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我が中国戦線記 江橋榮(PDF形式:2838KB)
我が中国戦線記 。 戦線に入る前に私 の軍歴をちょ っと書 いてみます 私は昭和十 三年 三 月に 学校 を 卒業 して就職し、台湾に赴任し ましたが、その年の十 一月に召集令状が来て東京に戻り、十 二 築 中野二丁目 れたので、時々精神訓話をされましたが、今でもそのきびきび した勇姿は頭に残 っていて、馬場でスペイン並足などや ってお 。 られるそのお上手なことに感 心していたのであります 陸軍経理学校に入学し、十五年四月に卒業。 満州国新京の関東 翌十四年六月には経理部甲種幹部候補生に合格して若松町の 入隊しました 。立派な兵隊になるようにと色々と鍛えられまし 軍野戦貨物廠に配属されて全満将兵の給与関係業務を行うこと になりました 。 階級は陸軍主計中尉に昇進しましたが、昭和十 八年十 二月に百集解除となり東京の自宅へ帰還し、正月からは 。 また元の会社の東京支社の仕事に戻りました の歩兵連隊に入隊しましたが、直ちに弾一二O 一八部隊に編成 風雲急を告げる十九年七月、再び召集令状を受け取り、山形 の説明ですが、 此の若い 軍曹の班長は、よくぞ税金と言ったも 汽船に乗って、赤いフンドシが全員に支給され ましたが、こ れ、下関に着いて初めてどこへ来たかがわかりました。 は閉めら どこへ行くのかは秘密で、駅を通過する際は汽車の夜, 十一月に入り国防婦人会等の見送りを受けて出発しましたが、 されて出征することに決まりました 。 べて天皇陛下から賜ったものだから大切にしろというのが普通 民の税金で作られているからだ﹂ 。よく聞く 言葉は、兵器等はす れるものを大切にしなければならないか、それはこれらが皆国 一つは ﹁何故、銃や剣等の兵器をはじめとして軍隊で支給さ たが、 二人の上官の 言葉を今でも覚えています。 月 一日二等兵 として千葉県習志野の騎兵第十五連隊 三笠宮 隊に 橋 のだと私は今でも感 心しています。 も う 一つ は大隊本部付の准尉が 言っ た言葉で、﹁何かの行事で 朝の七時に集合が命ぜられた時には、必ず 一時間前に行 って準 。 備をして兵隊達が来るのを待 っててやるのだ ﹂ というものです 又もう 一つ 、私の感激したのは、やはり 三笠宮 が中隊長でおら - 49- 工 j 撃を受けて沈没したとい、フことを聞かされて、いよいよ戦争と うことがわかりました。前に出発した輸送船が敵の潜水艦の攻 れは船が沈没して鮫に襲われない用心のためにつけるのだとい あります。 来ました。 この近くに補給する兵描や貨物廠が無か ったからで よいのを配給しないからいけないのだと、 無理難題が私の所へ 留しなければならないということが起り、 主計がもっと 靴下の で、折り重なって暖をとり、停車場に着くと、兵隊と一緒にな して中国との国境山海関を過ぎましたが、冬季の貨車の中なの は、貨車に乗り、北進して満州国の奉天へ到着し、すぐに南下 史がこの流れに反映しているのであろうなどと思いながら、空 は悠久の流れの楊子江を眼前に見て、中国の長い何千年かの歴 人租界は空爆を受けて見る影もありません 。その かわりに我々 私達第三大隊はようやく大都会漢口に到着しましたが、日本 武昌からは経理室勤務の我々が行軍で先発し、目的地で部隊 はんかお ってマン ト ウ (ふかしてあるマンジュ ウ)の熱いのと南京 豆を 襲も受けないで船で河を渡り対岸の武昌へ着きました。 へいたん いう実感が起こってきました。無事に韓国の釜山に上陸した我々 買ってむさぽりながら、これから先どこへ行くのだろうと不安 と焦燥にかられていました。 の宿営家屋を選んで、夜行軍をして到着した部隊を迎えて宿泊 しんごう 汽車が新郷の街に到着した時には早速アメリカの飛行機に攻 先を割り当て、又先発するという全く忙しい行動をとったので 私は戦後、弾一二O 一八部隊の史蹟編纂のために防衛庁に呼 撃され、汽車のボイラーに穴を開けられて、ウイスキーの大き です。幸いに我々は、兵隊もろとも壕に避難して無事でありま ばれた時、私達ほど遠距離の行軍をした部隊は日本戦史に他に す 。 した。ところが、ここの駐屯部隊の衛兵が機関銃を掃射して勇 無いと聞かされましたが、この足がよく潤滑油も無くて今でも な樽からシュウシュウと湯が漏れ出るようになってしまったの 敢に敵機に立ち向かったのですが、みるみるうちに二機中の一 動いていることを不思議に思う位歩いたのです。 ある日、部隊より先発して、通信隊長の率いる行李(注 ・輸 きゃしゃな馬でした。 れて来た乗馬が与えられました。﹁東光 Lという名のアラブ系の たので、私がその職を拝命しました。この為私には内地から連 やっと岳州へ到着した時、連隊本部付の高級主計が転勤され 機が黒煙を吐き、長い尾を引いて彼方の山間に墜落して行きま e 'ん'レ した。﹁二階級特進だ﹂﹁金鶏勲章だ﹂と一同がその勇敢な兵士 を褒めました。これが敵機とのすばらしい出合いでした。 しかし、敵の制空圏に入ったので汽車に乗るのは危険だと、 夜行軍で前進することになりました。雪解けの道を、犬の遠吠 えを聞きながら歩いたため、大隊の三分の一が凍傷に躍って残 - 5 0 送斑) の 一 個 分 隊 ( 十 名 ) と 、 駄 馬 十 頭 と 共 に 次 の 宿 営 地 長 沙 しようた ん 私 達 の 部 隊 は 長 沙 を 過 ぎ て 少 し 先 の 湘 揮 と い う 街 に 着 きまし た。 珍 し く 岩 塩 の と れ る 所 で 、 中 国 で は 牛 一頭 を 買 う の に 塩 一 湘浬の少し先の清泉郷という村へ参りましたが、ここでしば に向かいました。 長 沙の少し手前の山の上で径一 食をと っていま な 飛 行 機 が 機 首 を こ ち ら に 向 け た よ う に 思 う と 、 ア ッと い う 聞 らく次の前進命令まで逗留することになり、連隊本部は村長の 升で足りるといわれるくらい塩は貴重品でありました 。 に 上 空 に 飛 ん で 来 ま し た 。壕 を 探 し 、 ま も な く 、 山 際 の 畔 の よ 家 に 厄 介 に な り ま し た 。 若 い 女 性 二人 が い て 、 そ の 一 人には小 したが、長沙の上空を飛んで爆撃をしていた玩具のように小さ うな所に伏せて観念していました 。 ところが頭や肩の上に薬英 さな子供もいて、皆親切にしてくれました 。 しかし親日家の村 湘揮を過ぎると、我々に食物等を配給する兵姑がなくなり、 が 落 ち て 来 た の で す 。 一瞬やられたと思いましたが、弾丸では の兵隊で、白いマフラーを巻いているのがよく見えました 。﹁ 皆 徴 発 命 令 が 下 り ま し た 。 徴 発 は 紙 切 れ 一枚 置 い て 盗 って来るこ 長であ った 為 、 敗 戦 後 は 共 産 軍 に 占 領 さ れ て 射 殺 さ れ た と い う 大 丈 夫 か ? ﹂ と 通 信 隊 長 の 声 で み ん な 起 き 上 が って来ました 。 となのです。部 隊 は 何 班 か に 分 か れ て 集 落 を 襲 い 、 米 、 油 、 野 な い の で ホ ッと 一息 つ き ま し た 。 十 回 程 往 復 し て 掃 射 し 、 最 後 無 事 で よ か っ た と 馬 の 方 を 見 た 時 、 皆 青 く な り ま し た 。 山の上 菜 な ど を 徴 発 し て 来 る の で す。 勝 っている日本軍がこのような 話を聞きました 。 残 念 に 思 っています。 で休んでいた通信隊長の乗馬も、私の乗馬も、行李の馬も、全 ことをするのはおかしいと思いました 。しかし実際は日本軍は に 小 さ な 爆 弾 を 投 げ て 引 き 揚 げ て 行 き ま し た 。二 機 共 ア メ リ カ 部 が 首 や 腹 や 股 を 銃 撃 さ れ て 戦 死 し て い た の で す 。 その上これ 降伏の 一歩 手 前 に あ った の で す。 と らを守 っていた通信隊長の 当 番 兵 が 頭 を 撃 ち 抜 か れ て 名 誉 の 戦 徴発につきものの殺人等はあまり聞きませんでしたが、集落 に 男 性 は 見 当 た ら ず 、 た ま た ま 老 母 と 赤 ん 坊 と が 残 っていた所 死 を と げ て い た の で す。 直ちに引き返して部隊長に報告して、私達の不注意をお詫び がありました 。 日本軍は女子供に 害 を 加 え な い と 思 っていたと ある日、牛を徴発して来た後に老婆がついて来て、牛だけは しました 。 も う 少 し 早 く 避 難 さ せ て い れ ば こ ん な こ と に な ら な 馬を葬りました 。 又、当番兵は火葬にしました。集められた木 持 って 行 か な い で く れ 、 日 本 の 兵 隊 は そ ん な こ と を し な い は ず す れ ば 日 本 軍 は 褒 め ら れ る と 思 い ま す。 に火がつけられ、悲壮なる葬送のラッパの音が我々の魂を削る だ、私は日本を知 って い る と 涙 を 流 し て 嘆 願 す る の で 、 私 は 兵 か っ た と 悔 や ま れ た の で す。 部 隊 は 交 替 で 穴 を 掘 り 、 戦 死 し た よ う に 夜 の 寒 気 と 共 に ひ し ひ し と 胸 に 迫 って来ました 。 - 51- 隊 に 牛 は 置 い て 行 け と 命 じ て 納 得 さ せ た こ と も あ り ま す。 湘 浬 を 過 ぎ る と も う 敵 地 と い う こ と が ひ し ひ し と 身 に 追 って 来ました 。 河 岸 を 天 秤 で 荷 を か つ い で 行 く 中 国 人 の 十 人 程 の 群 れに会 った の で 、 止 ま れ と 叫 ん で 分 隊 長 が 追 い か け る と 、 対 岸 信半疑ですが 何故満州へ行かなければならないかは全くわか りませんでした 。 さて翌年の六月六日、内地の博多に帰還するまでにはまだ色々 の思い出があります。 敗戦の知らせが通信隊長から伝えられた時には、転勤する連 隊 長 の 送 別 会 の 帰 り で 、 将 校 一同馬賊になるか、切腹するか、 から 一斉 射 撃 を 受 け ま し た 。 部隊が 一時 は 動 け な く な り ま し た が、旬旬前進をして建物の陰まで進みました 。前を行く兵隊の 反 撃 す る か な ど と 物 騒 な 意 見 が 多 か った の で す が 、 連 隊 長 が 次 はふく 足元へ敵の弾丸が砂煙をたてて飛んで来ましたが、皆無事でし の指令を待とうと 言 わ れ た の で 、 皆 大 声 を あ げ て 泣 き ま し た が 私達は、蒋介石総統の﹁仇に報ゆるに恩を以てせよ﹂という 納得しました 。 た。 連隊本部の我々は、 巨 口 舗 と い う 所 へ 進 ん だ 時 に 敵 の 迫 撃 砲 の弾丸が飛んで来ました 。 連 隊 本 部 の 下 士 官 が負傷しました 。 服を 着 た ア メ リ カ の 将 校 が 指 揮 棒 を 振 り ま わ し て い る のを見ま 人 を 侮 辱 す る よ う な こ と は あ り ま せ ん で し た 。 敗戦の軍人も又 捕 虜 管 理 所 の 我 々 に 対 す る 態 度 も 立 派でした 。 決 し て 敗 戦 軍 有り難い 言 葉 を 忘 れ ら れ ま せ ん 。 した 。 我々 の敵 は 中 国 で は な く ア メ リ カ な ん だ と つ く づくこの 問題を起こすようなことはしませんでした 。 私 は 後 の 弾 丸 の 届 か な い 山 に 上 って 双 眼 鏡 で 見 ま す と 、 白 い 軍 時感じました 。 騎 兵 隊 長 が 指 揮 者 と な って 舞 台 を 作 り 、 バ イ オ リ ン 、 ギ タl、 ア コ ー デ オ ン な ど 作 って兵隊を慰めたのは村人達の好評を受け、 先 発 し た 第 一大 隊 で は 続 々 と 負 傷 兵 が 後 退 し て 来 ま し た 。第 三大 隊 で は 中 隊 長 が 、 第 二大 隊 で は 軍医 大 尉 が 戦 死 す る と い う 何回もやりました 。 面の都合上、﹂れで終ります。 も っとも っと書 いて戦争とは何かを反省したいのですが、紙 事態 に な ってしまいました 。 我々 の攻 撃 目 標 は もう 少 し 先 の 飛 行 場主 江 だ ったのですが、 ここも攻撃出来なくなりました 。 それは敵の防禦のためもあり ますが、我々 の部 隊 に 転 進 命 令 が 下 ったか ら な の で す。 しかし 既にドイツ の降 伏 、 ヒ ット ラ ー の 自 殺 を 敵 機 か ら ま か れ た 宣 伝 ビラで薄々知 っていました 。 これ ら は 敵 の 謀 略 か も し れ ぬ と 半 5 2-