...

子どもの精神分析的心理療法の 調査・研究の現状 英国

by user

on
Category: Documents
19

views

Report

Comments

Transcript

子どもの精神分析的心理療法の 調査・研究の現状 英国
大阪経大論集・第62巻第3号・2011年9月
65
研究ノート〕
子どもの精神分析的心理療法の
調査・研究の現状
英国の場合
(1)
鵜
飼
奈津子
(目次)
(Ⅰ) はじめに
(Ⅱ) 精神分析的心理療法にとっての調査・研究
(Ⅲ) 量的研究か質的研究か
(Ⅳ) 現象学的アプローチ:グラウンデッド・セオリー
(Ⅴ) 現在進行形の子どもの精神分析的心理療法の調査・研究
(Ⅵ) 英国近隣諸国の子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の進展
(Ⅶ) 多職種協働による子どもの精神分析的心理療法の調査・研究
(Ⅷ) おわりに
(Ⅰ)は
じ
め に
子どもの精神分析的心理療法(以下,子どもの心理療法あるいは心理療法)は,第2次
世界大戦終了後の英国では,「ゆりかごから墓場まで」のスローガンの下に敷かれた国民
保健制度(National Health Service)という組織の中の一専門領域における実践を中心と
して,今日に至るまでさまざまな理論的,技法的発展を見てきた。そして,昨今の経済的
状況の厳しさから,国民保健制度の見直しが繰り返し論議されるようになり,心理療法を
実践する精神保健の分野においても,より治療対効果を重視する,いわゆるエビデンス・
ベースによるサービスの提供を目指した,エビデンスの提示が求められるようになってき
ている。
心理療法の実践は,一人ひとりの患者と治療者との出会いの中で,その緊密な言葉の交
換や情緒的交流を通して行われる,非常に個人的な経験である。また心理療法は,そうし
た治療者の体験の積み重ねから理論が構築されてきた,そして現在もなおそれが継続的に
積み重ねられている専門領域であるといえる。日本におけるカウンセリングの事例検討が
そうであるように,そこには個人や症状をマスで捉え,数として処理するという調査・研
究手法(量的研究)がなじまないという「文化」,あるいは治療者側の「思い」があると
言っても過言ではないであろう。現在の英国の子どもの精神分析的心理療法士(以下,子
どもの心理療法士あるいは心理療法士)の間では,こうした伝統を守りながらも,ますま
すエビデンス・ベースが重要視されるようになってきているといった昨今の風土の中で,
この専門性を生き残らせていかなければならないという,避けては通れない困難な課題が
66
大阪経大論集
第62巻第3号
認識されるようになってきている。つまり,心理療法の効果とその影響について,明確に
提示することが必要になってきているのである。
そうした状況の中で,(a)より「自然主義的な naturalistic」,それゆえ,政府の求める科
学的精査にはかなわないようなアプローチと,(b)より「実験的で」,そのために実際に心
理療法士が出会い,扱う子どもの現実とはかけ離れ,その典型とはいえないような子ども
の群や治療のタイプについての結果ではあっても,政府の基準としては認められやすいも
のとの間の緊張関係がぬぐえない(Midgley, N., 2011)というのが現実である。
しかし,これまでにこの分野で,いわゆる調査・研究がまったくなされてこなかったの
かというと,そうではなく,エビデンス・ベースとしての数には劣るかもしれないが,い
くらかの研究成果は蓄積されている。それらを1冊にまとめた ‘Child Psychotherapy and
Research - New Approaches, Emerging Findings’ が2009年12月に発行され1),その後も少な
くない調査・研究の成果の公表が続いている。それにもかかわらず,やはり一般的に研究
者や臨床家の間では,精神分析的心理療法という領域の専門家は,実験や調査・研究に携
わることに一定の距離を保っているのではないかという印象が根強い(Catty, J., 2011)
こともまた事実である。そこには,伝統的な研究手法というものが,とりわけ子どもの心
理療法にとってはどこか異質な感があり,実際,心理療法を行うセッティングやその技法
にはそれがなじまない(Catty, 2011)という認識が根強く残っているためであろう。
本稿では,こうした英国における心理療法の調査・研究の現状について概観し,わが国
における心理療法の実践,およびその調査・研究の普及にも一石を投じるものとしたい。
(Ⅱ)精神分析的心理療法にとっての調査・研究
それでは,伝統的な研究手法とそのパラダイム(上記(b)にあたる)が,とりわけ子
どもの心理療法にはなじまないものであると考えられている理由はどこにあるのであろう。
Catty (2011)によると,そこには以下の2つの懸念があるという。第一に,伝統的な実
験手法では,人間性の本質をとらえることができないのではないかという点,そして第二
には,伝統的な実験手法では,臨床実践の個別性をとらえることができないのではないか,
という二点である。
たとえば,私たちの精神生活,人間関係,そして社会のシステムは,その因果関係をめ
ぐっては複雑なものであると言わざるを得ない。つまり,これらはきっちりと整理がつか
ず,何層にもわたる多重の過程を含むものであり,伝統的な仮説−検証実験のパラダイム
によって完全に精査されることはありえない(Wren, B., 2011)というのが,一般的な心
理療法士の感覚であると思われる。そして,こうした複雑性に真っ向から向き合おうとす
る上では,ある現象の原因となる要因は,我々の思考や感情を含むあらゆる一連の状況が
相互に関連しあうことによって影響されるものであり,それらが単なる付加要因ではない
1)N. Midgley, J. Anderson, E. Grainger, T. Nesic-Vuckovic and C. Urwin ed. 2009, Routledge, London
日本語翻訳版『子どもの心理療法と調査・研究(仮題)』(創元社 鵜飼奈津子監訳)が2011年内に
刊行予定である。
子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状
67
と考えざるをえない。また,心理療法における個人の中の非常にわずかな変化は,その個
人自身はもとより,その個人を取り巻く関係性全般にわたって多大な変容をもたらすこと
もありえると,心理療法士は考える(Wren, 2011)。Wren (2011)は,そこにもある種の
パターンや因果関係を示すような関係性も認められるかもしれないとしたうえで,やはり,
こころという直線的ではないものについて探索していこうとする際に求められる作業は,
仮説−検証実験研究によって評価されるものをはるかに超えた領域にあると主張している。
こうした懸念は,子どもの心理療法の調査・研究領域に限ったことではなく,成人も含
めた精神保健サービス領域全般にも偏在する。たとえば,無作為抽出法のような量的研究
手法の使用に関する批判的論文は,精神保健サービスの調査・研究においては少なからず
存在する(Catty, 2011)。こうした議論は,主に社会科学者の側からなされているとはい
え,それが精神医学者に全く知られていないというわけではなく,むしろ種々の方法論に
関するメリットについて,また精神保健領域の調査・研究における複雑性をいかにしてと
らえることができるのかといったことに関しては,かなりの議論が積み重ねられている。
ただし,これらの議論の中で付け加えておくべきだと思われるのは,エビデンス・ベー
スという言葉によって連想される,それすなわちイコール量的研究によって証明・発見さ
れた事柄を意味するといった誤解があることである。これは,量的研究というものが,あ
る種の治療方法によって機能上の大幅な改善が認められたかどうかにより,その治療方法
が効果的であるとみなされるには十分であるといった,科学的根拠を持たせることになる
からである。こうした量的研究が生み出すことのできる明瞭な答えというものは,確かに
絶大なものであるが,マスケット(Muskett, T. 2011)は,それと同時にこうした量的研
究を行う研究者らが,他の専門領域の専門家に声を届かせ,認めさせるだけの方法論をも
持っているという点においても,量的研究の持つ力は大きいという。
しかし,これは,他の方法による調査・研究が重要ではないということを意味するもの
ではない。精神分析的心理療法において理論を発展させること,心理療法の中で起こるプ
ロセスについて検証すること,そしてそれらを臨床像と照らしながら,関連する特定の要
因についてよりよい理解を目指すこと,あるいはヘルスケアサービスにおいては家族など
直接の利用者(service user)にかかわる人々にとっての体験をもとにサービスの向上を
目指すための知識を構築することなど,その目的によって調査・研究の方法論も異なって
しかるべきであろう。例えば,量的研究に対するものとしての質的研究は,こうした目的
にはよくかなったものであると思われる。しかし,それでは量的研究に匹敵するだけの,
いわゆるエビデンス・ベースは提供できないのである。
(Ⅲ)量的研究か質的研究か
こうした背景もあって,心理療法の効果や影響について調査・研究する際,これまでの
一般的な方法論は,個々の事例検討という形をとった質的研究が主であった。そこからは,
現在,目の前にいるクライエントの在り方の意味,関係性,そして病因といったものの理
解を非常に豊かに詳細に得ることができる一方で,こうした個々人にとってのユニークな
68
大阪経大論集
第62巻第3号
意味といったものをどこまで一般化することができるのかということに関しては,量的研
究からのアプローチが欠かせない(Hodges, J., 20011)。これはもちろん,逆もまた真なり
で,同論文の中でホッジスは,量的研究では,個々の意味や,ある出来事に関して理解で
きたことの関係性を明らかにすることはできず,こうした側面に光をあてるためには,や
はり質的研究が不可欠だと述べている。現在の英国のヘルスケアに関する調査・研究にお
いては,この両者ともが重要な位置を占めることはいうまでもないであろう。
ところが,明確な方法論と統計的手続きを踏まえた量的研究の代表とされる無作為抽出
法が,精神保健分野において中心的な役割を果たし,ここでエビデンスを提示したものこ
そが科学的根拠を持つのであり,それゆえにそこに予算がつくようになってきているとい
うのもまた現状である。そして,こうした現状の中で,多くの心理療法士が無作為抽出法
を用いた研究に携わり,それを通して臨床の仕事について検討することで得られる利点を
見出すようにもなってきている。
しかし同時に,われわれ人間のこころの生活といった領域に対して,統制された実験心
理学が支配していくことに対する懸念と,そこで発見された事象が臨床的に一般化される
ものであるのかどうかといった疑念は残されたままである(Wren, 2011)。実際,心理
士2) の中にも,統制された実験手法が,柔軟性のない実践や型どおりのルール,および検
証すら行わない仮説(たとえば,膨大な数の「被験者」を用いること,標準化された測定
法を用いること,興味を惹かれるデータがあったとしてもそのときの実験に関係しない側
面については無視してしまうこと,また,平均値および5%レベルの有意性のみに注目し
てしまうことなど)といった世界に安住してしまっているのではないかとの懸念を持ち始
めているものも多い(Costall, A., 2010)。ここでは,客観性も含め,現象に関する意味や
複雑性といった多くの問題を棚上げにしてしまうのである。
たとえば,統制された実験研究では,ある現象に関する特性を見出そうとし,検査者の
主観性を最小限にとどめた客観性が重視される。ここで言う客観性とは,検査者がすでに
知っていること−検査者の先入観や技術,ファンタジーや判断,願望や努力など−にまっ
たく影響を受けない知見を追求すること(Gaston, L. and Galison, P., 2009)である。つま
り,検査者の主観性は脇に置き,マニュアルに則った目隠し評価を行うのである。また,
ガストンら(2009)は,こうした客観性は,確実性,真実,精密さ,反復性,科学者の意
思の抑制といった性質に関連するものであり,単なる能力の域を超えたものであると主張
する。そして,科学者が世界を知るためには,こうした態度が「認識論的美徳 epistemic
virtues」として広められ,実践されなければならず,こうした価値観への忠誠を持って実
践を続けることこそが科学的生活者としての道であるという。
ただ,こうした信念は,心理療法の世界に生きる我々には,かなり極端で異質なものと
して響くのではないだろうか。なぜなら,我々心理療法士にとっては,自分自身について
2)英国では,心理士 psychologist は,心理検査全般および量的研究に携わる専門家で,療法としては
認知行動療法や家族療法を用いる。一方,心理療法士は精神分析的心理療法を専門とし,両者の職
業的専門性およびその訓練過程は異なる。
子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状
69
知る際に,前もって知っているとが,障壁にはならないからである(Wren, 2011)。
実際,他方の質的研究においては,被験者一人ひとりの固有の人生,そしてその語りの
中の多様性や矛盾をも認めることにより成り立つという特性がある。質的研究に特有の豊
かなデータは,人間の行動とその影響について解釈し,行為を説明したり正当化したり,
その意図や理解について明確化したりしていこうとする。また,ここでは,研究者の主観
性までもが,被験者についての理解を解釈するものとして見過ごされることがない。つま
り,その個人にとっての「意味」に注目していくわけであるが,それは被験者の生きる現
実を象徴するものであり,被験者が自らの現在の生活,過去の生活,そして人間関係につ
いていかに理解しているのかといったことに関心を注ぐ。また,これは,被験者自身がこ
うした研究に果たす自らの役割について積極的に理解していることをも意味する。
ただし,量的研究か質的研究か,といったいわば二極化された議論は生産的ではなく,
そうした二極化からは新たな可能性は生み出されないであろう。こうしたアプローチの違
いについて理解し,それらがそれぞれに異なる文脈の中で,異なる目的を持って,何かを
見出そうとするものであるとの違いを理解し,認めることから,心理療法にとっての新た
な調査・研究の展望が生まれ出るといえるであろう。
実際,こういった心理療法の世界からの量的研究に対する懸念やそれにまつわる議論が,
心理療法における調査・研究のパラダイムに新たな方法論の展開を呼んでいる。たとえば,
心理療法について,「何が」,「誰に」,「どのように効くのか」といったことに関する調査
・研究を行う上では,量的研究と質的研究が相補的に統合された形で進められることが有
効であるという考え方である。そして,そのためには,本論の(2)(次号以降に掲載予定)
で概観するような多職種協働による調査・研究が力を発揮するものであると思われる。
また,心理療法における質的研究に関しては,社会科学の分野から発展した質的研究の
主流である,グラウンデッド・セオリー(Grounded Theory, Glaser, B. G., & Strauss, A. L.,
1967)のような現象学的アプローチを用いた方法を用いてすでに行われている研究も少
なくない。これらの方法には,臨床面接における,主に言語で語られる豊かで幅広い‘デ
ータ’に関して,緊密で詳細な読み込みが必要とされることはいうまでもない。そして,
こうした手法は,心理療法士が面接室の中で当たり前のこととして,日々,行っている手
法とかなり重なる部分があると指摘するのがマスケット(Muskett, 2011)である。彼は,
質的研究の中でも,特にこの現象学的アプローチこそが,子どもの心理療法という専門領
域に最も関連性が深い方法論であると指摘している。
(Ⅳ)現象学的アプローチ:グラウンデッド・セオリー
心理療法士がこれまで用いてきた現象学的アプローチには,グラウンデッド・セオリー,
解釈学的現象学的分析(Interpretative Phenomenological Analysis, Smith, J. et al., 2009)
や,主題分析(Thematic Analysis, Crabtree, B. F., & Miller, W. L., 1999)などが挙げられ
る。これらの量的研究との相違点は,これが実際の心理療法のプロセスを通じてそこから
何かを同定し, 分類し, テーマを絞り上げていくという点, そして, 検査者がこうした分析
70
大阪経大論集
第62巻第3号
に先立って持っている知識を用いることが認められているという点の二点であるといえよ
う。プロセスを振り返ること,そして複雑な素材について吟味を重ね,そこから主題を絞
っていくことといった現象学的アプローチの原則は,心理療法の実践と非常に近い側面が
あり,心理療法士にとっては大変なじみの深いあり方ではないかと考えられる(Muskett,
2011)。さらにマスケットは,心理療法士は,個人の経験について,分析的に,内省的に,
解釈的に考えようとすることで,既存の精神分析理論の枠組みを検証するが,こうした態
度は他の専門領域には見られないことかもしれないとした上で,心理療法士がこうした現
象学的アプローチにおいて精神分析的な展望を用いてさらにそれを発展させていくことが
重要であると述べている。つまり,心理療法士にとっては,その臨床技法と現象学的アプ
ローチにおける手法に多くの共通点を見出すことができるはずであるということである。
たとえば,両者とも,人が「何を」,「どのように」言うのかに着目したり,ある特定の行
為がどのような結果を導き出すのかといったことについて詳細に着目したりする。そして,
こうした分析や解釈をより豊かで幅広いものにしていくためには,精神分析理論という新
たな視点が加えられることが大いに期待されるということではないだろうか。
現象学的アプローチによる研究の目的は,個人が主観的に生きた体験について検証する
ことである(Muskett, 2011)。特に,昨今の英国のヘルスケアサービスにおいては,利用
者の視点を大切にするという方針から,利用者の意見,体験,そして理解について検証す
る上で,こうしたアプローチが頻繁に用いられるようになってきている。たとえば,利用
者との個人面接,アンケート用紙への記述内容,診療記録などから得られるデータの中か
ら鍵となるテーマを絞り,そこで得られたテーマによって再びデータを分類し,提示しな
おすという作業を繰り返す。その際,類似性とともに相違点についても注目する。つまり,
この種の研究の目指すところは,意味と体験についての多様性を捉えることであり,豊富
で膨大な量のデータの中から,核となる特性をすくい上げ,集約することなのである。
このように,量的研究によるエビデンスの提示にこだわることよりも,むしろ,精神分
析的心理療法という専門性を生かした現象学的アプローチの中に活路を見出し,そこから
エビデンスを積み上げていくことこそが,心理療法士にとっての道なのではないかと思わ
れてくる。
ここで,グラウンデッド・セオリーを用いて,リスクを伴う危険な行動を呈する若者に
関する研究を既に行い3),また自殺企図のある若者に対する7人の子どもの心理療法士の
治療過程に関する研究を現在進行形でおこなっている Anderson, J. (2011)の考えについ
て概観する。
彼女は,この手法は,一事例以上の臨床的問題に関する詳細な臨床素材を検討する際に
最も有効だと考えているという。つまり,事例間の比較をすることで,さまざまな状況に
ついて分析し,そこから理論の中核となるであろう類型を構築していく機会が与えられる
3)それぞれにリスクのレベルが異なり,予後予測も臨床技法も異なる群に対する研究であるが,詳細
は,前掲 ‘Child Psychotherapy and Research’ に所収。
子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状
71
ということである。このような分析をする上では,我々が日常の臨床場面で出会う臨床的
データが豊かなリソースになることは間違いない。また,臨床データを吟味することで見
出される事柄は,翻ってそのまま臨床場面に応用することが可能である。彼女はまた,グ
ラウンデッド・セオリーによる研究は,この分野におけるほかの研究から見出された数々
の事柄を意味深くつなげていく機会をも与えてくれるのではないかと考えているという。
つまり,通常,理論は,精神分析臨床の枠内で一般化されていくのであるが,面接室や精
神分析理論といった境界を越えて,広く他の専門家やクライエントの家族にとっても了解
可能な意味を持つものとして翻訳されていくプロセスにも,この手法が役立てられそうだ
ということである。
このように,グラウンデッド・セオリーによるアプローチは強力で,心理療法士にとっ
ては得るところが大きいと考えられる。しかし同時に,より伝統的で科学的な視点から調
査・研究を進めることに慣れているものにとっては,これはかなり困難な作業であるとい
える。また,彼女は,グラウンデッド・セオリーに対する批判として,これはセオリー
(理論)というよりは「グラウンデッド・仮説
grounded hypothesis」ではないか,つま
り,無作為抽出法によって証明されることのみが役に立つのであって,そうした証明抜き
に見出された知見などには,何の価値もないとする議論も成り立つかもしれないという。
そして,実際にこの手法を用いて研究を行うにあたっては,こうした質的データを集約し,
分析するという責任を負う臨床家−研究者の間に,ある種の緊張が発生しうると指摘する。
つまり,データを集約する臨床家−研究者と,それを分析する臨床家−研究者の機能を二
手に分けることで,臨床場面において得られた情報が失われるというリスクが発生すると
いうことである。なぜなら,臨床場面で体験され,得られる詳細なニュアンスといった特
徴は,重要な事象として思い起こされることはあっても,それが完全な記録として残され
ることはありえないからである。
精神分析的臨床家は,常に開かれた心を創造し,それを維持することができる必要があ
る。それによって,精神分析的理論を用いながらも,それをいったんは脇において新たに
発見される考えを受け入れていくことができるからである。一方で,そうした新たな考え
をすぐに取り入れて,続く事例に早急に当てはめてしまわないこともまた大切である。そ
うすることが反対に,新たな考えを閉じてしまうことになるからである。アンダーソンは,
グラウンデット・セオリーを用いた研究に際してのこうした注意点を強調しながらも,臨
床家にとってこのような姿勢というものは,いわば我々の専門性にとってはあまりにも自
明の理(bread and butter)であることは承知していると付け加えている。
(Ⅴ)現在進行形の子どもの精神分析的心理療法の調査・研究
ミッジリー(2011)によると,2004年から2010年3月までに,33件の子どもの心理療法
の効果を検証する研究が行われており,そのうち13の研究については,何らかの形で公刊
されているという。こうした研究には,うつ,PTSD,および破壊的行動障害といった子
どもの症状に焦点を当てたものから,情緒的な困難と問題行動が複雑に絡み合った子ども
72
大阪経大論集
第62巻第3号
の問題を取り扱うものまで幅広い。ただ,こうした研究の多くは,研究者自らが「観察研
究 observational studies」と呼ぶように,基本的には子どもと青年のための精神保健サー
ビス(Child & Adolescent Mental Health Service
以下,CAMHS)に紹介されてきた事例
に対する治療を,統制群を設けずに行ったものである。
とはいえ,最近の新しい研究の中には,より実験的な experimental デザインの下に行
われたものもある。たとえば,PTSD と診断された思春期の青年の治療に対して無作為抽
出群を設けたもの(Gilboa-Schechtmann et al., 2010)や,短期および長期の心理力動的心
理療法の影響について調査した ‘Heidelberg Study of Psychodynamic Psychotherapy for
Children & Adolescents’ (Kronmuller,K., et al., 2010)がある。特に前者は,心理力動的な
アプローチに対して親和的ではない研究者グループによってなされたもので,PTSD 症状
に有効であるとされている持続性暴露療法(prolonged exposure treatments)に対する統
制群として,精神分析的心理療法が採用されたものである。ところがその結果は,いずれ
の療法も PTSD に対する有効性を認めるものとなっており,これは精神分析的心理療法
士にとっては興味深いものであるといえよう。
それでは,こうした状況を踏まえた上で,現在の英国ではどのような調査・研究プロジ
ェクトが行われているのか,その現在進行形のものを2件,概観する。
(1)IMPACT
これは,中度から重度の抑うつを抱える若者の再発予防について,短期心理力動的心理
療法の影響(impact)を探求するものである4)。この研究が完結するまでには,今後数年
を要するが,本研究に携わる臨床家らは,これはエビデンスを求められているという現状
に対する確かな挑戦であると考えているという。
具体的には,参加協力を得た600人の青年を,無作為に以下の3タイプの治療群に分け
て治療を行うものであるが,2011年3月の時点では,まだ開始されて数ヶ月を経たところ
である。
専門臨床家5) によるケア:心理教育的サポート,家族面接,必要に応じた投薬治療
という,いわば通常の CAMHS の治療で行われている形態のものよりもきめ細や
かなバージョン。
認知行動療法。
短期精神分析的心理療法:28回の個人セッションと並行して,7回の親/養育者の
セッション。
また,心理療法の仮眠効果 sleeper effect6) を検証する目的で,これらの治療が終了した
4)トローウェルら(Trowell et al, 2007)の,子どもの抑うつに関するガイドラインワーキンググル
ープにおける成果(前掲 ‘Child Psychotherapy and Research’ 所収)を受けて,英国保健省より本研
究に対する予算が下りている。
5)臨床心理士,地域精神科看護師(Community Psychiatric Nurse),児童・青年精神科医による多職
種協働チームを指す。
子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状
73
86週後に,フォローアップ調査が行われる予定になっている。
本研究の責任・代表者である子どもの心理療法士ラスティン(Rustin, M., 2011)は,
こうした研究に用いられる測定方法が,こころのモデルと無意識の現象に注意を払う心理
療法のモデルに真に適応するものなのかどうか,それはほとんど不可能なものではないの
かというジレンマを抱えながらも,現状ではできる限りのことをする中で,本研究で得ら
れたデータが世界的にも通用するものになることを願っていると言う。
(2)HETA:THE HOPES AND EXPECTATIONS FOR TREATMENT APPROACH(治療
的アプローチに対する希望と期待)7)
本研究は,当初は2009年に子どもの心理療法士であるアーウィン(Urwin, C.)博士の
率いるロンドンのタワーハムレット区におけるプロジェクトを発端に,現在はイングラン
ドおよびスコットランドの合計13の地域の CAMHS において行われている8)。
これは,患者である子ども,家族,そして関係する専門家の声が,心理療法の評価に確
実に反映されることになるという点でユニークなものであるといえる。
HETA の枠組みでは,まず,心理療法への紹介フォームがその特徴としてあげられる。
このフォームには,紹介者が,なぜ,心理療法にこの特定の子どもと家族を紹介してきた
のか,そして紹介者が治療に期待するものは何なのか,といった基本的な情報が集められ
る。また,このフォームに記入をすることで,紹介者がその子どもにとっての「変化」と
いうものをいかに理解するのかを,考えるきっかけにもなる。次に,このフォームに記入
することが重要だと考えられる理由は,通常,心理療法に導入する前に行われる心理療法
のためのアセスメントにおいて,なぜ,心理療法が有効だと考えられるのか,そして心理
療法によって期待される変化は何なのか,といったことをより明確にするという点である。
心理療法のためのアセスメントの後の振り返り面接において,心理療法を開始すること
が合意されると,親 / 養育者が,最初の1年間に期待する3つの変化を挙げ,そうした変
化を彼らがどのように認識するのかをこのフォームに明記する。同様に,心理療法士も観
察可能な二側面(心理療法の中,および家庭と学校生活という心理療法の外)において期
待する3つの変化を挙げる(表1)。そして,可能であれば,ここに子ども自身の視点も
取り上げておく。これらを全て,HETAフォームに記入しておき,6ヶ月ごとに親 / 養育
者,および心理療法士がそれぞれにこれを振り返り,評価する。
そして,通常行われる学期ごとの振り返り面接時に,5点法(0点のまったくの進展な
し∼4点)でこれを評価(表2)すると共に,すでに標準化されている HoNOSCA9) や
6)期間をおいて影響が発現すること。
7)この HETA フォームを用いた単一事例の検討が,前掲 ‘Child Psychotherapy and Research’ に所収
されている。
8)英国児童心理療法家協会およびウィニコット財団の援助を受けて行われている。現在も,研究代表
者はアーウィンである。
9)The Health of the Nation Outcome Scales for Children and Adolescents の略称。The Royal College of
74
大阪経大論集
第62巻第3号
表1 心理療法開始前の HETA フォームの一例
事例A:数年前に父親を亡くし,その後,母親との分離不安を呈する7歳男児1)
親 / 養育者は,1年目の終わりまでに以下のことを希望する
1
夜の不安が減ること
どのようにその変化が認識されるでしょうか?
夜,自室で一人で眠り,母親を起こさなくなる。
2
自信を持って人とかかわれるようになること
どのようにその変化が認識されるでしょうか?
恥ずかしがらず,他の子どもが通りかかっても母親にしがみつかなくなる。
3
不慣れな状況にももっとうまく対処できるようになること
どのようにその変化が認識されるでしょうか?
いつもと違うことが起こった時にも,パニックにならずに冷静でいられる。
心理療法士はセッションにおいて以下のことを希望する
1
感情や恐れを表現し,伝えられるようになる。
どのようにその変化が認識されるでしょうか?
遊びと描画から,彼の感じていることについて話し合ったり考えたりできるようになり,
そうした感情に気づくようになる。休暇やセッションの終了といった分離に対して,強く
反応することが予測される。
2
母親から一人前の男性であることを期待されているのか,あるいは支えと励ましを必要とす
る子どもであることを期待されているのかといった混乱を表現する。
どのようにその変化が認識されるでしょうか?
遊びにおいても,心理療法士に対する態度においても,例えば,セッションをコントロー
ルしようとしたり,心理療法士が他の子どもとも会っていることに強く反応したりするだ
ろう。このような時期には,母親に心理療法に来るためのサポートをしてもらう必要があ
るかもしれない。
3
父親のことをもっと考えられるようになり,彼がどんな人物であったのかということについ
て,より全体的な像が持てるようになる。
どのようにその変化が認識されるでしょうか?
父親は,例えば英雄であったり,素晴らしいお父さんであったり,恐ろしい人でもあるな
ど,異なる種類の記憶やイメージについて実演したり話したりすることが期待される。父
親に対してより全体的な像を待てるようになるにつれて,父親が亡くなったことや父親に
先立たれたことについての悲しみの感情が前面に現れるかもしれない。
心理療法士はセッションの外で以下のことを希望する
1
夜の不安が減ること
どのようにその変化が認識されるでしょうか?
悪夢が減り,自室で寝ようとするようになる。
2
学校での困難な対人場面に,より自信をもてるようになる。
どのようにその変化が認識されるでしょうか?
他の子どもにからかわれたりしても堂々としていることができ,母親にもそれを話すこと
ができる。
3
自分の感情により触れるようになり,母親ことを過度に心配することが減少する。
どのようにその変化が認識されるでしょうか?
母親の気分がすぐれないときにも,今ほど大げさに,たとえば母親も亡くなってしまうの
ではないかというほどには心配することがなくなる。
1)前掲 ‘Child Psychotherapy and Research’ 所収の ‘A qualitative framework for evaluating clinical effectiveness in child psychotherapy : The Hopes and Expectations for Treatment approach (HETA)’ (Urwin, 2011) より抜粋,改変したものである。
子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状
75
PCI10),および SDQs -Parents and School11) といった評価も同時に行う。
表2
振り返り面接で,親と心理療法士が項目ごとにつける
HETA 得点表
項目
6カ月時点
1年の治療終結時点
1
親 / 養育者が期待
した3つの変化
2
3
合計点
1
心理療法士が心理
療法の中に期待し
た3つの変化
2
3
合計点
心理療法士が家庭
や学校など,心理
療法の外に期待し
た3つの変化
1
2
3
合計点
総得点
1年の心理療法の終了時には,親 / 養育者とその面接担当者,そして子どもの心理療法
士が HETA を行った体験についてのフィードバックを含めた評価を行う。
ここには,親面接と子どものセッションとのかかわり,そして子どもの変化がどのよう
にもたらされるのかということについての質的評価手法も加えられる予定である。
2011年3月の時点では,22事例において心理療法が開始されており,そのうち3事例が
1年の治療を終えている。また,およそ半数の事例においては6ヶ月時点での評価まで進
んでいるが,研究全体としては40事例の集約を目標にしているということである。これま
Psychiatrists の調査・研究部門,および The University of Manchester の児童・青年精神医学部門
の共同研究チームにより,精神保健上の問題を持つ子どもと青年の行動,障害,症状,そして社会
的機能を評価するために開発された。個々人の精神保健の現状を全般的に測定し,精神的健康と社
会的機能の改善の試みに関する効果を評価するものである。
10)Paddington Complexity Index の略称。Yates, P. ら(1999)が,事例の複雑さについて評価するため
に開発し,標準化したスケール。4領域におけるスコアの合計と,臨床的要因(精神医学,一般医
学,発達科学),および環境要因という2つのサブスコアにより評価するものである。
11)The Strengths and Difficulties Questionnaire の略称。3歳から16歳までの子どもの行動に関するス
クリーニングテスト。情緒障害,行動上の問題,対人関係上の問題など25の項目からなり,それぞ
れ,親,教師,臨床家が記入するためのバージョンがある。11歳から16歳の子どもに対しては,自
己採点できるバージョンもある。また,フォローアップバージョンでは,これらの項目に加え,治
療的介入により問題が減少したかどうか等を問う項目も含まれる。
76
大阪経大論集
第62巻第3号
でに集められた結果からは,心理療法の効果が大いに期待されるものとなっているが,心
理療法士の評価は,親 / 養育者のそれよりも比較的厳しいものになっている。
また,これは CAMHS に紹介されてくる事例そのものの特徴であると考えられるが,
本研究に参加している子どもは,自閉症スペクトラム障害,および公的保護下にある子ど
もや養子となっている子どもがほとんどである。心理療法が,これらの群の子どもたちに
いかに有効であるのかということ,また心理療法士が治療に期待すること,そしてそれが
セッションのプロセスの中から生まれてくるものなのかどうかといった事柄を明確に提示
することが,研究代表者であるアーウィンをはじめとする本研究チームの目的である。
以上,本稿においては,英国の子どもの精神分析的心理療法という専門領域における調
査・研究の現状を概観することを目的に,特に,量的研究か質的研究かといった議論につ
いて,また,精神分析的心理療法にとって調査・研究が意味するところについての最近の
議論をまとめた。その中で,精神分析的心理療法にとって,現象学的アプローチによる研
究が注目されていることについても触れた。最後に,英国で現在進行形で行われている調
査・研究の具体例を提示した。
続く次稿では,英国近隣のその他の国々における子どもの精神分析的心理療法の調査・
研究について概観した上で,量的研究と質的研究の統合の可能性という観点から,多職種
協働による調査・研究についても例示したい。
文
献
Anderson, J. (2011) A Personal Account of Using Grounded Theory. In The ACP Bulletin Special Issue,
Child Psychotherapy and Research. London
Catty, J. (2011) A View from Adult Mental Health Services. In The ACP Bulletin Special Issue, Child
Psychotherapy and Research. London
Costall, A. (2010) The Future of Experimental Psychology. The Psychologist, 23, 12, 1022
1223
Crabtree, B. F. & Miller, W. L. (1999) Using codes and code manuals : a template organizing style of interpretation. In B. f. Crabtree and W. L. Miller, (eds), Doing Qualitative Research (2nd edition). Newbury
Park, California : Sage.
Gasston L. & Galison P. (2007) Objectivity. Zone Books.
Gilboa-Schechtman et al. (2010) Prolonged Exposure versus Dynamic Therapy for Adolescent PTSD : A
Pilot Randomized Controlled Trial. Journal of the American Academy of Child 6 adolescent Psychiatry,
Vol. 49 : 10
Galser, B. G. & Strauss, A. L. (1967) Discovery of Grounded Theory. Weidenfeld and Nicolson.
Hodges, J. (2011) Child Psychotherapists and Interdisciplinary Research. In The ACP Bulletin Special
Issue, Child Psychotherapy and Research. London
Kronmuller, K. et al. (2010) The Heidelberg Study of Psychodynamic Psychotherapy for Children &
Adolescents. In Tsiantis, j. & Trowell, J. (eds.) Assessing change in psychoanalytic psychotherapy of children and adolescents. London : Karnac
Midgley, N. (2011) Update of the Systematic Review. In The ACP Bulletin Special Issue, Child
Psychotherapy and Research. In The ACP Bulletin Special Issue, Child Psychotherapy and Research.
子どもの精神分析的心理療法の調査・研究の現状
77
London
Muskett, T. (2011) Methodologies, a primer on qualitative research methods. In The ACP Bulletin Special
Issue, Child Psychotherapy and Research. London
Nathanson, S. (2011) What do we want from Child Psychotherapy Treatment? The Hopes and Expectations
for Treatment Approach (HETA). In The ACP Bulletin Special Issue, Child Psychotherapy and Research.
London
Rustin, M. (2011) On-Going Research - A Report on IMPACT. In The ACP Bulletin Special Issue, Child
Psychotherapy and Research. London
Smith, J., Flowers, P., & Larkin, M. (2009) Interpretative Phenomenological Analysis : Theory, Method and
Research. London : Sage.
Urwin, C. (2009) A qualitative framework for evaluating clinical effectiveness in child psychotherapy : the
Hopes and Expectations for Treatment Approach (HETA). In Midgley, N., Anderson, J., Grainger, E.,
Nesic, T., & Urwin, C. (eds.) Child Psychotherapy and Research : New approaches, emerging findings.
London : Routledge.
Wren, B. (2011) It’s Interesting, but is it Science? Research outside the dominant experimental paradigm.
In The ACP Bulletin Special Issue, Child Psychotherapy and Research. London
Yates, P. et al. (1999) Paddington Complexity Scale and the Health of the nation Outcome Scales for children and Adolescents, The British Journal of Psychiatry, 174 : 417423, The Royal College of psychiatrists.
Fly UP