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五 ⋮⋮その恐怖は、 何から、 どこから、 生まれ出て来ているか
五 ⋮⋮その恐怖は、何から、どこから、生まれ出て来ているか。︱︱ ふたごころ 後藤たちの舌先によって、一人の同志の真剣努力、二心のない行動が、 計画的な反党活動に手もなく仕立て上げられてゆく、 その手続きの によって作り上げられた一定の﹁事実﹂すなわち誹謗中傷が、ここの ︱︱主として党内の、従として党外の︱︱現実に力強く作用して人人 を広く支配する︵そのような﹁事実﹂を解きほぐして本来の実相を明 るみに出すのは、とてもむずかしい︶、という実情に関する彼女の経験 的な知識から。⋮⋮恐怖の三つの淵源のうち、後一者のごときが世間 一般における普遍的な事象であるにしても、前二者のごときは、前衛 党における特殊的または特徴的な事象ではないのか。 ⋮⋮実際、少なからざる︵主に党内の︶人人が、地方委員会︵財政 部出版セクション︶からの愛甲解任前後から、彼に関するそういう︵後 デ マ と り こ 藤たちの言説的な︶見方、そんな流言の俘虜に、多かれ少なかれ、なっ てきたのである。しかも、未払い生産費と返本とのかなりな存在も、た しかに事実であって、また十万円ないし三十万円の手形︵ ﹁八、九枚﹂ ではなく︶三枚の不渡りも、党外シンパなどからの︵ ﹁無鉄砲な﹂では なく︶苦しい借金も、銀行口座の︵ ﹁従来は別別の銀行に四つあったう ちの三つは﹂ではなく︶従来は別別の銀行に二つあったうちの一つの 取り引き停止も、出版財政の﹁虫の息﹂も、出版事業全面停止の︵愛 甲個人案としての﹁主張﹂ではなく︶財政部水曜会案としての提出も、 たしかに事実であった。ただし、それらの事実は、今先の後藤的な言 いぐさを少しでも正当化するような意味合いを持ってはいなかった。 それは、当時の条件の制約からして、ほとんどまったく不可抗力的に 1 ﹁みごとさ﹂から。⋮⋮その手続きを実行する時間の後藤たちの上に、 悪性のでっち上げ意識よりも、むしろ階級敵への﹁真率な﹂憎悪およ び憤怒が認められる、というような鼻先の現象、そんな彼らの精神構 造について鏡子が見出している不思議な謎から。⋮⋮その種の手続き 天路の奈落 大西巨人 天路の奈落 大西巨人 そんなふうになったのである。 ⋮⋮また後藤は、下のような実情を、意識的にか無意識的にか、まっ は たん たく度外視していた。︱︱主として出版財政の破綻は、太陽書籍販売 会社︵西海地方委員会傘下︶経由の販売政策が失敗したことの結果で あった。販売活動上のその覆いがたい失敗は、昨一九四九年初冬の日 本人民党第四回西海地方党会議﹁財政報告﹂においても、 ﹁書籍および パンフレット販売については、太陽書販の運用のあやまりのため、多 きわ 額の滞納ならびに多量の滞貨が生じ、その清算整理は困難を極め、そ れは地方党活動にたいする重大な抑圧障碍として働いている。 ﹂とさす がに明瞭に指摘せられた。⋮⋮もちろん販売関係は、愛甲の︵直接的 な︶管掌ないし責任ではなかった。彼は、販売政策に関する適切な反 対、批判もしくは是正の意見を一再ならず常任地方委員会に提出した のであったが、それらのたいがい全部が否定せられるか無視せられる かしたのであった。 ⋮⋮愛甲は、 難局の打開に全力をかたむけながら、 それとともに、 組織的な事前の協議・事後の報告を、形式的にも実質的にも、総じて い ろう 遺漏なく実行した。負債にせよ返本にせよ不渡り手形にせよ取り引き 停止にせよ、そのような顕著な出来事を、常任地方委員たちが、殊に 杉坂議長や倉手財政部長やが、 とにかく知らずにいられたはずはな かった。それどころか、たびたび愛甲は、彼個人の反対意見にもかか わらず、杉坂、倉手、前山、後藤、荒木、明石ら︵常任︶地方委員会 の絶対多数による決定に従って事を処理し、そのためにも多くの好ま しからざる結果に直面せねばならなかった。なにせ愛甲責任者時代の 出版セクションは、すべて相対的には最も組織的に運営せられた︵と 鏡子に信ぜられる︶のである。 そういう経緯を身をもって熟知している鏡子の耳に、﹁ ﹃藪から棒﹄ に借金と返本の正確な数字を突きつけて﹂ 、 ﹁その初めて知らされた莫 大な数字には﹂ 、 ﹁ろくでもない企画物ばかりを次ぎ次ぎに︱︱われわ れに隠して、だね、︱︱拵えるというような独裁的・条件無視的極左 主義﹂、 ﹁奴めの本性剥き出しの﹃イタチの最後っ屁﹄のような案を主 張﹂などという言いぐさが非人間的・犯罪的・鉄面皮的にひびく。と 2 天路の奈落 大西巨人 はいえ、そこからは、まだ必ずしも﹁一線のつめたい恐怖﹂が、彼女 に押し寄せては来ない。 ⋮⋮あれこれの理由から目的意識的に嘘を吐いたり偽証を設けて他 人をおとしいれようとたくらんだりする人間も、むろん世の中には少 なからずいるにちがいない。人民党内にも、事実として、そんな人間 が、かなりいるであろう。だが、その類の嘘または偽証としてではな く、現存の﹁悪﹂なり﹁醜﹂なりにたいする真剣な攻撃として︱︱そ のような意識ないし主観に立って︱︱たぶん後藤たちが︵その実は言 ごと 語道断の嘘いつわり、論外の作り言を︶言い立てている、としか彼女 に思われないような、とても胡散臭くて不可解な状況が、初めて鏡子 の恐怖を呼び起こす。その彼らの精神の奇怪な迷宮が、ようやく彼女 おび を怯えさせる。 ⋮⋮﹃それは、果たしてそうなのだろうか。それとも、私の思い過 ごし? ︱︱愛甲さんや鮫島さんにたいする度はずれのめちゃくちゃ な非難攻撃内容を、この人たちは、正真正銘の本気で信じ込んでいる のであり、意識的・戦術的に虚構をならべ立てているのではない、と いうような気が、なおやはり私にはする。そして、もしもそれがその とおりであったならば、そんな事態は、世間一般にもあるにはあって きわ だ も、別して前衛党員の場合にひどく際立っていはしまいか。 ﹄ ⋮⋮愛甲が、出版セクション責任者を解任せられてのちに、債権者 たちと何度か会って︵ ﹁密談﹂ではなく︶相談したのも、隠れもない事 実であった、それは、前責任者としての残務整理・事務申し送りに必 要な仕事であったから、彼は、公然とそうしたに過ぎない。むろんそ れらの機会に、愛甲は、債権者側の︵その時期、一つの頂点に達して いた︶圧力から党を︱︱地方委員会を︱︱庇うべく最後の努力をした し ごく あし のであった︵地方委員会メンバーの大多数は、至極不当にも愛甲を足 げ 蹴にしていたけれども︶ 。そのほとんどすべてを、鏡子は、彼女自身の 目で見て知っている。 ⋮⋮経済的現実を現実主義的に理解することができなくて空論の出 とくとく 版財政方針を得得としゃべり立てたり、﹁人民革命のため献身的に邁進 なにごと するわが党にたいして、 借金の支払いをうるさく迫るとは、 何事か。 3 そんな非友好的な態度を取ることは、取りも直さず革命を妨害するこ い たけだか とだ。﹂と居丈高に構えたり、する党委員たち。︱︱そんな彼らに反対 であった愛甲は、あるいは商取り引き上の債権者がいきり立つのをう なだ まく宥めるべき臨機の便法にも、﹁きびしい催促は無理もないことで す。今後も遠慮なく請求して下さい、そちらには取る権利があり、こ ちらには払う義務があるのですから。あなたの所が、長らくの聞、好 意的に協力もし辛抱もして来られたことに、僕らは、大いに感謝して います。それが、揚げ句の果てにこのざまでは、気を悪くなさるのも、 もっともです。 ﹂というような挨拶をも用いていた。 ⋮⋮たとえばそれでもが、後藤の﹁裏面では⋮⋮債権者の連中をけ しかけて﹂という口舌に、まずはせめて﹁客観的には﹂該当するので あろうか、それにしても、 ﹁愛甲の個人生活に関する疑問﹂、 ﹁なんだか 楽楽と暮らしとった﹂ 、 ﹁愛甲は⋮⋮食うや食わずの栄養失調でボロを 下げてまわっても不思議じゃない。その︵月給わずか三千円の︶地方 委常勤者なんかに、どういう内密の絡繰りがあれば、あの程度の生活 ウルトラ が⋮⋮﹂というような限外非人間的な論難にたいしては、鏡子の意識 も、ひとえにかっかと燃え上がるのみであり、それへの反論を具体的 に感覚または思案するゆとりが、とりあえず彼女にないのである︵か ろうじてせわしなく彼女の意識を、愛甲の﹁ ﹃貧乏なこと﹄は仕方がな いけれども、 ﹃貧乏ったらしいこと﹄はいやだ。 ﹂という警句︹?︺が、 横切るのである︶ 。 ⋮⋮そもそも愛甲ないし任意の同志何某は、入党前から反共反革命 の意図︵陰謀︶を抱いて計画的に党に接近し、入党後は常にその意図 ︵陰謀︶の達成を目指して行動しつづけた、︱︱そんなふうに愛甲ない し任意の同志何某の閲歴を一括︵偽造︶することも、後藤たちのよう な人民党員にとっては﹁朝めし前﹂の﹁お茶の子﹂ではないのか。そ ういえば、日本でも外国でも、マルクス・レーニン主義政党がその党 たはそれ以前から被処分時現在までの全期間について、故意犯的反党 4 員を除名・追放した場合、その被処分者が多年の︵それまでは抜群に 優秀かつ名誉と党によって公認せられた︶ 党歴の持ち主であっても ︵あるいは、そうであればあるほど︶ 、彼ないし彼女の党活動開始時ま 天路の奈落 大西巨人 ヽ ヽ ヽ 反人民策動︵しばしば帝国主義勢力との直接的通謀︶が、告発せられ ニユアンス 断罪せられた、︱︱そのような︵いかがわしい色合いの︶歴史的・今 日的事例が、少なくない。いったいあれは、どういうことなのであろ うか。 ⋮⋮遅かれ早かれこういう破目におちいるのではないか、という曖 昧な予感は、ともあれ彼女にあったが、とうとう鏡子は、後藤たちと ⋮⋮今春以降、多くの同志たちが、おなじような理由・似たような 経過で、党から︱︱暫定中央統率部から︱︱切り離されている。恥じ るべく排外民族主義的な﹁政治局所懐﹂ ︵ ﹁国際批判﹂への不当な反抗︶ に賛成しなかった同志たち、得能委員長起草の﹁綱領草案﹂に批判的 意見を表明した同志たち、得能、山岸十蔵、三笠大五、因東克、北沼 龍次ら俗称﹁所懐派﹂多数中央委員の﹁地下潜入﹂と不都合な暫定中 央統率部の出現とにたいする疑惑を隠さなかった同志たち、︱︱それ らの同志たちは、暫定中央統率部の手によって一方的に排除せられて きた。さらにそんなそれこそ分派的な︵かつ官僚的な︶やり方を承服 することができなかった同志たちも、順順に党を追われつつある。そ のような運命は、同志鮫島、同志愛甲にも及ぼうとしている。おそら くはやがてまた彼女自身にも。⋮⋮もはやそれも已むを得ない、とい まの時間の鏡子は、思い定めてもいた。 あ ⋮⋮同時に鏡子は、 ﹃しかし、党は、飽くまで党なのだ。よし党が重 大な偏向・誤謬におちいっていたとしても、そこからの追放は、共産 ゆ ゆ 主義者にとって、よほど由由しい事故なんだから。何事にも党員がみ ずから除名を予定してかかるなどということは、決してあるべきでな だい じ い。大事を取らねば、⋮⋮。﹄と自省しもした。 ︱︱後藤の足音が階段を下りて消えると、明石は、食卓の上に上体 を乗り出し、鏡子の顔をのぞき込んだ。 5 正面衝突をしてしまった。これで自分の党生活もいよいよ新しい局面 に突入することにもなるのであろう、と彼女は感じた。彼女が彼らの ︵反マルクス主義的・反共産主義的な︶言行に屈伏しないで、この対立 を突き詰めてゆくならば、党の現状では、彼女にたいする﹁活動制限 ︵停止︶ ﹂または﹁除名﹂の処分は必至であるにちがいなかろう。 天路の奈落 大西巨人 ﹁弱ったなぁ、まずいよ、鏡ちゃん。どうしたの? 今夜は。︱︱い や、最近、僕たちの問で、鏡ちゃんのことが問題になってね。守部は、 変だ、分派の影暮を受けてるのじゃないか、と言い出す人たちがいた りして、ちょっとややこしかったんだ。鏡ちゃんに限って、そんなこ とはない、大丈夫だ、って僕は一人で頑張ったがねぇ。それに、君は、 事務所で﹃議長逮捕﹄の新聞記事を読みながら、 ﹃あぁ、やっばりそう だったのか。﹄とかなんとか、妙なひとりごとをつぶやいたらしいね。 とが 前山が、それを聞き咎めていたのだな。それやこれやで、君を正式に 査問するという意見も数人から出されたが、僕は、極力反対して、そ れは取り止めにした。その代わりに、念のため、後藤、明石の二人で、 非公式に君の注意をうながし、かたがた君の現在の思想をそれとなく 点検する、という取り決めが出来て、今夜の会食さ。ところが、その 鏡ちゃんが、あんなふうでしょう? あれじゃ、後藤が怒って﹃統制 問題﹄云云を持ち出すのももっともだし、⋮⋮僕の立場もおかしな物 になる。そりゃ、僕個人は、それでも、君を理解もしてるし信用もし てるしだから、いいよ。君が分派だ、なんて、思いもしない。しかし、 僕は別として、ほかの誰だって、今晩の君のような物の言い方・考え 方を問いたら、君を深く疑うにきまってる。 ﹁﹃中華人民新報﹄の﹃万国派﹄批判もあんなふうに明確に打ち出さ れた今日、分派に走るのはもちろん、分派的あるいは中道的あるいは 6 反幹部的と見られるだけでも、将来にかけて致命的に不利益だからね。 党では、いったん分派主義者または反幹部者のレッテルを貼られたが 最後、あとでいくら自己批判しようが献身的に活動しようが、もう駄 うだつ 目だ。その人間は、一生、党的には□が上がらない、万一ある程度の のぼ 地位に昇っても、いつかは必ず失脚させられる。彼らは、党内に留ま ることができたとしても、どんなに功績を立てたところで、革命成功 □=木偏に兌 後には、まちがいなく粛清されることになる。ソ同盟共産党の反対派 の末路は、この際、教訓的だよ、分派になったり、分派に同情的であっ たり、決してするものじゃない。 ﹁⋮⋮これはここだけの話だけど、︱︱非合法活動を逃げて勝手に合法 面に残った近江、廟原、阿蘇、神島なんかが分派教条主義にしがみつ 天路の奈落 大西巨人 い と いて好い気になってる間に、潜行幹部の幾人かは、疾っくに日本を脱 出して、ソ同盟、中共とじかに連絡してるからね。 ﹃万国派﹄分派は、 手も足も出るわけがない。われわれを全面的に支持して彼らを終局的 にぶちのめすような第二﹁国際批判﹂が、もう遠からず出ることになっ ている様子なんだ、だからさ、君も、地方委員会で四年間も熱心にやっ らくいん てきて、ずいぶん認められてもいるのに、いまになって妙な烙印を押 されたり、悪くすると除名になんぞなったり、したんじゃ、ほんとう に引き合わない話だろう? ⋮⋮いや、むろん、 ﹃引き合わない話﹄っ てのは、僕は、なにも世俗的な出世主義的な意味で言ってるのじゃな いよ。共産党員としての生き方における正しい損得から見て、そうな んだからねぇ。 ﹂ 裏手の部屋は、ひきつづきしんとしていた、 ﹃あぁ、これはなんとい ふさ うことか。 ﹄と鏡子は、心の中で慨嘆し、何度も耳を塞ぎたくなった。 ⋮⋮明石のまことしやかに勿体ぶった︵おためごかしみたいな︶長談 イ デ オ ロ ー グ 議。実質上それは、反共思想理論家や脱落分子やの極まり文句ではな いのか。 ﹁血で血を洗う権力争奪の派閥闘争﹂ 、 ﹁スターリン一派は、ト ロツキー一派を打倒して、全党を制圧﹂、 ﹁ ﹃勝てば官軍﹄の党内闘争﹂、 ﹁日本人民党は、ソ同盟︵または中共︶の手先﹂ 、︱︱その種の︵反動 は 主義者の口の端に最も多く掛かってきた︶マルクス・レーニン主義政 党攻撃内容を、党常任地方委員の明石が、そっくりそのまま裏付けて みせているようではないか。 ⋮⋮のみならず、後藤も明石も、 ﹁隣国友党の最近の﹃論説﹄が﹃万 省に断定するけれども、あの﹃今日こそ日本人民は団結して敵に対抗 するべきである﹄という﹁社説﹂の趣旨は、そんな一方的・利己主義 的な概括を承認するはずがなく、また明石たち﹁本流派﹂の反マルク ス主義的なやり口を称賛するはずもない。あれは、たとえば〝党の指 導機関は、︵1︶思想上の問題をただちに性急簡単な組織上の方法で処 理してはならない、 ︵2︶誠実な︵しかし異見もしくは謬見を持つ︶党 員と不誠実な︵確実な証拠によって摘発せられ紛う方なくスパイ分子 7 国派﹄の全国統合連盟を痛烈に批判した﹂とか、 ﹁ ﹃中華人民新報﹄の ﹃万国派﹄批判もあんなふうに明確に打ち出された﹂とか、てんで無反 天路の奈落 大西巨人 天路の奈落 大西巨人 と断ぜられた︶党員とを混同してはならない、ということ〟を特別に 強調してもいるのである。その明白な事実をも、この人たちの一派は、 一顧だにしようとしていない、そして、 ﹁第二﹃国際批判﹄﹂云云の卑 俗な﹁他力本願﹂主義! そのくせ、この人たちの一派は、 ︵ ﹁日本人 民大衆﹂の名を借りて︶ 、 あるべき国際的連帯性を軽視し、 あるべか らざる排外民族主義を重視する。 ⋮⋮あれもこれものすべてについて、 やはりたしかに何かがある。 たしかに何か根本的なまちがいが。﹁麻薬事件﹂にも、たしかにそれ がある。 階段を昇る︵後藤の︶足音が、鏡子に聞こえてきた。明石は、早口 のささやきに転じた。 ﹁いずれ近いうちに、もう一度、君と二人きりでとっくり話し合お うと思っているが、とにかく今夜は僕に任せて、このあとは僕の言う とおりにしておくんだよ。いいね。 ﹂ それから明石は、上体をうしろに引き、 ﹁ピース﹂に火を付けた、開 ふすま けた襖障子をうしろ手に閉めた後藤が、﹁やぁ、まだ食っとらなかっ たの? 食おう。食いながら結論を出そうじゃないか。 ﹂ と言って座 に着いて、天丼を手に取ったが、夜の猫のそれを鏡子に連想させたよ うないやな目つきで彼女をじろりと見た。 ︹註︺ ︵1︶ ﹁第一﹂の﹁二﹂において、作者が作中人物愛甲不可止作﹃霧﹄ および﹃人に﹄として掲げた二篇は、それぞれアメリカ詩人カール・ ” ” サンドバーグ︵ ︹一八七八∼一九六七︺ ︶作 ︵﹃霧﹄︶ Carl Sandberg “ Fog およびアメリカ詩人ヴェイチェル・リンジー︵ Vachel Lindsay ︹一八 七九∼一九三一︺ ︶作 To a Golden-Haired Girl in a Louisiana “ こ がねかみ ︵﹃ルイジアナ州のある町に住む黄金髪の乙女に﹄︶の拙訳である。作 Town 者は、右の借用事実を明記し断わって、左に各原詩を写す。 8 天路の奈落 大西巨人 FOG The fog comes on little cat feet. It sits looking TO A GOLDEN-HAIRED GIRL IN A LOUISIANA TOWN over harbor and city on silent haunches and then moves on. You are a sunrise, If a star should rise instead of the sun. You are a moonrise, If a star should come in place of the moon. You are the Spring, If a face should bloom instead of an apple-bough. You are my love, If your heart is as kind As your young eyes now. ︵2︶引用に際して、作者は、原典のかな遣いに従ったが、原典が旧か な遣いの場合にも、促音ならびに拗音に関する﹁字を小さくする書き 表わし方﹂は、これを︵従前の我流どおりに︶採用した。 ﹁第二﹂以下 においても、同断。 9