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災害と蓮田~太古からの人々の対応~(PDF:5565KB)
໎ ܹ 段ノ原 B 遺跡地割れ跡(約 6,000 年前直下型地震) ˖ᴾဒᴾޒ 2014 と ᔨ 金井東裏遺跡古墳人(6 世紀初頭榛名山噴火) ဋ 降灰浚せつ願 ( 天明 3 年浅間山噴火 ) 年貢 5 ヶ年減免願 ( 天明 4 年飢饉 ) 蓮田市文化財展示館 〒349-0101 蓮田市大字黒浜 2801-1 TEL 048-764-0991 堤防修築記 ( 明治 43 年水害 ) 企画展開催にあたって 蓮田市文化財展示館は、郷土資料館に代わる施設とし 確認しながら、災害に対する備えなどに て、平成 22(2010) 年 4 月 1 日に「蓮田市役所」 、 「国指 ついて考えると共に、現在生活する私た 定史跡黒浜貝塚」隣接地に開館いたしました。 ちへの一助となれば幸いと存じます。 蓮田市内には、国指定史跡「黒浜貝塚」を始めとして、 また、蓮田市文化財展示館には数多く 県指定考古資料で通称『寅子石』と呼ばれる県内2番目 の貴重な資料が所蔵されております。今 の大きさを誇る「板石塔婆」、国選択無形民俗文化財・ 後も企画展示、季節展示などの機会を作 県指定無形民俗文化財「閏戸の式三番」など多くの文化 り、市民の皆様に所蔵している文化財 財が存在しています。 だけでなく、市内に眠る様々な文化財、 キャラクタードキ丸 今回の 2014 企画展「災害と蓮田~太古から様々な災 関連する事柄についても広く公開、活用するように今後 害と向き合った人々~」は、東日本大震災から 3 年半が も努めてまいります。 経ち、関東大震災からも 90 年以上の歳月が経ちました。 平成 26(2014) 年 10 月 28 日 この展示をとおして、改めて今まで人々がどのような災 蓮田市文化財展示館 害に遭遇し、どのように対応してきたか、過去の歴史を 館 長 斎藤 昇 蓮田市文化財愛護 災害と蓮田 - 太古から様々な災害と向き合った人々 「災害」は多くの場合、自然現象に起因する自然災害 ◆ はじめに ◆ (天災)を指しますが、近年では人為的な原因による事 東日本大震災から3年半が、関東大震災からは 90 年 故(人災)も災害に含むように変化しています。一般 以上の歳月が経ちました。災害はこれらの地震だけでな 的には人災のうち、被害や社会的影響が大きく、救助 く、火山噴火、水害などもあり、近年では竜巻などによ や復旧に際して通常の事故よりも大きな困難が伴うよ る風害なども影響を及ぼしてきています。関東大震災の うな事態を災害と呼んでいますが、 「事故」と「災害」 発生(大正 12 年:1923)から 90 年以上が経過した今回は、 の使い分けは明確ではない部分があり、場面によって 過去に蓮田に発生した災害だけでなく、全国的に確認で も定義が異なると考えられます。また、自然災害に関 きる事例も重ね合わせながら、当時の人々が、その災害 しても、洪水や土砂崩れなどの現象が発生したとして に遭遇した際に、どのように対応してきたか過去の歴史 も、被害や損失を受けた人がいなければ、「災害」とは を確認しながら、災害に対する備えなどについて、再び 呼ばないことから、 「災害」はその原因となる現象に人々 皆さんと考える機会にしたいと思います。 が遭遇して初めて成立すると考えられます。 なお、災害対策基本法による定義では、 「災害」を「暴 ◆ 災害の種類 ◆ 風、豪雨、豪雪、洪水、高潮、地震、津波、噴火その 災害とは、 「その要因 ( 素因や原因など ) が自然的な 他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発そ ものであれ人為的なものであれ、人間および人間社会に の他その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政 なんらかの破壊力が加わり、人命が失われたり、社会的 令で定める原因により生ずる被害」と定義されていま 財産等が失われることによって、それまでに構築されて す(災害対策基本法 2 条第 1 号) 。 きた社会的均衡が崩れることをいう(世界大百科事典) 。 」 ◆ 自然災害の種類 ◆ とあり、古代から気象などの自然現象の変化、あるいは 人為的な原因などによって、人命や社会生活に対する被 自然災害も分類すると、次のように大きく分類でき、 害を生じる現象で、様々な災害が人々に被害を与えてき さらに細分が可能となります。 たと考えられます。 − 気象現象 ー 気象災害は数種類あります。水 - 1- 害は、低気圧・台風・梅雨前線などの集中豪雨や大雨、 の感染症、AIDS、エボラ出血熱、SARS、新型インフルエ 洪水、鉄砲水、高潮など。土砂災害では、土石流、が ンザなどの新興感染症も問題となっています。 け崩れ、地すべり、天然ダム崩壊など。風害は、低気圧・ − その他 ー これらの自然災害の他に最近で 台風・竜巻などの突風や暴風による倒木、家屋や建物の は、人災の例ともいえる戦争(戦災) 、テロ、暴動(強奪、 破損・倒壊、農産物への被害、船の座礁など。砂塵を伴っ 放火、暴力など) 。様々な不慮の事故(交通事故、列車 た砂嵐、高潮・高波に伴う浸水や、海水・潮風が吹き 事故、飛行機事故、海難事故、水難事故、遭難、製品欠 付けることによる農作物や植物への塩害。雪害は、吹 陥に伴う製品事故、食品事故、医療事故) 、爆発、毒物 雪、ブリザード、雪崩、大雪による交通機関のマヒなど。 拡散、大気汚染、水質汚染、土壌汚染、騒音、振動、悪臭、 着氷害は、船や航空機への着氷による航行障害。凍結 地盤沈下だけでなく、社会的被害(報道被害、風評被害、 害・霜害は、農産物や植物への影響。雹による建物破損、 取り付け騒ぎ)にあてはまる場合も想定されます。 農産物への被害。落雷による構造物の破損、火災、電撃・ 原子力災害(原子力災害対策特別措置法第 2 条)では、 誘導雷による電気的被害。高温・低温による農・海産 「原子力緊急事態により国民の生命、身体又は財産に生 物への被害。少雨 ( 干ばつ) ・寡照 ( 日照不足 ) による農・ ずる被害をいう」と定義されています。平成 11(1999) 海産物への被害などがあります。 年に発生した東海村 JCO 臨界事故では、同日中に政府対 − 地質現象 ー 地質現象では、主に地震と火山 策本部が自衛隊による支援準備を整え、翌未明の茨城県 噴火が挙げられ、大きな被害をもたらすことが度々あ 知事からの災害派遣要請を受けて、陸上自衛隊化学防護 ります。地震では、揺れによるがけ崩れ・地滑り、隆 隊が出動しましたが、当時の陸上自衛隊には、中性子線 起・沈降・地割れによる地形変化、地盤沈下、液状化 に対する防護能力がなく、除染活動は行ったものの、事 現象。津波などによる道路の寸断、橋や塔、建物の倒壊、 故終息へ向けて主だった活動は行われませんでした。平 ライフラインの寸断、浸水、建物の流失、塩害。火山 成 23(2011) 年 3 月 11 日に発生した東北地方太平洋沖地 噴火による火砕流・火砕サージや溶岩流による埋没・ 震による福島第一原子力発電所事故に対応するための 高温害、火山灰、火山弾、空振、火山ガスによる中毒・ 派遣要請が唯一の派遣実績であり、事故を受けて内閣総 窒息、湖水爆発、太陽光を遮る(日傘効果)事による 理大臣は原子力緊急事態宣言を発し、防衛大臣に対し原 冷害。積もった灰が雨などと一緒に一気に流れるラハー 子力災害派遣を要請しています。翌日には、福島第二原 ル(火山泥流)などがあります。 子力発電所に対しても部隊派遣要請がなされ、中央特殊 − 天文現象 ー 天文現象では、隕石の落下に伴 武器防護隊や全国の化学科部隊が出動し海空自衛隊が う地表への衝突による土砂の飛散、構造物への衝突に 支援しています。救援体制強化のため、17 日の防衛大 よる被害。巨大隕石落下による津波、粉塵による太陽 臣の命令により中央即応集団司令官を指揮官とする統 光の遮断(隕石の冬) 、地殻津波。太陽活動・大規模フ 合任務部隊 (JTF) の原子力災派部隊が編成され、JTF は レア(爆発)による被害、太陽嵐により放出される電 大臣命令により解組しましたが、原子力災害派遣は除染 磁波・粒子線、太陽エネルギー粒子線による宇宙滞在 活動なども含め、12 月 26 日まで続けられました。 者への影響、デリンジャー現象、磁気嵐などがあります。 ◆ 過去の災害事例 ∼記録の無い・少ない時代∼ ◆ あまり馴染みがなく理解し難いと思いますが、2013 年 2 月にロシア連邦チェリャビンスク州の人口密集地 文字がない時代である旧石器時代から縄文時代には、 帯上空を隕石が通過し、衝撃波により多数の人が負傷 どのような災害があったのか、知り得ることはできませ し、初の大規模災害となりました。 ん。しかし、発掘調査などの中で、地震や噴火痕跡が発 − 生物現象 ー 生物によるものは、害虫・害獣・ 見されることがあります。ここではそれらの災害につい 害鳥による被害があげられます。バッタやウンカの大 てご紹介しながら、太古の人々の対応について考えてい 量発生による蝗害 ( こうがい)、アブラムシ・カメムシ きます。 による食害、シカやイノシシ等による食害、病原体に − 縄文時代の地震 ー 福 島 県 段 ノ 原 B 遺 跡 よる農作物への病害。ハチ、ケムシによる刺害。クマ は、約 6,000 年前の縄文時代前期関山式土器と同時期の による襲撃。シロアリによる家屋木材の食害。この他、 遺跡であり、かなり大きなムラであったことが分かって インフルエンザ、腸管出血性大腸菌による食中毒など います。このムラを直下型地震が襲い、かなり大きな被 - 2- 災 害 年 表(1) 西 暦 姶良カルデラ噴火(鹿児島湾北部に直径約 20 ㎞のカル 2,6000 年前 デラで 3 回大噴火、影響は関東以北までも及ぶ) 約 11,500 年前 縄文時代 約 7,300 年前 早期 関東・埼玉・蓮田のできごと 日本の主なできごと 元 号 約 2,9000 ∼ 旧石器時代 桜島テフラ噴火 ※ 「テフラ」とは、火山砕屑物(火山灰・軽石など)に同義。 鬼界カルデラ ( 薩摩硫黄島 ): 噴火(噴出量 170 ㎦と最 大規模、広域テフラ『鬼界アカホヤ火山灰』を放出) 約 6,000 ∼ 前期 浅間山噴火(E 層) 7,000 年前 5,350 ∼ 5,450 年前 津波と十和田噴火(大谷海岸で古津波堆積層(津波痕跡) の直上に十和田火山灰が覆う) 約 4,400 ∼ 前∼中期 浅間山噴火(D層) 5,500 年前 3,650 ∼ 後期 津波痕跡(福島県新地町双子遺跡、王ノ壇遺跡) 3,800 年前 2、750 年前頃 約 2,500 年前 2,400 ∼ 2,500 年前 約 2,400 年前 弥生時代 富士山 4 回爆発的噴火(仙石スコリア (Sg)、大沢スコリア (Os)、大室スコリア (Om)、砂沢スコリア (Zn)) 十和田噴火(十和田b火山灰) 宮城県仙台市北目城跡に噴砂(地震痕跡) 奈良県御所市中西・秋津遺跡・岡山県津島岡大遺跡で洪水跡 約 2,300 年前 2,100 ∼ 中期 2,000 年前 富士山東斜面で大規模な山体崩壊【御殿場泥流】 仙台市王ノ壇遺跡に噴砂 ( 地震痕跡)、同沓形遺跡では 水田を津波堆積層が覆う。【地震と津波発生】 約 2,000 年前 高知県土佐市蟹ヶ池(海岸から400m内陸で津波堆積物確認) 約 1,800 年前 終末期 岡山県鏡野町久田原遺跡・久田堀ノ内遺跡洪水(土石流)痕跡(外京都・大阪の遺跡も) 4 世紀中頃 古墳時代 416 天武 13 年 浅間山噴火(浅間 C ) 飛鳥宮 ( 大和国/現・奈良県明日香村 ) で地震。 (日本書紀:最初の地震記録) 495 ∼ 6 世紀初頭 榛名二ツ岳渋川噴火(FA:金井東裏遺跡などが被災、蓮田 にも降灰:馬込八番遺跡 5 号墳) 520 ∼ 6 世紀中頃 榛名二ツ岳伊香保噴火(FP:渋川市黒井峯遺跡などが被災) 599 延暦 19 年 大和国地震(日本書紀 ) 684 天武 13 年 白鳳地震(天武地震:同時期に東海と東南海地震が発生、田畑約12㎢が沈下し海:日本書紀) 698 文武 2 年 下総国で大風(民家倒れる:続日本紀 ) 701 大宝元年 相模国など 17 ヵ国で大風(続日本紀 ) 714 和銅 7 年 武蔵、下野など 6 ヵ国に大風(続日本紀 ) 715 霊亀元年 飢饉(地域不明)、三河・遠江国で地震(天竜川が塞き止められ、数十日後に決壊し洪水) 735 天平 7 年 天然痘流行(藤原四兄弟ら相次ぎ死去 : ∼ 38) ※疱瘡=天然痘ウイルスが病原体の感染症で高い致死率 745 天平 17 年 ※早害=日照り続きで農作物に被害が出ること 下総国など 9 ヵ国で早害(続日本紀 ) 758 天平宝字 2 年 毛野川(鬼怒川)洪水(記録に残る関東で最も古い洪水「二千余頃の良田荒廃」 ) 764 天平宝字 8 年 桜島天平宝字噴火(∼ 766) 下総・常陸・上野・下野などで旱魃(続日本紀 ) ※旱魃=かんばつ、ひでり 768 神護景雲 2 年 この頃下総・常陸で洪水頻発(続日本紀 ) 769 神護景雲 3 年 神火(不審火)で入間郡の正倉・糒穀焼失(続日本紀) 790 延暦 9 年 坂東諸国に旱魃(続日本紀 ) 802 延暦 21 年 富士山噴火(足柄路を廃し、箱根路を開く(日本紀略外)) 818 弘仁9年 7月、弘仁地震(相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野国、百姓多数圧死 ( 類聚国史) 、深谷市皿沼西遺跡に地震痕跡) 838 承和 5 年 天上山(神津島)噴火、武蔵国に降灰(続日本紀) 858 天安2年 下野国大風、武蔵国水害?(日本三代実録) 862 貞観 4 年 864 貞観 6 年 常陸国に毎年の如く水早(日本三代実録) 5月、富士山貞観大噴火(現在の精進湖 、 西湖、青木ヶ原樹海を形成) 、下総国に水早(日本三代実録) 865 貞観 7 年 武蔵国に早霜、水害(日本三代実録) 866 貞観 8 年 武蔵国に早害(日本三代実録) 869 貞観 11 年 5 月、貞観地震(地震に伴う津波(貞観津波)被害がで死者約 1,000 人、多賀城損壊。茨城県沖連動の可能性も?) 871 貞観 13 年 東海・東山道等の諸国の名山・大沢・諸神に朝廷が降雨を祈らせる (日本三代実録) 878 元慶2年 9 月、元慶地震(相模・武蔵地震、圧死多数 : 日本三代実録) 879 元慶 3 年 上総国に災害多発(日本三代実録) - 3- 地割れ痕跡(福島県相馬市段ノ原B遺跡) 地割れ痕跡の断面(同) 害を受けたと 川 テ フ ラ (Hr-FA:6 世 思 わ れ ま す。 紀 初 頭、 一 説 に は 5 世 しかし、人々 紀末の説もある ) と二 は他へ移り住 ツ岳伊香保テフラ (Hr- まずに同じ地 FP:6 世紀中頃 ) と呼ば で直ぐに復興 れる近い時代に相次ぎ を始めたよう 噴火しています。周辺の (群馬県渋川市 金井東裏遺跡) です。人々は 渋川市有馬条里遺跡で 地震でできた は、5 世紀後半の畠が 6 地割れ痕跡を 世紀初頭の火山泥流で全 活用し、廃材 滅します。しかし、この などを燃やし 被災に直ぐ向かい合い 6 たと思われる 世紀前半には火山泥流の 痕跡(左写真) 上が全面的に水田化されます。 も発見されて ところが、6 世紀中頃に再び噴 います。人々 火で被災し、1.5 mの火山泥流 甲を着た古墳人 首飾りの古墳人(同) の対応力のたくましさを感じさせる事例でしょう。 で全滅します。しかし、6 世紀 このような痕跡は、旧石器時代の長野県上ノ原遺跡で 後半には、火山泥流の上に再び も約 2 万年前の断層が確認されています。古くから人々 竪穴住居が出現し、11 世紀代 は災害と向かい合っていた事例と言えるでしょう。また、 まで継続的に営まれています。 縄文時代前期の事例としては、長野県茅野市阿久尻遺跡 人々の逞しさをうかがうことが でも断層が確認されており、縄文時代前期に多くの地震 できる事例です。 が起こっていた可能性も考えられます。市内の関山貝塚 蓮田市内でも近年初めて埴輪 榛名山二ツ岳噴火で堆積した や黒浜貝塚の人々もこれらの地震に驚いたことも想像さ が出土した馬込八番遺跡5号墳 軽石(Hr-FP)と火山灰(Hr-FA) れます。資料借用している福島県双葉町郡山貝塚の人々 の周溝内から榛名山二ツ岳渋川テフラ (Hr-FA) と思われ もこの災害に遭遇したことも想定されますが、段ノ原遺 る火山灰が発見されています。人々はこの噴火と降灰に 跡の人々のようにたくましく向き合ったことでしょう。 驚き戸惑いながらも対応したことでしょう。 − 古墳時代の火山噴火 ー 火山噴火による被 このような噴火災害は、古くは鬼界カルデラ ( 薩摩半 災事例は、平成 24(2012) 年に調査された群馬県渋川市 島と屋久島の間の直径約 20 × 17 ㎞の二重カルデラ ) の 金井東裏遺跡では、甲を着た古墳人が発見され、災害に 噴火 ( 約 95,000 年前と約 7,300 年前 ) から始まり、姶 被災した事例として貴重なだけでなく、甲を装着した状 良カルデラ(鹿児島湾北部にある直径約 20 ㎞のカルデ 態で発見された貴重な事例でもあります。 ラ)の噴火 ( 約 25,000 年前~ 22,000 年前 ) など旧石器 また、周囲から他に 3 体の人骨も検出されており、集 時代から、人々は度々遭遇していたと推測されます。 団での被災事例ともいえるもので、女性と思われる首飾 − 水害の事例 ー 市内関山 3 丁目の荒川附遺跡 りをしている状態で発見されたことも貴重な例です。 では、発掘調査で一番低い所に位置する 8 世紀代の住居 榛名山二ッ岳 ↓金井東裏遺跡 Hr-FP Hr-FA 遺跡は 跡が削り取られている事例(写真青線の右側が削り取ら 写真のよ れる)が見つかって うに榛名 います。また、この 山の麓に 上の層にも砂が被っ 位置して た痕跡が確認されて い ま す。 います。これらは、 榛名山は 二ツ岳渋 「続日本紀」などに ↑洪水により削られた部分 ↑洪水により削られた部分 記載されている水害 水害を受けた住居(荒川附遺跡) 金井東裏遺跡遠景(北東から) - 4- 災 害 年 表(2) 西 暦 関東・埼玉・蓮田のできごと 日本の主なできごと 元 号 887 仁和3年 浅間山噴火 7月、仁和地震 ( 南海地震:地質調査によればほぼ同時期に東南海・東海地震も発生) 915 延喜 15 年 十和田湖噴火(歴史時代最大の噴火、火山灰(十和田a火山灰)が東北一帯に降積(扶桑略記) ) 1092 寛治 6 年 東国洪水、東国諸国で甚雨(後二条師通紀) 1096 永長元年 永長地震(東海地震:死者 1 万人以上、400 余戸流失) 1099 康和元年 康和地震(南海地震:死者数万と推定) 1108 嘉承 3 年 浅間山噴火(浅間 B、上野に大被害(中右記)) 1128 大治 2 年 1181 養和元年 浅間山噴火(上野国砂降り被害(長秋記)) 下野国暴風(吾妻鏡) 養和の飢饉( 『源平盛衰記』や『方丈記』 、 『玉葉』、 『吉記』、 『百錬抄』 など史料多) 1188 文治 4 年 大風、大風雨、洪水(吾妻鏡) 1190 建久元年 1200 正治 2 年 関東大風雨(2 回:吾妻鏡) 南海・東南海・東海地震(静岡県上土遺跡、大阪府石津太神社遺跡、和歌山県箕島藤波遺跡、川関遺跡に地震痕跡) 1201 建仁元年 大風雨 2 回(千余人漂没、吾妻鏡) 、大風 1206 建永元年 関東一円水害(利根川洪水) 1209 承元3年 ※鳴動=地が鳴り響き、揺れ動くこと 2月、武蔵国鷲宮鳴動す(地震) 1210 承元 4 年 ※霖雨=ながあめ 諸国霖雨洪水、諸国作物損亡 1214 健保 2 年 ※炎旱・旱天=ひでり 地震 4 回、炎旱・祈雨 2 回、暴風雨(吾妻鏡) 1220 承久 2 年 大風、風雨烈(人家倒壊・流失:吾妻鏡) 1224 貞応 3 年 炎旱・祈雨 2 回、大地震(吾妻鏡) 1225 嘉禄元年 霖雨旬日、疫病(死者数千人)、炎旱 1228 安貞 2 年 大地震、大風雨、咳病(がいびょう=咳の病気)流行 1229 寛喜元年 暴風雨(稲に大被害)、雷雨、大地震(吾妻鏡) 1230 寛喜 2 年 寛喜の大飢饉(∼ 31:長雨と冷夏、霜、大洪水、暴風 関東大風雨洪水(溺死多数)、武蔵国金子郷で雹 雨と災害が続き農作物に大被害) 1232 貞永元年 飢饉、武蔵国柿沼堤大破 1236 嘉禎 2 年 大雨 3 回、降雹(みかん大) 1244 寛元 2 年 炎旱・祈雨、大雨大洪水、咳病流行 1252 建長 4 年 1253 建長 5 年 降雨雷鳴、炎旱・祈雨 2 回 ※甚雨=激しく降る雨、大雨 大風甚雨雷鳴、大地震 2 回 1256 建長 8 年 1257 正嘉元年 大雨洪水、寒暑不順につき祈祷 ※霹靂(かみとき)=雷の落ちること 正嘉地震(関東南部地震、炎早・祈雨、雷電霹靂、北足立 郡与野で疫病流行(∼ 58) 1259 正元元年 大風雨水、飢饉・疫病 1260 文応元年 大暴風雨、洪水(山崩れあり多くの圧死者) 1263 弘長 3 年 大旱魃、その後大風雨 3 回 1266 文永 3 年 雷雨、雹、大地震 1292 正応 5 年 7 月 大洪水(武蔵国にも被害) 1293 永仁元年 4 月、鎌倉大地震(山崩れ、関東一帯社寺民屋倒壊算なく、 死者 2 万) 、旱魃(鎌倉大日記他) 1306 嘉元 4 年 1310 延慶 3 年 地震、武蔵国洪水 ※大焼亡=大火災のこと 疫病流行、大洪水、大風・大焼亡 1311 応長元年 1331 元弘 8 年 慶安元年 疫病流行、祈雨 元弘地震 ( 慶安地震:東海地震連動 ?:地震の震動で山 体崩壊や大規模な斜面崩落が発生:「太平記」他多数) 1339 歴応 3 年 炎旱・祈雨、大風雨、雷電 1354 文和 3 年 諸国霖雨、洪水(翌年も) 1360 康安3年 紀伊・摂津地震(東南海地震 ?:死者多数) 1361 康安 4 年 康安地震(正平地震:南海地震 1700 戸流失、 死者 60 人余) 1410 応永 17 年 那須岳噴火(死者 180 余名) 1419 応永 26 年 1423 応永 30 年 ※年号は南北朝時代のため、北朝年号を使用 関東洪水、大旱ばつ・大飢饉 京都並びに諸国霖雨、損亡 ※損亡=天災・戦乱などで不作となること 1427 応永 34 年 霖雨百余日、風雨水 1433 永享 5 年 相模地震(相模鎌倉被害大、利根川の水逆流) 1448 文安 5 年 武蔵国で水災、地震、飢饉(竜淵寺年代記) - 5- 事例の一つである可能性があります。荒川附遺跡は、5 村々や幕府の手助けにより、 世紀から 9 世紀まで営まれる集落ですが、これよりも標 「夫を失った女性には女房を 高の低い地点には以後の住居跡が存在していないことか 失った男を取り合わせ、子 ら、人々が災害から学びとった教訓とも考えられます。 を失った老人には親を失っ − 噴砂(地震)の事例 ー 深谷市皿沼西遺跡 た子を…」という家族の再 は、古墳時代から平安時代にかけて営まれた遺跡で、住 編成を行い、罹災前の持分 居跡や溝跡などとともに地震によって液状化し、噴砂が には関係なく平等の原則で 竪穴住居の床を切り裂いて地表に噴出した跡 ( 写真上 ) 村の再建が進められ、この が確認されています。これは弘仁 9(818) 年に関東地方 後、 起こる飢饉 ( 天明の飢饉 ) を襲った大地震 ( 弘仁地震 ) によるものと思われます。 も乗り切ったようです。 人々は被災後、復旧を 市内でも「浅間山焼砂降り 石段で発見された 2 人の遺体 行ったことが建築部材 積り、其の上大水仕り、 を井戸枠に再利用され 田畑一円亡所に相成り た井戸跡の発見 ( 写真 …」と書かれた噴火の記 下 ) からも推測され、 録 ( 石川家文書 ) が残さ 人々の対応力のたくま れています。これは「降 しさ、地震を克服し復 噴砂に切り裂かれた住居跡(皿沼西遺跡) 群馬県嬬恋村鎌原観音堂 灰により排水路のかさが 興したムラの様子がう 増し、悪水が流れないた かがえます。 降灰浚せつ願(石川家文書) め、浚せつの許可願い」 このように、歴史に を出したものです。文書は市内でも浅間山から離れた 災害記録が残さておら 江ヶ崎の出来事であり、この他にも蓮田市域では被害を ず、政府の記録にのみ 受けました。上閏戸村では田畑は大きな打撃を受けまし 僅かに残された時代で た。この年が年季の最後の年にあたり、それまでもなか も、人々は多くの災害 井戸枠に再利用された建物部材(同) なか年貢を納められなかったことから、天明 4 年からの と遭遇し、苦しみながらもこれらと向き合い、更なる経 5 ヶ年の年貢を 験を次世代へと残したことが推測されます。 減らしてほしい ◆ 過去の災害事例 ∼記録が詳細に残された時代∼ ◆ と、名主たちは 領主である佐倉 江戸時代に入ると公の記録だけでなく、地方の名主層 藩に願い出たよ なども様々な記録を残しており、公の記録にあらわれな うです。この願 年貢減免願(石井憲司家文書) い「災害」も残されるだけでなく、大きな災害の際の地 いに応えて、佐倉藩郡方役所が決めた年貢額が記されて 方の詳細な状況も残されるようになります。 いるのが石井憲司家文書です。それでも田畑が灰などで − 噴火そして飢饉へ ー 天明 3(1783) 年の浅 まったく耕作できない状態で、人々の苦しさは増す一方 間山噴火は、4 月 8 日から始まり、7 月 6 ~ 8 日の 3 日 であったようです。一方、年貢を財政の基盤にする領主 間大量の火砕流が流出し、麓の村々では多大な被害を受 方にも苦労があり、上平野・上蓮田・川島村の領主であっ けました。群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原観音堂の発掘調査で た一橋家の記録では、天明 3 年に年貢を集められなかっ 石段の最下段付近から、この噴火で被災した年配の女性 た役人が処罰されています。このように「天明の大飢饉」 を背負って避難しようとしていた女性の 2 遺体が発見 は、様々な人々を苦しめていたようです。 ( 写真 ) されました。この「岩屑なだれ」から逃れよう − 続く地震と水害 ー として、階段に辿り着いた刹那、背後から襲われ被災し した「安政の地震」では、江戸から遠く離れた幸手宿で た悲劇を物語ると共に、鎌原村では死者 477 名、家屋は も死者を出しており、蓮田にも被害があったことが推測 全て消失し、耕地の 95%を失い、観音堂に逃れた 93 名 されます。 の尊い命が助かっただけでした。しかし、人々は周辺の 災害年表では、割愛していますが記録が細かく残され - 6- 安政 2(1855) 年に発生 災 害 年 表(3) 西 暦 元 号 関東・埼玉・蓮田のできごと 日本の主なできごと 1459 長禄 3 年 長禄・寛正の飢饉(∼ 61:全国的な旱魃で飢饉、水害 大風大洪水 1460 寛正元年 と旱魃が交互、更に虫害と疫病で全国に拡大) 1461 寛正 2 年 武蔵国佐々目郷大旱魃 1497 明応 6 年 大風雨、武蔵国大地震(竜淵寺年代記) 1498 明応 7 年 大洪水・飢饉 日向地震・明応地震(死者1万人、高知県四万十市アゾノ遺跡で噴砂確認、 徳島県でも地震痕跡) 1563 永禄 6 年 武蔵国洪水、武蔵国大地震(竜淵寺年代記) 1590 天正 18 年 江戸大雨、忍で地震(家忠日記) 1595 文禄 4 年 1596 慶長元年 1604 慶長 9 年 三宅島噴火、降雹(2 回) 慶長豊後地震、慶長伊予地震、慶長伏見地震(京都市 太日河・隅田川氾濫(百年以来の大洪水:当代記) 、浅間 志水町遺跡で無数の砂脈) 山噴火(∼ 96:死者多数) 慶長地震 ( 東海・東南海地震と南海地震同時発生) 関東地方大風雨洪水、岩槻城焼 1612 慶長 17 年 1614 慶長 19 年 早魃、関東地方洪水 近畿、四国で地震被害の記録、高田領大地震(越後高田) 東海・関東地方大雨洪水、地震 日光社参の徳川秀忠従者溺死) 利根川・入間川洪水(栗橋舟橋流失、 1617 元和 3 年 1640 寛永 17 年 寛永の大飢饉(∼43:牛疫で西日本牛大量死、旱魃、長雨、冷害、霜、虫害) 。駒ヶ岳噴火(700余名溺死、降灰で津軽凶作) 1649 慶安 2 年 冷害、地震 2 回、大雹(人馬多く死す) 1657 明暦 3 年 1663 寛文 3 年 明暦の大火(振袖火事:江戸城本丸焼失、死者 108,000 名) 雲仙普賢岳噴火(∼64:死者30余名) 、有珠山噴火(死者5名) 大旱 1676 延宝 4 年 関東地方洪水、旱魃 1680 延宝 8 年 関東地方暴風雨、秋大旱 1684 貞享元年 早魃(五十余日雨降らず) 、三原山(大島)貞享大噴火(∼ 90) 元禄地震(南関東に地震、江戸に津波被害) 、水戸様火事(元禄の大火) 1703 元禄 16 年 1704 宝永元年 1707 宝永 4 年 1716 享保元年 1717 享保 2 年 利根川・荒川洪水、飢饉 宝永地震(東海・東南海地震と南海地震同時発生:死 大風雨、大風雨洪水、富士山宝永大噴火(宝永地震の 49 者 2 万人余、倒壊家屋 6 万戸余) 日後に噴火、宝永火口) 霧島山(新燃岳)噴火(死者 5 名) 疫病大流行 関東地方大風雨 2 回、早魃、小石川馬場火事、北葛二号半領・松伏領水害甚だし 1718 享保 3 年 早魃、川越城下南部焼失 1719 享保 4 年 利根川・江戸川洪水、霜害 1723 享保 8 年 利根川・渡良瀬川破堤、元荒川も堤切れ田畑損傷 1725 享保 10 年 長雨で不作、蕨大火 1727 享保 12 年 大風雨洪水、蕨大火 1729 享保 14 年 東国疫病、川越城下火災、霜害 1730 享保 15 年 麻疹流行、大風雨洪水 1731 享保 16 年 長雨・旱魃・大風で凶作 1732 享保 17 年 享保の大飢饉(冷夏と害虫(イナゴやウンカ) で西日本各地凶作、前年27%弱の石高、餓死者12千人) 、翌年享保の打ちこわし 1736 元文元年 1739 元文 4 年 利根川洪水、疱瘡(天然痘)大流行 関東諸国大風雨(江戸時代最大の洪水、死者3900余名、毛利藩「刀禰上流以南修治告成碑」鷲宮神社に奉納) 1741 寛保元年 桜島安永大噴火(∼ 40:死者 153 名、 江戸・長崎でも降灰) 大風雨洪水、霖雨 1742 寛保 2 年 渡島大島寛保岳(北海道)噴火(山体崩壊による大津波で死者 1,467 名) 1757 宝暦 7 年 利根川大洪水(被害大)、蕨宿大火 1764 明和元年 市内で風水(風水害?石井家文書) 1766 明和 3 年 洪水(大水 : 石井家文書、掛樋井流失 : 篠崎家文書) 1769 明和 6 年 1772 安永元年 市内で大風雨・不作(石井家文書) 大風雨洪水、大風、 目黒行人坂大火、干ばつ(石井家文書) 、洪水(高虫村大嵐:石井家文書) 1777 安永 6 年 1782 天明 2 年 1783 天明 3 年 伊豆大島三原山噴火(∼ 79)、渡良瀬川洪水 天明の大飢饉(∼ 08:「後見草」など) 1784 天明 4 年 1786 天明 6 年 1792 寛政 4 年 洪水 浅間山天明大噴火(氾濫の頻発化)、青ヶ島丸山噴火(死者7名) 、利根川洪水、噴火で蓮田も被害(石川家文書) 上平野村作物不作(浅間山噴火の影響?:石井家文書) 利根川全川水害(江戸時代最大規模)、幸手宿民家流失、杉戸・粕壁浸す、瓦葺掛樋流失ほか(篠崎家文書) 雲仙普賢岳噴火(岩屑なだれで津波が対岸肥後を襲い、 百日咳流行(呼吸器系感染症致死率は 2%程度) 、神流川出 犠牲者約 15,000 人:島原大変肥後迷惑) 1797 寛政 9 年 水 降雹被害甚大、強風(倒壊60棟・行方不明2∼3名) 、大風雨 - 7- るようになった江戸時代以降、特に明治以降では災害の けてはいますが家屋被害はなく、田畑被害も黒浜村 149 無かった年はないというぐらい、頻繁に様々な災害に 町 9 反、蓮田町 8 町、平野村 8 町で、差は歴然としてい 人々は被られていました。 たようです。これは明治 43 年と昭和 22 年の利根川堤防 − 明治 43 年の水害 ー 特 に 明 治 43(1910) 年 決壊場所が異なり、明治 43 年には濁流が綾瀬川・元荒 水害の際には、蓮田市域も未曽有の被害を受けました。 川筋を下って来たのに対し、昭和 22 年には両河川を下 綾瀬村では、元荒川・綾瀬川・見沼代用水の堤防決壊 流から上ってきた点に大きな隔たりがありました。現在 10 数 か 所、 では、スーパー堤防の建設が進められており、このよう 田畑耕地 な水害も減少することと思われます。 509 町 歩 の − 関東大震災(防災の日)ー うち収穫が 9 月 1 日午前 11 時 58 分、相模湾を震源とするマグニ 全くでき チュード 7.8 の地震が関東地方を襲いました。死者・ ない田畑 行方不明者 10 万 5 千余人、倒壊家屋 11 万弱に対し、焼 は 465 町 失家屋 21 万強でした。死者も圧死者 1 に対して焼死者 歩 ( 一町= 9 という割合で、圧倒的に火災被害によるもので、お昼 1ha) に の 時という状況から火災による「二次災害」が大きく、こ ぼ り、614 の時の経験から「グラッときたら火の始末」という教訓 明治四十三年 埼玉県水害誌 付録「洪水汎濫之図」を改編 戸 の う ち、 大 正 12(1923) 年 が生まれました。この震災では、市内で全壊 11 戸・半 県の罹災救助を受けたのは半数以上の 357 戸でした。綾 壊 18 戸・ 死 者 瀬村の起債申請の際 4 名の被害が出 の記述によると、 「闔 ています。また、 ( すての意味 ) 村ヲ浸 昭 和 56 年 の 広 スコト二十数日」とあ 報誌座談会で りますが、平野村・黒 は、①元荒川沿 浜村も同じように大き いの堤防が長さ な被害を受け、農作物 400m ほど隆起・ 列車で避難する人々(大宮駅) は全滅し、多くの人が 陥没した。②大 毎日新聞社提供『新編埼玉県史図録』より 県の罹災救助を受けま きな地割れが 1 m位あった。地割れから砂水や大きな軽 した。また、この時の 石が噴き出したところもあった。③夜になって東京方面 未曽有の被害の状況を の空が真っ赤になって新聞が読めた。④朝鮮人が毒を入 記して、閏戸の見沼代 れているとか、近隣の市町村に暴れてやって来るという 用水吾庵橋の傍 ( かた 話を信じてしまい、自警団を組織し、トビ口等を持って わ ) ら に は、「 堤 防 修 堤防修築記(拓本)嶋田家文書 3 日間昼夜交替で見張りをした。数日間は殺気立ってい 築記」として被害状況が残されています。 たが、実際は一人もみかけず、後で考えるとなぜ本気に また、この災 したかと思った。との話があります。これは当時の外国 害と東部地区 人に対する差別意識と未曽有の被害に伴う混乱が招いた に大きな被害 被害と風評被害が蓮田にも及んでいたといえます。 をもたらした 黒浜村の大正 13(1924) 年の記録によると、村で被害 昭 和 22(1947) 調査と租税免除があり、その結果、田2町歩・畑 30 町 年カスリーン 歩・宅地 4428 坪が震災による免除を受けています。ま 台風の被害 ( 左 た、大正天皇からのお見舞い金 64 円や全国から寄せら 写真)と比較 れた義援金・外国からの毛布などを、黒浜村の被害を受 沈みゆくわが家を見つめる被災者 す る と、 蓮 田 けた村民や避難してきた方々に分配しました。逆に、教 「埼玉県水害誌附録写真帳」1950 年埼玉県 市域も被害は受 職員や児童、村役場の職員たちもそれぞれに義援金を出 - 8- 災 害 年 表(4) 西 暦 関東・埼玉・蓮田のできごと 日本の主なできごと 元 号 降雹被害、大嵐(上平野村屋根 6 戸吹飛ぶ:篠崎家文書) 1816 文化 13 年 1822 文政 5 年 大風雨 2 回 有珠山噴火(死者 82 名)、コレラ流行 1823 文政 6 年 大旱、大風雨 2 回(上平野村大水で困窮:石井家文書) 1824 文政 7 年 大風雨洪水 2 回(上平野村大水で困窮:石井家文書) 1825 文政 8 年 川越で大火、水害、冷害(篠崎家文書) 大風雨洪水 2 回(埼玉郡最も甚だし) 1828 文政 11 年 1833 天保 4 年 天保の大飢饉(∼ 39:洪水や冷害で東北被害甚大、餓 平野で大凶作の記録(石井家文書)、幸手町・騎西・加須・ 三俣も暴動 死者多数)、百姓一揆・打ちこわし頻発 大風雨洪水 2 回、風疹流行 1835 天保 6 年 大風雨洪水 2 回(平野・蓮田出水で作物大被害:篠崎家・飯野家文書) 1846 弘化 3 年 1855 安政 2 年 安政江戸地震(死者約 4,000 名、倒壊・焼失 14 千戸= 地震(幸手被害大、新宿の元荒川土手が割れ泥砂吹き出す: 島田家文書) 安政の大火)、コレラ流行 1858 安政 5 年 安政コレラ流行、伊賀上野地震(死者約 600 名)、飛越 ※コレラ=コレラ菌を病原体とする経口感染症 地震(死者 203 名) 1859 安政 6 年 大風雨洪水 2 回(黒浜地内元荒川堤破堤:石井修家文書) 1862 文久 2 年 渡良瀬川洪水、風疹流行(文久風疹) 1868 明治元年 利根川・渡良瀬川洪水(入間川通浸水) 、飯能戦争(町屋大半焼失) 1870 明治 3 年 大風雨洪水 2 回、旋風(倒壊・大破 127 戸) 、大風雨 1890 明治 23 年 霧島山噴火(死者 2 名)、安達太良山噴火(火砕サージ 洪水(死者 16 名・流失 702 戸・倒壊等 2,375 戸・浸水 69,650 戸:蓮田被害甚大)、雹害(蓮田も) で死者 72 名) 1893 明治 26 年 大雨、暴風雨洪水(犠牲者5名・全壊140戸・半壊144戸・浸水13,765戸:綾瀬浸水2戸) 1898 明治 31 年 川越大火(2,300戸焼失)、霜害(綾瀬村被害) 、越生大火(239戸焼失) 、大雨洪水 降雹 2 回、雷雨(南埼玉で家屋損壊多・人畜に死傷) 1901 明治 34 年 1907 明治 40 年 1910 明治 43 年 1913 大正 2 年 晩霜、降雹2回(綾瀬・黒浜・平野村含) 、雷雨5回(蓮田駅周辺浸水14戸、突風(南埼玉含) 東北飢饉、有珠山噴火(泥流で死者 1 名)、水害 (県内死者・ 晩霜 3 回、降雹 2 回、雷雨 2 回、雷雨、突風、水害(黒浜・ 不明者 347 名、全半壊・流失 18147 戸) 平野の農作物全滅、見沼代用水破堤) 東北飢饉 晩霜、雷雨、降雹(綾瀬・黒浜・平野村含)、低温(88%) 1916 大正 5 年 1917 大正 6 年 晩霜、降雹2回(綾瀬・黒浜・平野村含) 、雷雨5回(蓮田駅周辺浸水14戸、突風(南埼玉含) 、雷雨 4 回、強い突風、 台風(東京高潮災害、死者・行方不明者 1324 人、全壊・ 晩霜 2 回、降雹 4 回(綾瀬・黒浜村含) 流出約 45 千戸、床上約 195 千戸) 旋風 2 回、干ばつ(71%) 1923 大正 13 年 関東大震災(死者 105,385 名、全壊 109,713 戸) 降雹、震災(黒浜・綾瀬村全壊 11 戸・半壊 18 戸・死者 3 名) 1931 昭和 6 年 西埼玉地震(死者 11 名・全壊 172 戸、 白岡・菖蒲・蓮田(平 晩霜 2 回、降雹、長雨・低温(南埼玉含め野菜 5 割減) 野半壊 2 戸)も被害) 雷雨、降雹、長雨、台風(蓮田防空監視所倒壊) 1938 昭和 13 年 降雹、雷雨 2 回(南埼玉含め全焼 2 戸・半焼 1 戸・死者 1 名) 1943 昭和 18 年 鳥取地震(死者 1,083 人) 1944 昭和 19 年 、寒冷 昭和東南海地震(犠牲者 1330 名、 全壊・流失約 23 千戸) 、 雷雨 3 回、降雹 2 回、突風 2 回(南埼玉死者 2 名) 有珠山噴火(∼ 45: 死者 1 名) 1945 昭和 20 年 三河地震(犠牲者 2306 人) 、 枕崎台風(犠牲者 3756 名) 晩霜、降雹、低温・多雨(72%) 1946 昭和 21 年 桜島(南岳)昭和大噴火(死者 1 名) 、 昭和南海地震(死 降雹 2 回、雷雨、干ばつ 者 1330 人、全壊・流失約 15 千戸) 1947 昭和 22 年 、雪害 2 回、 カスリーン台風(犠牲者 1930 名・損壊 9298 戸、蓮田 晩霜、雷雨 4 回、降雹 4 回、突風、旋風(南埼玉) 長雨、干ばつ・寒冷風被害 も農作物被害)、浅間山噴火(死者 9 名) 1952 昭和 27 年 寒冷風被害、降雹3回、雷雨2回、旋風、突風(全壊210戸・半壊71戸・床上浸水1戸・死者1名) 1956 昭和 31 年 晩霜(約 61 千万円) 、雷雨、降雹被回、突風、干ばつ(68%) 1968 昭和 43 年 異常乾燥、雷雨11回(蓮田全焼1戸) 、降雹6回(蓮田野菜・麦・梨に被害) 、雪害 1971 昭和 46 年 雹害(蓮田含 26 千万) 1983 昭和 58 年 雹害(蓮田の梨ほぼ壊滅) 1986 昭和 61 年 伊豆大島三原山噴火(全島民非難) 1991 平成 3 年 雲仙普賢岳噴火(90 ∼ 95:犠牲者 52 名) 1995 平成 7 年 阪神・淡路大震災(犠牲者 6,437 名) 2000 平成 12 年 三宅島雄山噴火(∼ 02:全島民避難) 2011 平成 23 年 東日本大震災(犠牲者 18,506 名) 県内・蓮田も様々な被害 2013 平成 25 年 チェリャビンスク州隕石落下 越谷で竜巻(負傷 64 名、損壊 608 戸) - 9- 興支援が行われたことは記憶に新しいことです。政府の し合い、被災者を助けました。 第二次世界大戦の犠牲 対応も直ぐに激甚災害法に適応し、2 月には 5 年間の時 者では、当時の日本の全人口約 7,138 万人のうち、軍人 限立法が制定され援助が進められました。また、メディ 212 万人、 民間人 50 万〜 100 万人、合計 262 万〜 312 万人、 アを通して安否確認情報が初めて適用されたのもこの時 人口における犠牲者数の割合 3.67 〜 4.37 (ウィキペディ からでした。この際に起こった問題点は「一人暮らしの ア「太平洋戦争犠牲者」より)という多くの犠牲があり 孤独死」が挙げられています。この問題に関しては、市 ました。政府の見解では、昭和 38(1963) 年 5 月 14 日の 町村により様々な取り組みが行われました。 閣議決定「戦没者追悼式の実施に関する件」 において、 「戦 東日本大震災は、 平成 23(2011)年 3 月 11 日に発生し、 没者」について「支那事変以降の戦争による死没者(軍 犠牲者 18,800 名、全 ・ 半壊 40 万戸 ( 警察庁調べ )、被 人・軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれ 害額 16 ~ 25 兆円、 経済損失額史上 1 位の災害と試算 ( 政 た者、内地における戦災死没者等をも含む者とする。)」 府 ) されています。津波被害の他、液状化により千葉 ・ であると決定し、戦没者の数を約 310 万人とし、厚生労 埼玉でも被害がありましたが、福島第一原子力発電所で 働省は戦没者の概数を 240 万としています。これらの犠 メルトダウン ( 炉心溶融 ) が発生し、大量の放射性物質 牲者の中には朝鮮・台湾の日本兵も含まれているだけで の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展し、周辺福島県民 なく、周辺国軍関係者や民間人を含めるとさらに多くの の長期避難を余儀なくされました。この事故は国際原子 犠牲者がありました。国内の犠牲者の多くは、空襲とい 力事象評価尺度で最も悪いレベル 7 に位置付けられてい う人災により被害を受けた一般人であり、最後の空襲被 ます。政府は、発生 31 分後に史上初の緊急災害対策本 害は熊谷市が受けたものでした。 部を設置し、激甚災害法、特定非常災害特別措置法に基 毎年、 広島や長崎に原爆が投下された 8 月 6 日と 9 日、 づく激甚災害、特定非常災害に指定し、被災者生活再建 終戦記念日の 15 日には戦没された方々に対して慰霊を 支援法の適用も決定しましたが、原発事故に伴う長期避 行うと共に、このような悲劇を起さないことを教訓とし 難世帯は認められず、適応されていない現状です。救助 て、活かしていかなければなりません。 支援は、国外 156 の国と地域、41 機関が支援を表明し、 − 近年の様々な災害 ー 28 の国・地域・機関から救助隊が、53 の国・地域・機 − 第二次世界大戦 ー 阪 神・ 淡 路 大 震 災 は、平成 7(1995) 年 1 月 17 日に発生、犠牲者 6,437 名、 関から支援物資を受け入れています。この他、自衛隊・ 全壊 104,906 戸、全焼 7,036 戸、被害総額約 10 兆円に 警察などだけでなく、阪神・淡路大震災を契機に創設さ 及び、東日本大震災に次ぐ被害の災害でした。 れた緊急消防援助隊が 24 回目の出動をしました。 建物被害は、昭和 53(1978) 年に発生した宮城県沖地 この災害の中での問題点としては、略奪や暴動等はあ 震で見直された建築基準法改正により、この震災でのビ りませんでしたが、岩手・宮城・福島では ATM の現金窃 ル被害は少なかったようです。また、住宅でも耐震性を 盗事件が 56 件、被害額は 6 億 8 千万円を超え、第一原 考慮した昭和 56(1981) 年建築基準法改正後の住宅では 発周辺避難者宅への空き巣被害が相当数あったようで 被害が少なかったことが報告されています。 す。また、野生化したペットや家畜類の問題や大量の災 この災害を教訓として、自衛隊への災害派遣要請は、 害廃棄物 ( 瓦礫 ) 問題、放射能汚染廃棄物の処理場問題 当時都道府県知事以外の首長が要請することができませ なども発生し、今後対応しなければならない課題となっ んでしたが、市町村長及び警察署長などからも行えるよ ています。 うに改正されました。この他にも東京都などにハイパー レスキューが創設され、消防と警察の全国を通した応援 ◆ 人々の災害に対する対処と祈り◆ 体制、医療では災害派遣医療チーム(DMAT)が発足し 市指定文化財の篠崎家文書「蕃薯解」には、飢饉のと ました。これ以外でもこの震災の際には、カセット式ガ きに主食の代わりとなるサツマイモ類の栽培方法、料理 スコンロが避難所の調理に利用されていましたが、メー 方法が紹介されており、これらの栽培と保存により飢饉 カー間の規格が合わずに貸し借りができない状況でし を乗り越える術を記した江戸時代末の貴重な資料です。 た。このため、平成 10(1998) 年にボンベの形状が 1 種 また、災害年表でもわかるとおり、江戸時代にも落雷 類に規定されました。復興支援では、民間ボランティア による火災被害 ( 家屋焼失 ) だけでなく、農作業中の落 だけでなく、企業・メディア・組織などによる様々な復 雷により命を落とすことが度々あったようです。昭和 -10- 38(1963) 年には 15 回、 限られていましたが、近代に入り交通網の発達などで、 昭 和 43(1968) 年 に は 支援地域は拡大していきます。阪神・淡路大震災や東日 11 回 の 落 雷 が あ り、 本大震災など近年の災害では、情報網の発達から全世界 昭和 43 年には蓮田で へと救援活動は広がっています。また、 蓮田市でも現在、 も全焼 1 戸の被害が出 福島県富岡町・双葉町の文化財資料を借用・活用してい ています。埼玉県下で ますが、様々な支援方法があると思われます。 は 昭 和 17(1942) 年 に 地域により、災害により、対処法が異なる事もあるで は 死 者 6 名、 全 焼 16 しょうが、私たちが今まで直面した災害の経験や過去の 戸、半焼 2 戸という被 歴史を活かして、今後への対応を準備すると共に、これ 害があった年もありま まで受けていない災害に被災する可能性にも備えること す。また、雷は雹も伴 は大事なことでしょう。 う場合が多く、これま 「蕃薯解」篠崎家文書 特に自然災害については、平均気温の上昇などの環境 でも多くの被害があり (埼玉県立文書館保管) 変化により、どのような災害に遭遇するか、予想できな ます。昭和 46(1971) 年、58(1983) 年の雹害では、蓮田 い場面が想定されます。今後何より注意すべきことは、 の梨は壊滅的な被害を受けています。特に昭和 58 年の 「災害に想定外はない」という意識を持ちながら、その 雹害ではほぼ全滅し、被害は埼玉県下で 4 億数千万円に 時々に応じて行動・対処することが重要と言えます。 のぼりました。この他、昭和 31(1956) 年の晩霜被害で 最後に、今回の展示にあたり、資料提供、ご指導・ご は約 6 億 1 千万円、昭和 27(1952) 年の突風被害では全 助言をいただいた各機関にお礼申し上げると共に、今年 壊 210 戸・半壊 71 戸・死者 1 名という被害も出ています。 度起こった様々な災害、今まで起こった災害で犠牲とな このように様々な災害が古からあり、江戸時代の人々 られた方々のご冥福を心よりお祈りすると共に、被災さ はこれを恐れ、様々な神頼みをし れ復興途中の方々にも心からお見舞い申し上げます。 ていました。市内では、雷除けを 「浅間山大噴火の爪痕」関 俊明: 【 引用・参考文献 】 願い「雷電講」が組織され、くじ 新泉社、 「古墳時代の火山災害と金井東裏遺跡」 「古墳人」 、 引きによりお札を板倉雷電神社ま 1 ~ 15 号 公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団、 で貰いに行き配布され、講員は自 「埼玉県の気象災害」埼玉県熊谷地方気象台、 「埼玉県水 分の畑にお札を立てていました。 害誌附録写真帳」埼玉県、 「新編埼玉県史 別編 3 自然」 また、嵐除けを願い「榛名講」も 埼玉県 1、 「東京低地災害史」葛飾区郷土と天文の博物館、 組織され、群馬県榛名神社までく 「利根川百年史」建設省関東地方建設局、 「わざわい + 人 じ引きによりお札を貰いに行き、 びとの暮らしと災害」長野県立歴史館、坂口 一「榛名 講員に配布されました。これらの 二ッ岳渋川テフラ(Hr-FA)と榛名二ッ岳伊香保テフラ 講と同様に村々では、今でも災い (Hr-FP) およびそれらに起因する火山泥流の堆積時間と 雷電神社と榛名神社 除けの行事として、市指定文化財 のお札(館蔵) 季節に関する考古学的検討」第四紀研究 の「伊豆島の大蛇」や「お獅子様」行事が市内各所で行 【 協力機関 】久喜市郷土資料館、群馬県埋蔵文化財 われ、各村の辻に藁で造られた「蛇」や神社のお札が立 調査事業団、嬬恋郷土資料館、埼玉県立史跡の博物館、 てられ、村へ入り込む災いを防いでいます。 埼玉県立文書館、東部地区文化財担当者会、福島県埋蔵 文化財センター白河館、福島県富岡町教育委員会、双葉 ◆ おわりに ∼現在そして未来への備え∼ ◆ 町教育委員会、宮代町郷土資料館 江戸時代の救済・救援は、村内やその支配組織などに 2014 企画展 編 集 蓮田市文化財展示館 「災害と蓮田」 埼玉県蓮田市大字黒浜 2801 - 1 - 太古から様々な災害と向き合った人々 - 電話 048(764)0991 2014 年 10 月 28 日~ 2015 年 2 月 15 日 発行者 埼玉県蓮田市教育委員会 -11-