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運命という ものは誠に不思議なものだ。

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運命という ものは誠に不思議なものだ。
)
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二胡情縁 (
一一二胡少年の 夢一一
越寒陽著/朱新建・陳恵明訳
第五楽章二胡を習 う
運命というものは誠に 不思議なものだ。人生 の道のりに刻まれた一 歩一歩は恰も偶然なも の
に見 えるのだが、もし 一歩でも踏み外れると 、来たるべき道は全く 違うものになってしま うも
のだ。私はいつもある神秘的な力に導カ亙れて、 一歩一歩と敷かれた 道を歩んでいるように 思
う。 これはいわゆる運命かも知れない 。
父は音楽愛好者で、ア コーデオン、ハーモニ カの演奏などができる 。 その上、結構うまいバ
リトンでもある 。父のしつけ方は賞罰 分明だ。約束したら必 ず約束を果たす。 もしドジを踏ん
だら罰を与える 。容赦しないので、幼 い頃から父が怖かった 。何かあったときに、 父の怒った
目を見ると、もう息を呑んで大人しくなるしかない 。 これは今でも変わっていない 。
父と祖母は幼い頃から 私に漢字や数字を教え てくれたが、中国語の ピンインは幼稚園で先 生
から教わった 。当時の幼稚園は遊ぶのが主だった 。 中国語のピンインは 1年間の勉強になって
いた 。父はせっかちな人で、どんな事でも一気にやってしまう タイフなので、数十個だけの字
母は 1年聞かけて勉強するな んてとても待てない 。すると私にこう 言 った。
5個の韻母を暗記できた らハーモニカを買って
1個の声母と 3
「もし、おまえが一週間の内に 2
やるぞ」
0銭で、家族 8日間の食費に相当する 。
父は真剣だった 。 当時、ハーモニカの値 段は 2円 5
私にとって大きなご褒美だ。
「うーん、わかった!J
ちょっとためらったけど、がんばればできると思った 。
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愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第 57巻第 3号
それから毎日幼稚園から帰ると 、父が写し てくれた中 国語の声母 と韻母表を手にして朗読し
たり暗記したりして
また石板の上に書いたりして練習した。がんばった甲斐あって、 5日目
に父の前で 声母と韻母 表を書いて みた。その 結果、韻母 が二つ間違 っただけ。 あと 2 日間も
残っている ので、全部 暗記できる 自信があっ た。そして 6日目の夜 に間違いひ とつなく父 に暗
請して聞か せた。父は 声母と韻母 の配列順番 を変えても 私は迷いな く即座に書 くことがで き
た。父と祖 母は喜んで ほめてくれ た。父はそ の場で、明 日は日曜だ から午前に ハーモニカ を買
いに連れてってくれると約束をしてくれた。
とてもよい 日曜日だ。 朝食後、父 は私の手を ひいてまっ すぐに百貨 屈に向かっ た。青い空 に
白い雲、空 気も格段に 新鮮に感じ た。道行く 人々の顔は 喜び溢れる ように見え て、なんか 嬉し
くてうきうきして足取も軽かった。
百貨屈に着 くと、三階 にある文具 体育用品屈 に行った。 当時は楽器 と言っても 、カウンタ ー
に並べてい るのはハー モニカだけ で、他の楽 器はほとん どなかった 。ところで ハーモニカ だけ
だけど、種 類が豊富で 、木製のハ ーモニカも あれば、プ ラスチック 製のハーモ ニカもある 。さ
らに複音ノ¥ーモニカや低音ハーモニカもあった。木製のハーモニカは値段が 2
.
5
0元で安いが、
木質で変形 しやすいた め、使用寿 命も短い。 変形したら 吹くときに 息が漏れる から疲れる 。プ
ラスチック 製のハーモ ニカは変形 しないし、 使用寿命も 長く、吹き やすいが、 値段は 3
.
2
0元で
高い。父は ご褒美だか ら好きなも のを選んで よいと言っ てくれた。 私は、本当 はあの緑色 のプ
ラスチック 製のハーモ ニカが気に 入ったが、 しかし、高 いから迷っ た。私達一 家を支えて いる
のは父の僅 かな給料し かないのだ 。普段、父 或いは祖母 が私を街ヘ 連れていく 時、街の反 対側
に行く時も 歩いて行っ て、また歩 いて帰る。 往復 2
0銭のパス代 を節約する ためである 。この
プラスチッ ク製のハー モニカは 70銭も高いか ら、家族 2 日分の食事 費に相当す るので、節 約
できれば我慢しようと思った。それで、父に、
「木製のものでいいよ」と 言った。
「え、どうして? あの緑色の 、プラスチ ック製のハ ーモニカが 気に入った んじゃない の ?J
父は不思議そうに聞いた。
「僕は確かにあの緑色の、プラスチ ック製のハ ーモニカが 好きだ 。でも高す ぎる。今日 は木
製のものにして、今度上手になったらまた買ってもらうよ」と私は答えた。
私は「父子 家庭」で育 てられ、幼 い頃から生 活のつらさ を知ってい るから、節 約できるも の
は節約した い。それが 習慣となっ て今でも経 済的によく なったが、 節約のくせ がなかなか 捨て
られない。 よく娘や教え子たちに言われている 。
父は私の話を聞いて何も言わなかった。ただやさしく私の頭を撫でて、 2
.
5
0元の木製のハー
モニカを買った。
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二胡情縁(
家に帰るなり、すぐにハーモニ カを取り出して、父に吹きかた を教えてもらった 。父はハー
モニカの箱にある薄いテキスト を開いて、吹き方を教えてくれ た。私は当然まだすぐには複雑
な吹きかたができず、ただ口を すぼめて単音を吹くだけ。 またどうしても吹く音と吸う音の区
別ができないから、曲らしいものが吹けない。そこで、父は言った 。
「大丈夫だ。練習すればうまくなるよ」
私は一人でしばらく練習してみた。ところでなんだか目まいがするので、父に言った 。
「父さん、なんか頭がくらくらするよ」
「あらまあ、すぐ止めなさい。 この子はやはりまだ体が弱いわ 。ちょっと吹いただけで固ま
いがするのね」祖母は心配そうに言った。
それなら明日また続けて練習し よう。次の日、私は学校から帰 ってまた練習した。今度はだ
いぶ分かつてきて、「東方紅 Jl)が吹けるようになった 。父が職場から帰って来ると、 私はすぐ
に父に披露してみせた 。 そして「途切れずに」できた 。私はまた父に新しい曲をねだったが、
今度も l、 2行吹いただけでまた百まいがし た 。祖母は私の様子を見て心配そ うに「あらま
あ」とつぶやいているので、仕方なくすぐまたやめた 。 もしただ目まいがするだけなら 、吹奏
楽器の初心者にはよくある現象 なので、練習を重ねていけば慣 れてくるものだ。 しかし私の場
合、ハーモニカを習ってから、 固まいのほか、また鼻血も出る ようになった。ちなみにいつも
夜中に鼻血が出る 。睡眠中にふっと目が覚めて、 生ぐさい液体が喉に流れこんで いる気がし
た。起きて座ると鼻血が鼻から 流れ出て布団にしたたり落ちた 。私は大変だと思って思わず叫
んだ。
「おばあち ゃん、おばあちゃん、鼻血だよ」
祖母と父が私の声であわてて起きて、
「横になって、横になって」
となだめながら水で濡らした タオルを持ってきて私の額に当 ててくれた 。 まもなく血がと
まって私はまた眠ったが、祖母と父は心配で一晩眠れなかった。
翌日の朝日が覚めると、少し鼻 づまりしただけで何事もないか らいつもどおりに幼稚園に
行った。それが幼稚園から帰っ てきて、ハーモニカを手に取っ て吹こうとした途端に、思わず
祖母に奪われた 。
「もう、おやめ 。昨晩はたいへんだったから」
祖母の言うことはいつも聞く子 だから、ハーモニカはだめなら 他の遊びをしよう。でも、他
の遊びといってもこれだという ものはなく、やはりハーモニカ のほうがおもしろかった 。
二日間経って、目まいもせず鼻 血も出ないから祖母はハーモニ カを吹かせてくれた 。音楽は
自分で演奏するとなんと美しく なるものだろうと、嬉しくて満 足感がいっぱいだった。しか
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し、長く吹くとやはり目まいがする 。三日目の夜 にまた前と同 じ、布団の縁 が鼻血に染ま って
いた。すぐに とまったが、 この子はいつ も夜中に鼻血 が出るから、 血液に問題で もあるのかと
祖母と父は心配してまた一晩眠れなかった。
翌日に、祖母 は私を連れて 幼稚園に寄っ て休みを取っ てから、その まま常州市第 二人民病院
ヘ行った。診察券をとってお医者さんに診てもらった。
「別に大した ことはない。 児童は鼻腔粘 膜の毛細血管 が比較的にも ろくて弱いか ら鼻血が出
やすいのだ。 大きくなれば 自然に治るか ら帰ったらし っかり栄養を 摂って、免疫 力をちゃんと
つけておけばいいんだよ」
さらに血液の 検査もしたが 、正常だった のでほっとし た。ところで この鼻血の持 病は十数年
も私に付き纏 い、高校卒業 後、常州市劇 団に入った後 も治らなかっ た 。 その間私はよく病院に
通っていた 。 自然治癒と小さい時にお医者さんに 言 われたが治らず、後に血液検査で、
血小板が
低いと言われ て、おばさん はわざわざ、
血小板を高め る「落花生シ ロップ」を買 ってきてくれ た
が、それもあ まり効果がな かった 。後の話にな るが、常州市 劇団と蘇州市 での演奏の際 に、高
校時代の同級 生呉明鋼君の 紹介で、蘇州 医学院大学病 院の耳鼻咽科 で鼻腔の毛細 血管冷凍治療
を受けてやっと、この長年の持病は根治した 。
病院から帰宅 すると祖母は 、横になって 休みなさいと 言ってくれた が、どこも悪 くないから
横になっても しょうがない ので、昼御飯 を食べたら幼 稚園に行った 。お医者さん も最初から健
康な子だから ビタミン Cや B6などのような 栄養剤を処方 してくれたが
別に呑んでも 呑まな
くてもよいのだ。 しかし 、父と祖母はやはり心配なので、これ以上ノ¥ーモニカを吹かせてもら
えなかった。それで、 二階からの美 しいハーモニ カの音は途絶 えてしまった 。
日が矢のごとく過ぎ去り、あっという聞に半月経っていた 。幼 稚 園 も 冬 休 み に 入 札 新 年 を
迎えた 。当時、私の ような子供た ちは新年を待 ちかねていた 。新年になる と、新調の服 装が着
られるし、飴玉が食べられる 。学校もなく 存分に遊べる から 。 旧正月の初日、外に出かけて、
大人や子供た ちが爆竹を鳴 らしているの を見物するの が好きだった 。ただ私はい つも爆竹から
遠く離れて 、 こわいから近寄れない 。隣近所の人 に会ったらお ばあちゃん、 おばさん、お じさ
んと挨拶がで きるから飴玉 や落花生など がよくもらえ た 。父と祖母か らも十銭、二 十銭のお年
玉をもらうが 、爆竹を買う のが惜しくて いつも磁器の 貯金箱に入れ て貯金してい た 。
旧正月の 三 日目に、父は私を連れて天寧寺ヘ羅漢を数えに行った 。私は鳥居後 方にある四天
王の塑像を見 た時、なんと なく怖かった が、その中の 、手に琵琶を 持っている金 剛にすごく興
味があった 。 それで父にたずねた 。
「あの菩薩、手になんの楽器をもっているの ?J
父は、
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「あれは琵琶だ」
と答えてくれた。私は無邪気にまた尋ねた。
「父ちゃん、その上に登って琵琶を弾きたい」
すると父はあわてて言った。
「だめだめ、四天王の琵琶は弾いてはならない、ということわざがあるから」
「なんで弾いてはいけないの」
「それはね、もし四天王が琵琶を弾いたら、山崩れ、地響きに なるそうだ。まあ、これは
封神梼』を法螺吹くようなも
「西遊記」の中の話だけどね。『西遊記』を大袈裟にしゃべり、 r
のだよ」
父は笑いながら説明してくれた。
「じゃあ、私も琵琶を習いたい。私が弾けば山崩れ地響きする から皆の前でかっこういいか
も」
「じゃ、お前さ、夢を見て、夢の中で四天王に習ったら」
天寧寺を出て、父は私を紅梅公園に連れていってくれた 。 そして玄妙観と文筆塔の伝説を教
えてくれた。
「この文筆塔は夕日に照らされた時、その影がまるで常州の大 地に映る一本の筆のようだ。
だから常州史上においてはたくさんの秀才が出たわけだ。今度 はお前がその中に入るかどうか
」
だ
このように親子二人が午後の三、四時頃まで楽しく過ごして帰 宅した。これでその年の旧正
月を無事過ごした。
私がその年にハーモニカを吹いたことは別にたいしたことでは ない。たとえ今日のアパート
の一室に同じことが起きたとしてもきっと誰も気にしなかった に違いないが、当時私の場合
は、本当に気にしてくれた方がいたため、のちの私の「二胡の 縁」と深く関わっていた 。
その年の旧正月の九日目に、祖母が朝、家近くの井戸ヘ野菜を 洗いに行ったときのことだっ
た。たまたま下の階の隣人も洗濯にやってきた。彼女は常州市 第一中学校の理科の先生で、
チャンコファン
張可芳という先生だ。張先生はとても優しい先生だが、ちょっ と持病があって、 40前でまだ
結婚していない。年配のお母さんと二人暮らしだが、冬休みな ので、お母さんを休ませて代わ
りに洗濯にやってきたのだ。張先生は祖母と顔を合わせると自 然に新年のあいさつを交わし
た。それから洗い物をしながら祖母と家のことなど雑談をして いた。ふと、張先生が思い出し
たように祖母にたずねた。
「趨おばあちゃん、前にお宅のお孫さんが吹いているハーモニ カを聞いたけど、お上手だっ
たわね。私も音楽が好きで聞いていて楽しかったけど、最近聞 きませんが、どうしたの ?J
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「あらまあ、張先生。ハーモニカ も何もこっちは もうあの子に驚 かされて 。孫の君ちゃん は
ねえ、賢くてね、父親に一週間でピンインを暗記しろと言われて、 6日間でできたの 。父親が
ご褒美にあのハーモニカを買ってあげたの。練習し ていたら上手に なったの。とこ ろで張先生
ねえ、この子は 体が弱くて、吹 いていると頭が くらくらすると 言い出して 。 そして、夜中に鼻
血が出て、布団 の縁まで血だら けなの 。心配でしょう 。 それでやめさせたの。 ここ半月吹かな
いから、鼻血も出なくなったのよ」
祖母はため息を ついてまた言っ た 。
「ああ、うちの越家は三代一人っ 子だからね、こ どもは大勢いれ ば、心配しなく てすむのに
ね
」
「そう、そうだ ったのね。上手 に吹いていたか ら、どうして突 然やめたのかな と思っていた
わ。 ところで¥ 二胡を習わせてみたらどう ?J
張先生は提案した 。
「二胡を習うの? でも、誰が教えてくれるかしら 。家は誰もできないよ」
「私は、キ、キーと鳥も鴨も怖がるような音しか弾けないけど、よかったら教えてもいいわ。
私もこの子が賢 くて可愛いから 教えてみたいの 。 どうせ、学校終わったら暇なの」
張先生は熱心に すすめていた 。 これも多分、教 師の天職だから 、とにかく教え るのが好き
で、特に気に入 った学生に教え たいのだ。
「あらまあ、こ れは、これは、 また張先生にご 迷惑をおかけし てしまうわ。父 親が帰ったら
相談しますけど、本当にありがとうございます」
祖母は迷った 。私の父親が賛 成かどうか、そ して私が賛成か どうかもわから ないから、その
場ではきめられなかった 。
そこで洗い物が終わった二人はそれぞれ帰った。
その日の夕方、 父は職場から帰 るなり、祖母は すぐさま朝の話 を父に聞いた 。父はしばらく
してから言った 。
「習ってみてもいいじゃない、芸があれば、飢え死にしないから」
「でもさ、二胡は盲目者が弾くものでしょう 。君ちゃんが大 きくなったら別 に占い師になる
わけじゃないから、二胡を習うと人に笑われるよ」
祖母はやはり顧慮、があって、賛成したくなかった 。父は言った 。
「それは昔の見方でしょう 。今はもう新し い社会だから、 二胡を習ってい るのは盲目者と は
かぎらないし 。 なにもこれで、
食っていくわけではないから、遊び半分でやればいいよ。あと、
張先生は熱心に すすめているし 、断りにくいよ 。やらせてみたら」
当時私は二胡の ことは全く知ら ず、二胡を習え ば何かいいこと があるかもしれ ないし、父が
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賛成すれば、やってみるだけだ。
翌日、父が会社から帰宅すると、南大街にある楽器屋ヘ連れて行ってくれた。 5元の二胡を
買った。いや、二胡ではなく、京二胡 2)だった。それに薪のような木材で、作った安い楽器だ。
もちろん当時は父も私も二胡を知らないし、二胡と京二胡の区別もわからないからだが、ただ
この京二胡が一番安かったからだ。家に帰るなり嬉しくてすぐに祖母に見せた。祖母は入れ物
の奥から青い布を出して、二胡をいれる布のケースを作ってくれた。晩ご飯の後、祖母は私を
連れて下の階の張先生を訪ね、初めて二胡のレッスンをうけた。
これは記念すべき日だ。私がはじめて二胡を習った日だから。はっきり覚えているが、 1962
年 2月 1
4日、旧正月十日で、水曜日だった。
張先生はぽっちゃりとふくよかで、背がそれほど高くなく、眼鏡をかけていて、蘇州語 3)を
話している。ふだんはあまり会わないからよく知らない先生だった。彼女の家の玄関に行く
と、先生のお母さんが出てこられた。とても優しいおばあちゃんで、祖母よりちょっと年上
だ。ちょっと緊張気味の私を見て張先生は優しく声をかけてくれて、お菓子や飴玉、落花生を
出してくれた。それから腰かけを持ってきてくれた。私は腰かけに座って初めてのレッスンを
受けた。
張先生は真剣に二胡を教えてくれた。はじめてのレッスンで、私のために昼間に楽譜を作っ
てくれたからだ。もちろん、それは簡単な曲だったが、ノートから紙を切って書いてくれた。
張先生は楽譜を出して、まず、二胡の持ち方から教えてくれた。弓をもって、内弦を弾くと
「ド」の音、外弦を弾くと「ソ」の音を出す 4)。私は背が小さいので、腰かけに座ったら足が
届かないので、二胡は何度も足から滑り落ちたりして、張先生はよく笑った。
知らず知らずのうちに時間が過ぎて、あっという聞に一時間あまり過ぎた。私は少し眠く
なってきて、あくびをかいたりして、集中できなくなった。それで、張先生は言った。
「じゃ、今日はこのぐらいにしよう。二胡は一両日で覚えられないから、明日またやりま
しょう。よく練習しておいてね。いい ?J
私は領いて、祖母は言った。
「まあ、張先生、ご苦労さま、ありがとうね」
そして私に言った。
「君ちゃん、はやく先生にお礼をいいなさい」
「張先生、ありがとうございました」
私は素直に張先生に感謝した。
「いいえ、どういたしまして。明日も晩ご飯の後に来てね」
そう言いながら、張先生は私たちを玄関先まで、見送った。
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7巻第 3号
それから、私は毎日の ように、晩ご飯の後必 ず張先生の家ヘ二胡を 習いに通っていた。正 月
休みが終わって学校が始まると
私は、昼間は幼稚園、 夜は一日も欠席せず二 胡のレッスンに
通っていた。二胡の稽 古といっても生易いこ とではない。一番辛か ったのは南方の冬に暖 房が
ないことだ 。旧正月前後の天気は 室内温度でも零度以下 の厳しい寒さで、二胡 を弾くときに私
の小さな手はまるで「 鳥の爪」のように硬く て、必ず湯たんぽで暖 めて三十分ぐらい練習 して
からやっと手が自由に動く 。 それでも私の上達ははやく、張先生も教え甲斐があったようだ。
あっという聞に 3月 8日の「国際婦人デー」がやってきた 。
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2年の「三八婦人デー」は木曜日で、 学校の女性教員が半日 休暇となっているため 、昼
前に帰宅した。昼食後 、張先生が私の家に上 がってきて、午後は張 先生の学校で祝賀交流 会が
あるから、私を演奏に 連れて行きたいとのこ とだった 。 まだ 2
3日間しか二胡を習って いない
が、もう七、八曲は弾 けるし、弾きながら歌 うこともできるように なった 。毎日幼稚園終わっ
たら家にいるだけだから
張先生が演奏に連れて 行ってくれると聞いて
にわかに元気がわい
てきた 。 お正月に新調した綿入 れの服を出して、きち んと身なりを整えて、 二胡をもって張先
生と常州市第一 中学校にやってきた。
「国際婦人デー」なの で、校庭には色とりど りのテープが飾られ、 とても鮮やかできれい
だった 。 また数多くの赤色のス ローガンが張ってあっ た 。 「女性同志の皆さんに祝日楽しみあ
れ!J とか、「女性同志の皆さんに学べ!J とか、「女性同志の皆さんに敬意を!J など書いて
あった 。行き来する先生と学 生達も楽しそうで、そ れぞれの顔に喜びが溢 れていた 。私は片手
に二胡をもち、もう一 方の片手は迷子になら ないようにと、しっか りと張先生の服の裾を 掴ん
で歩いた 。 目だけは周りの景色に夢中で、何もかも新鮮だった 。
張先生に連れられて、 鮮やかに飾った大きな 教室に入った 。黒板の上方に、「三・八国際婦
人デー慶祝交流会」と 書いてある横幕がかか げであった 。すでに多くの女性教 師や女子高生が
着席していた。張先生 と私が入ると、皆から 拍手が沸いた 。事前に張先生は、今日 二胡を弾く
子を連れてくると皆に 知らせたからだ。特に 女子高生のお姉さんた ちに抱っこされたり、 頬ず
りされたりして可愛がられた 。皆はテーブルからお 菓子や落花生を持って きてくれて、すっか
りファンに固まれたアイドル気分だ、った 。
交流会が始まった 。 まず、先生と学生達の 出番。歌や詩の朗読を 披露したり、物語を話 した
り。 そして、小太鼓を叩き ながら花束を回して、 小太鼓の音が止まる時 点に花束を持っている
人は隠し芸をしなけれ ばならない 。 しばらくこうしてにぎやかにやってから、張先生は立ち上
がって言った。
「みんな、ちょっと静かに、静かにしてください 。では、皆さん、今か ら今日の少年ゲスト
より二胡の演奏があります。ではどうぞ」
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みんな熱烈な拍手を送った。私は二胡を取り出して言った。
「
では、 まず 『
黄水謡J15)という曲を引きます。まだ下手なので、先生もお姉さん達もどうぞ
よろしく !J
皆どっと笑ってまた拍手してくれた。
「
かわいい!
お利口さん!J
褒めてくれた先生もいた。
私はまず『黄水謡』 を弾いた。上手だとは決していえない 。 なにせ二胡をやりだしてまだわ
ずか 2
3日しかないから、たとえ天才でも大して上手にならないだろう。ただ、私みたいな子
供 が二胡を習っているなんて地元ではほかにいないので、 下手でも珍 しいから。ちなみに私は
「
怖いもの知らず」だから、聞いてもらいたい気持ちが強く、こわいとか、緊張するなんてな
んのその。 一 曲終了するとまた大きな拍手。お上手!
かわいい ! アンコール ! そこヘ、
一人の先生が私に聞いた。
「ぼくはなんという名前 ?J
「
超寒陽と 言 います」
「将来、うちの第 l中学校を受けてみない ?J
「いいよ。うちはすぐこの近くだから 」
張先生が言った。
ュー ホンチ ー
「
君ちゃん、弾きながら 『繍 紅 旗 i
)を歌ってみて 」
「
すご
い!
弾きながら歌えるって!
さあ、拍手、拍手!J
「
長い糸、
細い針、
熱い涙が、紅旗を縫う
紅旗を縫う・…・・」
幼い子供の声に二胡の音が合っていて、結構感動するのだ。 一 曲が終わるとさらに拍手が沸
いT
こ
。
「
わあ、すごい! 弾きながら歌うなんて 」
「そうね、違うことを同時にできるってすご、いね」
「もう一曲!
アンコール!J
一人の先生が私のことを案じて、
「もうあの子休ませて。弾いたり歌ったりで疲れたでしょうから」と言った。
するとお姉ちゃんたちが剥いたみかんをもってきたり、落花生を手に入れてきたりするか
ら、どれを先に食べればよいか分からなくなった。
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しばらくして、皆さん の親切さに応えて、私 はまた何曲かを弾いた 。またも拍手が沸いて 皆
が喜んでくれた。張先 生と家に帰っても興奮 がさめなかった。父は 帰宅していたから、午 後の
ことをうれしそうにおばあちゃんと父に話したらたいへん喜んで、くれた。二胡の初演奏は非常
に深い印象となったので、私は重要な決定をして、真剣に父と祖母に宣告した。
「僕はこれから一生、 二胡で生きていくよ。有名になるぞ」
それから、私は二胡を 学ぶ情熱がいっそう高 まった。毎日晩ご飯の 後に一刻も待たずに祖 母
を催促して下の階の張先生の家へ二胡習いに連れてってもらった。
張先生も真剣に二胡を 教えてくれた。昼間は 課外時間を利用して歌 曲を収集し、きちんと 謄
写してくれた。学校が 終わると、まっすぐ帰 宅し、早く晩ご飯を済 ませて私を待っていて くれ
た。その頃、二胡の教 材はすずめの涙のよう に少なかったし、プロ の先生もなおさら珍し かっ
た。多くの二胡愛好者 は独学で二胡を学んで いた。後の二胡の友達 もそうだったらしい。 張先
生は多少無理でも少し 二胡が弾けるが、やは り正統な習得をしてい なかった。私が四ヶ月 ほど
習ったところで張先生は段々限界を感じていた。
ある日曜日。朝食後、張先生は家に訪ねてきた。父に言った。
「
越さん、お宅の小君ち ゃんは頭がよくて
二胡を覚えるのはとて もはやかったです。け ど
わたしは、もう限界で す。もう私のできるこ とは全部教えました。 これ以上もう教えられ ませ
んので、お子さんのためにどうぞよい先生を探してあげてください」
「張先生、こちらこそお礼を言わなきゃなりません。ここ数ヶ月来大変お世話になりました。
本来はやることなくふ ざけているより何か習 い事させたほうがよい と思ってはじめたこと です
が、やる気がある以上、後はこちらで何とか先生を探してみます」
と、父は張先生にお礼を言った。でも、そのために気がかりのことができたようだ。
翌日父が工場に出勤す ると、すぐに工場の紡 績部工場技師の楊明徳 さんを訪ねに行った。 楊
師匠さんは機械の技師 で、優れた技術を持っ ている屈指の技師だっ た。また一目おかれる の
は、他の社員は仕事着 を着て働いて、体中に 油の汚れが付くが、楊 さんは白いシャツを着 て働
いても、仕事は見事に 完成するだけでなくシ ャツに油の汚れひとつ もないから、周りから 尊敬
されているのだ。楊師 匠さんは仕事が素晴ら しいだけでなく、二胡 もかなりの腕だった。 当時
工場にアマチュアの錫 劇団 7)があって、彼は劇団の 首席二胡奏者だった。 技術がずば抜けでい
るから、鼻も高い。父とは同僚なので、仲がよかった。
機械の轟音がする中で、父は楊さんをみつけて言った。
「楊さん、頼まれてく れないかな。うちのせ がれが二胡を習ってい るんだけど、前の先生 は
もう教えられないって 。ですから、楊さんに 習いたいけど、教えて もらえるかな 」
楊さんはにこつとして言った。
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「お子さんに二胡を教えるって? それはちょっと難しいな」
父は彼がためらっているのをみて言った。
「まあ、一回だけ会ってもらえるかな。賢いと思ったら教えてほしいし、だめだったらだめ
で。頼むよ」
楊さんはいきなり断るのも決まりが悪いみたいで、仕事の後に家ヘ様子を見にくることに
なった。
夕方の六時頃、楊さんは約束どおり家に来てくれた。背が高く痩せ型だが、身なりがきちん
としていて格好いい。父と祖母は熱心にお客さんをもてなしているが、主役はやはり僕の方
だった。あの「国際婦人デー」の日に市立 l中での演奏以来、私はますます演奏意欲が沸いて
きて、家に客が見えるたびにすぐさま二胡の演奏を聴いてもらいたいぐらいになってしまっ
た
。
私は楊先生の前に出て挨拶をして、それから 二胡を出してありったけの曲を弾いたり歌った
りした。楊先生は聞いているうちにすっかり機嫌がよくなり、にっこりしながら言った。
「いいね、いいね。弾きながら歌える子は今まで見たこともなかった。今日から私の弟子だ。
明日二胡持ってきてレッスンするぞ」
こうして私は弟子入り試験に合格し、楊先生は正式に私の二番目の二胡の先生となった。
翌日の夜、楊先生は約束通りに二胡を持って来て、ガリ版印刷の錫劇の楽譜を一冊持ってき
た。私は楊先生がもってきた二胡を見ると、目の前がパッと明るくなったような気がした。こ
れは古い紅木の材質で竜頭彫刻の円筒二胡で、蘇州製琴社製のものだ。年代物のようで軸と筒
はぴかぴかで、とてもよい音がする。私は手に持って何遍も見て、手放したくなくなった。楊
先生は私の様子をみて言った。
「いい二胡だろう、これは長年大切にしてきたものだよ。貸してあげるよ。もし君が上手に
なったらこれをプレゼントするよ。しかし、上手にならなかったら、持って帰るからね」
私はとても感動した。こんなによい先生に会えるとは思わなかった。ちなみにその宝物の二
胡を練習に貸してくれて、また上手になったらくれるなんて。このとき私は、これから一生懸
命に二胡をマスターすると、心に決めた。
楊先生はその晩私にレッスンをしてくれた。先生は私に G調と F調の奏法を教えてくれて、
また二胡のポジション移動も教えてくれた。教材は楊先生得意の錫劇の楽譜だった。
ユェ ンシ ャオ
レッスン中に、祖母は湯を沸かしたり、団子粉を練ったり「園宵
タ ンユェ ン
J
(
1湯園」ともいう。
館入り因子)を作っていた。そして休憩の時に、祖母は湯気が立っている砂糖入りの園宵団子
を楊先生前に持ってきた。これが楊先生に出せる月謝だった。
当時の年代では、楽器や美術、書道、将棋などを習う場合は、ほとんど人情往来のようなも
-143-
愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第5
7巻第 3号
のだった。生徒が先生 に思返しできるのはた だ学習の成果だった。 月謝をもらうのは 「
法外の
収入」と見倣し、違法 だった。そして、月謝 を支払う習慣もなかっ た時代だった。もし当 時で
はこのような環境にな かったら、私を含めて 今舞台で活躍の芸術家 の多くは、ほとんど芸 術の
道を選ぶことはなかっただろう 。
楊先生の家族は農村に あるため、ふだんは工 場の寮に住んでいる。 仕事が終わると、会社 の
同僚達とトランプをや ったり、世間話をした りして過ごしていた。 毎週土曜日に倶楽部活 動が
1回あるほか、ほとんど 暇だった。しかし、私 に二胡をレッスンする ことになってから、楊 先
生の余暇は大変いそが しくなった。私のため に楽譜収集に奔走し、 先に練習してから定期 的に
家ヘレッスンに来るよ うになった。しばらく すると、錫劇用の楽譜 も満足できなくなり、 楊先
生は歌曲を見つけてき てはレッスンに使って いた。私はいつもすぐ に覚えてしまい、弾け るよ
うになると、弾きなが ら歌うことができた。 楊先生はとても喜んで くれて、いつも同僚に 自慢
していた。 「
私にすごく頭のいい 二胡の弟子がおるのよ 。教えたらすぐ覚えて くれるし、ちな
みに弾きながら歌えるのね。会社のイベントに演奏させたいね」 。
時間は知らず知らずの うちに流れ去って行き 、あっというまにもう 「
十 ・一国慶節 J (
1
0月
1日の建国記念日)がやってきた。 2000余りの従業員を擁した 大成一廠は、「建国記念日を祝
う夕べ」 という祝賀会のイベントの規模も勿論大きいわけだ。その日、工場内は一面に色とり
どりに飾られて、祝日のム ー ドに包まれた。倶楽部でプ ログラムを作成するとき、楊先生はま
ず私の出番を組み入れた 。 この日の午後に、父と 一緒に工場の玄関にや って来た。当時の大成
ー廠は守衛が厳しいの で、工場のバッジや社 員身分証がなければ一 切立ち入り禁止となっ てい
た。父が長年勤務して いるが、私は一度も工 場に入ったことがない 。しばらくすると、楊 先生
は工場保衛処発行の通行許可証を持ってきた。楊先生は守衛に見せて言った。
「今晩仕事が終わった らどうぞ大食堂に演奏 を見にきてください。 今日この子は弾きなが ら
歌うから 」
工場に入ると、仕事場 の機械の轟音が聞こえ てきて、私にとっては とても新鮮だった。楊 先
生は父に言った 。
「
趨さん、小君に暫く工場見学を案内してあげて。私は倶楽部で、待っているから 」
仕事場に入いると、わ 一、広い ! 私は思わず父の手を掴 んで離さなかった。一 列ー列の機
械が工場を仕切ってま るで迷宮だ。機械の轟 音で近くにいて話して も聞こえないから相手 の口
形から意味を推測しか ないほどだった 。迷子になったらどう しよう、見つからない 、声も聞こ
えない、焦るに違いないと思った。
仕事場に並んでいる硫 綿機、紡績機械、織機 は本当に面白かった。 こちらから原綿を入れ る
と、向こう側にはスライバ ーが出てくる。こっち にスライパーを入れる と、あつちからは綿糸
144-
二胡情縁(
5
)
がでてくる。最も面白いのは織機工場であった。一枚の機械俊が紗叢の中を飛びかっているう
ちに、真っ白な布はみるみるうちにできるのだ。また、紡績機械を操作する女子社員は、白い
エフ。ロンに白い帽子姿、手先が器用で足取り軽やか、まるで仙女だ。皆は父のことを知ってい
るみたいで、顔を合わせるごとにこにこと会釈を交わした。話しても聞こえないから。私に近
寄って顔を触ったりして、また仕事を続けた。私はなぜかさびしくなって、もしお母さんはこ
こに居たらきっと抱いてくれると思った。
工場を出て倶楽部に行ったら、楊先生たちはリハーサル中だ、った。錫劇の『双推磨(ひき
臼を回すカッフ。ル)jJという芝居のようだ。始めて芝居をみるので、そして伴奏があって、本
当にきれいだった。休憩に入ると、皆私を取り囲んできた。
「あら、越さん、息子さんかい? 賢いね」
「おや、楊さん、お弟子さんかい。今晩演奏するでしょう? 先に ー 曲聞かせてよ」
楊先生はにこにこ笑って言った。
「どうだ、私の弟子はいいでしょう。でもな、今はちょっとだめなんだ。今やると本番はお
もしろくないから」
「おや、おや、楊さんはもう弟子をかばっている。ところで、本番の時、こっちはもう化粧
して楽屋にいるから、見に行けないじゃない。さあさあ、一曲やってよ」
みな聞き入れてくれない。
「もう、しょうがないね。君ちゃん、一曲やってあげて。約束だけど、一曲だけね。」
楊先生がサイン出したので、それならリハーサルのつもりでやることにした。
私は楊先生のあの古い紅木の二胡を取り出して、弦を合わせて、『紅梅賛 i
)という曲を弾き
ながら歌った。
「紅い岩の上に赤い梅が咲き綻び、
千里の氷霜足もとへ踏み押さえ、
三九の厳寒何が怖がろう、
真心は太陽に咲こうよ
咲こうよ。……」
「素敵!
アンコール!J
皆から拍手がおきた。
「だめ、だめ。約束したでしょ、 一 曲だけ。まだ子供なんだからのどが疲れたら本番はどう
してくれるの ?J
楊先生は即座に私を助けた。
そこへ、おばさんのひとりが歩いてきて私の手をひいて言った。「もういいよ、歌わなくて
1
4
5
愛知学院大学教養部紀要第5
7巻第 3号
いいよ。ご飯に行きましょう 」
ほかの連中はまた騒いだ。
「ほら、また、牛ちゃんの機嫌をとっているね」
チョーニュー
冗談を飛ばしていた。父の海名 は 「趨牛」なので女子社員は父のこ とを 「牛ちゃん」と
呼んでいるようだ。
「その通りよ。君たちは焼餅でもやくのかい 。」
あのおばさんも怯まず、
に言った。みんなまた大笑いをし た。おばさんは彼らのことを無視 し
ス ー ズ トォ
て、私の手をひいてその場を離 れた。食堂に入ると、おばさん は白菜の芯と獅子頭(揚州料
理、大きな肉因子)料理に 一杯のご飯を買って私のまえに もってきて、食べなさいと言っ てか
ら、また自分のために野菜とご飯一杯買って横に座って食べはじめた。
自分が野菜だけで私には白菜の 芯と獅子頭料理を買ってくれた 彼女を見て、悪いような気が
した。それで私は汁をご飯にかけ て白菜の芯とご飯を食べて、獅子 頭をそのまま残した。おば
さんは私が獅子頭を食べないのを見て聞いた 。
「どうして獅子頭を食べないの 。おいしくないの ?J
私は頭を振って言った。
「おいしいです。でも、おばさん は野菜だけ食べているからなんか 悪いと思うの。父は、お
いしい料理は皆で食べよう。子 供だけ食べさせてはいけないと いつも言っているの 」
「あらまあ、この牛ちゃんは決 まりが多いね。おばさんと食べ るときはおいしいものは子供
だけにですから、はやく食べてね」
「いいえ、父はいつも、子供は栄 養が必要、大人も栄養が必要と 言っているよ 。大人が元気
でないと子供も苦しいから。やは り半分半分でいただきましょうよ 。おばさん食べないと私も
食べない」
「すごい、この子かしこい。お ばさんは娘がいて 二 つ年下なの。大きくなったらお 嫁にも
らってくれる? 君ちゃん大好き。じゃ、おばさんも食べましょう。」
言いながらお箸で一 口取って食べて、また私を催促して言った。
「
残りは君ちゃんの分よ。はやく 食べてね」
それで私は大半残った獅子頭を食べた 。 ご飯の後、叔母は私を連れて倶楽部に戻った。暫く
して父と楊先生たちもご飯を済ませて続々と戻ってきた。おばさんは父を見るなり言った。
「牛ちゃん、君ちゃんが大きく なったらぜひうちの婿に来てね 。先に約束したよ。ほかの家
に行かないで、
ね
」
皆これを聞いてどっとと笑いこ けた。そしておばさんを冷やか して 言 った。
「
手が早いね。一回の飯で娘婿を 釣るのかい 。 そりゃないぜ。なにしろ、お嬢 さんが美人か
-146-
二胡情縁(
5
)
どうかも分からないし、君ちゃんが気に入らないかも」
そうしたら、おばさんは皆を脱んで、言った。
「こら!
なにを冷やかしているの?
うちの娘はみんなから可愛いと言われているよ。い
つか連れてくるわ。みな競ってお嫁にもらいたくなるよ。でも、行かせない。牛ちゃんの息子
だけが気に入ったものだからね」
みんな更に大笑いになって、冗談が飛び、交っていた。その後、おばさんは本当に娘さんを家
に連れてきて、私のことを兄さんと呼ばせたりしていた。父もお礼に私を彼女の家に連れて
行ったことがある。おばさんの娘さんは確かに可愛くて器用な娘だった。しかし、結局彼女は
私の妻にならなかった。まさに「縁がなきゃ夫婦になれん」というところで、人が世話を焼い
てもだめなのだ。
「建国記念日を祝う夕べ」のイベント会場は食堂の ホールだ。これは舞台付きの多目的ホ ー
ルで、テーブ、ルを並べれば食堂、会議などで長い腰かけを置けば講堂となる。腰かけなどを撤
去すればダンスホールに早変わり。舞台の上方には「建国記念日を祝う夕べ」と書カ亙れた横幕
があった。舞台の上に講壇と白い布に覆われる長い机があって、開会のときの貴賓席のよう
だ。出演者は楽屋で化粧したり、楽器や道具の準備をしたりしていた。私はなんでも新鮮だっ
たので、あっちこっち見て回ったりしてとても楽しかった。
祝賀会は予定通りに開始された。会社側の責任者は舞台の貴賓席に案内され、開会の挨拶後
に国歌斉唱、責任者の御挨拶、来賓の御挨拶。 30分ほどでそう長くなかったが、聴衆はもう
落ち着かない様子で騒がしくなり、演奏の開始を待ちわびていたようだ。
漸く祝賀会の挨拶が終了し、演奏が始まった。観客席も静かになった。司会者は広報課の女
性で、若くて可愛い。常州説りの共通語で観客に祝日の挨拶をした。前半のフ。ログラムは大
体、歌、詩の朗読、踊りなどで、各事務所や工場の出し物だから、平凡なので、観客はまた次
第に落ち着かなくなってきた。
出し物が終わり、いよいよ本番の芝居、工場倶楽部演目の錫劇「双推磨」の駒。鍛帳がおり
て、舞台に背景セットをしているところへ、スタッフの一人が舞台の中央に腰かけを横に置い
て、マイクを低くセットした。司会者が舞台に出てきれいな声で知らせた。
「では、次は、越寒陽ちゃんの二胡独奏です。弾き歌いで 『紅梅賛」を演奏します」
実は私はもうとっくに舞台の袖にいて、まだかまだかと出番を待っていた。楊先生は小さい
声で「行け!J と合図したので、私は二胡をもって勢いよく舞台に出た。背が小さいかもしれ
ないが、恰好よかったよ。舞台から見下ろすと、こりゃ満員だ!
すごい! 観客はこんなに
多いかと思った。緊張と興奮が混じった。緊張したのは、まだこんな大きな場面で演奏したこ
とがなかったから 。興奮したのは、こんな よいチャンスで演奏を聴いてもらえるので、観客が
1
4
7
愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第5
7巻第 3号
多いほどハイテンションになれ るからだ。ところで意外だった のか、観客席はまた騒ぎ出 し
た
。
「あれ、誰の子だろ? 見たことないけど」
「この子はどこから呼んできたの? かわいいね」
「弾き歌いだった? 聞いたことないけど、楽しみだわ」
「
シ
ー
・
・
・
・
・
・
」
誰かが「シー」と言って、やっ と静かになった。私は前奏を弾 いて、弾き歌い始めた。この
弾き歌いとは、弾く時に歌わない 、あるいは歌う時に弾かないので はなくて、弾きながら歌う
ので、弾く音が切れず、歌う歌 詞が間違わないようにやらなけ ればならない 。二胡の音色がき
れいで、歌声が美しく、まして表情もいきいきして上手に演奏することは、至難な技だ。とく
に当時では、人々の娯楽生活が 貧窮だし、鑑賞の水準も高くな いため、私の演奏に対する反響
はきっと今の香港や台湾のスター たちのコンサートに負けないぐら いすごいものだったろう。
一 曲が終わると、観客席から雷鳴 のような拍手が起き、「アンコ ール」の大歓声だ。司会者は
続いて 2曲目を知らせた。
「次の曲は趨寒陽ち ゃん演奏の『洪湖の波打ちjJ9)で
、
す」
また盛大な拍手。私は弦を合わせてまた弾き歌った。
「洪湖の水よ、波打ちするよ
洪湖の岸辺は故郷だ
早朝に船を出し
夜に帰って来ると
網を投げれば
魚がいっぱい
.
.
.J
ふと観客席からフラッシュが光って、この貴重な場面をフ
ィルムに収められた。父はその後、撮影した組合の幹部から
この写真を貰ってきて、今でも私のアルバムに大事に保存し
ている。
演奏が終わると、また盛大な拍 手が起きた。私は立って一
礼をして舞台を走って降りよう としたところ、司会者が出て
きて、もう 一 曲演奏してほしいと。舞台の奥に目をやると、
楊先生が手振りでもう一曲やっ てと、言っているようじゃな
いか。私はまた舞台の中央に出て きた。司会者がほほ笑みな
がら知らせた。
「会場の御来客のみなさん、み なさんのご要望に答えて、
1
4
8
)
5
二胡情縁(
可愛い越寒陽ちゃんを ご紹介したいと思いま す。趨寒陽ちゃんは本 社機織部の、超君行さ んの
一人っ子の御子息で、 楊明徳さんの弟子です 。今は新坊橋小学校幼 稚園の生徒で、す。二 胡を
習ってわずか半年です が、素晴らしい才能を 披露してくれました。 大きくなったら優秀な 音楽
家になることを祈りましょう。次はみなさんのためにもう一曲、「繍紅旗』を演奏します 」
観客席からまた盛大な拍手。
三 ・八国際婦人デー 」の日に市立第一中学校で演奏したので、も
繍紅旗』はすでに 「
この 『
う私の持ち曲だ。怖いもの知らずの私だが、小さい時に舞台での演奏は緊張と無縁だ。弾きな
がら歌ったり、またよ くきょろきょろと観客 席を見たりしたものだ 。父が観客席にいるか どう
か、知っているおじさ んやおばさんは来てい るかどうか。大きくな ったらやっとわかった のだ
が、舞台に上がってか らきょろきょろするの は舞台演奏においては タブーなことで、観客の注
意力を分散させてしま い、演奏の失敗に導く 。でも、小さかったし 、舞台経験もなく、し きた
りも知らなかった。そ のため怖さ知らず、天 真嫡漫の一面を見せた のだ。だから、客席か らは
ヤジもなく、変わらず興奮状態だった。
建国記念日を祝う夕べ 」 に出演してから、私は 大成一廠ですっかり有 名になった。時折父
「
は私を連れて工場の風 目場に行ったりする時 、入り口の守衛さんに 「おじさん、こんにちは 」
ゃあ、あの晩の弾き歌 いの子じゃありません か。どうぞ、どう
と挨拶したら、守衛さんは、 「
ぞお入りなさい」と言 ってくれた。今でも、 当時の会社社員に聞け ば、あの晩の演奏をま だ鮮
明に覚えてくれている。
その後、私は楊先生について 三年間二胡を習った。 ある日、楊先生からも うそろそろ卒業だ
と言われた。父はあわてて聞いた。
「困ったな、楊さん、君ちゃんがちゃんとやらないからやめたいの ?J
楊先生は微笑みながら答えた。
「いいえ ! いいえ ! 逆ですよ。君ちゃんは 上達がはやくて、私は もう教えるものがなく
なったからだよ。まあ 、見習いも三年終業で すからね」
するとある日曜日に、 父は鶏を一羽買ってき て鶏スーフ料理を作っ て、謝恩のために楊先 生
をご招待した。楊先生は心を込めて言った。
君ちゃん、君は聡明で 二胡の上達も速いが、 しかし、二胡を習得す るのはそう簡単なこと
「
ではないから、しっか り気を引き締めてやる ことだよ。私の二胡は 生かじりだから、プ ロでは
ないんだ。これからも っとよい先生に習って ください。この竜頭彫 りの二胡は記念に取っ とい
てください 」
もうこれから楊先生はレッスンに来られないことを'悟った時、とてもさびしかった。楊先生
の話を聞いて涙が溢れてきた。
-149-
愛知学院 大 学 教 養 部 紀 要 第 5
7巻第 3号
「うん、分かった。楊先生、ありがとう」
私は楊先生 に丁寧に頭 を下げて三 回お辞儀し た。楊先生 がお帰りの ときに、私 は父と遠く ま
で、
見送った。
楊先生のあ と、一年間 もよい先生 が見つから ず、独学で 練習するし かなかった 。先生がい な
いため、練習しても演奏水準はなかなか上がらない 。 それでも稽 古と演奏の 意欲は減ら ず、二
胡を抱えてあっちこっちヘ仲間を探していた。そしていつも晩ご飯の後、 二胡を抱え たまま父
の自転車の後ろに乗って街中をドライブし、最後に父とお正月に遊び、に行ったことのある紅梅
公園前の広場で無心に二胡を弾き、大きな声で、歌っていた。常州のー景になっていた。
当時の紅梅 公園は常州 市東門の外 れにあり、 そのあたり は広いが、 住民が少な かった。や や
辺部で街路 灯もなかっ たのでちょ っと薄暗く て気味が悪 かった。特 に夜の九時 以降は、通 行人
もまばらに なる。紅梅 公園前の広 場で二胡を 弾くと、湖 や林から反響 されてとてもよい音がす
る。私はこ こで大体夜 の十時まで 練習するの で、父は自 転車を止め てそばに腰 掛けて聞い てい
た。父以外 はほとんど 聞きに来る 人がおらず 、なぜなら 、この附近 ではお化け が出る噂が 広
がっている からだ。そ れは、二胡 の音や歌が 聞こえてく るが、人影 が見えず、 美しい二胡 の音
と歌声に見惚れると魂を 奪 われるらし い。聞きに 行ったら、 お化けに擾 われるから 、近所の人
はだれも聞きに来なかったのだ。 しかし、私の記憶では、確かに 2回ほど観客がいた。
ある日、夜 十時ころま で演奏して いたら、小 道から数人 の人影がや ってきた 。突然、遠くに
立ち止まって近付いてこない 。私は演奏 に夢中だっ たから全く 気づいてい なかった 。暫くする
と、中の一人が私に向かつて 「
へい ! へい!J と咳を二つした。伝説によるとお化けは人間
の咳が苦手 のようだ。 ところが咳 に動じない 私を見て、 今度はおで こを「ぱち ! ぱち ! ぱ
ち !J と三回叩い ていた。こ れも伝説で は、おでこ を 三 回叩くと、 人間の神明 の火が強く な
り、お化けが見たら逃げるというのだ。彼らの可笑しげな振る舞いに気付いたが、訳が分から
ないから、演奏をとめて大きな声で聞いた。
「そこの人達 、誰ですか 。聴きたけ ればこっち にきてくだ さい 」 これを聞いて彼らが反問し
てきた 。
「あなたは人間ですか、それともお化けで、
すか」
「僕は人間だよ。ここはよく響くから二胡の練習をしているだけです。 なんでお化 けなんか
「そうか、誤 解だ、誤解 した。私た ちは常州市 錫劇団楽隊 の者で、宿 舎はこの近 くです。夜
になると 二胡の音が 聞こえるけ ど、お化け が出ると聞 いて聞きに 来なかった わけ。今日はたま
たま夜の演 奏が終わっ て
ここの近道 を通って宿 舎に帰ろう と思って、 ばったりと 遭ったか
ら、び、
っくりしたよ 」
-150-
)
5
二胡情縁(
もう一人言 った。
「この人はうちの団の首席二胡奏者です。よかったら 一緒に私達の宿舎まで遊びに来 てくれ
ませんか」
ここ一年余り、よい先生が見つ からなくて悩んでいたので、劇 団の首席二胡奏者だと聞い
て、技でも教えてもらおうかな と思った。父にお願いして、市 の錫劇団まで付いていくことに
した。
市立錫劇団は紅梅公園の傍にあ って、ここはもともと千年の古 利天寧寺の所在地だった。市
政府からここを劇団の本部に指 定された。これは木造二階建て の転盤楼 10)で、築後年数が経っ
ているようだ。劇団員達は二階 に住んでいて四人部屋だった。 あまり整理整頓しておらず散ら
かっていた。その日は時間的に 遅かったので、父と暫く居てか ら家に帰った。その後何回か訪
ねて、首席二胡奏者と演奏技法 の交流をした 。勉強にはなったが、まだ理想、の先生ではなかっ
たのでそれから段々行かなくなった 。
もう一つ思い出がある。夏のあ る晩で、日暮れが遅いため、七 時になってもまだ明るい 。私
5、6歳に
が広場で二胡を練習していたところへ、 一人の少女がこっちに歩いてき た。彼女は 1
見えておさげ姿で、活発そうで 可愛い。彼女は近くに立って長 いこと演奏を聴いてから話しか
けてきた。
「君がいつもここで二胡を弾いて いるの ?J
」
す
「はい。そうで、
「そうか。私の家はこの近くだか ら、夜はよくきれいな二胡の音 が聞こえるえるの。お化け
が出るって噂だけど、君だった のね。私も歌うのが好きです。どう、一曲歌うから伴奏してく
れる ?J
「いいよ。何を歌うの ?J
いつも 一人で演奏して物足りないから、歌ってくれる人がいると嬉しいじゃないか。
「じゃ、『珊瑚頒J111)にしょうか」
これはもってこいの曲じゃないか 。 この曲は私も歌えるから 。数小節の前奏の後、美しい歌
声は遠くまで伝わったことだろう 。
「紅い花が一輪、碧い海を照らして、
一団の炎が水面に現れ、
赤い珊瑚の木は
荒波の中でも
いつも春のよう、
花を咲かせている
.J
.
.
「お姉ちゃんは歌がお上手!J
1
5
1
愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第 57巻第 3号
私は思わず褒めた。
「君の二胡のほうがうちの弟よりず、っと上手ね」
彼女はとても喜んでいるようで、紅潮した顔とぱちぱちした目がとても可愛かった。
「お姉ちゃんの弟も 二胡できるの ?J
私は二胡がで きる人だと耳 に入ると、す ぐにでも会っ てみたいと思 った 。
「そうよ。家に遊びに来ない? ここからすぐよ。弟の二胡も聞いてあげてね」
彼女は親切に誘ってくれた。
﹂
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私はもちろん彼女の弟の二胡が聞きたい。と 言 っても本当は、競ってみたい。これはいわゆ
る
、 「
三年の初心者 、天下無敵」 、若者の生意 気なところだ 。未熟なのに 、競争心が露 わなの
だ
。
それで、私は父と彼女の家を訪ねた 。彼女の家は 元豊橋の手前 で私の家から もそう遠く離 れ
タンジンユエン
ていなかった 。お父さんは 湯振元という 方で、中学校 の教諭で、お 母さんはある 小さい工場
で働いている 。彼女は湯錦 慧といい、弟 は湯錦亮と言 う。錦亮ちゃ んは一曲弾い たら私も一
曲を弾き、錦慧ちゃんは一曲を歌ったら、私も 一曲を歌う。 その晩彼女の 家で子供三人は、す
ごくはしゃい でいた 。親三人は見 守りながら拍 手したりして 、とても楽し いひと時を過 ごし
た
。
一回目は他人だが、 二回目からは 友人だ。それ から私はよく 彼女の家に遊 び、
に行った 。実 は
心の中ではお 姉さんが一人ほしいと憧れていた 。 だから会うと本当のお姉さんだと思って、お
姉さん、お姉 さんと呼んで いた。お父さ んに会うと湯 先生と呼び、 お母さんに会 うと伯母さん
と呼んで、いた。ただ、私より二つ年上の彼女の弟をどうしてもお兄さんと呼びたくないから、
錦亮と呼びす てていた。ち なみに、錦亮 は家でお姉さ んと呼ばない し、よく口喧 嘩していた。
私はよくお姉 さん、お姉さ んと呼ぶので 、むしろ錦亮 よりも可愛が られたから、 弟の錦亮は嫉
妬していた 。湯先生も私を大変可愛がってくれた。そしてなんと、
「私たちのと ころに小学校 三年生の趨寒 陽という子供 がいますが、 音楽の才能が あり、二胡
がとても上手です。よって貴学校への入学をご推薦します」
と、直筆で、
中央音楽学院付属小学校に手紙を出してくれた 。 そして、当時 の中央音楽学 院付
属小学校から すぐに返信が 届いた 。
湯振元様
お手紙ありが とうございま す。今年本校 においては六 歳の一年生 1クラスと五年生 1クラス
のみ募集しま すので、ほか の年次は募集 しておりませ ん。 申し訳ありません。
-152-
)
5
二胡情縁(
本人にはいっそう努力して勉強してほしいです。将来機会がありましたらまた申し込んでく
ださい。
以上。
敬具
七月三十日
中央音楽学院付属小学校
3年後に、
湯先生からいただいたこの手紙は今も大切に持っている。とこ ろで思いもよらず 1
私は長年の夢が叶い、中央音楽学院に受かった。しかも現在は この大学の教授だ。こうしてみ
ると、当時、中央音楽学院からもらった手紙は、今日ある私の運命への小さな暗示ではなかっ
ただろうか。
キ占
1)東方紅
3年
4
9
かつて毛沢東と共産党を歌う中国の流行歌である。この歌は、 1
) が、当時延安にいる毛沢東
5
5
9
3-1
0
9
1
の冬、中国際西省の農民歌手李有源氏 (
と共産党の指導を歓迎する農民の気持ちを表すために、「騎白馬」という曲から
「移民歌」という曲に編曲し、その息子である李増正氏と当時革命根拠地である
侠西省各地で歌い広げた流行歌である 。後に「東方紅」と改名し、中国全土に広
0年 4月24日、ソ連、米国、フランス、日本に次いで世界 5番目に
7
9
まった。 1
打ち上げに成功した中国初の人工衛星にこの曲が搭載されたほど、中国ではよく
知られている歌である。
2)二胡と京二胡
二胡
) は胡琴とも言い、構造簡単な擦弦楽器。 弓に馬の
n
i
l
o
i
eV
s
e
n
i
h
C
二胡 (
尾を使用していることから、バイオリンと同じく騎馬民族の楽器で、中央 アジア
0年前の唐の時代に献
0
3
のカマーンチェが担先といわれ、シルクロードを伝って 1
上品として中国に伝来した民族楽器である 。 その後、いろいろな改造を経て 今 の
汗妥となった。
筒:共鳴発声筒。表に錦蛇の皮を張る。裏は音をきれいに出すための窓。 一番
良い音が出るようにデザインしである 。
、外弦 A弦の
、竿に二本の弦が張って、弓を挟んで弾く。内弦 D弦の長さは 70cm
竿:竿の長さは 85cm
。千金とコマの距離は 40cm。二本の弦は内側 D弦、外側 A弦、音域は 3オクターブ。
長さは 63cm
0本。松脂を擦って使う 。
9
、馬の尾を張って、約 1
弓は竹製、長さは 83cm
、烏木
y
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、黒檀 E
d
o
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nr
a
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材 質 :二 胡 の 材 質 が 大 変 重 要 な の で 、 高 級二 胡 は ほ と ん ど 紫 檀 I
kなどの質の固い木材(水に沈む)を使用する。これらの木を総括し
u
o
d
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unnap
、花梨 B
kwood
c
a
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Bombayb
-153
愛知学院大学教養部紀要第5
7巻第 3号
て紅木 D. 1
a
t
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f
o
1
i
aともいう 。日本で言う紅木 RedsanderWoodは三味線の樟を作る 木材で、
檀香紫檀、花梨、紫檀、鉄万木(タガヤサン)、アフリカ紫檀の 5種類を狭義の紅木と定め
られている。
種類:六角形二胡 ・方円形二胡・楕円形二胡
六角形二胡は伝統の 二胡で、筒の表は幅
9cm
、対角線 1
0cm
。裏は幅 8cm
、対角線 9cm
。筒の長さは 1
3cm
。
方円二胡は二胡演 奏家の王国撞氏に よって開発された もので、筒の表は 八角形で横幅
9
.
5cm縦幅 9cm
、対角線 1
0cm
。裏は円形で直径は 8
.
5
c
m
。筒の長さは 1
3
.
5
c
m
。
京二胡
京二胡は京劇の伴奏 用の 二胡で、京胡とは異 なり、弾き方は二胡 に近い 。二胡
よりサイズが一回り小さく、主に筒に貼つである皮は蛇の皮で、 二胡の錦蛇の皮と音 色が
違うため厳密に区別する。
3)蘇州語常州語
蘇州語と常州語はい ずれも中国語の呉方 言であるが、蘇州の 歴史と文化が地理的 にも呉
の中心で呉の代表で あると同じように、 蘇州語も呉方言の地 域共通語であり、呉 方言の代
表方言である。
一方、蘇州よりや や北にある常州も歴 史も文化も古い町で あるが、地理的に中 国江南地
区で一番北に位置している。常州語は漢語古代要素を多く保存しているが、発音的に蘇州語と比べるとやや
硬い感じ。
4) 二胡の音階
二胡は二本の弦が張ってあり、弓は二本の弦に挟んで弾く。調律は伴奏のときに歌い手に合
わせるが、独奏の場合、現代二胡では DAで調弦されている 。
5
) r黄水謡」 とは、 1
9
37年に、著名詩人光未 然(張光年 1
9
1
3
2
0
0
2
) が発表した長編詩『黄河大合唱』の中
の一節で、著名作曲家洗星海 (
1
9
0
5
1
9
4
5
) によって 1
9
3
9年に作曲された民謡風の歌曲である。中国ではよ
く知られている曲で、二胡検定では中級 4級の曲である。
6)繍紅旗
ジャンジェ
中国歌劇『江姐.s (閣粛脚本、羊鳴他作曲)の曲
7)錫劇 (Xi
j
u
、無錫劇) 清の時代に無錫や常 州一帯に発祥 した民間娯楽のお芝居の 事を言う。 1
9
5
2年に常
錫劇と言われたが、 1
9
5
4年に錫劇と名称を統一 された。男女の配 役での演芸だが伴 奏は二胡がメインで、
首席二胡と次席二胡がある 。そのほか琵琶や三弦、揚琴、笛なども伴奏に入ったりする。今でも無錫市や常
州市一帯では盛んで、
ある 。
8)紅梅賛 中国歌劇『江姐.s (閤粛脚本、羊鳴他作曲)の主題曲
9) 洪湖 洪湖は面積が 4
0
2平方キロメ ート ルで、中国湖北省 l番大きい湖、中国では 7番目の淡水湖。「洪湖
の波打ち」は、中国歌劇『洪湖赤衛隊.s (湖北歌舞劇団『洪湖赤衛隊』創作班脚本、張敬安 ・欧陽謙叔作曲)
の主題曲。
1
0
) 転盤楼
U字型や回字型の木造建物
中国の蘇州、ほ中心とした江南一帯によく 見かける古い大屋敷の建築
形式。ほとんど二階建ての木造の建物で中庭があり、すべての部屋に広い通し廊下がある 。
1
1
) 珊瑚頒
中国の歌劇『紅珊瑚』の主題曲。中国人民解放軍海軍政治部歌劇団脚本、王錫仁、胡士平作曲。
154-
二胡情縁(
5
)
原文
第 5章 学 琴
人的命造的萌是一件非常玄妙的事,所走的毎一歩似乎都是偶然的,但如呆其中任何一歩梢
有偏差,一生所走的道路則会完全不同。我忌是感覚到有一手中神奇的力量
一歩一歩地安排着我
所走的道路,迭大概就叫イ故命這ロ巴!
我的父素是一位音示愛好者,喜攻柱手凡琴、吹ロ琴,迩是小不錯的男中音。父来的教子之
若,一定会見現;若犯了錯決,同梓是貴男不殆 ,h
人不俳情面的。
方,就是賞町分明。有什仏承 i
因此,我此小一宜彼伯父来。遇到什仏事,只要父素一睡 f
l
R,我就 F下得不敢吹声了。宜到現在,
依然如此。
父素手口妨妨昆然 A
人小教我も人字ザ、数,但双 t
吾耕音却是上了幼 )
L因后老姉教的。那吋我官、]上幼
jし因是以玩苅主的,学沃 t
吾耕音是一年的深程。而父素是小急性子,什仏事情最好立 I
J
;就摘定,
洗就迭仏九十小字母要学一年ヲ失友都要等白了。子是対我洗:
“休要是在一小星期内,能把双 t
吾耕音的二十一小声母和三十五小前母都背出来,我笑励休
ー支ロ琴。"父素イ良知重地税,因苅当吋ー支口琴要二元五角銭,相当子全家八天的莱金兜。迭
対我来洗,是一小大失明。
“ 明 , 行 !"我想了一下,党得努力一把是可以完成的,就答庄了。
A
人此我毎天放学国家,就捧着父来姶我抄好的一政沃 t
吾耕音声母音守母表イ吏勃地改ロ阿、背ロ阿,
迩在石板上写ロ阿。真是功夫不負有心人,到了第五天上,我当着父来歎写了一通,只錯了商小前
母。述有丙天兜,全部背出来是没有問題的。結果在第六天的晩上,我就一字不借地背出了沢活
耕音的全部声母和前母,而且任先父素顛倒 1
)
阪序歌写,也盆牽不錯,達片刻的抗環都没有。父素
1,李了我九句。父素当即允常明天是星期天,上午就帯我去芙ロ琴。
手ロ妨妨都千良高う4
迭是一小多仏美好的星期天ロ阿!吃辻早依,父来携着我的手,宜奔百貨大楼而去。一路上蓋
天白云,空気清新,街上的行人イi'J似乎小小都是喜気洋洋的,我也覚得脚歩是那仏地経松,心情
真是好板了。到了百貨大楼,文体用品在三楼。当吋的示器ヰE合実的只有口琴,没有什仏則的尿
器。要坑口琴,手中業主E真多,有木格的ロ琴,有塑料格的ロ琴,迩有重音ロ琴、イ氏音ロ琴等。木
50元,但由子木炭的琴格容易変形,因此使用的寿命較短。木格変了形,口琴就
格的ロ琴祢併 2.
池凡漏矢了,吹起来イ艮累。塑料格的口琴不会変形,使用的寿命長,吹起来品省勃,但祢ず卜要
3.20元。父素洗今天是笑励我,就看我喜攻明ー支就芙明ー支。我看着那支銀色的塑料格ロ琴,
実在も上人喜愛,可又想到父来那点工資,要非我イJ'J
一家三口人,真是不容易ロ阿。平吋父素或妨妨
帯我上街,即イ吏要走穿城的路,也忌是歩行着去,歩行着回,
1
5
5
y
b的就是省下来回丙角銭的公共汽
愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第5
7巻第 3号
牢票銭。迭塑料格的ロ琴要貴出七角銭,相当子多化了全家丙天的菜金,能省迩是省点ロ巴。想到
迭里,我乱:就芙那支木格的ロ巴。
“苅什づえ冴?イネヌ住道不喜攻那支緑色塑料格的口琴喝?円父来 J
惑到有些沌昇。
“我是喜攻那支緑色塑料格的ロ琴
イ
i
!
_t太貴了 。我
イf
J先芙那木格的,以后等 我吹好了再挟
P~ 0
" 畠i
午是我 A
人小生長在迭祥一小普通的単宗 家庭,辻早地知晩了生 活的甘苦,事事忌想着 能
省則省 。久而久之
成了耳慣
宜到現在
盆焼条件好了
也改不了常省的毛病,常常被女 jし
和
学生イf
J所笑淡。
父来所了,什づえ也没坑,只是深情地摸了摸我的夫,就芙下了那支 2
.
5
0元的木格口琴。
回到家中,我就迫不及待地季出口琴,要父宗教我吹。父素特口琴金中附贈的一小本薄薄的
教材打升,教我吹了起来。我当然ー下子学不会愛染的吹法,只能頓着噴吹単音,迩忌 t
己不住吹
手口吸的区別,所以ー吋尚吹不成洞。父来鼓励我坑: 没美系,慢慢地妹、詩、就学会了。我一小人又
掠了一会 J
L,党得失友牽,就対父来洗 :多多,我;怠 4失牽ロ阿?
“吠 P~~
,快則吹了。迭抜子身体迩是弱ロ阿,吹凡下就夫牽了 。
円妨妨一所就着急了 。
那就明天再掠ロ坦巴。第ニ天放学回来
等父素下班回到家中
我又一イ小¥人春
手
掠
t
鋳、 居然好多了
能吹一曲《ヌ末
k方主紅工》了。
我就急着想表演了。一吹迩真不錯,中岡没有“事執弛!iL錨
父素教新曲子。但オ学了一ニ匂
又覚得失牽得不行。妨妨一看就急了,一イ小L 効地“咲 p幼"イ小¥没
完,我也就起禁歌了。女ロ果イ又イ又是感到失牽│、司題迩不大,大概初学吹奏尿器的人都会有美似的情
況
3
随着封、羽吋阿的延綾,慢慢地就会進庄了。但我自 b
人学吹口琴后,不但感到失牽,迩引友了
流鼻血的毛病。而且忌是在半夜里流,夜里睡得好好的,突然就憶醒了 ,,J惑到喋子里有一科腹腔
的液体在流造去。我ー坐起来,血就 b
人鼻子里流出来滴到了被子上。我一見也慌了神,起忙叫:
“素娘,素娘,我鼻子流血了!"
妨妨和父素ー折,走王紫興起来,一面叫我:
“快蛸下,快蛸下。"
一面用涼水油湿了毛巾敷在我的額失上。辻了一会 J
L,血止住了。我彼快就又睡着了,弄得
妨妨和父来半夜睡不着。
第二天早上我醒来,除了鼻子有点堵以外,什仏事也没有,照常去幼 jし因。放了学回来,剛
牟起ロ琴要吹,被妨妨一把4-了辻去,乱 : 吠 P~~ ,昨天夜里都被イネ F下死了,今天就則吹了。我向
来是千艮折活的,不吹ロ琴就玩則的 P~ 。但則的也没什仏好玩的
辻了商天,妨妨看我挺好,息不ロÝ~ 牽
弘没再流鼻血
我覚得迩是吹ロ琴有意思。
就又允 i
午我吹ロ琴了 。我千良高共,
就覚得音羽ミ姪辻自己演奏出来,多好折ロ阿 !心里充満了成就感。不辻イ乃然不能多吹,吋同長了主主
是覚得失牽。我剛吹了三天,那天夜里又故イ支重演,鼻血再次染重工了被口。昆然千艮快被止イ主了,
但妨妨手口父素却受憶不小,自然又是半夜睡不着覚。他イf
J只伯我忌是午夜吋分流鼻血,則是血液
-156
二胡情縁(
5
)
有什 i毛病ロ巴?
第二天,妨妨帯着我先去幼 jし因清了仮,然后去常州市第二人民医院桂了号。医生栓査下
来,沈没什仏大問題,是因 J
g小 )L鼻粘膜的毛細血管比較脆弱,所以容易流鼻血,長大后就会好
的,回去后多増加菅非,カロ強抵抗力就行了。詮了一小血也都正常,忌算一決石失落了地。迭小
流鼻血的毛病ー宜服随了我十九年,宜到中学半jt_后去了常州市文工因,迩吋常要犯兜。那些年
没少去医院看医生,小吋侯医生忌乱*大后会自然疹愈;后来詮血又洗我血小板イ氏,姑角知道后
守i'l姶我芙来“花生衣糖楽'\是~i'l提高血小板的,但数果井不理想。最后迩是在随常州市文
工因赴芳、州演出期間,由我中学同学美明剛介錯,在芳、州医学院耳鼻喉科倣了一次鼻腔毛細血管
冷涼処 理,オ伽 底地根治了我迭小多年不愈的毛病,迭是后活。
看完病回到家里,妨妨叫我蛸着休息,可我好好的,又没什仏不告予服, 思仏蛸得住兜?子是
I
吃辻牛仮就又上幼 jし因去了。量然医生根本就是把我当作一小健康的 3
妻子,只是升了一些錐生素
C 、B6等菅非萄,其突吃不吃都商可。但父素手口妨妨却始終放心不下,ロ琴是再也不敢 t
よ我吹
了,因而楼上那仇美的口琴声就此此絶ロ向失!
吋阿辻得真快,一晃半小多月辻去了。幼 jし因放了寒仮,新年到了,那吋候我イ]
f小夜子只助
着辻年,有新衣服穿,有糖果吃,不上学,尽玩 jし。大年初ー就到タ卜面去看大人、孜子イ]
f放爆
竹,但我忌是高得返 i
毛的,不敢章近。見祁居就妨妨、阿焼、叔叔、伯伯地叫,畠能 得到些糖
果、花生之業。量然父来、妨妨会姶我一二角銭的圧歩銭,但根本令不得季去芙爆竹,忌是投入
ーノ
ト陶芸と的儲蓄纏中。
初三那天,父奈帯我去天守寺数~沃。我看到山口内四大金剛的塑像吋,忌覚得有些害 f白。
但対其中一小手里牟着琵琶的金問u
1
艮感兵趣,就[可父来那小菩日左手里掌的是什仏尿器,父来告訴
我是琵琶。我天真地乱:要能 j
陀上去弾弾就好了。父来走王忙坑道:那可不能弾,不是有匂活乱
‘四大金剛的琵琶弾(淡)不得ヲ喝?
“J
g什仏弾不得兜? "我不解地(司。
“四大金剛的琵琶要是一弾 P阿,可就要地坊山揺了。当然,迭是《西瀞氾》里面汎的。時現
《西濃氾>>,社天(常州、│活‘守政到板点'的意思) <<封神梼》姉。"父来笑着答道。
“要不我品学弾琵琶ロ巴
只要我一弾起来,就地坊山揺了,人家就都伯我了。"
“那イネイ故一小歩,到四大金剛那 jし去学唱。"
b
人天守寺出来,父来又帯我到紅梅公園去玩,述姶我静玄妙月見和文会主塔的侍乱。父素乱:“迭
座文隼塔ロ阿,在タ阿西下的吋候,セ的影子就象ー支宅,映在常州的大地上。因此,在常州的JJj
史上出了好多オ子児!就看イネ是不是迭其中的一位了。"我伯父子商人高高共共地ー宜玩到下牛
三四点オ回家,迭小年就算辻去了。
我年前学吹ロ琴的迭件事,要乱是世界上最微不足道的事 jし了,女ロ果セ皮生在女ロ今的単元楼
一
1
5
7
愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第 57巻第 3号
里,オ不会有人美心兜!可此事迩真被一小人放在了心上,
}
A
人而引起了我的“今世琴生縁象
年初九的早上,妨妨去i'lロ的井台上洗莱,正好遇見我家楼下的一小部居~去洗衣服。弛是
常州市ー中的実詮室老姉,姓?長名可芳。要坑迭位?長老姉,挺手口高可来的一小人,就是因 J
J身体
有病,近四十歩了仰没結婚,一五和老母来住在一起。現在学校放寒仮,在家元事,迭オ帯着老
母来去井台上洗衣服。?長老姉和我妨妨一見面,自然要互相奔年、阿候一番,接着一面各自洗着
手中的末西,一面聯些家長里短的│河活。沈着洗着?長老姉突然想起一件事来,対我妨妨洗:起家
阿婆ロ阿,前一昨子我折到 f
才、家的ロ琴吹得真好折,我品挺喜攻音ゑ的,所着心里千艮高兵,可最近
;&i,折不見了兜?
“
吠p
幼
, ~長老 Y市 P阿,イネ迩洗迭口琴哨,人都要姶 i主張子町死了。我 i主小列、子小君挺聡明,他
父来叫他背那小沢 t
吾耕音
乱ー /
ト星期背出来有笑
他冴六天就背出来了。他父来笑了他一文口
琴,教他吹,吹得迩真好析。可迭該子身体弱ロ阿,吹着吹着就味失牽,更咋人的是半夜里鼻子出
血,滴得被口上全是血。就迭祥再不敢キ上他吹ロ琴了,途半ノト多月不吹ロ阿,鼻子就没出辻血。円
妨妨乱着吹了口気,“喚!我イ1']起家是三イミ羊イ寺 P阿,要是家里有他三五小技子,品就不用迭仏社
人担心了。"
“喫,原来是迭祥 F阿,我乱兜吹着挺好所的 , 乞仏突然就不吹了兜?那休刊]何不+上他学社二
I
胡兜? " ~長老姉建五(道。
“学社ニ胡?可堆来教他冴,家里没人会柄。"
“我会系 x
鳥糸鴨似地柱丙下,我可以教他ロ阿。我就礁着迭子支子聴明,挺喜攻他的,反正天天
放了学回家也 │
河着没事。" ~長老リ市坑着乱着迩挺激劫,大概述~是イ故老姉的天性,就慮、意教学生,
尤其是自己喜攻的学生。
“吠 P~1 ,迭又要麻煩?長老押了,等他告を回来我イI'
J
再商量商量。首t
謝?長老姉!"妨妨ー吋弘
牟不定主意,不知父素同意不同意,述不知我慮、意不慮、意兜。
一会 )L功夫,商人各自把手中的要洗的末西洗完了
3
互相道則回家不提。
傍晩吋分,父奈下班回家,妨妨走王緊~守早上与?長老姉淡的事洗了。父素想了想,悦 : 学学也
好,能多学一i'l手芝,以后荒年都俄不死。
“喚!迭ニ胡是暗子社的末西,小君長大了又不去算命,学二胡も上人礁不起。"妨妨迩有頗
慮,因而不大同意。父素税:迭是老黄 !
J
j了,現在都新社会了,学二胡的息不都是暗子。況且又
不把セ当仮吃,学着玩玩墨了。既然?長老姉一片好心肯教,駁了人家的面子多不好,就キ上小君学
着看ロ巴。要悦当吋我対ニ胡根本就不了解,息不知道学了二胡会有什仏好井上,不学二胡又会;&i,
梓,反正父奈洗了+上学我就学ロ巴。第二天父来下班后,就帯我去南大街的一家尿器行,花五元銭
芙了一把ニ胡。迭其突不是ニ胡,是ー把京ニ胡,而且是柴木制成的イ氏枯琴。当吋一方面是因苅
父素和我都不憧ニ胡
尚分不清二胡与京 ニ 胡的区別;男一方面~是因 jり まさ把京 二胡最便宜。回
-158
二胡情縁(
5
)
家后我兵高釆烈地牟姶妨妨看,妨妨 A
}
A箱子 j底思抜出一決藍布,均我縫了一小琴袋。Ilt辻晩
仮,妨妨就領着我下楼到?長老姉家上了第一 t
果
。
迭是一小イ宜得妃念的日子,是我升始学ニ胡的第一天。迭一天是 1962年 2月 14日ヲ衣応正
月初十,星期三。
士主位?長老姉小子不高,月半月半的,戴着ー什眼鏡,俳一口芳、州活。平吋我与地千良少見面,所以
井不熟悉。到了?長老姉家里,地老母来迎了出来。迭是一位特別慈祥的老妨妨,比我妨妨年齢述
要大ー些。看我有些拘遵
?長老姉非常熱情地招呼我
姶我牟糖果、花生。然后搬了一張方売も上
果
。
我坐下,ヲ干始上 t
果的吋候,弛就季出白天均我
可以看出ヲ?長老姉説教我学琴是主人真的,因苅在我 第一次去上 t
抄好的浩子。当然,那是最筒羊的丙首歌曲,抄在 })d
事、巧本上掛 下来的紙上。接着先教我忽祥持
r
r
琴
, 巴梓牟号;告訴我里弦是“ 1円音,タ卜弦是“ 5"音。因苅我小 jし小,坐在方売上脚移不着
I
地,二胡忌是此腿上滑下来,惹得?長老姉宜笑。
吋阿辻得千艮快,一会 )L功夫一小多小吋辻去了。我感到困了,宜打開合欠,思想巳姪不大集中
了。張老姉洗:好了
迭ニ胡可不是一天就能学好的
我イrJ明天再学ロ巴
休明天要自己掠巧掠
巧,好喝?我点点失ヲ妨妨起禁洗:咲 P~1 , ~長老姉辛苦了。又対我洗,述不起快 i射謝?長老リ市。
“
i
射i
射?長老姉。"我イ良草地 i
射了?長老姉。
“勿客企\,勿客~。明天吃了晩仮再来 。" ~長老師沈着把我 1rJ送出i'l口。
A
人此,我毎天吃辻晩仮都到?長老姉家学琴。升了学
我白天上幼 jし因,晩上一天不落地去上
ニ胡 t
果。要乱学二胡血挺苦的,最堆熱的是南方冬天没有暖気,三九四九的天気,屋里的温度常
常在零度以下,因此柱琴吋我的商只小手沫得象“埼爪子"一般,一定要用熱水袋熔熱了ヲ再嫁
上半小多小吋手オ能自如地活勃起来。但我的進歩迩是挺快的, ~長老姉主教得彼帯効。光明イ以
箭ヲー特眼就到了“三人女ヨ女帯"了。
1962年的“三八知女帝"是星期四,因先学校規定女老姉官、]放仮半天,所以中牛我就放学
回家了。吃辻牛仮, ~長老リ市上楼来日刊我, 1
見
地
イ
J
'J
学校下牛挙行咲攻会,要帯我去表演。刻看我オ
学了二十三天ニ胡,但品会社七八首歌了,述会自社自唱児。我整天不是上幼 )L因,就是│司在家
里,ー折洗?長老姉要帯我去表演,頓吋就来了効。走E
禁挑出辻年吋剛イ故的新棉祇穿上,打扮得整
整芥芥、干干 J
争J
争的,掌上ニ胡就服着?長老姉来到了常州市ー中。
因苅是“三八帯'¥校因里桂着 i
午多彩条
主工生工録緑地真好看。迩貼了不少生工祢 t
吾,写着:
“祝知女同志イ日常日快'* !"、“向知女同志イJ'J
学巧!"、“向如女同志イJ'J
致敬!"等等。来来往往
的老姉手口同学イrJ也都是うそ高釆烈的
股上都桂着幸福的笑容。我ー只手掌着ニ胡,月一只手紫禁
地主1i.着?長老姉的衣角,生伯走妥了。但眼晴却不移用,ヌ主政西望地,看明 jし都新鮮。
?長老姉帯着我走遊-1"可用彩条布量得非常漂亮的大教室,黒板上方桂着“皮祝三八知女帝咲
-159-
愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第 57巻第 3号
攻会"的横幅,屋里巳有彼多中青年的女老姉,迩有不少高中的女学生。一見我イi
J遊来,都鼓起
掌来。原来?長老姉巳姪対地官、]併了,要因去帯一小柱ニ胡的小朋友来表演。尤其是那些高中的大
姐姐,対我喜攻得不得了, :iさ小辻来抱抱我,那小辻来来来我,迩 b人巣上告~了好多糖果、花生塞
到我的手里,我一下子成了一位余星捧月的小王子。
耳美攻会升始了,首先由在座的老姉和同学イJ']表演常目,元非是唱歌、朗涌、静故事等等,述
告鼓侍花。当鼓声停止的吋侯,花留在堆的手里,堆就得表演常目。等熱岡辻一昨以后, 1
長老姉
枯起来乱:
“大家静一静,静一静,現在攻迎我イ│、]的小客人捨大家表演ニ胡独奏。"
大家熱烈地鼓起掌来。我季出ニ胡,乱“我先社一首《黄水活)),社得不好,清老リ市和姐姐イ│
、
]原涼。"
大家又笑着鼓掌,有的老姉述乱:“休礁逮夜子,小噴多会主井口阿。"
我就先柱了一首《黄水活)),要武社得好,肯定淡不上。休想ロ阿,我オ学了二十三天二胡,
就上降去表演,再是天オ,.t!!,好不到明里去。但当吋学ニ胡的人不多,象我迭仏小的敦子学ニ胡
的在当地筒宜就没有
不管柱成什仏祥
礁着都是稀卒的。而且 我是“初生牛核不伯虎 ぺ表演
欲板強,根本不知道緊張、害伯。ー曲終了,大家再次熱烈鼓掌。迭小洗:柱得真好,迭該子大
可愛了 。那小説
J.
好好好,再来一昔 。有位老姉迩阿:“小朋友,イネロヰ什仏名字苛? "
“我叫起寒問。"
“那体長大了考我イi
Jー
中ロ巴。円
“好ロ阿!我家就住在芳造,挺近的。"
比吋只所?長老押乱:“小君
件、自社自唱一首《場全工旗》ロ巴。"
“彊!迩会自社白唱ロ阿,快社快柱,大家攻迎!"有位老姉汎着帯失鼓起掌来。
“
銭 jし
長
,
生
十J
L密
,
合着熟泊券生工旗,
券冴場全工旗。
稚撤的童声和着二胡, 迩真有九分勃人児。ー 曲唱完,大家的掌声更 熱烈了,七噴八舌地
洗:ロ阿味不容易,不容易,頗着社;t仏主E~~ 頗得上唱兜?一心都能ニ用ロ阿。有的老リ市城着:再来
一小,再来一小。可有住老姉洗:快も上荻子歌会 j しロ巴,又柱又唱的,太累了 。 子是有的大姐姐~守
剥好的枯子放到了我面前
有的大姐姐事~了一把花生塞在我手里,弄得我不知道先吃什仏好了。
休息了一会 J
L,在大家的熱情逝清下,我又柱了九首曲子,自然弘是掌声一片,深受攻迎。
宜到?長老姉帯我回到家里,我{乃然共奇不巳。此吋,父宗巳姪下班回来了,我就迫不及待地~寺下
-160
二胡情縁(
5
)
牛的情景有声有色地主井姶父素手口:妨妨折,他官、]折了弘非常高兵。迭一次表演姶了我十分深刻的印
象,;h此我イ故出了一小“重要"的決定,期重地向父来和妨妨宣布道:
“我迭輩子就要吃ニ胡迭碗仮,要柱出名 !"
此此,我学巧ニ胡的熱情就更高J5K了,毎天ー吃完晩仮,就催着妨妨走E
快帯我下楼去学琴。
?長老姉-ill,真把教我学ニ胡当作一件正姪事来イ故,白天利用深余吋岡到井上苅我牧集歌曲,井抄得工
工整整地;学校一放学就是緊田家,早早地吃辻晩仮等着我。那吋候二胡的教材少得可怜,守止
的教師更是絶元イ又有,大部分的愛好者都是在盲目地自学ニ胡,后来我的ー些琴友也都是如此。
?長老姉昆然“糸喝采鴨"地柱辻凡天二胡,但半寛没有姪辻系筑的学ヨ,所会有限 。因此,当我
学琴到四小月的吋候
?長老師就星得力不 A
人心了。
迭天是ー ト
ノ 星期天,吃辻早仮, 1
長老押就上楼来,見我父来在家,就乱:起姉博 P阿,休家小
君是小聡明的子家子,迭ニ胡学得イ艮快 。我 哨,実在是水平不行,我会的他都学会了,再教下去我
i
l
l
,
不
会
了 。我想 了一晩上,覚得不能耽涙了該子,休再姶他抜一小水平高的老姉唱。
“?長老姉, 1
1
射i
射イネロ阿,迭凡小月来イネ費心了。本来我官、H包是想も上荻子有/ト愛好,省得没事出
去同禍。既然他学得下去,我就再想 j
;
、
'法姶他扶扶老 姉ロ巴。" 父来一面 i
射着?長老姉,一面倒苅此
添了心事了。
第二天父宗一上班
就去拭了 f鋲部牢阿机匠栃明徳リ市博 。栃 姉イ専是ー名机修工,技木在 f
里数一数ニ,是一位 受人尊敬 的老姉博 。 他有-~色,人 家 干活吋穿工作服,弄得一身一手的油
汚,而他干活吋却穿着白村杉,等活干完了一看,身上一小油点都没有,活迩干得漂亮。栃姉博
不但机修扶*高超,迩柱得一手好胡琴 。 当吋 f イ具-*部有一小~余的錫刷因,他是示臥的主胡。
因苅扶*好,人就堆免高倣些。父来季
ロ
他 同在鋲部工作,美系迩算可以。
在喧│司的牢│可里,父素拭到他,洗:老栃,求件、一件事 。我 jし子学ニ胡,原来的老姉乱教不
了他了。我想主上jし子奔イネ苅姉,清イネ来教他,不知イネ能不能答庄?栃姉博笑了一笑,洗:教孜子
柱ニ胡?我没有耐心的。父素見他抗諌,就洗:休去看看,女ロ果覚得孜子聡明児,イネ就教;覚得
夜子不成、明兜,就算了。行不行?栃姉博不好意思一口回絶,就答庄下了班去我家,先看看情況
再悦。
傍晩大約六点多併,栃姉イ専女ロ釣而至。只見他人長得高高痩痩、穿得干干 J
争J
争,看上去真是
ー表人材。父素手口妨妨熱情地接待着客人
当然主角迩得是我。自此“三八知女帯"我去市一
中表演以后,其表現欲十分元杏,家里有客人来 ,恨不得立刻柱凡首姶他イfJ折折。我上前叫辻栃
老姉,然后季出二胡,尽其所学,又柱又唱起来。宜所得栃姉イ専眉升 N
R笑,乱 :好!好!我迩真
没見辻有該 子能自社自唱的
迭徒弟我牧了
明天我帯了琴来教他。奔姉考 t
式就算通辻了,栃姉
イ専比比正式成;h我的第二任二胡老姉 。
第二天晩上,栃老姉果真季着ー把二胡来到我家,迩帯来一本油印的錫刷曲淵。我一見栃老
愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第 57巻第 3号
姉的ニ胡,真感覚到眼前一亮。迭是ー把老生工木的克夫園筒ニ胡,由芳、州制琴社制作,看上去有
些年代了,琴杵和琴筒都被磨得程亮,柱起来声音非常国湖。我季在手里看了又看,筒宜愛不梓
手。栃老師見我迭仏喜愛迭把琴,就 t
見:迭把琴我牧痕了好多年,現在我把セ先借姶イネ,休要是
学得好,我就送 9
合体了;如果学不好,我迩是要季走的。我心中非常激勃,想不到能遇上迭仏好
的老卵,令得特 Jむ愛的ニ胡借姶我鋳、羽,女ロ果我学得好迩送姶我,更増進了我学好二胡的決心。
接着栃老師姶我上保,教我 G 洞
、 F淵的演奏技法,述教我挟把的方法等等,所用的教材就
是他季手的錫刷曲調。
在我イ│
、
]上深的吋候,妨妨就忙着焼水、合米粉、援元宵,等到深阿休息吋,一碗熱気勝勝的
糖元宵就端到了老姉的面前
述就是姶老姉的全部酬芳了。
在那小年代,不玲是学五器、学美求、学二持法、学下棋,
J
A来都是一手中人情往来。学生所能
扱答老姉的,唯有学巧的成績。牧学襲被主人均是“按タト快¥是造法的。再現,在人官、]的心目中,
也没有交学費的概念。如果不是当吋社会的迭科情形
我敢洗現在活妖在芝;te舞台上的件多芝木
家
イ
│
、J,包括我在内,大多不会走上芝;fe的道路。
栃老姉的家在衣村,平吋ー宜住在 f集体宿舎里,下了班除了和工友イJ'J打打牌、柳柳天,毎
星期六倶示部有一次活劫タト,元事可イ故。自 b
人教我学ヨニ胡以后, :!さ件事倒成了他Jr余生活中最
要j
f的事情了。他到井上苅我牧集 f
f
i普
:
i
3
自己先妹会了,再定期到我家来姶我上保。漸漸地,錫刷
曲淵不能満足教学的需要了,栃老師就抜来歌曲教我柱。我,忠能千艮快地学会,而且只要会社,就
能自社白唱。初老姉苅此非常高兵,在 f里也逢人便俳:我牧了一小胡琴徒弟,迭子京子攻、明,学
得快,迩能自社自唱。什ゑ吋侯 f里有活功,我叫他来表演。
吋光流逝,一晃“十一国皮帯"又到了。大成 -r
作均一小有二千多取工的大企Jr,“皮祝
固反晩会"的規模自然是不小的。那一天,全 f上下弦灯結彩 ,y
)
氏喜失洋洋。在イ具泳部安排常
目的吋候,栃老押首先把我的表演納入了布目羊中。迭天下Lf 父素帯着我来到了 r
rl口。当吋
大成 -r
的r
l.:E制度相当戸格,不帯着 f徽或出示工作近一律不准造 f。則看父素在ア里工作了
多年,我迩み人未道辻 r
rl児。辻了一会 J
L,栃老師季着一政由 f保五共!こ升的入 r
i
正出現在我イJ'J面
前,対日 E的同志汎 :晩上下了班来大食堂看守す目,今天迭小小夜要上台表演自社自唱児。
道了 r,耳迫イ寺来牢阿机器的隆隆声,対我来乱是多仏的新鮮 P阿。栃老リ市対父素洗 :老起,
休先帯夜子去牢同参規参規
我在イ具 f
f
i部里等休 1
f
J。
進了牢阿,冴!真大 H阿!我紫緊地事K住了父来的大手,一刻也不敢放松。因均一排ー排的机
器
, i
守牢│司隔得如同迷宮一般;而且机器的喋声彼大,即使商小人面対面俳活,也只能看対方的
ロ形来清測其意思。一旦走散了,扶息不容易, ~成也肝不見,那吋就只有着急的紛 j し了。
牢l
司里那些杭棉机、坊妙机、鋲布机真好玩,迭迫棉花退去,那迭棉条出来;迭迭棉条又逝
去,那迫棉妙、
又出来。最好看的迩是布机牢[司,一小机校在妙 t
b中丸来丸去 ,雪白的布就一点ー
-162
二胡情縁(
5
)
点地訳出来了。那些拍牢的女工,身上系着白圏全君,失上帯着白帽子,勃作是那 仏地麻利,歩伐
是那仏地経盈,在我的 a
R里筒宜就是美的化身嫌。弛引、]都北沢父素,碓上了笑一笑,算是打小招
呼ヲ因苅俳活是肝不見的。有的迩辻来摸摸我的胎,接着又忙着巡牢去了。我心中不免又酸楚起
来,想女ロ果有迭祥一小鶏角在牢(司里,地一定会辻来抱抱我的。
i
]正在排戒。排的是錫刷《双推磨>>,第一次所人唱戎,伴
出了牢岡来到イ具;f_部,栃老リ市他 1
随着ふ臥的伴奏,真是好所板了!一段戎排完,人イi'J就国技辻来,迭小洗: P~*J,老起,イネ的 j し
子?長得挺羊的嚇。那小乱:老栃, :1え就是体的徒弟ロ阿?今天晩上要表演喝?先来段拾我fI']所
所。栃老姉笑了笑,洗:イネイJ
i看我迭小徒弟不錯 P巴,不辻現在不能唱,現在所了晩上再所就没有
意思了。
“ロ1~1 ,
幼,老栃迩‘全組, (常州活実美子的意思)兜,晩上我イJ
i都化了装在后台, 忽仏去前
P
I
台看 P阿?快!快!来一首"余人不依不焼起来。
i可乱好了,只来一首ロ阿。"栃老姉既然
“判明,真季イネイi'J没亦法。小君,那就来一首ロ巴。我イJ
皮了活,我就先妹封、ロ巴。
我季出栃老姉的那把老生工木克夫ニ胡,洞好弦,自柱自唱了一首《紅梅勢》
“生工岩上紅梅升,
千里ホ霜脚下採,
三九戸寒何所懐,
一片丹心向阿升,
向阿升。.....
"好一一!再来一小!"余人又是鼓掌,又是喝彩。
“不来了!不来了!我イJ
i汎好一首
就一首 。則把 3
夜安子的喋子唱唖了
晩上;忽乞仏唱 p阿。門栃老
押急忙枯起来“救主雪z
有一イ小¥阿填走辻来柱着我的手乱:好了,不唱了,我帯休吃仮去。余人一見,又起咲道:
P~*J
,又拍牛寄奇的2.;見。因均父来的嬉号叫“起牛ペア里的女エイi'J都叫他牛寄奇。
“我就是拍牛寄奇的2.;尻
イネイi'J又;巴祥? "那位阿境也不示弱
余人又大笑。那阿填息不理
,領着我的手就走。到了食堂,芙了一伶莱心地獅子夫(一科大肉丸子),ニ商米依端到我
他
官
、J
面前,現了声:吃ロ巴。乱着自己又去芙了一伶青菜,二両米仮坐在芳造吃。
我看地自己只令得吃青菜,却 4
合我芙莱心地獅子夫,心中彼辻意不去。因此用湧海了仮,就
着莱心把依吃完了,留下一小獅子夫不好意思吃。阿焼見我不吃獅子夫,以苅不好吃,洗:忽仏
不吃獅子夫ロ阿?不好吃喝?我揺揺失,洗:好吃,可是イネ只吃青菜,我在家吋多多常洗,有了好
莱要大家吃,不能只+上小夜子一小人吃的。
"P阿 P~*J
,迭小牛奇奇規矩迩迭仏大,在阿妓迭 J
L
有好的就 +上小技子一小人吃,快吃ロ巴。"
1
63
愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第 57巻第 3号
“不,多多洗小夜子要菅非,大人息要菅界。如果大人身体不好,小夜子会更苦。我官、]迩是
一人一半 IJ~ ,不然我息不吃。"
“助!:i主張子多憧事ロ阿,我有一小女 J
L,比イネ小丙歩,等長大了嫁姶イネ,我就喜攻休迭該子。
那好,我也吃。"悦着,阿焼用侠子夫了一小決送道噴里,又催促我洗:
“迭是イネ的了,快吃ロ巴。"
我迭オ特大半小獅子夫吃了。吃完仮,阿焼領着我回到倶泳部。辻了一会 J
L,父来、栃老姉
他
イ
J
'J
也陪綾吃辻依田来了。迭阿焼一見父素,就洗:牛奇苛,イネ jし子長大了一定姶我倣女婿ロ阿。
我先洗的,不准姶則人判。余人月If了
全都笑奪了腰
起咲道:イネ倒会倣生意,ー頓仮就芙小女
婿,世上明有迭等便宜的芙実?迩不知道イネ女 jし長得漂亮不漂亮,人家看得上看不上児。阿焼折
了
, ~良晴一睡,ヌす着余人嘆道p.畏!イネイi'J坑什仏凡涼活?我女 JL ~郷小児了不乱漂亮,什仏吋候帯
来ロヰイネイi'J礁礁,保主正イネイj'J小 ト
/ 争着想要地倣 jし娘担。鳴!我迩不姶,我就喜攻牛苛奇的迭小 jし
子。余人更是大笑,イネ一言我-i;吾地洞侃不迭。事后那位阿焼果真帯着地的女 jし来辻我家, 1
:
上
勉
女jし叫我喜T
喜
f,后来父来 4
包帯我去辻弛 家
。 弛女 J
L果然是 ノ
ト漂亮、手巧的女子東 J
L,可最終息没能
成J;我的夫人。真可南“元集不成夫妻ぺ非人力可均也。
“反祝固反晩会"的演出場地就改在食堂的大庁里,迭是一小帯舞台的多功能庁,平吋放上
巣子就是仮庁,升会吋排上長条売子就是礼堂,特売子撤捧迩可以跳舞。只見舞台上方的大横幅
上写着“反祝国皮晩会円六小大字,舞台上接着併台和国着白布的長巣,准各升会吋領専就座。
参加演出的演員官、]在后台化装的化装,准各尿器道具的准各尿器道具。我礁着 什仏都新鮮,迭 jし
礁礁,那 jし看看,高兵板了。
晩会按部就班地道行着,先是領専上台就座,宣布升会,奏国歌;然后領専静活,各方人士
文言。其英会吠井不長,也就半小多小吋,但台下的人イj'J却星得有点不耐煩,乱咲咲的,大家交
失接耳,都助着演出早点升始。
好不容易熱到会決結束,布目升始了,台下一下子安静了下来。扱幕員是 f宣侍科的一小女
同志,年経、漂亮,用略帯常州ロ音的普通活祝大家令日快-*!前面的常目元非是唱歌、朗涌、
舞踊等等,都是 f各科室、各卒│司姐奴表演的,由子水平一般,台下的規余漸漸地又有些耐不住
性子了。大家知道,好 戎在后失兜!
小帯目演完了,下一出戎是 fイ具示部表演的錫刷《双推磨》造場。大幕柱上了,舞台上正在
搭景。只見一小工作人員上台来,将一政方発横倒着放在台前,又把活筒ヰ干洞得イ剛氏的。接着扱
幕貝 A
人台側走 出来,用甜美的声音扱道:
“下一小常目,由起寒阿小朋友表演ニ胡独奏,井自柱自唱《紅梅勢))
0 "
其実我早就在台側候坊 了,等得凡乎都有些不 耐煩了,心想忽仏迩不 叫我上 P阿!就在比吋,
只折栃老師{則氏 地一声令 下:上!我牟着二胡就走上台去,則看当吋 ノ
ト子小,倒品挺神さえ的。往
-1
6
4
)
5
二胡情縁(
人来
台下一礁,黒圧圧地一片。晴!規余迩真不少 P阿,当吋心中覚得既禁政,又共杏。緊張的是 A
午是出
没有在迭仏大的場合表演辻;共奇的是有迭 4好的机会露一手,看的人越多越来効ロ阿。也 t
乎了規余イi'J的預料,台下頓吋熱│司起来,大家扮扮淘[司:
.}A没見辻? "
妻子?我:0i
“迭是堆家 3
人明里清来的?挺神気的。円
“迭小小朋友 A
“迩能自社自唱?迭小帯目倒没折辻,挺新鮮的。"
不 知 是 堆 “ 嘘 !"了一声,台下オ安静下来。我自社了一句辻!'l,就随着琴声唱了起来。
迭自柱自唱井非是柱的吋候不唱,唱的吋候不柱,而是述柱述 11~ ,要求手上音不断,口中河元
錯;迩要倣到琴声悦耳,歌声甜美,表情半富,有声有色,庄波乱是具有一定堆度的。尤其在当
吋人引、]文族生活貧乏,欣賞水平不高的情況下,我的表演其表勃数庇絶不正子現在港台歌星的小
唱音訴会。一曲終了,台下掌声雷幼,“再来一小!"之声此起彼伏。扱幕員又上来扱道:
“下面越寒阿小朋友再姶我イi'J表演《洪湖水,浪打浪》。円
規余イi'J又鼓掌以示攻迎。我対了一下弦,又継接唱道:
,
“洪湖水冴,浪時づえ浪打?良 P阿
洪湖岸迫是冴 4是家多ロ阿。
L去冴去撒岡,
清早船 J
晩上回来金満舵。・・・
只見台下僕光灯ー内,よ│寺周史的珍費場面定格在一弦小小的紙片上。事后父素特意技到負責
撮影的工会干部,要到了迭政照片,至今一宜保存在我的相舟中。
ト荊,就向台側胞去。剛到台述 ,扱幕員就迎了上
歌声オ落,掌声暴起。我立占起来,鞠了 ノ
青我再演一首。我ー看,只見栃老姉在呈面亘姶我打手勢,示意我再来一首。我又重新走
来,避さ t
上舞台,只所扱幕員微笑着坑
“各位規余同志イJ'J,庄大家的要求,我来介詔一下迭イ立可愛的小朋友。迭位越寒阿小朋友是
L因的学生,学
我f奴部起君行姉イ専的独生 jし子,是栃明徳姉イ専的弟子,現在迩是新坊耕小学幼 J
琴オ半年多,就表現出了迭づえイ光秀的玄米オ能,我イJ']祝慮、他長大后能成 sー名ホ出的音尿家。下
"台下的規余官、]又熱烈地鼓起掌来。
面起寒阿小朋友再姶大 家表演一首 《幼生工旗 >0
午
迭首《携生工旗》我“三八知女常円吋在市一中巳姪表演辻了,也算是我的保留曲目了。也 i
是“初生牛核不伯虎"ロ巴ヲ小吋候我上台表演此不知道什仏叫緊張
3
良晴
一迫柱着、唱着,一迫 H
迩“骨溜溜"地四井上乱看,拭抗父来是否在台下坐着,看看有没有我主人沢的叔叔、阿焼。等長大
了我オ知道,上台后眼晴四赴乱看是舞台表演的一小大忌,セ会板大地分散規余イi'J的注意カ,ん人
手致演出失敗。但小吋候上台根本不憧規矩,也正是迭元失口元畏,オ星露出天真可愛的一面。
而i
-165
愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第5
7巻第 3号
因此,規余盆牽没有責怪我的意思, 1
乃然是那祥地熱情高 j
味
。
白A
人我在“反祝 田氏晩会" 上演出后, 在大成
r可算是出了名了。有吋侯父素帯我去ア里
洗小操什 i的
, 一到 r
r
円
j口,見[円
l.:E.ロ叫刊一声“叔叔
的小朋友喝?好,進去ロ巴。宜到今天,只要阿到当年在 f的老工人,イ乃是氾妃抗新,府所在目
的
。
我l
f
R栃老姉学了 三年ニ胡, 到了三年夫 上,栃老姉 洗我咳満姉 了。父素ー 折,着急地 説:老
栃 F阿,是不是 小君他学得 不好,イネ 不肯教了? 栃老姉ー折 ,笑着乱: 不,不!正 是小君他学
得
好,我実在 也没什 i可教的了。再乱学徒三年,按規矩-ill,i;支満州了。子是在ーノト星期天,父素去
芙了一只喝,地了兄島湧,清栃老姉吃了一頓仮,算是謝リ市宴。栃老姉 i
吾重心 4
土地対我坑
“小君 P阿,イネ千艮聴明
所会的,息 不辻是
4
二胡学得彼 快,但千万 不要研倣。 要将ニ胡柱 好,真是不 容易的。我
三脚猫'而 巴,不上枯 次的,以后 f
庁、述要再抗更好的老師学。迭把克夫二胡
就留姶イネ作小記念ロ巴。"
当我知道栃 老姉以后再 不来姶我上 t
果吋,心里 真挺恋恋不 合的。折了 栃老姉的一 番活,鼻子
酸酸的,眼晴湿湿的,忙蓉庄道:我氾住了,制謝栃老師。悦着恭恭敬敬地朝老姉鞠了三/ト弟。
栃老姉走吋我和父宗一五送出老返,オ依依惜別。
b
人栃老 姉那 jし満州后,我有一年 多吋阿没有 抜到更高是 次的老姉, 只能掌自己 採 弓了。由子
鉄乏進一歩 的指号
詩、ヨヌ住免有一定的盲目性
演奏水平提 高得不快。 即使如此, 其学司 、演奏
的熱情イ乃不滅分牽,牟着ニ胡到井上抗人切嵯技芝。迩有一絶的是,経常在晩仮后,父来騎上自行
牢,我坐在 后架上,社 着ニ胡満城 兜凡,最后 在紅梅公園 ロ的 f場上激情演 奏、放声歌 唱,成
n
先当吋常州ー景。
当年的生工梅会困地井上京
了晩上九点 件以后
n
ト
タ
地 f人稀
略毘備僻
就イ良少見到行人了。在紅梅公園
迩没有路灯 ,関森森地 特人。尤其 到
nロ的 f坊上社琴
借着湖水、 材林的回
音,星得特 別好析。我 常常在迭小 f場上柱琴到 特近十点併 ,父来就支 上自行牢坐 在芳迫析。
但
除了父素一 小所余以外 ,板少有人 来所,因苅 周囲的人家 都侍乱紅梅 公園 口晩上経常│潤鬼,只
n
折見有琴声 、歌声,却 看不到人影 。那/ト琴 声、歌声真 是好折助, 要迷死人的 。如呆有人 出去
折,就会被 鬼迷住的, 因比附近的 人都不敢出 来析。但息 不是絶対没 入所,在我 的 t
己'卜乙中,有辻
両次規余。
有一次我在 f坊上演奏到将近十点併的吋候,只見此小路上走来九小黒影,突然停在返兵!こ不
敢章近。我 井不在意, 継綾深情地 演奏着。辻 了好一会 J
L,其中有一 小人沖着我 “咳!咳!"咳
喉了商声, 因苅侍洗鬼 伯人咳喉。 他ー看迭小 “鬼門井不 伯人咳敬, 又在脳
拍了三下,迭品是人イJ'Jイ寺汎在脳
n
n上“噌!噌 !哨!"
上拍三下,人的神明火就会旺起来,鬼見了也会被円て胞的。我
見他 1
J'J迭梓怪里怪気的,不知所苅何故,就停下手中的演奏,大戸地内道:イ利J'J是堆 P阿?想折就
)
5
二胡情縁(
辻来所ロ巴。迭些人却反│可道:休是人迩是鬼 P阿?我洗:我不辻是覚得在迭 jし柱琴非常好折,就常
L来社社琴, 巴仏会成了鬼了兜?
到迭 J
I
是常州市錫刷因ふ臥的,就住在附近的困部宿舎里。就是因J;
J
J
'
“嘆!涙会了,渓会了。我 1
演出剛散坊,抄
人来息不敢出来折。今天我イJ'J
常在晩上折到好所的琴声,大家又侍乱闘鬼,所以 A
小路回宿舎,没想到在迭 jし雄上了,迩真『下了我イJ'J一大跳。"迭九小人えオ走辻来坑道。
其中又有一小人乱-
f因的主胡,イネ能去我イj'J那 jしも人主人口,坐一会 jし喝? "
“迭イ立是我イJ
因均一年 多来我ー宜扶不 到高是次的老姉
一所洗迭是守iJ:_刷図的主胡
Rイ也学凡
t
就有心想 f
fー起往市錫刷困而去 。
招,子是和父素一商量,就随着他イJ
市錫刷因位子会工梅公園芳迫,比井上原是千年古利天守寺的房子,后来市政府抜姶錫刷因イ故了
J'J的宿舎在二楼,一小身阿住四小人,因
囲部。迭是ー憧木鈷杓的特金楼,巴姪有些年代了。他 1
疏子整理,~得有些凌乱 。 因均吋阿不早了,我手口父奈只呆了一会 J L ,就告辞回家了。后来我又
J不是我理想中的老姉,后来也就
J
去辻凡次,与他官、]的主胡先生切瑳扶芝,也有些牧荻,但感覚 1
漸漸地去得少了。
述有一次,是夏天的一 小晩上,因沖天黒得晩,七点多併了,天迩亮着兜。我正在 f場上柱
琴,有一位漂亮的少女走了辻来。看地的年齢不辻十五六歩的祥子,杭着丙条小静,一副活波、
可愛的神情。地主占在那 jし折了半天
対我乱:是休常在迭 jし柱琴喝?我答道:是ロ阿!
喚 F育,我就住在附近,晩上常能折到仇美的琴声,人家都侍乱│司鬼,原来就是イ年ロ阿。我弘
“
喜攻唱歌的,イ字社一首我来唱, 乞4梓? "
I
,現在有小人来唱,迭オ有意思児 。
“好ロ阿。体唱什仏兜? "我本来一小入社着覚得不辻痕、
“就唱《珊瑚領》ロ巴。円
迭迩不是現成喝?迭首《珊瑚領》我品会唱。在凡小常的前奏后,仇美的歌声瓢出千艮返、千良
・・
・
・
毛
1
“一材生工花照碧海,
一因火焔出水来,
珊瑚材会工春常在,
凡波浪里把花升。・
“件、唱得真好!"我禁不住李道。
“休的琴比我弟弟柱得好 。"弛星得特別主'f;杏,会エナトナ卜的胎,商眼一内一内的,可愛板了 。
“イネ弟弟也柱ニ胡喝? "我只要所洗有人会社二胡,就情不自禁地想要去会会他。
意上我家去玩喝?寓迭 jし不通,息所我弟弟柱柱琴。門地熱情地逝清道。
慮、
“是ロ阿,件、
人心里俳,是想去和弛弟弟比比琴芝。迭就是年経人
好 P阿。"我当然想去所地弟弟社社琴。 A
“
7
6
-1
愛 知 学 院 大 学 教 養 部 紀 要 第 57巻第 3号
常犯的毛病:“初学三年,天下元故。"学了三分技芝,就忌想与人比比。
子是,我手ロ父来随着来到地家。其実地家就住在元宇耕失,高我家イ艮近。弛父来叫湧振元,
是一位中学教姉;母奈在一家小 f工作。地叫湧錦慧,地弟弟l1y
j
易錦亮。那天在地家 ,
我
イ
J
'
J
三小
夜子イ字社一曲,我柱ー曲;休唱一首,我唱一首;三小家長在芳迫欣賞喝彩,熟岡愉快至板。
一回生,両回熟,此后我常去地家玩。在我心里,就渇望有迭i,小姐姐,所以就把地当素姐
姐ー祥素熱,見面忌是姐姐長,姐姐短的,叫得可甜了。見了弛父素就叫湯老姉,見了地母来就
叫伯母。弛弟弟量然比我大商~,但我却不慮、叫他喜子著f ,就ロヰ錦亮。乱来弘怪,地弟弟在家
b人不
叫地姐姐,商人迩盆常要持噴。我“姐姐、姐姐"地迭仏ー叫,弛反而喜攻我甚子喜攻自己的素
弟弟,イ吏地弟弟大大地吃酷。地父来湯老姉也千艮喜攻我,述写辻ー封信会合中央音丘学院附小,洗
“我イf] 迭 j し ;有一位小朋友 叫起寒阿, 今年 上小学三年 級,在音~上彼有オ能,柱得一手
好ニ胡。
特向貴校推存。"当吋的中央音尿学院附小イ艮快就回了信,信中写道.
“湧振元同志 :
牧到悠、的来信,今年我校只招考六歩的一年生及ー班和五年毅一班,其セ班次我校不招考,非
常抱歌。
希望他侃能継綾努力学ヨ, i
守来有机会イ乃可扱考。
此致
敬礼
中央音訴学院附属音~小学
七月三十日"
湧老姉将迭封信交我ー宜珍蔵至今 ,不想在十三年后, 我終子考人了多年朝恩暮想的 中央音
訴学院,而且最終成舟波院的ー名教授。那仏当初与中央音~学院的迭小小小的契机,是否
也是
我命送中的一点暗示兜?
一
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