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子どもの精神分析的心理療法の 調査・研究の現状 英国
大阪経大論集・第62巻第6号・2012年 3 月 45 研究ノート〕 子どもの精神分析的心理療法の 調査・研究の現状 英国の場合 (2) 鵜 飼 奈津子 (目次) (Ⅰ) はじめに (Ⅱ) 精神分析的心理療法にとっての調査・研究 (Ⅲ) 量的研究か質的研究か (Ⅳ) 現象学的アプローチ:グラウンデッド・セオリー (Ⅴ) 現在進行形の子どもの精神分析的心理療法の調査・研究 (Ⅵ) 多職種協働による子どもの精神分析的心理療法の調査・研究 (Ⅶ) 英国近隣諸国の子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の進展 (Ⅷ) おわりに (Ⅵ)多職種協働による子どもの精神分析的心理療法の調査・研究 さて,先に述べた,量的研究と質的研究の有効かつ有益な統合のためには,心理療法士 がその専門性の要とする詳細な観察,および個人的理解を通じた質的研究と,臨床心理士, 基礎心理学者や調査・研究を専門とする心理士(research psychologist)らの量的研究の 方法論の統合,つまりはそうした多職種による協働が不可欠になってくるであろう。 一方,精神分析理論とアタッチメント理論の視点を組み合わせた方法論による調査・研 究も見られる。例えば,ライト(Wright, J.)らによる研究(Wright, J. et al. 2005)では, 自殺願望のある青年のアタッチメントについて,精神力動的理論とアタッチメント理論の 両方の観点から,自殺願望の表現の仕方の違いについて検討している。この研究では,自 殺の危険性が高い青年は,ボウルビー(J. Bowlby)のアタッチメント理論の用語でいう 「とらわれ(enmeshed / preoccupied)」型に特徴付けられる語りを示す傾向があることが 見出されている。また,愛着パターンの特徴により,いかに自殺願望を他者に伝えようと するのかも分かっている。たとえば,「とらわれ−不安定(preoccupied-insecure)」型の群 の語りには,自らの大きな心配にとらわれ,著しく一貫性を欠いたかたちで,他者にそう した不安を伝えるという特徴がみられる。一方,これとは対照的に,「不安定/アタッチ メント軽視(insecure / dismissing)」型に分類される者は,自殺願望を控え目に述べる傾 向があるため,臨床家がその危険性のレベルを低く見積ってしまう危険が生じることが分 かっている。このように,ライトらの調査・研究は,精神力動的な視点とアタッチメント 理論の視点を統合した好例であるといえるが,公的保護の下にある子どもや,虐待が子ど 46 大阪経大論集 第62巻第6号 もの発達に及ぼす影響についての調査・研究の多くも,こうした特徴をもつ。 この種のもっとも興味深い調査・研究の一つに,「ストーリー・ステム・アセスメント・ プロフィール(Story Stem Assessment Profile, 以下 SSAP)」(Hodges et al. 2004)を用い たものが挙げられるが,本項では特にこの調査・研究について,以下に概観する。 加えて,同じくホッジスが現在進行形で行っている多職種協働による「性的虐待を受け た少年,および性的虐待の加害者である少年に関する調査・研究」(Hodges, 2011)につ いても概観する。 (1)SSAP を用いた被虐待児の内的世界に関する研究 これは,SSAP を用いて,虐待などの不適切な扱いが,子どもの内的世界にいかに影響 を及ぼすのかを検証しようとする研究である。 SSAP は,その成り立ちからもわかるように1),子どもが自らの家族の中でどのような 体験をし,それに影響を受けてきたのかということや,親との愛着関係の質を評価しよう とするものである。同時に,子どもに対する治療的援助の可能性を探ろうとするものでも ある。半構造化面接の「遊び」バージョン(“play” version)(Hodges, 2011)とでも表現で きるその具体的な施行方法は,次の通りである。 SSAP は,13の一連の物語を,家族人形や動物人形といった標準セットを用いて語るも のである。その際,面接者は人形を動かしながら物語の初めの部分を簡単に話し,「さて, この続きに何が起こるのかを教えてください」と導入する。子どもは,自らの想像力によ り,そこに何が起こるのかを表現していくわけであるが,それは自らの体験をもとに作り 上げてきた愛着対象との関係性についての表象であり,そこに子どもが期待するものが表 現されると考える。またここでは,困難な体験や感情に対処するために子どもが作り上げ てきた,回避や万能感といった防衛について表現されることもあるであろう。つまりは, SSAP の目的は,子どもの内的表象の幅を探索することであるため,一連の物語にはあら ゆる異なるシナリオが用意されている。もちろん,ここでの理解は,言語的表現に限定さ れるわけではなく,非言語的な表現にも注目する。また,検査者は子ども自身や子どもの 家族についての直接的な質問は避ける。その後,子どもの語りを体系的に記号化する。そ の際,子どもの語りを現実の状況の指標としてではなく,むしろ,どのように「子どもが 現実の状況に反応するのか」(Hodges and Steele, 2000)という,子どもの内的世界につ いての指標であると見なす。 さて,ホッジスは,現在,複数の心理士と心理療法士との協働によって,不適切な養育 を受けてきた子どもについての知見をもとに,この手法を臨床的かつ心理療法的に用いる ための基準,およびこうして表現される表象についての分類と評価についてのマニュアル を作成している(Hodges, 2011)。この分類および評価には,親像,子ども自身の像,そ 1) これは,もともとは,家庭裁判所における養育権を検討する際のアセスメントツールの一つとして, 個人の心理療法的な場面で用いられていたものである。そのため,比較的短時間で家族のテーマに ついて判断するための素材を引き出せるよう,系統的に整えられている。 子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状 47 して親や子ども自身の攻撃性や防衛の種類などが含まれると同時に,個々に得られた評価 を「安定(security)」型,「不安定(insecurity)」型,「無秩序/無方向(disorganisation)」 型,「防衛的回避(defensive avoidance)」型といった,愛着理論による分類と統合してい る。こうした評価の標準化は,同じ年齢で不適切な養育を受けていない子どもたち(統制 群)の反応の集積と共に,今後,個々の子どもの反応について検証する際の評価基準とさ れることになる予定である。 このように,ホッジスやスティール(Steele, M.)といった SSAP を発展させた子ども の心理療法士は,精神分析理論とアタッチメント理論の「内的作業モデル(internal working model)」を基礎に,子どもの内的表象は他者との予測可能な相互作用への反応として, 長い年月をかけて構築されるという仮説を立てている。彼らは,こうした物語法は,ほぼ 間違いなく後の関係性にもっとも影響をおよぼす親−子の関係性の包括的な表象を引き出 す(Hodges and Steele 2000)ものであると述べている。個々の主題に関する評価は,詳 細な臨床的アセスメントのためにも用いられるが,子どもとおとなの肯定的あるいは否定 的表象や,アタッチメントの本質といった包括的な子どもの心の状態に関する構成概念を も描き出す。SSAP は,子どもの内的世界をアセスメントする手段としてこれまでも広く 臨床場面で用いられてきたが,近年ではこのように虐待や不適切な養育を受けてきた子ど もといった,特定の群に対する調査・研究において特に多く用いられるようになってきて いるのである。つまり,SSAP は,単なる臨床のツールから,調査・研究のツールへとそ の技法を発展させてきたといえるのであるが,これはまた翻って臨床的に有用なものとし て還元されるものであるといえよう。 さて,虐待が子どもに心理的に影響を及ぼすあり方について理解することは,調査・研 究における重要な課題であるといえる。これまでの調査・研究では,虐待を受けていた家 族から離れ,里親家庭や施設に措置された子どもは,統制群の子どもよりも,物語の中で 現実的な家族生活や家庭生活の肯定的なテーマを表現することがはるかに少ないというこ とが示唆されている。たとえば,虐待を受けた群では,「子どもが傷つけられたり死んだ りしてしまう」,「子どもの要求や苦痛に気づかないおとな」,「苦痛を認識しない」,「登場 人物が‘悪い’存在から‘良い’存在へ,あるいはその逆に転換する」といったテーマが 語られることが非常に多いのである。 SSAP を用いた同様の研究に,トーマス・コラム養子プロジェクト(The Thomas Coram Adoption Project)(Hodges et al. 2004)が,不適切な養育を受けていた子どもが養 子となって,養親家庭に入ってからの最初の2年間の状況について,その行動の変化を追 跡調査したものがある。この調査・研究も,先出のホッジスを含む,多職種協働チームに より行われたものである。ここでは,より早期の不適切な養育の影響について検証し,子 どもが持つ愛着表象の変化を追い,それらを養親の愛着構造,および実際の行動と関連付 けようと試みている。 それによると,養子として受け入れられてから一年後の SSAP においては,「親が子ど もを助ける」というテーマの語りに関しては変化が認められたが,「愛情のこもった」あ 48 大阪経大論集 第62巻第6号 るいは「攻撃的な存在としての親の表象」についてはほとんど変化がみられなかったとい う。一方,子どもの自己表象,および魔術的/万能的な反応をする傾向については若干の 変化が認められている。先に紹介したホッジスらの研究では,経過中の子どもの表象の変 化が示すものは,「衰退ではなく競争である。つまり,早期の否定的な内的作業モデルが 消え去ったということではなく,むしろその代わりの,競争的なモデルが発達し,それが 支配的になったということなのだろう」(Hodges and Steele 2000)と結論づけている。そ のため,本研究では,養親の役割は,「既存の否定的なモデルを積極的に拒否し,それに 競合するモデルを構築すること」(Hodges and Steele 2004)であると結論づけている。 こうした研究は,子どもの心理療法の調査・研究が,異分野の方法論と考え方を統合で きるということの好例の一つであると同時に,内的世界の精神分析的理解に対する重要な 貢献をも生み出すものであるといえよう。以上のように,より伝統的な臨床研究の方法論 と,子どもの精神分析的心理療法についてのより形式の整った調査・研究は,相互に補完 されうるものであるといえよう。また,子どもの精神分析的心理療法という領域の内部の 調査・研究活動の範囲と,それが探求の方法として提供できるものをも立証するといえる であろう。 (2)性的虐待を受けた少年,および性的虐待の加害者である少年2) に関する調査・研究 性的虐待を受けた体験は,後に自らが性的虐待者となるリスク要因の一つではあるが, 必ずしもすべての被害者が虐待者になるわけでもなければ,すべての虐待者が以前に虐待 を受けた被害者であるというわけでもない。あるいは,性的に不適切な行為を行う思春期 の少年が,性以外の虐待やネグレクト,または家族崩壊を体験していたり,反社会的行動 を行っていたりするということは,専門家の間では広く認識されている事象であろう。そ れでは,何が,どうして,性的虐待といった行為に行きつかせるのかというその要因を明 らかにすることが,本調査・研究が目指すところである。 この研究の主要メンバーは,子ども・青年心理療法士であるホッジスの他,児童精神科 医と,調査・研究を専門とする心理士である。彼らは,157人の少年らを,まずは以下の4 群に分け,その群間比較を試みている。 性的虐待を受けたことがある 性的虐待を受けたことがない 自らが性的虐待行為を行ったことがある 自らは性的虐待を行ったことはない その際,より多角的な視点を取り入れるため,少年らの基本情報に加え,81人のサブセッ ト群に対しては,家族状況や友人関係に関するより詳細なアセスメントを行うとともに, 母親との面接も実施している。そこでは,母親自身の生育歴と共に,息子の虐待行為に対 する考えについて聴取している。その後,研究者らは,さらに49人のサブセット群をより 2) 対象は,11歳から15歳である。 子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状 49 集中的な調査の対象とし,それぞれ12回の探索的心理療法を行った。 さて,ここで心理療法のセッションを担当したのは,ホッジスを含む研究チームのメン バーである三人の子ども・青年心理療法士らである。彼らは,その内容について定期的に 検討し,何らかの発達的理解や仮説が現れた際には,この多職種協働チームの研究会議に フィードバックする。その過程で明らかになってきたことは,虐待者となった少年の大多 数が,複雑な発達課題を抱えていること,および彼らの中の攻撃性が虐待的行為の基礎に なっているといった臨床像と,その理論的理解である。そこでチームは,将来的に虐待行 為に発展する可能性を暗示する要因を同定した。これらの要因の中でも特に重要だと考え られたのは,養育体験の非連続性と,家庭内暴力の体験であった。こうした段階を経て, ここで挙げられた要因を,虐待群と被虐待群において比較している。 このような研究デザインにおいて,子ども・青年心理療法士が果たした役割の中でも特 に顕著だと言えるのは,精神分析的治療技法を用いることで,少年らのこころの奥深くに ある考えや感情を探索することができるよう,彼らとの関係を作り上げたことであろう。 それが,仮設の構築に役立つこととなり,後の分析にも統合されていったと言える。ホッ ジス自身が,心理療法士になる以前は,子どもの発達を主に調査・研究を行う心理士であっ たというが,それでもなお,そうした背景を持たない子ども・青年心理療法士にとっても, その精神分析的理解と技法を多職種協働の調査・研究に生かすことができる実体験になっ たとして,現時点までの本調査・研究の進捗状況についての報告をまとめている (Hodges, J., 2011)。 (Ⅶ)英国近隣諸国の子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の進展 ここまで,英国における子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状について概観 してきたが,その他の英国の近隣諸国の現状はどのようなものであろうか。 たとえば,前項で紹介した SAAP を用いたものと同様の研究は,スペインの発達心理学 者のグループの他,イタリア,オランダ,デンマーク,そしてアメリカにおける臨床,お よび研究にも用いられているという(Hodges, 2011)。 また,量的研究と質的研究を組み合わせた新たな研究手法として,英国が中心となった 国際的な無作為抽出法の試みもある(Catty, 2011)。これは,重度の精神障害を持つ成人 に対して,再雇用を最終目的とする二種の職業リハビリテーションの成果を比較するもの であるが,そこに参加者に対する面接を取り入れることで質的研究の側面を統合しようと するものである。この面接では,対象者がそれぞれのリハビリテーションプログラムを通 じて再雇用に至った経験について聞くとともに,こうした新たなサービスを展開するスタッ フ側の経験についても探求しようとしている。 他に,青年期の抑うつ患者に対する治療に関して EU が財源となった研究がおこなわれ ているが(Trowell, Rhode & Joffe, 2009)3),これは児童精神科医との協働による研究であ り,英国,ギリシャそしてフィンランドの三か国が参加している。具体的には,家族療法 50 大阪経大論集 第62巻第6号 と親子並行の個人精神分析的心理療法の効果を比較するもので,子どもの心理療法士はい ずれの国においても英国のタビストッククリニックで訓練を受けた者が担当し,研究対象 となる事例についてのスーパーヴィジョンも同クリニックが提供することで,精神分析的 心理療法に一定の質を担保している 。 こうした蓄積が行われている中,2011年6月には,スイスのベルンにて心理療法調査・ 研究協会(Society of Psychotherapy Research)による国際会議が開かれた。会議の参加者 のほとんどが臨床家でもあり研究者でもあったことから,ミッジリーは,この会議では 「実践―調査・研究の間のつながりをより意識的に前面に押し出したものとなった」 (Midgley 2011)とし,その中でも特に,イスラエルとイタリアにおける子どもと青年に 対する精神力動的治療の効果研究について,次のように報告している(Midgley 2011)。 思春期患者の親像が,治療経過の中で変容していったとするイスラエルの研究結果発表 に対し,イタリアからは2年という治療経過の中で子どもの防衛機制がいかに変容したの かを示す発表があった。この評価には,新たに開発された防衛機能の測定基準が用いられ ている。前者の研究においては,親の「否定的な negative」表象には大きな変容が見られ なかった。しかし,治療群では,より「肯定的な positive」表象が構築されていったのに 対し,非治療群ではこの限りではなかったという。この結果は,先に紹介したホッジスら の,養子となった子どもの愛着表象についての研究結果と非常に類似したものであると言 え,興味深い。ホッジスらの研究でも,養子となった子どもたちは,より「恐ろしい大人 の表象」の代わりに,ではなく,それと並行して,より「助けの手を指しのべてくれるよ うな,新しい大人の表象」を築いていた。これらの研究からは,ストレスの高い状況にお いては,より否定的な表象が活性化される一方で,より安心感の持てる心の状態にあると きには,子どもたちはより肯定的な内的対象を描くことができるようになるのではないか と考えられる。 それでは,ここからは,スウェーデンのストックホルムにあるエリカ財団(Erica Foundation4))における最近の調査・研究,およびドイツで行われているフランクフルト 予防研究 Frankfurt Preventions Study5) について,より詳しく見ていきたい。 (1)エリカ財団における子どもの心理療法の効果研究(Carlberg, G., 2011) 1997年に「子どもの心理療法における転換点(Laughter opens the door : Turning points in child psychotherapy)」(Carlberg, G.)という調査・研究において,心理療法士が感じる 3) 本研究の詳細は,前掲 ‘Child Psychotherapy and Research’ に所収。 4) 1934年に設立されたこの財団では,臨床実績,心理療法士の訓練および発達研究の集積があり,臨 床を基礎とする調査・研究に適した背景を有していると考えられる。 5) この研究は,主に Zinnkan Foundation と,国際精神分析協会の Research Advisory Board (RAB) の 支援を受けて行われた。 また,この研究に関する報告の一部は,筆者が大阪経済大学心理臨床センター紀要第4号 (2010) pp 7580 に訳出している。 子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状 51 変化の過程というものが,その心理療法の結果や子ども自身の心理療法の体験といかに関 連性があるのかという問題提起が行われた。そこで,2000年には「エリカにおける過程と 結果研究 Erica Process and Outcome Study (EPOS)」というプロジェクトが始まり,まず は「目標設定型の期間限定の親子並行心理療法」の過程と結果について,20事例の集積が 行われた。今日では,このプロジェクトのデータベースには,さらに33事例が加えられて いるという(Carlberg, 2011)。 本研究において想定される主な課題は,心理療法士が,子どもの心理療法において目標 を設定するというのはどのような体験になるのかということと,親の担当者や子どもの担 当者と比較して,親はどのように目標を設定するのかという点である。そしてもちろん, 子どもの心理療法において,こうした目標がいかにして達成されるのかということである。 本研究には,量的手法と質的手法の両方が用いられ,質問紙と面接により得られたデータ に加え,標準化された結果評価を用いることで,臨床的記述の基礎を固めている。 また,本研究を補完する目的で,6歳から10歳の10人の子どもに対して,半構造化面接 を行い,心理力動的子どもの心理療法に対する子ども自身の期待と,その体験を探求しよ うとする自然主義的な研究もおこなわれた(Carlberg et al., 2008)。面接では,子どもに 自己評価用紙に記入してもらうとともに,描画や人形を使った遊びを取り入れることで, 非言語的な側面からの評価も行っている。これら10人の子どもたちが体験した心理療法の 回数は,平均99回である。本研究の結果は,次の通りであった。 まず,心理療法の開始前の面接で,3分の2の子どもが自らの問題について言葉で話す 力を持っており,大多数がこれから受けることになる治療に対して肯定的なイメージと期 待を抱いていることが分かった。また,心理療法の終結後にも,大多数の子どもが,自分 の受けた治療について「肯定的」,あるいは「非常に肯定的」な体験であったことを語っ ている。また,治療前の態度は,いかに自らの問題が改善されたかという治療後の自己評 価と高い相関関係にあった。ここで強調されるべきは,子どもと家族が心理療法を受ける ことについての心の準備がいかになされているのかということ,そして子ども自身の体験 について聞くことの重要性であろう。 これらの研究に用いられた別の評価手法に,「感情世界のチェックリスト(the Feeling World Checklist)(FWC)6)」(Holmqvist, R., 2001)がある(図17))。 6) 筆者訳 7) 筆者訳 52 大阪経大論集 第62巻第6号 これは,図のように感情言語について,毎回のセッション後に心理療法士が4段階評価 を行うものである。つまり,セッションの中で,心理療法士が子ども/親と共に過ごした 体験についてどのように感じたのかを検討することができるよう意図されている。 親近感 (心を動かされる,圧倒される,驚く) 制止 (神経質,無力感,恥) 暖かさ (情熱,エネルギッシュ) 否定的 (イライラ,緊張感,麻痺) 肯定的 (遊び心,開放感,幸福感) 冷たさ (無関心,退屈感) 自由さ (満足,リラックス) 距離感 (落ち着き,穏やか,中立的) 図1 そこで例えば,下記の図2のように毎回のセッションが視覚化されることになる。 親近感 (心を動かされる,圧倒される,驚く) 制止 (神経質,無力感,恥) 暖かさ (情熱,エネルギッシュ) 否定的 (イライラ,緊張感,麻痺) 肯定的 (遊び心,開放感,幸福感) 冷たさ (無関心,退屈感) 自由さ (満足,リラックス) 距離感 (落ち着き,穏やか,中立的) 図2 予備調査の結果からは,例えば心理療法士が最初の数回のセッションで「中立的」な感 情を抱いていたり,全セッションを通じて「エネルギッシュ」な感情を抱いていたりする 子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状 53 場合には,改善が認められにくいなど,ここで表現される心理療法士の逆転移感情が,心 理療法の結果を色濃く反映するものとなっている8)。 エリカ財団では,この他にも,合計で12セッションという短期の心理療法(対象は5歳 ∼9歳の子ども群,および16歳∼24歳の青年群)の過程と結果に関する研究も行っている。 この研究においても,子どもの心理療法士と親の担当者が各セッションの逐語記録を起こ すとともに,FWC の記入を行う。これらのデータはまだ分析されていないが,心理療法 士の逆転移感情とともに,実際のセッションにおける中心的なテーマについての集積を同 時に行うことが計画されている。データの集積はすでに2009年から始められているが, 2011年内にはすべてのデータを集約する計画で進められている。ここでもやはり,データ は,量的手法と質的手法の両方を用いて分析される予定である。 (2)フランクフルト予防研究 本研究は,2003年9月から2006年9月にかけて,まずは予防/介入群の500人の子ども たち,および比較コントロール群の500人の子どもたちを集めるために,フランクフルト 市内の全公立幼稚園(114の幼稚園の約4500人の子どもたち)において,基本的アセスメ ントを実施するところから始まった。その主たる仮説は,2年間の精神分析的(非薬物的) 予防・介入プログラムが,コントロール群と比較して小学校の1年目の時点で,心理社会 的問題(特に AD / HD)を持つ子どもの数に大幅な減少をもたらす,というものである。 この際,AD / HD を定義するために用いられた評価尺度は,次の通りであった。 ・子どもの行動チェックリスト Child Behaviour Checklist (CBCL418)9) ・多動性に関する質問事項 Questionnaire on hyperactivity (Dopfner et al.2003) ・コナー法教師のための評価票 Conner’s Teacher’s Rating Form (CTRF)10) ・コナー法親のための評価票 Conner’s Parent’s Rating Form (CPRF)11) ・BADO(フランクフルトにおける全日制保育所のための基本記録様式・改定版) その後,2004年の春に,14の無作為抽出された幼稚園で,予防・介入プログラムが始まっ た。この精神分析的予防・介入プログラムは,AD / HD に関する精神分析的理解を基礎に した,以下の柱から成り立っている。 − 研究チームのメンバーが,子ども個人あるいは子どものグループに対して,週に1回 の精神分析的な教育プログラムを提供する。ここには,FAUSTLOS (拳なしで)12) 8) この調査・研究成果については, Holmqvist, et al. が作成中である。 9) このチェックリストは,親かその子どものことをよく知っているおとなが,子どもの過去6ヶ月間 にわたる問題行動や能力,また情緒的な問題について評価する質問紙である。評価者が独自に記入 することも,専門家が面接を行いながら記入することもできる。これは,治療を行った後に子ども の行動の変化を再評価するために用いることもできる。 10)∼11) これらは,子どもの問題行動について,親や教師からの情報を得る上で定評のある研究およ び臨床的指標であるとされている。ADHD の症状を網羅的にカバーした質問紙である。 12) “FAUSTOLS- Wie Kinder Konflikte gewaltfrei losen lernen” HERDER, Freiberg, Basel, Wien 54 大阪経大論集 第62巻第6号 と呼ばれる暴力予防プログラムも含まれる。また,このチームに対しては,個々の子 どもとその家族についての,精神力動的かつ心理社会的理解に焦点を当てた精神分析 的スーパーヴィジョンが行われる。 − 個人,あるいはグループでの親教育,およびコンサルテーションを行う。 − 幼稚園で重篤な心理的病理(例えば AD / HD)を呈する子どもに対しては,精神分析 的個人療法を行う。この際,常に親面接も並行して行う。 − 必要に応じて,一般診療医,児童精神科医,精神保健機関,福祉機関,そして進学先 の小学校との連携を行う。 こうした予防・介入プログラムの結果,多動性項目(Dopfner et al. 2003)13) のサブスケー ルである,攻撃性と不安に関する質問項目に集められたデータからは,介入グループでは これらが有意に減少した一方で,多動性のサブスケールにおいては部分的な効果が見られ たのみであった。興味深いことに,多動性に関しては,介入グループの女児においてのみ 優位な減少が見られた。このように,攻撃性と不安に優位な減少が見られたという結果は, 精神分析的方向性を持つ予防・介入プログラムが,幼稚園児の社会的行動に肯定的な効果 をもたらすという明らかな証拠であるといえよう。本研究に関わった臨床家たちは,この 実験デザインがフィールドスタディと自然主義的実験デザインを組み合わせたものであっ たこともりあり,これほど明確に結果がもたらされることは予測していなかったという。 しかし,こうした結果は,精神分析的な方向性と,その介入プログラムを強く支持するも のであり,子どもたちの攻撃的で不安な行動に対して,こうしたアプローチが効果的であ ることを証明することになったといえよう。 また,この研究結果を考察するにあたって,研究者らは,「社会的問題の医学化(medicalization of social problems)」の危険性について述べる Mattner, Amft と Gerspach らの業 績14) を参照している。ここからは,薬物療法が,時に子どもたちの問題行動を取り除き, 学校や幼稚園の要求に沿うように,的確で社会的に受け入れられる行動をとることができ るようにするという誘惑に,特に注意深くありたいというこの研究グループの姿勢がうか がわれよう。 この研究グループは, この他にも 「多動の子どもに対する精神分析的療法と, 認知行動/ 薬物療法との効果に関する比較研究」,および「ハイリスクの子どもに対する,幼稚園に おけるフランクフルト予防研究の再検討(EARLY STEPS)」といった研究も進めている。 13) “Hyperkinetische Storungen (F90)” Deutsche Gesellschaft fur Kinder- und Jugendpsychiatrie und Psychotherapie, Berufsverband der Arzte fur Kinderund Jugendpsychiatrie und Psychotherapie in Deutschland, Bundesarbeisgemeinschaft der leitenden Klinikarzte fur Kinder- und Jugendpsychiatrie und Psychotherapie』(Koln, Deutscher Arzte Verlag 社)pp 237 249 所収。 14) “ADS als Herausfordening fur Padagogik und Therapie” Verlag W. Kohlhaimmer 子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状 (Ⅷ)お わ り 55 に ミッジリー(2010)は,こうした英国の心理療法士らの調査・研究への意識の高まりと それに伴う実践の増加を受けて,これらの調査・研究がいまだ完全なエビデンス・ベース であるとはいえないまでも,確かに「エビデンスを志向するもの evidence-orientated」に なってきていると言う。 ただ,とりわけ子どもの心理療法の領域が量的研究に傾いていく過程には,実際にそれ が望ましいことであるからというよりも,政治的な理由によるところが大きいのではない かという印象がぬぐえない(Catty, J., 2011)のもまた事実であろう。そして,形式的な 調査・研究方法を取り入れていく中で,心理療法の営みが内包する豊かさ,あるいはユニー クさが失われるという多大なリスクを負うことになるのではないかという危惧もぬぐえな いかもしれない。ただし,Catty (2011)は,それは必ずしもそうばかりとも言えないの ではないか…という。確かに,「調査・研究」という言葉は,その核心においては,単純 に,調査すること,もう一度見つめること(再−探索 re-search)(Midgley, 2010),既存 の視点を超えること,そして我々自身の視点に挑戦すること,といった願望を意味するも のであろう。このことにより,ダロス(Dallos, R.)とヴィーター(Vetere, A.)(2005) が指摘するように,調査・研究は,既存のものを覆す可能性を有するプロセス−「不快な ことを口にすることが,驚きを与える」(p. 11)という役割−を持つといえる。しかしこ れは,調査・研究が,我々を意識的な気づきからは隠された現実の諸側面を「見つめなお し」(look again),不快ではあるが重要な真実の直面に向かわせるという精神分析の長い 伝統そのものとうまく両立する(Midgley, 2010)ものであるともいえよう。 また,調査・研究は,実証的エビデンスを必要とする子どもの心理療法の外部(特に英 国においては,公的医療の財源を確保する必要性)にのみ利益をもたらすものではない。 調査・研究は,我々が有する仮説に疑問を持つことを教えてくれ,臨床実践を再び活気づ けてくれる可能性があることから,心理療法の専門家内部にも利益をもたらしてくれるも のなのであるというミッジリーの現時点での結論(2010)に,筆者も同意するものである。 参 考 文 献 Carlberg, G. (1997) Laughter opens the door : Turning points in child psychotherapy. In Journal of Child Psychotherapy. 23(3): 331 349 Carlberg, G. (2011) Child Psychotherapy Research at the Erica Foundation. In The ACP Bulletin Special Issue, Child Psychotherapy and Research. London Carlberg, G. et al. (2008) Children’s expectations and experiences of psychodynamic child psychotherapy. In Journal of Child Psychotherapy. 35 : 175 193 Catty, J. (2011) A Vies from Adult Mental Health Services Research. In The Bulletin of the Association of Child Psychotherapists. No 219. Dallos, R. and Vetere, A. (2005) Researching Psychotherapy and Counselling. Maidenhead : Open University Press. 56 大阪経大論集 第62巻第6号 Hodges, J. et al. (2003) Mental representations and defences in severely maltreated children : a story stem battery and rating system for clinical assessment and research applications. In Revealing the Inner worlds of Young children ; the MacArthur Story Stem Battery and Parent-Child Narratives. Oxford University press. Hodges, J. et al. (2004) Report on a longitudinal research project, exploring the development of attachments between older, hard-to -place children and their adopters over the first two years of placement. In Adoption and Fostering, No. 2. BAAF, London Hodges, J. and Steele, M. (2000) Effects of abuse on attachment representations ; narrative assessments of abused children. In Journal of Child psychotherapy. Vol 26, No 3. Hodges, J. (2011) Child Psychotherapists and Interdisciplinary Research. In The Bulletin of the Association of Child Psychotherapists. No 219. Holmqvist, R. (2001) Patterns of Consistency and Deviation in Therapists’ Counter-transference Feelings. Psychotherapy Practice and Research. 10(2) Midgley, N. (2010) Research in child and adolescent psychotherapy : an overview. In The Handbook of Child and Adolescent Psychotherapy : Psychoanalytic Approaches, Second Edition. Routledge. Midgley, N. (2011) Society of Psychotherapy Research (SPR) International Conference, June 2011. In The Bulletin of the Association of Child Psychotherapists. No 224. Trowell, J. Rhode, M. & Joffe, I. (2009) Childhood Depression : An Outcome Research Project. In Child Psychotherapy and Research - New Approaches, Emerging Findings. Routledge. Wright , J. et al (2005) Attachment and the body in suicidal adolescents : a pilot study. Clinical Child Psychology and Psychiatry. 10(4): 477 491. (付記) 本論は,2012年2月に刊行された翻訳書『子どもの心理療法と調査・研究』(原題 Child Psychotherapy and Research) (創元社) のための解説の意味も含め,英国における子どもの精 神分析的心理療法という専門分野が直面している,調査・研究という課題に関してその現状を 概観したものである。日本における臨床心理学領域においても,今後は,基礎心理学や実験心 理学の領域の専門家との協働をますます視野に入れつつ,心理療法がより一層進化・発展して いくことを願っている。