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約~ti.粁え争j司会令々手え

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約~ti.粁え争j司会令々手え
約~ti.粁え争j司会令々手え
1
2
3号
昭和 4
3年 6 月
長
・ 1
・
・
7
:・却
24
員を迎
-・・ 福
補 綴 ・口 腔 外 科:-M
一
一
内
R
1 i
日'
理 工 ・医 療 管 理 ・:日
田
会
i
S
E
i
z
i
i・
会
新会員を迎えて
:学長再選 、歯科麻酔学講座新設、 外国往来 ・
:9
:
m
12 1
1 1
0
1
6
母校より
談 ﹁ 同 窓 会 を 語 る﹂::・::福島秀策会長、複本美彦名誉会頭 :・
2
次
お 知 ら せ : : : ・ :六月講演会、東歯学会、夏期講習会、 日曜セミナーなど
歯
科
究
添
研
て
策
本日は同窓会長として一言お祝辞並びに歓迎の辞を述べさしていただきます。
諸君は六年間の鐙雪の功ひなしからず、本日芽出度卒業の栄冠を得られました乙と
島
放射線 ・歯槽膿漏 ・:日
矯
島
は、まことに喜びに堪えないところであります。同窓会として 、 又 私 個 人 と し て も 深
く慶祝の意を表する次第でございます。
諸君が入学された時は 、私は学長として入学のお祝を申し述べたと記憶しておりま
すが 、 本 日は又同窓会長として新しく諸君を同窓会にお迎えするという歓迎の辞を述
べる次第であるます。ここに二重の慶びに感激を新たにするものであります。
先づ卒業の御祝の言葉として諸君が本学、 即ち街科医学教育の最も古き伝統ある我
が母校に身をよせ、先、き程学長の告辞にもありましたように 、既 に教うべきものは教
え、授くべきものは綬く、とさとされた通り、立派な知識、技術は勿論のこと 、教 養
あるたのもしき青年歯科医師として世に出ょうとされているのであります。今日只今
の諸君の胸中を思う時、老の胸の捜火も亦かきたてられる思いがするのであります。
り
え
只今、 伝統と云う言葉を口にしましたが 、 乙の言葉を正しく見出し得るのは 、教 育
の場におきましては私学においてのみであります。私学における建学の精神が今日に
おいても 、尚厳として守られ、守られつづけられている姿を云うのでありましょう。
決して単なる歴史の逃物として扱つてはならないと思うのであります。
目
紹
介
よ
福
従って伝統を守るということは 、 ただ懐中にあたため、朽ち乙ぼれる ζとを恐れて
削存することではなく 、崇高なる団体精神をその時代に応じて琢磨研鎖し 、 そこに得
た成果を次の時代に引きついでゆく乙とをいうのでなければならないと思うのであり
ます。
-:A
4企
』
思うに高山先生に発し、血脇先生によって育成された我が東京歯科大学の伝統の火
は、斯界に誇る幾多の輝かしき業蹟と名声とをもって 、 いま 、諸君の手に引継がれよ
うとしているのであります。 親愛なる諸君 / 私達同窓会はこの大きな責任を抱いて 、
T
ご
ベル l アン デ ス 遠 征 隊 出 発 :ji--:::::-ji--::::::;:お
ス
秀
母校卒業式祝辞 より﹀
ぷ込
長
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四三 ・三 ・二五
ク
ヨ
コE
雄 々 し く 実 社 会 に 第 一 歩 を ふ み 出 す 諸 君 の 姿 を 、 限りなき喜びを以て見守山るととも
に、こ ζに百四十余名の新しき同窓会員として迎える乙とを 、何物にもかえがたきよ
ろこびとするものであります。
蕪辞をつらねて祝辞意を表し且歓迎の辞といたします。
会
児
英
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正
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本
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~山内町内 山川細川~山."...."
新
司会
復本先生は昭和二
十四年から三十年まで、長
い間、会頭を勤められて 、
現在は名誉会頭として会の
ために御協力をいたどいて
おりますし 、 また福島先生
は学長の職を辞されてから
一休みされたところで 、 こ
としから会長とじて同窓会
のために陣頭に立たれる乙
とになりました。それでき
ょうは両先生に 、 本会七十
三年の歩んできた道、 ある
いは精神 といったようなも
のを 中 心に 、 またこぼれ話
などがとざいましたら伺い
まして 、 そして今後同窓会
が正しく進むべき道 と いう
ようなものをお示し願え れ
ば、同 窓会のために た いへ
ム
一
山
頭を 、飾らしていたピきたいとい
うわけで 、 乙の対談を企画したわ
けでございます。どうぞよろしく
たまたま今度から同窓会報が雑誌
になりますので 、 その第一巻の巻
んありがたい乙とだと思います。
名 誉会 長
島
榎本 ぼくらの時に会則も多少
かわっておるのですが 、 会 員 の 共
済規程というものが 、 いままでな
かったのです。天 災、 火 災、 死亡
乙れらに対して共済部を設けて 、
見舞いをしようというわけです
ね。 そ れ から学生が 何 かの都合で
月謝が払えないとかいっ た よう な
乙とがあるので 、 奨学制度を設け
て学生に一時たてかえ て やろうと
いう制 度なのです。そ れ から学生
美
彦
策
理
先
先
事
生
生
、将 来 大 学
定ザ
HY を区別しておくと
になった場合に 、 今度はその人た
ちが 、 また別個のものをつくると
いう乙とがないとも限らない 。 そ
うすると同窓をまとめる上に非常
に因 るので 、 それで一切区別を無
くしてしまったのです 。 そ れ か ら
奥村先生の時に学校長と同窓会と
を分けてしまったわけなのです
ね。と乙ろが分けても 、 同 窓 会 で
やった乙とは 、 やはり学校がやっ
たという乙とになるので 、 今日の
問題なども、やはりそ れ に連関し
ているわけなのですがね 。
司会 いまのお話で 、 せっかく
そういう宿舎を計画しても学生が
人って ζないというのはどういう
理由でしょうか。
4
ベ 0
福島 やはり窮屈なのですよ。
舎監とか何とかいうものがあって
して開業医のと ζろへ就職すると
いうのが非常に少なくなってきて
いるでしょう。やはりそれにも通
じるのですね。つまり学校から紹
その関係はいま、学校から紹介
+4
に分かれていまして 、 卒 業 生 四 人
くらいに与えられたのです。しか
し、 乙れはいま学校で賞を出さな
介されたのでは進退が臼由にいか
ないという乙とで 、 友 達 と が 知 り
入ろう と いう人がないのでやめに
ろ渉外部との関係や 、 政治的な面
で動くようになってくると 、 同 窓
いうものを分けてしまったので
す。 それまでは学校長が同窓会長
をしておら れ たのですが 、 いろい
された わけで す。そ れ で同窓会で
榎 本 殊 に 一番強 く主張 した の
は、近畿連合同窓会が 、 あ れ は同
窓会の 決議 でもって同窓会に委嘱
ができた
すね。
ね。 どうもいつの 時代でも父兄か
ら非常な要望があるのですが 、 そ
の要望に対して応えるだけの施設
ζとがないという現状で
ような 、 そういう意味の自由さと
いうものを束縛されるということ
が寄宿舎の問題においてもやはり
あったのではないかと思われます
やな時は出てしまえばいいという
合いの紹介で行ったものなら、 い
なってしまったのです。そ れ から
私どもの時代でわりあい 画 期的で
会でやったこ とが す ぐ 学 校 長 に 符
いてくると非常にま ず いというの
で、 つまり学問と政治 とい うもの
望 し た の で す が 、 学生のほうが 、
あったものは 、 学士会というもの
、 同窓会一本
を解消 し て しまっ て
にしてし まっ た のです。学 士 と検
企画したので 、 家まできがしたの
ですが 、 寄宿しようという学生が
いないのですよ。 父兄は非常に要
て、 乙れはだいよん同窓会でも考
えたのですが 、 金のかかる仕事ピ
し、 それからこれは学校も同時に
くなってから廃 止 になってしまっ
たらしいですね 。そ れから学生の
秀
宿舎の設計計画というものが 、 地
方の同窓支部から要望が出まし
辺
本
の奨励 の意味で 、同 窓会 賞 と いう
ものをつくって 、 あ の こ ろ は 四 部
渡
ネ
冨
=
長
お願いいたします。
メ〉
榎
司
:"li
a
火
対
2
も学校側と相談して 、 その
問題を取り上げたのです
が、う ま く 実 現 し な か っ た
のですね。
司会 福島先生は卒業さ
れて 、だいぶん乙ちらにお
られたのでしょう。
福島 私は大正五年の卒
業ですからね。それから兵
隊へ行ったりして実際に幼
手として採用されたのは大
正八年です。それまで研究
つながっているような、い
で榎本先生から血脇先生に話しが
の宮を診ておられたのが緩本先生
なのです。そ れ で宮さんがその艦
に乗られて 、もしまた歯のほうで
御用があるといけない と いう ζと
ないような形で 、 それで大
正八年の春から 、 た し か 助
手として採用されたので
す。それから昭和十四年ま
あって 、 その結果、 どうして私が
選ばれたのか知らないがまあ兵隊
にも行ってきたし、丈夫そうだか
らくらいの話でしょうね。腕のほ
うは第二の問題で。(笑)それで
科だとか何とかいう乙とで
でいたわけですから、 その
かっこうで采り込んにのです。で
すから官級づきの 歯科医としては
大したものなのですね。その時の
述合艦隊の司令長官が鈴木貫太郎
之助氏の好意により同校助教授 、
福島秀策氏を連合艦隊に配属
東京歯科医学専門学校長、血脇守
という、終戦の時の総理大臣で
す。その司令長官の名前でもって
はということで、日払が選抜された
間二十何年ということにな
るわけですかね。
榎本 海箪に行かれたの
は、 いつごろでしたか。
福島 それは大正十三年
です。関東大震災は大正十
二年でした が、 その時逗子
で山楢の宮の妃殿下が亡く
ならたたのですね。それで
殿下が非常な傷心のためノ
司会
ではわが国における海箪
まし て相当なものでした r
榎本 たしか 佐官級の待遇です
ね
。
練習艦隊の乙とですね 。
それで先生は実際に歯を
の、 ま ず 先生は始めという乙とに
なりますか。
福 島 連合艦隊配属は始めてだ
ったが 、 その前に遠洋航海で 、 み
んな乗っていきました。
榎本
司会
ごらんになりましたか 。
福島 私のレコ ードは、朝七時
半から夕方の四時半とろまで二十
七人でした。
士官病室を街科の診療室
榎本 艦隊づきですから、 宮 様
づきというわけにはいかないです
よね。
福島
にしましてそ乙に設備を持ち込ん
だのです。そ乙で診療をするので
すが 、 せっかく乗り込んでくれた
のに 何 か 歯 科医 に用がないという
のもいけないから、 一ぺん診ても
とできたのだから、患者はやはり
部屋へ来てもらわないと乙乙では
らおうかという乙とになったので
すね。軍医長がばかに肝っ玉の小
さい人というか、とにかくへイコ
ラしている人だったのですが 。そ
れで一ぺん殿下の個室へ行 って診
てくれというので 、 ﹁それではせ
っかく配属されて、部屋もちゃん
ういうことを話し出すと 、 いろい
勝手が違うからだめだ。﹂という
ので引っ張ってきて 、 とにかく拝
イローゼのようになられ
た。それで海軍が心配して
軍艦へお乗せしたら、 いく
らか気晴らしになるだろう
ろおもしろい話がありますが。
待遇は、士官室をちゃんとくれ
と。乙れは大したことで艦隊広報
に山ました。これは弘にとって一
生一つの思い山になりました。こ
という ζとで巡洋艦﹁日向﹂
に乗り込まれた。その山指
見しますかというわけでやった
が、実にそういうことがうるさい
のです。ところがどこもきれい
で、何もすることがないので 、 過
酷同化水素を綿にしませてふくめて
やったと乙ろが 、 ﹁その薬は私も
持っています﹂というわけで(笑)
茶ぱなしみたいな話でした 。 御用
はそれ一ぺんきりでした。それで
も退艦する時に﹁ごくろうでし
a
た L というわけで金一封をいた た
いて、聞けてみたら十五円人って
いました。それと定紋入りのタパ
コが一箱と。そんな思い出がある
のですが 、 しかし非常に愉快でし
J'
,
榎本 地震で 山橋の宮の妃殿下
が亡くなったのですが、あれは私
が診療に行く日どったのですよ 。
それで、産婦人科の吾妻さんが〆刊
かれて 、 そ の 途 中 に 地 震 が 起 き
て、妃殿下と産婦人科の先生が亡
くなったのです。あの時、私が行
っていれば 、 私はいま生きてはい
なかったのです。あの時は吾妻さ
んに気の毒なことをしたと思いま
した 。
榎本
同窓会のある乙とは知っ
福島 なかなかよく勉強をする
宮さんでし た ね。本なども、 よく
読んでおら れ ました。
司会 榎本先生は同窓会を一番
士口く知っていら れ たのはいつごろ
ですか。
ていましたが 、 実際の仕事は何も
携わっておりませんでした 。 戦 争
中に秋田県に分校がありまして 、
いまの 山本君とか斎藤君など 、 私
も応援に行っておったのですが 、
斎藤君は学校を閉鎖してからすぐ
帰 っ た の で す、 私 も 十 二 月 ま で 秩
出に住んでいたのですが 、 あ ま り
寒くて帰ってきたのです。そうし
たら奥村先生が、﹁きみは同窓会
の役員になっているのだから来
い﹂と言われまして、それで仕方
なく副会頭というととになったの
です。だから全く私の知らないう
それで榎本奨学金が大正
ちに役
μ になっていたわけです。
司会
八年にできましたが 、 あれは先生
がお金をお出しになって始められ
たわけですか。
福島
積 一 先 生 な のです。
榎本 あ れ は 私、 いまはっきり
記憶していませんが、父の且け主心で
はなかったかと思いますね。
複本 お金を持ってきたのは私
なのですが。
福島 富安奨学金というものが
あった。国似本奨学金、 それから高
3
談
対
談
対
らいとかいう、わずかな金
いまは使い残りの千円く
福 島 いまは名前だけ残
っているわけですよ。
司会 副いまはもう、それ
はないのですね。
高山奨学金は銀時計だっ
た。いわゆる昔の帝大の時
計みたいなものでした。
山奨学金。榎本奨学金は書
箱か置時計でしたか・・・・・・。
て、そのことについては、いろい
うことが、ひずかしいわけなので
すね。それで奥村先生がそれを非
常に心配されて 、 学士会というも
のをやめようということになっ
ろがそういう基盤を別にした所で
区別したということになると、同
窓としてビタッと一つになるとい
夜学出とか 、 あるいはその他、付
属機関の出身者と区別した 。 とこ
るのであって、同窓会全般からみ
た事業といったようなものは、あ
まりはっきりやっていなかったわ
って 、それが一つにな ったという
乙とですが、その目的は親睦にあ
く神戸の学士会でしょう。 そうい
うようなのがあっち、こっちにあ
う内部的な問題にはあまりふれて
いなかったのですが、学士会とし
て一番早く結束したのは、おそら
ろあっただろうと思いますが、私
どもはもうその時分には、そうい
が残っていまして 、 それを
一緒に何かに入れてしまっ
たはずです。
榎本 血 脇 賞 と い う の
は、また別なのですね。
福 島 ええ、血脇賞はま
た別にあります。
榎本 ζれは同窓会の仕
事で 、 同窓会報であった歯
科学報に載った一年中の論
文の一番いいのに血脇賞が
けです。
司会 先生、 同窓会のいまのパ
ッチは、あれは昔、学士会のパッ
チではなかったのですか。
司会
福島先生に、学士
与えられたのですね 。 ζれ
は同窓会賞とは別一なので
す
。
福島 その時に赤はシニア(一一一
年 ) 青 が ソ フ オ モ ア (二年)白が
フレッシュマン(一年)と、こう
いうことだったのです 。
司会 三年までしかなかったわ
の講義をされて 、 亡くなった のが
二十年ですね。だからもうあとは
でして、全然われわれは知らない
わけです。私の一年生の時、修身
ですよ。
榎本 そうでしたね。
けですか 。
福島 三年までです。大井先生
司会 いまのわれわれは、もう
血脇先生が会頭をやっていらっし
ゃる時代の同窓会というものを知
らないわけですよ。ちょうど私が
学生の時に先生が隠退されたわけ
が入学された大正九年から予科が
なくなり四年生になったわけで
ζのところで大
白雪 ﹂ で も唄って 、 というような
楽しい会でしたね。
榎本 よく麹町の富士見寮、 そ
れから赤坂の宰楽でよく会をやり
ましたね。
司会 古い歯科学報など読みま
すと、いまのと雰囲気がえらく違
って 、 ひどく楽しそうなね。それ
でまた血脇先生というのは逸話の
血脇先生は同窓の名前を
多い先生だから、同窓をひきつけ
る魅カがすごくあったのでしょう
ね
。
榎本
顔 を 見 る な り、 ﹁いやどうも、き
る前に、ちゃんと調べておいて、
よく山一見えていて、学校へ訪ねてく
る古い同窓生などのことは顔を見
やるとか、あるいは展覧会、展示
会などをやるとか 、 いろいろあっ
たことはあったにしても、そのあ
とで親睦会(宴会)があったわけ
です。 これが同窓会を結束してい
く上に一つの大きな要因になった
み、しばらくだね﹂とかいう調子
でやられるから、相手の人は感激
福島 血脇先生が会頭時代の同
窓会は、会の事業として講演会を
。
e
T
す。来る人がだんだん少なくなり
ましたからね。ですから、ひとつ
血脇先生時代の同窓会のお話し
ら、いまの同窓会にとってみれ
ば、大 般 の 人 が 知 ら な い わ け で
全然学校には出て乙られなくて、
ただ﹁雲の上の偉い人﹂という ζ
とで顔を一度見たきりでしたか
す。ですからあそ
井先生ともう一つ前の聞が一年卒
業生がないわけなのです。そ 乙で
そうなると一年、 二年の三色では
間に合わない乙とになってきたわ
けですね 。 しかしそれはそれとし
て、もうクラスカラーというもの
ではなく、学士会のほうのそれが
同 窓 会 に う つ っ た わ け で す。 初
め、たしか医学校の出身のほうは
ベタ赤でした。御記憶ありません
か。 ベタ赤に T -D ・Cがたし か
に入っていたと思います。しか し
そういう区別は、あまり長い乙と
はなかったように思いますね 。
のです。血脇先生を中心にした、
その会に出たいために地方から来
して非常に人気が必ったのですよ
ね。
いまのような同窓会の動きを必要
生が歯科医師会を全部押えていら
れたから 、 別にそういう ζとでは
福島 たしかあれは奥村先生が
もって ζられたのでしょう。考え
られたのは誰か知りませんが。本
があったわけですね 。 で す か ら同
窓会というものが混然と一つの流
れに 、 みんなが一緒になっていく
会の ζろのお話が何か Cざ
いませんか。
福 島 学士会の乙ろは 、
ような 、 そしてあとで 、 ﹁富士の
要するに専門学校出のいわ
の予科があり、それで八、九と夏
休みがあって九月末から一年生
司会 その ζろはいまの医政の
ようなガタガタはなくて 、 血 脇 先
る人がたくさんあって 、 またそ乙
で先生を慕ってあいさつを交わす
ことを無上の楽しみにしてくる人
色。だからわれわれの卒業が十月
学は私の入営した大正二年から半
年の予科ができたのです。四月に
入って、四、五 、 六、七と四カ月
ゆる歯科医学士といったそ
の連中だけの集まりという
ことで 、 非常に小さな範囲
で結束しようとしたような
形があるのですね。それが
4
談
対
としなかったわけでしょ
'
円
ノ
。
りましたよ。そし て たとえば 地方
の歯科医師会の招待を受けてい
れが す んでから 県全体 の宙科医の
とかまえていて海軍の連中がみな
よってきているわけで 、 それ で歯
科医の立場は非常に有利 になった
わけですよね。
歓 迎会があっ た のです。その 時に
は海軍の連中を全部よんだ。そ れ
もいまのように 、血 脇先生はデγ
司会 つまり筋がとおっている
わけですね。
福 島 そういう点は人間として
の本当の幅というものをもってお
られましたね。血脇先生の乙とを
る、 あるいは同窓会を通じて﹁お
れが正賓なのだからおまえはそっ
に行かれる時も、 各県の 知事をよ
く知っていられて 、 行くとその土
地の知事がちゃんと車をもって迎
えに来るといった調子で 、 それは
大したものでした。
福 島 やることに筋がとおって
います。だから知事のほうでも 、
もともと血脇先生には恩義もあっ
福島 そうなのですね。
同窓会みたいな機会をうま
く利 用されるーーーというと
ちへ行けよ﹂というわけで 、 その
点、 すごくはっ、お守りしていられま
す
。
関係のない歯科界に 、 ζ の
人は、という人などをうま
まあ大きく言えばそうです
し、 たとえば同窓会の何も
の動きというものに対して
語弊がありますが 、 歯 科 界
く引っ張って来られる 。 た
とえば海軍の、東大の都築
司会
そういう意味で歯科医の
社 会 的 な 位 位 を 上 げ る の に は 、実
際的にずいぶん役にたったことで
し ょうね。
いばっていたものですから民間か
家をならべて 、 そ れ で 医 師 法 の 改
正案をつくられたわけです。その
乙ろの内務省は 、厚生省ができる
前 で す が 、 衛生局などはなかなか
日本医師会のほうはたくさん専門
正などというのも、 そういうもの
ができていく全体的の筋道をよく
つかんでおられたのです。だから
っちもしたし、 公けの使いにもや
ら れ た の で す が 、歯 科 医 師 法 の 改
言い出すと 、 き り が な い の で す
が、私も先生の鞄持ちであっちと
私もよく血脇先生のお伴をしま
したが、ある所などでも、 日本歯
科医師会長として県の歯科医師の
公式歓迎の席によばれる 。そうす
ると 、 その土地の知事が血脇先生
とじ っ乙んだ ということで 、 つま
り陪賓的な意味において知事を招
捜 本 私は一度 山陰地方へお供
をして 、 私と一緒に海軍軍港舞鶴
へ行った乙とがあるのです。そし
て土地の歯科医師会の連中に会い
それから海軍の将校にも会い 、 そ
初めとして 、 そうそうたる反骨精
ら持ち出してきたものなどは 、 な
かなか鵜呑みになどしない。しか
し日本医師会のほうは北里さんを
考えられない乙となので、血脇先
生のおかげで知事がそ乙へ出席す
るとなる 。 すると主催者のほうで
なこ とを こ し ら え て い る わ け で
す。 そうすると 血脇先生の歯科医
師 会のほうは﹁ 日本医師会があん
な ζとをやでも筆を入れら れ ると
子で自分のほうの都合のいいよう
神 の旺盛な連中が、﹁なあに 、 内
務省が何言っているか﹂という調
いのですね。知事の 札 が真ん 中 に
あると、 それを 横 の ほ う へ や っ
て、 おれは歯科医師会長として県
問題になるわけです。そういう時
に先生は決して遠慮などなさらな
は知事を正座にすえるか 、 血脇先
生を正座にすえるかという乙とが
待するわけです。 歯科医師会とし
ては 、知事が歯科医師会の宴会に
来るなどということは 、 ちょっと
若い時代にもいろいろ世話になっ
ているから、 そんなことはちっと
も 気 に か け な い し 、 むしろ当然と
思っているのではないですか 。
ただろうし 、 また一ばい飲まされ
たという乙ともあっただろうし 、
正男さんなどは 、当時アメ
リカから帰って来ました
が、その乙ろはまだペン シ
ルパニアかど乙かに行 って
歯医者の ζとを少しやって
きたという程度であった。
も と も と 外 科の出身者なの
でしょうが 、 まあそういう
命令を受けて歯科の勉強を
してきた。そういう若い者
を、よくめんどうぞみてお
られた。そうしてこの人は
こういう経歴の人で 、将 来
は歯科を背負って立つ人
だ と 思 う と、 みなが別に歓
迎するほどのととでもな
い、 当りまえに思っている
ところを、 先 生 は う ま く 世
の中に出してやるようにさ
れた。 ζ のように 、内 務 省
の官僚などで 、先生の息を
蒙っ て いる人がずいぶんあ
ころは 、 もうみんな入 れ られ てし
まうのだ。そんなよけいな乙とを
するよりも、ちゃんと筋 を と おし
て書記官の所へ行って頼んできで
あ る か ら、 おまえ行ってそ れ を も
らってとい﹂というわけです。だ
から本元の書記官がちゃんとこし
らえて待っているわけです。それ
を私がもらいに行って 、 説 明 を 聞
いてくるわけですからね。歯科医
師法大改正の時にはおでん屋で委
員会を開いて 、総額八円いくらか
でした。(笑)
そ れ に 基 い て 、当 時 の 歯 科 医 師
法ができ上ったのが大正十五年十
一月です。その 時、書 記 官 は 清 水
某というスマートな人でした。そ
の人はど ζかの知事か 何 か に な り
ました。それから大館さんなども
血脇先生はめをかけていられた。
やはり人を見る目があったのです
ね
。
そ う い う ζとで応援すべきと乙
ろは応援し、間違っているととろ
は間違っていると、 大変はっ、お守り
しておられました 。 そ れ か ら 私 は
満 州 へ行ったのですが 、 昭和十 二
年には一ペん視察に行ったのです
その時、満州国の最高のポジショ
ンにその大舘さんはついていまし
たが 、 そ乙へ行って﹁満州固に歯
科のポストをつくれ﹂ということ
を言いに行ったわけです。それで
それに押し込んだのが渡辺悌先生
なのですが 、 その時に満鉄のパス
T
談
対
をもらっていったのにか
ら、 満州国中何度釆っても
いいわけです。その時、 満
鉄の総務部長をやっていら
れたのが奥村先生の弟きん
でし仁。にから仕事という
のは れ然と、とんでもない
所にいろいろひっかかりが
あるものですね。
司会 血 脇 先 生 に し て
も 、奥村先生にしても、そ
ういう社会的な地位のある
人を、たくさんお知り合い
があったものですね 。
仁 し か 昭 和 五 作、
福島
野υ先 生 の 亡 く な っ た 時
ですが 、 血脇先生が満州へ
行かれたのは 、木下謙次'郎
さんが官房長官で 、 ﹁一ぺ
ん遊びに来なさい﹂という
ζとで、血脇先生が行つに
わけです。それで関東州の
全歯科医を官邸に呼んどの
ですよ。その当時、関東州
長官といえば天皇陛下みた
いなものですよ。その官邸
に往復乗り込んで行ったも
のですよ。
司会 ところで血脇先生
は、たとえば同窓会だとか
同窓というものに対して 、
どういうふうに日頃お考え
になっていましたか 。
血脇先生は私ども
榎本
がやっていた時代には 、 あ
まり顔を出されませんでした。奥
ω
村先生 時代でしたが 。 それでも
私のぷ憶では会の場合、あまりお
阪を凡せたことがありませんね 。
司会 血脇先生のお話だと、き
りがなくなりまずから、この程度
で先にまいりましょう。 午校の校
長が会長を兼ねないという ζとに
なったのは先生の時からですね 。
榎本 乙れは奥村先生が 、 だい
ぶ渋っておられ玄したが 、刈﹂附ど
んどん医政の問題がからんできて
111
以前から乙の間組はからんで
おりましたが、めんどうになって
きて、それで同窓会でも、 いま の
医政部のようなものをソくって 、
いろいろ活動しますね。もし乙れ
そうすると 、先生は今度
がまずくいった時は 、学長先生に
迷 惑 に な る の で 、 それとは切り離
して、同窓会は同窓会で責任を持
とう、 学校は一切関係ないという
ことにしようではないかというこ
とで 、 切り離してしま ったわけで
す
。
司会
はそういうふうな立場で会を運営
砂町ノ。
される場合 、 ま た 新 た な お 考 え が
あってお始めになったわけでしょ
榎本 いや別に 、特別にどうと
いう乙とはないのですが 、 問題は
学校に迷惑をかけないという乙と
が一っと 、 それから当時は任期が
二 年 で す か ら 、 二年毎に役員が変
るので 、 その役員を選考する場合
に古い人を二 、 三残して、あとは
なるべく新しい人に入ってもらお
うと、新しい人を取った型由は 、
川窓会というのは一体どういう仕
事をしているのか、どういうめん
どうがあるのかという ζとを一般
会民は知りませんから、 なるべく
新しい人に入ってもらって 、 同 窓
会の支部というものをよく理解し
もお互いに話し合って苦情も聞
き、 ま た 意 見 も 聞 い て 帰 り ま し
た。 乙れは私、 非常に必要にと思
いました。ですから今度、福島先
生が会の仕事をされるというのは
大変なととだと思って同情してい
るのですが。そのほか 、 ﹁今度は
今
近県でやるから来い﹂とか 、 ﹁
度は何県の支部で総会をやるから
が ζ ζ に帰るとか何とかいう話は
全然なく 、 ﹁Cくろうだった﹂と
言って金一封をいた,たいたわけで
に大学院の設前問題がいよいよに
すが 、 その評議円以会に出てはじめ
てそとで、そういうふうな学校の
姿に接したわけです。たにその後
求されたわけです。これは私、非
書いてもらいたいという
常に同窓会の姿を磐石にする一つ
の基本になったと思うのです。先
ζとを要
来い﹂とか 、 そのほうは何イ回ゃ
ったかわかりませんが 、つとめて
えてきた時に 、 榎本先生が会長と
して 、奥村学長に対して 、 ﹁同窓
会の協力をたの hど と い う 一 札 を
ねくようにしていましたがね 。
福島 さっきも き口ったように、
二十六年 の大学昇格など 、 満州に
生のそのお考えが同窓会のあり方
れていた結果が 、 そういう一つの
というものに対して長年苦心をさ
残されていたのピから、それを向
うで知ったのはよほどたってから
ですから、もう 、 いとし 、 ζいし
の一方でボ l ッ と し て い る ど け
形に現われたというわけで 、私は
乙の同窓会のあり方が 、 こういか
なければならないのピという乙と
をしみじみ感じました。その頃ま
では何でも学校から言ってきたと
いうことで 、 すべて片づけてし玄
っていたのです。基金募集にして
てもらうというととが一つ 。そ れ
から各地方支部との連絡を密接に
するのは 、 どうしても地方を回ら
なければ江らない。東京にいる人
たちはしょっちゅう集まりますか
らいいのですが、地方の人はなか
二つできて走り出したという乙と
になるわけですね 。
して 、 私はそういうふうに感じた
のです。
司会 いまよく﹁同窓会と学校
は車の両輪 だ﹂と言いますが 、 ち
ょうどその時から同じワクの寧が
一声によってーー ーそれを確然と感
じている人のあるないは別問題と
もそうだし 、 同 窓 会 も 学 校 も ゴ チ
ヤゴチャなのです。それが先生の
か、 乙うであるとかという ζとよ
り、 とにかくすがりつきたいよう
なか山てこられないので 、会費に
け徴収しているので地方の人はや
で、 同 窓 会 の 姿 が ど う で あ る と
はり不満です。それでこちらから
出掛けて行って 、 各支部長 、 ある
いは同窓が集まった所で実情をい
ろいろ話して、よく様子を知って
ものだから、批 判的な考えは全然
なかったわけです。 私が二十八年
に帰ってきたその年の秋で︺
した
か、 呼び出しを受けて 、 そして私
な気持ちだけで生きていたような
もらう。乙れは非常に大事だと思
いました。それで私は全支部四十
五県を二問 、 北海道は一固まわり
ました。そしてその土地の事情 、
同窓の様子、 それ から本部の様子
6
談
対
福 島 私は私なりの解釈
を し て 、先 生 方 の お 考 え に
榎本
大学のいろいろな
対して非常に深い敬意をも
っているわけです ο
基金募集、あるいは大学院
ます。
司会 そ れ ら は や は り、画期的
なことですね。
福島 そうですよ、一種の維新
だから、 は っ き り そ 乙 に 目 的 な
ととに影響のあるのは当然なのだ
り、あり方というものに対して針
をうたれたというととは 、非常に
私は特筆すべき ζとだと思います
ね。 時代というものはいろいろな
それではちょっとまずい乙
とがありますね。だから私
はならない 。 そういう意味におい
て、 やはり近代的な一つのあり方
から、 その時代に即したいき方と
いう ζとが 、 まず考えられなくて
の場合にもそうですが 、 そ
いろいろ交渉をしてくる。
ういう乙とをする場合に 、
教授はじかに支部に行って
は﹁学校に ζれ く ら い の 仕
事宇守するから、同 窓 会 は 協
としての学校と同窓会というもの
うなのでしょうか 。
榎 本 乙 れ は奥村先生が 、 あま
りに頭 がよすぎるので 、 それで一
つの問題を持っていって奥村先生
に聞くと、結論だけをすぐ言われ
る。 そうすると 、 そう言われた人
は、どうして乙う なるかと考えて
いるうちに結果はやはりそこに落
ちついてくる。それで 、 ﹁奥村先
生はよく説明してくれないから冷
、 ζうなるのですね 。 血
たい ﹂ と
脇先生はよく乙の過程を説明して
くださるので、それと比較して、
奥 村 先生 は 冷 た い と い う 感 じ を も
たれるのですね 。 と乙ろが事実は
そうではないのです。 蔭で 、 たと
えば家族でも病気をしていると 、
いつの間にか奥村先生はちゃんと
力してくれ﹂と公文書を出
力いたします﹂という乙と
お見舞しておられるのです。ほか
す。すると今度はそれに対
して 、 ﹁同窓会は喜んで 協
をまた公文書で同窓会に出
の人は知らないのですが 、 そうい
うととはたびたび聞いています。
というものは、あってき無
てきたということは 、榎本先生の
非常な御功績であったと心に銘じ
ていなければならないしまたわれ
の姿が 、 そとにはっきりと現われ
な実際の大きな仕事をしておら れ
時、奥村先生は一番苦しい 立場に
たった時の学校を引き受けられて
その前は血脇先生の下で、いろん
すが 、奥 村 先 生 の 謝 恩 会 を し た
ですからこれも会報に載ったので
してくる 。 そ う す る と 今 度
は地方に一応依頼されて
も 、 同窓会の承諾を得てい
きが如くで 、教 授 が 勝 手 に
行って、ずいぶん無理な押
われは、それをぜひ受け継いでい
るから少しも文句はないの
ですよ 。 いままでは同窓会
しつけがましい乙とをやっ
奥村先生のほうが、同窓に対して
冷たい﹂という言い伝えのような
られた一つの原因だ と 思 い ま す
られた 。 これが先生の御病気にな
る のですが 、 自分の功績ではなく
て、血脇先生 の功績として全部影
響している 。 血脇先生が引退した
後 で 戦 争 に は な る し 、 いろいろ
な災害が起きて 、 東京歯科として
一番苦しい時期に先生が学長をや
ものがあるようですが、実際はど
ているわけです。
司会 よく﹁血脇先生に 比 べて
きたいと、心ひそかに、私は思っ
た連中もいるのですが 、 到
る所でだいぶん悪口も聞き
ましたよ。
司会 私もそれは聞いて
います。
複本 そういう ζとはだ
んだん少なくなってきてい
ね。息子さんは 亡く なるし 、家は
π
戦後奥村先生がよく私の
か
なくなるし 、 そ う い う 立 場
ら 、 先 生 は い わ ば 、 縁の下のカも
ちを終生やっておられたわけでお
気の毒 でしたよ 。
司会
とが 言えるかも 知れ ま せんね 。
榎本 蔭の力は奥村先生にある
のです。
一つの事業をやり遂げた人はいく
福島 奥 村、 花 沢 、 血 脇、 乙の
三先生の 関係 を 本 当 に 冷静 な頭で
描き出したら大したものですね。
複本 それ で 血 脇 、 花 沢先生に
だけは去られたのですが 、 あと早
らでもあるでしょうが。
ていると、ちっともこわいと思わ
川 とか水野、ああいう人たちが残
っていたら、 また学校が変ってお
ったでしょうね。
家へ泊って私の家から学校へ通っ
ておられたことが、ずいぶん長か
ったのです。ぽくなど先生に接し
なかったのですが 、 何 か一般的に
は乙わいような感じをもたれてい
たようです。
ましたら、 大 正 八 年 頃 に 東 京 歯 科
然 だ っ た で す よ。
司会 当 時 の学校も一 丸と なっ
てやっ たわけです か。
けですね 、 しかしなかなか理路整
棒を荷って 、 えらくさわいだもの
です。一種の啓蒙運動をやったわ
が 、 なかなか雄弁家でその人が先
いまの杉山先生のクラスですよ 。
それと沖縄に柴田米造という人が
いて 、 それがそういう方面の学校
を出てきたのかどうか知りません
福島 大 学 生 会 と い う、 学生の
中にやはり政治家がいたのです。
いのですが、どう いうことなので
すか。
すね 。 その乙ろに 、 すでに大学に
しようという何かが あ っ た の で す
ね。 乙れはわれわれは全然知らな
大 学創設期成同盟会ができた ので
司会 それから同窓会とは関係
ないのですが古いものを読んでい
榎本 私が 北海 道 へ 行 き ま し
て、北海道のある先輩のうちに厄
介になっていたのですがその先生
の批評が、﹁奥村先生は村正の万
のような感じがする﹂と言うので
す。 乙れは通評だったと思います
ね。 しかし実際はそうではないの
ですがね。
けっきょく血脇先生が抱
司会
擁力の大きいといいますか、そこ
で非常にシャ ープな奥村先生が女
房役、それでけっきょく、 うまく
乙の学校が乙 ζまできたというこ
7
談
対
福島 そ う で す 、 学 校
も。むしろ奥村先生なども
す。と乙ろがもういまの全
大いにケシかけたほうで
学連ではないですが 、えら
て、勉強はそっちのけで奥
く気勢があがってしまっ
村先生が非常に心配して、
﹁あれは何とかしなければ
いけない ﹂ と いう ζとで 、
いろいろ話し合って一応ケ
リをつけたのです。とにか
だいぶんいなくなりましたね。
る区の連合東京支部をつくる 、
ζ
れ は 私 ど も の時 に も 問 題 が あ っ
て、 一時だいぶん議論したのです
が 、 そういう支部ができると、今
度は各区の支部は全然離れてしま
う。 それからいまのいき方でいっ
ても集ってくるのは 、 た い て い 東
京の会員ですね。そうすると今度
は 支 部 の 役 員 と い う も の が で き、
それと今度の役員との連携がまた
めんどうになってくるという乙と
て、 いまの榎本 先生の御意見を相つ
けて一つ::・。
福島 上位下達の便宜のために
連合を主張とするのではない。本
部から通達に都合がいいから連合
組織をしてやれば 、 そ れ が パ ッ と
いくというようないき方を 、 私は
必ずしも要求するのではない 。 ζ
れはいろいろ考え方があるわけで
す。そうでなく 、 われわれは同窓
親睦を主体にした一つの形におい
て、またお互いの知識、 業 務 の 向
上のために、そういうふうな機会
を、少しでも均等的に皆さんに欽
司会 最後に先生のほうから、
同窓会は ζうあってほしいとかい
うようなことがとざいましたら伺
いたいのですが。
定する乙とができるためのまとま
りであるということであってもら
いたいというふうに考えます。人
田の金融機関などは、そう
たのです。しかし当時、神
榎本 私の希望する乙とは 、地
方交部との連絡を密にするという
乙とが一つと 、 それからかってこ
く運動を中 止し た形になっ
ういう問題が起った。春秩二回の
ます。目下、 できるだけ地方の同
福島 私も同究会をお引うけし
てようやく半年になろうとしてい
ないと 、 ζういう乙となのです。
いう乙との会場によく使わ
れたものですが 、 そ乙が学
も集めて一ぱいになって
しまったのです。しかし地方では
何県か集まって一つの連合同窓会
生ばかりでなく 、 一般の人
が あ り ま し て 、 乙れはもうやめて
開催時期が 、私は十一月一一一Hに必
ずやっていたのですが 、 いろいろ
な行事が重なるので 、 いまちょっ
と日にちが変ってしまった 。 と ζ
ろが一郎分の人は 、 その頃は 川て
によっては 上 から会費を取るのに
都合がいいからとか 、 いろんなと
とがありますが、そういう乙と
に、私は連合同窓会に希望したく
ね。それで大学にしなけれ
ばいけないというのが大正
八年、 それから後に花沢先
生の学位問題が解決したわ
けです。 花 沢 先 生 の学位は
たしか十二年でしたね 。
窓の窓見も伺って 、 同窓のための
る信念をもって発展させていきた
いと思っています。皆さん方の御
をつくるというのはいいと思うの
ですがね。東京では東京だけの支
部といっても区や市は電車で行け
ば連絡がつくのですが 、 県 だ け の
支 部 と い う と 、支部長は同窓の連
絡をとるのが大変なのです。 ζれ
支援を切に期待しています。
来られないから 、 どうか他の時期
にやってもらえらいかという怠見
が川たのです。 いろいろな郎合で
も考えてやらなくてはならないで
ある。たとえば東京の各地区にあ
いました 。 ハ お
わり)
司会 本日は 、 両先生ともお忙
しいところ大変貴重なお話を 聞 か
せていただき、本当に有難うござ
同窓会 、 そして 、 大学と車の両輪
の一方となれる同窓会へと確固た
ょっと出てくる機会がないので、
すね 。
いままで十二月にやっています
が 、 雪の深い会員にとっては 、ち
ζういう問題はどうしたらいいか
司会 それで提療行列を
やったのですか。いまで言
しいものでしたね。
復本 ぼくらは神田駅か
という ζとが一つ。
うデモですね。でもおとな
ら降りると 、 定紋付の提燈
くるという問題があり、乙れもい
しかしその連中も
それから地方に連合同窓会をつ
を持って迎えにきました
よ。なかなかにぎやかでし
い場合もあり、都合の悪い場合も
福島
司会 その点については福島先
生 も 考 え ておられて、乙 の前の総
会の時もちょっとお洩らしになっ
た わ け で す が 、き ょ う の 話 と し
た
よ
⋮任の選任について 、 教授会に諮問中であったが 、四 月九 日の第一
一四七回全体教授会において 、杉山現学長の留任に全教授が賛成
し、 その旨を答申した。さらに乙の答申に対し法人評議員会は
杉
山
不
において承認され 、 中久喜喬教授
が昇任し同講座の主任となった。
ハ昭和四十三年六月一日﹀
し、 母校の発展のために 、
出来得るかぎりの努力を払
いたい所存であります。
る教授諸公の一 一層の支持に
応え、さらに同窓各位のご
期待に背かないようにいた
人評議員会の満場一致の賛
同を得、 理事会の決定によ
って学長に再選されまし
た。選任されました以上
は、 学内の有能かっ良識あ
今回 、 はからずも全体教
授会の推薦を受けついで法
V
一 かねてより法人理事会は 、 五月で任期満了になる現学長の後 一
杉山不二学長再選さる
校
拶
一満場一致 の賛成をした 。乙乙で法人理事会は次期学長として杉
山山現学長の再選を正式に決定した 。
挨
歯科麻酔学講座新設
4
本年度より同講座が新設する ζ
とが専問謀程教授会および理事会
同講座の陣容は 、高北 義 彦 助 教
授、山 口忠臣助手、金子議助手、
須 佐 昭 彦 講 師 (非常勤)である 。
松宮教援、 W H O本 部
より歯学委員を委任さ
る
。
松宮教授は去る五月十日付を以
てジデ不 lプにある W H O (世界
保健機関)の本部から歯学委員を
委任された旨、外務者および厚生
省を経て通達をうけた。
W H Oは、国連の内部にある組
織の一つで、世界人類の保健に関
の執行委員から構成されている。
する協議、情報および研究(研究
所の設立や研究計画の調整など)
を行なうものであり、 二十 四ヶ国
W H Oと同じ国連の内部組織と
しては 、国際原子力機関 (I A E
A﹀、国際通貨基金 (I M F)、国
際教育科学文化機関 (
UNESC
O) などがよく知られている 。
本学教援ら、国際歯科
連盟 (FDI) の 委 員
に推薦さる。
本学の松宮教授は 、 国際歯科連
盟において 、今目新しく設置され
た歯科用器材生物学的検査委員 会
の委員に推薦された。
また 、法歯学の鈴木(和)助教授
は、国際歯科連盟学術委員会内の
法歯学小委員会委員に推された。
マ外国往来 ム
スンドス卜レ l ム博士
ハ
スエ lテン・ルンド
大学) 電 子 顕 微 鏡 的 研
究のため本学に留学
球部質の画期的腕灰法を発見
し、目下世界の注目を集めている
ス エlデンのルンド大学歯学部口
腔病理学教室のスンドストレ l
ム博士は象牙質に関する電子顕微
鏡的研究を行なうため去る四月本
学の口腔病理学教室(主任松宮教
授)の田熊教授の許に留学され 、
約一ヶ月研究ののち予定を終了し
て去る五月五日帰国された。
同博士の開発された脱灰法と
は、硫酸タロミウムを用い、固定
と脱灰を同時に行なう全く新らし
い方法で 、 乙の脱灰法によると 、
完成された球部質の有機性成分が
完全に残されるが 、今回の象牙質
の電子顕微鏡的研究の結果、 ζの
脱民法によって 、今迄不可能と思
われた象牙質の歯細管周囲基質
(管周基質﹀の微細構造もきわめ
て良く保たれる乙とが明らか托さ
れた。(写真はスンドストレ l ム
博士﹀
今西助教授帰国する
WHOより派遣され 、渡欧中で
あったが四月二七日夜元気に帰国
された。
堤環ニ助教綬 (
薬 理 )渡
英する
ロンドン大学がイス病院医学部
薬理学教室(ロブソン教授)にて
約四ヶ月間研究に従事する 。
渡辺富士夫教授南米へ
詳細はお頁にあります。
高江州義矩講師南米保
健衛生調査を終り帰国
昭和四 十 二年度、 移住地保健衛
生調査団の一員として外務省より
派遣された。
堀内実氏来日
米国ボストン市に在留活躍中の
同窓堀内実氏(昭お年卒)夫妻は岡
山 における 小児歯科学ムEK出席の
ため来日した 。学校にも来訪 し、
すこぶる元気であった 。
呉基生氏来日
同窓呉基生氏(昭防 ・ロ ﹀は目
下台湾省高雄市にある省立旗山医
院の院長として活躍中である。
近く帰台の予定である 。
9
母
ー・
ー
、
O 六月講演会一
知
り
腰
l
京
せ
好
?6
事
内任期満了に伴う異動
川大学院研究科長
松宮誠一教授(留任﹀
い
必 ・6 ・1・ 必 ・5 ・却
い
副学長大井清教授
一
・1J
M
刊 ・5 ・引
北村勝術教授
学監副学長
M
ω ・5 ・出
G ・6 ・11
人
O第一七五回東京歯科大学学会⋮依願解任
山伝 井 隆 弘 教 佼 学 生 部 長 を 解 任
日 時 昭 和 四 十 三 年 六 月 二 十 二 日 ( 土 ) 一 時J五時
一長 尾 喜 景 教 授 教 務 部 長 ぞ 解 任
場所母校講堂
O同窓会会員名簿作成についてお願いふ新任
前号会報に同封したハガキはかならずと返事下さい 。 新住居表示と ん教 務 部 長 松 宮 誠 一 教 授
日教 務 副 部 長 坂 田 三 弥 教 授
郵便番号記載の原簿になります。
学生部長長尾喜景教授
O八月日曜セミナー⋮
い対 外 部 長 松 井 隆 弘 教 授
日 時 八 月 十 八 日 ( 日 ) 午 前 九 時J午 後 四 時 講 習 費 三 千 円
教授昇任 必 ・4 ・1
計画診療システム講座ハ入門﹀ 絵 家 勝 先 生 ん
内容計画診療システム又はアポイントメントシステムという言葉 助 教 授 中 久 喜 喬
を最近数多く耳にされるととと思う。そしてそれが歯科医の為にも怠 一 助 教授昇任
者のためにもないシ久テムであろうという乙とはと存知と思う。 し か ご 講 師 大 曽 根 正 史 4 ・1
し一にん自分の歯科医院に ζのシステムを導入し、改革してゆこうと 一 講 師 昇 任
すると幾多の問題にぶつかる 。 すなわち、患者数をどうするか、正し 一
山助 手 野 間 弘 康 ( 口 外 ﹀ 4・I
とう患者に伝え、どう実施するか、診療室をなおす必要
い診療内容や伊 1
があるか、患者教育をどうしたらよいか 。 そして乙れら問題のどれか 一助 手 熱 凶 憲 也 ( 保 存 )6・l
kどのように解決したらよいかに戸迷い、踏み切る勇気が出ず、又は ⋮ 講 師 新 任 6 ・4 ・1
一高 畠 弘 ( 市 病 産 婦 )
中途半端ではじめて失敗してしまったりした例を多くみかけます。
、 計画診療システムの 山半 場 弘 子 ( 生 化 学 )
ζのセミナーでは私の貧しい経験ではあるが
概要及びそれに転換するため の問解点、及びその解決策、 そして診療 叫 助 手 採 用
吋
円25 5己 主 D口三口問)の立て方等につ いて の講義及び演習ぞ行 V金 子 譲 ︿ 歯 科 麻 砕 学)4 ・
計画ハ、
ー
なってみたいと思います。
⋮大村敏郎(市病外科)4・日
、
﹁講 師 織 家 勝 昭和二十九年母校卒、事務能率協会ヒジネスス P J 一 復 職 必 ・4 ・1
一lル二十三期卒、同電子計算機システムデザンコ 1 ス修了、歯科 一
一一一
助手野坂洋一郎(解剖﹀
一医療管理学会関東支部長
一川
一著書 H歯科経蛍の道標 H歯界広報十六巻四号J一二巻六号付アポ 一 ⋮ 副 手 採 用
﹂ん 羽田野金術(法歯 )4・1
戸イントメントシステムへ の手 引 u医歯薬出版社
詳細はロ!日頁をと覧下さい講習指一科目五千円
O夏 期 講 習 会 七 月 十 五 日 よ り 二 十 三 日 ま で ん
場所母校講堂
日時六月二十三日午後一時より
。同窓会に何を望むか 一時J 二時 活発なと発言を期待します。
。講演 ﹁
鋳造冠について ﹂
講師野口八九重助教授(理工)講師(補綴)
石井恒講師(補綴)
司会山本為之理事
お
鈴木原子(法歯)4・1
梅原征四郎(薬理 )4・休職
講 師 小 宮 善昭(口外﹀
必 ・4 ・11 9・叩
助 手 浅 野 更弐(解剖﹀5・
ー
辞職
副 手 福 山 駿 ︿ 組 織 ﹀ 3・
n
助手福地喜久恵(薬理)3・ MU
助 手 堺 清 一 ( 補 綴 ﹀ 3 -M
講 師 木 津 武 久 ( 口 衛)3・出
講 師 前 田 高 直 ( 解 剖)3・幻
m
講師河内隆男(病理第2﹀3助 手 高 橋 宏 光 ( 市 病 歯)3・別
講 師 山 内 堤 ( 市 川 病 院 )3・
m
助 手 須 佐 昭 彦 ( 口 外)3・
幻
助 手 佐 藤 清 ( 市 病 外 科 ﹀4m
講師星田昌博(市病内科﹀ 3 ・引
m
4助 手 佐 藤 公 雄 ( 補 綴)
助 教 授 森 川 仁 ( 保 存 )5・幻
助教授大曽根正史(保存﹀ 5 ・幻
助 手 山 中 秀 明 ︿ 補 綴)5・M
M
助 手 大 沢 晋 ( 矯 正 )5・引
助 手 向 井 英 美 ( 矯 正)5・幻
助 手 小 林 千 恵 子 ( 矯 正)5・出
助 手 鈴 木 雅 晴 ( 口 外 ﹀ 5 ・幻
助 手 海 老 原 典 子 ( 組 織 )5・ MU
非常勤講師
組織学 H木 村 亮 治 、 小 島 蕉 正
奥井一満
病理学第一講座 H吉 村 三 郎 、 桑
名 泰 彦 、吉 井 久 、 岩 淵 正
夫、小森伴雄、山本一成
病理学第二講座 H玉 沢 昭 、 河
原 給 寛 、村 上 恵 て 河 内 隆
楢唱団紀男
男、 鳥 潟 親 雄
薬 理 学 H伊 藤 時 夫 、 木 津
弘司
歯科理工学 H佐 牒 敏 治 、 相
街、 大 塚 昌 助 、
衛生学 H河 合 正 計 、 森 崇
微生物 H森 山 徳 長 、 橋 口 縛 徳
奥村晴て石塚達雄、中村
正夫、小 幡 哲 夫
生理学 H伊藤秀三郎、大久保信一
大御雅文
口腔外科学 H中 川 直 俊 、 緩 本
岩司、森田多針朗、成毛 二郎
法 歯 学 H百 瀬 防 人 、 池 本 卯 典
法 医 学 H上 野 正 六
歯科放射線学 H島 野 達 也 、 尾 内
能夫、金井良維
保 存 学 H森 本 優 、 松 山 茂 樹
武 石 義 弘 、渡 辺 郁 馬 、 掘 江
英二、栗山純雄、吉井英祐、
中村靖夫、今村嘉男、
補綴学 H河 辺 清 治 、 阿 部 勤
柳川浩、桜井和
解剖学 H佐 藤 勝 也 、 渡 辺 給
浜 野 文 夫 、 大 多 和 彦 二、武石
醇作、鹿島隆雄
口腔衛生 H高 橋 一 夫 、 佐 藤 貞 勝
生化学 H鈴 木 竜 太 、 森 匡 子 、
市病歯科 H宝 田 勇
市病内科 H星回目閏博
市病外科 H福 島 和 昭
耳鼻咽喉科 H平原政太郎
皮膚科目永井隆士口
社会歯科 H竹 元 修 一
歯科麻酔学u須 佐 昭 彦
1
0
﹀
︿
同窓十七氏
県会長懇談会
5月M 日 父 兄 会 役 員 と の 懇 談 会
日本歯科医師会代議員になる
日歯役員改選にともない新代議
員がたの通り決定いたしました。
岡山県支部長
杉並区支部長
4梅 田
6神 頭
千葉
4加藤
東北連合支部総会
支部長交替
FOHnau口H
。
大分県支部長
札 幌 支部長
9岡 野
凶辻 村
旭川支部長山
三重県支部長
北海 道 林 武 夫 氏 、 青 森 宮 崎 芳
雄氏、宮 城 高 橋 文 平 氏 、茨 城
会長井上副会長後
制問中
。 役員出張
4月 日 日 世 田 谷 支 部 総 会 福 島
、群 馬 斎 藤 静 三 氏 、
堤安氏
東京安嶋宣忠氏、同鈴木貞一
渋谷区支部長
日 栃木県支部総会
MH
藤渡辺両理事
4月
福島会長
福島会長
5月 1日 杖 痕 ク ラ ブ 壮 行 会
三重県支部総会
儀福島会長
5月日 日 小 野 寅 之 助 名 誉 会員 葬
5月ロ日
地震災害会員
O 日向灘地震
。
退会者児玉賢一
奥田耕司
名取良一郎田阪宗衛
梶本幸一長岡本一
。 会員の 異動
入会者 林 最 林 光 徳
氏、同高橋初太郎氏、神奈川
熱田立男氏 、 山 梨 大 森 茂 春 氏 、
静 岡 坂 本 豊 美氏
、 三重 加 藤 久
二氏 、新 潟 岡 田 信 雄 氏 、 長 野
田中益徳氏 、 広 島 田 間 高 一 彦 氏 、
島 根 青 戸 陽 一 氏、 愛 媛 正 岡 健
夫氏、以 上 十 七 名
五月二十二日日歯臨時代議員会
福 島会 長
十勝沖地震被害会員状況
小橋直 行 ユ ニ ッ ト 倒 嬢
日 佐 々 木 学 ユ ニ ッ ト 倒嬢
ロック壁倒
小 湊 2 工藤守郎壁破損
戸川 小 川 武 正 壁 亀 裂
野辺地灯鈴木穣壁破損
MH
八戸2橋本勝郎自宅壁破損
RP土 蔵 そ の 他壁
百
・ 4石 辺 見 彦 一 U
破損
五 戸 推 船 城 武 ユ ニ ッ ト 倒壊
三 沢 川 里 山 田 政 文 ユ ニット 倒 嬢
青森
グお
室 蘭 幻 佐 々 木 秀 ユ ニ ッ ト 倒壊
グ推小橋光雄ユニット倒壊
医 療 器 具 ・機
函館札池田武械転倒
北海道
焼
よ
において三重の加藤久二代議員が
健善
全 ー作
,
し
、
七
松坂俊雄殿
坂本豊松殿
吉沢八郎殿
今岡近太郎殿
ま
し
宮崎県支部
坂坂 会
自国田 員
宅
1村 昭 生 酢
叙
十和田お
氏
5月M 日 板 橋 区 支 部 総 会
福島会長
静岡県支部総会
の
渡辺夫殿
。の
左
副議長に選出されました。
5月同日
部 災
纏
勲
円
ま会
す員
問窓五氏叙勲さる
光宝日日宝をに
本部短信
井上副会長
小 石 川支 部 総 会
井上副会長
埋章章章章す息
事
5月四日
墨 田 支部 総 会
単瑞旭旭瑞接面
。行
学術委員会
役員会
5月辺日
tZ
長 谷 川副会 長
4月幻 日
会報編集会
連合支部設置に関する
北海道地震見舞
松 宮 教 授、 佐 々 木 理 事
群馬県支部総会
福島会長
新潟県支部総会
福島会長
青森県地震見舞
松 井 教 授、 阿 保 理 事
勲勲勲勲勲
六五五五四、勲
等等等等等ぶ煮
2
0
.
9大 6災
さ
れ
昌
5月 8日
5月 9日
5月日日
5月お日
5月初日
5月初日
り
新。
潟
支 火
カf
武松修
寿久義
匡吉三功三雄武
万
大1
3
損前
害田
約
八利
十男
長
5月お日
委員会
市川市歯科医師会一日
入学
役員会
日限セミナー参加者
日歯役員代議員都道府
お名
。逝去会員
推小山近田回 ・ ・
ニ七 大 田 区
一
=一
=
7 進藤 修 平 田 ・=
7天神奈川
一
=
大U 岡 本 英 忠 四 ・ ・
二九 栃 木 県
ニ
一一
=
推重松悦次郎愛媛県
品川区
川島 平 三 郎
推 磯 部 一 男 四 ニ・= 了 九 愛 知 県
推荒谷甚次郎
回ニ・ 三 南 多 摩
子
一
医
一
四一
・四・四 愛 知 県
山本義雄四
z
・一O
医
推 飯 田 喜 平 副 ニ・= 一 豊 島 区
医 桜 井 善 蔵 四 -F 一O 荒 川 区
一
=
推 相 沢 甲 三 四 ・三・
ニO 千 葉 県
ニ
一
大2太 宰 丹 三 郎
四
一
子四 ・一一一茨城県
大 4小林 浩回=7四 ・言一茨 城 県
明斜竹内正一一毛 ・五 京 都 府
医稲野修次郎
・八 神 奈 川 県
一
四
名小野寅之助
回 四・一
六京都府
千
一・ヲニ O 徳 島 県
大 8大 塚 文 行 皇
明川崎鹿子沢忠一
五 秋 田県
恒一 ・八・一
山口 県
川西田泰明山口県
大 3西 村 宗 輔
7 石河敦香愛媛県
推 武 田 伊 三 郎 四一子五 ・ニ
江戸川区
推仲谷清次石川県
日 藤井俊彦回=了子八 山口 県
推 奥 田 美直四=一 ・五・一
五宮城県
推 菊 池 清 蔵 四 ・四・一六青森県
=
6 矢 筒 徳 太 郎一
回一
Z
・五・ 一群 馬 県
一
=福 を お 祈
謹んで右の方々のと冥
りいたします。
1
1
5月時日
5月日日
5月間四日
5月幻日
祝春
矯 正
七月十五日 (
月
﹀
火)
十六日 (
いわゆる反対岐合の
FEE--
‘
、
音
1
令
A官
一科目七千円
O申込み 同窓会事務室七月十日まで
O講習料
1
1
治講師
雄教授
博助教授
1
習
↑
科
一
火)
七月十五日 (
月) 十六日 (
一
歯
一
一
児
一 O小 児 患 者 の 扱 い 方
O乳 歯 感 染 根 管
,
一
譲孝幸
症例研究
1
藤西田
講
義茂教授
正之助教授
定彦助教授
1
後今町
葉
月
口端本
講習内容一
その 他教室員
﹁小児の取り扱い ﹂ │ │第一日
反対暁合は比較的発現頻度が高く 、 その ﹂
小 児 歯 科 診 療 に お い て 小 児 の 協 力 を 得 る こ と は 、 すべての処置に優先して
治療に際しでも困難な症例が多く 、 長 期 間 一
、
を 要 す る も の が 多 い が 、 簡 単 に 治 療 す る ケ 引 考慮させるべきで 乙 の 協 力 な し に 小 児 の 治 療 を 成 功 に 導 く こ と は 不 可 能 に
l スもある 。 そ乙で、本年度は反対暁合を 4 近い。そ乙で、今回は本学病院小児科臨床で日常行われている小児の取り扱
テ i マとして、その症例の難易の判定およ ι い の 実 際 に つ い て 御 説 明 す る 。
ぴ比較的手易な症例の治療方法について講 刊
﹁乳 歯 の 根 管 治 療 ﹂│ │第一一日
習 を 開 催 し ま す。
乳歯の根管治療は永久歯のそれ
七月十五日講義反対唆合について一
に比較すれば、その頻度並ぴに適
一、反対暁合の原因。
山
二、反対暁合の症例の研究 。(難易の判 応
症においてかなり限定されてい
定)
﹄
るが 、 正常な顎の発育及び永久歯
三、反対校合の治療方針。
明
列を完成させる上には重要な乳歯
A、Bのうちいずれ 一
七月十六日実習 (
処置法の一つとされている 。 そ乙
かを選択﹀
(
で、本問題についても合せて御紹
A、 (双線弧線装置﹀
⋮
介したいと思う。
0(
B、 出 問 ・
機能的顎矯正法﹀
受講者の持参するもの
尚 、実 習 費 及 び 持 参 す べ き 器 械 は 、 受 講 F
者 へ 直 接 通 知 し ま す。
白衣及び抜去乳歯(根管治療用﹀
一
西瀬山
1
担
当
夏
担
当
.
l
2
放射線
影
﹂
ル
助教授
そ の他教 室員
O 講 義 と実習
放射線とは
歯 科 用X線装置の構造
口内 法撮影 の示 説
白
衣
障害の防止
水) 十八日 (
木)
七月十七日 (
歯敵 切 除手術
適 応 症 と 手 術 の実 際
木村吉太郎教授佐藤徹一郎助教授
篠田登講師磯泰巳助手
大野誠助手その他教室員
講習料
一科目 七 千円
申 込 み 同 窓会事務室
1
3
剣
、
像
撮影実習
午
︹時間割︺
七月十七月(水)
二、今日の適応症の決め方
午前一、歯槽膿漏の臨床像
三、歯離切除手術の要領
四、歯麟切除手術映画 (EBBX木村)
午後一、歯師切除手術見学ならびに実習質疑応答(全員)
二、歯飯包填加強法実習(篠田)
七月十八日(木)
午前歯繊切除手術に関連する処理
、歯頭部知覚過敏鈍麻法
一、小帯、口 腔 前 庭 の 処 置 二
三、外 観 修 復 法 ( 佐 藤 ﹀
一、歯飯切除手術見学ならびに実習(特に 小帯、口腔前庭の処置
などについて﹀(全員﹀
二、歯頚部知覚過敏鈍麻紺帯法実習(磯)
一二、木村式塗踊絹糸結殊法(大野)
︹内 容 ︺
歯槽膿漏局所療法として現在臨床に最も頻 回応用されているものは歯雌切
除手術である 。 そ乙で 、今回は学門的基盤にたった臨床の実際面から歯雌切
、 講義 、臨床見学および実習を行いた
除手術の適応症ならびに術式につい て
い。 また 、歯離切除手術に関連して必ず施行しなければならない処置法につ
いても解説する。
︹実習費︺不要
:
z
x
教
授
講
i
:
V
C
告士
持参するもの
後
崎
野
良5
孝
{
象
岩
2 1
3
4
6 5
担
当
£
泊h
現
夏
歯槽膿漏
習
当
七月十七日 (
水) 十八日 (
木)
撮
他
教
師授
乙の場合簡単な口内法顎運動路描記装置が非常によい指針になり 、安 心 し
て処理する乙とが 出 来る。
今回はその自家製の顎運動路描記装置の作り方と、その使用法ならびに
運動路の読み方について詳細に説明する。
最近暁合問題が色々な方面から検討されるようになり用語の統一も未だ
それらの基礎になるものである。
︹デモ︺
行なわれない状態であるが 、 乙の装置で得られるゴシックア lチの頂点は
十九日(金)午前一無歯顎の暁合採得について︹講義︺
午後一口内法顎運動路描記装置の作り方と使用法
二十日(土)午前一口内法措記装置による顎の運動路の読み方︹講義︺
午後一最も簡単な岐合採得法と難症例の中 心岐合の決め方
︹講義またはデモ︺
景教授
喬教授
弘助教授
峰助教授
彦助教授
O申込み 同窓会事務室七月十日まで
O講 習 料 一 科 目 七 千 円
長尾
中久
大森
氏家
高北
置
七月十九 (日 ) 金二十日 (
土)
。顎 外 傷
担当
七月十九日 (金) 顎外傷の処置
∞救急処置
ハ円最近における顎顔面外傷の傾向
同下顎骨骨折の処置
帥上顎骨ならびに顔面外傷の処置
内科疾患と抜歯
伺 患者供覧
七月二十日 (土) 抜歯のすべて
伺手術見学
持参するもの
白衣 、 マスク 、筆記用具
帥全身麻酔による抜歯
己不快事項とその処置
∞抜歯術の基本と困難な抜歯
付
処
習
口腔外科
£
泊h
2x
。抜歯 のす べて
の
七月十九日 (
金﹀ 二十日 (土 )
﹁ 無 歯 顎 の 岐 合 採 得 法﹂
員講教
期
平養
無歯顎の校合採得は 、総義歯製作上最も重要なものであり、日常頻繁に
行なわれるものであるが、屡々非常に難かしい症例に遭遇する乙とがある。
小鵜
自家製顎運動路描記装置用の材料は実費でお譲り致します 。
義英清喜喜
講
室崇弘
夏
担
当
綴
補
1
4
七月二十二日 (
月 ) 二十三日 (
火﹀
一
理詰
一昨[昌一
実際
火)
七月二十二日 (
月 ) 二十三日 (
計画診療
勝
金属材 料一療一
之淳雄
↑医甲
貞
いのか 。
先生
先生
先生
先生
先生
どのような形で適応すればよいのか 。計画診療をするには先ず何をやればよ
ア ポ イ ン ト 制 や 術 ぴ の 効 率 化 や 作 業 動 線 、補 助 者 の 活 用 協 力 、 人 事 管 理 を
取 固 ま れ て し ま う 現実 にどのように対応すればよいのか 。
学理 的 、 良 心 的 診 療 を 心 掛 け る と 忽 ち お し 寄 せ る 津 波 の よ う な 患 者 の群に
担当
朝
生きた使
担当
F
中
一
向
﹂
山
金 竹 哲 也教 授 ・野 口 八 九 重 助 教 授 )
富 田 ト ク 子 講 師 ・住 井 俊 夫 助 手 一
(
中 村倉 子助 手
経営用語に適材適所という言葉がありますが歯科用材料も
その特性を知って目的に合った適材を用いる乙とが生きた材
料 の 使 い 方 と い え ま し ょ う。 歯 科 用 金 属 材 料 に も ワ ン マ ン と
いえ るものはありません 。 柔 か い も の 、 か た い も の 、 強 く な
る も の な ど い ろ い ろ な 材 料 が あ り ま す。 し か し 、 そ れ ら は 扱 (
い方を誤るとその特質を引き出す乙とはできません 。
今 回 は い ろ い ろ な 材 料 の 特 質 の 説 明 と 扱 い 方 、 合 金材料の
再生法、合金の造り方、加えて貴金属の回収方法等の実習を
行 な い ま す。
一
の
O講 習 料
一科目
七千円
O申 込 み 同窓会事務室 七月十日ま で
自分自身の最も切実な問題としてベテラン講師陣と共に額に汗して考えて
見ょう。
AQ
一
品
1
5
O 受講 者 の 用 意 す る も の
白衣
O 材料費
必要な金属材料は教室で
用意いたしますが、乙の
費用は受講料の他に一名
講
為
方
し て い た だ き ま す。
期
本梶本 田 藤
の
夏
山 字国塩佐
し
、
につ主ニ000円を負担
習
工
J
I
.
本学の歯学博士受領者
一O O名を突破
去る四月二十二日および五月十三日の大学院研究科委員会にお
いて、大学院四年次学生一 O 名 お よ び 論 文 提 出 に よ る 二 名 の 学 位
論 文 審 査 が 行 な わ れ 、 芽 出 た く 全 員 の 通 過 を み た が 、 ζれで 、 昭
和 三 十 七 年 四 月 に は じ め て 審 査 が 行 わ れ て い ら い 、 本 学 の歯 学 博
O 三 名 と な っ た。 内 訳 は 、 大 学 院 課 程 修 了 者 六 十
士受領者は 、 一
七名、論文提出者三六名である。
査 田 村 俊 士口教授
蛋 白 質 量 の影 響 に 関 す る 研 究 ﹂ 歯
科学報第田巻2号指導及び主
学位受領者紹介
正一一右
・ 昭和三十九年母
圃 校卒業
大学院保存
. 学専攻主論文
目 ﹁注水下高速切
す影響に関する臨床病理学的研
究﹂歯科学報第槌巻3号指導
す影響に関する臨床病理学的研
究﹂歯科学報第伺巻3号指導
及び主査関根永滋教授
│
FE
P 睡眠
論文﹁第一編
外 科 学 専 攻、 主
大学院、口腔
h・ 校 卒 業
・ 昭和三十九年母
譲君
及び主査関根永滋教授
一正君
昭和三十九年卒
業
大学院矯正
笠専攻、 主 論 文
一
﹁抜歯矯正治療
昭和三十九年母
輝雄君
博昭君
圃 昭和三十六年母
圃 校卒
M
微生物学教室
邑 専攻生学位論
. 文﹁口腔咽頭領
域 疾 患 と AS Ll O価 に 関 す る 研
次郎君
究 ﹂ 歯 科 学 報 田 巻 2号 ( 昭 和 四 十
三年二月)掲載指導及び主査は
米沢和一教授
佐々木
・ 昭 和 三十六年母
国 校卒
a 母校口腔外科
体に及ぼす影響に関する実験的研
圃 講師、主論文
E
﹁妓歯手術 の生
・昭和三十九年母
究 好 敵 球 数 の変 動 に つ い て ﹂ 歯 科
学報第肝巻ロ号指導鈴木芳
克君
圃校卒業
が大学院病理
太 郎 教 授 .主 査 長 尾 喜 景 教 授
義
条 薙 彦 教 授、 主 査 長 尾 嘉 景 教 授
歯 科 学 報 第 肝 巻 ロ号 指 導 上
管像 の変化に関する実験的研究﹂
における歯牙移動の時期に関する
下
顎
骨
骨
折
治癒過程における血管
実験的研究﹂歯科学報第侃巻3
像
の
変
化
に
関する実験的研究﹂
下顎骨骨髄炎における血
号、指 導 松 宮 誠 一 教 授 、 主 査 山 本 第 二編 ﹁
義茂教授
E
圃 校卒業
EE
大学院、解剖
園 学専攻、 主 論 文
E ﹁歯ぎん 、 甲 状
園 学 専 攻、 主 論 文
,ーラット切歯の
研究一歯科学報第伺巻3号指
E Z Sご に関する電子顕微鏡的
教授
四号指導および主査、塩見俊朗
関 連 性 に つ い て ﹂ 三 重 医 学、 十 巻
細胞感受性との
圃 個体の感受性と
m 菌感染に対する
・ 昭和十四年卒
国 主論文﹁腸炎
正人君
士
象牙質形成細胞 の 微 細 構 造 と
る研究、E ヒト胎児甲状腺並び
に 陶 腺 の 栄 養 動 脈 に 関 す る 研 究、
導及び主査松宮誠一教授
博
a
谷
藤
腺、陶 腺 の 栄 養 動 脈 に 関 す る 研
究、I 歯 ぎ ん の 栄 養 動 脈 に 関 す
E 歯ぎんの栄養動脈に関する研
究 追 加 ﹂ 歯 科 学 報 第 町 巻5号、
博君
昭和三十九年
本学大学院矯
九歯大卒業
正 学 専 攻、 主 論
文﹁いわゆる反
第 槌 巻 2号 指 導 及 び 主 査 山 本
校卒業
昭和三十九年母
第肝巻8号 、 第 伺 巻 2 号 、 指 導 及
び主査上条薙彦教授
伴秀之君
a
義茂教授
対唆合の形態学的研究﹂歯科学報
大学院、保存
同 日
押ぷ幽司 令
dgU
V A- 主専攻、 主 論 文
ー ﹁ 各種 ロイコマ
学
金
イシン製剤が露出損傷歯髄に及ぼ
医
野
井
亀
日
カ
佐
金
t
、幅/、
。
国 園 田 福
子
井
木
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ーーー
ー
ー
園 田属
坪
細
削寵洞形成後の生活乳歯に対する
プロテクトセメントを以ってする
通第 ・「学
業昭
夫 6
8変 第 専 大
和 義
教巻化ー攻学
三 君
授 2I
乙 大 、院
十
号関臼主
九
、す 歯 論 補
年
指る放文綴
卒
よ主
ぴ 弗J
I,
学
業昭
抜とパ専大
和 道
髄すラ攻学
三 君
書J
I る モ 、院 十
K 合ノ主
九
及剤ク論保
年
ぼがロ文存
卒
間接歯髄覆軍法に関する臨床病理
下
学 的 研 究 ﹂ 歯 科 学 報 槌 巻 4号 指
句人 目
井
lt_
.
ーーー孟
・
髄ル
おを
紀
導及び主査関根永滋教授
お 担実「学
業昭
よの験乳専大
和 男
l
ま硬的児攻学
三君
す組研ハ、院
十
飼織究幼主
九
料内、若論薬
年
の吸放動文理
卒
酒
木
損ヱ
傷ノ
歯 l
回
回
言2
2・
導研歯
及究後
ぴ」の
主歯歯
査科槽
学部
羽
賀 報形
態
露 ロ
出フ
池
増
収射物
な性)
ら同栄
ぴ位養
t
乙元 t
乙
沈素関
海外だより│
テ キ サ ス ・ ヒ ュー ス ト ン に て
高
添
目
度
本日は研究所の様子など少しくお知らせしようと号、い
も驚威です。 i口腔細菌について同じ事がすぐ出来る
ます。
.Levy
テキサス大学歯学部に属する当研究所は Dr
以下 1
1名の P
r
o
fe
s
s
o
r(
member)で構成された Faculty
ねJといった冗談に「もう出ていってくれ」といって笑っ
ていました。抜去歯牙を使って片側は U字管 K密封し ,
N
i
c
o
t
i
n
i
ca
c
i
dl
e
s
sの乳殺陣菌での麟蝕実験をしてき
で運営されており小生もそ の中の一員です。 そ れ ぞ れ
れいな感染像を示した Dr
.Brown もやがて member
ResearchA
s
s
o
c
t
a
t
e.
Technician数名を傘下において
としてやってくるそうです。
いますので総計8
0名が毎日活動しております。現在は 3
小生は毎朝 7時に研究所に参ります。それでも 決して
階立ての建物ですが本年 6月には新しいピノレが建築され
早すぎる事はありません。2・
3名のドクタ ーは仕事を始
始められ(総工費 5
0
0万ドノレ) 2年後には Profes
s
or
o
n
i
eArmstrong
めております。私の Technicianは J
を約 70名にし,米国随ーの歯学研究所にするのだそうで
という黒人です。かなり色々な事をやってくれます。は
す。現在,研究所は人件費を除いて研究費年間 4
0
万ドル
ずかしい話ですが超遠心機の操作は彼に手ほどきをして
で運営されています。その他に NIHのグラントもあり
i
p
i
d
もらいました。 小 生 は 現 在 Bacterionema の l
ます。
f
r
a
c
t
i
o
nの Ca結合作用に拍車をかけています。 どうや
Faculty meeting は毎週月曜日朝 8時から 9時まで
1時間行われ実験上の連絡,設備,機械使用上の打合わ
せ,人事などが話し合われます。
ら間違いないので成分を薄庖クロマトグラフイーで展用
中です。また石灰化というとどうしても結核菌(脂質は
細菌中最も多い〕が頭から離れませんのでこれも同じ抽
研究内容の討議は毎週金隈日正午から 2時間行われま
出法で l
i
p
i
d を取り Ca結合能力を見ょうと思ってい
す。 セミナ ーの形式ですので Speaker は 1人ですがか
ます。本日液体培養を開始ししました。や る事だらけで
なり厳しい討論が展用されます。
夢中です。
member は細胞結合様式の研究で有名な D
r
.Tayl
o
r
(
R
o
c
k
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l
l
e
r研究所に昨日までいました 。組織培養を
昨日 B
u
f
f
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o の学長が来所されたそうですが恰度外
出していましたのでお会い出来ず残念でした。枝先生と
やっていました).栄養学者で C
a
r
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sA
c
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v
i
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yTestの
はすでに連絡がつきました。彼もサンフラン シス コの学
中で唾液緩衝能を見る D
reizenTestの Dr.
S
.D
r
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z
e
n
.
会に出席するそうですので楽しみにしています。
生理学者でアイソトーフ.でモノレモットの無機代謝をやっ
ている Dr.Vogel
. 口腔内白血球で有名な Dr.K
l
i
n
k
.
hamer.細胞壁の浸透機倦の Dr
.S
m
l
t
h
. そして Dr
Ennever と私がよく 顔を合わせる人々です。その他
Onchology.Den
t
a
l Technol
ogy および Germf
r
e
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animal の Se
ct
i
o
n と広大な His
t
o
p
a
thology の部屋
がありますが,その主任たちの名前はまだ知りません。
どの研究室も出入自由で研究所全体が自分の研究室の
ように皆振舞っています。ま た実験禄具は Shopと称す
e
c
t
i
o
n K何でもずらりと並んでいます。午前,午
る S
後各 1時間関いていますので勝手に取ってくればよいよ
うになっています。各 P
r
o
f
e
ss
o
r は個室をもっていま
す。私の部屋は D
r
.Klinkhamer と Comput
or room
の聞にあります。 Computor といし、ますと. K
linkha.
mer は現在日 腔材料を機械に装着するだけで材料中の
c別けて極めて短時間内 l
乙
白血球,上は細胞等 を容積別 r
全ての分布を Computor !乙読み取らせています。何 と
1
7
サンフラ γ シス コの学会にて技講師(左〉と共に。
金インレi寓洞(
O B﹀に対する考察
森
ー 鶴縁斜面は、 どこに、 どの位
つけると良いのか l
丸
研
会
横浜に 、 我が同窓の 丸森賢二先生を中心として 、 東歯卒業の開業医ばか
りが集り、 実 践 的 な 課 題 を 研 究 し て い る グ ル ー プ が あ る 。 丸 森 研 究 会 に
は、 二十余名の会員が居り、 診療をしながら、 考 え た ζと、判らない ζと
を毎月の例会に意見を求め 、 日常 の診療に反影させよう としている。
(編集部)
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こなってない幽の B
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かでなく、 たとえ強く当っている
吹ませて観察していたのどが 、 そ
の時点では 、宮澗との関係が明ら
あった際、 患者に直ちに岐合紙を
る乙とを大題目として 、 すぐ頭に
昨夏以来﹁下顎第一大臼歯に 、
浮ぶほど 、 あたりまえになってい
レl の中程にあたる部分であった
部分が判っていても、 それがイン
mK金合金のO Bイγレ l﹂を作
る乙の種の窓澗形成が 、 はたして
関係がつかめない乙とが判った。
、
そ乙で 、 攻合紙をいつ入れたら
乙の関係がはっきりするのか 、 歯
部分であったりすれば、 宿縁との
り、 イ ソ レ ー か ら ほ ど 遠 い 歯 質 の
臨床的に満足されているものかど
う か を 考 え る 乙 と に な っ た、 先
ず、 全員が 、 抜去歯牙に 、 課題の
イ ン レ ー を 作 製 し 、 しばし学生気
6の解剖から
分にしたると共に 、一
ワックスパタ lγ 形成に至るまで
担、検討を行って来た 。
、
きて 、富洞形成をしてから イ
斜をつけないうちに岐合運をさせ
今回は 、 窓洞形成後で、笥縁傾
牙の状態と 、 唆合のさせ方につい
。
てその組合せを考えてみた
ンレ l装着まで 、 一週間も放置し
問題を細分し 、 各会員がそれを分
ておく乙とが 、 しばしばみられる
現状であるが 、 いざインレ l セッ
、か
使って 、 即ち、 グリ 1 γ色の 比較
、
的厚いものを先に唆ませ 次にタ
れ た。後になっ て攻合紙を二種類
斜をつけたら良いかが判ると思わ
てみて(実際には 、 グリグリッと
攻ませた)カ ーボンのつき方を観
。
察してから、 スケッチを行った
ζれなら、 ど 乙 に ど の 位 の 箆 縁 傾
トというとき、 窓洞の辺縁が
けていて困ることが 、 ときたまあ
る、仮封に 、 スト ッピングという
何も 抵 抗 力 の な い も の を 使 わ な け
ればならない乙とも問題はある
イプラ イ ター用 の赤色で薄手のも
、
のを攻合させ て みると 吹 合 の 強
が、窟縁傾斜の形成が 、現在行わ
きの分布状態 をみる乙とができる
れているままのもので良いものか
どうか 、 一つは対合歯との校合関
課題の一6O Bインレ ー に
るか ら、箆縁傾斜をど乙に
の歯牙と 接 す る可 能性をもってい
、どれ
於 ては、 寵洞の大部分が直接上顎
ω
マ考 察 ム
との助言があった。
一つは 、 金 属
、
係を中心とし て
(充填物)の 側 からみて 、 ほんと
に保護になるような宿縁傾斜はど
のようなものかを 検 討してみ た。
O対合歯との関係を検べるに
+AF
6κ、O Bイ γ レl の適応症が
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件
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ト
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触面積は小であった 。 (これらは
れるとおり、若年者程吹合時の接
何少数例ではあるが、予測さ
だけつけたら良いかという ζ と
は、非常に重要な乙とである 。
未だ摩耗したいないためでもあ
図に於て 、 ゅ
はイン
ω
レーに関係のない上下歯牙の接触
り 、唆合関係が完成されていない
多く、乙れらは吹合していないと
( ・
ζまかい凸凹)があるも のが
制 若 年 者 ほ ど、未 踏 の 副 隆 線
ためでもある J
を示したものであるが 、 織
という場合も含まれる 。 乙 れ ら
は、窓縁には直接関係のない校合
云えども窟洞内か 、斜面内に含ま
状態である 。
ω
れるべきと思われる。
最も多いのが 、 ム 川 崎の
様な状態の吹合関係で、窟縁斜
よる岐合関係の観察をすること
鶴洞形成の都度、校合紙に
が 、是非とも必要と思われた 。
MW
感じのものが多い様に思われた 。
も、乙の部分は擢患しそうにない
エス の な い も の に つ い て は 今 後
又は加療済みの状態が多く 、 カリ
程度﹀の ζとのみを追及している
6O B
と、 高年令者に於いては 、一
の部分には 、 カリエスはないか 、
川 m才 以 上 の 例 が な か っ た
w
が、実際 、6のO Bインレ l (G
面を考える上に重要である 。乙 れ
は ム W の様に歯牙から、イン
レl上にまたがって校合している
状態である。(図中の直線は、頬
側岐頭頂を連ねた線﹀
川刊中央溝より、頬舌的に分け
て、頬側寄り半分の方が、舌側寄
る側合が 多い。
り広い商で、しかも強く接してい
同殊に予防拡大部分の中央部
多く、しかも乙の部分の笥縁隅角
(峠越え部分)には強く当る例が
に近いので 、充分に斜面を形成す
る必要があると思われる 。
例 内 斜 面 の 部 分 は 、もし溝 の
状態が複雑でなければ禽縁隅角は
鈍であるから、この辺りは憾縁斜
面でなくても箆縁部分の仕上げと
いう意味で 、隅角部の研磨程度で
も良いと思われるものもあった 、
(インレーに非薄な辺縁が出来る
より良いと思う。﹀
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検 べた 結 1
匹
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ll私の祖父は私の父に 言 った 。
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る か っ グ じ ゃが、 ヮシが怒るだけでは何ともならん乙とじゃ。乙 の夫 婦 は 食 う
と生きる力というものは怖ろしいほどのものじゃ 。 ワシはその家 のあるじとおか
みを呼びつけて 、赤ン坊 を手渡しながら怒鳴ってやった。何ちぅむといことをす
の半分はまっ白になっとるが 、一
践が何ともなかったのがよかったのじゃナ。ま ζ
の下敷になっとる 。 重みに堪えてよく生きていたもんじゃ。抱いてみると 、身 体
ムク動いとるじゃないか/能措いたナ 。 かけ寄って見ると 、 生れたての赤子が臼
のことじゃ 、 軒 の傾いた家の前を通ったと思え 、するとナ、門口 の際のところに
台が置いてあり、 その上に挽き臼がのせである。何気のうその日を見ると 、ムク
名になるかも知れんテ 。 と乙ろで 、 村じゃが 、普からの漁師町じゃから特別の生
業収入がめるじゃなし食困家庭が多かった。てる目 、 ワシが街を見廻っとるとき
に勤 めていたんじゃが・::。 お前さんの生れた土地は 、 日本三景 の 一つ﹁松島﹂
の裏側になる 。 大平洋に面したええと乙ろ。ワシは前から思っとるのじゃが 、 ζ
乙嵯峨掛
慣
が 、男性的で見応え のある景観じ ゃから、将来はきっと ζ っちの方が有
﹁はっきりした年は忘れたが 、 ワシが了度働き盛りの頃じゃった 。県 の 土 木 課
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“
。 間引か
に食えん 、 やむにやまれんで 、 ︿間引﹀ 乙うとしたと 、 乙う云うんじ ゃ
れそうになった乙の子乙そ悪い星に生れついたも のよ。 乙の家も子供が多うて 、
た。悲惨なものよ。 乙の 家 だけで
っ
ζれ以上口が増えては、暮しがたたん のじ ゃ
なしに 、 他にもあったんじゃが・ ・・
。今はもう ζんな hUCいことはさすがにない
が::
・
・
。
﹂
││私の父は私に云った。
﹁お前も知つての通り、 俺の親父さんは、昔は丁留に結って、大小差しとった
士ピ 。廃藩置県の当時から、 県の土木技師だったのピ 。今はもう地続きになって
いる鳴瀬川は 、昔よく氾濫して 、 俺 の生地一帯が困 っておった 。 その川 の治水 の
必要と、その方法を県に進言して 、聴き入れられ 、現場長督をして、その仕事を
やり逐げた 。 そのおかげで 、 その後七十年経 っても、 災害は起らんようになった
んだ 。親父は村の人達から感謝と尊敬の的だった 。 今 で も 語 り 伝 え ら れ と る 位
だ。直接聴いた﹁間引﹂ の話だがネ 、大相似や草花 の苗でもひっ乙抜いて間引くよ
うな乙の事実。昔は﹁産児制限﹂とか﹁中絶﹂ なんでものはなかったし 、辺四酬な
村の困窮ゃ、民衆の貧困だって 、社会問題化されるとともなかったんだナ 。 との
ζとは 、 当然のととのように 、 半ば公然とやられていたんだ 。 お前このととをど
う思う?後日談だが、毅父は、その後もその家の面倒を見てやったんピが、救
e
ったんだろう、 すくすくと成長し
われたその時の児は 、余程﹁運﹂の強い人間 た
てね、俺も逢 って知っているんだ 。今はもう逝くなったがネ 。 成人して乙 の事を
知ってからというものは 、 親父さんぞ神 のように敬い 、報恩 の志を捨てずに、一
生親父に尽したそうだ 。美談の一節だね 。 お前も幼い時逢つであるいは憶えてい
るだろう ・ :お祖さんは福耳というんだがいい耳をしとった 。 おどやかな人柄だ
った 。曲 った ζとの嫌いな人で 、頑固一徹でもあ ったがナ 。俺は、親父よりも、
立派ないい人聞にならなきゃと心に誓 った。 そ し て 親 父 の 生 き た 年 だ け に 、 い
や、 それ以上に生きて働きぬくんだ 。 オ前、 お祖父さんのことを忘れるなョ
﹂
。
│ │ 私 は 私 の息子に云った。
﹁俺が七才の時、仙 台 へ 両 親 に 連 れ ら れ て い っ て 、 お ぢ い さ ん に 逢 っ た ん
だ。還暦の祝いの頃で 、 ぢいさんは 、赤い頭布に赤い被布を着て 、ばあさんは 、
大きな腹を太い帯で締めて、座敷のまん中で大ぜいの人 の手拍子で踊っていた 。
俺は子供心に、こんな年寄りでもオ腹がふくれて、赤ちゃんが生れるのかナとへ
んな気いかしたんだ 。 おばあさんの大鼓腹は 、竹 の大きなぎるが入れであ ったんだ
ナ。取り出すと乙ろを見て俺は、び っく り し た り 、 う ま く や っ て る と 感 心 し た
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り、 おかしくなってきてケラケラ笑ったりした。﹁きんさ時雨﹂や﹁おいとこ ・
そうだ ヨ﹂の唄が賑やかで 、 祝 い の 宴 に ウ キ ウ キ し た ネ 。 今 で も 乙 の 唄 を 聴 く
と、 乙の時の乙とが自に浮ぶ。もう五十二年にもなる。ぢいさんの耳が大き いの
、
で、 それに触れたくて 膝の上へ駆け上ったりした。いつもニコニ コ し て い た
、
が、 何だか威厳があって、端然と座っていて 膝など崩したのを見たことがなか
、 ﹁ζ の坊主の目を見ろ 、顔つきは
った。俺の顔を見つめて 、 そばに居た親父に
優しそうだが 、自が鋭い。 ζ奴は 油断出来ん。突き差すような目で見つめおる。﹂
、
と云った。親父は 、黙ったまま 改 め て 見 定 め る よ う に 俺 の 眼 を じ っ と 見 つ め
、
た。俺は 、 そんなに自分の限が鋭いかナと思いながら きまりわるいような 、何
。
か悪い ζとを指摘 されたような気がして小さくなっ た
そのおぢいさんが大小をたばさんで 、仙台藩の サム ライとして大道を閥歩し て
いただろう図を想像して 、 チャンバラをやったことがあるかと聴 ζうと思ったが
乙わいのでやめた。
、
、
次に俺の親父きんである 、 オ前のおじいさんは 東京の水産講習所 今の水産
、
大学を卒えて 、すぐこの学校の教師をしていた。ヨ ー ロッパへ留学したのは 乙
の後の ζとだ。﹁水産製造論﹂という大冊の本を書いて出版した。乙の原稿を清
、
、
書したのがお前のひいおぢいさんだ。乙れがその原稿だが 、全部筆で 達筆 お
、
まけに一字の書き乏しもない。どうだ大したものだろうグ と乙ろが 乙の本を
まる写しにして、処々字句まで同じの盗作というやつで 、親父のと似たような題
名で本を出刊した者があった。親父の同僚なんだが: 。乙れを知ったお祖父さ
・
・
、
、
んは 、 断じて許せんと大いに怒ってネ その先生の処へ談じ込んだのだが その
先生が平謝りに謝っただけで許してやったんだそうだ。いうなれば、 歯牙にも掛
ζろは親ゆづりだったん
けなかった訳だ。寛容なんだね。親父は矢張り頑固なと
、
、
だが 、 優しい処もあったナ。発明が趣味のようで 俺の知ってる限り ポマード
、
から始まり、容器、容器用機械の改良発明が四三種 女性のス カー トから下駄ま
で凡そ五十種もの発明をしたんだよ。俺の母の姉である伯母さんの一人は俺によ
ったんだ。親父は 、 俺に云った通り、 祖父と同じ七十七才で逝くほった。
俺には 、自慢出来るものは何もないが 、 いい祖父が自慢の種だ。俺達がこうし
て安泰に生活出来るのは 、先祖のおかげだと思うんだ。俺達 兄妹は 、 八人多い方
少ない方が良いなどと思った乙とは恐らくないだろう。﹁間引﹂の話をカをこ
た
。
めて話した位だしね。十二人兄妹の長男だ。一ダ l スならやすくなるの例だ。十
二人も作ったお ぢ いさん夫婦は 、 間引くどころか 、まるで里苧が子芋を増やすよ
うにそして立派に育てた。又親父夫婦は、長男だから、親と妹や弟やその子孫に
至るまで全部の面倒をみたんだ。乙とに容易に真似の出来ない親父のえらさがあ
ると思うのだ。お前も、 これから幾人子供が出来るか知らんが 、下手に制限なん
かしないで自然に委せて 、多くても悔いる乙とのないように今から心がけた方が
111私の息子は私に云った。
良いね。育てていける態勢が大事なんだ。﹂
﹁昔は随分残酷な乙とが平気で:・。箆いたナ l。他の地方でもこんな乙とが
あったんですかネ エ? そ の 村 に は 、 いつだったか 、 おぢいさんの墓参りの序で
の次になって大した変りょう。今ぢゃ間引くどとろか入手不足で、子供は何人あ
に 一絡に行った乙とがありましたね。今ぢ阜、鳴瀬川のほとりからパスが出てる
し、 タクシ ーだってある。牡蛎や海苔の養殖で大変景気が良さそうだし 、漁はこ
ったっていいでしょう。僕はひいぢいさんから四代目か :::。子供の数は十二人
から八人、それに僕たちは五人、 段々代によって減ってきてますね。お父さんの
は、生めよ殖せよ地にみてよの戦前の時代、 五人はすくない方じゃない。今では
か/ そして八親父以上に長命ですかグ﹀僕は幾つまで生きれば良いんでしょ グ
三人が良いところですか :・:。とても五人も育てられんナ。八親父以上にやる﹀
お父さんの目の事は 、 云 わ れ て み る と な る ほ ど 鋭 い で す ね 。 い つ か 電 車 の 中
で、刑事 と間違えられた話もうなづけますね。﹂
1 1私は私自身に一去った。
(宝塚市 ・仁川﹀
﹁
息子は息子でやるさ。俺は八十八才、 米寿まで生きるため努力しよう。 ζれ
からの世の中もずいぶん変るだろう。変らんのは 、俺の目っきと頑問さだけかも
。 乙りや 、代々の遺伝かも知れんテ:・・。﹂
知 れん
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く乙う一去ったものだ。﹁おぢいさんも立派な人だったが 、 お父さんは 、 千人に 一
人、否万人に一人有るかないかの人だ。第て人間が出来ていたし 、 頭が良かっ
、
た。勉強家で 、 それに才能があった。務力家だったから辛苦をのり超えて 事業
にも成刻されたのだ。お前さんはしあわせだよ。いいお父さんをもっ て。乙のお
父さん以上にならなきゃ ::。むつかしかい ? ﹂俺は伯母に﹁えらい親父をもっ
た息子は大変だし 、肩が凝る。親父以上にやるなんて議大ていじゃない。﹂と云
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支 部;
のう ごき
栃木県支部
昭和四十三年度栃木県支
部定時総会は 、 四月十四日
(日)佐野市唐沢山県立青
年の家で地元榎本鶴吉先生
を筆頭に同窓会員諸彦のと
配慮により開催された 。
帯は素晴らしい赤松の美林で、四
季の自然の景観が美しく行楽客で
賑う 由。遠く富 士 を は じ め、赤
城、榛 名、妙義の連峰を望見、山
頂旧本丸跡には秀郷公を杷る元別
格官幣社唐沢山神社があり、 五五
O町歩 の山内には閑静なホテル唐
沢山荘、 ぶ ど う 、 も も 、 し い た
け、養豚の唐沢観光農場、 あるい
は唐沢ゴルフ 、 クラブ等が点在し
一年を通じての観光地である 。
殊に秋 の紅葉と味覚の松茸狩は
家族連をたのしましめ誠にバラエ
ティに富む名所である。
﹁城跡や古井 の清水先問はむ﹂
(芭蕉)
﹁から沢はいずこ松原遥かなり﹂
(
奇 山)
﹁桜馬場俵藤太が夢の中﹂(同)
﹁由緒聞く大炊井戸の花吹 雪
﹂
(同)
要次の様なと挨拶、 一、 母 校 の 現
況、 て 血 脇 会 館 の 間 通、 て 母
校と同窓会との緊衡化、 て 入 学
問 題 、 て 医 政 の 問 題、 て 日 歯
会長選挙について 、等、人 の 和、
庶務、会計報告を承認可決、予
算案、事業の計画等は役員一任、
黒崎副支部長の閉会の辞で一潟千
里総会無異終る。
その聞において築瀬真策先生よ
り参議選挙戦において数年前不慮
の災に際し物心両面共に多大なる
御配慮御同情を賜りしも近く青天
白日と なる謝辞があり一同安堵し
て先生 のと健康を祈り今後のご活
躍を期待す。
母校教授羽賀通夫先生
午後二時待望の学術講演
て鋳造冠について
スライドにより誠に詳細なると
指導ご教一示、早速明日よりの糧と
して熱心に受講有意義なと講演に
傾聴午後四時終了す。屋上にて記
念録影。
直ちに車を連ねて下山一路佐野
市の一流の料亭久内楼に急ぐ 、地
元会員各位の斡旋で一流の美妓は
待機姿勢に穏く 、
同窓の和み屋上陽が当り(奇 山)
午後五時懇親会開幕椎貝元老の
音頭で乾盃、織物の街観光の都の
サービスは満点、歓声堂に溢れて
時の移るも覚えず、宴クライマッ
クス﹁唐沢小唄﹂下野の佐野の名
所は唐沢山ょ 、 一目見晴らす関東
平野、田原藤太の勲をしのぶ 、今
も今も名残りの エl城跡が﹂の音
頭の舞踊に悦惚 、 実に和気あいあ
﹁講師発つ東歯校歌がまだ残り﹂
(
奇 山﹀
﹁結局は藤太せんべい佐野土産﹂
︿奇山)
六時三O分マイカー速の道中も
案じて閉会、家路に急ぐ。
終りに始終設営に C配慮を煩し
た地元の会員各位並に青年の家職
員各位に深厚なる謝意を表しベン
を欄く。
文中の﹁川柳﹂の作句は黒崎博
先生で記者の懇望に応えてお寄せ
頂いた名句。(牟田健作記)
1
:
:
当日東歯大同窓会副会長
井上真先生 、特別学術講演
の講師として 、 母校教授の
羽賀通夫先生をお迎えし
て、会員三十六名多数の参
会で盛会であった。
春光麗か絶好の快晴に恵
まれ新緑したたるばかり散
り初めし桜の点綴せる唐沢
山 の九 十九折せる山道 のド
ライブ誠に佳し。
十時三十分榎本先生のと
案内で正午まで全山の観
光。
謙譲の精神、 小 異を捨てて大同団
結乙そ現時点においては必須だと
言々句々熱情溢るばかりのご挨拶
に一同感銘を新にす。
続いて議長に榎本鶴士口先生を推
せんして議事一
日程に入る 。
市
市 市 町
町町町町 市
観光割愛正午青年 の家食堂にて
中食、 のど潤す間も幽去静寂に包
まれた山の讃美の話題で唯々絶景
哉/¥の一語につきる 。
総会開催に先きだって青年の家
係員より、青年の家の主旨やテレ
プによる唐沢山についての説明が
あり見聞をゆろくす。
愈々定時総会は講堂において 、
栗原副支部長の閉会の辞によった
開催され物故会員に黙痔を捧 ぐ、
岡田支部長 の挨拶、東歯大同窓会
長福島秀策先生余義ない事由によ
り代って副会長井上真先生より大
ーT
唐沢山は関東平野の 北隅
にあり、佐野市と田沼町の
境界上にある海抜二四O 米
の名山で﹁むかで退治﹂の
伝説で有名な田原藤太藤原
秀郷公が、約千年前この地
κ
を居城として 、地 方文化の
発展に力を尽しつつ 、 天慶
の世 起った平将門の乱を
平定し、功績をたてられた
当時を偲ばせる 域社 が、今
も唐沢 山 に苔む す 石 畳や数
々の遺蹟を残し ており、 一
山
棋築築宮松正高篠椎黒黒栗神岡岡岡岡臼天
石 瀬 瀬 嶋 島 岡 田 原 貝 崎 崎 原 山 田 回 国 田 井 沼 │山
武六真一左
哲誠敏弘
正
正正一治良竜 I ~
_!IL旦足並門寿三一郎智博三登義信問主主雄 l
'
吊
一一一一一一一
宮字│会
1 ググ
1 1/ 1
1 1
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1
/ 1
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1 1
1 1
1 1
1 1
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1 1
1 1
市都
出 菊 平 大 牟 牟 石 関 屋 } 白 小 落 石 長一不 雇 I
夏新 1
I
願
席 地 山 坪 田 田 川 谷 代 瀬 平 合 塚 島 川 本 本 井 │不
36者 文 浄 正 紀 健 和 義 昌 正 雅
鶴 要 │同
名
雄 二 住 一 作 融 夫 文 世 夫 雄 玄 勝 進 滋 吉 三 ,~
益馬茂益小
足栃葛
佐
子頭木か子 山ググ利か 木生 ググググ 野
2
2
ン
ア
ス
康、朝浪惣一郎、酒井優)を送る
乙とになり、 名称も東京歯科大学
山岳会とし 、城谷加寿雄実行委員
長、野口陽幹事長を中心として着
隊長 ・依田雄弘、 副隊長 ・松 島 静
香、隊員 ・加 藤 喜 代 次 、 山 口 勝
問、幾多の秀れたアルピニストを
生んできましたが 、創立三十五周
年を記念してベル l・ アンデス山
岳 に遠征隊︿団長 ・渡辺冨士夫、
部O Bを主体として構成﹀は今年
で三十五周年を迎えました 。 乙の
杖痕クラブハ東京歯科大学山岳
ー 歯科界では初めての壮挙I
征隊出発する
逮 ア
々と準備をすすめてきました 。 資
金公募、物品調達、資料探索等困
難の連続でしたが 、孝いに、問窓
の皆様、歯科商社、 あるいは歯科
界以外 の方々よりあたたかい支援
をうけ、また 、読売新聞社からは
後援を得る乙とが出来ました 。
ベル l ・アンデスは図に示しま
すように最北端のコルディラ ・ノ
ルテより最南端のアポロバンバに
J六
、 000メートルの幾多の鋭
峰よりなり、 その頂きは氷と険し
い 岩 壁 に お お わ れ て い ま す。 毎
年、 各国の遠征隊が数多く訪れ 、
六、000メートル級の未登峰は
ほとんどなくなりましたが 、 ネパ
ド ・アキルポの初登撃を試み 、 そ
の他できるだけ多くのル 1トを知
ってくることを計画の基本方針と
しました 。今一つの目的は 本学の
口腔衛生学教室竹内光春教授の支
する高所居住民の口腔疾患と衛生
援をうけてアンデス山群の四、 O
OOJ五、000メートルに居住
状態登調査し 、かっ 、古代インデ
ィオの口腔および歯牙について文
化人類学的研究ならびに隊員の高
所における口腔内変化について研
究することであります。
以上二つの目的を持ちまして 、
去る昭和四十三年五月三日に本隊
が横浜港より、また、五月十二日
には先着隊が羽田空港より出発し
ました。今回の遂行が出来ました
乙とはひとえに同窓の皆様方のあ
たたかい御支援による乙とが多
く、我々杖痕クラブ員は深く感謝
いたしております。また 、出発に
あたりましては横浜港にあるいは
羽田空港に御多数 の方々に お見送
りをしていただきました。有難度
うございました。あとは隊員が無
事帰国してくれます乙とを祈るの
みです。誌上で恐縮ですが厚くお
礼申し上げます。
2
3
ル
至 る ま で 全 長 て 六00キロメ ー
トルにおよび 、途中、 五、000
Bγð-~i ¥
ペ
~
だ
万円宛を積み立ててはどうかとい
ら、 学校で幹事会 宇佐開き、会貨に
ついて相談、乙の際、終身会費一
四月 二十三日(火)午後六時か
をして散会しした。
章の飾られた 、遺影の前で亡き友
を語り、駅前の松月で精進おとし
会 を 開 い た 。 集うもの十一名、大
磯駅近くの同氏宅を弔問、全員で
線香をたひけ、勲五等瑞宝章の勲
宅で逝去された。同君を悼み 、 四
月二十一日(日)昼 、神奈川在住の
三辰会有志が発起人となり、追悼
去る一一一月二十八日(木)大磯の自
幹事会及び進藤修平君を偲ぶ集
ゐ
、
(大久保幹事長記﹀
う 議 が 強 く な り 、 ま た 、秩 の 総 会
には物故会員を追悼する 、 三 辰 会
創立(昭和三年)四十年 の記念式
典 を 行 つてはの議も出た。 何れ 具
体 案 は 後 日 に 発 表 予 定。
れ、当年五十八
彼は高知市生
うか。
こうして級友の一人一人が亡く
なってゆくのは本当に淋しい事
誠に人の命とは乙んなも のだろ
﹂
夫君(沼津市﹀の親戚の人が経営
一
十五年の昔ぱなしに花を咲かせ二
た
い。乙のホテルは同級生の若林一
ある。
しても既に最盛壮期になるわけで
早いものである 。 わ が 昭 久 会
は、 卒 業 以 来三 十年を迎えたわけ
である。三十歳といえば赤ん坊に
人生の苦難をきりぬけ 、 乙とに
されているので 、 万事好都合であ
るだけに、今秋の北海道における
│ それも最も発
の緩災をうけた│
展期において││わがクラスであ
記念大会は感謝深いものがあるで
準備 着 々すすむ
北 海 在 住 の 昭 久 会員八名は一 致
協力して大会の準備をすすめてい
る
。
しょやっ。
病院に勤務され 、 宇 都 宮 鉄 道 病
院、大宮鉄道病院などの樹科医長
毎月定期的に会合しているが 、
札幌を中心として広い道内各地 よ
り集ることは容易でないが 、大 会
着席番号十七番で 、 卒 業 後、 鉄道
を務めておられたが 、 本年二月二
十三日、御逝去されたとの報に接
した。名の示す如く、よい男であ
の成果を夢みて 、頑張って頑張っ
て │ │ そ し て 嬉 ん でやっていま
謹んで御冥福を祈る次第である 。
なお安君の御宅は東京都北区田端
町六八O番地で、奥様は安君恵さ
ん、長男は安徳男きんである 。
(長尾記)
(受付等﹀
十月十日午後一時迄に 札 幌
﹁ローヤルホテル﹂ロビーに集合
日程決定
す
。
った。惜しい人を失ったと思う。
クラスメ ー トの安美男君、彼は
安 美 男君を悼 む
都合しておいて下さい 。
戦 争 と い う も のの 為に、多くの戦
死者を出し、戦災によ っても多く
北海道大会は今秋実行
母 校卒 三 十 周 年 記 念
昭和十 年卒
二
一
会
きるようにして下さい。
ω卒 業 三 十 五 周 年 記 念 祝 賀 パ ー
ティ、本年十月十 二日(土)正午よ
り、 東 京 大 手 町 の パ レ ス ホ テ ル
で ‘ 恩 師 諸 先 生 を 御 招 待 し て 、盛
ω
久
ると思われる 。 会費は東京の祝賀
記念パーティが四千円、熱海 の総
会が六千円であるので 、 合計一万
円位かかる 。 今 か ら 十月十二日を
大に行なう。 四海会総会は祝賀
パーティ終了後、新幹線で熱海に
行語、 、 ﹁ホテル大洋﹂で一泊、
昭
然自失のありさまだった。
洗礼を受けて彼のため九日献花
業される迄せめて四 、 五年は生き
たかった事だろう。
を捧げに大三島に行く、現在愛知
学院歯学部在学中の御子さんが卒
っていたので 、彼の弔文を書く
のに適任ではないかと執筆を依
来年の北海道行を楽しみにして
いたのに・
歳、昭和三年東
歯入学在学時代
昭和八年卒
卒業 三十五年記 念 行事
で、大分先の乙とにな りますが 、
今から予定して 、 その日に参加で
す。同級生諸兄も御多忙の毎日が
続いておられる ζとと思われるの
その記念行事が準備されていま
卒業後満三十五年になるので、
﹂
在天の石河敦香君を偲ぴつっこ
の文字ぞ捧げます。
昭和四十三年五月二十日
楊矯也
が、こうして彼のため弔文を書い
ているのを、あの特長の間隙ある
だ。美 代 夫 人 、 三 人 の 御 子 さ ん 達
の御幸せを祈 る 。 筆不 性 の 小 生
前歯を出してきぞ苦笑している事
だろう。
去る五月七日突然彼の御嬢さん
(乙の一月結婚された)から電話
奈良の 小 梨 君 、 佐 賀 の池田君の御
宅に御邪魔したるも今はなつかし
い思い出になった。
方総会が最後になった 。彼夫妻と
彼と行を共にしたのは大津の地
旅行を楽しんだものだ。
住、開業以来三十年間島の名士と
し、 又歯科の方も盛業を続けてい
た。 小生も終戦引揚後二、三回彼
の宅を訪れたるもある。又よく小
昭和十二年愛媛県の大三島に移
は早かった。
は級友諸兄も御
承知の様に身体は小さかったが酒
も よ く 飲 ん だ し 、 よく玉も突き、
又豪でもあった。兎に角遊び事
にかけては人後におちない男だっ
た。 動作はにぶかったが頭の廻転
す
。
頼されたので乙の一文を草しま
り
の報を受け余りに急だっ た ので拒
会
フ
石 河 敦 香 君 を 偲 ぶ (昭七卒)
よ
で彼が 、 松山の日赤病院で早朝四
時肝臓癌(胃癌転移﹀のため死去
海
ス
辰
新居浜市の佐藤一兄より生前の
石河君の事を 小生が一番よく知
••..•
回
ク
良夜
それは豊にして 、 そ の容、亦美
し
一謹の美酒、 一鉢の肴に情あり
きれば聞け
しあわせにはずむ友の声を
呼べ 、 なつかしの友の顔
去る三月十四日在京会員有士山十
数 名 の参加によって会の今後の運
営そ の他種々協議致しました 。 そ
の結果従来とかく地方 の状況が乙
ちらに反映 しませんので 、 横 の連
絡を作る各様道府県単位に幹事を
委任したいと思っています。具体
的には東京の幹事諸兄と相談の上
各位に御連絡致します。何 か御意
見、 御 希 望 の 向 き は 御 一 報下 さ
きて去る五月八日在米中の堀内
実君が小児歯科学会参加 の為来日
したのを機会 に東京五十鈴会を開
催しました 。 同君は現在 ボ ストン
近郊にて 小児歯科専門医を開業の
かたわらハ !パ l ト大学講師をし
28
0
コー ノレデンブラウン ・
・
・3
0g ¥
2
80
非膜度が薄く ,前装歯 に賞用 されます。
液 ・・
…・・ ・・…
事にな りました 。諸兄の御支援を
宜しくお願い致します。
全員静岡県の会には出席される
と の確約をいただき 、 二年後 の万
国博には関西で盛大に堅久会を開
く予定です ので諸兄も今 から楽し
みにしていて 下 さい。
出席者 林 (芳)、鈴木、近藤、
石、細田 、高野、木村(哲)、岩並
斉藤、長谷川、石川、 滝、清水 、
内山
、 下村、佐久間、早川
、 石井
山田、前原。
(前原記)
lL
会一
昭和二 十三年卒
昭和四十三年度総会ならびに懇
鈴
ております。昨年度はマサチュ ー
セッツ 州 の小児歯科学会の会長を
務めるなど多いに活躍し ておりま
す。 同夜 は同君持参のスラ イドを
見ながら 米国に於ける 小児歯科の
現 況につい て話を 聞きました 。同
日の 出席者 は左記の通り。
20
0
ライ トクゃレ ー ・・
・・
・
・
・・
・
・
30g ¥
歯髄保護と同時 に永久合着裏装に好適
・ 5
0g ¥
十
午 後 二 時 よ り市内観光、 夕 食、
当日は 、 ローヤルホテル泊り(全
員)
十月十一日同ホテル午前九時
半 出 発、 パスにて洞節湖(昼食 ﹀
登別温泉(第一滝本ホテル)総会
一泊 (A コl ス、B コl ス共に)
十月十二日より二班に分れて A
コl スは帰郷、 B コlスは観光に
出発十四日散会する 。
、本年最初 の東 京 及近県の世話人
会を新宿東洋会館で開催致し、国
保審査委員の早川、佐々間両君を
囲んで新点数下の健保問題を懇
談。質擬の形で真剣に説明してい
ただき 、 日頃の診療にプラスにな
る有意義な会合でした 。
親会の開催地を神奈川県にいたし
たい旨、矢内新会長より連絡を受
けま した。
会場、期日などの詳細 は追っ て
諸兄に御通知しますが 、本県の誇
る箱根の 秋 の自然美を 十分に満喫
していただくべく 目下鋭意計画中
です。
好評だった昨秋の近畿大会をお
手本に 、更に充実した大会にいた
したいと思っております。多数の
御参加をお願いする次第です。
2
80
2
80
ライ トイ エ ロ ー … ・ ・ 3
0g ¥
1,
20
0
ッ ト・
・・
・
・
・
・
・
・・
・・
・
・
・・
・
・
・・・
¥
1セ
装 4
砂
4
砂包
4つの 色調で広範囲な用途
五
、伊藤(公)、 今
恵)
安藤、天野 (
坂
、 大 山、 尾 崎、 河西、 桜井、 田
中(
憲
﹀ 、長 畿、中 尾、早河、堀、
前川、森 山、矢 島、芳村、吉 井、
大友。
五月 二十五日 五十鈴会ゴルフ を
浜 名湖C-Cにて開催しま した。
ジンジノくノレブラウン・ ・
30g ¥
カラープロテク トセメント
霊会
そのあと 、 本年の行事として十
一月中旬静岡在住の諸兄にお骨折
み
乙ぞって 参加を
これから生きても五 十年 は 生 き
られぬ(生きれば全員百歳以上﹀
一度や二度来た乙とがあ って も、
:乙れだけ
集って 、 語って 、顔る ・
でも素晴らしい事である 。
﹁
金 ﹂ は 死 ん で 持 ってゆけぬ
嘉
し、 三 十 周年は 二度来ない グ
欠席通知を出したメンバ ーも │ │
思い返して出席を グ と呼びたい
鈴木
つ
久
昭
和
十
りをお願いして第 二団地方懇親会
を開催する事に 決定。細部は計画
の出来しだい報告致します。また
新名簿も近く 出 来上りますのでお
手元にお届け致します。
なお 、新しい評議員の推せん方
を同窓会本部より依頼されました
い
慶祝 歯 科 麻 酔 学講座が新設さ
れ、中久喜喬君が母校の 教授に昇
。 今後の 御活躍を祈り
任し ま した
、
ア ' d a人 ハ秋山欣勇﹀
ます。
ネオ製薬工業株式会社
京東 ・渋谷
北 海 道大会に寄せ て
越し方を振り返り見る三O 年
遥かなる 北 の国の
旅愁ただよう地 に
友 よ 、 栄光に輝く﹁昭久 ﹂ の旗
会
堅
ので 、 おはかりしたと ζろ、当日
の出席者全員の賛同がありました
ので 不宵私がもう一度お受け 致 す
だより
2
5
のもと
楽しき集いを得て 、多 く を 語 ら
ス
ん
仁 の道にすすみしものの心
7
ク
結果その他は次号にて。
(大友記)
会員各位におかれましては 、 日
々診療に研究に、そして医政にと
御治躍の事と存じます。
昭和四十三年クラス会総会は 、
卒業十周年にあたりますので、 今
回は、舞台を中部地方名古屋、犬
山祖泉に移して行う予定ですので
多数の参加を望んで居ります 。
期日九月二十一日(土)二十
一一日(日﹀一泊二日の予
定
会品目その他の詳細については 、
現 在、幹事の矢頭君と連絡中です
ので追って各位に連絡出来ると思
います。
次に、乙の十周年を記念して 、
アルバムを作ることについては、
再三、再四御願いし て 居 り ま す
まに、申込みをなさっていない方
は至急、申込んで下さい 。
東京女子医科大学口腔外科の足
立君は 、今度、 コロンボ計画によ
る技術指導を日本政府より要請さ
れインドネシアのパンドン市にあ
る国立パジヤジヤラン大学儲学部
に二年間、 口 腔 外 科 の 教 授 と し
て、家族同伴にて赴任することに
な り、 六月四日朝九時出発しまし
た。 同 君 の 活 躍 と 健 康 を 祈 り ま
(幹事)
す。
昭和三十五年卒ll
梅雨あけも近い今日 ζの頃、八
紫会の諸兄姉には増々御健勝にお
すごしの ζとと推察いたします。
きて本年度のクラス会が東北地
区の 花岡、菊池、 白 井、 山本、沼
沢、 今村、菅野諸兄のお世話で 、
次のととく決定いたしました 。
⋮0 同 窓 会 会 報 投 稿 に つ い て ⋮
昭和四十三年六月一日
昭和四十三年六月十日
x ×× x × × × × × x × X
編集後記
x ×× xxxx × X × × ×
東 京 歯 科 大 学同 窓 会 会 報
第一二三号
一 既報のように 、六月 、十 二 月 岡 原 稿 の 締 切 り は 、奇数月の ⋮
O雑誌形式の会報第一号(通巻一
、
⋮
一 には 三 十 二 頁 の 雑 誌 形 式 の 会 十 五 日 頃 と し ま す 。
二三号﹀を発行するは乙びになり
山報 を 発 行 す る 乙 と に な り ま し 例 発 行 日 は 、偶数月の五日頃 ⋮
ました 。 表紙のデザインは榎本名
一た 。 を 予 定 し て い ま す 。
'
、
通常発行
仏 会 報 を 一 方 的 な 通 知 の た め だ 伺 返却を必要とする写真は、品 誉会頭の題字を使用し
れ
裏面にその旨を記入し、住所、⋮ されている会報とバランスのと
一けではなく、会長交流の場とし
るようにしました。
氏名も必ず御記入下さい 。
で いいと思っております。 授 稿 内
⋮
これまでの会報と大きく変えた
一規 を 御 参 照 のう え 、 ど し ど し 御 料 内 容 は つ ま の よ う な も の を w
、
⋮技 稿 下 さ る よ う お 願 い し ま す 。 考 え て い ま す 。
⋮ 所はありませんが 読み物の内容
を多くしました 。今後、 六月と十
⋮付 従 来 の会報 は 詰 り す ぎ て 読 照 会 、 対 談、 学術解説、臨床 一
二月の二回発行する雑誌の会報に
、
、
⋮ み に く い き ら い が あ り ま す の 講 座 母校の教員の消息 教室 ⋮
どんどんと授稿されるようにお願
一 で、一行十五字、 一 段 三 十 五 の 模 様、 設備の現状、資料、新 一
、
一 行に改めます。刊書の紹介、今日の話題
一 いします。
そ
の
。編集長の渡辺冨富夫理事が南米
一仲 原 則 と し て 、当 用 漢 字 を 用 他 。
一
現代かなづかいとします 。 ①とくに 、随筆、診療上 の体験⋮ ア ン デ ス に 遠 征 し て お り ま す の
⋮ ぃ、
で、元本会理事の士ロ木周作講師に
一同 投 稿 に は 、 必 ず 原 稿 用 紙 を 談、地 方 話 題 ︿会員について⋮
、 本号
⋮ 用 い て 下 さ い。
でも、社会的なことでも ﹀趣一 臨時役員になっていただき
編集の立案 、 企 画 に 多 大 の と 尽 力
一例 支 部 、 ク ラ ス 会 、 弔 慰 文 等 味 の 話 し 、 そ の 他 御 意 見 、 御 叫
をいただきました。
⋮は、五百字以内にして下さ注文等なんでも、どしどしお一
。雑誌のあるいは内容の企画
一 ぃ 。ただし 、写 真 は 別 と し ま ょ せ 下 さ い 。
一
についてのと意見などありました
一す 。
⋮
ら何卒、 お 願 い し ま す 。 高 橋 記
節にあたり紅葉がすばらしく 、 又
山菜と蛎があり、眼と味覚とを満
喫 い た し ま す。 それに一夜の宿と
パス旅行はクラス会員の楽しみを
倍加し収獲の多いものになる乙と
が期待されます。今から計画の一
渡辺冨土夫
一世印刷株式会社
東京歯科大学同窓会
東京都千代 田区三崎町二丁目 九番地十八号
電話東京(一二ハ二)三四二一(代﹀
発印
行刷
だ
が、来だ出来る人員まで達してお
りませんので 、ぜひ御協力いたど
きたいと思います若し 、集らない
つに予定し多数の参加を切望いた
します。なお詳細は八月に郵送で
連絡いたします。又八紫会報の発
行がありますので 、原稿の御用意
もお願いいたします。幹事
干T
所所人
τs
場合には 、中 止する乙ともやむを
得ないと考えて居ります 。
秩の東北は一年中で最も良い季
場所・・宮城県作並温泉
日時・ ・
十月二十六 、 二十七日
宮城県作並組泉に十月二十六日
集合一泊し 、翌二十七日貸切 λス
で松島めぐりを行ない 、 仙台にお
いて夕方解散の予定でおります。
行刷発
会
フ
今まで 、 御協力し て下さった方
々に申訳けないと思いますので 、
発印編
集
紫
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喜
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,晶画
必~
会
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時間動作研究)
の原則を適応した理想的なコ奪三三三
高度な技術が立証する規格と
登録さ れた各国のハテント
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森田製作所
森田歯科商庖
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最俊クレンザー(赤包紙) 1
桐箱入 080号(極々細)00号
同 角
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二号(中)三号(太)
特製クレンザー(ニ打ピン入) 1
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同 角採針
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東 京 都 江 戸 川 区 平 井 4-1273
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(611)0563 (612)1909
│“アーチャー口腔外科"初の完訳
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医歯薬出版株式会社
東 京 都 文 京 区 本 駒 込 1-7-1
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ア メ リ キ 日 開 外 科 医 の 軍 一 人 者 で . ピ,
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パ ー グ 大 学 教 般 のW.H.
ア ー チ ャ 』 の 世 界 的 名 著 "OralSurgery"
1(節 4版 》 件 悼 盟 の ' ん 訳 で あ る .
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口腔傾 J~の子樹に関する膏は、わが凶で也多〈見交けられるが.本書のように祖々の手術1去がみごとに
集 大 成さ れ た も の は 見 当 た ら な い . そ の 怠 昧 で も 本 警 は 曲 科 医 に と っ て . ま さ に ま 典 的 な 存 在 と な る で
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あろう。
'邦 訳 に あ た っ て は 、 上 ・ 中 ・ 下 町 3骨骨とl...この第 1分 冊 に は . 曲 科 医 と し て の 最 も 基 本 的 な 外 科 的
特龍.拙曲・ エレベーターの使い方・埋伏曲の紘曲・歯栂尖切陣術・曲綱場盤醇術・銑生物質暢法・感鎗
佳 などについて鱒述されている 。
卓越した陶磁を 個げて 歯周桐掌田原因か
こ画期的
ら治療まで金きわめて明快に配述 Lr
u ・ - 基礎圃で形串や機舵の正常と興常と~
+タテ理解さ管、開園 開理ー掴蘭掌や全身と
の聞速についての値問題を解明、ニれと相輪
{曾周 疾恩師予防 ー〆イ〆ティナ J ス 予後
信ど} と
‘ 各瞳(基本的紅もののら歯 肉 ・歯
繍枯輯形s!術信どのテクエ y ク Sで ) t帽 互
に密機 智間保舎もって . のれ、他糾と町間違
学
舎も軍視した伺が特色.臨床1I1.研究者 会
生に欠かせぬ指場 .である .
85判 4
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p 総 ア ー ト / 写 真2
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一手術手投の段階的図説ー
上巻
ピ ッ ツ パー グ 式 事 敏 捜 W .
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Archer著 河 野 庸 雄 訳
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本 書 の 特 色
ている悶で.担崎町宮樽が容易である.
. 挿 図 に は ‘ 本宜 に な い < " し い 眠 明 が あ η‘ 図 町 民
明 に よ っ て 本 支の 理 解 が い っ そ う 漂 まるよ う考 庫 さ
れている . .r
三カラー図も 豊 富 で 、 ニ と に シ z ー マ
な ど の 噛 合 は . 問者 由 理 解 を 助 け る た 的 t
ニ押図 t
ニ抽
押 な 工 費 がニらされている .
85判 550p総 ア ー ト / 写 真 3
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0図 1
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〈ロ陸外科学よ傘の内容〉抜歯術
以下線事I
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/中 巻 (9月発刊) 4
50
p'
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X繊 写 真 に よ る 位 置 判
下巻 (
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4年 1月) 5
50
p'
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提子的利用
定 一辺 伏 歯 歯 根 尖 切 除 術 量 産歯 の
畿寝を紡げる異常状臓に対する手術
的処置抗生物質療法病院におけ
る ロ 腔 外 科 的 手術
口 腔 ・ 顔 面 ・頭
韻1
:お け る 感染tZ.集 引
ロなお本曹 の軍曹 I:~字社津 曾 障でもII<~銀ってぶ η ます. 会 i 冊
þ!ロ明 1/1、回ヨ Yロ↑ "I'~ でr­
東直省大教鍵今川 '
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東巨樹大助敵役イ,川純著
口腔外科学
園 廟 因 ・ 蹄 断 ・ 蛙 置 に つ い て ‘ . "酌 て 明 確 で 具 体 的
なしかも砕しい臨明が加えられている.
・ と〈 に 外 科 聞 な 構 式 に つ い て は 、 U と つ ρ と つ 由 動
作"'(わし〈配述して、抽自由パターン~咋 η めげ
...~日」占ι J:J:;'t,~邑会
顎・顔面骨折の外科
R.O.Oingman/P.Nat
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ijl:著
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受傷後回慣能ど醐班の像 4
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相闘 の繍傷を処置す るE師同鼎醐と優秀さに
剖押されることが大きい a その愈昧で.従来
の ち 顎 掴面 的骨折に 聞する 渇切な揖場 f
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ご由写真・図嗣舎周いて懇切・ 間 滞
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明確に配通した.日常 的臨床面での座右 .と
して珍置されよう.
85判 3
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1図 8
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各種 口 腔内感染症
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持続性サルファ剤
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(スルフイソメゾール)
シノミンは 、 シオノギ研究所で完成された
新しいサルフ ァ 剤 で す 。 各 種 口 腔 内 感 染症
に使用して一一一
0抗 菌 力 、 抗 感 染 力 が強い。
。 有効血中濃度の持続時聞が適度に長く
1日 2回の投与でよい 。
。 血清蛋白との結合 率 が低 く、活性値が高い 。
O細 菌 の 耐 性 化 が 遅 い 。
。 副作用が少ない 。
O臨床効果が大きい 。
初 回 2g
以後 1
2時間毎に 1gずつ服用
粉末・錠剤・シロ ップ・他にシノミン
シオノギ製薬
などの特長を備えて います。
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盟、極めて流動性が良い。
2.操 作 が し や す く ト レ ー に 帰 っ て も た れ ま せ ん 。
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社 京 都 市 東 山 区 沼 稲 よ 高 松町
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東京営業所
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大 阪 市 東 区 博 労 回 丁 5丁 目 54野 よ ピ ル
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各科領域でいよいよ真価を発揮-.
抗炎症剤の第一次選択に
健保適用
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ン チ リン は 、
、 a primary anti-inflammatory agent
が
ともよばれる新しし、非ステロイド系の消炎剤です
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の大きな特長は
局所性に作用することで
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分 泌 器 官 や血 媛 蛋 白 な ど に は ほ と ん ど 影 響 を 与 え ま
せん
す な わ ち primary(局 所 性 ま た は 正 常 反 応 性 )
の炎主主に特異的な効果を有します
し た が って 局 所
性の炎症疾患に選択的に使用できる便利さがあること
さ ら に 鎮 痛 ・ 解熱 作 用 が 強 〈
運用しでも浮腫の心配
がない等の特長を有することから近時にわかに注目
をあつめ
【本貿】 一般名:温酸ベンジダミン
1-Benzyl-3-(3 dimethyl
aminopropoxy)ー1H
-indazole hydrochl
oride
守
[薬価基準】 (
統一品名 t
蓋殴ベンジダミン錠)
糖 衣 錠 (25mg)1錠 当 り
(50mg)1錠 当 り
32円
57円
各 科領 域 で 多 用 さ れ て い ま す
[
適 応 症】 下 記 の 疾 患 に 伴 う 炎 症 性 反 応 の 消 炎
各 科 領 域= 手 術 後 な ら び に 外 傷 後 の 炎 症 性 反 応
外 科 ・ 整形 外 科 領 域 = 腰 痛 症 , 関 節 度
歯 科 領 域= 智 歯 周 囲 炎 , 急 性 単 純 性 歯 髄 炎 , 抜 歯 後 痛
泌 尿 器 科 領 域= 勝 脱 炎 , 宰 j
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_炎 , 副 事 丸 炎 , 尿 路 結 石 ,
械査後痛
内 科 領 域一 感 官 , 急 ・ 慢 性 気管 支 炎
耳 鼻 日 図 喉 科 領 域= 日 因 ・ 喉 頭 炎 , 肩 桃 炎 , _ 炎
【包
装 】 糖衣 錠 (25mg) ・100錠 600錠
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1,000錠
1,500錠 5,000錠 6,000錠
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50mg):100錠 1,000錠 1,500錠
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販 売 /武 田 薬 品
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