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神の栄光

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神の栄光
神の栄光
(詩篇 96:1~13)
1989年 ソウル聖楽教会 主日礼拝 説教録取⑦
キムキドン
説教 : 担任監督 金箕東牧師
神は栄光の中におられます。文字通りに解釈すると、「栄光」という言葉は栄える光と
いう意味です。私たちが何よりもよく知らなければならないのは栄光は被造物ではないと
いう事実です。栄光は自らおられる神と永遠の前からともにある神の誉れです。人がこの
世に生まれてくるときに顔をもって生まれてくるように、神は永遠の前から永遠に栄光を
もっておられる方です。
ヨハネの福音書1章1節が「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。こ
とばは神であった。」といったように、神と御言葉は互いに分離することができません。
また、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」というヨハネの福音
書1章4節の御言葉のように、御言葉といのちと光は永遠の前から永遠に分離することが
できないひとつです。
神は天を造る前からひとりでおられる方です。主は私たちに「天にまします我らの父
よ。」と祈るように教えられました。この天とは鳥が飛ぶ天、あるいは星が浮かんでいる
天ではなく、霊の天、すなわち霊界を指します。天には鳥が飛ぶ天、星が浮かんでいる天、
そして、天使がとどまる霊の天がありますが、私たちが望みを置いている天は霊の天です。
星がある天、すなわち宇宙空間は人間が想像することができないぐらいに大きいです。
科学者は宇宙の端から端まで行くのに数百億光年がかかるといいます。しかし、霊界の天
と比べるのであれば、宇宙空間は太平洋の上に浮いているペットボトルのように極めて小
さな空間に過ぎません。それゆえ、霊の天がどんなに大きいでしょうか? しかし、このよ
うに大きな天であっても神を迎え入れることはできません。神はその天よりも大きな方で
あるためです。
天は神が造られた被造界です。神は天がある前にもおられました。その方は永遠の前か
ら永遠に自らおられる方です。そのような方とともにあるのが栄光です。それゆえ、栄光
は天がある前にも神とともにありました。
多くの人が「神は私たちを通して栄光を受けられる。」という言葉を誤解します。彼ら
は「神は何かが足りなくて人間からそれを引き出そうとされる。」と考えます。それで、
「神は栄光を受けるために私に病気を与えられた。」と考えたりもします。神が栄光が足
りなくてそれを補うために人間から受けなければならないのでしょうか? 栄光は神のもの
です。人間には栄光がありません。月がどんなに明るく輝いたとしてもその光は地球を暖
かくすることができません。その光は月自体が放つ光ではなく、月の表面に反射された太
陽の光に過ぎないためです。
使徒の働き17章24~25節は「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった
神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに
不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、
すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」といいました。神
は何かが足りなくて人間からそれを引き出そうとされる方ではありません。むしろその方
は人間にすべてのものを与えられる方です。このような神が栄光が足りなくて人間からそ
れを補おうとされるでしょうか? 神は永遠の前から栄光をもっておられる方です。
歴代誌第二2章5~6節は「私が建てる宮は壮大な宮です。私たちの神は、すべての
神々にまさって偉大な神だからです。天も、天の天も主をお入れできないのに、いったい
だれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。また、主のために宮を
建てるというこの私は、いったい何者でしょう。ただ主の前に香をたくためだけの者で
す。」といいました。また、6章18節は「それにしても、神ははたして人間とともに地の
上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできませ
ん。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」といいました。天も天の天
も神を迎え入れることはできません。
神は天がある前、永遠の前からおられる方です。栄光はその神と永遠の前からともにあ
りました。それゆえ、栄光はただ神のものです。私たちは「神は栄光を受けられる。」と
いう言葉をよく理解しなければなりません。人には顔があります。その顔を見るためには
鏡に映された自分の姿を見なければなりません。このとき、鏡に映された自分の姿がいの
ちをもっているわけではありません。鏡は鏡を眺めている人の姿を映すだけです。これと
同じように、神が私たちを通して栄光を受けられるからといって、私たちに栄光があるわ
けではありません。神が私たちを通して受けられる栄光は神自身のものです。神は私たち
に自分の栄光を輝かせ、これを通して現れた栄光を受けられるのです。
神は永遠の前からひとり栄光をもっておられる方です。その神が天を造られたのは自分
の栄光をそこに置いてその栄光を喜んで受けるためです。人が最も愛する者を常にそばに
置くように、神は天を自分の右に置かれました。ここがイエスがよみがえって上られた霊
界です。人は自分の顔を見るためにまず自分の顔を鏡に映し、そののちに反射された自分
の顔を見ます。そのように神は自分の栄光を天に注いだのちに天から栄光を受けられます。
このために神は神に栄光を帰す天使を天に造られました。天使は神の誉れを認めて賛美す
ることによって神に栄光を帰す者です。
ところが、天使の一部が堕落し、まるで割れて汚くなった鏡のように神の栄光を帰すこ
とができなくなりました。それで、神は彼らを裁きの時まで永遠に縛って閉じ込められま
した。時が至って、神のふところにおられた神の御子が人となって宇宙の中に入って来ら
れました。そして、十字架の死と復活を通して悪魔を裁かれました。今は天に上って、神
が天に置かれた栄光を受け、その栄光を神に帰されました。これによって神の御子は神の
栄光を受けた者であり、同時に神に栄光を帰した者となりました。神はただイエスを通し
て自分が現した栄光をそのまま受けられました。
私たちの霊魂は神が用いられる鏡のようなものです。神は自分の栄光を私たちの霊魂に
注いでくださり、その鏡に反射された栄光を受けられます。ところが、私たちの霊魂が不
信仰と不従順によって汚くなり、まるでほこりが積もった鏡のようになるのであれば、神
がどんなに自分の栄光を私たちの霊魂に注いでくださったとしても私たちはその栄光を神
に輝かせることはできません。それゆえ、霊魂が汚くなった者を通しては神が栄光を受け
ることができません。今、神に礼拝をささげて祈る私たちの霊魂は神の栄光を受けてその
まま輝かせる、傷も汚れもない鏡とならなければなりません。
イエスは「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それ
をしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14:13)といいまし
た。神の御名と神の栄光はひとつです。人がこの世に生まれてくると、親は名を付けます。
その人が成長して立派なことをするのであれば、称賛を受けるのはその人の名です。称賛
は肉体ではなく、名が受けます。肉体はどんなに称賛を受けたとしても食事をしなければ、
生きることができません。栄光と名を分離することはできません。
神の御名は神の栄光です。神の御子がこの世に来られるときに、神は自分の名を御子に
与えられました。もう一度言うと、自分の栄光を御子に与えられました。そして、神は御
子を通して栄光を受けられます。「あなたがたは私の名によって求めなさい。」という言
葉は祈ったのちに最後に「イエスの名によって祈ります。」という言葉を付け加えなさい
という意味ではなく、祈りを届けるためには神の御名を敬ってその名に栄光を帰しなさい
という意味です。そうすれば、これによって父が栄光を受けられるのです。
また、主は「信じる者は神の栄光を見る。」といわれました(ヨハネ11:40)。信仰がある
者はその霊魂がきれいな鏡のようなものであるために、神はその人に自分の栄光を注がれ
ます。それゆえ、信じる者は神の栄光を受けます。神の栄光を受けるというのは別の言葉
で表現するのであれば、神の御名を受けるということです。ヨハネの福音書1章12節は
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもと
される特権をお与えになった。」といいました。私たちは信仰によって神の子となり、神
の栄光を所有するようになりました。このように神の御名を受けたというのは神の栄光を
受けたということです。
私たちは神の御名と栄光を受けたために、神の御名にふさわしい栄光を帰さなければな
りません(詩96:8)。人々はある人が自分の役に立つと判断すると、その人に高価なプレゼ
ントをあげたりもします。しかし、神の御前ではとても惜しみます。口では神の御名に栄
光があるといいながらも、献金をするときにはその名にふさわしい栄光をささげません。
イエスは神が栄光を受けるために造られた神の右の天に上られました。父は栄光を御子
にだけ与え、御子を通してだけ栄光を受けられます。それゆえ、誰でも神の御子を見た者
は神の栄光を見た者ですし、神の御子を見ることができない者は栄光を知らない者です。
栄光は神の顔のようなものです。栄光は神の御名です。私たちはその名にふさわしい栄光
を帰す者とならなければなりません。
人には本来、栄光がありません。ただ信じる者には神の栄光が現れ、神は彼らを通して
栄光を受けられます。鏡にほこりが積もって汚くなった者はどんなに栄光を注がれたとし
てもその栄光を見ることができませんし、また、神に栄光を帰すことができません。それ
ゆえ、私たちは信仰と従順によって自分の霊魂を聖くし、神の栄光を受けることができな
ければなりませんし、また、神に栄光を受けさせなければなりません。鏡がきれいになっ
てこそ顔を映してみることができるように、私たちの霊魂が聖くなってこそ、ひとり子に
栄光を与えられた神が私たちに栄光を与えてくださいますし、また、私たちを通して栄光
を受けられます。
私たちが神の御前に来て礼拝をささげたとしても心が不信仰と不従順によって汚くなっ
ているのであれば、神の栄光がどんなに輝いたとしてもその栄光を受けることができませ
んし、その栄光を神に帰すことができません。どんなに太陽が明るく輝いていたとしても
盲人が光を見ることができないように、そのような人は霊的にとてももどかしい生涯を送
るしかありません。それゆえ、私たちの霊魂は神の栄光を見ることができるように聖くな
らなければなりません。そのようにしてこそ祈りも神の御前に届きます。主よ、私に栄光
を輝かせてください! そして、その栄光を受けてください!
翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
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