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四 女中が出て行くと、明石が、この場の沈黙を破った。 ﹁守部君。 君が

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四 女中が出て行くと、明石が、この場の沈黙を破った。 ﹁守部君。 君が
天路の奈落 大西巨人
四
女中が出て行くと、明石が、この場の沈黙を破った。
﹁守部君。君がそんなふうに言いたい気持ちは、それとして僕にもわ
からなくはないが、問題は、そんな個個の末梢的な局部にあるんじゃ
ない。愛甲なら愛甲が、全体として客観的に何をしたか、それを、僕
たちは、局視的・セクト的にじゃなく、大局的・全面的な観点に立っ
て、見なければならない。愛甲が、ここでの常勤時代の経験と見聞を
素材にして、のみならず党生活の実情を敗北主義的に歪曲して、作り
まが
上げて、
﹃遊撃文学﹄の七月号に発表した小説ねぇ。サルトル紛いヘミ
ヽ ヽ
ングウェイもどきの﹃汚辱の部分﹄さ。あれについて、
﹃明らかに党の
権威と信用とを大衆の面前で失墜させる効果しか持たない分派的・反
革命的作品﹄と暫中が﹃党活動案内﹄で明言してるのは、完全に正し
からだ
いよ。僕は、党活動に疲れた躰であれを読んで、実際、涙が出るほど
む
腹が立った。 公開の作品の中で、 剥き出しに分派活動を始めたのは、
まだ愛甲ただ一人なんだ。最も憎むべき裏切りだ、と僕は思う。
もく ろ
﹁︱︱中央︵東京︶の党員文学者たち、いや、中央の一部党員文学者
連中が、八月末か九月初めに公表した恐ろしく反党的な﹃宣言書﹄が
あるね。そう、
﹃党中央に蟠踞する右翼日和見主義分派について﹄って
奴だな。あそこでも、彼らは、彼らの小ブル的利己心から、恥知らず
にも暫定中央統率部を﹃右翼日和見主義分派﹄とデマる︵デマを飛ばす。
中傷する︶ことで、党攪乱と階級敵への奉仕を目諭んだのだ。それが反
人民的な反革命的な行為だってのは、どうにも否定しようのない事実
だろう? 彼らの文学にかねがね一貫して存在する根本的な小市民
さて お
性・反労働者性はしばらく扨置くとして、彼らのこの手近な実践から
判断してみても、彼らの本質は、そんなふうに、疑問の余地なく反マ
ルクス主義的なんだ。暫中は、そこを正確に指摘して、正当にも彼ら
を﹃プロレタリアートの敵、人民の敵﹄と呼んでいる。そんな分派文
学者たちが愛甲の分派小説を支持するのは、あたりまえだよ。愛甲は、
1
天路の奈落 大西巨人
具体的 ・現実的にも彼らにつながってるんだから。 また逆に言えば、
彼らから支持されるような小説を書いたのが、愛甲の反党的性格の動
かぬ証拠ってことにもなるわけさ。
﹂
⋮⋮そんなことはない。そんなはずはない。一人の共産主義者にた
いする︵後藤が無根拠に行なった︶致命的な人身攻撃。どうしてそれ
が、ただ単に ﹁個個の末梢的な局部﹂ 問題であることができようか。
⋮⋮﹃例の﹁宣言書﹂を、私は、まだ見てない。けれども、それにた
いする暫定中央統率部の﹁反批判﹂文書は、たいそう説得力の稀薄な、
うわ ぬ
むしろ恥の上塗りのような内容としか私には読めなかった。
﹄⋮⋮そし
ネガテイヴ
リアリステイツク
てきしゆつ
て愛甲の﹃汚辱の部分﹄は、決して﹁党生活の実情を敗北主義的に歪
曲して﹂はいなかった。たとえば後藤たちを前にして彼女がいま感じ
ているやる瀬ないような焦心。たとえば昨今十数ヵ月間の彼女が党内
モテイーフ
状態に関して抱いてきた悲しい疑惑、︱︱それらと共通の思想を作意
として、党現実の否定的な部面の幾つかを写 実 的な筆致で剔出しつ
うず
つ、そこからの党の脱出および発展を疼くように願い求めている、と
かた
いうのが、あの作品の紛う方なき中心性格ではないのか。⋮⋮
︱︱愛甲の ﹃汚辱の部分﹄ にたいする非難攻撃は、 鏡子にとって、
むろん今夜が初耳ではない。その作品が月刊誌﹃遊撃文学﹄に掲載せ
られた今年初夏以来、複数の常任地方委員その他から、直接ないし間
接に、彼女は、おなじような非難攻撃︵
﹁党生活の実情を敗北主義的に
し ごく
歪曲して﹂云云の類︶を何度も聞いていた。ただ、至極おかしな話に
は、非難攻撃者たちは、
﹁党生活の実情を歪曲し﹂云云の類を一様に言
い立てるものの、しかも﹃汚辱の部分﹄が﹁党現実の否定的な部面の
幾つかを写実的な筆致で剔出し﹂ていることそれ自体を︵言い換えれ
ば、そういう幾つかの否定的な部面が党現実に存在することを︶一様
についに︵いやいやながら︶認めざるを得ない。かくて彼らの非難攻
撃は、〝愛甲の小説は、社会主義リアリズムに反している。〟と要約
せられ得るらしいのである。
あるおり鏡子は、彼らのいつもながらの﹃汚辱の部分﹄批判にたい
して、
﹁
﹃社会主義リアリズムに反している﹄というのは、どんな所で
すか。﹂と質問した。教宣︵教育宣伝︶部長の荒木数馬常任地方委員が、
2
て、勤労人民を社会主義的精神で教育し、その思想的改造に役立つこ
と﹄でしょう? たとえ愛甲の小説が党現実にもあり得るべき消極面
のリアリスティックな形象化だとしても、党員文学者の任務は、現実
を﹃その革命的発展において捉え﹄なくちゃならないんだからね。愛
甲は、 現実を言わば ﹃その反革命的退化において捉え﹄ てるんだな。
あんな物は、勤労人民の社会主義的思想教育に全然役に立たないよ。
﹂
と代表的に返答した。つまり、彼らによれば、
﹁社会主義リアリズム﹂
とは、真実を真実として︵否定面を否定面としてその克服のために︶
描き出すことではなく、往往にして真実を隠蔽し虚偽を表現し否定面
を︵結果的に︶温存することである。
またあるおり、たまたま鮫島宅を訪れた鏡子が、
﹃汚辱の部分﹄なら
びに﹁社会主義リアリズム﹂に関する常任地方委員らの考え方を鮫島
に語った。だんだん苦い顔になって聞き終わった鮫島が、つと立って、
本棚から一冊の書物を探し出し、彼自身がいっときざっと目を通して
から、
﹁ここらへんを読んでみなさい。﹂と言って鏡子に渡した。その
浅野晃著﹃明治文学史考﹄
︵萬里閣一九四四年刊︶には、たとえば次ぎ
のような諸文章があった︵それらおのおのの上部に、赤鉛筆の横線が、
引かれてあった︶
。
たしかに ︵森鴎外作﹃ほりのうち﹄の主人公兵卒の言のように︶父
母にも語るべきでない事がらが、戦争にはあるのである。わたし
はただこの一点を以てして、今日の戦争文学の多くのものを批判
することが出来るし、また批判すべきであると考へる。戦争以外
に於て許されるといふのではないが、特に戦争に於ては自然主義
風の写実主義は許されない。
戦争は市民生活の出来事ではない。それは徹頭徹尾国民生活に
於ける国の歴史の出来事である。しかしそれは思へば胸が痛むか
ら秘めおくべきなのであらうか。そもそも何を思うて胸痛むとい
ふのであらうか。われわれはめいめいが国の重さをになふ﹁ます
鴎=偏は區
3
﹁
﹃社会主義リアリズム﹄とは、
﹃一つ、現実をその革命的発展において
捉え、正しく歴史・具体的に描き出すこと、二つ、芸術的描写に際し
天路の奈落 大西巨人
天路の奈落 大西巨人
み たて
も
らを﹂である故に、秘めおくべきことを有つのである。
︵
﹃天心と 鴎外﹄
︶
しこ
﹁醜の御楯﹂たるに二つはないが、いまやわれらは力めて﹁ます
らを﹂の心を振ひ興さねばならぬ。換言すれば決意は歴史の回想
によって支へられねばならぬ。われらの戦争文学は心理の文学で
はなくて使命の文学である。
︵同前︶
鏡子が﹁ここらへん﹂全部を読み終えたとき、鮫島は、
﹁荒木君やら
前山君やら、常任地方委員の面面が言いそうなことだね。﹃自然主義風
の写実主義は許されない﹄とか﹃使命の文学﹄とか。⋮⋮実に彼らは、
ちん ぷ
陳腐な教条主義者だなあ。﹂と慨嘆した。⋮⋮
近い過去のそんな経験をもちらちら回想しながら、鏡子は、暗い重
苦しい情念の高波をうつむいたままで耐えていた。 その彼女の耳に、
明石のもっともらしい口調は、注がれつづけた。
﹁それだけじゃない。 愛甲の虚空蔵での動きに関して、 重大な報告
が、多島県暫定統率部から、最近、地方委員会に上がって来てる。ま
だ発表の段階ではないから、今夜この揚で君にその内容を知らせるの
は控えておくが、 彼は、単純に客観的な裏切り者というだけの存在
じゃないようだね。それを知ったら、君といえども、愛甲の辯護めい
たことは、きっと絶対にしなくなるだろうよ。どう? 守部君。中央
の分派文学者どものこともだが、特に愛甲の問題は、これで君にもだ
いたいはっきりしたのじゃない?﹂
だまっている鏡子に、明石は、一、二分後にもう一度、
﹁守部君。ど
う?﹂とうながした。鏡子は、
﹃落ち着いて。落ち着いて。﹄と彼女自
身を戒めた。
﹁はぁ。⋮⋮同志愛甲の虚空蔵市での行動というのについては、それ
が正式に明らかにされてからでなければ、なんとも私には言いようも
ほの
ありません。それに、
﹃まだ発表の段階ではない﹄ような事柄を仄めか
かげ
して、同志に何か暗い翳を着せかけるのは、まちがってる、と思うの
4
天路の奈落 大西巨人
です。﹂固い表情で、鏡子は、明石を正視した、
﹁文学鑑賞、作品評価
の問題は、私など、いっそうよく勉強して考えねばならないでしょう。
地方委員会常勤時代の愛甲さんの、活動に成果があったかなかったか、
それにはいろいろの見方がいちおうあり得るのでしょうから。あなた
方の意見にも、 もしそれが普通の意味で否定的なだけなのだったら、
ここで特別に私は反対しなくてもいいのです。だけど、﹃愛甲が作った
借金﹄だの﹃尻ぬぐい﹄だのと、そんな非組織的な言い方をなさるの
は、どういうことですか。同志愛甲は、党の︱︱地方委の︱︱決定に
従って、出版セクションを引き継ぎました。その前の時期から、出版
セクションは、相当厖大な借金をかかえ込んで、完全に行き悩んでい
た。そこへ、地方委員会の〝どんな無理をしてでも書籍およびパンフ
つの
レット月七点各三万部出版を確保せよ。〟という強引な決定が下りた
そうそう
ので、就任早早の責任者愛甲は、必死になってそれを実行に移したの
です。﹂
鏡子は、感情が募るのを自覚して、息を入れた。後藤も明石も何か
言いたげであったが、結局彼らが口を開かぬうちに、鏡子が、抗議を
再開した。
﹁当初から同志愛甲は、〝現在の条件の下で、常任地方委員会案の月
ふ
七点二十一万部出版を強行するのは、借金と返本を殖やすだけだから、
点数部数を何割か減らして、相対的には少量の刊行物を確実に売り上
げる方針で行くべきだ。そのほうが、財政的にも教育宣伝的にも、よ
り多くの効果を上げ得るにちがいない。 〟と極力主張していました。
財政部の水曜会の何度目かで、とうとう幸原部長︵幸原勇、倉手銀助財
政部長の前任者︶
ほか誰もが同志愛甲の論理的ならびに資料的な正論に
たて つ
楯突くことができず、〝月七点二十一万部案は、不可として常任地方
委員会へ返上すること。そして、愛甲の意見を財政部案として提出す
ること。〟という結論が、いったん出た。このことは、財政部の議事
録に明記してあるはずです。ところが、その直後に開かれた常任地方
委員会の会議で、財政部の結論および提案は否決され、月七点二十一
万部案の実行が、改めて指令され、強制的に要求された。さらに地方
委員会の月例会議、その定例総会︵三ヵ月に一回以上︶は、常任地方委
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天路の奈落 大西巨人
員会の右決定を確認しました。それで、同志愛甲は、彼個人の考えは
もとのまま不変ながら、決定には服して懸命に奮闘したのです。あな
たたち二人を含む地方委員会全メンバーが、中でも全常任地方委員が、
実は十二分に︱︱私があれこれ説明するまでもなく︱︱こういう経緯
を御承知です。そうですね?﹂
鏡子は、相手二人の顔をこもごも直視して念を押した。明石は、
﹁君
の事態把握には幾つかの問題があるにしても、さしあたりひとまずそ
のとおりだろう。
﹂と未練がましい保留条件を付けつつも、とにかく鏡
子を肯定した。後藤は、不機嫌そうに押しだまっていた︵つまり事実
として異を唱えなかった︶。
﹁自分たちはろくに協力せずにおいて、出版物の点数部数がほんのわ
つる
ずか減りでもしようものなら、責任者愛甲を寄ってたかって吊し上げ
ることにだけは熱を上げてきた人たちが、あとになってから、﹃愛甲が
作った借金﹄なんて個人攻撃をするのは、でたらめですわ。出版セク
ションの負債は、その八十五パーセントが愛甲着任以前の期間に出来
た物で、その十五パーセントが愛甲着任以後に出来た物じゃありませ
んか。それなのに、地方党内の大ぜいが、その借金のほとんど全部を
愛甲責任者時代の産物と思い込んでいます︱︱言い換えると、思い込
まされています。北鏡︵鏡山県北部︶地区の同志たちの話では、前山さ
んなんか、先月あちらをおまわりになった際にも、行く先先で、
﹃月七
点二十一万部出版その他は、 トロツキスト愛甲の極左冒険方針だっ
た。
﹄と言明なさったとのこと。実情をよく知らぬ下部は、そんな嘘っ
八を吹き込まれてるんです。
﹁そうかと思うと、たとえばそのおなじ前山さんが、〝愛甲は、就任
早早から、点数部数を減らそう減らそうの一点張りで、出版活動の萎
縮衰退を意図して工作しつづけた。〟というような︱︱先の言明とは
まるで裏腹の︱︱非難もたびたびやってる。ほかにも、あちらこちら
で、頻繁に、 その手この手の愛甲攻撃が言い触らされてきてるのを、
私は、 知っています。 事柄の組織的取り扱いとして、 こんなことは、
不正不当です。まして﹃適当に誤魔化した﹄などは、私として、どう
しても納得することができません。だから、後藤さんにおたずねした
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天路の奈落 大西巨人
のです。末梢的な問題でしょうか、これが。私は︱︱﹂
鏡子が言い尽くすのを待たないで、後藤が、﹁納得することができな
きゃ、 どう︱︱。
﹂ と荒荒しい声で浴びせかけ、 それと同時に、 明石
も、
﹁揚げ足取りだよ、いまの君の︱︱。
﹂と息巻き、言葉と言葉とが
衝突して、双方が絶句した。短い奇妙な間ののち、明石が、平常の口
ぶりにもどって続けた。
﹁それじゃ、人の言葉尻を捕えるっていうもんだよ。鏡ちゃんが出版
セクション財政をどうこうしたなんて、誰も言ってやしない。後藤さ
んは、愛甲についてさえ、そうと断定したわけじゃなく、
﹃らしい﹄っ
て言っただけだろう? それに、君は彼との共同責任を強調してるけ
れど、君だってあのころの愛甲に昼も夜も付きっ切りでいたのじゃな
し、君の知らない個人的時間が、必ず愛甲にあったはずさ。なにも君
が、そっくり連帯責任を引き受けたがることはない、⋮⋮というより
も、それは行き過ぎだ、と僕は思うね。のみならず君は、組織の決定
の欠陥だけを見て、その欠陥が愛甲のやり方の個人的特殊性によって
拡大再生産された事実を見ようとしない。別の言葉で表現すれば、君
は、愛甲の辯護に熱中して、個人責任を集団に転嫁しようとしてるわ
けなんだ。なるほど、われわれは、地方委員会は、毎月七点各三万部
刊行策を決定して、その実行を要求したよ。だが、その具体化は、愛
甲の責任において行なわれた。 それで彼のやり方の個人的特殊性が、
借金の山、返本の山を築き上げた。現在までも、それが、われわれを
︱︱党財政を︱︱苦しめている、というのに、〝愛甲に全然責任はな
い。〟と君は言うの? わがボルシェヴィキの党に、そういう無責任
な話は、成り立たたいね。
﹁しかし、何より重要なのは、そんな過去の個個の事実の是非じゃな
く、現在だ。現在の愛甲が虚空蔵市で極左的な反帝行動に没頭してい
る事実、現在の彼が分派イデオロギー作品を公表している事実、彼が
中央分派文学者連中の仲間である事実、そこが重要なんだ。強盗殺人
どろ
の罪状明白な犯人の過去のこそ泥嫌疑の白か黒かの詮議立てをしたっ
て、始まらないさ。君が向きになるのは、バカげてる。⋮⋮もちろん
後藤さんにしろ僕にしろ、いまのところ、ここでのような愛甲批判を
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誰彼の見境なしにさらけ出すようなことはしない。同志の断罪は、く
れぐれも慎重に扱われなくちゃいけない。長年協力して地方委員会を
守ってきた君にだからこそ、立ち入った話もしたわけだ。その君から
問を感じる。﹂苦り切った角顔を、後藤は、正面に返していた、
﹁君は、
君のしゃべっとることの意味が自分でわかっとるのかい。中央の分派
文学者どもや愛甲が裏切り者だってのは、党の決定なんだよ。議論の
余地などありはしない。同志前山による二とおりの愛甲批判、そのど
こが裏腹かね。どこに矛盾があるかね。要するに、愛甲の目的は、党
の財政活動なり出版事業なりを破壊することだったんだ。だから、愛
甲は、まず点数部数削減案を出して、うまく行けば合法的に出版活動
をじり貧からストップに持ち込もうとたくらんだが、その案を否決さ
やつ
れたもんで、お次ぎは冒険策に切り替え、月七点二十一万部の指令を
とっこに取って逆用して、 ろくでもない企画物ばかりを次ぎ次ぎに
こしら
︱︱われわれに隠して、だね、︱︱拵えるというような独裁的・条件
無視的極左主義で彼の目的を達しようとしたんじゃないか。
﹁奴め、それまでは適当な報告だけを上げておいて、それでもだんだ
んボロを出してきて、いざ解任のまぎわになったら、
﹃藪から棒﹄に借
金と返本の正確な数字を突きつけて、〝この借金をどうしてくれる?
〟と︱︱あろうことか、
債権者代表みたいな顔つきで︱︱開き直って、
その片一方じゃ、〝もうこうなったら、対内的にも対外的にもお手上
げのほかはないから、出版事業の全面停止が考慮されるべきだ。〟な
ぺ
どと奴めの本性剥き出しの﹃イタチの最後っ屁﹄のような案を主張し
やがった。その初めて知らされた莫大な数字には、さすがのわれわれ
も、ぎょっとしたね。十万円ないし三十万円の不渡り手形が八、九枚
も出とるわ、口座の従来は別別の銀行に四つあったうちの三つは取り
引き停止にされとるわ、シンパなどからの無鉄砲な借金が何口も出来
とるわ、で出版財政は、まるで虫の息になっとったじゃないか。﹂
やはり先刻の場合とおなじく﹁酒乱癖のある人間の発作時のそれら
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﹃何を証拠に﹄とか﹃仄めかして﹄とか、揚げ足取りで食ってかかられ
たんじゃ、話にならないよ。僕も、少少愉快でないね。﹂
﹁少少どころか、不愉快極まる。僕は、今晩の君の態度に根本的な疑
天路の奈落 大西巨人
のように﹂両眼のすわった後藤が、
﹁どうだ? そのとおりだろう?﹂
と言わんばかりの間をしばし置いた。 やはり先刻の場合とおなじく
権者の連中をけしかけて、 われわれを苦しめた、 ということだって、
ちゃんとわかっとる。彼が解任される前後から急にあちこちの債権者
たちがわぁわぁやかましく催促し始めたのは、その証拠だ。現に単独
で債権者たちと密談した事実も、十数回に亙って目撃されとる。それ
も、出版セクション責任者を首にされたのちにもだよ。止めさせられ
た人間が債権者たちとわざわざ会談したりするとは、その浅ましい魂
す
胆が、いかにも見え透いとるんだ。そこに、また、愛甲の個人生活に
関する疑問もある。君もよく知っとるように、愛甲の月給︱︱党から
出とった給料︱︱は、わずか三千円だったろう? ところが奴は、西
部公園附近の立派な邸宅の離れ六畳の間借りをして、なんだか楽楽と
み なり
暮らしとったな。季節ごとの身形も別に悪くなく、栄養も上上という
感じだったんだが、⋮⋮愛甲は、たとえば半分親がかりの君や明石君
とは違って、住居から何からまるまる一本立ちなんだから、食うや食
しよ
ちゆう
わずの栄養失調でボロを下げてまわっても不思議じゃない。その地方
から く
委常勤者なんかに、どういう内密の絡繰りがあれば、あの程度の生活
が可能なのか、君は考えたことはなかったかね。こりゃ、なかなか興
しんしん
味津津の問題だろうじゃないか。
﹁⋮⋮鮫島が、また鮫島で、初っ中この愛甲の相談相手になって、悪
智慧ばかり付けとった。⋮⋮うむ、われわれにも、この件で、自己批
判するべき点が一つもないというのじゃない。経験も業績もない愛甲
ごとき青二才に、重要な出版セクションの責任者をやらせたのは、た
しか地方委員会の失策だったろう。しかし初めに愛甲をさかんに推薦
してきたのは、鮫島だったんだよ。そのせいで愛甲に決まったような
もんだ。要するに愛甲を就任させた責任は、主として鮫島にある。見
たまえ、鮫島、愛甲、二人揃って遊撃文学会の会員じゃないか。︱︱
鮫島、⋮⋮愛甲、⋮⋮遊撃文学会、⋮⋮そうだ、決定だ、党の決定だ。
9
﹁恐ろしく奇怪な気分﹂ないし﹁なんとも無気昧な肌寒さ﹂に取り籠め
られた鏡子が、いっそ茫然として物を言わなかった。
﹁︱︱その上、そのころから愛甲が、裏面では印刷屋、紙屋、個人債
天路の奈落 大西巨人
天路の奈落 大西巨人
さっきから君は、党の決定をしきりにとやかく言っとるが、どういう
つもりなんだい? 文学問題については改めて勉強して考える、なん
て、そんな横着な話があるものか。
﹂
ここで後藤は、先ほど明石が数え立てた﹁党員文学者︵遊撃文学会
員︶
﹂四、五人の名前をいちいち口に出した。廊下をへだてた裏手の宴
会は、
﹁お開き﹂になったとみえ、もはや歌声も談笑の声も、そこから
出ては来なかった。
﹁︱︱彼らの仕事がプティ・ブル分派文学だというのは、すでに党で
決定済みだよ。理論的にも実践的にも取り立てて言うほどの何も持た
ない君なんかが、党の決定事項を、どう﹃改めて考える﹄というのか
ね。それが、わが党の民主集中制に反するブルジョア自由主義だ。⋮⋮
分派文学者連中の実践を見たまえ。彼らの実生活を見たまえ。いつも
書斎に閉じ寵もって文壇的小ブル小説を書いとるか、たまに講演の一
つも引き受けりゃ、必ず自動車で送り迎えをさせるか、するような奴。
それから、その住まいの近くの酒屋に行ってみりゃ、毎日のように酒
や罐詰めを飲んだり食ったりしとる事実が、 すぐにわかるような奴。
こりゃ、その男の所属居住細胞が調べた結果なんだそうだが、⋮⋮す
べてこれらのデータは、 彼らの小ブル的 ・分派的本質を明らかに物
語っとるじゃないか。われわれは、そこまで慎重に調査した上で、批
判しとるんだ。今夜のような態度が君の本心から出たということにな
ると、われわれとして見過ごしておくわけには行かない。こりゃ、統
制問題だ。君の政治的生命にもかかわることだよ。︱︱明石君。多少
おかしいとは、かねて思っとったが、これほどとは僕も想像しなかっ
た。よほど断乎たる処置が、必要のようだね。⋮⋮だが、君、とにか
く天丼を食おう。うん、その前に、僕は、便所に行って来る。下 ︵一
階︶だったね、ここのは。
﹂
⋮⋮後藤が具体的に非難した二人のうちの一人の作家は、この年ご
ろ健康を害している。そうでなくても、人人が︱︱一国の著名な作家
たちが︱︱ある日あるとき自動車を利用したり酒とか罐詰めとかを飲
食したりするのに、なんの不都合・不条理があろうか。
﹁われわれは、
そこまで慎重に調査した上で﹂
、﹁君の政治的生命にもかかわる﹂、︱︱
10
天路の奈落 大西巨人
言わせておけば、言いたい放題に、恥知らずな。それは、共産主義的
でない。それにしても、いろいろな言い方もあろうに、
﹁君の政治的生
命﹂とは! ⋮⋮
﹃この﹁富山県知事﹂め。
﹄と鏡子は、腹の中で後藤をののしり軽蔑
び まん
した。昨年の初夏から初秋まで党内に瀰漫した道化芝居的状況を、後
藤の﹁君の政治的生命にもかかわる﹂という愚劣な言いぐさが、鏡子
に想起せしめたのである。昨年新春の衆議院議員総選挙で、人民党は、
従前の約百万票・五議席から約三百万票・三十六議席へと僥倖的にも
躍進した。昨年晩春ごろから、占領支配下の民主人民政権樹立が、党
中央によって呼号せられ、やがて、
﹁仲秋革命﹂説、
﹁仲秋人民政府実
現﹂説が、党内にずいぶん普遍的に流行した。そのころ西海地方委員
会事務所で、常任地方委員たちが、半は冗談めかしながら、その実か
なり真剣に取り交わした会話︵雑談︶の一例は、左のごとくであった。
︱︱この秋に人民政府が出来たら、得能委員長が、首相だね?
︱︱それはどうかな。わが党の場合、実力者は、ナンバー・ワ
ンは、必ずしも首相になるわけじゃない。偉大なる同志スターリ
ンのある時期を見たまえ。
︱︱うむ。それもある。じゃ、とりあえず首相は、ナンバー・
ツーの山岸政治局員あたりか。
︱︱まぁ、そのへんだろう。もっとも、同志山岸がナンバー・
ツーかどうかは、別の問題としてだが。
︱︱ちょっと。御両所の意見にも一理あるが、やっぱり首相は
委員長じゃないか、と僕は思う。
︱︱僕も、 それに賛成だ。 ⋮⋮とにかく、 中央委員クラスは、
ほとんど全員が入閣するだろう。
︱︱杉坂議長なんかは、どういうことになるのかな。
︱︱入閣は無理だ。いいとこ、京都府知事か。⋮⋮各地方の常
任地方委員大多数には、県知事のポストが、用意されとるはずだ
よ。
︱︱そういうことだ。
11
︱︱しかし、西海地方委の常任地方委員じゃ、主要な大きい県
の知事にはなられないかもしれんよ。たとえば後藤君は、さしず
め富山県知事くらいに持って行かれるぞ。
︱︱うぅむ。富山県知事か。
︱︱だけど、富山県知事も、悪くないぜ。明石君なぞは、まだ
年も若いから、どこかの総務部長というところじゃないか。
この種のやり取りが、その時分しきりに行なわれ、杉坂、前山、倉
手、後藤、荒木ほか各常任地方委員は、だいぷんその気になっている
らしかった。鏡子は︵愛甲も︶
、彼らのそんな会話を何度も苦苦しくも
笑止千万にも聞き取ったのであった。
﹁うぅむ。富山県知事か。
﹂と後
そこな
イメージ
藤が、やや不満そうに、それでまたまんざらでもなさそうに、つぶや
いたのを、鏡子は、心に留めていた。その彼が今夜この席で﹁政治的
とつぴようし
生命﹂などという︵鏡子にとっては突拍子もない︶言葉を用いたのも、
が言ったか。明石の悪がしこい詭辯。後藤の﹁組織の権威﹂を笠に着
た恐喝。 この二人の党常任地方委員は、 共産主義者なのであろうか。
⋮⋮
鏡子の頭は、目前の二人にたいする腹立ちとさげすみとで沸騰しつ
つある。そして同時に、その熱気の中を、一線のつめたい恐怖が、貫
いて走っている。
12
﹁富山県知事﹂の成り損いという像 には、なるほどふさわしかった。
⋮⋮この﹁富山県知事﹂め。愛甲に﹁全然﹂責任はない、なんて誰
天路の奈落 大西巨人
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