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SADAKO LEGACY 理事長 佐々木雅 弘 氏 副理事長 佐々木
禎子の折り鶴 広島市平和記念公園にある原爆の子の像の一番上で両手を広げ、折り鶴を天に向かって掲 げて立っている少女、それが佐々木禎子です。 禎子は1955年2月21日から入院し8ヶ月の闘病生活の中で、先生のカルテからこっ そりと、自分の白血球の数値をメモに書き写していました。そして運命の4月26日、その 日もこっそりと禎子はカルテを見てしまいました。 そこには何故か「亜急性リンパ性白血病」と日本語で病名が記入されていました。入院の前 からひょっとして白血病ではとの予感はしていたものの、この日禎子は自分の命の長さをハ ッキリと自分の目で確認し死の覚悟を決めなければなりませんでした。どんなにか驚き、な ぜ!と絶叫したかったと思います。 それでも、知ったその事実を自分一人の胸に無理に隠し押し込みながら、残りの命を惜し むかのように、動きづらい手を一生懸命に動かし、針を使い折り目をつけ、必死に折り鶴を 折り続けました。それは両親や家族が安心して平穏な生活が出来るようにと願いながらも、 今も襲いかかる自分の強烈な癌の痛みを誰にも打ち明ける事はなく、主治医や看護師さんや 家族にも知られないようにし、日に日に弱っていく自分の身を案ずることなく犠牲にして、 残された命で、希望や願いを一羽一羽の折り鶴に託していきました。 みんなが当たり前に過ごしている毎日が、いかに有難い事なのか、これは今、命ある者が 当たり前に出来ている事の有難さに気づき、その事に深い感謝を表し、その恩に報いるため の心を持つ事だと教えてくれました。 禎子は強烈な癌の痛みによる肉体的な苦と、最低生活を営む事も難しいことを知っていた 経済的な苦と、その為、ほんの少しのわがままも言えない事を自覚しなければならなかった 精神的な苦も全て、わずか12歳の小さな胸に隠し込み、死ぬまでほかのだれにも打ち明け る事はしなかったのです。 そして、そのすべての苦を「想いやりの心」にかえ、その心で折った小さな折り鶴を心の メッセンジャーとして私達に残し、「ありがとう」と言う感謝の言葉を言いながら1955 年10月25日静かに目を閉じました。 今や禎子は世界中のみんなの心の中に平和の象徴として、折り鶴の少女として確実に生き 続けています。小さな心の平和が段々と周りにつながり、やがて大きな平和へとつながって いくのだと思います。 私達は沖縄の皆さんが戦争で味わった悲しみを忘れてはなりません。 禎子はここにいます。 苦しくなったら、悲しくなったら禎子を思い出してください。沖縄の苦しみは、日本の苦 しみです!世界中からあらゆる苦しみが少しでもなくなり、笑顔になれる日が多く来ます事 を禎子は願っています。 私達は永久に摩文仁の丘の御霊に対し心から哀悼の誠をささげ、禎子と沖縄と広島の共通 した願いの為に、禎子の遺品「SADAKO 願い鶴」を寄贈致します。 2013年9月7日 NPO 法人 SADAKO LEGACY 理事長 (折り鶴の少女 佐々木 禎子の兄) 佐々木 雅弘 折り鶴の寄贈に添えて 戦争体験者や被爆体験者の方々も高齢になられた今、決して風化させてはいけない過去を、 未来へとどう繋ぎ、次世代へ如何にバトンを渡すかという深刻な問題に私達は直面していま す。広島や長崎への原爆投下と同じように悲劇をもたらした沖縄の地上戦からは決して目を 背けることはできません。 次世代へ繋げるもっとも大切なことそれは「同じ過ちを繰り返さない」ということです。 そのためには広島・長崎・沖縄か今まさに一つとなり、痛みを共有し、禎子が命を懸けて残 した「想いやりの心」を持って未来の子供達の為に道を築いて行くことを初めなければなら ないのではないかと強く思います。 その未来へのバトンを渡す架け橋に、この禎子の折り鶴がなってくれることを節に願いま す。 2013年9月7日 NPO 法人 SADAKO LEGACY 副理事長 (折り鶴の少女 佐々木 禎子の甥) 佐々木 祐滋