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Title プルーストとベートーヴェン : ヴァントゥイユの
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プルーストとベートーヴェン : ヴァントゥイユの『七重奏曲』に関する一考察
真屋, 和子(Maya, Kazuko)
慶應義塾大学藝文学会
藝文研究 (The geibun-kenkyu : journal of arts and letters). Vol.101, No.2 (2011. 12) ,p.118(139)135(122)
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-01010002
-0135
ブルーストとベートーヴェン
一一ヴァントゥイユの『七重奏曲』に関する一考察一一
真屋和子
い泊
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町 H
GL山
B
(1871
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マルセル・ブルースト
…叫関
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-1922) の『失われた時を求めて』におい
て、主人公を文学創造へと導く決定的な鍵を握るのは、架空の画家エルス
チールの『カルクチュイ港』と、架空の作曲家ヴァントゥイユの『七重奏
曲』である。小説の第 2 篇『花咲く乙女たちのかげに』と第 5 篇『囚われの
女』にそれぞれページを隔てて置かれたこつの作品から啓示を受ける主人
公は、これらの体験の合体によって幾何級数的に増幅する力を得て、やが
て一気に文学創作へと向うことになる。
『カルクチュイ港』のモデルについては、モネら印象派の画家たちから
ターナーへと移行する過程が認められた(ヘヴァントゥイユの『七重奏曲』
もさまざまな作品から想を得て誕生した作品である。ワーグナー、フォー
レ、サン=サーンス、フランクなど、ブルースト自身がモデルとして書簡
のなかで挙げるヴァントゥイユの『ソナタ』とは違って、『七重奏曲 J のモ
デルについては明示されていない。草稿段階で、何人かの作曲家と作品名
があらわれているものの、決め手となる要素が明確にされていないため、
実在する作曲家の足跡を、ブルーストの書簡や草稿群のなかに追跡したと
しても、特定するのは困難であろう (2) 。彼の生きた時代や時流の変化、彼
自身の好みの変化、創作過程での修正などを考え合わせると特定はなおさ
ら難しい。しかし、ブルーストには芸術創造とはなにかを伝えようとする
つねに一貫した信念がある。ヴァントゥイユの音楽やエルスチールの絵と
(
1
2
2
)
いう衣を借りて、伝えたい彼の文学理念や芸術観がある。本質を軸にすえ
るとき、事の必然として、その本質にむかつてモデルのほうから近づいて
くるのではないだ、ろうか。
「ベートーヴェンはお好きで、すか?J
「一一『ベートーヴェンはお好きですかけ一一『大嫌いだよ』一一『し
かし晩年の四重奏曲などは…』とブルーストは抗議した。 J ブルーストと大
作曲家ストラヴインスキーとの聞でこのようなやりとりがなされたのは、
1922 年 5 月 18 日彼のバレエ『ルナール』がオペラ座で初演されたあと、芸
術家たちの保護者であるシドニー・シフに招かれていった晩餐会でのこと
だ、った。ストラヴインスキーはこのとき、四重奏曲を「最悪の作品」だと
答えた。伝記作家ジョージ・ペインターによると、ブルーストのこの間い
は、ヴァントゥイユの『七重奏曲』のために、なんらかの知識を得ょうと
してのことだ、ったという (3) 。晩年になって、ベートーヴェンへの熱烈な賛
美を惜しまなくなっていたストラヴインスキーは、このときの返答を次の
ように弁解する。「ブルーストは、直接彼のベッドから、例によって、夕方
おそく起きて、やってきたのだった。まっさおな顔をして、こったフラン
ス式の服装に、手袋をはめ、ステッキをもっていた。彼は、私に音楽の話
をしかけてきて、ベートーヴェンの後期の四重奏曲に対する感激を吐露し
ていた。これは、当時のインテリ文士のきまり文句で、音楽的判断という
よりも、文学的ポーズになっていた。そうでなければ、私も、大いに共鳴
するところだったのだ (4) J 苦しい言い訳のように聞こえる言葉からは、プ
jレーストの音楽的感性の鋭さとともに、当時のフランスで、ベートーヴェ
ンは交響曲によって大作曲家としての地位を確立していたものの、弦楽四
重奏曲を理解していたのは一部の人に限られていたという受容のほどがわ
かる。
ブルーストが 13 、 14 歳だったころはメソニ工、モーツアルト、グノー
を好んでいた。 20 歳を過ぎるころには、ベートーヴェン、ワーグナー、
シューマンをお気に入りの作曲家として挙げるようになり、好みは変化
-134-
(
1
2
3
)
している (5) 。 彼の音楽熱は、ラスキン翻訳によって一時中断したものの、
1907 年にはよみがえり、 1911 年には、劇場中継を電話で聴く装置、テアト
ロフォン[図 lJ でオペラを楽しむようにな っ た 。 彼が 40 代前半だ、っ た 1912
年から 1914 年の初めにかけて、フランスでもベートーヴェン晩年の傑作の
偉大さが認識されはじめ、大作曲家として熱狂を見せた 。 カペー四重奏 団
[図 2J が得意としたベートーヴェン晩年の四重奏 曲にプルーストは夢中に
なり、 1913 年 2 月にはプレイエル・ホールに出かけて演奏を聴いている 。 こ
のときベートーヴェンは、ヴァントゥイユの『七重奏曲』のあらたなイン
スピレーションの源となり、草稿には覚書が残されている 。 また、ブルー
ストが彼の音楽に精通していたことを示すよく知られた逸話がある 。 それ
は、カペー四重奏 団による演奏会のあと、ブルーストが楽屋を訪れて率直
に感動を述べたのにたいし、カペーはのちに、「ベートーヴェンの天才と
演奏者の技量 について、あれほど深い洞 察 を示した評価を聞いたことはか
つてなかった (6) J と、 驚 きとともに断言 したというものである 。 カペーと
その仲間をオスマン大通りにある自宅に呼んで演奏させたこともあ っ た O
ブルーストの深い音楽理解については、サロンでの演奏会のほかに、レイ
ナルド ・ アーンやロベール・ド・モンテスキウら、友人たちによる影響も
(
1
2
4
)
大きい。音楽に関する書物を読んでいたかどうかについては、ショーペン
ハウアーの作品以外は明らかにされていない。
「めったに起き上がることはないが、ベートーヴェンの四重奏曲が演奏
されるときは、スコーラ・カントールムやコンセール・ルージュに出か
けることにしている J (Cor. , XIII , 49)
と、 1914 年 1 月ブルーストはアン
トワーヌ・ピベスコ宛書簡に書いている。病の床に塞ぎがちであったが、
ベートーヴェンの演奏はできるかぎり聴きに行こうとしていた。とりわけ
晩年の弦楽四重奏曲を、何年にもわたり繰り返し聴いた。音楽のまだ開拓
されていない霊妙な領域を言語によってつかみとり、表現できるまで耳を
傾けるのである。第一次世界大戦でドイツとの交戦中ながら、同年 11 月に
も、「以前と変わらず、ベートーヴェン好きで、ワーグナー好きだJ
351)
(Ibid. ,
と、ジョゼフ・レナックに書き送っている。プルーストはおそらく
音楽愛好家のなかで誰よりも深く理解したひとりであり、音楽を精神の滋
養として消化し、吸収していたといえよう。 1916 年春にはプーレ四重奏
団を自宅に呼んで、ベートーヴェンの晩年の四重奏曲を深夜にひとりで聴
き入った。こうした体験を、小説のなかでは、ベートーヴェンの四重奏曲
を聴くために、演奏者を毎週自宅に呼ぶシャルリュス男爵に反映させてい
る。戦争のさなかにあっても、否、戦時中だからこそ、「たったひとりで、
思索するため」ブルーストは音楽を聴いた (Cor. , XV, 78) 。同年元旦に、戦
争でベルトラン・ド・フェヌロンを失った悲しみを次のようにブルースト
は記している。「ああ、 1916 年、董の花も咲けばリンゴの花も咲くでしょ
う。その前に霧氷の華も咲くことでしょう。しかし、もうベルトランはい
ないのです (Cor. , XV, 2
3
)oJ 戦争の悲惨がもたらす精神の痛手を癒すとと
もに、思索をより深めるために、ベートーヴェンや、フランク、フォーレ
らの音楽が、ブルーストにとって重要な役割を果たしたことは想像に難く
ない。実際、同年 3 月に彼は「数年前から、ベートーヴェン晩年の四重奏曲
とフランクの音楽が、私の主たる精神の糧となっています J (Cor. , XV, 61
)
と書いている。ベートーヴェンにたいする称賛が、 1922 年 11 月にプルー
ストが亡くなるまでつづいたことは、先に見た、同年 5 月のストラヴイン
今中
(
1
2
5
)
スキーとのやりとりによっても明らかであるが、それより 2 ヵ月ほどまえ、
「ほとんど死にかけている状態で、臨終を前にしている J (Cor. , XXI , 77) と
いう時期に、エルンスト・ロベルト・クルテイウス宛書簡で、次のように
書いていることによっても察しがつく。「病気の回復という一一誠に不確
かながら一一希望をいだいて、ベートーヴェンの四重奏曲第十五番に向い
ます (Cor. , XXI , 81
)o
J
ブルーストは自身の病状の悪化としのび寄る死を感じとり、自らをこの
四重奏曲の曲想に重ね合わせていたのだろうか。あるいは文学創造におい
て、なんらかの合致する要素を見出していたのかもしれない。われわれ
は、モンテスキウ宛の書簡のなかに、その手がかりをつかむことができる。
ブルーストによる曲の理解はこうである。「音楽のなかでもっとも美しい J
と思う「四重奏曲第十五番」の、「その陶然と人をいざなうフィナーレは、
いちどは回復したもののその後まもなく死をむかえる運命にある病人の熱
、ーモニー
アゴニー
狂」をあらわし、曲のなかに見出す美なるものは「諾調と断末魔の苦悩の
隣人関係」であるとする (7) 。プルーストはこの曲に自分自身を聴きとる
とともに、一見相反するもの、かけ離れたものの「隣人関係」に惹かれて
いたのだろう。これが芸術観の中心的概念であることは、隣り合う陸と海
が融合を見せる、エルスチールの『カルクチュイ港』を思い起こすだけで
メタフオール
充分である。異なる要素聞の結合といっ形象が、隠聡という文学表現につ
ながったこと、また、隠聡に関する考えかたがラスキンやショーペンハウ
アー、アリストテレスらの影響を受けていることなどについてはすでに別
の機会に発表した (8)o ベートーヴェンにおける異質なもの、両極にあるも
のの融合は、モンテスキウ宛の同じ手紙のなかで別の例によっても示され
ている。ベートーヴェンの交響曲第三番変ホ長調『英雄』にあらわれる「葬
送行進曲」を挙げて、ショパンの場合と比較していう。「ショパンの「葬送
行進曲」のなかに中断するかたちで組入れられているダンス曲ではなく、
ベートーヴェンの「交響曲」のなかにあらわれる葬送行進曲のリズムそのも
のであるダンス曲を私は念頭においていたのです (Cor. ,
XVII, 1
0
9
)oJ ベー
トーヴェンの場合、葬送行進曲といったそれまでの交響曲の常識からする
(
1
2
6
)
と異質にも思えるジャンルとの見事な融合が音楽史上、革新的で、あったと
いう事実から、曲の構成において見られる斬新な融合、そして、栄光と苦
悩という異質な要素が溶け合う音楽表現にブルーストは感銘を受けていた
ということだろう。ダンス曲と葬送行進曲にも「隣人関係」を認め、この
ようにして交響曲『英雄J と『四重奏曲第十五番』を同じ書簡のなかで呼
応させているのである。難聴に苦しみながらも音楽に身を捧げたベートー
ヴェンの、「魂」の表現にブルーストは共感し、彼もまた神経症からくる端
息や不眠症にたえず悩まされながらも文学創造において倦むことなく自ら
の内奥の探求をつづけた。
魂の個性的存在一一ひとつの調子
ヴァントゥイユの『七重奏曲』のもっとも重要な描写は、ブルーストの
芸術観の根幹にかかわる概念を含む。彼の『ソナタ』については、スワン夫
人が弾くのを聴いたり、自らピアメで一節を弾いたりしていたが、主人公
にとって、『七重奏曲』を聴くのはヴェルデユラン夫人のサロンで演奏され
たときがはじめてであった。芸術家の内奥が生み出す本質的なもの、独自
アクサン
の調子について、ヴァントゥイユとエルスチールを並べて数ページにわた
り治々と語いあげている箇所から、王要部分のみとりあげて見てみよう。
ソナタとは奇妙にちがっていた。[…]にもかかわらず、こんなに
ちがった楽章は、おなじ要素からつくられているのであった。という
のも、あちこちの邸宅なり美術館に個々の作品が分散しているなか
に、それと感知しうるエルスチールのひとつの宇宙があったのとおな
じように、ヴァントゥイユの音楽も[…]時を隔てて彼の作品を聴く
ので分断されてはいるが、思いがけないひとつの宇宙、つまりヴァン
トゥイユの宇宙の、さまざまな色合いにほかならなかったのである。
[一. ]
そうこうするうちに、ふたたびはじめられていた七重奏曲は、も
うおわりに近づいていた。何度もソナタの一楽節があれこれとたち
-130-
(
1
2
7
)
かえってくるのだが、そのたびにリズムと伴奏に変化がつけられて
おり、楽節はおなじでありながら、しかも、ちがっていた。 (111, 7
5
9
-
7
6
3
)
ヴァントゥイユの音楽は、ひとつの楽節の多様化によって、「さまざま
に姿を変えて、いろいろな作品に」生かされているのである。おなじ精神
的素材から生み出されたものは、ほかの誰の作品にもないもので、彼の作
品にしか見出されない。ある楽節の変奏によって紡ぎだされる「類縁関係」
について、ブルーストはここで、マドレーヌ菓子における記憶の更生りの挿
話を想起させるような言葉を用いている。つまり、理知が生み出す意識的
類似と、「無意志的類似」との対比である。故意に作り出した類似は皮相的
であるが、無意志的なときのヴァントゥイユは、創造者として、「彼自身
の本質の内奥に達して」いるので、「おなじひとつの調子、彼自身の調子」
が生み出されており、それが聴く者の心を打つという。そして、この「ひ
とつの調子J こそ、ブルーストが芸術を語るとき拠りどころとする、なに
ものにも還元することのできない「魂の個性的存在を示す証左J にほかな
らない (111,
7
6
0
7
6
1)。
おなじ楽節の変奏。それはとりわけベートーヴェンに特徴的なものであ
る。たとえば『第五交響曲』において、あらゆる主要旋律がたがいに緊密
な類縁関係を結んでいるといわれる。ブルーストの同時代作家ロマン・ロ
ラン (1866
-1944)
によっても『ベートーヴェンへの感謝J (1927) のな
かで、ブルーストの言葉を思わせる次のような指摘がなされている。
今日、最近のある分析家たちは、「彼[ベートーヴェン]のそれぞれ
の作品が、そのあらゆる楽章、あらゆる部分、あらゆる主要旋律にお
ヴアリアシオン
いて、ただひとつのモチーフの変奏であり、それを展開させたもの
である」という法則を彼の作品全部から引き出そうとするに至ってい
る。[…]彼の全作品に、あるひとつの鉄の意志が刻印されていること
には議論の余地がない。感じられるのは、ひとつの思念の奥深くまで
司ん
(
1
2
8
)
視線を入り込ませ恐ろしいまでに凝視している人間である (9) 。
イ
デ
ミユルチプリカシオン
ロランは、このように思念を多様化するのを、ベートーヴェンの「天
性的な傾向」であると述べている (ω) 。ロランが少年時代から彼の音楽に親
しみ、彼の生きかたを支えとしたことは周知のとおりである。自らの内奥
を照らし出して、思念を徹底的に追跡し、音楽に置き換えながら、それを
変奏し、多様化しようとするベートーヴェンの言葉がある。 i[思念を]追
求し、激情をもって再び抱きしめる。それが遠ざかってゆき、多様な興奮
むらが
の叢りのなかに消えてゆくのを見ます。間もなく新たな激情がそれを抱き
しめ、わたしとそれとが分かち難いものとなる。束の間の悦惚状態にあっ
て、あらゆる転調を行い、それを多様化しなければならないのです (1 1) o
J
ベートーヴェンの精神をかき立てた女性のひとり、ベッティーナによって
伝えられた言葉である。ブルーストもまた、自らの内奥を「翻訳」できる
までに凝視し、ひとつの主題を変奏し、緊密に構成して、音楽やゴシック
建築にたとえられる書を編んだ。芸術にたいする姿勢とその表現方法にお
いて類似するベートーヴェンに共感を覚えないはずはないだろう。
ヴァントゥイユの『七重奏曲』それ自体がすでに、マドレーヌ菓子や三
本の木々、マルタンヴイルの鐘塔、『カルクチュイ港』の変奏である。そ
れら部分、部分は内密に結合しあって、大きく、小さく響き合いながら小
説世界を構成している。これらの集合が「ひとつの調子J を生み出し、プ
jレーストのいう「魂の個性的存在J を示すことになる。ベートーヴェンが
音楽によって精神生活を感覚的生命としてとらえられるよう心を砕いたよ
うに、ブルーストは言葉によっておなじことをなした。ブルーストの小説
に認められるこの「エコー J のからくりは、実は小説に先立つ 1904 年、彼
がジョン・ラスキンの著『アミアンの聖書j を訳した際、訳者の序文のな
かで種明かしをしている。偉大な芸術家にはそれぞれに固有の「調子」が
あるのだと考える。そして、繰り返しあらわれるその「調子」は異なる作
品開の多様な状況においてとらえられるものであり、たとえば、ある著者
の本を一冊だけ読んだのでは、真に特徴的、真に本質的なものをつかみと
-128-
(
1
2
9
)
ることができないのだという。はじめに特殊性かと感じられたものが、別
の書物、または別の画布にも見出される。「芸術家の精神的相貌をかたち
づくるのは、まさに、われわれがさまざまな作品を比較対照して引き出し
た、それらに共通の特徴を集めたものによってなのである J (CふB. , 75) と
説く。
『アミアンの聖書J を翻訳するにあたって、ブルーストが任務として心が
けたことがある。それは、ラスキンの他の著作にあらわれる考えと類似し
ている、と彼が感じるたびに、脚注のかたちで指摘し、それを作家の「特
性の本質的特徴」として読者が受けとめられるようにすることであった。
類似する特徴を並べ出すことによって、異なる作品開で共振し、『アミア
ンの聖書』の言葉が、「親愛感にあふれたエコー」となって豊かな響きを
たてるのだという(ロ)。個別に感じられたものの、類似する特徴の共鳴が、
普遍性へと向わせることになる。その作家に固有の「ひとつの調子」、真に
本質的なものを浮き彫りにし、より豊かな味わいをあたえることができる
のである。これを批評家の第一の任務とする。『失われた時を求めて』の
もととなった『サント=ブーヴに反論する』は、評論と小説との混合であ
る。『サント=ブーヴに反論する J よりず、っと前に、その萌芽が『アミアン
の聖書』の訳者の序文に読みとれるのである。さまざまな考えの、表立つ
てはあらわれない地下でのつながり、そのつながりに共通する根もとをか
ぎ分ける才能がある、と自負するブルーストは、ラスキンの本の翻訳をし
ながら批評家のあるべき姿を示している。それはまた、はからずもプルー
スト自身の文学創作の方法を明らかにするものとなっている。
動く建築一一二つの魂
音楽は動く建築で、「建築は凍結した音楽」であるとショーペンハウアー
はいう。音楽と建築は、一方が時間の芸術、他方が空間芸術という差異に
よって、「両極端に位置する J と考える。しかし音楽におけるリズムは、建
築におけるシンメトリーに対応し、それらは、秩序と統合をもたらすとい
う類似点によって、「両極は相通ずJ というのである。両極はつながるとい
(
1
3
0
)
-127-
う考えはブルーストのものでもある (13) 。ロマン・ロランは、音楽を「動き
ゆく建築」であると表現した。ブルーストは『七重奏曲J に、うごめく幼虫
が、建築物にゆっくりと形態を変えつつ立ちあらわれるのを聴きとる。音
楽は概念や事物を用いなし五点で、建築、絵画、彫刻、文学とは異なること、
音楽はやってきて消え去る動きゆく芸術であることが、それぞれ似通った
表現によって強調されている。
ブルーストの草稿帖には、音楽のひとつの楽章について、そこから文学
的等価物を引き出そうとする試みの跡が数多く残されている。境界線がと
り払われた絵『カルクチュイ港j を読みとり文章化したように、感覚でと
らえた音楽を具象化して言語に置き換えようと努めている。草稿上では、
ワーグナーという名を明示したうえで、ある楽節を言葉にする試みが目立
つ O 花や鳥などの自然の事物にたとえ、それらが境界線を失い融合する様
子、とりわけ嵐の表現に関心があったようだ。 (III, 1
7
3
6
c
f
.III, 674) 。
最終稿においては、抽象的でとらえがたい音楽を巧みに表現している。
嵐は嵐であってはならず、はじめから物の見分けがつかないような、なに
かでなくては、真に音楽的であるとはいえない。そのような音楽を視覚化
して言葉にしようとしている描写部分がもっとも重要であろう。ヴェル
デュラン夫人のサロンでヴァントゥイユの『七重奏曲』を聴いていると、主
人公は、ソナタのー楽節が霧のなかに立ちあらわれるのをみる。ダンスの
ようなリズムは、オパール色のなかに姿を消したり、ふたたび、立ちもどっ
たりする。「薄むらさきの霧」ゃ「オパール色」と、絵画的に形容される
音楽は、物の境界線を描かない表現によって音楽的であると称されるター
ナーやホイッスラーの絵を喚起するものであり、輪郭を失いながら「変形J
しつづける七重奏曲は、かぎりなく『カルクチュイ港』の本質に近づいて
いる。そのうち主人公は、曲のモチーフとして、苦悩と歓喜の対立があら
われるのを聴く。
やがてその二つのモチーフは、体と体のたがいのぶつかり合いによっ
て闘った。そしてそのあいだ、ときどき一方が完全に陰に隠れるかと
-126
(
1
3
1
)
思うと、つぎには他方がほんの少ししか見えなくなった。体と体の
取っ組み合いといっても、実をいえば、エネルギーのぶつかりあいに
すぎないのだ、なぜなら、その二つの存在の取っ組み合いは、肉体や
外観や名称をともなわず、また私はそれを内的にながめている一ーそ
のひとつひとつの名称や個別性を気にかけない一一観客にすぎず、た
だそのこつの非物質的でダイナミックな取り組に興味をもち、その波
乱に富んだ、音響を、夢中になって追っていたからである。最後に、歓
喜のモチーフが勝利者として残った[…] (III, 764)
ベートーヴェンを思わせるような苦悩と歓喜の闘い。音楽の意味が主人
公に啓示される重要な一節である。このときの印象が、マルタンヴイルの
鐘塔や、三本の木々をまえにして抱いた印象とおなじ種類のものだ、ったの
である。二つのモチーフが重なりあって、一方が見え隠れする現象は、医
師ペルスピエの馬車に乗せてもらって曲がりくねった山道を巡り、マルタ
ンヴイルの鐘塔のいくつかがくっついたり、離れたりする動的な光景を目
にしたときの印象を彼に思い起こさせる。マルタンヴイルの鐘塔の体験に
精神の高揚を覚えた彼は、そのとき印象を書きとめたのだった。文学創作
に深く関わるこの挿話が『カルクチュイ j巷J のくだりとつながっているこ
とはいうまでもない。主人公がこの『七重奏曲』に海面のうねりを感じて
いることも示唆深い。エルスチールの絵のなかでも、おなじように二つの
コントルダンス
要素の「対舞」によって、陸と海との境界線はとり払われる。ヴァントゥ
イユの『七重奏曲』が、「ひとつひとつの名称や個別性」のない、「ダイナ
ミックな取り組」であるなら、エルスチールの絵も、物からその名をとり
去ることによって再創造された、ひとつひとつの名称や個別性を問題とし
メタモルフオーズ
ない海洋画なのであり、動的な取り組による「事物の一種の変形 J から
主人公は啓示を受けるのである (II, 1
9
1
)0 r カルクチュイ港』と、マルタ
ンヴイルの鐘塔の描写が、自然現象をダイナミックにとらえて画布に定着
させるターナーの絵と強く結びついていることはすでにさまざまな機会に
例証した。ターナーの絵は、印象派の絵画とおなじように輪郭を失っては
(
1
3
2
)
1
2
5
いても、物の実体がなくなり、抽象的で動的な自然現象を表現している点
で大きく異なる。印象派画家が瞬間の光を表現したのにたいし、ターナー
は永遠の光を追求したとして区別されるゆえんである。またターナーの絵
に音楽性や交響楽的なものが認められることはしばしば指摘される。イギ
リス生まれの作曲家マイケル・テイベット
(1905 - 1998) のように、ター
ナーの絵から想を得て作曲した例もある。その彼が敬愛する作曲家はベー
トーヴェンであったことも示唆深い。ヴァントゥイユの『七重奏曲』が、
ベートーヴェンを思わせる別の例として、ふたたび、ロマン・ロランの文章
を『ベートーヴェンへの感謝』からとりあげよう。
それ[執劫なまでのひとつの精神的モチーフ]は、二つの要素のあい
ジユアリテ
だ、の取っ組合い、壮大な二重性である。この二重性は、ベートーヴェ
ンの最初の作品から最後の作品にいたるまであらわれている。[... ]
ベートーヴェンの精神、この勝手気ままで緊迫し燃えるがごとき嵐の
精神、彼の精神の統一性のなかに私が聴きとるのは、ひとつの魂の二
つの様相、ひとつになった二つの魂である。その二つの魂は、くっつ
いたり、離れて向かい合ったり、話し合ったり、闘い合ったりする。
体と体をたがいに絡ませた取っ組み合いは、それが闘いのためか抱擁
のためかわからないのである (14) 。
ベートーヴェンの音楽の特質としてロランが強調するのは、音楽の霊魂
的モチーフであり、二つの非物質的な要素がくっついたり、離れたり、絡
デドウブルモン
まり合ったりする「存在の二重化」である。ロランの場合は、苦悩と歓喜
の闘いではなく、運命と魂の闘いだが、つまるところおなじである。精神
的モチーフは、プルーストによってもロランによっても、抽象的な二つの
要素の、「体をぶつけ合って J co中s àco中S の「闘い J lutte , combat にたと
えられており、両者がまったくおなじ語を用いて語っているのは偶然によ
るものだろうか。ベートーヴェンによって導かれた偶然か、あるいは、プ
jレーストの小説を読んだ、ロランが意識したかのどちらかであろう。ベー
124-
(
1
3
3
)
トーヴェンに深く傾倒したロランは、彼をモデルとした長編小説『ジャン・
クリストフ j (
1
9
0
4-1912) を書き、この作品によってノーベル文学賞を
授与された。これよりまえに発表した『ベートーヴェンの生涯j (1903) は
反響を呼んだ、。本論で引用したこつの文は、それから 20 年以上もあとに書
かれたものであり、ブルーストの『七重奏曲 J のほうが先に存在する (15) 。
「ベートーヴェンとターナーの共演」
ブルーストは、ロランの『ジャン・クリストフ』を手厳しく酷評してい
る O 偉大な音楽家の「精神」を主題にかかげながら、その人物や精神のあ
りょうがどのようなものであるか探求していない。しかも思考の深みをす
くいとるような文体表現からはほど遠く、質の低い他人からの借り物で満
足し、陳腐で皮相な芸術観の表明に終始している、というものである。作
家たる者は、「事象の底までJ 洞察的に目を届かせようとつとめるべきで、
「さんざしの花の香り J でもなんでもよい、その印象のなかに潜む「永遠な
るもの」を求めて、自らの内奥の深くまで降りていかなければならない。
しかし、いかなる場面においても、それがなにひとつなされていない、と
厳しく批判する (CぶB., 3
0
7
3
0
8)。つまり、自分自身の本質の深奥に達す
ることによって得られる、その作家に固有の「ひとつの調子」を生み出せ
ていないということである。
ブルーストによって「ロマン・ロラン J に関するこの断章が書かれたの
は 1909
-1910 年頃と推定されている。執筆の時期や、二度もサント=ブー
ヴへの言及があることからして、ロラン批判が、『サント=ブーヴに反論
する J の一環として考えられていたことが明らかにされている。先に引用
したロランの文によると、ベートーヴェンは「ひとつのモチーフの変奏」
によって作品を生むのを特徴とする音楽家であり、創作するにあたって内
面の深奥を凝視する人間で、あった。こうして「魂の個性的存在」が生まれ
る。芸術家としてのこの姿勢は、『アミアンの聖書』の訳者の序文に始ま
り、『サント=ブーヴに反論する』を経て小説にいたるまで反復されるブ
ルーストの芸術観の根幹をなすものと見事に一致する。しかるに、ロラン
(
1
3
4
)
-123-
に欠けているものこそ、その「魂の個性的存在」であるとブルーストは批
判したのであった。引用したロランの文では、ベートーヴェンの音楽を、
二つの霊魂的モチーフがついたり離れたりする、体と体を絡ませた取っ組
み合いであると描写し、ブルーストと類似する言語化がなされていた。こ
こでは、ヴァントゥイユの『七重奏曲 J と、ロランがベートーヴェンに特
徴的と認める要素が合致することを指摘するにとどめたい。
ブルーストは小説において他のどんな芸術よりも音楽を優位に置いた、
とする考えかたがある。しばしば引用される、「音楽こそは一ーかりに言
語の発明、語の形成、観念の分析がなかったとした場合に一ーありえたで
あろう魂の交流の唯一の例になったのではないか J (III , 762-763)
という
ブルーストの言葉によってそのような見解に行き着くのかもしれない。し
かし彼自身、ゴシック建築にたとえているように、柱の一本一本の支え合
いによって小説全体が成り立っているのである。『七重奏曲』の挿話には、
かならずといってよいほど、変奏された体験とでもいうべき、マドレーヌ
菓子、三本の木々、マルタンヴイルの鐘塔などがあらわれる。そして『見
出された時』において、長い小説の大団円となるゲルマント大公夫人宅で
マチヰ
の午後の集いの場面で、主人公は、不揃いな敷石によって、スプーンの皿
にかち合う音によって、糊のきいたナプキンによって、無意志的記憶の更生
りがつぎつぎと起こり、「超時間的存在J にある自分が幸福感に満たされる
のを知る。過去と現在の合体、異なる要素の結合などによって生じる印象
や幸福感を、自らの内奥の薄暗がりから出現させ、言語化して芸術作品と
メタフォール
して定着させる唯一の方法、「隠聡の発見 J(IV, 468) へと一気に向う瞬間で
ある。このとき、小説の時空はるか彼方、そこから隠聡を読みとった『カ
ルクチュイ港』の海洋画へと、虹の橋がかけ渡されるのである。
こうした点からも、ヴァントゥイユの『七重奏曲 J
とエルスチールの
『カルクチュイ港』の中間あたりにさりげなく置かれたシャルリュス男爵の
言葉は示唆的で意味深い。第 3 篇『ゲ、ルマントのほう IU において、シャ
ルリュス邸を訪れた主人公は、待たされた揚句、相手の奇妙な対応に不愉
快な思いをする。シャルリュスは帰ろうとする f皮にむかつていう。「ここ
-122-
(
1
3
5
)
にあるターナーの虹は、この二枚のレンプラントのあいだで、私たち二人
の和解のしるしに輝きだすだろう。ほら、聴こえるじゃないか、ベートー
ヴェンがターナーと共演している(凶\J ベートーヴェンの『田園交響曲』
第五楽章「嵐のあとの歓喜」が、シャルリュス邸のどこかで、楽団によっ
て演奏されていたのである。
ブルーストの書簡や草稿を調べるかぎり、ヴァントゥイユの『七重奏曲 J
のモデルとなった作品が、四重奏曲であろうと、交響曲であろうと、さほ
ど問題で、はなかったのではないかと思われる。音楽表現によって生み出さ
れた、作曲家の内奥にある本質的なものや、魂こそが重要だ、ったのではな
いか。 1913 年に、ヴイドメール博士のサナトリウムに入ることを考えて
いたブルーストが、ストロース夫人に宛てた書簡はそのことを物語ってい
るように思える。「テアトロフォンの契約をなさいましたか。[…]ベッド
のなかで『田園交響曲』の小川のせせらぎや小鳥をおとずれさせることが
できます。気の毒にベートーヴェンは、完全に耳が聴こえなくなっていま
したから、私と同様、直接小川や小鳥を楽しめなかったのです。彼はもは
や聴こえない小鳥の歌を再現しようと努めることで心をなぐさめていまし
た。[…]もはや見ることのできないものを描くことで、私が自分なりのや
りかたで書いているのもやはり、田園交響曲なのです (η) !J 二人の芸術家
の作品が人の心を打つのは、もはや失われた世界の根底を内的視力で見つ
め、精神のうちから再創造しているからであり、「小鳥たちを自らのうち
に歌わせる (18) J ことによって生み出したからであろう。
註
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の引用は、すべてジャン二イ
ヴ・タデイエ Jean-YveTadié 責任編集の新プレイヤッド版全四巻、ガリマー
ル社、 1987
-1989 年 (Marcel Proust, Al
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sperdu , Paris , G
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lim紅d, Bibliothとque d
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aPléiade) によった。巻数とページの数字のみを記す。
なお翻訳するにあたって、井上究一郎訳、鈴木道彦訳を参考にさせていただい
た。 Marcel Proust, C
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tarticles , Gallimard, Bibliothとque del
aPléiade, 1
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と略し、ペー
ジの数字のみを記す。フィリップ・コルブ編『マルセル・ブルースト書簡集』全
21 巻、プロン社、 1970 - 1993 年 (Correspondance d
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pKolb , Paris , P
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) Cor. と略し、巻数とページの数字
のみを記す。
真屋和子「ブルーストとターナー J r塞文研究』第 64 号、 1993 年、<< P
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eFrançaises ,
n 66、『ブルースト的絵画空間一一ラスキンの美学の向こうに』水声社、
0
2011 年を参照。
2
ブルーストと音楽については次を参照のこと。 Georges Piroué , P
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smodemesminard, Caen, France, 2007. ジャンニイヴ・タデイエ「マル
セル・ブルーストの音楽世界J r ブルースト全集別巻j 所収、筑摩書房、
1999 年、 226-238 頁。牛場暁夫『マルセル・ブルースト一一「失われた
時を求めて」の聞かれた世界J 河出書房新社、 1999 年、 l ト51 頁。
なお、ヴァントゥイユ『ソナタ』のモデルに関して、 1918 年 4 月 20 日
ジャック・ド・ラクルテル宛書簡でブルーストは、以下の作品を挙げて
いる。サン=サーンスの第一番ニ短調ヴァイオリン・ソナタ (1885) ワー
グナーの『パルジファル』第三幕に出てくる「聖金曜日の歓喜 J (
1
8
8
2
)
と、『ローエングリン j 序曲 (1850) 、シューベルトのある曲、セザー
ル・フランクのヴァイオリン・ソナタ
(1886) 、フォーレの『バラードJ
(1881) 。創作するときにブルーストが念頭においているのは、いずれか
の小楽節であったり、ある小楽節をかき消すワーグナーのトレモロで
あったり、さえずり合う小鳥のような悲しげなフランクの音だ、ったり、
フォーレの「間 j だ、ったり、という具合に、多種多様な作品の断片のつ
なぎ合せから成り立っていることを明かしている。この創作方法は、小
説に登場するすべての人物や場所、物についてもいえることである。エ
jレスチールの『カルクチュイ港』の成立過程に関しても例外ではない。
『七重奏曲』のモデルとして草稿段階であらわれる作品は、吉川一義氏
によると、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第十二番、フォーレのピアノ
-120-
(
1
3
7
)
四重奏曲、フランクの五重奏曲、ヴァイオリン・ソナ夕、交響曲などで
ある。
3
GeorgeD
.Painter, MarcelProust, MercuredeFrance, 1992, p
.825. シフ夫
妻がマジ、エスティック・ホテルで催したこの夜食会で、ブルーストは、
ピカソやジ、ェイムズ・ジョイスに会っている。
4
ストラヴインスキー、ロパート・クラフト
U18 の質問に答える』吉田
秀和訳、音楽之友社、 120 頁。
5
C
.S
.B. , 336-337.
6
Painter, op.cit. , p
.7
0
5
.
7
Cor. , XVII , 109. コルブの注によると、ベートーヴェンは 1827 年 3 月 26
日に亡くなっているので、ブルーストがここでいう四重奏曲第十五番
(1825) は第十六番 (1826) のことである。
8
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eFrançaises , n30 , 2000 ;
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yPress, 2001 , p
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nLaRevuemusicαle ,
1927 , p
p
.
6
7
. ロランは、ヴアルター・エンゲルスマンの次の論文他
を参照させている。 Walter E
ngelsmann<DieS
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.
1
0
Rolland, Ibid. , p
.6
. I思念の多様化」が、「変奏」というかたちで作品に
あらわれることは、ブルーストにもあてはまる。牛場暁夫教授は、 rl失
われた時を求めて J 交響する小説j (慶鷹義塾大学出版会、 2011 年)の
なかで、いくつかのモチーフが音楽のように反復され、「変奏J されつ
つ語られていると説いている。また、モネによるヴェネツイア風景連
作の「色彩変奏J がブルーストを熱狂させたことはよく知られている。
(MichelErman, MarcelProust, Fayard, 1994, p
.1
5
7
)
1
1
rベートーヴェンの手紙』上巻、小松雄一郎編訳、岩波文庫、 217 頁。
Rolland , op.cit. , p
.6
. 1810 年 7 月、ベッティーナ・ブレンターノより
ゲーテに宛てられた手紙のなかで、ベッティーナはベートーヴェンと
アウガルテン庭園を散歩したときの出来事を語っている。ロランはこ
の逸話を引用している。
1
2
C. S.B. , 75-76. おなじ考えが繰り返されている。 Ibid. , p
p
.103 , 304, e
t6
6
9
.
1
3
r ショーベンハウアー全集』第 6 巻、塩屋竹男他訳、白水社、 1973 年、
406-407 頁。「建築は凝固した音楽」という名句はエッカーマンとの対
話で、ゲーテが言った言葉であることをショーペンハウアーが明らか
にしている。また、ベートーヴェンの交響曲についてショーペンハウ
アーは、一見「混乱j しているようだが、実は完壁な「秩序J があると
(
1
3
8
)
-119-
して、「事物の不調和な調和」という言葉を用いている。おなじ言葉を
使って、建築について語ったのはラスキンである。そしてクルテイウス
は、プルーストの小説について同様の考えを述べていることを指摘し
ておきたい。なお、「両極はつながる」というのはプルーストのものの
見かたでもある。 (m, 825. 真屋和子『ブルースト的絵画空間一一ラスキ
ンの美学の向こうにJ 、 183-200 頁を参照。)
1
4
Rolland , Ibid. , p
p
.8
9
.
1
5
ロランは『ベートーヴェンの生涯j (1903) をシャルル・ペギーの主宰
する雑誌『半月手帖』に発表した。ブルーストが『半月手帖』の定期購
読者となったのは 1908 年 2 月であるが、反響を呼んだ、『ベートーヴェン
の生涯』を読んでいたと思われる(注 18) 。続いて 1912 年まで、『ジ、ヤ
ン・クリストフ』が同じ雑誌に掲載されていたのである。なお、とりあ
げたロランの二つの文は、『ベートーヴ、ェンの生涯』から 20 年以上もあ
と、 1927 年 3 月 26 日ウィーンで開催されたベートーヴェン記念祭の講
演『ベートーヴェンへの感謝』からの引用である。同年 4 月 1 日に雑誌
LaR
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emusicαle 1ベートーヴェン記念号」に掲載された。
1
6
n, 850. ブルーストは『田園交響曲』第三楽章「嵐のあとの歓喜J と書
いているが、正しくは第五楽章である。ベートーヴェンとターナーの共
演に関していえば、嵐のあとや虹のある風景を多く描いたターナーの
絵こそ、「嵐のあとの歓喜」の視覚表現としてふさわしい。
1
7
Cor. , xn , 110. コルブの j主 4 によると、当時テアトロフォンは、 j寅劇やオ
ベラだけではなく、交響曲や室内楽の中継もはじめたということであ
る (1 国際音楽協会音楽紀要J 1913 年 2 月 15 日号の「自宅における演劇
とコンサート J) 。ブルーストは、 1911 年 2 月にテアトロフォンに加入。
1
8
RomainRolland, Ved
eBeethoven , Paris, L
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eHachette, 1914, p
p
.53 ,
8
8note l.多くの学者が、「自然のいろいろな歌声とささやきで織り上げ
られて」いる『田園交響曲 j を模倣音楽であると論じていたが、ベー
トーヴェンは耳が聴こえなかったという事実に気づいていない、とロ
ランはいう。『田園交響曲 J が人に感動をあたえるのは、自分にとって
もはや消滅したひとつの世界を彼が「精神のうちから再創造した」から
であり、「小鳥たちを自分自身のうちに歌わせる」ことによって生み出
したからだ、とロランは述べている。ロランのこの一節がブルーストの
脳裏をかすめたのかもしれない。
(
1
3
9
)
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