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飼い葉桶の救い主 - 日本バプテスト川越キリスト教会

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飼い葉桶の救い主 - 日本バプテスト川越キリスト教会
2014 年 12 月 21 日川越教会
飼い葉桶の救い主
加藤
[聖書]
享
ルカによる福音書2章1~20節
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 これは、
キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 人々は皆、登
録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であった
ので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 身ご
もっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 ところが、彼らがベツレヘム
にいるうちに、マリアは月が満ちて、 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の
天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐
れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたが
たのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくる
まって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしで
ある。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところ
には栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去った
とき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見よう
ではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてあ
る乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話して
くれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、
マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きし
たことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
[序] 貧しい誕生
クリスマス おめでとうございます。救い主イエス・キリストのお誕生を
ご一緒にお祝いできることを、心から感謝いたします。皆さん、お立ち下さい。
声を合わせて「メリークリスマス」とご挨拶をいたしませんか。
「メリークリス
マス」有難うございました。お座り下さい。
ローマ皇帝の命令で住民登録をするために、ヨセフは身重なマリアを案じつ
つ、北のナザレから幾日も旅をして出身地のベツレヘムへやって来ました。し
かし宿屋はどこも満員で、客間に泊まれません。仕方なしに牛やロバが休む
小屋で夜を過ごすことになり、そこでマリアは産気づいて、男の子を産みまし
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た。生まれた子は布に包まれて、飼い葉桶に寝かされました。
世界を救うためにこの世に来られたイエス・キリストです。その救い主が、
戦乱や自然災害で家を失い、惨めな避難生活を余儀なくされている人々と同じ
最も貧しい境遇に身を置いて人生を始められたのです。この貧しい救い主の
誕生を、世界で一番最初に見つけたのは、野宿して羊の番をしていた貧しい
羊飼いたちでした。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる 今日ダビデ
の町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア
である。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見
つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
この世界を救うために神さまが送られた救い主の誕生――そのしるしは飼い
葉桶に寝ている乳飲み子だというのです。羊飼いたちは、直ちにダビデの町
ベツレヘムに出かけて行って、探し当てることが出来ました。飼い葉桶は羊飼
いたちにとっては、自分たちの日常生活の一部だったからでしょう。羊飼い
たちはすべて天使のお告げ通りだったので、神をあがめ、賛美しながら、羊の
もとに帰って行きました。勿論夜が明けると、人々に知らせました。
神さまはどうして世界の救い主を、このような貧しい姿で誕生させたのでし
ょうか?
[1] 命を粗末にする罪深さ
先週の 16 日火曜日に、パキスタンのペシャワルで、小学生から高校生までが
学ぶ学校がイスラムの過激派武装集団 TTP に襲撃されて、148 人の児童・生徒
らが殺害されました。先ず 300 人の高学年が講義を受けていた講堂で女性教師
の頭を撃ち、体に火をつけて「神は偉大なり」と叫んで、生徒たちへの銃撃を
開始し、それから別の教室に散って行ったそうです。犯人は 6 人で、最後まで
生き残った 2 人がこれからどうしたらよいかと携帯で指導者に問い合わせ、軍
隊が到着するのを待って最後まで戦えと指示され、その通りに従って死んだそ
うです。
今年のノーベル平和賞を受賞したパキスタンの 17 才の少女マララさんは、12
才から女性の教育の必要性をイギリスのメディアに訴え始めました。15 才の時
スクールバスで中学校から帰る途中、TTP に襲われ頭に二発銃撃を受けました。
その時「彼女は欧米がタリバンと闘うために子ども兵士に仕立てられたのだ」
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という批判を受けましたが、こう答えています。
「何も言わずに殺されるか、声
を上げて殺されるか、私が自分で、声を上げようと決めたのです」そして平和
賞受賞演説で「イスラム教聖典コーランで、アラーの神は一人を殺せば人間性
の全てを殺すことと同じだとおっしゃっています。知らないのですか」と TTP
を厳しく批判しました。このようなマララさんと彼女を支持する世界に対する
TTP の反撃ではないでしょうか。
イスラム教徒はどうして神の名において、勉強にいそしむ児童・生徒を無差
別に銃撃して殺しまくることが出来るのでしょうか?マララさんの批難に対し
て、過激派を指導するイスラム教指導者の信仰の答えを聞きたいものです。否、
イスラム教すべての教派の指導者たちは、正しい声を上げるべきではないで
しょうか。
しかし私たちキリスト教徒も同じ罪を犯しています。先週川越の女流作家
平松伴子さんが礼拝に見えて、ベトナム戦争での枯葉剤被害者への支援活動の
報告文集最新号をご寄贈くださいました。その 67 頁にも記されていますが、
キリスト教国のアメリカ軍が、1961 年から 1971 年にわたって 10 年間に 19900
万トンの枯葉剤を空から散布しました。その中に 8000 万リットルのダイオキシ
ンが入っていました。そして 300 万人のダイオキシン被害者が生じました。人々
の目・耳・体・脳・内臓・手足と全身に障害が生じました。被害者団体はアメ
リカの化学兵器メーカーや軍・政府に賠償を求めて提訴していますが、回答が
ありません。勿論アメリカ国内の教会からも何の声も上がりません。
日本も、去る 16 年戦争では 2000 万人をはるかに超えるアジア諸国の人々を
殺しまくりました。戦争末期には戦闘機に爆弾を抱えて敵艦に突入して自爆す
る神風特攻隊で、大勢の若い兵士が死にました。彼らは、敵艦ばかりでなく、
敵国の町や村へも自爆攻撃をせよと命じられたら、TTP と同じ様にしたでしょう。
当時の日本国内はそれを当然とする「聖なる大東亜戦争」という意識に支配さ
れていました。そして今度の選挙の結果を見ましても、世界各地で銃が火を噴
いている以上、自衛権の強化、軍備は必要だという意識が国民の間に根強いこ
とが現れています。私は、自分も無力な宗教家の一人にしか過ぎないのかと、
暗い気持ちに落ち込みかけました。
[2] 貧しさがもたらす豊かさ
しかしクリスマスのメッセージを繰り返し読んでいるうちに、全世界に大き
な喜びを与える救い主は、やはり小さな田舎町の家畜小屋で誕生し、飼い葉桶
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に寝かされなければならないという神さまの深い御心の素晴らしさが、再び
はっきりと分かってきました。
マタイ福音書の 2 章のクリスマスの記事をご覧ください。エルサレムの都の
宮殿に暮すヘロデ王は、星の光に導かれて東の国からやって来た占星術の学者
たちから、新しい王の誕生を尋ねられて不安に怯えました。そして後に、ベツ
レヘム周辺の2才以下の男の子を皆殺しにしています。都で暮す祭司長・学者
たちも、救い主の誕生を喜ぶどころか無視しました。そして成人した主イエス
が人々の注目を集めるようになると、十字架につけて殺してしまいました。
権力を握る者たちからは、命と平和の喜びは生まれてこないのです。
しかし弱い者の一人、まばたきの詩人と言われた水野源三さんをご覧くださ
い。小学校4年生の時に集団赤痢にかかり、高熱が続いた結果脳膜炎による
麻痺のために身体の自由を全く失い、しゃべることすら出来ない障害者になっ
てしまいました。しかしお母さんは目の瞬きで合図をする源三さんを見て、50
音の図を使って、指し示す字と目の瞬きで、自分の意志を言葉で表現する道を
考え出しました。町の教会の牧師から贈られた聖書を読み、ラジオ福音放送で
学び、信仰者になりました。信仰の雑誌に詩を投稿したことから詩集が出版さ
れるようになりました。
起床 洗顔 食事 読書
朝から晩まですべてのことを
自分では出来ない我なのに
20 年余りも生かされて そのうえ
主イエス様の御救いの中に入れられており
だから
父なる神様に 感謝せずにはいられない たたえずにはいられない
朝祈る前に
夜寝る前に
神は愛なり
神は愛なりと
心の中で 唱えてみよう
涙ぐむ人に うなだれる人に 神は愛なり 神は愛なりと
祈りをこめて 話しかけよう
苦しみの夜に 悲しみの時に 神は愛なり 神は愛なりと
まぶたを閉じて 思いめぐらそう
御恵みによりて 集ったならば 神は愛なり 神は愛なりと
声を合わせて 賛美しよう
長野県の田舎町の源三さんの家に、全国から一人また一人と訪ねて来ます。
そして何も話せない源三さんのそばに座って、しばらくの時を過ごすと、元気
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をもらい感謝に溢れて、別人のようになって帰っていくそうです。こうして 47
才までに4冊の詩集を遺して、世の光、地の塩の生涯を送られたのでした。
クリスマスの夜羊飼いたちは天使の合唱を聞きました。
「いと高きところには
栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 身体の自由を全く失
い、しゃべることすら出来ない水野源三さんは、まさに貧しい飼い葉桶そのも
のもでしたが、心にイエス様を迎え入れることによって、まさに「地には平和、
御心に適う人にあれ」と歌われた生涯を送りました。貧しさがもたらす豊かさ
ですね。TTP の勇士たちとはまた、何と異なる生き方でしょうか。
[結] クリスマスの喜び
先程聖歌隊が讃美歌176を歌いました。
「飼い葉桶の中に 眠るイエスよ
あなたは貧しさの中に 生まれてこられた
主は豊かであったのに、貧しくなられた
わたしたちが主によって、豊かになるために」
牧場の馬小屋や牛舎で作業をしている人の手記を読みました。
「そこは湿って
いて暗く、排泄物があちこちにあり、臭う場所です。飼い葉桶に餌をいれるた
めに両手一杯にわらを持つと、肌がかぶれて目がかゆくなり、土煙に咳き込ん
でしまいます。どうしてこんな所が、神の御子を迎える場所なのだろうか。
ところがもう一つのメッセージが聞こえてきました。ここは動物たちの命が生
まれ、育まれていく強い美しさで満ちているのです。人間と動物たちが共に生
かされる大切な場所なのです。」
これを読んで、先々月に学んだイザヤ書 11 章6節以下の預言が浮かんできま
した。
「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち
/小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の
巣に手を入れる。 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼす
こともない。」
自然界は弱肉強食の世界です。小羊、子山羊、子牛は狼、豹、若獅子の食い
物にされてきました。しかし平和な王の支配のもとでは、どの生き物も皆、草
や干し草を食べるようになり、一切の殺し合いはなくなるというのです。どの
生き物も共に育ちます。小さい子どもが彼らの世話をします。乳飲み子が毒蛇
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と一緒に遊びます。全地は神の愛に覆われて、人も生き物も全て、害を加える
もの、滅ぼすものは存在しなくなるのです。何という平和な世界の預言でしょ
うか。
神さまはこのような平和な世界を目指して、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み
子の姿で、救い主キリストとしてこの世界に来て下さったのですね。人間社会
の平和にとどまらず、動物の世界までも包み込んだ大きな全世界の平和を目指
して居られるのですね。なんと素晴らしいことでしょうか。
このような豊かな平和を目指す全知全能なる神さまが、飼い葉桶に寝かされ
る乳飲み子という貧しさの中に 生まれてこられたのです。私たちの貧しさを
豊かにするためにです。ですから私たちは必ず豊かになれるのです。
源三さんは「神は愛なりと、唱えてみよう、話しかけてみよう、思いめぐら
そう、賛美しよう」と歌いました。そして主から愛をいただいて、あのように
貧しい体でありながら、豊かな生涯を生きることが出来ました。
私たちは皆、源三さん同様に豊かな生涯を送ることが出来るのです。主は
十字架の貧しさにまで、貧しくなって下さったのですから、私たちは誰でも皆、
主の愛の豊かさを頂いて生きていけるのです。多くの人が苦しみ、傷つき、倒
れていくのに、お前は牧師でありながら何をしているのかと、無力さと不甲斐
なさに沈みかけましたが、そうだ、クリスマスなのだと、気が付いたのです。
私という飼い葉桶の中に主イエスが誕生して下さって居ることを心から感謝
して、「メリークリスマス」と言えるのだと気が付いたのです。
力を振りかざす人は、平和を造れません。自分の弱さを知る者が、神の愛を
頂き、神に用いられて、平和を造り出す神の働きに用いられるのです。心に主
イエスを迎え入れ、クリスマスの喜びに生きて参りましょう。
完
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