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1 氏 名 ( 本 籍 ) 小 倉 康 之(東京都) 学 位 の 種 類 博 士 (美 術) 学 位

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1 氏 名 ( 本 籍 ) 小 倉 康 之(東京都) 学 位 の 種 類 博 士 (美 術) 学 位
オ
ク ラ
ヤ ス
ユ キ
氏 名 ( 本 籍 )
小
倉
康
之(東京都)
学 位 の 種 類
博
士
(美
学 位 記 番 号
博
美
第
学位授与年月日
平 成 13年 3 月 28日
学位論文等題目
〈論文〉シュパイヤー大聖堂の研究
術)
91
号
論文等審査委員
(主査)
東京芸術大学
教
授
(美術学部)
越
宏
一
(論文第1副査)
〃
〃
(
〃
)
福
部
信
敏
(副査)
〃
〃
(
〃
)
海老根
聰
郎
( 〃 )
〃
助教授
(
〃
)
野
口
昌
夫
( 〃 )
〃
名誉教授
(
〃
)
前
野
教
(教養学部)
長
塚
安
司
( 〃 )
東
海
大
学
授
(論文内容の要旨)
「シュパイヤー大聖堂の研究」
ドイツ・ロマネスクの至宝、シュパイヤーの皇帝大聖堂は、神聖ローマ帝国諸帝の墓所を有す
る こ と で つ と に 名 高 い 。 1030年 頃 、 ザ リ エ ル 朝 初 代 皇 帝 コ ン ラ ー ト 2 世 が 定 礎 し た 第 一 次 シ ュ パ
イ ヤ ー 大 聖 堂 は 、 2 代 皇 帝 ハ イ ン リ ッ ヒ 3 世 の 没 後 ま も な く 、 1061 年 に 献 堂 さ れ た 。 し か し 、 早
く も 1082年 頃 に は 第 二 次 大 聖 堂 の 建 設 が 開 始 さ れ 、 3 代 皇 帝 ハ イ ン リ ッ ヒ 4 世 は 、 第 一 次 大 聖 堂
の ア プ シ ス や 袖 廊 を 改 築 し 、身 廊 を 補 強 し て 大 規 模 な ヴ ォ ー ル ト 架 構 を 用 い た と 考 え ら れ て い る 。
また、教会堂全体を取り巻く環状の小人ギャラリーや古代的建築装飾が採用され、シュパイヤー
大 聖 堂 は 108 0 年 代 以 降 、著 し く 様 相 の 異 な る 盛 期 ロ マ ネ ス ク 様 式 の 建 築 へ と 変 貌 し た 、 と す る の が
定説である。
第一次大聖堂は大部分が改変されたため、初期の計画案の詳細については不明な点が多い。そ
こで筆者は、第一次シュパイヤー大聖堂の復元的研究を試み、コンラート2世時代の計画が聖書
に基づく「調和的比例関係と数のシンボリズム」を造形原理としていたことを明らかにした。第
一 次 大 聖 堂 で は 、「 教 会 改 革 理 念 」を 建 築 に 反 映 さ せ る こ と に よ り 、教 会 の 保 護 者 と し て の「 王 に
し て 祭 祀 者 ( R e x e t S a c e r d o s )」 の 立 場 、 す な わ ち 皇 帝 の 神 性 が 主 張 さ れ て い た の で あ る 。
こ れ と は 対 照 的 に 、ハ イ ン リ ッ ヒ 4 世 の 時 代 に は 、皇 帝 は 改 革 派 と 敵 対 し 、激 し く 争 っ て い た 。
したがって皇帝はもはや教会改革理念の担い手ではあり得ない。そのため、ハインリッヒ4世は
「皇帝理念」を別の形で視覚化する必要に駆られ、シュパイヤー大聖堂において「霊廟建築のイ
コ ノ グ ラ フ ィ ー の 導 入 」を 目 論 ん だ の で あ る 。司 教 座 教 会 堂 と 皇 帝 廟 を 同 一 視 す る と い う こ と は 、
聖人に準ずる位置付けを行ったことになり、これは「霊廟建築としての象徴的意味」によって皇
帝の神性を顕示することに他ならない。本論文における第二の課題として、筆者は、第二次シュ
1
パ イ ヤ ー の 霊 廟 建 築 と し て の 側 面 に 光 を 当 て 、第 二 次 大 聖 堂 の 造 形 原 理 が「 諸 要 素 の 加 算 的 結 合 」
であったことを論証する。
さらに第三の課題として、初期ロマネスクから盛期ロマネスクへの移行期において、シュパイ
ヤー大聖堂が果たした役割を考察し、その歴史的定位を求める。第一次大聖堂と第二次大聖堂の
比較において、シュパイヤーの特異性は正しく理解され得るであろう。
本 論 文 第 1 章 で は 、ま ず 2 0 0 年 に 亘 る シ ュ パ イ ヤ ー 研 究 の 歴 史 を 辿 り 、残 さ れ た 課 題 が「 リ ン ブ
ル ク 修 道 院 聖 堂 と の 比 較 研 究 」 と 「 第 一 次 大 聖 堂 の 復 元 的 研 究 」、「 建 築 イ コ ノ グ ラ フ ィ ー の 方 法
論による第二次大聖堂の再解釈」であることを確認する。
第2章では、シュパイヤー大聖堂の基礎資料を集成し、古文献に基づくクロノロジーの再検討
するとともに、各部のディスクリプションを試み、以後の考察の礎とする。
そして、第3章では、まずリンブルク・アン・デア・ハールト修道院聖堂の研究を行い、その
上で第一次大聖堂との比較考察を行う。シュパイヤーと至近距離にあるリンブルク修道院は、第
一 次 大 聖 堂 と 同 時 代 、同 一 の 建 築 主 に よ る 建 築 で あ り 、比 較 作 例 と し て 最 も 適 切 で あ る 。し か し 、
こ れ ま で 十 分 な 実 測 、壁 体 調 査 が 行 わ れ て い な か っ た た め に 比 較 研 究 を 行 う こ と は 困 難 で あ っ た 。
それゆえ、筆者は独自に実測と調査を行い、リンブルク修道院聖堂の詳細な実測図を作成し、基
礎資料の不足を補った。
一方、第二次大聖堂建設の動機に関しては、ライン川による浸食を防ぐためとするシュヴァル
ツェンベルガー等の説、あるいは構造上の問題が動機であるとするハース説、ロンバルディア起
源の建築装飾を重視するクーバッハ説などがあるが、いずれの説も何故アプシスのプランが変更
されたのかという問題を解決していない。筆者は、第4章において、第二次大聖堂に導入された
半円形プランで多層構成のアプシス、環状壁龕列、環状の小人ギャラリー、ドーム状交差ヴォー
ルト、二重礼拝堂、古代的建築装飾が墳墓の建築伝統と密接に結びつくことを論じ、新たに「霊
廟建築説」を提示した。
以 上 の 考 察 に 基 づ き 、本 論 文 で は 第 一 次 大 聖 堂 に お け る「 調 和 的 比 例 関 係 と 数 の シ ン ボ リ ズ ム 」、
第二次大聖堂の「霊廟建築の諸要素の加算的結合」という2つの造形原理を対照させ、初期ロマ
ネスクから盛期ロマネスクへと至る造形原理の変容の過程を具体的建築作品によって跡づけた。
初期ロマネスク建築の厳格な比例関係を壊し、霊廟建築の諸要素を「加算」した背景には2つの
因 子 が 想 定 さ れ る 。す な わ ち 、「 皇 帝 墓 所 」と「 聖 遺 物 崇 拝 」で あ る 。皇 帝 の 墓 廟 と し て の 性 格 に
より、第二次大聖堂はマインツのゴットハールト礼拝堂やシュヴァルツラインドルフの二重聖堂
など、王家や諸侯の埋葬用建築に多大な影響を与えた。また、聖遺物を安置するマルティリウム
としての性格は、ラインラントにおいてヴォールトや小人ギャラリーが急速に伝播していく要因
になったと推察される。シュパイヤーにおいてなされた、バシリカ式典礼空間と集中式埋葬空間
の加算的結合は、聖遺物崇拝の伝播や教会内埋葬の一般化とともに、ラインラント地方の他の建
築においても繰り返され、幾多の後継作例を生みだした。それゆえ、シュパイヤー大聖堂は、多
目的・多要素・多層構成を特徴とする、盛期ロマネスクの空間概念の主要な発生源の1つとして
位置付けられるのである。
さらに、クロノロジー上の問題についても再考の余地があることが指摘できる。盛期ロマネス
ク 様 式 を 確 立 さ せ た 第 二 次 大 聖 堂 の 建 設 は 、従 来 言 わ れ て き た よ う に 、1082年 頃 と す る よ り 、10 40
2
年 代 に 遡 る と 考 え る べ き で あ ろ う 。 シ ュ パ イ ヤ ー 大 聖 堂 の 身 廊 部 に 皇 帝 が 埋 葬 さ れ た の は 1 03 9年
が 最 初 で あ り 、1 0 4 7 年 に は 聖 ス テ フ ァ ヌ ス 1 世 の 聖 遺 物 が も た ら さ れ て い る 。こ れ を 契 機 と し て 、
シュパイヤー大聖堂に埋葬空間としての象徴体系が整備され、初期ロマネスクから盛期ロマネス
ク様式への移行が漸次的に行われたのだと考えるのが妥当である。本論文では、ハインリッヒ3
世 時 代 の 10 ベ イ か ら 1 2 ベ イ へ の 設 計 変 更 を 重 視 し 、 1040 年 代 半 ば を も っ て ラ イ ン ラ ン ト に お け る
盛期ロマネスクへの転換点と位置付ける。これは建築図像学上の要請を契機とし、視覚的には新
様 式 の 発 生 を も っ て 帰 結 す る 。 事 実 、 1 0 40 年 代 を 境 と し て 、 水 平 壁 面 分 節 を 特 徴 と す る 荒 石 整 層
積みの壁体は、垂直に壁面を分節した切石整層積みの壁体に置き換えられ、建築装飾は漆喰層の
上に施された「壁画」から後の「浮彫」へと移り変わっているのである。したがって、これまで
「 初 期 ロ マ ネ ス ク 」 に 位 置 付 け ら れ て き た ハ イ ン リ ッ ヒ 3 世 時 代 、 1040年 代 半 ば 以 降 の 身 廊 は 、
「盛期ロマネスク様式の萌芽」として位置付けるべきであろう。
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