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ミルとトクヴィルの思想的交流
そしてその後 ミルとトクヴィルの思想的交流 はじめに 一 一八三〇年代後半 二 一八四〇年代前半 三 一八四〇年代後半から五〇年代、 おわりに 往復書簡を中心に 関 口 正 司 63 (3−4 ●61) 521 は じ め に リ ベ ラ ル ニ人の自由主義者、いや、多義的でしばしば濫用されてきたこの語の使用を避けるならば、自由と自由な精神のあ り方を追求し続けた二人の政治思想家が、一八三五年五月二六日、ロンドンで出会った。一人は一八〇六年五月二〇 説 論 論説 日生まれで当時二九歳になったばかりのジョン・スチュアートこ・、ル、もう一人は、一八〇五年七月二九日︵共和歴 =二年心月=日︶生まれで、もうすぐ三〇歳になろうとしていたアレクシス・ド・トクヴィルである。 テル ミ ド ロ ル ベンサムおよび父ジェイムズ・ミルの弟子として育成されたミルは、この頃、急進派系の雑誌に数多くの論文を書 き、哲学的急進派の若手の知的指導者として活躍していた。すでにその鋭い知性からミルの著作家としての力量は評 価されてはいたが、しかし、彼の思想家・哲学者としての名声が確立していくのは、一八四三年に大著﹃論理学体 系﹄を公刊して以後のことである。他方、マルゼルブやシャトーブリアンなどを親戚に持つ貴族の家系に生まれたト クヴィルは、出世作﹃アメリカの民主主義﹄を一八三五年一月二一二日に公刊していた。その三ヶ月後、彼は終生の友 ギュス七三ヴ・ド・ボーモンとともに、一八三三年に一度訪れたことのあるイギリスを再度訪問し、六月下旬までロ ンドンに滞在した。彼はこの地で、公刊後直ちに大きな反響を呼び起こした﹃アメリカの民主主義﹄の著者として、 著名人や有力な政治家たちに歓待された。このロンドン滞在中に、トクヴィルはミルと出会うことになったのであ ︵1︶ る。 これを機会に始まった一九世紀の英仏を代表する二人の思想家の交流については、従来、相互の思想的影響、その 内容や度合い、両者の政治思想上の相異点や共通性といった観点から論じられてきた。それらの様々な議論に共通し ている特徴は、それらが概して、ミルはトクヴィルをどのように見ていたのか、あるいはトクヴィルはミルをどのよ うに見ていたのかという観点よりも、むしろ第三者的観点から、相互の影響、相異点、共通点を読み取ろうとしてい た点にある、と言えるであろう。こうした接近方法は、もちろんそれ自体として妥当性を欠くわけではないにせよ、 ともすれば二人の思想家を、外側から、そしてもっぱら後世の視点から評価することに終始しがちで、彼らの思想的, 営為の内側で相手の存在がどのように受け止められていたかを問う開心が弱いように思われる。この後者の関心から 63 (3−4 ●62) 522 ミルとトクヴィルの思想的交流を捉え直すことが、本小論の課題である。とはいえ、本小論はこの課題のうちの半分 にしか応えることはできない。すなわち、ここで解明しようとするのは、主に、ミルがトクヴィルをどのように見て いたのか、それをミルがどの程度トクヴィルに伝え、あるいは伝えていなかったのか、という点である。なお、この ヨ ような課題の性格からして、ここでは、彼らの著作も必要に応じて取り上げるが、中心的な検討資料は両者の間で交 わされた書簡となる。そしてこの検討は、第一に両人の交流が始まった一八三〇年代後半、第二に四〇年代前半、第 三に四〇年代後半から五〇年代前半を経てトクヴィルが死去する五〇年代末およびその後、という三つの時期に分け て 進 められることになる。 る ︵1︶ 小川︵一九七五︶は、この出会いから始まった両人の交流を﹁ヨーロッパ思想史上の出来事といってもさしっかえない﹂ ︵四七頁︶としているが、これは決して誇張ではないであろう。 ︵2︶ ミルに対するトクヴィルのほとんど一方的な影響を強調したものとして竃¢=9︵HまO︶を参照。ミルは﹃自伝﹄におい て、トクヴィルの﹃アメリカの民主主義﹄を読み研究したことが、﹃代議政治論﹄で完結することになる民主主義論の﹁修正﹂ と、過剰な中央集権を警戒し地方自治を重視する姿勢を確立していく第一歩になったとしているが︵ζ凶一一︵一。。記γH㊤り幽Oω●一六 八−一七一頁︶、ミューラーは、ミルのトクヴィルに対する知的負債は﹃自伝﹄に述べられている以上に広汎であったと考え、 社会主義、自発的結社、労働問題、産業への国家干渉等々の問題をめぐるミルの議論においても、トクヴィルの影響が見出さ れると主張した。℃巷鳳︵一㊤①軽︶は、ミルとトクヴィルの往復書簡の分析もふまえて、こうした見方を批判し、トクヴィルの影 響はより限定的なものであって、両者の関係はギヴ・アンド・テイクのそれであったと結論している。山下︵一九七六︶は、 パッペの指摘を継受して、ミルが主体的選択的にトクヴィルの主張から学んだ点を指摘する一方で、とくに﹃自由論﹄の執筆 過程におけるミルのトクヴィル再評価の側面にも注目している︵三三−四〇頁︶。また中谷︵一九八一︶も、両者はギヴ.アン ド・テイクの関係にあるという見地から、ミルに対するトクヴィルの影響を過大評価すべきではなく、また、ミルがトクヴィル に与えた影響を過小評価すべきでもないと論じている︵一八一−二一〇︶。私見では、相互の影響関係をどう見るかにかんして 63 (3−4 ●63) 523 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 は、パッペの妥当な結論で基本的にはほぼ決着がついた観があるが、相互の影響関係という観点からではなく、両者の思想類 型の異同を問う議論も登場している。ハンバーガー︵一九七六︶は、ミルとトクヴィルの基本的な相異点として、前者が自由 を尊重する世俗的社会︵宗教なき社会︶をユートピアン的に期待していたのに対して、後者は自由と宗教を不可分と考えると ともに、ユートピア追求ではなく専制の回避策を冷静に案出することを自らの思想的課題としていた、と指摘している。ハン バーガーのこの指摘をふまえてミルとトクヴィルの思想の相異点に言及したものとして、松本︵一九八一︶、五−六頁、一八頁 註︵16︶、一一五⊥一六頁を参照。後にあらためて取り上げることにするが、ハンバーガーの結論は、ミルとトクヴィルの精神 的類似性や、ミルが既成宗教に批判的であったとしても宗教的なものそれ自体に対しては慎重な見方をしていたことを考慮に 入れていない点で、説得力を減じていると言わねばならないであろう。ω貯α①謬8℃︵一〇お︶は、一九世紀の自由主義にはイギリ ス自由主義とフランス自由主義の二つの潮流が存在したと考え、人格についての概念が貧弱である、社会学的視点がない、自 由概念が消極的なものに偏り政治参加と自由の関連を看過している点で不適切である、,といった自由主義批判は、イギリス自 由主義に妥当するとしてもフランス自由主義には妥当しない、と主張している。シーデントップによれば、前者を代表するの がミルであり、後者を代表するのがトクヴィルである。シーデントップの議論には、イギリスの自由主義思想が≒相対的に開 放的な階層制﹂という隠れた社会学的前提を自明濡していた、といった傾聴すべき指摘も含まれているが、しかし、自ら立て たイギリス自由主義の図式にミルを押し込めたため、ミル理解においては難点が多いと言わなければならないであろう。ミル とトクヴィルの対照性を強調するこうした見方に反対し、両者の共通性を力説したものとしては、国9。冨昌︵HO㊤N︶を参照。ケイ ハンは、徳を重視するシヴィック・ヒューマニズムの受容、近代ヒューマニズムの受容によるシヴィック・ヒューマニズムの部 分的修正︵進歩の歴史哲学による循環論的歴史観の克服、商業社会の一定程度の積極的評価、消極的自由概念の取り入れ、自 由の条件としての教育の重視、等々︶といった点で、ミル、トクヴィル、ブルクハルトは、貴族的自由主義︵﹀﹁一ω80鑓膏ピ一す 魯巴δヨ︶と呼びうる、ヨーロッパ自由主義の中の一類型をなしていると論じている。ケイハンの議論は、シーデントップの考 察では排除されていたミルとトクヴィルの共通性を、長期的な伝統・思想的コンテクストを引照して解明している点で興味深 い。しかし、思想家が伝統のたんなる容器でないとするならば、なぜ、ミルとトクヴィルが︵ブルクハルトはさておくとして も︶そのような共通性を持ちえたのか、それを可能にした精神傾向とそれを助長した環境はどのようなものだったのか、とい う問いが当然生じてぐるが、この点に切り込んだ分析はケイハンの議論では見られない。 ︵3︶ トクヴィルから見たミルという残された課題は、思想史研究の大先輩であるとともに同僚でもある小山勉教授との今後の , 63 (3−4 ●64) 524 共同研究の中で果たしていきたいと考えている。その共同研究の予備作業として、また小山教授の還暦の記念として、拙い本 小論をこれまでの御厚情に対する謝意を込めつつ小山教授に捧げたい。 ︵4︶ 現存する書簡は次の通りである。ただし、やりとりされている書簡の内容から考えると、欠落しているもの︵とくにミル からトクヴィルに宛てたもの、たとえば一八三七年六月二四日付の書簡でトクヴィルが言及している、それに先行する一九日 付のミルからの書簡など︶が幾つかあると推測される。なお、英文としてとくに断わっていないものは、すべて仏文である。 ︵英文︶ ェ三五年六月=二日] ェ三五年六月二五日] 一八三五年九月一二日 トクヴィルからミルへ︵二〇通︶ []内の日付は、書簡集の編者もしくは私の推定によるものである。 ミルからトクヴィルへ︵一五通︶ 一八三五年六月=日 ェ三五年九月] 一八三六年一一月九日 一八三六年六月一五日 一八三六年四月二七日︵英文︶ 一八三六年四月二日 一八三五年一二月=日 一八三五年一一月一九日 [一 一八三七年一月七日︵英文︶ [一 一八三六年一一月︸九日 一八三六年六月五日 一八三六年四月一〇日 一八三六年二月一〇日 一八三五年一二月三−五日 [一 一八三七年六月二四日 63 (3−4 065) 525 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 約二年半の間隔一八四〇年五月一一日︵英文︶一八四〇年一二月三〇日︵英文︶一八四二年八月九日︵英文︶一八四三年二月二〇日一八四三年一一月三日 約三年半の間隔 約九年の間隔一八五六年一二月一五日 約二年の間隔 一八三九年一一月一四日一八四〇年五月三日一八四〇年=一月一八日一八四一年三月一八日一八四三年忌月九日﹄八四三年三月一二日一八四三年目〇月二七日 一八四七年四月二三日 一八五六年六月二二日一八五六年一二月一九日 一八五九年二月九日 63 (3−4 ●66) 526 一八三〇年代後半 主主義﹄を読み終えていたようである。しばしば引用される一節であるが、彼はパリ在住の知人アリスティド・ギル 学的風景画﹂の手法を、ミルがいち早く注目し始めていることを示している。ミルは五月初旬までに﹃アメリカの民 ヨ この一節は、具体的な諸現象を実践的関心を背景とした一般的概念と緊密に結びつけて活写するトクヴィルの﹁社会 抽出しているところや、読者の前に強力な描写として全体像を描いている点がそうです。 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ており、その点で、現在のフランスにおける最良の哲学者たちを凌駕しています。とりわけ、アメリカ社会の諸々の特殊性を 私はトクヴィルを読み始めました。優れた本だと思います。相当の描写力が、社会の歴史にかんする一般化の能力と結びつい あった。彼は同じくホワイトに宛てて、その印象を語っている。 とは疑いません﹂と記している。ミルが﹃アメリカの民主主義﹄を実際に読み始めたのは四月に入ってからのことで ユ についてシーニアが言っていることから判断して、あなたが書評しようとするほどの大きな価値のあるものであるこ る。ミルは知人ホワイトに宛てた三五年二月二六日付の手紙に﹁私はまだトクヴィルの本を読んでいませんが、それ トクヴィルの名がミルの書簡に最初に登場するのは、﹃アメリカの民主主義﹄が刊行されてから一ヶ月後のことであ まず、ミルがトクヴィルの著書を知り、トクヴィルに会い、書簡のやりとりが始まった経緯を見ることにしよう。 e交流の始まり 一 ベールに宛てた五月八日付の手紙の中で、﹁トクヴィルの本﹃アメリカの民主主義﹄はすばらしい本です。トクヴィ 63 (3−4 ●67) 527 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ルについて教えていただけますか。どのような経歴の人で、フランスではどのような評価を受けているのですか﹂と ︵4︶ 問い合わせ、トクヴィルに対する強い関心を示している。 このときすでに、トクヴィルはロンドンに来ていた。彼がどのような経緯でミルと対面することになったのかは不 明である。トクヴィルはできるだけ広い範囲の人々と接触することを望んでいた。彼が実際に面談した相手には、 トーリーやウイッグの大物政治家たちばかりでなく、一八三三年の訪問の際に知己となっていた哲学的急進派のロー ︵5︶ バックやヒュー・ム、そして今回が初めてであるが、グロート夫妻なども含まれていた。おそらくシーニアかあるいは これらの人々のいずれかの仲介で、トクヴィルはミルに会う機会を得たのではないかと考えちれる。 五月二六日に両人が初めて会ったとき、彼らが互いにどのような印象を持ったのかを直接に詳しく記したものは残 されていない。記録として残っているのはトクヴィルのイギリス旅行記の一節である。言及されることが多くよく知 られているものであるが、あらためて紹介することにしよう。 トクヴィル あなたはこの国の現在の傾向が中央集権化に向かっているとお考えになりますか? レ ま︶。 働 ミ 亭 し ヲ トクヴィル あなたはこうした傾向を憂慮しておられますか? 無ル いいえ。と言いますσも、わが国の場合、中央集権化の傾向が行き過ぎることは、まずないと思っていますから。中央 集権は、現在までのところ、イギリス人の情神にとっては最も無縁なものです。 その第一の理由は、イギリス人の精神は、習慣的にも本性的にも、一般的観念に向かうことはない、ということです。中 央集権というものは、本来、一般的観念にもとつくものであり、また、画一的一般的なやり方で社会の現在および将来の 諸々の欲求を満たそうとする権力側の要求から生まれてくるものです。われわれは、未だかつてそのような高遠な観点から 統治の問題を考えたごとはありません。ですから、われわれは行政機能を無限に分割し、それらを相互に独立させたので 63 (3−4 ・68) 528 す。それもあらかじめ熟慮検討を重ねた上でやったのではなく、その他の事柄と同様、政治についても一般的観念を抱くこ とが困難だったからです。 第二の理由として、イギリス人の政治精神は、今までのところ、自分自身にとって適当と思われることを行なう自由を最 大限確保することにあった、ということがあります。他人が考えている以上に、ある特定の生活様式が他人に有益であると 自ら判断した場合でも、他人をそうした生活様式に従わせようとする好みは、イギリス人にはほとんど見られません。私た ちが現在の教区や地方の諸制度を攻撃しているのは、それらの制度が貴族の道具になっているからです。もともと私たちが 考えていることは、敵から権力を奪って、それを政府に与えることです。なぜなら、現在の地方制度には権力を受け継ぐ用 意は何もなされていないからです。しかし、いずれ教区や州に統治能力を持った民主的な地方政府が組織されるならば、そ の政府を中央政府から完全に独立させたい、と私は思っています。おそらく、私たちがそれを試みるときには手遅れになつ ているでしょうし、妥協によって政府はアリストクラシーからの戦利品で肥え太っていることでしょうが。 トクヴィル あなたが言われているイギリス人の精神というのは、アリストクラティックな精神ということではありません か? それは、孤立してそれぞれ立派な領地に安住し、他人の領分に手を伸ばすことよりもむしろ、自分の領分で邪魔され ることを煩わしく思うという、アリストクラティックな精神の一部ではないのでしょうか? デモクラシーの本能はこれと は正反対で、あなたが偶然と考えておられる現在の傾向は、この大原因のほとんど必然的結果なのではないでしょうか? ミル そのような考えは、これまで私は持ったことはありませんが、最大限の注意を払って検討するに値することです。それ が正しいと認めたとしても、私がイギリス人の精神について申し上げたことによって修正されるのではないかと思います。 ︵6︶ と言いますのも、イギリス人の精神は、アリストクラティックな精神とはやはり異なったものであるように私には思えるか らです。 この会話は、トクヴィルにとっては民主的社会において危惧されるものの重点が、一八三五年の﹃アメリカの民主主 義・第一部﹄における多数者の専制から、一八四〇年の﹃アメリカの民主主義・第二部﹄における行政的中央集権へ と移行していく最初の契機となった。他方それは、ミルにとっては、中央集権の行き過ぎを警戒し地方自治を重視す 63 (3−4 ●69) 529 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 る修正された民主主義政治理論を構築していく最初の契機となった。もちろんこの会話は、彼らの思索にとってあく までも最初の一歩であったが、しかし、印象的な第一歩として、それぞれ思索を深めていく中で繰り返し想起された にちがいない。 トクヴィルの旅行記によれば、トクヴィルは五月二九日目再度ミルに会っている。このときは、ミルは同じく哲学 的急進派のローバックに同席する形で会話に加わった。ローバックとミルが、改革を進めるために急進派はウイッグ と提携しないと,いう姿勢を示したのに対し、トクヴィルは、改革を少しでも現実化するにはウイッグとの提携が必要 ではないかと述べ、さら忙、トーリー政権成立による改革頓挫の可能性を予言的に示唆している。 その後、トクヴィルがロンドン滞在中にミルと直接会ったかどうか、確認できる資料は残されていない。中断はあ るものの両者の往復書簡はトクヴィルの死の直前まで以後二五年近くに及ぶが、現存する資料から判断する限り、両 者が直接に会話をしたのは、いずれにせよこのときの数回だけどいうことになる。もちろん、それが直接の会話とし ては最後のものになろうとは、そのときの彼らは夢にも思わなかったであろうが。 口 書簡のやりとりの始まり ハ 開放的で人なつこいボーモンに比べて、トクヴィルは人によっては冷淡だという印象を与えることもあったが、ミ ルはトクヴィルに好感を持ち、六月五日付のギルベール宛ての手紙に﹁私はトクヴィル氏と個人的に知り合いにな り、彼を非常に好きになりました︵=穿①ゲ巨①×ooo9昌oqξ︶。可能であれば﹃評論﹄に書くように彼を説得するつも りです﹂と記した。こうして、急進派系の評論誌﹃ロンドン・レヴュー﹄に﹃アメリカの民主主義﹄の書評論文を自 ら書こうと考えていたミルは、さらに、この評論誌へ寄稿するようトクヴィルを説得することになった。ミルはすで 63 (3−4 ●70) 530 ︵10︶ にこの評論誌の実質上の主筆として、編集企画において中心的な役割を果たすようになっていたのである。ミルがこ のような立場から書いた六月一一日付の手紙が、現存するミルからトクヴィルに宛てた手紙の最初のものである。雰 囲気を伝えるために全文を引用 し て み よ う 。 あなたに対して私が﹃ロンドン・レヴュー﹄のためにあえてお願いいたしました協力がどの程度のものなのか、あなたは私に お尋ねです。これはごく当然の御質問ですが、しかしながら、それを決めるのは本誌の編集煮たちではありません。本誌は、 所与の体系、全般的な単一の教義の普及を目的としてはいません。申し上げるまでもなく、これまでのところ、そうした教義 は未だ形成途上です。完結した理論がないからこそ、﹃ロンドン・レヴュー﹄の創刊者たちは、この定期刊行物が、今世紀最高 の思想、とりわけ政治哲学におけるそうした思想のコレクションになることを望みました。この目的のために彼らが望むの は、今世紀の支配的諸傾向に共鳴する人々の協力よりも、むしろ、現代における最強の思想家や最も開明された人々の協力な のです。この条件だけは必要不可欠です。なぜなら、運動派の味方とともに有益に働けるようになるには、その人がその人自 身であることが必要ですから。 このような人々の集まりの中で、二次的な役割を果たすことは、あなたにはふさわしくありません。また、私たちがあなた にお願いするのも、二次的な協力ではありません。私たちは、私たちの意のままに、あれこれの思想なり事実なりを論ずるた めに、あなたの才能を使っていただくことをお願いするわけではありません。私たちがあなたにお願いするのは、私たちと力 を合わせて、本誌の今後のあり方、どのような精神でどのような思想の影響の下で本誌が形成されていくかを、決めていただ くことなのです。本誌は、民主主義の諸理論の中で最も先進的なものを提示する、という自負を持っています。それはまさ に、既知の事実なり原理から、これまで知られなかったほどの厳格さで、あなた御自身が創り出し、あるいは際立たせたもの に他なりません。したがって、条件を受け入れていただくのではなく、あなたから本誌に対する条件を提示していただきたい のです。私たちの要望は、あなたが私たちに加わってくださり、本誌をあなたの見解の機関として役立てていただきたい、と いうことです。本誌はすでに、私たち運動派の中で最も優れた人々の機関となっています。しかしこれらの人々は、かなりの 専門的知識は持っているものの、少なくともその大半は、一般的観念の点であなたの水準には及んでいません。ですから、あ 63 (3−4 ●71) 531 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 なたの論文によって、また、あなたの論文が他の執筆者たちに及ぼす影響によって、あなたが本誌に刻み込むことになる方向 性は、本誌が高次の政治的諸問題にかんしてイギリスの公衆を開明するのに貢献することになるか、それとも、自らの進行を 統御できる諸原理を与えることなく民主的精神を煽り立てるだけにとどまるかを、おそらく決定するでしょう。. あなたの思想を表現するたみの具体的方法や扱い方等々について、私たちがあなたに指示するのは適当でありませんし、ま してや、私たちがそれに限界を設定することなど不適当です。あなたのような精神を持つ人はつねに、自分は何をできるの か、何をすることが自分にふさわしいのかを、その入の最も親しい友人にできる指示ですら及ばないほどふよぐ知っでいるの です。私たちがなしうることは、何が私たちにとって最も緊要であるかを、あなたに告げることだけです。よく理解ずること がきわめて重要である国が二つあります。それはフランスとアメリカです。私たちは、これらの国についてイギゾス人に解説 する必要が大いにあると痛感しています。私たち自身ですら、両国を十分に知悉しでいるわけではありません。そπができる のは馬おそらく、世界であなたしかいません。両国にかんするあなたの一連の論説は、それだけでも、、高水準の政治学講義と なるでしょう。・あなたは十分に御自身の真価を発揮しており、そのために私たちは、あなたの見解の正しさや深遠ざ、ぞして 幽たその公正ざに、他の著者では生.じてこないほどの信頼感を抱いています。要するに、あなたこそ、これら二つの国につい て書ぐのに私たちが必要としている人に他ならないのであり、もし私たちが主題を指定しなければならないとしたら、私たち は、ζれら両国、、そしてまず最初はフランスから始めていただぐよう、あなたにお願いするでしょ先㌍., ,.! り:−・.、 ミルのこのきわめて鄭重な手紙に対する返信が、 現存する手紙の中ではトクヴィルからミルに宛てた最初のものであ る。これも全文を示すごどにす る ρ あなたの手紙を一昨日の晩に受け取りました。昨日お返事をしょうと思ったのですが、幾つかの事情があってできませんで した。.申し上げるまでもありませんが、形式の点であなたの手紙は一フランス人にとって名誉なものであり、フランス人でも ・あなたのようにフラ・’2ス語をこなすことのできる人はあったにい凝せん℃申し上げる遠でもないふ.と言いますのも♂私たちの 滴そっし窪と砦馨糠畢すみ孟惹臓劣な灘碧潭濾の農塞私領認諾て薩諺零、乏藻濾 63 (3−4 」72) 532 謝しているからです。あの手紙の中で私についてあなたが示された評価ほど、私にとって嬉しいものはないでしょう。私が気 がかりなのは、正直に申しますが、過大評価ではないかということだけです。私は好みからして自由を愛好しますし、本能と 理性から平等を愛好します。これら二つの情念を多くの人は持っているかのようなふりをするのですが、それらを私は本当に 自分の内に感じており、それらのために大きな犠牲を払う覚悟もあります。こうしたことだけが、私が自分に認めることので きる長所なのです。この長所は、何か稀少な美点を持つということよりも、むしろ、ありふれた幾つかの悪徳の不在というて とに因るものです。 あなたの手紙の主要目的に立ち戻りまして、私があなたに申し上げたいのは、イギリス滞在が長びくほどに、私は、中心的 な編集者諸氏が私に割り当てるのが適当と考えている役割をあなた方の評論誌の中で果たそうという気になってくる、という ことです。そして、私に日々ますますその役割を引き受ける気にさせているものについて率直に説明することにしましよう。 正直に申しますと、私は、民主主義の党派に対する強い偏見を抱いてこの国に来たのです。私はそれをフランスにおいて似 通った立場を占めている党派になぞらえていたのですが、そのようになぞらえてみた結果は、イギリスの民主派に対して好意 的なものではありませんでした。あなたはフランスをよく御存じですからおわかりでしょうが、われわれの最大の悲惨の一つ は、現代社会の将来を唯一握っている民主主義思想が、それを理解していない多数の人々によって利用され、そうした人々の 努力が、本来ならこの思想に傾くはずの優れた精神を持つ多くの人々を民主主義から遠ざけることにしか役立っていない、と いうことなのです。フランスの民主主義者は.一般に、社会の排他的指導権を、全国民の中にではなく、国民の一部分の中に置 くことを望み、この結果に到達するために物理力を行使することしかはっきりと念頭に置いていない人々なのです。この相貌 にさらに付け加えるべき他の特徴も、遺憾ながら多々あります。けれども、これが主たる特徴なのです。 逆に、イギリスの民主主義者たちに見たすべてから、私は、ときには彼らの見解が狭阻で排他的﹁であるとしても、少なくと も彼らの目的は民主主義の味方が持つべき真の目的である、と考えるようになりました。彼らの最終目標は、実際、市民の大 多数に統治する地位を与え統治する能力を持たせることである、と私には思われます。彼らは自らの原則に忠実であるため に、自分たちが最もよいと考える仕方で幸福になるよう国民を強制しようとは望まず、幸福になる仕方を国民が見分けること ができるように、また、見分けたならそれに従えるようにしてやることを望んでいます。この意味でなら、私自身も民主主義 者です。現代社会を徐々にこの地点へと近づけていくことが、それを野蛮や隷従状態から救う唯一の方法であるように思える のです。私は自分の持つ力と意欲のすべてを、開明された誠実な人々によってこの国で表明されているのと同じような主義の 63 (3−4 ・73) 533 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ために捧げるでしょう。おわかりでしょうが、私は、世界で現在進行しているデモクラシー大革命の最終的成果を誇張してい るわけではありません。私はそれを、イスラエルの民が約束の地を見つめるような眼差しで見つめているわけではありませ ん。けれども、すべてを考え合わせるならば、それは有益であり必要であり、私はそれに向けて、躊躇することも熱狂するこ ともなく、また、願わくば怯儒になることもなく、決然として前進しようと思います。 この主題については、他にも言うべきことがたくさんあります。しかし、私は大急ぎでこの手紙を書いていますし、今ここ で話せないことは、私たちが自由に話せる時に残しておきましょう。あなたの評異質で私に望まれているこ’とを示七てくださ. るよう、あなたにお願いしたのは、私にそこで何ができるのかが、はっきりとはわからなかったためです。あなたの手紙で私 の疑念は解消した、とまではいきませんでしたが、しかしそれは、疑念を解消する方向に私の精神を傾けさせてくれました。 問題は、何をすることをあなたに対し積極的に約束するか、ということですから、なにがしかについて真剣に考えてみること にしましよう。これについては、あなたも考え、その考えに私を与らせていただけたら、と思います。 追伸。明日の五時に、夕食を御一緒できませんか。お願いする訳はこうです。ある重要なことがあって、明晩七時にフラン スに向け出発しなくてはならなくなりました。しかもそこには、二、三旧しかいられないので、ブーローニュより遠くへは行 けません。馬車に乗り込む前に、二時間ほどをあなたと過ごすことができたら幸いです。 ・ ︵12︶ ミルとトクヴィルのこうしたやりとりは、明らかに編集者と著作家との間の原稿依頼をめぐる形式的儀礼的なものに とどまってはいないコ実際それは、それぞれの深い思想的脈絡かち発していたのである。 まずミルにかんしてであるが、彼が﹃ロンドン・レヴュー﹄の実質的な主筆としてこの手紙で開陳している評論誌 の編集方針は、この時期の彼の思想的立場を直接に反映したものであったコミルは二〇歳のときに経験し売﹁精神の 危機﹂を脱却して後、深刻な思想的混迷状態に.陥っていたが、一八三三年以降︵﹁危機﹂とその後の混迷状態に通回 していた自由と必然をめぐる哲学的問題に対する解決の糸口を見出すとともに、道徳理論においては自己陶冶の観点 から功利主義を非ベンサム化し、政治理論においては政治制度の社会成員に対する道徳的教化め機能に注劃しエリ3 63,(3−4 ・74) 534 お トの役割を重視する観点から急進主義を非ベンサム化するという、基本的方向を確立した。彼は表向きは哲学的急進 派と共同歩調をとったが、父ジェイムズ・ミルに対する批判的姿勢を暗に含んだ﹁セジウィック論﹂を﹃ロンドン・ レヴュー﹄創刊号に掲載するなど、ベンサム主義からの思想的自立の姿勢を示しつつあった。さらにミルは、この姿 け 勢を﹃ロンドン・レヴュー﹄の編集方針にも反映させようとしていた。そのような彼から見て、デモクラシーを批判 あ しつつその形成に寄与しようという姿勢から﹁全く新しい世界には新しい政治学が必要である﹂と宣言してい売トク ヴィルは、この評論誌にとって最適の寄稿者であった。トクヴィルへの説得は、鄭重な表現でなされているとして も、ミル自身の理論と実践にかかわるまさに正念場において真剣に行なわれていたのである。 他方トクヴィルも、ミルの申し出を安易に受け止めていたわけではなかった。彼は﹃アメリカの民主主義﹄におい て、諸条件の平等としてのデモクラシーを摂理的必然として語った。それを摂理として語ることは、彼の他者説得の お 重要な戦略であったが、おそらく、同時にそれは、自己説得の論理でもあったであろう。だが、貴族の出自の彼がそ のようにして、ときには愛惜の念を禁じえなかった過去と自らとの間に一線を引いたとしても、それは彼に新たな不 安を引き起こすものでもあった。なぜなら、デモクラシー化を所与としつつ、それが自由をもたらすか専制をもたら すかを最大の実践的問題と考えていた彼にとって、右の手紙でも述べられているように、権力志向のフランスの民主 主義者は憂欝な未来を暗示していたからである。しかし彼から見て、イギリスの民主主義者は﹁ときには彼らの見解 が狭隙で排他的である﹂としても、彼らは、アメリカとは異なり貴族制を経験した社会において一もちろん社会学 的センスに富む彼はフランスとイギリスの諸条件の相異に無感覚であったわけではないが デモクラシーが自由の レ 方向に展開するいささかなりとも明るい可能性を示していた。その意味で、ミルの手紙の一節、すなわち﹁あなたが 本誌に刻み込むことになる方向性は、本誌が高次の政治的諸問題にかんしてイギリスの公衆を開明するのに貢献する 63 (3−4 ・75) 535 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 説 ことになるか、それども、自らの進行を統御できる諸原理を与えることなく民主的精神を煽り立てるだけにとどまる 論 かを、おそらく決定するでしょう﹂どいう一節は、いわばトクヴィルの琴線に触れるものであった。そうであればこ そ、﹁高水準の政治学講義﹂をというミルの依頼をトクヴィルは真摯に受け止め、協力に積極的な姿勢を示したので の ある。 日 ミルの書評・トクヴィルの寄稿・﹃アメリカの民主主義転第二部﹄ トグヴィルは六月下旬にロンドンを離れ、コヴェントリー、バーミンガム、マンチェスターを経て、,七月六日にア ド イルランドのダブリンに着き、,アイルランド各地を巡った後、七月下旬にフランスに帰国した。彼は旅先のコヴェン ね トリーからジョークを交えた短い手紙をミルに宛てているが、さらに帰国後もへ一八三七年に至るまでミルとの間で かなり頻繁に手紙をやりとりした。トクヴィルが帰国後の最初の手紙の冒頭でミルに確認を求めたのは、両者の間に へ 友人関係が成立しだという点であった。トクヴィルは、﹁あなたに念を押したいことですが、・私はあなたをただの知 人とは見ていませんゆ私たちは真の友人づきあいを始めたのだと信じていますし、私としてはそれを何としても続け たいと思うているのです﹂と書いたのである。これに応えてミルは、返信のやはり冒頭で、﹁あなたの手紙は、私に れ どうで本当にこめ上なく有り難いものでした。あなたは個人的友情を示してくださいました。私は、それを失って当 然といったものに自分がならないようにと願?ています。そしていつの日かさごの友情を私がどれほど貴重に思って いるかを示すことができるだろう、と私は信じています﹂ど記した。 評につ“て、・第二に﹂﹃ロシドンじレヴーユ望﹃あらため﹃.ロンドン・ウエズトミンスター、・レヴ.ユ.1﹄に掲載されるこr 三〇年代後半の両者の往復書簡における主題は、主に三つあった。第一にミルによる﹃アメリカめ民主主義﹄の書 お 63 (3−4 ●76) 536 とになるトクヴィルの論文﹁フランスにおける政治と社会の状態﹂について、第三にトクヴィルが執筆途上にあった ﹃アメリカの民主主義・第二部﹄についてである。ここでは、とくに第一の主題を中心的に取り上げ、幾分詳細に見 ハ ていくことにしよう。 お ミルはトクヴィルと知り合う直前の時点で、﹃アメリカの民主主義﹄を書評する意向を示しており、,さらにミルは ﹃ロンドン・レヴュー﹄第二号︵七月刊︶の書評論文の中で、ートクヴィルについての書評を次号に掲載する旨の予告 を行なった。実際にいっから執筆が始められたかははっきりしないが、九月中にはほぼ書き上げられていたようであ る。その点についてミルは、トクヴィルに対し次のように報告している。 私は、﹃ロンドン・レヴュー﹄に載せるあなたの著書の書評をほぼ書き終えました。その主たる長所は引用にある、ということ になるでしょう。引用に注意を喚起できるような仕方で引用がうまくいけば、私のめざしたすべてが達成されたことになりま す。御覧になればわかると思いますが、私の書評はあなたの著書よりも、デモクラシーに対していささか好意的です。もっと も、私が判断できる限りで言えば、あなたの議論の中の批判的な部分に対して私はほとんど賛成しており、ただ私は、それを あなたほどには強調していないだけです。 ミルの書評は﹃ロンドン・レヴュー﹄第三号︵一〇月刊︶に掲載された。この書評論文は冒頭から引用で始まって いる。引用箇所は、アメリカ滞在中に最も感銘したのは﹁諸条件の平等﹂であったという有名な一節で始まる﹃アメ リカの民主主義﹄の序文第一パラグラフである。さらにミルは、トクヴィルに予告したように、書評の至る所でこの 著書からの引用を行なっている。とはいえこの書評は、それ以前の彼の書評に一貫して見られる特徴を共有してい た。すなわち、書評の対象となる著書のたんなる紹介に終始することなく、評価の基軸として自らの理論的関心を明 63 (3−4 ●77) 537 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 説 示し、評論全体をその関心によって強力かつ明晰に統御していく、 という特徴である。この書評論文におけるそうし 専制︶の四点である。これらの論点のうち、誇張があるとしてミルが批判したのは、主に、.民主主義の短所にかんす 最大幸福の確保、愛国心の形成や法に対する良心的服従の促進︶、民主主義の短所︵統治者の資質の低さ、多数者の 主義の歴史的不可避性、民主主義を円滑に機能させる条件︵地方自治制度、陪審制︶、民主主義の長所︵最大多数の この基本的視点からミルは、.トクヴィルの著書における主要な論点を四つ選択し評価を加えている。すなわち、.民主 キューの天才に良識が加わり、さらに、五〇年間で幾世紀分も生きたと言えるような時代の経験から得た光明が加わったなら ︵28︶ ば、モンテスキューが書いたかもしれない書物である。, いう点を別とすれば、フランスの著作家の中ではモンテスキューに最も似ているように思われる。この著書は、もしモンテス にとっての大きな土台を欠いているわけではない、とわれわれは考える。著者の精神は、いっそう冷静な性格を持っていると 論がつねに正しいとは考えないが、しかしそれは、最高の敬意を込めて注目される資格をつねに持っており、少なくとも真理 る諸事実を選択し、それらを人間本性についての非凡な知識から引き出された諸原理の観点から見渡した。われわれは彼の結 大国という壮大な場所で行なった。彼はまず最初に、その場所を詳細に吟味することから始め、先例のない識別力で資料とな れたり修正を加えられたりするのかを示した点で、最初の模範を示したのである。彼はこのことを、実例を示している一つの 悪いのか、それぞれがどの程度必然的に他のものと結びついているのか、それらは偶然とか予見によってどの程度まで対抗さ る。トクヴィル氏は、民主主義を分析し、諸々の特徴や諸傾向を区別し、そうした傾向のうちどれがそれ自体として善いのか のとして非難されてきた。しかし今や、もっと詳細に検討し、区分けをもっとしっかり行なって判断を下すべき時期が来てい これまで貴族政と民主主義は主に、それぞれひとまとめにされて観察され、全体として、善いものとして賞賛されたり悪いも た基軸は、次の一節に示されていると言ってよいであろう。 論 63 (3−4 ・78) 538 る議論︵および、その点では貴族政が相対的に優越しているという主張︶に対してであった。ミルの考えでは、第一 に、統治者の資質の確保は国民が代表と委任を取り違えない限りで可能である。国民が統治者に直接指示を与えるの ではなく、有能な代表を選んで彼らに自ら国民の利益と判断するもののために行動する余地を与えれば、難点は克服 ︵29︶ される。第二に、多数者の専制とりわけ思想や感情に対する多数者の専制は、イギリスのように有閑階級が存在する ︵30︶ 社会では心配無用である。これらの批判的記述を別とすれば、概してミルの評価は非常に高いものであった。 ミルは三五年=月に、この書評論文の掲載された号をトクヴィルに送るとともに、トクヴィルに宛てて、﹁あな たの結論のうち小さな一つの点に対してだけ私が表明した疑問について、あなたの心に浮かんだ感想をすべて伝えて くださることを切望しつつ、この論文をあなたの好意に満ちた批判に委ねることにします。私は、問題となっている 点について、確定的な考えを持っているわけではなく、むしろそうした確定的な考えを形成するのに役立つすべての ︵31︶ 情報を欲しいと思っているのです﹂と書き送った。この手紙へのトクヴィルの長い返信は、大半がミルの書評にかん して割かれている。 ポジー城、一二月三日⋮⋮﹃ロンドン・レヴュー﹄の私にかんするあなたの論文は、本の書き手として望みうる以上の賞賛が 込められていました。本の書き手が賞賛を望むのは、神から与えられた幾分かの自負心のためであり、しかも御存じのよう に、神はそれを惜しげもなく著者たちに与えているのです。しかし、私があなたに申し上げたいのは、あの論文にはあなたの 賞賛以上に私を嬉しくさせるものがある、ということです。あなたは、読者に向けて私を取り上げようとしたすべての人々の 中で、私を完全に理解してくれた唯一の人なのです。あなたは、全般的な視座から私の諸観念総体、私の精神の最終的傾向を 把握し、同時にまた、細部に対して明確な認識を保持なさいました。もし、あなたのような読者を数多く持ったとしたら、物 書きほどすばらしい仕事はない、ということになるでしょう。こういうわけで、あなたの論文は本当に私を喜ばせてくれまし 63 (3−4 ●79) 539 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 た。私はそれを、私が文字通りに理解されうるのだということを私自身に示してくれる証拠として、大切に保存します。私 は、自分の著作が呼び起こした様々な評価すべてにかんして、自らを慰めてくれる証拠を必要としていたのです。私は、私が かつて公言していた意見に私を連れ戻そうとする人とか、私が抱懐していなかった意見を私と共有していると言い張る人にし か出会いませんでした。この本の物質的な成功は依然として大きなものではありますが、しかし、いつになったら読者がこれ について確定的な評価を示してくれるのか、実際のところ私にはわかりません。 あなたの論文に話を戻しまして、繰り返し申し上げますが、私の著書にかんするこれほど完壁なものを私はこれまで読んだ ことはありません。あなたは他の誰よりも深く私の思考の中に入り込み、そして、そこにあるものを明晰に見て取った上で、 是認すべきものや批判すべきものを自在に選択しています。私はあなたの批判をあなたの賞賛と同じぐらいに関心を持って読 んだ、と申し上げても、誇張とは思わないでください。友人というものは、批判のさなかでも至るところで姿を現わすもので す。ですから、教えることはあっても傷つけることはありません。あなたの反対論すべてについて議論に入れたらと思うので すが、そうしたら、一通の手紙の代わりに一冊の本をあなたに送ることになってしまうでしょう。いっか当地でと期待してい るのですが、あなたと会話ができれば、分厚い書簡以上に、私たちの間の諸問題は解明されるでしょう。とはいえ、幾つかの 論点は示しておこうと思います。 パリ、=一月五日。私の手紙は、ここで止まったままでした。というのは、パリに住む私の母が危篤状態だと知らされたか らです。御推察の通り、私は駆けつけてきました。母は少しはよくなりましたが、まだまだ大いに心配な状態です。今はこう いう精神状態ですので、ポジーで書いた最後のところで予告した幾分長い議論には入れないことを、お許しいただけたらと思 います。とはいえ、ここに来る途中で注意深く再読したあなたの論文について、まだ、話を終えたいとは思いません。あなた の論文には、きわめて卓抜していると思える部分が幾つかあります。民主主義の味方でありながら、委任と代表の相異をあえ てこれほど正確明瞭な仕方で際立たせた人を私は知りませんし、これら二つの語の政治的意味をこれほど適切に確定した人も 知りません。あなたは間違いなく大問題に触れたのであり、少なくとも私はそう確信します。民主主義の味方にとって問題な のは、国民に統治させる方法を見出すことであるよりも、むしろ、最も統治能力のある人を国民に選ばせる方法、そして、そ のようにして選ばれた人に対し、国民の個々の行為とか実行手段ではなく行為総体が指導できる程度にまで大きな支配権を国 民が与える方法を見出すことです。これこそが問題なのです。現代の諸国民の運命はその解決にかかっている、と私は深く確 信しています。しかし、それに気づいた人、気づきつつある人はなんと少ないてとか、それに注意を喚起する人はなんと少な 63 (3−4 ・80) 540 いことか! けれども、もしそのことを率直に示すならば、まだ躊躇している多くの人々が民主主義の誠実な味方となり、 ︵32︶ 主主義の敵から最も危険な武器をもぎ取ることになるだろう、と私は信じます。 ﹁幾つかの論点は示しておこうと思います﹂という言葉とともに始まろうとしていた、ミルの批判に対するトクヴィ ルの反論は、結局のところ棚上げになってしまった。ミルの書評にかんするやりとりは、この手紙に応えて書かれた ミルの手紙でひとまず終止符を打つことになる。 あなたの手紙は、私をこの上なく満足させてくれました。あなたが私の論文に与えてくださった賞賛ほど嬉しいものは他に ありえません。私が述べたことはすべて、私が実感したことであり、あなたの著書とその著者であるあなたに感じた賞賛の念 に圧倒されなかったならば、より多くを語れたことでしょう。幾つかの点をめぐってあなたとの間で始めた議論にかんして申 しますと、私がそれらの問題に対して十全な確信を持っているとはお考えにならないでください。私が確信しているのは、そ れらがこれ以後議論していく余地のあるものだということなのであり、あなたはこうした議論によって何らかの成果に到達で きるごく少数の議論相手の一人なのです。私は、その機会を根気よく待っています。 私もあなたと同様、委任と代表との区別を重要なものと考えています。私がこれを提起したのは、昨日今日のことではあり ません。すでに一八三〇年には﹃エグザミナー﹄誌上で、同じ意見を強く主張していましたし、また、この国で強制委任につ いて喧しく論じられた時期にあたる一八三二年には、フォンブランク氏が大いに愛国心を発揮して私の二編の長い論文を掲載 してくれましたが、これらは急進派系の読者の感情を大いに害し幾人かの予約購読者を失うことになったほどでした。私の父 は私以上に民主主義者なのですが、その父も断固として同意見です。ただ父は、国民はこの区別をめったに混同しないだろう ︵33︶ と確信しているのですが、私はこの点にかんしては父ほどには賛同していません。 ミル自身がここで予告したように、彼はその後、トクヴィルと見解を異にした点についてさらに思索を深めていくこ 63 (3−4 ・81) 541 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 民 論説 とになる。具体的に言えば、ミルはこれ以後、方法論的にはトクヴィルに対してより批判的になり、﹁多数者の専 制﹂という洞察についてはトクヴィルにいっそう賛成していくことになる。これら二点については、後にあらためて 取 り 上 げることにしよう。 さて、この時期の往復書簡における残り二つの中心的主題については、続けて手短かに扱うにとどめておきたい。 先に見たように、小クヴィルはミル宛ての最初の書簡で、﹃ロンドン・レヴュー﹄への寄稿に積極的な姿勢を示して いたが、三五年九月に、ミルの提案を受け入れるという最終的な態度表咀を行なつな㌍しかしトクヴィルの結婚が間 に入ったことなどもあって作業は遅延し、ミルは当初第四号︵一二月刊︶への掲載を期待していたが、原稿がミルの ︵35︶ ︵36︶ 手に渡ったのは翌三六年二月になってからであった。原稿の完成をミルに知らせる手紙の中で、トクヴィルは次のよ うに書いている。 この作品についてあなたがどうお考えになるか、私には見当がつきません。私が言えることは、これ以上はよく書けないだ ろうということだけです。私は、フランス語で私の名で公表されるかのようにして書きました。しかし、凡庸な程度でしか成 功していないのではと懸念しています。私の方法は過度にフランス的であなたの同国人たちの好みに合わないのではないか、 一般的観念にあまりにはっきりと傾きすぎているのではないか、という危倶が私にはありました。私は当初、こうした傾向に 抵抗しようと考えていたのですが、それにもかかわらず、主題が私をそちらに引っ張っていってしまいました。この主題ほ ど、人間の諸社会に示された一般的諸法則について考えさせるものはないのです。それに、今日のフランスにまで行き着け ば、私にとっていっそう具体的で実際的になることは容易になると思います。第二篇に着手する時間を早く持ちたいもので す。私の手を離れていったこの研究は、私の精神の内に数多くの考えを生じさせ、それまで気づいていなかった一連の諸関係 ︵37︶ を気づかせてくれました。 63 (3−4 ●82) 542 この手紙の二ヶ月後、ミルは、この論文を掲載した号が刊行されたことをトクヴィルに知らせた。 ﹃ロンドン・ウェストミンスター・レヴュー﹄が刊行されました。あなたの論文は、それを中心的に飾るものとなっていま す。私自身が、われわれの行なった翻訳を監修しました。あなたの思想が忠実に翻訳され、その他のものが全く損なわれな は、哲学的文体の完成の域に到達しようとしていると思います。 かったことを期待しています。われわれは、少なくともあなたの文体の明晰さと簡潔さに注意深く従いました。あなたの文体 ミルの依頼に応えて書かれたトクヴィルの論文﹁フランスにおける社会と政治の状態﹂は、周知のように、後の﹃旧 体制と革命﹄の出発点・原点とでも言うべき意義を持つものであるが、この手紙でミルは、内容については何ら論評 していな堕 トクヴィルの当初の構想では、旧体制期から現代に至るまでのフランス事情全般についての一連の論文が書かれる はずであった。﹁フランスにおける社会と政治の状態﹂はその第一歩にすぎなかった。この構想を告げられトクヴィ れ ルが継続的な寄稿者になってくれることを期待したミルは、﹁この著作の続篇を次号で読者に提供できると考えてよ うしいものでしょうか﹂とトクヴィルに宛てて書き、続篇を督促した。しかし、トクヴィルの関心は、﹃第一部﹄を む 書く際にすでに念頭に置かれていた﹃アメリカの民主主義・第二部﹄の執筆に大きく傾きつつあった。いや、むしろ ﹁フランスにおける社会と政治の状態﹂が、トクヴィルの本来の執筆計画からすれば、一時的な逸脱だったのであ る。そこでトクヴィルは、この論文が活字になった直後に、この論文の原稿料六〇〇フランの受け取りと絡めて、次 のようにミルに書き送ることに な っ た 。 63 (3−4 ●83) 543 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 六〇〇フランは受領いたしましたが、私はまだ、それが私のものだとは思っていません。以下のことをあなたにお知らせす るまでは、それを最終的に受け取ることはできないのです。あなたからお金を受け取ることで、私は以前よりもはるかに厳格 な義務をともなう契約をあなたとすることになるのだと思いますので、その条件についてぜひともあなたに御理解をいただき たいのです。私は今、きわめて大きな仕事に没頭しています。私の著作に新たに二つの巻を加えることに着手したのです。第 一部では、民主的な社会状態が法に対して与えうる影響について示しましたので、次に第二部では、この同じ事実が人間の思 想と感情に対して持ちうる力について検討したいと思います。現時点で他の対象に専心したり、今関与している方向と矛盾は しないとしても少なくともそれと異なっている道筋に不本意ながら入り込んでいくことが、私にとってどれほど困難かつ有害 であるか、おわかりいただけるでしょう。ですから、お約束した第二論文の送付は遅延せざるをえないわけです。また、若干 の遅延をあなた方の段取りに入れておいていただくことも、可能なのではと思います。そこで、あなたが私に渡したいと強く 、望んでおられるものを受け取る前に、待ち望まれている作品はしばらくの間は未完成のままであろう、と申し上げなくてはな りません。それでもよろしいかどうかは、あなたの判断にお任せいたします。 今日は、あまり長くはお話しできません。お別れして仕事に向かいます。私は今、﹃デモクラシー﹄の偏執狂になっています ので 。 ︵ 42︶ ﹃第二部﹄の完成まで続篇は書けないと書いてきたトクヴィルに対して、ミルは﹁残念ど思うよりも、むしろその原. 因を嬉しく思っています﹂と応え輪回おそらくこれは・半分は真意であるにせよ・残り半分は・非常に﹁残念と思 う﹂ということの娩曲表現であっただろう。ミルは、自らが実質的に運営している﹃ロンドンーウェストミンス ター・レヴュー﹄とトクヴィルとの縁が切れてしまうことだけは、少なくとも避けようとした。そこでミルは、ブル ワーの﹃フランス、社会・政治・文学﹄についての書評あるいは覚書をボーモンが書くよう説得することをトクヴィ ルに依頼した。しかし、新婚早々のボーモンがこの仕事を引き受けなかったために、トクヴィルが自らブルワーの書 ︵44︶ 物について覚書をミルに提供することになった。﹃ロンドン・ウェストミンスター・レヴュー﹄に対するトクヴィルの 63 (3一・4 ●84) 544 ︵45︶ 協力は、結局のところ、この覚書が最後ということになる。 ﹃アメリカの民主主義・第二部﹄の執筆は、当初トクヴィルが予想していたよりもはるかに難航した。﹃第一部﹄が パリ・ヴェルヌイユ街の屋根裏部屋で雑事を一切排除して、約一年で一気に書き上げられたのに対して、﹃第二部﹄ の執筆はしばしば中断を余儀なくされた。そうした中断の一つは、健康がすぐれなかった夫人の療養のために付き 添って、一八三六年六月から一〇月にかけて、三ヶ月余りスイスのバーゲンに滞在したことによって生じた。物書き であれば同情を禁じえないような事情を、トクヴィルはミルに対し訴えている。 やむをえずスイスを旅行したことは、この仕事にとっては大損害でした。貴重な三ヶ月を失ったので、無駄に使ってしまった 時間をできることなら取り戻そうと、ポジーの小さな谷に閉じこもってきたわけです。多いに苦労しましたが大半は取り戻し ました。幸いにも調子が元に戻り、今は、書き終えるまで手を離したくないと思っています。ともあれ、自分の主題が、睡眠 中に胃の腋にのしかかる悪夢のように、心にのしかかり始めています。秩序がまだ明確に見えないまま一つ一つしか切り抜け ていけない状況の中で、心が多くの事柄で一杯になっている感じがします。走りたいのですが、のろのろとしか進んでいきま せん。おわかりでしょうが、私は、一つの体系に従おうとか、目的に向けて出任せに進んでいこうと意を決した上で、筆を 執っているわけではありません。私は自分の思考の自然な流れに身を委ね、︼つの帰結から別の帰結へと忠実に進んでいくよ うにしています。ですから、作品が完結しない限り、どこに行くのかどこにたどり着くのか、よくわからないわけです。この 不確かさは、最後には耐え難いものとなります。もしあなたがこちらに来られたら、こうしたことすべてをあなたと語り合 い、今、頭の中に行き交っているすべての思考であなたを眩惑して、私は大喜びするでしょう。評論誌にかんしてですが、お 役に立ちたいという積極的な気持ちはいつも持っていますが、どのように役に立てるのか、今は正直のところわからないでい ます。あのように悲惨に浪費された三ヶ月の後に、もし再び道を外れてしまうならば、元に戻るのはきわめで困難だろうと思 います。﹃デモクラシー﹄の後に私が考慮するであろう最初のものが、あなたにかんするものであることは十分に確かです。私 はそう約束しますし、そう期待してくださってよろしいかと思います。ただし、それが正確にいつになるのかについては申し 63 (3−4 .85) 545 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 上げられませんが。 ︵46︶ ミルは、トクヴィルがこのように苦闘しながら書いていた﹃第二部﹄の完成を待ちながら、依然としてトクヴィルと ﹃ロンドン・ウェストミンスター・レヴュー﹄のつながりを維持する道を模索していた。・その結果、ミルは翌三七年一 月には、・公刊前に予告の形で﹃第二部﹄をこの評論誌で書評するために、校正刷を送ってくれるようトクヴィルに依 ︵47︶ 頼することになった。慎重な条件を付けてこの依頼を受け入れる旨を記した同年六月の手紙の中で、トクヴィルは、 作業の進み具合にについて次のように述べている。 なぜポーモンが私の著作についてあなたに話したときに、私は冬あるいは来年の春の初め以前に公刊することを意図していな いと言わなかったのか、解しかねています。私はこの時期以前に書き終わるとは思っていませんし、その頃に書き終えること もできないのではと懸念すらしているのです。私の額縁はたいそう大きくなりました。その上、進むにつれて困難が増大する ようでもあり、以前よりも拙劣なのではという懸念も強くなっています。自分が大いに期待されていることは認めざるをえま せんが、それを想うことが私を絶えず苦しめ、最も細かい点にまで気を使わせることになっています。それは著作に役立つだ ろうとは思いますが、しかし、筆の進みを遅らせることにもなっているのです。しかも、様々な出来事が私を妨げます。必要 に迫られて社交界に出入りしたため、先の冬はパリで多くの時間を失いました。一ヶ月前に当地に来てからも、一五日間は本 格的な仕事をすべて中断せざるをえず、たいそう辛い思いをしました。最後に、私が住んでいるこの地域で次の選挙に立候補 したいと思っているので、近隣の人々を訪ねて回る必要があり、これが時間を失うもう一つの原因となっています。こうした ことすべての結果として、楽観抜きで言いますと、早くても来年の二月以前の公刊を期待することはできないのです。した がって、お約束したもの.︹第二部の校正刷︺をあなたに送るのはそのときになります。というのも、正直に申しまして、全体 がどうなるのかを自分自身でよく納得する以前に全体から切り離された一つの章を輝けにすることは、私としてはどうしても ︵48︶ 嫌で、また、出版の準備が整ってからでないと、全体について判断が下せないからです。 63 (3−4 ●86) 546 ミルとトクヴィルの往復書簡は、この手紙から約二年半、中断することになった。トクヴィルは、三七年秋の議会選 挙に立候補して選挙運動を展開し︵このときは落選︶、さらに、三九年に再度立候補して念願の議員の地位を獲得す ることになった。﹃第二部﹄の執筆はこうした政治活動によって中断され、公刊にたどり着いたのは一八四〇年四月 ゆ に至ってからのことであった。他方ミルもまた、東インド会社勤務のため議員への立候補は禁じられていたものの、 急進派の拡大再編のために、三八年には、カナダ総督ダラム卿を急進派の指導者に擁立すべく活発な文筆活動を行 なった。しかしミルは、この擁立運動に失敗して後、急進派による改革の見通しは遠のいたという判断にもとづい て、現実政治への関与から思想における革新へと重点を移していき、そうした革新のオルガノンとしてすでに書き始 ね めていた﹃論理学体系﹄の執筆を再開していくことになる。彼はまた、﹃ベンサム論﹄︵一八三八年︶や﹃コールリッ ジ論﹄︵一八四〇年︶など、三〇年代の彼の思索の総決算とも言える論文を﹃ロンドン・ウェストミンスター・レ ヴュー﹄に発表したが、急進派の再編という政治目標を失った彼は、自ら編集に関与し三七年にはモールズワースか ら経営権を譲り受けていたこの評論誌を、知人ヒクスンに譲渡した。今やミルの最大目標は﹃論理学体系﹄の完成で ロ あった。 ︵1︶ζ幽旨8冒ωΦ9bd冨昌8霜三けΦるρ閃①ぴ4一。。ω伊Oミレb。bお・ ︵2︶ 竃凶一一8冒の8ずbd置90壽律や一μ﹀寓二一Q。ω90ミ”一NN$. ︵3︶ この語は、小山︵一九八Ol八三︶、︵五︶=二二頁から借用した。この論文において小山教授は、トクヴィルのこうした キ ヤ ノ ン ズ 手法の一般的特徴を次のように描き出している。﹁トックヴィルは、意識的に何らかの有効な公認の教理のようなものに照らし て、自己の経験的観察を検討することはしなかった。その意味では、彼は理論家でも方法学者でもなかったといえよう。彼は 63 (3−4 ●87) 547 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 主として、一八、九世紀の大きな歴史的趨勢によって破壊され、建設されつつあった諸社会の条件に関する鋭敏な解説者で あった。しかし、彼の不完全な概念構造は、彼自身の観察と洞察から生まれたものである。彼独自の経験的資料の提示の仕方 から判断して、彼が関心をもっていたのは、自己の主張の経験的証明にとって本質的と思われる諸事実と、二つの社会を比較 するにはこれらの諸事実をどのように整理すべきかという問題とであった。そこに、彼の概念構造の経験的手続への緊密な影 響をみるのは︵むしろ当然であろう。これとの関連で注目すべ者は、トックヴィルのコ般化﹂は彼のこうした比較例証法の 産物でもあったという点である。彼は、表面的には類似しているかにみえる諸現象間の根本的な相違点を引き出し、これらの 相違点の説明から重要な理論的結論を導き出すために、再三再四比較分析の方法を用いたのである。﹂︵︵一︶三八頁︶ ︵4︶言=8>蔚鉱90巳一げ⑦昼。。噂竃昌し。。ω伊OミしN”NOド ︵5︶ ジャルダン︵一九八四︶、二二四頁、二六一頁。 ︵6︶ 竃露里︵一㊤α。。︶℃器−鰹●なお、訳出に際しては、小山︵一九八○一八三︶、︵四︶六九−七〇頁の部分訳を一部借用した。. ︵7︶ 竃塁臼︵一8。。︶噂。。学。。O.山下︵一九七一︶、二二八−二二九頁。 ︵8︶ ジャルダン︵一九八四︶、二五五頁。 −、 ︵9︶護昌8>﹁凶ωま①O巳一げ㊦3朝し巨ρ日。。ω伊Oミし刈しO①b。・ ︵10︶ 当初はホワイトが﹃ロンドン・レヴュー﹄で﹃アメリカの民主主義﹄を書評するという企画があったが、五月後半の段階で ミルが代わって書評することになった。O炉三塁8日目ω①9bd冨昌8謬言”一P竃①ざμ。。ω伊Oミ”一ρま。。●なお、一八三五年四月 に創刊された﹃ロンドン・レヴュー﹄とミルとの関係については、山下︵一九七一︶、二〇三−二一二頁に詳しい。 大再編の企てに自ら積極的に関与した三〇年代において、この﹁運動派﹂という語をしばしば用いていた。 、改革の推進を主張した﹁運動派﹂という対立図式を、﹂ミルはここでイギリスに応用しているわけである。ミルは、急進派の拡. 年の憲章を改革の到達点と考えそれ以上の改革に抵抗した﹁抵抗派﹂、それに対して憲章を改革の出発点として考えいっそうの ぽ。ヨヨ①ωα﹃ヨ。︿oヨ。耳﹂としてミルが言及しているのは、具体的には哲学的急進派のことである。フランスにおいて一八三〇 という呼びかけが定着した。なお、本文に引用した手紙の中で、﹁運動派の味方9巨ωα①ヨ。<①ヨ。暮﹂︵﹁私たち運動派ぢω 月三日付のトクヴィルからミルに宛てた手紙以降ヨσ昌6げ曾ζ藁葺890﹁↓ooρ⊆o︿自。︵英文の場合ヨ矯ασ厄日ooρ¢o︿監。︶ びの挨拶文は省略している。当初はミルもトクヴィルも、ヨ8魯臼竃8ω凶。ロ学⋮と鄭重に呼びかけているが、一八三五年一二 ︵11︶ 属旨8↓ooρ醒。鴬旨ρH一し§ρH。。ω伊Oミ℃一ト。b①㎝幽Oρ§馬唱§”b。O 歯㊤ω●全文を紹介すると言ったが、冒頭の呼びかけと結 63 (3一.4 ●88) 548 ︵12︶ ↓08⊆①<竃①8ζ門戸ロρ言づρH。。。。α]℃§魁蕊b㊤ω甲羅・原文には日付は明記されておらず﹁土曜日夜﹂としか書かれていな い。書簡集の編者は推定を一八三五年六月というところにとどめている。しかし、この手紙の追伸の部分は、六月一三日とい う日付を推定する手がかりを含んでいる。ジャルダン︵一九八四︶によれば、トクヴィルはこの年の一〇月に結婚することに なるメアリー・モトリーに会うために、イギリス滞在を短期間中断して﹁六月一五日頃﹂、英仏海峡に面したフランスの沿岸都 市、ブーローニュ・シュル・メールに出かけた。このときメアリーは、ブーローニュで新教を棄教する儀式を行なった︵それは カトリックのトクヴィルとの結婚を円滑化する意味を持つものであった︶のではないか、それに立ち会うためにトクヴィルは ロンドンを離れたのではないか、とジャルダンは推測している︵二五九頁︶。一五日に直近の土曜日は一三日であり、トクヴィ ルは翌一四日の晩にロンドンを離れ一五日にブーローニュに着いたと考えれば、追伸の記述とジャルダンの説明とは整合する のである。なお、ミルがトクヴィルの招きに応じたかどうかは不明であるが、あえて推測すると、このときミルはトクヴィル と会わなかったように思われる。もし、両人が夕食をともにしていたならば、直前に控えた小旅行の目的に話題が及んだかも しれないが、その後のミルとトクヴィルの往復書簡では、立ち入った私生活上の事柄はほとんど言及されていないからであ る。ミルがトクヴィルの結婚を知ったのは、ボーモンからの知らせによってであった。O炉ζ≡8日Ooρ⊆Φ<≡①藁PZo<己一。。ω9 0ミゼH卜。曽卜。o。ω−卜。○。餅§e蕊るOH−○。O卜。・ ︵13︶ これについての詳細は関口︵一九八九︶第三章を参照。 ︵14︶ ただしミルは、編集企画に深く関与はしていたものの、当初からすべてを思い通りにできたわけではなかった。その事情 について、彼は﹃自伝﹄で次のように記している。﹁当初、それ︹評論誌︺は、全体として私の見解を体現していたわけではな かった。私は、欠くことのできない仲間たちに譲歩せざるをえなかった。評論誌は﹁哲学的急進派﹂を代表するものとして創 刊されたのだが、私は今や多くの本質的な点で彼らと見解を異にしていたし、私は彼らの間で、最も重要な人間だとすら言え なくなっていた。われわれは皆、私の父の書き手としての協力を不可欠と考えたし、彼は晩年の病気によって妨げられるま で、そこで大いに書いた。彼の論文の主題や、その中で自らの見解を表明した際の力強さや断定の調子によって、他の誰より もまして彼から、出発当初の評論誌の基調や色合いが与えられることになった。私は彼の論文に対して編集者としての統御を 加えることはできなかったし、私自身の執筆担当部分を彼のために犠牲にせざるをえないことも時々あった。こうして、多少 は修正されていたものの、かつての﹃ウェストミンスター・レヴュー﹄の教義が、評論誌の主要素となった。しかし私は、それ らの傍らに別の観念や調子を導入し、この派の他の成員たちの見解に並行して私自身の色合いを帯びた見解も正当な部分を占 63 (3−4 ●89) 549 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 めるように望んだ。⋮⋮私は古い哲学的急進主義と新しいそれとを和解させるという私の計画を、私の最初の寄稿の主題を選 ぶことによって実現に移す機会を得た。⋮⋮︹セジウィックが不適切な功利主義批判を書いたことを︺私は今こそ、不当な攻 撃をはねかえすと同時に、ハートリー主義と功利主義に対する私の擁護論の中に、こうした主題にかんする私の古い仲間たち とは異なった見方を構成している諸見解を挿入する好機であると考えた。これには部分的には成功したが、しかし、もし仮に あの時点でこの主題にかんする私の考え全体を公言していたら、どこで公言するにしても父と私との関係からして私は苦痛を 感じただろうし、また、彼が寄稿していた評論誌においてはそれは不可能であっただろう。﹂竃一一一︵一。。認γb。富山8・9一,七五⊥七 六頁。 ︵15︶ トクヴィル︵一八三五︶、一四頁つなお、小山︵一九八○一八三︶、︵一︶四頁も参照。ミルがいち早べ感じ取っていたトク ヴィルの思想的営為のモティーフは、この小山論文のタイトル﹁トックヴィルの自由の精神の政治学一比較文明的視座から・ のデモクラシーの批判と形成原理﹂に凝縮されている。 ︵16︶ トクヴィル︵一八三五︶、=二頁。小山︵一九八Ol八三︶、︵一︶五〇頁、六八頁。なお、トクヴィルによって批判的に継 承されることになったギゾーの摂理論については田中︵一九七〇︶、七九−九六頁を参照。 ︵17︶ 小山︵一九八○−八三︶、︵三︶一五一頁、︵四︶六九−七九頁を参照。小山教授は、ミルをはじめとするイギリスの急進主義 者は、﹁新しい種類の自由主義者﹂へのトクヴィルのセルフ・アイデンティフィケーションに、﹁電導的なプラス・イメージとし て積極的に影響しているものと推測されうる﹂と指摘している。 ︵18︶ トクヴィルの協力的姿勢について、ジャルダンは次のように書いている。﹁他人がなにかのことで協力を要請してきたとき には大変慎重になったトクヴィルが、ミルの提案に逃げもせずに、かえってイギリス急進主義に同情を示したということは、・ 注目すべきことである。おまけに、フランスでの同様の立場をとる党派には、彼は敵対七ていたことも考慮しなければならな い。﹂ジャルダン︵一九八四︶、二六二頁。 ︵19︶ ジャルダン︵一九八四︶、二六〇頁。 も、私たちは革命は起こしませんでしたが。﹂躁状態でのものと思われるこのような軽快な筆致は、.以後、ミルに宛てた手紙の 堪え忍ぶというのは、あんまりというものです。時々私たちは馬車の中にいる﹁貴族たち﹂を不機嫌に見つめました。’もつ七 ました。乗合馬車の屋上席で一〇時間、おまけに雷と土砂降りでして、世界中で最も文明化した国の真中でアメリカの荒野を ︵20︶↓08q①<竃08ζ戸戸冨ρ冒昌ρ一。。ωαピ§ミ§bOド﹁私たちは当地にたどり着くまでに、考えうる限りで最もひどい旅を七 63 (3−4 ・90) 550 中では二度と見られない。トクヴィルの気質は躁欝質であったという指摘については、ジャルダン︵一九八四︶、四一四頁参 照。なお、この手紙は日付がなく、﹁木曜日朝﹂と記されているだけであるが、トクヴィルがコヴェントリーに滞在したのは、 六月二五日﹁木曜日﹂であるので︵ジャルダン前掲書、二六〇頁︶、この日に書かれたものと推定可能である。 ︵21︶ ↓08器≦=①8]≦一一一しN層ω①P一。。。。伊§妃ミ恥b㊤叩①. ︵22︶ ︼≦一=o↓08器く艶ρ[ω8・し◎。ω呂矯OミL卜。﹄コ臥§ミ蕊bりS ︵23︶ ﹃ウェストミンスター・レヴュー﹄は、一八三六年二月頃に、それまでの所有者であったトンプソンからモールズワースに 一〇〇〇ポンドで譲渡され、﹃ロンドン・レヴュー﹄と合併することになった。合併後の﹃ロンドン・ウェストミンスター.レ ヴュー﹄第一号は、同年四月に公刊された︵ζ≡︵H。。刈ω︶bO8一七四−五頁およびOミ︾一ρN㊤SPNを参照︶。トクヴィルの論文 は、この号に掲載されることになる。 ︵24︶他に英仏の政治状況をめぐる所見の交換も見られるが、ここでは取り上げる余裕がない。 ︵25︶ 本節の註︵10︶を参照。 ︵26︶三三︵一。。ω鼠︶一H。。P﹁語の広い意味での統治の哲学に対して長い年月を経て久々になされた最も重要な貢献は、アレクシス. ド・トクヴィル氏の﹃アメリカの民主主義﹄という最近の書物である。この書物の公刊は、それが属する著書のジャンルにおい ては画期的である。この賞賛すべき著作についての詳細な分析は次号に掲載される。﹂ ︵27︶ ζ一一一8↓08器≦=ρ[ω①PH。。。。㎝]矯OミしNb謡導§ミ§﹄Φ㊤・ ︵28︶ ]≦一一︵一。。ωαげγ昭−もη。。.一二八頁。 ︵29︶ ζ一一一︵H。。ωαげγ謡−。。9一四八⊥六〇頁。 ︵30︶ ζ一=︵一。。ωαげγ。。甲。。ρ一六一⊥六九頁。 ︵31︶ ]≦一一一8日08器≦=ρHPZo<・し。。ω90ミ同旨る。。ω−b。Q。♪§魁ミ鉾ωOH曇ω8・ ︵32︶ ↓08⊆①<ヨ①8]≦鵠一る”U8‘一◎。Q。9§◎蕊鉾ωO甲。。O蔭。 治の真正の観念とは明らかに、代表者は、選挙区民の指示や社会全般の意見によってではなく、自らの最善の判断に従って立 とは、、、℃﹃oω冒Φo房。︷閏鎚づ。①、、”Zo﹂<u国§§§QきHρOoけ・噂一。。ωρ①およ置︵Oミ堵b。b。℃一お山α。。︶である。この論文では、﹁代議政 回に限って、ヨ。づ。ゴ臼餌邑という呼びかけが行なわれている。なお、﹃エグザミナー﹄に掲載された一八三〇年のミルの論文 ︵33︶ ζ筥8↓ooρ二①≦一一ρH一鴇O①oこH。。。。伊OミロN一ト。。。甲b。。。。。導§駐§”ω8・ミルとトクヴィルの手紙のうち、このミルの手紙の一 63 (3−4 ・91) 551 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 法すべきだ、ということである﹂︵忠N\届O︶と主張されていた。また、一八三二年の二篇の論文とは、.、コ。畠ぴqoω.””内§§§ミリμり 匂巳ざ目。。ωb。”自刈山。。飴ロα一q﹂三ざ念㌣麟 ︵Oミbωし。。甲お♪お①凸O心︶のことである。ここでは、たとえば次のように主張され ていた。﹁民衆代表の真正の観念は、国民が自ら統治するということではなく、国民が統治者を選ぶということである。善き統 治においては、公的問題は国民自身の投票に付託されるのでばなく、国民が見出すことのできる最も賢明な人に付託される。 国民の主権は、本質的に、委託される主権なのである。﹂︵命ミ心。。O︶フォンブランクは、これらの論文が発表された当時、﹃エ グザミナー﹄の所有者兼主筆であった︵竃凶=︵屋刈ω︶”嵩ρ一五四頁︶。 ︵38︶ 竃竃8↓ooρロΦ<筐ρN>聖恩H。。ω伊Oミ﹄鯉ωOP§ミ§層。。ミーωO。。.ミルがこの論文の翻訳にどの程度まで関与していたかは ︵37︶ ↓08器く崔08]≦芦,一P閃Φげ・し◎。ω◎§曹§”。。O㌣ωO刈・ ω8・ ︵36︶ 竃凶目8↓08ロ①<凶=ρ[QDΦPH。。ω呂”Oミ層Hb。b鳶”§ミ§bOO脚竃凶=8↓08⊆①<已ρ鼻Zoタし。。ω伊Oミしト。b。。倉§ミ 七頁参照。 ︵35︶ トクヴィルは一八三五年一〇月二六日に、イギリス人女性メアリー・モトレーと結婚した。ジャルダン︵一九八四︶、二六 てよいことですが、この仕事に乗り出すからには私は最善を尽くすだろう、ということです。﹂ いるのだと思うようになりました。しかしこれは、私が思いもよらなかった二次的な点です。確かなことは、信じていただい で、最後にはとうとう、当初は見えていなかった幾つかの考えに気づき、おそらくそうした考えが何とかして表に出たがって は、しばらく前からこ.の論文の目標をかなり熟考してきましたが、つねに一つの主題が気掛かりになるところに行き着くの くことができないのでは、とも懸念するのです。ここに珍肴さがあります。解決のために私に力を貸してください。さらに私 ではないかと思います七、また、色合いがいささか古風にならざるをえないそうした描写を行なえば、読者の関心を十分に引 らず、さらにフランス革命の勃発直前がどうなっていたのかを示さなければ、イギリス側ではわが国の現状を理解できないの を取り上げたいと思っています。私が躊躇しているのは、採用すべき形式にかんしてだけです。私のあらゆる努力にもかかわ は、まだ迷いがあります。私はその論文の中で、フランスの政治と社会の状勢について私が知っているほとんどすべてのこと し、それがまだみなたにとって望ましいようでしたら、ということです。もっとも、どのような計画に従っていくかについて は如何、とみなたから尋ねられたと申しておりました。お答えしますと、熟考の末の私の決心は、何か書きましょう︵ただ ︵34︶ ↓ooρ鐸①≦一Φ8ζ一戸一Nω①PH。。ω9§ミ§b㊤①●﹁ボーモンが、あなたの評論誌での協力にかんする私のはっきりした回答 63 (3−4 ●92) 552 、 不明であるが、トクヴィルはミルが翻訳において中心的役割を果たしたと受け取ったようである。↓08器く≡①8ζ圃拝古言コ①℃ H。。ωρ§ミミ勲ω一P﹁私は妻とともにあなたがたの翻訳を読み、私の書いたものが忠実で簡潔で力強く翻訳されているのに大い に感銘し、そのために、私はすぐさま妻に、・訳者はおそらくあなた自身か、あるいは少なくとも、あなたの指示の下にある人 であろうと告げたほどです。その後あなたの手紙で、私は間違っていなかったことがわかりました。こんな些細な仕事にあな たがかかわってくださったことに、大いに感謝しています。﹂トクヴィルは︼八四三年の手紙の中でもこの翻訳に言及してい る。↓08⊆①<≡⑦8ζ圃拝NドOOけこ一◎◎心ω℃§唱§”ω畠. ︵39︶ ≧Φ首ω画①↓08⊆①≦=ρ..勺。払出8一雪αω8凶巴08α一一80︷宰①コ8“鼠ωけ9。コ凶巳①、.”卜§§§亀ミ駄壽§§無ミ肉ミ帖鳴ミ”<oド ω︵舘γ﹀寧﹂。。ωOし巽山①㊤。この論文の概略についてはジャルダン︵一九八四︶、二七四−二七九参照。﹁フランスにおける政治と 社会の状態﹂では、﹃アメリカの民主主義﹄の中心的モティーフであった諸条件の平等という視座は、貴族政の政治社会学ない し土地所有の政治社会学とでも言うべき議論へと展開されている。主題からして当然のことながら検討対象はフランスである が、しかし、一八三五年のイギリス訪問で得られた知見が比較社会論的視座に結晶してこの論文に生かされていることは明ら かである。イギリス訪問の経験がこうした視座の形成に寄与した点については、小川︵一九七五︶、五一−五六頁、および小山 ︵一九八Ol八三︶、︵四︶三六−八七頁を参照。 本節註︵34︶参照。 ている。この覚書におけるブルワーに対する批判と評価には、﹁フランスにおける政治と社会の状態﹂の視座が反映されたもの 往復書簡を収めたGミミ愚§魯§聴卜鑓§黎§妃ミ砺Go§多多︾①αも鋤こ・℃●ζ昌①お09。=凶∋霞ρ8ヨ㊦≦★”ω一。。−ω漣に掲載され 書にかんするトクヴィルの覚書は、後者の一一月の手紙の後に書かれたものと考えられる。この覚書は、ミルとトクヴィルの ︵45︶ 日08器≦=①8竃籠導α”言昌①し。。ω9§◎蕊鉾ω目−ω目N⋮↓ooρ二①<田①8竃≡鴇HPZoメ一〇。ω9§◎蕊”舘や留9ブルワーの著 §ミミ 。 ・ 層 ω O O . 竃繭=8日08招く≡ρ撃︾写藁。。ω90ミ博一b。bOや。。8闇§ミ§一ωHρζ≡8↓oB器く圃=ρ[PZo<.︾一。。ω①HOミ”H・。る8−G。一ρ ]≦旨8↓08⊆①︿崔ρb。刈”﹀嘆こ目。。ω90ミゼお︾ωO軽堕§妃ミ鉾日P ↓ooρ⊆Φ<已①8竃圃戸Hρ︾肩●し◎。ω◎§ミ§”ω8● ζ三8日ooρ目①く陣=ρN”︾O﹃.弧。。ω90ミゼ旨”。。O一一§q蕊9ωO◎。. 44 43 42『41 40 ) ) ) ) ) が含まれていた。たとえば次の一節がそうである。﹁このようにして著者は、多彩な主題を経て、おそらくはこれで本書を始め 63 (3−4 ・93) 553 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論 説 ればよかったであろうもの、すなわち、土地財産の分割という主題へとたどり着く。B︹ブルワ←氏は適切にも、イギリス や他のヨーロッパ諸国の大半と比較して、フランスの顕著な特徴は小土地所有者が多数いることだ、と指摘している。著者 は、やろうと思えばできたはずなのだが、この基本的事実がフランスの法、習俗、哲学、気質に対して持っている影響全体を 観察しているわけではない。とはいえ、著者はそれを指摘はしており、とつわけ、国民の物質的幸福に対するこうし光広汎な 財産分割が及ぼしている影響について探求している。B氏は、これを漸進的窮乏化をもたらすものとして批判するイギリスの 諸理論にもかかわらず、フランスの小農は絶えず裕福になっている、と正しく指摘している。彼は、この現象を説明する幾つ かの適切な理由を与えている。とはいえ、彼の看過している諸事実を知っていれば引き出すことのできる数多くのものは脱落 してしまっている。﹂︵認O︶トクヴィルの協力がこの覚書で終わった理由については、ジャルダンが適切な説明を与えている。 ﹁この論文は、ミルめ雑誌ヘトクヴィルが寄稿したただひとつの論文となった。しかしながら、彼はこの雑誌と縁を切らないこ とを望んでいたのだろう。ブルワーのフランスにかんする本の書評をボーモンが頼まれて断わったのを受けて、彼は本を読ん だ感想をなにかの役に立つだろうと思いながら、ミルの雑誌へ送った。それだから、﹃アメリカにおける民主主義﹄後編の執筆 と政界いりとが、イギリスの急進派とのなんちかの行き違いよりもずっと雑誌への協力の打ち切りに関係していたわけであ る。﹂ジャルダン︵一九八四︶、二七六−二七八頁。, 以上によい天職が私にあるのか、Fあるいはその方面で私がなしうることを見てあなたがそのように考えるかどうか、それが確 ︵51Yミル億たとえば、三九年のスターリ■ンブ宛ての手紙で次のように述べている。﹁党派の指導者は私の天職ではない、せいぜ・ .いの上ころ指導者に止血た人に、・時折、よい忠告を与えるぐちいのことだ、という点で、・私はあなたと全く同感です。﹂哲学者 ︵50︶ これについては、山下・︵一九七.一︶、二四四−二五〇頁に詳細な記述があるP 〇頁を参照。 ︵49︶ トクヴィルの政界入りの経緯については、小川︵一九七五︶、六一−八四頁、およびジャルダン︵一九八四︶、三=−三三 なかっ・たようである。、 .・ 一 ・ , ︵48︶ ↓08ロ①<竃①8罎押柱N餅旨§①”一。。ωN§ミ§帆ωb。や。。b。9ここで言及されている﹃第二部﹄の校正刷は、結局のところ送られ ︵47︶.]≦凶=8↓08器≦濠為矯一”昌・し◎。ω80ミゼμN曾9§蛇蕊噂曽?ω嵩● 七五︶.五七−五九頁を参照。 ︵46︶ ↓ooρ¢o︿一一一〇8竃一拝一〇”Zo︿.㍉。。ωρ§ミ§”ω一位﹃第二部愉執筆におけるトクヴィルの苦闘については、さらに小川︵一九 63 (3−4 ・94) 554 定するのはまだ先のことでしょう。私はまもなく確定の材料を示したいと思っています。というのは、来年中には私の﹃論理 学﹄が仕上がるとほぼ確信しているからです。﹂ζ一=8﹄oゲロω8島昌αq噛・。。。”GDob・し。。。。POミ噛一ω﹄O①●なお、ここでのミルの見込 みに反して、﹃論理学体系﹄の完成は、実際には一八四三年まで遅れることになる。 ︵52︶ 竃≡︵一。。刈ω︶︾隠伊N謡山NN一八一頁、一九〇⊥九一頁。 二 一八四〇年代前半 e 二度目の書評 約二年半にわたって中断したミルとトクヴィルの手紙のやりとりは、﹃アメリカの民主主義・第二部﹄の執筆が完 了したことを知らせる三九年一一月一四日付のトクヴィルの手紙で再開された。 あなたのことについて語られるのを耳にしなくなって、ずいぶん久しくなりました。そのことに心を痛めています。なぜな ら、あなたは最も好ましい想い出を私に残したイギリス人の一人だからです。ボーモンはあなたの健康が回復したという話を 耳にしたとのこと。もしこの吉報が本当ならば、それについてあなたが私に確証してくださるようお願いします。⋮⋮ 私は二日前にパリにやってきました。四年前から書いてきたもので前著の続篇となる作品を印刷にまわすためにです。それ は﹁人間の思想と感情に対する平等の影響﹂にかんする本です。公刊されたらすぐに、つまり来年の二月頃ですが、一冊あな たにお送りします。この本をお読みになるに際しては、この本が書かれた国の事情を忘れないでいただけたらと思います。す なわち、平等が不可逆的に勝利してアリストクラシーが全面的に地上から姿を消してしまった以上、大事なことは、今後この 新しい状態を生じてくるのを阻止することではなくて、この新しい状態によって生ずる可能性のある好ましくない諸傾向と闘 63 (3−4 ・95) 555 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 うことである、そういう国で、また、そういう国のために、この本は書かれているのです。したがって、私はアメリカやフラ ンスの新しい社会に対して、耳障りな真実をしばしば語っていますが、しかし友人としてそれを語っているのです。私は友人 であるからこそ、あえてそれを語り、語りたいと欲するのです。わが国では、平等に対して追従を語る人には事欠きません が、平等に対する確固とした誠実な忠告者は全くいません。私が自らに課した任務をよく果たしているかどうか、御覧になつ ︵1︶ ていただきたいと思います。 ここで﹁人間の思想と感情に対する平等の影響﹂にかんする本と述べられているのが、﹃アメリカの民主主義・第二 ︵2︶ 部﹄のことである。ミルはこの手紙に返事を書いたと考えられるが、その返信は残っていない。手紙のやりとり再開 ︵3︶ 後の次のミルの手紙は、公刊された﹃第二部﹄を一冊送る旨のトクヴィルの手紙に対する四〇年五月一一日付の返信 である。長い手紙であるが全文を示すことにする。 あなたの友情のおかげであなたの大著の第二部をいただけたら、この上なく喜ばしいことです。すでに私自身も一冊持って おり、一度目の入念な熟読を今終えたところです。精通できるようになるには、まだ何度か熟読を繰り返す必要があるでしょ う。なぜなら、私自身の思考は︵とりわけあなたの第一部を読んで以来︶全く同じ方向に動くことに馴染んではいるものの、 あなたがはるかに私の先を進んでいってしまったために、私は遠く置き去りにされているからです。どの部分が立証されたと 最終的に感じられるのか、そしてゼの部分がいっそうの確証を必要としていると考えられるのか一そヶいうものがあるとし て一を語る資格が得られる程度にまであなたの思想を修得するには、多くの思考と研究を必要とするでしょう。いずれにし ても、あなたは偉大な業績を達成しました。あなたは政治哲学の局面を一変させてしまったのです。あなたは、現代社会の諸 傾向、そうした傾向の原因、特定の形態の政体や社会秩序の及ぼす影響にかんする議論を、あなた以前に誰も到達したことの ない高さと深さを持つ領野にまで導きました。これらの問題領域における従前の推論や思索は、今や、児戯に等しいものに見 えます。壮大な出来事に満ちた現代においτさえも、あなたの本の公刊ほど重要な出来事があったとは思いません。それがフ 63 (3−4 ・96) 556 ランスで産み出され、そのためにフランスの内外双方において、思索するすべての人によって読まれることが確実であるとい うのは、本当に幸せなことです。ギゾーが大使として直々にやってくるまでギゾーの講義がほとんど浸透していなかったこの 愚かな島においてすら それに、ヴォルテール以後のフランス哲学が存在することをほとんど誰も知らないのです一ここ においてすら、例外的にあなたの本は読まれています。なぜなら、幸運にもサー・R・ピールがそれを賞賛し、それがトーリー の書物であるとトーリー派に思い込ませたからです。もっとも、彼らは自分たちの誤解に気づいたとは思いますが。この本 は、フランスかイギリスにおいてしか書けなかったでしょう。そして、もしイギリスで書かれていたら、狭い範囲を超えて知 られることはなかったでしょう。 私にとって多かれ少なかれ新しいものであった思想がかくも数多くありましたけれども、その中で私は、あなたの重要な一 般的結論の一つが、この国でほとんど私一人だけが擁護してきたもの、そして私の知る限りでは誰一人として支持者を獲得し なかったものと、まさに同じだということに気づきました︵これは、私自身の見解の正しさをきわめて強力に補強してくれる ものだと思います︶。すなわち、デモクラシーにおける真の危険、対抗して闘うべき真の害悪であり、手遅れではないにせよ人 間が持つ一切の方策を駆使してもせいぜいのところ防止できるにすぎないものとは、アナーキーとか変革への愛ではなく、中 国的な停滞と不活発性だ、ということです。こうした問題の見方があなた一この主題にかんする当代の最高権威である︵し たがって、これまで存在した中での最高権威である︶人1に対しても、同程度に強力な証拠とともに示されていたことを見 た以上、今後私は、それを科学的に確証された真理とみなし、今までの一〇倍も根気強く、万人に向けかつ万人に抗して、そ れを擁護していくつもりです。 前回あなたに手紙を書いたとき、﹃ロンドン・ウェストミンスター・レヴュー﹄と私とのつながりが途絶えたために、そこであ なたの本の書評を行なう機会がなくなってしまって残念だと申しましたが、今は喜ばしい知らせがあります。私は、あなたの 本を﹃エディンバラ・レヴュー﹄で書評することになり.ました。御存じのように、この書評誌ははるかに広く読まれており、ま た、あなたの第一部は書評していなかったのです。どの書き手も、それを敢えてすることができなかったのだと思いますが、 そのことで彼らを非難することは私にはできません。なぜなら、この書評誌は、今日見られるものの中で最も完全な一八世紀 の代表であり、それはあなたの本について評価を下す視点ではないからです。しかし、﹃エディンバラ・レヴュー﹄に今から書 こうとしている私やその他の幾人かが、そこに若干の新しい血を注ぎ込むことにおそらく成功するでしょう。私は、この書評 論文のために一〇月までの時間を与えられています。 63 (3−4 。97) 557 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 三〇〇マイル離れた地にあって、病で臨終の床にあった私の大切な弟を見舞っていたとき、ボーモンから長い好感の持てる 手紙を受け取りました。彼には長い手紙の借りができましたが、近々それに報いるつもりです。 あまり定期的に手紙を書くということはしていませんけれども、存命中の人で私がこれほど高く評価し、その人の友情を誇 りとしているの億、あなた以外にいないという私の言葉を、信じていただきたいと思います。残念ながら私には、それを示す 手段が一つしかありませんけれども、私はその手段をかなり自由に使ってきました。なぜなら、ものを書くときはほとんどつ る ねに、私のペンの下に何らかの形であなたの名前があるからです。 ﹁ものを書くときはほとんどつねに、私のペンの下に何らかの形であなたの名前がある﹂というミルの言葉は、決し て外交辞令ではなかった。三〇年代後半以降、政治理論のあり方を模索していた彼は、種々の論文においてこの主題 について論ずるときには、実際ほどんどつねにトクヴィルに言及していたからである。そこで、これ以後の書簡のや りとりを追う前に、この時期のミルがトクヴィルの政治理論をどのような観点から評価していたかを検討することに しよう。右の手紙にもうかがうことができるように、ポイントは二つある。すなわち、トクヴィルの政治理論の方法 論的側面についての評価と、民主主義社会における真の危険としての停滞と不活発性への関心、という二画面ある。 まず最初に後者を取り上げるこ と に し よ う 。 ﹃アメリカの民主主義・第一部﹄と﹃第二部﹄との間で、トクヴィルの視座が微妙な変化を示していることが、ト クヴィル研究者によって指摘されている。その変化とは要約するならば、危惧すべき専制の具体像が、前者において は主に多数者の意志の全能性に依拠する立法部の専制であったのに対して、後者においては私化し孤立化した政治的 に無関心な個人を後見的に管理する中央集権的な行政部の専制となった点である。実のところ、類似した変化がミル にも生じていた。トクヴィルについての最初の書評︵以下﹁第一書評﹂と略称し、さらに、一八四〇年の二度目の書 63 (3−4 ●98) 558 評は﹁第二書評﹂と略称する︶では、ミルはトクヴィルと同様に、多数者の専制を基本的に立法部の専制としてとら えていた。そしてミルは、立法部の専制の予防手段として力説した委任と代表の区別が、精神の次元での専制︵多数 者に対する追従の精神︶に対しても有効であると論じていた。しかし、委任と代表の区別はミルにとって終生の関心 であったとはいえ、彼は﹁第二書評﹂に至るまでの間に、トクヴィルが民主主義社会における危険として指摘した精 神に対する専制・画一化に対抗するためには、さらに別の視点から対策を用意する必要があると考えるようになって いた。すなわち彼は、多数者の政治権力ばかりでなく、多数者の社会的権力に対抗する方策についても注目し始めた のである。この新たな関心は、一八三八年の﹁ベンサム論﹂における次の一節に示されている。 しかし、ベンサムの政治哲学のこの基本的学説︹政治における多数者の優位︺、は普遍的真理なのだろうか? 多数者自身の であれ絶対的権威の下にあることは、人類にとって、すべての時代すべての場所においてよいことなのだろうか? われわれ が権威と言うとき、政治的権威のことだけを言っているわけではない。なぜなら、およそ人間の身体に対して絶対権力を持っ ているものが、人間の精神に対してはそうした権力を持つと主張しない一1自分たちの基準から逸脱した意見や感情を︵おそ らくは法的刑罰によってではなく、社会的迫害によって︶統制しようとはしないし、青年の教育を自分たちの雛型に合わせて 形作ったり、自分たちとは異なった精神の活性化を維持する目的で企てられるあらゆる書物、学校、社会に共同で働きかける 結社などを絶滅しようとしたりはしない、などと考えることは非現実的だからである。要するに、すべての時代すべての国に おいて、世論の専制の下にあることは適切な人間の状態なのだろうか? ミルにとってこれらの修辞的疑問に対する答えは、言うまでもなく否である。民主主義社会においては、﹁偏った意 見を是正し、思想の自由と性格の個性の避難所となり、多数者の意志に対する恒久的で持続的な反対者となるような 63 (3−4 ●99) 559 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 説 社会的諸制度が提供される必要がある﹂。そうした用意がなければ、社会は﹁中国のような停止状態になるか、 解体 論 に陥る﹂ことにな鞠一この議論の文脈においてミルは・次のようにトクヴィルに言及している。 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 多数者の権力は、それが攻撃的に用いられないで防御的に用いられている限りは一すなわち、その行使が個人の人格に対す る尊敬と洗練された知性に対する恭順によって和らげられている限りは1健全である。仮にベンサムが、基本的に民主主義 的であるような制度をこれら二つの感情を維持し強化するのに最もふさわしいものとさせる、そうした諸方策を指摘する仕事 を行なっていたならば、彼は、永続的にいっそう価値があり彼の偉大な知性にいっそうふさわしいことを行なっていたことに なるであろう。モンテスキューならば、現代についての諸々の知識を与えられたならば、それを行なったであろう。そしてお そらく、われわれはこの恩恵を、現代のモンテスキューであるトクヴィル氏から受け取ることになるであろう。 このように、ミルは﹃第二部﹄公刊以前に、多数者の専制に対してトクヴィルが提示している諸々の対抗策は、たん に政治における専制ばかりでなく、社会的専制への対抗策にかんしても有意義な示唆を含んでいるとして、後者の観 点からトクヴィルを再評価するようになっていた。そして後に公刊された﹃第二部﹄の中に、社会の停滞をもたらす 社会的専制という自らと同じ見方を見出したミルは、先に引用した五月一一日付の手紙において、この点でのトク ヴィルとの見解一致が自らの確信を著しく強化したと述べたのであった。そうであればこそ、ミルはまた、﹁第二書 り 評﹂においてこうした性格の多数者専制にかんするトクヴィルの観察を詳細に紹介したのである。政治の制度や機構 だけでは、社会的次元での多数者の専制・世論の専制に対する保障とならないという認識は、後に﹃自由論﹄︵一八 五九年︶において、いっそう緊迫した危機感を込めた形で表明されることになるであろう。 しかし、ここに見られる政治制度と社会状態とを区別する視点は、実のところ、圏ミルがトクヴィルの政治理論の方 63(3−4●100)560 法論的側面に見出した欠陥を克服すべく思索した結果として得られたものであった。たしかに、右に引用した﹁ベン サム論﹂の一節におけるトクヴィルへの高い評価、すなわち、ベンサムが提供しなかったものを﹁現代のモンテス キューであるトクヴィル﹂が提供しているという評価は、ミルが﹃アメリカの民主主義・第一部﹄を最初に読んで以 来のものであった。しかし、ミルはまた、アメリカという一国の特殊的経験を素材にしながらも、民主主義の不可避 ほ 性やその長所・短所を普遍的なものとして論じているトクヴィルの議論に、方法論的弱点も見出していた。ミルは、 トクヴィルのそうした一般的議論に示された洞察力自体は卓越したものとして評価しながらも、すでに﹁第一書評﹂ 発表直後から、何を普遍的なものとみなし何を特殊的なものとみなすかという点で、トクヴィルが明確な公準を持た ず直観に頼っているのではないか、と感じ始めていたのである。 ミルが当初トクヴィルの議論でとくに問題視したのは、トクヴィルの民主主義の概念が、諸条件の平等という社会 状態と、統治形態・政治制度としての民主政のいずれをも含んだ両義的なものであることであった。このような見地 からミルは、早くも、﹁第一書評﹂に続けて発表した﹁アメリカの社会状態﹂︵一八三六年一月︶において、﹁アメリ カの欠点として非難されてきたもののほとんどすべてと、長所となっているものの大半は、︹政治制度としての︺民 主主義とは別個に説明される﹂と主張した。彼はこの視点から、アリストクラシーが依然として支配的なイギリス お は、統治形態としても民主主義とは言い難いし、社会状態としても諸条件の平等はアメリカほど進んでいないにもか かわらず、なぜトクヴィルがアメリカに見出したような現象がイギリスでも見出されるのか、両国に共通している要 素は何かを問い、それに対して次のような回答を与えた。 イギリスからロンドンとエディンバラとを取り除き、働かずに暮らせる境遇に生まれついたすべての人々、あるいはほとんど 63 (3−4 ●101) 561 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 すべての人々を取り去ってみよう。そして、頂点の除去されたピラミッドの最上層に、リヴァプールの商人・マンチェスターの 工場主・イングランド全体に散在するロンドン法曹界の構成員・医者・代言人・非国教牧師を据え、さらに、労働者階級に十分 な賃金・読書の習慣・公共事への活発な関心を与えたとしよう。そうすれば、アメリカ社会とほとんど同じ社会ができ、ま リカは地方中間階級の共和国である。 た、アメリカと比較対照できるような唯一の基準ができるであろう。フランスの現政府は俗物の君主政と呼ばれている。アメ レ このように中間階級が英米に共通する要素であり、この要素が存在するためにイギリスでもトクヴィルがアメリカで 観察した諸特徴が見出されるのだ、という結論にたどり着いたミルは、さらに、トクヴィルの﹁フランスにおける政 治と社会の状態﹂が掲載されたのと同じ号の﹃ロンドン・ウェストミンスター・レヴュー﹄︵一八三六年四月︶に﹁文 明論﹂を発表し、その中で、中間階級の普遍的興隆という歴史的傾向を文明化の過程として捉えなおそうとした。彼 によれば、文明化とは財産︵富︶・知性・団結の力が中間階級へと普及していく過程に他ならない。この文明化の過,程 は一.方において、統治形態としての民主主義を不可避のものとする。しかも、文明化が進むにつれて、人々は団結す るために協力する訓練を積み重ね規律の習慣を身につけるため、民主主義の政治体制を適切かつ安定的に運用する能 力が準備されることになる。しかし他方、中間階級の興隆の過程としての文明の進展にともない、この階級の商業精 め 神が社会において支配的となり、富の追求への専心ゆえの精神的陶冶の軽視という弊害をもたちす。このようにして ミルは、民主的社会の不可避性・その長所と短所についてのトクヴィルの洞察に富んだ観察を、文明化という歴史的 趨勢の図式へと読み替え、さらに﹁ベンサム論﹂以降は、高度に文明化した社会において対処すべき緊要の問題とし て、中間階級の優位による社会の画一化と停滞に注目していくことになったのである。. ミルが﹁第二書評﹂において、トクヴィルが民主的社会の知的道徳的影響とみなした諸現象を現実に危惧すべきも 63 (3−4 ●102) 562 のとして丹念に紹介する一方で、それらの現象の原因は必ずしも諸条件の平等という社会状態に帰すことはできない とトクヴィルを批判したのも、こうした方法論的思索の結果であった。ミルは、社会に現われている有益な傾向を助 長し有害なものを阻止するという実践的関心からトクヴィルの著書は書かれており、その精神は自分も共有している と述べた上で、トクヴィルの議論における部分的混乱が議論全般の真理性を読者に過小評価させるおそれがあるとし あ て、その混乱について次のよう に 批 判 し た 。 トクヴィル氏は、少なくとも表面上は、民主主義の影響と文明の影響とを混同している。彼は、現代商業社会の諸傾向全体を 一つの抽象的な観念で束ね、それに民主主義という一名称を与えた。そのために彼は、国民的繁栄のたんなる進歩から、その 進歩が現代において示している形態において、自然的に生じてくる諸々の影響のうちの幾つかを、諸条件の平等によるものと レ みなしている、という印象を与えてしまっているのである。 平等化は﹁進展する文明の一つの特徴にすぎない﹂のであり、﹁勤労と富の進歩の偶然的結果の一つ﹂とみなすべき である。たしかに平等化は、文明社会の他の諸特徴に影響をおよぼすことはあるかもしれないが、しかしそうした副 次的作用を原因と混同すべきではない。アメリカと同じく諸条件の平等が進んでいるカナダは、トクヴィルがアメリ カ人の知性や感情の特徴としたものを示していない。むしろ、そうした特徴を共有しているのはイギリスである。商 業文明が発達している国々の中で、イギリスは諸条件の平等化が最も進んでいないが、しかしイギリスの中間階級 は、アメリカ人の長所と短所を共有している。したがって とミルは結論する一﹁トクヴィル氏が民主主義に帰 している知的諸影響は、中間階級の民主主義の下で生じている﹂のである。 り 63 (3−4 ・103) 563 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ミルのこの﹁第二書評﹂が﹃エディンバラ・レヴュー﹄一〇月号に掲載されてからしばらくして、トクヴィルはミ ルの書評について次のように書 き 送 っ た 。 すぐにあなたに手紙を書かなかったことを州非常に申し訳なく思っています。この二ヶ月来、私にのしかかっている公務の 大きな圧力に免じて、許していただきたいと思います。もっともそれは、あなたが﹃エディンバラ・レヴュー﹄に寄稿した論文 を読んだ直後にこうして手紙を書く妨げには全くなりませんでした。この注目すべき論文が私に示してくれた様々な考えのす べてを書き表わすことはできません。それは、一通の手紙、とりわけ私が今持ち合わせている時間で書けるような手紙にとっ ては、あまりにも長すぎるものになってしまいます。とはいえ、かなり以前からあなだにお話しする時間を見出すべきであっ た事柄も幾つかあり、とりわけ次のことがそうです。すなわち、私の著書について書かれたすべての論文の中で、書き手が私 の思想を完全に自在に操りそれを衆目に示したのは、唯一あなたの論文だけである、ということです。ですから、あなたの論 ヘ ヘ ヘ へ 文を読んで非常に嬉しく感じたなどと、あなたに申し上げる必要はないのです。私は遂に、労を惜しまずに私の思想に入り込 みそれらを厳密に分析してくれるきわめて卓越した精神によって批評されるようになったのです。繰り返し言いますが、あな ただけがこういう歓びを与えてくれたのです。あなた以外は、私を賞賛する人も非難する人もすべて、不十分な理解か散漫な ヘ へ 理解しかしていないように思われます。私はあなたの論文を私の本と一緒にして製本します。それらは合体すべき二つのもの であり、つねに同時に見ることができるようにしておきたいと思うからです。そういうわけで、あなたが書いてくださった論 文について、幾度となく繰り返し御礼を申し上げる次第です。久しぶりの最大級の満足を、あなたは私に与えてくださいまし た。 この﹃民主主義﹄第二部の成功は、フランスでは、第一部のときほど大衆的ではありませんでした。私は、世論の文学上の 謬見が現代において多いとは考えていません。ですから、私自身の眼で自分がどのような欠陥に陥っているのかを探すことに 大いに専心しました。深刻な欠陥があるということもありえるからです。私の探している欠陥は、この本の主題そのものの中 にあると思います。それは、大衆の精神にはわかりにくい曖昧なものや問題をはらんだものを含んでいるのです。アメリカの 民主的社会を論じているときには、すぐに理解されました。もし私が、今日生み出されているようなフランスの民主的社会を 論じていたならば、同じようによく理解されたことでしょう。しかし私は、アメリカやフランスの社会が私に与えている概念 63 (3−4 ・104) 564 を離れて、完全なモデルがまだ存在していないような民主的社会の一般的諸特徴を描きたいと思いました。まさにこの点で、 通常の読者の精神は私から離れてしまうのです。私に従って同じ道を歩みたいと望むのは、一般的で思弁的な真理の探求にき わめて習熟している人々に限られます。この本が比較的小さな影響しか産み出せない原因とすべきなのは、主題のあれこれの 部分の扱い方というよりも、むしろ、主題のこうした本来的欠陥であると思います。 トクヴィル自身ここで認めているように、フランスでは﹃第二部﹄は﹃第一部﹄ほど大きな反響を呼ばなかった。フ ランスでの書評は、内容の複雑さや抽象性に対して困惑を表明していた。﹁完全なモデルがまだ存在していないよう れ な民主的社会の一般的諸特徴﹂を描き出すという、理念型的とでも形容すべきアプローチは、読者にはきわめて難解 なものだったのである。このように自分の著書が理解されないことに苛立ちを感じていたトクヴィルにとって、ミル の﹁第二書評﹂は、精緻な方法論的批判がともなっていたとはいえ、自らの真意を最も正確に理解したものであっ た。そのことがおそらくは、トクヴィルが右の手紙において、ミルの批判には沈黙したまま、自らの著書に対するミ ルの理解に対して謝意を表明することに集中した理由の一つであっただろう。 口 ﹃論理学体系﹄の公刊 ミルは、・自分の行なった批判に対してトクヴィルが応答しなかったことに、多少不満を覚えたかもしれない。四〇 年一二月三〇日付の手紙の中で、ミルは方法論上の議論にトクヴィルを誘うかのように、一般的な表現の仕方ではあ る が 次 のように述べた。 63 (3−4 ●105) 565 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ⋮⋮私の考えでは、政治哲学や社会哲学においては、フランス人は独創的であるばかりでなく、スケールの大きい形で独創的 である唯一の国民であり、もし、経済学や同程度に末檎的な他の幾つかの分野におけるイギリス学派のより厳格で緻密な演繹 を身につけ自分たちの理論に適合させたならば、彼らは直ちに、こうした主題にかんして科学界に法則を与えることになるで しょう。彼らがりカードーやベンサムを徹底的に修得してくれたら、と私は願っています。⋮⋮だからといって、彼らは自ら の望遠鏡的見方を、われわれの顕微鏡的見方に収縮させる必要はありません。そうではなくて、彼らはそれら二つを結びつけ ︵22︶ 両立可能なものとすることができるし、そうしようとするだろう、ということなのです。 ここで言及されている﹁より厳格で緻密な演繹﹂ということでミルがトクヴィルに対して暗に灰めかしている方法論 上の不満とは、どのようなものだったのだろうか。以下、それを明らかにすることにしよう。 たしかに、ミルは﹁第二書評﹂の冒頭において、﹁トクヴィル氏の思索の重要性は、真であれ偽であれ彼が採用し た見解によって評価すべきではない。彼の著作の価値は、その結論よりもそれに到達する仕方の中にある﹂と述べ、 ︵23︶ 干クヴィルの方法論を賞賛していた。しかし、それが無条件的な賞賛ではなかったこと億、、それに続く次の一節に示 唆されている。 トクヴィル氏は民主主義の様々な属性や傾向を、すなわち、民主主義が社会の種々の利害や人間本性の様々な道徳的社会的要 件に対して持つ個々の諸関係を、確認し識別することに努力した。彼が研究の中でやり残したものは多いしll誰がそれを避 けられようか?1彼に後続する人々が彼の基礎にもとづいてよりょく行なうであろうことも多い。しかし彼は、最初に試 み、かつ、今後おそらく誰であれ到達するであろう以上に成功に近づいたという、二重の栄光を獲得しているのである。彼の 方法は、こうした主題にかんして哲学者がとるべき方法、すなわち演繹と帰納を結びつける方法である。彼の証拠は、一方に おいて人間本性の諸法則であり、他方においては、適用可能な限りでのアメリカやフランスおよびその他の現代諸国の例であ 63 (3−4 ●106) 566 る。彼の結論は、どちらか一方の種類の証拠にだけ依存することはない。民主主義の影響と彼が分類するものは何であれ、彼 は社会状態が民主的である諸国の中に存在することを確認するとともに、これらの影響を、現に存在する人類、われわれの世 界とはそうしたものだとわれわれが了解している世界の中に置かれた人類、そうした人類のあり方に対する当然の影響である ことを示すようなア・プリオリな演繹によって、民主主義に結びつけることにも成功しているのである。もしこれが、社会と統 治に適用された真のベーコン的ニュートン的方法でないとしても、何か他によりよいものがあるか、ともかくも何か別のもの がありうるとしても、トクヴィル氏は﹁正直にそれを与えよ﹂と言える最初の人なのであり、もし.そこまでではないとして も、政治理論家 哲学者と自称する・にせよ実務家と自称するにせよ一に対して、﹁これらを私とともに使用せよ﹂と言う資 格を持っている人なのである。 ミルはトクヴィル,の方法が﹁真のベーコン的ニュートン的方法﹂とまでは言えない限界を持っていると考えるととも に、この時期、﹁正直にそれを与えよ﹂という要求に応えることのできる方法について模索していたのであった。 ミルは﹁第二書評﹂に先行して同じく一八四〇年に発表された﹁コールリッジ論﹂において、一八世紀への反動と しての一九世紀思想の特徴として、社会の存続条件と社会の歴史的変化の双方について法則的理解を追求する傾向を お 指摘していた。トクヴィルもまたこうした傾向を共有する思想家であった。しかしミルは、これまで明らかにされて きたのはあくまでも経験的性格の法則にすぎないと考えた。彼の考えでは、経験法則は、それ自体としていかに洞察 に富むものであったとしても、必然的にその法則を適用できない例外に直面せざるをえない。経験法則の適用可能範 囲を確定するためには、言いかえれば、経験法則を科学的法則に転換するためには、人間事象の根本をなしている人 間本性の法則と関連づける必要がある。ちょうど経験法則であったケプラーの法則が、ニュートン力学の基本法則か ら演繹できることが明らかにされ、太陽系という適用範囲において妥当する科学法則に転換されたようにである。ミ 63 (3−4 ・107) 567 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ルがトクヴィルに対してその必要性を説いた﹁より厳格で緻密な演繹﹂とは、社会の歴史的変化の法則と人間本性の 基本法則とのリンクを最終的に完結するような演繹を意味していたのである。 ミルがこうした課題を意識し始めたのは、一八三九年に公刊されたコントの﹃実証哲学講義﹄第四巻を読んでから のことであった。彼はこの第四巻に示されていたコントの﹁歴史的方法﹂に強く刺激を受けながら、精神科学・社会 科学の方法を論じた﹃論理学体系﹄第六巻の草稿を一八四〇年頃までに一旦書き上げたゆしかし、コントが社会の歴 史的変化にかんする法則把握の方法として提示した﹁歴史的方法﹂︵社会動学︶に比べて、社会安定の諸条件を把握 する方法としての社会古学の理論的精度が低いことに不満を感じていたミルは、一八四一年一一月から、その点を質 すべくコントと直接に書簡のやりとりを行ないながら、自らの草稿を書き改めていった。﹃論理学体系﹄の最終稿は 一八四二年二月頃に書き上げられ、校正刷の段階でさらに訂正が加えられた上で、翌一八四三年三月に公刊された。 この﹃論理学体系﹄に至って、トクヴィルやその他の思想家たちが提示していた社会の歴史的変化についての経験 法則に対するミルの不満は、次のように明確な表現を与えられることになった。 それ︹歴史的変化にかんする一般化︺な、あらゆる形態の誤謬を免れているわけではないにせよ、少なくとも先に例示しだ︹単 純枚挙の︺粗雑で馬鹿げた誤謬は免れている。だが、最も卓越した哲学的精神を持つ人々は別としても、大半の人々の場合、 先に示したのと全く同種の誤謬︹経験法則を確証済みの因果法則と誤解すること︺に感染している。というのは、銘記してお かねばならないことだが、このいま一つの一般化、すなわち人間の状態の進歩的変化にしたところで、結局は経験法則にすぎ ないからである。しかもそうした経験法則にきわめて多数の例外があることを指摘するのは難しくない。⋮⋮人間には良くな るあるいは悪くなる傾向がある、より陶冶されあるいは野蛮化する傾向がある、人口は食料よりも速く増加する、いや食料は 人口よりも速く増加する、財産の不平等は増大する、いや減少する、等々といったことを断言する一般化、すなわち,一定の︵ど 63 (3−4 ●108) 568 はいえ一般にかなり狭い︶ 範囲内では経験法則として相当の価値を持つ諸命題は、実際には、時代と環境に応じて真でも偽で もある。 ︵26︶ たしかに、人間をとりまく諸々の環境と人間との作用や反作用は、すでに歴史の中で累積され長い系列を作り出して しまっている。この系列の最後に位置する現代社会の諸現象を、単純で基本的な人間本性の法則から直接演繹するこ とはとうてい不可能である。しかし、一般性の低い︵例外の多い︶様々な経験法則を統合しそれらを相互に関連づけ ることのできる高次の経験法則であり、かつ人間本性の基本法則に相対的に近接したもの、すなわち低次の経験法則 と基本法則とを演繹的に媒介する中間公理を発見することができれば、窮状は突破できる。これが﹃論理学体系﹄第 六巻で展開された﹁逆演繹法﹂の基本的発想であった。ミルは、コントが﹃実証哲学講義﹄で提唱していた三段階説 一人間の思索形式は神学的段階から形而上学的段階を経て実証主義段階へと発展するという説一を、逆演繹法に おける中間公理の最有力候補と考えた。すでに獲得されている歴史的変化の諸々の経験法則と人間本性の基本法則と の間に、この中間公理が介在し両者をリンクしたとき、前者の経験法則は科学法則に転換される。人間事象理解の方 法論がここに到達したとき初めて、トクヴィルが示したような優れた洞察は、適用範囲が明確に限定され、またそこ に含まれている分析上の概念的混乱も明確な根拠から指摘可能になる、とミルは考えたのである。 ミルは二分冊で公刊された﹃論理学体系﹄を一セット、トクヴィルに送った。時期は定かでないが、おそらくは公 刊からさして日が経たない頃であろう。トクヴィルは四三年一〇月になって、読後の感想をミルに書き送った。 あなたの﹃論理学﹄に対してなぜ私がもっと早く御礼を申し上げなかったのか、あなたは十分おわかりでしょう。私がそう 63 (3−4 ●109) 569 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 しなかったのは、空虚な賛辞をあなたに献じたくなかったからです。これまであなたが書かれたすべてのものを読んだときの ように読んだ後で、すなわち、完全に最大限の注意を払って読んだ後で、あなたの著書についてお話ししたいと思っていたの です。私はこの仕事を、議会の会期中にもその直後にも着手できませんでした。というのも、県会−県の諸事を統轄する選 挙制議会の一種です一に出席しなければならなかったからですつようやく我が家に戻って、あなたの本を読み始めました。 いやむしろ、研究し始めたと言うべきで七よう。なぜなら、その主題は私にはあまり馴染みがなく、かなり熟考してみないと 把握できないものだったからです。このように注意深く吟味した結果は、こう申しても許していただきたいのですが、予想を 超えるものでした。それは優れた偉業であり、あなたは独創性という長所を否定していますけれども、それにもかかわらず、 全体としてはやはりきわめて独創的な著作です。こうした重要な研究に従事している人々の間で、それは必ずや大きなセン セーションを巻き起こすでしょう。この本全体の中に、感嘆せずにはいられないような思考の簡潔性、堅固さ、明晰性がみな ぎっています。あなたはそこに留まるのでしょうか? これほどすばらしい道具が準備された以上、それをどのようにしたら ︵27︶ 利用できるかを示してくださら塗いのでしょうか? トクヴィルは、ミルの著書の主題が自らの得意分野ではなかったためであろうか、内容に詳しく立ち入った議論はし ていない。しかし、右の一節の最後の部分の指摘は、哲学者であるとともに政治理論家でもあるはずのミルにとって 痛いところを衝いていると言えるであろう。ミルが自らの政治理論を体系的に展開した﹃代議政治論﹄を公刊するの は、これから二〇年近く後の一八六一年のことであった。トクヴィルのこうした鋭い指摘を可能にした一因は、後に 取り上げる東方問題をめぐる意見対立のために生じていた両者の間の距離感であっただろうか。’他方ミルもまた、こ れに対する返信において、トクヴィルの評価に感謝しつつ、政治家であるとともに政治理論家でもあるはずのトク ヴィルにとって痛いところを衝く指摘を書き加えている。 63(3−4●110)570 あなたが私に言われたことのすべてが、私にとってどれほど嬉しいものであるか、あなたはおわかりでしょう。それに、私の ﹃論理学﹄についてあなたが示されたあれぼど好意的な意見が私に与えた歓びについても、疑わないでいただきたいのです。し かもこの好意的意見は、じっくりと丹念に読んでくれる読者からのものですから、それだけいっそう貴重なのです。あなたの よヶな知性と人格をそなえた人の賞賛を得て大いに幸福を感ずるとき、そうした人のために書いて本当によかったと思いま す。さらに、私はあなたに多くの教訓と知的歓びの点でも債務を負っています。それに対して、英語流に言えば﹁同じもので ︵ぎ犀ぎα︶﹂いっかあなたにお返しができたら、そして、知性と社会の進歩という大義において真の協力者とあなたに見なされ る名誉に値するものでありたい、とつねに強く願ってきたのです。社会科学を完成させるための適切な方法にかんする私の考 えをあなたが共有していることを知って、とても喜ばしく思っています。このような主題において最も強く望むべき賛同は、 あなたのように、・この科学に対して真に重要な貢献をしてきたごく少数の思想家の賛同なのです。⋮⋮ 私は、あなたの親切な助言に従って、この本だけに留まらないようにするつもりです。もっとも、政治の科学という、これ ほど困難でほとんど前進していない科学を体系的に扱う力量が自分にあるとは思っていないのですが。どのようなものにする 参象だ決めているわけではないのですが、・断片的な仕事によってこの科学に何らかの貢献をしたいという希望は持ってきまし た。それまでの間、私は、フランスの優れた著作家たちをイギリスに紹介することにある程度専念しようと思います。私は、 幾人かの歴史家たちについて、とりわけミシュレについて論文を書いたところです。あなたは何をなさるでしょうか? 今は ら もっぱら政治に献身するのでしょうか? それでしたら大いに残念です。なぜなら私は、政治の演壇の価値︵もしこういう表 現が許されるならば︶を非常に高く評価はしていまずけれども、あなたが書けたような本を書ける人よ汐も、公的生活におい て現在なしうる些細なことをする乾止のできる人の方が多いと思うからです。アメリカを扱ったのと同じようにしてフランス マ セ を扱うつもりはありませんか? あなたが手紙の中で話された小論の中で、すなわち、大いに誤解されている社会的および歴 ︵28︶ 史的な幾つかの間題に対してすでに重要な光を照射しているあの小論の中で、あなたはまさにそれを始めているのです。 ﹁あの小論﹂とは、一八三六年に﹃ロンドン・ウェストミンスター・レヴュー﹄に掲載された﹁フランスの政治と社会 の状態﹂である。後にルイ・ナポレオンのクーデタによって政界からの引退を余儀なくされて以降、トクヴィルの頭 63 (3−4 。111) 571 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 の片隅で、この手紙でのミルの示唆が想起されなかっただろうか。それは定かでないが、いずれにしてもトクヴィル は、やがてこの小論文の延長線上で﹃旧体制と革命﹄を書くであろう。 ﹃論理学体系﹄をめぐる両者のやりとりについては、もう一.つ看過できない重要なものがあった。それは良由と必 然の問題をめぐるやりとりである。この時期のミルは、少なくとも方法論にかんしては、トクヴィルに対する優位を 自負できる立場にあった。この分野で彼が敬意を表していた相手は、むしろコントであった。とはいえ、−ミルは早い 段階からコントに賛成できない点があることに気づいていた。それは、コントが社会静学において、社会安定に不可 欠の要件として家族の安定性を強調する見地から離婚禁止論を提唱するとともに、家族内における男性に対する女性 の従属は、女性の生物学的劣等性によって必然的に決定されていると論じていた点であった。ミルは当初、この点に 触れる之とを避けていたが、四三年の後半に至って、この問題をめぐってミルとコントの間で激しい論争が交わされ た。ミルは女性にかんするコントの議論は、女性の発展の可能性を否定した宿命論だと考えたのである。この宿命論 ︵29︶ こそは、ミルが終生呪臆し続けたものに他ならなかった。実のところ、トクヴィルはミルに宛てた書簡の中で、まさ にミルの琴線に触れるこの論点に、次のように言及してい元。 私はとくに、人間研究に対する論理学の応用についてあなたが論じていることに感銘しました。私はあなたと同様、あなたの 示した方法を活用し、あなたが示した要点に配慮することによって、全科学の中でのこの第一のもの︹人間研究︺に新たな相 貌を与えることになり、最終的には一今日までこの学を支えてきた以上に堅固な基盤をこの学に揚供ナることになる閉ろう、 と考えます。なぜあなたは、そのような仕事を企図しないのでしょうか? 私はそれを、あなたのためにも私たちのためにも 望んでいます。なぜなら、あなたはそれに成功するでしょうし、私たちはそれによって利益を得るからです。.この主題につい てあなたがなしうることは、解決が道徳的に重要であるばかりでなく政治的にも重要な、人間の自由という、この永遠の凄皮 63 (3−4 ●112) 572 じい簡題を扱う際のあなたの手際によって理解できます。あなたが理解するような必然性と、不可抗性、宿命論との区別は、 問題解決の一条の光です。あなたはそこに、対立する二つの学派、あるいは少なくとも、二つの学派の中の道理をわきまえた ︵30︶ 人々が容易に見解を一致させ相互理解できる中立地帯を開いているように、私には思われます。 これはミルにとってこの上なく喜ばしい評価であっただろう。﹁人間研究に対する論理学の応用﹂としてトクヴィル が言及しているものには、ミルが強い熱意で幾度か開拓に挑戦したi結局は断念することになったにせよ1性格 形成学︵エソロジー︶が含まれていた。﹃論理学体系﹄において構想として言及されていたこの学は、ミルにとっ て、人間の自由の諸条件を科学的に明らかにするという意味で、自由の科学とすら呼べるものであった。こうした科 学によって宿命論を克服することは、﹁精神の危機﹂以後、彼にとって魂の救済にすらかかわる課題に他ならなかっ たのである。彼はトクヴィルに宛てた書簡では、自らの﹁危機﹂の経験について遂に言及することはなかったが、し かし右の手紙への返信における次の一節は、明らかにこの経験を想起しながら書かれたものであると言ってよい。 人間の自由という問題について私が考察した際の観点に対するあなたの賞賛もまた、私にとっては非常に貴重です。私自身、 あの章をこの本の中で最も重要だと考えています。それは、もうすぐ一五年前になろうとしていますが、その頃に私がたどり 着いた考えの忠実な表現なのです。そのときには書きませんでしたが、私はこの考えに心の平穏を見出したのだと言うことが できます。なぜなら、この考えだけが、責任性の感情を堅固な知的基盤の上に置くことによって知性と良心を調和させたい、 という私の欲求を十分に満たすものだったからです。少しでも真剣な思想家であれば誰でも、この大問題について何らかの満 足できる解決を達成するまでは、精神と魂の真の静穏を享受できないと思います。自分の解決に満足している人に対して、私 自身の解決を押しつけたくはありませんが、しかし私の解決が、私にとってそうであったのと同様に、救済の真の錨となるで あろう人はだくさんいると思います。 ︵31︶ 63 (3−4 ・113) 573 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 説 論 このやりとりを、自由を追求し続けたごつの精神の交流における輝かしい極致と表現したら、大仰であろうか。私は そうは思わない。ミルとトクヴィルの思想的交流における最も重要な意味での頂点がここにあると私は考えたい。 ㊨ 東方問題をめ噂る議論一愛国心ど自由 一八四〇年代前半におけるミルと︸クヴィルの往復書簡において主題とされたもののうち、両者が厳しく対立七た ものが,一つあうた。、それは、当時のイギリスとフランスとの外交関係の緊張に関連した主題であったρ ま この緊張は、近東地域での両国の利害対立から生じたものであった。その経緯は概略次の通りである。スルタンの 封臣の立場にあったエジプト太守ムハンマッド・アリは、ギリシャ独立戦争のときトルコを支援した見返りに、ク リート島とキプロス島を獲得した。アリはさらにシリアの領有を要求したが、これがスルタンに拒否されたため、一 八三一年にシレアに進撃しこの地を制圧した。噌.,八三三年にはフランスの仲介でトルコとエジプトの問でクタヒア協 定が結ばれ、ごれによってエジプトはシリアの領有を認められた。しかしシリアまで進出したエジプトは、ダレダル ネス海峡を脅かす存在となったため、スルタンはこの脅威に対処すべぐロシアに保護を求め、同年∼ロシア皇帝との 間でウンキャルーースケレッシ条約を結んだ。こうして三三年以後、一時的な均衡状態がこの地域にもたらされたが、. 三九年に至って、スルタンはシリアの奪還を決意し侵攻を開始した。しかし、オスマン・トルコ軍は緒戦でエジプト 軍に敗れ潰走した。 この敗退によるトルコ帝国の弱体化は、この地域に利害を有していたヨーロッパ列強の関心を喚起した。南進をめ ざしていたロシア淀は︵トルコ帝国の弱体化は望ましいものであった.インドへの広い道の確保をあざすそギゾス 63 (3−4 ・114) 574 は、トルコ帝国を維持することでロシアを牽制し、エジプトを弱体化することに利益を見出していた。フランスは、 トルコのロシアからの独立性と、エジプトのイギリスからの独立性の双方に利益を見出していた。こうした思惑が交 錯する中で、当時のイギリス外相パーマストンは、五大国︵英・仏・露・プロイセン・オーストリア︶間での外交交 渉による事態収拾に乗り出した。しかしパーマストンは、英・仏・露、三つどもえの利害対立の中でロシアとの利害 調整を優先させ、英仏間の利益が折り合わなければフランスを除外して四大国間で事態を処理するという姿勢を示し ていた。他方フランスでは、一八四〇年になって、対外硬姿勢を主張していたティエールが首相の座に就いた。その ため仏英間の協調はますます困難となった。パーマストンは、フランスを除外した四大国間で交渉を進め、その結 果、四〇年七月一五日に四大国間で条約が締結された。当時の駐英大使ギゾーは、条約締結以前にこの条約にかんし てイギリス側から何ら公式の相談を受けなかった。四大国はこの条約にもとづいて、オスマン・トルコを維持すると いう立場から、エジプト太守に対しシリアから撤退するよう要求を突きつけた。フランス国内では、こうした動きを 主導したイギリスに対する反発の感情が激しく沸き上がった。この反英感情は、四〇年八月にイギリス艦隊が部隊を ベイルートに上陸させエジプト軍の要塞を占拠したことによって、いっそう強まった。連合国側は同年九月にシリア に砲撃を開始し、一〇月には戦争を宣言した。これに対しティエールはツーロンに艦隊を集結させた。こうしてフラ ンスは、かつてのナポレオン戦争と同様の戦争、すなわち他のヨーロッパ列強すべてを敵にまわす戦争の瀬戸際にま で進むことになった。 事態を憂慮した国王ルイ・フィリップはティエールを解任した。後任内閣では、スルトが首相の地位に就いたが、 実質的な首相の役割はギゾーが担うことになった。ギゾーは戦争の回避・平和の維持をめざして対英協調路線をとっ た。他方、パーマストンは、フランスでの反心感情が依然強力であったにもかかわらず作戦を続行し、遂に一二月に 63 (3−4 ●115) 575 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 はエジプトが降伏した。翌四一年に講和協定が結ばれ、トルコ帝国はシリアを取り戻すことになった。見返りとして 手紙の日付は四 エジプト太守には世襲君主の地位が認められた。ギゾーはこの決着を支持し、その結果、仏英間の緊張は徐々に緩和 し て い くことになった。 トクヴィルはミルの﹁第二書評﹂について感想を記した手紙で、初めて仏英間の問題に言及したσ ○年一・二月一八日であるから、事態の趨勢はほぼ決まってしまっていた時期である。 あなたも私と同様に、すべての人々がそう感ゼているように、われわれ両国の緊密な同盟関係が破綻するのを見て悲嘆され ているにちがいありません。私は誰よりもまして両国民の結びつきを支持する立場にあります。しかし、.あなたにわざわざ申 し上げる必要もないことですが、一国民を、とりわけわが国の国民のように移り気な国民を、大事業を行なう精神状態に保っ ておぐためには、自分たちが少しも顧慮されていない方針を自分たちは採らざるをえなくなっている、と思い込ませないよう にしなければなりません。.われわれに対するイギリス政府の対応の仕方からすれば、傷つけられたという感情を示さなかった ら、おそらく政治家たちが、われわれがつねに必要としている国民感情を傷つけ弱めてしまうことになったでしょうコ国民的 自尊心は、われわれに残存する感情の中で最大のものなのです。たしかに、それが逸脱する場合には、統制し和ぢげる必要は あります。・しかし、それが弱体化しをいように配慮する必要もあるのです。貴国政府の行為は、私の考えでは弁明の余地のな いものであり、イギリス国民があのような行為を政府に許したことに、私は大きな心痛を感じましたコ,︹イギリス側の反応が∀ フランスとの同盟に好都合な反応であったならば、おそらくこの同盟をつねに強化していたことでしょう。しかし私は、その 時機は過ぎ去ってしまったのではないかと思っています。国民自体の中に苛立ちが広がり始めており、そのことで私は、両国 民の幸福ばかりでなくヨーロッパ全体の幸福のためにも、心が痛みます。なぜなら、−まさにこうしたごとが、列強すべでに とって最も恐ろしい企てへとわれわれを強力に押しやるからです。層 しかし、.﹂の政治上の悲しい話は、も,つ.﹂れ︵蛍+分すぎる腰+分です。﹂さよ,つなゑフランスにいらっしゃいませ容? みなたとはたっぷりお話をしなければなりません。 63 (3−4 ●116) 576 ミルは一二月三〇日にトクヴィル宛ての返信を書き、そこでこの問題に言及した。だが、それを見る前に、その一週 間前にミルが同国人バークレイ・フォックスに宛てて書いた手紙を示すことにしよう。なぜならそこには、ミルがト クヴィルに対しては必ずしも明確に述べなかった本音が聞かれるからである。 あなたが私の論文︹﹁第二書評﹂︺を気に入ってくれて嬉しく思います。私はちょうどトクヴィルからの手紙を読み終えたとこ ろですが、私が敢えて期待した以上に彼は喜んでいます。彼は政治についても触れており、英仏同盟の破綻について慨嘆して います。彼が論争において果たした役割はわが国では多くの驚きと非難を掻き立てましたから、彼がこの問題についての信念 として公言しているものをお知らせするのがよろしいでしょう。それはこうです。どのような国民にせよ、とりわけフランス 人のように移り気な国民がそうですが、その国民が偉大なことをなしうるように保っておきたいと望むのであれば、自分たち のことを顧慮していない国民と和解するように彼らに教え説いてはならない。彼の考えでは、彼らは、わが国の政府によって ︵少なくとも︶きわめて軽々しく扱われたので、公的な人々が侮辱を受けたという感情を示さなければ、国民の自尊心の水準を 低めることになるだろう。世の現状では、そうした自尊心は、かなりの程度の強度を維持しているほとんど唯一の高尚な感情 なのだ、と彼は考えるのです。実に結構な話です。もっともそれは、古い国民的敵意の復活や、好戦的な示威行為や戦争準備 ですら正当化するものではないし、口実にもなりませんけれども。侮蔑とは釣り合わないほどの復讐1それは彼らの感情を 傷つけてはいない何百万人もの人々を、実際に傷つけた連中へと巻き込み、しかも最終的には、いやむしろ最初から、自分た ち自身を破滅させてしまうでしょう一で脅迫するということをしなくても、ある国民は自らが侮辱されたということを示す ことができるというわけです。ティエールの狡猜な政策1この男の全性格に似ていますが一は、受けた侮辱で言い訳はで きません。 今回の出来事でフランス人のプライドが傷ついた事情については同情すべき点があることは認めていたし、 ︵35︶ ︵34︶ ミルは、 63 (3−4 ●117) 577 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ︵36︶ また、イギリス政府の行為やイギリスのジャーナリズムの反応に愚劣な面があることも認めていた。しかし、右の文 面に見られるように、﹁国民的自尊心﹂のためには場合によっては戦争も辞さないかのようなトクヴィルの姿勢には 強く反発したのである。トクヴィルに宛てた手紙では、ミルはこの反発を直接的に示すことを控え、非難の対象をフ ランスのジャーナリズムとティエールに絞り込んだ上で、トクヴィルに次のように告げている。﹁ われわれ両国の間の不幸な紛争について、あなたの見解をあなた自身からうかがうことができて、嬉しぐ思います。私はあ むたの手紙の一部を、議会におけるあなたの演説に苦痛を感じた幾人かの人に見せました。わが国の内閣に責めを大いに負う べきところがあると考える点で、・私はあなたに賛成しまずけれども、わが国の国民を責めることはできません。・,御存じのよう に、イギリスの公衆は外交問題について考えもしなければ気遣うごともあり射せんし、内閣は公衆が気づく以前に取り返しの つがないこどに彼らを巻き込むことがでぎます。仮にトーリ一党が政権の座にあったならば、彼らは反フランス的傾向の嫌疑 を受けて監視され、現政権がしたようなことを敢えてすることはなかったでしょうし、もしそうしたことをしても、われわれ はこの問題を理由に彼らを政権の座から放逐ずることで面目を保ったでしょう。、しかし現内閣︹第二次メルバーン内閣︺はり ベラル派であり、しかも、サベラル派がウイッグの弱体政権の七年間で完全に生気をなくしていた時期でしたから、公衆ば確 信を持って、万事順調でパーマ.ストンは自分たち以上に事態に精通していると考えていたのであり、フランスにおける感情の 表面化によって悟らされるまでは、自分たちが戦争の瀬戸際に翫で導かれているとは夢想だにしていなかったのです。しがし 魯が航うぞうであるとすれば、フランスにおけるジャレナリ又トや公的に発言する人々の、あのような嘆かわしい威信と常識 の欠如がなかったならば、あなたが論じられたフランスとの同盟関係に好意的な反応が生じたであろうと、私は確信します。 こうし光主題に期ん七て私を食上馬てい光だ㌦け乃と偲づのですが、わが国でこれまで生じてきた感情全体は、フランス側でこ .れまで講ざれてぎた姿勢から生じているのです。つ罷り、、激越な戦争志阿の姿勢、ヨーロッパ全体に対する無謀な挑戦的態 .度、ナポレオン主義と対訳憎悪の爆発、加えて、自分たちのふるまいには表と裏があるのだというティ,エール一派の告白 .、遷そうし売こ乏億、國イギ﹂スの激治豪であれぜ、政治家の地位遊完全に失うこ之なしに遺公膚できま﹁せん一をどか略で す。こうしたことすべてによって、わが国における最も冷静な人々ですら、フランスで示されている感情からすれば、パーマ 63 (3−4 ●118) 578 ミルとトクヴィルの思想的交流一往復書簡を中心に(関口) ストンの行為は表面に見えている以上に強力な根拠があるにちがいないと、公言するようになっています。しかしその際、 パーマストンの行為が死滅しつつある病的な感情を復活させているのだということが、顧慮されていないのです。御存じのよ うに、イギリス人の性格は怒号のようなものを大いに嫌悪しますし、イギリス人がそれを冷静に軽蔑する仕方で扱わない場合 には、脅しには断じて屈しないという頑強な決意を生じさせる結果となります。こうした感情はすべて、フランス議会で平和 派が強力な多数を占めて以来、明らかに沈静しつつありますが、しかし心配の種は、フランス側の遺恨と同様にわが国の側の 不信感も、今後長期にわたって存続するであろう、ということです。トーリー党全員とりベラル派の半数に支持されている パーマストンは、向かうところ言なしでしょうが、わが国の最も賢明な人々の意見では、実のところウイッグ党はこのことに よって国内で自滅に向かっている、とされています。私としては、彼が縛り首になるのであればそれを見に行くのに二〇マイ ルでも歩くつもりですし、ティエールも一緒に縛り首になるのでしたらなおさらです。また、私に手紙を書いてくださるよ う、そして、この問題についてあなたが考えていること全体を知りたいと熱望していますので、それについてもっと長く書い ︵37︶ てくださるよう、お願いします。来年はパリに行くと思いますので、そこでお会いするのを楽しみにしています。 この手紙の後、トクヴィルとミルはそれぞれ一回ずつ、手紙の中で英仏問題に言及することになる。しかも議論は、 愛国心と自由との関係をめぐるより本質的なものになった。そこで、長くなるのをいとわずに、両人それぞれの議論 を示すことにしよう。右の手紙から三ヶ月後、トクヴィルは、あらためてこの問題についてミルに次のように書き 送った。 戦争の可能性はますます遠のいています。しかし、仏聖間の新しい誠実な同盟の可能性は増大していません。私には、これ ・まで生じたことの修復不可能な害悪が、日々ますます姿を現わしてきているように見えます。それぞれの政府は、すべてを忘 れる、と言うことはたしかにできます。けれども、国民は心の底で否と思っており、この損害は外交上の儀礼や覚書で救済さ れるものではありません。七月一五日の条約が引き起こした激しい苛立ちは完全に鎮静しましたが、しかしそれよりも悪いも 63 (3−4 ●119) 579 論説 の、次のような静かで深い感情が残っています。すなわち、イギリスとの同盟には安心もなければ将来性もない。利害の競合 は否定できないし止めることもできない事実である。このような同盟はやむをえない手段にすぎない。必要が生じてもこめ同 盟はつねに助けにならないだろうし、、われわれの側にはそれ以外に支えを見出しうるのだから、そのための好機を捕らえるこ とが必要になるだろう一こういった感情が残っているのです。国民は悲しんでおり屈辱を味わっています。こうした感情 は、激しさが少なくなっていくにつれて、深くなっていくように思われますし、両国政府が何を言い何をしょうとも、こうし た感情は日々いっそう、イギリスとの同盟に対する苦々しい想いへと変わっています。これはまさに大きな害悪であり、その 救済策は、私は一つしか知りませ.ん。つまり、共通の関心事が減少すること、適切な処置、時間です。 この六ヶ月間にわが国の外交で生じたことすべては、正直に言いまして、私に多くの心痛と困惑をもたらしました。危険は あらゆる面で大きなものでした。こうした状況のために議会では、外交政策をめぐっていずれも等しく危険な二つの極端派が 登場しました。一方の派は征服を夢想し、戦争それ自体のためであれ、戦争が生じさせる可能性のある革命のためであれ、戦 争を愛好しています。もう一つの派は平和を愛好していますが、それを私は、はばかることなく不誠実と呼びました。なぜな ら、彼らの持っている唯一の原則は、公共の利益ではなく、物質的幸福と精神の安逸に対する愛好だからです。この派は、平 和のためなら一切を犠牲にするでしょう。国民の大多数は両派の中間にありますが、しかし、議会の中では十分に代表されて はいません。これら二つの極端派の間に置かれて、私のような人間の立場は、きわめて困難で大いに当惑させられています。 私は、大方の戦争派の革命的で煽動的な言辞を承認できませんでしたが、しかしまた、大声を上げ一切を犠牲にしてでも平和 を、と要求している人々の意見に賛同するのは、それ以上に危険なことでした。あなたに向かって申し上げる必要もないこと ですが、わが国民のような体質を持つ国民を脅かす最大の病は、習俗が徐々に柔弱になり、精神が低俗になり、趣味が凡庸化 することなのです。将来の最大の危険は、まさにこの方面にあります。わが国民のように民主主義的に組織され、民族の本来 的欠陥が現社会状態の本来的欠陥と不幸にも一致している国民の場合、偉大と信じているものを安逸のために犠牲にし、大事 を小事のために犠牲にする習慣を国民が安易に身に付けてしまうことを許すわけにはいきません。世界における自分たちの地 位はもっと些細なものであり、父親たちが有していた地位は失ってしまったけれども、鉄道を建設したり、平和の中で、平和 を得た際の条件が何であれ、各人の幸福が増大していることで慰めとすべきなのだ一こうしたことを、このような国民に信 じ込ませるのは健全ではありません。こうした国民の先頭に立って進む人々は、国民の習俗をきわめて低い水準に落としたく ないのであれば、国民に向かってつねに誇り高い態度を保つ必要があります。面目を失ったのだ、と国民は信じさせられまし 63 (3−4 ●120) 580 た。国民がそうなったのは、実のところ、内閣の行為によってではないとしても、少なくとも内閣の言葉によってでした。政 府が彼らに対してあのように言明し、国民の名において威嚇を行ない、そして思慮を欠いた愚かな威嚇が危険を呼び起こして しまうと、すぐに今度は、あのような敏感さや誇り高さを示していたその同じ政府、その同じ君主が、後退する必要があると 宣言したのです。このような状況が国民を傷つけることなしに一新されうる、などと思いますか? われわれにふさわしい養 生法であり、必要とされているのは、こういうことではないでしょうか? すなわち、こうした脆弱さに対して全国民の名に おいて抗議するために、確固たる独立した意見が唱えられること、どのような党派三つながりも持たず、ナポレオン主義の傾 向も革命趣味も明々白々に持たないような人々が、国民の心を立て直し支える言葉を発し、物質的享楽と卑小な快楽へと国民 を日々ますます引き込んでいる柔弱な趣味の中で、なんとかして国民を支えようとすることではないでしょうか? もしわれ ︵38︶ われが自らの自負心を持たなくなったら、われわれは修復不可能な損失を与えてしまうことになるでしょう。 トクヴィルの言葉は悲痛である。フランスの民主的社会を自由の方向に導くためには、国民を物質的利益の追求に埋 没させることなく、公共精神を陶冶しなければならない。しかし、そのためのリソースとしては危うい国民的自負心 しか残されていない。たしかに思想家としての彼の深い洞察力からすれば、現実政治の場での戦争派と平和派はいず れも軽薄に見えてならない。だが、理念の実現をめざす政治家としては、彼はあえて戦争派と組みながら、かつ独立 した立場を維持するという路線をとらざるをえない、というのである。文字通り﹁かみそりの刃をわたるような﹂考 ︵39︶ えである。それは、国際政治におけるイギリスの圧倒的優位の下で、大革命後の秩序の混乱に依然として苦しんでい るフランスに自由を実現しようとする一人のりベラルにとっての窮余の一策であった。 ︵40︶ ミルは直ちにこの手紙には返答しなかった。右のトクヴィルの手紙とその後のミルの手紙との間には約一年四ヶ月 の間隔がある。この長い沈黙自体が、トクヴィルの見解に対するミルの強い不同意を含意していたが、ミルは遂に沈 ︵41︶ 黙を破って自説を述べることに な っ た 。 63 (3−4 ●121) 581 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 私はまた、この刺激的な講演︹トクヴィルがアカデミー・フランセーズの会員に選ばれ、四二年四月に行なった講演︺を、非常 に深く憂響な関心を持ちながら読んだことを、同時に付け加えなければなりません。フランスの現状に関連するあらゆる事柄 が、長きにわたって私にそうした関心を引き起こしてきたのです。少なくとも私にはあなたの講演の結論部分にも充満してい るように思えるのですが、正直に言いまして、フランスの運命にかんする深い失望あるいは少なくとも根深い疑念と憂慮が、 この国ll私が好みと気質からして自分の国以上に愛着を感じてきた国、そして、大陸ヨーロッパの文明がこれほどまでに大 きく依存している国!について私自身が感じてきた強い懸念の上にさらに付け加えられました。最近、私はしばしば、英仏 間での近年の紛争におけるリベラル派の行動を正当化する際にあなたが与えた理由を思い出します。その理由とは、国民的自 負の感情は、公共精神をともなった人を高尚にするような感情として残っている唯一のものであり、したがって、これが衰退 してしまうことを許すべきではない、ということでした。これがどれほど真であるかは、辛いことに日々明白にされていま す。自由や進歩への愛、そして物質的繁栄への愛ですら、フランスでは、国民精神の外にある一過的で張本質的で皮相な動向 であり、フランスの心の内奥にまで真に到達する唯一の訴えは、外国に対する挑戦の訴えだけであることがわかります。そし て、そうした欲求を満足させようとする人は誰でも、この国の富全体、市民たちの血、自由のすべての保証、社会的安全が無 価値のものであるかのようにして投げ捨てられることを知るのです。これがフランスに残っている唯一の公共的性格であり、 したがってまた、ある程度までは無私の性格であって、衰退させるべきではないという点で、私は心底あなたに賛同します。 外国人の眼の中で輝き彼らに崇敬されたいという欲求は、フランスでは、あらゆる代価を支払ってでも陶冶され助長されなけ ればなりません。,しかし文明とフランスの名において、後世の人々は、あなたのような人に対して、すなわち、この時代の高 貴な啓蒙された精神に対して、何が国民の栄光と重要性なのであるかについて、現在持たれているように思われる低劣なもの に比べてーー私の考えでは、スペインを例外とすれば現在ではヨーロッパのどの国にあるものよりも低劣なのです一より優 れた観念を同国人に教示することを期待する権利があります。たとえばわが国では、最も愚かで無知な人間ですら、外国人の 眼に.映る一国の重要性は、重要性を声高に騒々しく言い張ることに依存するのではないのであり、そうした自己主張は、強い という印象ではなく弱さゆえに憤激しているのだという印象を与えるだけだ、ということを十分に承知しています。そうした 重要性が真に依存しているのは、その国の勤労、教育、道徳、よい統治であり、rそれらによってのみ、その国は自らを、隣国 にとっての尊敬の対象、あるいは畏怖の対象にすることができるのです。フランスが過去二、三年の諸事件によって、どれほ 63(3−4●122)582 ど嘆かわしい形で、これらすべての点で︵少なくとも最初以外の三つの点で︶低落してきているかを眼にし考えることは、私 が日々そうしていることですけれども、無惨な想いのすることです。争うことも友人であることも止めてしまうというあの決 定ほど、強国だという印象全体を損ね、周辺諸国に対する威風堂々たる姿勢の提示を効果的に不可能にしてしまうことはあり ません。とりわけ、フランスが亀裂を生じさせることに乗り気でないにもかかわらず、あらゆる些細な第二級の出来事に対し て不機嫌さを露わにするのを眼にするときほど、イギリス人が理解に苦しむことはないのであり、フランスに対して作られる 印象は、たんなる幼稚さというものになってしまいます。フランス人はすねた子供の国民なのだ、とイギリス人は感じてしま うのです。私自身としてはこうしたことすべてについて、間違いなくかなりの程度まで正しく一そうであって欲しいと思っ ているのですが1酌量していますけれども、私が十分確信しているところでは、同じように酌量している人はイギリスで は、あるいは入手可能な最善の情報ではドイツにおいても、半ダースもいません。フランス国民が、世界の意見に対して示し ている無用の憂慮を大幅に静めさえずれば、そして、自分たちに示されている評価に対しての憤慨を抑えたならば、世界の眼 からどれほど高く評価されるか、そのことだけでもフランス国民がわかってくれたなら、と思うのです。なぜなら、世界中が 知っていることですが、自国の重要度に対する認知について大いに不快に感じるということは、重要度の根拠となっているも ︵42︶ のについてあまり自信を持っていないことを示しているからです。 トクヴィルは﹃アメリカの民主主義﹄において、本能的盲目的な祖国愛の時代は去り、民主的社会に期待すべき祖国 愛は、公益と私益は最終的に一致するという開明された自己利益理解にもとづいた理性的なものであると論じてい ︵43︶ ・ た。トクヴィルのような精神の人は、国民の栄光と重要性についていっそう優れた観念1それらはその国の勤労、 教育、道徳、よい統治であるという観念1を教示すべきであるというミルの指摘は、まさにそうしたトクヴィルの 主張をトクヴィル本人が想起すべきだ、ということを含意していた。自由への愛を犠牲にするような過去の盲目的祖 国愛の復活につながりかねない危うい道でなく、日常的な社会的政治的経験の積み重ねの中でトクヴィルのような知 的な政治指導者に啓発されつつ理性的祖国愛を育てるのが、迂遠に見えても正道ではないのかーミルの言わんとし 63 (3−4 ●123) 583 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 たのは、このようなことであったと考えられる。 英仏関係は徐々に好転していったが、しかし対立が再燃することも幾度かあった。その一つである臨検の権利をめ ぐる英仏対立は、ミルとトクヴィルの往復書簡でも話題とされた。ウィーン会議で合意された奴隷貿易の禁止を実効 化するために、具体的には、英仏船籍の船舶がアフリカの奴隷をアメリカに輸送していないかどうかを確認するため に、両国間で一八三一年および一八三三年に条約が結ばれ、これによって両国の巡洋艦が相手国の船舶に対して臨検 を行なうことが認められた。一八三八年に他の列強がこの条約に加わった際に条約の改定が行なわれたが、先に触れ た東方問題をめぐる英仏間の関係悪化のために批准が難航した。この問題についてトクヴィルは、一八四二年五月に 議会において、臨検は奴隷貿易の取締には効果的でなく、必要なのはむしろ、奴隷市場が存続していたブラジルと キューバに対して、ヨーロッパ諸国が共同して市場閉鎖の圧力をかけることだと主張した。さらに彼は、翌四三年一 月二八日には、ギゾーが仏英協調路線の立場から臨検の権利を残そうとしたことに反対する演説を行なった。これに 対しイギリス側では、ブルーム卿が二月二日に上院において、トクヴィルのこの演説を取り上げ、トクヴィルの演説 は﹁驚くべき無知﹂を示しており、党派的精神から英仏間の対立を掻き立てようとするものだとして攻撃した。 トクヴィルは一八四三年二月九日付のミル宛ての手紙の中で、ブルーム卿に対する県主やるかたない想いを筆工し お た。これに応えてミルは﹃モーニング・クロニクル﹄紙に投書を行なった。この投書においてミルは、トクヴィルを 擁護する立場からブルーム卿の攻撃の不当性を指摘し、フランスに対するイギリス側の憎悪から発した攻撃が﹁非難 に全く値しない一人のフランス人、そうした攻撃に最も強く痛みを感じるであろう一人のフランス人に向けられたこ と﹂に遺憾の意を表明した。しかしミルは、フェアでない攻撃に対して友人を擁護する一方で、この投書が掲載され お た﹃モーニング・クロニクル﹄をトクヴィルに送る際に添えた手紙において、トクヴィル自身もまた英仏間の憎悪と 63 (3−4 ●124) 584 ︵47︶ 相互無理解の渦の中に巻き込まれていると指摘することを忘れなかった。 この主題についてのやりとりの後、先に取り上げた﹃論理学体系﹄をめぐる意見交換が行なわれることになるが、 この後者のやりとりが、一八四〇年代前半における最後のものとなった。以後、トクヴィルは引き続き政治活動に没 頭し、ミルは思索と執筆の生活に向かっていった。深いところでは互いに共鳴していた二つの精神は、遠く離れてい くことになった。 ︵1︶ ↓ooρ⊆Φ<筥Φけ。ζ一拝H餅Zo<4H。。ωP§ミ§”ωN①−ω培.トクヴィルはここで、﹃第二部﹄の公刊が翌四〇年二月になるだろう という見通しを示しているが、実際に公刊されたのは四〇年四月であった。 ︵2︶ そのことは、本文において次に引用するミルの手紙で﹁前回あなたに手紙を書いたとき、﹃ロンドン・ウェストミンスター. レヴュー﹄と私とのつながりが途絶えたために、そこであなたの本の書評を行なう機会がなくなってしまって残念だと申しま したが、⋮⋮﹂と述べられていることで確認できる。 ︵3︶ 日08器く巳Φ8竃凶戸ω︾]≦塁し。。らρ§妃ミ勲ωNS ︵4︶屋囲=。↓。B器く凶=①”戸ζ亀し。。卜ρOミしω誌ωωよωρ§ミ誤る留る・。㊤。 ︵5︶ 小山︵一九八Ol八三︶、︵三︶一二七頁、一四四⊥四五頁。松本︵一九九一︶、六六−七二頁。 ︵6︶ ζ一一一︵一。。。。窃げγ。。。。・一六五頁。 ︵7 ︶ 竃 = 一 ︵ 目 。 。 ω 。 。 げ γ 一 〇 〇 山 O 刈 ・ 一 一 〇 頁 。 ︵8︶ ζ旨︵一。。ω。。げンHO。。曾一=一⊥一三頁。 ︵9 ︶ ζ 幽 一 一 ︵ 一 。 。 ω 。 。 σ γ 一 8 . 一 一 四 頁 。 ︵10︶ ζ一一一︵一。。8げ︶層H胡−H。。。。.四六−七二頁。 ︵11︶前節註︵26︶に引用した﹁代表の原理﹂の一節を参照。ミルは一八三七年に発表した論文﹁アルマン・カレル﹂において も、同じ趣旨の言明を行なっている。﹁現代は、⋮⋮一八世紀の狭隙性に対する反動の時代となった。⋮⋮憲法制定会議の政治 哲学の結論よりもむしろその前提に対する反動も現われたが、それは、統治の諸形態よりも奥深くに底流し、統治の諸形態を 63 (3−4 ●125) 585 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 通じて作用し、長い目で見れば統治の諸形態が生み出すように見える大部分のものを生み出し、その進路を阻む統治形態のす べてを掘り崩し破壊するような力の研究であった。フランスの現世代の新しい政治哲学は、このようにして勃興したのである が、それは、科学の一部分として考えただけでも、これまでに存在したその他の政治哲学のすべてよりも大いに前進してい る。その哲学は、一人の人間に集中しているよりも、むしろ多くの人々の間に散在しているのであるが、政治について考える 人々に、これまでのあらゆる時代や国民が提供できなかったような諸観念の宝庫を提供し、過去と現在とにかんするより綜合 的でしたがってより慎重な見方を促進すると同時に、将来にかんしてはるかに大胆な野望や予測を掻き立てている。このよう な哲学の完全な典型として、ある一冊の書物を指摘しても無駄であろう。様々な人々が、それぞれの能力や性向に従って、そ の哲学の別言の部分を指摘したり身につけたりしていて、その諸部分相互の調和や整合は、まだ局部的なものにすぎない。し かし、現在のところその精神の最大の部分を体現していて、フランス風に言えばこの新しい政治哲学の最高の表現である書物 は何かと問われるならば、われわれは、トクヴィル氏の﹃アメリカの民主主義﹄を指摘しなければならない。﹂竃已︵一。。ω﹃︶”一。。。。 山。。♪︵上︶一一四⊥一五頁。 ︵12︶ ミルは﹁第一書評﹂において次のように論じていた。﹁本書の独創的で深遠な著者にとって、合衆国の制度を正確に描写し 正当に評価することは、それゆえ、主要目的にとって不可欠であったにせよ、それ自体としては二次的なことであった。主要 目的は、アメリカの例によってデモクラシーの問題にどのような光明が投げかけられるか、を研究することであった。それが 現代の重大かつ主要な問題だと彼は考えているのである。﹂窓口︵H。。ω切げγ心ρ一一六頁。トクヴィル自身もまた、この観察が正 しいことを、ミルに宛てた手紙の中で認めていた。﹁私は、﹃クォータリー﹄の書評もアメリカの評論誌の書評も読んでいませ ん。私がいささか一般化をしすぎているという後者の書評の非難にかんしては、私自身、根拠のあるものだと思っています。 私は、自分が際立たせたいと思ったかの国の一般的諸特徴をヨーロッパにおいて鮮明に認知してもらうために、しばしばそう せざるをえなかったのです。アメリカは額縁にすぎず、デモクラシーが主題だったのです。﹂↓06ρロ①︿崔①8ζ岸一〇糟Zo質℃ H ◎ 。ωO噂§q§噛ωHα・ ︵13 ︶ ・ ] 蚤 = ︵ H ◎ 。 ω O 餌 ︶ し ま ・ ︵14︶ ︸≦=︵一◎。Q。O”︶レOH. ︵15︶ 寓凶一一︵一。。ωOσ︶噸嵩サ旨メ一NO山ω9一.八四⊥九三頁、一九六−二〇五頁。 ︵ 6 1︶ 竃已︵H。。軽Oび︶、一〇ド 七 八 頁 。 63 (3−4 ●126) 586 ︵ 17︶ 竃崔︵H。。らOげ︶”H㊤一 山 ㊤ b 。 。 七 九 頁 。 ︵18︶罎籠︵H。。おげ︶L爲山㊤α●七九−八五頁。 ︵19︶ ζ崔︵一。。おびγ一㊤α●八五頁。なお、一八三〇年代後半におけるミルの方法論上の模索にかんする詳細は、関口︵一九八九︶ 第四章第一節を参照。 ︵20︶ 日08器く旨Φ8︼≦芦一◎。矯U8二一◎。昏P§魁§埴ω卜。O山ωO● ︵21︶ ジャルダン︵一九八四︶、三〇一−三〇四頁。 ︵22︶ ︼≦一一8↓oB垢≦=ρ。。ρU8・し。。蔭ρOミしρ&。。”§◎ミ9ω。。N・ ︵ 23︶ 寓竃︵一。。幽Oげ︶”嵩①・ 八 頁 。 ︵24︶ ζ已︵一。。戯Oげγ届S八⊥○頁。 ︵25︶ 豊凶一一︵一。。お仁。︶藁ω。。山ωρ一六八⊥六九頁。なお、以下で論じられる一八三〇年代末から﹃論理学体系﹄に至るまでのミルの 方法論の展開にかんする詳細は、関口︵一九八九︶第四章第二節を参照。 ︵26︶ ζ籠︵H。。らωげγおO−お一●︵V︶二六五−二六七頁。 ︵27︶ ↓oB器く凶目08]≦圃一一る800け・Lo。お”§◎§導ω置● ︵28︶ ︼話一一8日08露⑦≦=ρω”Zo<こHQ。お●Oミしρ①一Nよ一ω噛§◎§勲ω&−ωミ. ︵29︶ ミルとコントの論争については、関口︵一九八九︶第四章第三節を参照。 ︵30︶ ↓oB器く籠Φ8︼≦≡bNO94一Q。お”§ミ諜矯ω置−ωa. ︵31︶ ζ圃一一8↓oB器≦一一ρω︾Zoタ﹂。。鮮。。りOミ℃一ρ①HN§ミ§矯ω&−ω戯S﹁精神の危機﹂以後におけるミルの自由と必然の問題に 対する取り組みについては、関口︵一九八九︶、一九九⊥一〇七頁、三二五−三三三頁を参照。トクヴィルが自由と必然の問題に かんするミルの議論を賞賛したのは、トクヴィルもまた、自由の政治理論をめざす思想家として宿命論と対決してきたからで あった。この姿勢は、ミルの依頼を受けて書いたブルワーの著書についての覚書における、次のようなティエール批判の中に も示されている。﹁ティエール氏はその革命史の中で、政治における善悪の境界線を破壊し、人間から自由を奪い道徳性を奪う ような、私には理解しがたい必然性の宿命的法則を、人間の上位に置いている。﹂§ミ§”ωHρ ︵32︶ 東方問題についての以下の記述は、次のこつの文献に拠った。小川︵︼九七五︶、九〇−九四頁。ジャルダン︵一九八四∀、 三四四−三四九頁。 63 (3−4 ・127) 587 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ︵33︶ ↓08鋸①<竃①8︼≦凶=L◎。矯Uo6‘一◎。戯P§豊§”Q。ωO山ωド ︵34︶ ︼≦崔8閑。び。答じσ母。冨矯局。×bω矯U8●し◎。心POミ” ω﹄課● ︵35︶ ミルは四〇年一〇月一日付のスターリング宛ての手紙の中で、次のように述べていた。﹁今パリにいる、あるいは最近まで いたフランス人たちからの複数の信頼できる証言から、私は、戦争感情が一般的で、しばらくの間それ以外の人々を沈黙させ ていること、それに反対することに個人的利益を持つ人ですらこの感情を共有していること、数年前には騒ぎを引き起こした パリの要塞化に反対する声は今では一つとしてないこと、などを確信しました。しかも、彼らは戦争を嫌っているのですか ら、それは戦争への愛好から生じているわけではなく、むしろ、国民として傷つけられ侮辱を受けたと感じているからなので す。これは愚かしいことではありまずけれども、しかし誰が、自分の祖国が二世代のうちに外国の軍隊に二度占領された国民 においては意外だと思えるでしょう? もしわれわれの場合だったら、同じ感情を大いに持つでしょう。しかし、彼らに対す から、その手紙を同封します。結局のところ私は、全く率直に語りきってしまうことによって、彼に対していささかでも善い が何を言おうとしているか、そして、それを自らの哲学的諸観念とどのように結びつけているかをあなたは知りたいでしょう ついて、スターリングに次のように告げている。﹁トクヴィルからの手紙が届きました。彼がこの問題でとった立場について彼 トクヴィルの手紙︵その前半部分でトクヴィルはミルの﹁第二書評﹂を大いに賞賛していた︶と、それに対する自らの返信に タールに宛てて書き送っている。寓ヨ80⊆ω$<①U、守げ爵算b。α﹄︶8●レ。。膳POミ”μω﹄まよ宅・なお、ミルは一二月一八日付の ︵37︶ 竃一一一8↓ooρ鐸。<窪。噂ωO”Uoo‘一。。幽POミ層Hρ畠O−&ρ§蝕§層ωω甲ω。。。。.ミルは同様の見解を、この手紙の五日前にデシュ ゆ馴。﹃o冨矯閃。×矯Nω﹂︶84μ◎。恥POミレω”ホ腿. す。わが国の政府の行状すべてを軽蔑する私の気持ちは表現する言葉を見つけられないほどのものです⋮⋮。﹂竃一一一8幻。げ。辱 フランスが不誠実にもムハマッド・アリの支配地に対して貧欲な視線を投げかけるまでは、夢想だにされなかったことなので むと東方において領土と従属的同盟国を獲得しつつあるヨーロッパの一国民といったものを空想したくなりますが、これは、 として扱っていることです。その一方で、イギリスは、ますますアジア全域を掌中に収めつつあるのです。わが国の新聞を読 いことだと私が思うのは、フランスは東方で影響力を求めているのではないかという疑惑を、考えるのも恐ろしいほどのもの ︵36︶ ミルは、本文に引用したフォックス宛ての手紙の一節に続けて、次のように書いている。﹁しかしイギリス側で全く情けな Oミ♂μω”戯ホー念9 る憎悪と、われわれに対する羨望の混ざつ.た嫌悪とが復活するのを見るのは憂響なことです。﹂竃≡8ω8島昌σq矯お09●℃H。。幽P 63 (3−4 ・128) 588 ことをする機会を試みることがよいだろうと考えました。彼が私に対して個人的な親愛の情を持っており、フランスそれ自体 への私の感情とイギリスとの関係でのフランスへの私の感情の双方を知っていたおかげで、彼の感情を害することなくそうす る力を持つことができました。彼が返信を送ってきたら、それもあなたに送ることにします。次に手紙を書いてくれるときに これは返送してください。彼が私の書評をどれほど喜んでくれたかは、読めばわかります。手紙の中にどれほど多くの論争が 含まれているかを考えれば、それは彼の名誉です。そして彼が書評についてどれほど賞賛してくれたかは、私の名誉です。﹂ 寓已8ω8島昌ひqるこp。野HQ。出”GミしQ。﹄爵ム①ら。・ ︵38︶ ↓08器く筥①8︼≦凶拝一Q。L≦霞.”一。。自鴇§ミ§”ωQ。ら−ωωO・ ︵39︶ 小川二九七五︶、九六頁。 ︵40︶ ただし、ジャルダンによれば、トクヴィルはフランスが帝国主義的政策をとること自体に躊躇を感じていたわけではな かった。しかもトクヴィルの考えでは、フランスがこの政策を追求する限り、イギリスの商業帝国主義−商業帝国主義はイ ギリスにとって、大地主たる貴族が国民の物質的利益を充足することによって権力の座にとどまっている以上は不可避であ る、とトクヴィルは診断していた一と衝突することは基本的に避けがたいことであった。ジャルダン︵一九八四︶、二七九 頁、三五二−三五四頁、三八八⊥二九二頁。 ︵41︶ パッペが指摘するように、沈黙によって不同意を表わすというミルの態度は、このときのトクヴィルに対してだけに限ら れていたわけではなかった。℃mb℃0︵一㊤罐︶bNO山卜。ド ︵42︶ ]≦圃=8↓089<凶=ρ㊤℃︾⊆ぴq●し◎。お”OミゼHO。覇q。Φ凸ωメ§唱ミ。・℃ωω刈−ωω。。. ︵43︶ トクヴィル︵一八三五︶、四五九−六二頁。トクヴィル︵一八四〇︶、一一九⊥二三頁。なお、この点についての検討とし て、小山︵一九八Ol八三︶、︵三︶一〇四⊥〇九頁、︵五︶一四八⊥五三頁を参照。 ︵44︶ これについては次の文献を参照。小川︵一九七五︶、一〇八⊥〇九頁。ジャルダン︵一九八四︶、三九二−三四九頁。 ︵45︶ ↓08離㊦≦嵩①8]≦≡鴇㊤矯男①げGH。。お”§妃ミ鉾ωω㊤−Q。膳O. ︵46︶ ]≦≡︵HQ。お鋤︶. ︵47︶ ミルはこの手紙の中で、トクヴィル自身の言動について次のように指摘している。﹁⋮⋮フランス人がイギリス人を理解し ない以よに、イギリス人がフランス人を理解しないということは、きわめて当然なことです。あなた自身、問題となっている 演説の中で、イギリス人はフランスをスペインから放逐する手段を探し出した、とは言わなかったでしょうか? あなたの同 63 (3−4 ・129) 589 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 国人たちの大部分と同じように、あなたは、自分としてもイギリス人が領土と対外的重要性の拡大に完全に没頭していると考 えている、とは言わなかったでしょうか? 誓って言いますが、スペインにおいてフランスと競争しようなどという考えを戸 瞬でも持って、スペインのことに完全に没頭したイギリス人は二人もいません。わが国の新聞雑誌におけるこの主題をめぐっ て見られるすべては、読者は肩をすくめているにせよ、パーマストンとピールとの間の自尊心の問題だけです。幸いなことに わが国の公衆は、外交問題には決して没頭していませんつごうしたことがなければ、ヨーロッパはつねに燃え上がっているこ とになるでしょう。考えてもみてください。わが国の外務省にほんの一時でも、フランス的性格の人物がいたちどうなってい たことか。御存じのように、私はフランスが好きですし、正直に言えば、ヨーロッパの中でそうである唯一の国なのです。御 覧の通り、私はあなたの感情を害することを恐れずに、私の考えているこ七をあなたに対して率直に申し述べま七た。そし て、私があなたの演説を賞賛すべきものと思ったこと、私がこの問題自体にかんするあなたの意見とかけ離れてはいないこと も、同じく率直に申し上げておきたいと思います。私の考えでは、もしフランス政府が当初、あなたが助言したような言い方 をしていたならば、それは成功したでしょうが、しかし今となってはそれは不可能でしょう。フランス議会や新聞雑誌ll自 由主義的であれ保守的であれ、﹃プレス﹄紙であれ﹃ナシオナル﹄紙であれ一が行なった挑発や脅迫に対して、イギリスは譲 歩したいとは思っていませんコ国民の演壇において他国民に対して侮蔑的なことを敢えて言った張本人︹ブルーム卿︺は、十 字架にかけて欲しいと私は思っています。一日でできるような悪事に対して闘うために、何世代もが必要となるのです。こう したことは、ヨーロッパ社会の再組織化という難事業のためにすべての先進諸国における精力的で開明された人々の一致を大 いに必要としている世紀においては、全く唾棄すべきことです。﹂ζ已8↓ooρ蔭。<筥Pb。ρ閃①げ・”μ。。戯。。”Oミ﹁一ω”零O−㎝刈㌍ §蝕§脚ωお山戯一●’ 三 一八四〇年代後半から五〇年代、そしてその後 e 往復書簡の不活発化について 63 (3−4 ●130) 590 一八四〇年代後半から五〇年代にかけてのミルとトクヴィルの往復書簡は、トクヴィルからミルに宛てたものが僅 かに四通、ミルからトクヴィルに宛てたものは一通しか残されていない。失われた手紙︵とくにミルからトクヴィル に宛てたもの︶もあると考えられるとはいえ、一八四〇年代前半までに比べて、両者の間の手紙のやりとりが低調で あることは明らかである。なぜ、そうなったのだろうか。この時期の彼らの手紙を取り上げる前に、まずこの問題を 検 討 することにしよう。 パッペは次のように説明している。コントに対するミルの批判的姿勢は、ハリエット・テイラー︵後のミル夫人︶ がコントを嫌っていた事実によって幾分かは影響されていた。彼女はまた、ミルに宛てた一八四九年の手紙の中で、 トクヴィルに対しても厳しい評価を下していた。とはいえ、彼女はそれ以前の時期、とりわけ一八三五年から四〇年 にかけてのミルとトクヴィルの蜜月時代に、トクヴィルとの交流にかんしてミルに対し干渉的な態度を示していたよ うには見受けられない。したがって、トクヴィルに対するミルの態度変化の理由は、別のところに求められるべきで ある。パッペの結論では、その理由は東方問題をめぐる両者の論争である。他方、別の論者たちは、この論争を両者 の疎隔の大きな理由として認めつつも、さらに別の事情も指摘している。すなわち、一八四〇年代以降ミルの関心が ハ 方法論へと傾き、そのため交流の力点がトクヴィルからコントに移行したこと、あるいは、三〇年代にはミルは新た な政治原理の探求に苦闘していたためにトクヴィルに注目したが、その時期を過ぎてからはより広い視野から自らの ヨ 思想をまとめていく必要が生じ、そのためにトクヴィルへの関心が後退していったこと、などである。 東方問題が両者の疎隔のおそらく最大の理由であったという意味では、言いかえれば、それを唯一の理由であると 誇張しない限りでは、パッペの説明は妥当であると言ってよい。また、トクヴィルに対するミルの理論的関心の低下 は、書簡のやりとりを低調にさせた理由の一つであることも否定できない。しかし、二次的付随的な事情としてであ 63 (3−4 ・131) 591 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 るにせよ馬まだ補足すべき点が残されている。まず第一に、ハリエット・テイラーについてである。たしかに、パッ ペが論じているように、彼女からの何らかの干渉があったためにミルはトクヴィルから距離を置くようになったとは る 考えられない。しかし、,一八四九年に彼女がミルに宛てて書いた手紙に示されるような厳しいトクヴィル評価が、と りわけ一八五〇年代におけるミルのトクヴィルに対する幾分冷淡な態度に全く影響しなかった、と考えることは困難 であろう。その種の影響の可能性は、たとえば、ミルが一八五三年から五四年にかけて執筆した﹃自伝初期草稿﹄に ついて考えることができる。ハリエットをさしあたり最初の読者として想定しつつ書かれたこの﹃初期草稿﹄では、 ら パッペも指摘しているように、トクヴィルへの言及は一箇所で付随的に行なわれているだけであった。もちろん、こ のようなトクヴィルの扱い方は、第一義的には、この時期のミル自身のトクヴィルに対する評価や感情を反映してい ると見るべきであって、この扱い方にかんして、その当時のミルに何か不本意なところがあったと考える必要はな い。しかしそれにもかかわらず逃コントとの交流においてハリエットがミルに対して毅然としたコント批判をするよ う求めたのと同様に、トクヴィルに対するミル自身の評価や感情の表現の仕方に︵その内容にまでではないにせよ︶ ハリエットが影響を与えたということは、ありえないことではなかったであろう。 第二に指摘すべき点は、ミルはトクヴィルと思想家として交流することを望んでいた、ということである。ミルが 興味を抱いていたのは政治家トクヴィルよりも、むしろ思想家トクヴィルであった。一般的に言って、ミルは自ら敬 意を感じたごとのある思想家との交流を、思想上の相異それ自体を理由に停止することはなかった。たとえば、コン トとの思想的交流においては、見解の相異による論争は、コントに対するミルの熱意を冷却させたにせよ、直ちに書 簡のやりとりの途絶にはつながらなかった。こうした意味で、トクヴィルに向けて﹁あなたは何をなさるのでしょう か? 今はもっぱら政治に献身するのでしょうか? それでしたら大いに残念です﹂と書いた一八四三年一一月三日 63 (3−4 ・132) 592 付の手紙が、ミルの側から積極的に語りかけようとした最後の手紙であったことは示唆的である。相手の思想的著作 を相互に批評し合う機会があれば、両者の手紙のやりとりは、ある程度は活発なものとして続いたのではないだろう か。だが、そうした作品がトクヴィルによって書かれミルに送られてきたのは、一八四三年から数えて一三年後の一 八五六年になってからのことで あ っ た 。 口 五〇年代の一連の書簡 一八四〇年代後半の時期では、一八四七年にトクヴィルからミルに宛てた一通の手紙しか残されていない。それは 政治家トクヴィルから行政官僚ミルに宛てた手紙であった。トクヴィルは以前から、フランスによるアルジェリア植 民地の経営に関心を持っていた。彼は、合法的支配と人道主義の見地から現地の植民者の行状には批判的であった が、植民地支配自体には肯定的であり積極的であった。彼は一八四一年と四六年の二度にわたって、実際に現地を訪 れており、そうした経験や知見が評価されて、四七年にはアルジェリア問題にかんする議会特別委員会の議長兼報告 者に任命された。この報告を行なう際に、彼はイギリス東インド会社のインドにおける文民行政システムを調査する ため、同社の上級職員であったミルに対して、資料を送るよう求めたのである。この手紙に対するミルの返信は現存 せず、また、ミルが返信を書いたかどうかも定かでない。 それから九年後、トクヴィルは再度、ミルに宛てて短い手紙を書いた。この九年の間、トクヴィルの側では、四八 年二月革命、同年一二月のルイ・ナポレオンの大統領就任、四九年の五ヶ月間にわたる外相経験、五一年一二月のル イのクーデタとそれにともなう政界引退、五二年からの﹃旧体制と革命﹄の執筆の開始など、さまざまな出来事が あった。トクヴィルはかつてと同様ヨ。昌。ゴ臼ζ旨と呼びかけて、この五六年六月二二日付の手紙を始めている。 63 (3−4 ●133) 593 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 私たちが手紙のやりとりという麗しい習慣を失ってずいぶん長くなります。そのことを私としては、しばしばそして非常 に、残念に思ってきました。なぜなら私は、あなたの才能への高い評価とともに、それに等しく高い尊敬の念をあなたに対し て持ち続サてきたからです。この手紙に添えた本︹﹃旧体制と革命﹄︺で私を想い出していただきたい、この本をあなたに対し て私が抱いてきた友情の証拠−事実そうなのですが一と見ていただきたい、と思っています。私はこれを発送したらすぐ にパリを離れます。あなたが実際に目で見て知ろうとはお考えにならなかったけれども名前はよく御存じの場所ーサン・ピ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ エール・エグリーズ︵マンシュ県︶トクヴィルーに帰るためにです。あなたが私のことを完全には忘れていないことを私にわ からせるために、そして、私の本についてあなたが思うところを一それが何であれ、私には計り知れないほどの関心事です ︵9︶ 1私に率直にお話しになるために、返事を書くという親切な気持ちを抱いてくださるのであれば、そちらの方にお願いしま す。 ミルの返信は六ヶ月後に書かれた。それは、返事が遅れたことについての弁解から始まっている。呼びかけの仕方 は、かつてと異なり§80ゴ①二≦8ω凶①霞画。↓06ρ嘗①<窪①となっている。 六月二二日付のあなたの手紙に返信するのが大変遅れてしまいました。私たちがスイスへ旅行に出かける直前にあなたの手 紙が、届き、あなたがぜひとも私にと思ってくださった著作を私が受け取ったのは、旅から戻ってからのことだったのです。そ れから私は遅滞なくそれを読みました。しかしこの本には、一度読んだだけでは全体を把握できないほど多くの事柄が含まれ ていました。そこで私は、私の印象をあなたに伝える前に、もう一度読む機会を待ちたいと思いました。この再読は、色々な 仕事のためにかなり長い長先延ばしになってしまいましたが、にもかかわらず、待ってよかったと思いました。というのは、 この期間があったおかげで、完全に好意的な意見Ilそれを直ちに表明したならば軽率に見えるということもありえたでしょ うが一を、何ら引きずられること心なく熟慮を経て、今の時点で表明できるからです。あなたの最初の著作の後で、何であ れ別の著作が相対的に劣っているという見かけを与えずに済ませることは、たしかに困難ではありました。同じ大衝撃で世界 63 (3−4 ・134) 594 を再度揺るがすということは、ほどんどながつたことです。しかしこの著作は、それに先行したものの傍らで、しっかりど 立ってい労す。それは㌔,普遍学の、一章という見方だけを−しても、これまで書かれた中で最もすばらしいものだと思います。そ して、現代の本性や諸頻向のうち好ましいものをよワ良い方向に仕向け、悪しぎものは可能な限り是正す6ために、そうした 本性や諸傾向を特徴づけるごとが、あなだの哲学生活分主要目的だどみなしうるのであれば、.私が思うにば馬あなたは現状の 過去における根源を示すことによって、現状の説明において重要な、一歩を前に進めたのです。あなたが実際になさったよケ に、ごれを行なうためには、絶大な忍耐かと、諸事実を結びつけ最も際立っだ諸特徴を僅かな言葉で提示する稀脊な能力が必 要で炉。したがっτ、.もしこ分著伶がみなたの﹃アメリカの民主主義﹄の中で光り輝いている偉大な一般的見解に別のそれを 付け加幻でいないとレでも、おそらぐよ0.よい仕方でそれらを示しており、それらをはるかに豊かな見識と新たな応用をとも ないつヶ再現しているのです。批判にかんして言うならば、私は何ら批判ずべきものを見出しませんでした。だしかに、あ馨 だの見方と私の見方との間には、一般的でぎわめて重要ですらある幾つかの相異はあります。というのも、とレわけ宗教の面 で、あなたは私よりもばるか,に過去に愛着を持っていらっしゃるがらですαしかしこの著作の中で、こうじた見解の相異の痕 跡に若干出会うことがあるとしても、私の観点からでさえも、、あげつらうべぎものは何も見出ざれません。ただ、あなたは,一 八世紀哲学の欠点をより強調するする一方で、そのよい面を認めてやろうとしていませんが、私でレたらその面をもっと力説 したであろケとは思います。あなたの著作を支配レている自由への高貴な愛、あなたの偉大な祖国が現在堪え忍んでいる悲惨 な体制−世の中の正直魯眼かぢすればそう見えます一に対して抗議して,いる自由への高貴な愛に、私は言い表わしきれな ︵10︶ いほどの深い共感を覚えてい、ます。 この手紙の文面から見て、﹃旧体制と革命﹄が、一八三五年に初めて﹃アメリカの民主主義﹄を読んだときのような 興奮をミルに呼び起こさなかったことは事実であろう。資料に沈潜し丹念な社会学的分析を行なったこの書物に、ミ ルは少なくとも﹃アメリカの民主主義﹄を越えた﹁偉大な一般的見解﹂は見出さなかった。しかし彼は、二月革命と その挫折の経験、そして﹁自由への高貴な愛﹂から第二帝政に抗議することが、﹃旧体制と革命﹄の根底における動 機となっている点は見逃していない。さらにミルは、この著書に漂う悲観的なトーンが絶望や宿命論に堕していない 63 (3−4 ・135) 595 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ことも見抜いている。彼はこの見地から、トクヴィルが諦観的な歴史を書く代わりに、自らの﹁哲学生活の主要目 ︵11︶ 的﹂のために過去を社会学的に分析していることを高く評価したのであった。 幾つかの留保はともなっているものの、旧友のこうした評価はトクヴィルを喜ばせたにちがいない。なぜなら、 六ヶ月近く待たされたトクヴィルは、ミルの手紙の日付からわずか四日遅れで、返事を書いているからである。この 返信は、私の見る限りでは、トクヴィルからミルに宛てた手紙の中で最も暖かい調子のものである。 私はあなたに、あなたの手紙が私に大きな歓びを呼び起こしたと申し上げなければなりません。事情が私に説明される以前 は、あなたの沈黙をいささかうらぬしく想っていました。ぜひ信じていただきたいのですが、私の不満は自尊心の感情から生 まれたものではなく、真の友情と多大な尊敬1一あなたに忘れられたくないと私に思わせ、あなたが賛同してくださることに きわめて大きな価値を与えているもの一から生まれたものでした。私はあなたに、全く正直に、あなたの意見ほど重要な意 見を持つ人はいないと申してきました。二〇年以上も前から私は、あなたの精神を高く評価しています。その広がりと稀有の 洞察力を私は知っています。あなたから賛同を得ない限り、私は上首尾であったという確信を感じませんでした。ですから、 あなたに感謝したいのですが、あなたの手紙は私に生き生きとした歓びを呼び起こしたのです。私の著作についてあなたが留 保された部分があることは承知していますけれども、全体としてはあなたに気に入っていただけましたし、それを書ぐ際に私 を動かしていた一,般的精神に対しても、あなたは賛同してくださっています。そのことを知ることぼど、私に歓びを感じさせ ることのできるものはありませんでした。 来年の春、イギリスに行って何日かを過ごすことができるかどうか、私はあきらめていません。請け合うことは大いに容易 というわけでばありませんが、あなたのところにも行きたいと思っています。これぼど久しく会わなかった後で、あなたと握 手を交わし、そして、かつて私たちがしたような長く興味深い会話を三重したら、本当に楽し.いでしょうね。世界の二般的状、 態は、現在の混乱のただ中で未来を垣間見ようとしているすべての人々に、熟考を促しても当然なものとなっています。・願わ くばそれを、.あ替たど御一緒にぜひ企ててみたいと思います。 、、 私の政治的立場のためにこの手紙が届かなくなるごとを危惧しなくてよいのならば、今から手紙ででも、・アランスが置かれ 63,(3−4 ●136) 596 ている異常な状態について、喜んであなたにお話しするところです。数日前には、政治的な事柄について私があなたと同じ国 の人に宛てて書いた手紙が没収されてしまいました。ですから、敢えてあなたに書かないことをあなたにお話しする機会を近 い将来に一そう期待しているのですが1延期して、今日のところは我慢することにします。 ください、ということが、私が今あなたにお願いするすべてです。 あなたが非常に忙しいことはわかっていますので、返信を求めることはいたしません。私のことを完全に忘れたりしないで ほ トクヴィルは﹃旧体制と革命﹄を公刊した後も、その続篇を書くために大革命時代の資料の収集と研究を続けてお り、彼は大英博物館所蔵の資料も閲覧したいと考えていた。﹁来年の春﹂にイギリスを訪れる計画と彼がこの手紙で 述べているのは、そのことであ る 。 、 トクヴィルの計画は少し遅れて実現し、彼は一八五七年六月一九日から七月二四日までの約一ヶ月間イギリスに滞 在した。本来の目的であった資料収集は、大英博物館の大革命関連資料がカタログ化されていなかったため円滑には お 進まなかっ光が、彼はイギリスの有力者たちによる歓待を楽しむ機会を得た。しかしこのイギリス訪問の際、彼はミ ルとの再会を果たさなかったようである。トクヴィルがロンドンに滞在していた頃、ミルは書簡の幾つかを東インド 会社から発信しており、したがって当時ミルはロンドンにいたと考えられるのではあるが。ミルの社交生活は、一八 四〇年代以降、大幅に縮小されていた。とりわけ一八五一年にハリエット・テイラーと結婚して以後、ミルはこの結 婚をゴシップの種にされることを嫌い、また夫妻とも結核のために健康がすぐれなかったこともあって、社交界から の孤立を保ち続けていた。他方、トクヴィルの側からイギリス訪問の予定が具体化した段階でミルに知らせた様子も け ない。結局、ミルとトクヴィルは、一八三五年以後、遂に再会することはなかったのである。 め ﹃旧体制と革命﹄の公刊をめぐるやりとりから二年余り後、ミルは﹃自由論﹄をトクヴィルに送った。ミルが﹃自 63 (3−4 ●137) 597 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 由論﹄に添えて手紙琶送ったのかどケかは確認でぎないΩミル臨トクヴ花ル往復書簡は、これに対する礼状として書 かれた噌八五九年二月九日付のトグヴイルかぢの短い手紙で終止符を打つことになる。がなり以前から結核に罹患し ていたトクヴ.イルは、病状が悪化したため、このときカンヌで静養していた。,彼の主治医の一人は、回復は絶望的で ︵16︶ あるという診断を下していた。 あなたの御著書﹃自由論﹄を昨日受け取りました。それはカンヌに転送されてきました。ここには、、私の健康の具合に強い られて冬を過ごしにやって来ているのです。−あなたからのこの記念の品に私がどれほど感動したかは、筆舌に尽くしがたい抵 翌です。あなたがこの主題に対してあな売の精神に発ル唆独宕の様相噛与流、あなたの精神の稀有噸活力があなたの著作に刻 印を残したことを、私は疑いません。まだいささか衰弱してはいるものの、みなたの本を読もうとしているところですが、私 ,ば、自分が自由どいうこの栃の上に絶えずいるのだと感じていること、そしでふ私たちは手を携えることなくしては前進でき ないというてとを疑いません。まだ希望の余地を許す間接的な仕方で濾ありますが、泌な売にミ﹁ル夫人を亡べ葬れゐ障いう御 不幸があbたと言われているのを耳にしました。私はこの雑音が根拠のないものであるようにと望んでいますが、もしそれが 本当でしたら・簡略ではあれ心からの私の同情の表明を・どうか受け容れてくださいますよう鷺 これに対するミルの返信は残っていない。彼は読後の批評を得てか5手紙を書くつ・もりだったのだろうか。しかし、、 の公刊後、トクヴィルに宛てて﹁ものを書くときにはほとんどつ 右の手紙から約二ヶ月後の四月一六日、トクヴィルは五四歳の誕生日を迎えることなく静養先のカンヌで客死した。 日 一八五九年以後 ミルはかつて、,﹃アメリカの民主主義・第二部﹄ 63 (3−4 ・138) 598 ねに、私のペンの下に何らかの形であなたの名前がある﹂と書いたことがあった。これは、トクヴィルの死後におい てさえも、ミルが政治理論のあり方や民主主義をめぐる諸問題について論じた際には依然として妥当していたと言え るであろう。何よりもまず、ミルは一八六一年までに大幅に書き改められた﹃自伝﹄の草稿において、トクヴィルに 対する自らの知的負債につ,いての記述を書き加えた。ミルはよく知られているこの一節において、﹁精神の危機﹂の 後に生じた﹁私のものの考え方に起こったただ一回の現実の革命﹂以降の限定的な思想変化の一つとして、﹃代議政 治論﹄で完結することになる﹁修正された民主主義﹂への移行を挙げ、それがトクヴィルの﹃アメリカの民主主義﹄ を研究したことから始まったと述べるとともに、さらに、この研究の副産物として中央集権の危険性を認識するよう に な ったことに言及している。 の たしかに、ミルの死後に公刊された﹃自伝﹄におけるこの言及を加えても、五〇年代末以降の彼の主要著作におい てトクヴィルに言及した箇所は決して多くはない。トクヴィルの名に直接言及しているのは、﹃自由論﹄では一箇 ︵19︶ ︵20︶ ︵21︶ 所、﹃代議政治論﹄では二箇所、﹃コントと実証主義﹄で一箇所、他に﹁中央集権﹂と題された書評論文で一箇所に限 られており、しかもいずれもトクヴィル本人を長々と取り上げた議論ではない。しかしそれらは、いわば、大きな氷 お 塊の海面上に僅かに姿を見せている部分にすぎない。それらはそれぞれ、多数者の専制がもたらす中国的停滞の危 険、民主主義制度の下での政治参加による国民の公共精神の陶冶、自由と必然の問題に連動して行なわれた政治的予 見の実践的利用という点でのコントに対する批判、フランスにおける中央集権の危険という、ミルの政治思想の本質 お 的部分をなし、またトクヴィルとの書簡のやりとりの中で自ら確信を強めていった主張にかかわるものであった。 最後に、ミルが晩年に至るまでトクヴィルを高く評価していたことを示す手紙の一節にも触れておこう。それは、 一八七一年にミルが知人に宛てた手紙である。その知人が、ロンドン滞在中の幾人かの日本人留学生に推薦する書物 63 (3−4 ●139) 599 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 について問い合わせてきたのに対して、ミルはこの手紙の中で次のように答えた。 あなたの手紙の主題になっているような学生たちに対して、政治にかんする本を推薦することはきわめて難しいこ老です。政 治象の手引き書というものは、あな距が正し︽言われて守るように存在しませんし、それぜかりでなく﹂特定の主題を教訓的 に扱っていたりあれこれの理由で読む価値のある本は数多くあるものの、現代の最善の知識から判断して少なくとも真理の多 さと誤りの多さが同量で済んでいるような本ですら、僅かレかありません。それに加えて、そうした本は、ヨドロヅバの諸問 題や諸困難に関連七て書かれており、標準的なヨー刀ッパの諸事実や諸見解についての知識を前提としていますが、あな旋の 日本人の友人たちがそれをすでに獲得している可能性はなさそうです。白ーロッパの思想家で遺、アダム.スミス、モンテス キュー、トクヴィル以上に研究に値する思想家はほとんどいませんが、しかし彼らが、目下の目的にとって大いに役立つかど うかは疑問です。全般的に見ると、固有の長所とコスモポリタン的な性格といういずれの点からしても、幾つかのベンサムの ︵24︶ 著作、とくにデュモンがフランス語で編纂したものほど、有益であるという見込みのある本は他に考えられません。 話題となっている日本人が誰であったかは不明である。 ︵1︶ ℃魯O塩ト︵お2︶bb。一山謹● ︵2︶ 小川︵一九七五︶、一〇九⊥一〇頁。 ︵3︶ 中谷︵一九八一K 一八三⊥八四頁。 ︵5︶・・勺巷冨︵お罐︶℃旨9角初期草稿﹄におけるトクザイルへの唯一の言及は付随的なものにすぎず、父ジェイムズナミルがトク かれ少かれ操グ人形でないように思える人はこの国では採とんど皆無です。﹂ ライル夫妻hオーろプィン夫妻といった人々を含む階級一上流気取りの階級︵窪。αqΦ三ま蔓9自。器︶一の顕著毒見本です4彼 らは、道徳において脆弱であり、知性において偏狭で、際限なく自惚れていて、ゴシップ好きなのです。私たちから見て、多 ︵4︶層=①員凶魯↓9。覧。﹁8冨一一一噂[b。。。]”ζ9ど一。。お、ぎ国⇔矯。冒︵HO弩︶藁0①・﹁トクヴィルは、.スターリング夫妻ハロ鳶りょ夫妻、力通 63 (3−4・●’140) 600 ∩ ヴィルの﹃アメリカの民主主義﹄を非常に好意的に受け入れた、という趣旨の記述におけるものであうた。この記述自体はほ とんど変更を加えられないまま、刊本の﹃自伝﹄にも引き継がれることになる。Ω‘竃巳︵一電ωγ留O歯一一.なお、﹃自伝﹄の執 筆経緯にかんする詳細については、Oミ鴇どぎ需。α9江oPξ一・目●菊。げωo昌を参照。 ︵6︶Ωこ国翅。評︵一り臼︶﹄一ω山一避ミルは、書簡において女性の地位をめぐってコントと論争した際、両者の議論の写しを残して いたが、﹁それを読んでハリエットは、一八四四年頃にミルに対し次のように書き送っていた。﹁これは、私を大いに驚愕させ、 また失望させました。それからまた、あなたの側にかんしてだけは私を喜ばせました。コントは私が考えていたとおりの人物 ですII自分で考えたこともない主題について月並で狭い偏った見解を持つ人物です⋮⋮。あなたの︹コン下宛ての︺手紙の 中で、あなたの見解が、決着済みと私が思っていたものを損ねていることを見て驚いています一あなたが自分の意見を述べ ヘ ヘ ヘ へ る際にかなり自己弁明的な調子になっていることに、私はがっかりしているのです。⋮⋮この主題についてあなたがも﹁つと多 くを語っていたらよかったのにと私が思っているとは、考えないでください。私はただ、語られたことが、暗示の調子ではな く確信の調子であったならよかったのに、と思っているのです。﹂ ︵7︶ ただし、このことが﹃初期草稿﹄におけるトクヴィルへの言及の少なさを説明する唯一の事情である、とまでは言えない であろう。この時点では、トクヴィルとの交流の中で徐々に練り上げられていった思索を盛り込んだ﹃自由論﹄や﹃代議政治 論﹄のうち、前者は構想の段階にとどまっており、後者はまだ構想すらなされていなかった、という事情も考慮に入れる必要 がある。 ︵8︶ 日ooρ⊆o︿三①8竃三bρ﹀鷺こ一。。心月§ミミ勲ω心。。・トクヴィルのアルジェリアおよびインドへの関心については、小川︵一 九七五︶、九七⊥〇一頁、=二六−=二九頁、ジャルダン︵一九八四︶、二七七⊥⋮七九頁、三五二−三八一頁、および小山︵﹁ 九九六︶を参照。 ︵9︶↓。8器く≡Φ8ζ葺悼・。し§Φし。。㎝9§嘘§る駆。。山お. ︵10︶ ]≦≡8↓ooρ二Φく凶=ρ一9U①oこ一〇。切9Gミ♂一9㎝一身暫Q。−§ミ蕊・。︼ωお−ω切O・ み出ていると指摘しつつも︵五五二頁︶、ミルの洞察を裏書きする観察を行なっている︵五五六頁︶。訳。。ゴ①p︵一㊤露︶はトクヴィ ︵11︶ ジャルダン︵一九八四︶は、﹃旧体制と革命﹄には﹃アメリカの民主主義﹄にはほとんど存在しなかったペシミズムがにじ の ルのペシミズムをより強調するものの、トクヴィルが宿命論にまで退行したことは否定している︵おω︶。ただし、トクヴィル をはじめとする﹁貴族的自由主義者﹂がなぜペシミズムに踏みとどまり宿命論に陥らなかったかについては、ケイハンは十分 63 (3−4 。141) 601 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 に説明していない。こうしたケイハンの議論に対する評価と批判としてω①ぼ胆。露︵HO逡︶を参照。 ︵12︶ ↓08ロΦ︿筥08寓罠しPUoρしQ。窃9§q§層ω8ゐ田’ ︵13︶ ジャルダン︵一九八四︶、五六七−五七二頁参照。 ︵14︶ O炉=9巻評︵HO包︶L。。N山◎。ω● ︵15︶ これに対するトクヴィルの返信が二月九日付であり、ミルがトクヴィルに送った一冊がカンヌに︵おそらくはマンシュ県 トクヴィルから︶転送されてきた際に要した時間を考えると、ミルは﹃自由論﹄が二月置入ってから正式に公刊される以前 に、印刷直後のものをトクヴィルに送ったのかもしれない。 ︵16︶ ジャルダン︵一九八四︶、五八二−五八三頁。 ︵η﹀ ↓ooρロ。<芭①8竃一差ρ喝①す︾一。。αP§ミ§”ω鰹−。。詔・ミルの妻ハリエットは、前年の一八五八年一一月三日に、旅先のア ヴィニヨンで急死していた。 え、3﹂の移行を売居な事のた疹しめ、’確実北来喫乃ものを最善に利用すみのが政治釣予児の正しい月鵡方であ煮之輸℃亮汐ん ヴィルやその警め思想家たち億、歴史の全体を樋℃て遅発葡ならが北政治的平等に向’かっ﹂ての確固たる進歩遊発明したと考 ’するように︵ζれまで人類社会が全体として前進し運動して意た方向8遊、未来の方向と著て指示しているわけで遺広い。■過去 の史的分析にも之ついて未来のたあψ理論を構成七光偲想家凌ちは、﹄般に.﹂のようなやり方をしてきた。たとえば、トク 明と、未来にお妙る改善のための提案の問にハいかなる科学的な連関も見出すことができない。彼は、われわれが当然に期待 れているのであるが、この点においては一つの亀裂が存在しているのである。われわれは、過去における社会進歩の理論的説 観と実践的指針との間に、必要な一つの連鎖を見出すことができない。すなわち、彼の思想は、その他の点では密接に連絡さ, 続けたミルが、コントとトクヴィルを同時に論評したものとして注目される。﹁しかしわれわれは、︹コントにまる︺過去の概 ︵23︶ これらのうち、﹃コントと実証主義﹄における次の一節は、実践的政治理論を追究するとともにその方法論的基礎を探求し ︵22︶ ︼≦≡.︵H◎。8︶讐㎝◎。N凸◎。ω. ︵21︶ 言卍︵μ。。Oα︶”器や認α・一二三頁。 ︵20︶ 竃剛一一︵H。。①H︶﹄O。。鳩呂S水田・田中訳、,二七九頁、三六四頁。 ︵19︶ 冨籠︵一。。昭︶暢署野二九九頁。 ︵18︶竃筥︵目。。器︶”おOるOP一六八⊥七一頁。この他に、﹁第二書評﹂に言及した短い一節も書き加えられた︵NNN一九二頁︶。 63 (3−4 ・142) 602 かしわれわれは、コント氏がこれと同種の論拠でもってその諸提案を基礎づけているのを見出すことができない。﹂竃≡ ︵H。。留γω隠山b。α.一二三頁。すでに示したように、ミルは方法論の分野においてはコントを高く評価していたが、独断にもとつ いたコントの宿命論的議論には批判的であった。ミルの考えでは、方法論にせよ歴史哲学にせよ、それらは自由な行為主体で ある人間に実践的に寄与すべきものであり、その点でミルは、コントよりもトクヴィルの姿勢を評価するのである。なお、方 法論との関連で付言するならば、ミルはコントの刺激を受けつつ練り上げた﹃論理学体系﹄第六巻において、新しい精神科学・ 社会科学の構想を提示していたが、その構想は遂に実現することはなかった。逆演繹法における中間公理の厳密な確立は未完 にとどまったし、また、性格の形成に対する環境の影響の一般法則を追究するエソロジーも、統治形態・政治制度の国民的性格 への影響を分析対象とするポリティカル・エソロジーも、構想のままにとどまったのである。それらの科学は言うなれば、トク ヴィルのようなモラリストによる社会変化や習俗についての直観的ないし経験的な洞察を科学的に基礎づける役割を担うもの であった。しかし、ミルはそれらを構築できなかったために、いわば見切り発車の形で自ら集積してきた国民性や社会発展の 経験的洞察を、彼の主要な政治理論の著作﹃代議政治論﹄において適用せざるをえなかった。その意味では、ミルがかつて自 負していたトクヴィルに対する方法論上の優位は︵自らの議論も経験的一般化に依拠しているという明確な自戒を別とすれ ば︶、現実の理論展開には生かすことができなかったのである。実践的政治理論に有効な経験的一般化が提示できるかどうか が、トクヴィルと同様ミルにとっても、結局は政治的思考の実質的な試金石となったという意味では、ミルは最終的にトク ヴィルと方法論的に同等の次元に立ち戻らざるをえなかったと言えよう。 ︵24︶ ζ籠8閃﹁①αoユ。犀重圏窪ヨ凶く田圃”ωρζp。夢H。。刈ドOミ藁8目。。H卜。−一。。Hω・この手紙は山下︵一九七六︶、二七五頁においても言及 されている。 お わ り に 最後に、ミルが自らの思想的営為の内側でトクヴィルをどのように受け止めていたのか、という本小論の主題につ 63 (3−4 ●143) 603 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 いて、三つの観点から総括的考察を加えておくことにしよう。すなわち、第一にミルは自らに対するトクヴィルの影 響をどのように評価していたのか、第二にミルは自らとトクヴィルが思想的にどの点で相異していると見ていたの か、第三にミルは自らとトクヴィルがどのような点で類似していると見ていたのか、である。なお、第二の点と第三 の点にかんして付言するならば、ここで意図しているのは、両者の思想を第三者的観点から比較しつくすことではな いし、ましてや両者の思想の間で優劣の評価を下すことでもない。 ん、トクヴィルの影響がこのように限定的であったということは、この影響がミルの政治思想において重要でなか.っ 伝﹄で言明している幾つかのうち、行政的中央集権の危険性を知らされた、という点に限ってよいであろう。もちろ は、すでに一八三三年頃には確立していた。したがって、厳密な意味でのトクヴィルの﹁影響﹂は、ミル自身が﹃自 神に対する批判的見地から国民性や公共精神の陶冶の必要性を力説したり、社会安定の諸条件を重視したりする姿勢 クヴィルに出会う以前からの考えであったし、また、その修正の前提となっていたもの、すなわち中間階級の商業精 において、トクヴィルの知的刺激が発端になったと認めている民主主義論の修正についても、委任と代表の区別はト 一八世紀への反動として彼が特徴づけた多くの一九世紀の思想家たちに見出していた。さらに、ミル自身が﹃自伝﹄ 思想における重要な視点の一つであるが、彼はその源泉を、彼自身繰り返し述べているように、トクヴィルに限らず ,と言わねばならないであろう。たとえば、統治形態や国民的性格に対する社会状態の影響という視点は、ミルの政治 対的に特権的な地位にあると言えるのであれば、ミルがトクヴィルから受けた影響はきわめて限定的なものであった かった場合に厳密に限定するのであれば、また、思想家が自らの受けた影響について語る際に、他の観察者よりも相 響を与えたと考えられる思想家との接触以外に、当該の影響の具体的内容と同一のものに出会う他の機会を持ちえな まず第一の点についてであるが、もし﹁影響﹂という語の適用可能な事例を、影響を受けたとされる思想家が、影 論説 63 (3−4 ・144) 604 たということを意味するわけで は な い 。 しかし、もし﹁影響﹂の概念をこれほど厳密に限定しないのであれば、いやむしろ、あまりに多義的であるこの語 を使わずに、ミルが自らの思想的営為にとってのトクヴィルの意義をどのように評価していたのか、と問うのであれ ば、さらに一言付け加えることができるであろう。それは、民主的社会における真の危険は中国的な停止状態である という議論をトクヴィルの議論に見出した際のミルの反応に典型的に現われている点である。ミルにとってトクヴィ ルが貴重な存在であった大きな理由は、新たな知見を与えてくれるということよりも、むしろ、かなり異なった脈絡 から出発しながらもトクヴィルが自分と同一の結論に到達していることで、自分の確信を強化してくれる点にあっ た。おそらく、トクヴィルにとっても、ミルの主たる存在意義はその点にあったのではないだろうか。しかも、確信 を追求するのはあらゆる思想家に共通する志向であるとはいえ、ミルは、とりわけ自らを確信の追求へと駆り立てる 特殊事情がある︵そして、トクヴィルもまた類似の事情の下にある︶と考えていた。これは第三の点を論ずる際に、 あらためて取り上げることにす る 。 次に第二の点、すなわち、ミルがトクヴィルとの思想上の相異をどの点に見出していたかに注目してみよう。方法 論上の相異、およびきわめて具体的な政治状況の下での愛国心についての評価をめぐる見解の相異についてはすでに 触れたので、ここでは取り上げない。残されている重要な相異点は、ミルが﹃旧体制と革命﹄を賞賛した際に留保し た点、すなわち宗教︵具体的にはキリスト教︶の評価にかんする点である。そもそもミルは、﹃旧体制と革命﹄以前 に、蝸アメリカの民主主義﹄を書評した際、宗教についてのトクヴィルの議論にかんしてはほとんど沈黙していた。 ミルは、トクヴィルの著書の趣旨を正確に把握し、またその点でトクヴィルから高く評価されながらも、﹁キリス下 教デモクラシー教育論﹂とすら呼べるこの著書において、トクヴィルが重視していたキリスト教にかんする論点を、 63 (3−4 ●145) 605 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ほとんど全く取り上げていなかったのである。この沈黙は、民主主義社会における自由の確保という実践的目的にか んしてキリスト教の役割を重視しないミルの姿勢を反映していた。そして彼は、﹃旧体制と革命﹄についての評価の 中では、﹁たしかに、あなたの見方と私の見方との間には、一般的できわめて重要ですらある幾つかの相違はありま す。というのも、とりわけ宗教の面で、あなたが私よりもはるかに過去に愛着を持っていらっしゃるからです﹂と述 べ、キリスト教に対する消極的評価の姿勢をトクヴィルに対して明言するに至った。このようなミルと、カトリック 教会の現実の姿には批判的でありながらもキリスト教の必要性を説き続けたトクヴィルとの相異は、それ自体として はふあらためて注釈を要さないほど明白である。だがここで問うべき重要なことは、さらに一歩進んで、トクヴィル にとっては宗教なき自由、宗教に由来する自己規制を欠いた自由はありえなかったが、ミルにとってはそうではな ヨ かった、という形で両者を対照させることができるかどうか、である。 こうした対照の仕方は端的に言って不正確である。まず、トクヴィルとキリスト教との関係についてはトクヴィル 研究者の間で種々の議論があるにせよ、少なくとも言えることは、トクヴィルは無条件的に宗教を自由の前提と考え たわけではなかった、ということである。自由の条件と彼が考えた宗教は、少なくとも、政治権力と癒着しその助け を借りて信仰を強要するような宗教ではなかった。教権主義に反対する彼の姿勢は、宗教的懐疑によって深く動揺し る た少年期の実存的経験に根ざしており、しかもそうした経験は、他方において、宗教をそれ自体として擁護するばか りでなく、自由の心理学的ないし社会学的条件として強調する彼の傾向とも関連しているようにも見える。 次にミルにかんしてであるが、たしかに彼は、超自然的なものへの信仰に由来する規範が自由に不可欠だとは考え なかった。しか七里は、何らかの内的に確信された規範なり価値観による規制なしで、自由が可能であるとは考えな かった。彼の診断によれば、現代社会はこの点で二重の危険をはらんでいた。一つは確信がないゆえのコンフォーミ 63 (3−4 ●146) 606 ズムである。もう一つは、同じ人間たちと︼体化したいという本来強力な自然的感情が、文明の進展にともなう相互 尊重の精神の強化によって、個性を抑圧するほどまで過剰に強力になってしまう危険である。これらに対抗するため には、社会的次元と個人的次元のそれぞれにおける二つの保障が必要である。第一に、どの個人も他者を害したり自 ら主観的に善と考えることを他者に強制したりすることを自制するような内的サンクションを、教育や制度によって 各個人に植え付けることが必要である。現状はこれを越えて個性を抑圧するところまで個人を社会化することが可能 であるぐらいであるから、その程度にとどまる植え付けも可能であるはずだ、とミルは考えた。第二に必要なのは、 この内的サンクションによって確保される領域で、すなわち相互に他者を侵害せず善についての自己の判断を他者に 押しつけないことで確保される自由の領域で、各人が価値ある生を追求できるような確信・価値観を持つことであ る。そのためには、何よりもまず自由に生きるという経験と、知的道徳的に優れた自由人の生き方の模範を見ること の双方が不可欠であった。このようにミルは、社会と個人の両次元における規範意識や価値観を、自由にとって必須 の前提と考えたのである。それが、﹁精神の危機﹂以後のアノミー状態における懐疑と模索の経験を経てたどり着い た 彼 の結論であった。 もちろん、これらの限定を加えても、トクヴィルとミルの間に相異が依然として存在することはたしかである。た とえば、トクヴィルの方がよりホーリスティックで社会学的な見地から自由とその諸条件を見ており、他方、ミルの ス階層制社会の特性を、自明の所与とすることによって成り立っているという指摘は可能であろう。だが、何らかの より個人主義的な見地は、文明社会における規範の内面化や、優れた人間に対する恭順︵αΦhΦ居Φ口OΦ︶というイギリ 権威的な1個人の恣意や主観を越えたという意味で権威的なi規範が自由にとって不可欠であると考えた点で は、ミルとトクヴィルは大きく隔たってはいないのである。 63 (3−4 ●147) 607 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 そこで最後に、この点と密接に関連する側面での両者の類似性︵少なくともミルがトクヴィルに見出していた類似 性︶を取り上げて、本小論を結ぶことにしよう。これについて考える際に手がかりとなるのは、マズリッシュが試み た問いかけである。’マズリッシュは、なぜミルは、スターリングやカーライルやコントには﹁精神の危機﹂の経験を 打ち明けたのに、トクヴィルにはそうしなかったのか、という興味深い問題提起をしている。正確に言えば、ミルは コントに対して﹁精神の危機﹂の経験を直接に伝えているわけではないし、スターリングの場合は、﹁ミルが内面を打 ち明けることのできた数少ない対等な立場の友人であったという事情から考えるべきであるけれども、しかし、少な くともカーライルとコントの場合は、たしかに、ミルが彼らに対して﹁精神の危機﹂の経験に直結していた内面の状 態を打ち明けた事情は類似している。カーライルやコントに懐疑の経験が全くなかっ光と言うことはできないにせ よ、彼らには、少なくとも一旦何らかの確信に到達すると、その確信を普遍的に受容可能なものとして他者に押しつ けようとする傾向があった。他方、﹁精神の危機﹂以後、それ以前のように一つの思想体系に対する﹁宗教的﹂とす ら言えるほどの確信を持てなくなっていたミルにとって、カーライルやコントの強烈な確信や、それと不可分の精力 的な性格は、自らに欠けているものとしてきわめて魅力的であった。そのためにミルは、彼らとの交流の当初は過剰 なほどに彼らの意見に同調し、結果的には彼らに、ミルは自分の弟子であるという誤解を許してしまいがちであっ たコ実際には、ミルは知的次元においては、’彼らとすべての点で見解が一致するわけではないことを冷静に理解して いた。とはいえ、彼の知性は彼らと一致する点も見出しており、しかも彼は、それらに対する彼らの強い確信を共有 することを渇望した。こうしてミルは、彼らとの関係において、確信を熱望する感情と冷静な知性との間の不調和状 態に自らを追い込んでしまうことになる。しかしミルは、最終的には、自分を弟子とみなして心情の一体化や思想の 全般的共有を求めてくる彼らに対し、自らの精神の独立を主張せざるをえなかった。・そして実のところ、そうした独 63 (3−4 ●148) 608 立宣言を行なう際に、ミルは、カーライルに対してもコントに対しても、﹁危機﹂において経験されていた内的感情 に直接的ないし間接的に言及したのである。それは言うなれば、ベンサムや父ジェイムズこ・、ルとの思想的訣別に先 立って経験されていた感情の再演なのであった。 ミルはそうした再演を必要とするような要素をヘトクヴィルとの関係では見出していなかった。ミルがトクヴィル に見出していたのは、偏狭ではあれ揺らぐこどのない確信を持った精神ではなく、自ちと同様に、既存の教え込まれ た体系を懐疑し、崩壊した確信を広い知的探求によって立て直そうと苦闘する精神であった。トクヴィルの精神に対 するミルのこうした深く鋭い洞察は、一八三八年に発表された論文﹁アルフレッド・ヴィニーの著作﹂に示されてい る。ミルはその冒頭において、一八三〇年の七月革命がフランスの青年知識人たちに刻印したものを精神史的筆致で 描き出している。 われわれが論じたいのはむしろ、さほど目立たない内奥における動きである。それは、︵一八三〇年の革命が国内の一大勢力と してのシャルル一〇鷹派を絶滅させて以来︶教育を受けたフランス青年のうちの学識ある多くの精神において進行してきたも のである。彼らの家族的なつながり、あるいは年少期の精神的印象のために、彼らは敗北した党派の側に立っていた。彼らは 年齢が許す限り、君主政的なカトリックのフランスの古い諸観念の中で育てられていた。彼らは感情ないし想像力によって、 そうした古い諸観念が過去において産み出していたあらゆる偉大なものや英雄的なものと結びついていた。現在であれば言い 訳にすぎないにせよ、彼らは、宮廷の寵愛や権力をねらった利己的な闘争に参加することで汚されてはいなかった。こうした 彼らにとって、七月革命の三日間は、実際、それ自体のためにではないにせよそれと結びついていた追憶のために愛し崇敬し ていたものの破壊であった。 63 (3−4 ●149) 609 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ﹁愛し崇敬していたものの破壊﹂は、いささか軽々しく絶望するロマン主義の不幸な精神を生み出しただけではな かった。それは、信ずべき対象を喪失し懐疑に苦しみながらも、過渡期であればこそ可能になるような広い精神を生 み出すことにもなった、とミル は 続 け る 。 こうした省察︹右に引用したもの︺は、アルフレッド・ヴイニーの著作について論じようとすると自然に湧き上がってくるので ある。彼の著作は、ロマン的と呼ばれるフランス文学の新しい派の中で、最初期のものであり、傾向と精神において最も純粋 で誠実で非難の余地のないものものである。この手がかりがなければ、ヴィニー氏の著作、とりわけ後期のより優れた部分を 理解することは、いやむしろ、それらの著作に浸透している特異な諸感情に共感的に入り込んでいくことは不可能であろう。 詩と芸術におけるヴィニー氏は、哲学におけるそれ以上に卓越したトクヴィル氏と同様、時代の意見や感情と対立する意見や 感情の中で鍛えられた精神と性格に対して時代が与えた影響の所産なのである。これらの著作家はいずれも、人生と社会につ いての一群の見解の中で教育されていたが、成年に達したときに、彼らが生きている世界の中で支配的で最終的には一八三〇 年以後王座につくことになった別の一群の見解を見出したのであった。これが、それゆえ彼らが和解させなくてはならなく なった矛盾一1交差するこれらの光の中で明晰に見ることができるようになる以前に、克服する手立てを見出さなければなら なかった、懐疑、困惑、不安1であった。他の仕方で十分な教育を受けた人々や生来の才能をそなえた人々の大多数は、こ れを欠いているために、絶望的なほど凡庸に成長してしまうのである。自分で考える苦労を省いてくれる既成の見解とともに 人生を生きていくと・いうのは、彼らの生き方ではありえなかった。世界の中で自らの前に置かれているものの解釈のために自 分に与えられている対立し合う公式のいずれにも満足できなかったために、彼らは公式をそれなりのものとして受け取るにと どめることを学び、そして、.世界についての哲学を求めて世界そのものを探求することを学んだのであった。彼らは自らの眼 で見つめ、そこに、彼らの信条には無く自らの周囲においては支配的でもなかった多くのものを見た。自由主義の偏見であれ 王党主義の偏見であれ、偏見が認識を不可能にしてしまっていた多くのもの、それらのいずれの雰囲気にせよ、青年期と成熟 .期に彼らをとりまいていたら彼らから隠されていたであろう多くのものを、彼らは見たのである。 王党主義の教育と、一八三〇年に勝利を収めた現代世界の精神とのこうした相克が、トクヴィル氏のような哲学者の思索に 63 (3−4 ・150) 610 対して、そうした人を際立たせている包容的な精神︵昏①8昏。一一〇ω且葺︶ や幅広さを与えることに何らかの貢献をしていたに 違いないということ、このことは大方の人が認めるであろう。 り 果たしてこれは、当時の﹁大方の人が認める﹂ことのできた洞察であろうか。類似の経験を持たない精神に十分理解 可能なほど明白なものであろうか。トクヴィルとの交流を始めてわずか三年でこうした洞察にまで達していたミル は、むしろ特異な存在と言うべ き で あ ろ う 。 右の一節を書いてきたとき、もちろんミルは、トクヴィルの内的経験を直接に知る立場にはなかった。ミルは、ト クヴィルが一六歳のときに直面した深刻な懐疑の経験も、その後の法律家という職業選択に直面したときに生じた懐 疑の経験も知らなかったはずである。実際、両人の往復書簡では、その種の情報は全く語られていない。ミルの洞察 を可能にしたのは、﹁精神の危機﹂以後の思想的模索におけるミル自身の経験、すなわち、一八世紀の精神と一九世 紀の精神との間で引き裂かれ﹁交差するこれらの光の中で明晰に見ることができるようになる以前に、克服する手立 てを見出さなければならなかった、懐疑、困惑、不安﹂の経験に他ならなかった。出自においても幼少年期の環境や 教育においても全く異なっていたにもかかわらず、少なくともミルの側では、同種の精神的経験を共有しているとい う自覚があった。自分と同様、トクヴィルもまた、懐疑的で冷静な知性と熱誠の感情との不調和に苦しみながら、独 断を超えた広い視野から真に確信できるものを追究しているのだ、とミルは見ていた。そうであればこそ、ミルとし ては、あえて自らの﹁危機﹂経験をトクヴィルに告白する必要はなかったのではないか。これについてはたしかに推 測以上のものは語れない。しかし、少なくとも確実であるのは、トクヴィルの精神についてのこうした理解が、ミル の側においてはトクヴィルとの思想的交流を深いところで支えていた、ということである。 63 (3−4 ●151) 611 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 ︵1︶ 小山︵一九八Ol八三︶、︵一︶一一頁。 ︵2︶ キリスト教とりわけカトリシズムに対するトクヴィルの態度については、小山︵一九七七︶、小山︵一九八○︶、および松 本︵一九九一︶第二章を参照。 ︵3︶ こうした対照を実際に行なっているのが、ハンバーガー︵一九七六︶である。彼は次のように論じている。﹁美徳の源泉と しての宗教は、人々に遵守すべき規則を与え、政治的な規則の必要性を少なくし、自由を可能にする。従って、トクヴィル は、できることならば宗教的信仰を復活させることを欲した。これ以上にミルとの対照が大きいことがあろうか。ミルにとつ ては、宗教は、誤った感情と偽善との原因であった。宗教が権威をもっているために、無思慮を促進するし、またそれは迫害 と偏狭な態度の源泉であると考えられた。トクヴィルが助成しようと望んだことを、ミルは弱めようとした。宗教の同盟者と 考えることができる良心についても、同様であった。ミルにとっては、良心は、ピューリタン的であって、意志の自立に対す る障害であった。彼は、良心に入りこむ道徳的感情を宗教に由来するものと考えた。このように、良心は、文字通りに内在化 した規範一すなわち、実質的には外部的な制御であるとされた。これに反して、トクヴィルにとっては、自由は、規制のな いことではなく、自己規制を意味した。このことは、ある規則または規範に従うことを意味し、規範は、良心あるいは宗教に 由来する。これと対照的に、ミルの自己決定的な個人は、何等の外部的なものにも服従すべきではないとされた。﹂︵二二〇 頁︶ ︵4︶ 少年期のトクヴィルが経験した宗教的懐疑については、小山︵一九八○× =一〒二五頁、およびジャルダン︵一九八四︶、 七五−七八頁を参照。 ︵5︶ この傾向と啓蒙思想の宗教観との近似性を指摘したものとして、松本︵一九九一︶、一〇〇⊥○八頁を参照。 ︵6︶ ミルの考えでは、超自然的なものに対する理性的態度は信仰ではなく懐疑であり、そうした理性的懐疑が認めうる程度の 超自然的希望こそが、すなわち﹁人生において享受しうるすべてのものを負っている不可視の存在に協力してい.るかもしれな いのだ、という感情を与える﹂宗教こそが、従来の宗教に代わるべき未来の宗教であった。冨凶=︵一。。謹︶﹄。。。。。 ︵7︶ このような指摘はω凶。血①導8︵HOお︶℃嵩ωに見られる。 ︵8> 自差一一9︵お誤︶b刈卜。.・ミルが﹁精神の危機﹂について直接ないし間接に言及しているのは次の各書簡である。冒難8一〇ぎ ω冨﹃ぎoq讐ロ9>O計一。。NO]鴇Oミ讐一Nbρ冨良8↓ぎ§9。ωO費望ρP竃9。罰一。。ωω℃Oミ鴇一N=ω山糞竃芭8>信胆ωけ①Ooヨ5蜀 63 (3−4 ●152) 612 U①ρ藁。。軽蝉Oミ藁ραOO−㎝O一・後二者については、関口︵一九八九︶、二〇三−二〇四頁、一〇一頁をそれぞれ参照。 ︵ 9︶竃筥︵H。。。。。。鋤︶﹄09 ︵10︶ ]≦旨︵H◎。q。Q。鋤︶”&叩&O. ︵11︶ ミルはトクヴィルについてのこうした見方を、﹁アルフレッド・ヴィニーの著作﹂から二三年後の一八六一年に書かれた手 紙の一節において再確認している。これは、トクヴィルの没後、彼の未公刊の著作と書簡をボーモンが整理して公刊した際 に、ミルがボーモンに宛てて書いた手紙の一節である。﹁書簡にかんしては、現時点では公刊できないものでもかなりの部分 が、いずれ適切な時点で公刊される準備が完了していることを知り、嬉しく思っています。あなたがすでに公表できたもの は、それ自体としても大きな価値がありますし、彼の人柄を伝えているという点ではなおさらそうです。あれほど静穏な精神 が本性と気質によって静穏であったのでは全くなく、それとは正反対のタイプだったのであって、そのことが彼の人生の最大 の苦痛にすらなっていたということが理解されれば、思想家としてまた著述家として、現代の悲惨すべてに対して超然として あれほど冷静さと偏りのなさを維持することのできた人の知性と高い徳が持つ相貌について、何らかの考えが出てこないはず はありません。﹂︼≦筥80⊆ωβ<①α①切。①ロヨ。暮しρ︸鋤づ.”H。。①押Oミ︸嵩一旦㊤留口。O・ ︻参照文献一覧︼ ※括弧内の西暦は初出年を示す。なお、本文および註での引用における︹︺の中は、引用者による補註である。また、引用文 中の傍点は、原文において強調のためイタリックにされている部分に対応する。参照した邦訳書がある場合は該当頁を並記す るが、引用に際しては、訳語の統一をはかる等々の理由により必ずしも訳書に従わない場合もある。 ※ミルの著作は、トロント大学版﹃ミル著作集﹄Oミ§紺儀ミq曇ミ智ぎ⑦誉§こミ刷Nさd乱く9ω凶蔓鼠↓o噌。暮。牢Φωρ。。。。<o一9 HりO。。贈り曾によるものとする。註記に際してはOミと略記し、その後に巻数を示す。ミルとトクヴィルとの間の往復書簡は 前者の資料を§ミ§と略記して頁数を示し、ミルのトクヴィル宛書簡は、Oミおよび§ミ蕊恥の双方の頁数を示すことにする。 られており、またミルのトクヴィル宛書簡はOミにも収められている。註記に際しては、トクヴィルのミル宛書簡については ≧o×δα①↓ooρ二①<旨ρ9ミ愚。ミ§§鳴ム鑓§黎§◎§Oo§§F①αも町営℃●ζ昌①さO①霞ヨ翁。﹁98∋①≦★”H㊤鰹に収め 63 (3−4 .153) 613 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論説 =鋤鴇。ぎ労﹀.︵HO包︶り智隷謡9§蓋ミミ亀ミ駄さミミぎミミ§職、憲ミ昏隷骨亀ミ影身騨ミ§ミミ貸ミN.ミ㍉9・﹀¢αq島コ﹂ω竃● 函巴聲 , ン∵一一’ ハンバーガー、J・︵一九七六︶山下重一訳﹁ミルとトクヴィルの自由論﹂、J・M・ロブソン、M・レーン編﹃ミル記念論集﹄木 鐸社、一九七九年。 ジャルダン、アンドレ︵一九八四︶大津真作訳﹃トクヴィル伝﹄塗下社、一九九四年。 閑”げ曽P︾西口ψ︵HOOさ。︶サ︾喜&ら§職らト&恥§駐§㌦ミ鳥象§、“ミ翫ぎ職驚§、ぎ惹殊駄智ら。簿寒§隷ぎミひ丁香謡9§轟ミミ亀ミ翫 、缶葺§§&ミミ§”O駄oa¢巳︿①﹃臨蔓℃冨ωω● 松本礼二︵一九九一︶﹃トクヴィル研究lI家族・宗教・国家とデモクラシー﹄東京大学出版会。 言拷匂。げ昌ω言帥コ︵H。。き曽︶℃、、Oo5﹁達伽q㊦..噂Oミ藁ρH嵩山Oω.松本 了得﹃ベンサムとコウルリッジ﹄みすず書房﹂一九九〇年。 ζ一拝一〇ぎω樽§ユ︵HQ。ω◎。げ︶”、.切。暮79。ヨ..りOミ”Hρ胡山一α●松本啓訳﹃ベンサムとコウルリッジ﹄みすず書房、一九九〇年。 竃已しOゲ昌ωε鋤詳︵一◎。ωo。”︶”、.≦ゴ梓ぎσqωoh︾二巴巴9<凶ぴq昌く..讐OミボドaωふO一● 三号、九九⊥二五頁、︵下︶同四号、九九−一二二頁、一九八三−四年。 ζ≡﹂oぎωけ轟ユ︵一◎◎ω刈︶鳩、.︾コ5きαO帥護。一..”OミbρHO刈−b。蜀山下重一訳﹁アルマン・カレル﹂、︵上︶﹃国学院法学﹄第二一巻第 作集︵三︶﹄御茶の水書房、一九八○年、一七九−二二一二頁。 寓一一剛﹂oぎω梓§コ︵H。。ωOげ︶”、、Ω<高直自8..噂Oミ”一。。レ旨−届N●山下重一訳﹁文明論﹂、杉原四郎・山下重一編﹃J・Sこミル初期著 寓竃し。げ500εp。詳︵HQ◎GQの9︶℃、、ω鼠90楠Qりooδ蔓貯﹀ヨ①ユ8..噛OミボHo。噂日山嵩・ 頁。 リカ民主主義論、・1﹂、杉原四郎・山下重一編﹃J・S・ミル初期著作集︵三︶﹄御茶の水書房、一九八○年、一一一⊥七八 ζ一拝一95ω仲§ユ︵μQ◎ω㎝げ︶”、.Uo↓ooρ器︿葭oo巳︶oヨoo冨。鴇ぎ﹀ヨ。ユ8[昌..”Oミ”一。。︾ミ占O・山下重一訳﹁トクヴィル氏のアメ ζ≡﹂oげ昌ωε9二︵HQ◎ω切四︶”、、閑僧二〇昌巴ooh国。胃①給三⇔け凶。昌、.℃Oミし◎。﹄守&● ζ鋤斗ω芦じd歪8︵μO§噛誉§湧§駄智§9§ミミ§壽ミミ§犠留ミ§§ミ謡§§ミΩミミ§bd鼠。bd。o評ω・ ξΩ8﹃oqoい9。≦8go9。&函.,竃昌。び①らξ一・,三塁9閃筈臼鋤巳守げ。♂図りα。。・ 竃臼。矯oJO9。霞ヨp。a翼。ヨΦ<★★●次の英訳も参照した。冒ミ§§貯鼠ミ§駄§駄ミミ§概9訴§§§BミミN壁重言巴讐①α ]≦口器﹁﹂・勺・︵HOα◎。︶噂霧Qミ﹄鑓智尉ミ斜さ§爵留営馬ミ︾寒”﹀一〇×圃ω9↓08ロ①<已P§q§GQ§§拝討.B﹃一・憎・ 63 (3−4 ●154) 614 式目拝︸oび口ωε四博︵H。。おげγ、.O①↓06ρ二①︿圃一一〇〇コ∪①§oo︻碧︽貯﹀∋臼ド鋤[昌..堕Gミ藁。。℃届ω−b。O劇・山下重一訳﹃アメリカの民主主 義﹄未来社、一九六二年。 竃一一一し。ぎω叶§冨︵一。。お①︶鳩..ピoaじuδ二αq冨ヨ鋤aヌαΦ日oB器く一一一①、、︵ミ貸ミ一嘗9こミ§bO勾㊦げ‘H。。参。。︶鴇Gミb倉。。自−。。置. ζ凶一一こ。ぎω窪蝉詳︵一。。おげ︶導﹄留討§ミト鼠貸Oミ︾甲。。・大関将一訳﹃論理学体系︵1︶一︵V︶﹄春秋社、一九四九−五九年。 十一=こ。ぎω什§耳︵一Q。㎝㊤︶鴇Oミト導恥§Oミし。。bお−ω一〇.早坂忠訳﹃自由円﹄、中央公論社﹃世界の名著.三八﹄所収、一九六七 年。 ζ一戸冒巨曽§暮︵一Q◎①H︶導9§鴇§§§蕊§謁§蕊。・§ミ職ミ9ミミミ§魯Oミ矯一P。。コー零S山下重一訳﹃代議政治学﹄︵抄訳︶、 中央公論社﹃世界の名著・三八﹄所収、一九六七年。水田洋・田中浩訳﹃代議制統治論﹄、河出書房﹃世界の大思想11・六﹄所 収、一九六七年。 ζ一一一し。げづωεp。二︵一。。①悼γ.、O①算鑓一凶ω讐δ口..︾Gミゼ一P零㊤よ一ω● 竃固一一し9口ωεβ。冨︵一。。①α︶”︾鑓器尉Oo§欝§戴き。・ミq勘§MOミしρ卜。①H山Φ。。.村井久二訳﹃コントと実証主義﹄木鐸社、一九七八 年。 竃凶=し。ぎQりθ§答︵一。。認︶一ムミミミ鵡§ミOミ”一層一−卜。09朱牟田夏雄訳﹃ミル自伝﹄岩波文庫、一九六〇年。 ]≦帥一一し。ゴコωε①暮︵一Q◎謹︶噂§ミ“穿の§§沁災耐軌§bOミーしρω①㊤よ◎。O. ζ巳一①き一.乏・︵一80︶”冒壽§9§こミミ§織寒§瀞§o薦壽、噛d易く臼ω律︽o︷≡ぎ。一ω牢Φ沼● 中谷 猛︵一九八一︶﹃フランス市民社会の政治思想﹄法律文化社。 小川晃一︵一九七五︶﹃トクヴィルの政治思想﹄木鐸社。 小山 勉︵一九七七︶﹁トックヴィルにおける自由と宗教−一八四学年以後の政教諸問題を手がかりに﹂、﹃思想﹄一九七七年一 一月号、一七⊥二三頁。 小山 勉︵一九八○︶﹁初期トックヴィルの知的形成とその同時代的背景−一八〇五年から一八三一年まで﹂、﹃法政理論﹄︵新 潟大学︶第一二巻第三号、一⊥〇五頁。 小山 勉︵一九八OI八三︶﹁トックヴィルの自由精神の政治学−比較文明的視座からのデモクラシーの批判と形成原理﹂、﹃法 政理論﹄︵新潟大学︶、︵一︶第一三巻第二号、一⊥〇四頁、︵二︶第=二巻第三号、二八三−三二三頁、︵三︶第一五巻第一号、 七一⊥七四頁、︵四︶第一四巻第三号、一−一〇二頁、︵五︶第一五巻第二号、九五−二〇〇頁。 63 (3−4 。155) 615 往復書簡を中心に(関口) ミルとトクヴィルの思想的交流 論.説 小山 勉︵一九九六︶﹁トクヴィルの比較宗教社会論Iーイスラムとインドを中心に辰柏.小山.松富編﹃近代政治思想の諸相﹄ 御茶の水書房、一.五七⊥七六頁。 勺碧冨℃国・ρ︵H8軽︶︾.、ζ旨鋤民↓8εΦ︿筥。..℃智ミ§ミ駄ミ恥三音心駄§曽く。ピN㎝”ぎ﹄b嵩−Nω餅 関口正司︵一九八九︶﹃自由と陶冶1−J・S・ミルとマス・デモクラシー﹄みすず書房。 ωΦ謀αq琴9ζ器ρω三︵お㊤ら︶矯.5ユω86屋ユ6ζσ。邑一馨..噂募智藁ミ豊§§s誉歩く。ピ同。。Bo・9。。卜。甲。。・。①● 山下重一︵一九七六︶﹃J・Sこミルの政治思想﹄木鐸社。 山下重一︵一八七一︶﹃J・S・ミルの思想形成﹄小峯書店。 年。 下クヴィル、アレクシス・ド︵一八四〇︶岩永健吉郎・松本礼二訳﹃アメリカにおけるデモクラシー﹄︵抄訳︶研究社、一九七二 名著・三三﹄所収、一九七〇年。 トクヴィ.ル、アレクシス・ド︵一八三五︶岩永健吉郎訳﹃アメリカにおけるデモクラシーについて﹄︵抄訳︶、中央公論社﹃世界の 田中治男︵一九七〇︶﹃フランス自由主義の生成と展開﹄東京大学出版会。 窪ミ§O×8a¢三く巽忽蔓軍。器矯目ωO山謹. ωδ窪98宰ピ二男︵一〇刈O︶導,,↓≦o=9﹁巴↓﹃9。急賦8ω..導≧雪幻く雲。昌︵巴.︶℃§鳴§駄ぎQ§§、審§ミきミミ黛欝皆魯 63 (3−4 ・156) 616