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ザビエルの絵がどうして神戸にあるの? 「神戸の大コレクター 池長 孟 」

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ザビエルの絵がどうして神戸にあるの? 「神戸の大コレクター 池長 孟 」
◎ザビエルの絵がどうして神戸にあるの?
いけなが
資料NO.22
はじめ
「神戸の大コレクター 池長 孟 」
「ザビエルって何をした人」と聞かれると、
「日本にキリスト教を伝え
た人」と答える人が多いと思います。また、
「教科書で見たことがある」
という声も聞こえてきそうです。とにかくザビエルは小学生でもたくさん
の人が知っているとても有名な人物です。ところで、この有名なザビエル
の絵の本物が神戸にあるって知っていましたか。JR三ノ宮駅と元町駅と
の中間点を南に行ったところに『神戸市立博物館』がありますが、この博
聖ザビエル像(神戸市立博物館蔵)
物館にザビエルの絵の本物が保管されているのです。
どうして『神戸市立博物館』で保管されているのでしょうか。実は、博物館に保管される前は、
いけなが
ある人の個人所有物だったのです。そのある人とは、
「神戸の大コレクター 池長
はじめ
孟 さん」です。
池長さんは、兵庫区の旧家の主人でしたが「世間を見渡しても、
お金つかいの名人はあまり見当たらない」と言って、自身の財産を
なんばん
しゅうしゅう
つぎこんで南蛮美術を集めました。また「 蒐 集 (コレクション)
そうさく
かか
いこく
はひとつの創作である」という信念を掲げ、
「日本で製作された異国
しゅみ
趣味美術品」の集大成をめざしました。そして、
「神戸のような国際
きょうよう
大都市にして、美術館の一つも持たないということは国民の教 養
さっ
池永孟さん肖像(神戸市立博物館蔵)
はじ
の程度も察せられて国の恥である」と考え、自分で美術館を作り、コレクションを一般に公開しま
した。ところが時代は第二次世界大戦へと流れていきます。彼の美術館やコレクションはどうなっ
いけなが
はじめ
ていくのか。
「神戸の大コレクター 池長
しょうがい
孟 」の生 涯 を簡単に紹介します。
池長さんは明治24年(1891)年 11 月 24 日、兵庫区に生まれますが、池長家に養子として引き取
られます。大正 11 年(1922)年 4 月から欧米を旅行し、その間にボストン美術館や大英博物館、ルー
ブル美術館などを見て大いに影響を受けます。
ていたく
ていたく
こう じん そう
昭和 3 年(1928)年に西洋風の新しい邸宅「紅塵荘」が完成し、引っ越します。そして、この邸宅
しゅうしゅう
に調和する美術品を求めて長崎版画などの 蒐 集 を始めました。池長さんは、これというテーマに
わきめ
ねらいを定めたら、ともかく脇目をふらずに短期間でそのジャンルの作品を買いあさる、というや
いさん
り方でした。この『ザビエル像』を購入するにあたっても、父親の遺産とも言える垂水の別荘を売
り、持ち主の家を訪ね、当初はまったく相手にされなくても、粘り強く交渉を重ね、ようやく昭和
10 年(1935)年に購入しています。
(
『ザビエル像』は、今からおよそ 400 年前に、布教活動の中で西
かく
洋画の手ほどきを受けた絵師が、礼拝画として作成したと推定されています。長い間隠され続け、
大正 9(1920)年に大阪府茨木市で発見されました。国の重要文化財に指定されています)
ねんがん
てんらんかい
昭和 13 年(1938)年 5 月 25 日、念願の『池長美術館』が完成し、その2年後、ついに第 1 回展覧会
せ ん じ しょく
を開催します。戦時 色 が濃くなる中、展覧会はその後、第 5 回まで開催しましたが、西洋文化の
せけん
くうしゅう
展覧会に対する世間の目は冷たく、アメリカ軍による日本の空 襲 が始まったため第 6 回展覧会は
そかいさき
中止になりました。昭和 20 年(1945)年 6 月 5 日には再び神戸空襲があり、池長さんは疎開先の押部
か け
きせきてき
のが
谷から駆けつけ、奇跡的に難を逃れた美術品を目にして涙を流しました。
ふゆうぜい
戦争が終わり、展覧会が再開できるかと思われましたが、池長さんには財産税や富裕税などの税
そな
が課せられ、美術品などを売ってその支払いに備えました。そして、昭和 26(1951)年、コレクショ
さんいつ
さ
ンがこれ以上散逸すること避けるため、ついに 7000 点を超える美術品を美術館や倉庫ごと神戸市
じょうと
に譲渡する決断を下します。その結果、7 月 1 日に『池長美術館』は『市立神戸美術館』と名前を
ぜんぼう
なんばん
変えて、7 年ぶりに再開しました。以後、池長はコレクションの全貌を明らかにするため「南蛮美
もくろく
術総目録」の作成にとりかかり、昭和 30(1955)年 5 月、357 ページの目録が完成します。その中で
しゅうしゅう
そうさく
「 蒐 集 はひとつの創作であります。つまりテーマがあり、学問的に
こうけん
役立ち、世間に貢献すべきものでなければなりません。また、分類をき
しゅうしゅう
ちんとし整然たる体制を整えていなければなりません。せっかく 蒐 集
したところで学問的に自ら研究する能力もなく、これを発表することも
ほこ
できないようでは、コレクションの価値はないのであります。
」と誇ら
と
しげに語っています。この大仕事を成し遂げた後、池長さんは、同年 8
神戸市立文書館
きょうねん
月 25 日に、病気のため自宅で息を引き取ります。享 年 65 歳でした。
かいしょう
『市立神戸美術館』は、昭和 40(1965)年 4 月『市立南蛮美術館』と改 称 します。そして、昭和
こうこ
57(1982)年、
『市立南蛮美術館』と『神戸市立考古館』を統合した『神戸市立博物館』が現在の場所
に開館し、池長さんの意志を継いだ展覧会が開催されています。一方、
『市立南蛮美術館』
(=市立
神戸美術館=池長美術館)の建物は、その後、改修され、平成元(1989)年 6 月、
『神戸市文書館』と
して、新たに開館し、現在に至っています。
◎まとめてみよう
資料NO.22
1.池長美術館の移り変わりを書いてみましょう。
池永美術館
⇒
1938 年
⇒
1951 年
⇒
1965 年
1982 年
2.池長美術館の建物は、現在どのような施設になっていますか。
(
)
3.池永さんが美術品や美術館を神戸市に寄贈することになった理由はなんでしょうか。次の(
)に
語句を入れましょう
・戦後、
(
)や富裕税が課せられ、その支払いに(
コレクションがこれ以上、
(
)などを売る必要があり、蒐集した
)するのを防ぐ必要があるため。
しゅうしゅう
4.池永さんの美術品の「 蒐 集 」に関しての想いについて、100字程度でまとめて抜き出してみましょう
(
)年(
)組(
)番 名前(
)
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