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資料IX 鈴木圭介「『立教経済学研究』創刊のころ」
資料Ⅸ 鈴木圭介「「立教経済学研究」創刊のころ」 『立教経済学研究」立教学院創立百周年記念論文集,第28巻,3,4合 併号,1974年12月,pp、564,567~569 立教大学に経済学部ができたのは本当は昭和6年であったが,この昭和12年 のほとんど「創立」といってよいような展開にあたって,いくつかの改造がそれ に伴って行われた。その1つは「立教経済学研究」(機関誌)の創刊であり,も う1つは経済学部研究室の整備であり,第3はアメリカ研究所の創設であり,第 4に,学位規程の設置であった。(p564) アメリカ研究所設立の動きのくわしいことは僕には判らない。多分,僕に対す る好意的配慮からこの学内行政について接近させられなかったのだろう。ただこ こにはこの計画が難行し,ついに1人のすぐれた人の生命を奪って了ったことだ けを記しておかねばならない。さきにも書いたとうり,アメリカ研究所設立の動 きと関連して「立教経済学研究」第2巻第1号は「アメリカ経済・特輯」と銘うっ て発行された。立教大学はアメリカと縁が深いので,図書館にはアメリカの歴史・ 宗教・文学・経済の珍しい書物を所蔵していた。これらに加えて,第二次世界大 戦の開始直後に図書館長の、オヴァトンがわれわれのつくったリストをたずさ えて帰国して,かなりの数の新刊書を最後の交換船で送ってくれた。このために 戦争中は立教大学の図書館は最新の蔵書という点では他のどこの図書館にも負け なかった。戦後になってこの優位を守り切ることができなかったのは残念であっ たが。このような状況は立教大学にアメリカ研究所を設立するためにもっとも好 都合な条件であった。経済学部の改革以来,アメリカ研究所の設立が計画されて いたが,昭和14年に設立された時の委員はライフスナイダー総長,遠山学長, 曾弥,高松,松下,小山,富田,十河,オヴァトン,山下であった。これを拡大 強化しようとして努力する山下教授の執念を僕は遠くから見守るばかりだった。 僕の知らない中に破局が突然訪れた。昭和18年(1943年)6月26日,僕の 奥沢の自宅にアメリカ研究所の若いメンバーたち,高妻靖彦,山家豊,川端益博 君などが集っている席へ1通の電報がまい込んだ。「ヤマシタシススグコイ」。僕 -74- (よ自分の眼を疑って,頭がくらくらした。そういえば,その数日前アメリカ研究 所の発展計画が挫折し,山下教授はその責任から辞任に追いこまれ,全生活をか けて打ち込んでいたアメリカ研究所と一切絶縁することになったと聞いていた。 自殺の前日,その頃あまり出入りしなくなっていた山下教授の研究室へ伺って, 辞任は残念ですが,皆先生の名を記憶にとどめるでしょうというと,「本当にそ う思うかね」と身をのり出して来たあの時のことが一瞬の中に思い出された。自 殺は6月25曰,凄絶な死だった。その曰から僕は実質上の葬儀実行係になり, 目のまわるように忙しく飛びまわった。葬儀は盛大に行われたが,会葬者に囲ま れた山下教授の遺児たちのレースの服の白さが人々の涙をさそった。後になって 山下教授の死の原因について2つの風聞が流れてきた。1つは,山下教授がアメ リカ研究所の公金を使いこんだという説だった。馬鹿げた話だと思った。山下教 授には兄思いの弟がいて横浜で工場を経営していて,ずっと経済的援助をしてい たので生活に余裕があることは事実だった。ただ激情型の教授は自分のポケット マネーと公金と時々ごっちゃになることがあっただろう,しかし,全体としてみ ればこれで流用されたのは公金の方ではなく,多分山下家の家計の方だったので はないだろうか。しかし,受領証の整理など要求されたらそれに応じられないだ ろうななどと想像をめぐらした。僕は具体的な事実は知らないが,教授の人柄か らいって使い込みの嫌疑は全くの冤罪だったと信じている。第2の風聞は,山下 教授は思想的な立場から当局の追求をうけ,それがいよいよ身辺に迫ってきたの だということだった。この第2の説は当時はよく判らなかったが,戦後次第に明 らかになり,第1回の「無名戦士の墓」に合祀されたことでも立証された。また 当時共産党の潜行中の幹部をかくまったりしたという記録が最近になって発表さ れているという。その頃の厳しい追求,迫害,拷問,弾圧は,危険の身に迫った 犠牲者を自殺に追いこむ充分な原因だった。この事情はもちろん山下教授は固く 口をとざして,われわれには喋舌らないので,当時は誰も知る由もなかった。わ れわれの間でいくらか知られていたことは,「天沼の老人」という人のところに, かなり足繁く出入りしてなにくれとなく面倒を見,また特に6大学野球の入場券 をせっせと届けていることだった。そしてこの「老人」は河上肇であることもほ とんど人には知られていなかった。 立教に転機が訪れていた。同じ年の7月には,河西教授が立教を辞職された。 -75- そして河西教授についても,公金費消の点で山下教授と同罪であるという説が流 れた。この点は戦後,昭和21年(1946年)須藤吉之祐学長,藤原守胤アメリカ 研究所長と劇的な対決を行って,この風聞を粉砕し,それが冤罪であることを確 認させた。そしてこの時同席された大河内一男,飯塚浩二両教授および学生自治 会委員長らの努力によって河西教授の立教復学が実現した。これが戦後の立教再 建の大前提であった。しかし,これは尚,後のことである。戦時下の当時,立教 は暗い方向につき進んでいた。華かに開幕した戦前の立教経済学部の短い黄金時 代は終った。次の輝かしい時代を迎えるのには戦争が終るのを待たねばならなかつ た。(pp567~569) -76-