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精神分析についての 一 考察

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精神分析についての 一 考察
鈴
それはE・フ。サールの現象学、M・ハイデガーの基礎的存在論
い。ハイデガーは﹁現存在の存在﹂を﹁関心Sorge
はない。しかし、それが相互主観的な世界であることは間違いな
存範疇であり、そこにいう﹁世界﹂は対象化可能な客観的世界で
木
文
孝
として捉え、
(哲学教室)
下、フロイトと記す場合は、すべてジグムントーアロイトを指す)の
精神分析理論におけるようにエス、自我、超自我の統合体として観
人間学的精神病理学ーそれを我々はL・ビンスワンガーに
るのではなく、まさしく人間として観る観方を指意している。
倣って現象学的人間学と呼ぶこともできようーによれば、自
(﹃存在と時間﹄における現存在分析論)の影響を受けているL・ビ
その﹁関心﹂を﹁(世界の内で出会う存在者)の許での存在として自
-
精神分析についての一考察
一、人間学的精神病理学
﹁人間とは何であるか?﹂これを主題とする学問を我々は人間
ントであった。周知のように、最晩年のシェーアーは﹃哲学的人間
体的に在るのはあくまで一人の︽人間であって、それをエス、自
学と呼んでいる。この問いを明確に問うた最初の人は、哲学者カ
学﹄という標題の大著の完成を目指していた。しかし、五?三歳の
我、超自我といったいわゆる﹁心的装置﹂に分解して捉えうるとす
のように、ハイデガーは﹃存在と時間﹄において﹁現存在﹂(=人間
る精神分析理論そのものが根底から覆されなければならない。周知
の輪郭-といっても、かなり詳しいものではあるがiを、我々
は彼の最後の著作﹃宇宙における人間の地位﹄二九二七年)を通し
若さで突然不帰の客となってしまった彼の哲学的人間学いの構想
てしか知ることができない。人間学の具体的類型としては、
存在)を﹁世界目内 存在﹂と規定している。﹁現存在﹂は﹁世界
内 存在﹂という在り方をしている、というのである。その場合の
哲学的人間学の他に、自然科学的人間学、現象学的人間
学︾等々が挙げられるが、ここで精神分析を﹁人間学的﹂に考
﹁世界 内﹂-したがって世界の﹁世界性﹂-、﹁世界目内目存在﹂
ンスワンガーや、M・ハイデガーの現存在分析論の影響を受けてい
●、
●﹁
●内目存在参
という在り方の﹁存在者﹂
そのも●
の一
﹂一
は一
、・
い一
すれも実
察するに当たり、人間学的精神病理学に言及しておくことが必
るメダルトーボスの精神医学の立場を指意する用語である。その場
らに先立って既に(世界)内に畝長現存在の在り方と規定してい
要である。
合の﹁人間学的﹂という言葉は、人間を、例えばS・フロイト(以
六九
-144
1985
February,
137,
pp.144
34 (人文科学編),
愛知教育大学研究報告,
J
七〇
おける﹁世界﹂と位相を異にするものであることは確かである。L・
ビンスワンガーの現存在分析は、ある意味で彼の偉大な創案でも
あった。ただ、ハイデガーの基礎的存在論における、﹁世界目内
析yに限定して言えば、﹁世界=内=存在﹂というハイデガーの人
年)等における精神疾患にっいての構造主義的な観方への道を開い
ようとするミシェルーフーコーの﹃精神疾患と心理学﹄(一九五四
精神病理学が精神疾患を社会構造による人間の疎外形態として捉え
り、精神分裂病を世界構造が変転して完全に﹁各人の世界﹂(ヘラ
患者の﹁世界﹂が変転(変性化)している状態として捉えた。つま
界﹂からの偏りの程度が大きい状態として捉え、さらに、精神病を
していく、というのである。L・ビンスワンガーの﹁精神医学的現
八場)の内で患者は医師に対して自分の鎖された世界を徐々に開放
考えの影響下に生れたものである。その﹁共人間的関係﹂という
係のそのような捉え方は、ハイデガーの人間の﹁共同存在﹂という
-
)に分け、その﹁顧慮﹂を﹁尽力的
Fursorge﹂と﹁垂範的顧慮vorausspringende
る。彼は﹁関心﹂を事物的ないし道具的な存在者への﹁配慮Besorgen
と人間への(顧慮Fursorge
顧慮einspringende
存在﹂という﹁現存在﹂の規定が、精神病を﹁脳病﹂として捉える
精神医学における誤った先人観を斥けて、神経症や精神病を患者の
Fiirsorgeとに分ける。実存範疇としての﹁世界=内﹂の﹁世界﹂
がそのような﹁関心﹂の向けられる﹁世界﹂である限り、それは相
間存在の把握を基礎にして構築されたものであるが、その場合、彼
たということも、可能性としては十分に想定されうる。
ンガーの現存在分析への道を開いたことは確かであるし、人間学的
世界構造の偏り、変転(変換)として捉えようとするL・ビンスワ
はハイデガーの﹁世界 内﹂という実存範疇に留意せす、﹁世界﹂
L・ビンスワンガーの人間学的精神病理学は、彼の八現存在分
互主観的世界であるはすである。
を、現存在の﹁関心﹂の向けられる相互主観的世界としてではなく、
L・ビンスワンガーは精神療法における医師と患者との﹁共人間
リッヒ
●・一
的な関係﹂-人間と人間との出会いの関係-を重視している。
それぞれの人間の主観的世界として捉えている。その主観的世界
を、彼は、本来的には﹁ただ一つの共通の世界﹂(ヘラクレイトス)
彼によれば、正統精神分析における分析医と患者との治療関係も、
クレイトス)の中に閉じこもってしまっている状態として捉え、ま
在分析﹂(M・ボスの呼称)はM・ボスにフロイトの精神分析とハイ
本質的には両者の﹁共人間的関係﹂以外の何ものでもない。治療関
であるべきだ、と考えた。その場合にはその﹁世界﹂は相互主観的
た、噪うつ病を世界構造が変転して﹁世界﹂が変性化された形で拡
デガーの現存在分析論とを直接に結び付けて理解するよう促した。
世界ということになるが、彼は神経症をその﹁ただ一つの共通の世
大と収縮を繰り返す状態として捉えた。
そのようにして、M・ボスの名著﹃精神分析と現存在分析論﹄二
九五七年)に集約されている、精神分析の現存在分析論的基礎づけ
L・ビンスワンガーの精神病理学にはフッサールの現象学からの
大きな影響もあるので、彼のハイデガー理解の是非について安易に
がなされた。
神分析の場において分析医と患者との間に真の﹁共人間的関
しかし、L・ビンスワンガーやM・ボスが言うように、例えば精
論することはできないが、彼がその構造把握に努めた神経症や精神
病の患者の﹁世界﹂︱彼の本領は精神病患者の世界構造の人間学
的了解にあったI1がハイデガーの﹁世界=内﹂という実存範疇に
143
-
孝
文
木
鈴
神経症が﹁エスの不安﹂ないし﹁超自我の不安﹂に対する自我の
感情転移は乳幼児期の対人的感情の分析医に向けての反復であり、
人間の成熟の現れと観ること自体は確かに優れた洞察ではあるが、
情転移や抵抗を、分析医との﹁共人間的関係﹂の(場︾で生起する
を相互主観的な世界に開放していくことができるのであろうか。感
係﹂が成立すれば、それだけで、神経症の患者は自分の偏った世界
あった。
的抑圧という資本主義社会に起因する現象に注視したからで
党し、一九三三年、同党から除名されたI・のも、リビドーの社会
方向を志向し続けたI一九二八年、彼はオーストリー共産党に入
が、本質的には正統精神分析の立場を継承しつつもマルクス主義の
に性格分析という新しい技法を創案したヴィルヘルム・ライヒ
ロイディズム的に、また、構造主義的に解明されてきた。精神分析
-
(防衛機制であり、抵抗はその︿防衛機制が解体されることに
M・ボス﹃精神分析と現存在分析論﹄における卓見の一つに、ハ
ニ、精神分析の意図
対しての抵抗であるという、フロイトの感情転移や抵抗についての
理解は、彼らの精神分析についての現存在分析論的理解によって本
イデガーが﹃存在と時間﹄においてさり気なく述べている﹁尽力的
当に否定されてしまうのであろうか。
慮分別﹂である、というのである。﹁分析医の思慮分別﹂とは、決
顧慮﹂と﹁垂範的顧慮﹂との相違をフロイトの説く﹁分析医の思慮
現象学的に言えば、﹁人間とは何であるか?﹂の問いの探究に優
して分析医の中立的治療態度だけを指意するのではない。分析医の
先して、人間の世界構造iしたがって精神疾患の患者の世界構造
病理学yは却って﹁人間とは何であるか?﹂という(哲学的人間
患者に対する治療態度は﹁垂範的顧慮﹂の態度でなくてはならない
慮﹂ではなくて﹁垂範的顧慮﹂こそがアロイトのいう﹁分析医の思
学︾の問いを無化してしまうのではないであろうか。私は人間学
のである。しかし、﹁分析医の思慮分別﹂が﹁尽力的顧慮﹂という
分別﹂と結び付けて理解したということがある。つまり、﹁尽力的顧
的精神病理学に評価を加えようとしているのではない。私か問う
態度を排除する点にその本質を有するものである限り、それを中立
1が﹁現象学的﹂に把握されなくてはならない。少なくともL・
ているのは﹁人間とは何であるか?﹂という問いである。この問い
ビンスワンガーはそのように考えた。極言すれば、人間学的精神
の答えを探求するためには、我々はフロイトに立ち返るべきではな
医の思慮分別﹂ということを説いたということは、人間は誰しも病
的治療態度と解することは一向に差し支えない。フロイトが﹁分析
私の見解によれば、アンナーフロイトやハインツーハルトマンの
いであろうか。
いうことを彼が確信していたということでもある。エス、自我、超
的な抑圧が解除されればリビドーを昇華させる能力を具えていると
自我という﹁心的装置﹂を仮定して人間の心理構造を捉えようるフ
また、八ネオーフロイディズムゾの功績は、本質
れたもである。
ロイトの人間観が﹁自然人﹂という人間観の域を超えないにしても
八自我心理諾はS・フロイトの精神分析理論から内発的に展開さ
る。リビドーの社会的抑圧、社会構造そのものが規定する精神疾患
(L・ビンスワンガー)、右のように考える限り、フロイトには言わ
的には社会理論として評価されるべきものである、と私は思ってい
の在り方︱それらは社会科学や文化人類学と連関して、ネオーフ
七一
142
-
精神分析についての一考察
症患者が責任を負って行動すべき各人の人格の領域へは分析医は立
なくとも責任を負う能力を具えた人間である限り、それぞれの神経
ば人間への本来的な信頼があった、と断言することができよう。少
状態から解放されると、人間は徐々に﹁神経症的性格﹂を脱してい
ネルギー 経済論的に促進される。リビドーロエネルギーのうっ積
視している。性格抵抗を解除することによってリビドーの発達はエ
上にリビドー発達の生理学的メカニズムー生理学的固着-に注
のである。精神分析療法は自由連想とそれについての解釈の投
行動すべきことを体得することによって、昇華への通路は開かれる
るからである。患者が精神分析の場を離れたとき自らの責任で
を禁制することによって患者に昇華への通路を開くことが可能とな
クティングーアウトを禁制しなくてはならない、というのである。
規則﹂と呼ばれる。神経症患者は精神分析の過程において一切のア
には一つのパラドキシカルな規則が定立されている。それは﹁禁欲
として受容することではないであろうか。周知のように、精神分析
真の人間理解︱したがって自己理解-とは、エスの自我親和
・一
一 ●●●一番
化を促進すること、極言すれば自我がエス的なものをエス的なもの
七二
・●●一}一
-
ち入ってはならないのである。それは、一つには、価値観︾、
くようになる。
与によって神経症患者の自我をエス及び超自我に対して強化・独立
それは一見、例えば、リビドー経済を重視するw・ライヒの性格分
-
八人生観︾、八世界観︾はしょせん人間には確定不可能であるから
させる作業であるが、長い治療期間を要する。精神分析の確立自体
析理論とは極端に矛盾するようにも見える。しかし、自我をエスに
であるが、また、一つには、分析医が患者に対して﹁尽力的顧慮﹂
が、﹁カタルシス法﹂から﹁自由連想法﹂への治療法の転換であっ
を禁制することが必要である、と正統精神分析においては考えられ
対して強化・独立させるためにはどうしてもアクティングーアウト
力へのフロイトの絶対的信頼を基盤にして可能になったのである。
ている。というのも、その場合には、アクティング・アウトを自覚
たというにとどまらす、神経症患者の著悩に耐える能力、昇華の能
S・フェレンツィは﹁分析医の思慮分別﹂というフロイトの治療
的に禁制すること自体が自我の作用だからである。(それは決して
超自我の作用ではないのである。)エスに対する自我の強化・独立
態度を斥けて、ハイデガーの用語で言えば﹁尽力的顧慮﹂をもって
神経症患者の治療に携った。フロイトとは逆の態度でではあるが、
があってこそ、比喩的に言えば、自我はエスを客観視することがで
三、転移・抵抗
し、私の知る限り、w・ライヒは﹁禁欲規則﹂に意味を認めていない。
エス的なものとして受容することが可能になるのである。︱ただ
て本質的には自我親和的なものであることを知り、エス的なものを
きるようになるのであり、エスは決して自我を脅かすものではなく
それはそれでフロイトと同じく神経症患者を人間として待遇するこ
(性格分析yの創始者w・ライヒは精神分析理論に﹁性格抵抗﹂
とを志向した治療態度であった。
という概念を導人した。彼によれば、精神分析療法は自由連想にお
ける連想内容についての解釈の投与よりも、例えばその連想態度に
ならない、という(﹃性格分析﹄二九三三年))。性格抵抗もリビ
精神分析の場において感情転移や抵抗がどのように現れるか
現れる性格抵抗についての性格分析を優先させて進められなくては
ドー発達の固着に起因するものであるが、w・ライヒはフロイト以
141
孝
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ば、感情転移や抵抗はそれだけ顕な形で現れるであろう。(正統精
ならない現象である。w・ライヒのいう﹁性格の鎧﹂が解体すれ
抗は、それぞれの神経症患者の複雑な内的生活史を反映した、容易
には、w・ライヒのいう性格抵抗が大きく関与する。感情転移や抵
れであり、感情転移は乳幼児期の未熟な感情の現れであるがゆえ
別﹂に根差したものである。抵抗は神経症的防衛機制の具体的な現
うしても禁制しなくてはならないという、広義の﹁分析医の思慮分
あり、精神分析的状況を反映したものであり、したがってそれはど
ティングーアウトが感情転移や抵抗と表裏一体を成している現象で
も、被分析者に人生の破綻を来すことを防ぐための﹁分析医の思慮
いう﹁禁欲規則﹂は、決して道徳的規則ではない。それはあくまで
-
神分析の立場から言えば、分析過程の進展によって性格分析で
吸収される。(ここにいう﹁転移性神経症﹂とは、フロイトが﹁ナ
分別﹂に基づく、そして前節で述べたような治療効果を目指す八精
のなのである。アクティングーアウトを禁制しなくてはならないと
に、精神分析の過程を通してそれらは克服されなくてはならないも
ルチシズム神経症﹂に対して概念化した﹁転移性神経性﹂のことで
神分析の規則なのである。
場で現れる感情転移や抵抗は、最終的には、﹁転移性神経症﹂に
いう﹁性格の鎧﹂も解体する、ということになる。)精神分析の
はない。フロイトは精神分析によって感情転移を引き起こすことの
う点は、彼がその後半部で﹁精神と生﹂との交互関係について説く
私かシェーラーの﹃宇宙における人間の地位﹄を読んで疑問に思
できる神経症を﹁転移性神経症﹂と呼び、そういう意味での﹁転移
性神経症﹂のみが精神分析療法の対象となりうる、と考えた。)転
移操作、抵抗操作は分析医にとって最も困難な課題となる。しかし、
可能になることを強調するようになった、と述べている点てある。
くだりで、晩年になってフロイトはリビドーの抑圧によって昇華が
るし、それは分析医との﹁共人間的関係﹂(L・ビンスワンガー)の
﹁転移性神経症﹂は徹底操作のためのあらゆる材料を提供してくれ
確かにリビドーの抑圧は人間に固有の現象である。しかし、リビ
ドーを抑圧することによって昇華-したがって精神の生気づけI
場に転移された神経症であるがゆえに、治療操作の容易な神経
-が可能になるということを、本当にフロイトは強調しているであ
症なのである。
ろうか。リビドーの社会的抑圧構造についての指摘において、現代
会である、という。フロイト自身にはそのような社会科学的視座は
殊に陰性の感情転移や様々な型において現れる抵抗は、分析医に
欠けていた。しかし、リビドーの抑圧が神経症の病因であり、した
神経症のメカニズムの背後にひそむ実存的深刻さを実感させる。た
場合には、陽性の感情転移を引き起こすように仕向けることも必要
がって抑圧は解除されなくてはならないということを強調した人
の精神分析はH・マルクーゼらの社会理論と緊密な相補的関係のう
であるが、恐らくは陰性の感情転移の中にこそ患者の内的生活史に
は、外ならぬフロイトではなかったであろうか。快楽原理は抑
ちにある。H・マルクーゼによれば、現代社会は﹁過剰抑圧﹂の社
おいて繰り返された心理的危機が反復投映されるであろうことに分
い。例えば患者が陰性転移や抵抗によって精神分析を放棄しそうな
析医は留意していなくてはならない。﹁禁欲規則﹂の意味も、前節
圧が解除されれば現実原理に転換する。リビドーの抑圧の完全
だし、陰性転移を陽性転移に転換させればよい、というわけではな
で述べたような治療上の効果のうちにあるだけではなくて、アク
七三
140
-
精神分析についての一考察
態が存立するためには、道徳意識が不可欠である。
せ0
2
よ。﹂-﹁格率﹂とは、﹁意志の主観的原理﹂(IV
の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為
0)
カ
。
ン
﹁
ト
汝
の
の
﹁
意
純
志
粋実践理性の基本法則﹂は言う(V
ルクーゼに先立つ)らによって精神分析と社会科学理論との関係づ
そのH‘マルクーゼやE・フロム (活躍の年代で言えば、H・マ
な解除こそがリビドーの昇華ということではないであろうか。
けは今世紀中葉以降、大きな進展を遂げている。しかし、現在にお
であるが、格率の具体例としては、カントが﹁定言命法﹂ないし
七四
注}のこと
の形而上学の基礎づけ﹄IV421ff.。429f.、﹃実践理性批判﹄V
﹁純粋実践理性の基本法則﹂の適用例として挙げているもの(﹃人倫
いても、精神分析を神経生理学に結び付ける試みはなされていな
5
'・)を挙げることができる。特に完全義務の具体例においては﹁定
い。神経生理学の土台の上に精神分析の生理学的基礎づけを行うこ
とこそが、フロイトの脳裏にあった精神分析学の理想的なイメージ
の﹁世界 内 存在﹂という人間存在の規定に倣っていうならば、
神分析の場でパーソナリティの再構成がなされる。ハイデガー
子関係という場の内でパーソナリティを築き上げ、あるいは精
を配与する﹂(キケロ)というふうに定式化される正義の概念は、ア
する﹁対他的﹂徳(アリストテレス)であるが、﹁各人に彼のもの
ように、最も枢要な徳と考える。正義は、倫理学と法哲学とを媒介
私は徳目としては正義を、プラトンの﹃国家﹄におけるのと同じ
カント倫理学にも抑圧的な性格が具っている。
る。-このような命法は、超自我的命令以外の何ものでもない。
を禁止するという性格のものであるということが顕著に表れてい
言命法﹂ないし﹁純粋実践理性の基本法則﹂が我々の非道徳的行為
であったのであるが。
四、共同態理論との結合
場の倫理学︾は、私なりに言えば、精神分析学的倫理学と
人間は言わば﹁場 内 存在﹂である。倫理学における人格論はそ
のである。同章においてアリストテレスは﹁衡平﹂についても説い
リストテレスの﹃ニコマコス倫理学﹄第五章の正義論を踏まえたも
いう形を取るはすである。対象関係論的に見れば、人間は例えば親
のことに留意しなくてはならない。成人である我々は、﹁社会的人
の大陸系法律学に与えた影響には測り知れないものがある。
ている。アリストテレスの正義論がローマ法学を通してヨーロッパ
格﹂としては、共同態という場の内に存在している。
精神分析理論によれば、超自我が神経症の最大の病因である。人
間はリビドーから生のエネルギーを汲むのであるが、神経症患者に
捉えた道徳意識などに比べれば、はるかにゆるやかなものであっ
古来、日本人の道徳意識は、例えばフロイトが﹁超自我﹂として
カテクシスという)のために消費されてしまっている。リビドーの
おいては、そのエネルギーはリビドーの抑圧(それをカウンター・
た、と言えよう。例えば﹁森田神経質﹂は、一般の神経症と同様の
絶ち切れば、短期間で快方に向かう。﹁超自我﹂という概念は恐ら
不安を不安として受容しうる耐久力を喚起し、﹁精神交互作用﹂を
症状を呈するが、心理的葛藤は浅く、﹁ヒポコンドリー性基調﹂に
抑圧は﹁エスの不安﹂に起因することであるが、﹁エスの不安﹂と
因であるなら、いわゆる道徳意識も人間を神経症に陥らせるという
﹁超自我の不安﹂とは相即不離の関係にある。超自我が神経症の病
消極的な機能を果たしているのではないであろうか。しかし、共同
-
-139
孝
文
木
鈴
形成されたものであろう。ユダヤ教やキリスト教(とりわけカル
くはヘブライ思想-︲︲フロイトの場合にはユダヤ教-の影響下で
促進的に関与する。正義は決して抑圧的な規範ではない。
的には社会倫理の根本規範なのであり、﹁最大多数の最大幸福﹂に
は、社会に正義を実現することは超自我を強化させるというよ
に関しては、様々な見解が示されている。ここで私に言えること
どのような社会機構が非抑圧的・人間解放的な社会機構であるか
育んできた。超自我はエディプスーコンプレックスの克服を通
うな結果をもたらしはしない、ということだけである。我々日本人
ヴィニズム)は、我々の想像するよりもはるかに厳格な道徳意識を
我︾の形成は人類に普遍的な事象であるということになる。しか
して形成されるものであるというフロイトの所説に従えば、八超自
も道徳意識のうちに正義という規範理念を採り入れそれを徳と
精神分析理論は本質的には精神医学における一つの理論体系であ
して体得しなくてはならない。
る、と私は思っている。精神医学は理想としては生理学を基盤にす
し、両親の超自我︾--したがって道徳意識-が超自我︾形
ロイトが考えたほど厳格な内的裁判官としての機能は営んでいない
成の範型になるという点から見ると、我々日本人の︿超自我)はフ
ように思われる。だから、以下の所論は、むしろ欧米的共同態を念
(昭和五十九年八月三十一日受理)
的には解明尽しえない存在者でもあるからである。
要請されることにもなるであろう。というのも、人間︾は生理学
にして、医学、更には自然科学は哲学的人間学との結び付きを
べきである。精神医学と生理学との統合という理念への志向を媒介
には﹁正義﹂と並
dikaiosyne の語根は﹁裁
頭に置いてのものである。
A︰正義︾を意味するギリシア語の>
判﹂の意のdikeであり、英語のjustice
んで﹁裁判﹂という意味がある。正義という理念は厳格な裁き
を含意している。しかし、例えば﹃ニコマコス倫理学﹄に即して
八正義)を徳-私の場合には、最も枢要なIとして考える限
り、正義の厳格さは緩和される。そして、その正義の理念
を媒介にして、我々は法を社会倫理の一局面として考えることがで
J・ロールスが﹃正義論﹄(一九七一年)の中で、すべての人間
きる。
は平等に待遇されなくてはならないが、功利主義でいう﹁最大多数
の最大幸福﹂のために人間に﹁社会的、経済的な不平等﹂-例え
ば役割上の不平等-を許す(もちろん﹁配分的正義﹂に基づいて
許す)ことは止むをえない、という主旨の論を展開している箇所が
印象に残っている。正義は裁判によって実現されるべき理念で
もあり、その限りでは厳格さを伴うべきものであるが、それは本質
-
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精神分析についての一考察
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