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本文 - 岩手県
ごあいさつ
平泉文化フォーラムは、平泉文化研究の先端的調査研究成果を公開する場として、
平成 12 年度から開催しており、今回で第 15 回を数えます。岩手県と県内の大学等
の高等教育機関で構成されます「いわて高等教育コンソーシアム」、岩手大学平泉文
化研究センターとの共催で開催いたしております。
今回は、歴史学や考古学、科学分析なども含めた多方面から多角的な研究に取り
組んでいただいている平泉文化共同研究の成果を発表するとともに、中世考古学の
第一人者で、平泉の文化遺産の調査整備にも深く携わってこられた小野正敏先生か
ら、ご講演をいただきます。また、今年度実施された平泉関連遺跡の発掘調査の成
果についても報告を行います。
柳之御所遺跡を含め、平泉の文化研究はこれまでの多くの蓄積がありますが、今
後も様々な視点からの研究やその成果の公開が求められています。このフォーラム
が「平泉」の文化研究を進めていく上で今後の活動の一助になるとともに、参加さ
れました皆様の平泉文化へのご理解とご関心を深める機会となれば幸いに存じます。
平成 27 年 1 月 24 日
岩 手 県 教 育 委 員
会
い わ て 高 等 教 育 コ ン ソ ー シ ア ム
第14回 平泉文化フォーラム 日程 1月24日
12:30 受付開始 13:00 開会あいさつ いわて高等教育コンソーシアム、岩手県教育委員会、奥州市教育委員会
13:15 基調講演「平泉、鎌倉、一乗谷 -都市・館・威信材にみる武家権力」
小野正敏(前人間文化研究機構理事)
14:50 休憩
15:00 遺跡報告 白鳥舘遺跡の調査成果(奥州市世界遺産登録推進室)
15:20 遺跡報告 柳之御所遺跡ほかの調査成果(平泉遺跡群調査事務所)
15:40 遺跡報告 無量光院跡の調査成果(平泉町教育委員会)
16:00 研究報告 平泉の四面廂建物 荒木志伸(山形大学)
16:30 研究報告 院政期平泉の仏会と表象に関する歴史学的研究 誉田慶信(岩手県立大学)
17:00 平成26年度研究集会「アジア都市史のなかの平泉」報告 岩手県教育委員会・一関市教育委員会
奥州市教育委員会・平泉町教育委員会 1月25日(日) 9:00 受付開始
9:15 研究報告 12世紀平泉の暮らし 前川佳代(奈良女子大学)
9:45 遺跡報告 骨寺村荘園遺跡の調査成果 (一関市教育委員会)
10:05 遺跡報告 伽羅之御所跡ほかの調査成果
((公財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター)
10:25 休憩
10:35 研究報告 11世紀平安貴族社会における陸奥国の位置づけ 滑川敦子(東北歴史博物館)
11:05 研究報告 平泉藤原氏の権力基盤に関する基礎的研究・中間報告(2)
七海雅人(東北学院大学) 11:35 研究報告 日本国内における「平泉寺」について 伊藤博幸(岩手大学平泉文化研究センター)
12:05~12:15 質疑応答 12:15~ 閉会あいさつ
目 次
Ⅰ 基調講演 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1
平泉、鎌倉、一乗谷 -都市・館・威信財にみる武家権力
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小野正敏(前人間文化研究機構理事) 2
Ⅱ 発掘調査成果報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
7
白鳥舘遺跡の調査成果 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 及川真紀 7
柳之御所遺跡ほかの調査成果
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 櫻井友梓・伊藤みどり・岩渕計・大沢勝 9
無量光院跡 の調査成果・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 島原弘征・鈴木江利子 11
骨寺村荘園遺跡の調査成果・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鈴木弘太 13
伽羅之御所跡ほかの調査成果・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 杉沢昭太郎 15
Ⅲ 研究報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
17
平泉の四面廂建物・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・荒木志伸(山形大学) 17
院政期平泉の仏会と表象に関する歴史学的研究
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 誉田慶信(岩手県立大学) 21
12世紀平泉の暮らし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 前川佳代(奈良女子大学) 25
11世紀平安貴族社会における陸奥国の位置づけ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 滑川敦子(東北歴史博物館) 31
平泉藤原氏の権力基盤に関する基礎的研究・中間報告(2)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 七海雅人(東北学院大学) 37
日本国内における「平泉寺」について・・・・・・・・・・ 伊藤博幸(岩手際大学) 42
Ⅰ 基調講演
平泉、鎌倉、一乗谷 -都市・館・威信財にみる武家権力
小野 正敏
小野正敏先生略歴
1947 年生。一乗谷朝倉氏遺跡の調査に関わった後、国立歴史民俗博物館教授、人間文
化研究機構理事を歴任。平泉遺跡群調査整備指導委員会委員として、平泉遺跡群の調査
整備の指導を行っている。主要著書に『戦国城下町の考古学』(講談社)、『図解日本の
中世遺跡』(編著・東京大学出版会)ほか
−1−
1 「中世考古学」と平泉研究
1)「中世考古学」の発見;草戸千軒町遺跡は、考古学が初めて中世の町を発掘した調査だっ
たが、比喩的に言えば、これが「中世考古学」の発見でもあった。
・人びとが生きた空間としての都市、町、村、あるいは城館論、
・人びとの生活を支えた生活財としての「遺物」論、
・一律・均質でない日本列島のひとの生き様が見える歴史像
2)二項対立ではなく他の地方や「都」を意識、相対化すると明瞭になる「東国」、その視点
を明瞭に位置づけたのが「平泉」である。
中世に新たな時代の新興勢力となった武家が、東国で武家政権を成立させていく過程を明ら
かにしたのが、平泉であり、鎌倉である。
その遺跡や遺物には、武家の権力原理とアイデンティティーが表現されており、そこにはい
つも都と東国奥羽の間でゆれる姿がみられる。この様子を都市・館・威信財をキーワードにみ
てみよう。
2 平泉にみる都と東国奥羽の意識
1)平安京の変質が生んだ平泉
10 世紀後半から顕著になった古代律令国家の象徴である都城「平安京」の解体、特に国政の
場が、平安宮から里内裏をはじめ貴族の私邸に出たことによる形骸化は、結果として院の御所
等の「御所(御館)と御堂」+「先祖墓」を核とする家政機関的な性格の強い新都市の成立を
促した。
この都の変化が中世に新たに生まれる武家の政権都市に影響を与えた。この変化は、視点を
変えると武家の権力編成原理(=イエ論理)に合致したものであり、武家は自分たちにとって
ふさわしい町として積極的に採用したといえる。東日本をみると、同じ原理で武家の本拠とし
ての都市平泉が成立し、同時に平安宮の変化と同じベクトルで陸奥国府多賀城の変化があり、
ここには平安京と周辺の新都市と同じような両者の関係をみることができる。
12 世紀の平泉では、都周辺に生まれた新しい都市原理を積極的に受容し、都市平泉を企画。
平泉は、清衡の柳之御所と中尊寺、基衡の館(後に観自在王院)と毛越寺、秀衡の加羅御所と
無量光院という各代の当主の御所と御堂のセットが場所を変えて造営されることで形成された
都市であり、その精神的な中心が清衡以来の当主の廟である金色堂である。
近年の平泉の発掘で明らかになった衣川の北側を含むいわゆる「大平泉」の状況は武家原理
の都市を語るとき重要である。平泉の中心域は、中尊寺北側の衣川から倉町南側の太田川に挟
まれている内側だが、境界衣川の外にも都市の一部が広がり、そこには接待館をはじめ複数の
館群などが確認された。吾妻鏡によれば、この衣川には、3代秀衡の妻の父である都の権力者、
前の陸奥守藤原基成の衣河館や頼朝とともに源氏棟梁の血筋を引く義経の館があったとされる。
つまり衣川より内側の平泉は奥州藤原氏と主従関係を結ぶ家臣や従属したものたちがいるイエ
論理の空間であり、その外にはイエに組み込まれない貴人や客分がいる空間があり、境界を挟
んで二つの世界から構成される平泉ということになる。
−2−
2)都と奥羽、ゆれない平泉藤原氏、巧みに使い分ける二つの権威、
平泉では、最新の都の権威象徴としての御堂(寺院)と奥羽を象徴する「都風でない」御所
(館)を並べることで、都と奥羽の二つの権威を聖と俗の世界に意識的に巧みに使い分けていた。
さらにその権力の正当性の表現として、地元向けには 10 世紀以来の奥羽の権力者からの血の継
承を裏付けとする奥羽アイデンティティーが強調され、それが柳之御所の景観や先祖を祀る廟
として視覚化された。一方都向けには、都の貴族としての先の陸奥守藤原基成の血を継承する
という立場をとる平泉藤原氏があり、ここにも都と奥羽両者を用意していたのである。
・金色堂を求心点とする都市創り
・サツマイモ型から豆腐型へ
・都の最新モデルの御堂と地域の伝統的な御館
・都の血と奥羽の血の継承者
3 鎌倉の都市と館、威信財の変化
1)ゆれる鎌倉将軍
平泉を滅ぼし東国の武家政権をたてた鎌倉は、13 世紀前半までの源氏将軍の邸宅=大倉御所
を核とする源氏の本拠地としての段階と 13 世紀後半からの北条執権による幕府(全国政権)=
「武家の都」として変質した二段階があり、それらは空間原理的にも規模、景観的にも大きく異
なるものであった。
前期の鎌倉は、先祖の館や墳墓堂、氏神を祀る鎮守、そして御所と寺院のセットを中心とし
た源氏のイエの論理で構成されていた。また、太い大きな木柵列やV字の堀で囲まれた館など、
初期の大倉周辺には東国的な景観があふれていた。そうしたなか、文献史料に記録された源氏
将軍の大倉御所には、頼朝から実朝段階に変わる時に東国風?から都風の寝殿造りへの急激な
傾斜が示されている。それは平泉の意識の延長にあった東国の武家棟梁の御所から、全国政権
の鎌倉幕府将軍御所への大きな意識の揺らぎを直接的に表現しており、将軍の御所をはじめと
して次第に都の論理へと変化していく都市鎌倉の姿をかいま見ることができる。
また、既に頼朝においても若宮大路の段葛(置石=置道)造営にみるような都への揺らぎがあっ
た。
2)ゆれない関東御家人
頼朝を支えた関東の御家人たちの本拠地の発掘例では、「館+寺院+先祖墓+鎮守」という
同じ空間原理が受容され、鎌倉の価値観が共有されたことを示している。関東の御家人たちは、
自らの本拠に鎌倉と同じ空間モデルを受容、模倣することで御家人としての同じ価値観の共有
を意識したのである。中でも武蔵の御家人浅羽氏のように、その寺院に鎌倉永福寺と同じ瓦を
のせ、鶴岡八幡宮を勧請するなど鎌倉との強い関係を強調することもあった。そして、館の近
くには先祖墓や先祖顕彰の施設があり、それらに守られて館の安寧があった。
御家人たちの方形の館内には、独立した東西棟の主屋とそれに直交する南北棟の細長い建物
=侍所がL字型に配置され、厩がならんだ。この特徴的な侍所は頼朝の開府前から既に存在し
ており、東国在来の領主屋敷の継承である。それ故にまた頼朝の大倉御所でも、侍所が頼朝と
−3−
頼朝を推戴した御家人たちの密接な関係を確認する場として重視されたのである。関東におけ
る館の発掘例は、御家人たちがその後の鎌倉の変化に対しても、ゆれることなく東国の論理を
保持したことを示している。
・源氏本拠から武家の都鎌倉へ
→源氏の故地の保存、象徴としての鶴岡八幡宮、都の空間原理への回帰
→その後の武家政権に継承される「鎌倉」
・後白河法皇六条殿と頼朝大倉御所
・中門廊と侍廊(侍所)に表れる公家と武家の論理
・都系の今小路西遺跡(鎌倉)と東国(在来)系の大久保山(荘氏館群)、浅羽氏、
4 武家の威信財
1)平泉では、館を中心に大量の都風かわらけと酒の容器としての中国製白磁の壷や水注な
どが使われた。容器は、中国陶磁を頂点にして次に東海の渥美焼や常滑焼があり、その下位に
日本海側の須恵系の壷が階層性をもって使われていた。前期の鎌倉においても中国陶磁を上位
とする酒器主体の宴会セットがステイタスシンボルとして継承されている。酒器が重視された
意味には、武家権力編成の基礎が主従関係による擬制的なイエにあり、その確認契約のための
武家儀礼「式三献」の盃事などで使用する道具だということによる。いわば酒器が武家権力の
象徴性を帯びているともいえる。後期の鎌倉では、こうした宴会セットから次第に花瓶・香炉・
茶道具など唐物の座敷飾り=室礼の道具が加わり、重点が移っていく様子が確認できる。この
段階で、こうした道具類、特に唐物が、権力や権威を表現するための道具=威信財としての意
味を明確にしたのである。
各地の御家人たちの館で発掘される威信財も鎌倉モデルに準じて共通しており、御家人とし
ての共通の階層意識、連帯感の表現に有効であったことがわかる。地方に生きる武士にとって
鎌倉との関係を示す絶好の品々であったともいえる。そこには、いわば御家人セットともいう
べき威信財が確認でき、館の景観とともに、これもまた地方と鎌倉の関係を考える考古学の有
効な指標のひとつである。
いわば平泉で生まれ、鎌倉で育った武家の威信財という言い方になるが、ここで注意が必要
である。鎌倉モデルは鎌倉の中でその価値観が醸成された威信財といえるが、平泉モデルの宴
会セットの価値観は、平泉で独自に形成されたものではなく、同じ時代に列島各地で一定の階
層には使用されていた状況があり、研究成果として平泉の発掘でその意味が確認されたという
言い方が正確である。
2)こうした威信財は、鎌倉以後京都へ入った武家政権によって継承され、足利将軍のもと
でさらに洗練され、明確な価値観と規範性が形成されていった。その頂点が義政の東山御物で
ある。いわば足利将軍モデルである。戦国時代、各地の大名をはじめとする権力は、武家文化
の規範を足利将軍にもとめ、その権威を利用する一環として、積極的に威信財やそれらが使わ
れる主殿、会所などの館空間を受容した。もちろんそれに伴う儀礼の受容がメインである。越
前の戦国大名朝倉氏の館はその典型的な発掘例である。
−4−
そこにみられる威信財は、室礼セットへの特化と鎌倉期の唐物を頂点とする骨董指向が強
いことが特徴であり、また「君台観左右帳記」にみられる規範化も特徴である。その一方で
新規の海の彼方からの高級文物としてベネチアングラスなどの所有も流行したことも新たな
動きである。
朝倉館の威信財セットは、言い換えれば足利将軍モデルである。したがって足利将軍もま
た鎌倉の価値観を継承することで、武家のアイデンティティーを確認し、それを強化したと
もいえよう。足利将軍は威信財のみならず鎌倉における儀礼や故事の多くを継承したことで、
権威の正当性を説明したことになる。それはまた、信長、秀吉、徳川将軍へと継承される東
山御物をはじめとする天下の名物の継承、再評価にも連なる動きをいえよう。
・平泉と鎌倉、酒器が威信財になるまで
・一乗谷の威信財と足利将軍モデル
5 武家権力と都市構想
1)12 世紀、新たに京外に家政機関を重視したイエの原理による政治拠点が作られたのが
白河や鳥羽、六波羅・法住寺殿であった。平泉など東国の武家権力が、都周辺の新都市と同
じ原理による都市を構想したのは、主従関係を軸に擬制的なイエ原理で権力が編成される武
家にとっては、単なる都の模倣ではなく自らに最もふさわしい都市論理であったからなので
ある。
初期の武家の都市として平泉の構造にイエの原理が強いことは、後の戦国時代に明確にな
る城下町の空間構造との比較からも注目される。先に確認したように、北の境界衣川の外側
に館群が発掘され、都の権力者、前の陸奥守藤原基成の衣河館や源氏棟梁の血筋を引く義経
の館があり、自分の一族や家臣などと異なる藤原氏のイエには属さない高貴な客分の館群が
境界の外側に置かれたことがわかる。
この状況は、1573 年に織田信長に滅ぼされた越前の戦国大名朝倉氏の城下町一乗谷の空間
構造と同じものが既に 12 世紀からあったことになり、武家の政権都市を考える時に重要な点
である。一乗谷では、町の入り口は堀と土塁で作られた城戸が設置されており、城戸の内側
には朝倉氏の館や寺院、一族の館が集まり、さらに主従関係で結ばれた家臣団屋敷群や商工
業者の町屋群があった。一方城戸の外には川湊や自由な市場と町があった。さらに平泉と同
様に、次の将軍候補者であった足利義秋の館や信長によって領国を追われた美濃国の齋藤氏
などの他国からの客分、さらには加賀宗教勢力との戦争の和平締結の人質の屋敷も城戸の外
に置かれた。
2)平泉、鎌倉をみると、流通商工業をはじめとする都市機能や都市的景観が整備される
までに各々約 50 年の時間経過が必要であった。12 世紀の日本の武家政権は自らの拠点とし
て都市を企画、形成する意識と実現する能力をどれほどもっていたのか。この時代の武家権
力には共通の都市イメージというものがあったのか。明確な東アジアモデルの都城を実現す
ることにより王権の存在を示した古代律令政権との違いは大きい。
この後、武家が権力の意図を都市構造として明確に示すようになるのは、15 世紀後半以降
−5−
の戦国大名の領国統治の中心となった城下町からである。特に 16 世紀後半から天下統一を実
現する織田信長、豊臣秀吉の織豊政権においては、天守閣、高い石垣、瓦葺き礎石建物をセッ
トにした具体的な城の形とともに、城を中心として水平的には同心円構造、垂直的には山や丘
陵を利用した上下の視角により階層性を明示した城下町の空間設計があった。特に城の主要要
素については信長や秀吉の認可が必要となる規範性をもつモデルとしての意味を付され、全国
の大名の階層性の表現となっていくのである。ここでは再び都市の景観と構造が「天下人」の
象徴として機能することが明確に位置づけられていた。そして、徳川家康の江戸城もその延長
にあり、さらにその都市には「東の都」、日本の都の意識が作られていったのである。
−6−
Ⅱ 発掘調査成果報告
白鳥舘遺跡の調査成果(奥州市)
奥州市世界遺産登録推進室 及川真紀
白鳥舘遺跡は、白鳥川と北上川の合流点の南東約700mの地点に位置し、北上川に半島状に
突き出した丘陵に立地します。遺跡は標高27~30m前後で、北と東が北上川に接しています。
これまでの発掘調査によって、遺跡の丘陵部は10世紀頃に集落として利用されたのち、14
世紀頃に城館となり、15世紀半ばには現在のような城館として大きく整備されたと考えられま
す。平成20年度からの調査では、丘陵南西部の低地で12~13世紀の遺跡の存在が確認されまし
た。
今年度の第13次調査は、低地の遺構群の北側の範囲を把握するため、堤防の北側から北上川
までの間に広がる微高地を調査しました。その結果、12~15世紀と推定される道路状遺構と区
画溝跡、方形竪穴遺構、井戸跡、掘立柱建物跡、土坑などの遺構が確認され、中国産陶磁器、
国産陶磁器、かわらけ、銭、釘などの鉄製品や、羽口、砥石などの遺物が出土しました。
今回の調査では、東調査区で区画溝と道路状遺構、方形竪穴遺構、井戸跡、土坑、掘立柱建
物跡などが出土したほか、西北調査区から西南調査区では多くの井戸跡が確認されました。こ
のうち道路状遺構は、方形に展開すると推定される2つの区画溝を側溝とするもので、東調査
区を南北に延び、北側の延長は北上川へと続くと考えられます。側溝には数度の掘り返しの跡
がみられ、長期間にわたり利用されたことが窺えます。路面にはこぶし大の石が多数あり、石
で舗装されていた可能性もあります。また、路面から中国福建 省 磁竈窯産の盤が出土していま
す。西側の区画溝跡の内側では方形竪穴遺構や井戸跡、土坑などの遺構が多くみられ、遺構の
中核部分と推定されます。方形竪穴遺構は、倉庫的な用途と推定されているもので、調査区北
端で1基確認されました。区画溝と同じ方位であることから道路状遺構と同時期のものと推定
されます。これら道路状遺構と区画溝からなる一連の遺構群については、出土遺物から13~14
世紀ごろの遺構と推定されます。また、東調査区の南側では、道路状遺構より新しい掘立柱建
物が2棟確認されています。道路状遺構の年代より新しいことから、15世紀以降のものと考え
られます。井戸跡は調査区西部を中心に9基確認されました。年代は、出土遺物から12~13世
紀に属すると推定されます。
遺物は、12世紀から15世紀前半にかけてのかわらけ、白磁、青磁、中国磁竈窯産盤、渥美・
常滑産陶器、東北地方産陶器、瀬戸産陶器、銭(宋銭、明銭)、鉄滓、釘などの鉄製品、砥
石、羽口などのほか、弥生土器、須恵器などが出土しました。このうち中国磁竈窯産盤は13世
紀のもので、鎌倉時代には威信財として珍重されたものです。県内では、平泉で12世紀のもの
が出土していますが、鎌倉時代の出土例は極めて珍しいものです。
今回の調査によって、白鳥舘遺跡の低地に広がる遺構群は、北上川の縁辺まで広がることが
明らかとなりました。また、道路状遺構や区画溝などの遺構群は13世紀ごろのものと推定され
ることから、低地の遺構群は12~14世紀にわたって拠点を移動しながら継続して利用された
ことが確認されました。加えて、鎌倉風の威信財として鎌倉時代の御家人層に受容された磁竈
窯産盤が出土したことから、13世紀ごろの白鳥舘遺跡には鎌倉御家人などの有力者が関与して
いたことが判明しました。さらに、北上川と旧白鳥川の合流点に向かうと見られる道路状遺構
と、倉庫などの用途が推定されている竪穴建物遺構が確認されたことは、白鳥舘遺跡が川湊で
ある可能性をより高める結果となりました。
ちゅう ご く ふ っ け ん しょう じ
−7−
そうようさん
−8−
柳之御所遺跡ほかの調査成果(平泉町)
岩手県平泉遺跡群調査事務所 櫻井友梓・伊藤みどり・岩渕 計・大沢 勝
Ⅰ.柳之御所遺跡第76次調査
1.今年度の調査位置と目的
今年度の柳之御所遺跡の調査は、遺跡堀内部の南端部周辺を対象に行いました。遺跡の南側
の伽羅之御所跡に近接する範囲で、柳之御所遺跡を区画する2条の堀跡の走行方向と、周囲の遺
構の分布状況の確認を主な目的としています。
2.調査成果
調査範囲では内側と外側の堀跡、それに直交する
方向の溝跡、柱穴等を確認しました。
○溝跡
溝跡は外側の堀より新しく、内側の堀と同時期の
機能をもって、それより早く埋め戻されています。
つまり、外側の堀→溝=(→)内側の堀の前後関係
が、これまでの調査成果と同様に、追認できます。
○内側の堀跡
柳之御所遺跡調査区全景
内側の堀跡は幅12~13m、深さ約2.5mほどの規模
で逆台形の形状をとります。底面は平坦な部分もあ
りますが、溝状にくぼむ範囲もあり、でこぼこにな
り一定の形状をとらないことがわかります。堀の肩
部へは直線的に立ち上がります。堀跡は自然堆積で
埋まっており、底面付近は遺跡の機能時に近いとみ
られますが、多くは遺跡廃絶後に堆積したと考えら
れます。
外側の肩部分では人為堆積の地業が崩壊した土層
柳之御所遺跡内堀跡
を確認しています。この土層は土質から自然に堆積
した土層が崩壊したものではなく、本来人工的に造
成された土層が堀の外側に堆積しており、その後崩
壊して堀の中に堆積したことがわかります。崩壊土
層は土質の特徴から、層状に整地していたことがわ
かり、本来は1mほどの高まりとして土塁状に存在
していたと考えています。
○外側の堀跡
幅は5~6m程、深さ2m程の逆台形の形状で
す。堆積した土層の特徴から、一度、掘り直しを行
っていることがわかります。また、内側の部分は人
−9−
柳之御所遺跡外堀跡
為的に埋め戻された範囲があり、内側の堀跡が機能した段階では部分的に埋められていたと考
えられます。
3.まとめ
今年度の調査では2条の堀跡とそれに直交する溝跡などを確認しました。溝跡を介して2条の
堀跡の時期差を改めて確認することができました。また、内側の堀跡の時期に土塁状の地業が
行われていたことが確認できました。平泉町内では無量光院跡などで土塁が現在でも確認でき
ますが、これまでの柳之御所遺跡の調査では確認できておらず大きな成果となりました。土塁
の位置が限定的なものだったのかなどの課題がありますが、柳之御所遺跡の様相を知る重要な
手がかりとなります。
Ⅱ.高館跡の調査成果
1.調査位置と目的
柳之御所遺跡の北側の高館は丘陵上に高く広い範囲から視認でき、また義経堂の存在などか
ら広く知られています。しかし、これまで部分的な調査にとどまり、12世紀代の様相には不明
な点が多く残されていました。今回、柳之御所遺跡の評価にも大きく関わる可能性があると考
え、柳之御所遺跡に近接する緩斜面を対象に内容確認の調査を行いました。
2.調査成果
これまで確認されていた堀跡を改めて確認でき、全体を検出することで規模等を確定するこ
とができました。幅10m程、深さが2.5m程と大規模な堀跡であることが確認でき、高館の範
囲にも大きな堀に区画された範囲があることがわかりました。遺物が少なく、12世紀代の遺構
として確定できるかに課題も残されていますが、周囲には当該時期の遺物が多く分布していま
す。
3.まとめ
今回の調査で高館跡の周囲で12世紀代の遺物が多く分布することが確認でき、周囲やより上
位の平坦面で奥州藤原氏の時期にも使用されていたことがわかりました。また、年代に不明な
点も残りますが、12世紀代の遺構の可能性が高い堀跡が確認されたことは大きな成果です。特
に、堀跡の規模が確認でき、柳之御所遺跡の外側の堀とも同規模の大規模なものであったこと
は遺跡の機能を考える上で重要な内容となります。今後、周囲の遺構の分布状況等を確認し、
様相を明らかにしていきたいと考えています。
高館跡 堀跡
高館跡 整地層
−10−
無量光院跡の調査成果(平泉町)
平泉町教育委員会
1.はじめに
無量光院跡は、奥州藤原氏三代秀衡が建立した寺院跡です。平成14年から整備に向けた
調査を行い、北小島や橋の跡などの遺構が見つかっています。
30次調査は、①推定東門の調査、②北小島東側の調査、③東島北岸・中島東・西岸の補
足調査を目的として、平成26年6月~12月まで調査を行いました。
2.調査の成果
(1)推定東門の調査
東門があると推定されていた地点を中心に調査を行いました。近年まで住宅地であったた
め、近現代の撹乱を激しく受けていました。残念ながら東門は見つかりませんでしたが、表
土下5㎝で12世紀の整地層が見つかり、無量光院造営時に大規模に造営されていたことが
分かりました。整地層は最大1m程整地されていました。整地層の下から深さ1mの大溝
と、幅1.4~1.5m、深さ35~40㎝の溝が見つかりました。
大溝は調査区西端に位置しており、西側の調査区外に溝が広がっていました。全体を確認
したわけではありませんが、昨年度西側5mの地点から大溝の西端が見つかっており、幅は
約7m、深さ1mあることが分かりました。土の堆積状況から大溝は一気に埋め戻されてお
り、無量光院跡造営直前まで溝として機能し、造営時に埋められたと考えられます。また、
最下層からは、かわらけ・木製品が多く出土しました。
溝から遺物は出土していないため時期は不明ですが、大溝に切られていることから、溝→
大溝→無量光院跡の順に作られたと考えられます。
調査区全景(東から)
溝(左)・大溝(右)断面(北西から)
(2)北小島東側の調査
北小島は17次(平成17年調査)で中央から西側部分を確認しています。その時点で調査
が行えなかった東側部分を対象に調査を行いました。調査の結果、北小島の大きさは東西
15m、南北10.5m程あること、高さが少なくとも25~30㎝あることが分かりました。
南東側からは岸の一部が見つかりました。この場所は水田の畦があった所で、削られず残
っていました。畦状に残っていた岸は、島の大きさと形を考える時に、貴重な資料です。
(3)中島東・西岸・東島北岸の調査
−11−
中島はこれまで調査が行われていない島
北東・北西部を対象に調査を行いました。
島の護岸は後世の削平で削られていまし
た。北翼廊東部では、無量光院跡本堂に伴
う排水溝の池側出口を確認するため調査を
行いましたが、後世の削平によって失われ
てしまったのか、出口は見つかりませんで
した。
東島は、昨年度北岸から見つかった護岸
北小島の岸残欠(南東から)
石の広がりを確認するため、昨年度調査区の東側隣接地を調査しましたが、護岸石は見つ
かりませんでした。よって、護岸石の範囲は昨年度確認した範囲のみであることが分かり
ました。
まとめ
東門の調査では、門は見つからなかったものの、整地層の下から無量光院跡以前の大
溝・溝が見つかりました。無量光院跡造営以前に、この場所がどのように使われていたの
かを考える上で大きな成果です。また、北小島の岸の一部が見つかり、島の形が分かった
事は、今後史跡整備を行う際に必要な資料を得ることができました。
−12−
骨寺村荘園遺跡の調査成果(一関市)
一関市教育委員会 鈴木弘太・山川純一・二階堂里絵・澤目雄大 はじめに
26 年度は骨寺村荘園遺跡のうち、白山社及び駒形根神社(中川 4・6 地点)及び梅木田遺跡で、
昨年度から継続した確認調査を実施しています。
1.白山社及び駒形根神社(中川 4・6 地点)の調査成果
中川6地点では、昨年度からの継続調査で、駒形根神社の北西約 250m の丘陵北側山裾にあ
る約 300 ㎡の平場の調査を実施しています。この平場では掘立柱建物跡と礎石建物跡を確認し
ています(写真1)。
掘立柱建物跡は長軸3間(約 6.7 m)×短軸1間(約 5.2 m)の規模が確定しました。柱穴
の規模は径約 60 ㎝、深さ約 60 ㎝ですが、埋土からの出土遺物はありませんでした。
礎石建物跡は、原位置を保っていると推定されるものが 3 基、根石及び礎石の抜き跡と推定
されるものが 3 基を検出しています。建物規模や構造等は次年度調査の課題となります。
その平場の北西側では、池状遺構の調査を実施しています(写真2)。この池状遺構は、昨年
度調査で、一部を確認していましたが、今年度は平面的に調査を実施し、池のほぼ全容を把握
することができました。池は長軸約 5.5 m、短軸約 3.2 mの南北方向の長楕円形です。南西方
向の山稜部山裾から延びる取水路と、北東方向へ流れる排水路を検出しています。池底は約 40
㎝の整地を行っており、汀には拳大から人頭大の礫が埋め込まれていました。最も遺存状態の
よい汀から、池底面までの深度は約 30 ㎝で、浅い池だったことが推定されます。
中川4地点では、昨年度調査で確認された約 30 基の塚のうち、2 基の発掘調査を実施して
います。
塚7では、断ち割り調査と塚の約 1/4 を平面的な調査を実施しています。その結果、塚は直
径約 6 m、基底部からの高さは約 120 ㎝であることが明らかになりました(写真3)。
塚の構築は、塚の構築場所を削り出すような造成を行い、人頭大以上の礫と黒色土を用いて、
3段を積み上げた後に、塚中央部に推定される約 60 ㎝の穴が掘られて構築されています。こ
の穴は、何かを埋納するために掘られたと推測できますが、発掘調査で埋納物を確認すること
はできませんでした。有機物が埋納されたとも考えられ、現在土壌分析を専門機関にて実施し
ています。塚中央部の穴が埋められた後、さらにその上層に穴を覆う形で拳大の礫混じりの土
層でパックされていました。この構築方法は、塚 11 と同様であり、同規模の塚については、
同様の構造を持ち、同様の目的や機能を有していたものであることが予想されます。
2.梅木田遺跡の調査成果
梅木田遺跡は、昨年度調査区の北西側隣接地の発掘調査を実施しています(写真4)。昨年度
発見された大型の掘立柱建物の延長が確認され、ほぼ建物範囲が判明しました。建物構造につ
いては、現在検討中ですが、この大型建物の柱穴からは、近世の陶磁器が出土しており、遺跡
の変遷を推定する手がかりが得られました。また、この大型の掘立柱建物を囲むようにL字に
−13−
屈曲する溝を検出しています。この溝からも近世の陶磁器が出土しており、江戸時代には溝に
囲まれた大型の掘立柱建物の存在が推定されました。
さて、大型の柱穴の他にも直径 30 ㎝から 50 ㎝程度の柱穴が数多く発見されています。現在、
昨年度調査区との整合を含め、建物規模等を検討しています。昨年度調査で発見された青磁碗
片は鎌倉時代後期のものと推測されるため、この中に、鎌倉時代の遺構が含まれる可能性があ
ります。
さて、これら柱穴群の西には、大規模な自然の沢が発見されました。沢は最大幅約 10 m、
深さ約 2 mです。調査区の北東端付近から急激に深くなり、調査区南西端に至ります。この沢
の覆土上から、L字の溝が掘り込まれることから、江戸時代には確実に埋没しています。また、
それ以外の柱穴もこの沢の覆土上には分布しません。沢は埋まり切った後にも、土地利用が困
難な、敷地境であった可能性があります。
遺跡地の北東側で 2 本のトレンチ調査を実施しました。このうち下段の調査区からは8基以
上の柱穴を発見し、沢を跨いだ、北西側にも遺構が分布することが判明しました。この遺構群
については、次年度以降に平面的に調査を実施する予定です。
おわりに
白山社及び駒形根神社(中川4・6地点)では、造成された平場上で礎石建物の存在が想定
され、それに伴うと推定される池状遺構が発見されました。さらに塚群のセットで遺跡が構成
されることが予想されます。次年度は、礎石建物が建物規模の検討を中心に調査を進める必要
があります。梅木田遺跡では、掘立柱建物の構成を検討するとともに遺跡地の変遷を確定させ、
さらに遺跡地の遺構の分布を把握する必要があります。これらについて、次年度以降も継続し
た調査を予定しています。
写真1
中川
地点(平場)全景写真
写真3
中川
地点(塚 )全景写真
写真2
中川
写真4
地点(池状遺構)全景写真
梅木田遺跡(H
全景写真
調査区)
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伽羅之御所跡ほかの調査成果(平泉町)
(公財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター 杉沢 昭太郎
所在地:西磐井郡平泉町平泉字伽羅楽地内
事業名:県道中尊寺通り改良事業
委託者:県南広域振興局土木部
調査対象面積:2,240㎡
調査機関:(公財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター
伽羅之御所跡はJR東日本平泉駅から北に400mのところに位置し、遺跡の南には鈴沢の
池跡、西に無量光院跡、北側は柳之御所遺跡などがある。調査区の標高は25m前後、概ね
地形は平坦で現況は県道である。
検出遺構
堀跡
上幅は約5m、深さは1.8m程ある。西北西-東南東の方向へと延びており、第1・22
次調査で見つかっていた堀跡とは直角に繋がると想定される。この方角は無量光院跡の西
側土塁と堀、本堂建物の軸線と概ね一致するほか、白山社を囲む土塁や堀とも同じ方角で
ある。堀の埋土からは少量のかわらけが出土したのみであるが、概ね12世紀後半頃のかわ
らけのようである。
掘立柱建物跡
堀跡のすぐ北側にある。建物の大半が調査区外に続いているが桁行7間、梁間4間の南
北棟建物で総柱建物となるようである。床面積は約180㎡ある。今回検出された堀跡とは
接するくらい近い位置にあることから、堀が掘られる前段階の施設である可能性が高い。
井戸跡
調査区の北側から1基見つかった。平面形は円形で井戸枠などは持たない素掘りの井戸
であった。12世紀の遺構ではあるが、遺物が少なく詳細な時期は分からない。
粘土採掘坑
堀跡よりも南側にある。多くの穴が密集して掘られており、この場で何度も粘土を採取
していたようである。
その他
土坑、溝跡、柱穴などが見つかった。
出土遺物
堀跡を中心に、かわらけ、国産陶器、中国産磁器が3箱(32×42×30㎝)出土した。
まとめ
・調査区は無量光院と伽羅之御所跡の隣接する場所にあたる。
・今回検出された堀跡は西北西-東南東方向に延びており、1・22次調査で見つかった堀
跡と直角に繋がるようである。
・無量光院南辺と伽羅之御所跡南辺にはこの1本の堀跡が使われていた可能性が高まった。
・当事業に伴う発掘調査で得られた成果からこれまで不明瞭であった伽羅之御所跡と無量
光院跡の範囲は以下の図のようになると推定した。
・掘立柱建物跡は堀が掘られる前段階の施設である可能性が高い。本遺跡ではこれまでに
も12世紀後半より古い遺構が幾つか確認されており、伽羅御所造営以前から利用されて
いた場所であった。
・12世紀の道路跡も想定されていた。道路側溝や石敷路盤は検出されなかったが堀南側に
は不自然に遺構のない所があった。
・堀の南側からも遺構・遺物が見つかり、堀の北側よりも多く分布しているところもある。
−15−
y=24580.00
y=24600.00
x=‑111900.00
x=‑111920.00
無量光院跡から伽羅之御所跡へと延びる堀跡
x=‑111940.00
月見坂
掘立柱建物跡
x=‑111960.00
高館跡
衣関遺跡
県道=奥州街道
堀
土坑に捨てられていたかわらけ
国道4号
跡
x=‑111980.00
花立山
金鶏山経塚
山
x=‑112000.00
柳之御所跡
北上川
無量光院跡
花館廃寺
花立窯
県道
伽羅之御所跡
花立遺跡
塔山
北方形区画
観自在王院跡
0
5m
見つかった
堀跡
白山社跡
遺構配置図
南方形区画
無量光院跡と伽羅之御所跡
参道跡
鈴沢の池跡
−16−
Ⅲ 研 究 報 告
平泉の四面廂建物 -その特徴と立地-
荒木志伸
1、東北地方の四面廂建物
東日本の四面廂建物の集成をおこなった江口氏の検討に拠って整理すると表1のようになる。そこ
からみえる傾向についてまとめると、以下のようになる。
(1) 地域的特徴
東北地方には 2011 年の段階で 105 事例が存在する。このうち、陸奥国・93 件、出羽国・12 件と、
圧倒的に陸奥国に多い。
(2) 遺跡の性格と年代
7 世紀の後半代の官衙遺跡内で確認できるようになり、8 世紀から 9 世紀代に城柵官衙の政庁、そ
れも正殿など中心的な建物に採用される。また、集落遺跡でも検出されるが、文字資料が出土し城柵
と近接し深い関係を有するものや、仏堂と想定できるものなど、一般的なそれとは異なる遺跡から出
土する傾向にある。官衙遺跡に採用される傾向は、関東以南などの他地域と比較して、強く認められ
る。
10 世紀代になると国司館の主屋に採用されることは興味深い。また、11 世紀に入ると、陸奥・出
羽両地域ともに、柵跡などに良くみられる構造といえる。平泉の四面廂建物の系譜を検討する上で、
留意すべき点であろう。
(3) 注目すべき点
胆沢城の政庁正殿(Ⅲ期)では 11 世紀に入っても四面廂建物が採用される。これは、他の城柵官
衙遺跡では見られない特徴である。
出羽国では、10 世紀代の遺跡そのものが検出されにくい。その点を考慮すると、四面廂建物自体
の数は少ないものの、むしろ特異な状況であるといえよう。
2、四面廂建物の遺跡内での立地
平泉では、柳之御所跡や泉屋遺跡、志羅山遺跡をはじめとして、多くの遺跡で長期間にわたり、し
かも複数棟、検出されることが特徴である。したがって、その性格は一様と考えてはならず、時代や
遺跡の性格、その立地などにより異なることを想定して分析する必要がある。
表1では、遺跡の性格としては不明としたものの、その立地から四面廂建物の性格を検討する上で
注目しておきたい事例がある。
大鳥井山遺跡は、小吉山、大鳥井山の独立丘陵上に立地する遺跡である。『陸奥話記』によれば清
−17−
原氏の一族である大鳥山太郎頼遠の本拠地とされ、発掘調査により土塁・空堀が二重に巡り、かつ
柵と物見櫓を備えた構造が判明した。内部からは掘立柱建物や、竪穴住居跡などが検出されている。
なお、建物群は小規模なものが多い。年代は 10 世紀後半~ 12 世紀代とされ、10 世紀代に廃絶した
払田柵との関係を探る上でも注目される。四面廂建物は、大鳥井山の山頂部から検出された。周囲
からの景観上、非常に好地にあり、ランドマークのような役割が推測される。柵内の建物ではあるが、
宗教的な意味合いも視野に入れても良いかもしれない。
また、2014 年度の陣館遺跡(金沢柵跡推定地)の発掘調査では、梁間約 6.3m、桁行 10.5m の建
物の四面廂建物が検出された(横手市 2014)。大鳥井山遺跡で発掘されたものと同規模であること
も見逃せない点であるが、山麓域や交通路を強く意識した立地であることに、やはり注目しておきた
い。
出羽側の事例は、その総数は少ないものの、平泉の事例を検討する上でもヒントとなる可能性を秘
めている。四面廂建物の機能面や、その構造がもつ象徴的な意味を考える上で、参考になる資料とい
えよう。
【主な参考文献】
横手市教育委員会 『横手市史 通史編 原始・古代・中世』2009
『平成 26 年度 陣館遺跡発掘調査現地説明会資料』2014
奈良文化財研究所 『古代の官衙 遺構編』2003
八重樫忠郎 「東北地方の四面廂建物」『前九年・後三年合戦 -11 世紀の城と館 -』2011
江口桂 「東日本における古代四面廂建物の構造と特質」『四面廂建物を考える』2012
青木敬 「検出遺構における四面廂建物」『四面廂建物を考える』2012
−18−
−19−
−20−
院政期平泉の仏会と表象に関する歴史学的研究 誉田 慶信
はじめに
藤原基衡と秀衡の時、平泉は京都・畿内の仏教・政治と関係を深めつつ、日本中世社会のなかで
「仏土」を発展させていく。仏土は仏教文化を担う諸集団の結衆(仏会)によって現実化する。そ
こに政治性と歴史性が発露する。本報告では、仏会の場における寺額とは何であったのかを具体的
に明らかにし、また高野山の仏会に対する藤原秀衡の関与のあり方から、平泉仏教の性格を明らか
にしたい。
Ⅰ 円隆寺額の表象と藤原基衡
(1)円隆寺額をめぐる二つの言説
①『吾妻鏡』文治5年9月17日「寺塔已下注文」の藤原忠通筆額。教長書の堂中色紙形。『今鏡』
巻第五の「みかさの松」と『古事談』巻第二の二四。
②康和4(1102)年6月29日堀河天皇新御願寺御仏を諸堂に安置。(『中右記』同日条)「新御
願寺名被定尊勝寺」。7月8・12日白河上皇の新御願寺「御覧」。7月15日習礼。21日尊勝寺落
慶供養(『中右記』『百錬抄』同日条)。「堂荘厳御装束在式文」。「額源俊房書之、優妙之由
人々感歎」。長承元(1132)年3月9日、習礼。13日得長寿院(千体観音)落慶供養。関白忠通
が額を書く。額名は長尾宮が撰ず(『中右記』同日条)。右大臣源有仁が式を作る。落慶法要の成
就としての寺額。寺号額は可視的に確認され、公のものとなる。寛弘2(1005)年10月19日宇治
木幡浄妙寺三昧堂供養(『小右記』)。
③承安3(1173)年建春門院滋子御願最勝光院落慶供養。『玉葉』。供養次第につき議定。円勝寺
先例(藤原忠通)の踏襲。開眼法会についての議定。後白河院、九条兼実へ額・御堂障子色紙形執
筆要請。四足門か二階門(円勝寺)か。法金剛院額寸法の定。10月15日最勝光院寺号決定の議定。
習礼。額板の送付。額草の評定。兼実、額を「行事所」に提出。兼実家司の装束と藤原忠通御例。
額は落慶法要次第全体のなかの重要な要素となる。
④『帝王編年記』の言説。康和元年、堀河天皇御願尊勝寺供養。導師、覚行法親王。額、源俊房。
扉、藤原章綱。康治元(1142)年美福門院御願金剛勝院供養。額、藤原忠通。扉、藤原定信(行成
の玄孫)。『濫觴抄』に見える法金剛院の額字関白忠通、願文藤原敦光。
⑤量産・結縁・蓄積される額。『玉葉』承安4年8月14日条。摂津国仲山寺の額。藤原伊通筆。
「如此無縁山額、故殿(藤原忠通)多令書給」。書写される額。額の文字テクスト写本の伝授と校
閲。『玉葉』治承4(1180)年8月23日条。『明月記』嘉禄元(1225)年10月25日条。「大内以
下所々諸寺額」書写の額樻。
⑥「入木」の筆頭は額。「第一大事也」藤原行成五世伊行の著『夜鶴庭訓抄』。世尊寺流。藤原忠
通は法性寺流。小松茂美『平等院鳳凰堂色紙形の研究』(中央公論美術出版、1973年)。「御願の
扉」(色紙形)。「内裏額書きたる人々」。記憶される額と扉色紙形の筆者。「右筆条々」(『続
群書類従』第31輯下)では大内裏・御願寺・諸寺諸山額に分類。安元3(1177)年。平清盛厳島
神社参詣。厳島神社の額が新調。兼実筆。右大将平重盛のもとに。新造の額は、仏会イベント実施
のための重要な要素になる。
(2)寺号の決定と円隆寺
①寺号の選考過程と決定。大治5(1130)年10月25日仁和寺待賢門院瞕子御願寺法金剛院の落慶
供養(『中右記』)。14日白河殿で寺号決定の議定。覚法・聖恵法親王・僧正二人の推挙。藤原宗
忠の推挙、藤原忠通の判断。法金剛院の議定。供養願文は藤原敦光の作。額は忠通、導師は覚法法
親王。保延2年(1136)、勝光明院供養。『長秋記』。
②寺号の禁忌。『長秋記』天承元(1131)年8月25日条。白河泉殿二箇所、鳥羽殿一箇所の九体阿
弥陀堂の寺号を決定。「鳥羽水難、不用三水字」。親王の房号に「憚」あり。世俗的価値意識の混
入。禁忌。王法と仏法との相克。額名(文字)は落慶法要に結実。
−21−
③平泉の円隆寺。四円寺を意識したか。五味文彦『王の記憶ー王権と都市ー』(新人物往来社、
2007年)。円宗寺か。嘉勝寺は六勝寺を。鳥羽天皇即位年号「嘉勝」に因む。菅野成観「平泉の宗
教と文化」(『平泉の世界』高志書院、2002年)。平泉の地から寺号円隆寺を決定。「憚」をこえ
た平泉千僧供養、基衡千部一日経の位置。破天荒な平泉仏教の表象。
(3)円隆寺額・色紙形に見る藤原基衡の外交戦略 ①『吾妻鏡』「寺塔已下注文」。円隆寺荘厳の要素としての藤原忠通額・教長色紙形。寺号額。鳥
羽法皇、玉眼薬師如来像出洛不許可。鳥羽法皇の「天気」をうかがう忠通。
②『今鏡』「みかさの松」。法性寺流の祖、藤原忠通の話。「えびすのもとひらとかいふがてら」
の額を没収。「みかどもののけうたせ給たるところの」色紙形は書かない。藤原忠通の人物像。禁
欲的原則的人物像。国策寺院御願寺であれば、寺額没収・破却はありえない。「奉らざらんは痴れ
言」とした基衡の女(工藤雅樹『平泉藤原氏』無明舎、2009年)。信夫郡司佐藤氏のことで京都と
折衝する女(『十訓抄』下第十)。現実的柔軟外交。
③仁和寺覚法法親王を通して円隆寺額を依頼。忠通と覚法とは異父兄弟。母親は師子。師子の父は
源顕房。顕房の子の信雅が陸奥守(1128~1135年)。覚法は、忠実、頼長と親密に。忠通とさほ
どの緊密な関係は築けず(柿島綾子「12世紀における仁和寺法親王」『「玉葉」を読む』(勉誠出
版、2013年)。忠実と忠通のあいだにある覚法。
④1140年代の政治状況。美福門院系藤原家成と藤原基衡(斉藤利男『奥州藤原三代』山川出版社、
2013年)。基衡千部一日経に見る問者増忠は、家成の妻の兄弟(誉田慶信「平泉仏教の歴史的性格
に関する文献資料学的考察」『平泉文化研究年報』第14号、2014年)。⑤教長の書いた円隆寺堂中
色紙形、小阿弥陀堂障子色紙形。扉色紙形。寺額につぐ寺院荘厳の文字表象。康和4年7月21日尊
勝寺供養、御導師飼覚行法親王、額源俊房、扉藤原章綱(『帝王編年記』)。円隆寺荘厳の骨格を
なす額と堂中扉色紙形。藤原教長の参議在任は保延7年(1141年)~保元元(1156)年。円隆寺
落慶法要が保延7年~仁平2年の間で。八重樫忠郎「平泉・毛越寺境内の新知見」『中世社会への
視角』(高志書院、2013年)。⑥藤原教長は、忠通の入木(書道)の師範。教長の父は忠教。教長
と源忠已講が従兄弟であること。教長は忠実派。陸奥守藤原基成は美福門院派(遠藤基郎「平泉藤
原氏と陸奥国司」『東北中世史の研究』上巻、高志書院、2005)。基成の父忠隆は鳥羽院庁年預・
鳥羽院近臣・美福門院別当。教長とのルートも維持していく藤原基衡。美福門院派(忠通)新旧の
派閥に二股をかける。忠通からの寺額と教長からの扉色紙形と。基衡の外交戦略。
(4)奥州合戦と伊豆願成就院の額
①『吾妻鏡』文治5年12月9日条。永福寺事始。頼朝の寺社興行の記念すべき日。『鏡』文治2年
6月6日条。北条時政奉行で伊豆に願長寿院再建。奥州征伐を祈願。その願成就院の事始め。立柱
上棟、願成就院と号する。「群党逆乱、白刃を伏せ、両国静謐」の成就を願う寺号。寺号と奥州合
戦。戦争に動員される仏。願成就院の玉眼を意識させる円隆寺薬師如来像。平泉円隆寺・願成就院
と慶派と頼朝。川島茂裕「寺塔已下注文に見える雲慶について」(『岩手史学研究』86号、2003
年)。忠通筆の円隆寺額を見ていた頼朝。
②願成就院北畔、頼朝が宿館を構えるべく犯土した所から古額出土。「仏閣之不朽、武家之繁栄、
不可違此額字」。祥瑞。奥州合戦勝利の正当性。仏力の象徴・表象としての額。地涌の文字の表
象。大宰府宇佐八幡宮で八幡の二字銘を記した石の自然出来。(『百錬抄』長承元年6月23日
条)。円隆寺忠通筆額への衝撃と、それ故に平泉藤原氏の仏教を凌駕する寺号額の発見。額の呪術
性。『古今著聞集』巻第七「法深房が持仏堂楽音寺の楽の事」。
Ⅱ 鎮守府将軍秀衡の高野山五大多宝塔釈迦如来開眼供養 (1)「年中恒例法会事」と「両寺一年中問答講事」
①千僧供養と千仏会。秀衡期、都市平泉鎮守の成立。王城神祇体系と異なる平泉の宗教構造の確
立。長寛2(1164)年8月興福寺千部経供養勧進状(「三十五文集」『続群書類従』第12輯上)。
法華経一千部の書写、千口僧侶を 請し供養。永代毎年勤修としての千部会。千僧供養の目的性と
臨時性。天災地変、天皇の病気平癒。平家による千僧供養の門年中行事化。高橋昌明『平清盛 福原の夢』(講談社、2007年)。厳島神社参詣。天治3年3月清衡の千僧供養と基衡の千部一日
−22−
経と。年中行事としての平泉「千僧供養」そして千部会へ。一切経会との結合。秀衡期に確立する
「六箇度大法会」の中核をなす大会。出羽・陸奥からの参勤(嘉元3年3月中尊寺衆徒陳状案)。
奥羽寺僧・伶人動員体制の成立と維持。
②「両寺一年中問答講事」のなかの最勝十講。京都では国家的法会の頂点にたつ。平泉では最勝講
を年中問答講に位置づけ、問答講としての純粋性を保つ。正月五月九月の問答講。法会・問答講の
多様性。秀衡母請託澄憲作如意輪講式。佐々木邦世「よみがえる『信の風景』」(『中尊寺仏教文
化研究所論集』創刊号、1997年)。選択性と自立性。
③長日延命講。京都では普賢延命法。普賢延命菩薩を本尊とし、金剛寿命陀羅尼念誦法・金剛寿命
陀羅尼経法を本拠とする。「普賢延命法日記」『続群書類従』第26輯上。後三条朝より長日三壇
御修法の一つに。起源、御朱雀天皇御願として仁海・成典が勧修(土谷恵「小野僧正仁海像の再検
討」『日本古代の政治と文化』吉川弘文館、1987年)。「延命法者、東寺護持僧必所修也」(『玉
葉』建久3年3月18日条)。覚法・覚行・守覚も修す。王権護持に関わる国家的色彩の強い御修
法。平泉は、問答講(講説)としての延命講。薬師如来と延命。天永3(1112)年、白河上皇宝算
祝賀法会。白河上皇、丈六延命仏でなく等身薬師仏作成を藤原忠実に要求(『中右記』)。「薬師
者、除病延命之本誓、勝余仏」(『鎌倉遺文』4335号文書)。「為除病延命、奉造七仏薬師造」
(『拾遺往生伝』)。円隆寺・嘉勝寺本尊薬師如来の延命本願に関わる講説。調伏思想の欠如。
④両寺(中尊寺・毛越寺)問答講としての阿弥陀講。無量光院の迎講とは別の阿弥陀講。『兵範
記』仁平3年6月15日条。天養元年(1144)12月23日結願の鳥羽法皇の十楽講。伊藤真徹『平安
浄土教信仰史の研究』(平楽寺書店、1974年)。仁平元年10月16日から十日間の阿弥陀講(『本
朝世紀』同日条)。平泉の弥陀講は長日阿弥陀講。京都の十楽式を意識したものか。比叡山東塔南
谷の勝陽房真源「順次往生講式」。仏土平泉に見る六棟の阿弥陀堂(信仰)。菅野成観「天台浄土
教建築と天台本学思想」(『仏教文学』35号、2011年)。毛越寺観自在王院阿弥陀信仰の密教性
格、中尊寺大長寿院の叡山十界弥陀思想。平泉仏土(浄土)に係る教学振興の核となる仏会として
重要。
(2)平泉の鎮守府将軍藤原秀衡から高野山へ
①秀衡寺社興行を記した関東・畿内の史料。「筥根山縁起」(『新校群書類従』1神祇部)・「東
大寺造立供養記」(『新校群書類従』釈家部2)など。清衡・基衡からの飛躍。
承安3(1173)年11月11日定兼表白(『続群書類従』第28輯上)。真福寺所蔵が定本。(『真福
寺善本叢刊第Ⅱ期11記録部5法儀表白集』(臨川書店、2005年)の阿部泰雄「『法儀表白集』総
説」。勝賢、自作分を含め収拾。土谷恵「中世初頭の仁和寺御流と三宝院流」『守覚法親王と仁和
寺御流の文献学的研究 論文篇』勉誠社、1998年。勝賢は醍醐山18世座主。藤原通憲の子。後白
河院の乳母子(『華頂要略』)。勝賢から守覚法親王への灌頂印明伝授。守覚法親王に『真言集』
『秘蔵金宝集』などを伝授。背後に後白河法皇の意向。守覚の御室仁和寺入寺、覚法法親王と美福
門院得子との交渉によって。柿島綾子「12世紀における仁和寺法親王」(『「玉葉」を読む』勉誠
出版、2013年)。勝賢は応保2年(1162)には醍醐座主職をやめ高野山へ。覚法法親王は仁平3
(1153)年、覚性法親王は嘉応元(1169)年にそれぞれ薨去。若き守覚法親王の時代に。歴代御室
の金剛峯寺参詣。堂舎整備、法会興行。金剛峯寺の興隆に寄与。横内裕人「仁和寺御室考」『日本
中世の仏教と東アジア』(塙書房、2008年)。承安3年(1173)に高野山五大多宝塔釈迦如来開眼
供養法会の時。
②定兼は第28世高野山検校(『高野春秋』)。和泉国宇智郡に誕生(『本朝高僧伝』巻12)。大納
言律師。高野山北室院の兼賢を師とす『続伝灯広録』)。検校兼賢の保元元年4月に高野山大塔落
慶供養。兼賢のもとで辣腕を発揮したのが定兼。久寿3(1156)年4月15日僧慶兼奉書。嘉応元
(1169)年、検校禅信の時に執行代。治承3(1179)年2月に検校。安元元(1175)年4月に上
総に流罪。平安末期、高野山金剛峯寺屈指の検行。
③定兼表白の言説。「願文」とあるが定兼「表白」。願文は施主の立場、表白は導師の立場。(山
本真吾『平安鎌倉時代に於ける表白・願文の文体の研究』(汲古書院、2006年)。五大多宝塔一基
の建立。四面の扉八方に天と眷属等像の図絵。等身皆金色釈迦如来像一体の安置。尊勝仏頂種子曼
荼羅一鋪の図絵。将帥累葉家、奥州鎮守府将軍藤原朝臣が開眼供養施主。高野山への帰依と4年間
の衣粮寄進。三百余口浄侶への財施。霞の飡を二千余輩の衆徒に播く。秀衡鎮守府将軍任命(1170
−23−
年)とほぼ同時に高野山へ衣料を送り続ける。4年間衣糧を送った結果としての一日の法筵。奥州
藤原秀衡から高野山への働きかけ。
④陸奥守藤原基成の高野山大塔から秀衡の五大多宝塔供養へ
久安5(1149)年、造国司播磨守平忠盛に高野山大塔建立の鳥羽院宣。保元元年(1156)4月高野
山大塔落慶供養。大塔本尊五仏造立の奉行に陸奥守藤原基成、仏師に円信法眼(『高野春秋編年輯
録』)。藤原隆教(基成の兄)の妻は平忠盛の娘。忠隆の息男隆親も陸奥守。平家一門の高野山多
宝塔再建と藤原基成。その人脈のなかで、五大多宝塔釈迦供養へ。定兼表白の「室家」とは藤原基
成の娘。「賢息」とは泰衡。高野山大塔再建で名声を得た平氏政権。藤原基成の人脈を生かし平氏
政権高野山興行策と共同していく藤原秀衡。
(3)秀衡の釈迦信仰発信
①五大多宝塔四方四隅に八方を守護する天神(帝釈・焔摩・水天・毘沙門・伊舎那・火天・羅刹
天・風天)と眷属が描かれる。尊勝仏頂種子曼荼羅一鋪。善無畏に基づく「尊勝仏頂修瑜伽法軌
儀」。仏頂尊の功徳や境地を讃えて尊勝陀羅尼を唱え、滅罪生善・延命増寿・浄除業障・破地獄を
祈願する尊勝法の場の本尊。 ②秀衡妻と泰衡、増福延寿のため、年来、尊勝仏頂の秘法を修む。その修法の場を高野山に移す。
釈迦仏開眼供養の場では尊勝仏頂曼荼羅が懸けられ、尊重仏頂陀羅尼の読誦。院政期の王家寺院な
どでは尊勝曼荼羅の場に、公家たちが読んだ陀羅尼の数が結縁される。秀衡妻・泰衡読誦の陀羅尼
は高野山に結縁。別言すれば、平泉に押し寄せる畿内の仏教。
③五大多宝塔は「五仏が安置された多宝塔」か。金剛界五仏。北の不空成就仏は釈迦如来と同体。
『密教大辞典』(法蔵館、2002年)。大日如来を中心に四仏。濱島正士「多宝塔の初期形態につい
て」(『多宝塔と法華経思想』東京堂出版、1984)。中尊寺多宝塔の多宝如来・釈迦如来の二仏並
座との違い。
④秀衡政権の存在を京都にアピールするということ。入間田宣夫「中尊寺造営にみる清衡の世界戦
略」『平泉の政治と仏教』(高志書院、2013年)。大日如来信仰のメッカ高野山で等身金色釈迦如
来開眼供養の施主となること。奥州藤原氏の釈迦信仰の発信。鎮守府将軍としての名乗り。釈迦信
仰者であり鎮守府将軍であるとの強い自己意識。安元2(1176)年3月16日紺紙金字法華経書写。
「中尊寺金色堂所天聖霊藤原基衡 大檀主鎮守府将軍藤原秀衡 講師伝灯大法師」。世俗性の高揚
と自己拡大。
おわりに
秀衡期、多くの流人が平泉へ。後白河法皇近臣「凶悪之人」中原基兼。仏土平泉社会集団の雑居
性。膨張する仏土と統合への課題。「村ごとの伽藍」(『吾妻鑑』)。仏土平泉の表象に見る、奥
州藤原氏の柔軟・多元的外交。京都、奥羽に対して。奥羽仏の連合体としての平泉藤原氏。普遍的
釈迦(法華経)信仰による、もう一つの「日本」の歴史発展の道。
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11 世紀平安貴族社会における陸奥国の位置づけ
滑川 敦子
はじめに―本報告の経緯―
本報告は、共同研究「平安貴族の日記にみる陸奥国への関心―平泉文化をめぐる時代的環境―」
の成果の一部である。これまで平泉文化研究は、文献史学・考古学・建築史学・美術史学などさま
ざまな分野から行われてきたが、当文化の形成・発展をめぐる時代的環境を明らかにした研究は管
見の限り見あたらない。そこで平泉文化が開花した時期(11~12世紀)において、当該期の貴族の
日記(古記録)から陸奥国に関連する記事を博捜・抽出し、その分析を通して平安貴族が陸奥国に
ついていかなる関心を抱いていたかを明らかにするべく、上記研究テーマに取り組んできた。
今回の報告では、『小右記』・『御堂関白記』・『権記』など10世紀末期~11世紀初期の日記を
もとに、平泉の文化形成の前提となる摂関期の貴族社会のなかで、陸奥国がいかなる位置づけにあ
ったか考えてみたい。
第1章 10世紀末期貴族社会における陸奥国と陸奥守
(1)陸奥国における軍事貴族の存在形態
・10世紀半ば以降、北方支配の強化のため、陸奥出羽の国守あるいは鎮守府将軍・秋田城介に任
官した桓武平氏や秀郷流藤原氏などの軍事貴族が現地に下向。
桓武平氏…貞盛:天暦1年(947)鎮守府将軍見任、天延2年(974)陸奥守補任。
兼忠:天元3年(980)秋田城介補任。※貞盛弟繁盛子
維叙:正暦年中(990~995)陸奥守見任。※貞盛子
秀郷流藤原氏…文條(文脩):永延2年(988)鎮守府将軍補任。※秀郷孫
橘氏…時舒:天禄2年(971)出羽守見任。
→その子孫が土着していくなかで、在地の軍事的有力者の間での競合が発生。
・『今昔物語集』巻25-5における平維良・藤原諸任の紛争
…陸奥国で「余五君」(維良)と「沢胯四郎」(諸任)の田畠争いが発生。
当時の陸奥守藤原実方に各人の道理を訴えたものの、裁断が下されないまま実方は死去(長徳4
年<998>)したため、調停不可能になり合戦。
→維良:前出兼忠の子。陸奥国にて「国の然るべき者」としての地位を築き、「兵三千人許」を
動員する実力を保持。
諸任:前出秀郷の孫。従五位下を有する陸奥住人(「橘氏系図」『群書類従』5)で、「大君」
と称された橘好則の妹を妻とする陸奥の軍事的実力者。
(2)小一条家関係者の陸奥守任官
・平貞盛の陸奥守任官…天延1年(973)前後に蝦夷の反乱が発生し、その鎮圧のため天延2年
(974)に任官(『類聚符宣抄』第8・寛弘7年6月8日大江匡衡申文)。
→貞盛以降5代の陸奥守(藤原為長・藤原国用・平維叙・藤原実方)は、小一条家・藤原済時に 近しい人物。済時は師尹流藤原氏の出身で師尹の孫。
貞盛と小一条家の関係は、『尊卑分脈』において貞盛子・維叙が実は済時の実子と伝わってお
り、真偽は定かではないものの、貞盛と小一条家の結びつきを物語っている。
・小一条家関係者の陸奥守任官状況
…為長:済時の従兄弟で母親同士が姉妹。任期は天元3年(980)~永観2年(984)か。
国用:小一条家の家司的存在。任期は寛和1年(985)~永祚1年(989)か。
維叙:貞盛の子(済時の実子か)。任期は正暦1年(990)~正暦4年(994)か。
実方:済時の甥で養子。任期は長徳1年(995)~長徳4年(998)。
−31−
※維叙の陸奥守在任中、済時は陸奥出羽按察使を兼任(『公卿補任』正暦4年~長徳1年条)。
→代々関係者が陸奥守に任官することで、陸奥国から得られる収益を小一条家の家産として蓄
積。
・小一条家の武的性格について
…前出の『今昔物語』に見られるように、陸奥守になった小一条家関係者は在地において軍事的
有力者の調停役の担っており、場合によっては武力を行使しなければならない可能性も有していた
はずである。『尊卑分脈』によると、為任(済時子)・定任(為任子)が「被射殺」など物騒な一
族であったようである。また『大日本古文書』家わけ文書15・山内家文書所収の「山内首藤氏系
図」にて、済時の系統が先祖になっており、小一条家の武的性格は武家の先祖に相応しいものであ
った。
⇒小一条家は、武的性格を有しつつ軍事貴族と結んで陸奥を統治し、代々の陸奥守にその関係者
が任官することで、陸奥国から得られる収益を家産として確立・維持。しかし実方が在任中の長徳4
年(998)に当地で死去し、済時が実方任官の3か月後に急死するなど、残った小一条家では陸奥の
権益は守れず没落。小一条家とは所縁のない源満正が新たに陸奥守に任官。
第2章 11世紀初頭貴族社会における陸奥国と陸奥守
(1)道長関係者の陸奥守任官―源満正・橘道貞―
①源満正(清和源氏源経基の子・満仲弟)
・『日本紀略』正暦5年(994)3月6日条において、盗賊追捕に際し、満正は武者として動員さ
れたのが初見で、有力な軍事貴族としての立場を確立。
・上流貴族に混じって左京北部(一条)に居住(『御堂関白記』寛弘6年<1009>11月26日条)。
・『御堂関白記』寛弘5年(1008)3月27日条にみえる陸奥からの申請によると、藤原実方を
「前々司」、満正を「前司」と明記していることから、満正は実方の後任。
・満正の在任期間は長保1年(999)~長保5年(1003)か。
・『尊卑分脈』によると、満正の子忠隆は平維叙女を妻としており、平氏系の軍事貴族とも結
ぶ。
・陸奥守解任後も満政は道長に馬を献上するなど(『御堂関白記』寛弘1年<1004>12月27日条な
ど)摂関家との結びつきを強め、後年満政孫で長子忠重の女が藤原頼通の子通房の乳母に選ば
れるほど緊密な関係を構築(『栄花物語』巻24「わかばえ」)。
→しかし、満正の子孫は陸奥ではなく近江・美濃・尾張方面を拠点にして活動していくことに。
②橘道貞(橘仲任の子、和泉式部の夫で小式部内侍の父)
・任期は寛弘1年(1004)~寛弘5年(1008)と推定。
・道長子・頼通は療養のため道貞宅を訪問(『御堂関白記』長保1年<999>7月18日条)したり、
頼通の春日祭参列の折は道長邸宅を訪問・勤仕(『御堂関白記』寛弘1年<1004>2月5・6日
条)。
・道貞の従姉妹である橘徳子は一条天皇の乳母の一人であり、長保2年(1000)1月には従三位
に叙され(『御堂関白記』同年正月27日条)、「橘三位」と呼ばれた人物。
・長和5年(1016)4月、橘徳子の子で道長に家司として仕えた藤原資業が、道貞の死去を道長
に伝えており、道貞を「舅」と呼んでいることから(『御堂関白記』同年4月16日条)、資業
と道貞女に婚姻関係があったと推定。
→上記摂関家との関係のなかで、道貞は陸奥守に任官。
道長もまた道貞の陸奥国赴任につき心を尽くしている様子が散見(【表】参照)。また、道貞
は天皇家・摂関家の紐帯となりうる「乳母の家」(野々村ゆかり氏)に準ずる存在。陸奥にお
いては、康平5年(1062)源頼義に来援した清原武則軍の、それぞれ第2陣・第4陣の押領使に
橘貞頼・頼貞兄弟がおり(『陸奥話記』)、「貞」を通字としていることから道貞の子孫と見
−32−
られ、道貞は在地において軍事貴族的な志向を有した(野口実氏)。
(2)北方支配の安定にともなう陸奥交易御馬制度の定着化
・奈良時代以来、奥羽からの貢進物のなかには馬が含まれている。『類聚三代格』延暦6(787)
正月21日格によると、王臣百姓が争って「狄馬」を買うことを禁止されており、当時の貴族社
会において陸奥国の馬は夷狄との交易によって入手・貢進するものと認識。
・「陸奥国交易進御馬」「陸奥臨時交易御馬」「交易貢進御馬」
…延喜16年(916)~保安1年(1120)の間で26例を検出(大石直正氏)。
陸奥交易馬と明記されるものは、延喜16年(916)・天暦7年(953)・応和4年(964)・貞
元1年(976)・永祚2年(990)のみであるが、交易目的や数量が一定せず臨時的性格が強
い。
→10世紀末期から11世紀初頭にかけて、交易馬が20疋に定数化。
・正暦1年(990)の陸奥交易御馬
…陸奥守藤原国用、永延2年9月15日官符を蒙り交易貢進(『本朝世紀』正暦1年8月5日条)。
永延2年(988)から2年後に交易馬の貢進が実現したものの、官符では20疋とあったにもかか
わらず、実際貢進したのは10疋。
・正暦5年(994)の陸奥交易御馬(『為房卿記』応徳2年<1085>12月4日条)
…陸奥守平維叙による貢進。貢進された馬について、「交易御馬十疋、於左衛門陣分給、依疾疫
云々」とあり、定数通りに貢進できず。
・寛弘1年(1004)の陸奥国交易御馬(『御堂関白記』同年12月15・16日条)
…陸奥守源満正による貢進。定数20疋はクリアしたものの、寛弘1年12月は橘道貞が陸奥守に在
任しており、任期中に貢進できず。
・寛弘5年(1008)の陸奥交易御馬(『権記』同年12月4日条)
…宮中にて陸奥国交易御馬御覧が実施され、一条天皇が南殿に出御。
当時の陸奥守橘道貞による貢進と考えるならば、馬20疋を任期中に貢進できたことが確認。
→10世紀末期より制度化が志向された陸奥国交易御馬は、11世紀初頭に定着。
その背景には10世紀半ばより推進された北方支配の安定化があるが、鎮守府支配機構の再編の
なかで鎮守府在庁官人の統率者としての座を占めるに至った奥六郡安倍氏の存在が大きいと思
われる(樋口知志氏)。
第3章 陸奥交易御馬御覧の確立と陸奥国
(1)陸奥交易御馬御覧の確立
・陸奥交易御馬制度の定着化は、陸奥交易御馬御覧という新たな儀礼を確立。
・天皇が陸奥交易御馬を実見する行為自体は、10世紀前半にも実施されているが儀礼としては
確立していなかったと考えられる。天皇が交易馬を実見する場所として、延喜16年(916)
は南殿(紫宸殿)、天暦7年(953)は仁寿殿であり一定していない。
・儀礼の次第(『江家次第』巻19「御覧陸奥交易御馬事」)
a)御馬使が入京後、陸奥国解を太政官に付し、蔵人を通じて上奏。
※御馬使:陸奥御馬交易使のことで、馬寮の允か近衛府の府生・番長・将曹などを任命。
b)天皇が南殿(紫宸殿)に出御し、上卿が参入。
c)南庭にて左右各15疋(11世紀初頭は各10疋)の御馬を番長以下が牽き回し騎乗。
d)一院・東宮・執柄へ各1疋を牽き分ける。
e)上卿の召で左右近衛将・馬寮頭が参入し列立。
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上卿の仰せで、順次御馬を取り御前に引き出し、印名を申して退出。
この間に上卿が解文を奏上。
牽き分けた御馬に騎乗して馳走。
f)上卿、天皇が退出して儀礼終了。
g)次将が使となって一院・東宮・執柄へ御馬を牽く。
→甲斐諸牧駒牽とはほぼ同一の儀礼であるが、信濃諸牧駒牽との相違点は王卿の参列と左衛門陣
饗がないこと、近衛・馬寮への牽き分けが中心で王卿への牽き分けがないこと。
・『北山抄』において「除信濃御馬外、近代皆絶無御覧之儀、唯陸奥御馬所覧也、近例雖信乃
御馬、猶無御出」と明記され、陸奥交易御馬御覧では天皇の御出・御覧が重視。
→10世紀後半、武蔵・上野・甲斐の諸牧からの貢馬が遅延したり数量が不足する状況に。
式日や貢馬数の確保を試みたが、11世紀中期以降にはこの三国の駒牽は停止。それに伴い、
儀礼内容も変容し、一条天皇を最後に天皇の出御・御覧がなくなる。
→そうした国家儀礼の実情のなかで、陸奥交易御馬および陸奥交易御馬御覧の重要性がクロー
ズアップされ、当時の貴族社会のなかでの陸奥国やそれを統治する陸奥守の位置づけも変容。
(2)道長親近者の陸奥守任官―藤原済家・藤原貞仲―
①藤原済家
・済家は摂関家家司で、道長の母方の一族(山蔭流藤原氏)と同族で、道長とは従兄弟同士 (道長の母藤原時姫の兄弟・清通の子)。子済政や兄弟の輔公も道長の家司として活動。
・陸奥守任官以前には、子済政とともに敦成親王家の別当に就任(『御堂関白記』寛弘5年
<1008>10月17日条)しており、父子ともども道長の信任は厚かったと思われる。
・長和2年(1013)まで見任の陸奥守として見え(『小右記』同年7月20日条)、翌3年には前
陸奥守として表記されることから、済家の任期は寛弘6年(1009)~長和2年(1013)。
・『御堂関白記』長和1年11月17日条にみえる陸奥交易御馬御覧の記事は、済家の貢進による
ものであると判断され、陸奥交易御馬が制度的に安定し儀礼も任期中に円滑に遂行。
・陸奥守在任期間中、済家は幾度となく道長に馬を献上(【表】参照)。それ以前においては
軍事貴族(源満正・藤原兼光・平維良)による馬の献上が目立っていた。
→非軍事貴族出身の受領による馬の献上は、当該期の陸奥が安定していたことを物語る。
②藤原貞仲
・貞仲は前出の済家と同族(山蔭流藤原氏)。摂関家家司ではなかったものの、「親近左府 人々」のうちの一人とされ、道長とは近しい間柄(『小右記』長和1年<1012>6月29日条)。
・『御堂関白記』長和5年(1016)10月22日条に見任の陸奥守としてみえ、寛仁2年(1018)
8月に鎮守府将軍平維良との合戦が問題視された時まで見任を確認できることから(『御堂関白
記』同年8月19日条)、貞仲の任期は長和3年(1014)~寛仁2年(1018)か。
・貞仲による陸奥交易御馬は、寛仁1年(1017)12月に貢進された20疋と判断され(『御堂関
白記』同年12月3・5日条)、この時期もまた陸奥交易御馬・陸奥交易御馬御覧も円滑に実施。
・鎮守府将軍平維良との合戦
…第1章(2)①で述べたように平維良は陸奥国における軍事的実力者であり、貞仲はそれに 対抗しうる軍事力を有していたとも考えられる。
→古記録には見えないものの、『尊卑分脈』によると祖父為忠は検非違使・上総介・常陸介、
父高節は常陸介を歴任しており、在地の軍事的有力者である常陸平氏を武力として組織するな
かで武的性格を有していったとも考えられる。また、常陸平氏は海道平氏でもあり、出羽の清
原氏とのつながりをもつ武士団であり、広域的な武力が想定される。
−34−
おわりに
『延喜式』において「大国」と位置づけられた陸奥国は、10世紀以降、北方支配が強化されるな
か、桓武平氏や秀郷流藤原氏をはじめとする軍事貴族が鎮守府将軍などの関係官職に任官し、その
子孫は土着して、在地における軍事的実力者として成長していった。そうした軍事貴族と結んだ小
一条家は、代々関係者が陸奥守に任官することで在地で競合する軍事的実力者の調停役を担い、陸
奥国からの収益を基盤に自身の家産を確立していった。しかし、小一条家の実力者である済時や当
時陸奥守の任にあった実方が相次いで死去したことにより、以後小一条家からは陸奥守を輩出する
ことなく、その家産は維持できなくなった。代わって陸奥守に就任したのが、小一条家と対立関係
にあった藤原道長に近しい軍事貴族である源満政であるが、小一条家と所縁のある軍事貴族(平維
叙)と結びながら活動した。また小一条家の没落後、在地の軍事有力者は馬などの貢進を通じて時
の権力者である道長との結びつきを強めていった。
そうしたなかで10世紀以降強化されていった北方支配は11世紀初頭には一応の安定をみたよう
で、それは奈良時代より行われていた陸奥交易御馬の制度化にも反映されている。満正の代まで数
量不足だったり任期にずれこんで貢納されていた陸奥交易御馬は、橘道貞の代になって陸奥守在任
中に定数通りに貢進され、陸奥交易御馬御覧という新たな国家儀礼が確立した。この陸奥交易御馬
御覧は、従来の駒牽が衰退化するなかで、その重要度を増すことになり、11世紀初頭の貴族社会の
なかで陸奥国の位置づけも上昇していった。
その状況下で陸奥守に任官したのが、道長の家司であった藤原済家であり、従来の満正・道貞よ
りもはるかに道長に近しい人物である。済家は陸奥国の安定のなかで円滑に統治できたようで、従
来軍事貴族出身者が献上することの多かった馬を幾度となく道長に献上している。こうして陸奥国
からの収益が藤原道長家の家産の一部になり、以降陸奥国は道長もしくは頼通の家司3人が陸奥守に
任官しており(同じ大国である近江・播磨は5人)、貴族社会の中心的人物である道長あるいは頼通
にとって国政上、陸奥国は重要な国であると認識されていった。しかし、安定化していても時とし
て在地において紛争が起きることもあったようで、済家の後任の藤原貞仲は長年鎮守府将軍の任に
あった平維良と合戦を起こしている。
以上のように、10世紀末期から11世紀初頭の平安貴族社会における陸奥国と陸奥守を見てきた。
陸奥国は10世紀以来北方支配の強化が図られてきた場所であるだけに、統治する陸奥守は軍事貴族
のほか軍事貴族出身者ではなくても武的性格を有する貴族が多い点は特筆するべきである。正治2年
(1200)に成立した『官職秘鈔』のなかに、陸奥守については「以可然人任之。依兼鎮守府也」と
ある。今回考察対象にした10世紀末期から11世紀初期においては、陸奥守の鎮守府将軍兼任は見ら
れないが、古来より鎮守府将軍の職務(武力行使)を任せられるほどの力量のある「可然人」が陸
奥守に相応しいと考えられていた可能性はあるだろう。こうした人間関係の積み重ねが、のちに前
九年合戦・後三年合戦へと繋がっていくと思われるが、両合戦をめぐる政治的背景については今後
の課題としたい。
■参考文献
・泉谷康夫「摂関家家司受領の一考察」(同氏著『日本中世社会成立史の研究』高科書店、1992
年)。
・伊藤博「和泉式部と橘道貞」(『大妻女子大学文学部紀要』22号、1990年)。
・大石直正「奥州藤原氏の貢馬」(同氏著『奥州藤原氏の時代』吉川弘文館、2001年に所収)。
・岡野範子「家司受領について-藤原道長の家司を中心に-」(『橘史学』16号、2001年)。
・大日方克己「八月駒牽ー古代国家と貢馬の儀礼ー」(同氏著『古代国家と年中行事』吉川弘文
館、1993年)。
・加藤友康「摂関時代の地方政治」(『中央史学』31号、2008年)。
・土田直鎮「公卿補任を通じて見た諸国の格付け」(同氏著『奈良平安時代史研究』吉川弘文館、
1992年に所収)。
−35−
・寺内浩「受領考課制度の成立」(同氏著『受領制の研究』塙書房、2004年に所収)。
・中込律子「摂関家と馬」(服藤早苗編『王朝の権力と表象 学芸の文化史』森話社、1998年)。
・野口実「列島ネットワークの中の平泉」(入間田宣夫・本澤慎輔編『平泉の世界』高志書院、
2002年)。
・野口実「源平藤橘の軍事貴族」(『本郷』38号、2002年)。
・野々村ゆかり「摂関期における乳母の系譜と歴史的役割」(『立命館文学』624号、2012年)。
・樋口知志「『奥六郡主』安倍氏について」(『歴史』96輯、2001年)。
・渕原智幸『平安期東北支配の研究』塙書房、2013年。
・元木泰雄『武士の成立』吉川弘文館、1994年。
・元木泰雄『源満仲・頼光』ミネルヴァ書房、2004年。
−36−
平泉藤原氏の権力基盤に関する基礎的研究・中間報告(2)
七海雅人(東北学院大学)
はじめに-昨年度報告内容の整理-
【昨年度の報告内容から】
①平泉藤原氏の政治権力・主従制に関する基礎的研究として、その基盤となりえた人物を検出[七海
2014]。
A)一族の配置…
1.「比爪館」に拠った比 ( 樋 ) 爪氏:初代清衡の子息清綱の系統(『尊卑分脈』)。
2. 本吉冠者藤原隆 ( 高 ) 衡:3代秀衡の子息。陸奥国本吉庄を拠点とする。
3. 亘十郎清綱:上記清綱は『尊卑分脈』に「亘十郎」の通称を冠されていて、陸奥国亘理郡を拠
点としていたことが推測される。また『尊卑分脈』には清綱女子と信夫佐藤元治との婚姻関
係も見え(著名な継信・忠信兄弟をもうける)
、阿武隈川ルートによる亘理郡と信夫郡との連
絡関係がうかがわれて興味深い。
B)姻戚関係…
4. 常陸大掾氏(常陸国):初代清衡後期の妻の実家。この妻は清衡没後、佐竹義業に改嫁。
5. 佐竹氏(常陸国):上記佐竹義業子息昌義は清衡女子を妻とし、隆義をもうける。
6. 石川氏:陸奥国石川庄を拠点とする。石川有光は初代清衡女子を妻とし、元光をもうける。ま
た、元光は亘十郎清綱女子を妻とし、光義をもうける。一族は、柳之御所遺跡出土文字史
料「人々給絹日記」(折敷の再利用)にも所見。
7. 岩城氏:平泉藤原氏の出身とされる女性「徳尼」の伝承にもとづく、岩城氏と平泉藤原氏との
婚姻関係の推定。※「徳尼」伝承は中世後期以降に出現するとし、岩城氏と平泉藤原氏と
の直接的な関係を疑問視する理解あり[中山 2007]。
8. 佐々木氏:近江国佐々木庄を名字の地とする。3代秀衡の妻は佐々木秀義の「姨母」(『吾妻鏡』
)。※『吾妻鏡』が記す秀衡の妻の場合、世代的には合わないため、本例は基衡の妻のこと
を指していると考えられる(前川佳代氏のご教示)。
C)郎従・被官…
9. 信夫佐藤氏:陸奥国信夫庄を拠点とする。初代清衡以来の郎従(基衡の頃には「代々伝れる後
見」として所見)。上記のとおり、亘十郎清綱女子との婚姻関係。また4代泰衡の庶兄国衡
の母方の実家の可能性(国衡の「後見」として佐藤氏を想定)。奥州合戦後、元治は源頼朝
から赦免され、その子孫は御家人として所見。
10. 金剛別当秀綱・子息下須房太郎秀方:奥州合戦時、阿津賀志山陣地に配置。
11. 伴藤八:奥州合戦時、阿津賀志山陣地に配置。「六郡第一強力者」として所見。
12. 金十郎・13. 勾当八・14. 赤田次郎:奥州合戦時、陸奥国刈田郡平泉方陣地の「大将軍」。金氏
は陸奥国気仙郡(さらに磐井郡)を本拠とする。「中尊寺文書」天治3年(1126)3月 25
日、中尊寺経蔵別当職補任状案の署判者の一人に「金清廉」(40)が見える。
15. 熊野別当・16. 名取郡司:陸奥国名取郡を拠点とする。熊野別当は4代泰衡の「一方後見」と
して所見し、名取熊野別当に比定したい。奥州合戦後、ともに頼朝から赦免される。
17. 若九郎大夫・18. 余平六:奥州合戦時、陸奥国栗原郡平泉方陣地の「大将軍」。若九郎大夫の同
族として若次郎も所見。若氏は、音通から陸奥国和賀郡が名字の地に比定される。
19. 田河行文・20. 秋田致文:奥州合戦時、鎌倉幕府北陸道軍と対戦。出羽国田川郡・秋田郡を名
字の地とする「泰衡郎従」。田河氏は酒田湊を管掌し[綿貫 2014]、秋田氏は秋田湊を管掌
したと考えられる。
21. 由利惟平:奥州合戦時、鎌倉幕府北陸道軍と対戦。出羽国由利郡を名字の地とする「泰衡郎従」
。奥州合戦後、頼朝から赦免され御家人となる。
22. あかうそ三郎:出羽国赤宇曽郷を名字の地とするか。奥州合戦時、多賀国府の東北方に位置す
る陸奥国黒川郡・大谷保境の物見岡に布陣。
23. 大河次郎兼任・24. 新田三郎入道・25. 二藤次忠季:三人は兄弟。兼任は「泰衡郎従」として所
見し、八郎潟東岸周辺が拠点と推定される。忠季は奥州合戦後、幕府御家人となる。
26. 河田次郎:陸奥国比内郡を拠点とするか。平泉藤原氏の「数代郎従」として所見。
27. 豊前介清原実俊・28. 橘藤五実昌:京都官人。「人々給絹日記」より、和賀郡橘郷を拠点にした
と考えられる。奥州合戦後、実俊は幕府公事奉行人となる。
29. 中原基兼:京都官人。安元3年(1177)政変により解官、陸奥国配流。
30. 散位道俊・31. 小槻良俊:京都官人。初代清衡の代、平泉に在住。
32. 瀬川次郎:「人々給絹日記」に所見。文士か。稗貫郡瀬川が名字の地として考えられる。
33. 海道四郎:「人々給絹日記」に所見。清原真衡養子海道成衡の子孫か。
−37−
34. 石埼次郎:「人々給絹日記」に所見。名字の地の比定地は、陸奥国岩崎郡と稗貫郡岩埼村の二説
あり。奥六郡内の地名である後者の説をとりたい。
35. 大夫小大夫・大夫四郎:「人々給絹日記」に所見。信夫佐藤氏一族、平泉の主要社家の二説あり
。※仙台市宮城野区中野高柳遺跡における平泉との親密性を示す出土遺物を参照すれば、
多賀国府在庁陸奥介も候補にあげることができるか(入間田宣夫氏旧説への回帰)。
36.「タラウタユ」(太郎大夫か):柳之御所遺跡出土木簡片に記載(出土文字史料)。
37. 陸奥介:陸奥国八幡庄を拠点とする。上記中野高柳遺跡の経営主体と考えられる(同遺跡SX
1200 出土品を参照:宮城県教委 2005)。幕府御家人となる(八幡庄地頭職)。
38. 宮城県伊具郡丸森町大古町遺跡の経営主体:平泉との親密性を示す出土遺物より、平泉藤原氏
への従属を比定。※この遺跡については、12 世紀末に一旦活動が終了し、13 世紀後半か
ら再開される解釈がなされている[羽柴 2010:175 頁]
。前稿[七海 2014]では斎藤良治
氏のご教示を参考にして、この遺跡は奥州合戦後も継続して営まれているという理解を示し
た。羽柴氏の見解を受けて、さらに考えを進めたい。
39. 坂上季隆:
「中尊寺文書」天治3年3月 25 日、中尊寺経蔵別当職補任状案の署判者の一人として
所見。
②時系列による分類…
a. 初代清衡の世代:4・9・30・31・39・40。
b. 2代基衡の世代:3・5・6・8。
c. 3代秀衡・4代泰衡の世代:2・27・28・29・32・33・34・37・10・11・12・13・14・15・
16・17・18・19・20・21・22・23・24・25・38。
③地域別による分類…
a. 磐井郡(平泉)・気仙郡・奥六郡:1・12・40・11・17・27・28・29・30・31・32・33・34・
39(?)
。
b. 北奥:26。
c. 南奥:2・3・6・9・15・16・37・38。
d. 出羽:19・20・21・22・23・24・25。
【課題の設定】
①昨年度の作業をふまえて、平泉藤原氏の勢力範囲・拠点分布をあらためて考える。
②平泉藤原氏と鎌倉幕府との関係を考える。
1 平泉藤原氏の勢力範囲
【南奥との関係】
①平泉藤原氏の由緒の地である亘理郡掌握の可能性…
a.『尊卑分脈』に見える3. 亘十郎清綱の存在。
b. 奥州合戦の結果、幕府東海道大将軍の一方・千葉常胤は、亘理郡から行方郡を恩賞として給与され
る。
②信夫郡 ( 庄 ) の領主9. 信夫佐藤氏の郎従化。
→・初代清衡・2代基衡期において、平泉藤原氏の勢力は南奥阿武隈川流域部に配置。さらに、信夫郡
(・伊達郡)と亘理郡にはさまれた伊具郡 38. 大古町遺跡の出現へ。
③婚姻関係を足がかりとして、6. 石川氏一族との間に個別的な主従関係が形成。
a.『尊卑分脈』に所見する石川秀康(奥州合戦に際し平泉方に付き滅亡)は、3代秀衡から偏諱を受
けたと考えられる。※阿津賀志山陣地に拠った上記 10. 金剛別当秀綱・下須房太郎秀方父子や佐藤
三秀員(信夫佐藤氏の一族と推定)も同じ事例と見なしてよいか。
④磐井郡・気仙郡の南側に関しては、2. 本吉冠者藤原隆衡が本吉庄を拠点とする。
a. 藤原頼長領本良 ( 吉 ) 庄は、保元の乱(1156)により没官され後院領へ編入[『兵範記』保元2年
3月 29 日条]。
b. 頼長領時代から、現地における年貢の徴収・送進は、基衡が管理していた[『台記』仁平3年9月
14 日条]。この基衡の権限は秀衡へ相伝され、秀衡から隆衡へ分割相続されたと見られる。
⑤磐井郡東南部に立荘された高鞍庄も、上記本吉庄と同様に基衡が現地の管理にあたっていた。また、
宮城県栗原市花山寺跡の考古学的知見にもとづき、平泉藤原氏の直轄支配地の南端を栗原郡とする理
解が示されている[八重樫 2002]。
a.『吾妻鏡』は、奥州合戦における幕府軍の行軍について、栗原郡津久毛橋において和歌を詠む梶原
景高の姿を描く。これは白河の関を通過する際に同じく和歌を詠んだ梶原景季と対比させる演出で
あり、白河の関(陸奥国の世界へ)・津久毛橋(平泉藤原氏の直轄的な領域の世界へ)ともに境を
成す場と認識されていたことがわかる。※奥州合戦における平泉方「大将軍」の配置状況にも注意
[七海 2014]。また一ノ谷合戦において、熊谷直実子息直家は栗原郡姉葉白浪牧から得た馬「白浪」
を用いる。父直実が用いた戸立の馬とともに入手されたものであろう[『源平盛衰記』巻第三十
六]。
b. 宮城県松島町「瑞巌寺文書」所収「天台記」には、3代秀衡の死没にあたり、嫡子「頼平」(泰衡
−38−
のことか)が松島寺(天台宗延福寺)へ栗原郡を寄進したことが見える。
c. さらに秀衡は長岡郡へ進出し、27. 清原実俊の奉行によって小林新熊野社を造営した[『吾妻鏡』
建暦元年4月2日条]。この新 ( 今 ) 熊野社は、平泉においても北方鎮守の一つとして勧請されて
おり、その背景には秀衡と後白河上皇との連絡、さらには紀伊国熊野勢力との結びつきが措定さ
れている[菅野 1994、大石 2001]
。栗原郡に南接する長岡郡(江合川をのぞむ地区)に新熊野社
が造営されたことは、陸奥国の院分国化という動向の中で後白河上皇との連絡を強める秀衡が、そ
の王権との関係を背景にしつつ、直接影響力を行使し得る直轄的な領域の南進を志向した成果とい
えるかもしれない。
⑥4代泰衡の「一方後見」として、名取郡の 16. 熊野別当が所見。また冠川(現在の七北田川。当時
の河口は宮城県七ヶ浜町の湊浜)を挟んで多賀国府に対峙する八幡庄に拠った 37. 陸奥介の一族も、
秀衡との間に主従関係を形成したと理解したい。
a. 陸奥国押領使職への補任、また在庁拒捍使との連携(もしくは基衡自身が拒捍使に就いた可能性
[遠藤 2005])、そして熊野勢力との連絡という動向を介して、平泉藤原氏は国衙在庁層・国府周辺
地区へ接近したと想定される。
b. 旧北上川河口部牡鹿湊と阿武隈川河口部逢隈湊を掌握し、名取熊野別当(名取川下流部)・陸奥介
(冠川下流部)を配下に編制すれば、平泉藤原氏は三陸地域から多賀国府・南奥への沿岸部交通、
ならびにその範囲の内陸へ向かう河川交通に関与することが可能に。
【北奥・蝦夷地との関係】
①平泉藤原氏の郎従について、文献史料からは 26. 河田次郎しか見出せていない。※ 奥大道を介した
在来勢力との関係形成。
②北海道厚真町宇隆1遺跡から発見された常滑窯壺について、経塚の外容器としての利用が推定され、
この地域が平泉藤原氏の北方交易の主要拠点であったと指摘される[斉藤 2014]。
a. この遺跡と関連づけて、4代泰衡が逃亡するにあたり、蝦夷島を目指して「糟部郡」(糠部)へ向
ったと記す『吾妻鏡』の記事が注目される。外浜方面だけでなく、下北半島や八戸方面から北海
道南部太平洋側にいたる交通ルートについても、平泉藤原氏の勢力により開かれていた様相が推
測できるか[七海 2014]。この点、鎌倉時代末期、「蝦夷沙汰」職権を帯した津軽安藤氏惣領に付
属する相伝所領の一つに、糠部宇曽利郷(下北半島)があることも気をつけたい[斉藤 2009]。
b. 上記蝦夷島における平泉藤原氏の交易拠点は、鎌倉幕府によって継承され、津軽安藤氏も含めて
北条氏勢力が関与していく可能性。2007・08 年度に調査された厚真町オニキシベ2遺跡(アイ
ヌの墓所)からは、都市鎌倉や宮城県松島町瑞巌寺境内遺跡など北条氏との関係が強い地点にお
いて見出されるスタンプ施紋の漆器が見つかっている。
【出羽国との関係】
①上記陸奥国本吉庄・高鞍庄と同様に、藤原頼長領出羽国大曽祢庄・屋代庄・遊佐庄の現地管理も基衡
の任であった。
a. 一説に、比爪俊衡子息河北冠者忠衡の名字「河北」は庄内地方最上川北側の地域を指し、遊佐庄
河北大楯は忠衡の拠点であったという[羽柴 2010:301 頁、綿貫 2014]。
②鎌倉・南北朝時代の史料に、秋田郡・由利郡・田川郡内に所在する中尊寺領が認められるが(「中尊
寺文書」)、これらは平安時代以来の所領と考えられている[斉藤 2014:295 頁]。
a. この点、奥州合戦において、上記 19 ~ 22 の領主が平泉方として登場(4代泰衡の郎従)すること
と符合するのは興味深い。
③考古学の成果によれば、出羽国の遺跡内容は平泉と様相を異にし、「平泉とは外様的な関係であった
可能性が高い」という[八重樫 2002]。
→・①②の様相と③の知見をどのように理解するべきか?
2 平泉藤原氏と鎌倉幕府との関係
【治承・寿永内乱期の平泉藤原氏】
①朝廷の新たな官軍構想への編入…
a. 畿内・丹波・近江・伊賀・伊勢惣官平宗盛は、地域的軍事権力の連携による鎌倉幕府の追討体制
を構想。養和元年(1181)1月、秀衡宛ての頼朝追討宣旨が発給され、秀衡はそれを了承する請
文を提出(この時点で秀衡は鎮守府将軍に再任されていた可能性)[菅野 1996]。
b. 同年8月、平宗盛の申請によって秀衡は陸奥守に任官(鎮守府将軍兼帯か)。宗盛の申請に際し
て、後白河上皇は「くだんの国(陸奥)もとより大略慮掠、しからば拝任何事かこれにあらんや、
如何」と右大臣藤原兼実へ諮問。兼実は秀衡の陸奥守任官・城助職の越後守任官を認めるも、「両
国むなしく失いおわんぬの条、実に思慮あるべし」と述懐[『玉葉』養和元年8月6日条]
。※ こ
の秀衡への優遇措置に先んじ、頼朝が秀衡女子を娶る約諾成立の情報が兼実のもとへ届いている[
『
玉葉』養和元年4月 21 日条]
。この関係形成の中で、本吉冠者隆衡を介して頼朝へ糠部戸立の駿馬
が贈与されたものか。※寿永元年(1182)3月には、平頼盛が陸奥出羽按察使に任じられ、官制
上、平家一族も奥羽両国を管轄する体制がとられる[
『公卿補任』寿永元年条]。
→・陸奥守任官により、秀衡は多賀国府の機能を掌握下におさめる(留守所の接収)。
−39−
②後白河上皇との関係…
a. 貢馬については、陸奥守藤原基成の時期に、院への陸奥国司による貢馬が藤原氏による貢馬へ切り
替えられたと推定される[遠藤 2005]。※新出の出土文字史料「馬/日記」への関心(『吾妻鏡』
文治2年 10 月1日条に見える幕府貢馬送文のもとになるような文書か)。
b. 安元2年(1176)
、後白河院分として院近臣藤原範季が陸奥守に任官。さらに鎮守府将軍を兼帯し
、現地へ下向する[『公卿補任』建久八年条、『吉記』安元2年4月 17 日条]。※ 範季は、治承3
年(1179)平清盛による後白河院政停止にともない解官。後年、本吉冠者隆衡を京都にかくまう
[白根 2005]。
c. 元暦元年(1184)源義経による畿内近国の軍政が施行され、8月、伊勢平氏の乱にともない出羽
守平信兼が解官。10 月には陸奥守が秀衡から藤原宗長へ交替。ただし、この宗長の任官は院分に
よるものであり、秀衡は依然、後白河上皇と直接的な連絡を取り得たと考えられる。
【鎌倉幕府による陸奥「国土貢」の掌握・京都送進】[七海 2010]
①秀衡と頼朝との交渉…
a. 文治2年(1186)4月、陸奥国の「国土貢」=貢馬・貢金を鎌倉経由で京都へ進める秀衡の請文
が頼朝のもとへ届く。頼朝は、秀衡に対して「御館は奥六郡主」、自身について「予は東海道惣官
なり」とし、「国土貢」に関して「予、いかで管領せざらんや」、「かつがつ勅定の趣を守るところ
なり」と明言[『吾妻鏡』文治2年4月 24 日条]。この頼朝の行為は、秀衡の支配領域を奥六郡に
限定する意思を明確に表明した上で、寿永2年(1183)10 月宣旨の内容執行の一環に位置づける
ものと理解することができる。
b. この交渉に先んじて、文治元年(1185)12 月、頼朝の推挙によって源雅頼・兼忠父子の陸奥国知
行国化が実現(源義経・行家与同人捜索のため)[『玉葉』文治元年 12 月 27 日条、『吾妻鏡』文治
2年1月7日条]。陸奥国は院分国から離れる。
②鎌倉幕府による南奥地域領主層へのはたらきかけ…
a. 平家没官領白河領を関東御領(頼朝直轄領)へ編入し、文治2年(1186)、好嶋庄も関東御領とし
て成立。
b. 多賀国府においては、留守所(新留守所・本留守)や陸奥介の一族も平泉藤原氏と距離を広げてい
くと推測。※多賀国府は独自に文書を発給[「鹽竈神社文書」文治2年4月 28 日、公文所下文『
鎌倉遺文』90 号]。※松島寺衆徒は、頼朝の指示により義経滅亡の祈祷をおこなう[「天台記」]。
c. 奥州合戦に際して、石川氏一族が平泉方・幕府方に分裂。岩崎・岩城・楢葉・標葉氏は幕府御家人
へ編入。
→・平泉方・幕府方ともに、南奥の地域領主をいかに味方へ付けるかが重要な課題。
【「奥州羽州地下管領」権のゆくえ】
①奥州合戦後、鎌倉幕府は平泉藤原氏の先例を強調し、その継承者としての地位を自認。その法的根拠
は、奥州合戦を終えた頼朝が唯一朝廷に認めさせた、「奥州羽州地下管領」という奥羽全域にわたる
支配権。
a. それは「泰衡管領跡」であり、
「陸奥出羽両国知行」という勅裁によってなされたという[
『吾妻鏡』
宝治2年2月5日条]。
②それは、治承・寿永内乱期以降、奥羽両国の国衙軍制を領導して形成された、地域的軍事政権の一類
形のあり様[入間田 2013]。
a.「陸奥出羽両国諸郡郷地頭所務事、可レ守二秀衡・奉衡旧規一之旨、故将軍御時被レ定之処、各動境以
下事成二非論一之間、可レ任二彼例一之由、今日重被レ定之、且秀衡等知行之時、毎レ境懸レ札訖、以二其
古跡一、可レ令レ為二榜示一之由云々、広元・親能朝臣等依レ仰加二下知一、中村掃部丞相触二留守所一云
々」[『吾妻鏡』正治2年(1200)8月 10 日条]。※ 平泉において、「奥州羽州両国省帳田文已下
文書」が保管されていた。
b. 現地へ下向してきた出羽国知行国主の勢力に対し、合戦を引き起こす源義経の姿(泰衡・国衡兄弟
に推戴された大将軍としての義経)[『玉葉』文治4年2月8日条]。
③鎌倉幕府「奥州羽州地下管領」権の展開…
a. 正治2年(1200)5月、地頭畠山重忠から上申された葛岡郡(長岡郡)小林新熊野社の坊領境相論
に対して、有力御家人により訴訟に関する直接聴断権を停止されているはずの鎌倉殿源頼家が、そ
の絵図の中央に墨を引き、「所の広狭、その身の運否に任すべし」という裁許を下す[『吾妻鏡』正
治2年5月 28 日条]。
b. 建保3年(1215)幕府下文:地頭の荒野開発について、その土地は地頭別名として3か年以降は
雑公事を免除する。しかし、町別所当として准布 10 段を幕府へ納入しなければならない[「飯野家
文書」文永9年(1272)5月 17 日、関東下知状『鎌倉遺文』11033 号]。
→・「陸奥国にひろがる広大な荒野は、幕府の荘務権の如何にかかわらず、地頭たちの開発により、
反別一反の准布を納める関東御領と化していった」[筧 1992]。
c. 陸奥国に所領を保持する御家人、もしくは国内郡・保・荘全体に賦課されると考えられる「召米」
の存在(幕府政所が収取管理し、おもに幕府関係の寺社修造用途に宛てられる)。建治元年(1275)
六条八幡宮造営注文「陸奥国」項に見える「陸奥国 四貫文」も、この「召米」を意味しているの
−40−
ではないか[七海 1997]。※上記bの事例との関連は如何。
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中山雅弘 2007「中世前期の磐城」柳原敏昭・飯村均 ( 編 )『御館の時代』高志書院
七海雅人 1997「鎌倉幕府の陸奥国掌握過程」『中世の杜』東北大学国史研究室
同 2010「平泉藤原氏・奥羽の武士団と中世武家政権論」入間田宣夫 ( 編 )『兵たちの時代Ⅰ』高志
書院 同 2014「平泉藤原氏の権力基盤に関する基礎的研究(その1)」『平泉文化研究年報』14
羽柴直人 2010「東日本初期武家政権の考古学的研究」(博士(文学)学位論文)
宮城県教育委員会 2005『中野高柳遺跡Ⅲ』(宮城県文化財調査報告書 201)宮城県教育委員会・宮城県土木
部
八重樫忠郎 2002「平泉藤原氏の支配領域」入間田宣夫・本澤慎輔(編 )『平泉の世界』高志書院
綿貫友子 2014「奥羽の港町」平川新・千葉正樹 ( 編 )『講座東北の歴史 第2巻』清文堂出版
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日本国内における「平泉寺」について
伊藤 博幸
はじめに
私は昨年の平泉文化フォーラムにおいて、平泉―ひらいずみ―の読みは、元来へいせんで、その
源流は古代中国に求められ、わが国への将来の主たる契機は盛唐の宰相李徳裕の別業(別荘)であ
る平泉山荘に行き着くことを述べた(1)。それを媒介したのが平安前期にわが国に将来された白居易
(772 - 846)の『白氏文集』であることも近年の研究で明らかにされている(2)。
中国における平泉伝承は古く周代までさかのぼり、伝説上の聖山崑崙山の頂上の舂山にあって、
穏やかな清水が湧くところで、仙人が住む理想郷であった。それを平泉といった。
また、隋の煬帝の支持で智顗が創建した、天台山の天台宗国清寺のある佛壟山南麓の地は、それ以
前は道教の聖地で、平泉と呼ばれていた。やはり「地平らかにして泉清し」の空間であった。古く
より人々の信仰を集めた山岳霊場が、神仏信仰に際しても取り込まれる様相を見ることができる。
このような平泉概念や天台山と平泉名称との関係を、奥州藤原氏は承知していたようであり、磐
井郡衣川の地への命名の時期は、藤原敦光の「中尊寺落慶供養願文」草案作成時期とそれほど差異
がないと推定した。そして藤原清衡が接した平泉情報には、苑池・清水・林泉・竹林等々を備えた
大規模な邸宅であること、その源流は崑崙山にある理想郷であったこと、都とは離れた別業(別荘)
地であること、さらには楽園的隠遁生活の場であること等々であったと想定した。
今次報告は、これを踏まえてわが国における「平泉」問題をその成立に絞って考えてみる。その際、
資料とするのは国内に残るいくつかの「平泉寺」地名をトピックとする。
1.日本国内の「平泉寺」地名について
わが国の平泉―ひらいずみ・へいせん―地名の数は、それほど多くはない。次表に掲げるように「平
泉寺(へいせんじ)」が6例で、ほかに「平泉(ひらいずみ)村・平出水(ひらいずみ)村」が数例
あるに過ぎない(3)。
1)はじめに後者から見ていく。所在地としての「平泉」地名の読みはすべて「ひらいずみ」である。
①平泉遺跡(能代市比八田)、②平泉神社(三重県津市)、③平泉村(茨城県鹿島郡神栖町=現神栖市)、
④平泉村(新潟県佐渡郡金井町=現佐渡市)、⑤平出水村(鹿児島県大口市平出水=現伊佐市)がある。
このうち③茨城平泉村は、古文書に「平いつミ」として歴史的には 16 世紀末までその存在を遡るこ
とができる。④佐渡平泉は、旧佐渡郡金沢村と平泉村が合併して金井町となり字名として残ったも
のである。⑤の鹿児島平出水村は、河川名にも平出水川があり、地名としては、平泉・平和泉とも
記される場合がある。
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表 日本における平泉寺一覧表
№
名 称
千歳山平泉寺
所 在 地
山形市平清水
宗 派
天台宗
開創伝承
行基
如意山平泉寺
佐渡市畑野町丸 単立
霊応山平泉寺
山
勝山市平泉寺町 天台宗
泰澄大師
鳳凰山平泉寺
平泉寺
愛知県知多郡阿 天台宗
慈覚大師
平泉寺
久比町椋岡
三重県伊賀市西 浄土宗
平泉寺
湯舟平泉寺
福岡県京都郡苅 浄土宗
本 尊
大日如来
関連地名
平清水
その他
慈覚大師中興、林
毘沙門天
平白水
平清水
泉霊池
奥州平泉の榎氏が
平清水
再興
林泉御手洗池、秀
衡伝承あり
平安末期の木造阿
不動明王
弥陀如来
阿弥陀如来
平泉寺屋敷 兵火で焼失
田町上片島字平
関山中尊寺
泉寺
岩手県西磐井郡 天台宗
慈覚大師
阿弥陀如来
平清水?
平泉町衣関
平泉地名 12 世紀
中頃確認
2)次に前者の「平泉寺」について見ていく。所在地の寺院の読みはすべて「へいせんじ」である。
①は平清水焼で有名な山形平泉寺で、本堂は大日如来を納める大日堂。この場合、千歳山大日堂の
別当が平泉寺とする。本堂坂の東の林にある池は中興慈覚大師が錫杖で穿った霊池とされ、地名平清
水や寺号平泉寺はこの池に由来するとされる。地名平清水はもとは平白水と書いたという。源頼朝の
祈願所ともいわれる。大日堂左手の裏山には白山社が祀られている。
②佐渡の如意山平泉寺は字平清水にあり、寺伝では奥州平泉の榎五郎が、毘沙門天を負って諸国修
行中に当地に来て、元禄期に 11 世賢盛とともに再建したという。代々檀家総代を務める榎家を通称
平清水ともいう。
③はいわゆる白山平泉寺あるいは越前平泉寺である。元来が霊山としての白山信仰の拠点であり、
奈良時代初め泰澄大師開創といわれる。記録では、はじめは平泉と呼ばず、
「越前白山社」
「白山」とあっ
て神社を主体とした標記である。『縁起』等によれば、泰澄大師は境内の林泉で祈祷したところ、白
山神が現れ、その導きで白山の頂上を極めたという。その林泉が現在の御手洗池であり、字名平清水、
平泉寺の由来とされる。天文6年(1537)の奥書をもつ『霊応山平泉寺大縁起』には「秀衡は寿永
2年(1183)、白山へ銅像 2 体を奉納、平泉寺へは釣鐘を寄進。そして自分の住む城郭を平泉館と改め、
その後、愛孫1人を平泉寺に遣わした」と記され、これが奥州平泉地名が越前平泉寺に由来するとい
う伝承を生む。越前白山周辺には、さらにいくつかの奥州藤原氏に係る伝承を残すが、すべて秀衡(と
義経)に関わってのものである。また、白山神の管理者という意味合いから、白山別当平泉寺ともい
われる。
④愛知県知多半島にある平泉寺である。『当時縁起』によれば、慈覚大師円仁の創建で淳和天皇勅
願の寺という。文治年間源頼朝が当寺に泊まったともいう。本尊不動明王とともに木造毘沙門天立像・
木造阿弥陀如来坐像は作風を同じくする平安末期の様式。
⑤伊賀平泉寺は、18 世紀中ごろの文書によれば、湯舟村には桂岩寺・山庵寺・平泉寺が記されている。
明治初年廃寺となった桂岩寺・山庵寺は平泉寺が併合、浄土宗となった。
⑥福岡県平泉寺は、『京都郡誌』によれば、上片島字平泉寺屋敷には浄土宗の平泉寺があったが、
大友氏の兵火に罹り焼失したという。
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2.平泉寺の成立について
先の報告で、奥州平泉の地名として確認できる事例は、遡っても 12 世紀中頃だとした(4)。ここ
では歴史的にも記録類の多い越前平泉寺関係史料から、この問題を改めて検討する。
最近検討が進んでいる『泰澄和尚伝記』の中には、
「平泉寺」の名称は全く記されていないという(5)。
もちろん、のちの壮大な平泉寺境内に関する記述もないという。これは伝記史料であるが、中央の記
録、例えば平泉寺の末寺化について園城寺と延暦寺が争った事件を記す『本朝世紀』久安 3 年(1147)
4 月 13 日条にも「越前国白山社」「社領字平清水」とあり、「平泉寺」はない。
抑、今夜延暦寺僧綱已講等、依門徒訴群参法皇御所白河北殿、尋其由緒、以越前国白山
社、可為延暦寺末寺之由、所訴申也、件社、当時非叡山末寺、園城寺長吏僧正覚宗所執
行社務也、而社領字平清水住僧等、依僧正苛酷、猥注寄文、始所寄与延暦寺也、仍有此
訴
これによれば、越前国に白山社があり、当時白山社の社務は園城寺の長吏覚宗が執行していた。ま
た平清水には、僧らが居住していた。つまりこの段階、「平泉寺」という名称はなく、これ以後、す
なわち比叡山の末寺化して天台教団と結びついて一大勢力となる過程で「平泉寺」が成立していった
と考えられる(6)。
史料での平泉寺の初見は、『醍醐雑事記』長寛元年(1163)11 月日の左弁官下文である。
一、平泉寺僧徒、院領越前国牛原庄に居住し、所役に従わざるの事、
一、同時籠居の夜打・強盗の輩、還って当庄を冤凌するの事、
『源平盛衰記』には「城をば燧に構たり。平泉寺の長吏斉明は、木曾が下知に随て、門徒の大衆駆
催し、一千余騎にて」云々、『平家物語』(火打合戦)には「木曾義仲、身がらは信濃にありながら、
越前国火打が城をぞかまえける。彼城郭にこもる勢、平泉寺長吏斉明威儀師、」云々とある。
ちなみに発掘調査で、遺物の量が増加するのは 12 世紀からで、この時期に平泉寺の基礎が据えら
れ、その後、遺物は 14 世紀中頃に急増していく。
おわりにかえて―平泉の平清水について
2012 年 11 月、「平泉遺跡群出土文字資料検討会」が開かれ、その報告が翌年 3 月に刊行された
(7)
。このうち共同研究者の一人、時田里志氏が担当した「柳之御所遺跡出土の和歌状の書付について」
では、草書体の仮名文字と思しき文字について、
み□□□くに泉(ヵ)
みたりしひら(平)清泉(以下略)
と読み取り、和歌かとした。平清泉は「ひらしずみ」ないし「ひらいずみ」と読んでいる。なお、検
討会では同メンバーの平田光彦氏は、この読みを支持しない。
仮に「ひら清泉」とすれば、もう一つの読み「ひらしみず」の可能性はないであろうか。
つまり、和歌の中に平泉のもう一つの地名を読み込んだ可能性である。それが「ひらしみず」である。
この時代、平泉は平清水とも呼ばれていた可能性を指摘して本報告を終えたい。
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参考文献
(1)伊藤博幸 2014「「平泉」思想と藤原清衡」『平泉文化研究年報』第 14 号 pp.25 - 30.
(2)静永 健 2010『漢籍伝来―白楽天の詩歌と日本』勉誠出版 pp.113 - 119.
藪 敏裕 2013「平泉起源考」『平泉文化の国際性と地域性』汲古書院 pp.5 - 20.
(3)以下に述べる平泉地名等については、平凡社『日本歴史地名体系』本のうち「山形県の地名(体系6)」
(1990)、
「新潟県の地名(体系 15)」
(1986)、
「茨城県の地名(体系8)
」
(1982)、
「愛知県の地名(体系 23)」
(1981)、
「三重県の地名(体系 24)」(1983)、「福岡県の地名(体系 41)」(2004)、「鹿児島県の地名(体系 47)」
(1998)を参照し、うち山形平泉寺と福井勝山平泉寺は、現地調査を実施したものに基づく。その他につ
いても、最新情報になるよう補訂した。
(4)伊藤博幸 2014 pp.25.
(5)岩井孝樹 2007「泰澄と白山越前修験道」『仏教芸術』294 号 pp.64 - 91.
(6)松浦義則 2006「第二章 平泉寺の誕生と発展」『勝山市史』第2巻 pp.81 - 130.
松村英之 2012「白山平泉寺旧境内の貿易陶磁―青白磁仏像を中心に―」『第 33 回日本貿易陶磁研究
集会 記録された貿易陶磁発表要旨』日本貿易陶磁研究会 pp.105 - 116.
(7)岡陽一郎・阿部勝則・小岩弘明・時田里志・七海雅人・平田光彦「平泉出土文字資料の再検討 その2」『平
泉文化研究年報』第 13 号 pp.67 - 73.
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平成 26 年度研究集会「アジア都市史における平泉」
主催:岩手県・一関市・奥州市・平泉町
場所:奥州市役所江刺総合支所
平成 26 年 11 月 29 日(土)
10:00 受付開始
10:40 開会行事
10:50 基調報告 東アジアの都市史と平泉 妹尾達彦 氏 (中央大学)
12:10 昼食休憩
報告 13:00 中国唐・宋・元時代の都城の造営理念とその影響―考古学的発見を中心に― 董 新林 氏 (中国社会科学院)
13:55 アジアにおける都市と周辺 四日市康博 氏 (昭和女子大学)
14:30 東南アジア古代都市の特質をめぐって 友田正彦 氏(東京文化財研究所)
15:05 休憩
15:15 南アジアと西アジアにおける都市と宗教施設 濱崎一志 氏 (滋賀県立大学)
15:50 古代日本における宮都の成立と展開 橋本義則 氏 (山口大学)
16:25 アジア都市史からみる都市平泉の特質
玉井哲雄 氏(前国立歴史民俗博物館)
17:05 休憩
平成 26 年 11 月 30 日(日)
9:00 都市平泉の構成と構造、ほか 事務局
9:25 討 論【司会進行 吉田光男氏・佐川正敏氏】
討議題1:東・北アジア都城からみた都市平泉の特質(仮)
討議題2:アジアの都市と都市周辺部との関係からみた平泉の特徴(仮)
討議題3:アジアの仏教都市造営理念等との比較における平泉の特徴(仮)
12:35 昼食休憩
13:35 討議題4:中世都市出現期における都市平泉の意義(仮)
14:40 討論のまとめ
15:00 閉会行事
※ 28 日(金)に現地視察(拡張5資産のほか、都市平泉関連遺跡等)
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「アジア都市史における平泉」まとめと課題
【討議題1関係】
都市平泉は、都城との共通点を持ちながらも、自然地形にしたがった施設配置が意識されるな
ど、都城から大きく逸脱した構造とみることも可能である。その後の日本中世都市の萌芽と見な
し得ることを含め、アジア都市史において、ひとつの典型的都市形態が変容して発生した新たな
都市形態として独特の位置を占めている。
課題:平泉とアジアにおける他の仏教都市とを比較した上で、都市平泉が「独特」といえるか。
【討議題2関係】
アジア都市史の観点においても、
「平泉」を「中心区域」と「周辺区域」とに区分することが
可能であり、アジアの事例に即して考えた場合、達谷窟、白鳥舘遺跡、長者ヶ原廃寺跡、骨寺村
荘園遺跡は、都市を構成し、あるいは支える施設としての意義を持つ可能性が考えられる。
課題:
「平泉」の「中心区域」がどのように定義され、
「周辺区域」との関係がどのような資料によっ
て具体的に証拠づけられるか。
【討議題3関係】
「平泉」造営の主軸となった浄土思想は、聖なる山を基点として、
「中心区域」が寺院、浄土庭園、
居館、鎮守社等の施設によって構成される独特の都市形態を発現させ、アジアにおける他の都市
における仏教及びその他の宗教も含めて、それらの反映とは少し異なり、仏教ほか宗教理念の都
市設計への反映の程度、深み、この点で独自性・固有性を持つこととなった。
課題:「平泉」の造営における仏教理念の反映はどのように具体化されるか。
【討議題4関係】
都市形成の画期は、アジア各地域においてさまざまな形態をとるが、「平泉」は、主軸となる
宗教理念が都市設計に強力に反映して主要施設が配置され新たな都市形態が生み出された点、そ
の文化的・経済的背景に国家領域を超えた広範囲の交流・交易が介在した可能性が高い点、で重
要な画期となっており、アジア都市史において独自の意義を有するものである。さらに、都市史
研究の観点からすると、平泉を研究することは、ひとつの典型的な都市形態(都城)が、ひとつ
の文化的領域の周辺域に伝播したのち、宗教理念との複合により変容した新たな都市空間を示す
という点で重要な役割を持つと考えられる。この点においても、
「平泉」の果たす役割は極めて大
きい。
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