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著作集︵二︶ 葉山嘉樹

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著作集︵二︶ 葉山嘉樹
著作集︵二︶
目次
万福追想
氷雨
運動会の風景
遺言文学
工場の窓より
井戸の底に埃の溜つた話
万福追想
葉山嘉樹
渓流は胡桃の実や栗の実などを、出水の流れにつれて持つて来た。水
の引きが早いので、それを岩の間や流木の根に残して行く。
美味かつた。
その渓流の一部分に、トロッコの線を敷かねばならなかつた。
電 車 の 線 路 工 事 に 必 要 な、 コン ク リ 材 料 の 砂 や バ ラ ス、 玉 石 な ど を、
本流の川原からウインチで捲き上げようと云ふ段取りなのであつた。
線路を敷きかけて見ると、方々に岩盤の出つ張りや、文字通り梃[#原
文は﹁挺﹂、 397下 ]
7でも動かない大きな玉石などがあつた。それはハッ
パをかけて取り除かねばならなかつた。
A橋と云ふ三間位の橋の袂には、農家が一軒、天竜の断崖とA川とに
足を突つ張るやうにして立つてゐた。その農家に楔でも打ち込んだやう
に、小さな飯場が一つ建つてゐた。
飯場は水の便利のいい所を選んで建てられるので、その下流よりにも
沢山飯場が建てられてゐた。
飯場があると必ず子供たちが沢山ゐるのだつた。
だからハッパをかけたりする時は、その渓流で米を磨いだり、洗濯を
したり、胡桃を拾つたり薪を拾つたりする、飯場の女房連や子供たちに、
危険を知らせ、上下流の工事場を往来する人々に、ハッパを知らせる為
に、ベルを振つて、ハッパだあ、ハッパだあ、と、ハッパの済むまで怒
鳴り続ける必要があつた。
十一月中旬の麗かな一日であつた。
天竜川中流の、峻嶮極まる峡谷地帯で一日中日照時間が三時間だとか
太田は天竜川の方から上流の方を向けて穴を穿つてゐた。
く
ハッパ の 破 片 は 、 主 と し て 石 に 穿 ら れ た 穴 の 方 向 に 飛 ぶ も の な の で 、
それは百姓屋とそれに食ひ込んだやうな飯場の真下あたりの処だつた。
和して、いい気持に人々を誘ひ込んだ。
だ浸み透るやうな音楽的な音を立てて、山の空気を震はし、川瀬の音と
梃[#原文は﹁挺﹂、 398上 ]
5でも動かない玉石へ、ハッパ穴を穿つ
てゐるのだつた。タガネとセットとの、二つの鋼鉄から出る音は、澄ん
トの音が、チーン、チーンと聞えて来た。
工事場の子供たちは、薪木にする為に、晒されて骨のやうになつた流木 四時間だとか云ふ地帯にも、 こんないい日があるかと思はれるやうな、
や、自分たちのお八つにする為に、胡桃や栗の実を拾ひ集めるのだつた。 人の心も清々しくなるやうな一日であつた。
A橋の十間ばかり下流、殆ど天竜川本流への流入口近くで、冴えたセッ
見つけるのに骨が折れたが、子供たちは大人よりも上手に
胡桃の実も栗も、黒くなつてゐて、石の間や流木の間に挾まつてゐる
く
と、なか
見つけて、懐に入れたり、ポケットに入れたりして、それを膨らませて
ゐた。
小さな渓流で、それにかかつてゐる橋は、長さ三間位もあつただらう
か。出水の時は、恐ろしく大きな音をたてて、玉石などを本流に転がし
込むのだつたが、ふだんは子供たちのいい遊び場であつた。
清水 の 湧 き 出 す 処 な ど を、 う ま く 見 付 け て 掘 る と 沢 蟹 の 小 さ い の を、
一升も二升も捕ることさへあつた。それは天ぷらにしても、煮つけても
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著作集(二)
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天 竜 川 の 方 に 石 が 飛 ぶ の な ら ば、 危 険 は 割 合 に 少 な か つ た か ら で あ
つた。
尤も全然危険がない訳ではなかつた。
むと、暫くして、太田が上の方からA川に沿つて降りて来た。
手に導火線をブラ下げて、その下に大ダイが一つくつついてゐた。丁
度、アケビの実を蔓ごとぶら下げたやうに見えた。
一度などは、二十数本もの導火線がシューシュー煙を吐き出してゐる ﹁大丈夫かい。穴はどつちを向いてるかい。さうかい、ふん、大ダイ一本
天竜の川舟は、予定地に着けそくなつたら最後五丁も十丁も下流まで
と、私は、太田がうるさがる程、念を押した。
からね、人通りがあるんだし、家が近いからね﹂
ぢや詰め過ぎやしないかい、うん、大丈夫だね。頼むよ、この辺は危い
流れる位であつた。だから、陸からどのやうな権威を持つた人間が﹁止
太田がA川の合流点附近から、
のに、川舟が上流から勢よく下つて来たのには驚いた。
れ﹂と云つたところで、止まる訳には行かなかつた。
駆け、人が来ないのを見届け、又、下流の方へ駆けた。
て、ベルを振り、ハッパだ、ハッパだあ、と怒鳴りながら、上流の方へ
と怒鳴つた。私は、橋の袂にゐて、現場の導火線から煙が上るのを見
その時などは、天竜の本流の岸に、トロッコの線を敷くためのハッパ ﹁つけたぞ﹂
だつたので、十メートル前のトーチカ陣地から、機関銃が火を吐く、と
云ふ形容だつて決して過ぎてはゐなかつた。
私は気が狂つたやうに岸から叫んだ。
丁度現場の直ぐ側へ、栗や胡桃を拾ひに行つて、藪影でゴソゴソやつ
てゐた、太田の幼い弟たちや従弟たちも、火をつける前に見付けて、上
﹁向つ岸へ流してくれえ、ハッパ穴がそつちを向いとるぞう﹂
と、無茶苦茶にベルを振りながら怒鳴つた。
の方の道路へ追ひ上げてあつた。
私はそれを監視しながらベルを振つてゐた。
そ の 子 供 た ち を、 百 姓 家 の 現 場 と は 反 対 側 の 軒 下 に 立 た せ て 置 い て、
川舟の船頭も驚いた。舟を対岸の方へやるにしても、ハッパの破片は
対岸深くまで飛んで行くのだつたから、完全に着弾距離外と云ふ訳には
行かないのだつた。
破 片 が 飛 ん で来 た。 そ の 時、 私 の 立 つて ゐ る 道 に、 私 の 直ぐ 後 ろ 横 に、
パーンと云ふ風な、浅い音が現場で起つた。と同時に、パラパラッと
で川底の石をつつぱつたり、水を掻いたりして、対岸の絶壁の淵の方へ
下流の方から一人の子供が駆けて来た。
四人の川舟船夫たちは、底の浅い川舟の中で大騒ぎしながら、竿や櫂
川舟をやらうと努力してゐた。が、天竜川の三大難所の一つだつたそこ
と云ひながら、尻を引ッぱたいた。
﹁馬鹿が、ハッパの処へ来るんぢやないと云つてあるのに﹂
きかかへて、
私と並んで立つてゐた太田は、その子供が自分の従弟だと見ると、抱
見ると、その児の鼻の上に、破片が当つたと見えて、血が流れてゐる。
と、幼い足音に、私は叫んだ。
は、船夫たちの努力で、僅かに舟の頭を対岸に向けたまま、急流に押し ﹁危いッ﹂
流された。
川舟がハッパを仕かけた辺から、二十間位も押し流された時、ハッパ
が鳴り始め、破岩が激流の河面にバラバラッと飛び込んだ。
大きい破片は抱き上げられない位のものもあり、小さいのは安全剃刀
の刃位のものまでも、水面に射込んだ。
﹁良かつた﹂
麗らかな珍らしい秋の一日を、それまで楽しんでゐた私も、同様な気
だが、怪我をした以上は何もかも後の祭であつた。
れるから、俺が危いつて云つたぢやないか﹂
と、私は、岩陰から川舟の行衛を隙間見しながら、ホッとしたことが ﹁とにかく医者に早く連れて行かなけや駄目だ。見ろよ、大ダイ一本も入
あつた。
その日も、午前九時頃まで冴えたタガネの音がしてゐたが、それが止
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持であつただらう太田も、一度に深い憂鬱と気づかひに捕はれて、医者
いから、きつと、﹁良くなつてゐるのだらう﹂と云ふことだつた。
忙しいので、毎日見舞つてはゐないが、
﹁悪くなつた﹂と云ふ話を聞かな
一週間目に、私は万福の住んでゐる飯場を訪問した。
のゐる上流へ急いだ。
﹁おぢさん、何でもないよ。俺歩いて行くよ。見つともないよ﹂
建つてゐた。発電所と電車との二つの工事の労働者が集まつてゐて、こ
そこは、私たちの借りてゐる農家から上流四五丁の、川原の砂つ原に
その六つになる子は太田に云つた。
の峡谷の底に五千人から七千人位の労働者と、その家族がゐたので、一
と云ふのであらう、未だ海峡を渡つて、内地へ来て一年にもならない、
太田は幼い従弟を道に下した。
つのバラック街を形造つてゐた。
蓙を上げて私は飯場に首をつつ込んだ。
張つたやうに膨れかへつてゐた。
た労働者や、その機会を利用しての友達などの往来で、バラック街は頬
丁度、昼食後の休みの時間を利用して、私は行つたので、食事に戻つ
たちの飯場の、蓙を卸した三尺幅の出入口が開かれてあつた。
とにかく人の通り抜けるために出来た細長い、狭い空地に向つて、万福
一 部 落 の 川 岸 寄 り の、 二 番 目 か 三 番 目 の、 通り と は 名 づ け ら れ な い が、
それは東京の郊外にある細民街とよく似た部落を形造つてゐた。その
そこで、私たちは始めて子供の傷口をよく見たのだつた。
傷口は眉の間の所謂急所であつた。少し右の方に寄つてゐるかと思は
れた。見たところ大した傷ではなく、血も、もう止つてゐた。
子供も、もう尻を引つぱたかれないでいいのだと云ふことが分つたの
と、傷も大して痛くないと見えて、ニコニコしながら、可愛いい朝鮮の
言葉で、太田に何か話しかけてゐた。
その子は全く可愛いい顔をしてゐた。殊にその下ぶくれの頬と、澄み
切つた瞳とが、可愛いい上に聡明な印象を与へてゐた。
私は言葉は分らなかつたが、その子や、その子の友達たちと遊んだも
のだつた。さう云ふ時、両親について来てもう長くなる子だの、内地に
と云つて置いて、それから私は入つて行つた。外はやはりうららかな
来てから生れた子だのが通訳してくれるのだつた。それによると、その ﹁今日は﹂
万福と云ふ子は、見たところ以上に聡明であつた。
私は ﹁朝鮮人﹂ と云ふ言葉を使はないやうにしてゐた。 無論 ﹁鮮人﹂ いい日であつたが、飯場の中は真暗であつた。窓が無かつたからであつ
とは云はなかつた。が、悲しいことには、工事場には、さう云ふ言葉が、 た。
ることがあつた。私が、若い頃マドロスとして、印度あたりまで行つた
ゐる川砂の土間の方へ立つて来た。そして、私の立つてゐる傍を通り抜
と答へがあつて、誰かが、暗い中から動いた気配がして、私の立つて
言葉そのものは仕方がないとしても、軽蔑や侮蔑の意味を含めて使はれ ﹁今日は﹂
時、欧米人などに、どことなく差別的に見られたりして﹁こいつはいけ
けて、私の後ろに垂れ下つてゐる入口の蓙を上げた。
そこで漸く、飯場の中が明るくなつた。
ない﹂と思つてから、私はヨーロッパ人だから優越してゐるとも思はな
い代りに、インド人でもアフリカ人でも、支那人でも、朝鮮人でも、私
飯場の内部は、土間と、二つの部屋から出来てゐた。入口の方を向つ
と、立つて来た万福の父が、腰をかがめて信州訛りで私に言つた。
﹁まあ、おかけなして﹂
を果してゐるのだつた。
して積み上げられてゐた。その各々は衣類箪笥だの、食器棚だのの役目
て、石油箱だの、ビール箱だの、ダイナマイトの箱だのが、上手に按配
よりも劣つてゐるなどとは思はなくなつてゐた。
医者に行つて、手当を受けた結果、
﹁傷は幸に、極く軽くて、一週間もすれば全癒するだらう﹂
と云ふことであつた。太田も私も心からホッとして、帰りには、その
子供に菓子を買つてやり、冗談を云つてカラカつたりしたのだつた。
その後帳場で太田に会ふ毎に、私は万福の傷の経過を聞いた。太田も
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著作集(二)
﹁御無沙汰しちまつて。万福ちやんの怪我はどうですか﹂
らんやうになつたですわい。それでもう、わしは半年遊んで弟の世話に
だり、方々、痛い処が出きよつたですが、今になつて足がうまいこと曲
うにしとりますが、何しろあんた、弟とわしの家内とを合せると、十人
は何も云ひませんよ。反つてニコニコして、わしや万福に心配させんや
なつて食つとるんですが、そこへまた万福が怪我をしたちう訳です。弟
﹁へえ、お世話になりました。怪我はもう癒りましたが、あれから、飯が
食へなくなりましてなあ﹂
私は床の低い部屋の上り口の、蒲呉座の上に腰を下しながら、不吉な
予感に脅えた。
ようもありません。だからわしは組に行つて、何とかしてくれと云ふん
入口を入るまでは、 私は万福が快癒し、 元気に遊んでゐる姿を見て、 の大世帯です。弟の稼ぎと、わしの傷害扶助の六十銭とぢやあ、どうし
私自身も一緒に喜べるだらう、都合によつたら、感謝の辞まで﹁せしめ
ですが、組ぢやさつぱり受けつけませんのでな。弱つて居りますんぢや﹂
を差し出した。
私は、ポケットからバットを出して火をつけ、万福の父の前にその箱
る﹂ことが出来るかも知れない、きつとさうだ。と思ひ込んでゐたのだ
つた。
無意識ではあつたが、もし、私が自分の心の中にもつと頭を突つ込ん
で、蚤取り眼で詮索したならば、
﹁僕は決して君たちを軽蔑しないよ。だ ﹁どうぞ。それから万福ちやんは?﹂
と、どこかにあつたのだらう、と私は思ふ。もしあつたとすれば、それ
きのやうな心理がなかつた、とは云へないのだ。いや、こんな心が、きつ
さう云つて、投げ出した足を曳きずるやうにして、体をずらした。
てくれますんぢや。が、何にも食つてくれんので心配でならんのですが﹂
い子でしてなあ、痛いとも辛いとも云ひませんよ。ただ、黙つて寝とつ
から君たちは僕を尊敬しなければならんぢやないか﹂と云ふ風な商取引 ﹁ここに寝て居ります。先生にはわしが背負つて行くんですが、おとなし
はもう、蝦で鯛を釣るやうなものではないか。とにかく人から感謝され
万福は入口の右側の板壁に添つて、横になつてゐるやうだつた。
それは傷口は癒着してゐるかも知れない。
﹁御飯を食べなけれやいけない
私は上つて万福の顔を見ようか、どうしようかと迷つた。傷口を見る。
ると云ふことは決して悪い気持ではないのだ。ハッキリ云へば、いい気
持なのだ。いい気持になるなと私は自分に云つて聞かせてゐる訳ではな
い。いい気持になれば、それに越したことはないのだ。だが、いい気持
万福の父は、矢張り腰をかがめたまま、私の腰を下した上り口を、斜
私はいつものくせで、その薄暗い飯場の中で考へ込まうとしてゐた。
は医者でもないし、看護手でもないし、救護班でもなかつたし、慰問係
にはなるだらうし、私の立場としても、余り不自然ではない。だが、私
とも出来る。さう云つた方が、全つ切り黙つて出て行くよりも、慰さめ
﹁早く快くならうねえ﹂と云ふこ
になると云ふことは今の世の中では、さうたんとあるものではないのだ。 ね﹂と子供に向つて云ふことも出来る。
になつて上に上つた。そして、私の眼の前に、その左足を投げ出して坐
で も な か つ た。 た だの 土 方 兼 帳 付 け で あ つ て、 外 の 何 者 で も な か つ た。
云はば、省線の踏み切りにある自動ベル見たいな機能しか持たないもの
つた。
﹁どう云ふもんでがすかなあ、先生は傷は癒つたが胃が悪くなつた、と云
はれるんですがな。ひよつとすると、傷の方から来た胃病かも知れんが、 だつた。だから私は、私の持つてゐる極めて稀薄な人間的要素をも持て
の方の切り取りから、小さな石ころが一つ落つこつて来ましてね、わし
りしてゐて。これもをかしな話でしてな、堰堤の方で働いてゐる時に、上
くなるちうことがあるもんでがすかなあ。御免なさい。足を投げ出した
は来ない方がいい。どこにも行かない方がいい、とは、私は思はないが、
行の域にまで移したいと云ふ熱意に燃えてやつて来るならば、工事場に
云ふ風な美徳を帯びて、その上、その美徳を単なる装飾の範囲から、実
もし、人が、誰だつて構はないが、同情、博愛、共存共栄、社会主義と
余してゐた。
の背中に当つたんでがすよ。それから今ではもう半年になりますが、そ
少なくとも工事場に来ても、法がつかないと云ふ事を発見するのが落ち
それはまだハッキリは分らんと云ふんです。おでこに怪我をして胃が悪
の半年の間に、頭が痛んだり、腰が痛んだり、石の当つたところが痛ん
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であらう。
万福は殆んど、その中に人間︱︱尤も子供ではあるが︱︱が寝てゐる
などと思はれないやうに、一隅に寝てゐた。
私は、困つたことには、自動ベルであるべき筈なのに、感情を動かし
てゐた。
地下足袋を脱いで、私は飯場の蒲呉座の上に膝で上り、万福の枕頭に
にじり寄つて見た。
万福は眼を開けてゐて、さし寄せた私の顔を見てゐた。その眼は、迷
ひ込んで来た小鳥の眼のやうに、元通り無邪気であつたが、何かにとま
どひしてゐる風な表情があつた。
が、 その下ぶくれの可愛いい頬は、 まるで病監にゐる囚人のやうに、
痩せこけてしまつてゐた。六つの子供とは思はれないやうに、頬骨も顎
の骨も、露骨に突き出てゐた。
まだ六つの子供である、と云ふことを私は知り抜いてゐたが、眼の前
にゐるこの子供の顔は、どうしても﹁子供の顔﹂とは思へなかつた。萎
びてトゲトゲしてゐて、垢染みて、老人の、それも死に近い病人の顔に
似てゐた。
︱︱人間の顔と云ふものは、発育する途中では、旺盛な生命力を、目
盛り見たいに表情の中に持つて居り、衰弱する場合には、死期までの目
盛りを、その表情に持つてゐるものではあるまいか︱︱
と、フト、万福の顔を見てゐるうちに、私は考へた。
私は万福の頭を、その為に殺したりなんかしては大変だと案じながら、
静かに、静かに撫でた。
その軟かい頭髪は、埃にまみれてゐて、私の労働に荒れた掌の、筋目
の中に食ひ込むやうに感じられた。
私はその時、悲しいとか、哀れだとか、気の毒だとか云ふ感じよりも、
﹁困つた﹂と云ふ気持の方が多かつた。途方に暮れると云つた方が確かだ
つたであらう。
万福は今、私がどのやうにして見たところで、私には手がつけられな
い状態にあつた。万福の父も同様だつた。それ等を養つてゐる安東にも、
私は手を貸すことが出来なかつたし、私自身さへも、その時、私の家族
︱︱子供たちから﹁帰らうよ、帰らうよ﹂と、せがまれてゐた。
私にはどこに﹁帰る﹂家があり、故郷があらう! 子供たちは自分の
生れた処、又は、ここに来る以前の土地が故郷であつた。だが、その土
地を喰み出された私たちではなかつたのか。
万福も、きつと、労働不能に陥つたその父に、
﹁帰らうよ、帰らうよ﹂
と云つてせがんだのではあるまいか。その母に、泣いて訴へたことがあ
つたのではあるまいか。
もし、万福がその父母に泣いて﹁帰らうよ﹂とせがまなかつたとした
ら、どうだらう。そんな小さな子供にまで、
﹁帰るところが無い﹂と、思
ひ込ませるやうな日常の境涯に、この家族たちは置かれてゐたのだ。
私は放心したやうな状態で、豆とヒビだらけの掌で、無意識に、万福
の頭を撫でてゐた。そろつと、そろつと。
そして私の出来ることは、ただ、それつ切りであつた。
私は、どの位の間、さう云ふ放心状態にあつたか、とにかく、万福の
父は、私がフト気がつくと、私に話しかけてゐるのであつた。もう随分、
長く、いろいろと話してゐるのだと見えて、話のつながりが分らなかつ
た。よしんば話のつながりが分つたところで、私にはどうすることも出
来なかつた。
大体、私がフラフラの万福の容態を見舞ひに来たのは、万福の負傷や、
その経過についての心づかひからだけではなかつたやうだつた。
私 自 身 に 力 を つ け る た め も あ つ た や うだ。 と 云 ふ の は、 人 は 貧 困 や、
負傷やのドタン場に陥ると、死に近づいてゐることのために、かへつて
生命の方に向つて、あらゆる努力で手をさし延ばすからであつた。
負傷者自身が、もう生命への気力が萎えてしまふと、今度は、側の者
が、その人間になり代つても、何とか出来ないかと、夢中になるのであ
つた。それは理屈ではなかつた。同情や憐愍と云ふ言葉にも嵌り切らな
い、何か本能的のものであつた。
ジワジワと習慣的に貧困に慣れ、習慣的に栄養不良や、栄養不足から、
生命を離れて、始終眠くて堪らないと云つた風な状態で、死の方に近づ
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著作集(二)
いて行く人々にとつても、他の人の臨終を見ると云ふことは、その眠む
つた人たちの、死者に尽す礼だけなのだ。
で取りかへしはつかないのだつた。これからすることは、すべて生き残
﹁医者に診断書をとりに行つたんだ﹂
﹁万福のお父さんはどこへ行つたんだらうね﹂と、私は訊いた。
へてゐた。
を掘り起こしたり、ひつくりかへしたりして、それを瞠めながら何か考
と、私と向き合つて立つた太田は、地下足袋の先きで、川砂から砂利
・・・・・・
﹂
﹁どうするつて、お葬式をしなければならないだらう﹂
気に似たものを一瞬吹き飛ばし、燃えるやうな生命の力を電光のやうに
感じさせる刹那なのであつた。
詮索すれば、人間の美しいとされて
・・
・・・・
私はハッキリさう意識して、万福を訪問したのではなかつた。そんな ﹁それはさうだ。が
功利的な気持ではなかつたが、
ゐる行為にも、裏があるのだつた。
万福のトゲトゲした衰へた顔を、眼の焦点を合はせる訳でもなく見守
つてゐた私は、生命と云ふものを考へた。
万福の生命は、万福と共にあるのだ。
とにかく、死人の父の意嚮に従つて葬式を出さねばならなかつたので、
医者の待合室に待つてゐるだらう万福の父に相談して、それから川向ひ
﹁たうとう万福が死んだ﹂
と、太田が私に告げに来た。
の製材所に行つて、棺桶の板を持つて来よう、と云ふことにして、私た
夏の大洪水で流された飯場の跡は、綺麗な砂浜になつてゐた。そこで
飯場街で飼つてゐる豚だの、山羊だの、鶏だのは、平和に鳴いてゐた。
ちは歩き出した。
私は松丸太の枕木の上に腰を下して、スパイクを抜いてゐた。太田は
私と並んで腰を下して、投げ出すやうに云つた。
﹁可哀相なことをしたねえ。可愛いい子だつたが﹂
と、私は金棒︵スパイク抜きの︶を、足下に転がして、
は豚の児を引つ張り出して、万福位の、未だ学校に上らない年輩の子供
たちが、その耳を掴んで、丸つこい背に乗つて遊んでゐた。豚の児が水
﹁ぢやあ、とにかく、行かう﹂
﹁直ぐに行つてくれるかね﹂
溜りに入ると、子供たちは足を上げて水に濡らさないやうにしたり、水
が蠅を追つぱらふ時のやうに首を振つた。
太田は、子供にブラ下られると、その頭を撫でてやつた。そして、馬
﹁おぢさん﹂と駆けて来て、半天の裾にブラ下るものもあつた。
子供たちの中には、太田を見付けて、
その戯れに眺め入つた。
私たちは、そこを通りかかつた時、云ひ合はしたやうに、足を止めて、
今では、誰も諦めてしまつて、子供たちの運動場になつてゐた。
その砂浜は、幾度飯場を建てても、洪水の時に必ず流されて終ふので、
と鳴いたりするのだつた。
がゐるので、逃げることも出来ないで、のび上るやうに首を上げて、メー
山羊の仔は迷惑がつて、逃げようとするのだが、周りに一杯子供たち
外の一群は山羊の仔と角力をとつてゐた。
溜りから追ひ出すために、外の子たちが竹の棒でつつついたりしてゐた。
﹁今からね。何にも尽すことは出来ないかもしれないが﹂
万福の飯場に行つて見ると、色紙をどこからか買つて来て、それを切
り抜いてゐた。
万福の父や母の姿は見えないで、知らない近隣の人々であつた。
万福の、幼くして逝つたむくろは、いつか私が訪ねた時と同様に、布
団の下に長くなつてゐた。
私は型の如く線香を立て、合掌して、黙つて飯場を出た。その日もや
はり天気がよく、薄暗い飯場から出た私は眩しかつた。
陽は暖かく背中を照りつけた。
﹁どうする?﹂
と一緒に出て来た太田が云つた。
その意味が、私には分らなかつた。
﹁どうする?﹂どうすることが出来
るであらう。可哀相な万福は死んでしまつたのだ。どうして見たところ
6
私もそのやうに首を振りたかつた。もし、万福の死の事が、そのため
に忘れられるのだつたら。
私たち二人は、そのことについて、一言も云ひはしなかつたが、万福
の死について、申し訳が無い、と云ふことを、心の中に深く蔵ひ込んで
さう云つて、太田父子は、待合室を通り抜け、病室の廊下を通り抜け
て、川を見晴らしてゐる医者の家の居間に入つて行つた。
その居間には、丸木の大きな火鉢があつて、川を背にして、医者とそ
の養子と、こつち側に万福の父と、安東とが坐つてゐた。
なか
︵昭和十三年一月︶
﹁筑摩現代文学大系 葉山嘉樹集﹂筑摩書房
一九七九︵昭和五十四︶年二月二十五日 初版第一刷発行
一
﹁かうして屋根を葺くんだよ﹂
兄の方が、釣り竿を堤防の石垣の穴にさし込んどいて、
葉を落してしまつて、裸で立つてゐるのだつた。
桃の木以外には生えてゐなかつた。それも秋も深んだ今では、すつかり
と返事をしたまま、私は魚を釣り続けてゐたのだが、堤には小さな胡
﹁どこかで雨を避けておいで﹂
と、私に知らせに来た。
﹁お父さん、雨が降つて来たよ﹂
廓がぼやけて来た。女の子は堤の上で遊んでゐたが、さつき、
暗くなつて来た。十間許り下流で釣つてゐる男の子の姿も、夕暗に輪
氷雨
私は悲しい一つの死を繞つて、二つの立場があることを教へられた。
者の診断はその逆であつた。
前者の診断は患者に都合が悪くて、会社や組には都合が良かつた。後
因で神経系統を害した、と明言したのであつた。
かつたが、その医師の留守に、養子の医学士が診断した時には負傷が原
話は片づかなかつた。
ゐた。それが直接の原因であらうと、全く関係がなからうと、とにかく、
何故かと云へば、医師の診断は、死因が胃腸病にあつて、負傷にはな
く
ハッパの石に当つて怪我をしたのだ。その後一月ばかりで﹁飯が食へな
くなつて﹂死んだのであつた。
陽は汗ばむほど暖かかつた。
山羊と角力をとつてゐる子などは、汗をかいて、汚れた手で拭くので、
真つ黒になつてゐるものもゐた。
いつまでも子等の遊びに見とれてゐる訳にも行かないので、川原から
断崖の下の道に上つて、私達は上流に向つた。
飯場街と飯場街を繋ぐところに、やはりバラックの商店街があつた。
そこは停留場の真下三百尺位の、石崖の下で、発電所に近かつた。
そこで、私たちは太田の父に会つた。
太田の父は、何か憤つたやうな声で、太田に話しかけた。
私は一歩避けて、二人の話のすむのを待つてゐた。が、二人の話はな
かなかすまないばかりでなく、まるで親子喧嘩でもしてゐるやうな声高
になつて、その揚句には、私に構はず、二人でドンドン上流へ行くのだ
つた。
私は二人の後からついて急いで歩いた。
そこから直ぐ医者の家であつた。
道より一段低く、その玄関があつた。
待合室は患者でゴッタがへしてゐた。大抵は負傷者であつた。婦人科が
専門のこの医師は工事場について歩いて、殆んど外科を専門にしてゐた。
太田は玄関に地下足袋を脱ぐ時、私に気がついたと見えて、
﹁この藪医者は怪しからんです。うちの親爺には、死亡の原因が負傷にあ
ると云つたんださうだが、おぢ︵万福の父︶には胃が悪いと云つたんだ。
それで、今まで、医者の前で、親爺とおぢと医者と三人で、喧嘩をして
ゐたと云ふんです。あんたも立ち会つて話を聞いて下さい﹂
7
著作集(二)
36
と云つて、堤の上に乾してあつた乾草を胡桃の枝に渡して、屋根を葺
いてやつた。
多分この乾草は、軍に献納した馬糧の残りであらう。その一ヶ月前位
に、農民たちは腹までも川の水に浸つて、三角洲に生えた丈の長い草を
苅りに、川を渡つて行つたのを私は見てゐたから。
いつもなら、子供たちは、
﹁もう帰らうよ、暗くなつたぢやないか﹂だ
とか、
﹁お父さんは未だお腹が空かないの﹂とか云つて帰りをせき立てる
のだが、今日は﹁帰らう﹂とは云はなかつた。
高原の秋は寒かつた。日は暮れ、雨さへも降り出したので、寒さは又
ビ
ク
増した。子供たちの心の中にも心細さが増したであらう、と云ふことも
私には分つてゐた。
私は尺に近い赤魚を、サンザン苦労して引つ張り上げ、魚籠に入れる
直前に落した。
私の心の中は﹁心細さ﹂と云ふやうな感じはなかつた。そんな風に一
色では片附けられる感情ではなかつた。魚を落すのも、私の心が一と所
に落ちついてゐないからだつた。
このやうな夕暮が、私たちの上に襲ひかかるであらう、と云ふことは、
昨日や一昨日から予感してゐた事ではなかつた。もつともつと永い前か
ら分つてゐた事であつた。だが、それに対応する策を個人的に取る事が
出来ると云ふやうな事柄ではなかつた。
私は頭の中に湧き起つて来る、様々の懸念や妄想を、釣りをする、と
云ふ事で追つ払ふ為になるべく人の居ない︱︱たとひ魚は釣れなくとも
︱︱処を選んで、来るのが慣はしであつた。
その日は昼食を食つてから、私たち親子三人は、私と息子は釣りをす
る為に、娘は蝗を捕るために、家を出たのだつた。
そして、家を出る時に、小学校に今年上つた女の児が、
﹁お母あさん。もうお米がないのね﹂
と、米櫃を覗き込んで云つたのだつた。
日曜だつたので、小学校四年の男の子も、私もそれを聞いてゐた。私
の場合では聞かなくても知つてゐた。その為の打開策を、もう三年以上
も考へあぐんでゐたのだつた。
が、子供たちには、その日、米櫃が空になつてゐることが、何かギクッ
と来たらしかつた。
町中の雰囲気や、駅頭の雰囲気と、子供たちの生活の本拠の家の中の
雰囲気とが、何か違つたものを感じたのであらう。
華々しいもの、潔いもの、勇壮なるもの、さう云つたものから、子供
の家へ帰ると、ひつそりと沈んだ冷え冷えとしたものが、両親の体臭の
やうに、家中を靄のやうに立ちこめてゐた。
子等は生れると直ぐから、決して裕福には育たなかつた。裕福などこ
ろか、転々として居を追はれる両親に附いて、町から村へ、山へ峡谷へ
と、土方や坑夫の間を、ひどく簡素な生活の間を生ひ育つた。米櫃が空
だなどと云ふことは日常の事であつた。
だが、今度ばかりはどこか違ふ、と云ふことを、動物的に直感したら
二
しかつた。その内容は子供等に解る訳もなかつた。その両親の私たちに
も解らなかつたから。
雨が強くなつて来た。
自分の持つてゐる釣竿は未だ見えた。が、餌箱の中の餌の﹁チラ﹂が
もう見えなくなつた。釣針も見えなくなつた。ピクッとかかつたので糸
を上げても、どこに魚がかかつてゐるのかも見えなくなつた。
もう、釣りも駄目になつた。
私は、
﹁親子心中﹂をする人たちの、その直前の心理を考へてゐたこと
に気がついた。
足の下には、日本の三大急流の一つが、セセラギ流れてゐた。減水し
てゐたので、豪宕たる感じはなかつた。が、それでも人間の十人や百人
呑んだところで、慌てると云ふ風な河ではなかつた。
暗い中に流してゐたので、鉤が木工沈床の鉄筋か玉石の間か、流木か
に引つかかつてとれなくなつた。
首筋には雨が伝はつて来た。
8
釣竿 を 寄 せ、 竿 頭 か ら テ グ ス を 掴 む と、 私 は 力 ま か せ に 引 つ 張 つ た。 かでね﹂
男の子は先頭に立つた。女の児は私の後ろになつた。
私たちは暗くなつた河の堤防を、下流に向つた。
テグスは竿頭から三分の一位の処で切れたことが、手さぐりで分つた。 ﹁さうかい。サア帰らう﹂
﹁サア、帰らうぜ﹂
と、私は子供たちに声をかけた。
コンクリートの橋があつて、そこで県道に出て、そこから私たちの家
まで、約一里あつた。橋の袂に小屋があつた。橋を作る時に拵らへたセ
﹁帰るの、帰らうねえ﹂
と、子供たちは下流から声を合せた。
そこで上の子は、私たちを待つてゐた。
メント置場か何かのバラックである。
来た。私はカジカンだ手で竿を畳み、子供たちの方へ堤の上を歩いて行
私は下の子の来るのを、上の子とそこで黙つて待つてゐた。
だんだん強く降つて来た雨で、私たちは濡れてゐた。体が寒く凍えて
つた。
どう云ふものか、ふだんお喋舌りの子等がその夜は黙り込んでゐた。
無邪気な、詰らない疑問が飛び出して、私を煩さがらさなかつた。
兄妹は五尺にも足らぬ胡桃の木の下に、二尺角位に乾し草の屋根を葺
いて、その下に雫で背中を濡らしながら、木の幹を抱き、向き合つて跼
︱︱父ちゃんは考へるがいい。︱︱
その悪路を子等は驚く程、足早に歩いた。
路なのに、その日は掘り起した泥と雨との為にぬかつてゐた。
県道は、電話線の埋設工事で掘り起されてあつた。いつも坦々たる道
さう云つて、私たちは県道を歩き始めた。
﹁お前たちはお父さんの先きにお歩き﹂
三人、一緒になつたので、
とでも、子等は思つてゐたのだらうか。
んでゐた。
﹁竿はどこへやつた?﹂
と、私が訊くと、
﹁ほら、そこにあるよ﹂
と、上の子が出て来た。
﹁ああ、分つた、分つた﹂
私は子供の竿を抜きにかかつたが、元の方の二本が固くて抜けなかつ
た。
暗闇の中で、私は子供たちの姿を見失つてしまつた。が、長い間、さ
うだ三十分位の間も、私は子等の先きに立つた姿を﹁見失つた﹂と云ふ
﹁これは抜けないや、濡らしたから緊つちやつた。お前担いでおいでよ﹂
﹁うん﹂
ことに気がつかなかつた。
余んまり速いぞう、お父さんは附いて歩けないぞ﹂
両側の林の樹々には、葉のある樹々が多かつたので、雨が、そこまで
道は林の坂道にかかつてゐた。
﹁おうい!
もう私は、先きに歩いてゐる、見えない子供たちに声をかけてゐた。
子 供 の 姿 の 見 え な い こ と に 気の つ い た 途 端 に、 考 へた が、 そ の 時 に は、
長い間、帰り途の半分位の道程を、私は何を考へてゐたのだらう、と、
﹁ほら、こんなに釣れたよ﹂
魚籠を解いて腰から外し、子等に持たせた。魚の形が割合に大きかつ
たので、数の割合ひに目方は重かつた。
暗い闇の中で、魚の腹が白く光つてゐた。
﹁サア帰らう。寒かつたかい﹂
私は﹁腹が空つたらう﹂と云ひかけて口をつぐんだ。
﹁ちつ と も 濡 れ な か つ た よ。 お 父 さ ん 兄 さ ん が 小 屋 を 拵 ら へ て く れ た か
その音にせき立てられて、子等の歩みも一層速くなつたんだらう。
来ると急にひどくなりでもしたやうに、音を立てた。
﹁いつ小屋を葺くことなんか覚えたんだい、お前は?﹂
が、私はノロくさく歩いた。子供たちに追ひつかうと試みたが、駄目
ら。ねえ、兄さん﹂
﹁戦争ごつこの時にやるからね、もつと大きなのを葺くんだよ。炭俵なん
9
著作集(二)
な事が分つた。
私は感じてゐた。
私 た ち は ﹁死﹂ を 売 り 物 に する 訳 に は 行 か なか つ た。 坊 さ ん で さ へ、
らも離れて行くことは自明の理であつた。
考へ事に没頭してゐれば、具体的な、現実的な生活からも、生活手段か
ゐた。それに附随して湧き起つて来る問題を考へてゐた。さう云ふ風な
無理もない話であつた。私は全三ヶ月間、生と死との事ばかり考へて
恐ろしかつたのだと、私は考へた。
子供が急いで急坂を上るのは、私の身心から発散する墓場の雰囲気が
私の体にも、私の心にも、私の歩みを速めるだけの力が残つてゐなか ﹁子供たちは俺の考へを感じてゐるに違ひない﹂と。
つた。速めると云ふだけで無く、一口に言つて終へば生命力が残つてゐ
なかつた、と云つてもよかつた。
嫌悪感、それが私の全体をひつ括んでゐた。それは自分の外に向つて
も、自分の内に向つても、粘り強い根を延ばしてゐた。
今までも、嫌悪感と云ふものは幾度か、殆んど数へ切れない位に私の
首を締めつけた。が、今度程、それが長く、その上小憩みなしに続いた
ことはなかつた。
を 抜か す﹂ と 云 ふ 現 象 が 起る こ と が あ る。 こ の 状態 が 私 を 掴 ん で ゐ た。
ものすら売り物にしにくい場合に、生命とは何ぞや、と云ふやうなこと
﹁生﹂を売りものにするのも、私の場合では至難であつた。生命その
昔のやうには﹁死﹂を売りものに出来ない時代なのだ。
腰を抜かしながらも、私は子供たちを両手で捧げて、死の濁流へ呑まれ
を、無学無智な私などが、どのやうに堂々巡りをして考へたつて、それ
肉体の上の極度の疲労と、精神上の異常な打撃とが同時に起ると、
﹁腰
ないやうにしてゐたのである。
で考へられた訳ではなかつた。
かう云ふ風な考へ方が、かう云ふ風な文章、又は言葉で、私の頭の中
たくなかつた。
私は怖れた。まして生命とは苦痛だ、と云ふ風な結論に私は絶対に入り
生命とは﹁馬鹿気たものだ﹂と云ふ途方もない結論に到達することを、
戦場で多くの死傷者が出た。それを新聞紙上で見てゐるうちに、私は、 が商品にならないのも分り切つたことだつた。
私の死をも考へるやうになつた。身に引きくらべて考へるのである。そ
れが私の習慣になつた。死のあらゆる場合を考へ続けることが習慣にな
ると、私の生活は生命へよりも、死の方へ近づいて行つた。
生命への嫌悪感!
いや、この言葉は嘘だ! が、何かしら、生きて行くのに大骨を折る
まいが私の一時一瞬の生活も、政治の下にあるのだ。私の考へや決心な
かつた事もないのだ。まして、私が政治と縁を切ると決めようが、決め
だが、私は今まで一度だつて、政治家になつたことはないし、なりた
と云つた風な想念の断片が、私の頭をかすめるのであつた。
と云ふことに、熱意を欠いたとでも云ふのであらうか。これは私にとつ ﹁もう政治とは絶対に縁を切る!﹂
ては生れて最初の現象である。
自殺を思つたことも幾度かあつた。それを企てたと自分で思ひ込んだ
こともあつた。
が、これ程、怖れなく、と云ふよりも生への執着を抛棄して、死の方
要するに生命と云ふものは、動物的なものなのだ。この動物的な生命
へ引つ張られるやうにズルズルと考へ込んで、 あらゆる生への努力を、 どは全つ切り問題にはならないのだ。
六ヶ月間も打つ棄つてしまつたことは初めてであつた。
を、生き甲斐のあるやうにするのには、動物的な生活態度が必要なのだ。
兎や雷鳥が、雪の降る時に白色に変り、草の萌え茂る時に、その色に
に、枯枝と同じ色をして、力んでピンと立つてゐれば、生命と云ふもの
変るやうに、カメレオンのやうに、絶えず変色したり、尺取り虫見たい
子供たちは、余程急いで歩いたと見えた。
は保つものなのだ。
三
私の呶鳴つた声にも返答がなかつた。
10
それは何等卑下する必要のないことなのだ。大体、命と云ふものがそ
んなふうなものなのだからだ。
だが、動物も人間となると、勿体をつける必要が生じて来るのだ。余
りアッサリし過ぎてもいけないし、正直過ぎても困るのだ。
かう 云 ふ 風 な こ と を 考 へ て ゐ る 人 間 は、 子 供 と 喜 を 共 に す る こ と が、
時とすると困難になつて来る。
四
私はもう、私には見切りをつけた。
何の才能もないし、学問もないし、社会人類、国家に尽す方法も持た
ないし、詰り人生の食ひ潰しであることを自認したのだつた。
自認すると同時に、他からもさう認められてゐたのだから、結果は明
白だつた。
そこで、子供たちには、子供たちが﹁面白い﹂として喜ぶことを、さ
せてやらうと思つた。と云つても、収入が途絶してしまつてゐるのだか
ら、その範囲は極めて狭く局限されるのだつた。
その日の釣り兼蝗取りも、その催しの一つだつた。これなら金がかか
だが、私は子等の心の中へだけ入り込んで終ふと云ふことは出来なか
つた。子等の心の中に入り切る事は出来なかつたが、あの子たちよりも、
もつともつと不幸な子供たちが沢山あるし、又、これからはもつと、ず
つと殖えるに違ひない、と私は思つた。
坂の中途に、檜の造林が道を挾んで、昼もなほ暗い処がある。そこの
入口で子供たちは私を待つてゐた。
﹁速いねえ。もつと悠くり歩かなけや、父ちやんは附いて行けないよ﹂
﹁引つ張つて上げようか﹂
と、一年生の女の児が、私の手を引つ張つて、グイグイと先きに立つた。
強い力だ。私の心はスパークのやうに、一瞬間青白い光を放ち、熱を
持つた。が、次の歩みの時には、もう元の闇に帰つてゐた。
急坂を登り切らうとする所、村の部落外れに、荒ら屋がある。
その家の子供の一人が、私の男の子と同級である。
ある夜、私は釣りの帰りに、硝子のない硝子戸から、その家の有様を
通りすがりに眺めた。
亭主は手を膝にキチンと揃へ、正坐して俯向いてゐた。細君は亭主と
正面に向き合つて、﹁論告﹂を下してゐた。
傍聴席には、その両親の子供たちが、ハッキリ数へることは出来なか
その夜は、囲炉裏の自在鍵には鍋がかかつてゐなかつた。火も燃えて
それだけ私は聞きとつた。
らないで、子等の弁当のお菜が取れる。その上川魚は頭ごと食へるから、 つたが、七八人、或は十人もゐたかもしれなかつた。
第二の国民の骨骼を大きくする為のカルシウム分もフンダンにある。外 ﹁お前だけ酒を飲んで面白いかもしれないが ・・・・・・
﹂
の栄養分は知らないが、悪いことはないに決つてゐる。
そんなことはどうだつて、さうだ、どうだつてよくはない。が、それ
と腹の中で云つて、私は首をすくめた。
よりも、釣りをすることを子供たちが、果して喜んだかどうかなのだつ ゐなかつた。
た。私が居なくなつて、子供たちが成長してから、その日を快よい、生 ﹁さては米代を飲んぢまやがつたな﹂
き甲斐のある一日として思ひ出の種にし得るかどうか、が問題であつた。
屋根板を削るのや、頼まれて日雇に行くのが、その家の業だつた。
私はその夫婦の両方に同情した。
このだらしのない、子等に対して申し訳なく、相済まなく思つてゐる
父の心が、そんな釣りの半日で子供の心に通じるかどうか、これは寧ろ
セリフは私の家でも同じだ。日本中、いや世界中、このセリフは共通
ジグスのやうに、パンのし棒でのされるにしても、あのやうに朗に飲
感を伴つて、亭主野郎の頭上に落ちて来るものも少ないだらう。
してゐるだらう。そしてこのセリフ位、古くならないで、何時も鋭い実
逆効果でありはしないか。
私より遙かに先きに立つて、暗闇の中に姿を消してしもうた子供たち
の心の中に、私は入らうと努めた。
︱︱何をあの子等は考へてゐるであらう︱︱
11
著作集(二)
めるのならば、酒は確かに百薬の長だが。
親子心中を一日延ばすために、飲んだとなると、効き目が一寸あらた
か過ぎる。
﹁どんな子だい。あの家の子は?﹂
と、私が男の子に訊くと、
と、ふだんから云つてあるのだ。
子供たちが食事が済み、寝床に入つてから、私は米を借りに出かけた。
、十時になると眠り込む。
村の町は、夜九時になると死んだやうになる、偶然飛び込んだ旅人を
泊める宿屋までも
︵昭和十二年十二月︶
出征を祝す、の征旗も、旗を取り込んで、てつぺんに葉を少し残した
運動会の風景
その運搬の技法からいへば、完全に近かつた。だが、悲しいかな、私の
山蟻といふ奴である。臍といふものは人間の重心であるから、この蟻は
なことに驚いてゐる私の臍に蟻が食ひついたのである。大きな真つ黒い
万古の流れに洗はれて、土を守り、樹木を育ててゐる島である。そん
どに﹁土﹂のあるのを発見して、私は驚いた。
がない。その島の頂上に弁天様が祭つてある。その祠の前や、岩の間な
で、高山の様子がある。そこへ登るには、ロッククライミング以外に手
竜宮岩といふのは、木曾川の中流に、島を為して残つてゐる一大岩塊
た、竜宮岩も紅葉の間に浮んで、静もりかへつてゐる。
私が此夏、鮎釣りに泳ぎ渡つた際、大きな蟻に臍を食ひつかれて愕い
木曾川は底まで澄みきつて、両岸の紅葉を映してゐる。
三日の明治節の国民運動会の日である。
表で遊んでゐる子等が﹁春が来た、春が来た﹂と唄ひ出した。十一月
あくまでも蒼く晴れ上つた空であり、渓谷には微風さへもない。
上
一九七九︵昭和五十四︶年二月二十五日 初版第一刷発行
﹁筑摩現代文学大系 葉山嘉樹集﹂筑摩書房
明日はどうなるであらう。
﹁あだ名をダルマつて云ふんだよ。憤ると頬つぺたを膨らませるんでね。 旗竿だけが、淋しく軒先きに立つてゐる。
それでダルマつて云ふんだよ﹂
﹁さうかい。お前だつて憤ると頬つぺたを膨らせやしないかい﹂
﹁とつても膨らませるんだよ。眼玉を大きくしてね﹂
五
﹁余まり憤らせない方がいいね﹂
農村は萎びてゐる。
身心共に萎びてゐる。
枠が小さくて、一寸堅過ぎる。
人の考へる通りを考へ、人の感じる通りを感じる。さうしないと喰み
出して終ふ。
喰み出したらお終ひではないか。喰み出さなくても、暮しは苦しい。
私たちは家へ帰り着いた。
子供たちは濡れた服を脱いで、コタツに入り、夕食を摂つた。日頃健
啖なのに、下の女の児は一杯食つた切りで、
﹁御馳走様﹂と云つて、サッ
サと寝床にもぐり込んだ。
男の子は三杯目に、
﹁御飯未だあるの﹂
と女房に訊いた。
魚釣りも、蝗取りも、米櫃の空なことを忘れさせなかつたのだ。
私の教育方針もよろしきを得てゐる。
﹁兵隊さんたちは、三日二夜食もなくつて軍歌にあるだらう。苦労してゐ
るんだからね、お前たちも贅沢を云つてはいけないよ﹂
12
36
次ぎのランナーは、みんな年が若かつたので、元気にまかせて、担い
組合長が直線コースで校長を抜いた時は大喝采が起つた。
近くでつゝぱつてゐるだけだつた。おそろしく鋭い痛みだつた。ほんと
でゐるのが肥えの筈であることを忘れて、ポチャポチャやりながら駆け
方が蟻より大きかつたものだから、蟻の足は岩に届かないで、私の臍の
に私を巣の中に運び込まうとする気魄が感じられた。見ると外にも大小
出し疾走し始めた。審判員がこぼれただけの水を補給しようとして、バ
ケツを持つて追つかけて、打ちあけるのだが全部は入らないといふ風だ
の蟻がゐるのである。
これは堪まらぬ、と私は早々に蟻を払ひ落して、岩を伝はつて逃げ下
つた。
縄なひリレーは十四区から五人づゝの選手が出て、一メートルづゝ縄
つた。
﹁人間に食ひついた最初の蟻だらう、それは。その島では﹂と、折から忙
を綯つて、一定の長さに達した時、石を載せた箱を引つ張つて張力を試
立つてゐて、おそる
く
石を引つ張つて賞に入つた、といふので﹁縄の
めに、切れた縄もなかつた。が、まるで縄になつてゐないで、さゝくれ
験して見た。これは殆んど同時に綯ひ上つた組が多く、石が軽かつたた
しい中を講演に来てくれたK君が、笑ひながら、臍の話を批評した。
夏中釣りをしたため、今年は私の健康はいゝ。その後もずつと運動を
続けてゐるので。
今日は稲扱きの小閑を盗んで村民運動会である。村中が、どんなに前々
からこの日を喜び待つてゐることか。まるで大人も子供のやうにである。 規格﹂の審査をやれ、といふ声が上つた。
机の上に六本並んでゐるのだから、他の賞品になら寛容の美徳を現はす
何しろ、優勝区には、増産奨励の酒が一升づつ出ることになつて村長の
競 技 は 各 区 が 単 位 に な つ て 十 数 区 で 行 は れ る が、 そ の 中 に ﹁三 代 リ
連中も、この縄綯ひリレーだけは、勝敗が明確でないといふことにした。
といへば、私たちの村では、大人も子供のやうに淳朴である。
レー﹂といふのがある。これはお爺さん、お父さん、息子、といふリレー
爆笑に続く哄笑。晩秋の陽光は澄みきつた高山性の空気を透して暑く、
んでゐるのである。
一九七六︵昭和五十一︶年六月初版発行
無名作家Nの情熱︵上︶
遺言文学
﹁葉山嘉樹全集 第六巻﹂筑摩書房
かうして農民は、全力を上げて増産にいそしんで、子供と一緒に娯し
明日からまた稲扱きに寸暇もない。そして直ぐに麦蒔きである。
かうして、一日楽しく明治節を祝つた。
ちきつた。
会所で一同持ち寄りの懇親会が開かれた。ここでまた、運動会の話で持
運動会の終了後は、賞と書いた胴巻きのある酒瓶を中心に、各区の集
一同を汗ばませた。
である。この選手にこと欠かないから驚く。お爺さんの場合歩が悪くて
も、息子の場合や孫の場合に、断然取りかへすといふことがある。爺さ
んが若ければ孫も若いのだ。
下
肥え担ぎ競走は、おそらく農村独特の増産競技であった。役場と産業
組合と国民学校の対抗リレーで、スタートには村長と、組合長と、校長
とが並んだ。
まさかいくら何でも、本ものは入れて走れないので、清水を八分目く
らゐ湛へた。
ヨーイ、ドン、で駆け出したのだが、村長さんも組合長さんも日頃馴
れてゐることとて、腰の据り方といひ、手の振り方といひ、足の運び方
といひ堂に入つたものであつた。が、おそらくさつぱり駄目だらう、と
いふ予想を裏切つて校長も農民の誇りを傷つけるやうなことはなく、抜
きつ抜かれつ、水をこぼすまいとして走る、組合長と村長の後を続いた。
13
著作集(二)
と述べ立てる必要の無い事であらう。
プロレタリア作家が、現在、どんなに困難な道を歩いてゐるか、とい
く
ふ事は、クド
それにしても、私は、今、一つの話をしないではをれない。
私た ち の 友 人 の N は、 無 名 作 家 で あ る。 A と い ふ 批 評 家 が 紹 介 し て、
私たちのグループに入つたのだつた。
魔になるだけなのだから、それよりも、年来の目論見である、水力発電
所に関する長編でも、書きあげようと、発電所の見おろせる鳥屋にガン
張つてゐた。
そのうちに、同志のSやIなどが、
﹁あつさりやめた。心配するな。帰
つたらゆつくり話す﹂といふ、簡単極まるハガキを、私の旅先きに寄越
けいれんの発作があつて、その上、視力が、常人の三分の一しか無いの
も、文学的に野心が多く、闘争の中にすつかりはまり込んだ、といつた
全身的に、階級闘争に、もつともピッタリくつついてゐる男である。I
このNは、 もう三十を越してゐるのであるが、 体が小さくて細くて、 した。Sは、私たちのグループの中で、文学的にもであるが、生活的に、
である。視力の不足なのは、幼少の時からの絶えざる栄養不良と、不足
風な男である。
な名目論や、ゴマ化しで無いものが、底の方に流れてゐる、といふ事が、
が、後で、いろいろ、理論めいて、えらさうな事はいへようが、そん
ろ、骨を折つて見た。
そして、別れなくていゝものなら、別れないやうにしようと、いろい
で、私は、田舎から慌てて帰つて来た。
Sたちと行動を共にしなければならないと思つた。
私は、文学の上では、兎も角、運動の上では、他の人たちを捨てても、
*
から来たのであつた。
炭坑夫をしたり、刑務所の内を潜つたり、しながら、東京へ流れつい
て、 私 たち の グ ル ー プに 入 つ た。 体 が 小 さく て、 弱 い 病 身 では あ る が、
火のやうな階級的情熱を持つてゐる。
*
Aでも、Mでも、私でも、借家争議といふ事になると、いつも、この
N君を留守番に頼んで、闘つてもらふのが常であつた。
ところが、目的は、プロレタリア作家として、その闘争力を、ペンと
紙とを通じて、読者に訴へることにある。だが、この点になると、Nの
といふ奴もあるが、そんなのは、いつでも、
た。そして、それが、ひどく文字には現し難い気持ちではあるが、
﹁捨て
流れてゐるものは、﹁何﹂ であるか、 といふ事を、 私は探求しにかゝつ
が、どの位あるかを考へた方がよからう。そこで、その深い、底の方を
今まで、我々と分れて、えらさうな口を利いて、消えて無くなつた者
私が、面の皮をヒン剥いてやる。ペンや、口でなら、何とでもいへる。
やつて来た者で、ぬけ
く
Sや、Nを、文学的ルンペンなどと、たつた一ヶ月前まで位、一緒に
空家に籠つてこの一念︵中︶
ペンは、 心臓の速さに追つつけないのであつた。 いつでも書くものが、 二三日して、ぼんやり私にも分つて来た。
主観的に、自分で先にカンシャク許り起してゐるものだから、読者に分
らないのであつた。
私たちは、お互に、励まし合ひ、研究し合つたが、私にも、Nにも、カ
ン所がつかめなかつた。
そのうち私一家は、一時田舎に落ちのびて、留守は、N君とH君とに
委せて置いた。落ちのびた私たちも、留守の両君も、現在の失業者のな
めるのと、同じ悩みを味つたのはいふ迄も無い。
ところが、私の居ない間に、私たちの属してゐた、文学上のグループ
が、どういふ訳だか、グラつき始めた。私は、遠く、離れて居たものだ
から、単に、経済上の問題であらう、と思つてゐた。
身﹂なもの、であるといふことが分つた。
その問題ならば、自分が帰つたところで、手ブラで帰つたのでは、邪 ﹁Sは、捨て身でやつてゐないだらうか?﹂﹁いや、やつてる!﹂
14
と私は考へた。
そこで、私は、この﹁捨て身﹂で階級闘争の中に入つてゐる、同志と
別れることは、出来ないと考へた。
さういふ訳で、いくらか、余裕を持つて、やらうといふ者と私も別れ
てしまつた。
*
それから、私たちは、残つた連中にいはせると、
﹁組織もヘチマも無い
居心地のいゝ﹃クラブ﹄に尻を落ちつけたのである﹂
私たちの﹁挨拶状の本質は、隅から隅までのルンペン的、芸術至上主
義的偏向をバクロした﹂
よろしい。いくらでも、張りよい、小型のビラを、僕等の背中に張り
つけるがよい。
今東光を、藤森成吉を、片岡鉄兵を、中条百合子を、信用しようとも、
しもしなかつた私たちである。
私自身についていへば、諸君のいふ通り、
﹁隅から隅までルンペンであ
る﹂かも知れない。それは、私も、絶えず、私に反問し、反省してゐる
所である。だが、さういつたのは誰であるか。
*
の所属の団体で、とハッキリして、運動に入つた。
それから、 私たちは、 文学の事はクラブで、 政治、 経済上の闘争は、
く゛
それ
文士といふ、ハンデキャップをつけて、政治上経済上の闘争に、さ迷
ひ込まれては、お互に迷惑だ。
今、﹁ルンペン共﹂ は、 社会大衆党の内部で ﹁右翼的偏向﹂ と闘つて
ゐる。
さて、本題に立ち帰つて、
﹁どうすれば、真実な意味の、強いプロレタ
リア文学が生れるか﹂
私は、調べた芸術とか、プロレタリアリアリズムとか、難かしいもつ
ともらしい文句から、全つ切り、傍道へ外れ込んだ。
私には、文学士の肩書も無ければ、それらしい何にも無い、参考にす
べき外国の書籍も読めない。
*
﹁えゝい! 捨て身でブッつかれ!﹂と、私は又、捨て身を引つ張りだし
た。その﹁捨て身﹂から、何と、私は、
﹁遺言文学﹂といふ、文句を思ひ
ついちまつたのだ。
﹁遺 言 文 学﹂ の 文 句を 思 ひ つ い た のは、 妻 子 を 田 舎 に残 し て、 私 は 一 人
で、間借りしてゐる、空家の二階であつた。家主も、世智辛くなつたと
見えて、空家の分割貸しを始めやがつた。
これこそプロ文学を守る道︵下︶
Nに、私は、この﹁遺言文学﹂を奨めたのである。それは、Nに自殺
を強ひるにも等しい程、惨酷な事であつた。
﹁だが、君といふ肉体は、一つの遺言も残さないで死ねば、それ
つ切りだ。だが、君が、現在の世の中に対して持つてゐる、支配階
級へのじゆそ、君と同じやうに踏みくだかれてゐる者への愛情や涙、
この不合理から自分自身を解放する為の組織、さういふものを、死
を決して、遺言として残す積りでかゝれば、必ず人を打ち、動かす
ものが書けると思ふ。僕たち、労働者出の作家には、それ以外に何
の材料も無いでは無いか。小細工を弄する時ではない、と僕は思ふ。
実際、君にしろ、僕にしろ、皆が、自殺か何かを考へないではゐら
れない時代なのだからねえ﹂
さう、私はいつてしまつて、後で、Nの顔を見る事が出来なかつた。
*
15
著作集(二)
文学は惨酷なものである。
﹁あゝ、またおれは追ひ抜かれた!﹂
つた。
工場の窓より
﹁葉山嘉樹全集 第五巻﹂筑摩書房
一九七六︵昭和五十一︶年二月
兄弟よ! 労働は幹なる哉。われ等は工場で死の危険と面接し、家庭
よくわれ等は飲み込むことが能きる。
で
や愛を、労働のあらゆる刹那、十五分の休みに、冷たい水のやうに心地
に工場の裾を洗つてゐるではないか。自然がわれ等に啓示する神の思想
想の光が天空一杯に輝いてゐるではないか、
﹁愛﹂の波が悠久な姿で静か
また兄弟よ。われ等も心の眼をもつとはつきり覚さうではないか。理
心を眼覚すであらうから。
おとなしくわれ等は待たう。今までも待つたやうに。軈て資本家達も良
やが
へ働きに行かねばならぬ。さうしないと人類は物資の欠乏に苦しむから。
兄弟よ! もう眼を覚さなければならない。午前五時だ。起きて工場
一
﹁遺言﹂の積りで、プロレタリア文学の道を守つて行かうと思つてゐる。
は、全く、困難な道を行き悩んでゐる。だが、私たちは、
﹁捨て身﹂で、
私たちは、困難な時代に生きてゐる。そして、プロレタリア文学の道
に食ひ込む雑誌の創刊号に発表される。
この小説は、外の、捨て身な作品と共に、私たちの生活を、文字通り
*
と、叫んだ。私の声は、まるで私の子供のと、すつかり同じ泣き声だ
もし、
﹁遺言の積りで書いたもの﹂が、人を感動させる事も、面白くも ﹁素、素、素晴らしい!﹂
可笑しくも、無いものであつたら、どうであらう。
﹁それは、まだ君が、
﹃遺言の積り﹄であつて、
﹃真実の遺言﹄で無いから
だ、と、真実の遺言を書かせちまはなければ、プロレタリア文学はなら
ないだらうか?﹂
まだしも、﹁それはルンペンだ﹂ とか、﹁それは右翼的偏向だ﹂ とか、
何だかだといはれてる方が、楽な気持であらう。
*
Nは、それから、一ヶ月許り姿を見せなかつた。私は、非常に心配し
た。で、絶えず、空家の二階から、おとし穴のやうなNの借間を訪問し
た。Nは、党支部の仕事でゐない事が、間々あつた。
﹁遺言文学なんて出たら目を、気にかけないでゐてくれるやうに﹂と、私
は願つてゐた。だが遺言よりもいゝものを書いて、苦しんでゐる、プロ
レタリア農民を、鼓舞し、慰め、立ち上らせてくれるやうな、素晴らし
いものを、創り上げてくれるやうに、とも願つてゐた。
*
それから、一ヶ月の後に、私たちの、プロレタリア作家クラブで、朗
読会をやつた。その時は、各々自作の作品を朗読するのであるが二つの
素晴らしい作品が、朗読された。その一つは、私の心配してゐた、Nの
ものであつた。Nの小説が、中途までくると、私は、仰向けに寝転がつ
て、溢れる涙をそうつと、たもとでふいた。が、ふいてもふいても、ふ
き切れない程の、涙が、腹の底から沸きだした。
Nが読み終つた時、長い、深い、沈黙があるだけだつた。咳もしなか
つた。
暫くして、同志Sが、やうやく口を切つた。
16
ぬ。われ等は絶対に無抵抗主義であらねばならぬ。若し反抗を試みるな
に帰つて貧窮と握手をする。兄弟よ。これ等のことは苦しいことである。 な衣服と、荘大なる邸宅を載せて、悦楽を貪る資本家に反抗してはなら
けれどもこの苦しみの中に人類の進む道が残されてゐる。何故つて兄弟
らば、首の周りに鉄の柵を結ひ廻してからにするがいゝ。又は、われ等
ゆ
よ。貧窮と苦痛とのある処にだけ虔譲と愛とが残されてあるからだ。
が
せ
かず
とを養はねばならぬ。子供に活動を強請まれても、見に連れて行く代り
せ
一生懸命糞真面目に働いて、四十円位月に貰つて、女房と三人の子供
の運命の儚さを嘲笑ふ位なものである。
陰鬱になる筈である。一体われ等は何を笑つたらいゝか。切めて自分
もなく陰鬱な顔付きをして。
陰鬱な気持ちである。兄弟たちは傍目を振らずに働いてゐる。どこと
二
軈て来る理想の暖かい光を待たう。
兄弟よ。おとなしく暴風雨の過去るのを待たう。希望と憧憬とを以て、
兄弟よ。われ等は近々僅な日子の中に多くの負傷者と一人の死者とを、 及その家族の胃の腑と腸とを切開除去した後にするがいい。
わ れ 等 の 兄 弟 の 中 か ら 出 し た。 彼 等 の 運 命 は 思 ふ も 哀 れ な 限 り で あ る。
いま
足を折つた一人の兄弟は治癒が長びいて、一ヶ月半経つた。工務課の人
たちの意志によつて彼は未だ動かせぬ足を持つて下宿へ帰された。兄弟
よ。われ等は算盤玉ですつかり弾き出されるのだ。ある技手は﹁あいつ
は酒を飲んで来て、倒れるに極つてゐるセメント袋の山の下に、幾度も
注意されたに拘らず休んでゐやがつたんだ﹂と云つた。さう云へば会社
は公傷の取扱にしないで済むからだ。兄弟よ、われ等を同胞であると思
つ て 呉 れ る 人 間 が、 た つ た 一 人 で い い か ら 工 務 課 に 欲 し い で は な い か。
そこには人間の代りに製図機械や、ペンや、算盤玉などが、洋服を着て
毎日詰めかけて来るのだ。
兄弟よ。製図機械や、算盤玉は整つてゐて綺麗だが、われ等は汚くつ
に拳骨を一つ食はせるより外に仕方がない。女房は毎日のお菜で困難を
極める。いやだいやだ、全く生きるのが厭になる。生きるのは厭になつ
て埃まみれだ。
兄弟よ。五月の十九日、兄弟の一人が熱灰中に墜ちて大火傷をした揚
ても死ぬまでの決心はつかない。工場で負傷して死んでさへ遺族は路頭
ひと
句、病院で遂に死んでしまつた。兄弟よ。他の事では無いのだ。われ等
に迷はねばならぬ。況してたゞで死んだものならそれこそ鐚一文にだつ
びた
は皆悲しみと怖れとに囚はれた。われ等も何時、どんなことで死なぬと
てなりやしない。俺たちがかうして苦しんで行くのは仕方がないと諦め
もせうが、子供はどうだ。
﹁十歳になるのを待ち兼ねて﹂職工だ。矢つ張
ま
も限らぬのだ。それがわれわれの運命なんだ。
火傷をした兄弟が臨終の苦悶の時、
﹁何分後の処をお願ひ申します﹂と
り俺と同じ厭な苦しい、暗い運命を脊負はさにやならぬ。どんな無理で
や け ど
云つた。あの時の顔は自分の胸に固く焼きつけられてゐる。兄弟はクリス
兄弟よ。十字架を負うて逝ける兄弟と、その遺族のために、われ等の
になつた。遺族のために四百円の金はどんな意味を持つことであらう。
る彼の日給の百七十日分と、外に約百円、合せて四百円を受取れること
兄弟よ。彼が臨終にわれ等に頼んで行つた遺族は、工場法の規定によ
つて職工になつたが、なりたてのほやほやは自分の名位書けた。今はど
な風が吹いてゐるか、そんなことは全で分らない。小学校の三年まで行
るまでは夢も見やしない。世の中にはどんなことが起つてゐるか、どん
無いことも間違ひなしだ。起きて寝るまでは工場で働き続け、寝て起き
は立派な生産者だ。立派な生産者には違ひあるまいが、生きて行く先の
トが十字架についた時のやうに、柔和な顔をしてゐた。誰を呪ひも恨み も圧迫でも黙つて堪へて床の下へ吹き込まれた草花の種見たいに、碌に
もせずに、天命だと諦めて逝つたのだ。一人の妻と四人の子供を残して。 芽も出さず、伸びもせずに、痩細つて枯れてしまふんだ。成程われわれ
味方になつて奮闘した、一人の算盤玉は、工務課から排斥せられ、主脳
うだ。駄目だ、駄目だ。鉛筆を掴んだつて掴んだやうに感じない。もう
俺の手が持つたと感じるのはハンマーの柄か、デリック位なもんだらう。
まる
者によつて首が、そのあるべき処以外に置かれようとしてゐるのだ。
兄弟よ、われ等の肉と血潮の上に、脂切つた肉体と、それを包む華美
17
著作集(二)
絶望だ! 何もかも駄目だ! 稀の公休日は嬉しくも何ともない。俺た
ちに金を呉れずに休みを呉れたつて何になる。女房に甲斐性なしと罵ら
れる位が関の山だ。活動どころかと子供の頭を張り飛ばすのもいゝ気持
ちぢやない。あゝいやだ、いやだ。
いつそのこと女房も子も放つといて、勘定を貰ふとすぐその足で二三
日遊び続けてやらうか、などと考へることさへある。さうする仲間があ
る。けれどもそれも俺には出来ない。俺に出来ることは働くことと、飯
。
おの
く
と、考へたくなるのである。
人は分れて行く。各の道を求めて果しのない迷路へと離れ離れに進ん
で行くのである。
三
兄弟よ。梅雨らしい空が、陰鬱にわれ等の頭を押しつけてゐる。
われ等は暗い空と、資本主義の大磐石の下に永久に喘がねばならぬで
あらうか。われ等はどのやうに焦つても、どのやうに駆けて見ても此地
・・・・・・
元気のある若い連中はそれでもどうにか為ようと焦つてゐる。それが
上以外には住めないと同じやうに、あらゆる社会悪の圧迫以外に首を擡
を喰ふことと、寝ることだけだ。その飯だつて
どうにかなりさうだとすぐに首になつてしまふ。組合などと云ふことは
げることは能きないだらうか。
兄弟よ。われ等の運命は沢庵である。すつかり食ひ物にされるのであ
き合ひ緊めつけ合ふのである。が、労働者は沢庵であるか。
ちゞ
兄弟よ。沢庵漬は上に加はる圧迫が大きければ大きいだけ、お互に密着
く つ つ
もた
夢だ、夢だ。
労働者ほど詰らない者は、世界中どこを訊ねても恐らくあるまい。一
番苦いのが監獄の生活で、その次が労働者で、その次に乞食だらう。尤
も此順序は例外なしにさうであるとは勿論云へないが。
と云ふことは、決して労働組合主義者や、社会主義者や宗教家のみが憂
為病気を起しさうな模様は無いのである。
終るのである。そして彼等の偉大なる顎と、臓腑とは今の処食ひ過ぎの
労働者は大抵正直な善良な人間に依つて成り立つてゐる。正直であり る。 資本家はいろんな贅沢な食ひ物に飽いては、﹁これに限る﹂ と云つ
善良であるために、生活が全で滅茶々々に資本家のために踏み蹂られる。 て、われ等沢庵を食ふのである。彼等の食ひ物は沢庵に初まつて沢庵に
ふることではない。
兄弟よ。上からの圧迫が重いとお互の間の関係は、恐ろしく窮屈にな
る。互に足を踏み合ふ。肩と肩とが打つ衝り合ふ。けれどもそれは沢庵
国家さへも労働者の境遇を改善することに留意し初めたのである。
誰でもが平等に幸福が無ければならぬと云ふことは、誰でもが知つて
つか
の知つたことでは無いのである。重しがさうさせるのである。窮屈だか
ぶ
ゐ、欲してゐることである。たゞそれを実現することが非常に困難であ
らと云つてお互に喧嘩してはならない。世界は樽の中の、われ等萎びた
き
る。実際問題に打つ衝るとその衝に当るものは、幸福の代りに惨澹たる
大根と、糟と、それだけつ限りのものではないのである。
資本家及び資本家の傀儡たる重し共は、無数に並んだ沢庵桶の側で、わ
そば
不幸を脊負込むのである。
﹁誰もが幸福であるやうに俺が努力をすると、第一此俺が不幸にならねば
みやうにち
れ等の見る世界とは似てもつかぬ世界を見てゐるのである。沢庵より上
こんにち
ならぬ﹂のである。処が大体人間は神の国を求める位に幸福を欲するの
る利益の計算のために必要な算盤や、コムパス達は、今日の土曜と明日
う を つ
であるから、自分自身を不幸にすることを避ける。
の日曜とを利用して、魚釣りに出かけるのである。
彼等にとつては、われ等はたゞお互に押つけ合つて汁を出してさへゐ
然し、他の人が不仕合な生活をしてゐることは、進んで犠牲になると
云ふ覚悟のない人にも、決して快よい感じは与へないのである。そこで
ればいゝのであつて、われ等が生き生きした清新な大根であることは怖
けれども兄弟よ。われ等は沢庵漬の諷刺から、人間へ帰らう。
るべきことなのである。
﹁どう せ 今 の 世 の 中 は 利 己 主 義 が 勝 つ ん で、 俺 が 社 会 改 良 運 動 に 携 つ て
目玉を剥いて見た処で何にもなりやしないんだ。人類の多数は矢つ張り
不幸なんだ。詰り俺は、俺は詰りその、俺さへ良けりやそれでいいんだ﹂
18
兄弟よ。われ等も人間である。人間である以上良心を持つてゐる。わ
兄弟よ。私は私の持つてゐる思想の一通りを茲に略述して筆を擱くこ
兄弟よ。われ等が望む処は、今資本家及其傀儡が行ひつつある、物質
とにする。
ら、兄弟よ。われ等は﹁人類の理想﹂へ向つて進み得るのである。良心
的栄華であつてはならぬ。それを望むは恥づべきことである。われ等の
れ等の良心は幸にして膏薬を張つてないから、センシブルである。だか
を、余りに淫逸に耽溺させ、アルコールに麻痺させた資本家共の瘡蓋だ
否定するものをわれ等が内心に於て望んでゐることは、全く唾棄すべき
さうがい
らけの良心には、
﹁人類の理想﹂や﹁地上に於ける民衆の結合﹂や、
﹁神
ことである。
を一生懸命追つ駆けるのと同じことだ。
兄弟よ。富や悦楽は相対的なものである。それを追ふのは、自分の影
でゐた物質的栄華はどこを見ても無くなるだらう。
あつて万人ではない、と云ふならば、万人がさうなつた時、諸君の望ん
の事は望まないでも行はれてゐるではないか。若しそれは少数者のみで
若し物質的栄華を得ることが、われ等の希望する処であるならば、そ
の意志の体現﹂などは、到底分りつこはないのである。若しそれが彼等
に分るならば、彼等は自己の存在が否定さるべきものである、と云ふこ
とも分る筈である。
兄弟よ。地上に、
﹁愛に依る民衆の結合﹂を齎さねばならぬ使命は、わ
れ等労働者にのみ与へられたる特権であり、且は重い責任である。われ
等は悪魔の誘惑にかゝつてはならぬ。どこまでもイワンの馬鹿で押通さ
ねばならぬ。
富を追ふことにわれ等の意志が有るとすれば、われ等は資本家に何を
要求し、何の故を以て恨む処があるか。彼はかう答へるであらう。
﹁俺に
われ等は富を追はないで、貧を追ふために、そこにこそたゞ一つ神の
四
﹁自分さへ良ければ他は蹂躪つても構はない﹂と云ふ考へは、他の其
国に入るの道が残されてゐるのである。われ等は決して資本家の富を奪
も未だ充分な富はない﹂と。
思想と衝突する。皆が他人を蹴倒して自分の利を追ふことになれば、多
還しようとするのではない。われ等の虔譲なる生命までも彼が拒否しよ
うとすることを詰るのである。
なじ
分皆の人が傷ついて倒れるであらう。又倒れつゝあるのである。
人類は﹁愛﹂に依つて美しい結合をしないで、
﹁利﹂によつて緊縛され
神の国を、悪魔の祭壇に供へてゐるのである。
この考へを空想と嘲り、夢だと笑ふことによつて、人類は自分自身の
人類が眼覚めることによつて即座に出現されるのである。
現世に極楽が来り、地上に天国が齎されるのは何時か。それは地上の
○
況して人間を獣と見てはならぬではないか。
責任は諸子の方にあるのである。諸子は枯尾花を幽霊と思つてはならぬ。
諸 子 が 若 し 彼 等 を 恐 れ 疎 遠 し て、 彼 等 を 生 命 の 不 安 に 突 つ 込 む な ら ば、
てゐる。
資本家諸子よ。労働者も人間である。虔譲なる神の子である。人間と
兄弟よ。心に何の蟠りなく、利害の関係なく、人と人とが語り合ふ時、 して同胞として、等しく日本国民として、彼等に良心を以て対せられよ。
どんなにそれは柔和な、清い、平和な関係であらう。
二人で或仕事を初めて、一人は出資者で一人は実際に当るとして仕事
の利益が思はしくない時、出資者は日歩三銭の利を八釜しく云ふとする
と、その二人は時にふれ折につけて共に酒を飲み、遊楽を共にしてゐて
も﹁日歩三銭﹂の処で行き詰つてしまふのである。
そして仕事に当つてゐる者は苦し紛れに、局外者に泥を吐いて救助を
求めることになるのである。
兄弟よ。利を追つてはならぬ。利を追ふと、真実兄弟のために尽す人
と、われ等の前に棒に縛りつけた肉を突き出す人とを、混同してしまふ
であらう。
19
著作集(二)
この迷蒙を捨ることが一人でも多くなればなるほど、神の国は近づい
て来るのである。
すこし
釈尊やクリストが地上に現れて神の国の理想を説いてから二千年乃至
にげこうじやう
一滴の水も出ないのだ。出るのは、スー、フー、スー、フー、とポムプ
の溜息ばかりなのだ。
子供は、そこで、おふくろが、どつかから貰ひ水してあるバケツに飛
三千年になる。 それにも拘らず人類は些も神の国に近づかうとしない、 びつく。ところが、その水たるや貴重なものである。洗濯などには一滴
な
井戸 を 掘 り 下 げ た
り、水道を引いたりして、文字通り﹁涼しい顔﹂をしてゐられるのであ
附 近 一 帯 の 水 涸 れ で、 工面 の い い 家 は、 ど ん
く゛
が、子供等が、甘露々々と飲んだ揚句が騒動である。
する。
さ う 云 ふ 貴 重 な 水 な れ ば、 子 等 が 飲 む の に は 柄 杓 に 二 杯 も 飲 ま せ は
などと遁口上を言つてはならない。 仏の慈悲、 神の愛を知つたものは、 たりとも使へはしないし、顔だつて二ヶ月も洗つた事は無いのだ。
知つただけで、神の国へ近づいてゐるのである。
兄弟よ。悪魔のあらゆる誘惑を斥けて、神の国に進まう。われ等の体
み
の中には、神と悪魔が同居してゐるから、神のみを見なければならぬ。
みくに
兄弟よ。神を知り、神の御名による天国を地上に齎さうではないか。
なんじ
爾、国を来らせ給へ、御心の天に成る如く地にも成らせ給へ。
﹁お天陽様のやる事は、家主が責任を負ふ訳には行かない﹂
と借家人が云ふと、
﹁井戸から水が出ない﹂
のである。
は財布の紐で首でも吊つたんではないか、と疑はざるを得ない吝ん坊な
︵大正十年六月︶ るが、この埃の溜つた井戸の使用者は借家人であり、その家主は、前代
﹁筑摩現代文学大系 葉山嘉樹集﹂筑摩書房
一九七九︵昭和五十四︶年二月二十五日 初版第一刷発行
井戸の底に埃の溜つた話
と、この家主の老人は、舌さへ動かし惜しみつゝ答へる。
だもんだから、近所隣で井戸を掘り下げると、そこで最初はおとなし
ラビア人が覚えた程も、驚異と礼讚の念を抱くやうになつたのである。
そこで、焙り出されかけた家の子供等は、
﹁水﹂と云ふものに、原始ア
算でゐるのだ。
酒屋の景品券じやあるまいし、この因業家主は店子を﹁焙り出す﹂心
﹁わしは、その隣の井戸を覗いた訳ではない﹂
と云ふと、
よく田舎にある、野つ原の真ん中に、灌木だの歯朶だのに、穴の縁を ﹁それでも隣の家の井戸からは、フンダンに水が出るが﹂
茂らせて、底には石や土が、埋めかけて匙を投げてある、あの古井戸の
底になら、埃が溜つたつて、別に面白くも可笑しくもない。
ところが、私の今云はうとしてゐる井戸は、一方には夫婦と三人の子
供、もう一方には夫婦と二人の子供が、現在住んでゐる、その共通の井
戸の事なのである。
その共同の井戸に、然も蓋がしてあるのに、埃が底に溜つてしまつた
のである。
空気だの、日光だの、水などと云ふものは、そいつがふんだんにある く見物してゐるが、水気を含んだ土が出て来、土混りの赤又は黒の水が
場合には、些も不自由を感じないし、従つて有難味も分らないものだが、 出るに及んでは、子供心に冷静を失つてしまふのである。
自分の家の井戸の底には、埃が溜つてゐる事も何も忘れ去つて、泥ん
一旦、無いとなると、さあ事だ。
この水の中を、四つん匍ひになつて匍ひ廻り、こねまはして、
﹁水が飲み
﹁水が飲みたあい﹂
と、炎天の下で乾物になりさうな程も、焙られて怒鳴りながら駆けて、 たあい﹂と怒鳴りながら帰つた時は、おふくろが、洗濯を思ひ出さざる
を得ない、悪鬼羅刹の形相に化し終つてゐるのである。
帰つた子供たちは、井戸に飛びついてポムプを押すのだが、井戸からは
20
36
と叩かれるのである。
一九七六︵昭和五十一︶年六月
﹁葉山嘉樹全集 第六巻﹂筑摩書房
と云つたまゝ、涙をこぼしながら笑ひ出した。
そこで、子等は柄杓に一杯又は二杯の生ぬるい水を、一息に呷つた後 ﹁まあ﹂
く゜
で、尻をペタ
おふくろの方では、水を飲ませといてから殴るのであるから、充分に
思ひやりのある処置と信じてゐるのだらうが、殴られる子供の側になつ
て考へると、何のために、母親が自分を殴るのか、見当がつかないもの
だから、その抗議として、死にもの狂ひに、あらん限りの悲鳴を上げる
のである。新たに実施された児童虐待防止法案に、引つかゝる程にも泣
き喚くのである。
これ は 子 供 が 悪 い の で は 無 い。 母 親 が 悪い。 母 親 よ り も 家 主 が 悪 い。
家主よりも税制がよくないのである。
血盟団。五・一五。神兵隊。等々々、を出すのは、井戸の底に埃を溜
めたり、なんかかんかするからであらう。
本来、井戸なるものは、水を溜めるべきであつて、埃を溜めたりする
場所柄では無い。
作りもしない者に米を食はせるからには、作つてる農民が米が食へな
いと云ふ法はないのである。
鉄砲を持たせてる限り、軍人が人を殺して悪いと云ふ法はない。
少し話が傍路に外れた。それと云ふのも、時代さへもが路を踏み外し
てゐるからではなからうか。
五人の子供等と、四人の大人にとつて、二ヶ月以上も、井戸から水を
取り上げた事実は、この二人の借家人の、左まで鋭からざる神経にも相
当な影響を及ぼした。
﹁それぢやあ、家賃の中からさつ引いて払はうぢやないか﹂
と、壁一重隣同志の相談が纏つて、井戸屋さんがやつて来た。
ポムプを除り、竹を抜き、さて井戸屋さんが、縄を伝つて井戸の底へ
降りて行つた。
﹁こいつあひでえや。こんな井戸は始めてだ。畑と同じだ、埃が溜つてゐ
やがらあ﹂
と、井戸屋さんが、井戸の底で笑ひ出したものだ。
井戸の底で可笑しい位の事だから、二軒の長屋の主婦も、感慨無量な
顔を見合はせて、
21
著作集(二)
22
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