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九州工業大学学術機関リポジトリ Title Author(s) Issue Date URL ドイツの自由学校 栗山, 次郎 1994-03-31T00:00:00Z http://hdl.handle.net/10228/2952 Rights Kyushu Institute of Technology Academic Repository ヘじめに 一、 ドイツの自由学校 栗 山 次 郎 ドイツでも現在﹁学校倦怠﹂がいろいろ論じられています[民而汗F﹂霧汀]。生徒は外見は元気そうに遊んだり、 勉強したりしていますが、親も子どもも学校に嫌気がさしているのです。それを真正面からとりあげ、解決しようと している学校がドイツでは少しつつ増加しています。本論ではそのような学校の概略を述べます。 ヨーロヅパ諸国では近代国家における国民意識の定着や教育水準の向上をめざして学校制度が普及して行きます。 ドイツでは一八世紀前半に就学義務が導入されています[梅根]。その後もドイツでは基本的に教育の改革は﹁上か ら﹂のものでした。 現在ドイツの基本法︵憲法︸では第七条において教育について規定しています。第一項で、学校制度は国の監督を 受けるとしています。その上で第四項で、 私立学校設置の権利は保障される。公立学校の代用としての私立学校は国の認可を要し、且つ州法に従う。 認可はその私立学校が教育目的、施設、教師の学問的水準において公立学校に劣らず、且つ生徒の選別が親 瑚 の財産状況によってなされない場合に下される。認可は教師の経済的、法的地位が十分に保障されない場合 @ は下されない。 5 7 1 と私立学校全般を規定し、ついで第五項で、 二 私立国民学校は、教育行政当局が特別教育利益を認知するか、教育権者の申請により共同体学校、宗派学 校、もしくは世界観学校として設立され、且つその種の公立学校が当地方公共団体内に存在しない場合のみ、 認可される。 と小学校段階での認可条件を決めています︵ここでの﹁国民学校﹂は小学校と、﹁教育権者﹂は親︵保護者︶と理解 します︶。 私立学校として認可を得るのは共同体学校か、宗派学校か、世界観学校か特別教育利益学校しかありません。 ロ 良 共同体学校の例はペーター・ベーターゼン学校です。宗派学校は基本的にはどの宗派でも設立できるわけですが、 次現実にはカトリ・ク系かプ。テスタント系かのどちらかです・世界観学校は信仰にではなく信条に基ずく学校と言 山 栗 えます。現在のところ世界観学校はヴァルドルフ学校︵シュタイナー学校︶だけです。 宗教、宗派や世界観はある程度社会的に認められ易い概念です。その影響や効果も推測可能です。生徒数も見通し が出来ます。それらの理由で現在では法的な認可も比較的簡単に下されます。 それに対して、特別教育利益はその概念が不明確です。しかもこの学校によって利益を受けると想定される人数、 すなわち確実な生徒数もなかなか見通せません。本論の最後に述べるフライエ・アルタナティーヴ・シューレが認可 を求めるときの理由は特別教育利益です。 私立学校のほとんどは、それぞれの設立趣旨に従い、カトリック自由学校同盟、プロテスタント学校連盟、自由 ヴァルドルフ学校連盟、ドイツ田園教育舎連合、ドイッ私立学校協会のいずれかに属しています[Qり肩①足民昌①已℃]。 旧西ドイッでは私立学校に通う生徒数は一九八七年で約四〇万人です。これは全生徒数の約五%です。 , 小学校段階での概数では私立学校の生徒は全生徒数の約一%です︵一九八七年︶。その八〇%は︵前述のカトリッ ク自由学校同盟又はプロテスタント学校連盟に属する︶宗派学校の生徒です。残り二〇%がその他の私立学校に通っ ています[<oσqoご゜次5①毛]。 本論で取り上げるのは小学生の約○・二%が通っているこの﹁自由学校﹂です。なお○・二%という数値は小学校 段階だけのものですが、以下の学校説明では小学校段階に限りません。 一一、﹁自由学校﹂ 校 酵 本論では、。,§に従い、カリキュラムや授業方針だけでなく学校の雰囲気そのものが通常の公立学校とは異な 鳴 る学校を﹁自由学校﹂と呼びます。それは大きく二つに分類されます。まず一九世紀末から今世紀三〇年代はじめま ド 栂 での﹁改革教育運動﹂から成立した学校です。次いで今世紀七〇年代以降設置されたフライエ・アルタナティヴ・ シューレです。両者とも多くは私立学校です。 一九世紀後半の学校教育にたいする批判は、当時の学校が、 ・子どものさまざまな活動を有機的に把握していない、 ・教材が子どもの興味や発達とは無関係に構成されている、 ・教科が子どもの思考能力の発達を配慮しないまま導入されている、 ・ほとんどの教科で、余りにも多くの内容が教えられ、子どもはそれを消化できない、 ・言葉を使って教える︵知的学習中心の︶教科が多すぎる、 @5 ・学校教育の中で子どもの個性的、自己管理的活動が認められていない 1 る 三 @ことに向けられていました[民言ゆ而ロF①]。 1 55 四 一九世紀の中ごろすでに﹁新しい学校﹂を主張する学者もいました。たとえばアドルフ・ディスターヴェークニ 七九〇∼一八六六︶は硬直したヘルバルト的学校教育にたいして、﹁新しい学校﹂を対置しました。それは次のよう な学校です[○﹃Oエユ06犀已゜Q力O庁已=N㊦]。 ・新しい学校は、自分でみる、自分で考える、祈る、働くことを教える。 ・新しい学校は、生きている認識を教える。 ・新しい学校は、人間の全体的な発展をめざす。 ・新しい学校は、人間の能力を多面的に形成する。 に 良 ・新しい学校は、自然の中での生活を重要とみなし、自然における真実の観察と理解を貴ぶ。すべての点にお これは教育界内でのいわば教育議論の域をでませんでした。﹁古い教育﹂、﹁古い学校﹂への批判が具体的となり、 ・新しい学校は、行為の学校である。 次 いて生活のための教育を求める。 山 栗 社会的に大きな趨勢となったのは﹁改革教育運動﹂においてでした。 この教育運動は﹁子どもからの教育﹂をモットーとしています。子どもや婦人の権利擁護で有名なエレン.ケイ ェ四九∼一九二六︶の﹃子どもの世紀﹄︵一九〇〇年出版︶が契機となりました。彼女は﹁子ども中心﹂の学校 ︵一 を求めたのです。それ以来﹁新しい教育﹂を求める運動がヨーロッパ各地、アメリカ合州国で盛んとなりました。そ れをうけて一九二一年フランスのカレーで第一回新教育国際会議が開催されました。その中心テーマは﹁子どもの創 造的自己成長﹂でした。そこで﹁新教育協会﹂の設置が決まりました。 その協会の基本方針は大きく四つにまとめることができます[]︿一①ゆO︼ρ已゜①゜]。 ・子どもの内発的能力を尊重する教育をめざす。それ故に、﹁教師は子どもの独自性に精通し、それを尊重し なければならない。子どもの力というものは内から外に向かう、それは子どもの知的、感性的能力に活動の 場を与える授業によってのみ発達する、この二点を教師はいつも念頭においておかなければならない﹂。 .多面的で全人的教育をめざす。新しいタイプの学校は、﹁子どもの心の内に成長してきた関心を正当に評価 するところから出発する。そこでは知識の伝達、感性と人格の形成が求められる﹂。 ・学校共同体は自己管理でなければならないし、﹁子どもと大人が協力して作り上げるものであり、共同して 運営されるべきである﹂。 校 .教育の新しい精神は﹁我欲的な競争を避け﹂、協力関係による教育の中で、﹁強制によることなく社会に役立 酷 っ事柄はなんであるかを学び得るような共同創造のセンスを獲得する﹂。 ㎎ これらの新しい教育観には当時の︵医学、発達心理学、社会学など︶諸科学の進展、︵青年運動や労働運動などの︶ ド 秒 社会運動が反映しています。また優れた教育実践家も生まれました。これらが因となり、果となり改革教育運動は広 がっていったのです。 ドイッで改革教育運動として知られているのは田園教育舎、モンテッソーリ学校、ヴァルドルフ学校、フレネー教 育、イエナ・プラン学校です。これら全ての学校に共通する方針というものはありません。大まかな傾向は指摘でき ます。次のような主張や実践です[δら3=°po力肩貝cd。庁﹁“od。﹃9①﹁;°p⑦⇔ρ]。 ・知的学習だけでなく、芸術的、技能的学習を導入する。 ・教科横断的な学習領域を確保する。 ・個人的作業、パートナー作業、グループ作業において自分で成長していける力を育てる。 @ ・成績は点数化しない。報告によって示す。 15 る 五 5 3 1 @ ・能力や年齢を基準としない学習グループをコアとする。 ・学習、経験の場を学校︵クラス︶に限定しない。 ・子ども独自の活動を尊重する。 三、モンテッソーリ学校 六 イタリア人の医師であり、教育者であり、平和運動を進めたマリア・モンテッソーリ︵一八七〇∼一九五二︶の教 育観に基づく学校です。 ロ 良 彼女は医学を学んだ後、知能の低い子どもを預かる施設に勤務しました。そこでの経験から子どもの興味を引く教 次材を幾つも考案しました・木で作った立体のアルファベ・ト文字もそのひとつです。これは子どもに文字の練習をさ 山せるためでした・それらの教材を使った教育が非常にうまくいきました・いわゆる﹁知恵遅れ﹂と呼ばれている子ど 栗もも自分の中にある能力を自覚していけば普琵と同じような学習成果をあげ得る董を婆は一不したのです。人々 はそれを﹁奇跡﹂と呼んだといわれています。彼女は次第に普通児の教育に関心を移していきました。 モンテッソーリは一九〇七年ローマで或る学校の校長になりました。﹁学校﹂といっても貸しビル業者が貧民街に 持っているアパートの住民の子どもを﹁収容﹂する施設でした。二才から七才までの五〇人の子どもが壁を汚したり、 ものを壊したり、周囲に迷惑をかけたりしないように見張るために雇われた校長でした。雇い主は部屋を確保してく れただけで、教材やおもちゃのためのお金は皆無でした。この学校の名前は﹁子どもの家﹂としました。 彼女は福祉団体の協力をえて、机、椅子、鉛筆、紙などを揃えました。以前からの教材に手を加えて、ここでも使 用しました。使用したというより、教材を扱う子どもの関心を妨げないで反応を見守るという方針でした。 由 彼女の人柄、教材の優秀さ、面白さが重なり、﹁子どもの家﹂の生徒たちは﹁学ぶこと﹂に大きな関心を示し始め ます。その契機はモンテッソーリが子どもたちに敬意を払っており、それを感じた子どもが自分はしかるべき位置に いるのだと知ってきたからだと言われています。子どもたちにとってはそれが新しい経験だったのです。 彼女の教育実践は評判となり、﹁子どもの家﹂は増えていきます。その中で彼女自身の教育理論も次第にまとまっ てきました。その基本方針は、子どもにはある事柄に興味を持つ特定の時期︵﹁敏感期﹂︶というものがあり、その時 期に大人の側からいろいろ押しつけてはならない、その興味にふさわしい教材を与えて生徒自身の自己発達を促すべ きだと言うものです。 彼女の理論と実績が彼女の回りに多くの実践者を集めました。モンテッソーリ法、モンテッソーリ教材を使って就 学校 学前の子どもを教育する学校がイタリアからアメリカ、ヨーロッパへと広がりました。特にイギリスでは大きな反響 舶 がありました。一方では、モンテッソーリ法は科学的でない、直観的すぎる、むしろ宗教的ですらあるという批判も ものです。 〇〇校の﹁子どもの家﹂、三〇校のモンテッソーリ学校があります。そのほとんどは小学校です。次の例は例外的な ドイツでは一九二四年に最初のモンテッソーリ小学校が開講しています。一九九〇年現在で︵西︶ドイツには約一 テッソーリ自身はイタリアを出て、スペイン、オランダ、インドと居住を変えました。 されるようになりました。モンテッソーリ校の教師はファシスト政権に反対しているというのが理由でした。モン ファシズムの時代、イタリアではモンテッソーリ校は当初ムッソリニ政権とうまくいっていましたが、次第に閉鎖 秒 多く語られました。 ド 醜 七 1 四、私立アンナ・シュミット校 15 八 一八八六年創設の女学校を基礎としています。校名は創設者の名によっています。一九三二年には女子高等部まで 備えていましたが、ヒトラー政権下で私立学校への締め付けが始まり、閉校を要請されます。多数のユダヤ人学生が いたので特に大きな困難がありましたが、一九三八年までユダヤ人生徒を受け入れていました。一九四四年連合軍の 空襲で破壊され、一九四八年再建。一九九〇年現在で、 モンテッソーリ子どもの家︵三∼五才︶::::::生徒数 八二人 モンテッソーリ学校教員の養成機関を併設しており、年間五〇人の教師を養成しています。また国際理解や国際協 から構成されています。 普通︵伝統的︶中・高等学校︵五∼=二年生︶・:・:生徒数七六五人 モンテッソーリ小学校︵一∼四年生︶・:・:::::生徒数 七六人 ロ 良 普通︵伝統的︶小学校︵一∼四年生︶::::・:・:生徒数一一五人 次 山 栗 力、人権と自由の尊重をかかげており、ユネスコのモデル校となっています。 この学校のモンテッソーリ小学校は一九六九年に認可されています。そこでは年齢別でない学習グループを基礎に しています。年齢別でないのは、年少者は年長者に助けてもらえるし、年長者は学んだことを確認しながら、次のス テップに進んでゆけるように配慮したためです。どのようなテンポで授業を進めるか、どの授業内容をどの段階にい れるかは教師が子どもの状態を見ながら決めていきます。全般的にいえば、子どもの集中力、相互協力の態度は他の 学校の生徒より大きいと評価されています。 教師は総計七一人。一九八六年現在で総支出の約半分を州や市からの援助に頼っています。生徒の親は入学金、授 業料を負担しますが、授業料についてみると、生徒一人あたり月約二〇〇マルクです[ζ①箒日]。 五、ヴァルドルフ学校 創始者アドルフ・シュタイナー︵一八六一∼一九二五︶の名を冠してシュタイナー学校とも呼ばれています。﹁自 由学校すなわちヴァルドルフ学校﹂と考える人がドイツにもたくさんいるくらいよく知られています。日本でも広く 紹介されています。 シュタイナーは哲学者、自然科学者、社会改革家として活躍しました。その人智学は人生を七年間リズムによって 学校 四区分して把握します[民訂㈱゜Pリンデンベルク等]。 由 ㎎ 1 物理的身体 無機的世界と共存し、規範を模倣する段階である。 3 感性的身体 苦痛と快楽、衝動と欲望と情熱の時期である。動物世界と共存し、自立的判断を形成す わ 2 生活的身体 植物や動物と共存し、権威に服従し、権威の見方を内的に受け入れる段階である。 ド る段階である。 4 自我身体 より高い人間の魂の時期である。人間にのみ特有であり、自我によって前記三段階を純化 する段階である。 ヴァルドルフ学校のカリキュラムはこの世界︵発達︶観に従って構成されています。 彼は一九一九年シュトッガルトのヴァルドルフ・アストリア煙草工場内にそこに働く若者のための学校を開きまし た。それは人智学に基づいた方針で、五感によって得られる世界を越えた新しい認識機能を体得しようとする試みで ゆ @5 した。そのために導入された実践は、 1 九 @ ・エポッへ︵周期的集中︶授業−一定期間一つのテーマにしぼった授業を行う ー49 ・手を使う授業ー実生活と結びついた園芸や技術の授業 ・オイリュトミー 言葉と音楽と体の動きを一体化した授業 ・芸術教育の重視 ・外国語教育の早期導入と強化 などでした。その学校では点数による成績評価を廃止し、生徒の成長を報告形式で示しました。 一〇 彼の新しい実験は広がりつつありましたが、一九三八年ナチズムによって閉校させられました。戦後すぐに再開さ れた学校もあります。それ以来少しつつ増加し、今では大きな社会的、教育的評価をうけています。前述したエポッ ロ 良 へ授業や外国語教育の早期導入などは現在の公立学校でも採用されています。 山 次 一九九〇年現在で旧西ドイツ地域内に八〇校以上あります。一九九三年現在で旧東ドイツ地域内にすでに五校開校 栗 したと言われています。 六、マールブルク自由ヴァルドルフ学校 ヒトラー政権下で閉校させられた学校の一つで、一九四五年アメリカ占領軍当局が再開を要請して活動を再開しま した。教育の眼目に全人的教育をかかげる一種の総合制学校です。教師と親の代表から構成される幹事会が経済的、 組織的権限を持っています。教員会議には大幅な自主管理が認められています。生徒の持つさまざまな教育上の問題 を解決するためにこの学校が特に力を入れているのは、親の会の開催と教師の家庭訪問です。 生徒は一学年から=二学年まで約五〇〇人、教師は約四〇人います。クラスは学年︵年齢︶別に構成されています。 由 この学校の教師の給与は公立学校教師の約八〇%程度です。この点について言えば、どのヴァルドルフ学校でも事情 は同じです。 一九八三年現在で支出は二七〇万マルク。多いのは人件費で一八八万マルク、他は建物、設備に三六万マルク、教 材に二一万マルクなどです。生徒一人あたり年間五千マルク強の経費をかけていることになります。州や地区からの 援助が約七〇%、生徒の親が約三〇%負担しています。それは生徒一人当り月約一二〇マルクとなります [] ?@口6日]。 搬 七、フレネ教育 彼の教育方針は次のようにまとめることができます[次訂㈱。昌L︶一6村26]。 わ 彼のスローガンは﹁生活から、生活のために、仕事を通して﹂でした。 媚 フランスの教育者セレスタン.フレネ︵一八九六∼一九六六︶はその作業学校論や自由作文教育で知られています。 ド ・授業に学校周辺の自然環境、社会的、政治的現実を取り込む。子どもの生活実感を生かした授業を行う。 その点では一種の共同体学校である。 ・生徒の活動の中心に作業をおく。生徒個人で、またはグループでそれぞれの興味に従って調べ、作り出す ことを授業の中心におく。﹁作る﹂対象は﹁もの﹂だけではない、芸術的な行動をも含む。結果をクラス 全員に示すのも授業の重要な要素となる。 一一 ・自由な表現を重視する。子どもはその体験、感情や夢、知ったことや行ったことを自由に作文や絵、時に @ は体を使って表現することによって、自分の問題を自分の手に握り込む契機とする。 14 @ ・個人が責任を明らかにするのがクラス成立の原則である。 4 7 1 ・決定は民主的に行う。教師と生徒が共同で一週間内の作業や授業を決める。 一二 ・教師はフレネ学校全体のために協力する。フレネ学校教師は定期的に会合を開き、個別学校を越えた協力 関係の中で教材を開発し、検証し、改良を重ねる。 フレネ教育では、教室はまず体験の場です。自立的な、他の生徒とは異なった存在をアピールするためにいろいろ 工夫をこらします。よく知られている実践は、 ・自由作文をすすめ、学校︵クラス︶印刷所を作る。 ・理科、技術、絵などに関する進行例、成功例、失敗例をまとめて、目録化する。 ロ 良 ・相互批判、情報交換のために壁新聞を作る。匿名は認めない。 山 次 などです。 栗 ドイツには現在フレネ学校はありません。公立学校内でフレネ教育を進めている教師はときどきいます。 八、イェナ・プラン学校 ペーター・ペーターゼン︵一八八四∼一九五二︶は当時の﹁新教育﹂運動理論のドイツにおける第一人者と言われ ていました。彼はイェナ大学に教育学の教授として呼ばれてまもなく、大学付属の実習学校をまかされます。一九二 三年のことです。彼は改革教育運動のさまざまな教育実践の総合をここで試みました。それは﹁作業・生活共同体学 校﹂の実験です。彼は一九二七年ロカルノでの﹁新教育協会﹂会議でこの実験方針を報告しました。それ以来彼の構 想は﹁イェナ・プラン﹂と呼ばれるようになりました。 イェナ・プランは次のような内容です。 ・クラスは年齢の異なった生徒によって構成される。これで﹁進級﹂がなくなり、学校生活の中で占める ﹁学業成績﹂の比重は軽くなる。 ・学校生活に一週間単位でリズムを与える。そのために遊び、会話、お祝いなどを導入した教育状況を形成 する。 会話ll小グループでの話し合い、報告会など。 遊び 自由遊技、学習遊び、芝居など。 校 お祝い 週末祝い、誕生会、入学のお祝いなど。 蝉 .家庭的雰囲気を持った教室にする。教室の模様作りを生徒に任せて、家庭での.居間﹂のような感じにさ 媚 せる。 ド わ 知的な学習や訓練の行き過ぎを反省し、社会的な活動、経験を重視する方針がここでも見られます。これらによっ て学校は子どもの興味を引くようになり、多面的な活動に開かれた場となって行きました。 ペーター・ペーターゼンは二五年間にわたってイェナ大学実習学校を主宰しました。その影響は大きく、一時期に はイェナ・プラン学校は六〇校にも及びましたが、戦後しばらくして急激に減少しました。旧西ドイッ地域内で五校 という時期もありました。近年また増えつつあります。一九九〇年現在で旧西ドイツ地域内に一四校あります。 イェナ・プラン学校は一つの世界観に基づいた教育方針を持っているわけではなく、﹁子ども中心﹂の学校運営を めざしているので、その性格を少しずつ変えてきております。現在ではフレネ方式を採用したり、モンテッソーリ教 材を取り入れたイェナ・プラン学校が多くなっております。 撫 一三 5 九、ケルン市立ぺータ・ペーターゼン共同体小学校 14 一四 これは一六二二年設立されたプロテスタントの教育施設を母胎としていますから由緒ある学校といえます。一九六 八年以来市立の共同体学校として生徒を受け入れています。生徒数は一∼四年生約三〇〇人です。労働者地区にあり、 七〇年代から外国人の子どもが増加しました。一九九〇年現在で生徒数の約半分は外国人の子どもです。それが学校 生活にも反映しています。教師は一五人。 この学校では子どもの社会的能力をのばすために、一方では個性化を、他方では統合化をめざしています。採用し ている﹁学校生活﹂方針は次のようです[民冨㈱①ロ]。 ロ 良 ・クラスは解消して、一、二年生と三、四年生の二つの学習単位を作る。 次 ゜それぞれの学習単位内にいくつかのグループを作りそれが授業や朝の会の核となる・ 山 栗 ・グループ作業を取り入れる。 ・︵ケルン、南ドイツ、トルコ、ギリシアなど︶ドイッ内外の姉妹校と文通、連携する。 ・週の初めと終わりにお祝い会を開く。 ・学校祭、夏祭などを親と教師で開催する。 ・廃品回収などで学校を経済的に支援する。 ・親に授業に来てもらう。 学習に関しては次のような方針です。 ・週間作業ll週の初めにその一週間内にやること、やりたいことを決定する。 ・プロジェクト授業−ーチームを組んで一つの作業を協力して進める。対象としては技術科、家庭科に関す る事柄が多い。 ・使用教材 モンテッソーリ教材が多い。 ・教室区分ー本棚などで勉強コーナー、遊びコーナー、休みコーナーなどに分ける。 この学校は公立なので親の負担はありません。私立のペーター・ペーターゼン学校でも親の負担は月二〇〇マルク 程度のようです。 十、田園教育舎 校 蝉 新教育運動竺九世紀末から盛んとなった青少年運動︵ワンダ←オゲル運動︶や芸術教育運動を背景としていま ツ ヘ 口 す。田園教育舎は青少年運動の具体化の一つです。 ド ゲ この運動の中、也人物はヘルマン.リーツ︵一八六八∼一九一九︶です。彼は富農の子として生まれました。高校生 時代に体罰教育や都市生活での道徳的退廃にそまった同級生を見て、当時の教育に幻滅しました。一八九一年イェナ 大学卒業後、いろいろな学校で教壇に立ち、青年の実態を経験しました。その間に教室での授業を中心とした学校で はなく、二四時間をともに過ごし、共同生活の中で人格教育をめざす寄宿舎学校の着想をあたためてきました。 一八九八年初めての田園教育舎を設立します。これは八才から一六才まで七人の子どもで始まった学校です。次第 に生徒が増加し、一九〇一年には第二の、一九〇四年には第三の、一九一四年には孤児田園教育舎を設立しました。 この四校とも開校は彼の誕生日に合わせています。リーツの大きな自負がうかがえます。 彼は第一次世界大戦には四六歳で志願兵として従軍しています。ドイツの敗戦後一九一九年に死亡しました。五一 る @ 才でした。 14 一五 @ リーツが田園教育舎に求めたのは、 4 3 1 ・田舎における共同生活において健全な人格の形成をめざし、 ・知的教育偏重を見直し、身体活動や実技的知識の獲得に力をいれ、 ・健全な国民教育を確立する ことでした。 一六 田園教育舎では年齢の異なる数人の青年がグループで共同生活をします。各グループに教師が一人ついていて、彼 は﹁父親﹂の役割をはたします。 学校の授業では、 ロ 良 ・身体活動に関しては 持久走、水泳、自転車走、スキーなどを、 を課しました。 ・芸術教育に関しては 唱歌、絵画、彫刻など 次 ゜実際的技術に関してはi農作業備品工作園芸土木作業などを・ 山 栗 田園教育舎運動は民族主義的傾向を有していました。かなり早い時期にユダヤ人学生と衝突を起こしたこともあり ました。男女別学が原則でした。リーツ死後ですが、ナチスが政権についてすぐ、一九三三年九月には田園教育舎教 師連盟はナチス教員連盟に加入しています。 当初はリーツの教育実践に協力的していたが、後に立場の違いから別に田園教育舎を設立した教師もいます。現在 よく知られている田園教育舎は、そのような教師の一人であるパウル・ゲへープ︵一八七〇∼一九六一︶が主宰して いたオーデンヴァルト校です。 田園教育舎は授業料が高いこともあって、大きな広がりを見せていません。一九九〇年現在で一五校あります。 由 十一、ブルク・ノルテック田園教育舎 一九二六年設立。当時は六∼一六才の生徒四〇人を受け入れる寄宿舎学校でした。第二次世界大戦後アメリカ軍の 一七 命令で閉鎖されましたが、一九四七年再開されました。一九七三年中・高等学校として認可されました。現在は一〇 ∼一八才の生徒=一〇人がいます。教師は二〇人。 一日の日課は次のようです[od㊦宮2ρ]。 六時 女子起床 六時一五分 男子起床 学校 六時四五分 朝食 帽 七時二〇分∼九時五五分 授業、四五分授業で一∼三限 一〇時二〇分∼一二時五五分 授業、四∼六限 わ 九時五五分 朝の軽食 ド =二時一五分 昼食 一四時三〇分∼一七時四五分 自由時間、補習授業、自習 一八時 夕食 一八時三五分 自習 一九時二〇分 自由時間 二〇時 入浴 @ 二〇時四五分 消灯︵学年によって異なる︶ 14 一八 @ 授業の進め方は、少人数クラスや教師の数を別にすれば、公立学校と同じです。カリキュラムでは﹁一人前の市 1 41 民﹂を育てるために、前にみたように、公立学校よりも実際的技能、芸術教育、手仕事を尊重しています。 生徒の中には目の不自由な子どもや﹁不良﹂と呼ばれて、家では手におえない子どももいます。木曜日にはグルー プ毎に﹁家族会議﹂が開かれ、グループ内の問題がすべて話し合われます。子ども達が実家に帰るのは月に一回です。 共同生活を送る上で最小限度の事柄が﹁きまり﹂として決められています。アルコールは厳禁、喫煙は大幅に制限さ れています。﹁きまり﹂がきついとか、年上の人が少ないので、頼れる人がいないなど、子どもたちにはいろいろ不 満があるようです。 田園教育舎をエリート校の代名詞のように解する人もたくさんいます。それは授業料が高いからです。ブルク・ノ ロ 良 ルテック校の生徒は月二〇〇〇マルク強負担しています。 次 、 山 ζ①吟↓6§はシュタインミューレ田園教育舎の経理を報告しています︵一九八四年現在︶。それによれば、その学校 栗 は生徒数五一〇人、教師は四三人。寄宿生は二五%で、七五%の生徒は通学生です。一年間の支出は約三二〇万マル ク。そのうち二五〇万マルクが人件費です。収入は公費から五九%、親の負担は四一%で約二二〇万マルク。生徒一 人当たり月二〇〇マルクです。寄宿生はそれに加えて生活費に約=二〇〇マルク必要です。ですから月一五〇〇マル ク払うことになります。 十一一、フライエ・アルタナティーヴ・シューレ 前述した自由学校は三〇年代までに成立した改革教育の実践校でした。またこれらは強い個性、主張、実績を持っ た教育︵学︶者に主導、主宰された学校でした。それから半世紀、二度の世界大戦を経験した後、七〇年代になると これらとは別の自由学校が作られるようになりました。これは、 ・六〇年代後半から七〇年代初めにかけての学生運動やオールタナティヴ運動 ・アメリカ合州国やヨーロッパでのフリースクール運動 ・デンマークでのトゥヴィント校、スペインでのベンボスタ子ども共和国などヨーロッパ諸国でのオールタ ナティヴ学校運動 ・イバン・イリッチに代表される脱学校論 などの影響をうけて、教師と親が中心となった市民運動を背景として生まれた学校です[08庄①6パロG。合巨NΦ]。 校 当時西ドイッでは学校教育がさまざまに論じられていました。そこで語られた教育論を紙の上に終わらせず、自分達 畔で具体化しようと志す市民王導の教育運動でした。これはさまざまな社会運動を経験した上での整目運動であり社 舶 会批判的傾向を強く持っていました。これはフライエ・アルタナティヴ.シューレが改革教育と性格を異にする点で ド 各地に作られた自由学校設置団体は、それぞれの成立事情を反映して種々の主張をしています。それをまとめると わす。 次のような学校批判が指摘できます[①丁工]。 ・教育政策的批判 現在の教育政策では教育の構造が見えなくなっている。 ・学校発達史的批判 子どもにとって学校は日常生活と切り離された、いはば特別な意味を持つように なった。 ・教育的批判 学校では実際の労働から離れた、抽象的な知識のみが伝達されている。 ・社会的批判 学校という機構の中で子ども、教師、時には親の行動も大きく制限されてしまった。自由 @ な個性の発展は人間の基本的な権利であり、文部当局によって制限されるべきではない。 14 一九 @ ・心理学的批判 成績至上主義によって子どもの全人的成長、自己実現は阻害されている。 3 9 1 ・社会政策的批判 学校は現体制への適応能力を育てる制度である。現状の学校制度では民主的社会参加 の能力は育たない。 ・授業批判 授業は生徒の関心を顧慮せず、大人の決めた速度、順序で進められる。このままでは授業は 退屈で、学校は選別機能をますます強める。 このように現在の学校を批判する市民運動が作ろうとするのは、 ・全人的︵知的、社会的、情緒的︶教育を進め、 ・関係者による自己組織であり、 に 良 ・個人的決定を尊重しながら、共同決定にしたがって運営される 具体的にはこれらの学校では、 う一つ別の学校﹂と規定しているのです。 次 学校です。これらは今までの学校の組織、構成、カリキュラムとは大幅に違います。その理由で自分達の位置を﹁も 山 栗 ・規模 教師も生徒も学校全体を見通せる規模です。 ・教育方針 民主的な市民を育てる場として、反権威主義的教育に徹します。 ・年齢混合クラス 年齢別クラス制をとりません。子どもはどこかのグループに入りますが、そのグルー プは固定したものではありません。別のグループの授業を自由に受けることができます。 ・カリキュラム 固定した授業時間割を持ちません。子どもの生活リズムは個々の子どもで異なるからで す。カリキュラムは教師と生徒が話し合って決めます。 ・授業内容 プロジェクト授業を採用しています。教科別授業はできるだけ避けています。 ・学校生活 学習と生活を結び付けようとします。﹁学習工場﹂を放棄して、家庭的雰囲気の中で学習を 進めます。そのためにどの学校にもマットレスを持ち込んだ教室が一つはあります。 ・非選別機能 テストや点数評価はありません。生徒の知的、社会的、情緒的成長について﹁学校報告﹂ を書きます。 ・親も学ぶ学校ー親が積極的に学校に参加します。 フライエ・アルタナティヴ・シューレは文部当局の教育方針とは大きく異なる上に、その成立事情から﹁緑の党﹂ ︵又は﹁アルタナティヴェ・リスト﹂︶と近いこともあって、当局からはなかなか認可されません。現在は小学校段 校 階が主です。一九九二年現在で活動しているのは一八校、そのうち認可されているのは十一校です。一校だけ公立学 蝉校で、他は私立学校です。生徒数は+八校全体で九百人余りです。 帽 フライエ・アルタナティヴ・シューレの最新報告の編者は、この学校こそが子どもをよりまじめに受け取っている ド わ のであり、この学校の改革的並びに問題提起的機能がドイツの教育風景の重要な要素になっていると述べています 百已且6°・<2冨且工2即四8≧辞①日豊くω9巳①巳。 この学校は、本論の﹁はじめに﹂で述べた私立学校団体のどれにも加入していません。独自の協会を設置する意見 もありますが、まだ成立していません胃露⑦一①]。 十三、ベルリンのウーファ・ゲレンデ自由学校 ワイマール共和国時代の有名な映画会社ウーファ社の跡地を一九七九年空き家占拠グループが占拠し、コミュニ @ ティを作りました。その敷地︵ゲレンデ︶内にベルリン自由学校は入っています。この学校は一九九〇年十一月に認 13 二一 @可されました。それまでに次のような経緯がありました。 3 7 1 七八年 ﹁私立学校設立協会﹂が西ベルリン市に私立小学校設立の教育方針を提出。 七九年六月 協会の構成員︵教員︶がウーファ・ゲレンデ占拠に参加。敷地内に校舎を確保。 八月 代用学校としての認可申請。 九月 学校発足。生徒の受け入れ開始。 二二 八二年 これまでに定期的に視学官の視察があった。この年或る教育心理学者の判断を中心にして、この学校に は﹁特別教育利益なし﹂と判定される。その結果七九年の申請は却下される。即時閉校の要請が出され ロ 良 れる。さまざまな分野の有識者が学校の存続を支持、擁護する。 る。﹁私立学校設立協会﹂はそれを拒否。世論の支援があり、ベルリン市議会文教委員会で取り上げら 八五年 これまでしばしば視学官の視察があった。その否定的判断によって暫定的認可の延長は不可能となる。 利益﹂を認め、八五年までの暫定的認可を決定する。 次 八三年+万ベルリン市文部大臣。ーリン女史︵キリスト教民主同盟︶は﹁私]拳校設立協会﹂に﹁特別教育 山 栗 生徒数激減。学校閉鎖の執行停止及び暫定的認可取り消し却下を求めて行政裁判所へ提訴。 八六年 行政裁判所判決、自由学校敗訴。まだ自由学校に子供を送っていた親を中心にして﹁ベルリン自由学校 協会﹂設立。新しい自由学校創設を目指す。 八七年 教育活動を続けながら、私立小学校設立認可申請。文部省は拒否の方針。政党、教会、文化団体、有識 者が支持の態度表明。ローリン文部大臣と直接交渉。 八八年 ﹁ベルリン自由学校教会﹂は暫定的認可をえる。 九〇年 二年間の暫定的認可切れをひかえてフォルコルツ文部大臣︵アルタナティヴェ・リスト︶による最終的 認可。 ベルリン自由学校は一つの﹁実験学校﹂です。その目ざすところは公立学校のそれとかけ離れているわけではあり ませんが、そこに至る方法が大きく異なります。他のフライエ・アルタナティヴ・シューレと同じように、ここでも 子どもの遊ぶ空間が重視されています。 この遊び空間の中では子どもの思い付きが尊重されます。それにより他の子どもとの相違や創造性が見えてきます。 子どもたちの感じている問題だけでなく、子ども個人の長所、短所も分かってきます。ところがこの遊び空間が子ど もに取っては負担となる場合もありますから、それを防ぐために、子ども個人はみんなと一緒に行動しない権利を持 校 つ点をはっきりと体得させておかなければなりません。 酷 授業では読み、書き、算には子ども自身のやり方で早く親しませます。地理、歴史、理科、美術などでは生徒各々 珀の閑心事に対応した授業を行っています。大きく丁三年生、四⊥ハ年生のニグループに分けています。 わ ウーファ・ゲレンデ内には家畜舎、芝居小屋、自転車修理工場、焼物や自然食品の店等がありますので、生徒はさ ド まざまな体験をすることが出来ます。スポーツには近くの公立学校の体育館を使っています。 現在は一∼六年生で四〇人の生徒を受け入れています。家庭的な雰囲気を保ちつつ、個々の子どもの成長を見渡せ るのはこの位の人数が限度だと自由学校は決めています。 スタッフは教師四人、補助者四人、教育実習生一人、計九人です。週一回は全員で授業の進め方について相談会を 開きます。この会には親も参加することが出来ます。 親の会は月に一回あります。子どもの発達について学年末︵七月︶に教師が親に詳しい報告書を渡します。 自由学校の年間必要額は学校によってまちまちです。認可されている場合はかなりの額が州から援助されます。一 団 番の出費は人件費です。認可されていない学校や経済的に基盤が弱い学校では教師にまともな給与が払えないところ 二三 二四 @フランクフルト自由学校では、生徒一人当り年六〇〇〇、月五〇〇マルクの経費です。州からの援助は生徒一人当 ぷ もあります。認可された学校でも教師に十分な経済的な待遇を与えているとは言えません。 @ 阡N二二〇〇、月一八〇マルクです。その差額に給食費を加えて、月三八〇マルクを親は払っています。 ° @ @ る 参考文献 潤B。貫]≦。﹃。ご己﹄。°・オp司①∋6竺白り6﹃r≧↓。日①己く而ロ田合σq。ぬ︷。・合窪く置①σq。力6﹃昌pま゜・°・鮭艮﹀這。。N cd。貫室6訂。三即。庁。り6言一。q且買①日§°国○OZ↓‖汀口ひξ庁<。計σq日己゜・白・巴工a>這。。。。° @ @ 凬潤タ ≦き芭⋮ミo旨﹁ひ已。プエ而;臣。σq。ぽ。戸零曾①5Qり↓巨σq§二〇。。。。° B 郎co﹃日パ日①ロロ・○自口侍。﹃︵国﹃・力σq・∨乙力。庁⊆ぎ。エ。=⑦・﹀︸而ロ蝕⊆目く⑫﹃一①σq・×ぴ5[σq切白6一。\↓・,・お。。ρ 次ooo苫ぴ6昼者き守而工きエO°ユ6訂−民⊆霧⇔日自戸民①ユ﹃°力合巳Φ見合゜σq①oN①註゜窃切日﹂°烈゜・6庁雪↓96す6昌穿﹂合く旦①ぽq“ウ日昇旨詳①日 c。⊂且2<2訂巳合﹁即巴6口≧甘∋旬ユ<°・音片﹃即6穗≧↓Φ∋旬⇔目合巳。ロO日合窪く旦①σq“宅恥=﹁①富訂56見ド8N° Z一F 三N<昌≧甘ヨ①↓S6言冨戸力。き9↓霧。庁gげ已。庁く旦①σq痴而﹂且。6戸ひ。﹂曽日丁ξσq三零o° ︶ 山]≦巴戸おべ㊤゜ 栗 ρ。合。鼻Z。﹁ず象旨工白。6ゴ己⇔Np=巨。巨゜・︰穿↓°。。庁已巨這゜・工葵5°・︹8已且≧吟。∋呂︿。・合巳Φ白]﹃Qのτ一ゲp国日゜・⇔b目⇔6ロミ巨“9エ゜・︹ 印N︷6庁旨σq。・呈゜・ω。96訂︷ごodエ、°。。﹀ 。音已註宅旨゜・合p×。目註︵=訪σ。°︶︰卑N雲§σq目言σ。6且①締5。巨乱§言︷m﹁°匿①⇔+9§”。力↓⋮σq§三〇。。ω.︵穿N鴇ざ玉工↑。 δ知ゆ。p↓﹃。エ。﹁司‘。り匹而昼国宮3言己已乱司賦。宮。炉じ。⑦日△︵零゜・σq°︶⋮=昌穿⊆合ユ2己。§宴合σq。⑯ロ6す窪已昆巴Φ日昌く自。力合・﹃ 日曽﹁。廿①﹄已σQ9・冨﹁。︷乙力。ぎえ。Tb。①=日③自゜・き一﹃二〇8° 家胃庁。︷︷卵而σq∼g︰>S旬巨。巳障⑦団巨。プ巨σq°綱一゜・°・9ω。訂︷己民冨じdζ合西。ω⑦房。冨#9自。・冨告“お。。ピ 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<Oσq6一]O庁①づロ勺O⇔①﹁︰カm6庁己一6すOカ①庁日Oロ 一コ⋮乙り吟GP国6パ6庁①隅︵=﹁o力加゜︶⋮♂<障σq﹃酵ロ鮎O目O[50守巾庁Q力Oプ已甘゜○①工=6ぺ日①づ昌oりくO工 夢己p室巨゜・七。§0[。己〒○。巨庄合蚕二6;N。・。]﹃ロま巨σq§匹同旦⑫言ひσ。°]σq°台︵一㊤○◎↓︶“Z﹁°♪c。琶§<Φ旨σq“民o言ロp ひ も リ コ 自N邑O民皆︾㊥o甘竺≧穗日餌吟含oQ力合巳oロ゜コ白・6庁震↓9合3ひ已o庁くm﹃言σq“ブ墨昌ζ已ご日ζ巴戸品Q◎N 二五 校×Oま已①.お゜。O 麟≦量力・冨05・エ①エ・﹃・ぎエ2≧需・肩§σ・⋮﹃日白・警皆・量゜・ー°ピ亘巴恥σ・旨5﹃§ふ゜ ツ の ブリッツ・カルゼン著、小峰総一郎著訳﹃現代ドイツの実験学校﹄.明治図書、一九八六年. イ 梅根悟編﹃世界近代教育史﹄ 黎明書房、昭和三七年. ド 大沼安史著﹃教育に強制はいらない﹄.一光社、一九八二年. リタ・クレーマー著、平井 久監訳﹃マリア・モンテッソーリ﹄新曜社、昭和五六年. ゲオルク・ケルシェンシュタイナー著、高橋 勝著訳﹃作業学校の理論﹄.明治図書、一九八三年. 須郷登世治著﹃ドイツ憲法の解説﹄.中央大学出版部、一九九一年. 堀真一郎編著﹃世界の自由学校﹄.麦秋社、一九八五年. ヘルマン・ノール著、平野正久、大久保智、山本雅弘著訳﹃ドイツの新教育運動﹄.明治図書、一九八七年. ヘルマン・リーツ著、川瀬邦臣著訳﹃田園教育舎の理想﹄.明治図書、一九八五年. 宮沢俊義編﹃世界憲法集﹄.岩波文庫、一九七六年. 村田栄一、里見実共著﹃もう一つの学校に向けて﹄.筑摩書房、一九八六年. 4 クリストフ・リンデンベルク著、新田義之、新田貴代訳﹃自由ヴァルドルフ学校﹄.明治図書、一九七七年. 13