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わが国における海難と共同海横についての法制史的研究

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わが国における海難と共同海横についての法制史的研究
わが国における海難と共同海損についての法制史的研究
庄 野 隆
(高知医科大学政治学研究室)
A Legal and Historical Study of Sea Damage
and
General Average in Japan・
by Takashi
SYor、w
目 次
一.まえかき
二.わか国最古の海上法規
三.土佐藩の廻船大法(付秀吉の海路諸法度,長崎奉行の条々)
四.廻船大法における海難と共同海損
五.海難と共同海損に関する長崎奉行と犯科帳
1.長崎開港と長崎奉行 2.長崎奉行の判決と犯科帳
六.各国の古い海法と廻船大法との比較
七.むすび
−。まえがき
海の近くで育ったものは海をみているとなんとなく落着いた気持になるものである。とくに南国
土佐の海は青く,南国の空は碧いのである。幸いわたくしは少年期には南国といわれる九州長崎で
育ち,高年期には南国土佐の地で生活することができ,海とのえにしは終生つきないことであろ
う。海をみているとなんとなく自然に勇気が湧いてくるような気がするのは独りわたくしのみであ
ろうか。またこのような気持が過去の人々をかりたてて進取の気性を振いたたせて,海外に進出さ
せた原動力となったのではないであろうか。
このように日本人の多くの人々はなんらかの意味において海とのかかわりを持ち,往古において
は,物資の輸送は不便にして,峻険な陸路によるよりも,季節によっては波濤さかまくこともある
が,平穏で便利な海路を利用することを望み,そうしたことであろう。交通不便で輸送手段の貧弱
であった古代はいうに及ばず,中世,近世においても内海は勿論遠く大洋を隔てての大陸との交通
交易のみならず学問,文化の交流,宗教の伝来,思想の移入などはすべて海上船舶に負うところ甚
大であった。
さて,わたくしは個人的なことを肯ていわせてもらうならば,台北大学在学当時京都大学名誉教
授で,わが国海商法の権威者であられた鳥賀陽然良先生から海商法の講義を受け,非常な興味を覚
えたものである。先生に教わった先生の著書である海商法を最近読返えしてみると先生の当時の風
貌と音声が眼前に彷彿とするのである。また,たまたま偶然のことで昨秋土佐藩法制史の研究で有
名な篤学の士である法学博士吉永豊実氏と知り合い,土佐藩の廻船大法31ケ条の資料の提供を受け
るとともに有益なアドバイスを頂いたことは幸いであった。
土佐の地がわが国における海上法規発祥の地であり(土佐のみならず薩摩,兵庫などがあるが),
やや遅れて地中海世界において交通,貿易の拡大に伴って新らたな海港市が繁栄し,その中心か東
部地中海より西部地中海へと移るにしたがって,海上法規の成文化が要請されるようになり,ここ
にコンソラート・デル・マレー(Consolate
del Mare)が誕生したことは全く偶然のことといわな
2 高知大学学術研究報告 第27巻 社会科学
ければならない。しかも土佐藩の廻船大法もコンソラニト・デル・マレーも海上交通(取引)の慣
習を立法化したものであることに共通点を見出すのである。
さらに廻船大法の主要部分を構成している海難と共同海損に焦点をしぽって考察するならば,こ
の廻船大法の立法趣旨というか,精神がその後わが国の封建時代の諸藩にどのような形で伝播し,
採用され,それか現実にどのような形で適用されてきたかを知ることは甚だ興味があり関心を持つ
事柄であった。しかし全国の多くの藩について検討することは困難であるから,特殊ではあるが江
戸時代における海外貿易の唯一の門戸であり,異国船が相次いで出入する貿易港であり,キリシタ
ンと深いかかわりを持っていた長崎(幕府の直轄地としての天領であった)をとりあげ,当時繁栄
した開港市である長崎においてこの廻船大法の精神がどのようlな形で残り,どのように適用された
かを考察することが目的の一つであり大きな関心事であった。
ニ。わが国最古の海上法規
廻船大法はわが国で初めての成文海上(船舶)法規であり,公海法,私海法が混合したものであ
るが,全体的にみると私海法の領域に属するものということかできるであろう。
廻船大法は貞応2年(1223)
3月16日,’その当時海上商人の間に存していた海上の慣習を基礎と
して,編纂したものであって,実にわか国でもっとも古い海上法規であるということができるので
ある。そして,その内容はほとんど現今の海上法規の大部分を網羅し,船主,船舶,船員,運送,
海難救助に関するものは勿論,船舶の衝突,共同海損などに関しても規定を設け,その実質におい
ては現代の海上法規とほとんど変りかないといっても過言ではないであろう。
廻船大法は,前述のようにわか国における最古の海上法規であるとともに,またわか国において
固有の発達を遂げたものである。すなわち,ヨーロッパや中国その他の国々よりなんらの影響を受
けたものではなくして,海上運送の発達に伴い,自然にわが国において育成されたものである。そ
してこの海上法規は鎌倉時代の初期から徳川時代の末期にいたる長い時代に亘って,わが国の海上
船舶の往来する各地において,現実に法的効力をもち,一般の海上関係者(商人)間に遵守されて
きたものである。
廻船大法の内容的特色というべきものは,一方において契約自由の原則を認め,広く当事者間の
特約と自由の範囲を認めるとともに,他方において条理解釈や類推解釈の余地を与え,法に弾力性
とその実効性を企図した点にあるということができるであろう。これらのことがこの廻船大法を長
期間に亘り実際に遵守させてきた大きな理由であろう。
このように廻船大法が,わが国の海運史のうえできわめて重要な地位を占めているものであった
ことに鑑み,以下その内容を検討すると
1.名称。
廻船大法はそれぞれの時代,ところによって,船法儀,諸廻船条々,廻船作法轡,廻船法度書,
海上船法掟書という文字を使用しているのである。しかし明治以後の著書にはどれも廻船式目とい
う文字を使用してるが全く同一内容のものである。式とは法式であって,目とは条目である。した
がって武家の法規の意義に解すべきものである。しかし,これらの船法度は武家の法条ではなく,
幕府みずからの制令の及ぶ範囲に公布したものでもないのであって,ただ,当時の海上関係者(商
人)間に存在していた廻船作法官に認可を与えたに過ぎないのである。いずれの名称を用いるもそ
の実質的な内容にはほとんど変わりかないのである(!11)。
2.渕源
廻船大法はその奥書にあるように貞応2年3月16日後白河院の御代,土佐浦戸の篠原孫左衛門,
わか国における海難と共同海損についての法制史的研究(庄野)
兵庫の辻村新兵衛,薩摩房野津の飯田備前の3名が執権北条義時に鎌倉に召出されて海上船法をた
ずねられたとき,31ケ条の船法のことを申述べて定められたものとなっている(これについては異
説もあるようであるか)。
土佐に伝わる「土佐国彦簡集拾遺」にあるものは31ケ条,「高知県史要」(大正13年版)には30ケ
条,また,長宗我部元親が一宮神社に奉納した巻物は31ヶ条,大坪氏所蔵の41ヶ条,河内家軍日記
武家萬代記には26ヶ条などがあり,条文も同じものばかりではないのである。能島水軍流の兵書
「一葦要決」のなかにも海上法規のなかに前記の3名の名前が出ているのであって(・2),廻船大
法は三島水軍(海賊)でできた海法であるという説もある。
それではなぜ,執権北条義時が海上法規を制定するに際して,土佐,兵庫,薩摩の代表者を選ん
だのであろうか。この理由を明らかにする証拠となるべきものはないようである。推測されること
は瀬戸内海には海賊か出没する危険が多かったことと,大内氏が海上の実権を握り,関門海狭を抑
えていたために,紀伊,堺,兵庫などの商人は安全な太平洋を選び,浦戸,下田(中村の外港),
坊野津を中継地として,国内の取引のみならず明貿易を盛んに行ったのではないであろうかと考え
られるのである。
要するに廻船大法は海上交通により貨物,旅客運送,船舶の貸借,海難などについての長い間の
慣習を成文法化したものである。
(註1)海事史料叢書第1巻参照。
(註2)海事史料叢書第2巻参照。
三.土佐藩の廻船大法
廻船大法は土佐では藩政時代に一宮神社を改築するとき天井裏から長宗我部元親が奉納した巻物
がでてきたのであるが,野中兼山がこれを騰写して,高知城下種崎町に建物をたて,そこに保管さ
せ,庄屋にこれを護らせた記事かおり,兼山はこれを土佐藩の海上法規としたのである.そこで歴
史的に貴重な資料であるから土佐国庶簡集拾遺(高知県立図書館所蔵)31ケ条全文を掲げ,簡単に
語義の解釈を掲げ,参考に供するものである.
廻船大法(土佐国嗇集拾遺)
一.(第1条)寄船流船ハ其所々神社仏寺之可為造営事若其船二水主壱人二而も残於在之ハ可為其
者次第事
o寄船……難風にあい海岸に打ち寄せられた船
o造筥………廻船大法以外は修理となっている.
一.(第2条)湊掛り舟垢入荷物濡物ノヽ啼船頭可相渡為其帆別碇公事仕は雖為国主不可有違乱
o湊掛り舟……港に着いた舟
o帆別碇公事……帆別により碇泊税をかける
o不可有違乱……法に違いこれを乱してはならない
一.(第3条)掛舟多有之大風ならハ従其村加勢仕先風上成舟二加勢可仕事尤也如何にも風下之舟
綱碇文夫ニあると云共,風上之舟被流掛者諸々舟不可掛留若風上之舟己と綱切風下の
舟二流掛二般共損ならハ,風下之舟より風上之舟二可有存分事
o可有存分事……損害賠償すべきである
ー,(第4条)走舟之時風下之舟二乗掛突割たる時,風上之舟二壱人成共為損舟より為乗移ハ風上
之舟可為越度事
・越度……落度,あやまち
一,(第5条)本舟枝船之時枝舟之荷物捨而本舟無恙時は,本船二配当有間敷事故ハ親之罪ハ子ニ
ろ
4
高知大学学術研究報告 第27巻 社会科学
-
掛子之罪ハ親二掛事無之故也但最前枝舟本船校合之時互二乗衆約速之上を以可有沙汰
事
・本舟……本船
o枝船……本船につきしたがう小船
o本船二配当有間敷事……本船には共同海損として,その損害を分担させるべきでは
ない
一,(第6条)醇水主請取後於流中ハ船頭手前へ弁出可中事,但流候を撰申者有之は請銭百文之礼
二而穿愁吟味有間敷事
・解(ハシケ)……荷物や人を運ぶ小舟のこと
o水主……jゝなこ,船員
一,(第フ条)船分盗或ハ海賊二被執は北国之者船西国之船者雖有北国二其舟買取不可廻船候事,
若荷物積廻船於仕は舟主見合次第二此舟可取也船頭も可為迷惑事かわらに付たる沙汰
縦雖親子之間ふかくたるべき事
oかわらに付たる……瓦に氏名を焼きつけた船鑑札
・ふかく……元親の巻物は沙汰となる
一,(第8条)借し舟仕其舟損候とも借手不可弁事,但舟床不済無分別所を押而出船仕其船損たる
時は借手可弁事,但可為最前之約速事
・舟床不済……虫が食わないように舟底を焼いていないこ,と
・約速……約束
一,(第9条)借り船仕請取後湊之内或ハ出入之時舟痛候ハ多少よらず借手より作事仕可戻事,但
過分二損候ハハ,可為配当事
o借手より作事仕可戻事……借主から修理してもどすべきである
o可為配当事……損害を分担すべきである
一,(第10条)イ昔舟仕其船虫喰たる時は借り手可為緩事,但舟附於有之ハ借手之気遣二及不中,恒
之理所借り手於油断ハ弁可中事
o舟附於有之……船主の代理人として監督者が乗っているときは
一,(第11条)揖柱為損時は借手可弁事借請候時栂柱疵有由船頭江断たる時ハ不可弁事
一,(第12条)綱剪したる時は不及弁事,但取はっし落たらハ可弁又碇為落ハ可弁事
o剪したる……切れたこと
一,(第13条)諸道具舟請取候註文二引合可渡事,湊にて乗衆水主不案内之所船頭進出船を出し
て,若其船気遣之時ハ諸道具共船頭請気遣不可過之事
o請取候……受取ること
o乗衆水主不案内之所……乗員や船員か不案内であるときは
一,(第14条)大風二逢大波大雨湊之内二而垢なとニ荷物為濡時ハ船頭可弁事,但沖にて大風二逢
大浪為濡物ノヽ弁儀不可有之事湊之内二而垢なとに為濡物ハ船頭可弁事
一,(第15条)不寄大小二於船中鼠切たる物有之は配当可掛事
o配当可掛事……損害を分担してかけること,すなわち共同海損の意`
一,(第16条)船中二而荷物過分為捨時ハ水主之私も配当可掛也掛時ハ水主之手前ハ可鵡事
o水主之私……船員個人にも
o掛時……高知県史要では「少之時」となっている,少いときのこと
o瑚(のぞく)……除外する意
一,(第17条)荷物捨たる時は其船二茂配当可掛,故ハ荷物捨たるゆへに舟助時は配当可入事
一,(第18条)荷を積合之時其荷を捨行先二而も配当有時は先之荷物之売直二可配当事
わか国における海難と共同海損についての法制史的研究(庄野) 5
o先之荷物之売直……行先地の積荷の販売価格
一、(第19条)荷を積行所江も不行乗戻配当有時ハ在所之買値を引合可配当事
o積行所……荷物を運ぶ目的地
一、(第20条)荷を捨行所にも不行跡叫も不戻中辺二而配当仕時は其所之買直可為事
o跡にも……後にも
o中辺……途中の港の意
一、(第21条)船二荷を積船頭積日記を以不渡物ハ縦金銀為捨と言共惣し配当不可入事
o不渡物……言己載していない物
`一、(第22条)積日記船頭渡時何茂可有加判事、日記二残たる物ノヽ聊も配当不可入事、但船中黙損
之上を以為残時ハ積日記二不入云共配当二可入事為捨時ハ曽不可入事
一、(第23条)船を借りて戻荷にも運賃を取たる時ノヽ3ケ1ノ‘ヽ舟主可為進退事但舟賃請時戻荷迄も
可積と理時ハ3ケ1茂不及事
o可為進退事……やるべきである
o理時/^
ことわったときは
一、(第24条)舟を借り船頭行先二而公事有之舟を留たる時ハ船頭可弁事
o公事……訴訟をおこすこと
一、(第25条)船を損さして命を資たる時ノヽ縦其内壱人ハ金銀を雖為手倅惣中より不可有違乱事
o雖為手倅……もっていても
o不可有違乱事……これを侵すことはできない
一、(第26条)米を積重物又ハ軽物積合たる時荷を捨候二若軽物積たる荷主我か軽物為捨ハ米之配
当不可掛周惇重物為米積荷主船頭水主彼重物を捨時は勿論配当可入事、軽物為損ハ重
物米を不捨して我か軽物為捨時ハ何も内二包て唐物と言も不知候間沙汰有之事
−、(第27条)荷を積或ハ湊掛船火を為出時ハ沖にて舟大風二為損と同可沙汰事但火を出したる時
ハ可為越度事
・舟大風二為損と同……船が沖で大風とあって損害を受けたときと同じく不可抗力で
あるとの意
−、(第28条)舟を居へたる時為焼割時ハ借り船頭可弁事
o居へたる時………住居として住んでいるとき
一、(第29条)舟二荷を積而水主取逃為仕時ハ船頭可弁事、但水主捕江荷主江為渡時ハ縦取逃之物
逐電たり共船頭不及弁事
o取逃之物逐電たり共……取逃した者が逃亡しても
一、(第30条)船を借りかり手相違候は、舟賃約速之品々相渡其時ハ右之舟上下仕戻間程舟を居
ル、但船頭内談二而少々之礼物を以相済候ノゝノヘ右之舟何方へ成共可指遺事
o右之舟上下仕戻間程舟を居ル……右の船が目的地に行き、帰港するまでの間船を他
に使用できない
一、(第31条)舟を借し候てかし手より相違候/'^/'^其舟程成をかり替相渡へく候其時は我舟請取可
申事
o其舟程成をかり替….・・契約の船と同じ船を借り替えて
右31ヶ条之儀貞応弐年壬未3月16日、兵庫辻村新兵衛、土佐浦戸篠原孫左衛門、薩摩戻野津飯田
備前天下江被召出船法御尋之時則御批判被成候、理を曲法有共法曲理不可有之候、此31ヶ条之外に
も舟之沙汰於有之ハ31ケ条引合理ヲ以可有沙汰者也右之条々従先規相定事二候之間自今以後廻船大
法此旨を以可相守者也
o法曲理不可有之候……法を曲げる理はあるべきでない
6
高知大学学術研究報告 第27巻 社会科学
o舟之沙汰於有之ノゝ¨‥‥船舶の問題か生じたときは
o理ヲ以可有沙汰者也……この理を基本として類推解釈すべきである
o従先規……前例(慣習)にしたがって
貞応弐年3月16日
〔参 考〕 。,
豊臣秀吉は廻船大法を簡潔にし,19ヶ条として海路諸法度を定め,その遵守の沙汰を出してい
る。
1.海路諸法度 天正20年(1592)
一,(第1条)借船仕候時船主船頭可為約束次第事 ’
一,(第2条)船を借り候時沖山不知と定候て借候時は沖にても湊にても又は其借船頭陸宿にても
不届儀を仕出その船とられ候とも船主可為損事,但沖山存知候はんと約束仕候はその
船そこね候とも又は陸にて申分候て船とられ候とも借船頭可為辨事
右の船約束候時書物次第にて可有之事
一,(第3条)船を借り約束仕かたく轡物致し候て,借主より返替候に於ては右の船頭上下候間其
所に留置船賃取可申事,但船頭より返替仕候は右の船ほどなるを借り替渡可申事,但
両方談合にて相済候上の申合有之間敷事
一,(第4条)荷物積沖合にて大風大雨などに荷物ぬれ候共船頭越度にては有之間敷事,但湊の内
にて風も不吹候に水を入濡らし又は雨などに油断して濡らし候に於いては船頭弁可事
一,(第5条)いづれの湊浦々に船かかり候時一番にかかりたる船先とも綱にて候間跡より参懸候
船は右にかかり候船にかまはざるように可致事,但風吹右の船あたり合さきにかかり
たる船そこない候は後に風上にかかりたる船を乗かへ可申事,但二般共にそこね候時
は風上の船頭に存分有之といえども隣の類火可為同前事
一,(第6条)沖を走船の時風上なる船かぢを廻はし風下なる船に当候て風下の船をそこない候は
風上の船に梶つかをも乗可申事,但風上の船に金銀をつみ,並絲綿などつみ風下の船
には薪,材木などのようなものを積候時はそこね申船荷物ともに辨候て済可申事,
附,風上の船風下の船にあてながら風上の船はそこない候とも風下の船は存間敷事
一,(第7条)川の内にて上り船下船の時は下り船よりよけ候て上船にかまはざるように可仕事,
但上り船に下り船あたり上船そこなひ候は下り船の者可為越度事,下船そこね候とも
其船頭可為損事
一,(第8条)船を借候時船主より人を附候ときむしくらい候とも借船頭不存事,但船付を不付候
時島にくらはせそこなひ候は其借船頭可為辨事
一,(第9条)大風の節船中にて荷をうち残る荷物有之時船荷物にかけ配当可為事
一,(第10条)湊にてもいつれの浦にても大風の時船かかり候に綱不切候を其船かけとめ候に船繋
ぎながら沈み荷物捨たり候事候共縦絲綿捨たる船は助かり候とも不及配当事,其故は
綱碇丈夫に持候てつなぎとめ候上は船頭の如在にては有闇敷事
一,(第11条)船を盗候て先々へ売り候を見付候は其盗人行末不知と云共右の船主へ渡可申事,船
は木かはらに付中ものにて候間売手不知と云ふとも無違乱船主へ渡請取可申事
一,(第12条)運賃にて荷物積候とき奉行不付は荷物沖合にて大風に捨候か又は湊にかかり候時船
損ひ荷物も捨たり候は其所御紛人荘屋としより浦切手とり参候ときは船荷物残候にか
かり配当可為事
右の浦切手不取奉行も不附荷物を捨候と中共船頭可為越度事
一,(第13条)運賃に積候荷物水衆の者盗走候時は其船頭辨可申事,但盗たる者尋出荷主へ渡し候
わか国における海難と共同海損についての法制史的研究(庄野) 7・
時は縦金銀取候て其行末なく候とも船頭在如くにてはあるまじき事
−、(第14条)荷物積合の時船頭其外朋輩にも隠し候て積日記の外に積候荷物大風に荷物捨候とも
配当には入申候、又荷物捨り候時残る荷物改候時注文にはつれたる荷物有之は配当に
かかり可申事
一、(第15条)借船をたて候時焼割り候は其借主辨可申事
一、(第16条)船より火を出し荷物共に焼割候時は大風に船荷物共に捨てたると可為同前事
一、(第17条)流れ船候を取留置候時は其船主改来次第に少の酒手を取り候て渡可申事
一、(第18条)大風に船かかり候時綱碇丈夫に有し船大風こし候とて荷主綱をきらせうち上せ船は
損ね荷物は助り候ときは其荷主より船をわきまへ可申事、但積荷候荷物により配当に
も可成事
一、(第19条)定めざる借船仕候とき其船損ひ候は借手よりわきまへ右の船程なるを可返事
右船法之条々者朝鮮国為退治渡海之吻海陸往来之無恙事為思食人給集旧記就中無恙捨曲路有益拾
直道以備後代之明鏡厳守此旨宜沙汰者也
天正20年正月27日 御朱印
諸国船手 懸中
廻船大法がこのほかにも徳川時代において古法として実際に使用されていたことは,阿波国海部
郡浅川村池内亀太郎氏所蔵,同家伝来の廻船式目二巻(廻船之定船法用事)と松江の廻船式目(舟
法度)によつても明らかであるoなお廻船式目という名称は徳川時代廻船大法を伝写した人が附加
したものであつて,本来の性質からいえぱ船法とか,廻船作法書と名づくべきものである(海事史
料叢書第I7巻p.1∼p.6診照)o
また廻船大法がその後どのような姿で影響を与えていたかを立証する証左として江戸時代海外貿
易の唯―の門戸であつた長崎において奉行が海上取締法規としてどのような条々を出していたかを
知ることは有意義であると思われるので,ここに条々を掲げるとつぎの如くであるo
2.長崎奉行 条々 延宝8年(I68o)
一、(第I条)公儀之船ハ申におよぱず,諸くわいせん難風にあふ時ハ,たすけ船ヲ出し,舶破損
せざる様に成ほと情に入るへき事
o成ほと……できる限り
8 高知大学学術研究報告 第27巻 社会科学
立てる意
一,(第4条)湊にながなが船を掛置ともがらあらば,其子細を所えもの相たづね,日より次第そ
うそう出船いたすへし,其の上難波せしめば,何方の船と承とどめ,其浦の地頭代官
へきっと申たっすへき事
o船を掛置ともがら……船を撃いで置<者共
・難波せしめば……言を左右にして出船を渋るようであれば
oきっと申したっすへき事……必ず届出よ
一,(第5条)御城米まわる刻,船具水主ふそく船に積べからす,ならび二日和よきせっ,破船せ
しむるニおゐてyヽ,船ぬし沖のセんどう曲事たるへし,惣而りふじんの儀申掛,また
は私曲あらは申出へし,たとひ同類とも,其とかをゆるし御ほうびくださるべし,且
又あたもなささる様,仰付らるへき事
o御城米まわる刻……公儀の御用米を回漕の時
きざみ
oふそく船……船具や船員が定数より不足している船
o曲事……罪科である
o惣而りふじん……そうじて理不当(無理難題)
oあた……仇,遺恨,仕返えし
一,(第6条)自然より船弁荷物なかれきたるにおゐてハ,あけ置くへし,半年過迄荷ぬしなきに
おゐてハ,あげ置ともがら是をとるへし,もし右の日数すぎ,荷物ぬしたづね来たる
とも返すべからず,しかれとも其所の地頭代官のさしっをうくべき事
・より船……遭難して岸に吹寄せられた船
oあげ置ともから……陸揚げした者達
一,(第7条)博突そうして掛セうぶ,蒲かたく停止たるべき事
o掛けせうぶ……カヽけ勝負,賭けごと
右之条々此むねを相まもるへし,もし悪事仕るにおゐてハ申出へし,急度御ほうひ下さるへし,
とか人ハ罪の軽重にしたかひ,御さたあるへきもの也
延宝8年8月 日奉行
四,廻船大法における海難と共同海損
土佐藩の廻船大法は非常に進歩的な法であって,既に述べたように私法上の契約自由の原則を重
じ,封建時代でありながら当事者の特約を重じたきわめて合理的な法であり,船舶の衝突について
は,帆船時代の廻船大法のように風波による影響よりも船員の過失を重視し,過失の軽重がつけ難
いときは船舶所有者に責任を分担させることを定めているところに特色が見受けられるのである。
廻船大法のなかから海難と共同海損についてのHの条文を抽出して,これらの関係を詳細に検討す
ることは有意義と思われるから以下に条文の解釈をするとつぎの通りである。
一,(第5条)本舟枝船之時枝舟之荷物捨而本舟無恙時は,本船二配当有間敷事故ハ親之罪ハ子二
掛子之罪ハ親二掛事無之故也但最前枝舟本船校合之時互二乗衆約速之上を以可有沙汰
事
「本船と本船につきしたがう小船とかあって,小船の荷物を投捨て本船が無事のとき
は,本船には共同海損としてその損害を分担させるべきではない。その理由は親の罪
は子にかけ,子の罪は親にかけぬとの道義にもとづくものである。但し,前もって乗
員が約束したことがあればそれに従う」
わか国における海難と共同海損についての法制史的研究(庄野) 9
一,(第14条)大風二逢大波大雨湊之内二而垢なとニ荷物為濡時ハ船頭可弁事,但沖にて大風二逢
大波為濡物ハ弁儀不可有之事湊之内二而垢なとに為濡物ハ船頭可弁事
「大風に逢い大波,大雨のため港内で垢(海水か浸水したもの)などで濡れたときは
船頭の単独海損となる。但し沖合で大風,大波のために濡れたときは共同海損となり
船頭が弁償する責任はない」
一,(第15条)不寄大小二於船中鼠切たる物有之は配当可掛事
「大小にかかわらず船中で鼠の害を受けたときは共同海損として取扱う」
一,(第16条)船中二而荷物過分為捨時ハ水主之私も配当可掛也掛時ハ水主之手前ハ可馮事
「註」高知県史要では「掛時」が「少之時」となっている。
「海難に逢い,人命や船を助けるために投荷をするときは共同海損として取扱われる
が,投捨てなくてもよいものを過分に捨てた・ときは船員の責任であり,個人も賠償す
べきである,投捨たものか少いときは賠償をしなくてもよい」
一,(第17条)荷物捨たる時は其船二茂配当可掛,故ハ荷物捨たるゆへに舟助時は配当可入事
「投荷したときは船が助かり危険から救われたので船主にも投荷による損害を負担さ
せるべきである」
一,(第18条)荷を積合え時其荷を捨行先二而も配当有時は先之荷物之売直二可配当事
「海難のため投荷して損害の分担をきめるときは行先地の積荷の価格をその算定の価
額とすること」
一,(第19条)荷を積行所江も不行乗戻配当有時ハ在所之売値を引合可配当事
「目的地にも行けず船出した港に帰れば共同海損の額はその地の売値としてきめるこ
と」
一,(第20条)荷を捨行所にも不行跡にも不戻中辺二而配当仕時は其所之買直可為事
「投荷して目的地にも行けず出帆港にも帰れず途中の港で清算するときはその地の売
値で計算すること」
一,(第21条)船二荷を積船頭積日記を以不渡物ハ縦金銀為捨と言共惣し配当不可入事
「船に荷物を積み,船頭がその荷物を積日記に記入していない品物は,たとえ金銀を
投荷してもすべて損害を賠償しないこと」
一,(第22条)積日記船頭渡時何茂可有加判事,日記二残たる物ハ聊も配当不可人事,但船中鮎損
之上を以為残時ハ積日記二不入云共配当二可入事為捨時ハ曽不可入事
「積日記を船頭に渡すときはなにもそれを証明するものを必要としないこと,積日記
に記載していないものは,少しも損害の配当に入るべきではない,すなわち共同海損
の対象には入るべきでないこと,但し船中を貼検(黙損は黙検の誤りではなかろう
か)したときに積日記になくて残っているものは積日記になくても損害の配当に入る
べきである,すなわち共同海損の対象となるべきこと,積日記になくすでに投捨てて
いるときは損害賠償すべきである,すなわち,共同海損に入るべきでないこと」
一,(第26条)米を積重物又バ軽物積合たる時荷を捨候二若軽物積たる荷主我か軽物為捨ハ米之配
当不可掛周惇重物為米積荷主船頭水主彼重物を捨時は勿論配当可人事,軽物為損ハ重
物米を不捨して我か軽物為捨時ハ何も内二包して唐物と言も不知候間沙汰可有之事
「米(重物とは当時は米の意)と唐物(軽物とは高価なる唐物の意)とを積み合わせ
ているとき投荷した場合に,若しも唐物を積んだ荷主自身が唐物を投荷したときはそ
の損害を米の荷主に分担させることはできない,あわてて重物である米の積荷主,船
頭,船員がみづから米を投捨てたときは当然損害の分担をさすべきであること,重物
高知大学学術研究報告 第27巻 社会科学
10
である米を投捨てないで,高価なる唐物を投捨てたときには,唐物であるといって
も,そのなかになにが包まれていたかは知らないので,訴訟をして決着をつけるべき
であること」
五。海難と共同海損に関する長崎奉行と犯科帳・
1.長崎開港と長崎奉行
長崎の港が開かれたのは元亀元年(1570)で,武田信玄と上杉謙信か川中島で戦った永録4年
(1561)から9年の後であり,織田信長が徳川家康とともに浅井長歌,朝倉義景を近江姉川で戦い
破った年である。全国がこのような戦乱の渦中にあうたさなかに長崎は,大船の出入できる良港と
してポルトガル人によって選ばれたのである。その頃長崎港一帯は漁民部落が点在する一寒村にし
か過ぎなかったのであるが,それがたちまちキリシタンの町としてクローズアップしたのである。
大村純忠は翌元亀2年,ここにそとうら町,大むら町,嶋ばら町,ひら戸町,ぷんち町,よこせう
ら町の6ケ町を作り,戸数400
,人ロ2,000に達したといわれている。
秀吉の時代になってから秀吉は,鍋島直茂を代官に任命したのであるが,文禄元年(1592)には
本博多町に長崎奉行所をおき,唐津城主寺沢志摩守広高を奉行に任命したのである。その後徳川家
康もこれを引きつぎ,慶長8年(1603)に譜代の小笠原一庵為守を奉行に任命し,明治政府が成立
し,最後の長崎奉行河津祐邦がイギリス船で江戸に逃亡するまで常置されたのである。(森永種夫
著長崎開港史)。
さて,鎖国にいたるまでの間,長崎奉行に与えられた重要な任務は,長崎の町を支配することで
はなく,幕府が長崎貿易を監視することであった。すなわち初期の長崎奉行は商務官的性格が強か
ったのであるが,鎖国後は直接に外国貿易に関与することはなくなり,長崎の治安の取締り,長崎
貿易の監督,キリシタンの取締り,外敵侵入の晋備などが重要な任務となったのである。とくに徳
川幕府になってからは奉行は一切の職務を遂行するに当っては,幕府の法令に準拠し,命令を遵守
したのである。重大な事件や重要事項についてはすべて幕府に伺いをたててその裁可や指示を仰
ぎ,独断を慎んだのである。 ●
2.長崎奉行の判決と犯科帳
長崎奉行か判決した記録は犯科帳として保存されているのであるが,犯科帳は寛文年間(1667)
より慶応末年C1867)にいたる実に200年余の長きにわたる長崎奉行所の全判決記録であり,全巻
145冊を数える・尨大なものである。この記録を元長崎県立図書館長森永種夫氏が年代区分によって
整理されたものが全11巻に及んでいる。そのなかから海難と共同海損それ自体あるいはそれと関連
の深い代表的事件を拾いあげ,当時の奉行が海上法規をどのように解釈し,適用したかを知るうえ
に大いに参考になると思われるから以下時代区分にしたがって判決を掲げてみよう。
天明8年(1788)一寛政元年(1789)
1.讃岐船頭,破船して,多丘tの煎海鼠,昆布をはね捨てた責任…船頭7日押込水主共急度叱
o煎海鼠…乾したなまこのこと
oはねすて…投荷をすること
讃州粟嶋 住神丸直乗船頭 徳 蔵
水主 忠蔵外14名
右之者共都而不依何品積請致渡海候はは大切相心得俵物之儀は別而入念可申之処自分買之荷物余
計二積合せ其上難船およひ候はは早速帆柱伐折いか様ニも撮方可有之処大勢乗組罷罷在畢竟働方未
熟二而多分之煎海鼠昆布はね候段疑敷不将之至二付船頭は押込申付水主共儀は急度叱置候
- 2.備前船頭大阪船に乗組み,難風に遣って大量の昆布をはね捨てる…船頭急度叱
わか国における海難と共同海損についての法制史的研究(庄野) 11
水生共叱
大阪阿波座堀岡崎町宝星丸沖船頭 善三郎
水主 彊兵衛外17名
右之者共儀都而不依何品積請致渡海候はは大切相心得御荷物之儀は別而入念難船之節はいか様ニ
ー
も働方有之処大勢乗組乍罷在多分之昆布はね捨候段畢竟働方未熟故と相聞不将二付船頭は急度叱水
一
主共儀は叱り置候
寛政元年(1789)
9月一寛政`2年(1790)
9月
3.長州船頭(大阪船)難船して多量の昆布をはね捨てる…船頭急度叱 水主叱
大阪安洽川上1丁目 伊勢丸船頭 長八 水主 幸七外13名
右之者共何品ニよらす積請渡海いたし候はは得と日和見定可乗出儀殊御用之品積受候上は別而入
----一
念難船之節はいか様ニも働方可有之処大勢乗組乍罷在多分之俵物昆布はね捨候段畢竟働方未熟故之
一
儀相聞不埓二付船頭は急度叱水主共儀は叱り置間以来可入念旨申付候
寛政2年(1790)10月一寛政3年4月
4.大阪船破船,御用銅,煎海鼠流失・‥船頭急度叱 水主 叱
大坂堀江桑名町 明神丸沖船頭 吉兵衛 水主 宇兵衛外6名
右之者共都而不依何品積請渡海致し候はは兼而心得も可有之儀殊御荷物之儀は別而大切相心得如
何様ニも凌方可有之処畢竟働方不行届及破船御用銅八百九拾斤余煎海鼠7千百弐拾三斤余海失致し
一
_ _
候段乗馴候身分二似合不埓二付船頭は急度叱水主共儀は叱り置候
一
寛政3年(1791)
9月一寛政4年(1792)
5月
5.雨津船難船して昆布をはね捨てる…船頭 昆布代半分弁償 水主 急度叱
掃州兎原郷御影 住栄丸沖船頭 辰 蔵 同栂取 善吉 同水主共
右之者共都而不依何品荷物積請致渡海候はは得と日和見定乗出可申儀殊御荷物之儀は別而入念難
船之節は如何様ニも働方可有之処大勢乍乗組多分之昆布はね捨日間懸候迪灘状をも不申請罷越上は
一
打荷之分不残償可申付処難船之様子相違相聞二付格別之宥恕を以はね捨候昆布高半分船頭江償申付
一
揖取水主共急度叱り置候
寛政5年(1793)
6月一同年9一月
6.筑前船頭(大阪船)難船して多量の昆布をはね捨てる…船頭 急度叱 揖取水主共 叱
大阪江之子嶋西町 順吉丸 船頭 栄作 同揖取 勘四郎 水主 助五郎外9入
右之者共何品ニよらす積受致渡海候は得と日和見定乗出し可申儀殊御荷之儀は別而大切二相心得
中ハ勿論内たりとも無油断働方可有之処大勢乗組乍罷在多分の昆布はね捨候段乗馳候身分に不似合
不埓二付船頭は急度叱揖取水主共儀ハ叱り置候
一
寛政7年(1795)
3月一寛政8年(1796)
8月
7ご平戸船頭筑前領で難風に遭い,御用銅をはね捨てる…過料10貫文
平戸頭田平浦 三稚丸 直乗船頭 権三郎 水主 与三右衛門外2名
其方共儀御用銅積受渡海致し候はは別而大切相心得得と日和見定出帆いたし離船之節はいか様二
も相働凌方可有之処筑前領沖にて難風二遭候迪多分之御用銅刎捨其上灘状又は証拠二可成書物も不
- 一
持渡一鉢不行届仕方乗馴候身分二不似合不埓之至二付過料銭拾貫文申付候
寛政10年(1798)
9月一寛政11年(1799)
9月
8.大阪から長崎へ行く安芸船,難船して多量の煎海鼠を腐らせる……船頭 煎海鼠の半量 弁償
水主共急度叱 ●●
芸州安芸郡矢野浦 神宮丸 直乗船頭元八 水主 徳兵衛外3名
右之者共大坂より当地江相廻候煎海鼠三拾七丸積請洋中二而及難船垢差込下積之分服疸浦方二而
12 高知大学学術研究報.告 ・第27巻 社会科学
千立候はは早速所役江申立見分請灘状取之可罷越処無其儀自倦二封印等解明其上煎海鼠斤高之内三
百拾八斤余は腐不用立四百九斤余は全相減灘状も不持越上は急度も可申付処難船無相違相聞二付格
一
別之宥恕を以全相減候煎海鼠半高船頭江償申付水主ともは急度叱り置候
文化10年(1813)
10月一文化11年9月
9.伊予船難船して御用銅流失…船頭 急度叱 水主 叱
予州西条大嶋浦 徳力丸直乗船頭 吉三郎 水主惣代 虎 蔵
右之者共都而何荷物二不限積受渡海いたし候節は大切二可心懸儀殊長崎御用銅之儀は別而入念難
船之節も働方二寄及亘紛紛程ニは相成間鋪処畢発僣方未熟故多分之銅海失いたし候段不埓二付急度
咎可申付処沈船二相成船滓等流失いたし候儀は相違無之二付宥恕を以船頭は急度叱り水主共儀ハ叱
- り置候
10.肥後船難船して御用の煎海鼠流失…船頭 急度叱 水主 叱
肥後国八代加子町 神力丸直乗船頭治右衛門 水主 忠兵衛外2名
右之者共都而何荷物二不限積請致候節は大切二可心懸儀殊長崎御用物之儀は別而入念難船之節も
いか様共働方可有之処既積荷之内多分之いりこ濡捨候上は畢竟働方未熟故之儀と相聞不埓二付船頭
一一
は急度叱り水主共儀ハ叱り置候
文政6年(1823)
9月一同7年(1824)
9月
11.大阪船難船して御用銅の一部を流し,煎海鼠,鱗鰭を汐濡にする…水主 叱
大阪薩摩堀 金吉丸 水主伊勢蔵外5名
右之者共都而何荷物二不限積請渡海いたし候節は大切二可心懸儀殊ニ長崎御用物之儀は別而入念
難船之節もいか様共働方可有之処既荷物之内銅海失之分斤数相減煎海鼠鱗鰭は斤高不相減候共汐濡
一 一 ニ相成候段働方未熟故儀不埓二付叱り置候
一一
天保9年(1838)
10月一同11年(1840)
2月
12.大阪船面高沖で難風に遣い,他船に衝突して沈没し,御用銅俵物を流失…入牢
大阪安治川南壱丁目綿屋伊右衛船沖船頭 芳 助
右之もの長崎廻し御用銅俵物檜板軽荷物積入渡海いたす節肥前国面高浦沖二而風雨強く浪高二而
垢水入二付水主とも働汲揚ルなれとも深更およひ面高浦より牛ケ首迄之洋中二漂ひ居ル内下り船と
相見乗走参り誼之方江当船損より垢水入沈船二相成段長崎御用物之儀は別而入念水主之内病死乗組
不足いたすならハ代り雇入日和を見定渡海可致処無其儀破船およふ段必竟乗組人数不足働方未塾故
既二沈船相成御用銅俵物等海失およふ始末不埓二付急度叱り置可申処数日入牢二付咎之不及沙汰
- 一
安政3年(1856)
10月一同5年(1858)
10月
13.讃岐船,長崎廻りの御用俵物を積み,羽州沖で難波し,多量の俵物を流失…船頭 急度叱 水
主 叱
京極佐渡守領分讃岐国粟嶋永寿丸直乗船頭 善兵衛 揖取与吉 水主体蔵外8名・
右之もの共長崎廻り御用俵物積入渡海いたし候節羽州沖合にて逢難風俵物之内刎捨又は濡損欠減
-相立候段海上乗馴候身分二而得と且和も不見定出帆いたし候故右肺之次第二至候始末一同不埓二付
一
善兵衛急度叱与吉外八入叱
六。各国の古い海法と廻船大法との比較
1.ロード海法(Jus
navale Rhodiorum)
東部地中海中海域を領域とする海法の時代の初期に出現した海法であり,これには諸説があるよ
うであるが,紀元前300年頃の法であろうと思われるのであふ。
エジプト(Egypt)が水法面においては最初の出現者であるが,ついでセム系のフェニキア
わか国における海難と共同海損にっいての法制史的研究(庄野) 15
(Phoenicia)が,間もなくこの領域における覇権を握って数世紀聞活躍しているのである。フェニ
キアの諸都市のなかでもティルス(Tyrus)やシドン(Sidon)が知られているのであるが,カル
タゴ(Carthago)も,はじめフェニキアの港市として発足しているのである。 やがてギリシアが
海上交通の競争者として登場し,とくにアレクサンドリア(Alexandria)やロード島(RhodoS
Island)が有名になったのである。しかし,これらの海上に雄飛した諸民族の活動については,と
くに法的記録はなく,伝承によるだけであって,その伝承によると,「投荷に関するロード法」
(lex Rhodia
de Iactu)かおる。私法の発達していたローマも,ギリシアの海法を共和制末期以
降継受したものであって,ユスティニアヌス法(Justinianus
Law)のなかにロード海法における
投荷制度を規定しているのである。それによると海難に際し,投荷や帆柱を切り,錨を切りすてる
ことを共同海損とするのである。船主や船員の責任や船舶内における窃盗についての定めは廻船大
法と共通しているのであるが,錨を切り帆柱を倒すことは廻船大法にはないのである。またロード
海法はローマ法に継受され,船の衝突,難船,船長(船員)の義務を定めていることも廻船大法と
似ているのである。
2,コンソラート・デル・マーレ(Consolate
del mare)
この海法は13世紀の後半,多分1270年頃編纂されたもので,わが廻船大法より少し遅れてできた
成文法であるが,古代法はロード法中心というべきものであったのに対して,この時代の舞台は,
次第に西進し,ヴェネチア(Venezia)
,ジェノア(Genoa)
,ピザ(Pisa)など,海港市が繁栄
し,イタリアを中心とする傾向をみていたのであるが,さらに西進して,マルセイユ(Marseilles),
すなわちフランス方面に,バルセロナ(Barcellona)
,すなわちスペイン地域に,中心か移り,代
表的な海法コソソラート・デル・マーレが編纂されたのである。これはスペインの諸港市間に行わ
れた海上の慣習を成文化したものであって,全14編252章からなり,海上の慣習は勿論,学説,判
例などが集大成されたものである。そのなかで船長や船舶の利害関係人の権利義務,とくに共同海
損などの規定は廻船大法と同じようである。
3.オレロン海法(droit
d’014ron)
西部地中海における海港市の発展と同時に,すでに大西洋岸にも海上交通が頻繁に行われたため
に乱八ルゼナの背後に当るビスケー湾(Bay
of Biscay)のオレ゜ン島(I.
d'Ol^ron この局は χ
14世紀後半,すなわち1370年フランス領となるまでイギリス領であった)方面には,オレロン海法
の成立がみとめられたのである。この海法の成立はほとんどコンソラート・デル・マーレと同時期
頃フランス人によって編纂されたようであるが,これについては異論がある。この海法はフランス
のみならず,イング・ランドやノーマ,ンの商人間で用いられ,オレロン法の発達は,イギリス海法の
発達を促進したのである。これは第1部24条,第2部2条,第3部8条,第4部20条の計54ケ条か
らなっているのである。 また,これは同地の裁判所の判決を収録した判例法として成立したもの
であって,オレロン判決(Jugements
d’016ron)の名称があるとともに,オレロソ巻物R6les
d'
OI4ron)とも呼ばれたのである。
共同海損としての投荷,その他海難に関し,また船舶の衝突による損害賠償に関する事項につい
ては廻船大法と同じような規定がみられるのである。海難に際して帆柱を切り倒したり,錨を切る
ことなどは,ロード法,ローマ法の継受とみられるものが多いようである。
4.ヴィスビー海法(Water
ハンザ同盟(the
recht von Visby)
Hanseatic League)の成立は,北ヨーロッパとくにバールティック海(Baltic
Sea)および北海(North
Sea)を中心として,すなわちドイツ方面に海の交通,貿易を促し,ヴ
ィスビー海法やハソザ船舶条例を生み出したのである。 この海法はゴットランド(Gotland)島
のヴィスピー港市が成立したから,「商人および船主がヴィスビーで作った水法」(Waterrecht
de
14 高知大学学術’研i究報告 第27巻 社会科学
Kooplude en de schippers gemakt
hebben
to Visby)という名称か与えられたのである。この海
法は全文66ケ条からなり,主な部分の成立時期は1240年頃といわれている。 その後約3世紀の間
ハンザ諸都市で立法が引き続いて行われこの海法は「ノヽンザ都市船舶条例」(the
Shipping Regulations)と名づけられ,
のである。
Hansastic City
1614年のものは,15章130節からなる尨大なものとなった
船舶,積荷の危険を救うための共同海損,海難救助などは海船大法と類似点が多く,わが国の現
行海商法と一致する部分か多く見受けられる。
5.ルイ海法(Louis
Ordonnance
de la marine)
従来は特定の枠のなかで自己の法を作り出し,その法によって裁判を行ってきたところのさまざ
まな司法権(教会,諸侯,都市,商人ギルドなど)がすべて,国家主権のもとにおかれ,中央集権
化される気運か強くなり,普通法の名で知られる近代ローマ法と教会法と海法の三法系は法の国民
化の潮流のなかにおいて強く激しく揺がされたのである。その結果海法のうちでもフランス海事条
例は,ルイ14世(1643―1715)のとき有名な宰相コルベール(Colbert)の献策により,法典の形式
を備えるオルドナンス(Ordonnance)
,すなわち国王の立法権にもとづいて制定された全国的に
適用される統一法が作られたのである。これをルイ海法という。こめ海法は1681年に制定されたも
のであって,公法,私法,国際法の規定を含み,そのなかで私法はほとんどナポレオン商法(droit
Commercial
de la Napoleon)に継受されているのである。また現行フランス商法典(1807)にお
ける海商規定(第2編Du
Commerce
Maritime)は,この海事条例を継承したものである。
共同海損の規定,海難救助などわが廻船大法と共通する規定が多く見受けられるのである。
6.ヨーク・アントワープ規則(York-Antwerp
Rules)
19世紀は,その前半において汽船の発明があり,その後の海上交通に画期的な進歩をもたらした
のである。海運面では,世界化か要請されるようになり,法もまた各国個別の法を打破して世界
的に統一された海法をつくることか要請されるようになったのである。 その結果,ブリュッセル
(Brussels)に1897年国際海法会(Comit6
(International Law
Maritime International)が設立され,また国際法協会
Association)はロンドン(London)に1864年以来基礎をもち,海法および海
法学の発達に寄与したのである。とくに,たとえば前者によるヨーク・アントワープ規則は共同海
損に関する規則であって,すでに国際普通慣習法としての地位を取得し,他面,後者により船荷証
券統一条約案(1923)が作成され,次第に諸国か加入したのでその実効性をあげているのである。
要するにこの規則は共同海損に関する・国際規則であって,条約ではなく各国の学者や実務家か集
まり,英国主義と大陸主義の海上法規,慣習などを調節して定めたものである。この規則の中心は
1890年に定めた18ケ条よりなる規則である。この第1条,第2条に投荷や共同の安全のためにする
犠牲について定め,第8条は乗上げた船舶の浮揚のための費用や積荷の昇降の費用を共同海損とし
ているのである。とくに共同海損の規定については廻船大法と似かよった点が多いのである。
〔註〕各国の海法の変遷については世界法史概説(田中周友著)参照
六。む●すぴ
廻船大法は,既述のようにわが国においては13世紀に生れ,少し遅れて,コンソラート・デル・
マーレができ,ルイ海法やヨーク・アントワープ規則に先立って,しかもこれらの海法と同じよう
な内容をもった海法がすでにわが国にできていた点は海法史上注目すべきことである。わか国の海
上法規はまず公海法としてあらわれている。古くは古事記に「次詔建速須佐之男命者所知海矣事依
也」と海を支配する役人を任命しているのであって,海国日本の海上法規か公海法に始まっている
ことを物語っているのである。私海法としては廻船の業に従事する関係者の間で生れた慣習により
わか国における海難と共同海損についての法制史的研究(庄野) 15
所謂慣習法として不文のままに行われてきたのである。これは古代から中世にかけての東西地中海
港市における海法の場合と同様であるが,これらの慣習を成文法化して廻船大法が生れたのであっ
て,そのなかには公私海法か混在しているのであるが,全体的には私海法というぺきである。逆に
この廻船大法を通じてわれわれはわが国の古代における海上の慣習をも理解することができるので
ある。
豊臣秀吉は朝鮮遠征に先だち,天正20年(1592)廻船大法を19ケ条に簡潔にした「海上諸法度」
を制定し,長宗我部元親は「百ケ条掟書」のなかに3ヶ条の海法をあげており,一宮神社に廻船
大法を奉納して戦勝を祈願して,多くの軍船を浦戸湾より2回に亘って朝鮮に出帆しているのであ
る。
山の内藩では藩政270年間を通じ外国船が土佐近海に出没するなど新しい情勢に対応した海法も
作られたのであるが,このなかに廻船大法がその生命をもち続けていたことは既に述べた通りであ
る。
わが国においては天文19年(1550)
6月1隻のポルトガル船が長崎県平戸に入港したのである。
これか長崎地方にヨーロッパ船が入港した最初であり,その後長崎各地に入港する契機となったの
である。
慶長14年(1609)開設以来32年間活動してきた平戸オランダ商館を徳川幕府は長崎出島に移転さ
せたのである。長崎が出島を門戸として,また海外貿易港として海上交通の中心となったのであ
る。この長崎において廻船大法がどのような形でこの地の海上法規に影響を与えていたかを検討す
ることは興味深いことであり,関心事であった。それがために長崎奉行の条々と歴代の奉行の判決
を掲げたのである。
まず長崎奉行の条々第3条をみるに,「船舶か沖で海難に逢って積荷を投荷したときは,入港地
においてその地の代官,その下役や庄屋が出向いて一緒になって調査し,船舶に残っている積荷船
荷などの明細書を提出しなければならないこと」と規定しているのであるが,この条文の前提とし
て沖で大風大波によって船舶か沈没難破するのを防ぐために投荷することは当然認めているところ
である。ここに廻船大法が厳然と生きているというべきであろう。
ただ同じ条文のなかで〔附〕として,「船頭が入港地の者達と申し合わせて積荷船荷などを船舶
が沈没難破しかけたので投荷したと偽って盗み取った者達は,後日その事実が発覚したときは死罪
に処すべきこと」と規定しているが,これは当時の長崎では貿易面で海難と偽って抜荷,密貿易を
企てる者が多く輩出していたので,奉行所側ではその見分けかつかないので,条々を遵守させる場
合の基準を示すとともに罰則をも規定したものということができるであろう。
このことによってもわかるように廻船大法は大部分の条文か私法の分野に属するものであった・
が,長崎奉行の条々はおかみからの命令や指示の性格が濃く行政法規(取締)的色彩が強く罰則ま
でも規定しているのである。また奉行所の犯科帳は文字の示すように奉行か犯罪者に対して刑罰を
課した事件を集録したものであるから,いわばいづれも公法に属するものである。したがって廻船
大法と長崎奉行の条々および奉行の判決を同一面において論ずることは木に竹をついだように思わ
れるであろうが,もともと海上法規は公私法の混在した特殊の法でもあり,肯てここに取りあげた
のは,廻船大法各条文の立法趣意というか,精神が奉行の条々,奉行の判決のなかに詠々と流れて
いることを感得することかできたからである。・
たとえば廻船大法第13条は前記のように「湊にて乗衆水主不案内之所船頭進出船を出して,若其
船遣之時ハ諸道具共船頭請取気遣不可過之事」と規定している。これは湊(港)で乗員や船員が不
案内であるとき船頭(船長)が日和(天候)などを考えないで自分から進んで船を出して,船に若
しもの危険が発生すれば諸道具もろとも含めて船頭の責任であり過失であると規定しているのであ
16 高知大学学術研究報告 第27巻 社会科学
る。また廻船大法第14条は「大風二逢大波大雨湊の内二而垢なとニ荷物為濡時ハ船頭可弁事,但沖
にて大風二逢大浪為濡物ハ弁儀不可有之事湊之内二而垢なとに為濡物ハ船頭可弁事」と規定し,港
内で大風大波で荷物が濡れたときは船頭の責任であるが,沖で大風大波に逢い荷物が濡れたときは
共同海損となり船頭は弁償する責任はないと規定しているのである。
廻船大法第13条第14条の趣旨が,海難と海損についての長崎奉行の判決の文言のなかにはっきり
と用いられているのである(その所の下部にーを引いている)。さらに判決の内容をみると,沖
での大風大雨による海損は不可抗力によるものであるが,積荷などに損害を与えたことは船舶を操
縦する技術が未熟であると解釈していること,さらには日和(天候)などをよく見きわめないで出
帆して海難に逢ったときは船頭として不注意であり過失であると解釈していることである。いずれ
も処罰は船頭には強度叱り置く,水主には叱となっているのであって,封建時代における厳罰主義
からしてはきわめて軽い処置であったということができるであろう。
廻船大法の規定にはないのであるが,奉行の判決のなかには「海難におよび候はぱ早速帆柱伐折
いか様ニも働方可有之処…」となっているものもあるが,それは海難の場合はすぐに帆柱を切り倒
すなどどのような方法でもこうじて船舶の沈没難破を避けるべきであったにもかかわらずといって
おるのである。この点は多分にヨーロッパの海法の影響を受けているのであろう。
廻船大法第15条は船のなかで鼠が積荷を大小によらず食べて損害を与えてもお福様が食べたもの
であるから共同海損とすることが規定されていることは当時のわが国海上関係者の寛大さを物語っ
ているのである。この規定は外国法には全くなく,廻船大法特有のものである。
以上
(、昭和53年9月13日受理)
(昭和54年3月16日発行)
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