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聖書からのメッセージ 「幸いになる道」

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聖書からのメッセージ 「幸いになる道」
聖書からのメッセージ
ヨブ記
「幸いになる道」
やって何度となく裏切られてきたのが現
22 章 21 節から 30 節まで朗読。
実です。幸せを求めながら、幸せになり
21 節に「あなたは神と和らいで、平安
得ない。その原因は根本のことがおろそ
を得るがよい。そうすれば幸福があなた
かになっている、抜けているからです。
に来るでしょう」とあります。 なんと素
向かうから、幸福がやってくるように、
晴らしい約束でしょうか。この世にあっ
その道筋をつけてやりさえすればいいの
て、幸せになりたいと 願わない人は一人
です。ダムから流れてくる水は、上から
もいません。全ての人が何とかして幸せ
下に流れて行くでしょう。水は下から上
になりたい、幸福でありたいと願います。
には流れてきません。これは至極当然で
その為に四苦八苦、大変な苦労をしてい
す。流れてくる下の方に自分を置けばい
るのが現実です。しかし、今読みました
いのです。自分をそこに置かないで、水
言葉には「そうすれば幸福があなたに来
がこっちに上がって来ないかと思ってい
る」というのです。幸福が向こうから、
る。水とは低い方へ下っていくもので、
ほいほいと喜んでやってくると言うので
その水を受けるためには、自分も下にお
すから、こんな嬉しい話はない。こちら
りて行って、受ければおのずから流れて
から追いかけて行かなくてもいいのです。 くるのです。私たちが幸福を求める姿勢
私たちは幸せになりたいと思いながら、
が、そういうちぐはぐになっているから
幸せでない。何か不幸せを感じ、満ち足
です。私たちが道筋をきちんと整えるこ
りることがなくて、不平不満で、もう一
とが何よりも大切です。そうすれば、楽々
つ何とか…、と思っているのではないで
と向こうから、幸せがやって来るのです。
しょうか。「山のあなたの空遠く、幸い
住むと人のいう」という、カールブッセ
その条件として、21 節に「あなたは神
の詩がありますが、その詩の結末は、行
と和らいで」とあります。まず心のうち
って見たけれどもそこには無かったと。
に平安を得なさいとあります。平安を得
「隣りの家の芝生は青い」という言葉が
る秘訣は「神と和らぐ」こと。神様と和
ありますように、幸せは何処か遠くにあ
解して、心が穏やかになる、平和になる
ると思う。今、私はこんなだから仕方が
のです。安心を得るようになれば、幸福
ない、でも、もうちょっと何かあったら
が来る。確かにそうです。ところが、私
幸せになるに違いない。あの人のように、
たちはいつも心に満足がない、何か納得
この人のようにと周囲を見回して、その
が出来ない、何だか自分を刺されるよう
人の生活やいろんな事を真似て、やって
な思いがする。もう一つ、落ち着かない
見ると、案外と「つまらんなぁ、こんな
心情でいるために、幸せになり得ないの
はずじゃなかった。私の求めていたもの
です。お金が無いから安心がない、健康
はこれじゃない」と気がつきます。そう
でないから安心がない、家族がこんな状
態だから安心がないと、目の前の事柄に
1
よって、平安をかき乱されていると思う。
神様と敵対関係になっているということ
ところが違うのです。ここにありますよ
ではありません。神様から造られ、神様
うに、神様と和解すること、これが出来
のものであったはずの私たちが、神様の
れば心は平安になるのです。周囲にどん
手から飛び出してしまったことです。言
な問題が起こっても、慌てない、動揺し
い換えると、神様を離れてしまった。こ
ない、心を騒がすことがないようになる。
れが罪を犯したことになるのです。私た
そうなると、次に幸せがやって来る。実
ちの生活の根本、生き方の根本が問題に
に分かりやすい手順です。「神と和らぐ」
なっているのです。
ということが、一番肝心かなめの基礎の
エレミヤ書の言葉で「おおよそ、人を
ところ、何よりも大切なことです。
頼みとし、肉なるものを腕とするものは
「神と和らいで」と言われると、「私
呪われる」とあります。しかし、よくよ
は今まで神様と喧嘩した覚えはない。私
く「呪われる」ということを考えてみる
は生まれて以来、神様とは縁がなかった
と、ちょっと怖い。「呪われる」とはど
し、喧嘩して、遣り合って、仲たがいし
ういうことなのだろうと。そこで私はい
て、今は口もきかない絶交状態などでは
ろいろと考えさせられました。「呪われ
ない。どうして神と和らがなければなら
る」というと、何か呪文を掛けられて、
ないのか」と思います。例えば、皆さん
金縛りにあい、身動きならなくなったと
がある人を嫌いになった。何かのことで
か、呪われたために、次から次へと事故
意見が食い違って、あるいは考え方が違
や病気など、とんでもない災いが押し寄
って、激しい議論をし、その挙句の果て、
せて来たという、そんなイメージを抱き
「もう絶交、もう二度と電話しないで、
ました。世の中でも、「あなた、そんな
あんたの顔を見たくない」と、パーンと
ことをしたら呪われるよ」と言われると、
分かれる。その時に初めて、あの人とこ
災害や災いが起こって来そうに思います。
の人は絶交状態とか、戦争状態とか、仲
ところが、呪われるとは、積極的に不
が悪いとなる。「何があったの?」、「こ
れこれこういうことがあったから、こう
幸が降りかかってくるという意味ではな
なった」と言います。だから、神様との
い。神様との関係の中で呪われるという
間も何かごちゃごちゃがあったから、神
のは、神様の祝福から離れてしまうこと
様が大嫌いだと思っているなら、これは
です。これでは呪われたかどうかわかり
分かりやすい。「そうかそうか、あそこ
にくい。むしろ、呪われたら、異常なひ
で悪い事をしたから、やっぱりごめんな
どいことが起こった、大変な災難にあっ
さいを言わなければいけない」と思う。
たというのであれば、呪われたのだとは
っきり分かります。神様の前に罪を犯す
とか、神様と私たちが敵対関係にあると
ところが、神様に対する罪というのは、
神様との間に何かことがあったから、行
か、あまりはっきりしない。何故はっき
き違いがあったから、大喧嘩をしたから、
りしないかというと、神様との関係、あ
2
り方が問題なのであって、私たちが具体
を持って来ました。アベルは肥えた羊を
的に何かをした、何をどうしたかという
神様の前に供え、カインも地の産物、収
ことが問題になっているのではないから
穫したものを持って来て、神様の前に供
です。神様から呪われるのは、肉を頼み
えました。神様はアベルとその供え物を
とし、自分の力を頼みとして、神様をな
顧みられたとあります。神様はアベルの
いがしろにし、自分を神として、自分の
供え物を喜んで「嬉しい」と言ったので
力で生きている人は、既に呪われた状態
す。ところが、納まらなかったのはカイ
なのです。だから、生活に支障を来たし
ンです。「どうして私のは喜んでもらえ
たとか、困ったとか、次々に不幸に襲わ
なかったのか」と思った。このカインと
れたということがなくても、すでに神様
アベルの記事はいろいろと教えられるこ
から呪われたもの、言い換えると神様に
とが多い記事でありますが、今日は一つ
敵対して、罪を犯した者なのです。その
のことだけを申し上げておきたいと思い
結果、平安を失うのです。満足を得るこ
ます。この時カインは「憤った」のです。
とが出来なくなってしまうのです。神様
神様に対して怒りを覚えました。
「何故、
に呪われるというのは、積極的に問題が
私が顧みられなかったのか」という思い
起こってくる、悲しいことや苦しいこと
があったのです。しかし、これは大切な
が起ることがないわけではありませんが、 事柄ですが、神様がどちらを選ぼうと、
もっともっと重大なことは、神様の光か
それは御自由です。なぜなら、神様だか
ら閉め出され、闇の中に入ってしまった
らです。アベルの供え物を顧みられた神
ことです。ところが、本人は闇であるこ
様が「私はこれがいい」とおっしゃった
とに気づかない。神様の前から離れて、
ら、カインはそれに口を挟む資格も権利
呪われたものになっていながら、それに
もありません。むしろ、そんなことで憤
気づかない。ですから、神様と和らがな
ること事態がおかしいわけです。
「そうだ
い限り、私たちは、神様と敵対した状態
った、神様はそちらの方を喜んだのだ」
にあるのです。
と、そこで悔い改めて、また神様が喜ば
れることは何であるかを求めていけば良
創世記の 4 章 1 節から 7 節まで朗読。
いことです。ところが彼はへそを曲げた
のです。神様との関係がずれました。
アダムとエバがエデンの園を追われて、
遠く離れた所に住みました。その時、子
供を与えられました。「エバはみごもっ
た」とあります。そしてカインと弟アベ
その後、8 節に「カインは弟アベルに言
ルという 2 人の兄弟を得ました。やがて
った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが
子供は成長し、アベルは羊飼いに、カイ
野にいたとき、カインは弟アベルに立ち
ンは農業に従事しました。夫々、羊を飼
かかって、これを殺した。 9 主はカイン
う者、土を耕す者となりました。やがて
に言われた、『弟アベルは、どこにいま
日が経って収穫をし、夫々が主に供え物
すか』。カインは答えた、『知りません。
3
わたしが弟の番人でしょうか』」。神様
して尊ぶことが出来なかったのです。
「何
のお取り扱いに対してカインは納得いか
くそ!」と神様に対する憤りが、具体的
なかった。具体的にカインがした行動は、
な行動となって人を殺すという行為。私
弟を殺すのです。弟アベルは直接兄カイ
たちの今の世の中もそうなのです。いろ
ンに悪意に満ちた危害を加えたのではあ
んな事件が起こっています。そして、教
りません。それだのにカインはアベルを
育家であるとか精神鑑定家であるとか、
殺しました。彼は、神様に向かって文句
心理学者が、こういう鬱積があったに違
を言うべきでした。極端なことを言うな
いない、こういう取り扱いを受けたから
らば、神様を殺せばいいのです。しかし、
と…、事件や犯罪の分析をし、解説をし
カインは神様への不満のゆえに、弟アベ
ます。
ルを殺したのです。私たちが日常生活で、
人を恨んだり、妬んだり、憤ったりして
ニュースを見ていますと、両親を鉄ア
いるのは正にそこなのです。神様のお取
レイでぶん殴って殺した人のことが取り
り扱いに納得いかないから、人を非難し、
上げられて、学識者たちがいろんな事を、
人をやっつけろという思いの方にいって
解説していました。聞いていると、なる
しまう。だから、私たちが人とうまくい
ほど、それなりの説明は良く分かるので
かないとか、あの人は嫌だとか、この人
すが、一番の根本的な原因を指摘できま
は嫌だとか、あんな奴なんか死んでしま
せん。それは神様に対する憤りなのです。
えとか、いろんな憎しみを抱く原因は、
「自分はどうしてこんな自分なんだろう
その相手が問題なんじゃなくて、自分に
か」。「私はどうしてあの人のようでは
対する神様のお取り扱いに対して、憤っ
ないのだろうか」。「両親はどうしてあ
ているのです。これが、私たちが神様か
んな親なのだろうか」という憤り。それ
ら離れて罪を犯している姿なのです。
は取りも直さず神様に対する怒りです。
「神様、こんな親を与えてくれたのはど
んなことですか」という、神様に憤る思
ですから、この時も神様はカインにこ
う言いました。6 節に「なぜあなたは憤る
いが他人に向かうのです。私たち自身の
のですか、なぜ顔を伏せるのですか。 7
中に、別に意識して、神様に憤ってやろ
正しい事をしているのでしたら、顔をあ
うと思っていないけれども、気がつかな
げたらよいでしょう」。まさにそのとお
いうちに怒りの虜になっている。神様が
りです。「神様、私はこんなものです。
絶対的な御方であり、すべてのものを力
これだけしか捧げることは出来ませんで
ある御手で導いていらっしゃる、創造主
したが、憐れんで下さい」と捧げればよ
であるという、その原点が私たちの心か
かったのです。そして神様がそれを斥け
ら抜け落ちてしまう。その時、人は決し
られたら、「はい、そうですか」と、素
て平安を得ることが出来ない。この時の
直に受け入れればいいのですが、それが
カインがそうでした。神様から斥けられ
できない。神様のなさることを、神様と
たことで憤った。その憤りの結果、具体
4
的な行動になるのです。この世の中のい
って、相手が悪いわけではないのです。
ろんな問題の根源は、結局、ここに行き
悪いのは自分の中に神様に対して畏れの
着くのです。神様のお取り扱いを、素直
思いが消えているからです。だから私た
にそのまま受け入れることが出来ない。
ちは、神と和らいでいること、そして平
言い換えると、神様の前に、自分が造ら
安を得させていただく。心に安心を与え
れた者、被造物であることを認めて、欠
られ、幸福になるのです。そうすれば、
けだらけの、弱く、小さな者であること
すべてのことを感謝し、すべての事を喜
を認めて、神様の前にへりくだることを
ぶことが出来るように変わる。今日一日
しない。これが私たちの大きな罪なので
生きていることを感謝し、心から幸せを
す。また、それ故にこそ呪われたものに
味わうことが出来るのです。その先に、
なってしまうのです。今私たちの置かれ
22 節「どうか、彼の口から教を受け、そ
ているこの世は、神様を離れた結果、正
の言葉をあなたの心におさめるように」
に呪われたものです。
と勧められております。神様の御言葉、
聖書の言葉を私たちが素直に心に収める。
始めに戻り、ヨブ記の 22 章 21 節に「あ
ちゃんと受け止めて、素直に神様の前に
なたは神と和らいで、平安を得るがよい」。 自分をへりくだった者、謙遜な者となる。
私たちの心にあのカインのような憤りが
御言葉に対して、私どもが素直に「はい」
ありませんか。「どうしても許せん、神
と従うことです。
様がいくらなんでも、こんなことをする
なんて!」と。自分の置かれた境遇や、
聖書の御言葉、「いつも喜んでいなさ
与えられた事柄や、負わされた重荷を負
い」と読みながら、心の中では「何がい
いきれなくて主に呟くならば、気がつか
つも喜べるか」と思うでしょう。「すべ
ないうちに神様に対して怒り、さらに人
てのことについて感謝しなさい」と言わ
に対して怒るようになるのです。だから
れて、
「感謝できればいいんだけれども、
よく注意していただきたい。ご家族に対
私は出来んわ!」と、心のうちにつぶや
して何か私はいらいらしている、あいつ
いている。言うならばカインと同じなの
がいかん、こいつがいかんと、ぷんぷん
です。神様が「こうだよ、お前のは受け
腹立てている時は「私は今神様に対して
入れられないからね」と言ったら、「は
怒っている時なんだ」と、そのことに気
い」と言えばいいのに、「何を!」と言
づいて、神様の前にまず自分の心を整え
うのと同じことで、形は違うが、私たち
る時、家族の一人一人に愛をもって接す
は神様の御言葉を心に置いて従おうとし
ることが出来るように変わるのです。
ない。これが神様に対する憤りです。で
すから「どうか、彼の口から教を受け」、
そうでない限り私たちは、何時までも
神様から直接その御言葉を聞いて、私た
「あなたがあんなことをするから駄目よ、 ちの心に受けいれ、素直に神様に聞き従
こんなことを!」と口やかましく、ちく
う者になる。これが私たちが神様と和ら
ちくと言い続けなければおれない。と言
5
ぐこと。このように和らぐためには、私
をそらす。そうやっている内に段々段々
たちが神様に罪を清められること、赦さ
と「ごめんなさい」と言うチャンスを失
れることが大切です。
ってしまう。どちらかが先に、「ごめん
ね」と一言いえば、相手も「私こそ、ご
コリント人への第二の手紙 5 章 16 節か
めんよ」と元通りになるのですが、そこ
ら 19 章朗読
へなかなかいかない。
17 節に「だれでもキリストにあるなら
ここにあるように「神はキリストによ
ば」と言われています。イエス・キリス
って、わたしたちをご自分に和解させ」
トを救い主と信じて、キリストの中に自
て下さった。神様の方が私たちに近づい
分を置いていくこと。キリストを主とし
て「お前の罪を赦したよ。お前は何もし
て、キリストと共に十字架に死んだ者と
なくていいんだよ。私のために何か償い
なって、今キリストが甦って下さったよ
をしようなんて、いらないよ。もう、私
うに、私たちも甦らされて神様との和解
がしたんだから!」とおっしゃって下さ
を与えられて、神様との間に何一つ隔て
るのです。何と大きな恵みと赦しの中に
るものも、妨げるものもない。真直ぐに
私たちは置かれていることでしょうか。
道が整えられているのです。18 節に「し
ここに「わたしたちをご自分に和解させ」
かし、すべてこれらの事は、神から出て
とあります。神と和らがせて下さった、
いる。神はキリストによって、わたした
この御言葉を心に置きなさいというので
ちをご自分に和解させ」とあります。神
す。神様は、私たちに「もう、お前の罪
様の方が独り子イエス・キリストをこの
は赦したからね」とおっしゃって、十字
世に送って、神様と和らぐことが出来る
架をたてて下さった。そして、19 節にあ
ようにしてくださった。和解させて下さ
りますように「すなわち、神はキリスト
るために、神様の方から私たちに近づい
において世をご自分に和解させ、その罪
て下さったのです。人と人が喧嘩したら、
過の責任をこれに負わせることをしない
暫く経って「しまった」と思う。「悪い
で、わたしたちに和解の福音をゆだねら
こと言ちゃったなぁ」、あの時、ものの
れたのである」と。
弾みと言うか、売り言葉に買い言葉でぱ
んぱーんと言ってしまって、後で「しま
そればかりでなく、私たちにも和解を
った、悪いこと言ったなぁ」と思います。
喜んで受け止めるように…。和解が成り
思うけれども、「まぁ、その内、向こう
立つには、一方的では駄目です。先ほど
がなんか言ったら、私も謝ろう」。向こ
例えたように、人と喧嘩をすると、お互
うが何か言ったらと。こちらからはなか
いにそっぽを向き合っている時、「こん
なか…。相手も相手ですね。「あの時、
なことではいけないから、ごめんね」と
行きがかりから思いもせんことを言ちゃ
言おうと思う。「ごめんね、私そんなこ
ったなぁ」と思いながら、相手の顔をチ
と忘れてしまったから…」と一方的に宣
ラッと見る。見るけれどもお互いに目線
言しても、相手は「忘れん!」と言われ
6
たら、和解は成り立ちません。和解とい
るのです。そこに幸せがやって来る。こ
うのはお互いがそれを感謝して受け止め
れは確かです。
なければならない。ここが大切です。神
様の方から、私たちに和解の道を下さっ
もう一度始めのところに戻りますけれ
た。でも、私たちが何時までもそっぽを
ども、ヨブ記 22 章の 22 節「どうか、彼
向いている限り、その和解は成り立ちま
の口から教を受け、その言葉をあなたの
せん。だから、18 節の後半に「かつ和解
心におさめるように」。神様からの和解
の務をわたしたちに授けて下さった」。
の御言葉を心に受けて感謝して喜び、そ
この「和解の務をわたしたちに授けて下
の後、23 節以下のことが具体化されてい
さる」というのは、私たちの方が神様か
くのです。「あなたがもし全能者に立ち
らの和解をどう受け止めるかにかかって
返って、おのれを低くし、あなたの天幕
いるのです。「そうです。こんな私です。
から不義を除き去り」。和解を受けた後
このような罪があります。あのような罪
に、「これから神様の御愛と恵みに感謝
があります。本当に自分を振り返って、
して、これも捨てます、これも止めます。
あなたに申し訳ない自分でした」という
ここも改めて…」と具体的な行動が伴っ
ことをはっきりと告白し、悔い改めて、
てくるのです。そこにありますように、
新しくなることが「和解の務めを私たち
己を低くする、謙遜になって「天幕から
が果たす」ことであり、また、そうしな
不義を除き去り」と。天幕とは、私たち
ければならない責任があるのです。そう
生活全般です。天幕は羊を飼う人たちが
する時に初めて和解が成り立つのです。
移動しながら生活する場所でした。その
生活から不義を除く。神様に喜ばれない
だから 20 節に「神がわたしたちをとお
ものを取り除いていくことです。これは
して勧めをなさるのであるから、わたし
神様の前に申しわけないこと、後ろ指指
たちはキリストの使者なのである。そこ
されるものを除けと語られています。こ
で、キリストに代って願う、神の和解を
んな私を赦して下さった神様の前に、い
受けなさい」。神様は、ねんごろに今日
けないと思うことから喜んで離れる。そ
も「私の和解を受けなさい」とおっしゃ
の結果、一つ一つ整えられて幸せが益々
います。その御言葉を心に置いて「こん
倍加する、倍増するのです。
な私だけれどもイエス様は、命を捨てて
愛してくださったばかりでなく、私の罪
24 節に、「こがねをちりの中に置き、
の故に贖いとなって下さったから、神様
オフルのこがねを谷川の石の中に置き」。
に赦されているのです。神様、あなたは
これがなくてはと思って、こがねを蓄え、
私の親しい、愛する、『アバ父よ』と呼
しっかり握っていた。そういうものを「ち
ぶべき御方、父なる神様です」と感謝し
りの中に置き」というのです。ゴミ箱に
て受け、確信する。そこに信頼関係が生
捨てなさいと言うのです。ところが、そ
まれてくる。そうすると安心が湧いて来
う言われると、どうですか皆さん、ウッ
と躊躇する。心がそこに繋がっているか
7
らです。別に、文字通りゴミ箱に捨てよ
がつかない内に、カインのように神様に
という意味ではありません。それに心を
対して憤っている自分がいることにも、
留めないでということです。ゴミを捨て
警戒しておきたい。
て、いつまでもゴミをじっと眺めて、「惜
しいことをしたなぁ、これ、持っていた
わたしも病気になって、「どうして、
らいいのになぁ」とは思いません。ポー
神様、私にこんな病気を与えたんですか」
ンと捨てたら忘れるわけでしょう。燃え
と怒っていました。そうすると、いろん
るゴミの袋の中に入れて、収集日に出し
な事柄を不満に思うようになるのです。
てしまう。ゴミ捨て場にもって行った後
ところが、悔い改めて、「こんな者のた
も、「あぁ、惜しいことをしたなぁ」、
めに主が赦して下さって、神様がよしと
「あの捨てたものを、もう一度取り返し
おっしゃって下さる、神様が受けよとお
て来ようか」なんては思わない。お金が
っしゃって下さる」と心に教えられて、
要らないわけではありません。生活に必
「はい」と主に立ち帰って己を低くした
要なものは神様が与えて下さるのです。
時に、初めて平安が与えられました。そ
お金を神にすることを止める。「オフル
して、病の中にあっても、本当に幸せだ
のこがねを谷川の石の中に置き」。谷川
と心からか感謝できるようになりました。
の石というのは、川に行って御覧なさい、
先ず、神と和らいでと…。嘗て、昔、一
掃いて捨てるほど、いやというほどあり
度和らいだから、「私は何十年前に洗礼
ます。そんな中に放り込んでしまう。あ
を受けて、神様と和解しましたから…」
るいは、長い川の何処に投げようとも、
と言うけれども、その後、何度も喧嘩し
それは失われてしまうに違いない。そう
ているのです。自分の心のありよう、姿
いうものとして、どんな宝であろうと、
をもう一度点検して、常に神様の前に和
黄金であろうと、それを捨て去って、代
らいだものとなっていたいと思います。
わりに、25 節「全能者があなたのこがね
「神の和解を受けなさい」とおっしゃっ
となり、あなたの貴重なしろがねとなる
て下さる。それを自分のものとして、主
ならば」と。その目に見える、金ぴかに
がキリストを遣わし、私たちを赦して下
光るお金が神じゃなくて、全能者がそれ
さったんですから、私たちも、喜んで主
に取って替わって、私のすべてですと言
のために、主の喜ばれることをしようで
えるものになる。その時、26 節「あなた
はありませんか。主がよしとおっしゃる
は全能者を喜び、神に向かって顔をあげ
ところに、己を低くして、主の導かれる
ることができる」のです。いよいよ神様
ままに、感謝して生きる者となりたいと
の祝福と恵みの中に、私たちは引き入れ
思います。神様を絶えず前において、そ
られるのです。幸せになるために不可欠
の全能者を自分のこがねとして、宝とし
な事柄は何か、それは、「神と和らいで」
て、貴重なものとして信頼していく時に、
という、この一点にあるということをし
幸いな祝福と恵みの中に生きることが出
かりと心に留めておきたい。そして、気
来るのです。今日も主が赦して、私をこ
8
んなに愛して下さる主が、あの問題、こ
の事柄の中で導いておられるのですから、
呟かない、疑わない、素直に従っていき
たい。足らなければ、神様は知恵を与え
力を与えて下さるのですから、主の手に
すっぽりと握られて歩む者となりましょ
う。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
9
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