提示されているのであるが,そこには私的所有と契約による商品経済の社 (5) 会である近代市民社会の法原則が端的に表現されている。さらに,彼は,この 市民間の平和の法を国家間の平和の法にまで発展させている。たとえば,契約 を履行するという市民法の義務は,締結された条約は順守されなければならな いという国際法の義務として理解されるのである。 グロティウスは,市民社会と国際社会の基礎法である自然法の意義について なおも究明し,入間は社交的能力だけでなく有利か不利かを評価する判断力を もっている点において動物より優れているので,恐怖や快楽の誘惑に引きずら れないことや思慮を欠く衝動に駆られたりしないことが人間の本性に適ってい ると指摘したのち,このような判断に対立するものは,自然法,すなわち人間 (6) の本性に反することになる,と主張している。こうして,自然法とは,いかな る行為も,人間の理性的・社交的本性と一致するか一致しないかによって道徳 的下劣性か道徳的必然性をもつということを,したがってそのような行為が本 性の創造者である神によって禁止されているか命令されているかということを (4) 1δ∫訊, proleg・8. (5)ボルケナウは,グロティウスがとくに契約というカテゴリーの基本的性格を純粋に 強調することによって市民的な客観的自然法を基礎づけたと究明したのち,「寡頭政治の 支配権は私法的な契約に由来する。ちょうど封建制のばあいとおなじように,グロティウ スのばあいにも私法と国法の区別はないのである。ただし,寡頭政治の私法的な権利は, 契約的なものヂいいかえれば,まったく市民的な性格のものである。市民的な思考要素 と封建的なそれとのこのような混合によって,グロティウスの説は,市民的生活内容を 封建的諸特権にむすびつけていたすべての階層にとって非常に魅力的であった」と論述 している(フランツ・ボルケナウ『封建的世界豫から市民的世界像へ』《F.Borkenau, 1)6γσ6〃gαηg“碗Fθ忽α♂6πz一頃γg6漉6ゐ6η罪6」’6駕,1934》水田民謡訳,みすず書房, 1965年,188−9ページ)Q (6) Grotius,ψ,6舐, proleg.9. 4 人間科学論集16号 (7) 指示する正しい理性の命令である,と定義するのである。 グロティウスの自然法の概念は,ストア派の思想的影響を受けているように 見える。しかし,それは,ユピテルの正しい理性の掟であるとされるストア派 の自然法概念とは異なっている。彼は,自然法を人定法だけでなく神意法から 区別している。自然法は,神の意思から独立して存在するのである。彼による と,この自然法は,神といえども変更することができないほど不変である。そ して,神も二の二倍を四ではないとすることができないように,本質的に悪で (8) あるものを悪ではないとすることができない,というのである。なおまた,彼 は,自然法がいかに証明されるかという問題点についても言及し,それは人間 の理性的・社交的本性と回るものとが必然的に一致するか一致しないかを示す ことによって先験的に証明されるし,さらに確実性はなくても極度に蓋然性の ある根拠をもってあらゆる民族,あるいは文明国の諸民族の間で自然法として (9) 受容されているものを知覚するときに経験的に証明される,と指摘している。 このような彼の主張の背後に,もし自然法が神意法であるとするならば,「神々 の争い」といわれる戦争を平和の法である自然法によって抑止することができ ないという思惑があったように考えられる。彼は,必ずしも神学的世界観から 離脱しているのではなく,そのために神々から独立して存在する白然法の概念 を構成することによって国際社会の平和を実現することを意図したと解され る。そして,この帰結として神の自然法が入間の自然法に転換され,法学は神 (10) 学から自立する動向が促進されることになったのである。 (7) D8ノμ7θ, Bk.1, ch.1, X.1. (8)1ろ鉱,Bk.1, ch.1, X.5.ダントレーヴは,数学との類比によって自然法の不変性 を説明することは,グロティウスが法の研究に導入したことを自負している新しい方法 論上の仮説を供するものであると解釈したのち,彼が法的問題の論法として明晰性・自 明性・統一性の価値を主張していることに新しい考え方の合理主義的性格が現われてい るという趣旨のことを指摘している(A.P. d’Entrさves,1Vα融融Lαω,1965, P.53 L)。 (9) 乃鼠,Bk.1,ch.1,XII.1. (10)ヴィレーも,グロティウスをヨーロッパ大陸の合理主義法学の創設者であると評価 している。c£M. Villey, Lα力吻α’ゴ。ηゴ6」αρ6η366伽r漉gμθ伽伽η8,1968, p.632. 法と人間の本性 5 グロティウスは,これを実証するように自然法だけでなく意思法について究 明している。意思法というのは,神の意思に由来する神意法と人間の意思に由 来する人意法とを意味している。さらに,この人意法は,市民の権力から発す る市民法と,すべての民族または多数の民族の意思から拘束力を受ける万民法 (11) とに区分される。したがって,自然法を意思法と混同することはできないし, 人意法を神意法と混同することはできない。けれども,人意法である市民法 は,自然法と相関性がある準則として把握されている。彼によると,自然法の 母は共同社会を希求するに至る人間の本性である。これに対し,市民法の母は 合意による義務であるが,その合意の効力は自然法から生じるので,人間の本 性は市民法の曽祖母なのである。したがって,市民法と自然法との関係は,人 (12) 間の本性→自然法→市民法という系譜によって示される。このように市民法 は,人間の理性的・社交的本性に由来する自然法から流出する準則として位置 づけられるのである。 けれども,国家は,実定法である市民法の根源である市民の権力によって統 治されることになる。グロティウスの場合,国家とは,自由人が権利の享受と (13) 共通の利益のために結束した完全な結合体である。しかしながら,他者の権利 (14) と意思に優越する権力として理解される主権は,一般に国家が所有する。した がって,彼は,主権がどこでも人民に帰属し,それゆえに王が権力を濫用する とき,人民は,これを抑制し,処罰する権限をもつと断言する説を拒否してい る。というのも,人民は統治権を一人または多数者に譲渡することができると (15) 考えられるからである。また,王と人民との間に相互の従属関係が存在し,そ れゆえに人民は善政を行なう王に服従すべきであるが,悪政を行なう王は人 (11) 1)θ/膨,Bk I,chs.1,XIII, XIV。1. (12) 1うΣ4.,proleg.16. (13) 16泓,Bk.1,ch.1,XIV.1. (14) C£‘う泓,Bk.1,ch.皿, VI工 (15) 乃鼠,Bk.1,ch.皿, VIII. 6 人間科学論集16号 民に従属すると主張する説も批判されている。すなわち,王によって命令され ているにもかかわらず,不正なことは行なうべきではないということは,すべ ての善人によって是認されるとしても,この不服従の権利にはいかなる強制権 も統治権も含まれていない,と指摘するのである。さらに,政治的事項におい ては,行為の善悪を区別することは適しないうえ,王と人民が同一の事項につ いて行為の善悪を主張して認知されることを要求すれば,最大の混乱が生ず (16) る,と懸念している。彼の国家主権説は,このように人民主権説と峻別されて いる。したがって,のちにルソーがグロティウスの国家論をくりかえし鋭く批 (17) 判ずることになるのである。 グロティウスは,国家に対する抵抗権を限定している点でもルソーのような 革新的原理とは対立する。彼によると,市民社会は公共の平穏を確保するため に創始されているので,国家は国民に対する最高権を取得するのであって,国 (18) 民の無差別の抵抗権を禁止することができるのである。もっとも,たとえば人 民に責任を負っている首長が法と国家を犯す場合,王または主権を有する者が その主権を譲渡または放棄した場合,王が全人民を壊滅する敵意をもって行動 (19) する場合,抵抗権を行使することを是認している。なおまた,彼は,国家的社 会の運営をめぐって,全体を代表する多数者がその個別の構成員を拘束し,多 (16)昂鼠,Bk.1,ch』, IX.グロティウスの社会契約説そのものは,必ずしも鮮明で はない。けれども,フリードマンは,その本質について国内では政府に対する人民の絶 対的な服従義務を正当化し,国際的には法的に拘東力のある安定した諸国家間の関係の 基盤を創設するという二重の目的のために構成されている,と考察している(W.Frie− dmann, L6gα‘彦乃60η,5th ed.,1967, p.119)。 (17) CL J・一∫ Rousseau,1勉ooη‘rα’∫o・∫α♂,1762, liv.正,chs.π, Iv, V.さらに,ル ソーによると,グロティウスは,自分の祖国に不満の念を抱いてフランスに亡命し,ル イ13世にこびようとして,彼の著書を王に献呈したが,人民から彼らのすべての権利を 奪取し,それを可能な限りの巧妙さをもって王に与えるためにあらゆる手段を用いるの である,と酷評されている@鼠,liv』, ch, H)。 (18)1)θノ鵬Bk.1,ch, n「, H.1. (19) 乃鼠,Bk.1,chs. IV, W−XI, 法と人間の本性 7 (20) 数者が全体のために行為する権利があることを主張し,そのうえすべてのもの が等分されていない財産に基礎がある社会では,優位の序列もその取得分に従 うべきであり,さらに投票の価値も取得分に比例していなければならない,と 提言している。しかも,これを自然的衡平の準則であるとして正当化している (21) のである。彼は,このように有産の市民階級の経済的・政治的利害に基づく統 (22) 治理論を構成している。 それにしても,グロティウスは,商業国家であるとともに海洋国家であるオ ランダの経済的・政治的利害に発するとはいえ,戦争と平和の問題に対応する 国家間の行動規準である万民法を探求している。彼は,各国の法がその国家の 福利を考慮するように,一定の法がすべての国家または多数の国家の間に同意 によって定立されうるのであり,この法は特定の共同体ではなく全世界の福利 (23) を考慮すると対比したうえ,これを万民法と称している。そのさい,すべての 民族に共通する法は存在しないとしても,諸民族の万民法は,不文の市民法と 同じように永統する慣習とそれに精通している者の証言によって証明される, (24) と言及している。こうして,彼は,未熟であった万民法の諸準則を理論的に集 約し,自然法とともに国際慣習と国際条約によって構成されるようになる近代 (20) 1う鼠,Bk. H, ch. V, XVIII. (21) 乃鉱,Bk II, ch. V, XXII. (22)すでにグロティウスは,『捕獲法論』(D6ノ膨Pr曜醒,1604)においてインド貿易 をめぐる衝突に発端があったとはいえ,1603年にマラッカ海峡でオランダ艦船がボルト ガル商船サンタ・カタリナ号を捕獲した事実を海賊行為ではないと強弁している。それ は,この紛争の背後にあったオランダ東インド会社の権益を擁護するものであった。さ らに,彼は,『自由海論』(λ4αzθL∫6蜘窺,1609)において海洋の覇権を掌握するスペイ ンとポルトガルを批判しつつ公海の自由を主張しているが,それは,オランダの商人貴 族にとって有利な貿易の自由を確保するという目的があった。c£RJ. M. Boukema, “Grotius’Concept of Law”,、47露。.形rRθo融卜πη430z観ρ研050勲げ6, vo1.1983 LXIX/1, S.68−71. (23) 1)8J匹πγθ, prolegし 17. (24) 乃泓,Bk.1,ch.1,XIV.2. 8 人問科学論集16号 国際法の発展のたあに努力したのである。その業績として国際社会における法 の支配の原則,国家主権の平等の原則,公海自由の原則などの形成に対する貢 献が広く認められてきた。 とはいえ,グロティウスの法理論の目標は,必ずしも平和のための法の発見 に集中していたのではない。それは,いかなる戦争が正当であるか,いかなる 行為が戦争において正当であるかという問題点の究明に向けられていたことに も留意しなければならない。グロティウスは,すべての戦争が自然法に違反し ないことを主張しているのである。彼によると,自己保存という自然の第一原 理においては,戦争に矛盾するものは何も存在しない。むしろすべてのものが 戦争を促進する。なぜなら,生命と身体の保存,そして生存に有用な事物の保持 (25) や取得という戦争の目的は,その原理と完全に一致するからである。さらに, 正しい理性と社会の本性は,すべての力を禁止するのではなく,社会に背反す る力,すなわち他人の権i利を攻撃するために用いられる力だけを禁止する。な ぜなら,社会は,万人が共同の援助と協力によって自己のものを完全に所持す (26) ることができることを目的としているからである,と考えられるのである。し たがって,彼は,公戦においても私戦と同じように何より生命の防衛と財産の 防衛が許されることを強調するのである。しかも,グロティウスは,正戦にお いて自然法によって許される正当な防衛権だけでなく,万民法による正式の戦 争においては逆に敵を殺害する権i利や敵の財産を奪取する権利のほか捕虜を奴 隷にする権利などがあることを容認している。ただし,無差別の加害行為を限 定し,何人をも毒殺する行為や飲料水に毒物を混入する行為などは,万民法に (27) よって禁止されることを付言している。さらに,戦争が正式に行なわれても, 戦争の原因が不当であれば,そこから生ずるすべての行為は内面の不正によっ (25) 1あ4.,Bk。1, ch. H, 1.4. (26) 16謬4」,Bk.1, ch. H, 1.5. (27) 1屍4,,Bk.皿, chs. IV, V, V旺. 法と人間の本性 9 て不当であることを指摘したのち,このような行為を故意にした者や協力した (28) 者は天国に入ることができない者に数えられると注意している。そのうえ,正 当な原因があっても,無暴な戦争を遂行すべきでないことも強調している。そ して,戦争を回避するために,自己の権利を放棄すること,刑罰権を抑制する こと,危害に対して寛大であること,王は自己と自己に属する者のためにさえ (29) 武器に訴えないことなどを勧告しているのである。 グロティウスの正戦論は,勢力均衡論によって国際戦争が公然と正当化され (30) ていた時点において提起されている。それは,無差別戦争論を制限する側面が あった。しかし,戦争原因の正当性と不当性を理論的に区別しても,この一般 原則によって戦争そのものがもたらす人間悪と社会悪を克服することはできな (31) い。グロティウスの平和主義は未熟であった。彼が理論化した戦争法規は,両 刃の剣である。それによって人間としての生存が合法的に奪われる可能性がた えず残されることになるのである。すでにエラスムスは,戦争の危険に対する 保障として和解の精神や善意を創出するだけでなく,王者の権力が放棄される (32) ことを強調していた。比較してみると,グロティウスの平和思想は,それほど 徹底したものではなかった。そこには,平和を愛する民衆が主権を掌握する国 家を創設することによって戦争を克服するという構想は含まれていない。彼の (28) 16‘広,Bk。皿, ch。 X,皿. (29) 16鼠,Bk.】1, ch. XXIV. (30)なお,勢力均衡の意義について,岡義武『国際政治史』岩波書店,1955年,23ペー ジ以下参照。 (31)その点,マイネッケは,国家理性の理念史におけるよりも平和主義の理念史におい て占めるグロティウスの地位を評価しながらも,正義の戦争を不正な戦争から識別する ことができるとする幻想は現存する紛争と戦争の素材を増加させるおそれがあったとい う趣旨の考察を加えている(F.Meinecke,1)∫61♂6〃673∫鰯廊。η’π♂〃η8聯6η06∬か 言σ玩θ,3.AufL,1963, S.247 f.)。 (32)エラスムスr平和の訴え』(Erasmus,(≧聯θ」αPα・ゴ∫,1517)箕輪三郎訳,岩波書 店,1977年,96−7ページ参照。 10 人間科学論集16号 国家像は,自由人の結合体であって,平和を熱望する人民主権の国家ではなか った。また,専制の問題を必ずしも合理的に解決することができない統治理論 も構成されているのである。さらに,平和国家の国際組織を形成することによ って国際平和を実現するという構想も育てられていない。彼は,ストア派の自 然法論に示唆されたが,その宇宙国家の思想を発展させていないのである。そ れにつけても,永遠の平和のために,第一にどの国家においても共和主義体制 を確立し,第二に自由な諸国家の連合を結成するという方策は,のちにカント (33) が提示するまで待たなければならなかったのである。たしかにグロティウス は,国際戦争が常態化していた社会情況の渦中にあって,その国際戦争を制限 し,国際平和を展望する法理論を開発したのであって,その限りにおいて評価 される必要がある。しかし,それは,その後の平和主義の法思想によって止揚 される問題点を内包していたのである。この事実は,戦争と平和の問題が人間 の本性だけでなく社会の本性の問題であって,そこにまた戦争と平和の法制度 の基底があることを示しているように考えられる。 皿 人間の自然権と絶対的主権 (1) 平和は健康であり,治安撹乱は病気であるが,内戦は死である,と指摘した のは,ホッブズ(ThQmas Hobbes,1588−1679)であった。彼は,グロティウスと 同じように戦争と平和の問題を解決する国家と法の一般理論を提起している。 そのさい,まず人間の自然状態においては,各人の各人に対する戦争が存在す るという問題点について究明している。彼によると,自然は人間を身心の諸能 (33) vgl.1. Kant, Zα7ηθωig8ηF痂ゴ8η,1795,2. Abschn. (1) T.Hobbes, L8びiα痂αηoγTゐθMα彦彦6r, For規αη4 poω〃。ゾαCoη郷。ηωθα」,ん, E‘oJθ吻一 ∫≠‘6α」αη4α躍,1651,Introduction.原著について,ホッブズrリヴァイアサン』水田 洋・田中浩訳,河出書房新社,1966年;「リヴァイアサン」(『ホッブズ』)永井道雄・ 宗片邦義訳,中央公論社,1979年,参照。 法と人間の本性 11 力において平等に創造したが,これから自己保存という目的を達成するさいの 希望の平等が生まれる。それゆえに,二人が同一のものを要求し,両者とも享 受することができないとすれば,彼らは敵となる。こうして,人間は,各人が 各人にとって敵である戦争状態において生活することになる。このような状態 では,勤労の余地はない,と考えられる。というのは,その成果が不確実だから である。しかも,最悪であることは,不断の恐怖と暴力による死の危険が存在 することである。そして,人間の生活は,孤独,貧困,不潔,粗野であり,し かも短命である,と指摘される。また,戦争状態においては正と不正の観念も 存在する余地はないこと,さらに共通の権力が存在しないところでは法もな く,法が存在しないところでは不正もないこと,その状態の帰結としてそこに は資産もなければ支配もなく,私のもの(痂ηのとあなたのものと伽ηのの区別も ないこと,したがって各人が取得することができるものだけが各人のものであ (2) り,しかもそれを保持することができる間だけである,と理解されるのであ る。ホッブズは,最初の市民革命である清教徒革命前後の疾風怒濤の逆巻く動 乱期に生きたが,その社会状況が人間の自然状態として理論的に表現されてい (3) るように見える。 けれども,ホッブズは,戦争状態の原因を社会の本性ではなく人間の本性に 求めている。それは,第一に競争,第二に不信,第三に名誉なのである。なぜ (2)乃畝,pt.1,ch. XIII.しかし,モンテスキューは,人間が戦争状態において存在 しないとすれば,なぜ彼らがつねに武装して行くのか,またなぜ彼らはその家に鍵をか けるのかというホッブスの推論を問題にして,彼は,社会の設立以後にしか生じえない もの,すなわち相互に攻撃し,相互に防衛する動機を人間に抱かせるものを社会の設立 以前の人聞に帰していることを意識していない,と批判している(Montesquieu, D6 1アE功γ露4θ5五〇f5, 1748, Iiv。1, ch. II)。 (3)なお,「人間の人間に対する門下の状態」あるいは「万人の万人に対する戦い」と して描かれた自然状態こそ,やがて行きつく近世個人主義と資本主義社会の帰結を想定 するものと解していいであろう,という説がある(南原繁『政治理論史』東京大学出版 会,1966年,212ページ)。 12 人間科学論集16号 なら,競争は利得を,不信は安全を,名誉は名声を求めて人々を侵害させるか らである。しかし,彼はまた,不幸な戦争状態から脱却する可能性が,人々に 平和を志向させる情念と理性に存することを信じている。すなわち,その情念 は,死の恐怖,便利な生活必需品の欲求,勤労によるその取得の希望である が,理性は,人々が同意することができる好都合な平和の諸条項を示唆する, (4) というのである。これらの諸条項が,自然法と呼ばれる。そして,自然法と は,理性によって発見された行動の指針,または一般的準則であり,それによ って人間は生命を破壊することや生命を保持する手段を奪ったりすることを行 なったり,また生命がもっともよく保持されうると彼が考えることを怠ったり (5) することを禁止される,と定義するのである。 しかし,ホッブズは,各人の各人に対する戦争状態である人間の自然状態に おいては,各人があらゆるものに対して,相互の身体に対してさえも権利をも っている,と指摘する。それゆえ,各人のあらゆるものに対する自然権が存続 する限り,いかなる人間にも安全は存在しえないことになる。したがって, 「各人は,平和を獲得する希望がある限り,平和を求めて努力すべきである。 そして,それを獲得できない場合には,各人は,戦争のあらゆる助力と利益を 求め,しかも用いてもよい」という理性の一般法が導き出される。この第一の 基本的な自然法は,「平和を求め,そしてそれを守れ」という準則と「あらゆ (6) る可能な手段によって自分自身を防衛せよ」という準則を含んでいる,と言及 されている。 しかし,各人が自分の好むいかなることをも行なう権利を保持する限り,万 人は戦争の状態にあるので,「人は,他人もまたそうである場合に,平和と自 己防衛のために必要であると彼が考える限り,あらゆるものに対するこの権利 (4) 五θび癬んαπ,pt.1,ch. XIIL (5) 16鼠,pt.1,ch XIV・ (6) 1う鼠,pt.1,ch. XIV. 法と人間の本性 13 を快く放棄すべきである。そして,自分が他人に自分自身に対して許容するよ うな自由を他人に対してもつだけで満足すべきである」という第二の自然法が (7) 提示される。 さらに,人類の平和を妨げるような諸権利は,契約が先行することによって 他者に譲渡されるので,その帰結として「人々は,締結された契約を履行する ことである」という第三の自然法が派生する。この契約が履行されない限り, 万人のあらゆるものに対する権利が残存するから,なおも戦争状態にあること になる。それゆえ,正義の本質は,何よりも有効な契約を順守することに存す る,と主張される。しかし,契約の有効性は,人々にその契約を順守すること を強制する市民的権力を構成することによってのみ始まるのであり,また財産 (8) 権も始まるのである,と論及している。剣のない契約はことばにすぎないので (9) (10) あり,入間を安全にするカをもたない,と彼は考えるのである。 したがって,リヴァイアサン(LEVIATHAN)という巨大な怪獣にたとえられ る国家(aCOMMON・WEALTH)が設立されることになる。ホッブズによると, 人々を外敵の侵入と相互の権利侵害から防衛し,そして自己の勤労と大地の産 物によって自己を養い,快適に生活することができるように保障する共同の権 (7) 1ゐ鉱,pt.1,ch. XIV・ (8) 1ゐ鼠,pt.1,ch・XV・ (9) 乃鉱,pt.∬,ch. XVIL (10)なお,ホッブズは,その他の自然法として報恩,相互の順応すなわち従順,罪の容 赦,報復における将来の善の尊重,人を侮辱しないこと,高慢でないこと,尊大でない こと,公平であることという道徳規範を挙げたのち,共有物を平等に利用すること,分 割または共有できない物はくじによって単独保有権あるいは交互利用するさいの最初の 占有権を決定すること,さらにその物は最初の占有者か長子に与えられるべきであるこ と,平和の仲裁人の安全な行動が認められること,仲裁判断に服従すること,何人も自 己の裁判官ではないこと,不公平となる必然的理由のある者は裁判官にならないこと, 多数の証人を信用することという諸準則を提示している。これらの自然法は,一般に道 徳的行動規準を具体的に教示するものであるが,財産権と係争の平和的解決に関する諸 準則も神の法である自然法として導入されているσう鼠,pt.1,ch. XV)。 14 人間科学論集16号 力を樹立する唯一の方途は,すべての者の意思を多数決によって一つの意思に 集約することができるような一人の者または人々の会議体にあらゆる彼らの権 力を授けることである。その結果,各人の相互の契約を通じて多数者が一個の 人格に統合されたとき,平和と共同の防衛を目的とする国家が生成するのであ る。そして,現世の神(M・吻〃σoのであるとも表現されるこの国家の人格を担 (11) う者は,主権者(S。veraigne)と呼ばれる。 主権者は,絶対的な権利と権能を授けられる。それは,主権者と国民との間 の契約ではなく,国民の相互の契約によって与えられるので,主権者の側に契 約の違反は起こりえないのであり,それゆえに国民は主権の喪失を口実にして 服従を免れることはできない,とされる。さらに,すべての国民は,設立され た主権者のあらゆる行為と判断の本人なので,その不正を非難すべきではない (12) し,また処罰することもできない,と要求される。この絶対的な主権者は,行 政権iだけでなく立法権と司法権をもっている。ホッブズは,国家を解体するこ (13) とになるという理由を挙げて主権を分割する説に反対している。 国家の主権iは,三種類に集約される。すなわち,一人の者に主権がある君主 政,国民全体の会議体に主権がある民主政,指名などの方法によってその他の (14) 人々から区別された特定の者に主権がある貴族政である。しかし,主権は,い (15) かなる国家においても絶対的でなければならない,とされる。したがって,国 (11)16鼠,pt.∬, ch. XVII.マイネッケは,その理論的本質を究明し,国権所持の権 力が人民と締結した契約ではなく,各人が各人と締結した契約に基づいていなければな らないという天才的な策略によって,ホッブズは,国権所持者をすべての義務と抑制か ら解放し,ほとんど絶対的な充浴した権力をもたせて,リヴァィサンを》急死の神《に 祭り上げることに成功したという趣旨の論評を加えている (F.Meinccke, a, a.0. S. 250)。もっとも,ホッブズによる主権者と国民との間の社会契約説は,王権神授説に基 づく権威を強調したチャールズによって拒否されたといわれる。 (12) L6磁読αη, pt,∬, ch. XVII工 (13) Cf.の泓, pt.∬, chs. XVIII, XXIX。 (14) 16鼠,やt.1,ch. XIX. (15) 乃鼠,pt.豆, ch。 XX. 法と人間の本性 15 民の自由は,主権者が彼らの行為を規制するさいに不問にした事項に限定され ることになる。それは,売買その他の契約の自由,住居,食物,生業の選択の 自由,子の教育の自由などである。しかし,このような自由によって主権者の 生死の権力が廃止されるか,または制限されると理解すべきではない,と注意 される。というのは,主権をもつ代表者が国民に対してすることができること は不正とか権利侵害とか呼ばれるようなものではないからであり,それもすべ ての国民が主権者のあらゆる行為の本人だからである。したがって,主権者 (16) は,いかなるものに対する権利にも欠けることはない,というのである。この ように国民に対する国家の絶対的主権が正当化されるのである。 そのさい,主権者の権利の一環として国民に対する諸規則を制定する全権が 付加されている。各入は,それによって同胞のだれにも妨害されることなくい かなる財産を享受することができるか,そしていかなる行動をすることができ るかを知ることができるのである。その結果,法によって財産権が保護される ことになる。ホッブズによると,主権i者の権力が構成される以前に万人はあら ゆるものに対する権利をもっていたが,それが必然的に戦争の原因となるの で,この財産権は,平和にとって必要であり,しかも主権者の権力に依存して いるから,公共の平和のためにするその権力の作用なのである。この財産権, すなわち私のもの@欄)とあなたのもの(‘翻η∼)に関する諸規則,それに国民 (17) の行為の善・悪,適法・不法に関する諸規則が,市民法と呼ばれる。さらに, 彼は,これを理論的に純化し,市民法とは,あらゆる国民に対して国家がこと ば,文書,その他の意思の記号によって命令した諸規則であり,正・不正の区 別,すなわち何がその規則に反し,何が反しないかという区別のたあに用いる (18) ものである,と定義している。 (16) 乃以,pt.∬, ch. XXL (17) 乃鼠,pt.1, ch・XVIIL (18)16楓,pt. H, ch. XXVL ヴィレーは,ホッブズの市民法思想に法実証主義(le pos五tivisme juridique)の衷現が示されていることを解明している。cL M. V皿ley, oμ‘5ら p.694ff. 16 人間科学論集16号 ホッブズは,国家を人工の人間にたとえているように,その市民法を人工の 鎖にたとえている。そして,人々は,相互の契約によって彼らが主権者の権力 を与えた人間または会議体の口にその鎖の一方の端を結び,他方の端を彼ら自 (19) 身の耳に結びつけた,と表現している。国民は,このように主権者の語る市民 法を聞かされるだけである。市民法は,人々が国家の構成員であるからこそ順 守する義務のある法である,と強調されている。これに対し,国家の主権者 は,会議体であれ,一人の者であれ,市民法に服従しないのである。というの も,主権者は,法を制定し,廃止する権限をもっているので,自分を悩ませる 法を廃止し,新しい法を制定することによって好むときにその服従から免れる ことができるからである。したがって,主権者は,それ以前に自由であったわ けである。さらに,自分自身にのみ拘束される者は,拘束されていないからで ある,とも説明している。しかも,法の本質は文言ではなく立法者の意向であ る法の真正な解釈にあるので,あらゆる法の解釈は権威ある主権者に依存して いるのであり,その解釈者は主権者の任命する者以外にありえないということ も注意されている。それは,解釈者の術策によって法が主権者の意向に反して (20) 理解されることを抑止するためである。ホッブズの場合,法は,あくまで主権 者の命令であって,国家行動を規律する制度ではないのである。 もっとも,市民法は自然法を包摂すると理解されている。ホッブズによる と,自然法は,公平,正義,感謝,その他の道徳的な善に存するので,自然状 態においては本来の法ではなく,人々を平和と服従に志向させる性質のもので ある。したがって,国家が設立されるときに,自然法は現実に法となる。しか も,そのさいに国家の命令となるので,それは市民法でもある。というのも, 人々をその法に服従させるのは,主権者の権力だからである。その結果,自然 法は市民法の一部であり,逆に市民法は自然の諸命令の一部であることにな (19) 五θ痂‘加η,pt,1, ch. XX工 (20) 1う鼠,pt.∬, ch. XXVL 法と人間の本性 17 る。それゆえ,市民法と自然法は,異なった種類のものではなく,法の異なっ た部分なのである。すなわち,一方は成文法であって市民法と呼ばれ,他方は 不文法であって自然法と呼ばれるわけである。このように自然法が国家理性に よ。て難即下されるのであ器)とは・・え,ホ。ブズは,燗の自然権, すなわち人間の自然的自由が市民法によって縮小され,抑制されうることを指 摘している。なぜなら,法を制定する目的は,その抑制にほかならないのであ って,それなくして平和はありえないと考えられるからである。しかも,法が 生まれたのは,相互に害することなく,援助し合い,共同の敵に対して連合す ることができるように,諸個人の自然的自由を制限するためのものであったと 識されるからであ8儀。ブズの場合,法もま掴家と同じように平和と共 同の防衛を基本的な目的としているのである。 それにしても,ホッブズが人間の自然権を析出していることは,重要であ る。彼によると,自然権とは,自分自身の自然,すなわち自分自身の生命の保 存のために,自分自身の力を自分が望むままに用いるように,各人がもってい る舳である( P3)と規定されている.・の自然勧齢は,彼の独鋤な思想の 表現ではなく,著作者たちによって呼ばれる自然権という観念の一般的な意義 を集約したものである。また,それは,清教徒革命における独立派の思想と通 じるものがあると理解される。けれども,彼の表明している自然権が本質的に (21)その点,シュミットのように,「ホッブズは法(Recht)が実定的法令に転化するこ とを,国家の心理強制の動機づけによって営まれる機構への転化との関連でとらえ, それを極めて首尾一貫して体系的に考え抜き,中世的な「君主神権」思想のみならず, 従来の法と国家の実体的概念のすべてに終止符をうってしまった。こうして彼は二重の 意味で十九世紀ヨーロッパ大陸を支配したブルジョワ法治国・立憲国の精神的祖先とな つたのである」と評価する説もある(カール・シュミット『リヴァイァサン』《C.Sch− mitt, D,,五,。∫、伽洞・・5’・・’・‘・厩ゴ・・恥配・・H・甑1938》長尾龍一訳,福村出 版,1972年,104ページ)。 (22) L8ぬ6加’3, pt. H,ch. XXVI. (23) 乃げ♂.,pt。1,ch。 XIV。 18 人間科学論集16号 生存の自由権を意味しているとするならば,それは,人間権の基本原理を提示 していることになる。しかし,彼の場合,この自然権は,譲渡することができ ない人聞権ではない。というのも,各人があらゆるものに対する権利をもって いる自然状態では,各人の各人に対する戦争状態が存在するので,各人が相互 に契約を締結して社会の平和と防衛を託する国家を設立し,そのさいに各人の 自然権を放棄して主権者に譲渡するからである。そこに彼の自然権の問題点が ある。 たしかに各人の権利の放棄と譲渡が行なわれる動機と目的は,入身の安全に ある・すなわち,それは,齢の安全と生活を保持する鍛の安全にあ81)と 言及されている。しかし,国民は,人身を防衛する自由を留保しながらも,主 権者によって保護される限り,主権者に服従することになる。その結果,主権 者の行為は国民の行為であって,権限を与えた国民に対する不正と権利侵害は ありえないので,主権i者の行為を非難したり処罰することは:不当である,とさ れるわけである。主権者の権力と権能は,絶対的なのである。しかも,ホッブ ズの主権者は,一個人または万人の会議体,すなわち君主または議会であっ て,必ずしも人民の主権者ではない。彼の国家理論は,専制君主政にも間接民 主政にも適応する柔構造になっている。というのも,彼は,絶対王政の基盤で ありながら,治安政策から囲い込み運動に反対した国王と衝突するに至ったジ ェントリー(gentry)に属していた。そして,チャールズー世と議会派が対決し たさいに君主政を支持し,亡命後はクロムウェル政権の擁護者として評価され るようになるとはいえ,またチャールズニ世の王政復古を歓迎するというよう く の な日和見的態度をとっている。彼の主権理論が社会契約説を含めて妥協的・過 (24) 1あ♂.,pt.1,ch, XIV. (25) 1あゴ.,pt. H, ch. XVIII. (26)GP.グーチ『イギリス政治思想1』(G. P. Gooch,、PoJ∫伽‘伽麗g雇∫ηEπgJα屈 戸脇βα60π彦。∬α♂旅κ・1914)堀豊彦・升味準之輔訳,岩波書店,1963年,37ページ参 照。 法と人間の本性 19 (27) 渡的性格をもつのは,経済的・政治的立場と関連している。さらに,彼の統治 理論は,絶対的主権の確立を前提として構成され,集中権力であれば,容認す るという性格があって,国家主権の質をそれほど問題にしていないわけであ る。しかも,ホッブズは,たしかに主権者に対する一般法を人民の安全と人民 (28) の福祉に求めているが,そのためにルソーのように人民主権が必要であるとは 考えなかったのである。 ホッブズの国家は,人間の自然権を保障するために設立されるのではない。 彼は,人間が生まれつき情念と利己心を備えていることを観察し,そこに戦争 状態の原因があることを理解したのち,これを克服するために,共同の平和と 防衛を保障する巨大な国家像を追求してし.・る。しかし,彼は,戦争状態の原因 が人間の本性よりも社会の本性にあることを考慮していない。それゆえ,人間 を威圧する国家の強権を発動することによって平和状態を保持することができ ると構想されている。だが,彼は,強権による統治がかえって社会不安を生じ させ,社会の平和を乱すことになることを認識していない。さらに,モンテス (29) キューが注視しているように,統治者はその本性によって権力を濫用する傾向 があるということまで究明されていないのである。彼は,絶対的権i力と市民的 (30) (31) それで 自由とは両立すると主張し,しかも主権の分割に反対するのであるが, は専制主義を抑止する制度的保障がないわけである。また,絶対的権力による 畏怖と制圧によって平和が維持されるとしても,スピノザが指摘しているよう (27)ホッブズの政治的位置について考察したボルケナウは,「ホッブズは,土地ジェン トリーのうちでもっとも意識の進んだブルジョア的な部分の,イデオローグだといわね ばならない」(前掲訳書,543ページ)と指摘したうえ,彼の国家論がクロムウェル体制 に適合したことを究明している。 (28) C£T.Hobbes,7ゐθEJ8η26脇{ゾ五αω,翫’彿γα1αη4 Poあ勿μθ, pub.1650, pt. II, ch.9. (29)Cf. Montesquieu, oρ.6∫ちli航XI, ch. W. (30) 五θびゴα漉αη,pt.∬,ch。 XXI. (31) 乃菰,pt.∬,ch. XVIII・ 20 人間科学論集16号 に,隷属,野蛮,荒廃が平和と呼ばれることになれば,人間にとってこれほど (32) の害悪はありえない,ということになる。 それにしても,人間の自然権i(THE RIGHT OF NATURE,ブ麗5η伽r嬬)が自然法 (ALAW OF NATURE,」6κ履%飢召」幻と区別されている点にもホッブズの法理論の 特質がある。簡単にいえば,自然権は人間の自然的自由を意味しているが,自 然法は自然的理性の命令を意味している。このような概念規定の背後に権利 (卿,7∫9乃のと法(伽,‘αω)とは区別されるべきであるという彼の原理論があ る。要するに,権利は,行為の自由,すなわち作為または不作為の自由に存す るが,法は,そのいずれかに決定し,拘束するものである,と把握されるので ある。このように法と権利は,義務と自由のように異なるのであり,同一の (33) 事項において両立しないものである,と論及されている。この視点から市民法 σ6κ6’ひ伽)も市民権(加‘媚のと混用されるべきではないと注意されることに なる。というのも,権利とは自由,すなわち市民法がわれわれに残している自 由であるが,市民法とは義務であり,自然法がわれわれに与えた自由をわれわ れから除去するからである,と論述されている。さらに,自然法は,各人に自 分自身の力によって自分を守り,しかも予防のために疑わしい隣人を侵害する 権利を与えたが,市民法は,法の保護が安全に持続されうるすべての場合に, (34) その自由を除去するのである,と説明されている。 市民法は,このように自然の権利と自由を抑止することを目的としている が,その具体的な帰結は,本質的に私有の保護にある。ホッブズは,何よりも 市民法を財産権,すなわち私のものとあなたのものに関する諸規則である,と (35) 集約しているのである。一方,彼は,国家の全人民が自由をもつというのは, 法が制定されていないか,廃止されている場合であると指摘している。それゆ (32)Spinoza,7’r観α‘π∫Poあ伽5,1677, t蔦R. H. M. Elwes, ch. VI, sec.4. (33) L8伽読αη, pt.1,ch. XIV. (34) 1う鼠,pt.∬, ch. XXVI. (35) 乃ぽ4.,pt.1, ch. XVIII, 法と人間の本性 21 え,自由を抑制する法が存在しないことによって実は売買契約の自由や職業選 択の自由などが存在することになる。市場の自由を構成するこれらの自由は, いわばレッセ・フェール(」σゴ∬6z一ノ伽)の自由であるといえる。このように法に よる財産権の保護と市場の自由とが併存することによって商品経済の社会が存 立するという近代世界像が浮上するのである。 とはいえ,法そのものは,全体として全国民を拘束するために制定される。 ホッブズは,法の語法が「命ずる」伽伽),「課する」(吻ππg・)であるというこ とを指摘しゼ16)その原購正当化している.法は,彼にと。て主脚の齢で あり,国民に服従を求める義務の諸規則であって,主権者に対する国民の命令 ではない。さらに,それは,人間と市民の権利を保全する制度ではないのであ る( P㌔れども,法の存在舳は,主権者に対する舳と権利の搬的保障1・あ ると理解することができる。ところが,法を権i利と分断するところにホッブズ の法概念の落し穴がある。 (38) 国家主権を規律する法の支配は,ホッブズによって限定されている。主権者 は,神の法である自然法に服従しなければならないが,市民法に服従しないの である。その場合,市民法を国民に対する主権者の命令として強調している点 に絶対主義的法律観の表明がある。たしかに彼の法理論には,一応いわゆる罪 刑法定主義の主張が含まれている。彼によると,犯罪(CRIME)とは,法が禁止 していることを行為あるいは言語によって犯すこと,または法が命令していた (36) 乃泓,pt.1, ch, XXVI, (37)ホッブズは,法の本質は解放することではなく拘束することにある,と端的に主張 している(伽4.,pt.∬, ch. X)。 (38)ホッブズは,法の支配,すなわちコモン・ローの優位という原則を推進したコーク (ε〃E♂ω磁σo融%ρoη五i∫’♂θ’oπ,甑2,ch.6,/拡97,翫)が,国王に対して人為的理 性を強調した所見を批判し,法をつくるのは,下級裁判官の知識ではなく,人造の人間 である国家の理性であり,そして彼の命令である,と論難している(16ゴ4.,pt』, ch. XXVI)。この論旨は,晩年の著作においてもくりかえされている。 c£T・Hobbes, 1万α♂ogπ6 66オω66η α PみぎZo50ρノ…θ7αη4 ごz 3’z6ゴ6η診 o]ヂ♂乃θ Ooη2η∼oη Lαω5 0∫EηgJαη♂, 168L 22 人間科学論集16号 ことを怠ることにある罪(SIN)である,と定義されている。したがって,市民 法が存在しないところに犯罪は存在しないし,さらに主権者の権力が存在しな (39) いときに犯罪も存在しないということになる。 さらに,ホッブズは,犯罪の原因についても究明している。彼によると,そ れは,第一に法,主権者,刑罰に関する無知(‘8聯駕のによることである。第 二に,正と不正に関する誤った見解@0π蜘5・卿‘・η)から法が犯されることであ る。第三に,憎悪,情欲,野心,強欲などのような情念(ρσ∬言。η5)が犯罪を生じ させることである。それらは,人間の本性に付随している欠点なので,理性を 脚るか,あるいは厳罰にするカ・によ。て抑止されう£1)と主張されて、、る。 しかし,犯罪の社会的要因は析出されていないし,また社会政策によって犯罪 に対処するという発想もない。 もっとも,ホッブズは,すべての犯罪が同一のものではないことを認識した うえ,その免責事由(EXCUSE)と軽減(EXTENUATION)の余地があることを指 摘している。たとえば,人が現存する死の恐怖によって法に反する事実を遂行 せざるをえないときは,完全に免責される。いかなる法も人に自己の保存を放 棄するよう強制することはできないからである。また,食物その他の生活必需 品が欠乏し,法に反する以外に自己を保存することができないときも,完全に 免責される。さらに,犯罪の程度も,第一にその動機の悪意性によって,第二 にその事例の伝染性によって,第三にその結果の害悪によって,第四に時間と 場所と人物との相関性によって量定されるのである。これらの基準が適用され ることになるとはいえ,何よりも国家の現状に反抗する敵対行為は,私人に対 する犯罪行為より腫い犯罪であるとし・う。とが強調されてい課 犯罪に対する刑罰は,公的権威によって法の違反であると判断されることを (39) 堅目’加η,pt. H, ch. XXVI正 (40) 1う64.,pt.∬, ch. XXVII. (41) 16ピゴ.,pt.∬, ch. XXVII. 法と人間の本性 23 したり,怠ったりした者に同一の権威によって課される害悪である,と定義さ れている。その場合,公的権威とは,国家の代表者の権威を意味している。そ して,国家の代表者が行使する刑罰権は,国家の設立以前に万人があらゆるも のに対する権利と自己の保存に必要であると考えたことを行なう権利をもって いたこと,そのためにだれでも征服し,傷つけ,殺す権利をもっていたことに 基礎がある,とされている。というのも,国民は,主権者に刑罰権を与えたの ではなく,彼らの権利を放棄している状態において主権者が全員の保存のため に適当と考えるままに自己の権利を行使することを強化したのである,と説明 される。それゆえ,刑罰権は,与えられたのではなく,主権者にだけ残された (42) のである,と表現される。しかし,刑罰権が,国民主権の原理から分離され, 自然権に由来するとすれば,それは,国民に対する無制限の権力であるという ことになる。これに対し,ホッブズは,主権者が自然法によって制限されるこ とを付言している。けれども,彼の理論では,主権者が自然法によって拘束さ れる制度的保障はない。 ホッブズは,たしかに刑罰を敵対行為と区別し,たとえば公的審理もなく課 される苦痛や将来の善を考慮することなく課される苦痛は刑罰ではないことを 指摘している。また,課される害が違法行為の利益よりも少ないとき,さらに 刑罰が法に付記されている場合に,それよりも多大の害が課されるとき,いず れも刑罰ではないことを主張している。そのうえ,法が存在する以前に行なわ (43) れた事実に対して課される害は刑罰ではないことも主張している。このように 功利主義的思想に基づくとはいえ,公判による科刑,犯罪者の矯正,罪刑の均 衡,法定刑の適用,遡及処罰の禁止という刑事法の近代的原則が導き出されて いるのである。 しかし,ホッブズは,とくに国家の代表者を処罰すべきではないということ (42) 1ゐ鼠,pt。皿, ch. XXVIII・ (43) ∫6鼠,pt。 H, ch. XXVII工 24 人間科学論集16号 をくりかえし強調している。なぜなら,刑罰の本質は,公的権威によって課さ (44) れることにある,というのである。さらに,国民が主権者の行為の本人であ (45) り,自分が犯した行為に関して他人を処罰することになるからである,という 理由もあげている。また,彼は,国民が事実または言語によって故意に国家の 代表者の権威を否定するならば,反逆に対するいかなる刑罰がそれ以前に規定 されていたとしても,代表者の望むいかなる罰を受けても合法的である,と主 張している。なぜなら,服従を否定することによって法に規定されていたよう な刑罰を否定しているので,国家の敵として代表者の意思に従って罰を受ける ことになる,と説明するのである。そのうえ,確立された国家の権威を故意に 否定する国民に対する復讐は,その父祖だけでなく,まだ存在しない,したが ってその事実に罪のない第三,第四の世代に及んだとしても合法的である,と 主張している。なぜなら,この違法行為の本質は服従の放棄に存するのであ り,しかもそれは,一般に反乱と呼ばれる戦争状態への逆行であり,背反する (46) 者は国民としてではなく敵として罰を受けるからである,というのである。こ のように国家の主権に反逆する犯罪者に対するホッブズの弾劾は,罪刑法定主 義の原則を逸脱してまでも峻厳を極めている。しかし,近代市民が追求した罪 刑法定主義の理念は,国家による強大な刑罰権の濫用を抑制し,市民の自由と 権利を確保することにあった。その意味では,ホッブズが罪刑法定主義を確立 (47) しているとはいえないのである。また,彼は,刑罰の種類として身体刑,財産 (44) 16楓,pt.∬, ch. XXVII工 (45) 16鼠,pt. H, ch. XVIII. (46) 乃鼠,pt. H, ch. XXVIIL (47)シュミットによると,フォイエルバッハは有名な「心理強制一般予防説」を創唱 し,それによって刑法学上「罪刑法定主義」(Nulla poena, nullum crilnen, sine lege.) という法律国家特有の原理を貫徹させたが,これはホッブズの創造した法概念の適用の 一事例にすぎない(前掲訳書,115ページ)と指摘したのち,この定式が近代刑法学の 父といわれるフォイエルバッハよりもホッブズにさかのぼるものであるという趣旨の主 張をしているが,必ずしも市民の自由と権利を保障する罪刑法定主義の本質性を重視し たうえホッブズを評価しているわけではない。 法と人間の本性 25 刑のほか汚辱,監禁,追放の場合を挙げて論及しているが,そのさいに科刑の 基準として公的権威と国家の利益を重視しているうえ,死に値する刑罰が科さ (48) れることを不正ではないとして是認している事実も,問題点を残している。 皿 各人の自己保存と社交性の法 人間の本性を探求することによって合理的な人間行動の規範を発見すると いう思想方法は,さらにドイツの近代自然法学を発展させたプーフェンドルフ (1) (Samulel von Pufendorf,1632−94)によって提示されている。彼の法思考の起点 は,人間存在の観察にある。彼によると,人間は,何より知覚をもつすべて の動物と同じように自分ほど愛するものはないし,あらゆる方法において自己 を保存するように熱望する。しかも,人間は,自分にとって善事と思われるも のを取得し,悪事を排斥する。また,いかなる者も人の生存に加害するなら ば,切迫していた危険が回避されたのちでさえも,憎悪と復讐心が残るほどで ある。しかし,他人の援助を受けることなく成年に達する者があるとすれば, 奇跡であろう,と彼は指摘する。というのも,入間が自分自身の努力によって 衣食を得ることができるには,人間の必要のために考案されてきたあらゆる助 力のなかでも,多年にわたる入念の訓練が要求されるからである。こうして, 人間の生活に利益が伴うものは,人間の相互扶助から由来する,と彼は強調し (2) ている。 (48) Cf.、L6ぬ伽η, pt,五, chs. XXI, XXVIII. (1)彼は,「一般法学原理』(E‘6鷹η‘o彫解ノ厩∫ヵr厩θ漉αθση卿r∫α」6∫五5施Dπo,1661,tr. W.A. Oldfather, The Classics of International Law,1964)を展開したのち,主著で ある『自然法と万民法』(1)θノ膨Nα螂αθθ’σ6η励㎜L伽∫06’o,1672,比C.H. and W.A.01dfather, The Classics of International Law,1964)を完成した。その考察の 要旨は,『自然法に基づく人間と市民の義務』(D80μ’面Ho痂痂θ’σi痂ノ醐αL8g翻 Nα’脚伽L弼oDπo,1675, t践F. G. Moore, The Classics of Internat重onal Law,1964) に集約されている。 (2) Dθ0μ’6∫o,Bk.1,ch, H【,2−3. 26 人間科学論集16号 とはいえ,プーフェンドルフは,人間には一般にいかなる野獣よりも加害す る傾向が存在し,さらに野獣には未知の情念と欲望が存在することを観察して いる。すなわち,それらは,ぜいたく品の所望,貧欲,名誉の愛好,高位,ね たみ,競争心,知力争いのようなものである。しかも,人間が人間と衝突する 戦争は,野獣にも不明の理由で行なわれるという事実が挙げられる。およそこ れらのことが人間を刺激して他人を加害するようにさせる,と理解されるので ある。なおまた,人聞には相互に加害する能力があることも付言されている。 そして,抜け目なさが人間に狡猫で待ち伏せの攻撃を加える機会を与えるの で,自然的害悪のなかでも最悪の死をもたらしたりすることが人間にとって容 易である,と指摘するのである。そのうえ,人間には頭数と同じほど多くの情 緒があり,またすべての者が同一の欲求によってではなく,多様に複合された 欲求によって動かされるということも論述されている。したがって,人間が衝 (3) 突しないように,慎重な調整と抑制の必要がある,と彼は主張するのである。 このように人間は自己保存に専念する動物であるが,自分自身では無力であ り,仲間の援助なくして自分自身を守ることができず,相互の利益を促進する ことに適した動物であるとはいえ,他方では悪意があり,横柄であり,怒りや すく,また他人に害悪を加える傾向のある動物なので,安全であるために,人 間は社交的でなければならない,という法規範が提起されることになる。すな わち,人間は,自分と同じ人間と協同しなければならないのであり,そして他 人が自分に加害する妥当な理由がないように行動し,自分の利益を維持し促進 することができるように行動しなければならないのである・この社交性の法, つまり人聞社会の善良な成員となるために,いかに人間が行動すべきであるか を教示する法が,自然法と呼ばれる。プーフェンドルフの場合,基本的な自然 法は,万人は社交性を尊重し保持しなければならないという準則であって,そ の社交性に寄与するものはすべて自然法によって命じられ,それを撹乱し破壊 (3) 1うゴ孤,Bk.1, ch.皿,4−6. 法と人間の本性 27 するものはすべて禁じられている,と規定されるのである。そして,自然法の 残余の規則も,いわばこの一般的な法のもとにある系であって,人類に与えら (4) れた自然の光はそれが明白であることを示している,と指摘されている。 プーフェンドルフは,このように国内法だけでなく国際法の基礎規範として 前提される自然法の基本原理を何よりも人間の社交性に求めている。しかし, その自然法が順守されない限り,人間社会の秩序と平和を実現することができ ないと考えられる。したがって,神こそ自然法の創造者であることが自然的理 性によって証明される,と説明されることになる。彼によると,人間の本性 は,人類が社会生活なくして保存されないように創造されているのであり,ま た人間の精神は,その目的にかなう諸観念をもつ能力がある。神は,人間が, 自己の本性の保持のために,野獣と対比して人間に固有のものであると知覚し ている特別の諸能力を用い,そして人間の生活が野獣の無法な生活と峻別され ることを命じているのである。これは,自然法を順守するほかに確保されるこ とができないので,人間は自然法を保持することを神によって義務づけられて きたと理解される。しかも,自然法を犯すことは,神に背くことであると自覚 されるようになる。こうして,自然法の拘束性は,神の権威と畏怖によって維 (5) 持されると想定されるのである。彼は,たしかに自然法の人間化を推進した が,必ずしも神学的自然法から離脱していたわけではない。 さて,自然法によって人間に課される諸義務であるが,とくに各人に対する 各人の絶対的な義務のなかでも第一位にある義務は,だれしも他人に加害しな いということである,とプーフェンドルフは強調している。なぜなら,それ は,人間の社会生活が存続することができるために,もっとも必要な義務であ ると考えられるからである。さらに,この義務は,人間が生まれつきもってい る生命,身体,自由などに対するだけでなく,人間の制度と協約を通じて取得 (4) 1う6広,Bk。1,ch.1皿, 7−9. (5)1鷹,Bk.1,ch.皿,11. 28 人間科学論集16号 (6) されてきたものに対する防壁である,と理解されている。次に,人間の相互的 義務のうち第二位にある義務は,各人は他人を生まれつき対等の人として,す なわち自分自身と同じ人間として尊重し,処遇することである,とされてい る。というのも,人間は,自己の保存にもっとも専念するだけでなく,自己の 尊重を植えつけられてきた動物だからである。まさに人間ということばも,一 定の尊厳性を含むと理解される。それゆえ,他人の高慢な侮辱を排斥するもっ とも効果的な反論は,「私は,たしかに犬ではなくて,あなたと同じように人 間です」ということである,と提言している。しかも,人間の本性は,万人に とって等しく同一であり,また万人を少なくとも同等に人間として,共通の本 性の共有者として尊重しないような他人と快く交際したりすることができる者 はいないという理由をあげて,自他の人間的平等を尊重する相互的義務を提起 (7) しているのである。そのうえ,共同の社交性のために履行されるべき人間の諸 義務のうち第三位にある義務は,だれでも他人の利益をできるだけ好都合に促 進することである,とされている。なぜなら,自然は,人間の間に一種の親族 関係を設定したが,それは他人を加害したり,軽侮したりすることを抑止する ほどではないからである。しかし,われわれは,他人に配慮を払うか,相互に 配慮を交換しなければならないのであり,こうして相互の善意を人間の間に育 (8) てることができる,と論及している。このように権利本位ではなく義務本位の 自然法論が展開されているのであるが,とくに万人の平等が強調されているこ とは重要である。 プーフェンドルフは,自然的存在者であるとともに道徳的存在者である人間 像を把握したうえ,何よりも人間存在の利己的本性と社交的本性とを重視し, 相互に対立するこの人間の本性の二重性の調和を図りながら,人間社会の平和 (6) 16’菰,Bk.1,ch, VI,2−3. (7) 1醒広,Bk.1,ch。 V旺,1. (8) 1うゴ鼠,Bk.1,ch. W【, L 法と人間の本性 29 (9) と友好関係を維持する自然法の準則を提示している。彼の自然法は,ウルピア ヌスが定義しているように自然があらゆる生物に教示したものではない。彼 は,理性的人間の諸行為を規定するような自然法を探求している。したがっ て,法は人間の固有の本性だけから導き出されるべきであり,獣類や無生物か らもたらされるべきではない,と主張するのである。また,自然法は正しい理 性の命令であるとするグロティウスの定義について是認しているとはいえ,し かし肥る行為と理性的本性との一致または不一致の根拠が何かを正確に規定し (10) ていない点を批判している。そして,プーフェンドルフは,人間が創造主によ って社会的動物につくられたという事実に自然法が人間の本性と一致する理由 (11) があることを指摘している。それゆえ,たしかに人間の理性は,できる限り自 (9) フリードリッヒによると,自然的・道徳的存在者としての人間の二面性は,プーフ ェンドルフの思想の弁証法を説明している,と解釈されている。なぜならば,彼は,独 断的・合理的法学説を歴史的・政治的な国家理論と結合させたからである,という論旨 の理由が挙げられている(C.J. Friedrich, lr加P観050ρ妙。∫Lαω‘ηH∫5‘o痂α5 P曜ρθ‘一 ‘加8, 1958, p.113)o (10) このような理論構成をめぐって,「プーフェンドルフはグローチウスとホッブスを 統合し,それにもとづいて自然法論を体系化した。彼はグローチウスやホッブスとの比 較において,独創性がないといわれるが,彼の功績はこのような統合と体系化にあると いうことができる」と論評されている(和田小次郎『近代自然法学の発展』有斐閣, ig70年,88ページ)。また,両者の学説に多分に依存するとはいえ,彼は自然法学派の最 良の代表者であると評価されている(C.Phillipson,“Samuel Pufendorf,”0繊‘」πr魏5 0プ‘加躍07砒,1968,p.343)。もっとも,ミッタイスのように,プーフェンドルフを 「グロティウス・プラス・ホッブズ」という単純な公式によって評価することに反対し, ホッブズのペシミズムに対してプーフェンドルフの幸福主義的オプティミズムを対置し ている説もある。また,彼によると,プーフェンドルフの人間は,グロティウスと同じ ように,本性から社会的なものであると指摘し,さらにその国家は自由意思に基づく共 同体の一形式であり,崇高な意味においては隣…人愛,調和,人間性に基づくというほど の解釈を加えている(ミッタイス『自然法論』《H・Mitteis,σ伽4α52>α姐r8‘屍1948》 林毅訳,創文社,1973年,39−41ページ参照)。 (ll) E伽6物γαη」π7ゆ7%伽廊θ, Bk I, de£XIII,14. 30 人間科学論集16号 分のために配慮し,自分を守ることが人間にとって正しいことを指示するにも かかわらず,人間は,創造主によって他人との社交を求めるよう予定されてき たことを自覚するので,他人と非社交的にならないように,あるいは人々の間 の社交を妨害しないように,自分自身に対する配慮を修正することが必要であ (12) る,と強調するのである。そこにプーフェンドルフの自然法論の核心がある。彼 は,基本的な自然法を集約し,各人は人々の閲の社交を妨害しないように自分 (13) 自身を保存することに努あるべきである,という単一の規範を提起している。 彼の道徳的な自然法は,このように自他の共存を図ることによって市民社会の 融合と保持を具現することを目的としているのである。また,それは,市民法 (14) の残余の諸規定が演繹される根本規範としての意義と価値を与えられている。 しかも,それらの諸規定には,権利の平等,財産の尊重,契約の履行,損害の 賠償という商品交換法の基本原則が,順守されるべき自然法の細則として導入 されているのである。彼の法思想には近代市民法を先導する側面があった。彼 の自然法学は,単に自然法を世俗化し,これを理性法として体系化したいわゆ (15) る理性法学であると評価するだけでは不十分である。 (12) 16∫広,Bk,皿, obs. W, 1, (13) 16ゴ孟,Bk.∬, obs. IV,4. (14)その自然の基本法から一般法が導き出されている。すなわち,理性を用いることを 弱めたり,身体を殿損し,破滅させないようにすべきであるという準則と,権利の平等 が侵害されたと訴えることができるほど他人に対して振るまったりしないようにすると いう準則である。さらに,この一般法は,特別法に分化されることになる。たとえば, 1他人の身体を傷害しないようにすること,1婦人の純潔を彼女の意思に反して犯さな いようにすること,皿他人の名声を傷つけるか,その尊敬を少なくしないようにするこ と,1V他人の妻と姦通しないようにすること, V他人の財産を彼の意思に反して強奪し たり,殿損したり,窃盗しないようにすること,VI約束や誓約したことばに基づいて負 っている義務を果たすようにすること,皿他人に対し過失によって加えた損害を償うよ うにすることである(碗4.,Bk. H, obs. W,8,23,24−30)。 (15)プーフェンドルフは,民法総則の父ともいわれるが,特に法律行為の理論を深化 させたことを評価されている(ヴィーアッカー『近世私法史』《F.Wieackcr, P吻碑66乃’∫一 9650ゐ励’66θγ!Vθ聯ゴ護傭うθ∫oη伽8rβ67π6乃∫∫o屈g襯g 46r伽’5‘ん6ηEη翻6物ηg,1952》 鈴木禄弥訳,創文社,1961年,373ページ)。彼の市民法学は,民法学だけでなく,刑法 学にも及んでいる(c£Dθノ膨,Bk.田, ch.皿)。 法と人間の本性 31 それにしても,プーフェンドルフは,自然法の実効性について留意し,自然 法は人間にいかなる害悪をも加えないことを命ずるが,その法に対する尊敬も 人間に自然的自由の状態において安全に生存する能力を保証することができな い,と論じている。それゆえ,人間の悪意を抑制する最良の手段として国家を 創設する理由がそこにあることを主張するのである。また,自然法は,他人に 加害する者が処罰されないわけにはゆかないことを人間に教示するが,神の恐 れも良心の痛みも,あらゆる種類の人々の悪意を抑止する強度をもつとは認め られないと理解したのち,邪悪な欲望の抑制,機敏な救済方法,そして人聞性 (正6) によく適合するものは,国家において見出される,と主張している。こうし て,その国家をいかに創設するかという問題点が究明されることになる。 プーフェンドルフによると,国家を構成するさいに,二つの契約と一つの法 令が必要である。まず第一に,自然的自由の状態にあると考えられる多数の人 々が,国家を形成するために集結するときに,個別的に共同の契約を締結し て,永続する共同社会の成員になり,共同の協議と指導によって彼らの安全と 保護の業務を管理しようとするのである。要するに,彼らは,相互に同胞の市 民となることを求めるわけである。したがって,彼らは,一致してこの契約に 同意しなければならない。そして,この契約のあとに,いかなる統治形態を導 入するかを指定する法令が制定されなければならないのである。なぜなら,こ の点を決定するまでは,共同の安全のために寄与するものが何も着実に実行さ れえないからである。さらに,この法令の次に,生成する国家の統治にあたる 者が権威ある地位につくとき,第二の契約が必要とされる。この契約によって 統治者は共同の保護と安全に配慮する義務を負い,その他の者は統治者に服従 (16)1)θ0が肋,Bk』, ch. V,8−9.フ。一フェンドルフは,自然状態を社会状態(国 家状態)と対比し,前者では激情,戦争,恐怖,貧困,醜悪,孤独,粗野,無知,野蛮 の支配があるが,後者では理性,平和,安全,富,美,社交,洗練,知見,親善の支配 がある,と指摘している(漉ゐBk』, ch。1,9)。彼の考察は,人間の自然状態から 国家状態への移行を正当化するものである。 32 人間科学論集16号 する義務を負うのである。それによってまたすべての者は,その意思を統治者 の意思に従属させ,同時に共同の防衛のために彼らの力の行使を統治者に委託 するのである。そして,この契約が正当に履行されるときにのみ完全で正常な (17) 国家が存在するようになる,と主張されるのである。 しかも,プーフェンドルフは,あたかもホッブズのように,いかなる統治形 態においても国家を支配する最高の権威は,人定の市民法に優越し,この法規 に拘束されないという事実を指摘している。なぜなら,これらの法規は,その 起源と持続性において最高の権威に依存していると理解されるからである。し たがって,最高の権威を法によって拘束することは不可能であるということに なる。もっとも,最高の権威の所持者が法によって一定の義務を市民に課し, その事項が彼自身にも適合する場合,それにみずから従うことは法に権威を与 えることに役立つ,と言及されている。しかし,最高の権威は特別の神聖性を 有しているので,その正当な命令に抵抗することは不正であるだけでなく,市 (18) 民はその厳格さに耐えなければならない,と説得するのである。 さらに,プーフェンドルフは,国内の静穏のために市民の意思が国家の福祉 にとって便宜的であるように抑制され,指導されることが必要である,という (17)乃‘4.,Bk』, ch. VI,7−9. c£D6ノ膨〃α臨αθ, Bk。 VI1, ch』,7−8.なお,プー フェンドルフの二重契約説の基本的な問題点として,彼が《服従契約を人民の絶対的服 従の条件としてしまい,主権者の絶対権力を承認している》こと,さらに主権の行使を 制限する《人民の福祉の何たるかの判定権を,(中略)あるばあいには人民に認め,ま たあるばあいには「いかなる手段と方法を択るかは君主の判断による」と述べて,その 論理に破綻をみせている》ことなども指摘されている(小笠原弘親「プーフェンドルフ の契約理論」,飯坂良明他編『社会契約説』新評論,1977年,148−50ページ)。 (18)1)80ヵ硲’σ50,Bk. H,ch」X,3−4.しかし,ヴォルフによると,プーフェンドルフは 国家の自決と自足をしばしば強調したけれども,これは全体主義的専制主義を意味しな かったこと,また彼はあらゆる教会の要求に対して政治権力の独立を宣したけれども, 決して無制限の統治に関する近代的イデオロギーを教示しなかったこと,それゆえに彼 の見解は法の支配と矛盾しなかった,と解釈されている(E・Wolf,“Pufendorf,”賜8 Eη6Lア‘Joρ8漉α軋ズP乃記050ρ々ク, vol.7, 1967, p.27)o 法と人間の本性 33 ことも主張している。それゆえ,その目的に適応した法規を規定することだけ でなく,市民が刑罰の恐怖からよりも習慣によって法規を受容するように公教 (19) 育を強化することも支配者の義務である,とされている。しかも,市民生活の 秩序と静穏のために,自然法が市民によってよく順守されるべきことがきわめ て重要なので,その自然法に市民法の効果を与えることは支配下の義務である ということが指摘されている。というのは,自然法の明白な有用性も,神への 畏敬も,大多数の人間には堕落を制止するほどではないからである。それゆ え,最高の権i威は,自然法に市民法の効力を与えることによって市民生活の正 (20) しざが維持されるようにする権力をもつことになるわけである。 プーフェンドルフによると,人間が相互に平和であるならば,自然法ともっ とも密接に一致する。平和そのものは,獣類と区別される人間に特有の状態で ある。ところが,ときに人間自身にとってさえも,戦争が許され,必要となる ことがある,というのである。すなわち,他人の悪意のために,自分の所有物 や権利を保持することができない場合である。しかし,この場合にも悪事の報 復から善意よりも害悪が生じるとすれば,思慮と人間性がわれわれに武器に依 存しないように促すのである,と理解されてはいる。さらに,戦争の正当な原 因は,何よりも他者の不正な侵害に対して自己とその所有物を保存し保護する ことなどにあるとはいえ,戦争の不当な原因は,強欲と野心,すなわち所有欲 と支配欲に帰せられるか,または隣国人の富と権力によって喚起された恐れ, 権利に基づかない利得,多大な領土を獲得する欲望などである,ということも (21) 明示されている。プーフェンドルフは,グロティウスと同じように正戦論の立 場をとっているが,それは無差別戦争論と区別される側面がある。けれども, 戦争そのものの悲惨さと愚劣さが省察されているわけではない。 (19) 1う鼠,Bk. H, ch, XI,4. (20) 16泓,Bk. H, ch. XII,3. (21) 乃鼠,Bk.■, ch. XVI,レ2,4. 34 人間科学論集16号 プーフェンドルフは,国家形成契約によって創設され,さらに服従契約によ って運営される国家的社会の将来像を構想した。しかし,この形式的な二重契 約を媒介する基本法は,いかなる統治形態をも規定することができるのであ る。そして,統治形態には,君主政治,貴族政治,民主政治が存在すると指摘 されている。たしかにこれらの統治形態は,それぞれ専制政治,寡頭政治,暴 民政治に陥る欠点があることも理解されている。けれども,統治者として君 主,貴族,人民が列挙されたうえ,統治者以外の者は臣民または市民と呼ばれ (22) ている。彼の国家は,市民主権ないし人民主権の国家として存立するのではな い。それは,絶対君主制ではなくても,立憲君主制を可能にするのである。そ れも,人間の悪性を治癒する国家として正当化される理論になっている。しか も,彼が要請している統治者に対する服従契約の締結は,社会的合意に基づく 市民国家の運営という近代民主制の原則に背反している。そのうえ,彼の国家 は,不戦の理想を追求する平和国家でもない。また,恒久平和を実現する国際 法の制度も探求されているわけではない。 さらに,人間権を保障する法治主義の原理も深化されていない。彼の場合, 法とは,上位者が従属者に対してその行為を上位者の規定に従わせる命令であ (23) る。彼の法概念は,他人を支配する上位者を前提としている。それゆえに,市 民生活においていかに行動すべきかを規定するとされる市民法も,市民的支配 124) 者の法令であり,最高の市民的権威の意思から発するのである。それは,自由 ・平等な市民の合意を表明する制度でもないし,市民に対する統治者の行動を 規律する制度でもない。支配者の一般法は,キケロに基づいて人民の福祉が最 (25) 高の掟であるといわれるが,それは,法理念にとどまっている。彼の市民法 (22) 1あ議,Bk.丑, ch.∼皿, 3, 6−8, 11。 (23) ∫664,,Bk. 1, ch.1, 2, (24) 乃鼠,Bk I, ch. XII,1,2. (25) 16鼠,Bk I, ch. XI,3. cf. Cicero,1)θLθg伽∫,皿,3. 法と人間の本性 35 は,むしろ本質的に国家の善のために規定され,運用されることを予定してい るのである。また,彼の自然法も,市民法を通じて人間の自然権を具現するこ とを目的としているのではなく,何よりも市民生活の秩序と平穏の保持を目的 (26) として実用化されることを要請しているのである。このようなプーフェンドル フの国家と法の一般理論の後景に,十七世紀におけるドイツの政治的・経済的 状況があった。すなわち,国際戦争による破壊と荒廃,諸領邦への分裂と分 権i,領主的大農経営の強化と工業化の停滞,自由農民と中産市民層の成長の阻 害という社会事象が発生していたのである。これに対し,彼は,何よりも人間 の自己保存と相互の安全が保障される市民社会の形成と連邦国家像を展望する とともに市民公法と市民私法の諸規範を探求している。しかし,人間と市民の 権利を確保する市民国家と市民法の理念像も,彼の段階ではJ.ロックのよう (27) な思想的水準にまで到達していないのである。 IV 法治国家と精神的自由の理念 人間の自然状態を想定すると,人間の本性を現実的に認識することができる ことを理解し,その人間の本性から導き出される法と統治の準則がスピノザ (Baruch de Sp三noza,1632−77)によっても探求されている。彼の法学は,たしか (1) に倫理学ほど深化されているとはいえない。しかし,人間行動の規範である法 の理念像が彼なりに究明されているのである。彼の法理論も人間論から始まっ ている。彼によると,人間は,自然の諸法則と諸規則に従って行動するように 決定されている。その場合,各人は,あらゆることをすることができる最高の (26) Cf. 1)6」螂6 Nα’π7とτθ, Bk.皿, ch.五,1−2. (27)なお,マイネッケは,プーフェンドルフの功績として彼の国家学は神学的思考の束 縛から国家を解放するのに役立ったこと,また彼の歴史記述法は政治的諸事件を行為者 の合理的動機から推論して行なわれたこと,さらに彼は国家理性と国家の利害に関する 教説にも熟達していたことを挙げている(F.Meinecke, a, a, O. S.265)。 (1) C£H.Cairns, L8gαJ P乃μo∫ψ妙」肋祝P8α彦。♂o H896」,1949, p.294. 36 人間科学論集16号 権利をもっている。そして,各人の権利は,各人の力の極限まで及ぶ。しか も,各人が,その現存在を保持するように努力することは,自然の最高の法と 権利である,とされる。こうして,各人の自然権は,健全な理性によってでは (2) なく,欲望と力とによって決定されることになる。というのは,すべての者が 生まれつき理性の諸法則と諸規則に従って行動するように決定されているわけ ではないからである。彼らは,欲望の衝動によって生活し,そして自己を保存 (3) しなければならないのである。スピノザは,このように自然主義と決定論の立 場から人間の根源的な本性を認識しつつ,法の問題とこれに関連する統治の問 題に接近するのである。 そのさい,スピノザは,人間の自然的本性を現実的に理解するからこそ逆に 理性の諸法則と諸命令に従って生活することが人間にとって最良であるという ことを自明の前提としている。彼によると,だれでも恐怖を脱してできるだけ 安全に生活することを望むのであるが,これは,だれもが好むままに万事を遂 (2)スピノザの「権利」は,あたかも小魚をむさぼり食う巨魚の権利として理解される が,それは,たしかに自然法の意味の範囲内の権利(ことばの通常の意味における権利) ではないといえる。「権利」は,彼にとって「力」なのである。cf.0θη8冠ε脚砂(ゾ Eび8η‘5, 80%76θ5, Pθ∬oη∫αη♂ Moび6η∼6π’5‘η σoπだη8η‘α」五θgαZH∫∫ご07フ, 1968, p.414. (3)Spinoza,:rrαo鰍5乃ωlo9如一Po‘∫∫蜘5,1670,比R. H. W. Elwes, ch. XVI.さら に,彼は,自己保存の欲望がすべての人間に内在することを理解したうえ,人間の本性 は,だれでも自己の利益を極限の熱情をもって追求し,そして自己の資産を保持し増加 させるために必要であると考える法をもっとも公正であると判断し,しかも自己の利益 を確保することになると考える限り,他人の利益を守るように創造されている,と指摘 している(Spinoza, T7α‘」伽∫PoJ‘’勧∫,1677, tL R. H. M EIwes, ch. W, sec。4)。しか も,徳の基礎は自分のものを保持しようとする努力であり,そして幸福は人間が自分の ものを保持することができるということにある,と倫理的に正当化している(Spinoza, E’肋α,1677,斌A.Boyle, pt. IV, prop. XVIII,ηo彦の。なお,原著について,スピノザ r神学・政治論 上・下巻』,r国家論』, rエチカ 上・下』畠中尚志訳(岩波書店版) など参照。 法と人間の本性 37 行ずる限り,しかも理性が憎しみと怒りよりも下位に立たされる限り,完全に (4) 不可能なのである。また,敵意や憎しみや怒りや欺隔の渦中にあって困惑しな い者はいないし,こうしたことをできるだけ回避しようとしない者もいない。 したがって,人間は,相互の援助がなければ,悲惨な生活をするにちがいない ということを熟考すると,できるだけ安全に共同生活をする協定を締結しなけ ればならないことがわかる,というのである。また,人間は,そうすることに よって生まれつき各人に属している諸権利を全体として享受することができる のであり,そして人間の生活が,個人の力と欲望によってではなく万人の力と 意思によって決定されるようになる,と付言している。とはいえ,この目的 は,彼らが欲望によってのみ導かれるとすれば,達成できないものであるか ら,彼らは,万事を理性によって導かれ,同胞に有害な欲望を抑制し,自分が そうされたいように他人にも行ない,そして隣…人の権利を自分の権i利と同じよ (5) うに守るということを約定しなければならない,と主張するのである。スピノ ザの社会契約説も,本質的に人間の自然権としての自己保存権を拠点として自 己と他人との平和的共存を目的とする市民社会の設立を志向している。また, それは,等価交換の経済社会を維持する契約理論にもなっているのである。 さらに,スピノザは,人間の本性の普遍的な法則を理解しながら,社会契約 の実効性の要件についても論及している。すなわち,だれでも二つの善のうち 自分が考える最大の善を選択し,また二つの悪のうち自分が考える最小の悪を 選択する。この法則からいかなる契約もその有益性によってのみ有効とされる のであり,それがなければ無効となるのである。したがって,締結された契約 (4)スピノザの表現によると,人間は,怒り,ねたみ,憎しみの激情を抱く限り,さま ざまに引きずられ,相互に対立する。人間は,他の動物よりもずるくて悪賢いので,な おさら恐るべきである。そして,人間は,これらの激情に隷属しているから,本性によ って相互に敵である(Trα6♂α伽PoJ2伽5, ch. H, sec.14)。彼は,ホッブズと同じよう に人間の本質を現実的にとらえている。 (5) 乃αo彦α彦μ∫Tゐ60Zo9ゴ60−Po醐‘μ5, ch. XVI. 38 人間科学論集16号 を破棄した者に対して利益よりも損害を与えることなく,信義をいつまでも守 るように求めることは思慮のないことなのである。スピノザは,国家を形成す るさいに,とくにこのことを考慮することが重要であることを強調している。 というのも,彼は,すべての人々が理性によってのみ導かれる実情はなく,だ れでも自己の快楽によって引きずられ,そして貧欲,野心,ねたみ,憎しみな どに心を奪われ,理性の占める余地はないと理解していたのである。それゆえ に,たとえ人間は誠実に約束しても,その約束に何ものかが存在しないとすれ ば,だれも他人の約束を信頼することはできないということになる。各人は, 自然権によって他人を欺くように行動することができるのであり,また多大な 善への希望や多大な悪への恐怖によって抑制されなければ,約束を破棄するこ (6) とができるからである。スピノザの社会契約説は,功利的配慮によって構成さ れている。彼は,公益の実現によって実質的に私益の実現を意欲する社会契約 が単に道徳的原理に基づいて順守されるとは考えていなかったのである。この ような彼の説の背後に,商品経済の社会において私益を追求する近代市民の実 像が見える。 それにしても,スピノザは,さらに各人が自己の自然権を社会に譲渡し,社 会が万事に対する最高の自然権,すなわち最高の命令権を保有し,各人はこれ に服従する義務を負うことになる,と主張している。そして,このような政治 (7) 体制が民主制と呼ばれるのであるが,それは,社会が全体としてすべての権力 (6) 乃泓,ch. XVI. (7)1う鼠,ch。 XVI.スピノザは,その統治体制について論及し,まず命令権を多数者 の力によって決定される権能であると定義したのち,命令権は,共同の意思によって国 事を委託された者,すなわち法を規定し,解釈し,廃止し,都市を防備し,戦争と平和 を決定する者に保持されると指摘し,この責任が多数者から構成される会議体に属する 場合に,その統治は民主政治と呼ばれる,と説明している。これに対し,会議体が,選 ばれた者から構成される場合には貴族政治と呼ばれ,また国事の配慮とその命令権が, 一人の者に存する場合には君主政治と呼ばれる,と規定している (T7観伽∫Po磁螂, ch.■,sec.17)o 法と人間の本性 39 を行使すると理解されるからである。この民主政治の目的は,不合理な欲望を 回避し,人間ができるだけ理性によって制御されるようにして,彼らが和合と 平和のうちに生存することができるようにすることである,とされる。そのさ い,彼は,人民に賦課される服従義務について論及し,支配者の福利ではなく 全民衆の福利が最高の法である国家においては,最高の権力に対する服従は, 人間を奴隷とするのではなく臣民とするのである,と説明している。また,も っとも自然的な統治形態であり,個人的自由ともっとも調和する統治形態であ ると評価される民主制においては,だれもが自己の自然権を譲渡したので,公 事について発言権がないというのではなく,それを自己もその構成単位である (8) 社会の多数者に譲渡したにすぎない,と留保している。それゆえ,すべての人 (9) 間は,自然状態におけるように,依然として対等者であると推論される。スピ ノザは,多数者による社会形成契約と服従契約との締結によって組織される市 民国家が人間的自由と対立するという問題点をこのような民主制の理論によっ て解決することができると考えていたわけである。 しかし,スピノザは,国家状態における私権を各人が自己の存在を保持する ために有する自由であると定義しながら,この自由は最高の権力の法令によっ て制限される自由であり,その権威によってのみ保護される,と注意してい る。なぜなら,人間は,自己の望むままに生活する権利,すなわち自己を防衛 する自由と力を他者に譲渡したときに,その者の命令に従って生活し,そして (10) 自己の防衛を委託するように拘束されるからである。しかも,彼は,法による 自由の制約を正当化するために,理性によって導かれる人聞は,いかなる法に も服従しない孤独においてよりも共同の法に服従して生活する国家においてさ (8) 丁駕’α伽5丁乃60Jo9500−Po麗’蜘∫, ch. XVI. (9)その点,スピノザは,いかなる者も人間でなくなるまで自己の力と権利を譲渡する ことはできないし,また望むことをすべて実行することができるような最高の権力も存 在しない,と論じている@泓,ch. XVII)。 (10) 乃鼠,ch. XVI. 40 人間科学論集16号 (11) らに自由であるという定理を提示している。ところが,彼は,ホッブズと同じ ように,主権者の権力は,いかなる法によっても束縛されない,と主張するの である。これに対し,すべての者は,万事においてその権力に服従することを (12) 要求される。彼によると,最高善を求める神の法と区別された人間の法は,自 (13) 他の生活と国家を安全にするためにのみ役立つ生活の規則である。そして,人 間の法については,国家が規定し,解釈し,廃止する権利をもっている,とさ (14) れる。しかも,好むことを行なう権利をもつ主権者の行為から臣民に対する不 法は生じえないのであって,不法は法によって相互に侵害しないように拘束さ れている私人間においてのみ発生しうる,というのである。もっとも,彼は, 主権者の権力が,神の法と自然法に基づいて国家の法を維持し,擁護する義務 (15) を負っていることを提示している。そして,国家は,理性の命令に反して行動 (16) するときに,不法を犯すことになると断言している。 とはいえ,スピノザの法思考には国家制度によって最高の権力を抑制すると いう発想はないし,三権の分立によって最高の権力を制御するという発想もな (11)E齢α,pt』「, Prop. LXXII正 スピノザは,この定理を証明し,理性によって導 かれる人間は,恐怖によって服従させられることはないが,自己の存在を理性の命令に 従って保持しようと努力する限り,すなわち自由に生活しようとする限り,共同の生活 と利益を老慮し,したがって国家の共同の法に従って生活することを欲するのであり, それゆえに理性によって導かれる人間は,さらに自由に生活するために国家の共同の法 を尊重することを欲する,というのである。 (12) 丁霜αo’α’麗∫丁乃80♂ogゴ‘o−Po’銘蜘∫, ch. XVL (13) 16‘訊,ch. IV. (14) T㎎6‘α言z6∫Poあ距。㍑∫, ch. IV, sec.5. (15) Tzπ‘’α伽臨監80Jo9∫60−Po醐σπ∫, ch. XVI, (16)7駕’磁∫P(・醐6π∫,ch』「, sec.4.スピノザの法観念の特徴として,法を人間の自 由の制限または抑制としてみなさないこと,あらゆる法の効力は命令する者の力ではな く法に服従する諸個人の力であること,すべての法が等しく善ではないことを認めてい ることなどを挙げる研究がある。c£R. A. Duff,5ρ伽zα’∫P・」傭α」伽ゴE∫勧αZ昂∫Jo− 50ρ乃ノ, 1970, p.327f£ 法と入間の本性 41 い。最高の権力は,ただ神の法と自然法によって拘束されるだけである。この 道徳的な法理論は,国家主権を強調したボーダンさえ主張していたことであ (17) る。スピノザの場合,たしかに社会契約に基づいて国家が創設されるので,理 論的に市民との間に対立関係は存在しないということになる。しかも,彼によ ると,統治の団体は一つの精神によって導かれるべきであり,したがって国家 (18) の意思は万人の意思であると理解されなければならないのである。また,理性 は平和を追求することを教えるが,国家の一般法が順守されなければ,平和を (19) 保持することができない,と主張されるのである。しかし,社会契約が締結さ れていても,それを無視して行動する国家が最高の権力を濫用する場合があ る。平和と自由は,私人よりも国家によって侵害されるのである。したがっ て,社会契約を実現するために,国家の行動を拘束する基本法が設定されてい ない限り,その制度的保障はない。近代法治主義の原則は,スピノザの法思考 (20) の段階でもまだ確立されていないのである。 とはいえ,スピノザは,自由な国家においては万人前自分の望むことを考 え,そして自分の考えることを発言することができるという趣旨のことを主張 している。彼によると,人間の精神は他者の支配に屈従することができない。 だれでも自由に推理し判断する自然権を譲渡したりすることはできないからで (17)C£J.Bod五n, Lθ∫∫1κZ伽8M8‘αR6ρπう」ゆ6,1576, tL M, J. Tooley, P・28 f・ボー ダンは,地上のあらゆる君主が神の法と自然法に服従し,これらの法に違反することは できないということを主張していた。 (18) 野αご’α’z65 PoJ髭∫6粥, ch. H]〔, sec.5. (19) 1房孤,ch.皿1, sec。6. (20)ケアンズは,法の本質に関するスピノザの理論について,それは法を社会統制の一 形態として,さらに強制による人間行動の規制を目的とする装置として理解する理論で ある,と指摘している(且Cairns, oカ.‘‘らP.277)。スピノザの場合,たしかに法は本 質的に国家行動を規律する制度ではない。なお,スピノザの国家思想における二律背反 について,ヤスパース「スピノザ』(K,Jaspers,5μη・zα,1957)工藤喜作訳,理想社, 1970年,157−8ページ参照。 42 人間科学論集16号 (21) ある。それゆえ,人間の精神を支配する統治は専制的とみなされるのである。 もっとも,スピノザの主張する思想とその表現の自由は,許容される場合と許 容されない場合とがある。たとえば,或る法が健全な理性に矛盾するから廃止 すべきであると表明する場合,もし自分のその意見を法を制定し廃止する権限 をもつ主権者の判断に従い,その間は法に違反する行為をしないとすれば,国 家にそれだけ寄与し,善良な市民として行動したことになる,と評価される。 だが,官憲の不正を非難して民衆を扇動するとか,その同意なくして法を廃止 しようとするならば,撹乱者であり,反乱者である,と評価されるのである。 さらに,自由な行動の権利を譲渡した契約を無効にするような意見は反逆で (22) ある,と批判される。それゆえ,思想と表現の自由も,国家の主権と国家の平 和を侵害しない限り,容認されるのである。 しかし,スピノザは,仮に自由が抑圧され,発言しないように束縛されると しても,主権者に従って思考させることまではできないということを注意して いる。さらに,彼は,特定の意見を犯罪上する法を設定することが人間の本性 に反することについても論難している。そして,入間が和合して共同生活する ことができるために,たとえ意見が異なっていても,あるいは意見が公然と対 立することがあっても,判断の自由が許されるべきであることを要求してい る。なぜなら,そのことが人間の本性ともっともよく調和するので,最善の統 治様式であると考えられるからである。したがって,自由な国家においては, 抑圧することができない判断の自由を奪ったりしょうとする者は平和の侵害者 (23) である,と批判されるのである。 (21)Trα6捌螂7’ゐθ・Jo4‘o−P・」5’蜘∫, ch, XX.スピノザの主著であるr神学・政治論』は, 思想の自由だけでなく言論と教説の自由を無法な国家の押収から防御するために書かれ たと解釈されるほどである(F.Meinecke, a. a.0. S.262)。 (22) 丑α6鰯π∫刀を80Jogゴ60−PoJ痂α∬, ch. XX。 (23)乃ゴ4.,ch. XX.なお,スピノザは,『神学・政治論』のとくに20章において,思想の 自由と承認に基づく文明化された社会秩序が,理性の行使,そしてそれゆえに個人の活 法と人間の本性 43 スピノザの思想とその表現の自由は,究極において自由に思考し判断する人 間の自然権として理解され,しかも他者に譲渡したり,たとえ同意しても放棄 することができない人間の自然権として主張されている。彼は,このように精 神的自由権という市民的人権iの基本原理を提示しているのである。そこにホッ ブズをこえる人権思想がみられる。もっとも,彼が具体的に要求している自由 は,何よりも哲学の自由であり,学問や芸術の進歩に必要な自由である。けれ ども,人間の自由権は,精神の自由権だけでなく行動の自由権を含んでいる。 さらに,それは,市民間の自由権だけでなく国家に対する自由権を含んでい る。ところが,彼は,平和を保持する目的があるとしても,社会契約を締結し たさいに,各人は行動の自由権を譲渡しているのであって,国家主権の決定に 反して行動することができないということを注意している。すなわち,人間の 自由権を主権者の権威と国家の平和のために制限しているのである。また,彼 は,各人の思想と言論の自由が国家の安全のために必要であることも指摘して (24) いる。しかし,そのさいに,権力を濫:用する傾向がある統治者の現実的本性に ついては,留意されていないのである。 スピノザは,たしかに専制政治に陥ることがないように,そして市民の平和 と自由を侵害されることなく保持するために,いかに社会を秩序づけるべきで (25) あるかという問題点に接近している。彼は,近代社会の基本的な課題を的確に 把握していた。しかも,社会契約に基づく民主政治がもっとも自然的であり, 合理的であることを理解していたのである。その点,彼の祖国はネーデルラン ド共和国であって,商工業と海外貿易によって発展し,思想と言論の自由を承 力の実現と享受の必要条件であることを示すことを企図している,という解釈も行なわ れている (S.且ampshire,“Spinoza and the Idca of Freedom,”5’π4∫θ∫iπ3ρ∫ηozα, 1972,p.330)o (24) Zrαo’α’π∫7%80Jo460−PoJ漉側5, ch. XX・ (25)これは,スピノザによる『国家論』(Trα磁伽Po醜i鄭)の主題であるとされてい る。 44 人間科学論集16号 認する市民憲法も設定されていた。しかし,最善の国制は,スピノザにとって 財産所有者が支配する民主制であり,また彼の理想はアムステルダムの寛容 (26) とその商業資本家の民主制であると評価される要素があった。さらに,晩年に は君主制や貴族制のもとでも市民の平和と自由が保持される政治的諸条件を追 究しているだけでなく,民主制から立憲貴族制に傾斜する政治姿勢も見せてい (27) る。また,彼は,父権を所有権に変え,子を奴隷のようにみなすことに批判的 (28) であったが,婦人は本性によって男性と同等の権利をもたないこと,平和を害 することなくして両性を等しく支配することができないということも主張して (29) いるのである。彼の民主主義の思想的水準がそこにも示されている。 このような問題点はあったが,スピノザが人間の原理的自由を目的とする法 (30) と統治の理論を発展させていることも評価しなければならないであろう。彼に よると,統治の究極の目的は,恐怖によって支配したり抑制したりすることで もなければ,服従を強要することでもなく,万人を恐怖から解放し,各回が安 全に生活することができるようにすることである。言いかえると,自分と他人 とを害することなく存在し活動する自然権を確保することなのである。しか も,統治の目的は,人間を理性的存在者から動物や自働機械に変えることでは なく,人間の精神と身体を安全に機能させ,理性を自由に用いることを可能に (26)A.Maclntyre,“Sp三noza,”TんθEησ圃oρ8伽。∫P乃∫‘050ρ妙, vo1.7,1967, p.540£ (27)また,スピノザは,国家の目的を《自由》よりも《平和と安全》に求めるようにな っている(τ駕彦伽5P・♂5‘蜘5, ch. V, sec.2。)。その動機については,彼と親交のあっ た共和派の指導者であるヤン・デ・ウィットとその弟であるコルネリウスが1672年に政 治テロによって殺害された事件に衝撃を受けたことによるという趣旨の解釈も提示され ている。c£“Spinoza,”1)fo’∫oηα7ッ。ノ〃oγ♂4 H∫5’oぴ,1973, p.1427. (28) 野α‘’α‘z6∫」Po泥彦ゴ6π3, ch. VI, sec,4. (29) 乃24.,ch. XI, sec.4. (30)なお,ホッブズの絶対的な権力国家に対するスピノザの法治国家が文化国家と理性 国家としての意義をもつという趣旨の評論も展開されている(和田,前掲書,75−7ペ ージ)。 法と人間の本性 45 することである,とされる。そして,人間が憎しみや怒りや虚偽をもって争う ことでもなく,相互に敵視させることでもない,というのである。要するに, (31) 統治の真の目的は自由に存する,とスピノザは主張している。とはいえ,この ような自由の保障のために,人間社会の病理を克服する合理的な法と統治の制 度がいかに創造され,いかに運用されるべきであるかという問題点がさらに究 (32) 明されなければならなかったのである。 それにしても,グロティウスからスピノザに至る近世自然法論は,入間の本 性に由来する法を探求することによって法の人間化を推進した。その総論にお いて人間的自然の原理による人間権の制度が展望され,それが近代立法にも影 響を与えているのである。しかし,彼らは,人間の本性を自然の所産として理 解し,それが社会環境と社会情況によって触発される側面があることを捨象し ている。さらに,人間の本性は,たえず固定されているのではなく,人間自身 によって創造される側面があることも重視されていない。しかも,法は現実に 社会の本性によって決定されるのであって,この前提条件のもとに人間主義的 な法の思想と理論が開発されるということはなかった。そして,彼らの各論で は,人間的な法の拠点である人間権が市民権として限定されているうえ,ホッ ブズやプーフェンドルフのように主権者命令説に示されている絶対主義的法律 観がなおも残されているのである。それゆえ,人間権を実現する法治主義の原 則が必ずしも確立されていないところに近世自然法論の本質的な問題点があっ たと解される。 (31) 真野’α伽τゐθo!09560−Po‘露蜘5, ch・XX・ (32)この問題点は,スピノザ以後にロックやルソーなどによって追究された。そのさ い,ロックの政治哲学は個人的自由に関するスピノザの思想によって影響され,また国 家の主権が成員の共通の理性と一般的意識に基づいていることを理解するスピノザの思 想はルソーの一般意志の理論における要点となったという解釈も試みられている。c£ R.G. Gettell, Hf伽ηo∫Po♂漉。α‘7「ゐ。麗g配,2nd ed.,1953, p.230 f. 46 .NmaN¥whee16e Law and Human Nature Mroaki Kdihara Happiness is generally understood to be one of the fundamental objects of human beings, but we cannot really secure happiness unless war, despotism, etc. are eliminated among us. To bring about the solution to this problem, eflbrt has been continued in a field of legal theory. Modern theory of natural law, based on human nature, advocated by Grotius and fbllowed by Spinoza was a step of the eflbrt. They pushed forward humanization of law and influenced modern legislation. In their theory, however, the recognition of human rights was actually limited to that of civil rights, and, on the other hand, there came to be developed the absolutist view of law such as Hobbes' and Pufendorf's. Centeiing around our estimation of those eflbrts, we thus have the point at issue that the rules and regulations of law for securing human rights were not always consolidated in the past.