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池 の平遺跡群 Ⅱ
一― 八 千穂 村駒 出池遺跡 の尖頭器文化 ――
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ノ
1996年
3月
八 千穂村教 育委員会
」
:
池 の平 遺跡群 Ⅱ
―― 八 千穂 村駒 出 池遺 跡 の尖頭器文 化 ――
1996年
3月
八 千穂村教 育委員会
発掘報告書の刊行 に際 して
八千穂 村 は八 ケ岳 の 北東 の 山麓 に位 置す る豊 か な水 と緑 に恵 まれ た村 で あ る。 この地域 には 旧
石 器 時代 か ら人 間 が生 活 し、水 や 食糧 を求 め て あ るい は交易 の ため他 の 地域 か ら人 々 がや って き
た。特 に黒 曜石 は当時 の 貴重 な天然 資源 の一 つ であ り、 麦草峠産 や和 田峠産 の 黒 曜石 の 流通範 囲
は 中部 地 方 か ら関東地 方 まで の広 範 囲 に及 ん で い る。 従 って、 八 ケ岳 の 黒 曜石 原産 地 とその 周 辺
地域 は、 当時 の最 も優 れ た道具 であ る黒 曜石 製石器 の 原料供 給 地及 び生 産加 エ セ ン ター の一つ で
あ り、 そ の 意味 で文 化 の発信 地 であ った とい うこ とが で きよ う。 それ ゆ え、 麦草峠 と池 の 平遺跡
群 はわが 国 の 貴重 な文 化 遺産 で あ り、 そ の 調査 。研 究 と保 護 は 当村 に とって も重要 な課題 で あ る。
この度、 前 回 の 昭和 61年 の 報 告書 に続 い て 、 池 の平遺 跡群 の一 つ で あ る駒 出池遺 跡 の発 掘報告
書 が干J行 され るこ とに なった。 これ は昭 和 61年 か ら平成 3年 まで 4回 に渡 って行 われ た発 掘 の成
果 であ る。 今 回 も前 回 と同様 に、大 阪市 立 大 学 の 熊井久雄 先 生 の指 導 の 下、 八 ケ岳 団体研 究 グル
ー プや 野尻湖 人類考 古 グルー プ 、 野尻湖博 物館 や 野尻湖 友 の会 、村 内有 志 な どの協 力 を得 て、実
り多 い調査 をす る こ とが で きた。 ご協 力 をい ただ い た方 々 に対 し厚 く御 礼 申 し上 げ る次 第 で あ る。
また、 この研 究成果 が 当時 の 自然や歴 史及 び社 会 の解 明の一助 となれ ば 幸 い であ る。 さ らに、
この報告書 を通 じて 当村 の遺 跡や文化 財 の 重要性 が再 認 識 され 、文化 財 に対 す る興 味関心や保 護
の 意識が高 まるこ とを願 って や まな い。
1996年 3月
八 千穂 村 長
高 橋 秀 一
発掘報告書の発刊 に寄せて
今年度 は、昨年 12月 に森 鳴稔先生 に よって池の平 の塩 くれ場 。トリデ ロ ック・湧水地′
点の発掘
報告書が まとめ られ、 さらに今 回、駒出池遺跡 の発掘報告 書 が干J行 され るとい う八千穂村 の文化
財行政 に とって極めて有意義 な年度 となった。
駒 出池周辺はかつ て八千穂村 の前身の一つである畑八村 の村営牧場 があった ところであ り、 自
村 は もとよ り近隣町村か ら牛 馬を預 り放牧 して いた。 その後、村 の治 山事業や観光事業 の推進に
伴 って池や林道や施設が作 られ、遺跡が発 見 され る契機 となった。 一 万数千年 もの長 い時 を経て
先人の生活 の跡が発 見 され、 その文化 に光 が あて られ るに至 ったこ とは感慨深 い ものが ある。発
掘 の成果 を通 じて八千穂村 の祖先 た る人々の残 した文化 を理解 し、高度 に発達 した現代文明の 中
にある我 々 に対 し、遺物 を通 して祖 先 が語 りかけ るこ とに耳 をイ
頃け た い と思 う。
長年に渡 る発掘作業や報告書 の編集 に関 しては、調査 団副団長 の熊井久雄先生、編集委員長 の
新海正博先生、発掘作業 と報告書 の編集に主導的な役割 を果 された野尻湖博物館 の 中村由克氏 を
は じめ として、 た くさんの方 々 にお世話 になった。あ らためて深 く感謝 を申 し上げたい。
1996イ 再 3月
八 千穂 村教 育 長
今 井 道 春
例
日
1.本 報告書 は長野 県南佐 久郡 八千穂 村大 字 八 ケ岳下 2049番 地 に所在 す る池 の平遺 跡群 の駒 出池
遺 跡 の発掘調査 報告 であ る。
2.池 の平遺 跡群 の発掘調査 は今 までに 6回 実施 され た。 第 1回
(1983)第 2回 (1984)は 大 反
遺 跡お よび塩 くれ場 遺 跡 で行 なわれ、 第 3回 以降 は駒 出池遺 跡 で実 施 され た。 第 3回 は1986年
7月 23日 ∼ 7月 27日 、第 4回 は1989年 10月 7日 ∼10月 10日 、 第 5回 は1990年 7月 30日 ∼ 8月 4
日、 第 6回 は1991年 10月 10日 ∼10月 13日 に実施 され た。
3.第 1回 発掘 の成果 は 『池 の平遺 跡 一八 千穂 村 池 の平遺 跡発 掘調査 概 報 』 (1984.8)、
第 2回
発掘 の成果 は 『池 の 平遺 跡群 ―八千穂 村大 反遺 跡 。塩 くれ場 遺 跡 の 尖 頭器 文化 』 (1986.3)に
公表 されて い る。
4。
本報告書 で取 りま とめ られ た発 掘 の成 果 はす べ て巻 末 に記 した発 掘参加 者全 員 の もの であ る。
報告 書作成 にあた って分 担 した者 の 氏名 は下 に示 した。 編集 につ い て は下 記 の編集委員会 の責
任 にお い て行 なわれ た。 成果 につ い て は編 集委員 会 での議論 に も とづ い て い るが、 そ の考察 に
関 して は必ず しも全 員 が一 致 した結論 を得 て い る もの で はな い こ とを付 記 す る。
5。
発掘 出土 品、写真 等 はす べ て八千穂 村教 育委員会 が保 管 して い る。
6.発 掘調査 報告 書 の作 成 に あ た って は 多 くの方 々 の ご協 力や ご援助 をい ただ い た。深甚 な る謝
意 を表す る。 特 に発 掘 資材 な らび に施 設 の利用 な どで野尻湖 発掘調査 団、 野尻湖博 物館 、 八千
穂 村婦 人会 、信州大 学 理 学 部 地 質 学教 室 にお世 話 に な った。
7.編 集委員 は次 の通 りで あ る。
熊井久雄 、新 海正博
*、
AHn隆 、
石塚 二 侍 子、市 川 (長 谷 川 )桂 子、小林 (佐 々 木 )早 苗、 田辺
津金達郎、中村由克、矢 口裕之、渡辺哲也、矢鳴勝美、関本真一、小宮山一美、相馬文雄
(*印 編集責任者)
8.執 筆 者一 覧
1 経
過 A
2 立
地 A
3地
質
4 遺物 と遺構
5
6
7
8
田辺智 隆
B∼ D
B
新 海 正博
中村 由 克
。
矢 口裕 之 (執 筆 責任 者 )。 田辺智 隆 ・ 内 山美 恵子 金 川和 人
石塚 二侍 子 ・ 市 川 (長 谷川 )桂 子 ・小 林 (佐 々 木 )早 苗 ・渡辺 哲也
周 辺 の遺 跡
川端 結花 `小 池幸夫 ・ 菅 沼 亘 ・ 土橋 由理 子
中村 由克 。小 池 幸 夫 ・ 関本真 一
遺 跡 の性格
石塚 二 侍 子
編年 的位 置
中村 由克
ま
編
付
編
文
新 海 正 博 。中村 由克
と め
付
英
熊井 久雄
要
1
2
旨
井 出正 義
佐 々 木廣雄
熊井 久雄
9.協 力者 として、特 に次 の 方 々 にお世 話 に な った。
伊藤 公 夫、金 川美 幸、上加 世 田聡、金子 良仁 、 田 中俊廣 、深沢 哲治 、 三 原
哲
次
目
序 例 目 1
次
… ……………………… …… ……… … ……………………… ¨…・…・… ……・… 。1
駒 出池遺 跡調査 の経過 。
。
・
・.… … …… …… …… … … 1
A.調 査 の 目的 ………… ……… … …… …… … …… … …………・「
B。
…… ………… …… ……… … ……・…… ……… ……… …… … … 。1
調査 の 経過 …………… 。
C.調 査 の 方法 ……… …………… …… …… … ……… … ……… …………… ……… ……… … 2
D。
発 掘 日誌 ………………… ………… …………… …… ……… …… ………・……… …………・… ……… …5
駒 出池遺 跡 の立地 ………………… ……… …… ………… … … ………・…・……… …… …… …… 。8
A。
地
形 ………… ………… ………… …… …… …… ……… …………… ……… ………… 8
B.八 千穂 村 の遺 跡 ………… 。……… ……… 。… ……… ……… ……・…・………… …………・… … ……13
地
質 … ……………………………………… …… ……………… ……………………… ……… … …… …18
A.地 質概 要 …………………… ………………… 。…… ……… ………………………… 。… ……… ……… …18
B。
発掘 地 の地 質 ……………………………… ………… ………… …………・………… ………… …… ………19
C.佐 久 ロー ム層 お よび黒色火 山灰 層 の標 準 層序・…… …・……… ……… ……… …… ……・25
D。
遺物 包含 層 の年代 に つ い て … … …… ………… ………………… ………・…… ……… … … 。
28
遺物 と遺 構 …… … … … ……… … … … … ………… …… ……… … …… … ………… ……… … …29
A.遺 物 の 出土 層準 と分 布 …………… …… ……………… …………………… …… ………… …… …… 29
B.遺
物 ‥………¨…………………………………………………………… ………… ………… …… …… 30
駒 出池周辺 の 遺 跡 …・……………… ………… …………… … …・……… ……………… …… ……・58
A.池 の平 遺 跡群 の研 究 史・…… ……… ……・…
B。
:・
・… …………・…・………… ……・…… ……・58
新 し く発見 され た遺 跡 と遺 物 …………・…… …………………………………………………… …… 。
58
6
池 の 平遺 跡群 におけ る駒 出池遺 跡 の性格 … ………………… ……………………・…・… … ……・64
7
…・…… ……・…・…… ………… 。
… … …… 。
駒 出池遺 跡 の 編年 的位 置 ……………………… …… 。
66
8
…・………… …………………………… … ………… ……… ……・67
ま とめ と今 後 の課題 ………… 。
A.地 質 学 的成果 と問題 ′
点……………………………………………・………… …… ……………・… ………67
B.考 古学 的成果 と問題 点 ……… 。………… …………… …………………¨………………… ………67
,…
1
…・………………… ………・
・69
八 千穂 高原 の歴 史・………・……………………………… …… 。
昭和 34年 (1959年
)
1
駒 出池遺跡調 査 の経過
A.調査 の 目的
1983年 か ら1984年 にか けて実 施 され た 第 1回 。
第 2回 八 千穂 村 池 の平 遺 跡発 掘 では 、標 高 1,650
mと 本邦有 数 の標 高 に あ る大 反 ・塩 くれ場両 遺 跡 が発 掘 され、 ここが 尖 頭器 製 作 址 であ る こ とが
明 らか に され た。 また、 この遺 跡 の 下位 の 層準 か ら上位 にか け て 出 土 す る尖 頭器 の 形状 の相 違 か
ら、尖 頭器 の 調整加 工 の 変遷 史 も明 らか に され た。 これ らの 遺 跡 は後期 更新 世 の八 ケ岳 火 山 の 活
動 に由 来 す る池 の 平 溶岩 の上 に分 布 し、 周 辺 の 開析 され た 山肌 と違 って 、 比 較 的 なだ らか な斜 面
に立地 して い る。 この斜 面 の上 方 には黒 曜石 の 原産 地 が 存在 す る こ とか ら、 これ らの 遺 跡 は そ の
原産 地 に通 じるルー ト途上 に位 置す る加 工 調整 場所 だ った と思 われ る。
発掘 で 出 土 した遺物 の大 半 は、製 作 途 中 で破 損 した もの を含 め てほ とん どす べ て尖頭器 であ り、
尖頭器 以外 の 石器 はほ とん ど見 る ものが 無 い ほ ど貧 弱 な出土 遺 物構 成 で あ った。 したが って、 こ
れ ら尖頭器 を製作 した 旧石 器 人類 の普段 の生 活 は 出土 遺物 か らは伺 い知 る由 もな い。 幸 い な こ と
に 、 池 の 平 溶 岩 の上 には まだ 多 くの遺 跡 が 散在 して い るの で、 そ の 中か ら比較 的 多様 な石 器群 が
発見 され て い る遺 跡 を選 ん で発 掘 す れば、 当時 の生 産様 式 な どを解 明す る手 がか りが得 られ る と
考 え られ る。 そ の よ うに して選 定 され たのが今 回 の発掘 地 で あ る駒 出池遺 跡 で あ る。 この遺 跡 か
らは、農 業 用水 路 の調整 池 として築 造 され た この 池 の 造成 時 や 、 そ の後 設 置 され たバ ンガ ロー の
建 設 時 な どに、尖頭器 とともに 多様 な石器 が発 見 され て い る。 大 反 ・塩 くれ場 両 遺 跡 よ り標 高 の
低 い この遺 跡 は、 溶岩 台地上 に位 置 しなが ら近 くに湧泉 が あ るな ど遺 跡 立地上 優 位 な位 置 に あ る。
したが って 、今 回 の駒 出池遺 跡 の発 掘 の 主要 な 目的 は、尖 頭器 製作集 団 の生 産 活動や生 活 を復
元 す るため の 資料 を得 るこ とであ り、 出 土 層準 を明確 に しつつ 、 多様 な石 器群 を採 取 す る こ とで
あ る。 この こ とに よ って 、石 器 の 用途 か ら得 られ る生 産 活動 の 姿 が 浮 き上 が って くる もの と思 わ
れ る。 しか し、 この発掘 ですべ てが氷 解 す るか とい えば、 それ は 困難 であ る と言 わ ざるを得 な い。
先 回 の発 掘 と同様 に、 この発掘 で もまた い くつ か の 問題 点 と課題 が発 掘 され る と思 われ る。 槍 先
を輝 かせ なが ら白樺林 の 中 を歩 む 旧石 器 人 の 生活 を復 元す るため には、 さ らな る調査 と研 究 が必
の長 い取 り組みが必要であろ う。今回の調査
要 であることは論 を待 たない し、またそのための慮、
は前回同様 にその長い道程 の一里塚 としての意義がある。 もちろん、 この調査 の中か ら前回同様
に多 くの新 しい問題点 も浮 き上がって くるであろう。
B.調 査 の経過
1983、
1984両 年 にわた る池 の平遺 跡発 掘調査 に よ り、標 高 1,650m前 後 の大 反・塩 くれ場遺 跡 は、
出土 遺物 の大 半 が 尖頭器 の 未製 品であ る こ とな どか ら、石器 の加 工 場 として の 性格 を もつ もの で
-1-
あるこ とが判明 した (八 千穂村池 の平遺跡発掘調査団,1986)。
この成果 は同時 に尖頭器 の製作者
である先史人類 の生活 の根拠地 は どこか とい う新 た な問題 の提 出 で もあ った。
キャンプサ イ トは どこにあったのか とい う新 たな謎 を解 いて くれそ うな有力 な候補地が駒 出池
であった。駒 出池 は標 高1,300mの 池 の平溶岩類 のつ くる南東向 きの緩斜面で、池の平溶岩類 の 1
flow― unitで
あ る池 の平溶岩 I上 に位置 し、池 の平溶岩 Ⅱ末端 よ りの湧水 も豊富であ り、前項お よ
び付編 2で 述べ られて い るよ うに、各種 の石器類が発 見 されて い る遺跡で もある。
第 3回 池 の平遺跡発掘 は、1・ 2回 の発掘報告書 の完成 を待 って1986年 7月 23日 より27日 まで延
べ 5日 間行 われた。駒 出池 の造成、周辺 キャンプ場施設建設等 の経過 をふ まえ、 この発掘調査 は、
遺物包含層 を含 む周辺 の地質層序 の確 立お よび遺物包含 層 の分 布 の確認 とい う本格発掘べ の予備
調査 的性格 の強 い もので あ った。 この調査 に よって遺物包含層 はかな り失われてはい るものの、
駐車場周辺、 バ ンガ ロー周 辺に残存 して い るこ とがわか り、本格的発掘 による成果 が期待 された。
しか しこの発掘 の後 には発掘調査 団事務 局 の移転 とい う出来事 が待 ち受けて いた。第 1回 発掘
以来調査 団の事務局 であった信州大学理学部地質学教 室 内では、小林雅 弘をは じめ 中心になって
活動 して いた 多 くの大学生 ・院生 。研究生 らが就職 等 で大学 を離れ、 また常に事務 局 の 中心 で指
導 にあた り、調査 団の主催 団体 の 1つ である八ケ岳団体研究 グループの代表 で もある熊井久雄が
大 阪市立大学へ 転勤す る等、事務局体制 の大幅 な変更 をせ まられ、数年間 の発掘 の 中断を余儀 な
くされ た。
地元八千穂村 に比較的近 い長野県東部高校 に勤 め る新海正博 に事務局 が 引 き継 がれ、八千穂村
教育長岩波英雄、同公民館 主事小宮山一 美 を交 え運営委員会が再開 されたの は1989年 8月 17日 で
あ った。第 4回 発掘 は1989年 10月 7日 ∼10日 の 4日 間行 われた。晩秋の高原 とい う厳 しい気象条
件 と八千穂 村 の運動会 と重なるとい う困難 な状況 ではあったが、第 3回 発掘で確認 された遺物包
含層 ・デカパ ミローム層 およびその上位 の層準か ら何面 もの生活面が発見 された。
その後、駒 出池の発掘 は第 5回 (1990年 7月 30日 ∼ 8月 4日 、6日 間)、 第 6回 (1991年 10月
9
日∼13日 、5日 間)と 継続 され、ほぼ遺跡 の全容 と性格 を確認 して終 了す ることになった。 なお
第 5回 発掘 か ら調査 団長は八千穂村教育長出浦勇次 となった。台風21号 の接近 で天候不良 だった
第 6回 発掘 の最 終 日は台風一過 の抜け るよ うな青 空 の もとに締め くくられ た。
C.調 査 の 方法
(1)調 査 団の編成
八 千穂 村 池 の 平遺 跡発掘調査 団結成 の 経過 は前 回報告 書 (池 の平遺 跡群 ≪ 1986.3≫ )に 詳 しい
の で省 くが、 第 3回 発 掘 以降 も基本 的 には同 じ体 制 で行 った。 す なわ ち主催参加 団体 の八 千穂 村
教 育 委員 会 ・八 千穂 村 史談会 ・ 八 ケ岳 団体研 究 グルー プ ・ 野尻湖 人類考 古 グルー プ 。中南信 野尻
湖 友 の会 。東 北信 野尻湖 友 の会 。上越地 区野尻湖 友 の会 ・ 北 関東 野尻湖 友 の会 。ひが し東 京野尻
湖 友 の会 ・む さ しの 野尻湖 友 の会 ・埼 玉 野尻湖友 の会 ・ 西東 京野尻湖 友 の会 ・ 山梨 野尻湖 友 の会
-2-
第 1表
発掘 の組織
運営委員会
八千穂村事務局
コンパ 。お や つ係
の平新聞社
受 付 。宿 合 係
ア ンケー ト
計係
売係
材 。設営 係
測量係
真 ・記 録 係
試資 料 整 理係
営係
質班
人類 考 古 班
記載係
班長
*団 長 ―出浦 深
(第 1∼ 3回 )、 岩波英雄
副団長 ―熊井久雄 (大 阪市立大学理学部 )
(第
4回
)、
出浦勇次
(第
5∼ 6回 )
を中心 に広 く参加 を呼 びか け、 第 1表 の組織体 制 の下 に行 った。
発掘 で は、 地 質 班 、 人類考 古班 が専 門班 として編 成 され た。 地 質 班 は試掘 溝 の 地 層判定 と地 層
区分 を し、 さ らに発掘地 周 辺 の 地 質調 査 を行 い発掘 地周辺 の 地 層 の分 布 を追 跡 し、 第 1∼ 2回 発
掘 地 の大 反 ・塩 くれ場 の地 質 と比較 対 比 した。 人類考 古班 は 出土 遺物 を鑑 定 し、 出土 状 況 を検 討
した。 また、表面採 集 等遺物 の分 布状 況 を調査 し、周辺 へ の 遺 跡 の広 が りを検 討 した。
運営係 は発掘期 間 を通 じて発 掘 が 円滑 に進 行 す るよ う運営 につ とめ た。 試 資料 整理 係 は 出土 遺
点検 と試 資料 の整理 を行 った。写真 ・ 記録 係 は発掘全 体 の様 子や遺 物 を写真 で
物 と記載 カー ドの ′
記録 した (写 真 図版参 照 )。 測 量係 は発掘 に先 立 ち トラ ン シ ッ ト等測 量機 材 を使 って、発 掘 区画 (グ
リッ ド)を 設定 お よび確 認 した。 さ らに区画杭 、補助杭 を設 置 し、地盤 高 の 測 量 と発 掘 地 の地 形
測 量 を行 った (第 2図 )。 資材 。設営係 は発 掘 に使 用す る道 具 を準備 管理 し、参加 者 。見学者 へ の
指示 ・ 注意看板 を作 った。 また雨天 の さ い は、発掘 が 継続 で きるよ うに グ リッ ドに ビニ ー ルハ ウ
スや ビニ ー ル シー トに よる簡易 テ ン トを設営 した。販 売係 は発掘 に必 要 な ノー トや書籍 を販 売 し、
参加 者 の 力量 向上 に役 立 て る とともに発掘 資金 の一 助 に した。会 計係 は参加 費や宿 泊 費 の徴 収 と
諸 費用 の支 払 い を行 った。受付 ・宿合 ・ ア ン ケー ト係 は参 加 者 の受付 や 宿 合 の世 話 を した。 また、
参加 者 な どへ の ア ン ケー トを実施 し、発掘体 制 の 向上 につ とめ た。 池 の平新 聞社 (係 )は 前 日の
成果や お知 らせ 等 をのせ る新 聞 を毎 日つ くり、発掘参加 者 の み な らず八 千穂 村 の 関係 者 に も配布
おや つ 係 は期 間 中 の コンパ (懇 親会 )、 おや つ の世 話 を し、参加 者等 の 慰労 、活力
した。 コ ンパ 。
の 回復 に 力 を発揮 した。 司会係 は発掘 期 間 中 の 運営会 議 、 ま とめ の会 の 司会 。進行 を行 った。発
掘参加 者 は必 ず 一 人 一 係 (班 )以 上 を分 担 した。 これ は参 加 者 は何 人 とい え ど も対 等 。平 等 であ
り、 一 人 ひ と りが 責任 を もって調査 を担 うのだ との調査 団発 足か らの精神 の ひ とつ の 表 れ で あ る。
-3-
第 1図
駒 出池遺 跡 の位 置
ン
ミ
ミ
≡
′イ
クチ
こ
ク
ミ
力
゛
、
し
≡
ヽ
N(((tttき ヽ
/ノ
第
2図
駒 出池 遺 跡 の グ リッ ド位 置 図
`ζ
-4-
9)発
掘 地 の 設定 と発 掘 方法
発掘位置は第 1図 の とお りである。発掘方法は前回報告書に詳 しいのでここでは省 くが、発掘
終了後の埋め戻 しの際、斜面崩壊の心配がないよう、一部土嚢 を積んで補強 した。また、イー21
グリッ ドは今後 の再発掘 の可能性 も考慮 して最終到達面 に土嚢 を敷 きつめて埋め戻 した。
D.発 掘 日誌
第 3回 か ら第 6回 の発掘 は同一 地域 の 同一 場所 で行 われ た。 こ こでは各発 掘期 間 中 に発 行 され
た手作 りの新 聞 「 池 の平 タイム ス」 か ら、発 掘 調査 の模 様 を概 略紹介 す る。
(1)第 3回 発 掘
7月 23日
(1986年 )
午後 1時 集合、宿合 の八千穂村福祉 センター と発掘現場にわかれて準備作業。午後
7時 か ら福祉 セ ンター講習室 にて結団式。熊井副 団長 よ り発掘 の意義 と簡単 な説明。次 いで地質
班 田辺 さん よ り6月 28、 29日 に行 われた予備調査 に基づ い た発掘地 周辺 の地質説 明。運営係 か ら
の翌 日の予定等各係 か らの諸連絡。引 き続 き第 1回 学習会 (第
1・
2回 池 の平発掘 の成果、石塚 二
侍 子 さん)。
終 了後、参加 者 中最年少 の塚本 さんの乾杯 の音頭 で コンパ。
7月 24日
午前 9時 か らくわ いれ式。 9時 半発掘開始 (」 -1、
J-6、 ア ー12、 イ ー21計 4班
4グ リッ ド)。 人類考古出土遺物 60′ 点。試掘溝「青 ス コローム」まで掘削、 層序 の確認。午後 7時
15分 か ら第 2回 学習会 (池 の平遺跡 の特徴 と日本の尖 頭器文化、故新堀 友行 さん)。
7月 25日
夕 立に あ うも発掘 は順調 に進行。人類考古遺物 124点 、 うち重要 品7点 。 ア ー12グ リ
ッ ドではスポー ル (モ ヤ層準)ほ か、 イ ー21グ リッ ドではスクレイパー (モ ヤ層準 )ほ か。 」-6グ
リッ ドでは「デカパ ミローム」下部 層準 よ リフレイク、チ ップの遺物発 見。発掘地周辺 の地質層
序 と地質 図の完成。第 3回 学習会 (八 ケ岳周辺 の遺跡、 中村由克 さん)。 発掘 中、駒出池造成に伴
う遺物包含 層 の破壊イ
固所や斜面崩壊 に よる流出個所 もみつ か り、 まとめ の会 では駒出池 の よ うな
人手 の入 った場所 の発掘には綿密 な計画性 が必要 な ことを確認 しあった。
7月 26日
発掘最終 日。「モヤ」「デカパ ミローム」 2層 準 の文化 層 の確認。駒 出池溶岩 とその
上位 にの る「オ レンジパ ミス」の発見、「デカパ ミBⅡ 下半部 」か らの火 山ガラス (池 の平火山灰
Ⅱ)の 発見。「デカパ ミローム」 の分布 等詳細 な地 質図づ くりお よび遺跡 の広 が り等 問題点 を残
す。 まとめ の会終了後、出浦団長、 食事づ くり等 お手伝 い をいただ いた地元婦人 らを交えて大 コ
ンノ丸
7月 27日
午前 8時 半 よ り埋め戻 し、午後後片付け。再会 を期 し解散。
9)第 4回 発 掘
10月
7日
(1989年
)
きび しい 日程 の なか、 午前か ら発掘準備。午後、岩波教育長 (団 長)参 加 の下、 くわ
入れ式。 台風 に刺激 された秋雨前線 の活動 で、降 り続 く冷 たい雨に進行が大幅 にお くれた。発掘
グ リッ ドはイ ー21お よび 」-48、
K-48の 3区 画、3班 。夕刻移動、八千穂村福祉 セ ンター にて
-5-
夕食後、運営委員会、団結 コンパ 。
10月
8日
ほぼ終 日曇天。寒 さにふ るえる。イー21グ リッ ドにて礫群 ?を 中心 とした (尖 頭器基
部、 ス クレイパー 、石核 ほか を含 む)生 活面 の発 見。 」-48グ リッ ドにて縄文時代 の ピ ッ ト発見。
10月
9日
拡張 した K-49グ リッ ド(「 デカパ ミローム」上 ∼中部 )か ら尖頭器 4点 をは じめ とす
る200点 ちか い遺物集 中ブ ロ ックの 出土、」-48グ リッ ドか ら珪質頁岩製 の二次加 工の ある剥片 の
出土。 イ ー21グ リッ ドでは、「モヤ I∼ Ⅱ」か ら礫群 ?に 伴 うブ ロ ックお よび縄文土器 口縁部 (諸
磯 b式 )の 出土。ま とめ の会終 了後、岩波教育長、小宮山さん、食事作 りでお世 話 いただ いた須 田
加久代 さん、佐 々木 あさよさん、佐 々木芙美子 さん(冨 田か ずえさん を交 え打ち上げ コンパ。
10月 10日
午前発掘現場 の埋 め戻 し後かたづ け、午後福祉 セ ンターに移動 して後片付け。3時
解散。
G)第 5回 発 掘
7月 30日
(1990年
)
前 日集合 の先発隊 を中心 に午前、発掘準備。午後昼 食後、出浦団長 出席 の下 くわ入
れ式、 の ち発掘。発掘 区画は 」-48、 K-48、 K-49、 L-49、
イー21の 5区 画、2班 。 K-49
南側 で尖頭器基部表採。午後 8時 よ り団結 コンパ。今 回か ら朝 ・夕食 は 自前で作 るこ とになる。
そのため 食事係 を設け る。
7月 31日
晴天 の下、発掘 は順調 に進 んだ。 K-49で は前 日とあわせ て100点 以上 の遺物が出
土。珪質 頁岩製 ス クレイパー 、黒曜石製尖頭器 の未製品など。 イ ー21で は微細争J離 痕 の ある剥片
(「
モヤ
I」
中部 )、 ノ ッチ、 コア (「 モヤ Ⅱ」下部 )ほ かの遺物お よび礫群 ?(「 モ七
I」
)の 出土。
広域調査 によ り新 たに石 骨 か らも縄文 早期 ∼平安 に いたる土器 の発見。
8月 1日
終 日猛暑 の下、 K-49の ブ ロ ックより珪質頁岩製尖頭器未製品、黒曜石製微細剥離
痕 の ある剥片等出土。 同ブ ロ ックの範囲確認 のため発掘 を L-49ま で拡張、同ブ ロ ック完掘近 し。
イー21よ り片面調整 の尖頭器基部、微細争J離 痕 のある争J片 、石核
(い
ずれ も黒曜石 )ほ か 出±。
昼休みに麦草峠近 くの黒曜石 原産地 の見学。
8月 2日
連 日の猛暑。 K-49を 中心 とす るブ ロ ックの範囲確認、完掘。 ス ク レイパー等出土。
イー21で はてまどって いた大量 の礫群 ?の 記載、採集 が 山を越 える。 ス クレイパ ー、 ノ ッチ、大
型剥片等 出±。
8月 3日
発掘最終 日。 K-49を 中心 とす るブ ロ ックの性格 を確認す る。同ブ ロ ックか らの 出
土遺物 の総′
点数 は第 4回 発掘 を含め674′ 点。イー21か らの出土遺物 の総′
点数 は同 じく前 回発掘 を含
めて1,197′ 点。同グ リッ ドの「デカパ ミローム」上面に配石お よび炉跡様 の、炭質物 を含む変色部
分 を発見。発掘 による確認作業は次 回に持 ち越 しになる。 午後 8時 か ら地元報告会 (30分 )な らび
に懇親会 (大 コンパ)。 発掘 の成果 におお いに盛 り上 が る。
8月 4日
に)第
10月
9日
埋め もどしお よび後片付 け作業。午後、来年 の発掘 と再会 を期 して解散式。
6回 発 掘
(1991年 )
日中の短 い時間 を最大 限に使 い、限られ た 日数 で発掘 を終了させ る目的 のために、
-6-
参加 者全 員 が発 掘 地 の キ ャ ンプ 場 の施 設、 第 1ヒ ュ ッテ (通 称牧 童小 屋 )と カ マ ボ コ型 ヒュ ッテに
宿 泊 して発掘 を行 う。 なお、 第 1ヒ ュ ッテお よび カマ ボ コ型 ヒュ ッテは発掘 終 了後 キ ャ ンプ 場 整
備事 業 の ため と りこわ され た。 午後 集合 、炊事 用 品、貸 しふ とん等 の搬 入、 食事 準備 等。 池 の 平
タイムス をキャ ンプ地 で も発行 で きるように廃棄前 の コピー機 を借用す るも、不調。 タイム ス製
作 に苦労 す る。
10月 10日
午前、発掘 の準備。発掘 グ リッ ドの設定 (H-50、
I-50、 」-50、
K-50の
1× 12
mの 細長 い グ リッ ドお よび第 3回 以降継続 の イー21グ リッ ド、2班 )。 午後、佐 々木廣雄 さん (八
千穂村文化財調査委員 )出 席 の下、 くわ入れ式。後、発掘開始。
10月 11日
終 日冷 た い雨。 ビニール シー トの簡易 テ ン トを設営、 目標 (1班 は「礫 群
?」
の完
掘 と「デ カパ ミローム」層準 の発掘、2班 は「デカパ ミローム」層 の完掘 )め ざし、意気 たか く
発掘続行。
10月 12日
台風21号 接近 に ともな う断続的 な雨 の なか発掘 を続け、ほぼ 目標 を達成す る。 夕食
後 の まとめ の会 では第 6回 発掘 の まとめ とともに、その後 の予定 (研 究成果報告書づ くり、公民館
保管 の池 の平遺跡出土遺物 の整理 作業 な ど)に ついて意見交換。まとめ の会終 了後 コンパ、夜更け
まで歓談、激論 をまじえつつ おお いに盛 りあが る。
10月 13日
台風一過、時折強風 が吹 くが晴れ間がみ える。朝食後、班毎に記載、断面図等 の作
成。 10時 のおや つ終了後、発掘 グ リッ ドの埋 め もどしと後片付けお よび資材 の撤収。昼食後、灯
油 ス トー ブ・ コピー機等借用機材返却。 ヒュ ッテ、管理棟 のシャワー室、 トイ レ等 キャンプ場施
設の清掃後、公民慣
官に もどって解散式。
-7-
2
A.地
(1)位
駒 出池遺跡 の 立地
形
置
八 千穂 村 池 の 平 遺 跡群 は、長 野県東部 の八
ケ岳 火 山 の 北東 麓 に位 置す る (第 3図 )。
この
遺 跡群 は八 ケ岳 火 山 の 開析 の進 んだ 山麓 を東
に向か って 流下 す る水 無 川 と大石 川 とに挟 ま
れ た標 高 1,800∼ 1,100mの 帯状 の緩斜 面上 に
立地 して い る (第 4図 )。 この緩斜面 は平均傾
斜 6.7度 で、ほぼ北 東 か ら東 へ 傾 斜 す る池 の平
溶岩 (八 千穂 村 池 の 平 遺 跡発 掘調査 団,1986)
のつ くる溶岩 流 原面 であ る。
池 の平 溶岩面 の 上 には、平坦 な部分 と比較
的急 な斜 面 が認 め られ る。八 千穂 レイ クの 西
側 の斜 面 と駒 出池 の 西側 の比 較 的急 な斜 面 を
もって平 坦 面 は三分 され る。 この地 形 的特徴
第 3図
か ら池 の 平 溶岩類 は池 の 平 溶岩 I・ Ⅱ 。大 反
池 の平遺跡 の位 置
溶岩 の 3つ のflow unitsに 区分 され る (池 の 平遺 跡発 掘 調査 団,1986)。 それ ぞれ の 溶岩 流 のつ く
る平坦 な地 形面 は、 それ ぞれ池 の平 I面 ・池 の 平 Ⅱ面 。大 反 面 と呼 ばれ る (第 5図 )。 池 の 平 I面
八柱山∠
彰
ヾ
疹乙
鏃軍
缶ヽ
ゞ
形
リ
f■ l」
1.駒 出池
2.小 塚 明神 3.八 千穂
4.塩 くれ場 5.大
7.水 無 川上 流
■ 黒 曜石 原産 地 8.大 石 川源流
0
…
1 klD
大反溶岩
9.麦 草 峠
の分布
池 の平 溶 岩 Ⅱの分 布
池 の平 溶岩 Iの 分 布
第 4図
池 の平周辺 の地形 と遺 跡
-8-
レイ ク
反 6.ト リデ ロ ック
目皿圃囮熙国囲
大 反 溶 岩 の つ くる平 坦 面
池 の 平 溶 岩 Ⅱの つ くる平 坦 面
池 の 平 溶 岩 Iの つ くる平 坦 面
1駒
4大
′
駒
●
遺
出
出
池
跡
池
2八
反
5
千 穂 レイ ク
3塩
くれ 場
トリデ ロ ック
6水
無 川上 流
緩
斜
面
急
斜
面
平
坦
面
山麓 緩 斜 面
第 5図
o
lK'
池の平周辺の地形区分
は、標 高 1,300∼ 1,100m北 東 に約 5.0度 で傾 斜 す る緩斜 面 で あ る。 面上 に は水 無川 が 流 れ るな ど、
池 の平 溶岩面 の 中 では開析 が もっ と も進 み、起伏 に 富 んで い る。
今 回発 掘 を行 った駒 出池遺 跡 は標 高 1,300m、 この 池 の平 I面 の 西端部 に位 置 し、行 政 区画上 は
南佐久郡 八千穂 村大字 八 ケ岳下 2049番 地 に あ り、 八 千穂 村 営 池 の平 キャ ンプ場 の 中 に位 置す る。
9)駒
出池発 掘地 の地 形
第 6図 に駒 出池遺 跡周辺 の地 形 図 を示 す。遺 跡 の す ぐ西側 は池 の平 溶岩 Ⅱのつ くる溶岩末端 崖
とな って い る。 駒 出池 は1958年 (昭 和 33年 )農 業用水 と観 光 を 目的 とし、 周 囲 に堰堤 を築 い てつ
くられ た 人工 の 池 であ る。 池 の平 溶岩 Ⅱの末端 か ら湧 出 して い る水 量 の 豊 か な湧水 を利用 した も
の であ る。 この 湧水 は古 くか ら存在 して い た と思 われ、 旧石 器 時代 にお い て もこの 周 辺 は湿地 だ
った可能 性 が 高 い。 この 湧水 の す ぐ西側 の部分 は溶岩末 端崖 の 中 で も凹地 に なって い る。周辺 の
地形 か ら判 断 して、 この 凹地 は溶岩 トンネ ルの部分 が 陥没 した跡 の 可能性 が 高 い と思 われ る。
駒 出池 周辺 は、緩 く北西 に傾 く比較 的広 い平 坦 地 とな ってお り、す ぐ北側 を水 無川 が 流 れ て い
る。遺 跡 は そ の 平坦地 の ほぼ 中央部 と駒 出池 の 南東側 に位 置す る。 今 回 の発 掘 では、 平 坦 地 の 中
央 に東 北 東 に の び る低 い尾根 筋 の 南 向 きの緩斜 面 と、 そ の尾根 の東端部 で池 の平 溶岩 Iの つ くる
高 ま りの 斜 面 か ら、遺物 が 集 中 して 出土 した。
湧水 の 存在 や 、平 坦 地 を周 囲 に もつ 南 向 きの緩斜 面や 溶岩 のつ くる高 ま りの 存在 な どの地 形 的
環境 は、 駒 出池遺 跡 の性格 を解 明す るため の大 きな手 がか りと思 われ る。
-9-
じ
500m
第 6図
駒 出池遺跡周辺 の地形
(3)千 曲 川 沿 い の 段 丘 地 形
千 曲川流域 には後期更新世 に形成 された河岸段 丘が発達 して い る。 とくに最上流部 の川上村 で
模式的 に段丘地形が発達 してお り、高位 よ り大原面、大深山面、馬場平面、小川 口面、沖積段 丘
面 の 5面 に区分 され、佐久 ローム層 との関係 が あきらかにされて い る (八 ケ岳団研 ,19880数 土
,
1990MS)。
八千穂村周辺に も千 曲川 に沿 って 5段 の段 丘面 が確認 できる。 これ らは、今 回の発掘 であきら
かになった池の平周辺に分布す る佐久 ローム層 の 区分や年代 を検討す る上で大 きな手がか りとな
第 2表
八千穂村千曲川流域
Lヒ
高 (m) 左岸段 丘面
1989
(武 智、
MS:田
右岸段 丘 面
穂
積
八 千穂村 千 曲川流域 の段 丘 面 とその対比
1991M勁
中、
被
覆
層
の
池
平
辺
周
川上村周辺
段
面
原
面 下部佐久ローム層 60-100
` ンパ ″
オレ ジ ミス
形
面
被
覆
層
面
5
面 面 面
間
瀬
畑 泥 流 大
面
(上 部
佐久ローム層?)
肺円
石
脚
本
海
東 高 下
面
被
覆
層 比高 (m)
中部佐久ローム層 池 の平 Ⅱ面 中部佐久ローム層 大 深 山 面 中部佐久ローム層 30-40
`
`
`
Prn l″
Pm-1ク ?
Prl■ l″
馬場 平 面
畑
MSl
下部佐久ローム層 池 の 平 I面 下部佐久ローム層 大
面 `
`レン パ ″
人那池軽石流″
オ ジ ミス
宮の下面
人
(数 土、199o
丘
地
反
中部佐久ローム層 20-40
面 上部佐久ローム層 小 川 口 面 上部佐久ローム層 10-20
(青
スコローム
)
大 月川泥 流
大 月川泥 流
沖積 段 丘 面
下 海 瀬 面
-10-
5
る。 さらに、大石 川沿 いの段 丘 を調査 し、池 の平遺跡群 の広 が りを検討 して い く上 での基礎的 な
資料 となると思 われ る。 ここでは、 八千穂村周辺 の河岸段 丘の概要 を述べ 、川上村地域 の段 丘 面
と池 の平周辺 の地 形面 との対 比 を検討す る。
八千穂村周辺 にみ られ る 5段 の段 丘 地形 は、 河床 との比 高や段 丘 を構成す る礫 層、 これ らを覆
う地 層 の違 いな どに よ りさらに 8面 に 区分 で きる (第 2表 、第 7図 )。 この うち、後期更新世 に形
成 されたのは穂積面 。宮 の下面 。畑八 面 。海瀬面で、本間面以下 は完新世 に形成 された完新世段
丘で ある。
穂積面は比高約 50mの 段 丘 面 で、千 曲川右岸 の佐久町海瀬か ら八千穂村穂積 にかけて発達す る。
海瀬付近では開析 が進んでい るが、上流側 では段 丘 面 が よ く保存 されて い る。穂積 面は穂積礫 層
(八 ケ岳 団研 ,1976)と
これ を整合 に覆 う八 那池軽石流 (河 内,1961)に よ り構成 され る。穂積
°
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イ
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g
海 瀬 面
高
岩
面
東
馬 流 面
本
面
ノ
`
面
瀬
面
畑
間
海
宮
の 下面
穂
積
第 7図
八 千穂 村周 辺 の段 丘 面 区分
-11-
r面
礫層は層厚30m、 淘汰不良の亜 円 ∼円礫か らなる。礫種 の約 80%は 八ケ岳起源 の安 山岩類、残 り
の約 20%が 関東 山地起源 のチャー ト・ ホル ンフェルス・花商岩類 などである。八那池 軽石流は、
灰 白色 ∼ 白色 の角 閃石輝石安 山岩質 の軽石 を含む、紫灰色 ∼青灰色 の粗粒火山灰 層 である。模式
地 の八千穂村 八郡 では層厚70m以 上、下部佐久 ローム層 に整合 に覆 われ る。 この八那 池軽石流は、
佐久町赤屋地域 では水 成層 として認め られ るが、上流 の八 千穂村穴原では完全 な水成 層 ではな い。
そのため、穂積段 丘 は上流側か ら徐 々 に離水 した もの と推定 され る。
宮 の下面は比 高40mの 段 丘で、千曲川左岸 の小海町宮 の下 か ら同町馬流にかけて分布す る。段
丘 面はほ とん ど開析 されて いない。宮 の下面は宮 の下礫層 (河 内,1974)に よ り構成 され る。 宮
の下礫層は海 の 口泥流 を非整合 に覆 い、層厚 30m、 淘汰不良 の 円 ∼亜円礫 か らなる礫 層 である。
礫種 の約 30%は 八ケ岳起源 の安 山岩類、約 70%が 関東 山地起源 のホルンフェルス・チャー トな ど
である。 宮 の下礫層は海 の口泥流 を挟在 し、 中部佐久 ローム層上半部 に覆 われて い る。
海瀬段 丘は比高 10∼ 15mで 、千 曲川右岸 の佐久町四 ツ谷 か ら八千穂村天神町にかけて、穂積面
に沿 って連続 して発達す る。海瀬面 は海瀬礫 層 (武 智 ,1989MS)に よ り構成 され る。海瀬礫 層 は
層厚 4.5m、 八ケ岳起源 の安 山岩類 を主体 とす る亜円 ∼円礫層で、八千穂 層群 を不整合 に覆 い畑泥
几
A
川上 村 周辺
B
八千穂 村 周 辺
II」
螂螂椰
佐久 ローム層
鍵層
“デ カパ ミ"
“
青 ス コ"
“Pm-1"
部 部部
上中下
海 瀬 面
馬流面
東′
下海瀬面
高 岩 面
第 8図
千 曲川流域 の段 丘 面 と被覆す る佐久 ロー ム 層
―-12-―
流
(田
中,1991MS)に よ り整合 に覆 われ る。佐久町下新 田・海瀬 では、佐久 ローム層 上部 と推定
され る風化火 山灰 層が この面 を覆 って い るのが確認で きた。
畑八段丘は、比高 15mの 段 丘 で千 曲川左岸 の八 千穂村下畑か ら清水 町 にかけて分 布す る。畑八
礫層 (北 八ケ岳 グループ,1980)に よ り構成 され る。畑八礫層は畑泥流
(田
中,1991MS)に 整 合
に覆 われ る亜角 ∼亜 円礫 層 で、礫種 の約 30%が 八ケ岳起源 の安 山岩類、約 70%が 関東 山地起源 の
ホル ン フェル ス・ ス レー ト・ チ ャー トであ る。 畑 八 礫 層 か らはRzル メ
(MAKIYAMA)の 自歯
"θ
*が
ゐ % %α %%α %%グ
産 出 して い る (北 八 ヶ岳 サブグループ,1980)。
。
。
本 間 中畑 東 馬流 ・下海瀬 ・高岩 の各段 丘 は、佐久 ローム層 に覆われない こ とや比 高か ら完
新世 に形成 された沖積段 丘 と判定 で きる。 この うち、本間面 と東馬流面は ともに大月川泥流に覆
われてい る。 しか し、比高が異 なるこ とや大 月川泥流 の流下は何 回 もあ ったこ とか ら両者 を区分
した。 高岩面 と下海瀬 面は比高が 同 じだが、分布域 が離れ て い るために区分 した。 しか しほぼ同
じ時期 に形成 された もの と考 えられ る。
被覆す る佐久 ローム層 の層位 関係や比高か ら、川上地域や池の平遺跡群 の立地 す る地形面 との
対 比 を試み る
(第
8図 )。 穂積面では “オ レン ジパ ミス"は 確認 されて いな いが、その下位 の八 那
池軽石流 を整合 にのせ て い る。池の平 I面 は、今 回の発掘 で “オ レン ジパ ミス"に 覆 われて い る
こ とがあ きらか となった。 ともに下部佐久 ローム層 をのせ て い る。 よって穂積 面 ・池 の平 I面 は
大原面に対比 され る。
Pm l"以 上 の 中部佐久 ローム層 をのせ るこ とか ら大深山面 との対 比がで き
また、 宮の下面は “
る。 また、池 の平 Ⅱ面 を被覆す る佐久 ローム層 は “
Pm-1"以 上 の 中部佐久 ローム層 とされ (池 の
平遺跡発掘調査 団,1986)、 池 の平 H面 も大深 山面にほぼ対比 され る。畑八・海瀬面は上部佐久 ロ
ーム層 をのせ 、 比 高か らも小川 口面 に対比 され る可能性 が 高 い。大反面 も上部佐久 ローム層 Ⅱ以
上 の層準 に被覆 されてお り、 ほぼ小 川 口面に対比が可能 である。 しか し、鍵 層 による詳細 な対 比
は今後 の課題 である。
B.八 千 穂 村 の 遺 跡
(1)八 千穂オすの遺跡の分布状況
八 千穂 村 の遺 跡 は、 千 曲川 とその支 流 に よ る水 系 に規制 され た分布 を示 す。穂 積 地 区 を中心 と
した千 曲川右 岸 地域 、 畑地 区 を中心 とした千 曲川左 岸 地域 、大石 川支 流 の石 堂 川流域 地域 、 同 じ
く入堂 川 流域 地域 、大石 川流域 地域 、 さ らに大石 川上 流 の 池 の 平遺 跡群 の 6地 域 が あ る。
①千曲川右岸地域 三段 丘 面上 に崎 田原など 4遺 跡が ある。崎田原遺跡は、 1947年 以降 の開 田工事
で破 壊 されたが、1954年 と1955年 に一部緊急調査がお こなわれ、縄文時代 中期 。後期、弥生時代
後期、お よび平安時代 の遺跡であるこ とが明 らかになって い る (五 十嵐幹雄 ,195501958)。
*八 木 (1928)に よ りaη 力αs″
gθ π
ttθ ガグ
(POHLIG)と
`ο
-13-
され た もの。
遺跡
南部 の 下諏訪神 社 西側 では、 旧石 器 時代 の尖 頭器 が 採集 されて い る。 ま た、「信 濃 資料 」に よれば
関谷遺 跡 で縄文 時代 前期 ・後期 の土 器 と ともに 旧石 器 時代 の 尖頭器 が あ る こ とが、記 載 され て い
る。
② 千 曲川 左 岸地 域 :千 曲川 ぞ いの段 丘 面 とそ の 背後 の 平 坦 地 に10遺 跡 が あ る。 佐 口遺 跡、勝 見 沢
遺 跡 は戦 後 の 開 田作 業 で主要部分 が破壊 され た遺 跡 であ る。 と りわけ勝 見沢 遺 跡 は、 平 安 時代 の
八 稜鏡 、 土 師器 な どが 出土 してお り、 注 目され る。 多 くの 遺 跡 は縄文 時代 と平 安 時代 に属 して い
る。 ム ジナ 沢、 宮 ノ入 、細久保 遺 跡 では、縄文 時代 前期 前半 の有 尾式期 に、上 野 月夜 原、封 地 、
月夜平遺 跡 では 、 中期 後半 の加曾 利 E式 期 に、 そ して竹 ノ下、封 地 、 月夜平遺 跡 では 後期 に属 す。
③石堂川流域地域
:4遺 跡あ り、 どこも縄文時代前期 の有尾式期 をはじまりとしてい る。鷺の口
遺跡は、縄文時代前期 。中期 と平安時代 の遺物の多い遺跡である。
④入堂川流域地域 :10遺 跡あり、大規模 な遺跡が多い。中松井遺跡は1952年 開墾により発見され、
同年10月 に発掘調査がおこなわれ、縄文時代早期末の条痕文系土器、前期初頭の花積下層式土器、
後期 、 お よび平安 時代 の土 師器 、須 恵器 な どが 出土 し、条痕文 土 器 の竪 穴住 居 址 1基 が検 出 され
た (竹 内恒・五 十嵐幹雄 ,1952)。 東松 井遺 跡 では縄文 時代 早期 前半 の 押 型文 土器 、前期 前半 の 花
積 下 層式 土器 と有 尾式 土 器 、 前期 後半 の上 原式 土器 、 そ して 中期 初 頭 と後半 の土 器、 さ らに平 安
時代 の土 師器 、須 恵器 な どが 出土 して い る。 一 軒家遺 跡 で は、縄文 時代 早期 前半 の押 型文 土 器 、
早期 末 の 条痕文 土 器 、前期 の 花積 下 層 式 土 器 、有 尾 式 土 器 、 中期 の加 曾 利 E式 土 器、 後期 の 堀 ノ
内式 土 器 、平安 時代 の土 師器 、須 恵器 な どが 出土 して い る。 これ ら入堂 川流域 の 遺跡 は、佐 々 木
広雄 氏 の 調査 に よる ものが 多 い (長 野県史 ・考 古 資料 編 )。
⑤大石川流域地域 :6遺 跡ある。大石遺跡は大石川左岸の段丘上に立地す る縄文時代中期後半の
加曾利E式 と後期の堀 ノ内式の時期の遺跡である。1987年 島崎和夫氏宅の工事中に旧石器時代末
の尖頭器が発見 されている。四十町歩平遺跡は、今回の調査で発見された遺跡である。
⑥ 池 の平遺跡群 (大 石川上流地域 ):村 内のほかの地域 と異な り、 八ケ岳 に近 く標高の 高 い地域に
位 置 し、 まわ りの 山地 に比べ て相対的 になだ らかな緩斜面 をつ くる池 の平溶岩 の流下域 に分 布す
る。 これ までに10遺 跡が知 られて い る。ナイフ形石器文化 の トリデ ロ ック遺跡、 八千穂 レイク遺
跡、 旧石器 時代末 ∼縄文草創期 の駒 出池 (池 の平牧合上)、 塩 くれば、大反遺跡 などの旧石器時代
を中心 とした多 くの遺跡が分布す る。
。
。
石骨遺跡は、溶岩流 の末端 に位置す る縄文時代早期 。前期末 中期後半 後期 を中心 とす る大
規模 な遺跡である。今 回の調査 で発 見 された。
9)八
千 穂 村 の 遺 跡 の 時 代 的 な特 徴
今 回までの調査 で八千穂村 の遺跡は、44ケ 所確認 されて い る。 旧石器 時代 に属す遺跡 は、池 の
平遺跡群 に 多いが、 ほかに大石川流域 と千 曲川左岸に も分布す る。今 の ところ最 も古 い遺跡は、
ナ イフ形石器文化 に属す と思われ る八千穂 レイク遺跡 と トリデ ロ ック遺跡 である。 このほかの遺
跡は、 ほ とん どが 旧石器 時代末期 の尖頭器文化 に属す ものである。尖頭器文化 の一部 は、縄文時
一-14-―
第 9図
八 千穂 村遺跡分布 図
―-15-
3表
第
IMI遺 跡名 │」署冒覧 1早 期
│ 千 曲川右岸地域
醐
八 千穂 村 遺 跡 一 覧 表
時期不明 1弥
醐
劉
朝
___r_一
生
安
1輔 1平
1中
世
│
―
―
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―
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r一 一 一 !
r_― ― T一 一 ―・―
一 一・―
一 一 ――
I
IO箱 清水 │
│○ 土lT 須恵│
│
以 │卜瓢陶:││││1珈 Ⅲ
1撻 1螂
1 11崎 田原
L__」 ______―
│
│○ 尖頭器 │
│○ 勝坂 │○ 加曾利BI
│
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1
代 草創期 に入 る もの もあ る と思 われ る。
縄文 時代 の 遺 跡 では、 一 軒 家 遺 跡 と東松 井遺 跡 の 早期 前半 の 押型文 土 器 が最 も古 く位 置づ け ら
れ る。 早期 末 の 条痕文 系 土 器 は、一 軒家、 中松 井 、石 骨、 トリデ ロ ッ クな どの遺 跡 で 出土 して い
る。 これ まで茅 山式 とされて い た もの で あ るが、表 裏 に条痕文 が あ り、胎 土 には繊維 を多 く含 み 、
中 に は絡 条体 圧 痕文 が 施 され た ものが み られ、 長野 県 。新 潟 県 な どで早期 末 に特 徴 的 な土器 で あ
る。
縄文 時代 前期 か ら後期 の遺 跡 は、村 内全般 にみ られ る。 しか し、縄 文 時代 の 晩期 か ら奈 良 時代
にか けて は、 遺 跡 が あ ま り知 られ て い な い。平安 時代 にな る と再 び村 内全 域 に遺 跡 が 分 布 す る。
縄文 時代 の後 半 か ら古 墳 ・奈 良時代 の遺 跡 が 減少 す る傾 向 は、 野尻湖 周 辺 で も認 め られ、長 野 県
内 の 山間部 に 多 くみ られ る現 象 と思 われ る。
なお、一覧 表 以外 で、 中世 の城 跡 として 馬越城 跡 (馬 越 )、 通城 跡 (八 郡 )、 佐 口城 跡 (佐 口)、
大石 川蜂 火 台、権 現 山砦、下畑城 跡 (下 畑 )、 下畑下 の城 跡、 蟻城 跡 (穴 原・崎 田)な どが あ る (長
野県教 育 委員会 ,1983;井 出正 義 ,1990)。
-17-
3
質
A.地 質概要
駒 出池遺 跡 は八 ヶ岳 の 東側 の 中腹 に位 置 し、 そ の立地 は八 ヶ岳 火 山 の生 い 立 ち と深 くかか わ っ
て い る。 八 ヶ岳 火 山は長 野 県 の 中央部 に位 置 し、 東 西 35km、 南 北60kmほ どの広 さを もつ 火 山群 か
ら構 成 され る。山稜 部 には標 高 2,000mを 越 え る約 30も の 峰 が 見 られ、南北 21kmに お よぶ火 山列 を
なして い る。
八 ヶ岳 火 山の活動期 は河 内 (1961)に よ り研究 され、
山麓面 を形成 した火 山活動 の休 止期 を境 に古八 ヶ岳期
第 4表
八 ヶ岳 山麓 の 第 四系 層序表
と新 八 ヶ岳期 に区分 されて い る。古八 ヶ岳期 の火 山活
ロー ム 層
地層層序
代
区分
年
動 は 0∼ 2期 に区分 され、活動が北八 ヶ岳 で始 ま り、
鍵
層
東列 に沿 って南部 に活動 の場 が移動 した。新 八 ヶ岳期
完 新 統
完新世
は 1∼ 6期 に区分 され、 南八 ヶ岳 の赤岳周辺 で活動 が
低位Ⅲ段 丘面構成層
八 ヶ岳団体研究 グループ (以 下、八 ヶ岳団研 と呼ぶ
)
は八 ヶ岳 山麓や周辺 山地 に堆積 した噴出物 の層序 と周
期
第
こなった。八 ヶ岳 団研 (1982,1988)に よれば、 これ
期
八 ヶ岳 山麓お よび周辺地域 の風成火山灰層 は、前期
B
A
最
鮮新世
布
彗
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リ
`多
八 千穂 ロー ム層
―-18-一
部
ン
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ミス
フ
(菫 ::書
ー旭ヶ丘タフ(パ ープル
)
A
これ らの地層 に挟 まれ た八 ヶ岳 お よび周辺火 山か ら噴
効 な鍵 層 になって い る。
上
中 部 下部
期
八千穂層 群
お よび中期更新世 に堆積 した南佐久層群 と後期更新世
出 した火 山灰層は、風成層 と水成層 を対比す る上 で有
部
最上部
一
削
世
ら前期更新世 に堆積 した八 千穂層群 。松井 くされ礫層
に堆積 した低位段 丘面構成層お よび完新統 か らなる。
下
最
松井 くされ礫 層
層 お よび広 瀬 ローム層 と後期更新世 に堆積 した佐久 ロ
ーム層か らなる。八 ヶ岳 山麓 の水成層は、鮮新世末 か
I
ン
′ を
緋嘲
∼中期更新世 に堆積 した八 千穂 ローム層 。松井 ローム
広 瀬 ロー ム層
新
層か らなる (第 4表 )。
部
H
中 部 下部
四
南佐久層群
中
上部
わゆ るローム層)と 同時期 の水成
上
最
らの第四系は前期更新世 か ら後期更新世 に堆積 した風
(い
―ヒゲパミ(Pm-1')
―Sandy Pm(Dpm)
低位H段 丘面構成層
更
辺地域 の鮮新 ―更新統 を調べ 、第四系 の層序区分 をお
成風化火 山灰層
パ コ ・
効乃譲 ・
S
後
2万 年前に横岳 の活動 をもって終息 した とされて い る。
佐 久 ロー ム層
始 まり西列 に沿 って北八 ヶ岳 に活動 の場 が移動 し、約
下
引
`だん ごパ ミス
部
層
八 ヶ岳 山麓 の溶岩類 な どか らなる火 山噴出物 は、 八千穂 層群 お よび南佐久層群 に挟在 し、後期
更新世 に噴出 した溶岩類 は北八 ヶ岳 では池の平 溶岩、大反溶岩 などか らなる。 これ らの溶岩類 に
は八 ヶ岳 お よび周辺火 山よ り供給 された火 山灰層 が被覆 し、火山噴出物 を対比す る上 で有効 な鍵
層 になって い る。
八 ヶ岳東麓 の佐久 ローム層 は、下位 よ り下部 。中部 。上部 。最 上部 層 に区分 され る。 また池 ノ
平遺跡発掘調査 団 (1986)は 、大反 ・塩 くれば遺跡周辺に分 布す る上 部 ∼最上部佐久 ローム層 を
細分 し、砂粒組成や火 山ガラスの屈折率、全窒素量 などを併せて検討 した。 その結果、上部佐久
ローム層 を Iか らVに 、黒色火 山灰層 を I・ Ⅱ・Ⅲに区分 した。 また、地形的特徴や被覆す る ロ
ーム層 との関係 か ら、池 の平溶岩類 を大反溶岩 ・池 の平溶岩
I・
Ⅱに細分 した。佐久 ローム層 の
砂粒組成 は模 式地の小海町八那池 と発掘地に分 布す るローム層 で検討 され、上部佐久 ローム層 Ⅲ
∼Vは 砂粒組成 の特徴 に基づ き a∼ h帯 に分 帯 した。池 ノ平遺跡発掘調査 団 (1986)お よび近藤
(1988)は 上部佐久 ローム層Ⅳの火 山ガ ラス含有層準 を検討 し、3層 準 み られ る火山ガラス密集
帯 を “池 の平火 山灰
I・
Ⅱ・Ⅲ "と 呼 んだ。
駒 出池発掘地は、八千穂層群 が侵 食 されて形成 された谷筋 を流下 した池 の平溶岩 Iの 上 に位 置
し、池 の平溶岩 の上 を佐久 ローム層 が覆 って い る。
B.発 掘地の地質
駒出池発掘 地では、試掘溝 の壁面 で池の平 溶岩
厚
I(池 の平遺跡発掘調査 団,1986)の 上位 に層
2mの 佐久 ローム層 お よび黒色火 山灰層
土
埋
九 新 世
一
に変化 し、大反 ・塩 くれば遺跡で確認 され
た層序 に くらべ 欠如 して い る部分 も多い。
I
今 回の発掘 の試掘溝壁面 で確認 された地質
Ⅲ ∼Vに 区分 され、上部佐久 ローム層Ⅲ と
Vの 下底 は斜交関係 を伴 う不整合 に よって
後
,明
下位層 と接 してい る。上部佐久 ローム層 の
上位 には、暗褐色 ∼黒色 の風化火 山灰層が
見 られ る。 これ らは黒色火 山灰層 Iと Ⅲに
暗 灰 色細 粒 火山灰 質 土 層
晰
モヤ H
嗜褐 色風 化 火 山灰 層
多
モヤ
黒黄 褐 色風 化 火山灰 層
I
相
黄灰 褐 色軽 石 ま し り風化 火 山灰 層
黄橙 色軽 石や黒曜岩 片 を含 む
デカパ ミローム
デ
II
黄橙 色軽石 を含む黄 褐色風 化 火 山灰 層
黄橙 色軽 石 を含 む貢 褐 色風 fヒ 火 山灰 層
下半部
カ
黄 橙 色軽石 層
黒 曜 岩 片 を含 む
1
A
7
黄 橙 色軽石 を含 む黄 褐 色風 fヒ 火 山灰 層
ム
青 ス コ ロー ム
ス コ リア ま し りの黄 褐 色風 化 火 山灰 層
オレンジパ ミス
赤褐色軽石層 と紫灰色粗粒火山灰層の互層
世 層
下
部
I
︺VνVい
池の平溶岩
︺
︺
V
”
W
区分 され る。
新
層
黒 色土
B L半 部
久
更
(cm)
ローム 層 のプ ロ ック を含 む埋 土 層
上 部
層 は下部佐久 ローム層 と上部佐久 ロー ム層
層厚
X
V
佐
層序 を第10図 に示 す。確 認 した佐久 ローム
鍵 層名
層 序 区分 模式柱状図
黒色火 山灰層
あ り、風成火 山灰層 の発達が グ リッ ドごと
時代
を確認 した。発掘 地が尾根 筋 とい うこ とも
第10図
―-19-
かんらん石複輝石安山岩質溶岩
発掘地 の地質層序
(1)地 質 各 説
①池 の平溶岩
l
かん らん石複輝石含有安 山岩質溶岩 で、発掘地周辺か ら水無川下 流 の池 の平 I面 を構成 して い
る。発掘地の東側、 ア ー12、 イ ー21グ リッ ドで確認 された。
池 の平溶岩 は河内 (1974)に よ り命名 されたが、池 の平遺跡発掘調査 団 (1986)は 地形 的特徴
や被覆 層 との関係 か ら池 の平溶岩
I、
Ⅱ、大反溶岩に細分 した。八 ヶ岳 団研 (1988)は 、池 の平
Pm-lA"を 挟在 す る中部佐久 ローム層 Ⅱに整合 に覆 われ る溶岩 とした。 しか し、今 回の
溶岩 を “
調査 によ り、池 の平溶岩 Iは “オ レン ジパ ミス"を 挟在す る下部佐久 ローム層 に、池 の平溶岩 Ⅱ
Pm-1"を 挟在す る中部佐久 ロー ム層 Ⅱに それぞれ整合 に覆 われ るこ とが明 らか となった。
は “
②下部佐久 ローム層
発掘地 に分 布 す る本 層 は両輝石安 山岩質 ス コ リア と紫灰 ∼黄褐色粗粒火 山灰 層 の互 層 で あ る
“オ レンジパ ミス"お よび風化火 山灰層 か らなる。本層 は、 イー21グ リッ ドにお いて、池 の平溶
岩 Iの くぼんだ部分 にお いて確認 された。層厚 は30cm+で ある。
③ 上部佐久 ローム層
上部佐久 ロー ム層Ⅲは暗褐色風化火 山灰層か らな り、青灰色火 山岩片 を含む粗粒 な風化火 山灰
層 の層相 を呈す る。上部佐久 ロー ム層 Ⅲの下底 は斜 交 関係 を伴 う不整合 によって下位層 と接 して
お り、 中部佐久 ローム層 か ら上部佐久 ローム層 Hの 層準 は発掘 したグ リッ ドの試掘溝 では確認で
きなかった。 層厚 は50cmで ある。
上部佐久 ロー ム層Ⅳ は、 “デカパ ミ"と 呼ぶ発泡 の よい両輝石安 山岩質 の橙 色軽石 を主体 とす る
地 層 であ る。 これ らはA層 とB層 に区分 され、 B層 はさらに下位 よ り I、 Ⅱに細分 される。 A層
は粒径 10∼ 20mm程 度 の橙色軽石 まじりの灰褐色 ローム層か らなる。 層厚 は 7 cmで ある。 BI層 は
明橙色 降下軽石 層か らな り、軽石 の粒径 は30∼ 40mmで ある。黒曜岩片 を含み、軽石 の隙間に充損
物 は見 られない。層厚 は25cmで あ る。 BⅡ 層 は層相 によ り上 。下半部 に細分 され る。 BⅡ 層下半
部 は橙色軽石 を含む灰褐色風化火 山灰 層か らなる。層厚 は 9 cmで ある。本 層 は火 山ガ ラス を多 く
含み、発掘地周辺では同層準 に細粒 ガ ラス質火 山灰層が レンズ状に挟在 す るこ とが観察 され る。
この火 山灰 層 は “
池 の平火 山灰 Ⅱ"に あた り、火 山ガラスの形態や屈折率 は “
姶良Tn火 山灰 "に
類似 して い る。 BⅡ 層上半部 は橙 色軽石 を含 む灰 褐色風化火山灰 層か らなる。 層厚 は 8 cmで ある。
上部佐久 ロー ム層 Vは 軟質 の黄褐色細粒風化火山灰 層 か らな り、橙 ∼黄色軽石や赤色 ス コ リア
を多 く含 む。 層厚 は12cmで ある。上部 佐久 口τム層 Vの 下底は斜交 関係 を伴 う不整合 によって下
位層 と接 して い る。駒 出池発掘地 の本層は大反 ・塩 くれば遺跡周辺に分布す る上部佐久 ローム層
V“ デカパ ミローム"に 対 比 され る。
④黒色火 山灰層
│
駒 出池発掘地周辺では、上 部佐久 ローム層 の上位 に固結の悪 い暗褐色風化火山灰 か らなる本層
が重なってい る。層厚34cmで ある。大反遺跡で確認 された、 いわゆるソフ トロームの層相 を呈す
―-20-
る最上部佐久 ローム層 は認め られない。本層 の境界は不明瞭で上下 の地 層 に漸移 して い る。本 層
は色調に よ り暗黄褐色 を呈 す る “モヤ
I"と 暗褐色 を呈す る “モヤ Ⅱ"に 細分 され る。 しか し両
者 は層準 として確実 な ものでは な く、風化火 山灰層 を母材 に土壌化作用 によ り形成 された堆積物
の可能性 もある。
⑤黒色 火山灰 層 │││
駒 出池発掘地周辺 では、黒色火 山灰層 Iの 上 に軽石粒 を含み、空隙の 多 い軽 い黒褐色火 山灰層
が直接 の って きてい る。 層相 お よび現在 の表 土層 を構成 して い るこ とな どか ら黒色火 山灰 層Ⅲに
対 比 され るもの と考 え られ る。大反 。塩 くれば発掘地で確認 された “こ しあんア ッシュ"と 呼ぶ
鍵層 を挟む、黒色火 山灰層 Ⅱは今 回確 認す るこ とはで きなか った。
9)各
グ リッ ドの 地 質 の 特 徴
貝
発掘地西イ
Jの
J-6グ
リッ ドでは、下位 よ り上部佐久 ローム層Ⅲ・IV・
Vが ほぼ水 平 に堆積 して
お り、駒 出池発掘地 の模式的 な地質断面 となって い る (第 11図 )。 上部佐久 ローム層Ⅳ BⅡ は下半
部 と上半部 に区分 され、上半部下底付近 は火 山ガラス を多 く含む。
K-49グ
発掘地 中央部 の 」-1、 K-48、
リッ ドでは下位 より上部佐久 ローム層Ⅲ ・Ⅳ ・ Vが
堆積 してお り、J-1グ リッ ドでは黒色火 山灰層 Iが み られ る。上部佐久 ローム層 Vは 下位 の上部
佐久 ロー ム層 と斜交 しなが ら堆積 してお り、上部佐久 ローム層 Vと 下位層 の関係 を示す模式的な
地質断面 となってい る
(第 12・ 13図
)。
第14。 15図 に示 す ように、発掘 地東側 のアー12、 イー21グ リッ ドでは下位 よ り池 の平溶岩
I、
下部佐久 ローム層、上部佐久 ローム層 Vが 堆積 してお り、 イ ー21で は黒色火 山灰層 Iが 見 られ る。
上部佐久 ローム層 Vお よび黒色火 山灰層 Iは 、下位 の下部佐久 ローム層や上部佐久 ローム層Ⅲ を
覆 って堆積 して い る。発掘地 東側 の グ リッ ドは池の平溶岩 Iが 露出す る尾根の斜面にあた り、堆
」-7
│
第11図
J-6グ
リッ ド北側 の壁面 の スケ ッチ
―-21-―
J-1グ
第12図
リッ ド北側 の壁面 のスケ ッチ
K-49
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第 13図
第 14図
K-48グ
リッ ド南 側 の 壁 面 の ス ケ ッチ
ア ー12グ リッ ド北東側 の壁面 の スケ ッチ
一-22-一
ttt
積物は溶岩上の凹凸を埋めるように堆積 し、傾斜 もしてい る。 またかな りの削剥 を受けてお り、
発掘地中央部の模式層序 とは異なってい る。
21
イー
│
第15図
G)発
イ ー21グ リッ ド北西 1の 壁面 の スケ ッチ
4員
掘地 周辺 の地質
駒 出池発掘 地 周 辺 の地 質 図お よび断面 図 を第 16図 、 第 17図 に示 す。
池 の平 溶岩 Iは 、発 掘 地 の東側 の尾根付近 で地表 に露 出 して い るが、発掘 地 周辺 で は佐 久 ロー
ム 層 に被 覆 され て い る。発掘地 の 南西方 向 の斜 面 は池 の 平 溶 岩 Ⅱの 溶岩末端崖 に あ た り、 そ の 比
高 は約 40mほ どで あ る。
発 掘地 は池 の平 溶岩 Ⅱの 溶岩末端崖 と池 の 平 溶岩 Iが 露 出す る尾根 に挟 まれ た、 池 の平 キ ャ ン
プ場 の施 設 が 点在 す る駒 出池北側 の尾根 上 に立地 して い る。発 掘地 の尾根 にみ られ る池 の 平 溶岩
Iは 、地 表 の 地 質調 査 とハ ン ドオー ガー に よる調査 に よ り、尾根東側 の地表 か ら西 に 向 か って深
さ 5mま で傾 斜 しなが ら分布 して い る。駒 出池周 辺 の 平坦地 形 は池 の平 溶岩
I、
池 の 平 溶岩 Ⅱの
つ くる原地形 を うめ た下部佐久 ロー ム層 以上 の 風成 火 山灰 層 に よ り形成 され、 そ の分 布 は溶岩 の
侵 食谷地 形 に大 き く影響 されて い る と考 え られ る。
上部佐 久 ロー ム 層 Ⅳ 以上 の地 層 は、発掘地 周 辺 の 尾根 お よび駒 出池南方 の斜 面 に沿 って分 布 し
てお り、 そ の分 布 は原地形 にほぼ そ った もの であ る。
一-23-―
第16図
駒 出池発掘地周辺 の 地 質 図
駒 出池発 掘 地 周 辺 の 地 質 断 面 図
一-24-―
C.佐 久 ローム層および黒色火山灰層の標準層序
ここでは、遺物包含層 の年代 を検討す る上 で必要 となる八千穂村周辺 の佐久 ローム層 の層序 に
つ いて述 べ る (第 18図 )。 以下、各部層 ご とに記載す るが模式地は小海町八那池お よび五箇付近 で
ある。佐久 ロー ム層 は八 ヶ岳 団研 (1976)に よって命名 され、八 ヶ岳団研 (1988)は 八 ヶ岳 山麓
に広 く分布す る本層 の詳細 な層序 を記載 した。
(1)下 部 佐 久 ロ ー ム 層
中部更新統 を不整合 に覆 い、八那池軽石 流 を整合 に覆 う風化 火 山灰層 である。
分布 :南 佐久郡 八千穂村千曲川右岸 の穂積段 丘 面上、八 ヶ岳 山麓部 と関東 山地 内の平 坦面お よび
斜面 に分 布す る。
層厚 :模 式地 で 3m
層相 :佐 久 ロー ム層 の 中で最 も粘 土化 が進 んだ暗褐色 ∼紫灰色 の細粒風化 火 山灰層か らな り、東
麓 地域 では発達 が よい。本層最上部 は粘土化 の著 しく顕著 な風化 帯 がみ られ る。
鍵層 :本 層 には八 ヶ岳起源 の黒灰色粗粒火 山灰層 と発泡 の よい両輝石安 山岩質 ス コ リア層 の互 層
である “オ レンジパ ミス"と 呼 ばれ る降下 火砕物 を挟在す る。 “オ レンジパ ミス"は 硫黄岳付近 か
ら噴 出 した とされ て い る (八 ヶ岳 団研 ,1988)。
層序区分
黒 色 火 山 灰 層
下部佐久 ローム層 を非整合 に覆 う風化 火
山灰層 である。層相 に よ り下位 か ら Iと Ⅱ
に細分 され る。
新
世
II
後
層相 :暗 褐色 か ら褐色 の細粒風化 火 山灰層
期
久
ス コ リア ま しりの黄 褐 色風 fヒ 火 山灰 層
1
│
新
ム
]]]む
I
下
Pm-2B
黄 褐 色風 化火山灰層 か らな る
ス コ リアや 軽石 を含 む
火山 ガ ラス を含 む層 準 がみ られ る
暗灰 鶴 色粘 土 質細粒 風 fヒ 火 山灰 層 か らな Z
上位 には風 化帯 が み られ る
黄灰色細粒風イ
ヒ火山灰
上位には風 帯がみられ、粘土 が著しく埋i★
土壌層 と考えられる
lel
fヒ
第 18図
一-25-―
S-1
Pm-3
オレンジパ ミス
部
灰褐色 か ら褐色 の細粒風化 火 山灰層か ら
なる中部佐久 ローム層 Ⅱは赤褐色 ス コ リア
青灰 色火山礫 ま しりl■ 粒 火 山灰 層
褐 色風 化火 山灰 層
Pm-1
埋
層
木 曽谷
)"(松 本盆 地 団体研究 グループ 。
サ ブグループ ,1985)を 挟在す る。
黄 橙色軽 石や黒 曜岩 片を含 む黄 褐 色風 fヒ メ
山灰 層や 黄 橙色軽石 層からなる
ガラス質 火 山灰 層を挟 在する
青ス コ
m
が D
ピ D
-1′
池の平火山灰H
更
世
植 物 片 を含 む黒 色火 山灰 層
火山ガラス を含む灰褐色火山灰層を挟在する
黒 灰 色火 山灰 層
デカパ ミ
中 部
Pm"や 軽石質細粒火 山灰層 “ヒゲパ ミ(Pm
相
貢灰 褐 色風 fヒ 火 山灰 層
黄橙 色軽 石 や黒 曜岩 片を含 む
上位 はやや 土 壊 化した暗 黄 褐 色風 化火 山灰
層からなる
上 部
佐
層
固結 の 悪 い 黄 褐 色風 化 火山灰 層
V
層厚 :模 式地 で3.5m
Sandy
る。下位 よ り軽石質粗粒火 山灰層 の“
鰊
最上部
平坦 面お よび斜面に分布す る。
リア、青灰色 か ら灰色 の火 山岩片 が点在す
しあんアッシ
I
郡段 丘 面、八 ヶ岳 山麓 地域 と関東 山地 内の
か らなる中部佐久 ローム層 Iは 赤褐色 ス コ
鍵層名
黒 褐 色争‖
粒 火 山灰層
分布 :穂 積段 丘面上、南佐久郡 八千穂村千
曲川左岸 の宮 の下段 丘面、大石川沿 いの八
模式柱状図
厚 い
時代
9)中 部佐久 ローム層
ロー ム層 の標準層序
佐ク、
fヒ
や青灰色岩片が点在 し、下位 よ り繊維状 の発泡 を呈 した黒雲母角 閃石含有黄 白色軽石 層 “
Pm-1"
Pm
軽石質粗粒火 山灰 層 の “
2B"や 軽石 質 火 山灰 層 “Pm-3"を
挟在す る。
Sandy Pm"は 立 山火山を噴出源 とす る “Dpm"(中 谷 ,1972)に
鍵層 :中 部佐久 ローム層 Iの “
対 比 され る (八 ヶ岳団研 ,1988)。 中部佐久 ロー ム層 Iの “ヒゲパ ミ"や 中部佐久 ロー ム層 Ⅱの 3
層準 の軽石 層 お よび軽石 質 火 山灰 層 は木 曽御岳火山起源 の 降下 火砕堆積 物 であ るとされて い る
(信 州研究 グループ,1969.八
ヶ岳団研 ,1988)。
池 の平遺跡発掘調査 団 (1986)は 八那池周辺 の佐久 ローム層 の砂粒組成 の検討によ り、 “
Pm-2
B"の 直下 と“
Pm 3"の 下位 にバ ブル ウォール型火 山ガラスの含有層準 を認めて い る。木村 (1987)
はこれ らの火 山ガラスの含有層準 をK‐ Tf、
O‐ Tfに
対 比 した。
鱚)上 部 佐 久 ロ ー ム 層
中部佐久 ロー ム層 を非整合 に覆 う風化火 山灰層であ り、層相 によって上部佐久 ローム層 I∼
V
に区分 され る。
分布 :南 佐久郡 八千穂村千 曲川左岸 の畑八段 丘面、 八 ヶ岳 山麓 と関東 山地内の平坦面お よび斜面
に分 布す る。
層厚 :模 式地 で1.5m
層相 :上 部佐久 ローム層 Vは 、褐色細粒風化火 山灰 層 か らな り下位 の 中部佐久 ローム層最上位 の
風化帯 を覆 って い る。本層 の下底 には赤褐色 ス コ リア層 の “
Sl"が 見 られ る。上半部 は安 山岩 質
岩片や青灰色火 山岩片 が 目立 つ風化火 山灰 層 か らな り、最上位 に紫灰色細粒火 山灰 層 お よび黄色
細粒軽石 層 が見 られる。 層厚 は模式地で80cmで ある。
上部佐久 ローム層 Ⅱは、黄 白色軽石粒 を含有す る輝石含有青灰色火山礫 まじリス コ リア層 の“
青
ス コ"(塩 川団研 グループ ,1976)か らなる。 層厚 は模式地 で40cmで ある。
上部佐久 ロー ム層Ⅲは暗褐色細粒風化火 山灰 層か らな り、下半部に青灰色火 山岩片が散在す る。
本層 中位 は、鉱物 の含有量 が 多い風化火 山灰 層 であ り、やや粗 い層相 を呈す る。層厚 は模式地 で
80cmで あ る。
上部佐久 ローム層Ⅳは、発泡の よい橙色軽石 層 である “デカパ ミ"(飯 島ほか ,1968)か らなる。
軽石粒 の 間 には黒色火 山砂や風化火 山灰層 が充損 されてお り、黒曜岩片が含 まれ る。 本層 の層厚
は模式地 では40cmで ある。本層は軽石 まじりの風化火山灰層か らなるA層 、降下軽石 層の BI層 、
細粒 ガ ラス質 火 山灰層お よび火 山ガ ラス・軽石 まじりの風化火山灰層か らなるBⅡ 層 に細分 され
て い る。 また、上部佐久 ローム層Ⅳの火 山ガ ラス含有 層準 は大反 。塩 くれば発掘地 ではA層 とB
Ⅱ下半部 の 2層 準 が確認 されて い る。
上部佐久 ロー ム層 Vは 軟質 の黄褐色細粒風化火 山灰層か らな り、黄色軽石や赤色 ス コ リア、青
灰色岩片が点在 す る。層厚 は模式地で20cmで ある。池 の平遺跡発掘調査 団 (1986)は 、池 の平遺
跡周辺に分布す る上部佐久 ローム層 Vを 層相 に よ り、軽石 まじりの風化火 山灰層か らなる “デカ
パ ミロー ム"、 土壌化 した暗褐色風化火 山灰層 か らなる “
黄 モヤ "に 細分 した。大反・塩 くれば発
―-26-―
掘地 の上部佐久 ロー ム層 V中 には尖頭器 を主体 とす る旧石器遺物包含 層 が確認 されて い る。
Sl"は 木 曽御岳 火 山起源 の降下 火砕堆積物 で あるとされ て い る
鍵層 :上 部佐久 ロー ム層 Iの “
(信 州研究 グルーフL1969)。
“
青 ス コ"と “デカパ ミ"は 八 ヶ岳 火 山を噴出源 とす る降下火砕物
で、分 布 は八那池か ら抜井川にか けての地域 に限 られ る。稲垣 (1972MS)は “デカパ ミ"の 噴出
源 を八柱 山西方 の雨池付近 であ ると推定 して い る。池 の平遺跡発掘調査団 (1986)は 八那池周辺
の佐久 ローム層 の砂粒 組成 の検討 によ り、上部佐久 ローム層Ⅲの 中部 に斜 方輝石、角 閃石、斜長
石 を多 く含有す る分帯 bを 記載 して い る。 この分 帯 bに 含 まれ る斜 方輝石 は (100)面 の発達 した
偏平 な晶癖 を持 ち八 ヶ岳起源 の もの とは区別が可 能 である。 こ うした特徴 をもつ斜方輝石 は大 山
倉吉軽石 層
(DKP:町 田 。新井 ,1992)に 含 まれる。 この分帯 bの 層準 は、広域 火 山灰 の “DKP"
に対 比 され る可 能性 が 高 い。 また、池 の平遺跡発掘調査 団 (1986)は 上部佐久 ローム層Ⅳ 中に偏
平型 の火 山ガラスの密集層 を確認 し、池 の平火 山灰層 I∼ Ⅲ と命名 した。
に)最 上 部 佐 久 ロ ー ム 層
最上部佐久 ローム層 は、上部佐久 ロー ム層 を斜交関係 で覆 う軟質 の風化火 山灰層 で黒色火 山灰
層 に斜交 関係 で覆 われ る。
分布 :ソ フ トローム段 丘 (八 ヶ岳 団研 ,1978)以 上 の段 丘面上 に極めて局所的 に分布す る。
層相 :固 結 の悪 い風化黄褐色火 山灰層 か らな り、上半部 には風化 した部分 がみ られ る。
層厚 :模 式地 の池 の平大反 で 5∼ 20cmで ある。
鍵層 :明 瞭な鍵 層 は確 認 されて い ない。
(励
黒 色 火 山灰 層
八 ヶ岳 山麓 に分 布す る完新世 に堆積 した火 山灰層は黒色火 山灰層 と呼 ばれて い る (八 ヶ岳団研
1976・ 1988)。
,
本層は周 辺 の火 山の活動 によって もたらされた降下火砕物 か らなる。佐久 ローム層
を整合 に覆 い、層相 に よって I∼ Ⅲに区分 され る。
分布 :八 ヶ岳 山麓 と関東 山地 内の平坦面および斜面に分布す る。
層厚 :模 式地で約
lm
層相 :黒 色火 山灰層 Iは 、礫 を含む黒灰色火 山灰層か らな り下位 の佐久 ローム層 をブ ロ ック状に
直物
取 り込んでい るところがみ られ、か く乱 された堆積状態 を呈 して い る。黒色火 山灰層 Ⅱは、オ
片 を含む黒色細粒火山灰層か らな り、灰褐色 ガ ラス質火 山灰層 “こ しあんア ッシュ"を 挟在す る。
黒色火 山灰層Ⅲは黒褐色火 山灰層 か らな り、軽石粒 を含み現在 の表 土 層 を構成 してい る。
鍵層 :池 の平遺跡発掘調査 団 (1986)は 、黒色火山灰層 Ⅱ中に灰褐色ガラス質 火山灰 層 “こ しあ
んア ッシュ"を 確認 した。 しか し、池 の平遺跡発掘調査 団 (1986)は 塩 くれば発掘地 の黒色火山
灰層 の砂粒組成 を検討 して い るが、黒色火 山灰層 の全層準に火 山ガラスが含 まれてい ることを報
告 してい る。火 山ガラスの保 存状態が あまりよ くない こともあ って、明瞭な火 山ガラスの含有量
の ピー クは確認 されて い ない。 しか し、 この “こ しあんア ッシュ"は 完新世 の広域 火 山灰 の鬼界
K‐ Ah"に 対 比 され る可能性 が高 い。
アカホヤ火 山灰層 “
―-27-一
D.遺 物 包合層 の 年代 につ いて
発掘地お よびその周辺地域 に分 布す る佐久 ローム層 には、前述 した後期更新世 の広域 火 山灰が
Sandy Pm"、 “ヒゲパ ミ"、 “
挟在 して い る。 中部佐久 ローム層 中には “
Pm l"、 “
Pm-2"、 “
Pm―
3"な どが確認 され、 これ らの鍵層 に基づ き、 中部佐久 ローム層 は、野尻湖周辺に分 布す る下部神
山 ローム層 (野 尻湖地質 グルーフL1994)に 対 比 され る。上部佐久 ローム層 については、野尻湖
周 辺の上 部神 山 ローム層 お よび野尻 ローム層 にほぼ対応す るもの と考 えられ る。上部神 山 口ニ ム
層 お よび野尻 ロー ム層 は、後期更新世後半 の最終氷期 の堆積物 とされ、約 70,000年 以降 の堆積物
と考 え られて い る (野 尻湖地質 グルーフL1994)。 そのため 、上部佐久 ローム層 について も約 70,000
年以降 の堆積物 と考 えられ る。
上部佐久 ローム層Ⅲの 中部 の分帯 b(池 の平発掘調査 団,1986)も 、含有鉱物 の特徴 か ら“
DKP"
に対 比 され る可能性 が高 い。 また、黒色火 山灰 層 Ⅱに挟 まれ る “こ しあんア ッシュ"は 完新世 の
K― Ah"に 対 比 され る可能性 が 高 い。 この対 比に基づ けば、
広域火 山灰 の鬼界アカホヤ火 山灰層 “
上部佐久 ローム層 Ⅲか ら最上部佐久 ローム層 にかけての層準 は、野尻 ローム層 (野 尻湖地質 グル
ープ,1988)に ほぼ対 比で きる。
そ こで問題 となって くるのが、遺物包含層 の直下にある “池 の平火 山灰 "の 層準 である。池 の
平遺跡発掘調査 団 (1986)は 、池 の平遺跡周辺 に分布す る上部 佐久 ローム層Ⅳ 中に偏平型 の火 山
ガ ラスの密集層 を 3層 準確 認 し、 “池の平火 山灰 層
I・
Ⅱ・III"と 命名 した。 この うち、 BⅡ 層 に
挟在す る細粒 ガラス質 火 山灰 層 は露頭 で確認 され、 “池 の平火 山灰 Ⅱ"と されて い る。近藤 (1988)
は、 この火 山灰層 中の火 山ガ ラスの形態や屈折率 は “
AT"火 山灰層 と一致す ることを上 げなが
ら、後期更新世末 の考古遺物編年学的意味 をもつ尖頭器 の 出土やSuzuki(1973)に よる “デカパ
ミ"中 の黒曜岩片 の放射年代値 に基づ き、別 の火山灰 と考 え、その年代 を約 13,000年 前 として き
た。 これに対 し “デカパ ミ"の 上位 に位 置 し、 “池 の平火山灰 Ⅱ"と 同 じもの と考 えられ るガラス
AT"と す る見解 もあった (町 田ほか,1980;早 津,1988)。
質 火 山灰 を “
今 回、関東 山地周辺 まで “デカパ ミ"の 追跡調査 を行 な い、 “デカパ ミ"が 上 州 ローム層 の 中部
ローム層上部 の層準 に対 比 され る観 察結果 を得 た。 また、 1990年 に行 われた野尻湖底 ボー リング
DKP"と “K‐ Ah"の 間 に高糸屯度 のガ ラス質 火 山灰 は “ヌカ I"と “ヌカⅡ"し か確認 され
で “
AT"に 対 比 された (野 尻湖火山灰 グループ,1993)。
ず、 “ヌカ I"は “
これ らのこ とか ら、 “デカパ ミ"の 上位 のガ ラス質火 山灰 を “
AT"に 対 比 した町田ほか (1980)
の見解 を追認 し、 “
AT"に 対 比 され ると考 える。
池 の平火 山灰 Ⅱ"は “
この こ とか ら、池の平遺跡 の主 な遺物包含 層 である上部佐久 ローム層Ⅳ 、 Vは 上部野尻 ローム
層 Iの 黒色 帯 か ら上部 野尻 ローム層 Ⅱの層準 にほぼ対 比 され、そ の年代 は後期更新世末期
(約
25,000年 前か ら10,000年 前)と 考 えられ る。 それよ り詳 しい年代 については、肉眼では識別 で き
ない鍵層 を砂粒分析 な どで確認 し、 よ り詳細な対 比 を検討す る必要 があると考 える。
―-28-―
4
遺物 と遺構
A.遺物 の 出土層準 と分布
駒 出池遺跡では、通称「駐車場側 」 の I-1、
を中心 としたH-50、 I-50、
J-48・
50、
J-1、 J-6の 3グ リッ ド、 K-49グ リッ ド
K-48・
49・ 50、
L-49の 8グ リッ ドと、「バ ンガ ロ
ー側 」 ア ー12、 イー20021の 3グ リッ ドを発掘 した。
「駐車場側」 では、 “モヤ "層 準 が一部残 って い ただけで大部分 は “デカパ ミ"BⅡ 上半部、 “デ
「バ ンガ ロー側 」は表土か ら “デカパ ミローム"層 まで を発掘 した。
カパ ミローム "層 を発掘 した。
遺物 は下位 よ り “デカパ ミ"BⅡ 上半部、 “デカパ ミローム"、 “モヤ "I・ Ⅱ、黒色 土の 5層 準
よ り出土 した。
“デカパ ミ"は 発掘地′
点での分布 は少 な く、遺物 もほ とん ど出土 して いない。 “デカパ ミローム "
ではスクレイパ ー 6′ 点、尖頭器 6点 、 その他争J片 、砕片が多 く出土 して い る。 “モヤ "Iで は尖 頭
器 4点 の ほか石 核や使用 された剥片、剥片、砕片が 多 く出土 した。“モヤ "II上 部 より縄文 土器が
数点出土 して い る。黒色 土では砕片が数点あるのみで ある。
I-1、 」-1、
J-6グ リッ ドは全体 に遺物 が少 ないが、 “モヤ"で ス クレイパーが 1点 出土
して い る。
K-49周 辺 では、 “デカパ ミローム"か ら639点 の砕片 の集 中区が確認 された。集 中 して い る範
囲 は、 K-49グ リッ ドの 中央 よ りやや 南東側 を中心 とし、南北約 3m、 東西約
2mの 楕円状 であ
る。石器 は尖頭器が 7点 と一番 多 く、 その他 ス クレイパー な どが数点、剥片 が29点 出土 して い る。
この 中には黒 曜石以外 に、外部 か ら搬入 された とお もわれ る珪質頁岩、珪質凝灰岩製 の ものが 出
土 した。
「バ ンガ ロー側 」 ア ー12グ リッ ドでは遺物 が全体 的に少 な く、最 多層準 の “モヤ "Ⅱ で26′ 点であ
る。
イー20・ 21グ リッ ドでは、 “モヤ "、 “デカパ ミローム"で 遺物 が 多 く出土 してお り砕片は700点
に もお よぶ。石器類 は40数 ′
点と多 く、 ス クレイパーが16′ 点、尖頭器
7′
点、 ノ ッチ 1′ 点、その他微
細剥離痕 の あるまJ片 や石核 な どが 出土 して い る。
遺構 は イー21グ リッ ド南側 で “デカパ ミローム"上 面 で配石が確認 された。 30× 25× 15cmの 巨
大礫 1個 と 7個 の小礫 で構成 され、範囲は狭 く直径
lm以 内であるも石材はすべ て粗 粒 な安 山岩
である。付近 か らは、石器が数′
点出土 して い る。
同 じイ ー21グ リッ ド東佃l約 2/3の 範囲 で礫群状 の 多数 の礫が確認 された。この地点は駒 出池溶岩
の末端 に位 置 し、溶岩が崩れた と思われ るこぶ し大か ら直径20cm位の不定形 の礫 で構成 されて い
る。角礫 も30%位 含 まれて い る。 これ らの状況 か ら考 えてこの 多数 の礫は、遺構 ではな く、 自然
―-29-―
状態 の礫 層 と判断 した。
B.遺
物
(1)尖 頭 器 文 化 の 石 器
① K-49付 近 (J-48、 K-48049、 L-49、 H・ I・ 」・K-50)の 石器群
点数 は750点 であ る。石器 は尖頭器が 7点 、ス ク レイパーが 4点 、微
K-49付 近 の 出土遺物 の総′
細争J離 痕 の ある争J片 が 2点 、剥片 が33点 、砕片 が685点 出土 した。出土層準 は “デカパ ミ"か ら表
土で あるが、大部分 は “デカパ ミローム"層 である。尖頭器 はほぼ完形品 と思われ るものが 2点
で、他 は破損品である。大 きさはい ろい ろあるが、小形 の もの は比較的薄 く、それ以外 の もの は
部厚 い ものが 多い。すべ て両面調整 の ものであるが、89-K-49-162の よ うに全体 に剥離 を施 し
た後 に周縁 に微 細剥離 を施 した もの もある。 ス クレイパー は 4点 とも石材 が珪質頁岩 で搬入石材
を用 いて い ることか ら、器種 に よって石 材 を使 い分けてい ると思われ る。 その他、土器片が覆 土 、
黒土、黄 モヤか ら 5点 出土 して い るが いずれ も縄文 土器片 と思われ る。 また、 K-49で は、砕片
が圧倒的 に 多 く (94%)出 土 してお り、尖頭器 も多い ことか ら、尖頭器 の製作址の 中心 と考 え ら
■る。
才
尖頭器
尖頭器 は 7点 出 土 した。石 材 はす べ て黒 I程 石 であ る。 い ず れ も両 面調整 の もの で破 損 品が 多 い。
大 きさは比較 的小 形 の ものが 多 い。
lは 流 理 、気 泡 のめ だつ 石 材 を素 材 とした両面調整 尖頭器 であ る。平坦争J離 に よ る粗 い加 工 が
施 され て い る。左右 非対称 で裏 面 は剥 離 の 大 きさが一 定 で な く、湾 曲 して い る。 断面 は部 厚 い D
形 で あ る。 基部 が一 部 欠損 して い るが、 ほぼ完形 で あ る。2は 流理 、気 泡 の 目立 つ石 材 を素 材 と
した両面 調整尖頭 器 の 未成 品 であ る。平坦争J離 に よ る粗 い加 工 が施 され て い る。3は 流理 、 気 泡
の 目立 つ 灰 白色 の石 材 を素材 とした両面 調整尖頭器 で あ る。 平 坦 永J離 に よる粗 い加 工 が 施 され、
左右 非対称 形 で あ る。裏 面 を加 工 中 に破 損 したが 、 さ らに調整 を行 な って使 用 した と思 われ る。
断面 は厚 い D形 で あ る。 4は 木葉 形 の小 形 の薄 い両 面調整 尖 頭器 であ る。 大 きい剥離 と細 か い剥
離 を全 面 に施 して整形 し、 さ らに周縁 に細 か い剥 離 を施 して い る。基菩るが わずか に欠損 して い る
が 、 ほぼ 完形 品で あ る。5は 縦長剥 片 を素 材 とした両面調整尖 頭器 の先端 部 であ る。 薄 手 で裏 面
に主 争J離 面 が 残 り、左右 ほぼ 対称 で あ る。 周縁 の 調整 に よ り、やや 内側 に湾 曲 して い る。6は 透
明度 の 高 い石 材 を素材 とした両 面調 整尖 頭器 の 基部 で、上 部 の 大部分 は切 断 し欠損 して い る。 背
面 は下 方 か らの剥 離 で基 部調 整 を行 な い、裏 面 は左右 の横 か らの平 坦 争J離 で形 を調整 して い る。
7は や や透 明度 の低 い石 材 の両面調整尖頭器 の 未成 品 であ る。 平坦景J離 に よる粗 い加 工 が施 され
て い る。 背面 に 自然面 が 残 る。 基部 は欠損 して い て断面 は部 厚 い D形 で あ る。
ス ク レ イパ ー
8は 珪 質凝灰 岩 製 の石刃 を素 材 と して、 背面 両側 縁下位 及 び上 端 左 に微 細剥離 に よる刃部 を形
―-30-
第 5表
駒 出池遺 跡 の 出土 遺物 点数 表(1)
第 3回
イー21
P
埋
土
表
土
UF
1
1
モヤ I・ H
デカパ ロー ム
計
T
2
1
9
4
6
Fl:余 J片
17
Sp:ス ポール
Ch:チ ップ
N :ノ ッチ
228
1
1
I-1
UF
クレイパー
UF:微 細剥離痕 のある剥片
CO:石 核
1
2
1
SC:ス
1
1
1
P :ポ イン ト
計
1
礫
石片
計
礫
石片
計
T :石 器の破損品
土
表
漸
モ
移
ヤ
上
モ
ヤ
下
帯
2
デカパミローム上
デカパミローム下
1
1
1
3
デカパミBⅡ 上半割
計
」-1
UF
Fl
モヤ 上
1
1
モヤ 下
デカパ
ロー ム
1
1
デカパミBH上 半部
計
1
1
1
5
J-6
UF
デカパミローム下
計
Ch
l
1
1
1
1
礫
4
石 片
計
1
7
1
7
アー12
UF
漸
帯
1
モ ヤ
Ⅱ
3
ヤ
計
11
1
移
モ
石片
礫
土
表
2
1
1
I
3
1
8
デカパミローム
計
8
1
1
1
1
2
1
3
1
1
第 4回
イー21
UF
埋
土
1
Fl
黒色火 山灰層
モ ヤ
モ
ヤ
5
Ⅱ
I
2
6
計
5
1
1
2
1
1
9
5
デカパミローム
計
土器
1
1
1
1
」-48
UF
礫
表
採
1
埋
土
1
覆
土
黒
土
石片
L器 片
計
3
4
1
1
4
不
デ カ パ ミ ロー ム
1
1
3
4
3
3
1
上
部
中
音6
7
7
下
部
1
1
1
1
最下部
計
1
1
1
7
1
1
5
採
ロー ム
4
2
最 上部
石 片
表
デカパ
デ カパ ミ
2
黄 モ ヤ Π
モ ヤ I
K-48
2
1
1
1
-31-
計
6
3
5
明
1
1
計
K-49
UF
P
デカパ
撹 舌L 層
計
4
Cll
自然 不
1
1
1
1
1
5
計
第 6表
駒 出池遺跡 の 出土 遺物 点数表 121
第 5回
イー21
P
N
UF
Co
Cll
礫
下
部
1
1
部
1
デ カ パ ミ ロー ム
部
中
部
下
部
2
1
1
最下 部
最上 部
上
一5
部
下
一1
部
中
1
2
モヤー
上
4
一5
2
部
一8
2
部
中
3
3
モヤⅡ
上
最下部
8
1
1
最下部
1
1
計
1
305
4
1
8
3
ム
・
伽ミ
ロ
P
計
中
部
下
部
7
デカパ
7
撹
1
計
乱
1
T
UF
土
土
モヤⅡ
J三
音
6
中
部
L器 片
1
7
モヤ ー
部
中
部
1
下
部
2
H
モ
I
ヤ
1
2
4
1
1
1
5
8
」-50
Ch
I-50
石 片
K-50
原石
土
石 片
1
2
1
1
Ⅱ
I
8
デカパミローム
1
0
イー21 3、
4、 5、
2
2
7
計
1
2
5
2
9
2
1
2
1
0
5
1
6
1
石 片
土器
6回 合計
N
P
UF
埋
土
2
2
1
表
土
1
1
1
4
4
T
礫
ヤ
5
デカパ
ロー ム
‐
討
計
1
黒色火山灰 層
モ
計
1
土
ヤ
モ ヤ
1
1
H-50
モ
9
計
部
モ ヤ
表
デカパ
下
表
1
土
2
1
上
乱
Fl
計
1
1
計
撹
1
2
イー21
P
表
計
層
計
1
UF
2
第 6回
イー20
乱
360
1
K-49
L-49
撹
計
石 片
土
表
1
7
1
1
9
1
l
4
7
1
1
K-49
UF
デカパ
撹 乱 層
6
計
7
自然″
2
1
1
2
1
l
計
1
―-32-一
Cll
計
1
1
4
4
第 7表
遺物出土層準位置図
第 3回
駒 出池遺 跡 の遺物 出土 層準 (1)
デカパミローム
1微 細 争」離 痕 の あ
石
器
石
フレイク
核
デカパミローム下 4微 細 剥 離 痕 の あ る景」片
2
礫
チ
3,5,6,7
石
片
そ の他
1
3.4.5.6.8.10.15,17.18,19
14,16,20,21,21,23,24,25,26,28,31,
32,33,34,36,37,39,40,48
11.12.13.42.43.45∼ 47
デカパミローム 52微 細 景」31L痕 の あ る
21
イー
埋
石
土
35,―
器
彫 器 136
8:増
象秀
樅LAパ
206,225
-微 細景」
離痕のある剥片
表
モ
土
45ポ イ ン ト(先 端
石
核
フレイク
チ
プ
礫 1石
片
そ の 他
27,28,90 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25
135,151
210,211
217,227
228
41,42,43,44,54,55,56,57,60,61,69,70,71,73,74,77,78,79,80
)
53-ス ク レ イ パ ー
72微 細 景」離 痕 の あ る剥 片
ヤ
138,150ス ク レ イ パ ー
204-微 細 剥 離 痕 の あ る余
片
デカパミローム 183,218ス ク レ イ パ ー
171,173
-微 細 剥 離 痕 の あ る剥 片
26,29,30,31,32,33,34,36,38,39,40,46,47,48,49,50,59,62,63,64,65,66
67,68,75,76,84,85,88,89,91,92,94,95,99,103,109,110,111,112,121,122
134,137,141,145,175,178,179,180,190,195,196,197,198,199,200,201
212,213,214,219,221,222,223,224,226
81,82,83,98
51,107
52,86,87,96,97,100,101,102,104,105,106,113,114,116,117,118
220
208,215,216
108,115
133,144
160,176
119,120,123,124,125,126,127,128,129,130,131,132,139,140
142,146,147,148,149,152,153,154,155,157,158,161,162,163
164,165,166,167,168,169,177,181,185,188,189,194,205,207
182,186
187,191
第 4回
3微 細 争J離痕 の あ る余」片
黒色火山灰層
10.11.12.13.14
15,25,37,38,58,131
-微 細景」
離痕のある剥片
29,123ス クレイパー
22,24,12 4,5,6,7,8,9,16,17,18,19,20,21,23
21,28,44 26,27,30,31,32,33,34,35,36,39,40
45,46,47 41,48,49,50,51,52,53,54,55,56,57
59,133 79,80,81,82,83,84,85,86,118,119
169
120,121,124,125,126,127,134,135
136
43-ポ イン ト
42,105
-微 細剥離痕のある余」
片
89,93,99, 87,88,90,91,92,94,95,96,97,98,
101,145, 100,102,103,104,106,107,108,109,
152
110,111,112,113,114,115,116,117.
137,138,139,140,141,142,143,144
146,147,148,149,150,151,153,154
155,156,157,158,159,160,161,162
デカパミローム
黄 モ ヤ Ⅱ
16,17,19
42-ス クレイパー
18微 細争J離 痕のある景J片
25,26,28,29,30,31,32,34,45,46,37
38,39,40,41,46,50
43.44,45,47,49,51.52
―-33-―
第 8表
駒 出池遺跡の遺物出土 層準(21
1.5.6.7.8.16
デカパミローム
9,10,11,12,13,15,17,18,19,21,22
14,26(重
,20
24
K-49
石
器
デカパミローム 8,162,184,200-ポ イン ト
139-微 細景J離 痕 の あ る景
片
攪
乱
石
核
フレイク
チ
フ
゜
礫
17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28
29,30,31,32,33,34,35,36,37,38,39,40,41,42,43,44,45
46,47,48,49,101,102,103,104,105,106,107,108,109,110
111,112,113,114,115,116,118,119,120,121,122,123,124
125,126,127,128,129,130,131,132,133,134,135,136,137
138,140,141,142,143,144,145,146,147,148,149,150,151
152,153,154,155,156,157,158,159,160,161,163,164,165
166,167,168,169,170,172,173,174,175,176,177,178,179
180,181,185,186,187,188,189,190,191,192,193,194,195
196,197,198,199,202,203,204,205,206,207,208,209,210
211,212,213,214,215,216,217,218,219,220,221,222,223
224,225,226,227,228,229,230,231,232,233,234,235,236
237,238,239,240
層 201-ポ イン ト
50,51,52,53,54,55,56,57,58,59,60,61,62,63,64,65
66,67,68,69,70,71,72,73,74
第 5回
156,157
26.27.28,29
22,23,24,25,46,47,48,50,51,52,53,
54,55,158,159,160,161,162,164,
165,166,167,168,169,170,171,172,
173,223,224,225,226,300
15-ス クレイパー
21-微 細剥離痕のある争J片
2,14,20,
59,114,
175,214,
244
60,61,62,63,64,65,66,67,200,206,
215,216,217,218,219,220,221,222,
274,278,279,281,282,283,286,287,
289,290
4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,32,33,34,
39,40,41,42,43,44,45,227,271,272,
273,275
77
78
81
83
89
90
91
198
49,56,57,58,201,202,203,204,205,
207,208,256,258
194-ポ イン ト
80,84,106,107,108,109,110,111,
176微 細彙J離 痕のあるまJ片
112,113,134,135,136,137,138,142,
143,144,145,146,147,177,178,180,
187,196,197,198,199,250,251,252,
253,254
93-ポ イン ト
174微 細業J離 痕のある余J片
76,79,82,85,86,87,88,95,96,97,98,
105,117
99,100,101,102,103,104,118,119,
120,121,122,123,124,125,126,127,
128,129,132,133,139,140,141,148,
149,150,151,152,153,154,155,179,
181,182,183,184,185,186,188,189,
190,191,192,193,195,209,212,245,
246,247,248,249,255,257,259,295,
296,297,298,299,301,303,304,309
35,36,37,38,210,211,259,302,305,
306
228微 細まJ離 痕 の ある景J片
1石
182,183 1,2,3,4,5,6,7,10,11,12,13,14,15,16,
16,17,18,19,230,231,232,233,234,
235,236,237,238,239,240,241,242,
243,260,261,262,263,266,267,268,
269,270,277,288,291,292,293,294,
308,310,311,312,313,314,315,316,
317,318,319,320,329
331,332,333,341,347,348,349,354,
355,356,357,358
334,335,336,337,338,339,340,342,
343,345,346,350,351,352,353
―-34-―
321,322,
323,324,
325,326,
327,328
要
片
)
そ の 他
117-自 然 石
第 9表
デカパミローム 59,200ポ イン ト未製品
52,225ス クレイパー
駒 出池遺 跡 の遺物 出 土 層準0)
1,2,3,4,
10,20,24,
5,6,7,8,9,11,12,13,15,16,17,18,19,21,22,23,25,26,27,28,
50,72,78,
199
ill;││;:│:il;:│;:│;;│;:│:││:││:II!!│!:│!il::│!ili:lilli:│
93,94,95,96,97,98,99,100,102,103,104,105,106,107,108,109,
82,83,
101,133,
134,260,
!│:::ll::ll::│:::│:,31::811::ll:311::│:::ll::ll::ll:31
140,141,142,143,144,145,146,147,148,149,150,151,152,153,
300,323
:〕
346.347,348,349,350,351,352
デ カ パ ミ ロー ム
石
器
石
核
フレイク
.礫
プ
チ
石
片
そ の 他
石
片
そ の 他
20,51
中
音6
8.9,10,18
下
部
1,2,3,4,5,6,7,11,12,13,14,15,16
17,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30
31,32,33,34,35,36,37,38,39,40,41
42 43.44.45.46.47,48,49,50.52
第 6回
2.3.4,5,6,8,9,10
11,12,13,14,15,16,17
4.5.6.7.12.13.14,15,16,17,18
20
イー
石
攪
舌L 土
表
土
器
石
核
フレイク
゜
チ
フ
礫
1破 損品
2ス クレイパー
10微 細崇JttL痕 の あ る景」片
モ
ヤ
II 46,29-ス クレイパー
モ
ヤ
I
5,6,7.8,9
12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,23,
24,25,30,31,32,33,34,35,36,37,38,
39.40.41.42.43.44.45
26-ポ イン ト
48石 器 基 部
49,51,57
64,65,71
83,84
83,85
132,33,34,35,36,37,48,49,50,51,52,
84,86,87,88,89
デカパミローム 95-ス クレイパー
5,8,12,
1,2,3,4,6,7,9,10,11,13,14,15,16,
20,27,40, 17,18,19,21,22,23,24,25,26,28,29,
62,70,75, 30,38,39,41,42,43,44,45,46,47,53,
54,55,56,57,58,59,60,61,63,64,65,
76,94
66,67,68,69,71,72,73,74,77,78,79,
80,81,82,96
―-35-―
11土 器
27,28土 器
1
モヤ Ⅱ
デ カ パ ミロ ー ム
6
一
ロ
モヤ Ⅱ
器核 片片片拓
例
石石剥 砕石 土
凡 o 口 o o ▲ △ ム
土
カ
デ
ア ー12
表
デ カ パ ミロ ー ム
m
♀
第19図
駒出池遺跡の遺物分布図(1)
一-36-
可
¬一
――― 「
= ●■
=====fm
E
l
F︺
∞寸
ハN
厠 ︶頌
00 ∞寸
島憫舅
﹃ Ч ︽
戸
2︶
蜻
0
ぐ
∩ヽ
聰熟鱚む
辟¶
鰺颯
:鰈
ヘ
m― 1鐵
―
ヽ
{゛
M―
「
頸@
m
t=====コ E====士
―
=============E==二 ==fm
第 21図
駒 出池 遺 跡 の 遺 物 分 布 図0)
-38-―
可鰈
彦母
写
1-21
-r
-fI-zz
pF{付
%餐。
ハ0
∞ ο▽ い と
ο。
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〉む
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FU∂
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も
0
°毎
ら
0
00
∂
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′
:`
0
6`
0ぃ
0
06
4-31f
0
第22図
イ ー21グ リッ ドにおけ る礫群 状 の 多数 の礫
ロ_ム
イー
1
111)ミ
21
イー
第23図
イ ー 21グ リッ ドに お け る酉己石
―-39-―
成 して い る。 か な り磨 耗 して い る。9は 珪 質凝 灰 岩 の大 形 の剥 片 を素 材 とし、 背面 に入 念 な平坦
争J離 に よ る加 工 が 施 され て い る。刃部 は両側 縁 の 自然面 が 残 存 して い る部分 以外 の大 部 分 に微 細
余J離 で形成 され て い る。 10は 珪 質 頁岩製 の ほぼ 四角 形 の薄 い剥 片 を素 材 として い る。 背面左 側 縁
に微 細争J離 に よる刃部 が 施 され て い る。 11は 珪 質 頁岩 の大 形 の縦長争J片 を素 材 とし、 背 面 には細
か い入念 な平坦争J離 に よる 2次 加 工 が施 され て い る。
微 細泉」
離 痕 の あ る剥片
12は 背 面 の先端 に微 細争J離 痕 が認 め られ る小 形 の争J片 で あ る。 13は 縦 長 の小 形 の争J片 を素 材 と
し、右 側 縁 の 背面側 先端 部 と腹 面側 中程 に約 7 mmの 微 細争J離 痕 が あ る。 89K D炊 事 場 は一 部 に 自
然面 を残 す楕 円形様 の剥 片 で上 部 の両 面 に二 次加 工 が施 され て い る。 15は 横 長 の一 部 に 自然面 を
形剥 片 を素 材 とし、 背面先 端部 に 急角 度 の粗 いまJ離 面 と微 細余J離 面 で刃 部 を形成 して い
残 したガヽ
る。 17は 珪 質 頁岩 の縦 長 の剥 片 を素 材 とし、 背面左 側 縁下部 に微 細剥離 痕 が認 め られ る。 18は 透
明度 の低 い大 形 の 子J片 を素 材 とした縦長 剥 片 で あ る。 背面右 側縁上 部 と左 側 縁 の一 部 に微 細 な剥
離痕 が 認 め られ、 裏 面下部 には 2つ の大 きな争J離 痕 が認 め られ る。 打面 、 打留痕 は欠如 して い る
こ とか ら、 か な り大形 の争J片 と思 われ る。 断面 は分 厚 い三 角 形 を呈 して い る。
泉」 片
14は 薄 い珪 質凝 灰 岩製 の縦 長争J片 で あ る。 打′
点、 打面 と もに残 って い る。 16は 小形 の 珪 質 頁岩
製 の縦 長子J片 であ る。 先端 はわずか に欠 損 して い る。
② イ ー21グ リッ ド付近 (イ ー20、 イー21グ リッ ド)の 石器群
イー21グ リッ ド付近 の 出土遺物 の総点数 は853点 である。出土 品中最 も多か ったのは砕片で、8
割 を超 える。石器 の器種 の 内訳は尖頭器が 7点 、 ス クレイパ ーが16′ 点、彫器が 1点 で、 ス クレイ
パーが比較的 多い。尖頭器 は小形 の両面調整 の もので、 いずれ も欠損品である。 ス ク レイパーは
分厚 い素材 を用 い、急角度 の刃部 をもつ もの と、薄 い剥片 にノッチ状 の刃部 をもつ もの とが ある。
彫器 は駒 出池遺跡 で唯一の もの であ り、 この こ とか ら駒 出池遺跡の石器群 に占め る割合 はかな り
小 さい と予想 され る。 出土層位 はモヤが最 も多 く、全体 の 6割 を占めて い る。石器の石材はすべ
て黒 曜石 で ある。 土器 など一部 を除けばほ とん どが 同一の文化期 の もの と考 え られる。
尖頭器
尖頭器 は 7点 出土 した。石材 はすべ て黒 曜石 で ある。 いずれ も破損品である。
19は やや透 明度 の低 い両面調整尖頭器 である。先端部は欠損 して い る。一部 に 自然面 を残 し、
背面 はやや粗 い加工 で背面 には細 か い加 工が施 されて い る。 背面左側縁 にはさらに微細 な調整が
なされて い る。断面 は平行 四辺形に近 いレンズ形 である。 20は 気泡が多 いやや透明度 の低 い石材
を素材 とした両 面調整尖頭器 の先端部 であ る。入念な加 工が施 され、完成後 に欠損 した と思われ
る。断面 は平行 四辺形に近 いレンズ形である。21は やや透 明度 の低 い左右非対称 の尖頭器 である。
背面 は粗 い争J離 で形 を調整 し、左側縁は切 断 して い る。22は 気泡 の多い透明度 の低 い分 厚 い石材
を素材 とした尖頭器 の未成 品である。背面に粗 い調整 が施 され、製作途中で破損 した もの と思わ
―-40-一
れ る。腹 面 に調 整 は な され て い な い。 23は やや透 明度 の 高 い両面調整 尖 頭器 の 基部 で あ る。 背面
にはほぼ右 半分 に調整 が な され、腹 面 に は基部 に 4面 の調 整 が施 され て い るだけ で、 未成 品 では
な いか と思 われ る。
彫
器
彫器 は 1点 だ け の 出土 で あ る。 24は 黒 曜石 製 の 縦長争J片 を素 材 として い る。右 側縁 は入念 な急
角 度 の調整 が 施 されて い るが、左側 縁 は大 きな余J離 面 に よ って緩 や か な調整 が な され て い る。彫
刻 刃面 は背面側 に先端 か ら左側縁 中央 へ の 1回 の争J離 に よ って作 り出 され て い る。腹 面 に も下端
か ら左側 縁 へ の樋状 剥 離 が あ るが、 この争J離 の 打 点付近 を切 る細 か い剥 離 が 背面 にみ られ る。
ス ク レイ パ ー
形 で薄 い物
ス ク レ イパ ー は 16点 出土 した。石 材 はす べ て黒 曜石 で あ る。 比較 的厚 い素 材 か らガヽ
まで色 々 あ る。
25は 長 さ約 4.5cm、 幅約 3.5cmの 断面 が 台形様 の横 長 の争J片 を素 材 として い る。 背面上 部 か ら右
側 縁上 半 部 にか けて と左 肩 、先端 左 に急 角 度 の 刃部 を施 して い る。 26は 断面 が 台形様 の縦 長余J片
を素 材 として い る。 打面部 、先端部 ともに切 断 して い る。腹 面右 側 縁全体 に細 か い争J離 に よる刃
部 が形 成 され て い る。 27は 縦 長 の 断面 三 角 形 の争J片 を素 材 として い る。 背面右側 縁 に数 面 の粗 い
剥 離 とさ らに細 か い剥離 を施 し刃部 を形成 して い る。 28は 菱 形状 のや や 厚 い剥 片 を素 材 とし、 背
点は明瞭 に残 って
面先端部右側 に急 角 度 の粗 い余J離 と微 細子J離 で刃 部 を形 成 して い る。 打面、 打 ′
い る。29は 小 形 の扇 形 の争J片 を素 材 とし、裏 面末端 の両側 に細 か い剥 離 を施 し、約
5°
の調整角 で
刃部 を形 成 して い る。 打面、 打留痕 が 残 って い る。 30は やや 円形状 の部 厚 い景J片 を素 材 とし、背
員
]縁 に粗 い剥 離 と腹 面 に微 細争J離 を施 して刃 部 を形 成 して い る。側 縁 と先端部 が一部 欠損 し
面左イ
て い る。 31は 断面 が 平行 四辺形 の厚 い剥 片 を素 材 とし、剥 片 の上端 に粗 い剥 離 と細 か い剥 離 で刃
部 を形成 して い る。32は 透 明度 の 高 い小 形 の剥 片 を素材 とし、背面末端 に約 75° の角度 で細 か い争J
離 に よる刃部 が形成 されて い る。
石器 基部
33は 黒 曜石 製 の石 器 基部 で大 半 は欠損 して い る。 背面 に一 部 自然面 を残 し、右 側縁 下部 に微 細
な剥 離痕 が認 め られ る。腹 面右側 縁 には基部 調整 が 見 られ る。
微 細泉]離 痕 の あ る剥片
微 細剥 離痕 の あ る争J片 は 14点 出土 した。石 材 は い ずれ も黒 曜石 であ る。
34は 断面 が三 角 形 の厚 い縦 長 の剥 片 を素 材 とし、腹面側 の両側 縁 に微 細争J離 痕 が認 め られ る。
43の 石核 と接合 す る。35は 長 さ約
6 cm、
幅約 3.5cmの やや部 厚 の縦長争J片 で、打点 は明 瞭 に残 って
い る。 背 面右 側 縁 にわずか に微 細剥離痕 が認め られ る。 36は 三 角 形状 の縦長 の剥 片 で 、腹 面側右
側 縁 に約 2 cmの 二 次加 工 が 施 され、背面側右 側縁 に約 l cmの 微 細象J離 痕 が認 め られ る。 37は 背面
に 自然面 を残 す やや縦長 の もの で、佃l縁 は一 部 欠損 して い る。 打面、 打留痕 は明瞭 で 、腹 面側 の
打面 か ら左側 縁上音るにか け て 背面側 の右側 縁 なか ほ どに数 面 の粗 い余J離 、 さ らに微 細余J離 の加 工
-41-―
痕 が認め られ る。 38は 透 明度 の 高 い三 角 形状 の小 形 の争J片 を素 材 と して い る。 背面末 端 の 湾 曲 し
て い る部分 に微 細争J離 痕 が認 め られ る。 39は 五 角 形 の剥 片 で先端 は欠 損 して い る。 3辺 に微 細余J
離痕 が認め られ る。 40は 縞 状 の模 様 が 見 られ る透 明度 の 高 い石 材 を素 材 とし、 打面 お よび背面 の
一 部 に 自然面 が 残 され て い る。末 端 は折 れ て い る。 背面 左側 縁 か ら末 端 に掛 け て微 細争J離 痕 が認
め られ る。 断面 は分 厚 い三 角 形 であ る。 41は 気 泡 の 多 い石 材 を素 材 と し、 打 面、 打点 は残 って い
るが 先端 は斜 め に欠如 して い る。 腹 面左側 縁 に全 面 に わた って微 細 な剥 離痕 が認 め られ る。 断面
はやや 厚 い三 角 形 であ る。
石
核
石核 は 6点 が 出 土 した。 6点 の す べ て に 自然面 が 残 って い る。 これ らは剥 片 の争J離 方法 か ら 2
種 類 に大別 で きる。 ひ とつ の 打面 を設定 す る もの (単 設打面 )と 、上下 面 を と もに打面 とす る もの
(両 設打面)で あ る。
単 設打 面 では争J離 面 を打面 とした もの (42、 44)と 、 自然面 を打 面 とした もの (45、
46、
47)と に
分 け られ る。 前者 は、剥 離作 業 面 と反 対 の 面 に 自然面 を残 して い る。 42は 今 回出 土 した石核 で最
も大 きい もの で、縦長 剥 片 を連 続 的 に争J離 して い る。縦長 剥 片 (34)と 接合 す る。 44は 2枚 の縦 長
争J片 の争J離 面 が み られ るが、 これ以外 の面 は す べ て磨 耗 して い る。剥 片 の争J離 はあ ま り進行 して
お らず、 原石 の 大 きさは この石核 とおお き く変 わ らな い大 きさで あ った と考 え られ る。 45、 46は
平 坦 な 自然面 を打面 として縦長 争J片 を争J離 して い る。 47は 自然面 を打面 として 、縦 長剥 片 を争J離
した後、打点 を90° 移動 して幅 広 の剥 片 を争J離 した石核 であ る。48は 両 設打面 の石核 で 、上 下面 と
もに平坦 な剥 離 面 を打面 として 、横 長 で幅広 の争J片 を争J離 して い る。 争J離 面 の大 きさか ら42以 外
は尖頭器 の素 材 を余J離 した石 核 とは考 え られ な い。 48は 埋 め土 中 で あ るが 、 それ以外 は モヤ か ら
の 出 土 であ る。
9)表
採遺物
石 鏃 1点 、 ナ イ フ形石 器 2点 、 両 面調整尖 頭器 9点 、 周縁調整 尖頭器 4点 、 ス ク レ イパ ー 6点 、
微 細剥 離 痕 の あ る争J片 2点 、剥 片
2′ 点な どが あ る。石 材 は全 て黒 1程 石 で あ
り、不純物 を含 む もの
が 多 い。
石
鏃 (49)
凹基無茎 式鏃 で あ る。横 長争J片 を素材 とし、 片基部 端 を欠損す る。全体 的 に調整 は粗 く、 階段
状景J離 も観察 され る。
ナ イ フ形石器
50は 、上 半部 を欠損 して い る。 バ ルブ (打 瘤 )の 発達 した縦 長争J片 を素 材 とし、腹 面 には右 側
縁 の 基部 に調整 が 施 され 、 バ ル ブが 除去 されて い る。 背面 には、 基部 に面 的 な調整 が 施 され て い
る。 51は 、先端 部 であ る。 横 長余J片 を素 材 とし、 背面 の左側 縁 に礫 面 を残 す。 背面右 佃l縁 の先端
部 に、腹 面 か ら調整 が 施 され て い る。
両面調整 尖頭器
一-42-一
52は 、上半部 と基部 端 を欠損す る。両 面 とも入 念 な平 坦 争J離 に覆 われ、縁辺 部 に平 坦 剥 離 に よ
る細 調整 が施 され て い る。 53は 、先端部 を欠損 して い る。 基部 が 尖 らず に丸 ま る。表 裏 両 面 とも
入念 な平坦剥 離 に覆 われ てお り、縁 辺部 には平坦 剥 離 に よ る細調整 が 施 され て い る。 54も 先 端部
を欠損す るが、 基部 は尖 る。 53と 同様 に、 入念 な平坦剥 離 に覆 われ て い る。縁 辺部 の 細調 整 は平
坦 剥 離 を基本 とす るが、 階段 状剥 離 も観 察 され る。器体 中央部 で は横 断面 形 が 凸 レン ズ状 で あ る
が 、基部付近 で は三 角 形 を呈 す る。 55は 、下 半部 を欠損 す る。 53・ 54に 比 して調整余J離 が粗 く、
表裏 両 面 の調整 に精粗 の差 が 見 られ る。 56は 背面 、腹 面 ともやや粗 い平坦争J離 で調整 が施 され て
い る尖頭器 の 基 部部分 で あ る。 基部 先端 お よび上 半部 は欠損 して い る。 57は 、 上 半部 を欠損 す る。
55と 同様 に、表 裏 両 面 の調整 に精粗 の 差 が観 察 され る。縁辺 の 細調整 は階段 状 剥 離 で あ る。 59は 、
上下 両端 を欠損 す る。 表裏 両面 とも平坦剥 離 に覆 われ て い るが、両 面 の調整 に精粗 の 差 が み られ
る。 60は 、 寸詰 ま りの 木 葉形 を呈 す る。 基部 端 を欠損 す る。 両面 ともやや粗 い 平坦争J離 に覆 われ、
縁辺音るに は細調 整 が 施 されて い る。
61・ 62は
、未 成 品で あ る。 61は 縦 長剥 片、 62は 横 長争J片 を素 材 として い る。 61の 素 材 で あ る縦
長剥 片 は バ ル ブが発達 し、礫 面 打面 を もつ 。 背面 は粗 い平 坦 景J離 に覆 われ、縁 辺部 の 細調整 は階
段状争J離 にな って い る。 67は 黒色 の透 明度 の低 い素材 の両 面加 工 尖頭器 であ る。縦長 剥 片 を素 材
とし、平 坦 剥 離 に よる粗 い加 工 が 施 され、 背面 に 自然面 が 残 って い る。背 面左側 縁 に 細 か い調整
が施 され て い る。右 下側 縁 には加 工 の痕 が み られ な い こ とか ら、製 作 途 中 の 未 成 品 と思 われ る。
断面 は厚 い D形 で あ る。
周縁 調整 尖頭器
63は 、小 型 の 縦長剥 片 を素材 として い る。 背面 には左側 縁 の 先端部 と基部 、腹 面 に は両側 縁 の
面
ほぼ全 縁 に調整 が施 され て い る。調整 は66に 比 して粗 い。 64は 、上 半部 を欠損 して い る。分 害」
打面 を もつ 縦長 景J片 を素 材 としてお り、表裏 両面 の両側 縁 に粗 い調整 が施 され て い る。 65は 、大
半 を欠損 して い るため、全体 の 形状 は不 明 であ る。横 長剥 片 を素 材 とし、 背面 の左側 縁 に調整 が
施 されて お り、 これ に よ って素 材 の 打面部 が 除去 され て い る。調整 角 は60∼ 64° であ る。66は 、湾
曲 の 強 い縦長剥 片 を素 材 とし、両側縁 の ほぼ全 縁 に調整 が施 され て い る。右 側 縁 は腹 面 か ら、左
員
イ
J縁 は背 面 か ら調整 が行 われ て い る。調整 角 は右 側 縁 が 71∼ 84° 、左側 縁 が 70∼ 87° であ る。68は 透
明度 の 高 い小 形 の細 身 の剥 片 を素 材 として い る。 背面 には両側 縁 のほぼ全 縁 に 細 か い平坦争J離 で
入念 な調 整 を行 って い る。先端 の ほ うがやや 厚 み を帯 びて い る。腹面 には調整 は行 われて い な い。
ス ク レイ パ ー
69は 、 素材末 端部 を欠損 して い る。礫 面 打面 を もつ 縦 長争J片 を素 材 とし、 背面 と腹 面 の右 側 縁
に調整 が 施 され て い る。 70は 、素 材 の側 縁部 と末 端部 を欠損 して い る。礫 面打面 の縦 長剥 片 を素
材 とし、 背面 の右佃l縁 、腹面 の左側 縁 に調整 が行 われ て い る。 71は 、素材 の末 端部 を欠損 して い
る。小 型 の石 刃 を素 材 とし、背面 の右 側縁 に礫 面 を残 す。 背面 の左側縁上 半部 に平坦 争J離 に よ る
調整 が施 され て い る。末端部 の粗 い景J離 痕 は石核 調整 に よ る もの であ る。 72は 、調整 打面 を もつ
一-43-―
小 型 の縦 長争J片 を素 材 として い る。 背面 の左側 縁 は礫 面 で あ る。 背面 の右側 縁 に調整 が 施 され 、
ノ ッチ状 の 刃部 が 形成 され て い る。 73は 透 明度 の 高 い石 材 の縦 長剥 片 を素 材 と し、一 部 に 自然 面
を残 して い る。 背面 左側 縁全体 に入念 な刃部調整 が施 され て い る。 74は やや 薄 手 の縦 長剥 片 を素
材 とし、 一 部 に 自然 面 を残 して い る。腹 面左側 縁全体 に細 か い調整 で刃 部 を形成 して い る。 75は 、
素 材 の 打面部 と末 端 部 を欠損 して い る。縦長剥 片 を素 材 と し、 腹面 の左側 縁 に 調整 が 施 され て い
る。 76は 大 形 の 剥 片 を素 材 とし、上半部 は欠損 して い る。 背 面左側 縁下半部 と腹 面右 上 半部 に細
か い調整 で刃 部 を形成 し、 背面右 側縁 に粗 い調整 で刃 部 を形 成 して い る。 背面 の大 きな剥 離 面 は
他 の 面 よ り古 い。 77は 透 明度 の 高 い楕 円 の争J片 を素材 とし一部 に 自然面 を残 す。 背面 、 腹 面 の先
端 に大 きい剥 離 と細 か い争j離 で刃 部調整 を施 して い る。側 縁 は一 部 欠損 して い る。 78は 、素 材 の
打面部 と末 端部 を欠損 して い る。 背面 の右 側 縁 に細 か な調整 が 観 察 され る。 79は 小 形 の 四角 い剥
片 を素材 とし、 背面 の一辺 に細 か い争J離 で刃 部 を形成 して い る。
両面調整 石 器
80は 一 部 に 自然面 を残 す透 明度 の 高 い小 形 の楕 円形 の剥 片 を素材 とし、上部 の 両 面 に大 きな剥
離 と細か い剥 離 で調整 が施 され て い る。
微 細剥離 痕 の あ る泉」
片
81は 、礫 面打面 を もつ 小 型 の横 長争J片 を素 材 と して い る。腹 面 の左佃l縁 に争J離 痕 が 観 察 され る。
82は 、小 型 の縦 長剥 片 を素 材 として い る。末 端部 を欠損 して い る。 腹面 の右 側 縁上部 に剥 離痕 が
観 察 され る。 83は やや透 明 度 の 高 い縦 長争J片 を素 材 と し、 背 面左側 縁 の一 部 と腹面右 側 縁 の一 部
に微 細 な景J離 痕 が 観察 され る。
泉」 片
84は 、 縦 長剥 片 であ る。石 理 面 で下半部 を欠損 し、平 坦 打 面 を もつ 。争J離 角 は 120° で あ る。 85
―
已『
♀
第24図
第 10表
__「 _¬
「
駒 出池遺跡 出土 の土 器
駒 出池遺 跡 出土の土 器
遺 物 リス ト
図番号
遺 物 番 号
名
称
出土 層 準
発 見 者
鵜浦武久
89K Dイ 21-130
縄文 土器 口縁部
モヤ H
91K Dイ 20-11
縄文 土器片
縄文土器片
縄文 土器片
表
黒
土
間室幸仁
土
小池幸夫
覆
土
小池幸夫
89KD」 48-1
89K D」 48-15
―-44-―
_¬ _ T
♀
(lm
は 、礫 面 打面 を もつ 石 刃 で あ る。末 端部 を欠損 し、 背面 中央部 に礫 面 を残 す。 背面 の 左側 縁上 半
部 と右 側 縁 にみ られ る粗 い争J離 痕 は、石 核 調整 に よ る もの で あ る。
G)縄
文 時代 の 土器
今 回の発掘調査 では、8点 の土器 が 出土 した。 出土層準 は、 J-48で は覆 土、黒土お よび黄 モ
ヤ、 イ ー20、 21で は表土お よび モヤ Ⅱであ る。 その いずれ もが小破片で あ り、 また表面 が磨耗 し
て い るこ とか ら、周辺 か らの流れ込 み と考 え られ る。図示 で きた 4点 以外 は、磨減 が激 しく文様
も判然 としない。
1は 、「 く」の字状 に内湾す る口縁部破片 で波状 口縁 となる。縄文施文後、沈線 を数条施 して い
る。2も 内湾す る口縁部 の破片であ るが、 内湾部 を欠失 してい る。小破片 のため明確 でないが、
波状 口縁 にな る可能性 が高 い。沈線 が施 されて い る。3は 、 LRの 縄文 の うえに細 い粘 土紐 を貼
付す るもので あ るが、 その大部分 が景J落 して い る。4は 、細 い粘 土紐 を貼付後、矢羽状 の刻み 目
をつ け た もので、地文 に縄文 をもつ と思 われ るがはっきりしない。
これ ら 4′ 点の土器 は、 いずれ も胎 土に繊維 を含 まない。 その文様か ら、縄文 時代前期後半 の諸
磯 b式 に上しこされ よう。
―-45-―
第 11表
駒 出池遺 跡 の 出土 遺物 (1)
遺 物 リス ト
実測図構
遺 物 番 号
名
1 89KD K49 201
尖頭器
2 89K D K49 184
尖頭器未成 品
3 90KD K49 200
4 89KD K49 162
尖頭器
5
6
7
8
9
尖頭器
89KD
89KD
90KD
89KD
90KD
K49 8
K49 4
K49 59
J48-42
K49 52
称
尖頭器
尖頭器
尖頭器未成品
ス クレイパー
ス クレイパー
10 90KD K49 199
ス クレイパー
11 89KD K48表 採
ス クレイパー
12 891K4967
微細剥離痕 の ある争J片
13 89K D K49 139
微細景J離 痕 のあ る余J片
14 89KD J48-9
縦長争J片
15 90KD K49 225
片
微細争J離 痕 のある余」
16 89KD J48 53
17 89KD」 4818
微細剥離痕 のあ る余J片
微細剥離痕 の ある剥片
18 86KD J l-1
微細剥離痕 のある剥片
19 89K Dイ 2143
20 90K Dイ 21-194
尖頭器
21 91KDイ 2026
尖頭器未成品
22 90K Dイ
2193
尖頭器
尖頭器
23 90KDイ 21-埋 土
24 86KDイ 2135
尖頭器
2137
26 89KDイ 2129
スクレイパー
25 86K Dイ
27
28
29
30
31
86K Dイ 21136
90KDイ 21埋 土
91KDイ 2046
86K Dイ 21138
91KDイ 202
彫器
ス クレイパー
ス クレイパー
ス クレイパー
ス クレイパー
ス クレイパー
ス クレイパー
32 91K Dイ 21-95
ス クレイパー
33 91KDイ 2048
石器基部
34 86KDイ 21173
35 90K Dイ 21176
36 90KDイ 21174
微細争J離 痕 の ある争J片
片
微細余J離 痕 のある争」
微細争J離 痕 のある余J片
37 89K Dイ 2138
38 86K Dイ 21206
39 91K Dイ 2010
片
微細争J離 痕 の ある争」
40 90KDイ 21228
41 90KDイ 21-埋 土
微細争J離 痕 の ある争J片
42 89K Dイ 211
43 42と 34の 接合図
離痕 の ある争J片
微細余」
微細争J離 痕 のある争J片
離痕 の ある暴J片
微細争」
石核
出 土 層 準
材質
大 き さ
(mm)
重 さ (g)
発 見 者
Ob 53.7*22.7*11.4
12.2
Ob 54.6*29.5*16.4
23.0
12.4
Ob 46.7*25。 7*13.3
茂木
Ob 30.9*13.9*5.1
1.8
Ob 18.7*15.3*3.6
0.6
Ob 14.2*20.7*8.5
1.8
Ob 37.7*23.0*13.5
11.7
10.1
デカパ ミローム ST 83.2*24.8*4.3
19.2
デカパ ミローム ST 71.3*30.0*9.7
22.5*22.4*5.7
3.1
デカパ ミローム SS
SS 101.8*48.9*17.6
83.1
撹乱層
Ob ll.1*13.8*4.5
0.5
26.0*14.0*5.3
1.4
デカパ ミローム Ob
Ob 36.2*23.3*3.8
4.1
22.5*32.3*8.7
5.0
デカパ ミローム Ob
S 21.6*10.0*3.2
0.7
埋土
41.3*25.4*9.3
10.1
デカパ ミローム S
モヤ I
Ob 104.1*73.3*32.9 212
モヤ I
Ob 21.5*18.4*8.2
3.1
モヤ I
Ob 15.6*16.1*6.6
1.5
モヤ Ⅱ
Ob 50.6*34.6*13.2
18.7
モヤ r
Ob 34.5*36.6*18.2
24.8
Ob 14.1*32.9*12.4
5.5
埋±
Ob 45.5*21.3*7.8
7.5
埋±
埋±
Ob 37.4*49.4*17.0
33.7
モヤⅡ
Ob 34.5*25.0*9.5
9.2
Ob 33.4*20.5*11.4
8.2
埋±
Ob 31.4*39.2*10.5
11.4
埋±
モヤⅡ
Ob 16.0*25.7*5.2
2.0
モヤ
Ob 25.8*26.2*12.6
7.7
Ob 39.7*35.8*16.0
26.2
撹舌L±
1.3
デカパ ミローム Ob 15.4*19.3*6.0
モヤⅡ
Ob 16.8*14.6*7.7
1.5
9.7
デカパ ミローム Ob 51.4*20.6*10.7
モヤ I
Ob 58.3*37.6*13.5
32.8
モヤ I
Ob 28.1*23.1*7.7
2.6
モヤⅡ
Ob 42.0*28.8*8.5
12.9
Ob 25.3*24.1*5.1
1.7
埋±
Ob 32.5*30.6*9.1
5.9
表±
Ob 35.0*36.0*13.4
15.8
Ob 30.1*25.3*8.4
5.0
埋±
モヤ I
Ob 71.3*49.0*27.9
94.4
茂木
デカパ ミローム
デカパ ミローム
デカパ ミローム
デカパ ミローム
デカパ ミローム
デカパ ミローム
一-46-―
平林
塚本千明
宮川
蒲地
竹村健 一
吉 田磨美
大野淳之
新海正博
関本真一
桂田
塚本千明
竹村健一
池幸夫
月ヽ
林秀子
麻生
斉藤和博
石塚 二侍子
新堀
大森
麻生
反町
野村祐一
木村
秋葉善克
野村祐一
斉藤
藤井哲哉
育
員
井久雄
塚本千明
石塚 二侍子
田村知栄子
新井雅之
第12表
駒 出池遺 跡 の 出土 遺物 121
遺 物 リス ト
実測図番号
遺 物 番 号
44
45
46
47
48
89K
89K
89K
90K
89K
Dイ 21129
Dイ 21-132
Dイ 21-28
Dイ 21-92
Dイ 212
49
50
51
52
53
54
55
86KMS l
84KM25
86KM131
KⅣ 12
84KM23
84KM24
83KM19
56
出 土 層 準
称
Ob
42.6*34.6*27.0
0b
34.5*52.6*29。
0b
23.1*36.4*40.6
石核
モヤ Ⅱ
石核
モヤ
石核
埋土
I
尖 頭器
尖 頭器
尖 頭器
尖 頭器
1
重 さ(g)
モヤ Ⅱ
ナ イ フ形石器
KMl
83KM16
86KM102
KM6
KMll
86KM135
KM3
91KDカ マ ド
83KM18
83KM17
KM7
86KMl12
86KMl19
(mm)
石核
尖 頭器
0b
27.5*44.6*36.6
0b
43.1*33.0*17.3
0b
0b
0b
0b
0b
0b
0b
20.3*14.4*3.5
21.3*19.2*4.5
18.8*14.3*3.2
15.7*21.5*5.5
43.8*22.8*7.3
31.3*19.1*7.9
27.8*22.0*9.0
51.1
7
0b 27.8*30.9*10.5
0b 24.1*29.9*10.2
表採
尖 頭器
59 860629K D表
大 き さ
モヤ Ⅱ
ナ イ フ形石器
池の平炊事場前池側
材質
石核
石鏃
57 84KM21
58 欠番
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
名
0b 43.4*40.7*15.3
0b 34.5*26.4*9。 7
0b 60.7*31.1*11.3
0b 58.5*28.9*17.0
尖 頭器
尖 頭器
尖 頭器 未成 品
尖 頭器 未成 品
尖 頭器
0b 32.4*15.5*7.2
0b 20.7*15.0*7.1
0b 25.5*12.7*5.5
0b 37.7*15.7*4.8
尖 頭器
0b
51.3*24.5*14.6
尖 頭器
26.4*10.7*2.6
36.5*23.9*6.8
40.8*16.5*7.2
40.2*14.3*6.2
30.1*15.9*6.8
尖 頭器
尖 頭器
尖 頭器
21.4
0.5
1.0
0.6
1.1
6.9
4.0
4.0
8.3
4.1
24.4
8.4
16.9
25.6
3.5
2.1
1.7
2.7
16.3
ス ク レイパ ー
73 KA/15
ス ク レ イパ ー
0b
45.6*26.4*12.5
12.1
74 KM9
75 86KM108
76 KM8
ス ク レイパ ー
ス ク レイパ ー
0b
0b
38.1*26.4*7.3
37.1*23.4*4.7
4.7
ス ク レ イパ ー
0b
53.7*46.2*13.1
33.7
77 911013カ マボコSE表 採 ス ク レイパ ー
36.1*41.3*8.5
15.3*19.4*5.2
14.3*15.2*3.7
17.3*20.8*5.8
18.2*19.6*5,7
29.1*12.2*4.3
13.3
21.1
ス ク レイパ ー
ス ク レイパ ー
0.8
4.8
5.2
3.3
3.3
9.1
81 86KM147
微 細剥 離痕 の あ る争J片
82
微 細争J離 痕 の あ る争J片
0b
0b
0b
0b
0b
0b
83 83KM13
微 細争」
離痕 の あ るまJ片
0b
68.3*28.8*12.4
84
争J片
0b
19.2*24.8*8.5
2.9
剥片
0b
77.9*31.4*13.3
26.8
78 86KM154
ス ク レイパ ー
79 860628表 採
ス ク レイパ ー
80 89K Dス
イ ジバ
87083004
870828-08
85 83KM14
材質几例
Ob:黒
微 細争J離 痕 の あ る争J片
曜石
,
ST;珪 質凝灰岩
,
SS:珪 質頁岩, S;砂 岩
―-47-―
/1ヽ わ
ト
59.9 金 り│1和 人
37.6 安 藤
41.8 石塚 二侍 子
0b
0b
0b
0b
0b
ス ク レイパ ー
発 見 者
1.3
0.8
1.7
1.7
1.2
/1ヽ わ
ト
ムMν
ハ=V
ム﹄︾
3)(甲
θ
財 卜
4
第 25図
10
駒 出池遺 跡 出 土 の 遺 物 (1)
-48-
甑 鱚 鶉 Ⅷ
︲
︲ ︱
I Ⅷ 鼎 グ
︱
︱
︱ = ︱
ヽ 撤 ︱
肉な
0
一
oH
5cm
潮拙 櫻
廻l凩
o
H
第 26図
駒 出 池遺 跡 出 土 の 遺 物 (2)
-49-
utt
︺
︹
[
]
[
¨
︺
]
¨
]
]
﹁
一
一
鰍陽
蜃▲
縄
一
5
鰤
2
爛瀦騒ψ
-50-
<)
/\
ffittr)(ffi
v;J | il.w>v
'V' \U'VO'
O
第28図
駒 出池遺 跡出土の遺 物 14)
―-51-T
5crn
h■
第 29図
駒 出池遺 跡 出 土 の 遺 物 (5)
一-52-―
m
巨
==コ
‐ ■
E=コ
‐ ■ 」
9
第 30図
駒 出 池遺 跡 出 土 の 遺 物 (6)
一-53-―
,cm
O
L.
第 31図
駒 出 池遺 跡 出 土 の 遺 物 (7)
一-54-―
5crn
2絋膨
]
一
ヽ
「
一
﹁
昴
5
い
―-56-一
一 Ю
\
5
6
′
圧
出 ヽ
儡醐H
爪
ハ
︲
曰
Ⅷ
g
心
﹄
金
師ハ想脹漑 E 彫⑮
θ︲
ρ倒ⅥⅥ ヽ一
ヽ︱詞ガタ の
︱ロ
釉︱
夕1職
͡
餓
⑮↓
9
―
0-◎
鰺
―
呻 η彎
│
β倒 \
み
L■巨==コ ‐■E=コ ■■J Cm
第34図
駒 出池 遺 跡 出 土 の 遺 物 00
--57-―
。
8
5
駒 出池周 辺 の遺跡
A.池 の平遺跡群 の研 究史
池 の平遺跡群 は、千曲川水系 の大石 川 と水無川にはさまれ た池の平溶岩 の緩斜面上 に分 布す る
遺跡群 で、主 として尖頭器文化 の遺跡が 多い とい う特徴 がある (八 千穂村池 の平遺跡発掘調査 団
,
1986)。
この付近 は八ケ岳 山体 の深 い森林 におおわれて いて、地表調査 はほ とん どで きない状態で
あ り、道路や溜 め池な ど人工的に開削 された ところにのみ遺物 が発見 され、遺跡が確認 されて い
る。 したがって、現在知 られて い る以外 に 多 くの遺跡が分布 して い るもの と推定 され る。
池 の平遺跡群 は興水利雄 氏 らに よ り発見 され、 1954年 には芹沢長介氏 らが池 の平牧場
(駒
出池
付近 )を 訪れ、尖頭器等 を採取 した とい う (井 出正義 ,1982)。 「信濃史料」 によれば、畑 八 村 の
中に「NQ1899、 池平牧場、 山麓、無土器文化、blade・
Point、
(所 蔵 )佐 々木隆蔵 ・佐藤達夫・興
水利雄 」との記載 が ある (信 濃史料刊行会 ,1956)。 さらに、 1958年 には駒 出池が造築 され、翌年
には佐 々木広雄 氏によ り尖頭器等 が採取 されたこ とによ り、佐藤達夫氏が確認 に訪れ て い る。
1971年 には、林道 八ケ岳線 の建設によ り、塩 くれ場、 トリデ ロ ック、湧水 の 3地 ′
点が発 見 され、
同年 6月 1日 か ら6日 まで発掘調査 がお こなわれた。 この時 に 「池 の平遺跡」 の名称 がは じめて
用 い られ た。
1979年 、佐 々木徳治氏 によ り大反地′
点が発見 され、 さらに佐 々木徳治 。小宮山一美氏 らに よっ
て駒 出池、八 千穂 レイ ク付近か らも遺物 が 多数表採 された。 これ を受け て、 1983年 、 1984年 に大
反、塩 くれ場 の発掘調査 がお こなわれた。 この時 に周辺地域 の遺跡分布調査 をお こな い、イヽ
塚明
点はかな り広 い地域 に分 散 して い ることか ら、
神、水無川上流 の 2地 点が発見 された。 これ ら 7地 ′
点は遺跡 として再定 義 した (八 千穂村 池 の平遺跡発掘調査 団
全体 を池 の平遺跡群 とし、各 地′
,
1984・ 1986)。
この遺跡名称 の整理 に ともない、従来 の池 の平牧合上 (池 ノ平牧場)遺 跡は駒 出池
遺跡 と改 めた。
駒 出池遺跡 では、1986年 か ら1991年 までに 4回 の発掘調査 をお こなった。 この間、調査 団 では
広域的 な遺跡分 布調査 を実施 し、 あ らたに 4遺 跡 を確認 し、 また 2遺 跡で尖頭器文化 の遺物 をと
もな うこ とを確 認 した。次章 では、八千穂村池 の平遺跡発掘調査 団 (1986)以 降 に明 らか となっ
た、 この周辺 の遺跡・遺物 につ いて記載す る。
B.新 し く発見 され た遺跡 と遺物
(1)八 千穂 レイク遺跡
(第 35図
)
遺 跡 :八 千穂 レ イ クは大 反 溶岩 が つ くる崖 線 の す ぐ下 に位 置 し、緩 斜 面 とな って い る と こ ろで
1973年 に農業 用 温水溜 池 として開削 され た。標 高 はお よそ1,505mで ぁ り、遺 跡 は池 の 北側 (北 地
―-58-―
点)に 確認 されてい る。両地点 ともに段丘礫 層 に含 まれ る黒曜石 の原石
点)と 南側 (南 地′
がわずか に散布 して い る。前 回の報告 では、南地点 で争J片 4点 、原石
(円 礫
(円 礫 )
)7点 、北地点 でチ
ップ 1点 、原石 3点 が え られて いた。 その後、南地点に道路、 テニ ス場 などが建設 され、 その工
事現場跡地か らナイフ形石器、石核等 が採集 された。
遺物 :ナ イフ形石器 (1)は 、黒曜石製 の縦長剥片 の 2側 縁 を刃 つぶ し加 工 してあ り、基部 (打 面
側 )は 欠損 して い る。 テニ ス コー トの トイ レエ事現場 で採 集 された もので ある。
石核 (2)は 、良質 の黒 日
程石 を素材 とし、幅広 な争J片 を剥離 して い るもの である。
9)四
十 町歩平遺跡
(第 35図
)
遺跡 :国 道299号 線 の標高1,140m付 近 の大石 川支流 ぞいの平坦地で、下流側 か らは最 後 の畑地 と
なって い る地点 に遺跡が ある。
遺物 :尖 頭器 未製品、石核、景J片 などすべ て黒曜石 製 である。尖頭器の未製品
(3)は 、 自然面
を残す争J片 の一 部 に平坦 な争J離 が施 されて い る。
G)大
石遺跡
(第 36図
)
遺跡 三大石集落 の下流 よ りの 島崎和夫 氏宅 (八 郡 13672)で 国道 よ り高 い敷地内に車庫 を建設す
るために掘 削 中 に、良質 な黒曜石製 の尖頭器
遺物
1′
点が 島崎 氏によって採集 された。
:1面 が 平坦 で、断面 が三角形 に近 い両面調整 の尖頭器 (4)で ある。先端部 が一 部欠損す る
もののほぼ完形 に近 い ものであ る。保 存長 は、長 さ6.6cm、 幅3.2cm、 厚 さ約 1.5cmで ある。
に)崎 田 原 遺 跡
(第 36図
)
遺跡 :千 曲川右岸 の崎 田地 区 にひろが る段 丘面上 に遺跡が分 布す る。開田工事 に ともない、一部
発掘調査 がお こなわれ、縄文時代 ∼平安 時代 の遺跡であるこ とが確認 されて い る (五 十嵐幹男
,
1955・ 1958)。
この遺跡南部 の下諏訪神社西側 で、 1982年 に小 宮山一美 が尖頭器
1′
点を採集 した。
遺物 :無 斑 品質安 山岩製 の両面調整 の尖頭器 (5)で ある。長 さ8.8cm、 幅3.9cm、 厚 さ1.15cmで、
全体 として扁平 な形で、基部が比較的幅広 で、最大幅 は基部 よ りにある。やや小形である点 と、
調整 がやや粗 い点が問題 となるが、全体的な形状 は旧石器時代末 の神子柴型尖頭器 に共通す るも
の である。
(D
石骨遺跡
(第 37図
)
遺跡 :水 無川 と柳河原か ら流れて くる沢 の合流点 の東側 にひろが る段 丘面上に、遺跡 が分 布す る。
貝
Jと 下側 の 2段 の段 丘 に遺跡は分かれ る。上段 の方が
標高約 1,050m付 近 である。道 をはさん で上イ
遺物が多 い傾 向が ある。
遺物 :縄 文 土 器 と平安 時代 の土器が出土 して い る。記載 した ものはすべ て、上段 の ものである。
第37図 は、石 骨遺跡 で表面採集 された土器 ・石器 である。
1は 、縄文 時代早期後半 の条痕文 土器 である。条痕は表面 にのみみ られ、裏面 は条痕文 を施文
後、なで消 されて い るよ うである。 2も 条痕文 土器 である。表面は風化 のため文様 は不鮮 明であ
り、裏面 へ の施文 はみ られない。1、
2と もに胎 土に 多量 の繊維 を含む。
―-59-―
3は
LRの 単節縄文 を施す もので、胎土に繊維 を多 く含む。縄文時代前期前半 に属 す るもの と
考 えられ る。
4は 列 点状 の刺突文 が施 された もので、縄文時代前期 中葉 の有尾式 に比定 で きよう。胎土に繊
維 を含 む。
5は 、 曲線状 の 沈線 を施 す胴 部下部 の破 片 で あ り、縄文 時代後期初 頭 ∼ 前葉 の もの と考 え るが
明確 で な い。
6は 、 口縁部 に亥Jみ 目を もつ 太 目の 隆帯 をめ ぐら した土器 で、 他 に施 文 はみ られ な い。堀之 内
式 に比定 で きる。7は 、 い わゆ る網 代 底 の底部破 片 で あ る。 6・ 7は い ず れ も縄文 時代 後期 の も
の であ る。
8は 、砂 岩製 の磨石 で 、両端 お よび側 面部 に敲 打痕 が み られ部分 的 に景J離 が生 じて い る。 また
両面 中央部付 近 に は敲 打 に よ って生 じた とみ られ る複 数 の浅 い 凹が あ る。 両面 ともに よ く磨 か れ
て い る。
―-60-一
Ψ
鉤
鯰
陶
贔
︹
′
儡
八 千 穂 レ イク 遺 跡
一
N胤闇醐
破線 ― 原 石 産地
四十 町歩 平遺跡
tr 「
第 35図
可
下
¬
lCm
新 し く発 見 され た 遺 跡 と遺 物 (1)
-61-
大石遺跡
崎 田原 遺跡
♀
「
可
第36図
下
「
聟
Cm
新 し く発見 され た遺跡 と遺 物 (2)
一-62-
5
︲
ヽ ︱︱ ん
Cm
第37図
新 しく発 見 され た遺 跡 と遺物 (3)
一-63-―
\
r/一 ミ
│
ヽ
6
池 の 平遺跡群 にお け る駒 出池遺跡 の性格
駒 出池 遺 跡 は標 高 1,530mの 地 点 に あ り、池 の 平遺 跡群 の なか では低 い方 に位 置す る。西側 に あ
る溶 岩 流 の末端 か ら出 る豊 富 な湧水 と、別 の 溶岩 流 に よ って 作 り出 され た 日当 た り良好 な平坦 面
は居住 拠 点 として絶好 の 条件 で あ る。 麦草 峠や そ の近 くの大石 川源 流 に は黒 曜石 の 原石 産 地 が あ
り、遺 跡 の 南側 を流 れ る大石 川 では現在 で も黒 曜石 の転石 が 採取 で きる。
池 の平 遺 跡群 の 中 で も第 1回 (第 2回 と調査 した大 反、塩 くれ場 遺 跡 は そ の立 地、 遺物 の組 成
か らみて、尖 頭 器製 作 址 で あ った と思 われ るの に対 し、駒 出池遺 跡 は 異 な った性格 を持 って い る
もの と思 われ る。
イ ー21グ リッ ド付 近 の石 器 組 成 をみ てみ る と、尖 頭器 7点 、 ス ク レ イパ ー 16′ 点、彫 器 1点 、 ノ
ッチ
1′
点、微 細剥 離痕 の あ る争J片 14′ 点、石核
9′ 点と器種 が 多様 であ る。 なか で
も、石 核 が 多 い の
は特徴的である。また、尖頭器製作址のように砕片が遺物全体 を占める害J合 が特 に多い とい うこ
とはない (83%)。 グリッド内では炭が多 く検出され、南側 では配石遺構が確認されてい る。 K―
49グ リッ ド付近 の石器組成は尖頭器 7点 、ス クレイパー 3点 、微細剥離痕 のある争J片 3点 、その
他争J片 、砕片であるが、中でも石器に対する砕片の割合が多 く(92%)、 尖頭器 も他 の器種に比べ
ると多 く出土 している。7点 の尖頭器 の うち、5点 が製作途中の破損品である。 また、ス クレイ
石 器 総数
大反
(′
4,028
点)石 器
景J片 ・砕 片
石器
石核
石器 内訳
スク レイパ ー
尖頭器 82%
0.99%
113%1微
5%
ス ク レイパ ー
塩 くれ場
1,422
駒 出池
K-49付 近
尖頭器 64%
0.98%
17%1
ス名/`膨 ヾ 115.4%
30.7%
尖頭器 53.7%
1.8%
微 29%
731
近
出2
・
駒イ
2.
9
池附
彫器
4.0%
片
剥
剥
パ
レ
ー
422%│1微 細
イ
鋼秀│ス ク
雪多
なる
『
1.0%
2.6%
微 :微 細争J離 痕 の ある争J片
第38図
第 13表
池 の平遺跡群 の石器組 成
池 の平駒 出池遺 跡遺物 出土状 況
イー21付 近
尖
ス
頭
7
9
0
ク レ イ パ ー
微細争J離 痕 のあるまJ片
核
石
景J
片
砕
片
そ
合
K-49付 近
7
器
の
2
他
計
―-64-―
パ ー が 3点 出土 して い るが 、 い ず れ も黒 曜石 では な く搬 入石 材 の 珪
質 頁岩 が 用 い られ て い るこ と
か ら、器種 に よ る石 材 の使 い分 け が行 われ て い た と思 われ る。
これ らの こ とをあわせ てみ る と、駒 出池遺 跡 は池 の平遺 跡群 の なか で は居住 拠 ′
点的要 素 の 強 い
地 点 で あ る と考 え られ る。 さ らに加 えて K-49グ リッ ド付 近 は尖 頭器 製作 址 で もあ った と思 われ
る。
―-65-―
7
駒 出池遺跡 の編 年的位 置
。
池 の平 遺 跡群 の 第 1回 。第 2回 発掘 に よ る大 反遺 跡 塩 くれば遺 跡 の調査 の結 果、 尖頭器 を中
心 とす る石器群 は、 層位 ・石 器 の 形 態 か ら大 き く見 る と 2群 に分 け られ る こ とが 明 らか とな った
ロ
(八 千穂 村 池 の 平遺 跡発掘調査 団,1986)。 す なわ ち、漸移 層 の す ぐ下 に あ た るソ フ ト ー ム付 近
に包 含 され る薄 手 の 入念 な加 工 に よる両 面調 整尖頭器 を中心 とす る上 層 の石 器群 は、 この大 反遺
跡 を代 表 す る もので あ り、神 子 柴文化 か ら縄 文 時代 草創期 の初期 の もの と推 定 され る。 さ らに そ
の下 の ソフ トロー ムか らは、や や粗 い調 整 を特徴 とす る周縁 調整 、半 両面 調整 、両面 調整 の 尖 頭
器 か らな る下 層 の石 器群 が え られ て い る。 これ はナ イ フ形石 器文化 後半期 に並 行 す る尖頭器 文化
に属 す もの と推 定 され る。
第 3回 か ら第 6回 発掘 が お こ なわれ た駒 出池遺 跡 では、 K-49周 辺 ブ ロ ック とイ ー21周 辺 ブ ロ
ッ クが主 に調査 され た。 K-49周 辺 ブ ロ ックでは、 デ カパ ミロー ム を中心 に両面調整 尖頭器 7点 、
ス ク レ イパ ー 4点 な ど約 750点 の石 器 が 出土 した。この ブ ロ ックの石 器群 は、男女倉 技 法 あ るい は
典 型 的 なナ イ フ形石器 を含 まな い こ とか ら、 ナ イ フ形石 器 終 末期 の尖頭器文化 の石器 製作 址 で あ
る と推定 され る。
イ ー21周 辺 ブ ロ ックでは、 デ カパ ミロー ム最 上 部 か らモヤ Iを 中心 とす る層位 か ら、尖頭器 7
点、ス ク レ イパ ー 16点 、彫器 1点 な ど853点 の石器 が 出土 した。前者 よ り後 出 で、細石 器文化 か ら
縄文 草創期 の所 産 で あ る と思 われ るが、 詳細 な位 置 は特定 で きな い。 この近 くで は池 の 造成 時 に
大 形 の 尖頭 器 が ま とま って 出土 した とい われ て い る。 この 大 形尖 頭器 はお そ ら く神 子 柴文化 か ら
縄文 草創期 の もの と推定 され る。
駒 出池遺 跡 では、 そ の後 、縄文 時代 前期 後半 (約 5,500年 前 ごろ)の 諸磯 b式 期 の遺物 が え られ
て い る。
池 ノ平遺 跡群 全体 をみ る と、 そ の大半 の遺 跡 が 後期 旧石 器 時代 の ナ イ フ形石 器文化 終 末期 と神
子柴文 化 ∼縄文 草創期 の 2段 階 の 尖頭器石 器群 に属 す もの で あ る。 この 中 にあ って、 八 千穂 レ イ
ク遺 跡 か らはナ イ フ形石 器 と縦長剥 片剥 離石 核 が 出 土 して い る。 これ らは、ナ イ フ形石 器 を主体
とす る石 器群 に属 す もの と思 われ、尖頭器石 器群 に先行 す る もの と推定 され る。
―-66-―
8
ま とめ と今後 の 課題
1986年 か ら1991年 まで足推卜
け 6年 、延 べ 4回 に わ た った駒 出池遺 跡 の 発掘調査 に よ って、本 遺
跡 の ほぼ 全容 が 把握 で きた。 以下 に そ の成果 と問題 ′
点を述 べ る。
A.地 質学的成果 と問題点
発掘地 の地質層序 を確 立 し(第 3章
第10図 )、 挟在す る鍵 層 の対 比検討 の結果、次 の諸 ′
点が明
らかになった。
① 池の平溶岩 Iの 流下時期 は後期更新世 の下部佐久 ローム層 の “オ レン ジパ ミス"降 下期以前 ま
で さか の ぼ る こ と
② 上部佐 久 ロー ム 層 Ⅳ の “デ カパ ミBⅡ 上 半部 "と 上部 佐 久 ロー ム 層 Vの “デ カパ ミロー ム "は
不整合 に よ る累重 関係 に あ り、遺物 包含 層 は “デ カパ ミロー ム "お よび そ の上位 であ る こ と
③ “モヤ I"“ モヤⅡ"は 完新世 の黒色火山灰層に対比され、大反・塩 くれ場遺跡発掘地の上部佐
久 ローム層の “
黄 モヤ"の 上位に位置すること
デカパ ミBⅡ 下半部"に 挟在する “
池の平火山灰 Ⅱ"は 姶良Tn火 山灰層 (AT)に 比定 されるこ
④“
と
この結 果 、 八 ケ岳 の東麓 におけ る後期 更新世 (上 部佐 久 ロー ム 層 )の 層序 は よ り詳 細 に 区分 さ
れ るこ とに な った。 また “池 の平火 山灰 Ⅱ"に まつ わ る年代 の 問題 は一 応 の決着 を見 たわ け であ
るが 、 池 の平 遺 跡群 の よ り下位 層準 へ の追求 お よび尖頭器文 化 の変遷 史 の確 立 とあ い ま って、上
部佐久 ロー ム 層 Ⅱの各単 層毎 の よ り詳細 な分 布 の 追求 が必 要 とな って くるであ ろ う。
B.考 古学的成果 と問題点
第 3回 ∼第 6回 発掘 に よる駒 出池遺 跡 の 調査 では、主 に 2ケ 所 の ブ ロ ックの分 布 と遺 物組成 が
明 らか とな った。
①駒 出池遺跡では、 K-49周 辺 とイ ー21周 辺 の 2ケ 所 のブ ロ ックが確認 された。両者 は ともに尖
頭器 を中心 とす る石器群 がえられた。
② K-49周 辺ブ ロ ックは、駒 出池の北西 の丘 陵緩斜面 に位置 し、3×
遺物が集 中 して いた。主な石器 は、両面調整尖頭器
7′
2mほ
どの範囲 に約 750′ 点の
点、 ス クレイパ ー 4′ 点、微細争J離 痕 の ある
剥片 2点 な どであ る。 このブ ロ ックは、尖頭器 の製作址であると推定 され る。
③ イー21周 辺 ブ ロ ックは、駒出池の北岸 の微高地に位置 し、3×
が えられてお り、主な石器 は両面調整尖頭器
7′
4mが 調査 された。853′ 点の遺物
点、 ス クレイパー 16点 、彫器 1点 、微細争J離 痕 の
ある余J片 14点 、石核 6点 などである。 K-49に 比べ てスクレイパーや微細剥離痕 のあ る景J片 が 多
い豊富な石器組成 を示 してお り、石器製作 の場 とい うよ りは生活 の場 であった可能性がある。
―-67-―
④ K-49周 辺ブ ロックは後期 旧石器時代 の尖頭器文化に属す ものである。イー21周 辺 ブロックは、
前者より後出で、細石器文化直後の神子柴文化 から縄文草創期 の ものと推定 される。
⑤駒出池遺跡か ら、わずかではあるが縄文時代前期後半 の諸磯 b式 土器が確認された。
⑥池 ノ平遺跡群 では、新 たに大石遺跡、四十町歩平遺跡の 2ケ 所 の旧石器時代 ∼縄文草創期 の遺
跡が確認された。八千穂 レイク遺跡では、 この遺跡群でははじめて典 型的なナイフ形石器文化 の
石器が確認された。さらに、石骨遺跡が発見され、縄文時代早期 。前期 。後期 の遺物が出土 した。
⑦池ノ平遺跡群 について多 くの知見がえられたが、調査 が及んだのはご くわずかな部分 である。
これまで明らかになったのは、遺跡群 の中で も開発 。開析 のすすんだごくわずかな面積 であ り、
まだ未知 の遺跡が多 く埋 もれていることと思われる。黒曜石原産地の遺跡群 として重要な地域 で
あるが、その研究 。保護 に関 しては途についたばか りであ り、多 くの課題が 山積 して いる。
―-68-―
付編
1
八 千穂 高原 の 歴 史
井出 正 義
八 千穂 高原 は八郡 山 と呼 ばれ、 茶 臼 山 (標 高 2,384m)な ど北 八 ケ岳 の 東斜 面 に位 置 して い て 、
大石 峠 (標 高 2,185m)を 介 して、西 方 山麓 の諏訪郡 芹 ケ 沢 (現 茅 野市 )と 古 くか ら交流 が行 われ
て い た。 江 戸 時代 には、大石 村 を枝 郷 とす る八 郡 村 に所属 し、八 ケ岳 山、八郡 山な どの名 で よば
れ、取 出、宿 岩 、 高野町、大 窪 、下畑、 中畑、上 畑、 八 郡 の八 ケ村 の 入会 山で、山元 の八 郡 村 が 山
年 貢 を取 りま とめ て納 入 し、 八 郡 と大石 か ら一 名 ず つ 山守 が 命 ぜ られ て そ の 管理 に あ た って い た。
現 国道 299号 線 の 麦草 峠や大石 川源 流付 近 は黒 曜石 の埋 蔵 地 で、原始 時代 に は茅 野市側 の冷 山や
さ らに遠 く和 田峠付近 に産 す る黒 曜石 も、 この八 千穂 高原 を通 って佐 久 地 方や 関東 方面 に運 ばれ
て い た こ とは 、 池 の平 遺 跡 をは じめ、各地 の先 土 器 。縄文 時代 遺 跡 の発 掘 調査 に よって明 らか に
され て い る。
八千穂 高 原 の入 り口 に位 置す る大石 の蓬 間遺 跡 では 1981(昭 和 56)年 に、灰釉 陶器 高 台付 皿
2、
土 師高 台付 内面黒色椀 2そ の他破 片 と共 に、管状紡錘 形 土 錘 70個 を出土 した。管状 土錘 は漁網 用
の錘 りで あ るが 、従 来 千 曲川流域 に は そ の 出土 数 が比 較 的少 なか った。 しか もこの灰 釉 陶器 は 10
世 紀後半 に東 濃地 方 で焼 か れ た もの と考 え られ るか ら、平 安 時代 後期 に この大石 川 で網 を用 い た
漁法 が行 われ て い た こ とを示 す。大石 川 は北八 ケ岳 の 白駒 池や 雨 池 に源 を発 し、 良質 で豊 富 な水
量 を もち、現 在佐久平上水 道 の最 も有 力 な水源 であ り、 マ ス な どの養 殖 漁業 も行 われ て い る。蓬
問遺 跡 は 白駒 の 池 を水 源 とす る大石 川 と、雨 池 を水 源 とす る八柱 川 の合 流′
点にあ る。 ここ をさか
の ぼ れば 大石 峠 を越 えて、諏訪 郡 山浦地 方 に通 ず る古 来 の 交通路 であ って 、 土錘 を多 く出 土 す る
諏訪湖 周辺 の 古代 遺 跡 との 関係 の 深 さが考 え られ、千 曲川上 流域 の 漁業 と古 代 集 落 の あ り方 を考
え る上 に極 め て重 要 で あ る。
八 千穂 高原 の所在 す る八千穂 村 の 千 曲川西岸地 区 が 記録 の上 に初 め て 見 られ るの は、建 武 2年
(1335年 )10月 21日 、 山城 国大徳 寺領 。信 濃国佐久郡 伴 野庄 の雑 掌、水 沼実 真 が 、 同庄 各郷 村 の
年 貢員 数 を大 徳 寺 に報告 した注進状
(「
伴 野庄年 貢注文案 」大徳 寺 文 書 )で 、「 畑物村 百 貫文 (中
略 )大 石 ・八 郡 ハ 案 内 を知 らず 」 とあ る。 畑物村 は近世 には、下 畑、 中畑 、上 畑、大 窪 の 四ケ村
に分 か れ、現 在 八 千穂 村 の大 字畑 とな って い る地域 であ る。 大石 、 八 郡 の 両村 の 村高 は その 時点
では まだ、大徳 寺 が寺領 支 配 の ため 派遣 した雑 掌 (役 人 )に は、 正 確 に把 握 され て い なか ったの
であ ろ う。
上畑 の勝見沢は、八郡部落 の北方約
l km、
石堂川北岸 の 台地上 にあるが、昭和 15年 ごろ、開田
中に石 囲 い炉 址か ら、 土 師器 の破片 と共 に瑞 花鳳凰紋 八稜鏡 が 出土 して い る。直径 約 10cmで 、紋
様 は摩滅 がすす んでい るが、先年茅野市阿弥陀堂構井遺跡か ら出土 した 3面 の八稜鏡 に類似性 が
―-69-―
見 られ、平 安 末期 に諏 訪 地 方 との交 流 を示 す 一 資料 と考 え られ る。上 畑 の 熊野 宮 は樹 齢 1,000年 以
上 と推 定 され る神代 杉 が あ るが、 ここに鎌 倉 時代 の板 碑 が 3面 保 存 され て い る。 徳 治 2年 (1307)
の刻銘 が あ り、 南佐 久郡 下最 古 の板 碑 で あ る。 板 碑 は青石 塔 婆 とよばれ 、秩 父産 の緑 泥 片岩 を素
材 として い るか ら、 十石 峠や栂 峠 を越 えて秩 父か ら運 ばれ て きた もの で、 中世 におけ る関東 と佐
久地 方 との 交 流 を示 す 貴重 な資料 で あ る。
中世 の 城館 跡 は馬越 の 馬越城 跡、八郡 の通城 跡、佐 日の佐 口城 跡 な ど、 土豪 (地 侍 )の 居館 跡
が 、 八 千穂 高原 の裾 野 の 台地上 に あ る。 また、千 曲川 畔 の低 地 に接 す る段 丘 崖 上 には 、大石 川烙
火 台、権 現 山砦 、下 畑城 、下 畑下 の城 な どの 山城 跡 が 、佐 久 甲州往 還 (国 道 141号 線 )ぞ い に な ら
ん で い て 、戦 国時代 甲斐 武 田氏 の佐久 地 方侵 攻 に 関連 した伝 承 を残 して い る。
江戸 時代 に な る と、街 道 の整備 が 行 われ 、小 諸城 主仙石 秀久 は慶長 10年 (1605)、 佐 久郡 諸村 に
,中 山道岩 村 田宿 か ら、 甲州街 道韮 崎宿 を結 ぶ
人夫 を割 り当て て、佐 久 甲州 道 の 道普請 を行 った。
佐久 甲州 道 は、 脇往 還 として宿 場 が 置 か れ、 間屋 と伝 馬 が 常備 され荷 物 の継 立 を行 っ た。上 畑宿
もそ の一 つ で、大石 川 畔 には一 里 塚 も設 け られ、現在 も一 里塚 の 地 名 と榎 の大 木 が そ の名 残 を と
どめ て い る。 八 郡 村大石 と諏訪郡 芹 ケ沢 の 間 では、両村住 民 が大石 峠 を越 えて互 い に産物 を交易
して い たが 、 宝暦 6年 (1756)、 大 雪 で八 ケ岳 山 の 本 が倒 れ て 、 馬 の通行 が で きな くな って しま っ
た。 30年 後 の 天 明 6年 (1786)11月 に下 畑村 の 医師小 宮 山桃 原が これ を復 旧 した。佐 久郡 大石 名
主 与惣兵衛 と諏訪 郡 芹 ケ沢村名 主市五 郎 は連 名 で、小 宮 山桃 原 に感謝 の 意 味 を こめ て 、次 の よ う
な取替書 を差 し出 して い る。 そ の大要 は 「今 後 は、 幕府 の公定賃銭 の三 割増 (許 容 範 囲)と して、
本 馬一 匹460文 、軽 尻 一 匹274文 、人足 一 人208文 と定 め て、両村オロ互 に仲 む つ ま し く荷 物 の 継送 り
をして、決 して この規定 に反す ることのないようにいた します」 とある。この ように幕府裁定の
伝馬人足賃銭 を定めて、大石、芹ケ沢両村が継立をしいていたことは、両村が宿場 と同様 の機能
を持 っていたと理解す ることができる。
しか し中山道の宿場 にとっては、大石峠道の ような間道が この ような継送 りの機能 を持つこと
は許す こ とので きない行為 であった。幕府 。大名 の公用荷物 を無賃或いは安 い公定賃銭で運ばな
ければならない宿場 にとって、商人荷物だけが宿場の経営や生活を維持するための収入源である。
それが間道を通ってしまえば、宿場 の経営が破滅 し、幕府の交通の大動脈 も止まって しまうこと
になる。 こうした矛盾が現実 となって争 われたのが、紀州藩 の御用途米や水戸藩御囲米の大石峠
通過問題 であった。幕末、外国船の来航、尊王攘夷論な どが起 き、海防、軍備拡大等 で財政の窮
迫 した各藩 は、用途米、御囲米などの名 目で、大量の米の買い付けをして、貸付米、払米などに
よって利益 を上げようとした。
「紀伊殿用途金貸付引当米」
弘化元年 (1844)、 紀州藩は、伊那高遠藩領 で大量に買 い付けた米を
として、芹 ケ沢村から大石へ継立、高野町問屋 を経て、余地峠越え、上州吉井貸付所に引き取 り、
合積みして江戸屋敷に廻米す るとい う計画であった。この計画は中山道下諏訪から
倉賀野宿 から舟
高崎まで17宿 間屋の訴えによって、幕府勘定奉行 の意をうけた中之条代官所 によって、八郡村 で
一-70-―
差 留 め られ、訴 訟 の結 果、芹 ケ沢 へ 継 ぎ戻 され た。
安 政 2年 (1855)、 水 戸藩 が諏訪 藩領 で買 い付 け た米 を、水 戸藩御 囲米 として、芹 ケ 沢村 の紋右
衛 門 らが 運送 を請 け負 って、大石 峠越 え、上 州 吉 井経 由、倉 賀 野河岸 か ら江戸 に廻米 す る こ とに
な った。 これ に対 して は、中山道各宿 問屋 の外 、米 を西上州 に移 出 して い る佐 久平 の171ケ 村 の農
民 が 、 死 活 の 問題 として幕府勘 定奉 行 に そ の 阻止 を嘆願 して い る。
この よ うな歴 史 を秘 め た八 郡 山 (八 千穂 高 原 )は 、前述 の よ うに、 八 郡 村 を山元 とす る八 ケ 村
の 入会 山で、 山役 永 7貫 300文 余 を上 納 して、各 村 の 村 高 に応 じた 馬札 を もって入 山 し、 家材 木 、
薪 、 馬草 、刈 敷 を採取 して、農業 経 営 を支 えて きたの であ るが、 明治 8年 (1875)、 地 租 改正 に あ
た り全 山 を国有 地 に編 入 され て しま った。 そ の結 果、 入 山 を禁 止 され た八 郡 区住 民 は事 の 重 大 さ
に 驚 い て 、農 商務 省 に対 して明治 33年 (1900)、 国有林 野下戻 の行 政訴 訟 を提起 し、 同37年 (1904)
に は これ を畑 八 村 に引 きつ ぎ、 13年 後 の 大 正 2年 (1913)に 八 郡 山4,000町 歩 の 下戻 しに勝 訴 し
た。 下戻 し山林 野 の うち1,000町 歩 が 成功 報 酬 (1/3の 約 束 )と して弁 護 士 に支 払 われ、 それ は現
在個 人企 業 の所 有林 とな って い る。残 る3,000町 歩 の広大 な 山林 野 が 、畑 八 村有 に 帰 し、現在 は八
千穂 高 原 と して、大 きな将 来展望 を もって 開発 され て きて い るの であ る。
八 千穂 高 原 を通 って大 石 峠 を越 え る道 は、 明治 以後、鉄 道 の 開通 に よ ってす っか り忘 れ去 られ
て い たが 、大 正 時代 に製糸業 を中心 とす る経 済 の発 展 に対 応 して、 南佐 久郡 中南部 と諏訪郡 山浦
′
地 方 を結 び 、諏訪 湖 畔 に達 す る道 の 必要 1生 が注 目され、 昭和 7年 (1932)11月 、町村 道 茅 野佐 久
線 の建 設 が 着 工 され、 同10年 県道 に編 入 され、 同 16年 まで工 事 が進 め られ たが一 時休 止 とな った。
戦 後 昭和 27年 (1952)か ら工 事 が再 開 され、 同36年 (1961)に は主要 地方道 茅 野佐久 線 とな り、
同41年 (1966)に 開通 した。現在 は埼玉 県 飯 能 市 と茅野市 を結 ぶ 国道 299号 線 とな り、 麦草 峠 (標
高 2,120m)は 日本 国道 の最 高 地 点 として知 られ、付近 の亜 高 山帯 原始林 の 中 に 白駒 池 、 雨 池、 双
子 池 な どが点在 す る高原 山岳観光 道 路 とな って い る。
現在 八千穂 高原 は広大 なカ ラマ ツの 人工 造林 と、亜高 山性針 葉樹林 帯 を主 とし、 シ ラカバ 、 ミ
ズ ナ ラ等 落葉樹 の 美林 の 中 に、 レング ツツ ジの群 落 が い ろ どる。 しか し、 か っての池 の平牧場 に
は馬や牛 の 姿 はな い。 カラマ ツの 美林 は育 ったが 、用材 として の販 路 は閉 ざされ て い る。 八千穂
高 原 は新 しい観光 開発 を模 索 して い る。 高原 に点在 す る施 設 には、 NHK外 国電波受 信 所 、佐 久
上水 道水 源 と水 源神社 、 八千穂 高原別 荘 地、 八 千穂 高 原 ス キー 場 な どが あ る。 旧池の平 牧場 に は
自然 園、駒 出池付 近 の バ ンガ ロー 、 キャ ンプ 場 、 フ ィー ル ドア ス レチ ック、 八千 穂 レ イ ク、 自然
休養 林 、 八 千穂 日中青年 の 家、姉妹都 市府 中市 民保養 所 「や ちほ 」等 が あ る。
―-71-―
付編
昭和 34年 (1959年 )駒 出池 で尖頭 器発 見
― 発見 の二 つ の 要 因 ―
佐 々木廣雄
1
戦後初 の 中松井遺跡発 掘調査
(昭
26∼ 2昨
日
不
)
林 道 工 事 現場 か ら出た奇 怪 な石 に端 を発 して、竹 内恒 、 野沢 南 高小林 正 巳両 先生 の 指 導 を うけ
た私 (当 時、 畑 八 開発 企 業専務 理 事 )は 、幻 の名著 「南佐久郡 の考 古学 的調査 (昭 和 3年 ,八 幡
一 郎著 )」 な どを読 み 、「 目か ら鱗 が 落 ち る」 思 い で、 旧畑 八 村 の土器 の 表 面採 集 を行 い ほぼ 完 了
させ た。 そ して そ の拓本 、写真 な ど を竹 内先生 を通 じて東 大 に報 じた。
そ の結 果 、 昭和 26年 秋 か ら東大 八 幡 一 郎先生 の指 導 で発 掘 調査 が 始 ま った。責任 者 は五 十 嵐 幹
雄 先 生 、 測 量 は佐 々 木廣雄 、発掘 は畑 八 青 年 団 (団 長 水上 一 他 三 百 数 十名 )、 土地 所有 者笹 崎 正 雄
氏、 最初 の 入植 者高見沢 芳治翁他 地 元 開拓 者 の協 力や 、 筑波大 学 岩崎拓也 教 授 (当 時教 育大 学生 )
の飛 び入 り参 加 な どが あ り、発 掘調査 は好 調 に進 んだ。 昭和 28年 には 出 土 品 の展示 と八 幡先 生 の
講 演会 を開催 し、戦後初 の 当地 方 の発 掘 は 多 くの 人 々 の 関心 を集 め た。遺 跡 は縄文 早期 末 の 厚 手
の表 裏 縄 文 土 器 、繊 維 の 入 った条痕文 土 器 (尖 底部 も出 土 )な どが主 体 で、住 居 跡 2∼
3が 発掘
され た。 当時 は岩宿 遺 跡や 北海道 な どで深 い ロー ム 層 の 中か ら石器 が 発 見 され 、縄文 以前 の 文化
の存在が問題視 されていた頃で、当然私 も関心 をもった。戦後の考古学はこ うしたアマチュアの
好奇心か ら出発 した例が多かったように思 う。
2
駒 出池 の造築
(昭
和33年
)
当時 の八千穂村長井 出幸吉氏は「八千穂高原に湖がな い、人造湖 で も池が欲 しい。
」と強 い意向
を持 って いた。私 が牧場 の番小屋 の前に湧水 を利用 して池がで きる地形があることを提唱 した と
ころ、「次 の 日曜 日に下見 をす る」こ とになった。村長、岩崎陸三係長 が酒 を呑みなが ら見 て い る
前 で、ハ ン ドレベ ル で池の水面周 と築堤 の位 置 を杭 を打 って示 した ところ、
「明 日か ら工事 に推卜
か
れ」 と豪傑村長 の天 の声。 こちらも工事待 ちで人手が余 って 困ってお り、「実費でや りましょう」
と言 うこ とで 5月 初め に着工 した。昭和 33年 6月 16日 に完成満水 (当 時 の館報 による)。 工 費 はわ
ずか三 十数万円。工事 は築堤 の両サ イ ドの尾根か ら一輪車 で土 を運び出 して土堤 を造 った。西側
の採 土地 (今 の キャ ンプ用 のか まど付近 )に 大 きな石が出て しまった。その石 の下 か ら翌年春、
ポイ ン ト (尖 頭器)が 発 見 されたのである。
…話 が横道にそれ るが …翌年村長 は「池が小 さいの で倍 に しろ」 と言 う。私 は「それは地形的
に無理 だ。大 きい池 を造 るな らもっ と良 い ところが ある」 と提案。今 の八 千穂 レイクがそれであ
・
る。 …
―-72-―
尖頭器 の発見
(昭
和34年 5月
)
昭和 33年 の秋 は大 水 害 が あ り34年 雪解 け を待 って 、私 は駒 出池 の築 堤 の様 子 を見 に行 った。 そ
の 時西側 の土 取 り跡 一 面 に黒 曜石 の破 片 が 露 出散在 して い て 、例 の石 の下 か ら、完全 な尖頭 器 二
個 と折 れ た もの三イ
固を発 見。そ の 日の うちに八 幡先 生 に電 話 をか け、推定 1.5mの ロー ム 層 か ら出
土 、木葉 の 形 を した両 端 が 尖 った尖頭器 で あ るこ と、 を報告 した。先 生 は不在 で、助 手 の佐 藤達
夫 氏が応 答 し、「今 夜 の 夜行 で行 く。翌朝 5時 に駅 に着 くの で たのむ 。」 との 打 ち合 わせ で翌 日は
工 事 場行 きの トラ ッ クに便 乗 して現地 に 着 い た。昼 頃 に は完 全 な尖 頭 器 を数 個 (長 さ 5∼ 10cm
程 )、 折 れ た もの や 未成 品 な ど数イ
固(石 の下 の棚 状 の所 に加 工 した もの をま とめ て置 い た とい う感
じであ った)、
そ の他 景J片 等 を持 って午後 三 時 頃 の 汽車 で彼 は勇 躍帰 京 した。
八 幡、芹 沢長介、杉 原荘介 各教 授 の見解 も「 ア ジア大 陸東北部 の 旧石 器 に類似 してお り完全 な
尖頭器 で 日本 で 3∼ 4番 目の有 力 な発 見」 との こ とであ った。佐 藤 氏 は熱 中 の あ ま り、 八 幡 先生
を飛 び越 して 旧石器 を求 め 方 々 を飛 び 回 り、 中松井 他 の発掘 の報告 書 をま とめ る とい う仕事 が 手
に着 か な くな った。 当時 は芹沢先 生 の 無 土 器 時代 説、杉 原 先 生 の 先 土 器 時代 説 が あ り、 昭和 37年
に芹 沢先 生 は放 射 性炭素 量 の測定値 に よ って、更新 世 に ま たが るア ジア大 陸 の 旧石 器 に対 比 す る、
日本 の 旧石 器 時代 文化 説 を発 表 した。しか し佐藤 氏 は 山内清 男氏 と共 に、新石 器 時代 の七 千年 ∼一
万年 以 内 で縄文 時代 の 前 に無 土 器 時代 が あ り、大 陸 の 旧石 器 時代 ほ ど古 い もの では な い との 説 を
唱 え た。 そ の理 由は石 器 の 刃 な どの一 部 が研磨 され てお り、丸 の み形 な ど、大 陸 の もの に比 べ て
精 巧 な ものが あ り、オ
直刃
(し
ょ くじん )等 の 技術 か ら、 そ う古 くは な い と見 たの で あ る。 しか し
そ の後 の 旧石器 時代 の 多 くの発掘 調査 に よって、 14C年 代 測定 の確 か さが認 め られ、 山内、佐 藤
説 は影 をひ そめ た。 そ の上 、佐 藤達 夫 氏が 間 もな く若死 に され て しまった。
氏 の死 去 に よって、 我 々 青 年達 が 努 力 した「 中松 井 遺 跡発掘 調査 報告 書」 もで きず、 出土 品 も
ご く一 部 が 東大 の地 下室 か ら一 昨年、 三 十 数 年 ぶ りに帰 って きた (五 十嵐 幹雄 先 生 の尽 力 に よ る)
の み であ る。
思 えば、昭和 34年 、
「 日本 の 旧石 器文化 の 存在 を確 定 づ け る一 助 とな った、駒 出池 の尖 頭器 の発
見」 もつ い に 陽 の 目を見 るこ とな く終 わ って しまい、残 念 でな らなか ったわ け で あ るが 、今 回、
本報告 書 に付 編 として、 当時 の い きさつ や 思 い 出 を語 らせ て い ただ く機 会 が 与 え られ、 この事 が
世 に 出 る こ とが で きた こ とを感謝 す る次 第 であ る。
一-73-―
あ とが き
私事 になって恐縮 だが、 八千穂村池の平駒 出池は、 1961年 に 当時小学校 5年 生だった編集子 が
学校 の キャンプで延々12km隣 町か ら歩 いて来 て以来、 山菜や きのこ を採 集 に何度 か訪れ た土地で
ある。 八千穂 村池 の平遺跡発掘調査 団の事務局 をひきついでほ しい との依頼 をうけた とき、 い さ
さか荷 が重 い な と感 じつつ もなつ か しく思 った もので ある。
さて、八千穂村池 の平遺跡発掘調査 団 は野尻湖発 掘調査 団に学 んだ独 特 の体制、 いわゆる野尻
湖方式 で行 われて きた。野尻湖方式 とは一 つの 目的に向か って 自発的、 自主的に集 まった参加者
が対等平等に知恵や技術 をだ しあ い、研究 テー マ を解 明す る調査 法 であ り、 また、研 究成果や 出
土遺物 は中央 の特定研究機 関 に しまい込む こ とな く、研究終了後、地域 の遺産 として地元に保管
し、参加者 のみ な らず地元に成果 を普及す るとい う地元主義 をつ らぬ く姿勢 である。
駒出池の発掘 は足I■ lけ 8年 、のべ209名 の参加者によって行 われたが、野尻湖方式 の精神 は守 ら
れたの ではないか と自負 して い る。 ただ諸般 の事情 で秋に発掘 を行 うな ど、やむ を得 なかった と
は いえ、地元住民 の参加 しやす い 日程 の設定 とい う点 では悔 い を残 して しまった。
編集作業 は、 のべ 8回 の編集委員会 と人類考古、地質各専 門グループの数度 の集会 を持 って行
った。編集委員会 は各地 にち らば る委員 の集 ま りやす さを考 えて信濃町 の野尻湖博物館 を会場 に
開かれたこ とが 多か ったのだが、 それぞれ本来 の仕事 をもち、 また別 の研究 テーマ をかか えての
編集作業 であった。 したが ってスケジュールの調整 だけで も困難であ り、通常、野尻湖発掘調査
団の各種集会 にあわせ て開かれ るこ とが 多か った。編集委員会 には大阪か ら電車 を乗 り継 いで参
加 の委員や新潟、群 馬、埼玉、静 岡は じめ県内各地か ら自家用車でかけつ け る委員等、 多大 なエ
ネル ギー を費や していただ いたが、 そんな負担 に もかかわ らず編集作業 が継続 され、報告書 とし
て まとめ られ た背景 には、池 の平遺跡発掘 その ものの持つ魅力が大 きか ったか らではないか とひ
そかに思 って い る。
報告書 には、八千穂村文化財調査委員 の佐 々木廣雄 さんか ら駒出池遺跡発 見 の経過 を、佐久考
古学会事務局長 の井出正義 さんか らは八千穂 高原 の歴史について寄稿 して いただ いた。 多忙 に も
かかわ らず快 くひ きうけてい ただ いた両氏にはあらためて感謝 を表す るしだ いである。
さて この間 の発掘に よって、現在 も春 か ら秋 にかけて キャンプ を楽 しむ観 光客 でに ぎわ う駒出
池が古代人 に とって も大切 なキャ ンプサイ トであった ことが 明 らかにな り、駒出池遺跡 をは じめ
とす る池の平遺跡群 の重要性が よ り増 して きて い る。 しか し「朝 日に輝 く黒曜石の槍先 をか ざし
つつ 白樺林 の溶岩台地 を行 く旧石器人の行 く先、帰 る宿 を、 また生 き生 きとした狩 りの様子 (池
の平遺跡群、 1986、 あ とが きよ り)」 を復元す るにはまだまだ時間がかか りそ うである。
本報告書 の 出版 をもってひ とまず駒 出池遺跡の発掘は幕 を閉 じるわけであるが、 また いずれの
日にか 陣容 も新 たにこの事業 が再 開 され るこ とを望んで止 まな い。願わ くばそ こには、村の財産
で もある遺物類 を目の 当た りに したあるいは直接発掘 を経験 した希望 に燃える八千穂村 の若 い人
達 の姿 がみ られることを祈 って い る。
―-74-―
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いて―
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一―-76-― ―
発掘参加者名簿
第 3回 (駒 出池 、 1986.7.
23-27)
浅 田泰 弘
飯森康 博
池 田科 子
石塚 二 侍 子
上田
岡 田憲 明
小倉徹 也
角谷
金井章子
金 川和 人
鎌
上加世 田聡
亀 田直 美
鴨 田知 幸
木村 志 のぶ
小 宮 山一 美
近藤 洋 一
斉 藤佐知
鈴 木義 昭
関本 真 一
寺 尾真純
春野
浩
大 森 省吾
秀樹
鎌形武史
熊井 久雄
小林 和 宏
小林 正 明
斉 藤 尚人
酒井知 子
新 堀 友行
杉 田正 男
反町忠雄
竹内
田 中美 恵子
田辺智 隆
塚本千 明
中村 由 克
三 階堂学
西 山和代
畠 山幸 司
林
秀子
深澤 哲 治
匡
堀井 昭宏
増 田信吾
松橋
三 隅佐知 子
三原
哲
矢 口裕 之
山根妙 子
由井修 二
横 田 とし子
隆
安 藤 清宏
池 田科 子
第 4回 (駒 出池 、 1989。
10。
豪
健
均
光
大島
(以 上 52名 )
7∼ 10)
路博
荒
会 田夕紀 子
麻生 賢 司
新 井雅 之
嵐
石 崎孝 之
石塚 二侍 子
伊 藤公 夫
稲 富英彦
入西智 彦
鵜浦 武久
大 久保 天
大 久保 輝
大竹 幸 恵
大竹 憲 昭
大 野淳 之
大見元子
二
召三
ブく本寸日
鬼 束詠 子
加 藤宗 彦
桂田
保
金井章 子
│1和 人
金り
蟹
功
蒲地
剛
鴨 田知 幸
北 爪智 啓
北原祐 子
熊井 久雄
小 池 幸夫
小坂
淳
小林 正 昇
小林 雅 弘
齊藤和博
佐 々 木 早苗
佐藤
新 海正博
須藤 隆 司
杉 田正 男
数 土 美幸
関本真 一
相 馬秀 人
滝 川義 治
竹内
健
竹 村健 一
田 中俊廣
田 中美 恵子
茶 珠俊 一
津金達 郎
塚本千明
堤
隆
中村健 司
中村 由克
西村玲 子
丹羽章 夫
芳賀謙 一 郎
長 谷川桂 子
平井清 之
平林 正 晴
深 澤 哲治
間室 幸仁
嶺 野仁 美
三原
││ち ひ ろ
宮り
茂 木正 和
百瀬孝 治
森 田栄 一
矢 口裕 之
山根 妙 子
大 見 元子
第 5回 (駒 出池 、 1990。
全
鳴津
哲
(以 上 72名
7。
30∼
8。
薫
)
4)
会 田夕紀 子
新井雅 之
石塚 二侍 子
伊 藤公 夫
大 野淳之
大橋 麻 衣 子
加 藤宗 彦
金 川和 人
上垣 内純 子
河合 小 百合
木崎 恵子
国信 ゆか り 熊井 久雄
小 池幸 夫
齊藤和博
佐 々 木早 苗
渋 谷美奈 子
清水秀 夫
新 海正 博
菅沼
鈴 木真 純
須藤智 美
関本真 一
高橋
誠
滝 川義 治
田 中美 恵子
塚本 千 明
津金達 郎
土井康 裕
長橋 良隆
中村 由克
三 階堂 学
野村
長 谷 川桂 子
深 澤哲 治
春野
匡
藤井 哲也
間室幸仁
三 橋 貴之
嶺 野仁 美
三原
宮川 ちひ ろ
宮崎
隆
森 田栄 一
森 田英夫
森田
矢 口裕 之
吉 田磨 美
―-77-
亮
哲
亘
哲
(以 上 49名
)
第 6回 (駒 出池 、 1991。
10.
9∼ 13)
青 木 香央子
秋 葉善 克
新 井 久美 子
新井 雅 之
池 田科 子
石塚 二 侍 子
美木 子
金 子 良仁
上垣 内純 子
草野広詩
小亀
小林 美智 子
佐々木早苗
全
新 海正博
鈴木
関
関本 真 一
高橋
田 中和徳
田村知 栄 子
津金達 郎
土 橋 由理 子
外 山智 賀
中村 由克
野村祐 一
長 谷 川桂 子
平山
深 澤哲 治
間室幸仁
三原
森田
矢 口裕 之
会 田夕紀 子
門
佐藤
渡辺 哲也
均
(以 上 36名
保
和子
)
一-78-一
関
出
政智子
哲
亮
誠
Abstract
Ikenotaira sites, consisting of seven paleolithic are situated on the eastern slope of the
Yatsugatake Volcanoes, Yachiho Village, Nagano Prefecture. Two of them, namely Osori
and Shiokureba sites, have been excavated in 1983 and 1984 respectively by Yachiho-Mura
Ikenotaira Sites Excavation Research Group (1986) thus forming the first and second
Ikenotaira Excavations. The third, fourth,
intermittently from
shore
1988
fifth
and sixth Excavations were carried out
to 1991 at the Komade-ike site. This site is located along the north
of a small pond named the Komade-ike, at an altitude of about 1,300m
situated
downslope of the Osori and Shiokureba sites, having an altitude of about 1,700m. These sites
are distributed along a narrow area composed of the Late Pleistocene Ikenotaira lavas.
Seemingly forming a route
to the quarry site exposing obsidian. An objective of
these
excavations was to reconstruct the life of Paleolithic men at such high 1ands, especially the
relationship between the paleolithic sites and the obsidian quarry exposure.
Each time, the excavations were carried out
in
several grids
(3m x
3m). Total
area
excavated include nine grids (75m') and one trench (lm x l?m) with an average digging depth
of about 1m. Stratigraphically, Komade-ike site consists of lower and upper Saku Loam
formations covered by Kuroboku (black
soil). The relics were
yielded in situ from "Deka
Pm" (pumice with obsidian lapilli), "Deka Pm Loam" (brownish weathered volcanic
ash),
"Moya" (light brownish weathered volcanic ash) and Kuroboku in ascending order. A total
of about
1,400 relics were yielded including scrapers, points, gravers, notches, cores and used
frakes. In addition, many arranged
"Deka Pm
Loam".
cobbles were found on the upper bedding plain of the
On account of the assemblage, the Komadeike site might be assigned as
a campsite complex during same epoch of the last Glacial
Stage. The culture reconstructed
from the yielded tools indicates that the age of the site is correlated with the last stage of
Paleolithic age and the site seems to be a life center of many ancestor generations.
一-79-―
図
版
図版
1:駒 出 池 南 方 か ら発 掘 地 を望 む
1
駒 出池遺跡 発掘地 の仝 景
左 手建 物 の うらが駒 出 池 1第 3回
│、
2:北 方 よ り発 掘 地 を望 む (第 5回
)
図版
2
発掘地 の風景
:11111:││
‐
薔
雛 │=
篠
織
な麟
1,議
1:駐 車場地 点 K-49付
近
(第
4回 )、
2:バ ンガロー地 点 イ ー21付 近
(第
4回
)
図版
3
発掘地 の 層序
1:駐 車場地 点 グ リッ ド壁面、 2:バ ンガ ロー地点 イ ー21グ リッ ド壁面
図版 4
遺物 出土 状況 (1)
3
1:遺 物 集 中区 K-49(第
5回 )、
2:遺 物集 中区 イー21(第 4回
)、
3
:配 石 イ ー21(第 5回
)
図版
5
5 :尖 頭器 、2・ 3:ス ク レイパ ー
遺物 出 土 状況 (2)
図版
1:第 3回 、 2・ 3:第 4回
6
発掘風景 (1)
図版
7
発掘風景 (2)
1:第 4回 、 2:第 4回 サ ンプ ル採取、 3:第 5回 、 4:第 5回 麦草峠黒曜石 原産地 の 見学
発掘 風景 (3)
図版 8
一
一
2
難
一
一
一
一
・
一
一一一一
・
・
・
・
,一¨一
一一 一
.
.
.
.
鷲
一
一
一
︵一
一
.
鑓
硲 .凩
駒 出池
帥靡
図版 9
躙
⑮
51111
1:No l∼ No17表 面、2:No l∼ No
17裏 面
図版 10 駒 出池遺跡 の 石器
0
2 m
1:No19∼ No38表 面、 2:No19∼ No38裏 面
5・
獨燿
つ‘ m
1:No49∼ No75表 面、2:No49∼ No75裏 面
図版 12 駒 出池遺跡 及 び 周辺遺跡 の 石器
鰊
颯趾
)‐
陽黎
蟷1褥 ‐
2 m
c
1:No39∼ No48、 No18表 面、2:No76∼ No85表 面、周辺遣跡 の石 器
報告書抄録
ふ
り が な
い け の だ い らいせ き ぐん に
圭日
池 の 平 遺
名
跡 群
Ⅱ
や ち ほ む らこ ま で い けい せ き の せ ん とうきぶ んか
副
書
八 千穂 村駒 出池遺 跡 の尖頭器 文化
名
巻
次
シ リー ズ 名
シ リー ズ番 号
編 著 者 名
八千穂村池 の平遺跡発掘調査 団 (編 集責任者 ・新海正 博
編 集 機 関
八千 穂 村池 の 平遺 跡発掘 調査 団
所
〒384-07 長 野県 南佐久郡 八 千穂 村畑 143番 地
地
在
1
)
八 千穂 村教 育委員会 気付
発 行 年 月 日 西暦 1996年 3月 30日
ふ りが な
ふ
コ ー
り が な
ド
Jヒ
糸
章 東経
調査 面積
調査 期 間
所収 遺 跡名
駒
出
池
所
在
市町村
地
203084
長 野県 南佐久
調査 原 因
遺 跡番 号
m2
36爆モ 138渥モ
郡 八 千穂 村 八
ケ岳下
19860723
4`か
24う )
S
48矛少
521少
19911013
学術 調査
103.5
2049瑠争力
也
所収遺 跡名
駒
出
池
種
散布 地
月J
主 な時 代
1日
石
器
主
な
配 石 1基
遺
構
主
な
尖頭器
遺
物
縄
文
土器 片
1点
4点
など
合計
記
事
項
25′ 点 後期 旧石器 時代 か
スクレイパー32点
ノ ッチ
特
3,169点
ら縄文 時代 前期 に
か けて の複合 遺跡。
尖 頭器文化 の プ ロ
ックを検 出。 黒曜
石 の 原産 地 におけ
る尖頭器文化 の一
様相 が 明 らか とな
った。
池 の平遺跡群 H
―― 八 千穂村駒 出池遺跡 の尖頭器文化一一
発行 日 平成 8年 3月 30日
編集者
八千穂村池 の平遺跡発掘調査 団
発行者
八千穂村教育委員会
印刷所
ほおず き書籍株式会社
拠
¢
丹
撻
則
群
I
Fly UP