...

1790 年代におけるカントの 「自律」 概念

by user

on
Category: Documents
9

views

Report

Comments

Transcript

1790 年代におけるカントの 「自律」 概念
小野原雅夫 : 1790 年代におけるカントの 「自律」 概念
87
1790 年代におけるカントの 「自律」 概念
小野原 雅 夫 年) であり,そこに 10 箇所も用例が見出される
1 自律概念の拡張
のである。それらはいずれも 「意志の自律」 とは
カントは『道徳形而上学基礎づけ』(1785 年,以
異なる文脈で用いられている。つまり,
『判断力
下『基礎づけ』と略記)や『実践理性批判』
(1788 年)
批判』を起点として自律概念の使用法に変化が見
において,「定言命法」 と 「道徳性」 と 「意志の
られるようになったと考えることができるのであ
自律」 の三者が不可分に結びついた形式的倫理学
る。
を確立した。これに対して晩年に書かれた『道徳
そこで本論では,まず『判断力批判』における
形而上学』(1797 年)は,第一部『法論』と第二部
自律概念の使用例を確認していくことにしたい。
『徳論』から成る。『法論』における 「適法性」 し
そこに 90 年代における自律概念の使用法の原型
か要求しない 「法の普遍的法則」 を定言命法とみ
を見て取ることができる。次いで法哲学の場面に
なすことができるのかに関しては異論が出される
おける自律概念の使われ方を見ていくことにす
であろうし,特に法と分析的に結びついている外
る。最後に『徳論』に出てくる 「実践理性の主体
的強制は,意志の自律とは相容れないように思わ
的自律」 や 「実践理性の独裁 Autokratie」 という
(1)
れる 。また,
『徳論』において展開されている,
概念を手がかりに,法哲学と実質的倫理学におけ
意志の実質である目的を含みもつ徳義務は,実質
る自律のあり方について探っていくことにした
的倫理学であるかぎり,これもまた意志の他律を
い。
意味するように思われる。はたして『道徳形而上
学』は,カント倫理学の根幹を成す 「意志の自律」
2 『判断力批判』における自律概念
とどのような関係に立つのであろうか。
『判断力批判』の中に登場してくる自律概念は,
ところで,批判期(1780 年代) にはあれほど多
多様な文脈で用いられている。大別すると以下の
用されていた 「自律 Autonomie」 概念が,
『道徳
三種類に分けることができる。第一に,
『判断力
形而上学』ではほとんど登場してこないのが印象
批判』の 「序論」 の中に出てくる,悟性・判断力・
的である。しかも数少ない登場箇所においては批
理性という三つの上級能力に関わる自律の話。第
判期とは異なる意味や用法で使われている。いず
二に,趣味判断を下す主観が自律をしているとい
れももはや 「意志の自律」 という熟語としては使
う文脈。第三に,反省的判断力や構想力といった
われていない。すなわちカントは,晩年において
趣味判断に関わる能力が自律をしているという
は 「意志の自律」 という文脈とは切り離して 「自
話。このうち第一のものは最後に取り上げること
律」 概念を用いるようになっているのである。カ
にして,まずは第二の自律から見ていくことにし
ントが公刊された著作の中で Autonomie 概念を
よう。
(2)
用いているところは全部で 56 箇所ある 。その
カントは次のように言う。「趣味は純然たる自
うち,『基礎づけ』が 26 箇所,
『実践理性批判』
律を要求する。他のひとびとの判断を自分自身の
が 14 箇所と,やはり 7 割以上がこの二著に集中
判断の規定根拠にすることは他律であるだろう」
している(3)。ところが,次に多く使われているの
(V282)
。美しいものを判定する趣味判断において
は『道徳形而上学』ではなく,
『判断力批判』(1790
は,人は他人の判断に左右されてはならず,自ら
88
人間発達文化学類論集 第 17 号
2013 年 6 月
「これは美しい」 という判断を下さなければなら
は自律ではないのである。というのも,規定的判
ない。これをカントは 「あらゆる主観における趣
断力は,与えられた諸法則ないし諸概念を原理と
味の自律」 (ibid.)とも呼ぶが,より正確な言い方
して , このもとに包摂するだけだからである」
は 「快の感情について判断する主観のいわば自律
(V385)
。これらはいずれも,規定的判断力は自律
(4)
」 (V281)という表現であろう 。要するに 「その
ではない,というネガティブな文脈での言及であ
人自身の趣味」 (ibid.)でなくてはならない,とい
る。規定的判断力との対比において,反省的判断
うことである。
力に関してもう少し積極的に論じているのは,目
この文脈と関連して,
『判断力批判』の中でた
的論的判断力の二律背反に関わる次のような言及
だ一つだけ倫理学的な意味で用いられている自律
であろう。
概念が登場する。カントは,古典的な芸術作品が
美の模範的実例とみなされているからといってそ
本来物理的な(機械的な) 説明の仕方の格率
れが趣味の他律を意味するわけではなく,趣味の
と目的論的な(技巧的な) 説明の仕方の格率と
自律と両立しうるのだということを論じていく。
の間に二律背反が存在するようにみえる外観
それを類比的に説明するためにカントは,歴史の
は,すべて次のことに基づいている。それは,
中に現れる徳や神聖性の実例(範例) が私たちの
反省的判断力の原則が規定的判断力の原則と取
行為を律するのに役立つということは「徳の自律
り違えられて,反省的判断力の自律(特殊な経
」 (V283) を損なうものではない,と論じるので
験諸法則に関するわれわれの理性使用に対してたんに
ある。ここでいう 「徳の自律」 が意味するものは
主観的に妥当する自律)が,悟性によって与えら
おそらく 「意志の自律」 と同じことであろうと思
れる(普遍的ないし特殊的) 諸法則にしたがわな
われるが,『基礎づけ』や『実践理性批判』では,
ければならないような,規定的判断力の他律と
カントは倫理学が実例に頼ることを戒めていたの
(8)
取り違えられる,ということである。(V389)
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
で(5),ここでの主張は批判倫理学の公式見解から
は少し外れていると言っていいだろう。
カントは,
残念ながら,これでもまだ 「反省的判断力の自
趣味に関しても徳に関しても実例を参考にするこ
律」 の内実が明らかになるわけではない。規定的
とは大いに必要なことであって,それは継承で
判断力は,悟性によって与えられる法則に従わな
あって模倣ではなく,人マネだけをしているよう
ければならないので他律である,というのはわか
な経験主義的他律とは異なる,ということを言わ
る。それに対して反省的判断力はなにゆえに自律
んとしている。この文脈では,厳格な批判倫理学
である,と言われているのであろうか。「たんに
の主張が少し弱められて,より普通の人間に即し
主観的に妥当する」 という注意書きが自律の意味
(6)
た主張がなされているように感じられる 。
内容なのであろうか。
おそらくそうではあるまい。
さて,第三のグループは,美に関する趣味判断
この点を理解するためには,
『判断力批判』の 「序
や目的論的判断を下す能力に関して自律概念が用
論」 に出てくる,第一のグループに分類される 2
いられているものである。カントは 1 箇所だけ,
箇所を参照する必要がある。そこでは,もっと広
(7)
構想力について自律概念を使用しているが ,多
い観点から自律概念が使用されている。
くは反省的判断力の自律を説いている。そのさい
規定的判断力は自律ではなく他律であるというこ
心の諸能力一般に関しては,これらが上級諸
とが同時に論じられる。「自然目的によって規定
能力として,すなわち自律を含む諸能力とみな
される判断は他律を根底にもつことになり,趣味
されるかぎり,認識能力(自然の理論的認識能力)
判断にふさわしい自由とはならず,自律を根底に
に対して,悟性はアプリオリな構成的諸原理を
もつことはないだろう」 (V350)。「規定的判断力
含んでいる能力である。快・不快の感情に対し
4
4
小野原雅夫 : 1790 年代におけるカントの 「自律」 概念
89
ては,判断力がそれである。…欲求能力に対し
だが,しかし,悟性に関して明言されているわけ
ては,理性がそれである。(V196f.)
ではないので,カントの言わんとするところはそ
れほど判明ではない。それに対して,公刊された
ここでは,悟性と判断力と理性という三つの上
『判断力批判』では採用されることのなかった「第
級能力がいずれも,「自律を含む能力」 であると
一序論」においては,三つの上級能力の自律に言
言われている。カントは『純粋理性批判』
ではまっ
及しているので,自律と自己自律の相違点が捉え
たく自律概念を使用していなかったわけだが,三
やすい。
批判書が出揃った段階で,各上級能力はいずれも
自律をしているという理解に落ち着いたのであろ
判断力は,反省の諸条件に関してアプリオリ
う。すなわち,悟性も理性も判断力も自ら法則(ア
に立法的であり,自律を証明する。しかしこの
プリオリな原理)を立てているのであって,それは
自律は,(自然の理論的諸法則に関する悟性の自律や,
まさに自己立法という意味での自律なのである。
自由の実践的諸法則における理性の自律 のように) 客
ここで論じられている判断力が,規定的判断力で
観的に妥当するのではなく,言いかえれば諸物
はなく反省的判断力であるのは明らかであろう。
や可能な諸行為についての諸概念によって妥当
したがって,反省的判断力の自律とは,自らアプ
するのではなく,たんに主観的に,感情に基づ
リオリな原理を立てているということを意味す
く判断に妥当する。この判断は,普遍妥当性を
る。しかしながら,悟性や理性の自己立法と,判
要求しうる場合には,アプリオリな諸原理に基
断力の自己立法は,同じ自律といってもいくぶん
づいたこの判断の起源を証明するのである。こ
様相を異にするものである。そうした位相の違い
の立法は,本来は自己自律と名づけられるべき
を表現するために,カントは新しい概念を導入す
であろう。というのも,判断力は,自然に対し
る。
ても自由に対しても法則を与えるのではなく,
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
もっぱら自分自身に対して法則を与えるからで
判断力もまた,主観的観点についてだけであ
ある。(XX225)
るが,自然の可能性に対する一つのアプリオリ
な原理をそれ自身のうちにもっている。この原
カントが公刊された著作でこのような説明をな
理によって判断力は,自然に対して(自律として)
ぜ採用しなかったのか謎であるが,ここでの論述
ではなく,自分自身に対して(自己自律 として)
は自律と自己自律の関係を明晰に示している。悟
自然を反省するために一つの法則を指定する。
性も理性も判断力も自律を行っているのであり,
4
4
4
4
4
4
それはアプリオリに立法的であること,アプリオ
(V185f.)
リな諸原理を自ら立法しているということを意味
ここでカントは 「自己自律 Heautonomie」 とい
している。ただし,このうち(反省的) 判断力の
う奇異な概念を考案して,判断力に適用している。
みは,自然や自由に対して立法するのではなく,
Autonomie だけでも自己回帰的な意味合いを含ん
判断力自身に対して立法するがゆえに,客観的な
でいるというのに,そこにさらに he という接頭
意味での自律ではなく,たんに主観的な意味での
辞を付け加えることによって,自己回帰性をより
自律にすぎない。
そのような特殊な自律に対して,
強調した概念が作り出されている。この自己自律
カントは 「自己自律」 という概念を当てたのであ
は自律とどう違うのであろうか。この中で対置さ
る。先に見た 「たんに主観的に妥当する」 という
れている,自律として自然に対して立法するのは
注意書きは,自律一般の特徴というよりも自己自
悟性であろう。つまり,この引用箇所では悟性と
律の特徴であったことが明らかとなる。そして,
判断力が対比されるという構図になっているわけ
ここまで見てきた『判断力批判』における 10 個
-
90
人間発達文化学類論集 第 17 号
2013 年 6 月
の自律概念のうち,「徳の自律」 や悟性の自律と
毀損であり,したがってそれ自体が事実として与
いう用法を除く 8 個は,自己自律概念に置き換え
えられたスキャンダルであり,あらゆる国家の自
ることも可能なものであったということがわか
律を危うくすることであろう」 (VIII346)。このよ
る。
うに 1795 年の段階でカントは 「国家の自律」 と
さて,本稿の目的は,反省的判断力の自己自律
いう概念を導入し,法哲学の文脈のなかで初めて
を明らかにすることではない。90 年代における
自律概念を用いたのである。
自律概念の特徴を捉えることにある。その観点か
実はこれは意外なことと言えるかもしれない。
らここまでの考察をまとめてみるならば,
『判断
そもそもカントが 「意志の自律」 という新しい自
力批判』においては,上級諸能力が自らアプリオ
律概念の用法を編み出したわけであり,前節で見
リな原理・法則を立法すること,すなわち,自己
たような人間の認識諸能力に関して自律概念を用
立法のことをカントは自律と呼ぶようになってい
いるのもカントの考案によるのだが,Autonomie
る。このうち,理性の自律とは,純粋実践理性が
概念の原義にさかのぼって考えてみるならば,自
4
4
4
4
4
自らアプリオリな自由の法則(道徳法則) を立法
治とか自立・独立という意味が Autonomie のも
することのみ を意味する。批判倫理学における
ともとの含意である。したがって言葉の使い方と
「意志の自律」 の場合のように,道徳法則を意志
しては,むしろ 「国家の自律」 という用例のほう
4
4
の規定根拠とすることまでをも含み込んで自律概
が字義通りなのであって,「意志の自律」 等のほ
念を使用しているわけではない。つまり,批判倫
うが比喩的な用法であるといえよう。つまりカン
理学においてひじょうに狭い意味で使われていた
トは,それまで本来の意味で自律概念を使ったこ
自律概念が,より緩やかな拡張された意味で使用
とがなく,晩年にいたってやっと自律の原義に
可能になったのである。これは批判倫理学の観点
帰ってきたのである。
からすると大きな後退と言わねばならないだろう
ここからはたんなる憶測になるが,カントが
が,
『道徳形而上学』の成立に向けての歩みとし
Autonomie の原義に帰ってくるためには,前節で
ては,一歩前進と言うことができるだろう。なお,
見てきたような,
『判断力批判』における自律概
「第一序論」 において,「客観的な」 自律と,「た
念の拡張を経る必要があったのではないだろう
んに主観的な」 自己自律という対比が使われてい
か。批判倫理学においてカントが自ら定義し彫琢
たことも記憶に留めておこう。本論の最後にこの
した 「意志の自律」 概念はきわめて堅牢なもので
枠組みを借用することにしたい。
あって,したがって自律概念が 「意志の自律」 と
3 法哲学における自律概念
一体化しているかぎり,法哲学の場面で国家の述
語として使うようなことはほとんど不可能だった
『判断力批判』の次に自律概念が使用されたの
ように思われる。しかしながら,自ら立てた法則
(1795 年)においてである。
は『永遠平和のために』
を自らの意志の規定根拠とすることまでは要求せ
同書の第一章では,永遠平和を実現するための 6
ずに自律概念を使用することができるようになっ
つの予備条項が示されているが,そのうちの第 5
たことによって,自律概念の適用可能性が一気に
予備条項は,「いかなる国家も他国の体制と統治
広がったように思われるのである。
に暴力を行使して干渉すべきではない」 (VIII345)
さて,第 5 予備条項における 「国家の自律」 概
というものである。その中でカントは,内戦状態
念は,他国によって支配されることのない政治的
にある国家に対する外国勢力による武力干渉につ
独立・自立を意味している。この自律概念には,
いて次のように述べている。「外国勢力によるこ
他律ではないという消極的な意味しか含まれてい
のような干渉は,自己の内部疾患とひたすら闘争
ないと言うことができるであろう。しかしカント
しまったく他者に依存していない一国民の権利の
は,
『道徳形而上学』の『法論』の 49 節,「国家
小野原雅夫 : 1790 年代におけるカントの 「自律」 概念
91
法」 の最終段落において,より積極的な意味での
次節では,
『徳論』に登場してくる二つの自律
国家の自律について論じている。しかも,そこで
概念を見ていくことにするが,その前に,
『道徳
は 「定言命法」 にまで言及されており,たいへん
形而上学』の翌年に出版された『諸学部の争い』
興味深い。
の中に出てくる自律概念について簡単に付言して
おく。
『諸学部の争い』の第一部 「哲学部と神学
三つの相異なる権力(立法権,行政権,司法権)
部の争い」 の中で,
自律概念が 2 つ使われている。
によって,国家はその自律を有することになる,
これが,公刊されたカントの著作中の 56 個のう
すなわち,みずからを自由の法則にしたがって
ちの最後の 2 個である。
『道徳形而上学』の後に
形成し維持することになる。これら三つの統合
出版された著作に出てくる自律概念なので,これ
に国家の安寧はかかっている。国家の安寧とは
を扱うことは本論全体の趣旨からは外れるのだ
…,憲政組織と法の諸原理とが最も合致してい
が,本論では 90 年代における自律概念を追って
るような状態のことであり,こうした状態を求
きているので,それらも瞥見しておくことにしよ
めて努力するよう理性は定言命法を通じて私た
う。内容的には,本節で述べてきたような法哲学
ちを拘束している。 (VI318)
における自律概念に一番親近性が高いと思われ
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
る。というのも,カントは 「大学の自律」 (VII17)
カントは 「国家法」 の中で,理念としての国家
ということを語るからである。
について論じてきて,三権の分立を唱え,立法権,
同書の第一論文は,カント自らが巻き込まれた
行政権,司法権のあるべき姿を理性的に描出して
筆禍事件を念頭に置きながら,大学の上級学部と
いく。ここに掲げた引用文はその総まとめである。
下級学部(ここでは神学部と哲学部)の争いに言寄せ
ここで言う 「国家の自律」 は,
『永遠平和のために』
て,国家の検閲体制について論じていくという,
での 「国家の自律」 とは異なり,
豊かな内実を伴っ
きわめて政治色の強い論文である(10)。その冒頭
ている。国民が自ら立法した法に自ら従うことに
部分でカントは,大学は自律していなければなら
よって,自分たちの外的自由を保障されるような
ない,と断じるのである。それは,
『永遠平和の
理想的な国家のあり方こそが,国家の自律なので
ために』における消極的な国家の自律概念に類似
ある。その形成原理をカントは 「自由の法則」 と
している。つまり,ある法人格(集団や団体など)
呼んでいるし,しかもこのような理想的な国家の
が他の法人格によって他律的に支配されていては
樹立を定言命法が命じていると言うのである。
『法
ならない,
という自治を意味する自律なのである。
論』の中では自律概念は唯一これだけしか登場し
そして,そのような大学の自律の根拠となってい
ないが,それがカントの国家論の中核に据えられ
るのが理性の自律である。
ていることが見て取れるだろう。樽井正義による
次のような評価はけっして過大なものではない。
自律にしたがって,自由に(思考一般の原理に
「法律への服従は,立法を行う国民自身の意志か
即して) 判断する能力は理性と名づけられてい
ら生ずるものにほかならず,自ら定めた法律であ
る。したがって哲学部は,この学部が採用すべ
るからこそ,それに従うことがすなわち自由と言
き学説あるいはただ認容しさえすればよい学説
うことができる。ここに,道徳の場合と同様に,
の真理を保証しなくてはならないから,この点
自ら立法し,自らそれに従う,という積極的な意
において自由であり,かつ政府の立法ではなく
味での自由すなわち自律が,法の言葉を用いるな
して理性の立法のもとにのみあると考えられな
ら自治という概念が表現されている。国家法の領
くてはならないであろう。(VII27)
域も,人間が自らに備わる理性の法則に従って自
ら秩序づける領域なのである」(9)。
ここで言う理性の自律は,前節で見た,アプリ
92
人間発達文化学類論集 第 17 号
オリに自己立法するという意味での理性の自律と
2013 年 6 月
念を新たに創設する必要があったのだろうか。こ
は異なり,他からの制約を受けずに自由に判断す
こでの対を考えると,実践理性の自律のほうは,
るという点に重点が置かれている。これも消極的
アプリオリな原理を自ら立てる,という点にのみ
な意味での理性の自律概念だと言えるであろう
焦点化して使われているということになるだろ
が,大学の自律にせよ,理性の自律にせよ,いず
う。傾向性が意志の規定根拠となり,法則に反し
れも消極的概念でありながらも,歴史的・政治的
てしまうことのないよう,胸の内で闘って自らを
に重要な意味をもっているということは明らかで
律していくという側面は,実践理性の独裁という
ある。言論の自由を奪われたカントが,その渦中
概念が引き受けてくれているのである。つまり,
において国家・政府に対して言論で闘いを挑むと
『判断力批判』の場合と同様ここでも自律概念は,
きに,この新しい意味での自律概念に依拠しよう
自己立法という点に限定して使用される概念と
としたというのは銘記しておくべきことであろ
なっているのである。その点を押さえた上で,も
う。
う一つの自律概念を見てみることにしよう。
4 『徳論』における実践理性の自律
それは,第二編 「倫理学方法論」 の中で道徳的
問答法が展開される直前のところに出てくる。
『道徳形而上学』には自律概念は 3 つしか出て
こない。前節で挙げた『法論』の中の 1 つと,
『徳
模倣したり警告したりする性癖に対して示さ
論』において,「徳論への序論」 に 1 つと,「倫理
れる模範(それがよいものであろうと悪いものであろ
学方法論」 に 1 つの計 3 つである。
『基礎づけ』
うと)の力に関して言うと,他人が私たちに与
と『実践理性批判』で 40 個も使われていたのと
えるものは,いかなる徳の格率をも基礎づける
対照的である。そして『徳論』においても,もは
ことはできない。なぜなら徳の格率は,まさに
や 「意志の自律」 概念は使われず,その代わりに
各人の実践理性の主体的 subjektive 自律のうち
「実践理性の自律」 という概念が使われるように
に存するのであって,
他人の振る舞いではなく,
なっている。しかも実践理性の自律は広義の概念
法則が私たちの動機として役立たなくてはなら
として位置づけられているのである。
ないからである。 (VI479f)
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
「徳論への序論」 では,Autonomie の対概念が
提示される。カントは,義務の違反へと誘惑され
ここでは自律概念に subjektiv という形容詞が
ることがけっしてない神聖な存在者たちと対比し
付されている(11)。先の 「徳論への序論」 では,
て,人間の道徳性はその最高の段階においても,
徳という人間に固有の,傾向性との闘いにおける
義務違反へと誘う傾向性との戦いにおいて勝ち取
自律のあり方が実践理性の独裁と呼ばれていたの
られる 「徳」 でしかありえないと言う。そして神
で,ここでの徳の格率を存立させる実践理性の主
聖な存在者たちの場合は 「実践理性の自律」 であ
体的自律は,実践理性の独裁と同じものであると
り,人間の場合は同時に 「実践理性の独裁 Au-
言うことができるだろう。つまり,実践理性の自
tokratie」 でもあると言う(VI383)。実践理性の独
律(=実践理性によるアプリオリな自己立法)という上
裁とは,「法則に従わない自分の傾向性を克服す
位概念の下に,実践理性の主体的自律(=実践理
る能力の意識」 のことである。両者の関係は,
『判
性の独裁) が位置づけられているということにな
断力批判』における自律と自己自律の関係とパラ
る。
レルである。自律の中の特殊例が自己自律であっ
以上のように,
『徳論』では実践理性の自律が
たのと同様,実践理性の自律の中の特殊例が実践
広義の概念として使われるようになっているのが
理性の独裁である。それにしてもなぜカントは,
わかる。これは第 2 節で確認したように,
『判断
実践理性の自律に加えて実践理性の独裁という概
力批判』における自律概念が拡張的な意味で使わ
小野原雅夫 : 1790 年代におけるカントの 「自律」 概念
93
れていたのと軌を一にしている。90 年代におけ
が,90 年代の 「実践理性の自律」 は,純粋実践
る自律概念の特徴であると言ってよいだろう。こ
理性によるアプリオリな法的立法としての
『法論』
のような自律概念の拡張は偶然の産物であろう
の体系を十分に許容する。
『徳論』における 「実
か。カントがどこまで意識していたかは不明だが,
践理性の主体的自律」 になぞらえて言うならば,
おそらくそうではあるまい。
『道徳形而上学』の
『法論』においては 「実践理性の客観的自律」 が
体系構築に向けて,カントは少しずつ,批判倫理
成立しているのだとは考えられないだろうか。主
学に固有の諸概念を組み換えようとしており,そ
体的自律が,「法則が私たちの動機として役立つ」
のために自律概念に関しても,位置づけを変えた
という,批判倫理学に固有の,意志の内的な規定
り,新概念を導入したりしていたのであろう。と
根拠の問題まで含み込んだ概念であるとするなら
はいえカントは,批判倫理学からの転換を明言し
ば,動機までは問わずに,純粋法的理性の自己立
てはいないし,組み換えはほとんど人目に触れな
法と人間の行為が外形的・客観的に合致すること
い程度に行われているので,最後に,より明示的
を,客観的自律という概念によって言い表すこと
に組み換えを行うとすればどうなっていたのかを
も可能であるように思われる。あるいは別の概念
提示して,本論の考察を閉じることにしよう。
対を使うならば,実践理性の 「内的自律」 と 「外
5 実践理性の客観的自律と主体的自律
的自律」 と言いかえてもいいかもしれない。
別稿において論じたように,
『法論』と『徳論』
以上見てきたように,90 年代の自律概念はア
は人間の自由を,それぞれ 「外的自由」 と 「内的
プリオリな自己立法という意味合いだけしかもた
自由」 に分節化して,法義務の体系と徳義務の体
ない,きわめてニュートラルな概念へと拡張され
系を構築していったのであった(12)。カント自身
ていた。倫理学的,実践哲学的な概念という限定
はそれらを 「外的自律」 や 「内的自律」 と言いか
も失って,『純粋理性批判』における 「悟性の自
えることはしなかったが,90 年代の自律概念の
律」 や,『判断力批判』における 「判断力の自律」
使われ方からするならば,そのような言いかえは
(=自己自律) も語ることが可能になっている。倫
十分に可能であったと言えるだろう。残念ながら
理学的,実践哲学的な場面においても,批判倫理
本論では,そのうちの 「内的自律」 のほうが,批
学に固有の文脈で使われる「意志の自律」に代わっ
判倫理学で言うところの 「意志の自律」 を超えて,
て,様々な局面で活用できるより広義の 「実践理
さらに道徳的目的による意志規定であることまで
性の自律」 がその中心に置かれることになった。
を論証することはできなかったが(13),
『道徳形而
その拡張された広義の概念の下で,より限定され
上学』は批判倫理学が彫琢してきた概念を受け継
たさまざまな自律概念を編み出していくことに
ぎつつ,人間の実践に定位した新しい地平を切り
よって,90 年代の実践哲学体系にふさわしい自
開こうとしていると言うことができるだろう。
律の理論を打ち立てていくことができるように
なったのである。
(2013 年 4 月 16 日受理)
残念ながらカントは,
『道徳形而上学』におい
ては 「国家の自律」 と 「実践理性の主体的自律」
(=実践理性の独裁) という二つの概念しか提示し
ていない。とはいえ国家の自律という概念は,
「公法」 の中の 「国家法」 全体を要約したような
重要な概念であることを 3 節で確認した。
『法論』
は外的強制を含んでいるがゆえに,批判倫理学に
おける 「意志の自律」 とは共存しがたいのである
注
( 1 ) Vgl.H.Cohen, Kants Begründung der Ethik, 2 Aufl.,
Berlin, 1910, S. 399.
( 2 ) 本論ではこの他にもいくつか概念検索の結果を活用
しているが,いずれも検索には以下のソフトを使用
し た。Kant im Kontext II・CD-ROM, Karsten Worm,
InfoSoftWare, 2003.
( 3 ) 『基礎づけ』以前に Autonomie 概念の用例はないの
94
人間発達文化学類論集 第 17 号
で,『純粋理性批判』でもまだ使われてはおらず,
まさに批判倫理学の成立とともに使用されるように
なった概念であると言うことができるだろう。
( 4 ) この表現の中に 「いわば gleichsam」 という語が付
2013 年 6 月
(10) カントの筆禍事件についてはここで詳述する余裕
はない。カッシーラー『カントの生涯と学説』みす
ず書房,1986 年,第 7 章,参照。
(11) 『判断力批判』において自己自律に subjektiv という
されているのは,カントのある留保を予感させる。
説明が加えられたときは,判断力自身に対して法則
後述する 「自己自律 Heautonomie」 と関連があると
を与えるという意味でそれを 「主観的」 と訳したが,
の見方も可能であろう。
ここの文脈では 「主体的」 という訳語のほうが自ら
(5)
Vgl. IV408, 419, V155.
従うというニュアンスに適うであろう。しかし,ド
(6)
人から与えられたものであれ,自ら産出したもので
イツ語としては同じ subjektiv なのであって,アプ
あれ 「普遍的な諸準則によってでは,徳ないしは神
リオリな立法が自身の傾向性に対して向けられてい
聖性の実例によって達成されるほどのことは,なん
としてもけっして達成されない」(V283)という言
る,という構造は,自己自律の場合と共通している。
(12) 拙論「定言命法の体系 ―法と倫理の道徳的基盤
明は,カントの批判倫理学に慣れ親しんだ者にとっ
―」(浜田義文・牧野英二編『近世ドイツ哲学論考』,
ては意外に聞こえるのではないだろうか。
法政大学出版局,1993 年,所収),参照。
(7)
「構想力が自由であって,しかもそれだけで合法則
(13) この問題は,「自律」 概念よりも 「アプリオリな実
的であることは,すなわち構想力が自律をともなう
践的総合命題」 との関わりのほうが深い。拙論「晩
ということは矛盾している」(V241)。
年における「アプリオリな実践的総合命題」―なぜ
( 8 ) 以下,引用文中の傍点はすべて引用者による強調で
≪法の定言命法≫は「定言命法」と呼ばれなかった
か?―」
(日本カント協会編『日本カント研究 6 批
ある。
( 9 ) 樽井正義「自由の哲学」,同訳,ハンス ・ ライス著『カ
ントの政治思想』芸立出版,p. 158。
判哲学の今日的射程』,理想社,2005 年,所収),
参照。
Kant’s Concept of “Autonomie” in 1790’s
ONOHARA Masao
“Autonomie” is a central concept of Kant’s critical ethics in 1780’s. In “Grundlegung zur Metaphysik der
Sitten”(1785)and “Kritik der praktischen Vernunft”(1788), Kant always uses it in the idiom of “Autonomie
des Willens” to express pure morality of human internal motives. But since “Kritik der Urteilskraft”(1790),
he begins to use it in different idioms and meanings. In this paper, I’d like to argue that his concepts of Autonomie in 1790’s are not only for his formal critical ethics any more, but also for his philosophy of Right
(Law)and for his material ethics of moral ends. “Metaphysik der Sitten”(1797), which has two parts of his
practical philosophy ─ “Rechtslehre” and “Tugendlehre” ─, is based on this newly formulated concept of Autonomie.
Fly UP