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02.資本による生産の組織 - 労働過程

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02.資本による生産の組織 - 労働過程
「社会経済学入門」学習資料 No.02
資本による生産の組織 - 労働過程 -
資本主義経済システムの下では、大半の生産活動は「資本」によって組織されます。資本による生産の組織は
どのように行われるのでしょう。
[労働・労働対象・労働手段]
労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのもの、労働の対象、および労働の手段、の 3 つか
ら成っています。
労働とは、人間と自然との間の一過程、すなわち人間が自然との物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規
制し、管理する過程です。
※ 物質代謝とは、生物個体、広義には生態系における生物群が栄養物質を摂取し、これを変化して自体を構
成し、または活動のエネルギー源とし、不必要な生成物を排出するなど、生物体を構成する物質の変動全
般をいう。
(広辞苑)
人間は自然素材そのものに一つの自然力として相対します。つまり人間は、自然素材を自分自身の生活のため
に使用しうる形態で取得するために、自分の肉体に属している腕や足、頭や手を運動させます。
※ 労働とは、簡単に言えば、人間が自然に対して腕や足、頭や手を用いて働きかけ、自身が生きていく上で
必要なものを自然から獲得する行為のことです。
人間は、この運動によって、自分の外部の自然に働きかけて、それを変化させることにより、同時に自分自身
の自然(肉体的・精神的能力)を変化・発展させます。人間は、自分自身の自然のうちに眠っている潜勢諸力を
発展させ、その諸力の働きを自分自身の統御の下に置きます。
※ 人間は労働によって能力を伸ばし、熟達や創意工夫を通して自己実現を図ることができます。要するに、
人間は労働を通じて発達します。
ここでわれわれが想定するのは、人間にのみ属している形態の労働です。クモは織布者の作業に似た作業を行
うし、ミツバチはその蝋の小部屋の建築によって多くの人間建築士を赤面させます。しかし、もっとも拙劣な建
築士でももっとも優れたミツバチより最初から卓越している点を持っています。それは、建築士は小部屋を蝋で
建築する以前に自分の頭の中でそれを建築(イメージ、デザイン、設計)しているということです。
労働過程の終わりには、過程のはじめに労働者の頭の中に描かれた像としてすでに現存していたもの、したが
って観念的にすでに現存していたものが出てきます。つまり、人間は自然的なものの形態変化を生じさせるだけ
ではなく、同時に、人間は自然的なもののうちに、自分の目的を実現するのです。
※ 目的を実現するためには、持続的に労働を遂行するための一定の肉体的・精神的緊張と目的を達成しよう
とする意志が必要です。
労働対象とは、人間が労働を通じて働きかける対象のことです。
人間に対して本源的に食糧、既成の生活諸手段を与える土地(経済学的には水もまたその中に含まれる)は、
人間の関与なしに、人間の労働の一般的対象として存在しています。
労働が大地との直接的連関から引き離すいっさいの物は、天然に存在する労働対象です。たとえば、生活要素
である水から引き離されて捕えられる魚、原生林で伐採される木材、鉱脈から割り採られる鉱石などがそれにあ
たります。
これとは反対に、労働対象がそれ自身すでにそれ以前の労働によって作り出されたものであるならば、私たち
はそれを原料と名づけます。たとえば、これから洗鉱されるすでに割り採られた鉱石がそうです。原料はすべて
労働対象ですが、どの労働対象も原料であるとは限りません。労働対象は、それがすでに労働によって媒介され
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た変化をこうむっているときにのみ原料となります。
労働手段とは、人間が自分と労働対象との間に持ち込んで、この対象に対する彼の能動的活動(働きかけ)の
手段として役立たせる、一つの物または諸物の複合体のことです。人間は、それらの諸物を人間の目的に応じて
他の諸物に働きかける手段とするために、それらの物の機械的・物理的・化学的諸属性を利用します。
土地は、人間の本源的な食糧倉庫であるのと同様に、人間の労働諸手段の本源的な武器庫です。それはたとえ
ば、人間に投げたり、こすったり、重しにしたり、切ったりなどするための石を供給します。土地そのものが一
つの労働手段であるとはいえ、それが農業において労働手段として役立つためには、さらに多くの他の労働手段
とすでに比較的高度に発展をとげた労働能力(知識、技能)とを前提とします。
およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでに加工された労働諸手段を必要とします。最古の人間の
洞穴のなかに、私たちは、石の道具や石の武器を見いだします。人類史のはじめにおいては、加工された石、木、
骨、貝殻とならんで、馴らされた、したがってそれ自身すでに労働によって変化させられ飼育された動物(家畜)
が、労働諸手段として主要な役割を演じています。
労働諸手段の使用と創造は、萌芽的にはすでにある種の動物にそなわっているとはいえ、人間の労働過程を独
自に特徴づけるものであり、それゆえベンジャミン・フランクリン(1706~1790)は、人間を a tool-making
animal すなわち「道具をつくる動物」と定義しています。滅亡した動物種属の身体組織を認識するのに遺骨の
構造が重要な役割を果たしますが、労働手段の遺物は、滅亡した経済社会構成体を判断するに当たってこれと同
じ重要性を持っています。
何が作られるかではなく、どのようにして、どのような労働手段をもって作られるかが、経済的時代を区別し
ます。労働手段は、人間労働力の発達の測定器であるばかりでなく、労働がそこにおいて行なわれる社会的諸関
係の指標(どのような社会関係が営まれているかを判断する指標)でもあります。
[生産手段と生産的労働]
労働過程において、人間の活動は、労働手段を通じて労働対象に当初から企図された変化を生じさせます。過
程から生み出される生産物は、使用価値(物の有用性、人間の欲望を満たすことのできる性質)
、すなわち形態変
化によって人間の欲求に適合させられた自然素材です。労働はその対象と結合します。これによって労働は対象
化され、対象は加工されます。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれた物です。生産物においては、過程(ど
のように労働が行われたのかというそのプロセス)は消失します。
全過程を、その結果すなわち生産物の立場から考察するならば、労働手段と労働対象は生産手段として、労働
そのものは生産的労働として、現われます。
ある使用価値が労働過程から生産物として出てくるとき、それ以前の労働過程の諸生産物である他の諸使用価
値は生産手段としてこの労働過程に入り込んでいました。人間の直接的な消費の対象(生活手段)として労働過
程から抜け出ない限り、その生産物は生産手段として新たな労働過程に入り込みます。それゆえ、生産物は労働
過程の結果であるだけでなく、同時にまたその条件でもあります。
採鉱、狩猟、漁獲、処女地の開墾などのように、労働対象を天然に見いだす採取産業を除けば、すべての産業
部門は、原料すなわちすでに労働を通じて作り出された労働対象、それ自身すでに労働生産物である対象を取り
扱います。たとえば、農業における種子がそうです。自然の産物とみなされがちな動物や植物も、おそらく前年
の労働の生産物であるだけでなく、現在の形態をとっているそれらのものは、幾多の世代を通して、人間の管理
の下で、人間の労働を介して続けられてきた変形(生産活動)の産物です。
物はそれぞれいろいろな属性をもち、それゆえさまざまな用途に供されうるから、同じ生産物がきわめて異な
った労働過程の原料となりうることになります。たとえば、穀物は、製粉業者、澱粉製造業者、酒造業者、牧畜
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業者などのための原料となります。穀物は種子としては、自分自身の生産の原料となります。同様に、石炭は生
産物として鉱山業から出てきて、生産手段として鉱山業にはいり込みます。
同じ生産物が、同じ労働過程において、労働手段としても、原料としても、役立つことがありえます。たとえ
ば、家畜の肥育の場合には、家畜は加工される原料であると同時に肥料製造の手段でもあります。
消費のための完成形態で実存する一生産物が、たとえばブドウがワインの原料となるように、新たに他の一生
産物の原料になることがありえます。または、労働はその生産物を、それが再び原料としてのみ用いうる形態で
手放します。この状態にある原料、たとえば綿花、縫い糸、織り糸などは、半製品〔中間製品〕と呼ばれます。
もとの原料は、それ自身すでに生産物であるにもかかわらず、以後さまざまな過程からなる全段階を通過せねば
ならないかもしれないのであり、これらの過程においてこの原料は、絶えず変化した姿態で、絶えず新たに原料
として機能しながら最後の労働過程に至り、そこで完成した生活手段または完成した労働手段として過程の外に
押し出されることになります。
上述のように、ある使用価値が原料として現われるか、労働手段として現われるか、生活手段として現われる
かは、もっぱらその使用価値が労働過程で果たす一定の機能に、その使用価値が労働過程において占める位置に
依存するであって、この位置が変わるにつれて上記の諸規定が変わります。
諸生産物は、それらが生産手段として新たな労働過程に入り込むと、それらはいまではもう生きた労働の対象
的要因として機能するだけになります。紡績工は、紡錘を、紡ぐ手段としてのみ取り扱い、亜麻を、紡ぐ対象と
してのみ取り扱います。もちろん人は、紡績材料と紡錘がなくては紡ぐことはできません。それゆえ、これらの
生産物が現存していることは、紡績の開始に際して、前提されています。しかし、この過程そのものにおいては、
亜麻と紡錘が過去の労働の生産物であることはどうでもよいことであって、それはちょうど、パンが農民、製粉
業者、製パン業者などの過去の諸労働の生産物であることが食べる行為にとってどうでもよいのと同じです。そ
れとは逆の場合。もし労働過程において生産諸手段が過去の労働の諸生産物の性格を表わすとすれば、そのこと
は、それらの欠陥によって明らかにされます。切れないナイフ、切れてばかりいる糸などは、刃物工Aや紡績工
Eをまざまざと思い起こさせます。
労働過程で役立たない機械は無用の存在です。その上、機械は自然の物質代謝の破壊力に侵されます。鉄はさ
び、木は朽ちます。織られもせず編まれもしない糸は、廃物の綿花です。生きた労働は、これらの物をとらえて、
死からよみがえらせ、単なる可能性を持った使用価値から、現実的で有効な使用価値に転化させなければなりま
せん。これらの物は労働の火になめられ、労働の肉体として同化され、それらの使命目的にふさわしい諸機能を
営むまでに、この過程のなかで精気を吹き込まれながら、確かに消費されてなくなりもするが、しかしそれらは、
生活手段として個人的消費に入り込むか、あるいは生産手段として新たな労働過程に入り込むかすることのでき
る新たな使用価値の、新たな生産物の、形成要素として、合目的的に消費し尽くされるのです。
したがって、現存する諸生産物が労働過程の結果であるばかりでなく、その実存諸条件でもあるとすれば、他
方、それらの生産物の労働過程への投入、したがって生きた労働との接触は、過去の労働のこれら諸生産物を使
用価値として維持し実現するための唯一の手段なのです。
労働は、それの素材的諸要素、それの対象およびそれの手段を消費し、それらを食い尽くすのであり、したが
って消費過程なのです。この生産的消費が個人的消費と区別される点は、後者は諸生産物を生きた個人の生活手
段として消費し、前者はそれらを労働の手段、すなわち生きた個人の自己を発現する労働力行使の手段として消
費するということにあります。それゆえ、個人的消費によって生み出される生産物は消費者(人間)そのもので
あり、生産的消費の結果は消費者とは区別される一生産物ということになります。
われわれがその単純で抽象的な諸契機において变述してきたような労働過程は、諸使用価値を生産するための
合目的的活動であり、人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然との間における物質代謝の一
般的な条件であり、人間生活(社会)の永遠の自然的条件であり、それゆえこの生活のどの形態からも独立して
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おり、むしろ人間生活のすべての社会形態に等しく共通なものであります。それゆえ、われわれは、労働者を他
の労働者たちとの関係において变述する心要がありませんでした。一方の側に人間とその労働、他方の側に自然
とその素材があればそれで十分でした。小麦を味わってみても誰がそれを栽培したのかわからないのと同様、こ
の過程を見ても、どのような条件の下でそれが行われるのか、奴隷監督の残忍な鞭の下でか、資本家の心配げな
まなざしの下でなのか、それともキンキンナトゥス(有徳と勇気のシンボルとされるローマの執政官。農耕中に
ローマ軍救出の命を受け、数日でそれを成就し、また農園にもどった)が数ユゲルム(一組の牛が午前中に耕せ
る面積。約 25 アール)の耕作において行なうのか、石で野獣を倒す未開人が行なうのか、はわかりません。
[資本主義的労働過程]
労働力の使用は労働そのものです。労働力の買い手(資本家)は、その売り手(労働者)を労働させることに
より、労働力を消費します。労働力の売り手は、労働することによって、
「現実に」自己を発現する労働力、労働
者となりますが、彼はそれ以前には「潜勢的に」労働者であったにすぎません。自分の労働を商品に表わすため
には、彼はなによりもまず、その労働を使用価値に、なんらかの種類の欲求の充足に役立つ物に表わさなくては
なりません。したがって、資本家が労働者に作らせるものは、ある特殊な使用価値、ある特定の物品です。使用
価値または財貨の生産は、資本家のために、資本家の管理のもとで行なわれます。
資本家は、商品市場において労働過程に必要なすべての要因、すなわち対象的諸要因(生産諸手段)と、人的
要因(労働力)とを買います。彼は抜け目ない玄人(くろうと)の目をもって、紡績業、製靴業などの彼の特殊
な事業にふさわしい生産諸手段と労働力を選びます。次に資本家は、自分の買った商品(生産諸手段と労働力)
の消費にとりかかります。すなわち、彼は労働力の担い手である労働者に、それの労働によって生産諸手段を消
費させます。労働過程の一般的本性は、労働者が労働過程を自分自身のためではなく資本家のために行なうとい
うことによっては、もちろん変化しません。長靴をつくったり、糸を紡いだりする一定の仕方(生産方法)もま
た、資本家の介入によっては、さしあたり、変化しません。
ただし労働過程は、それが資本家による労働力の消費過程として行なわれる場合には、二つの独自な現象を示
すことになります。
第一に、労働者は、自分の労働の所属する資本家の管理のもとで労働します。資本家は、労働が秩序正しく進
行し、生産諸手段が合目的的に使用され、したがって原料が少しも無駄遣いされず、労働用具が大切にされるよ
うに、すなわち作業中やむをえない場合を除いて不必要に労働用具が傷められないように、見張りをします。
さらに第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者の所有物ではありません。資本
家は、労働者に彼が売りに出した労働力のたとえば日価値(1日分の賃金、日給)を支払います。そうすると、
労働力の使用は、他のどの商品-たとえば1日の間賃借りした馬-の使用とも同様に、その1労働日の間資
本家に属することになります。資本家に属している1労働日の労働力の使用(労働)によって生み出された生産
物は、したがって、資本家の所有物になるのです。
商品の使用は商品の買い手に所属します。労働力の所有者(労働者)が資本家の作業場に入った瞬間から、彼
の労働力の使用価値は、したがってそれの使用すなわち労働は、資本家に所属しているのです。
資本家は、労働力の購買によって、労働そのものを、生きた酵素として、同じく彼に所属する死んだ生産物形
成諸要素に合体させるのです。資本家の立場からは、労働過程は彼が買った商品である労働力の消費にすぎませ
んが、
しかし彼はこの労働力に生産諸手段をつけ加えることによってのみ、
それを消費することができるのです。
資本主義的労働過程は、資本家が買った諸物の間の、彼に所属している諸物の間の一過程です。それゆえ、諸
過程の生産物は、彼のワイン地下貯蔵室における発酵過程の生産物とまったく同様に、彼に所属するのです。
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