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『六道の辻』 の三つの物語
﹃六道の辻﹄ と ﹃六道の辻﹄の三つの物語 斉 ﹁マカベ﹂、あるいは﹁マカベ踊﹂ 小 倉 ﹃六道の辻﹄は三つの物語によって成り立っている。まず、京都の六波羅という﹁場所﹂が﹁私﹂の︿旅﹀によって導き 出される。﹁場所﹂とは﹁トポス﹂である。これはアリストテレスの﹃トピカ﹄以来論じられてきた概念であるが、﹁トポ トゼス ス﹂という言葉で特性づけられる﹁場所﹂とは、﹁自然そのまま、そこに在るがままに在るものではな﹂く、﹁場所﹂とは ハ よトポス ﹁構想されたもの、作り出されたもの﹂なのである。﹁場所﹂にはさまざまな記憶が集積され、そこからわれわれは多くの 引用の物語を生み出す。 いまから十年ばかり前、晩夏のころだったと思うが、さらでだに暑い京の六波羅のあたりを、 私は或る寺をさがし て、炎天のもとにうろうろと歩きまわったことがあった。 ﹁或る寺﹂とは六道珍皇寺。そこを目指す目的は六道絵を見ることであったが、残念ながら寺に着いて大黒さんに絵を見 こ 一101一 せてもらっても﹁私﹂は感心できなかった。寺の庭にある古井戸に目をつけると、大黒さんが小野篁伝説を教えてくれる。 ふと庭のほうに目をやると、苔のはえた古い井戸が見えたので、私はそれとなく話題を変えるために、 ﹁あの井戸は⋮⋮﹂ すると、打てばひびくように大黒さんは答えた。 ﹁あれが篁伝説の井戸でございます。あの井戸をくぐり抜けて、小野篁は心のままに、あの世に通うことができたと いわれています。それと申しますのも、篁は地獄の閻魔王庁の冥官だったからだそうでございますね。この世とあの 世で、二つの役割を演じ分けていたのでしょうか。おもしろいのは、篁はあの世へ行く時には、この珍皇寺の井戸か ら出かけ、あの世から帰ってくる時には、嵯峨の清涼寺の乾の方角にある生六道というところから、もどってきたと いいます。﹂ ﹁清涼寺といいますと、あの釈迦堂のことですか。あんな遠いところまで、京の町を東西につらぬいて、ここから地 下道が通じていた の で す か ね 。 ﹂ ﹁さあ、それは存じませんが、そういう伝説があるのでございます。﹂ ほんとうは大黒さんはきれいな京都弁でしゃべっているのだが、私は女の京都弁をうまくここに再現するだけの自 信がないので、不粋を承知の上で、曲もない標準語で彼女に語らせているのである。諒とせられたい。彼女はまた、 こんなこともいっ た 。 ﹁篁というひとは、眠るのが大そうお好きで、ふつうのひとよりも多く眠ったといいますが、眠っている時には、そ の魂があの世へ行っていたのだそうですね。その魂が生六道にもどってきて、この世のひとになったとたん、篁はふ かい眠りの底から、ぽっかりと目をさましたと申しますよ。あの世というのは、眠りのことなのでしょうか。ともか 102一 く、これもおもしろい話でございますね。﹂ ゜ 大黒さんの話はまるで催眠術のように﹁私﹂に作用し、﹁私﹂はふらふらしながら寺を後にする。 六波羅は、ほろびの俳枕とでもいうべき場所である。ここから、第二の物語、すなわち﹁マカベ﹂の物語の時代、乱世 で荒廃した文和︵一三五二∼一三五六︶の世が暗示される。また、六波羅は、空也が六波羅蜜寺を建立し、踊念仏の拠点 とした場所でもある。第二の物語では、この地が平安時代から蓮台野・化野と並ぶ葬送︵墓所・薬毘所︶の地として知ら れた鳥辺野の一角に当たり、聖と呼ばれていた死体の焼葬を生業とするものどもが多くいたとある。ここは、都の外の不 浄の地であった。 その六波羅を歩いて﹁私﹂がたどり着いた六道珍皇寺は、次の﹁マカベ﹂の物語の主要な舞台となる場所であり、小野 篁があの世とこの世を行き来した﹁六道の辻﹂のある場所でもある。この﹁六道の辻﹂の出口は生六道といい、珍皇寺か らは乾の方角に当たる。乾信仰、あるいは西方浄土の思想によるものだろうか。そういえば、異界への入口である珍皇寺 には水子の霊を祀る石仏が並んでおり、この世に戻る出口の生六道があったとされる嵯峨野清涼寺の地蔵堂の前には﹁生 の六道﹂と書かれた石碑が立ち、小野篁公遺跡と記されている。ただし、井戸はない。地蔵堂には、六道地蔵、瑠璃光地 蔵、夕霧地蔵の三体の地蔵が祀られている。同じく境内にある薬師堂︵もと龍幡山薬師寺︶は、安産祈願の寺となってい る。生から死へ、そして生へという、円環構造とでもいうべきものがみごとに反映された空間的配置である。 ところで、地獄からの帰還路の出口は、清涼寺の地蔵堂ではなく、清涼寺から東に少し離れた福生寺にあったという。 いまは六道町という地名が残っている。福生寺は江戸時代中期に廃れ、明治になって薬師寺に合併された。そのとき、福 生寺の本尊だった六道地蔵︵生六道地蔵菩薩︶や小野篁像︵六道珍皇寺のものとは別の像︶などの諸仏が、清涼寺の地蔵 堂に移管された。戦後、竹藪になっていた福生寺の跡地が開墾されたとき、井戸の跡が七つ発見され、これらが帰り道の 一103一 出口にあたる井戸であろうということになった。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という⊥ハつの世界をい う。入口は一つでも、途中で道は、この六つの世界へと分かれてしまう。帰りはこの六つの世界から戻ってくるので、出 口は六つあることになる。それがどうして七つなのかというと、もう一つは仏の世界からの道なのだそうである。篁は地 獄で苦しむ人々を救済する生六道地蔵菩薩の姿を見、あの世から戻って地蔵尊を刻み、福生寺を建てて安置したといわれ ている。地蔵は六道にまたがり、それぞれの世界にいるものの苦を救うという。仏の中で、地獄へ行くことができるのは 地蔵だけで、地蔵は地獄の救済者なのである。 小野篁は平安時代初期の官僚で、参議にまで昇った能吏である。学者・詩人・歌人としても名高い反面、奇行が多かっ ユ たという。隠岐に流罪になったこともある。夜は閻魔庁に勤めていたといわれ、多くの伝説が残っている。﹃六道の辻﹄の なかの篁は、眠りによってあの世へ向かったという。眠りは夢を導く。第.一の物語の旅人﹁私﹂は夢を否定しつつも夢の 中へ入っていったが、第二の物語の旅人﹁マカベ﹂は決して眠ることがない。ここにも何か意味がありそうである。 第三の物語では、﹁死の舞踏﹂について語られている。骸骨の姿をして楽器を演奏する﹁死﹂が、ありとあらゆる身分の ものに向かって、﹁きたりて踊れ﹂と命ずる。﹁死﹂は﹁マカベ﹂の容姿そのものであり、﹁死の舞踏﹂は﹁マカベ踊﹂その ものである。そして、﹁死の舞踏﹂は、十四世紀のヨーロッパと日本の文和の世とにおける暗黒の連鎖ともいうべき関連を 示唆し、﹁マカベ﹂は両者をつなぐ特異な存在として登場している。 ﹁死の舞踏﹂ ここで﹁死の舞踏﹂すなわち﹁ダンス・マカーブル﹂について少しく述べておきたい。小池寿子によれば、﹁この﹁マカー ブル﹂︵日四8訂Φ︶という多分に耳慣れない言葉は、﹁死に関わる﹂﹁波間に漂う﹂﹁はかない﹂などを意味するフランス語で 一104一 あるが、その語源は定かにされて﹂おらず、﹁中世末期以降、使用頻度が高かったにもかかわらず、十九世紀になってやっ と辞典に登場した﹂という。造形美術として記録に残る最古の﹁死の舞踏﹂︵U胃の㊦竃9菩器︶は、一四二四年八月から翌 ハるり 二五年にかけてパリのセーヌ右岸レ・アールに隣接していたサンーージノサン墓地回廊に制作され、十七世紀に破壊されて しまった壁画である。この壁画は、パリの印刷業者ギュイヨ・マルシャン刊︵一四八五年︶の木版画本をはじめ、イギリ ス、イタリア、ドイツ、東欧、北欧で制作された壁画や版画、写本挿絵などによって、広く知られるようになった。 この﹁死の舞踏﹂をU曽o①竃四〇暮﹃Φとして後世に伝えたのは、シャルル六世、七世治下の﹃パリ一市民の日記︵一四〇 九−一四六九年︶﹄とギュベール・ド・メッス著﹃パリについて﹄の記録だという。当時は、U9。屋Φは∪碧8と綴られ、そ の意味も舞踏のみならず、軍隊での縦列行進、典礼用語としては行列、音楽の分野では円舞、四分の三拍子や三分の二拍 子の舞踏を指す言葉であった。しかし一方、ζp$耳Φについては、後のギュイヨ・マルシャン本においても何ら説明はな く、Uき8竃帥富げ器やOげp°。ω①ζ国富耳①︵マカーブル狩り︶などの造語ですでに使われていたらしい。その綴りも ら ζ弩四qρζ母8αρζ⇔8寓ρ竃四8σみΦなどさまざまに伝えられているという。 こうして﹁マカーブル﹂は、意味のみならず語源すらわからぬままに用いられ続けたのであるが、やがてフランスの文 学者ガストン・パリスによってこの言葉をめぐる議論の火蓋が切って落とされる。一八九五年、文学雑誌﹁ロマニア﹂ ︵幻o日鋤巳蝉︶において、﹁マカーブル﹂は﹁死の舞踏﹂を草案して描いた画家の名前であるとした︵○器8ロ℃巴ω、.い四∪磐8 竃鴛9げみαε8口いo国①<器、弓陶qミ§ミ一゜。8もo﹂b。㊤山ωP︶のである。その根拠は、=二七六年にパリのジャン・ル・フェー ヴルなる人物が著した﹃死の猶予﹄︵幻Φω且ε巴p。寓o昌︶という詩にある。そこでは﹁私はマカブレのダンスをやった﹂︵冒 h尻α①ζp8げみ訂αき8︶と歌われているのだが、パリスは大文字で始まるこのζ碧⇔げみは人名であると判断した。ただ し、ζ胃⇔σみが日ロ。筈冨やζpo騨げ話①などと綴られた翻刻本もある。当時の綴りが必ずしも一致しておらず、語源も用 法も定かでないものが多々あったことを物語る一例であるが、それはまた、言葉の魅力につながる謎解きの面白さでもあ 一105一 る。. パリス説が発表されて以来、﹁マカーブル﹂は﹁マカブレ﹂︵]≦⇔8げ冨︶から派生した形容詞との見方が有力になったが、 画家の名とすることに対しては研究者の意見は必ずしも一致していないようだ。小池の紹介によれば、フランスの美術史 家エミール・マールは、中世において画家が自らの名を冠した絵図を制作することはありえないとし、文学の分野ではさ らに﹁死の舞踏﹂詩の作者名であるとする解釈も示された。一九五九年には、マカベ︵ζ曇・。冨げΦ団︶なる名をもつ研究者が 家系を語りつつ、﹁マカブレ﹂がユダヤ人の名に由来する名であるとの論点に立ち﹁マカブレ﹂の起源を論じた論文も発表 された︵﹀﹁日帥口山ζ胃匿げΦざ、∪δ6ロωωδ昌1︾O﹁80。・ユ巴p︽∪δoロのωδロ︾ω霞冨U簿口ω①ζ餌〇四ぴお.・葡oミ貸ミ犠﹂㊤qOもP 一一゜。−冨ρ︶。この六十余年にわたる﹁マカーブル論争﹂について逐一述べる余裕はないが、一九五〇年代までにほぼ出尽く した﹁マカーブル﹂起源説を簡略にまとめると以下のようになる。 パリスが自説を提唱する以前、すなわち十九世紀にはすでに﹁マカーブル﹂の語源については三つの説が不十分ながら 出されていた。一つはアラビア語の日呂筈貯︵墓場︶に由来するとみる説であり、もう一つはヘブライ語日oρoげ興︵墓掘 り人夫︶に由来するとみる説。この二説はのちにセム語系の言葉として一括され、第三の﹁マカベア﹂起源説と対置され ることになる。﹁マカベア﹂説は、旧約聖書﹁マカベア書﹂に登場するマカベア一族、とくに当時パレスティナを支配して いたシリア王国アンティオコス四世治下において祖国のために戦ったユダヤ人たちの指揮官ユダ・マカベアの名に由来す るとする説である。これはパリス説以降の﹁マカブレ﹂は個人名であるとの解釈をも裏付ける説として、もっとも有力で あると思われるものである。 パリス説に異議を唱えた美術史家マールは、﹁ダンス・マカーブル﹂が﹁マカベア﹂を示す綴りの一つζp爵σ器をもって 記されることが多く、またラテン語では﹁マカベアの舞踏﹂︵竃四〇庁F国σPΦO同口昌90けO同①餌︶と呼ばれていたことを強調して、マ カベア起源説を推したのであった。彼はさらに、﹁第ニマカベア書﹂︵十二章四三−四五節︶の死者のためのとりなしと祈 一106一 りに関する記述がカトリック教会教理に取り入れられており、マカベアの名が中世においてはよく知られていたと指摘す る。 ここで、﹁第ニマカベア書﹂いうところの﹁死者のためのとりなし﹂﹁死者の魂のための祈り﹂とは何を意味するのかに ついても述べなければならない。最後の審判思想をいただくキリスト教においては、死後の魂は天国か地獄かのいずれか に導かれる。しかしこの終末時が訪れるまで、大罪と呼ばれる許されざる罪を犯した者を除き、却罪に値しない小罪を犯 した多くの人々はすぐさま地獄に堕ちるとされたわけではない。彼らは天国と地獄のあいだにある中間領域におり、苦し みを受けながら魂の浄化をはかって最後の審判時に天国へ導かれるのを待っているのである。浄罪界であるこの﹁煉獄﹂ ︵O口﹁①qp◎けOユ‘日︶という名詞が成立し、公理化するのは、十二、十三世紀のことである。そしてこの﹁煉獄﹂の成立は、死 後の世界とひいては死生観に大きな影響を与えたのであった。それは何よりもまず、煉獄で苦悶する魂のために、現世に 生きる者の祈りやミサが役立つと考えられたことにあった。生者ができるだけ死者の魂のとりなしをはかり、死者のため に祈りを捧げればそれだけ魂は救われる。こうした思想は﹁死者のためのミサ﹂や十一月二日の﹁万霊説﹂の制定として 現れたばかりでなく、明らかに死者の魂への祈りを要求する墓碑を増加させたのである。 この死者のための祈りの有効性を保証する論拠の一つが﹁第ニマカベア書﹂であった。同書十二章では、ユダ・マカベ アがシリア軍と戦って無惨にも戦死した同胞の屍体を前にする姿が語られている。そこでユダ・マカベアは、戦死した者 たちが律法で禁じられている偶像のお守りを下着の中に潜ませていることを知り、彼らの罪を賊うための犠牲を捧げるべ く、相応の銀をイェルサレムに送る。同書四十三節以下には、次のようにある。 復活の信仰に基づいてなしたユダの行為は真に美しくかつすぐれていた。もし戦死者たちの復活を信じていなかった ならば、死者のために祈ることは余分なばかげたことであった。さらに彼は信仰をもって眠りについている人々のた 一107一 めにたくわえられているすばらしい恵みに思いをいたした。それは聖く義しい思想であった。 そういうわけで戦死者 ゑ のための宥めの供え物を献げ、罪を赦されるようにと願った。 マカベアの名はかくして、復活を期した死者のための祈りというきわめて重要な宗教儀式を介して認知されていったの である。そしてそれは、単なる儀式に留まらず、明日をも知れぬ生を生きる人々にとっては命への切なる願望を託した祈 りとなった。死者のために祈りつつ彼らは、また、自らのために祈り、自身の死後も祈り続けてくれる者が多くいてくれ ることを願ったのである。 マカベアの名がとくに﹁死者のための祈り﹂を介して知られ、﹁マカベア﹂がしばしば﹁マカブレ﹂と記されていたとす れば、﹁ダンス・マカブレ﹂すなわち﹁ダンス・マカーブル﹂は、死にゆく者たちへの祈りを込めた舞踏ということになろ う。しかし同様に、人々がつぎつぎと死にゆくその姿もまた、﹁第ニマカベア書﹂に綴られたイメージを想起させるのであ る。 ﹁第ニマカベア書﹂第七章では、マカベア家の七兄弟がシリア軍に捕らえられ、母親の眼前で舌を切られ、頭皮を剥がさ れ、手足をそぎ取られ、大釜で焚き殺されてゆく残虐非道な様子が詳述されている。七兄弟の死を毅然と見守った母もつ いには殺されるのだが、七人目の息子は死を目前にして次のように叫ぶ。 今わたしの兄たちはしばしの苦痛を味わったが、神が永遠の生命をお与えくださるとの約束を信じつつ倒れたのであ 麗・ 死後の復活を絶対的に信じての死。﹁マカベア書﹂にみられるこの死の姿、死後の魂のための祈りと復活の思想が、﹁マ 一108一 カブレ﹂の語には託されているのである。﹁マカブレ﹂と﹁ダンス﹂との結びつきについてはいまだ明確な解釈がなされて いないが、復活を強く願ってつぎつぎに死にゆく者たちの姿を﹁死の舞踏﹂にみてとることは十分に可能である。そこで ダンスヒマカ プル 踊る者たちは、魂への祈りを私たちに今なお請い続けているのである。 マカベア一族の長となったユダ・マカベアは、一族を率いて敵を撃つため﹁槌﹂の意味をもつ﹁マカベ﹂︵]≦簿oげ国σΦΦ︶ なる語を名として選んだともされるが、その名はまた、前述したとおり、墓場や墓掘り人夫など﹁死﹂とかかわる意味を も包含していた。 パリス説以降の六十余年にわたる﹁マカーブル論争﹂は、﹁マカーブル﹂11﹁マカベア﹂説をひたすら補強する方向を辿っ たが、このマカベア起源説を決定する文献的根拠は今なお得られていない。しかし、﹁ダンス・マカーブル﹂が死者への祈 りの舞踏や単なる死への道行きなどでは決してなく、復活再生すなわち新たなる生に向かうための行進であるとする考え 方は人を大いに魅了する。人は、無為に生き、死んでゆくことを、望むものではない。たゆまぬ生への意志と、死を克服 せんとする願いが込められた﹁マカーブル﹂は、死すべき生を生きなければならない人間の多様な心性のあり方・歴史を 物語る言葉なのであった。 噂のなかの﹁マカベ﹂ ここで再び﹃六道の辻﹄に戻り、 第二の物語前半部で人々に噂される﹁マカベ﹂について見ておこう。 彼の経歴ははっきりしない。 東国から流れてきた中間だか足軽だかで、いつからか南北朝抗争の戦線を離脱して、瓢箪をたたいて踊る、鉢たたき 一 109 一 の群に投じたとい う 。 ﹁骨と皮ばかりに痩せていて、文字通り、 生きた骸骨としかいいようのない異形の持ち主だった﹂﹁マカベ﹂の容姿につ いては、以下のように紹介される。 頭には毛が一本もなく、眼窩は洞窟のように落ちくぼみ、唇の肉さえ欠け落ちて、歯がそのまま露出していた。手足 は枯木のようで、動かせばかたかたと乾いた音がしそうであった。その眼窩の中心に光る瞳があり、その口から温か い息がもれ出ているのが、むしろ不思議でさえあった。 死そのものともいえる異形の﹁マカベ﹂は、﹁マカベ踊﹂を創始し、人々を踊らせる。彼は踊りの輪の中心に位置し、演 出家的な存在であったという。﹁マカベ﹂はこの踊りの中では絶対的な存在なのである。 その彼の笛は、人々を踊らせ、﹁私﹂に八坂の搭の浮遊・旋回を見させた。 第二の物語の前半部における噂のなかの﹁マカベ﹂は、作られたイメージに包まれ、特異な存在として登場する。 ﹁マカベ﹂の芸人としての出発点は、鉢たたきであった。本来鉢たたきは、念仏臭が強く、職業宗教家によって行なわれ ハさ るもので、空也・一遍の踊念仏の系統を引いていた。しかし﹁六道の辻﹂の﹁マカベ﹂が始めた鉢たたきはいささか質を 異にする。﹁このマカベ踊は、浄土信仰から発したところの、空也や一遍の系統をひく踊念仏の宗教性とは完全にふっきれ ており﹂とあるように、﹁マカベ﹂は踊念仏の宗教性から離れ、独自の﹁マカベ踊﹂を創始するのである。ただし、宗教か ら離れて完全に娯楽といわれるものになったかというと、必ずしもそういうわけではない。 一110一 十五世紀の公卿の日記には、京や奈良や堺で彬涛として起った風流、あるいは難子物に関する記事がおびただしいが、 そういう現世享楽的な新興階級の祭礼とも、マカベ踊はまったく関係がなかったのである。 その形式は、踊念仏が僧自ら踊るのに対し、﹁マカベ﹂は踊らずに輪の中心にいて、演出家としての役割を果たすという 違いがある。また、踊念仏は、布教のために行なわれるもので、念仏が主であるが、﹁マカベ踊﹂は無言劇であるという点 にも明らかな違いがみられる。ただし、物語内の﹁マカベ踊﹂が単なる娯楽的なものとしてのみ設定されているわけでは ないことも確かである。﹁マカベ﹂の踊りは、踊念仏同様、演者と観客との一体化に主眼が置かれ、舞台外の観客の存在を 想定してはいない。 ﹁マカベ踊﹂の盛況ぶりを示す例として、貞和五︵一三四九︶年の田楽興行について語られている。 貞和五年六月、四条河原で行われた田楽興行の桟敷がくずれ、瞬時にして五百人の死者を出したという事件は有名だ が、まあそれほどではなかったにせよ、それに近い盛況だったと思って差支えあるまい。 り この年は、勧進田楽・猿楽から能という芸能が起こったことが記録された年だという。﹁マカベ踊﹂を支持したのが佐々 木道誉であったという設定からも﹁マカベ﹂の芸能への志向性の強さとその結果としての﹁マカベ踊﹂の盛況ぶりがうか がえる。道誉は、千利休以前の圖茶の先達で、茶会の折には、芸人たちを呼んだり、和歌、連歌などの文芸や立花、香道、 さらに近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、芸能の発展に貢献した人物である。しかも道誉は、価値の絶対性 が揺らめきを見せる南北朝時代の社会的風潮である婆娑羅を好んだとされ、身分秩序を無視し華美な服装や振る舞いを是 とする美意識で﹁婆娑羅大名﹂と呼ばれた人物でもある。こうした道誉によって支持される﹁マカベ踊﹂の盛況は、まさ 一111一 に﹁中世から近世への過渡期の現象﹂の典型であった。 ﹁マカベ踊﹂の無言劇という形式は、現代に残っている﹁大念仏狂言﹂に似ている。踊念仏から次第に芸能性を強め、室 町時代中頃に成立した点も共通している。しかし、﹁大念仏狂言﹂にはあくまでも奉納という目的があり、神楽と狂言の中 間的なものであった。それに対し﹁マカベ踊﹂には明確なストーリーがあり、舞台の上下がはっきり分かれている点で大 きな違いがあった。 ハーメルンの﹁笛吹き男﹂ ﹁マカベ﹂を芸人とし、﹁マカベ踊﹂を宗教的儀式から芸能への過渡的なものとするならば、﹁マカベ﹂と﹁マカベ踊﹂は、 乱世という時代に普通の芸人が起こした芸が、﹁死の前にはみな平等である﹂という思想ゆえに、神秘化・神格化されていっ た現象ということになるのだろうか。 ここで、もともと遍歴芸人であったものが、いつしか悪魔や魔術師として伝説化された例として、﹁ハーメルンの笛吹き 男﹂を挙げておこう。以下、﹁ハーメルンの笛吹き男﹂伝説の背後に隠された謎を追いかけ、それまでの歴史学が触れてこ なかった中世ヨーロッパの﹁差別﹂の問題を明らかにし、新しい社会史をうち立てた阿部謹也の﹃ハーメルンの笛吹き男 ハむ 1伝説とその世界﹄を参照しながら、﹁ハーメルンの笛吹き男﹂の物語世界に遊ぶこととしよう。 我々が知っている﹁笛吹き男﹂の物語は、主としてグリム兄弟の﹃ドイツ伝説集﹄の﹁ハーメルンの子供たち﹂︵一八一 六年︶か、ロバート・ブラウニングの詩﹃ハーメルンのまだら色の服を着た笛吹き男﹄︵一八四九年︶である。阿部は、グ リムのテキストを参考に﹁笛吹き男﹂の物語を紹介している。 一112一 一二八四年にハーメルンの町に不思議な男が現れた。この男は様々な色の混った布で出来た上衣を着ていたので ﹁まだら男﹂と呼ばれていたという。男は自ら鼠捕り男だと称し、いくらかの金を払えばこの町の鼠どもを退治して ブンティング みせると約束した。市民たちはこの男と取引を結び、一定額の報酬を支払うことを約束した。そこで鼠取り男は笛を とり出し、吹きならした。すると間もなく、すべての家々から鼠どもが走り出て来て男の周りに群がった。もう一匹 も残っていないと思ったところで男は︹町から︺出て行き、鼠の大群もあとについていった。こうして男はヴェーゼ ル河まで鼠どもを連れてゆき、そこで服をからげて水の中に入っていった。鼠どもも皆男のあとについて行き、溺れ てしまった。 市民たちは鼠の災難を免れると、報酬を約束したことを後悔し、いろいろな口実を並べたてて男に支払いを拒絶し た。男は烈しく怒って町を去っていった。六月二六日のヨハネとパウロの日の朝ー他の伝承によると昼頃となってい るがー、男は再びハーメルンの町に現われた。今度は恐ろしい顔をした狩人のいで立ちで、赤い奇妙な帽子をかぶっ ていた男は小路で笛を吹きならした。やがて今度は鼠ではなく四歳以上の少年少女が大勢走り寄ってきた。そのなか には市長の成人した娘もいた、子供たちの群は男のあとをついて行き、山に着くとその男もろとも消え失せた。 こうした事態を目撃したのは、幼児を抱いて遠くからついていった一人の子守娘で、娘はやがて引き返して町に戻 り、町中に知らせたのである。子供たちの親は皆家々の戸口からいっせいに走り出てきて、悲しみで胸がはりさけん ばかりになりながらわが子を探し求めた。母親たちは悲しみの叫び声をあげて泣きくずれた。直ちに海陸あらゆる土 地へ使者が派遣され、子供たちかあるいは何か探索の手がかりになるものをみなかったかが照会された。しかしすべ ては徒労であった。消え去ったのは全体で=二〇人の子供たちであった。 二、三の人のいうところによると、盲目と唖の二人の子供があとになって戻ってきたという。盲目の子はその場所 を示すことが出来なかったがどのようにして楽師︿笛吹き男﹀についていったのかを説明することは出来た。唖の子 一113一 は場所を示すことは出来たが、何も語れなかった。ある少年はシャツのままとび出したので、上衣を取りに戻ったた めに不運を免れた。この子が再び取って返したとき、他の子供たちは丘の穴のなかに消えてしまっていたからである。 ブンゲロ ゼ 子供たちが市門まで通り抜けていった路は一八世紀中葉においても︵おそらく今日でも︶舞楽禁制通りと呼ばれだ。 ここでは舞踊も諸楽器の演奏も禁じられていたからである。花嫁行列が音楽の伴奏を受けながら教会から出てくる時 も、この小路では楽師も演奏をやめて静粛に通りすぎなければならなかった。子供たちが消え失せたハーメルン近郊 の山はポッペンベルクと呼ばれ、麓の左右に二つの石が十字形に立てられていた。二、三の者のいうところでは子供 ハユ たちは穴を通り抜け、ジーベンビュルゲン︵今日のハンガリア東部の山地︶で再び地上に現れたという。 ハーメルンの市民はこの出来事を市の記録簿に書き留めた。それによると、市民は子供たちの失踪の日を起点にし この門は建立された。 て年月を数えていたという。ザイフリートによると、市の記録簿には六月二六日ではなく二二日と記されているとい う。市参事会堂には次のような文字が刻まれている。 キリスト生誕後の一二八四年に ハーメルンの町から連れ去られた それは当市生まれの一三〇人の子供たち 笛吹き男に導かれ、コッペンで消え失せた また新門には次のようなラテン語の碑文が刻まれている。 さら マグス︵魔王︶ が=二〇人の子供を町から/撰っていってから二七二年ののち、 一114一 一五七二年に市長はこの話を教会の窓に画かせ、 る。そこにはひとつのメダルも彫られている。 それに必要な讃を付したが、その大部分は判読不可能となってい 以上が、グリムの﹁ハーメルンの子供たち﹂の全文である。 この伝説の原型は、一二八四年六月二六日に実際に起こった︿一三〇人の子供の失踪事件﹀で、それが次第に形を変え ながら︿鼠捕り男﹀のモチーフと結合し、一六世紀半ば頃に今の伝説の形になったといわれている。 物語の﹁笛吹き男﹂は、鼠捕りの報酬が払われなかったことに対する報復として子供たちを連れ去る悪魔的・魔術師的 115一 存在である。 この物語が伝説化していった最大の要因は、︿一三〇人の子供の失踪事件﹀が謎であったことにあるだろう。阿部は、こ の謎に対するこれまでの解釈の試みを分類したヴォルフガング・ヴァンの二五のテーゼを紹介しているが、そのなかから 興味深い解釈を八つあげておこう。 舞踏病 一二六〇年のゼデミューンデの戦いにおける戦死 地震による山崩れで死亡 崖の上から水中に落ち溺死 =一八五年に偽皇帝フリードリッヒニ世の後をついていった結果の行方不明 子供の十字軍としての招集 ジーベンビユルゲン︵ハーメルンの東方にある都市︶への移住 7 6 5 4 3 2 1 死の舞踏の叙述から派生したもの 多様な解釈のなかに死の舞踏と関連させたものが存在する点は興味深い。﹁笛吹き男﹂伝説もまたヨーロッパ中世の暗 黒時代のなかで生み出されたものであった。ハーメルンという町も都市として整備されて問もない頃であり、その支配権 をめぐって争いが絶えなかったという。7のゼデミューンデの戦いもその一つで、その説によれば、︿=二〇人の子供の失 踪事件﹀は祖国のために勇敢に戦った挙げ句の戦死だとされ、﹁祖国のための戦死者﹂のシンボルとして位置づけられたと いう。 ﹁笛吹き男﹂の最古の記録は、=二〇〇年頃のものと考えられるハーメルンのマルクト教会のガラス絵である。その説明 文では、単に﹁引率者﹂としか記されていない。﹁笛吹き男﹂が明確な記録として残っているのは、三番目に古いリューネ ブルクの手書本︵一四三〇∼一四五〇年頃︶である。それには以下のように記されている。 ⋮⋮三〇歳位とみられる若い男が橋を渡り、ヴェーゼルフォルテから町に入って来た。この男は極めて上等の服を着、 美しかったので皆感嘆したものである。男は奇妙な形の銀の笛をもっていて町中に吹きならした。するとその笛の音 を聞いた子供たちその数およそ一三〇人はすべて男に従って、東門を通ってカルワリオあるいは処刑場のあたりまで 行き、そこで姿を消してしまった。子供らが何処へ行ったか、一人でも残っているのか誰も知るすべがなかった。 この記録のなかでは、﹁笛吹き男﹂が、まだ悪魔的要素を持たされてはいない。他の記録とは違い、この記録の﹁笛吹き 男﹂はむしろ美しい格好をしている。ヴォルフガング・ヴァンによれば、︿=二〇人の子供の失踪事件﹀の謎についての解 釈の2で紹介したジーベンビュルゲンへの移住の際の記録で、﹁笛吹き男﹂がその先導者をつとめたという。美しい格好は、 116一 8 その個人的な魅力を活かして貴族や企業家の宣伝員として雇われていたからだと解釈されている。有力者の手助けをする 場合においてのみ彼らは、アクティブな活動が出来たのである。 では本来の﹁笛吹き男﹂はどうであったのか。﹁笛吹き男﹂は、当時の社会のなかでは、遍歴芸人の一種で、その地位は 低かった。土地所有が社会的地位を定める基準となっていた中世ヨーロッパ社会においては、土地を持たない一所不住の 放浪.遍歴の人々は、社会からはみ出し、差別される存在であった。すでに八世紀の頃、遍歴芸人を賎民とする勅令が出 されているほどである。また、遍歴芸人たちの笛や合唱・舞踏などが、キリスト教以前の民族宗教に付随する異教の習慣 だとして、教会から閉め出されていた。教会という権威は、遍歴芸人たちの芸を認めないばかりか、キリスト教普及を妨 げる存在として彼らを悪魔の使徒などと呼んだ。そのため、一般の人々の彼らに対する差別はとどまるところを知らず、 やがて遍歴芸人たちは悪行の象徴にまで既められていくのである。 ハニ 阿部は、遍歴芸人の定義を以下のように述べている。 遍歴芸人の定義に﹁グオト・ウム・エーレ・ネーメン﹂という言葉がある。これにはいくつかの解釈があるが、か つては名誉の代りに金・物を得ること、歌を唄ったり、身体を使って見世物をして代償︵金︶を得ることと解釈され ていた。しかし今では称讃に対する報酬を得る者という解釈が一応通用している。 遍歴芸人は地位も名誉も持たない賎しい職業の者であり、彼らは芸を売ることによってしか、生活の糧を得る術を持た なかった。混乱の世の中で観客を得ることは容易ではなく、観客・聴衆を求めて遍歴することを、彼らは余儀なくされて いたのである。 先に、美しい﹁笛吹き男﹂の例をあげたが、それはあくまでも例外でしかなく、本来の彼らは、けっして﹁美しい﹂と 一117一 いう形容を与えられる存在ではなかった。彼らは、人の目を引くために目立つ格好をしていた。当時は、貴族ですら赤や 黄などの服を着ることは稀であり、遍歴芸人たちの赤い縞模様やまだらいろの服装は異様でさえあった。さらに彼らは、 目立つために生まれつき身体に障害を持つ人間や奇妙な動物を連れて歩いた。 実際の﹁笛吹き男﹂は、差別されながらも、一四世紀から=ハ世紀にかけて、貴族や聖職者たちにその個性を買われて 保護され、次第に遍歴をやめ、定住するようになる。それとともに、彼らの名誉も回復されていったのである。 ところが、伝説のなかの﹁笛吹き男﹂は、一六世紀になって﹁鼠捕り男﹂のモチーフが加わったことや、宗教改革、農 民戦争などの社会変動からくる不安な状況によって、その姿を変容させていった。 次にあげるのは、阿部によって紹介されている一五五三年当時ハーメルンに口伝で伝わっていた﹁笛吹き男﹂伝説を記 した﹃ハンス・ツァイトロースの日記﹄である。 この町からほぼ銃弾の届く距離のところにひとつの山があり、カルワリオと呼ばれている、と市民は語った。一二 八三年に楽師とみられる大男が現われ、いろいろな色の混った上衣を身につけ、パイプあるいは笛を市内で吹き鳴ら した。すると市内の子供たちが一緒に走り出し、いま話した山のところまで行き、そこで沈んでいった。子供二人だ けが裸で戻った。一人は唖、一人は盲目であった。母親たちがわが子を求めてとび出し、追いすがるとこの男は、三 ○○年たったらまたやって来てもっと多くの子供を撰うそ、と脅したという。行方の知れない子供の数は=二〇名で ユもら あったという。この町の人々は男が再びやってくるといった三〇〇年後の一五八三年をあと三〇年と数えて、あの男 がまたやって来る、と恐れおののいていた。 ﹁笛吹き男﹂は大男になり、恐怖と不安の象徴と化し、悪魔的・魔術師的要素を持つ存在になっている。さらに、ハーメ 一118一 ルン市当局と教会が﹁笛吹き男﹂伝説を権威付け、政治的に利用するために、先に引用したグリムの﹁ハーメルンの子供 たち﹂にも出てきたように=五五六年、すなわちマグスが=二〇人の子供を町から撰っていってから二七二年ののち、 この門は建立された﹂と作為的に﹁笛吹き男﹂をマグス︵11神秘的な隠れた世界の支配者︶に仕立て上げてしまったので ある。 ﹁上等な服を着た三〇歳くらいの美しい男﹂から﹁見知らぬ笛吹き男﹂へ、さらに﹁魔術師﹂﹁マグス﹂へと姿を変え、 神秘化されていった﹁笛吹き男﹂の伝説であるが、ここには変容をもたらす理由となる舞台装置があった。それは、﹁笛吹 き男﹂が子供たちを連れて行ったとされる、コッペンなる山である。実際には低い丘に過ぎなかったが、そこは中世初期 以来の処刑場で、その近くにはキリストが十字架にはりつけられたゴルゴダ︵カルワリオ︶の丘を模した巡歴路がつくら れており、キリスト教徒にとっての神聖な場所であるとともに、かつては古ゲルマン時代以来の原始的信仰の聖域でもあっ た。そのため、﹁笛吹き男﹂がこの山で消えたという記録は、いとも簡単に神秘化され、やがて神隠し伝説に転化していっ たと考えられる。 ここまで、阿部謹也﹃ハーメルンの笛吹き男−伝説とその世界﹄を参照しながら、﹁ハーメルンの笛吹き男﹂伝説とその 内実についてみてきた。﹁笛吹き男﹂が伝説として定着するのには数百年を必要とした。﹃六道の辻﹄の﹁マカベ﹂がどこ か特異な存在として扱われるようになる過程とは比べものにならないほどの長い時間をかけて﹁笛吹き男﹂は伝説化され ていった。﹁マカベ﹂と﹁笛吹き男﹂とは、神秘化の結果や行きついた先は異なるが、神秘化のきっかけが外的な要因によ ること、神秘化される以前の実体が社会的に疎外される要素を持った存在であることに共通点がみられる。次には、この 点を踏まえて﹁マカベ﹂と﹁笛吹き男﹂の簡単な比較をすることにしたい。 一119一 ﹁マカベ﹂と﹁笛吹き男﹂ 両者の共通点として最初にあげなくてはならないのは、笛で人や物を操るということであろうか。それはいうまでもな く、芸人としての技術であり、才能であり、個性である。 しかし、私が最も興味を惹かれたのは、﹁マカベ﹂と﹁笛吹き男﹂が歩いた道程にみられる共通点である。 まず、歩いていった方角である。﹁笛吹き男﹂は町の東門から出ていった。そして東に進み、次いでやや南に下る。ある いは、異説によれば、ハーメルンから南東に下ったともいわれている。一方﹁マカベ﹂は、八坂の塔を出た後に向かった のが鳥辺野の方であるというだけで、漠然としてはいるが、やはり南から南東方角に向かったことは間違いない。両者の 共通点は都市空間から離脱していくというところにあるが、さらに興味深いのは、向かった先がこの世とあの世との境界 領域であり、そこに﹁死﹂のイメージが漂っていることである。 前述のごとくコッペンなる山は、処刑場という﹁死﹂への旅立ちの場であるとともに、キリスト教の神聖な場所を模し た地であり、原始宗教の聖地でもあった。一方鳥辺野は、葬場で、仏教の立場からは無常の地であった。またこの鳥辺野 の南には、仏教および道教に基づいて造られた都の外の空間で原始宗教ともいうべき熊野信仰の聖地今熊野があり、さら にその南には紀伊の熊野三山があった。 ﹁死﹂という現世・来世︵常世︶の境界、新しい宗教と原始宗教との境界とでもいうべき領域に入り込んだ﹁マカベ﹂も ﹁笛吹き男﹂も姿を消してしまい、その後どうなったかは伝えられていない。しかし、小野篁が境界を越えて生六道から 現世に戻ってきたように、彼らの向かった﹁死﹂の領域は、﹁生﹂への再生の場でもあった。 私たちが馴れ親しんでいる﹁笛吹き男﹂の物語では、子供たちは楽園・ユートピアに向かったことになっている。これ 一120一 は、﹁笛吹き男﹂の物語が少年少女の成長物語に変容していく過程での脚色であろうが、先に少し触れたヴォルフガング. ヴァンの東方移住説などにも﹁生﹂への可能性が示唆されている。﹁マカベ﹂が向かった先に存在した熊野信仰にも同様の ことが指摘できよう。熊野信仰で祀られる神に、牟須美神という女神がいる。ムスミとは、物の生成、生産、出現の原理 をつかさどる不可思議な力を意味し、牟須美神は地母神的な相貌をもつ生産の神であり、熊野信仰の中心に位置する神な のである。神話学の観点からみれば、熊野はイザナミが火の神を産んでこの世を去った場所で、イザナミの埋葬地である。 しかし、彼女の﹁死﹂は不毛の死ではない。彼女は病み臥せる間に、自らの体から次々と神々を産み残して逝った。彼女 の﹁死﹂が単なる﹁死﹂ではなく新たなる﹁生﹂につながる再生・創生の原理に裏打ちされている点に、この世に豊穣を もたらす牟須美神の真面目が現れている。 紀伊の国の熊野は、﹃墨気楼﹄︵﹃唐草物語﹄所収︶の中で徐福が不老不死の秘薬を求めて向かった蓬莱山があるとされる ように、ユートピア謹が集中する場所でもある。徐福伝説の真偽の程はともかくとして、熊野が永生の思想.再生の観念 と深く結びついた地であることだけは間違いない。 ﹁マカベ﹂の行方 エッセイから小説に移行し、徐々に物語性を深化させていった澁澤の作品世界には、つねに︿超越﹀への志向が感じら れる。﹃六道の辻﹄の﹁マカベ﹂なる人物にもその傾向は現れていた。 ﹁マカベ﹂は、その独特の風貌から生じるカリスマ性に基づき、﹁マカベ踊﹂を創始し、主宰した。中世社会の不安と混 乱の中で彼は、当時芸能として認知されつつあった能・狂言の流行に助けられ、一種のシャーマン的存在と化した。あく まで俗世に生きる普通の人間の一人でしかなかったものが、やがて聖性あるいは魔性を帯びはじめ、俗世から離脱する際 121 に死と再生をめぐる場所に向かう。私は、そうした.﹁マカベ﹂のなかに﹁バベルの塔﹂を築こうとした人間の姿に相通じ るものを見る。 ﹁バベルの塔﹂は、﹃旧約聖書﹄の﹁創世記﹂第十一章に語られている。不遜にも天まで届く塔を建てようとしてその高 慢を神に罰せられた人間が、言葉を乱され、多言語、多民族になったという。﹁バベルの塔﹂は﹁﹃未完の塔﹄の未完の物 語﹂で終わり、挫折したとも崩壊したとも書かれていないし、この塔は、物語の途中で姿を消すことになる。それは、垂 直方向へ屹立していたものが、人々の全地への拡散という、いわば水平方向への動きとなって物語が終わる、ということ を意味する。垂直の動きと水平の動きが相容れないものであったところに、﹁バベルの塔﹂の悲劇があった。 さて、﹃六道の辻﹄の結末近くで、﹁マカベ﹂は念仏堂で彼とともに暮らす女によっで﹁もういい加減にしておくれよ。 お前さんの欲のふかさにも、ほとほとあきれるよ。仲間を裏切って、こんなあさましい稼業に身を落して、どこまでぼろ もうけをしようってのさ﹂という言葉を浴びせられる。女はいわば、彼自身の︿内なる女性1ーアニマ﹀にほかならない。 心身共に醜い存在である女を前にマカベは、己が俗世にまみれた醜悪な人問に過ぎないことを自覚しなければならなかっ た。彼もまた、垂直への志向が先に立ってしまったがために、その思惑は大きく外れることになったのである。 女が、﹁マカベ﹂に彼自身が俗世内の存在でしかないことを気づかせようとしても、彼は﹁最後の大博打﹂を打とうと目 論む。この﹁大博打﹂は、人間存在から神への昇華を志向する行為にほかならない。﹁マカベ﹂は八坂の塔に上り、その最 上層で神のごとき仕業を見せる。しかしそれは、あくまでも幻影でしかない。マカベのなかで、時間意識と空問意識の転 倒が起きたに過ぎないのである。 マカベの笛は、どこにでもあるような篠笛だった。縁の勾欄に片足をかけて、頭と頸で拍子をとりながら、彼は雲 一つない月明の夜空に向って、しずかに笛を吹き鳴らしはじめた。笛が次第に急調子になってくるとともに、彼はふ 一122一 たたび忘我の境に運ばれてゆくようであった。 私はその笛の音にわれ知らず惹きこまれ、その劇々たるメロディーに心が浮き立ち、波立ちさわぐのをおぼえたが、 ふと勾欄の下に目をやると、あっと驚いた。五重の塔が虚空にただよい出して、ゆっくり旋回しているように見えた からである。私自身が虚空にほうり出されるのではないかと、はっとして勾欄を両手で握りしめ、思わず目をつぶっ たほどであった。マカベの笛がおわるまで、塔は旋回しながら空中を揺曳することをいっかなやめなかった。 笛がおわったとき、マカベが不覚の涙をぬぐっているのを、私は月明のなかにはっきり見たと思った。 最後に﹁マカベ﹂は、死と再生の場、鳥辺野へと向かう。俗世から辺境世界へ、さらに観念世界へと離脱していくため にである。このとき﹁マカベ﹂は鍬をかついでいるが、この姿は、土から人間を造りだしたヤハウェ神を連想させる。 ハぜ ヤハウェ神は土から取った塵で人を形造り、 彼の鼻に息を吹き入れた。すると人は生きものとなった。 ヤハウェは万物の創造主であり、人を造ったものの、統治者たり得なかった。すべての生物に対し公平無私でなくては ならない神としての意識はなく、彼の視線はひたすら﹁人﹂の方へ向けられている。﹁人﹂への視線は彼の煩悩そのもので ある。﹁生をさずけた者﹂にとって﹁生をさずけられた者﹂の堕落は、自分自身の堕落であり、没落を意味する。 ﹁人﹂は悪いことばかりを思い計り、ヤハウェを悩ませ、ヤハウェは人を造ったことを後悔する。そしてやがて、大洪水 をひき起こすことになる。ヤハウェ神の絶望と堕落の原因は、﹁人﹂と近すぎたことにある。自らの身をかがめて、人の鼻 に息を吹き込んだ、その瞬間から彼の没落は始まった。 ﹁民衆のあいだに恐怖と畏敬の念を呼び起す超人的な人物と﹂目され、﹁踊の輪のなかに入るものは、遠からずきっと死 一123一 ぬ﹂という噂に包まれ、﹁文字通り、生きた骸骨としかいいようのない異形の持主﹂﹁頭には毛が一本もなく、眼窩は洞窟 のように落ちくぼみ、唇の肉さえ欠け落ちて、歯がそのまま露出していた。手足は枯木のようで、動かせばかたかたと乾 いた音がしそうであった﹂と死神との類縁性が指摘されていたマカベが、通俗的人間としての位置を越えられない理由も ここにある。一旦は人間存在を越えて神になり、あるいは神的存在との統合がなされたとしても、金銭の虜になり、挙げ 句の果てに悪事を計る通俗的人間存在の要素をもっている以上、やがてマカベは没落へと歩を進めることになる。 こうして物語は、俗世を生き俗世で死ぬしかない人間﹁マカベ﹂の姿を浮き彫りにすることで閉じられる。ただし、﹁マ カベ﹂が向かう方向が鳥辺野であることに何を読み取るかは、物語の読み手に委ねられている。 ︵1︶高橋英夫﹁引用とトポス﹂︵﹃花から花へ1引用の神話 引用の現在﹄一九九七年六月、新潮社︶。高橋は西行の跡を訪ねて吉野 の奥まで少なくとも二度足を運んだ芭蕉の﹃野ざらし紀行﹄の﹁露とくとく浮世すすがばや﹂を引きながら、﹁念願の一つであっ た筈の吉野西行庵跡地を尋ねたとき、﹁いと尊し﹂と記しはしたものの、芭蕉の心は庵よりも﹁とくとくの清永﹂の方につよく引 き寄せられていたことが読み取れる。このささやかな清水の前に先人西行も立ち、こうして水を汲んだのだという思いが、芭蕉 述べ、﹁自然現象である山かげの清例な湧水に﹁とくとくの清水﹂という名称あるいは伝説が冠せられたとき、それはトポスとし の脳裡を去来しただろう。心の中でこの水は醇にして聖なる水へと昇華した。これはただの水ではない。自然の水ではない﹂と ての意味と機能を帯びた。自然以外の何ものでもない自然に、人間は何かを感じ、意味作用を読み取る。そこから言語がはたら トポス ’ きはじめる﹂とし、引用とトポスの関係性について卓越した見解を示している。これは、﹃六道の辻﹄における旅人﹁私﹂が京都 の六波羅という﹁場所﹂を訪ね、読み取った意味作用によって、﹁マカベ﹂の物語が生み出されるという﹃六道の辻﹄の物語構造 を説明する際にも有効な見解である。 ︵2︶六道珍皇寺門前は、俗に﹁六道の辻﹂と呼ばれ、毎年八月七日から十日までの四日間は﹁六道詣り﹂といわれる精霊迎えのた 一124一 註 め、多くの参詣者でにぎわう。﹁六道﹂とは、一切の衆生が生前の善悪の業因によって、必ず赴くとされる地獄・餓鬼・畜生・修 羅・人間・天上の六種の冥界のことで、参詣者はこの期間、先亡の精霊を迎えるため、高野棋を買い求め、鐘︵迎え鐘︶を撞き、 本堂で経木に戒名を書いて、水回向を行なう。境内裏庭には小野篁が冥土通いをしたといわれる井戸があり、﹁〇九日の六道まい かへ鐘/うてばひぐく眼前のものながらも此むかへ鐘は一としほあはれなりと観ぜしなり﹂︵﹁玄峰集﹂︵﹃俳譜文庫 第7編 嵐 り小野篁の冥途にかよへる道なりとて洛中の貴賎まふて棋の葉をもとめて魂をむかふる印とし侍る/打はひ・く物としりつ・む ︵3︶ ﹃古本系江談抄﹄の﹁野篁井高藤卿中納言中将之時。於朱雀門前遇百鬼夜行之時。高藤下自車。夜行鬼神等。見高藤勝尊称陀 雪全集全﹄︵明治三一年六月、博文館︶のような記事が多く残されている。 巻三の﹁野篁為閻魔庁第二冥官事﹂、﹃今昔物語集巻第二十四﹄﹁小野篁、依情助西三条大臣語第四十五﹂、﹃今昔物語集巻第三十一﹄ 羅尼云々。高藤不知。其衣中乳母籠尊勝陀羅尼之故云々。野篁其時奉為高藤致芳意。令遇鬼神云々。⋮⋮﹂や﹃類聚本系江談抄﹄ ﹁愛宕寺鐘語第十九﹂など、枚挙に逞がない。 ︵5︶小池寿子﹃死者たちの回廊﹄一九九〇年二月、ベネッセコーポレーション。 ︵4︶小池寿子﹃マカーブル遣遥﹄一九九五年三月、青弓社。 ︵7︶ ﹁第ニマカベア書﹂第七章三十六節。 ︵6︶ ﹁第ニマカベア書﹂︵土岐健治ほか訳﹃聖書外典偽典1 旧約外典1﹄一九七五年四月、教文館︶。 ︵8︶松岡心平﹁﹃一遍聖絵﹄から踊り念仏を解く﹂︵﹃ひととき﹄<o卜刈乞ρ一二〇〇七年一月、ジェイアール東海工iジェンシi︶に 以下のような指摘がある。コ遍︵一二三九∼一二八九︶という宗教者の出現により、そして一遍が採用した﹁踊り念仏﹂という パフォーマンスにより、仏教は日本の民衆の体の中へはじめて深く浸み透っていった。/踊屋︵踊り念仏の舞台︶には、三十人 ほどの時衆︵一遍の信徒︶たちが上がっていて、女を内側に男を外側にして、鉦鼓の打音に合わせて念仏をとなえ、板を踏みな らしながら時計回りに旋回している︵中略︶この念仏舞踏がハイスピード、ハイテンションになったときにまきおこる異様な宗 教的興奮1﹁ボレロ﹂のクライマックスを考えていいかもしれないー、その分け前にあずかろうとして、人々は、踊屋のま ︵9︶ ﹃貞和五年春日若宮臨時祭記﹄。 わりに群がるのである。そこは熱狂のるつぼと化した﹂。 一125一 ︵10︶阿部謹也﹃ハーメルンの笛吹き男ー伝説とその世界﹄一九八八年一二月、ちくま文庫。なお初版は一九七四年一〇月、平凡社 ︵11︶ ﹃六道の辻﹄の第一の物語における井戸をくぐり抜けて自在にこの世とあの世を行き来したという小野篁伝説とも符合するエ より刊行された。 ︵12︶註︵10︶に同じ。 ピソードである。 ︵14︶ ﹃旧約聖 書 ﹄ ﹁ 創 世 記 ﹂ 第 二 章 。 ︵13︶註︵10︶に同じ。 一126一 *﹃六道の辻﹄からの引用は﹃唐草物語﹄︵一九八一年七月、河出書房新社︶所収本文を用いた。 ︵文学部・文学研究科教授︶ 、