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ミルの政治思想における「市民」

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ミルの政治思想における「市民」
6
9
〈
公募論文〉
ミルの政治思想における 「市民 」
はじめに
、
、
「
参加 」 をめぐる問題
これまであま
焦点が当
り
てられてこなかったが
、
ミルの考
に多加することを求めている。こうした「多加」に凶する税点
は
、
これら著作の間で
、
ミルの市民社会及び
える意味での 「自・聞な社会」の実現にとって不可欠なものであ
ると思われる。ただ
、
「円山 論』の随所に凡られる
市民が参加することに対する態度は然なっているようにも見え
、
、
個人が市民とし
、
、
それによって何
ミルが「参加」、つまり 「市民が
、
がもたらされると考えたのか そして参加の擁趨と危世保理と
多 加すること 」 をどのような也みとして考え
加を擁護する主張に注目し
そこで本稿では、ミルの政治及び社会に関する 言説の中で多
、
のは、「多数者の専制」の議論にはじまる どちらかと 言 うと、
、
政治的な文脈の中で
市民がそれを行使するという形で、そうした決定に積極的
、
。
参加に対する悲観 的、否定的な態度である
、
、
限の下で
し
て公的決定の場で意比を表明することのできる白山として批判悦
る 。ミルはその自由を
すなわち公的生活における自由を強調してい
できる。それに対し 「
代議制統治論」 (以下『統治 論』)でミル
は 社会の領域
個人は、いわば主権者と し て自由にふるまうことが
示し 、例人 の自由を擁護したことは 川知である。つまり、生前
ミル (以下ミル )が危害保理を従
4封
る。 『
統治 論』 において、白 山 な社会の尖現にと って市民の @
・
直
及び行為を例人の領域と社会の州削減とに区別、
し個人に のみ抗
・s
本
加が欠かせないと主似する反面
j
樫
綾かかわる郁柄においては 、他 人に危官を及ぼさないという制
『
自 由 論 」 の中で
と
の凶係といった、ミルの多加の議論が抱えるいくつかの問川
胞に
ついて考えたい。
市民の参加
、
、
、
社会に対
ミルは 『自
と有 っ
さて、公共的な職務を引き受けるにせよ、公的決定にかかわ
るにせよ、ミルは市民が史際に 多 加することが叩一ましいと考え
て いる。な.せか。その型山としてまずあげられるの多
が加
、の
、
と官
って
、
もつ「保護的」後能にある。ミルは『統治総 」 で「各人は 彼
自身の栴刺と利益の唯 一の守護者である 」〈見。83
。
によって保護される (ないがしろにされるのを防ぐ )というので
また、ミルがこの機能よりも重視するのが、多加のもつ「教
ある
とりわけ市民の知的部分に対してよ りも 道徳的部
、
分に対して与えられる利益である。
育的」機能
し て「相互の利益を佼告 し な
、
ミルが市民をそうした滋務を担うだけ
そうではない。 「
統治
、
それらの義務について 「
彼が 多 加し、また、
、
(刃の土-
)
公然と印決議を明え自ら活発に変
、
一方で義務の問題として 、他 方で
公的文脈における自巾) の問題として理解することができ
(
、
。
そして、彼は、
彼自・北のものではない諸利益
、
って滋かれること、また共通将を
:::自らを公共の
。
、
と感じるよ
一人と感じるよ
また彼らの利益はなんでも自分の 利 義だ
うにされる (刃u
( tN 括弧内補足は引川者による〉
うに
られる
存在理由とする以理や以則をつねに適川することを 求め
佑品以ではない鋭則によ
を秤北すること、同制
AT
う主強がある場合には彼の私 的 な依
はそれに従事している時に
ることによって与えられる教訓の道徳的な部分である。彼
私人としての市民がまれにではあっても公的職務に多加す
知的部分に対してだけではなく 〕 なお 一問有益なことは、
〔
一定の義務 (行為政則 〉を採すと
由論 」 の中で、社会の中で生活しているという事実が、各人に
する賀任ないし義務という問題が生じる。例えば
いう営みは、それらが他人とのかかわりを含む以上
し 白・身の力
存在に注目する。市民が政治あるいは公的な事柄に参加すると いる。つまり、あらゆる人の利益は、自らが多加
ハ1)
ミルの「多加」に対する立泌を理解するためにまず市民の
る
いこと」と「社会あるいはその成員を危害や妨害から護るため
、
に必要な労働と犠牲の分担を引き受けること」の二つをあげて
いる (
O「ミS。ただ
、
の存在と し てみなしていたかというと
論』 の小でミルは
も しそれ らが思いと思えば
。
意見を表明する
、
つまり 、市民には自らに引附される磁務をはじめとする、
更に努力することが、彼にまかされている」
て いる
白 山 があると
自由
のみかかわる問題ではなく
古 うのである。以上から 、市 民の 参 加は、例人に
自 他 の利誌にかかわる公的な決定に多加し
2V
<
70
公 務 3白 文
ミルの政治!忍泡!における「 1fil~」と r~JJn 」をめぐる 1::1rn
JI
、
トクヴィル同様
、
公的参加を「公
そうした多加が知性や感怖を陶治し、
き 山 されるのか。これに対しミルは「感情を養うのは行為であ
、
品世・加を通して 市 民が変わるということであっ
、
とひとまず 官 えるであろう。
参 加 に対する二つの態度
われわれは「市民の多加」に対するミルの評価、 ある
、
その考え
)一
と答えている。つまりミルにとって重姿なのは、
る」 (刃の品。
、
この引川に続けてミルは
、
た
だが
り、
共精神の学校」に喰え
、
の該にあるのは
市民がまずは突際に参加してみるということであ
。
引 m 中 の「私人としての市民」とは 当時社
私利を離れた「公共への同一化という非利己的な感情」を促進
すると議論する
、
、
ミルはそうした人びとの状態を「あらゆる重要な尖際
会的にも政治的にも力を持ち始めたイギリスの下肘中産階級で
あるが
的問題について、情報もなく利告関心のないまま」 2200)
、
もしくは私的労働に従事し 私的利害に縛られた思考と感情の
いは質奨をそのまま受け入れてしまっていいのだろうか。〉-
枠組みから紋け出せていない と考えている。それゆえ、アテ
N与白 白
『
統治論
目 血印は
、
ナイの市民裁判・げや市民会議などの的行を例に 彼らに公的義
「
自由論 』 におけるそれとの間にある緊張関係を 問題 とし、ミ
、
。例えば 『白
一
、
、
全体としてそこに
、
経演的
民衆に対する悲観的な空気である。ミルの見
、
政治的には民主主義の進展
の藍延、さらには私的な利古追求にのみ没頭する人びとの姿で
、
には商業文明の発燥に伴う 阪応主義の高まりと受動的な 性格
た当時のイギリス社会は
漂っているのは
して感情の時制といった訴が随所に比られ
」 における民 主 主義 的な 参 加 の議論と
務を裂すことが必要であり、それをこなす 中で市 民が「他人と
、
協同で何かを行うこと」 「他人 や社会の利ん昔、他 人と共有する
ルが公的多加のもつ恩恋についてしばしば懐疑的であった 、と
、
指摘している。確かに 『
自由論』を読むと、多数者、世論、そ
、
とは考え ていないようである
そうした義務を市民が遂行しないからといって則強制し
ミルの努作を凡
、
義務への服従
がこの教育機能から引きだそうとしているのは
、
、
警について考えること」を学ぶと考えたのである。ただ ミル
ても
。
ではなく市民の’日発性や杭縦性である
尖際
なければならない
、
山論」で 教育を念頭に位きつつ「強制によるだけでなく帥
一唯
引
を飽かせ説得することによって」 (O「S3 と言うように
、
自ら
人が大衆の 中に埋 没 し無意滋になっていくこと
、
さらには人間
方的に義務を諜すというよりは 、社会の側では相執務を義務とし あった。そしてミルはそうした 人びとによる専制によって
、例
て要求しつつ、市民各人がその談務を理解し 、引 き受け
絶えず
、
の本性が弱められ消滅させられてしまうというこ
とを
危供していた。ミルは こうした事 態について次のように 言 って
、
公共精神を陶冶する
そういうプロセスに期待して い るように
思える。では、そのような自発性や積極性はどのようにして引
72
公務総文
いる。
し
、
つけようとする人 川
支配者としてであれ、同胞市民とし てであれ 自分の意見
や好みを 他 人に行為の鋭則として 押
いわば参 加の
A人として
がかなり否定的な態度を示していることは確かである。一方に
集団としての市民 ハ
大衆〉 の多加があり、他方で例
の市民の参加の議論がある。ミルは前者に対して否定
的 な態度
を、後者に対して楽観的な態度を示している。こうした態度の
、
、
、
また民 主主畿
と
ミルに mm
せられると
そのことが同時に多数者
。
の意志となることがありうるのである この点につ い てミルは
等」(刃の主∞) として考えているが
、
、
、
、
まさにその現状
あるいは彼らが急速にそうなれる人間のために作られな
、
ミルは民衆による統治としての民主主義を「すべての市民の平
いう 言葉 のもつ多義性かつ峻昧性に帰せられるのかも し れない。
いうよりも、民 主主義そのものの もつ雨磁性
まず、この多 加 に対する態度の違いは
の性 向は、人間本性に付随するある績の放も 普 い感情とれ取 違 いをどのように理解すればいいのだろうか。
。
(
orMM3
をなくする以外、どんな手段によってもこれを 抑 制するこ
も思い岬恐怖によって、強力に支えられているために、縦力
、
、
市民が政治や公的な事柄にかかわる
とはほとんどできそうにない
こうした傾 向 の増大は
ようになり、社会の 中 でカをもつようになった
トクグイルに闘する著作の魯評の中で、諸条件 の平等が平等の
という彼の指
自 由 ではなく平等の隷従を生み出す危険がある
、
政治機構が「普通の
、
そしてこの後者の意味で ミルは現状の社
、
弊他国と考えられる。ミルがとりわけ容戒しているのは
そうし
摘に同意している
、
円 1V
われわれにまだ残されており
、
。
人類の将来の福祉は
ことにかか って いる」とも 言っ ている
は
、
その
制のよくとれた民 主主磁と統制の思い民主主畿と の巡択の余地
ければならない 」 完の会包と 言っ ており、先の日時計でも「統
めに
人びとによ って」(刃のミS また「現校あるとおりの人川のた
中でミルは
『統治論』の
。
し て
た順応が、単に世間や集団の鋭範に対する受動的な黙認と
会に対して否定的な態度をとっている。だが
他人
ミル
、
ではなく、それらに対する不同誌や相違を抑圧する欲求として
、
「他人にかわっ
、
いる。例えば
働くことにある。また、同様の考えは「 無誤謬 性の仮定」に関
、
から務制度が作り上げられなければならないともミルは考えて
し て確信することではなく
する官放にも現れている。「然保諺性の仮定」とはある学説
を絶対的 なものと
、
ターつ
タ
古 い分をきく
ッ
て問題の決定を引き受け、彼らには反対の立場の
リ
・強訓は似文イ
ことを併さぬことである」 (OFM2
まり、 即
興なる意見を受け入れず議論を閉じること、また
を支配する欲求として働くということが問題なのである。ミル
し て
主主義の 桜深い傾向とみなしてい
のことをふまえただけでも、市民の参 加に対
はこうした不見容を当時の民
る 。こ
ミノレの政治.'l\氾!における「iii !~」と「~lilリをめぐる i::1rn
7
3
こうした言及から考えると
、
耐性かにミルは現状の社会の中
、
に多数存在する参加の弊告を憂慮している。また現状の社会を
、
ミルは 「
統治論』 二章 で「すぐれた統治形態の基準」
仕組み
まず
について論じている 。ミルが統 治形態や諸制度 について考える
、
いる人びととミルの考える市民像とが大きく呉なるた
、
形作って
際
、
こ とである。ミルが
積 極 的 に多
その製本にあるのは それらが「人 間 によってなされる行
し た人びとに対する評側が参加に対する抑制の違い と
・
知
り、 また統治や政治 的 新 制 度に
道徳 的
その共同社会の諸構成員の 「
加を呼びかける型 向 もここにあ
、
、
、
、
また人びとの資質 が泊要な意味をも ってくる
それらが作られたものである限り、良くも悪くにも
、
ミルが考えているように 社会 (制度 〉が人 川
い うこと」 (刃のω旬。
) が第 一の問題
種々の望ましい資質を、それらの
制度がどれだ
、
為からなる 」 完の包 D) という
活動的な
・
、
また思くなる可能性を減らすために
、
う
、
何が不可欠である
。義 務として要求した 参加の形態が
」〈OEωCとい
『自巾 論』における「人は、自 分の浜り
言及が参考になるだろ
う
を討論と経験とによって改めることができる
この点につ い ては
と考えて いるのだろうか。
めに
なるはずである。では、ミルはこの望ましい資質を促進するた
としても
によって 作 られ
となる。ただ
け促進する傾 向 にあるかと
的
ついて考える際に
社会を改持
、
、
市民の
そうした粁通の
つまり公的な 決定にかかわり
、
そう
め
、
して現れているように μ える。しかしながら
人びとこそが社会
していく必要性を強調していることを考慮す るならば
。
つの動 機づ け
参加につ いて、ミルが態度を変えているわけではないと恩われ
る
、
「参加」に対するミルの評側は明らかに
参 加に 対する
ここまでの議論で
、
、
ミルは 何 を念頭に世
て身 につけ
公共料神を身につけた 市民
また 、そ うした多加を「学校」に
なった。ミルによれば 、市民 が史際に政治あるいは公的な悦刷
に多 加 することが担ましく
愉えたことからも 明 らかな よ うに
、
を想定している。では 、ミル はそれをど のよう に し
させよう とし たのだろうか。またその時
何であれ、ミルが市民に期待したのは、単にその義務に服従す
、
いて参加という事柄を考えているのだろうか。この点を考える
ることではなく 、向 ら考え
、
川
依拠もなく
意見合主削減することである。ただ、
にあたり「仕組み」と「-M己陶治」という二つの側而から考え
ミルによれば 人は諜りを犯さな いわけではなく
、
る。
性を仮定することになって
、
し まう。それゆえ
、
ミルは 参 加の中
自らの主張を絶対視するならば それはミルが 批判し た無誤謬
き、相手の立場を想像する習慣を身につけることによって 利
、
、
公共持についてよく考え 公共的な動機から
、
修正すること、
で 市民が自’北の意見の根拠をすすんで吟し味
己的な考えや感情から抜け出すことができる、と考えている。
、
また受け入れられている立見に対し て疑いを表 明 することがで
こうした習引は
山 な討論が必要だと考えてい
いわれうるすべての反対意見を
、
うに
市民
、
自己の行動を滋く明日慣と能力がなければ「自由な政体
お互いを結びつけるような目的に
う よ
行動することと い った、ミルが怠加によって市民に身につけさ
、
、
な吟味に附すような、そう
し た白
きなければならない、と考えている。つまり向らの意見を的
公
彼に対して
、
自分自身
では
それらは「白山で聞かれた討論」が保証され、それによ
、
そ
う
。
した制度や自由で 闘 かれた討論のような他人との
って支えられなければならないのである
、
つけさせるために公的な義務や多加の制度が必要であると考え
の運営も維持不可能である」 35030ミルは公共料神を身に
よって
せようとした公共精神とも結びつく。ミルが言
、
が公共的な 動 機から行動し
、
と問
るのである。では、ミルはそうした他人とのかかわりにどのよ
、
どのようにして信額に足るものとなるのか
うな教育効果をみたのだろうか。この点についてミルは、ある
いかけ
人の判断が
次のように答えて い る。
、
からである
彼が 彼の窓口比や行為への批判にいつでも心を聞いていた たが
、
人がある問題の全体を知ることにいくらかでも近づ
、
いて
、
、
しばしば
ミルは別の箇所で「あらゆる意比のもつ党派 的 になる傾
向 は、自由な討論によって矯正されるものではなく
ち
、
陶 冶
それだけでは不完全である。公共精神を
、
先述の制度的側而によって 市民が公的な関心をも
、
社会全般の 利 益を時 E するのに必要な知的道徳 的 資質を身
ミルは
自己
に自己陶冶という側而が考えられなければならないと思われる。
、
それによって強められ悪 化 させられるものである」ハO 「83
、
、
ているように
と言っ
、
市民が自ら
と彼がは惣じてきたからである
、
あらゆる多様な意見の持ち主たちによってそ
の問題についていわれうることをすべて聞き あらゆる性
、
きうるのは
によってのみなのだ
どのようにして 似 づかせるのかにつ いては制度的 な側 而とは別
また
る点を説 明 することを、彼の習慣としてきたからである。
に対してまた必要な時には他人にも、その誤りの誤っていかかわりがあれば、公共和神は般づくのだろうか。この点につ
傾隙 し、 その正当な部分すべてから利益を得て
5
V
<
格の制神によって比られうるすべての け
品方を研究すること
〈
OFNωNV
このようにミルは他人との白山 な討論を過 して
相手の窓口比を間
の意見の綴胞を確実なものとするだけでなく
2
74
公務諭文
iJレの政治足l:世!における「llil~ 」と「~}Jn」をめぐる 1::1姐
15
、
「もし意志するならば 自分自身の性格を形成することができ
、
、
この意志は何から生じるのか。ミルは 内的な経験か
と言 うのである。
につけていくというのとは別に その中で市民が自ら公共新神
、
を身につけた存在へと自己陶冶していくという側而を重視して
では
・強調は版文イタリ ッ F)
る」 (ω「笠 0
換言すると、ミルは公共精神を陶冶する義務
ら生じる性格形成を促す願望や感的からだと説明する
。
352 1 つまり、劣等な精神の持ち主が
いると忠われる
を市民が自ら担うことを要求している。ミルが白山 な社会にと
、
優秀な人物と接触
って不可欠であると考えた公共 梢神の核にあるのは 「公共への
、
そうした願望を桜拠とし、われわ
れが望むならば、自分自身の性格を修正できるという感的 (道
、
と陶治しようとするように
することによって、現状の性絡に中山術をは舷じ、よりよい性絡へ
こ の人聞が非利己的な動後から行為する性格を自分自身
、
そうした感情から行為す
同 一化という非利己的な感情」 だが
。
る存従へと自ら陶治するという問題は 性絡形成の問題とも品川
なる
、
ウェン
主義 が展開した環境決
すべての人間の欲求や行為は性格やそれ
l
青年時代のミルにとって大きな
川胞で あった。当
、
、
、
人川が附栄性に拘束されながらも、
例えば 「
統治論 」 における「 学校は
、
学生と
る性格へと自己陶冶しうる存在であるという確信を得たと 言 え
白らの性約から行為する 主 体へ、そして盟ましいと臼らが考え
である。こうしてミルは
ハ7V
で形成でき、その形成過程に主体的にかかわりうるかどうかと 徳的自由の感情〉 すなわち性格形成の意志をもっと主張するの
いうことは
、
時、ミルが問題にしたのは、オ
定論である。それは
、
、
、
共に教師も前提としているのであり、その授業が有効かどうか
に先行する環境によって決定されるので人聞は為すことに対し る。この確信は
て賀任をもつことはできず 主 体的にかかわることもできない
、
、
多加による市民の変化に期待をよせて いる。ただ、
は、それが劣等な新神を優秀な新神と接触させるかどうかに
、
、
と行う。こうした主般に対しミルは 「論理学体系 』 の小で
大いに依存する」 (見。自由) という 言 及にも現れている。つま
、
行為と環境 の因果関係を認め つつも 環境決定論者が必然性
りミルは
その必然性は、
そのような感受性が働くことを無条件に期待してよいかどうか
、
つまり行為や性絡が環境によって決定されるという際の必然性
その自己陶治が社会にとってよりよい方 向 (
公共新神を
という諮を誤解して いると反 論する。つまり
、
それゆえミルは、先述の公的義務を伴う仕組みゃ他人と
ついて考えるならば
、
そうした制度的側面があるにせよ、ミル
、
のかかわりも視野に入れているのである。蒋度 ミルの多加に
だが
身につける方向 ) に陶冶するという保証があるかは疑問である。
、
また
、
、
人聞の性絡は「彼の相靴底
〈:::〉 によ
そこに人間の関与を認めないというもので
単なる「継起の斉一性」であり 、決して「抵抗不可能性」を意
味するのではなく
はない。ミルによれば
。それゆえ
」
って形成され 」、その「彼自身の欲求も、それらの環境の一つ
であり、その影響は決して最小のものではない
ミルは参加を「精神的道徳
的卓越を行使するためのアリーナの
強調は原文イタリック)と言い、処例によって強要されてよい
が市民の自己の内面的な完成を重視していることは確かであるに
。強要してよいと思わないものを義務とは呼ばない」(Cベω怠
ければ何らかの処刑を受けるということになるのだろうか。ミ
、
。
すなわち「完全な拘束力をもっ義務」
、
ルは義務の説明の少し後で 適切な表現ではないと断りを入れ
つつも、二種類の滋務
と「不完全な拘束力をもっ磁務」とを区別している〈
C→ど3
けでなく 、反約的で、利他 的 な態度を身につけていると汚える。 前者はご人またはそれ以上の人川にその義務と対応する総利
、
川中に理想の市
例として慈汚や恩恵などを単げている。ただミルにとって
、
後
の機会はわれわれの白山な選択にまかされている」義拙初であり
後者は「行為そのものは拘束的であるが、それを行ういちいち
だが、そのように優れた、ある意味、・有徳な人聞になることを をもたせるような義務」(
強調は以文イタリッ FUである。また、
くエリート主義であるという批判がなされるが
求めたミルの参加論に問題はないのだろうか。ミルに対してよ
、
厳械な意味において、義務とは言えない。確かに
、
者の義務は
さまざまな義務を課すことは、ミルが主張する危笹川郎
もそも
、
民似を押しつけているということになるのだろうか。またそ
、
れないが、他人の権利を門医科するとまでは官えず あくまでそ
、
そうした行為は他人とかかわり 何らかの影響を及ぼすかもし
これらの疑問に共通しているのは参加と義務との倒係、とり
理と対立しないのだろうか。
らである。ミルは『自由論』で、二つの義務の関係を「他人に
わけ多加において公的議務というよりは「公共和神を陶治する れをするかどうかの判断はその本人が下すものと考えているか
義務」及び「自己陶治の義務」を諜せられること、また、それ
らを担うよう求められることへの違和感であるだろう。この違 対する義務」と「自分自身に対する義務」という表現で次のよ
、
向分自身に対する義務と呼ばれているものはその場の状
和感ないし批判を考える前に、ミルがそもそも「義務」をどのうに説明している。
、
ように考えているのかについて見ておきたい。ミルは「功利主
義論』五誌で 義務とは「人に強要してよ いもの」であり「人
、
ると言える。では先の「自己陶治の義務」も、それを来たさな
、
道徳の領域に印刷する行為であ
干渉が正当化されるものであり
ということがその本質にあると古う。つまり義務とは、社会の
道徳的に
・
一つ」とみなし、そうした完成にむけた プ ロセスとして 多 加を
参加にかかわる二つの義務
>
かなり優れた人を念頭においており、市民はさまざまな能力だ
し て知的
捉えていると行える。
8
(
以七の議論をふまえると、ミルは市民と
四
76
公募論文
ミノレの政治思氾!における「 1li~J と「怠加」をめぐる t::J凶
77
、
、
同時にそれが他人に対する義務となるのでないかぎ が正か不正か、行為者自身の幸福のm大に役忠っかどうか 行
、
、
それが忠邸分別以上のものを意味する
るというのである。もし自己発展が例人にのみかかわる事柄で
社会的に義務的なものではない。自分自身に対する毅 為者自身の性格が高山以かどうかという三つの法制中から時計価され
況上
り
務ということばは
(
O「ミ3
。
、
、
、
、
、
、
それは「快
、
「笑」ないし
ミルの 「完全な
、
つまり白分向身に対する義務は、
し その影響が視野に入ることを考えると
の問題かというとそうでもない。ミルが強要してもよいと考え
完全に倒人の領減に収まるものではない。では「道徳」の部門
他人へのかかわりない
今問題となっている自己発展
ときには、白地あるいは円己発肢を意味する。そしてこれ あるならば「偵慮」という部門に入り「使立」が問題となるが、
るわけではない
らのどれについても、個人は
、彼 の同胞に対して立任があ
、
この総務に凶する議論を参加という山川胞に悦きかえる参
と
加には社会的な義務としての側而と白的、日己発以としての側 る義務は光全な拘束力をもっ義務、すなわち他人に対する義務
、
。
の自由な裁量に任される部分にかかわるもので
、
「
向貸さ」の点からも評価されることになる
道徳が人間の「外的行為の規制に関する」部分
中にも見られ
、
、
ミルにとって’ H己発様
而というこつがあることがわかる。義務が問題となる倣城 つ
つま
のみである。以ヒをふまえると
まり道徳の領域をこつに分けるという発想は「ベンサム論」のり自分自身に対する義務は
社会の領域に合ま れながらも個人
、
、
拘束力をもっ義務 」と「不完全な拘点力をもっ削減務」との別
区
ルは社会の領戚にかかわるような官官柄を、市民が完全な義務と
、
いうよりは自らの義務として引き受け また自ら行おうとする
、
能力を
、
、
多加によってもたらされると考えたものであった。
、
社会が強制するというよりは 他人とのかかわりの中
で 自由な選択によって身につけることに期待して いる。それ
、
はミルが「自由な社会」に不可欠と考えた公共和神の該をなす
、
人間の行為や仕事における「正しさ」、「便 能力であり
、
値原理である。それには「道徳」「供応 ・政策」、「審美」とい
、
宜」 「美」または「高貸さ」を問題とする。つまりある行為
う三部門があり
て示した「生活の技術〉 H
AO『亡 『
巾」を参照する35sago)。
「生活の伎術」とは行為や行為のあり方を評価する三つの側
、
このい却を考えるにあたり ミルが『論迎学体系』六巻におい
われわれはこの義務をどのように考えればよいのだろうか。
、
理解可能であるが 参加はあくまでも社会の傾城の川題である。 は こうした評仰の枠組みといくらか危なるものと円える。
すぐに
n 己発泌が 例人
感」だけでなく「審美」の部門にもまたがり
とミルは 叶uっている。ただ
、
と「自己教育 すなわち自ら自分の性情と意志とを訓練する」
、
の領域の問題であり 義務ではないということならば
部分とからなる
9
V
[
78
公務論文
参加をめぐるいくつかの問題
、
、
選挙、階・級品、地方自治へ
、
「
個
ミルが当時の社会 に対し藍邸して
その人自・身の性格が行為の鋭則になっている人のことを
。
、
道徳的
ミルは随所で活動的な性
いるのは 、性絡や個性の紫材となる欲求や衝動がそもそも生じ
性」をもっ人と呼んでいる
。
ま しさについて触れ、また知的
にくくなっているという事態である
、
。
資質と援んで活動的な資質を重視している なぜなら、そうし
。
こうしたミルの 主 磁とこれま
た性絡は 「
怠怖で無感覚な性絡よりも つねに 多 くの告をうみだ
これらは社会の鎖措棋の問題であり、 しうる」 (05 8 ) からである
って何ら特別なものではなく
、
、
誰もが手
民の問題は例性の発以の間組でもあり、そこで考えられている
また、「公共料利を陶冶する義務」に閲し
、
。
こうしたミルの主猿に問題がないわけではない。ミル
おわりに
ことにもならないと思われる
らば、ミルがある特定の理想的市民像を押しつけているという
行動の多様性」及び 「
性絡の多様性 」 であることを考慮するな
、
いう批判はあたらず また 『
自由論」の主要な論点が「・意見と
にしうるものと言える。それゆえ、ミルに対しエリート主義と
ミルにと
に問題は生じない
、
、
「
個性」は
、
。
個人の目的として理解されるもので
吉 える
それゆえ、社会の干渉が間姐にはならないと
、
そうした義務を引き受けるかどうかは あく
、
ても、政かに社会の領域にかかわる問題ではあるが、それを陶
。
為の以内にあたり、例々の行為に一定の方向づけを与える。性
(05E )
と古
っており
、
、性肺怖をもっ 」
他の人びとの伝統や償刊ではなく、
彼自身の欲求と衝動になっている人は
、
の可能性を
一方で例人の自由を硫保し、他方で他人とのかか
、
わりを通して また義務を謀すことによ って鍋り起こし、仲 ば
、
分自身の育成によって発展させられてきた本性のあらわれが、は 当時の社会に見られた専制傾向の中で埋もれた市民の陶治
、
物についてミルは「欲求と衝動が自分自身のものである人 自
ただ
という点に注目する。先に性絡形成について触れたが、人間の
行為における因来法則の修科を認めるミルにとって、性肺仰は行
が市民の自己陶冶を主張することで何を問題にしているのか
次に、ミルがエリート主義なのかという点については、ミル
ある
まで個人の裁量に任され
冶するかどうか
。
かつ自他の利害が問題となるので、社会の側で義務を秘すこと で検討してきた市民の問題と重ね合わせるならば 理想的な市
の多加などをあげているが
あろう。ミルは公的な滋務として
立しないのか、という点につ いては「しない」と終えてよいで
市民に対してさまざまな義務を献すことがミルの危出原理と対的粉 精力的な性物の盟
さて、あらためて前立であげた疑 問 について考えよう。まず
五
ミルの政治.'J.l氾!における 「 rliL\; J と 「~lJIリをめぐる l:ilt!i
79
分山 山
aM
河に対する義務としてm
附された
、
そうとした。そこには、参加によって市民が変わりうるという
、
ミルの椛れがある。ただ 、社会の仕組みゃ他人とのかかわりを
税野に入れたとしても
日己陶治が例人の政抗に任されている限り
、山川内が多加した後
、ルが期休刊するよう変わるかどうかは微妙である。それはあく
、
AK集 〈
門5
い.と炎 m山) から行い、トに
、
今後の課題としたい。
それで行為の動践として十分な
までも可能性にすぎないとパえそうである。ミルは「感情を後
うのは行為である」と ?Hうが
のかどうかという点については
ミルの引川はトロン ト 大 乍 版
・玄
す
。
、
沢 山 にあたり『白山論』『功利主義論」は中央公論社版 「代
な攻作は以下の略号と一
丸教により本文中に、論文等は脚注にて一
市
ぷ制統治必』は水川日仙、「畠刑法千体系』は大関ぷ
世間
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、
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ついて 詳しくは以下を多照。 な お 本稿の主題である「参
、
一部内絡が爪なっていることをあ
加」について考えるためには、その主体としての市民につい
てもバ及する必必 が あ り
らかじめ断っておく。
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ミルにおける市民の陶治と公的多加」(「待
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ミル研究」御茶の水川M 一九九二
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加」ではなく「例円」概念にあるとしている。
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(5〉 また、ミルは『統治詣』の中で次のようにべっている。
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のための新たな努
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信徒への正しい関心を促進するのである」(一
、
( 6〉 「精神の危俊」 またミルが抱いた現段決定諭への不安につ
いては 、三三-b ミbFS
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(8〉
〈7)性 絡形成、自己陶治の可能性については、先述の釧磁を
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