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自己と自己を超えたもの(2010.10.09)

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自己と自己を超えたもの(2010.10.09)
自己と自己を超えたもの
2010 年 10 月 9 日
先日は品川先生が丁重な関西哲学会大会の紹介と勧誘をしていただいたのですが、その
発表準備に四苦八苦しています。出来つつある原稿をそのまま読み上げたら 60 分を軽く越
してしまい、削除するのに大変苦労しています。もう頭が爆発してしまいそうで、頭脳明
晰でもなく、クリアーな論理展開ができるわけでもなく、頭の回転がにぶく、同じことを
ぐるぐる堂々巡りしながら不器用に考える性質(たち)の人間で、ちょうど檻の中の豹の
ように、書斎、いや外の狭い廊下を行ったり来たり(書斎は足の踏み場もないほど、床は
散らかっています)
。
そんな折、或る本を読んでいて、次のような文章が目にはいってきました。西田の「自
覚」の問題です。大略、次のようなことが書かれていました。
西田は当初、自覚を「自己が自己において自己を見ること」として捉え、自己の底に絶
対の無を見るところに真の自己を見出していた。しかし晩年、彼の自覚の把握はニュアン
スを変えてくる。
「自己が自己において絶対の他を見ること」が自覚とされるのである。つ
まり、自己が自己の底において自己を超えたものによって支えられていることを見出すと
ころに、真の自己ないし自己同一性を捉えているのである。西田が自覚を「自己が自己に
おいて自己を見ること」としていたとき、自己は無限の深淵として捉えられていた。絶対
無の深淵を自己の底に見るところに西田は自覚を捉えていた。しかし、西田はこの絶対無
ともいうべきものの超越性により深く思いを致すようになる。自己の底の無限の深淵は、
さらにそこにおいて「汝の呼び声」が聞かれるところでもある。比重は自己から他者へと
移し換えられる。そのことは、自己が自己の底において把握しがたきもの、自己による把
握を無限に超えるもの、つまり「汝」というものに触れ、それが西田において次第に大き
な意味をもってきたことを意味する。そして、そのことを西田は、自己の底において汝の
呼び声を聞くとも述べ、その汝の呼び声を西田はまた絶対の他としても捉えるのである。
ところで重要なことは、西田がこの絶対の他、すなわち汝というものを、私をして私た
らしめているものとしていることである。
「それは絶対に他なると共に私をして私たらしめ
る意味を有ったものでなければならぬ、即ちそれは汝というものでなければならぬ。
」
(
『西
田幾多郎全集』第6巻、414-415 ページ)
そのような「超越者」ないし「他者」は自己を超えているといっても、それは自己の外
に自己を超えているのではなく、自己において、自己の底に自己を超えているのでなけれ
ばならぬ。そのような、自己に於て自己を超えている有り様を、西田は「内在的超越」と
呼んでいる。西田は、自己がその根底において、そのような絶対の他に呼びかけられるこ
とによって初めて、真の自己になるとしている。
(長谷正當『浄土とは何か―親鸞の思索と
土における超越―』法蔵館、2010 年、200~201 頁)
以上ですが、私が関大の学部生のころ、一般教養科目の「倫理学」を受講していました。
担当者の N 先生のご専門はニーチェだったのですが、授業中いつもやたらと意味もなくへ
らへらと笑うこの先生が、「なんでニーチェやねん?」と思いながら、出席していました。
あるとき、ニヒリズムとはまったく無縁のこの先生は、またへらへら笑いながら、
「ハイデ
ッガーが『存在と時間』のなかで「良心の呼び声」というつまらんことを言っているが、
〈良
心〉が声をだして呼びかけることがあるのですか、実際、良心の呼び声をじかに聞いた人
があれば、手をあげてください。
」と申されたのです。次ぎの時間から私はこの授業をまっ
たく放棄してしまいました。
品川先生が触れられていた田中美知太郎氏はハイデガー嫌いで有名でしたが、ハイデガ
ーの『存在と時間』のなかで強調する「気配り、配慮」ということに触れ、
「まるでこれは
猫のような哲学ですね、猫はしょっちゅうあたりに気をくばってキョロキョロしています
からねえ」と仰っていました。田中氏は古代ギリシア哲学の権威ではありましたが、自ら
の哲学的談義はまったく常識の域を越えず、凡庸そのもので、心の琴線に触れることは皆
無でした。しかし、藤澤令夫氏は違いました。格別のセンスをもっておられたように思い
ます。藤澤氏のプラトン『パイドロス』の訳注の見事さは、まさに芸術作品のようでした。
訳文も文学的香気に溢れ、哲学の概説書も、充分感銘深いものでした。
関大にはその頃、マルクス・アウレリウスを訳された鈴木照雄先生が専任教授でおられ
ました。この訳文もすばらしいものでしたが、講義内容が非常にわかりやすく感銘を覚え、
先生の研究室を訪ねて「プラトンの哲学の魅力はどこにありますか。
」と不躾に聞いてみま
した。このロマンティストの先生は、こう答えてくださいました。「うーん、そうだなあ、
プラトンのテキストを読んでいると、まるで澄みわたった秋の空を見ながら、モーツアル
トの音楽を聴いているような感覚を時々あじわうことがあるね。
」いっぺんにこの先生が好
きになりました。
私は、授業が終わって、ときどき、関大駅前のボーリング場一階にある BOOK OFF へ
立ち寄るのが楽しみです。最近は、書籍よりも中古 CD のクラシックを探しに行きます。
数は少ないけれど、ときどき掘り出し物があります。先日は、以前、皆さんにご紹介した
ことのある、ヴァレリー・アファナシエフのブラームスのピアノ作品集を見つけました。
帰宅して聴いたところ、これがまたすばらしい演奏で、感動し、改めてブラームスの後期
ピアノ集も HMV で注文して購入しました。これはもう筆舌に尽しがたいほど深みをもっ
た演奏と解釈でした。ブラームスといえば、私はこれまでドイツロマン派の特に交響曲し
か聴かず、彼の室内楽は、ベートーヴェンやモーツァルト、シューベルト、バルトーク、
そしてショスタコーヴィッチ、ラヴェル、フォーレほどの魅力はなく、面白みが無くて敬
遠して聴かなかったのですが、今回、あらたに晩年のブラームスの別の魅力に取り付かれ
てしまいました。アシャナシエフの『ブラームス後期ピアノ作品集』は極端に遅いテンポ
と凄まじいまでの集中力で、聴く者を魅了させてしまうのですが、彼はピアノを通じて、
深い哲学的思索を展開しています。ライナー・ノーツに浅田彰が「零度のブラームス」と
いうタイトルで見事な解説を書いており、そのあと、アシャナシエフ自身が短いエセーを
執筆しています。少し紹介しましょう。
〈ブラームス晩年の作品〉
ブラームスの音楽は日本庭園のように季節のプリズムを通して味わわれるものである。
晩年の作品は秋と冬の気配にあふれているように思える。ブラームスはショーペンハウア
ーと多くを共有する。ショーペンハウアーの哲学は、気まぐれな意志を抑制することによ
って人間存在の悲劇に調和のとれた様式を与えるというものである。
ブラームス晩年の憂鬱な情調―それはしばしばクラリネットの「秋」の音色によって呼
び起こされる―はヴェルレーヌを思いださせる。
運命を受け入れるという同じような例は、レオナルド・ダ・ヴィンチの色づかい、彼の
描く風景画や聖母の微笑みといったものの中にも見ることができる。
(レオナルドは人類の
歴史において他との比較を超えた存在である。この天才に比較しうるのは宇宙のみであろ
う。
)ラ・トゥールやレンブラントの絵では、次第に闇へと深まってゆく黄昏の「音楽的な」
柔らかさに出会うことがある。しかし、日本人のいう「もののあはれ―消えゆく時の流れ
に気づいたときに覚える悲しみ」を描くことにおいて音楽に並ぶのは詩をおいてあるまい。
ヴェルレーヌの詩 Le grand sommeil noir descend sur ma vie (闇の深い眠りがわたし
の生に降りてくる)という句ではじまり、ありふれてはいるが多くの意味を秘めた言
葉”Silence”に終わる詩を思い出そう。
ブラームス晩年の作品は、音よりもむしろ静寂へとつながってゆく。
以上ですが、これを読むと、丁度、心敬の「冷え寂びた」美意識を彷彿させます。
ウィーンに半年滞在したとき、Marienhilfe 通りのすぐ近くにあったハイドンの家を訪ね、
そこに「ブラームスの部屋」があって、そこには彼が実際に使っていた机やピアノなどが
ありましたが、庭のベンチに腰を下ろしているブラームス自身のセピア色の肖像写真があ
りました。それが懐かしく思い出されます。
あっ、こんなことをしてはおれません。発表原稿をしあげなくては・・・。ああ、つらい!
では失礼します。
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