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2 20 01 14 4 (((H H2 26 6)))年 年 6月21日 8号 西淀川公害の歴史と

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2 20 01 14 4 (((H H2 26 6)))年 年 6月21日 8号 西淀川公害の歴史と
2
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01
14
4
((H
H2
26
6))年
年
6月21日
8号
西淀川公害の歴史と課題
小田康徳先生 大阪電気通信大学工学部人間科学研究センター教授
環境再生の足跡案内
林 美帆先生 あおぞら財団研究委員 文学博士
9:50
10:00~11:30
集合あおぞら財団3階グリーンルーム
講義「日本の公害の歴史を学ぶ」
講師小田康徳(あおぞら財団付属西淀川・公害と環境資料館館長)
11:30~12:00
質疑応答
12:00~13:00
<お昼休み>*各自、昼食をとる
13:00~13:20
フィールドワーク概要説明
13:20~14:50
フィールドワーク・コース(予定)
あおぞら財団→歌島橋交差点→淀川通り→千舟工場地帯→大野川緑
陰道路(石碑、旧大島橋)→マスジド→あおぞら苑→千北診療所→出
来島小学校→43号線→阪神「出来島」駅
14:50~15:00
15:00
今日学んだことを共有(出来島駅改札周辺)
解散阪神「出来島」駅
公益財団法人公害地域再生センター(あおぞら財団)
〒555-0033大阪市西淀川区千舟1-1-1あおぞらビル4階
TEL06-6475-8885FAX06-6478-5885 http://www.aozora.or.jp/
一口メモ
1.日本の工業の成長とそれに伴う公害は切っても切れないが、技術向上により公害も減少して
いく。希望が見える。喘息など一度罹ると
治らないのは悲しい。全ての人がきれいな
空気の所に住みたい。
2.大阪に公害がひどかった場所があったと
は認識がなかった。初めて知りました。でも、
今はほとんどその状況が感じられません。
3.暑い中よく歩いた。大阪の大阪らしい場
所だと思った。時代に添ってよく対応して
変化しているのがお話でよく分かった。
4.昔、住吉区に住んでいた
ので 45 年前の南港の煙突の
公害を思い出した。
5.公害の歴史、大変参考に
なりました。西淀川の町は
思っていたより整備されて
いました。
6.公害から環境へと時代の
流れの中、公害という言葉
が使われない、使いにくく
なってきているが、今日の
講義と現地を訪れたことで、
未だに「公害」が残っている
のだと感じました。
7.公害訴訟は裁判が終結で
はなく、後の人(住民)の
ケア(コミュニケーション)
が一番大事だと思った。
8.大阪市内に住んでいながらあまり来ること
のない西淀川区ですが、今日は、公害の話や
運動の話が聞けて少し身近なものとなりま
した。
9.“西淀川の公害”を通して公害と環境の問
題を再確認することが出来、大変良かった。
公害は今も終わっていないと思った。
10.先生のお話は分かり易く公害のことを改め
て勉強できてよかったと思います。西淀川の
町も歴史のある町というのも歩いてみてよ
く分かりました。
11.何が公益かって考えさせられました。やは
り人の命、環境を優先しなければ人は生きて
行けないことを重く感じた1日でした。
12.産業の育成を、環境の保護を、どう捉まえ
るのかを考えさせられました。
13.公害との戦いは最後、人間との戦いが長く
続くものだと考えました。若い人がとても素
晴らしい。
14.公害の歴史をきっちりと分かり易く話をし
てもらいました。有り難う!
15.公害についてはテレビで見るものであると
思っていました。改めて、この年齢でいい勉強をさせていただきました。身近に感じていなか
ったことに対して恥ずかしいと思いました。
16.公害について考える。これから先もずっと向き合ってい
く問題です。環境を考えていたことも長い歴史の上に私た
ちがいるのだな。車もなるたけ乗らないようにします。
17.一人の幸せを踏みにじり一人の犠牲の上に例え 100 人が
幸せでもそれは本当の幸せですか?考えさせられました。
18.1960 年当時の写真を見せてもらった。煤煙、水質汚濁が
とてもひどい。住民が声を上げ行政や企業を動かし住みよ
い街づくりをしているようすがよく分かった。
19.お話を聞きながら、38 年前、足尾銅山の鉱毒のためにで
きた遊水池という名の広大な荒れ地のことを思い出してい
ました。福島の原発事故のために、短時間しか立ち入りで
きないセイタカアワダチソウだらけの広大な荒れ地に、昨
年秋、立った時にも同じことを感じました。自分たちの利
益しか考えない仕事も政治も、結局大いなる無駄で、そし
て人を幸せにはしない。
20.公害について断片的な知識はあるものの体系的に聞くと
その位置づけが理解できた。日本で起こったことが、今、
中国で発生している。人間は人ごとでは変わらないものだ。
21.以前より、きれいになったと思う。しかし、窒素酸化
物の低減は小手先の備品設置でなく、総量を下げることで
改善されたことは納得。
22.公害対策が政府としてやってくれているが、何かしら
住民に対してのデモンストレーションのように感じてし
ょうがない。
23.当地発で、PM2.5 が基準オーバーの所があるとは知ら
なかった。
24.小田先生の公害史、とてもよく理解できました。50 年
以上前の頃を少しは知っているので町がすっかりきれい
になっているのにびっくりしました。ディーゼルの排気
ガスを改善していただけたらと思いました。
25.西淀川の昔のイメージと違ってマンションも多く緑も
多いので驚きでした。
26.公害とその対策について今まで知らなかったことを実
際に歩いてみてよく分かりました。
27.近くに居りながら大阪の公害問題及び課題について知
ることが出来た公害に対する考え方が理解でき、今までP
M2.5 とかいろいろ対応することが出来ると思います。
28.今は工場も少なく新しい住宅がたくさん出来ていること
に驚いた。これまで以上にきれいな空気になるよう意識し
ていきたい。海抜がマイナス地帯とは……。
29.公害について初めて講義を聞きました。西淀川区は交通
の便も良くなり、発展しているのを感じた。でも住みたい
町としては?です。
30.以前に比べ、空気・振動は想像していたほど良くなって
いないのに、地域が発展しているのを垣間見て、やはり生
活するのは、外的環境のみでないことを学んだ。
31.地球から公害が消える日が来るか、40 年前とは見違え
るほど改善されているのは事実。これを世界に広められた
ら良いと思う。
32.申し訳ないですが、梅田からこんなに近い所に公害で戦って勝利
し
があるとは知りませんでした。もっとPRされ
たらと思います。
33.公害。子どもの時に西淀川の喘息の話を耳にしました。町がきれ
いになったみたいですがまだまだ工場のにおいが気になりました。
34.公害訴訟が終わってもまだまだ大気汚染、地盤沈下はある。あお
ぞら財団の地道な啓発活動に感動しました。子どもも増加している
のが良いことです。
35.身近にありながら、西淀川の公害をほとんど知りませんでした。
今日の講座で認識出来ました。
公害問題年表
1877年 大阪府鋼折鍛冶湯屋取締規則
1919年 都市計画法
1884年頃 足尾銅山周辺の山々に煙害はじまる
1920年 大阪府工場取締規則
1884年 住友、新居浜に洋式溶鉱炉建設。
1921年頃 石炭鉱害、問題とされ始める(1933年被害
93年別子との私設鉄道開通、煙害の激化
地復旧助成の建議案)
1885年 東京深川の浅野セメント降灰問題
1922年 賀川豊彦「空中征服」
1887年頃 大阪中ノ島朝日新聞の煙害事件
1928年 農林省、水質保護法案を策定
工業化に伴う不可避の事件として加害者がこ
1927年 庄川事件始まる
れを合理化
1929年 工場監督年報に「工場公害」の報告現れる
1888年 後藤新平『職業衛生法』都会の煙突に憂慮
1932年 全国都市問題会議で都市の煤煙問題が討
1890年 鉱業条例制定
議、自動車排気ガス問題も研究報告の中に
1895年 古川鉱業、松木村と「条約書」(神岡)
樫木徹1926-28シカゴの空気汚染調査紹介
1896年 大阪府製造場取締規則
1932年 大阪府煤煙防止規則
1896年 渡良瀬川洪水、足尾銅山鉱業停止の声高まる
1934年 藤原九十郎「都市の騒音防止問題」
1897年 政府、足尾銅山鉱毒調査会設置、鉱毒予防工
1934年 東京市で地盤沈下が問題とされ始める
事命令
1937年 東邦亜鉛安中工場の立地(群馬県)
1900年 渡良瀬川沿岸農民を兇徒聚集罪で多数逮捕
1939年 鉱業法改正、無過失賠償の原則を採用
1901年 田中正造、天皇に直訴
1940年 中央農林協議会、農地の無秩序な改廃を規
1902年 煤煙防止に関する大阪府会の建議
1903年 松木村民、すべて村を去りおわる。
制することを答申
1947~48年 政府の調査により筑豊一帯と山口地方
1904年 四坂島精錬場に移転
合わせた鉱害被害は200億円を超える(山口
1904年 八幡製鉄所火入れ(1901年操業開始?)
石炭鉱業会)
1905年 鉱業法
1906年 谷中村強制破壊
1907頃 四坂島・小坂・日立(日立での被害のピーク
1914年)などの鉱毒・煙害問題広がる
1909年 政府、鉱毒予防調査会を設置、予防方法の研
究に従事。(独り鉱業家のみならず広く工業
家の研究すべき問題)
1910年 別子煙害問題で第一回賠償契約(1939年、第
10回をもって打ち切り)
1910年代 八幡の黒いすずめ事件
1911年 工場法制定
1911年 煤煙防止研究会
1912年 「煙の都」の写真、(煤煙防止令草案)
1948年 東邦亜鉛安中精錬所の再開、新設問題(49、
50年?建設省許可)
1949年 同上、焙焼炉・硫酸工場建設を申請。住民
の反対強まる。(51年操業)
1952~3年頃 チッソ、石油化学への転換方針。(ア
セトアルデヒド工場の新設は49年?)
1955年 旧海軍燃料廠跡を昭和石油に払い下げ、三
菱・シェルグループの石油コンビナートと
連携させるとの閣議決定。(昭和四日市製
油58年より操業)
1956年 水俣病の公式発見(53年ごろから「奇病」、
猫の狂い踊り)
1958年 本州製紙江戸川工場に千葉県浦安漁民がな
1913年 神岡鉱業所の煙害激化
だれ込む。この後の水質汚濁反対漁民大会
1914年 日立の大煙突
で水質汚濁防止法制定の要求。水質保全
1916年 深川の浅野セメントでコットレル式電気集塵
法・工場排水規制法制定。
装置
1918年 議会で発電水利権の法規制定に関する建議案
審議
1959年 チッソ、見舞金契約。
1960年 四日市第1コンビナート(塩浜)完成。異臭
魚など。63年には塩浜地区で8割の喘息症
状。企業の強弁。
1961年 萩野昇医師、イタイイタイ病の原因として神
1972年6月 国連環境会議(ストックホルム)
1972年7月 四日市公害裁判判決(1971.6イ病地裁、
岡鉱業所のカドミウムであることを指摘(68
72.8同控訴審判決、73.3水俣病地裁判決、
年、厚生省イタイイタイ病研究班がカドミ説)
1971.9新潟水俣病判決)
1963~4年 三島・沼津コンビナート反対運動
1965年6月 新潟水俣病の公表
1972年9月 阪神高速大阪西宮線建設禁止仮処分申
請(76年8月工事差止、損害賠償の訴訟提訴)
1967年7月 「公害対策基本法」
1973年3月 国連環境計画設置
1967年6月 新潟水俣病提訴
1973年6月 水産庁、魚介類のPCB汚染を発表
1967年9月 四日市公害裁判提訴
1973年10月 公害健康被害補償法の制定
1968年3月 イタイイタイ病提訴
1973年10月 瀬戸内海環境保全臨時措置法の制定
1968年6月 「大気汚染防止法」
1974年3月 名古屋新幹線訴訟提訴
1969年1月 石牟礼道子『苦海浄土』
1977年3月 自動車排出ガス規制(日本版マスキー
1969年2月 カネミ被害提訴
1969.年6月 水俣病提訴
法)の実施
1978年4月 西淀川公害訴訟(第1次)
1969年12月 「公害に係る健康被害の救済に関する特 1978年6月 瀬戸内海環境保全特別措置法
別措置法」公布(翌年2月施行)
1978年7月 環境庁、NO2の大気環境基準の改定
1969年12月 大阪国際空港、
第一次訴訟
(川西市住民)、 1979年10月 琵琶湖条例制定
71年6月第2次訴訟(川西市住民、同年11月 1982年3月 川崎公害提訴
第3次訴訟(豊中市住民)
1969年 東京都公害防止条例(条例による上乗せ)
1970年3月 公害問題国際シンポジウム
1985年3月
オゾン層保護のためのウィーン条約採択
1987年9月 「公害健康被害補償法」の一部改正(88
年大気汚染に係る指定地域を解除)
1970年7月 東京都で光化学スモッグ
1988年12月 尼崎公害提訴
1970年8月 田子の浦で大抗議集会
1989年 名古屋南部公害提訴(2001年8月和解)
1970年9月 日本鋼管と川崎横浜両市の公害防止協定
1991年10月 廃棄物処理法改正
1970年11月 公害国会
1992年5月 気候変動枠組条約採択
1971年1月 東京都、「都民を公害から防衛する一〇年 1992年6月 地球サミット(リオデジャネイロ)
計画」
1992年6月 自動車NOx法の制定
1971年6月 高知生コンクリート事件(高知パルプ浦戸 1993年11月 環境基本法
湾を守る会)
1971年7月 環境庁発足
1971年9月 廃棄物処理法
1995年7月 西淀川公害訴訟(第2次)判決
1996年5月 東京大気汚染公害提訴(2002年10月第
一次判決)
1971年12月 43号線公害対策尼崎連合会発足(代表森 1998年8月 川崎公害訴訟判決
島千代子)
2000年1月 尼崎大気汚染訴訟一審判決
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