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他者がいて生きられる証しとしての観光 - Doors

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他者がいて生きられる証しとしての観光 - Doors
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他者がいて生きられる証しとしての観光
玉
蠢
観光の定着
蠡
表舞台に躍り出た旅行エージェント
蠱
マス・ツーリズムを演出した旅行業
蠶
恐竜化した観光産業の弱点
蠹
観光地となる危険:エンクレイブ(観光租界)
蠧
ホストとゲストとは対等ではない
蠻
他者がいて生きられることのできる証しとしての観光
Ⅰ
村
和
彦
観光の定着
これまでの人類の歴史は,飢え,寒さ,病気,災害などとの闘いの歴史であったと言
えよう。もちろん癌などまだ克服できない病気もあるし,スマトラ島沖の地震の例を出
すまでもなく災害は人類に容赦なく襲ってくる。寒さや暑さは,屋内では冷暖房によっ
て克服できるようになった。飢えについても,栄養失調で多くの人が亡くなっている途
上国のことを忘れてはならないが,少なくとも先進国においては,まず無くなったとい
ってよいだろう。
人間はまず衣・食・住という生きるうえでの基本的な欲求が満たされることを求め
た。そのためには誰もが汗水流して一所懸命に働いた。労働が尊重されたのは当然のこ
とであり,遊びは無駄と蔑まれた。技術革新と労働運動は,生産性を高め,賃金の上昇
をもたらし,財やサービスを相対的に安価にしていった。衣・食・住の基本的な欲求が
達成されると,それらに豊かさを求めていった。それは近代化のプロセスであった。フ
ァッションのサイクルは短縮化し,グルメ・ブームは定着化し,住居には電化製品が溢
れるようになった。その近代化の延長上に,観光も位置づけられた。観光が必需品化
1
し,観光産業は多くの国で戦略産業として組み込まれた。
2003 年には世界では 6 億 9 千万人の観光客が国境を越えて移動し,その旅行収入は
5,200 億ドルを超えている。特に近年は東アジア・太平洋地域の伸びが著しい。参加者
の年間の旅行泊数はドイツ人の 17.5 泊,フランス人の 15.6 泊に比べるならば,日本人
────────────
1 日本では商用旅行を観光に含めないのが一般的であったが,世界観光機関(World Tourism Organization)の定義では,商用も含むほとんどの旅行が観光として考えられている。そこで私は全ての旅行を
含めるのには,あえて観光産業ではなく旅行産業を用いたほうが良いと考えているが,世間一般の通用
のされ方にそれほどの差はない。
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の 3.60 泊はいかにも寂しいが,極東に位置する日本から 1,600 万人以上の人が海外に渡
っている事実は,観光が国際的にまた日本国内で定着したといっても間違いないであろ
う。
まみ
自らの日常生活圏を出たところに出かけ,その地の自然・文化・人々とあい見えるこ
とができるようになったことは,人間がこれまで営々と築いてきた豊かさの大きな指標
の一つとして素直に受け止めたい。ヨーロッパでは第 2 次大戦後,ソシアル・ツーリズ
ムという政策がなされて国民均しく観光に行ける社会をつくろうとする運動が一時期あ
ったが,その言葉自体死語となっている。すなわち観光は,これまで一部の人々のいわ
ば特権であったが,先進国と呼ばれる国においてはかなり前から定着し,途上国におい
ても,経済成長に伴ってより多くの人々に解放されてきており,これは観光の民主化
(Democratisation of Tourism)と呼ぶことも可能である。
豊かさの証しでもある観光の定着は,経済成長に伴って実現したと書けば,簡単であ
るが,そこには観光産業に携わる人々の並々ならぬ努力があったのであり,また世界で
一様に発展してきたわけではない。私の知っている世界は極く限られるが,それらの国
を中心に,観光が定着していった過程を概観しながら,一見順風満帆とも見える観光の
課題を論じてみたい。
Ⅱ
表舞台に躍り出た旅行エージェント
もちろん太古に遊びがなかったわけではないし,旅がなかったわけではない。R. カ
めまい
3
イヨワは遊びの要素に競争,眩暈,偶然,模擬をあげているが,人類の発生したときか
4
らそれらの要素を持つ遊びはあったと考えられる。新城常三は「必要に迫られてする
旅」がまずあってそれから信仰など「自ら好んでする旅」をあげている。信仰を押さえ
ると社会的不安をもたらすことが,その理由とされている。しかし参宮,高野山参詣,
京都の大本山参詣にしてもその地の近くに遊郭があったから,信仰心だけが旅にでかけ
5
る要因とは考えにくい。旅に観光の原初形態を求める研究は古くからあったが,それが
現在の大衆化した観光の解明につながるとは思えない。
旅と観光の基本的な違いは,観光の語が昔は使われてこなかったことである。したが
って観光は,歴史的産物であって昔からあったのではない。英語の tourism も一般的に
────────────
2 『数字で見る観光 2004』社団法人日本観光協会。
3 R. カイヨワ(清水幾太郎,霧生和夫訳)
『遊びと人間』1970,岩波書店。
4 新城常三『庶民と旅の歴史』1971,日本放送出版会。
5 私の調査したチベットの聖山カイラスの巡礼者は,きわめてストイックで,カイラスの周囲を 13 回ま
わってまっすぐに故郷に帰っていった。牧畜に追われる毎日の生活の中で,巡礼そのものが遊びとはい
えなくとも,同じ暮らしの続く生活にとってのアクセントとなっていた。玉村和彦『聖山巡礼 チベッ
トの聖山カイラス巡礼者と通い婚の村』1987,山と渓谷社。
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用いられるようになったのは 19 世紀の中ごろと言われているし,日本語の観光も大正
時代から昭和にかけて普及していった。観光は,旅ないしは旅行の商品化のコンテキス
トの中で考えるべきであろう。すなわち,観光とそれまでの旅ないしは旅行との違い
は,観光が旅行商品となることによって,誰でも代価を払えば購入できるものとなった
お し
ことである。昔も御師の制度や伊勢講などの組織に参加することによって,旅は可能で
はあったが,旅すること自体に制約があって,簡単にはできなかった。それが旅行を商
品化する起業家が現れて,誰でもが代価を払えばいとも容易く旅行ができるようなっ
た。それを可能としたのは,鉄道に代表される近代的な交通機関が整備されたことであ
る。したがって観光は近代の産物である。
旅行の商品化でもっとも分かりやすいのは,今では主催旅行と呼ばれる団体旅行であ
る。団体旅行を始めたのは,英国では禁酒運動家のトーマス・クックであり,日本では
東海道線の草津駅の弁当屋の南新助であった。それらは共に宗教活動と奇しくも結びつ
いていた。その後トーマス・クックは,スコットランドやウエールズの名勝地,ロンド
ンの博覧会などに送客するようになって,トーマス・クック社を立ち上げ人気を博し,
南は大正時代に日本旅行社と名称して法人化し,その多くが本山詣でなどの宗教団体を
集めて大きくなっていった。
産業革命を成し遂げて近代国家となった英国は,ヨーロッパ大陸と近いこともあって
限られた数ではあったが外国への観光目的の団体旅行(ツアー)が 19 世紀の後半には
催行されていたが,日本での海外旅行がなされたのは日本の支配下にあった台湾,朝
鮮,満州(現東北)など行き先が限られていた。
観光が一挙に花開くのは,ヨーロッパでは第一次大戦終了に伴う解放感からの旅行で
あり,日本では御大典(昭和天皇の即位式)が大きな契機となっている。ジャパン・ツ
ーリスト・ビューローが外客の誘致・宣伝・接遇といった創設当初の使命を鉄道省下の
国際観光局に移管して文字通り旅行エージェントとなり,また京都市に観光課が設置さ
れたのも共に 1930 年(昭和 5 年)のことであった。
英国は戦勝国ではあったが,多くの都市が爆撃され,その復興には日本と同様年月を
要したが,旅行好きの若者を中心に少しずつ観光は普及していった。一方戦前より教育
に力を入れていた日本は,戦後直ぐに修学旅行を復活させ,日本の旅行エージェントは
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それを踏み台にして成長していった。英国ではチャーター機を用いての最初の海外ツア
ーは,学生と教職員に認められたが,直ぐに一般にも適用されて,ホライゾン・ホリデ
ー社となった。1950 年のことであった。ツアー・オペレーターと呼ばれるホールセラ
7
ーの誕生であった。元手なくして開業できた旅行エージェントは,英国でも日本でも雨
────────────
6 詳しくは玉村和彦『レジャー産業成長の構造』1980,文眞堂。
7 詳しくは玉村和彦『パッケージ観光論 その英国と日本との比較研究』2003,同文舘。
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後の竹の子のように生まれた。その中で大手の企業として成長したのは,英国では小売
業者であるエージェントを数多く系列化したツアー・オペレーターであり,日本では当
時の国鉄の団体券の代売業者に指定された旅行会社であった。
Ⅲ
マス・ツーリズムを演出した旅行業
マス・ツーリズムの語の検証が必要である。マス・ツーリズムは人々が容易に観光に
参加できるようになった大衆観光の意味と,マス・ツーリズム批判に代表される商業ベ
ースで行われる大量観光の意味に対して使われている。その形態はしばしば団体旅行の
形態をとっている。
日本の大衆観光の意味でのマス・ツーリズムには,修学旅行に加え,社員の慰安旅
行,視察旅行,企業などの周年旅行,労働組合や同業組合などの年次大会,町内会など
旅行,国民体育大会などのスポーツ,今ではインセンティブと呼ばれる勧奨旅行などと
深く関わっていた。これらのほとんどは,1 泊ないしは 2 泊の極く短期の団体旅行であ
った。そしてこれらの団体旅行を目的として,名勝・旧跡地や温泉地を中心にいわゆる
観光地が形成されていった。宿泊施設には,多数の中小規模の宿泊施設が多かったが,
団体旅行を扱う宿泊施設は大型で高層であり,大きな宴会場を持つ旅館(観光ホテル・
国際ホテルの名称も良く使われた)であった。これに新婚旅行や学生を中心とした旅行
が加わってマス・ツーリズムを形成していった。もちろん商用旅行も多くあったが,こ
れを観光旅行に含めて考えることは日本ではなかった。国民の宿泊を伴う旅行への参加
8
率は,国民の観光動向の調査の始まった 1964 年からすでに 50% を越えていたが,マス
・ツーリズムの語は 1960 年代まで使われていなかった。
H. P. グレイが観光客をザ・サン・ラスト(the sun lust 太陽あこがれ型観光客ないし
は滞在客)とザ・ワンダー・ラスト(the wander lust 名所めぐり型観光客ないしは周遊
客)とに分けて呼ぶようになったのは 1970 年であったが,この背後には,1970 年に至
る過程で観光の現象を巡る大きな変化があったからであろう。すなわち英国や北欧から
太陽を求めて地中海に向かった観光客は,これまでの名所旧跡を巡る観光客とは異な
り,一つのホテルでの滞在型であった。しかも彼らはパッケージ・ホリデーと呼ばれる
ツアー・オペレーターの大量に生産した 1 週間あるいは 2 週間といった企画商品を購入
して休暇を過ごすものであった。エアーとホテルとそれに空港とホテル間のトランスフ
ァー(送迎)いうきわめて単純なパッケージ・ホリデー(商品)は,ツアー・オペレー
ター間の熾烈な競争の中で,低価格化し,客層を一挙に広げることとなった。大手のツ
アー・オペレーターの倒産もしばしばであった。パッケージ・ホリデーそのものは,中
────────────
8 『観光の実態と志向 国民の観光に関する動向調査』
(1964 年より隔年調査)社団法人日本観光協会。
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古の飛行機を用いて始まったが,ジェット機の出現と共に機体が更新され,定期航空会
社の機体と比較してもそん色ないものとなっていった。ボーイング 747 は 1969 年には
じめて就航したが,旅客機の大型化とりわけ 1970 年代以降は,広胴機(ワイド・ボデ
ィ機)の普及というコンテキストの中で,大衆観光としてのマス・ツーリズムの語の発
生・普及を考えていく必要があるだろう。
ツアー・オペレーターによって大量に送客された地中海は,海岸線に沿ってリゾート
が次から次につくられ一変していった。それに伴って,画一化したリゾート,ビーチの
汚染,喧騒,サービスの低下などいわゆる観光公害が深刻化し,マス・メディアはこれ
らの問題を大々的に取り上げだした。ここで注意すべきことは,ツアー・オペレーター
にとって,またホリデー客にとって,行き先としてのリゾートの代替地がいくらでもあ
ったことである。ビーチやプール・サイドで甲羅を干すには,太陽が降り注げばよいの
であって,これまで行っていたリゾートを代えることは容易であった。事実地中海のリ
ゾートは,スペインから地中海沿いに旧ユーゴスラビアを経てトルコまで東進したし,
南はエジプトのみならずモロッコ,チュニジアなどマグレブ諸国まで伸びた。とりわけ
過剰開発されたリゾートは,評判が悪かった。そこにマス・ツーリズムに,大衆観光の
意味と,環境を破壊する元凶としての大量観光の意味とが混在するようになった大きな
要因があったといえよう。とりわけ先進国を中心とする高度成長は,可処分所得を着実
に増大させ,観光地のフロンティアを急速に広げていったが,秘境といわれるところほ
ど観光のもたらすインパクトは大きかった。1977 年に出版された V. スミスのホストと
9
ゲスト論は,マス・ツーリズム批判の格好のテキストとなったのであった。
さて日本ではどうだったであろうか。手配旅行を中心に観光が普及した日本が,最初
のパッケージ・ツアーを発売したのは,1965 年のジャルパックであったことは,言を
俟たないが,60 年代の海外旅行はまだ国民にとって高嶺の花であり,普及し始めるき
っかけとなったのは 1969 年のボーイング 747 の日本就航を前提としたバルク運賃の導
入であった。ただその後もミニマム・ツアー・プライス(MTP 最低ツアー販売価格)
のカルテルがあって,ツアー価格は高止まりしており,これがパッケージ・ツアー普及
の足かせとなり,海外旅行の普及は,その MTP の規制外であるインセンティブや視察
旅行,あるいは社員旅行といった比較的低価格の企画商品を利用しての手配旅行を中心
に普及していった。そして一度海外旅行の楽しみを経験した国民は,リピーターとなる
要素を多分に持っていた。
1970 年代・80 年代は,日本の高度成長の時代であった。それに伴い環境問題も深刻
化していったが,観光に関する環境問題は,スーパー林道など有料道路の開発,スキー
場の乱開発などが中心であり,むしろ水俣病など工場排水など第 2 次産業関連が多かっ
────────────
9 Smith, Valene L.(Ed.)Hosts and Guests, the anthropology of tourism 1977, University of Pennsylvania Press.
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たといえる。若者はディスカウント・チケットを求めて,大挙して海外に出かけだした
のは第二次オイル・ショック以降であった。国内では,民宿やペンションそれに公営の
宿泊施設あるいは企業の福祉施設などが一挙に増え,折からのモータリゼーションと相
俟って,これまでの団体旅行に家族旅行が加わっていった。
日本列島の乱開発を徹底的に推し進めたのは,1987 年のリゾート法(総合保養地域
整備法)であった。それはバブル時代の到来であり,日本列島を総リゾート化しようと
するものであったが,リゾートとして計画された地域は,バブルの崩壊と共にそれこそ
泡のごとく消えていった。ただここで注意しなければならないのは,リゾート法は地中
海のリゾートに触発されたものであったことである。しかし地中海のリゾートはどれも
これも標準化された多数の宿泊施設を中心に構成されており,そのターゲットをきわめ
て安いパッケージ客に依存していたことであった。ところが,日本で計画されたリゾー
トは,ゴルフ場,リゾートホテル,リゾートマンション,スキー場,マリーナと似て非
なるものであり,家族で滞在型の観光をするには,国民の所得水準からかけ離れたもの
であったが,その面での批判はなされなかった。観光の研究に携わるものは,この点を
充分に反省しなければならない。
Ⅳ
恐竜化した観光産業の弱点
観光が商品であるといったとき,団体旅行に限定されるべきではない。いったん旅行
が誰にでも可能となったとき,観光は急速にそして隅々にまで,行き渡る。それは水の
入ったビーカーに絵の具を垂らすようなものだ。すなわち旅行を対象に利益を得たいと
する資本主義の原則が浸透する。団体旅行によって容易に旅行ができたことは事実であ
ったが,個人や家族が鉄道の乗車券を購入して旅行しても,あるいは旅館・ホテルに直
接行って宿泊(ウオーク・イン)しても,彼らは単品である観光商品を購入したことに
なり,その限りで観光客である。観光商品を提供する企業は,すべて観光産業となる。
観光産業という供給側と観光客という需要側があって,そこで取引されるものが,観光
商品というサービスである。当然のことながら,旅行産業と観光客のあいだは,対等で
ある。
最大多数の最大幸福を人類の目的とするならば,人々が等しく観光を享受できる発展
段階は,観光の欲求の存在を前提とするとき,もっとも幸せな段階になったと言えるで
あろう。現在のように情報がグローバル化しない段階においては,観光の欲求,とりわ
け外国に行ってみようなどという欲求は生まれなかった。しかしいったん誰でもが観光
することが可能となった段階に到達したならば,観光を単に個人の問題として放置する
ことはできない。人間が生産活動に従事しない時間,すなわち自由時間,あるいは老後
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の時間を生産活動と結びつける必要がある。家でのんびりと過ごすのは,個人の裁量に
任せられる問題ではあるが,マクロ経済的に考えた場合,それらの時間も GNP(国民
総生産)に貢献できるように誘導しなかったならば,この先国民経済は破綻するであろ
う。サービス産業の奨励は国民的なあるいは国際的な課題である。
京都の名刹に拝観料を払うならば,京都仏教会のいうように彼らが観光客ではなく拝
観者であったとしても,そこに案内したバス会社,運転手,ガイド,その寺の僧侶,そ
して京都市を潤し,また日本の総生産を増加させることになる。その名刹を維持するに
は,目だった経費がかかるとは思えないが,日照りの日にも杉苔を維持するには水やり
が欠かせないし,また山から下りてきた鹿や猪に庭が荒らされないようにするには,拝
観者には分からない人手を要する苦労が耐えないだろう。長期的には,拝観者を増やす
ために,駐車場の増設も必要かもしれない。
エコツーリズムにおいても同じことが言える。生態系に配慮した観光の定義には,単
に自然のみならず山村・漁村・あるいは少数民族などの文化をも包含して考える場合が
多いが,いずれにせよそこを訪れる観光客のお金が,生態系の維持に繋がることが前提
となるであろう。その際,生態系の理解には,たとえばダイビングなどの仕掛けを要し
たり,あるいはインタープリターと呼ばれる解説者がいたならば,一層得られやすいで
あろう。このように観光産業といわれるものの中には,有限の化石燃料や鉄鉱石などの
原材料などを多く費消しないものが少なくない。しかしそのためには仕掛けやインター
プリターの家族を支える収入を考えると,エコツーリズムが観光資源あるいはエネルギ
ーをそれほど費消しなかったとしても,コストはそれなりに必要となる。むしろ解説が
なくとも観光は可能の場合も多く,エコツーリズムが安上がりの観光となるわけではな
い。エコツーリズムといえども,マクロ経済の中では立派な産業である。
観光旅行は,一般に国内旅行・海外旅行を問わず,多額の費用がかかる。ホテル,旅
館,航空業,バス,鉄道など交通機関などを生業としている人は多く,旅行費用はそれ
らの総計となる。レジャー白書は,余暇市場をスポーツ部門,趣味・創作部門,娯楽部
門と観光・行楽部門に分けているが,2004 年の余暇市場を 81.3 兆円,その中での観光
10
・娯楽部門を 10.5 兆円と算出している。
他産業と比較しての観光産業の特徴をあえて挙げるならば,観光資源を有する観光地
と関連していることと,治安,災害,気候といった外部環境に依存していることであろ
う。著名な社寺が人数制限を始めれば,その周りの土産屋は打つ手がない。観光地の汚
けんでん
染が喧伝されると,観光客は潮が引くように,来なくなる。テロや航空機の事故が起こ
れば,山のようなキャンセルが発生する。雪が降らなければ,スキー場のリフトは稼動
────────────
1
0 『レジャー白書(2005)
』
(財)社会経済生産性本部。なお 81.3 兆円の中で 29.4 兆円がパチンコの貸し玉
料であり,17.2 兆円が飲食代となっている。
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せず,民宿にもスキー客が全く来なくなる。
観光産業は恐竜のように巨大化したが,それを支える足は意外と細い。草食にせよ,
肉食にせよ,あるいは雑食にせよ,摂取量はきわめて多く,ひとたび餌が得にくくなる
とたちまち弱体化する。あるいは,9. 11 のテロやスマトラ島沖地震の例を挙げるまで
もなく,支えている足は細く,横たわってしまうと立ち上がるのに時間がかかる。しか
しこの観光産業に依存している国,地域,市町村は,グローバルに広がりつつある。も
はや観光産業なしでは世界経済は成り立たないといってよいが,外部環境に依存した脆
弱な産業でもある。
Ⅴ
観光地となる危険:エンクレイブ(観光租界)
観光の由々しき問題は,観光地における人々の心の荒廃であろう。たとえば途上国で
のビーチで,学校にも行かず観光客に物を売る子供たちをどのように考えたらよいだろ
うか。その子供の稼ぐ一日の売り上げが,汗水流して働いて得るその父親の賃金の数倍
になるとしたら,解決策は簡単ではない。それはなにも途上国のことだけではない。日
本でも痩せ地しかなく山林の枝打ち・下草刈りという重労働をしている山村の主婦に,
自然保護の重要性を訴え,将来ゴルフ場ができたときキャディになれる保障を断わらせ
ることは,至難の技だ。
農業などに適さない自然条件の厳しいところほど,美しい景観のある地であることが
すべ
多い。また生活条件が厳しいが故に,共同体としての生きる術を得てきて今日に至って
11
ちんにゅう
いる場合も多いだろう。観光客がそのような地に闖入することは,もろい自然を破壊し
たり,あるいはそれまでの共同体を崩壊させることに繋がりかねない。
観光地になるということは,これまでの産業を放棄して,観光で生計を立てることを
決意することに等しい。農民がたえず肥料を入れ,雑草を抜いて,代々営んできた農地
12
は,土の温かさが伝わってくる芸術品みたいなものである。いったん放棄して雑草を生
やしたならば,元の農地に戻すことは至難の技である。間伐の入らない杉檜の林は,日
本家屋を支えてきた柱には最早ならない。それどころか,花粉症の一因ともなっている
ともいわれる。釣り人のための遊漁船を操舵するようになれば,本業の漁業がおろそか
────────────
1
1 著者は 1985 年日中友好ナムナニ峰合同登山隊の学術隊隊員としてチベットのガリ地区でフィールド・
ワークを行い,農家に限って通い婚(夫が妻の家に通う)がいまだに続いていることを発見した。地方
政府はこの制度が遅れた恥ずかしい制度として言い訳をした。しかし著者は,この制度が,きわめて自
然条件の厳しくまた耕地面積の限られた中(海抜 3,500 メートル以上,雨量 1,000 ミリ以下)での世帯
数を増加させない合理的手段であり文化と考えた。拙著『聖山巡礼 カイラスと通い婚の村』1987,山
と渓谷社,『チベット・聖山・巡礼者 チベットの聖山カイラスと通い婚の村』
(文庫版)1995,社会思
想社。
1
2 著者との対話における安岡重明同志社大学名誉教授の表現。
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になりかねない。観光に依存すればするほど,それまでの本業での後継者は育たなくな
る。観光地になるということは,ルビコン川を渡る決意が必要だ。
インド洋にモルディブ共和国がある。多数の島でできている小国である。首都マレに
着いた観光客は,ホテルの専用船で各島に直行する。観光客がマレの町を歩くことはま
ずない。かつて帝国主義が幅を利かした頃は,列強は自国民のための専用の地を租界と
して確保した。現地の住民はオフ・リミットであった。モルディブのホテルは租界に似
ている。
13
ブータン王国も観光政策を考える上で重要である。入国するのに多額な費用が必要で
あり,そのようにすることによって観光客数を制限している。国民と観光客との接触
は,物理的に少なくなる。
飛び地のことを英語でエンクレイブ(enclave 自国に入り込んだ他国の領土)と呼ぶ
が,観光地はエンクレイブにたとえられよう。途上国のホテルは,さながら外国人観光
14
客専用の飛び地である。途上国にありながらよそ者の地である。
エンクレイブは何も,地元の標準から遊離したフロントやロビー,ベッドの部屋,レ
ストランといったホテルのハードだけではない。ホテルマンもサービスの教育を受けた
語学の達者な従業員であり,地元民ではあってもいわゆる一般的な地元民ではない。こ
のようなことは,レストランで,観光バス,名所旧跡についてもいえる。観光そのもの
を擬似イベント(pseudo events)と断定したのは,かの有名な D. J. ブーアスティン
15
(1961)であるが,観光地は観光客がその地に持つイメージにそってつくられる。
京都の嵯峨野は 30 年前の嵯峨野よりより京都らしい。そして三条通は,これほど町
家が残っていたかとびっくりするほど,昔の京都に戻りつつある。ただし多くは観光客
対象の食べ物やであったりみやげ屋であったりする。だがこれが本物であるか否かは,
別の議論が必要であろう。嵯峨野も三条通も京都であることに間違いはない。エンクレ
イブは,観光地全般に広がり,観光地=エンクレイブになっているといっても良いであ
ろう。
観光客用に程よく味付けられた観光地は,地元民も積極的に関わっていることも,重
要な点である。かつての観光地は,観光対象と宿泊施設とが点在し,それを交通機関が
むすんでいた。観光産業従事者と住民とはしばしば対立的であった。現在の観光地は,
面としての広がりがあり,それだけに多くの地元民を含んでおり,その限りで地元民は
────────────
1
3 ブータンに入国するには,ブータン取扱旅行会社で 1 日 165−200 ドルの公定ツアーパッケージ料金を
払う必要がある。しかも年間の人数制限があり,国内も自由に旅行できるわけではない。
1
4 日本でも外国人宿泊客のもっとも高かった京浜地区においてその外国人の割合が 50% を割ったのは
1971 年のことであった。玉村『レジャー産業成長の構造』71 ページ。
1
5 ブーアスティン,D. J. (星野郁美・後藤和彦訳)
『幻影(イメジ)の時代 マスコミが製造する事実』
1964,東京創元社。
1
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観光産業のメリットとデメリットを運命共同体として共有している。観光地はルビコン
川を渡って戻れなくなった以上,良きにつけ悪しきにつけ,積極的により良き観光地作
りに一丸となって努力し,熾烈な観光地間の競争に勝たなければならなくなっている。
もちろん観光地間の競争といったとき,かつてほど交通費を要さなくなくなったので,
それは国内に限らずグローバルに行われる。日本のスキー場はフランスのシャモニーや
カナダのウィスラーと,そして沖縄のビーチ・リゾートは,ハワイやバリ島と競争しな
ければならなくなっている。
Ⅵ
ホストとゲストとは対等ではない
観光は生ものであって,生ものではない。
生ものというときの「もの」が,パンやケーキなどを指すとすれば,それは財であっ
て本来サービスである観光とは異なる。サービスは生産と消費が同時におこなわれるも
おかみ
のであって,そこにタイムラグがない。旅館ならば女将の正座しての玄関での歓迎の挨
拶を受けた時点から,またの来館を願う感謝の挨拶をうけるまで,心からのもてなしを
受け,客はそのサービスに満足する。もてなす側であるホストと,もてなされる側であ
るゲストとの間の,和やかではあるがピーンと張り詰めた緊張が両者の間には往き来す
る。その和やかな往き来にホストとゲストとが,満足する。決してゲストだけが満足す
るわけではない。ホストもゲストが満足することに満足する。それは,サービス業の醍
醐味である。両者の間には,ガイドブックには書かれていなかった思わぬ出会いがあ
る。出会いは英語では,エンカウンター(邂逅)である。いや,ガイドブックには,そ
の旅館の女将が意外と若いとまでは紹介されているかもしれない。しかし,その女将の
醸し出す気品に加え,上品な方言での受け答えまでを記述することはできないだろう。
情報化された現代では,確かに詳細な情報が,音声付のビジュアルで,またリアルタ
イムで入手できる社会になっている。そしてその情報だけで満足する人もいるであろう
が,情報化されればされるほど,旅心が一層掻き立てられる場合も多い。それは,その
情報を確認したいという「本物(authenticity)
」志向の気持ちの時も多いが,その周り
の環境やそこに行くまでの道中や,地元の人々との出会い(エンカウンター)が,意識
するとしないとにかかわらず,旅心を刺激するからであろう。出発するまでの気持ちの
高まりもたまらない。そして実際に訪れると,かなりの情報を仕入れてきていても,案
の定,そこに多くのエンカウンターを発見する。タクシーの運転手が思わず荷物を持っ
てくれた親切さ,訪れた宿には打ち水がされていたり,驟雨のあとの寺の庭の杉苔が一
層青かったりと仲居さんの京言葉,次から次と予想もしなかった出会いが,観光客をと
りこにする。他ならぬ観光の醍醐味であろう。観光客は満足する。
他者がいて生きられる証しとしての観光(玉村)
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確かに観光客の満足は,電気製品やアパレルを求めたときの満足感とは異なるであろ
う。形ある財の満足感は,実際に所有するか借用するかはともかく,使用することによ
って得られるから,財そのものが存在しなければならない。しかも新製品は次から次と
発売され,コマーシャルは購買欲を掻き立てる。家にある電気製品は限りなく増加し,
多くはクローゼットに眠ることになるが,偶に使うときがあるので捨てられない。電気
製品の一つあたりの実際の使用時間は限りなく小さくなる。
それに反して観光のサービスを受けたときの満足感は,心のクローゼットに蓄えるこ
とができる。無限である。忘却という人間の性も手伝って,クローゼットの大きさは同
じでも,許容量を無限大にする。
新婚旅行で行ったあのダイヤモンド・ヘッドの見えるワイキキのビーチの甘い思い出
は,次は目先をかえてバリ島のクタかサヌールかヌサ・ドゥアへのツアーへと広がる。
そして次は寒い日本を抜け出してオーストラリアのグレイト・バリア・リーフで泳ぐ誘
惑に勝てなくなる。ビーチの数だけ訪れることは不可能でも,ビーチの数だけ訪れたい
欲望が生まれる。欲望の充足が依存効果となって,新たな欲望を創出する。
観光地のホストは,観光客であるゲストを気持ちよく温かく迎えてくれるだろう。ホ
ストにとって生活がかかっているという言い方は,確かにその通りではあるが,失礼で
あろう。観光産業の従事者であるホストにとって,サービスを提供することによってゲ
ストを満足させることが,自らが満足するプロセスでもあるからだ。サービスが自然体
なのだ。そのようなホストが多ければ多いほど,その観光地は栄えるであろう。
しかし観光地は,観光産業従事者であるホストだけで成り立っているのではない。観
光地には,ビーチとか社寺といった観光資源があるが,加えてホテルなどの宿泊施設,
レストラン,土産屋などの観光産業の他にお役所もあれば,町工場もあり,住民が買い
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物をする店などもあって,それらが一緒になって観光地を形成している。
観光地の計画は難しい。よい例がバリ島のヌサ・ドゥアである。かつては貧相な漁村
であったヌサ・ドゥアに,海岸線に沿って豪華なホテルがいくつも張り付けられ,いか
にも秩序だったビーチとなっている。面目一新だ。そのほぼ中央に位置するショッピン
グ・センターも立派だが,店を閉めているテナントも目立つ。観光客はとりわけ若い観
光客は,前からの観光地クタやその延長上にできたレギャンやあるいは芸術家の町ウブ
ドに行ってしまう。クタは爆弾テロがあって以前の賑わいはないが,ヌサ・ドゥアに比
較すればずっと活気がある。観光地の底力,それは「賑わい」をつくるなんとも言いよ
うがない総合的な魅力であろう。観光地には,猥雑なという言葉はあえて使わないが,
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6 著者はかつてビーチ・リゾートのフィールド・ワークから,ビーチ・リゾートは大規模ホテル・ゾーン
とタウン・ゾーンに分かれると書いたことがあるが,その後どのビーチ・リゾートも発展し,両者は融
合しつつあることを認めなければならない。玉村和彦 「ビーチ・リゾートの構成要因としてのタウン
・ゾーンと大規模ホテル・ゾーン」
『同志社商学』第 47 号第 5 号(1996)
。
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いろんなものが詰まった「面」的な広がりが必要である。
面的な広がりをもつ観光地は,多くの人が生活する場でもある。そこは,彼らの町な
のだ。観光地化することによって移り住んだ人も多く,そこで生まれた人は少数派かも
しれないが,いずれも住民なのだ。観光産業に従事している人もいない人も,現実に生
活している観光地である場合がほとんどだ。ホストとは何も観光産業従事者だけでな
く,住民も含めて考えるべきだ。そこには,地方自治体があり,それは中央政府の管轄
化にある。観光産業に従事していない住民も,運命共同体としての観光地である以上,
ホストとしての意識を持つことが,観光地そのものを発展させる必須条件だと考える
が,ゲストはそれ以上の発言権を持てないだろう。ホストとゲストとを融合させて考え
れば,ホストは観光客を自然と笑顔で迎えるし,町も美しくなる。またゲストもホスト
である住民とのエンカウンター(出会い)を楽しむ。実際にそこに会話があるかないか
は,別問題だ。ゲストのマナーも自然と向上する。ただゲストはあくまでもゲストであ
って,お客さんである。他人の家に上がるときには,下足を脱がなければならない。そ
こには当然,観光地としての住民のつくる社会があって,決まりや礼節をわきまえなけ
ればならない。提案はできても,意見は言えても,それは参考意見の域を出ない。その
観光地を作っていくのは,あくまでもホストである住民だ。
Ⅶ
他者がいて生きられることのできる証しとしての観光
私の中国での二つの経験をまず記そう。
スークーニャンシャン
1981 年に四川省の未踏峰 四姑娘山の登山隊に参加した際,一人も見かけない尾根筋
で,隊員の一人が高山病のために口から泡を吹き動けなくなった。その際チベット族の
ガイドは,なにやら谷間に向かって大声で叫んだ。すると誰もいないと思われた谷間か
ら次々と住民が稜線に現れ,彼を背負って下まで搬送してくれた。しかも彼らは私たち
が差し出した謝礼を固辞して,暗くなった山に戻っていった。
1985 年の出来事は,チベットの最西端のナムナニ峰の登山隊に参加したときであっ
た。ベースキャンプに父子と思われる巡礼者が立ち寄った。すると私たちの登山隊に参
加していたチベット族の隊員が,肉などの食料や衣服,それにお金まで惜しげもなく彼
らに与えたのである。更に驚いたのは,それらを受け取った父子は,何の礼を言うこと
もなしに悠然と立ち去ったことである。
前者の例で私を驚かせたのは,人が住んでいないような山奥で,次から次と住民が現
れたことであった。ガイドはなんと叫んだのだろうか。その谷筋に共鳴しあった叫び声
が,いまだに耳朶にこびりついている。観光客は,直接住民のお世話にならなくても,
あるいは見かけなくとも,たえず彼らの「まなざし」の中にあることを知っておく必要
他者がいて生きられる証しとしての観光(玉村)
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があるだろう。
後者の例は,物をあげても礼を言わない社会があるということであった。これはショ
ックであった。しかし私はこの後,カイラスという著名な聖山の巡礼者のフィールド・
ワークをしたので,この疑問は直ぐに解消した。数ヶ月かけて歩いて巡礼する彼らに
は,お金もなく,またあったとしても何か月分の食糧を担げるわけもなかった。チベッ
トは途中の農民・牧民を訪ねて彼らの喜捨を受けることで,巡礼が初めて可能となる社
会であった。しかも喜捨した者は,喜捨することによってこれまた徳を積んだこととな
り,彼らの死後の天界も保証された。
観光の定義は,日常生活圏を出たところでの行動とするならば,そこには必ず他人が
生活をしている場があることを自覚しなければならない。この地球上で人間の住まない
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ところは,まずない。観光の目的がトレッキングのような自然が対象である場合,偶に
会うそこで生活している人と会話をすることもなしに,目的を果たして出発地に戻るこ
ともできよう。このような場合でも,住民のつくった橋を渡ったり,食料を分けてもら
ったりして,旅行を続けることになる。
観光は即他人の生活圏を侵してのみ可能であるとき,観光客と地元民との関係を,共
存あるいは共生という言葉で言い表せるであろうか。おそらく共存といった時は,組織
や国が共に存在することであり,共生は個人個人あるいは人類全体に対して使われるの
だろう。そこには自立した国,自治体,個人が,お互いがお互いを尊重しあったうえで
存在することが,前提となるのであろう。しかし観光客は,しばしば不遜な態度で行動
しがちである。
観光旅行をしていると,お金を支払う観光客は,傲慢になりがちである。しばしば見
下すことにもなろう。それに対してホストは,言い返すこともしないが,観光客のとっ
た態度が容認されたと考えてはいけない。ゲストも,ホストと同様,卑屈になってはい
けない。サービスの授受に関しては,対等であるべきだ。
観光は,ホスト(観光客をもてなす人々,私は広くその観光地での住民全体と考え
る)とゲスト(観光客)とのエンカウンター(出会い)だと記したが,ホストとゲスト
とは,決して対等ではない。すでに前節で記したが,ゲストは下足を脱いで他人の生活
している地(観光地)に上がらせていただく訳だ。その意味で,共存,あるいは共生と
いう言葉をあえて使わない。それに代わることばは何であろうか。おそらく「他者がい
てはじめて観光ができる,あるいは生きられる」ということであろう。人間は本当に,
他者がいて生きてこられた。
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7 著者はかつて中国の新疆ウイグル自治区のカシュガルからチベット自治区のガリに行く際,アクサイチ
ンと呼ばれるインドとの国境地帯をキャラバンしたことがある。年間雨量 100 ミリ以下のこの地では,
さすがにチベット族も見かけなかった。解放軍の電話線にそって車輪のあとのある砂漠を 1 日ドライブ
すると,解放軍の野営地があり,そこに宿泊した。
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観光客が訪れた地のホテル,旅館,バスやタクシーの従業員,文化資源,自然資源の
管理者などのお世話になることは言うまでもないが,観光地を形成しているのは,彼ら
だけではない。
「物言わぬ」多くの住民がその地で営々と生活してきたからこそ,その
観光地に魅力が生じてきたのだ。たとえ観光バスに乗って日本語でのガイドで名所から
名所に訪れたとしても,車窓から見える人々の生活は,観光客にとって借景となる。ま
た訪れた繁華街でまた市場できびきびと働いている人々,あるいは住宅街で快活に談笑
している人々,彼らと観光客との間に直接会話はなくても多くの出会いがある。それば
かりではない。旅行していて,訪れた地の助けを直接受ける機会は非常に多い。このと
き普段生活している場においてと同様,
「他者がいて生きられる」旅行者である自分が
実感できよう。
観光の対象ないしは資源は,たしかに自然,文化などと大別し,更に細分化も可能で
あろう。だが観光の目的となると,全てをひっくるめた行き先での全体験であり,当然
のことながら出発までの予備段階,帰ったあとの思い出を含めて,それらと対峙した自
分自身との諸般の関係であろう。
観光はよく重要な貿易外収入として,その国の国際収支の改善に寄与することであ
る。観光のすばらしいことは,ODA
(政府開発援助)
のような援助ではないことだ。ODA
の定義には,借款も含められているので,いまここでは無償の贈与に限って論じよう。
贈与の場合,与える立場の人は尊大になりがちである。
「礼」を言ってもらって当然と
なる。ところが観光の場合,あくまでも商行為である。そこでは売り手と買い手が,真
剣に取引を行う。
途上国での土産を買うときの値段の交渉を思い出したい。売り手は少しでも高く売り
たいし,買い手は少しでもまけさせたい。買い手はその値段では買わないよと,立ち去
ろうとするタイミングが重要だ。仕方ないと売り手は譲歩する。ところがその品が,他
ではもっと安かったりしてがっかりする。このようなプロセスを経て途上国は外貨を稼
ぐが,この外貨は無償ではなく,商行為なのだ。彼らのプライドを傷つけることもな
い。観光客も援助した気持ちにはなっていない。しかし結果的には,観光は民間レベル
での ODA だ。
チベットの巡礼者がなぜ巡礼できたかを,もう一度考えてみよう。自然環境が極めて
厳しいもとでは,彼らはお互いに依存しあって生きていかなければ生きることができな
いことを,誰よりもよく知っている。だから余裕のあるものが,余裕無い者を助けるの
は,義務なのだ。与えたことによっても,何らの反対給付を受けようとしない。そうし
ないとお互いに生きることができないことを良く知っているのだ。日本政府が災害の発
生した国に送る支援物資には,大きく日の丸がついている。それみよがしと言わんばか
りだ。日の丸をつけずに援助ができる国になりたい。
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聖書には次のように書かれている。
「見てもらおうとして人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないとあな
たがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
」
(マタイによる福音書
6−1)
「他者がいて生きられる」ことは,国際的には貿易を,国内的には産地の農作物など
を「分業」として考えたら分かりやすいが,もちろんそれにとどまるものでない。これ
までの長い文化の交流を持った世界,とりわけ現代は,目に見える形であるいは見えな
い形での膨大な「ヒト,モノ,カネ,情報」の行き交っている世界であり,また一方で
海流や大気を取り上げるまでもなく,この地球に 60 億ほどの人類が,環境に依存して
そして肩を寄せ合って生きている世界でもあることを自覚することだ。イエスの言った
「報い(reward)
」は,
「永遠の命」であるが,広く「恵み」と考えてもよいであろう。
「他者がいて生きられる」ことは,自らも積極的に生きていることを否定しない。む
しろ観光はそのことをアピールする場でもある。そのためには,自らが育った家庭に,
町や村に,そして国に,プライドを持つことだ。偏狭な愛国心は国の政策を誤らせる
が,自らが育った環境にプライドをもてないようでは,ホストとしての資格がない。そ
のためには小さいときからの自らの文化を理解するための教育が,大きく影響するであ
ろう。
観光に行く際は,ゲストも行き先の学習する必要がある。予備知識なしに出かけたほ
うが,旅行のインパクトが大きいというのは,大きな間違いだ。それぞれの観光地には
それぞれの文化がある。文化の違いを学習していかないと,大きな誤解を生じさせる基
となる。人類の歴史は,戦争の歴史でもあった。歴史認識は絶対に必要だ。観光させて
もらう立場のゲストは,文化の違いを是認しなければならない。いや観光はその違いを
探しに行く場でもある。当然のことながら,文化には違いが有っても,良い文化と悪い
文化とがあるわけではなく,また高次の文化と低次の文化とがあるわけでもない。自分
の育った国の文化を物差しにすれば,命をも落としかねない。すなわち観光教育はホス
トにもゲストにもいえることであろう。
「他者がいて生きられる」前提は,平和共存である。お互いの国が平和的に共存して
こそ,お互いが生きられる。観光客ほど臆病な人種はいない。治安が悪い,テロがあっ
たといったニュースがあれば,潮が引くように,観光客は来なくなる。国際連合が 1966
年に,1967 年を「国際観光年(International Tourism Year)
」に指定する際,
「観光は平
和へのパスポート(Tourism ; Passport to Peace)
」というスローガンを定めたが,観光
が平和の象徴としてのパスポートとはなりえても,観光が平和に貢献できるパスポート
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となりうるためには,
「他者がいて生きられること」を理解することが前提である。他
者の地を訪れたからといって,その地への理解が進むとは限らない。通り一遍の観光で
は,むしろ誤解すらしかねない。他者が異なった言葉を話し,異なった文化を持ちなが
ら,同じこの小さな惑星に住む人類としての共通点を見出すとき,観光は平和へのパス
ポートとなるであろう。ホストが自らの地にプライドを持ち,ゲストがその地に畏敬の
念を持つためには,教育をも含む新たな挑戦が,この地球上に住む人類全体の課題であ
ろう。
なぜならば世界には,人類を何回も滅亡させるに充分な核兵器を,大量に保有してい
るいくつかの国が存在する。保有の理由は,核抑止力と称して,他国の核兵器の廃絶を
前提にしているが,それではいつまでも核兵器を持つことになる。しかも核クラブに
は,新規の参入が絶えない。チェルノブイリの事故をあげるまでもなく,将来は核の偶
発的事故もありうる。とりわけ日本は唯一の被爆国として,核兵器の廃絶を訴えなけれ
ばならない立場にある。平和共存は観光の大前提であるし,観光が,努力次第で,平和
を作り出すことに積極的貢献できることを確信したい。
(これは筆者が 2006 年 1 月 10 日と 17 日に,2 回にわけて行なった同志社大学での最終講義の原稿であ
る。
)
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