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清
川
か ね ぬ ま
袋
西
345
47
が
な か む ら
ま
ぶ
ろ
べ え
く ま が いじ ん じ ゃ
い さ
11
く
わ
あ お く ら の ふ ち
北館大学助利長公
青鞍の淵伝説
ら
2
中村 熊谷神社
熊谷三郎兵衛伝説
お お や ま も り の み こ
現在、美しい田んぼの広がる庄内平野は、
かつては水利にとぼしく、耕作範囲が限ら
れ、広大な未開拓地が点在していました。
その時の狩川城主だった北館大学は、主
君の最上義光に命がけで堰の開削願いを申
し出てようやく許可を得ました。当時、山
際まで最上川が深く流れ込んでいた清川は、
堰台を造っても次の日には全部流されてし
まう難工事でした。なす術もなく北館大学
は、もはやこれまでかと、家宝の馬の青鞍
と鎧に大石を結び、神仏に祈り、川に投げ
込んだところ不思議な事に激しく渦巻く水
面がピタリと静まり、一気に堰台が完成し
たという伝説が語られています。
この堰の水は、狩川、余目、酒田の一部
の広大な田んぼを潤しています。また、青
鞍の淵の石碑は北館大学の功績を称え、現
在の清川地区幸町付近に残されています。
が
とくほうそくげん
江戸時代の僧。松山町
(現・酒田市)の総光寺
の 世を務め、のちに退
隠した。その後、千河原
の八幡神社の傍らにある
小庵(兎三窟)に入った。
■徳峰即現
千河原の集落名の由来は、その昔、権力争いに敗れ
た皇子が集落に逃げ込んできて、護衛役と追手との間
に争いとなり、河原の草木が血に染まったというとこ
ろからきています。それ以来、この集落のことを、血
の河原と言われるようになったそうですが、血という
のはあまりにも不気味だということで、血の文字を千
に変え、千河原という集落名になったとのことです。
そこで疑問に思うのは、皇子とはいったい誰のこと
なのかということです。その皇子に関して、徳峰即現
という人が書いた古文書が残っています。その古文書
によれば、この皇子は、人皇十六代の應神天皇の第二
子、大山守皇子と記されています。第一子が即位しな
かったため、第二子と第三子の間に争いがおき、権力
争いに敗れた大山守皇子は東北の地に逃れることにな
りました。
しかし、ある集落で見つかり争いとなり、大山守皇
子は、現在の千河原集落のある民家の産部屋に隠れま
した。このとき産部屋にいた妊婦に、安産を祈願した
のでしょうか?このことが安産を願う、やや祭りの起
源とされています。
大山守皇子は、この後に追手の手にかかり命を落と
すことになりましたが、集落内の八幡神社に祀られ、
今でもこの伝説が語り継がれています。
ち
千河原 大山守皇子伝説
熊谷三郎兵衛は、由井正雪等が慶安4年
(1651年)に幕府政策への批判と浪人
の救済を掲げ幕府転覆を計画した「慶安の
変(由井正雪の乱)」に加担しましたが、
計画が事前に露見し、逃亡を計りました。
『立川町の歴史と文化』によると、三郎
兵衛は捕手の包囲を逃れ、立谷沢の檜澤山
に隠れ、行人となり色々と霊験を示したた
め、人々の帰依を受けて安穏に暮らしてい
ました。あるとき、自ら塚を築き、即身仏
となって長く人々を守ろうと、念仏のカネ
を携え、その中に入りました。村人は塚か
ら聞こえてくるカネの音を聞き、三郎兵衛
が息災でいることを喜び合っていましたが、
「何も食わないではなんぼ行者様でもひも
じかろう」と同情した一人の老婆が、空気
を通わせるために差し込んでおいた竹に饅
頭を押し込んでしまい、その饅頭が竹に詰
まったため、空気が通じなくなり、三郎兵
衛はついに死んでしまいました。
それを悲しんだ村人た
ちは塚の上にお堂を建て
て熊谷大権現とあがめま
し た。維新後、「熊谷大
神」と改めましたが、霊
験あらたかで、9月 日
の例祭におこもりをする
と、一生に一度はどんな
大願でも必ず叶えてくだ
さると言われています。
き
ろ
と
し も づ か
ど
か み づ か
せんこういん
廿六木
上塚・
下塚伝説
ようかい
▲熊谷三郎兵衛の墓
(中村 熊谷神社周辺)
北館大学助利長公
青鞍の淵伝説
廿六木
上塚・下塚伝説
深川
金沼の龍伝説
中村 熊谷神社
熊谷三郎兵衛伝説
南野
余目
深川 金沼の龍伝説
ふ か が わ
目
2014.12.20 ◎
◎ 2014.12.20
3
余
北
夏宵まつりや余目まつりのときに活躍する龍をご存
知でしょうか。実は、そのモデルになっている飛龍伝
説は、深川 が 発 祥 の 地 と 言 わ れ て い ま す 。
によると、その昔、
飛龍保存 会 の 『 飛 龍 伝 説 縁 起 』
ひとかしら
金沼と呼ぶ沼があり、そこには一頭の龍が棲んでいま
した。龍は村が実りの秋を迎えると、田畑を荒らす代
わりに村の娘を人身御供として差出させ、取り喰う悪
行を慣わしとしていました。村人たちは泣く泣く娘を
差出してきましたが、ついに、村の娘は庄屋の娘一人
になってしまいました。覚悟を決めた庄屋の娘は、日
頃信心している観音経一巻を手に、経文を唱えながら
龍の棲む沼に向かいました。やがて水面に黒雲が漂い、
すさまじい水煙とともに龍が現れました。金色の角、
カッと見開いた目、真っ赤な口からは炎を吐き、一口
に娘に襲い掛かろうとしましたが、娘が唱える尊いお
経に一瞬ためらいをみせたのでした。しかし、すぐに
龍は天高く駆け上がり、娘めがけて襲い掛かると、娘
は手にした経文で龍の頭を打ちつけました。すると、
龍の姿は砂のようにバラバラと崩れて無残な姿に変わ
14
海と千光院という陰
昔、元禄のころ、溶
行(呪術者)がどこからともなく廿六木の
村にやってきました。その当時、村には伝
染病がはやり、村人全員が患っていました。
その頃の病は悪魔の仕業であり、その治
療は加持祈祷によるものでした。二人は早
朝から沐浴して身を清め、一心に村人たち
のために悪病退散の祈祷を続けました。す
ると、霊験があらわれ、祈祷を始めてから
日の間に村人全員が治ってしまいました。
村人たちはこの二人に敬意を払い、村に
留まるようお願いしました。二人は快く承
諾し、死んでも廿六木の為になろうと、二
人のうち早く死んだ方が南入口(上塚)に、
残ったものが北入口(下塚)に埋めてもら
い、村を災厄から守ろうと固い約束をした
のでした。
やがて、千光院が亡くなると南へ、溶海
は北へ埋められました。以降、村人たちは
病気になると快癒祈願にこの地を訪れ、
現在も4月1日に祈祷を行っています。
(『行者の守る里廿六木部落史』より)
▲疏水百選に選ばれた北楯大堰
▲ややまつり
▲下塚
千河原
大山守皇子伝説
ウォッチ
▲深川にある金沼
▲上塚
庄内町の 伝説
N
狩川
り果て、そのまま黒
雲に乗り、遥か西南
の金峰山がある方角
に向かい、姿を消し
てしまいました。つ
いに庄屋の娘の信心
が村を救ったのです。
その後、悔い改め
た龍は金峰山に留ま
り、権現となって多
くの人々を救ったと
いうことです。
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広報委員企画特集②!
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