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南宋総領所体制下の長江経済

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南宋総領所体制下の長江経済
南宋総領所体制下の長江経済
- 湖広総領所と四川との関係から1
樋 口 能 成
と後背地の境に置かれ'後背地の物資を国境前線地帯へ中継する役
割を担っていた。つま-各総領所を中心とした、南から北への物流
南宋では主に長江北岸に国境守備軍が配備された。これら実戦軍
-を強調する。南宋経済を表現する際に「ブロック経済体制」や「地
こうした南北方向の物流は全体性を帯びず'却って各地域毎の纏ま
はじめに-総領所体制-
の総兵力は四〇万を下る事は無-、軍費は南宋財政の半ば以上を占
方分権」といった表現が見られる事もあるが'これは総領所を中心
が形成されていたのである。しかし国土が東西に長い南宋にとって'
めたと言われる。一般的に、軍隊を維持する為には十分な物質の供
とした流通状況から導き出された認識といえよう。
o
給が不可欠であり、兵力が増すごとに効果的な兵姑の運用が求めら
確かに准東・涯西・四川総領所は、割-当てられた地域からの収
治
所
■利
聾 州
州
路 撞
川
府
西 京
●西
広 ◆
東 湖
●北
広 ■
西 湖
路 南
江
東
漸
西
収
蝣
V
源
江
西
拷
;i
東
建
鎮
;I
宿
大
軍
金
州
大
江
州
大
池
州
大
軍
支
袷
先
府
江
西
路
江
れる。南未は地理的問題から北宋の軍糧補給体制を受け継ぐことが
鎮
江
表-
建
康
出来ず、いわゆる「総領所体制」が新たに構築された。総領所体制
那
州
とは、国土を大きく四つの地域に分割し'それぞれに准東'准西、
刺
州
[Ml
州
(-)
総
領
所
荊
南
府
湖広'四川の四つの総領所を置き、該当地域の兵端のセンターとし
港
東
紘
m
所
軍 都
州
て機能させたものである。各総領所の収入源及び支給先は表-の通
港
西
総
領
所
軍 興
元
府
りである。
潤
広
紘
請
所
成
那
宿
涯東・涯西総領所は長江下流域(以下江南と表記)、湖広総領所は
長江中流域(以下荊湖)、四川総領所は長江上流域(以下四川)を担
当したと概ね区分出来る。兵端機関である総領所は、国境前線地帯
南宋総領所体制下の長江経済
四
川
総
領
所
入のみで財政を賄うことが出来たからこうした総領所を中心とした
されてお-、およそ次の通りである。
の問題点を整理しておきたい。なお既に金子氏が前掲論文中で整理
七八
軍事財政面にのみ着目すれば'江南と四川は、他地域との財政的係
入における塩商の役割を見出し、荊湖と江南の関係を提示した。湖
晴「南宋初期の湖広総領所と三合同関子」は、湖広総領所の財政収
も可能かもしれない。しかし湖広総領所では状況が異なる。金子泰
侵時には財政が急激に膨張し、これを補う為に三合同関子が発
川から送られる銭物で財政を賄っていた。ところが海陵王の南
た兵端機関である湖広総領所は収入が不足しがちで'朝廷と四
いた。しかし末代荊湖は経済的に未発達であ-、ここに置かれ
荊湖は四川と江南を結ぶ地点としての戦略的重要性を有して
広総領所の位置する荊湖は塩を産せず、南宋では三貝して涯塩の通
行された。南宋中期以降になると、湖広総領所は塩商に茶引を
わりを必ずしも必要としないという意味で、「閉鎖的」と考えること
商域であ-'江南沿海部との交通が存在した。金子氏によれば、恒
販売することで財政を運営した。
南との経済的関係の必然性を上手-利用して収益を得ていた事を示
の金子氏の指摘は、荊湖の兵端機関である湖広総領所が、荊湖と江
関子、後に茶引を売る事で自らの財政の確立を図ったのである。こ
ている。ここから湖広総領所と四川との関係が記される部分を抜き
巻一七涯東西湖広総領所を引用して湖広総領所の財政を概観され
朝廷と四川からの銭物だということになる。金子氏は﹃雑記﹄甲集
この整理によれば、初期の湖広総領所の財源の不足を補ったのは、
(3)
常的な収入の不足にあった湖広総領所はこの塩商に着冒し、塩商に
していて興味深い。
湖広総領所と四川との係わ-にも言及されている。しかし残念なが
吊為三百万縛補之 (銭一百七十万緒。禍絹練鯨在外)。淳畢末'
--湖広始発三合同関子、乾道中以関子折閲'詔歳増擢四川銭
出すと'
ら金子氏はこの点については殆ど考察を加えられていない。もしこ
蓋損之以損四川塩酒重課、而内府償葛。朝廷既以歳額撹銭、逐
ところで金子氏は、湖広総領所と江南との関係を指摘する一方'
れが明らかになれば、湖広総領所を中心とした長江経済の一端が見
為定数。--
(4)
道元年一〇月二二日の記事が該当すると思われる。
練鯨は外に在-)」とあるのは、﹃宋会要﹄職官四1-五二総領所乾
銭吊を増擬して三百万緒と為し之れを補う (銭一百七十万緒。鯛絹
であるから、これを検討してみる。まず乾道年間に「歳ごとに四川
えてくるのではないかと思われるのである。
一 湖広総領所と四川
湖広総領所と四川との関係を見る前に'湖広総領所の財政運営上
ら-は横急支用に足らざるを。今欲し乞うら-は、内に於いて
置して郡州軍前に赴かば'止だ七五万貫を得るのみ。深-恐る
管せしむ。四川、鉄銭を行使する地分に係るに縁-'軽蘭に計
令もて四川白契税銭一五〇万貫を取撹せしめ'本所に起きて椿
戸部員外郎江西京西湖北総領司馬悼言う。近ごろ指揮を承け'
領所に送られた自契税銭額は全て鉄銭換算のものだと分かる。よっ
本銭とするいわゆる「紙幣」だから、これによって四川から湖広総
とは銭引の枚数を表す単位である。言う迄もなく銭引は四川鉄銭を
江応辰が「道」という単位を使っていることである。ここでの「道」
四〇万と言うが、大差無いと考えてよかろう。むしろ注意すべきは
に四川総領だった王之望が田契銭の未納分を強制徴収したものをい
て四川から湖広総領所に送られた自契税銭は'鉄銭換算で二〇〇万
湖広総領司馬倍が言うには'四川白契税銭1五〇万貰分が湖広総領
う。つま-恒常的な収入が望めるものではなく、臨時収入的な意味
更に五〇万貫を取擬するを行い、三大軍の歳計支用を補助せん
所へ送られてきたものの、四川はこれを鉄銭換算額で送った為に'
合いが強い。四川で白契税銭が大規模に徴収された記録は管見の限
貫、銅銭換算で100万貫となる。なお白契税銭とは'紹興三1年
銅銭通用域の荊湖では半分の七五万貫分の価値しかなかった。よっ
-ではこの他に見られず、以降は行われなかったか、もしくは比較
ことを、と。之れに従う。
て司馬倍は五〇万貫の追加を乞い'これが裁可されている。また当
的少額の徴収に留まったのではないかと思われる。
ここで再度﹃雑記﹄甲集巻1七涯東西湖広総領所を見れば「乾道
時四川安撫制置便兼知成都府だった江応辰の﹃文走集﹄巻一三論存
留田契税銭与執政書は四川で徴収された自契税銭の分配内訳を記し'
年間に四川から送られる銭物は三〇〇万縛に達した」 「淳興末に四
川から送られる銭物を朝廷が立て替える様になった」とあって、白
湖広総領所への送納分にも言及している。
⋮-而して自契税銭四百六十余万道の内、一百四十万道を以て
初めて四川都転運司に令して、歳ごとに総制銭一百七十三万余
契税銭以外にも四川から湖広総領所に銭物が送られていたようであ
め、而して余数は左蔵南庫に発赴して送納せしむ。︰-I
緒を擬し'軽窟並びに細絹四万七千余匹'綿四千五万余匹を市
湖広総領所に応副し、弄びに買馬等の銭引九十万道を支う。今
四川自契税銭総額四六〇余万道の内、一四〇万道が湖広総領所へ送
わしめ、郡州総領司に赴かしめて椿管せしむ。去秋自り、右護
るoそこで﹃要録﹄を見てい-と、巻1五1 紹興一四年二月戊戊に
られ'九〇万道が買馬費用に充当された。更に朝廷の指揮によ-五
軍統制田鹿の部する所を以て馬司に隷せしむ。故に其の賠軍の
朝廷指揮して又た令して五十万道を起して湖広総領所に赴かし
〇万道が湖広総領所へ追加送付され、残-が左蔵南庫へ送られた。
銭吊を取る。今に至-、萄中田四麻銭と号す。--
七九
初め湖広総領所に送られた額を司馬倍は一五〇万と言い法応辰は一
南宋総領所体制下の長江経済
八〇
は軍に贈す。一百三十四万帽は湖広総領所に応副す。二百六十
とある。四川で徴収される経総制銭は全て五四〇余万糟で、その内
とあって、四川の総制銭一七三万余緒を軽斎及び珊絹四万七〇〇〇
れる。この銭は本来右護軍統制田鹿の軍費として使用されていた。
一三一万緒は四川の軍費に'二二四万縛は湖広総領所に'二六九万
九万縛は上供す。六万余緒は諸郡支用とす。--
しかし田最及び配下の軍が馬軍司の所属となって四川を離れると'
緒は上供に、六万余緒は諸郡支用に充当されていた。田四顧銭の初
余匹・綿四〇〇五万余匹に換えて湖広総領所に送っていた事が記さ
これが湖広総領所に与えられる様にな-、田四麻銭と呼ばれたので
期の額一七三万余緒から紹興二九年の減額分五〇万緒を引-と〓1
(5)
ある。﹃雑記﹄甲集巻一五田四廟銭は、正にこの田四廊銭について
三万余縛とな-、ここに記される二二四万緒の近似値となる。よっ
:
o
:
述べている。前半は ﹃要録﹄とほぼ同じだが、続けて
てこれも田四廟銭と考えてよかろう。﹃雑記﹄甲集巻1五四川経給
・・・-光宗禅を受-るに、湖広三年の銭四百余万縛を第-.塩酒
--二十九年'軍事将に興らんとすれば'乃ち其の五十万緒を
二十1万を還す。七月庚戊、又た之れを増す.益路二十万㌧ 利'
量額の銭を対減するは即ち此の銭なり。然して四路の憲司'歳
制銭は続けて、
梓、蓉路の減ずるを通ぜば五万)。淳興末、又た其の余緒を以て'
ごとに湖広の銭を擬むるも、実に六十万緒にて止む。・・・-
以て四川に還し、軍兵を増招するの歳計に応副す(六月壬辰'
四川塩酒重額を対減す(十六年四月己巳)。語は経総制銭事中に
と後の状況を記す。これによって、まず紹輿二九年に五〇万緒が減
際に湖広総領所に送られていたのは六〇万緒であった。これは ﹃雑
が利用され、三年分合計四〇〇余万緒が省かれる事となったが、実
とする。光宗即位の際'四川の塩酒課の減税分の穴埋めに田四麻銭
額されて四川の軍備に充てられ、更に淳興末に四川の塩酒税が減額
記﹄甲集巻一五田四麻銭及び巻一七 涯東西湖広総領所の「淳黙未
在-。
された際にこれの穴埋めとして残額が四川に充当された事が分かる。
--故に減放の令の後三年して乃ち下す。而して毎歳減ずる所、
--」に対応する部分である。更に﹃雑記﹄ には
l文と、﹃雑記﹄甲集巻一七准東西湖広総領所に「淳配州未、蓋損之
総司の抱認を通ずるも、亦た複かに九十万婚のみ。今に迄るま
「淳輿未、又以其余糟対減四川塩酒重額(十六年四月己巳)」という
以損四川塩酒重課」とあるのとはほぼ同一だから、田四麻銭を指し
で遂に永例と為る。
(7)
巻二紹興三年是歳を見れば
(xI
とある。これでは意味を取-づらいから、同様の事を記す﹃備要﹄
ている事はまず間違いない。「語在経総制銭事中」に従って﹃雑記﹄
甲集巻一五四川経総制銭を見れば、
四川経総制銭額五百四十余万縛を理むO其れ、1百三十l万緒
万糟を対減するの数は、遂に以て常と為る。開繕丙貴誌で凡そ
た三十万縛を揮節して以て之れを益す。紹照美丑より以後九十
せば、僅かに三十万緒と為るのみ。楊輔時に萄計を総べる。又
六十万縛のみ。また物を買うの価を以て之れを計-、折間中半
銭な-。然して四路の憲司の歳歳湖広に擬する銭は'実に止だ
銭四百六万八千緒を損う。塩酒重額の銭を対減するは即ち此の
--上初め禅を受-るに、少監劉光祖の講に因-'湖広三年の
なる。
て四川から湖広総領所へ送られた銭物の増減を表にすると、表2と
内に四川経総制銭一〇万貫が見える。以上と共に他の史料も合わせ
〇年には湖広総領所の管下に新たに設置された江川大軍の運営費の
経総制無額銭三〇万貫が毎年送られる事になっている。また紹興三
う。この他、紹興二九年には湖広総領所の貯蓄の開乏に対して四川
不明だが、屡々減額されながらも田四府銭の送付は続けられただろ
湖広総領所綱達」は田四廊銭である可能性が高い。これ以降の事は
'.-│
十有四年'萄入滅放の恩に震うは無慮一千二百六十余万。上の
額傾向、淳配州以降は減額傾向にあった事が分かるO南宋中期以降の
これを見ると'紹興一四年以降継続されながらも、乾道元年迄増
とある。﹃雑記﹄は湖広総領所への送納額を六〇万糟としたが、﹃備
湖広総領所の財政は茶引発行に支えられてお-'また茶引発行は淳
施博し。
要﹄は湖広総領所が実際に利用出来たのは三〇万緒分のみだったと
▲
七
六
(⊃
○
○
▲
五
○
ち
▲
は
減
m
表2
▲
四
五
する。恐らく「六〇万緒」は鉄銭換算、「三〇万緒」は銅銭換算の額
四
午
であ-、湖広総領所が利用出来たのは銅銭三〇万糟であるという意
元
午
七
月
味だろう。次いで、楊輔が四川の財政を統べていた時に、既に減額
されている六〇万縛の他に更に三〇万縛を減額Lt 四川の減額分を
元
年
八
月
○
計九〇万緒として、それが紹興四年よ-関宿二年迄の十四年間続い
た、とある。つまり四川の塩酒課減税が実施されたのは、紹配州元年
紹
輿
万
-E9負
五
から関宿二年迄の一七年間だった。﹃宋史﹄巻l七四食貨上二賦税
紹
輿
▲
五
I)・Iふ
-嘉定七年、再び四川州県塩酒課額三年を鍔-。其の湖広総領
紹
輿
不
明
所に輸す合き綱運も亦た三年を免ず。とある。紹畢元年の塩酒課減税の際の状況に酷似してお-、「其合輸
南宋総領所体制下の長江経漬
乾 紹
準 輿
プ
七
年 (⊃
午
士
曽
温
顔
淳
輿
帆
午
午
月
紹 淳
輿 輿
フ亡 五
午 年
∼ ∼
開 淳
示
喜■輿
ノ、
T- 年
蝣
秦
′
」▼
†
疋
七
午
∼
九
午
政運営は、主に紹興年間は四川からの銭物'淳照以降は茶引発行に
配州以降に増加したという金子氏の指摘を考えると'湖広総領所の財
で、財源としての重要性が明らかである。専売収益の他には'擢本'
塩酒課が全体の六割弱にも及び、特に酒課は単独でも全体の約三割
称提銭(二四万)、西河州塩銭(一〇万)と続く。専売収益である茶
八二
よって賄われていたと言えそうである。
経総制銭による収入が目立つ。四川の経総制銭が湖広総領所へ送ら
(
S
)
れていたことは既に述べたが'四川の上供銭物もまた経総制銭に
分配内訳を見れば、上供が二六九万繕う湖広総領所が二二四万糟、
二 四川の状況
湖広総領所が四川から収入を得ていた事は明らかになった。では
El川軍費がl三1万緒、諸郡支用が六万縛'計五六〇余万緒となる0
よって構成されていた。﹃雑記﹄甲集巻一五四川経総制銭からその
その背景は如何なるものであろうか。ここでは四川の状況を中心に
上供分と湖広総領所送約分が大部分を占め、軍費と諸郡支用を合わ
南宋四川総領所は、行在から遠距離にあり且つ鉄銭通用城にある
分配の割合は四川の状況によって変化するから、ここに記される割
せた四川残留分は全体の二五%程である。高橋氏も指摘する様に、
(
S
)
見ていきたい。
という理由から'朝廷に報告せずに独自に財収を獲得する事が認め
合は平和時の一例と捉えるべきであろう。一万、五六〇余万緒とい
(
S
)
られていた。また内河久平氏は四川の上供銭物の殆どは軍費として
う総額は'経総制銭が紹興二六年に定額化されている事を考えると、
e円
留められたとし'高橋弘臣氏は四川総領所が上供銭物を「必要に応
南宋に於ける四川経総制銭の常の収入額とする事が出来る。こうし
(
f
t
)
じて随時」裁留し且つその額は「増加してい-傾向」にあったとす
てみると四川の財政収入は酒課と経総制銭による所が大きかった事
(
S
)
る。これらから四川の財政に於ける四川総領所の影響力の大きさ'
が分かるOなかでも酒課が最多の収入源の1つである事は、酒の売
(
3
)
及び朝廷(上供) の影響力の小ささを知る事が出来る。
買という商取引が盛んに行われていた事の証であろう。しかし宋代
の四川は鉄銭通用域として経済的に他地域と隔絶させられていたか
ならば四川総領所の収入内訳から四川の財収の依存先をある程度
推測する事が可能だろう。﹃雑記﹄甲集巻一七四川総領所には 「紹
ら'こうした商取引は四川内部に限定されたものだったろうとも想
(
3
)
興休兵之初」 の四川総領所の収入内訳が記されている。これによれ
像される。
される。順に追うと、まず初めに'陸遊が江東路から江西路へ入っ
ところが﹃入局記﹄ には荊湖における四川商人の活発な活動が記
ば四川総領所の収入額は全て一七九〇万緒、最も多いのは酒課(五
五六万糟) で、以下薙本(四〇〇余万)、塩課(三七五万)、経総制
銭(二三1万)、茶司(1〇四万)、銭引允界貼頭銭(九〇万)、≡路
由江浜提上還船。民居市韓'数里不絶。其間、復有巷隔往来、憧憧
甚多。--」とあ-、郡州に滞在していた「八月二八日」には「--
五日」には「-・・・晴後、得便風、次軒口鋲。居民繁錨。萄舟泊岸下
の地に四川人の往来がある事を思わせる。斬口鋲に至った「八月一
憩新橋市。蓋呉萄大路。市坪壁間'多萄人題名。--」とあ-'こ
ある。また江州に停泊していた 「八月七日」 の条には 「往産山、小
た「七月二八日」 の条に「--早間同行一舟、又萄舟也。--」と
人もまた都州を初めとした軍事都市で商いを行っていたのである。
の発展には軍事的要因が大いに係わっていると言われるが、四川商
所が兵端を担当する大軍の駐屯地である。斯波義信氏は荊湖の都市
広総領所の所在地であ-'郡州・江陵府・嚢陽府・江州は湖広総領
は漢水流域の嚢陽府・郡州に四川商人を見る事が出来る。郡州は湖
南府・郡州・軒州・江州に四川商人を見る事が出来、﹃攻娩集﹄から
て商活動をしていたのだろう。以上、﹃入萄記﹄からは長江流域の荊
いる。漠水を下ると嚢陽・郡州に達するから、商人は漠水を利用し
ま
湖の関係は如何なるものだったのか。﹃宋会要﹄食貨四六-一水運に
では荊湖が軍事的重要性を未だ有しなかった北未では、四川と荊
(
3
)
如織。蓋四方商買所集'而萄人為多。--」と、四川商人の活躍を
伝える。荊南府外港の沙市に至った「九月一七日」には「--沙市
場上居者、大抵皆萄人。不然'則与萄人為婚姻者也--」とあ-、
四川人が多-居住している事をいう。この他'南宋の人楼鈴による
南自-改めて舟船を装し、綱を遣わして京師に送る。毎歳六十
-・︰用益諸州の租市の布は、嘉州自-水運して荊南に至-、荊
--十六年'四川類試致官と為る。境内一水、遠-嚢郡に通じ、
六万、十綱に分つ。旧と百万疋に至-、後ち累-に数を減ず。
﹃攻娩集﹄巻九一文華閣待制楊公行状には、
行商絶えず。鬼愁灘有-。舟を推みて絶険た-。公銭を出して
を臨視するに'古鉄を沙中に得ること甚だ移し。鋳して鎚聖と
京師へ向かったとある。また﹃長編﹄巻九六真宗天繕四年閏十二
とあって'四川の上供銭物は一度荊南府に至-、ここで船を改めて
人を募-之れを平理するも、石堅-して破るべからず。公之れ
為し'厳醸煉炭して以て之を攻めれば'石之れが為めに解す。
南府を経由して開封へ運ばれ、開封と京西路の州軍の衣賜とされて
月辛未の三司の言によれば、西川よ-起発された布吊六六万匹が荊
とある。一六年とは淳畢一六年の事。楊公つま-楊主体は当時知洋
いる。こうした事例は ﹃長編﹄等に幾つか見られ、北宋において江
砲竿を以て移去し、遂に安流と為る。--
州であった。洋州と嚢陽・郡州との間で活発な商活動が営まれてい
陵は四川からの上供漕運の中継地点であった事が分かる。この他、
(
3
)
たが、鬼愁灘というものがあって舟杭を妨げていた為、楊王休がこ
北宋未の人偉察の﹃忠粛集﹄巻10荊南府図序は荊南府の状況を述
八三
(
8
)
れを除き、舟杭を安全にした。洋州は利州路にあ-、漠水が流れて
南宋総領所体制下の長江経清
ベる中で、
が盛んだったろう事が想像される。しかし﹃宋会要﹄食貨1五、l
ならば当然江陵を初めとした荊湖の各地域では四川商人による交易
この様に北宋では江陵が四川の門戸としての役割を果たしていた。
と'四川人で官に着こうとする者の多-は荊南府に住んだとする。
江南との経済的関係が提示され、各地域が決して閉鎖的でない事が
向が先行研究で見られたものの'金子泰時氏によって湖広総領所と
ムを構築した。こうした状況をもって南未の経済を分権的とする傾
に総領所を置き'ここに地域内の物資を集中して軍程を賄うシステ
南末は対金防衛の必要から領域を四つの地域に分かちてそれぞれ
おわりに
六商税雑録を見ても、荊湖北路の商税徴収額は全国でも目立って少
示された。本稿では金子氏の提示した湖広総領所と江南との関係に
--又た両苛の人の出でて而して富瀞する者は'多-此に家す。
な-'長江で荊湖北路と連絡する尊州路もまた四川四路の中では最
加え'湖広総領所と四川との関係を提示する事を目的とした。その
(
」
)
も徴収額が少ない。よってこれを見る限-では北宋江陵で四川商人
結果、
●南宋以降、湖広総領所等の荊湖の軍事組織が置かれた都市で四
の経給制銭によって賄われていた事。
●湖広総領所の財政収入の一部が、主に田四顧銭と呼ばれる四川
が活躍していたとは言い難い。むしろ﹃長編﹄巻一六〇仁宗慶暦
七年二月己酉に
--詔して益州交子三十万を秦州に取-、人を募-て糧草を人
中せしむ。時に議する者謂う、四川商人多-秦に至る'方に秦
川商人が商活動を展開した事。
いたと考えるべきだろう。四川と荊湖は南宋以前からの通行が見ら
が見られるから、四川商人は荊湖よ-も隣西方面で活動を展開して
と、西夏戦線での軍需をあてにしていたと思われる四川商人の活動
か持ち得ず'この点において、金子氏の提示する'行政と民間とが
も可能かもしれない。但しこれのみでは税の再分配といった意味し
田四麻銭は四川の上供銭物を湖広総領所が栽留したものと捉える事
また北未に於ける荊南府を中継する四川の上供形態を考慮すれば'
州軍儲に乏し、人中せしめて交子を以て之れに給うべLt と。
れるものの'その経済面での活性化は'南未の湖広総領所を初めと
一体となった湖広総領所の収益システムと根本的な違いを有する。
の二点が明らかとなった。四川経総制銭は上供にも充てられており'
する軍事機関の影響が大きかったと言えそうである。
四川の経済的閉鎖性を克服して荊湖へと進出していった四川商人の
活動はあ-まで自主的なものであ-、湖広総領所の財政運営に計画
的に組み込まれたものではなかった。ではなぜ湖広総領所と江南'
四川との関係にこの様な違いが生じたのか、また四川商人の活動の
詳細はいかなるものだったのか'以上の点については以降の課題と
したい。
よる長江中流域支配に関する一考察」 (﹃新潟史学﹄五二 二〇〇四)'同
「長江中流域における兵権回収と其の影響についての一考察」 (﹃東アジア﹄
一四 二〇〇五) がある。
(5) ﹃要録﹄巻l EI九紹興一三年八月丁未
(6) ﹃雑記﹄甲集巻1五田四廟銭「田Eg廟銭者'始自紹興十三年春。以右護
軍統制田屠所郡人馬隷属司、明年有旨、令四川歳損総制銭一百七十三万余
紹'禍絹四万七千余匹'鯨五万四千余両、赴郡州(十四年二月戊成)。蓋此
銭本供展軍費故也。二十九年'軍事将興、乃以其五十万糟還四川'応副増
招軍兵歳計(六月壬辰'還二十一万。七月庚成、又増之。益路二十万、利・
梓・蓉路通滅五万)。淳配=:末、又以其余緒、対減四川塩酒童顔(十六年四月
注
本稿では以下の様に史料を略している。
己巳)。語在経総制銭車中。」
(7) ﹃雑記﹄甲集巻一五四川経総制銭「四川経総制銭、額理五百四十余万緒。
﹃宋会要揖宿﹄1﹃宋会要﹄、﹃建炎以来繋年要録﹄1﹃要録﹄、﹃建炎以来朝野雑
記﹄1﹃雑記﹄'﹃両朝綱目備要﹄1﹃備要﹄'﹃皇宋中興両朝聖政﹄1﹃聖政﹄'
上供。六万余緒諸郡支用。光宗受禅'罵湖広三年銭四百余万緒。対減塩酒
其一百三十1万緒婚軍。1百三十四万緒応副湖広総領所。二百六十九万縛
量額銭'即此銭也。然四路憲司歳東湖広銭、笑止六十万緒。故減放之令後
﹃続資治通鑑長編﹄1﹃長編﹄
所'及び内河久平「南宋総領所考」(﹃史潮﹄七八・七九合併号一九六二)、
三年乃下。而毎歳所減、通総司抱認'亦絶九十万緒。迄今遂為永例。」
(1) ﹃要録﹄巻1八四紹興三十年正月突卯、﹃宋会要﹄職官四1-四四 総領
川上恭司「南宋の総領所について」(﹃待兼山論叢﹄一二一九七八)へ金子
(8) ﹃備要﹄巻二紹興三年是歳「鏑減局中重額銭。四川経絡制銭額、理五百
四十余万緒、其1百三十1万緒婚軍'1百三十四万紹応副湖広総領所'一
泰時「南宋初期の湖広総領所と三合同関子」 (﹃史観﹄一二三一九九〇)、
百六十九万緒上供、六万余緒諸郡支用。上初受禅、因少監劉光祖之請'損
湖広三年銭四百六万八千縛。対減塩酒重額銭、即此銭也。然四路憲司歳歳
長井千秋「港東総領所の財政運営」 (﹃史学雑誌﹄ l O1-七 1九九二)
掻湖広銭、突止六十万緒而巳。又以買物価計之、折閲中半、僅為三十万緒。
より作成。
(2) 井手達郎「南宋時代の発達便及び転道使について」 (﹃東洋史学論集﹄
場輔時給萄計'又樽節三十万緒以益之。自紹配州発丑以後、対滅九十万縛之
数'遂以為常.詑関宿丙寅、凡十有四年、濁入寮減放之恩無慮l千二百六
三 丁九五四)'同「総領考(こ」 (﹃埼玉大学紀要﹄教育学部編五 l九
十余万。上之施博美。」
五六)'川上恭司「南未の総領所について」(﹃待兼山論叢﹄一二一九七八)
(3) 注(-)金子論文
八五
●紹興二九年七月-﹃雑記﹄甲集巻l五田四痢銭'﹃要録﹄巻l八三紹興
年二月戊成
●紹興一四年-﹃雑記﹄甲集巻一五田四麻銭、﹃要録﹄巻一五一紹興十四
(9) 利用した史料は以下の通-。
(4) 既に挙げた他、湖広総領所に関係する研究には'金子泰晴「建炎年間に
おける宋金の攻防とその背景」 (﹃早稲田大学大学院文学研究科紀要哲学史
学編﹄一九九三)'同「荊湖地方に於ける岳飛の軍費調達」(﹃宋代の規範と
習俗﹄宋代史研究会一九九五)、古林森広「南宋の茶の密売者集団につい
て」(﹃吉備国際大学社会学部研究紀要﹄六一九九六)、榎並岳志「岳飛に
南宋総領所体制下の長江経済
二十九年七月庚戊
●紹興二九年八月-﹃要録﹄巻一八三紹興二十九年八月丁卯、﹃宋会要﹄
八六
・三﹃
(B)鳥居1康「南宋の上供銭貨」﹃歴史研究﹄三七l九九九
六月乙酉、﹃宋会要﹄食貨五一-一〇左蔵庫淳畢四年二月二十五日
.淳照四年-﹃宋史﹄巻l八五金貨志下七酒、﹃聖政﹄巻五四淳配二二年
●乾道元年-﹃宋会要﹄職官四一-五二総領所乾道元年十月十三日
●紹興三〇年・・・﹃宋会要﹄職官四1-四九総領所紹興三十年八月十一日
望が金との戦争の勃発によ-支出が増大している事を言い、その結果四川
五一紹興一四年正月丁丑)。しかし紹興三一年一一月には'四川総領王之
四年正月には四川の内蔵銭吊が軽蘭に換えて行在に送られた(﹃要録﹄巻1
川都転運司に与えられたが(﹃要録﹄巻1〇五紹興六年九月庚辰)'紹興1
興年間の四川上僕額増減の経緯を簡単に記す。紹興六年九月には上供が四
(S)注(1
月こ高橋論文参照。四川経総制銭分配内訳の変化の1例として'紹
●淳整五年-淳配仙八年・・・﹃宋史﹄巻一八五食貸志下七酒'﹃聖政﹄巻五
の上供から五〇万緒が四川総領所に与えられている(﹃要録﹄巻1九四紹
職官四一-四八総領所紹興二十九年八月十七日
掴淳興三年六月乙酉、﹃宋会要﹄食貸五lI10左蔵庫淳興四年二月二
争状態にあ-、紹興一四年は第二次宋金和議から間もない頃である。こう
興三一年二月是月)。言う迄もな-紹興六年及び紹興三一年は宋金が戦
●紹興元年∼関宿二年-﹃雑記﹄甲集巻十五田四麻銭ー﹃宋会要﹄職官四
した宋金間の軍事的緊張の度合いが四川の兵砧を担う四川総領所の財政状
十五日
1-六1総領所薄紫十六年十l月二十三日、﹃雑記﹄甲集巻1五四川経
況を左右Ltその四川総領所の財政状況によって四川の上供額が増減した
於いて四川の状況が優先的に考慮された事を示している。
理由として屡々減額されている。これらの事例は、四川経総制銭の分配に
のである。また既に前章で言及した様に湖広総領所送納分も四川の減税を
総制銭'﹃備要﹄巻二紹配二二年
●嘉走七年∼九年-﹃宋史﹄巻一七四食貨上二瓶税
(S) 荊湖の経済的状況については、斯波義信﹃宋代商業史研究﹄ (風間書房
1九六八)、同﹃末代江南経済史の研究﹄ (汲古書院一九八八) に詳しいO
(」)﹃要録﹄巻1七三紹興二六年六月戊子'及び注(S)鳥居論文参照.
(2)斯波義信﹃末代江南経済史の研究﹄汲古書院1九八八
(3) ﹃雑記﹄甲集巻一七四川総領所「--東南三総領所掌利権、皆有定数。
(2)﹃長編﹄巻九六真宗天繕四年閏十二月辛未「--・又勘会益・梓・利・牽
路州軍毎年買納細絹練絹、除応副険西、河東、京西川軍及本路州軍衣賜支
然軍旅磯僅'別告請干朝。惟四川在遠、銭幣又不通。故無事之際、計臣得
道外、余有剰数、即上京送柄。元不曽椿定数目'毎年自西川水路起発布吊
以檀取予之権。而一遇軍興、朝廷亦不問。-=」
(2) 注(-)内河論文参照
六十六万匹、赴荊南水路転般上京、並応副在京井京西州軍衣賜。雄議減省、
(2) 高橋弘臣「南宋四川総領所について」﹃中華世界の歴史的展開﹄汲古書
院 二〇〇二
(今滅為四百一十余万)'三百七十五万緒塩課(今減為三百余万縛)、四百余
休兵之初計之、一歳大約費二千六百六十五万縛。共五百五十六万縛酒課
(m)加藤繁「宋代商税考」﹃史林﹄1九-九(加藤繁﹃支那経済史考謹﹄下巻
乙卯、﹃宋会要﹄食貨四六-1五水運天聖八年八月二十1日
(R)﹃長編﹄巻五四真宗威平六年四月庚午'巻二一七神宗配憲丁三年十1月
欲且依旧。--」
万緒薙本(二税上倶)'一百四万糟茶司銭(額一百四十四万。逓年突発此数)、
1九五二所収)参照
(3) ﹃雑記﹄甲集巻一七四川総領所「--四川総領所轄軍銭井金島'以紹興
二百三十一万縛経総制司銭(語在経総制銭事中)、九十万縛銭引究界貼頭銭
(語在尭界事中)へ二十四万緑三路称提銭(語在其事中)'十万緒西河川塩銭。
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