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Page 1 Page 2 Page 3 Page 4 2. の離 二百年以上前に、 天文鞜たちは
 翻訳と裏切り
一フランスのハイデガ
’1セaductr)re traditt)re. Heidegger en France
合田 正人
GODA Masato
1銃後の哲学者
その男のことを二十世紀最大の哲学者と呼ぶ者もいる。が、その一方で、戦犯としてその男を死刑にすべき
だったと糾弾する者もいる。男の名はマルティン・ハイデガー。狭義の哲学と疎遠な方々もきっとこの名を耳
にしたことがあるだろう。どんな人生だったのか、初めに簡単に紹介しておこう。
1889 9月26日、ドイツ南西部バーデン=ヴェルテンベルク州のメスキルヒに生まれる。父は教会の
堂守のフリードリヒ、母はヨハンナ。
1903 ハインリッヒ・ズーゾ・ギムナジウムに中途編入学。
1906 フライブルクのベルトルト・ギムナジウムに転茂
1909 ギムナジウムを卒業後、イエズス会修遡完に入るが、心臓疾患のため2週間で遡亮フライブル
ク大学神学部に入学。
1912 2月、休学してメスキルヒに戻る。理学部に復学し、その後、哲学部に移る。
1913 学位論文「心理学主義における判断論」で博士号取得。
1914 第一次世界大戦で従軍するが、心臓痴患のため数日で除隊
1915 教授資格論文「ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意味論」を提出。試験講義を行い、教授資格
を取得。再び応召し、フライブルクの郵便局で検閲に従事。私講師として教授活動を開始。
1917
1918
1920
1923
1927
1928
1929
1933
エトムント・フッサールとの交流エルフリーデ・ペトリと結婚。
西部戦線で気象観測に従事。11月、第一次世界大戦終結後、フライブルクに戻る。
カール・ヤスパースを知る。
マールブルク大学に正教授の地位と権利をもつ員外教授として謝玉ハンナ・アーレントを知る
『存在と時間』の前半部を刊行。マールブルク大学正教授に就缶
フッサールの後任としてフライブルク大学正教授に就f五
スイスのダヴォスでエルンスト・カッシーラーと討論
4月、フライブルク大学総長に選出される。5月、ナチに入党、5月27日、総長就任式で講演
「ドイツの大学の自己主張」。
1934 総長を辞イIE6講演と執筆に専念。35年、講義『形而上学入門↓
1939 『哲学への寄与』。43年、『ヘルダーリンの謝乍の解明ふ
一1一
1945 連合軍により1951年まで教授活動を禁じられる。47年、『思索の経験から』。50年、『樵
噺
1951 復職を許される。52−53年、ゼミナール『思1荏とは何の謂か』。
1959 『言葉への途上』。61年、『ニーチェ』。67年、『道標』。
1973 みずから全集を企画(100巻を超える)。75年に刊行開始。
1976 5月26日、自宅で死去。
第一次世界大戦は「蜘と「前線」の戦いであったと云われる。ドイツ側ではエルンスト・ユンガー(1
895−1998)のような作家、フランス側ではピエール・テイヤール=ド=シャルダン(1861−19
55)のようなイエズス会士の古生物学・地質学者やアラン(1868−1951)のような哲学者がこの戦
いから優れた文学的・思想酌著述を物したのだったが、三度応召しながら心臓病のせいで「前線」の兵士とし
てフランス軍と戦うことのできなかったハイデガーの姿がきわめて印象的である。第二次世界大戦に際して東
部戦線に送られたのはハイデガーの息子たちだった。戦後、彼自身はフランス軍司令部によって教壇から追放
された。
普仏戦争を小学六年生で経験した哲学者のアンリ・ベルクソン(1859−1941)は、いつ次の戦争が
起こるのかという不安のなかで自分1誠長したと打ち明けている。第一次世界大戦中、彼は特使として大西洋
を渡り、米国大統領ウィルソンの側近たちと面会して、米国の参戦を促すとともに戦後の国際連盟構想を呈示
した。彼が1932年に出版した『道徳と宗教の二源泉』は、戦争がまた起こるかもしれないという預言で締
め括られている。ユダヤ人ベルクソンの葬儀は占領下のパリでひっそりと執り行われた。ゲシュタポに目をつ
けられるのを恐れて人々は参列を控えたの瀧
「戦争と革命の世紀」は当然のことながら、このように哲学者たちの人生をも大きく揺るがしたのだが、『現
象学運動』(邦訳、世界書院)の著者スピーゲルバーグは、両大戦問に「敵国」から「現象学」という哲学の
学派がフランスに移入し、瞬く間にそこに根づき、そこで拡大していったことに素朴な驚きを表明している。
例えば「現象学」の父フッサールについては、すでに1910年代初頭にヴィクトール・デルボスによって『論
理学研究1の書評が書かれているとはいえ、その本格的な紹介は、ロシアのノヴォロシスク生まれのユダヤ系
社会学者ジョルジュ・ギュルヴィッチ(1894−1965)によって1928年からソルボンヌで講じられ
た講義でなされ応この1928年という年はもうひとっ重要な出会いのあった年だった。清岡卓行『マロニ
エの花が言った』(新潮樹からの引用である。
四十歳の九鬼周造が一九二八年六月からパリに滞在したとき、いくらか研究していたフランス哲学につい
てさらに個人教授を受けたく、ソルボンヌのエミール・ブレイエ教授に依頼して紹介してもらった先生が、
なんと、まだ二十三歳ではあったが、エコル・ノルマル・シュペリウールでも特別の秀才学生ジャン=ポ
ール・サルトルであった。(.)サルトルは周造に聞いたマルティン・ハイデガーの哲学に強い関心をもち、
彼に紹介状を書いてもらって、二年後のドイツ留学のとき、このフライブルク大学教授に教えを受けるた
一2一
めに会いに行く。そして深い影響を受けた。
サルトルの留学にっいては事実誤認があるとはいえ、九鬼からサルトルへとハイデガーの名が伝わったという
のは何とも興味深い。28年から続けられていたギュルヴィッチの講義は30年には『ドイツ哲学の現下の諸
潮流』(Les 7bndances aetue”es de la phi7asophie aUeniandq J.Vin)として出版された。四つの論文が収めれ
ているが、第一論文でフッサール、第四論文でハイデガーが論じられている。この年は、フッサール自身がソ
ルボンヌに招かれて「デカルト的省察」と題する講演を行った年、レヴィナスの『フッサール現象学における
直観の問題』が出版された年、更には、ハイデガーの「形而上学とは何か」のアンリ・コルバン(1903−
1978)一イスラーム学者として…瀦な人物一一によるフランス語訳が雑誌『ビフユール』に掲載された
年でもあった。ハイデガーの論考がフランス語に訳されたのはこれをもって嗜矢とする。レヴィナスの著書に
加えて、この翻訳をも読んだ若きサルトルはこう手帳に記している。
1940年1月1日。たしかに、コルバンが『形而上学とは何か』(Was ist MetnphySi10の翻訳を発表し
なかったら、ぼくはこの論文を読まなかっただろう。そして、もしそれを読まなかったら、ぼくはこの前
の復活祭の折に『存在と時間』(Sein und Zeit)の読書を企てたりしなかっただろう。たしかに最初は、翻
訳『形而上学とは何か』(Qit’eSt・oe que la m6taph5面que?)の出版はぼくとはまったく無関係で、ぼくに
とってまさしく出会いであったと見えるかもしれない。しかし実際には、これはぼくとハイデガーとの最
初の出会いではない。〔1933年に〕ベルリンへ旅立つはるか以前に、ぼくはハイデガーのうわさを耳
にしていた(すでにぼくは雑誌『ビフユール』で1930年に「形而上学とは何か」の翻訳を、理解する
ことなく読んでいた)。一般にはハイデガーは「現象学者」に分類される。それゆえ、現象学者たちを研
究しようとの意図で、ぼくは彼のことも研究する決心をした。『存在と時間』は12月にベルリンで購入
し、復活祭後にそれを読み始めようと決意していた。前期はフッサールの研究に充てることとして。しか
し、4月頃にハイデガーに近づいたときには、フッサールで飽和状態になっていた。(Les Can7ets de la
d励db遊μ齪, Ga皿血a戴1983, p.225)
この引用文からも、雑誌に1930年に掲載された翻訳に加えて、同名の翻訳がもうひとつ出版されているの
が分かるだろう。サルトルが最初に挙げているのは1938年に全254頁の単行本としてガリマール書店か
ら出版されたもので、後述するように、そこには「形而上学とは何か」以外にも幾篇かのハイデガーの論考の
フランス語訳が収められている。コルバンは、例えばハイデガーの用いるDa−sein〔現存在〕というドイツ語
を、r6alite・humaine〔人間的現実〕と訳しており、この「誤訳」のミスリードによって、サルトルらの世代
のハイデガー読解の方向が決定されたとの非難がしばしばなされているのだが、その際、この38年版『形而
上学とは何か』がいかなる作品であったのかが検討されたことはほとんどなかったように思われる。そこで小
論では、フランスへのハイデガーの移入と翻駅という巨大な問題へ接近するためのひとつの足場を築くために、
今や希襯本となったコルバンの初期の訳業を検討することにしたい。それにしても、なぜ「フランスとハイデ
ガー」「フランスのハイデガー」なのか。
一3一
2.農夫の陥穽
二百年以上前に、天文学者たちは、十分な大きさを持っ恒星がその重力に従って、光を放つよりもむし
ろ吸収し、それゆえ文字どおり不可視のまま巨大な影響力を及}…けということを推測した。今日、それは
フランスにおけるハイデガー哲学の役割である。巨大ではあるが滅多に見ることのできない暗い恒星のよ
うに、ハイデガーは、フランスの哲学的議論の性質と軌道を形づくり決定してきた。マイケル・ロスは、
「フランス哲学へのハイデガーの影響が過大評価されたということはほとんどない」と述べている。(1
頁)
一冊の書物をこう書き起こした人物はドゥケーン大学教授のトム・ロックモアで、書物の題名は『ハイデガ
ーとフランス哲学』(1995年、邦訳、法政大学出版局)、彼は前作『ハイデガー哲学とナチズム』(199
2年、邦訳、北海道大学図書刊行会)でもすでに、「現在ハイデガーだけがフランス哲学の巨匠的な思想家〔思
想のマイスター〕であり、彼の思想はフランス哲学が形成される文脈であり、その範囲を限定する文脈である
と言っても過言ではない」(329頁)と記していたのだが、ロックモア自身強調しているように、この影響
関係は双方向的なものではまったく、しかも、「実存主義」「構造主義1「ポスト構造主義」などと称される多
様な潮流すべてを貫いて持続するものだった。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』がハイデガーなしには成
立しえなかった書物であると言えば、きっと反論が寄せられるだろうが、少なくとも筆者はそう確信している。
ドゥルーズ/ガタリの信奉者たちはハイデガーから彼らへの影響が云々されるのを極度に嫌っているけれど
『も、ドゥンス・スコトゥスと存在の一義性に関しても、図式論から時空の力動的ドラマへの展開に関しても、
更には「カオスモー一一ズ」といった観念に関しても、ハイデガーとの係りが語られてしかるべきだろう。
と同時に、ハイデガーを思想の巨匠と仰ぐフランスは、1945年にはサルトル主宰の『レ・タン・モデル
ヌ』誌で、1987年にはヴィクトール・ファリアスの『ハイデガーとナチズム』の仏訳で、2005年には
エマニュエル・ファーユの『哲学におけるナチズム入門』で、ハイデガーを一度ならず糾弾した国であり、ま
た、レヴィナスやジャンケレヴィッチのようなユダヤ系の哲学者によって、ハイデガーの思想が「不正の哲学」
「ナチ国防省のコミュニケにも似たちんぷんかんぷんな文章」と断じられた国でもあった。
それだけではない。ジャン・ボフレ(1907−1982)という人物がこのすでに複雑な関係のなかに介
入してくる。アンリ四世高校やコンドルセ高校で教鞭を執った人物だが、ハイデガーの『ヒューマニズム書簡』
は、ボブ?が1946年フライブルクに旅立つ友に託した手紙への応答の体裁を取っているのである。ボフレ
はその後毎年のようにフライブルク詣でを続け、1955年にはハイデガーをフランスに招聰することに成功
する。画家のジョルジュ・ブラック、詩人のルネ・シャール、精神分析医のジャック・ラカンたちがハイデガ
ーを迎えた。ハイデガーのスリジー・ラ・サール訪問(1955年8月27日から9月4日)一参加者のな
かにジル・ドゥルーズの名がある一一→ま、例えばジャンケレヴィッチのスリジーからの離反を引き起こしもし
たのだが、ここでも、ジャンケレヴィッチと同じくレジスタンとして闘ったシャールがハイデガーと親密な関
係を結び、その後、南仏のトールに毎年のようにハイデガーを招くことになるのである。セザンヌをこおなく
一4一
愛したハイデガーがサン・ヴィクトール山を眺める写真が残されている。
ボフレは1940年にメルロ=ポンティに出会い、その後1942年にハイデガーの『存在と時間』を読み
始めた。彼はまた、同性の愛人がラカンの患者であったがために、1951年にみずからラカンの患者となり、
分析は1953年5月まで続けられた。フーコーやデリダやロジェ・ラポルトなど鋒々たるメンバーがボフレ
の教えを受けている。しかし、1967年、ボフレの記念論文集が企画されたとき、ボフレが口にしたとされ
る「反ユダヤ的」発言をめぐって「ボフレ事件」が生じ、デリダ、ブランショ、レヴィナスらを捲き込むこと
になる。更に1973年には、ボフレとその「一味」がハイデガーの翻訳や紹介に関してきわめて閉鎖的な姿
勢をとっていることが告発され、76年にハイデガーの翻訳『問い』第四巻が出版されると、ヴァルター・ビ
ーメルを初めとするフランスのハイデガー関係者たちが、ボフレの翻訳の「数多の不正確さと見落とし」を糾
弾する文書が最晩年のハイデガー自身に送られた。
ボフレのカはハイデガーの『存在と時間』のフランス語訳にも及ぼされていた。『存在と時間』は、後述す
るようにその一一部がコルバンによって1938年に翻訳され、1942年にボフレの友人ジョゼフ・ロヴァン
によって私家版として部分訳され、1964年にアルフォンス・ド・ヴェーレンスとロドルフ・ベームによっ
て抄訳され(44章まで)、ジャン・ローヌロワとクロード・ロエルズによってまた抄訳され(第二部)、そし
て1986年には、ボフレの教え子フランソワ・ヴザンによって『存在と時間』のフランス語全訳がガリマー
ル書店からようやく出版される。原著が出てから何と59年後のことである。しかし、その1年前、異例の出
来事が生じていた。
『存在と時間』(1927年)という二〇世紀の書物の新しい全訳が今ここに58年遅れである。この私
家版のうちの一部をあなたにお届けできて私は幸せだ(一部も販売されていないし、販売されてはならな
い)。印刷部数が少ないので、長年抑圧されてきた、そして、ご承知のように次第に大きくなっている要
請をこの版で満足させることはできないので、できるだけ多くの同国人ならびにフランス語使用の仲間た
ちにこの翻訳の存在だけでも報せていただきたい。/これは単に私の名誉の問題ではなく、われわれの国
の名誉の問題でもある、いや、何よりもそれが問題である。私は、『存在と時間』の版権を有しているガ
リマール書店が近日中にこの翻訳を改めて出版してくれるのではないかとの希望を捨ててはいない。どの
ていど、あなたがガリマール書店にそう決意させるのに貢献できるか、それはみなさん自身がお決めにな
ること規哲学を愛する者たちよ、私を助けたまえ。
これはブザン訳の出版1年前に私費で訳を印刷したエティエンヌ・マルティノーの訴えであって、実を言うと、
レヴィナスやジャン=リュック・マリオンなど著名な哲学者たちが、訳語に多くの造語を用い、翻訳不能との
理由でDase血といったドイツ語を訳出せずそのまま使用するブザン訳よりもマルティノー訳のほうを推薦し
ている。そしてブザンに翻訳させることにこだわったのもボフレだったのである。いずれ上記の翻訳の比較検
討を試みたいと考えているが、2,3例を挙げておくと、「隠蔽されてないこと」を意味するUnverbOrgenheit
に、ジャン・ヴァールはd6couvertUre、ジルベール・カーンはnon・latence、ド・ヴェーレンスは
一5一
110n・d㎞nulation、マルティノーはhors・retrai、ヴザンはnon・vetrait、ジャン=フランソワ・クルティーヌ
はd6couvertefeと訳している。「手に対してあること」〔用具閨を意味するZuhanmdennheitについてはど
うだろうか。ヴァルター・ビーメルは6tre・sous・la−main、ド・ヴェーレンスはdisponibi】i艶、マルティノー
はa’port6e・de・1a・main、ヴザンはut曲abjh艶と訳している。
このように、幾重もの意味で、ハイデガーの言語をどのように解読するかが現代のフランス哲学のあり方を
左右してきたし、今もなお左右しているのであって、ロックモアのような論者の問いに対抗しようとしたドミ
ニック・ジャニコー(1937−2002)の仕事一『フランスのハイデガー』(Heldeger en imcE} Albin
MicheL 2001)全二巻(『物語』と『証言』)一も、結局はジャニコー自身の歴史的記述とコスタス・アク
セロスなど1数人の証言によって、ロックモアの仮説を裏付けることになったと言わざるをえない。
ハイデガーに関しては、彼は、半世紀以上ものあいだ、知性と文化の首都パリで、流行哲学者にして思想
上の師という特権的な位置を占めることができた。最近、アメリカ人たちはもっとあけすけに問いを立て
ている。サルトルからラカンに至る最も偉大なフランスの知識人たちのようにきわめて繊細で知的な精神
の持ち主たちがどうして、ひとりのシュヴァーヴェンの農夫、おそらく悪賢く、根っからのナチである農
夫の隠語的罠に易々と引っかかってしまったのか(p.7)。
そして、このようなドラマの始まりに位置していたのがコルバンの翻訳だったのである。
3.1938年版『形而上学とは何力刈
フランスでの精神分析史をめぐる研究などで著名なエリザベート・ルディネスコは伝記『ジャック・ラカ
ン』のなかで、アンリ・コルバンに触れて、ベルリン留学からの帰途彼が「ハイデガーを読んだ」(Lu Heidegger)
と書き記していることを紹介している。何を読んだのかは分からないけれども、その直後にコルバンが訳出し
た「形而上学とは何か」は1929年のハイデガーの講演で、その後、43年と49年に後語と序が付される
ことになる。翻訳には科学哲学史家のアレクサンドル・コイレの序文が付されているが、パリを訪れたフッサ
ールは、ヤコブ・べ一メに関するコイレの博士論文の審査に立会っており、フッサールの『デカルト的省察』
の仏訳をレヴィナスたちに斡旋したのもコイレであった。ただ、掲載雑誌について一言しておくと、『ビフユ
ール』はシュルレアリスム系の文学雑誌で、実は『新フランス評論』など権威ある雑誌が掲載を拒んだがため
に、コルバンの訳は同誌に発表されたのである。コイレの序文についても、翻訳がサルトルの『嘔吐』(19
38年)に与えたかもしれない影響についても、筆者はすでに論じたことがあるので、関心のある方はそちら
を参照していただきたい(『レヴィナス』ちくま学芸文庫、『サルトル『むかつき』ニートという冒険』みすず
書房、参照)。
では、この翻訳を核として編まれた1938年版『形而上学とは何か』はどのような内容の訳書だったのだ
ろうか。まずその目次を紹介しておこう。
著者序文(Prbl()gue de 1’auteur)
一6一
訳者前書き(Avant・propos du traducbeur)
形而上学とは何力くQu’est’ce que la m6taphysique?Was iSt MetaphysilO
土台ないし「根拠」の本質=存在をなすもの(Ce qui」…疵r6tre・essenoe d’un fondement ou《rajson》,Vom
Wesen des Gmndes)
『存在と時間』にっいての書物からの抜粋(ExtraitS du livTe sur lく『6tre et le bemps》,Sein und Zeit)
第二部:人間的現実と時間性(R6alif6 humaine et ’lbmporalife)、46−53節
第五章:時間性と歴史性(rlbmpOralife et HiStOriCite)、72−76節
『カントと形而上学の問題』にっいての書物からの抜粋(Ext瓢ts du hvre sur《Kant et le problbme de
la m6taphysique》,Kant und das Problem der Metaphysik)
第四章:反復における形而上学の基礎付けの作業(L’oeuvre de fOndation de la m6taphySique dans une
r6P6tition)
C部:基礎存在論としての人間的現実の形而上学(La M6taphysique de la r6ah色humaine comme
OntOlogie fondamentale)、42−45節
ヘルダーリンと詩の本質(H61derlin et 1’essenoe de la po6Sie, H61derln und Wesen der Dichtung)
何よりもまず注目すべきは、ハイデガー自身の序文が付されていることである。のみならず、「訳者前書き」
のなかにもハイデガーからの書簡が引用されている。だからといって、ハイデガー自身がコルバンのフランス
語訳に目を通したとは言えないのだが、以下に訳出するように、「著者序文」が「翻訳」そのものを問題にし
ていること、これはぜひとも銘記されるべき事実であろう。
この翻訳を通じて伝達されるために選ばれた諸考察はいずれも、〈存在〉の本質と真理に関する根本的問
いにもっぱら捧げられている。(一)/翻訳によって、思考の作業は別の言語の精神のなかに移し変えられ、
不可避的変容(transfOrmation)を蒙る。けれども、この変容は豊穣なものになりうる。なぜなら、この変
容は問いの根本的構えを新たな光のなかで現れさせるから瀧それは自分自身により洞察的になり、問い
の限界をよりはっきりと見分ける機会を与えてくれる。/だからこそ、ひとつの翻訳は他の言語の世界と
の疎通を単に容易にするだけではなく、それ自体が共同で提起された問いの開発なのである。それはより
高度な意味での相互理解に役立っ。そして、この道を歩む一歩一歩が諸民族(beuples)にとっての祝福な
のである。/本書の場合に翻駅者が乗り越えねばならなかった数々の困難〈哲学〉の大義のために彼が
なした自己犠牲に満ちた作業、おそらくその真価が分かるのはわずかな者たちだけだろう。しかし、各々
の読者が知らねばならないのは、著者がここで翻訳者に心からの親愛なる感謝の念を表明したく思ってい
ること芯M.旺 フライブルク=イン=ブライスガウ、1937年3月10日
単に社交辞令で翻訳者の労をねぎらうのでも、「翻訳」による歪曲への危惧を表明するのでもなく、ハイデガ
ーがむしろ、「翻訳」による「不可避的変容」を「思考」にとって本質的な事態と捉え、それを創造的なもの
とさえみなしているのはきわめて印象的である。民族関係にまで話が及んでいるが、次にコルバンの「訳者前
一7一
書き」の一部を紹介したうえで、この点に考察を加えてみたい。
ひとっの言語から他の言語へのこの危険な移行(bassage)のなかで、翻訳者は姿を消し、ひとつの思考の
忠実な奉仕者価inist測e)であることというただひとっの課題しか有してはならない。/しかし、一歩歩むたび
に裏切り(trahison)の危険に脅かされるような道に踏み込んだこの奉仕者は、移行を遂行するために彼を導い
てくれた語彙の対応にしばし注意を喚起することも無駄ではないと信じている。この移行については、いずれ
読者が最終的に、それが元の思考を支障なく解釈できているかどうかを判断することになるだろう。/まずは、
ハイデガーの分析論の根本的概念を支えているDaseinという語彙、しばしばこの語彙はそのままドイツ語で
引用される。あるいは、しばしばそれは《eXistenoe》と訳されている。これは明らかにこの語の通常の意味
である。けれども、この等価性で満足するなら、その結果、実存的(existent ieDという観念と実存論的
(eXistentia])という観念とのこのうえもなく欺隔的な混同へと導かれてしまう。この混同がハイデガーに向け
られた数々の批判の大部分のまさに根源にあるということ、これは「本質」(essence)と「実存」(eXistenoe)
との古来の論争を再燃させることではまったくない。Dasdnという語彙によって指し示される実存者
(eXistant)は、他の数ある実存者のなかのひとつの実存者として、その存在a’6tre)を分析されるべきものでは
ない。かかる実存者の存在は人間の査在(1苔舵de lhomme)である。それは人間のなかの人間的一現実
(r6alife’hUinaine)である。そこでわれわれはフランス語でこの複合語に頼ることにするが、それもDa・sein
という合成を踏まえてのことである(Pp.12・13)。
続いてコルバンに他の鍵語についてもその対応を示しているので、そのなかからいくっかを呈示しておこう。
EkSiStenz→ex’siStanoe(実存)Ent’wurf→pro−jet(投企)Seink6nnen→Pouvoir6tre(存在可能)
Vorhandenhait→1a f6a】it6・des・choses subsustantes(手前存在、客体性)Zuhandenhait→La
rdalit6・ustensile(手に対してあること、用具性)Entsdhlossenheit→d6cision・r6solue(覚悟性)
Eraschlossenheit→虎aht6婚v616e(開示性)HistOrie→scienoe histOrique(歴史学)Gesdhichte→
fealito’histDrique(歴史)
ハイデガーの序文と同様、コルバンのこの前書きも多くのことをわれわれに教えてくれる。かつて筆者は1
930年代のフランスでは、ハイデガーのいう「存在的」(bntisdh,)と「存在論的」(ontOlogique)の区別、「実
存的」と「実存論的」の鴎1」がいかに理解されなかったかを検証したことがあるが(前掲書『レヴィナス』参
照)、コルバンにおける訳語の選択を促したのは、これらの区別に対する当時としては例外的な理解だったの
である。また、「人間的一現実」という訳語について、ハイデガーが「人間」ならびに「人間学」の概念を解
体しようとしているときに、その意図をまったく無視しているとの批判がしばしばつきつけられているが、「人
間の整、人間のなかの人間的一現実」という微妙な言い方をコルバンがしていること、この点も看過しては
ならないだろう。Da・seinが6tre・ぬ,さtxe・leぬといった訳語を経て、結局、先述したように、翻訳不能として
原語がそのまま用いられるに至ったことを考えるなら、むしろこの「忠誠」こそがハイデガーへの「裏切り」
なのではないかと思えてくる。
一8一
ハイデガーはコルバンに宛てて書簡を出した1937年、短くはあるがきわめて重要な論考を書いている。
現在は全集の第13巻隠考の経験から』(4α5ぬr」㈱㎜8伽1%蜻㎝∂に収められている。「対話への道」
(Wege zur AusSprache)と題された論考で、その末尾でハイデガーは、隣り合う二つの民族(V61ker>一一例え
ばドイツとフランスーのあいだの「対話」の可能性を追求している。「対話」は「対決=対峙」
(AuseinandersetZunglとも言い換えられているが、無人地帯のようなある「空間」(Ra㎜)を介してのみそれ
は可能で、かかる「対話」は「相互に聴き合うことへの忍耐強い意志と自己決定への控え目な勇気」(der lange
Wdie zum AUfeinanderh6ren und der verhaltene Mut zur eigenen Bestimmun9)(GA13, S21)を必要として
いるというのだ。デカルト的「高適」(g6n6rosite)が、スピノザ的「自己保存」がそうであったように、盲目
的禾1地主義に陥ることなく、自己の限界を探るという困難な営為を通じて自己ならざるものとの係りを模索す
ること。分離しながらのこの接続を、ハイデガーはヘラクレイトスにならって「ポレモス」(戦争》と名づけ、
それを人間が行う戦争と鵬llしたのだった。
このような思想が「翻訳」論としてハイデガーからコルバンに書き送られたわけである。1937年の時点
で、とりわけ隣国フランスとの「対話」を通じて、「西洋的存在の根本システムの刷新」(eine Emeuemng des
Grun(igefUges abend㎞disChen Seins)を図ろうとするMデガーの姿がそこ1こあるのだが、それこそが彼に
とってはナチズムという運動の偉大さと真理であり、ニーチェのいう「ヨーロッパ」であるとするなら、われ
われはナチズムを、ヨーロッパをどう考えればよいのか。一冊のもはやほとんど顧みられることもない訳書か
らわれわれはこのようなアポリアへと再び導かれたことになる。
(明治大学文学部専任教授,仏文学専攻)
注
本論執筆のためのフランス国立図書館での調査に際しては、学術振興会科学研究補助金の助成を受けている。
なお、本論は、文化継承学での発表に加えて、京都大学綜合人間学部での集中講義(2007年9月)にもも
とついている。
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